洗濯バサミで鼻をつまんで寝てたのよね、、/リーフレイン
するのだ。
生命はエネルギーと時間で、自我をもった私はそれらに私の意味づけを求めてしまう。一方で生命は共有されるものでもあって、時間もエネルギーもさまざまに共有されていく。からみあい、奪い合い、与え、連鎖していく煩雑な時間の中でささやかな”私”はあまりにもささやかだし、それに意味を与えることすら本来ナンセンスなのかもという疑問も芽生えてしまう。怒涛のようなエネルギーの中で”私”をキープするためには、周囲よりももっと密度の高いエネルギーが必要なのだろうと思ったりもする。
こんがらがってしまったエネルギーをうまく循環させるために、柄谷は譲与性ということを説いていた。まあ、平たく言えば、
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