燕/右肩良久
 
 不意に喩えられると僕は何なのか。喩えられてたまたま僕は書店の軒の燕であった。僕は『ガリバー旅行記』を買い、大君(タイクン)の支配するニッポンへの渡航計画を練ろうとしていた。赤い、ざっくりとしたカンバス地の表紙は、この本が「漂流する空間」の心臓であることを暗示している。それはもうキスのない唇ほど暗い、青ざめた血流の源泉である。だから僕は動脈の奔流に乗り、旅をするのだ。柔らかくうち羽ばたいてまた柔らかに無意味を上りつめ、そして遠ざかる。気がつけば真昼の青空には花火が炸裂し、西風が硝煙の一塊をゆっくり東へ運ぶ。移動がものの本質である。存在とは空間的な変容の別称だったのか、と思う。
 彼女はある薬の熱
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