詩を読むこと=読まれること−幸福と殴り合いの/ななひと
しかしこの「暴力」は、より凶暴に「作者」を脅かす可能性も十分にある。「作者」はその結果、作品の大幅な書き換えをするかもしれないし、あるいはその詩を捨ててしまうかもしれない。
こういう場合「酷評」という言葉が呼び出されるのかもしれないが、「批評」であれ「解説」であれ「オマージュ」であれ「酷評」であれ、以上のような言葉をめぐる多様な接触が起こるということは変わらない。ある種の「賞賛」が「酷評」と同義になる場合があるように。
もちろんここで述べたことはおおざっぱな思いつきに過ぎないし、いわゆる「作者」が「読者」と頻繁に意見交換するという場でしか起こりえないことである。
また、投稿サイトにもいろいろなカラーがあるように、それぞれの場で、支配的な規範意識が多様に存在しているのはまぎれもない事実である。
だからこの文章は、全くの想像的仮定に基づく、一種の空論であり、これを読む読者がどのように考えるかは全く別の問題である。
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