<SUN KILL MOON>-too/ブライアン
&from=listbyname.php%3Fencnm%3Dlaver)もまた近づきすぎる。太陽の光と、月。月と「自分」。物理的な距離ではない。互いは「他人」であり「自分」を演じている。これはトートロジーではない。もしそうであったとしても、意味はあるはずだ。ティルマンス少年は望遠鏡越しに月を見る。少年は距離を縮めた。近づいたのだ。だが、少年は月には触れなかった。彼が触れたもの。それは、距離だ。月と少年の間の距離に触れたのだった。その距離が完全に取り除かれようとする。「他人」は「自分」に還元される。視ることで、触れる。
その時、触れている点はどこだろう。どこまで「他人」に触れることが出来るのだろう。どこまで侵入可能なのだろう。どこまで、近づけるのだろう。
「他人」と「自分」。境界線にふと、「自分」を知る。光は「他人」だ。視るのが「自分」だ、と。「他人」と「自分」は同じではない。ただ、その境界線が曖昧なだけだ。曖昧すぎる。月の光は太陽の光だった。ならば、それを見ているのではなく、それに見られているのかもしれない。
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