パンの人/小川 葉
 
 
パンの人がいた
とてもやさしい人だった

パンの人は毎朝耳を焼かれ
いい匂いをさせて目を覚ます
家族をやわらかく包みこみ
ひとときの幸福をもたらしてきた

パンの人はどこか淋しい
胸には食べられそうもない
いくつかの悲しい焦げ跡を残して
その痛みはパンでなければ
理解することなどできないのだよと
僕におしえてくれた

パンの人はやがてパンの人をやめて
ただのパンになっていた
ただ幸せになりたいという思いだけで
家族の小さな願いをかなえてきた

一枚のパンになって
一枚分しかないパンの命をかみしめ
今はもうパンなのか人なのかわからない

でもほんとうは
パンの人なんてもともといなくて
もしいるとしたら
毎朝いるんだか
いないんだかよくわからない
父の気配だったのではないかと思う

だからなのかもしれないけど
さいきん僕はなぜだか
毎朝とても耳が熱くなるのだ


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