詩を読むこと=読まれること−幸福と殴り合いの/ななひと
 
れないし、逆にそれを通り越して、批評の基準なんて確固たるものとしてはないと達観しておられる方もいると思われる。
しかし、その準拠枠も、ある種の「これが客観的だ」とどこかで暗黙の前提になった土台を持っているはずだし、ネット詩にも様々な評価軸があり、詩の規範的批評の方法論があり、それによって詩のサークルがいくつにも分かれて存在していることを考えれば、それも完全に不変の信頼体系ではありえない。もちろんそれを否定しているのではなく、それは、ある種の解釈の了解を共にする者たちの間では十分機能しているのだし、その意味で極めで合理的で洗練されたシステムと考える。
さて、そのようにして「読まれる」テクストは、
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