「割り切れなさ」と懐疑論−「存在の彼方へ」を読んでみる6/もぐもぐ
」なのか。それは常に「私」である。だが、「私」とは、果たして「誰(何者)」なのか。)
「懐疑論」からぼんやりと浮かびあがってくるのは、この「誰」の問題である。懐疑論を述べる者は論理上の自己矛盾(i.e.「私は『真理は言うことが出来ない』という真理を言う」)をする。だが、この「自己矛盾」しているところの「自己」とは、一体「誰」なのか。
(よくよく観察すれば、「私は『真理は言うことが出来ない』という真理を言う」という文(A)には、形式論理上は何らの矛盾もない。矛盾があるといえるのは、「私は『私は真理を言うことが出来ない』という真理を言う」(B)という、所謂クレタ人のパラドックスの場合である。そ
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