純粋正義への架橋7/チャオ
 

命の純粋化は、正義の純粋化であり、正義の純粋化は、それらすべての行動と、言葉の純粋化へと目指す。
目的を持った僕らが向かう未来は「行うこと」で、「偶然」を向かいいれる。そしてこの世界に表象したものが、現実として、実存されるのだ。つまり、運命の発端は、僕らの指先ひとつに託されている。にもかかわらず、すべての大きな苦行さえも、「偶然」によって、無視されこの世界に表象されずに埋もれることだってある。
さらには、すべての、正義へ向かう行動が、「悪」とみなされる可能性を秘めていることを示さなくてはいけないのだ。
それでもなお、人は、絶対の正義を議論してやまぬ。カントが「理論」として描き出した「道徳」、ミルが、「ベター」として見出した「主義」。だが、だれもが、そこに、略化できない問題と立ち会うことになる。世界は公式化できないのだ。

ならば、「正義」を定義することは不可能であるのか

不可能ではない。。そう断言することで、「正義」は「悪」の可能性を秘めながら、この世界に存在することが許されるのだ。

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