人が待つもの/チャオ
か、愛する行為を行えない場合もある}のだ。
つまり、必ず、愛を獲得できることはない。「待つ」行為は、「愛」を拒絶する行為を獲得するための意味を持つ、可能性でもあるのだ。つまり、「待つ」対象によってのみ、エミリディキンスンが「永遠の中で愛を待つ」といったとき、それは、すべての人生が愛によって彩を加えられていることを物語っている。なぜならば、「待つ」行為は対象を獲得したときに、はじめて、その行為の意味、価値を獲得するからだ。もちろんそれは「失敗」することも含めてだ。
「待つ」という行為は消極的な意味を含んでいるが、果たしてそうなのだろうか。
けれどもその方向へ駆け出してはならない
確か
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