時間と認識−「存在の彼方へ」を読んでみる13(2)/もぐもぐ
 
ような過去との関係は、他人たちの過ちないし不幸に対する私の責任という異常で、かつ日常てきな出来事のうちに内包されている。他者の自由に対して責任を負うた私の責任のうちに、人間同士の驚くべき兄弟関係のうちに内包されている」(p39)
このようにスムーズに話が繋がるものだろうか。本論の議論を参照しなければもはやこれ以上のことは分からないが、かなり飛躍的な議論であるような感じがすることは確かである。<語ること>に到達する以前の段階においては、有意味な「経験」も「言葉」も成立していないために、他者に事実上「晒されているしかない」ということは言えるだろう。だがそれは「責任」という言葉で示されるようなものなのだろうか。確かにその「晒されている」という状態を「引き受けること」によって「認識」(=思考主体)としての私が「誕生」する、と抽象的にはいえるのだが。その「引き受け」とは余りに観念的過ぎはしないだろうか。それともレヴィナスは何か違うことを語っているのだろうか。


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