「批評」という運動が体現する解釈の現場/ななひと
 
号としての言語は、活字化されることによって透明化され(たと一般的には幻想される)さまざまな意味、連想、図像的痕跡、物質としての本性が進入してくることを防ぎきることはできないのである。そうであるとすれば、批評という行為は、極めてその行為自体が乱雑で多重な概念が呼び集まり跳梁跋扈するまさに祝祭の現場なのであり、決して、「批評開始」→「批評終了」→「より優れた作品の出現」、という単純な図式に収まりきるものではありえない。それは以上論じてきた把握不能なほど豊穣でありうる運動を全く消去することにほかならない。言語との接触は、決して単純で静的な結果の状態を見て満足すべきものでは決してないのである。
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