純粋正義への架橋6/チャオ
 

僕らは悲しいとき悲しいと語りだす代わりに、悲しいことを踏みとどまる言葉を語りだしたりはしないだろうか。逆に、僕らは何一つとして語りだすことをしないことだってある。沈黙の言葉だ。
数学のあらわす限界性は、僕らの生み出す言葉に似ている。記号化された言葉にはすでに客体化された意味がついて回る。決して逃れることのできない言葉の熱が。
そのとき、僕たちはその意味から逃れようと、自分の言葉を捜す。なぜなら、記号化された意味ではなく、生きた、僕らの言葉を欲しているからだ。
誰に理解されることがなくとも、言葉は僕らの純粋性へと目指す。同じ記号の違う意味を有しながら、相反する意味を強固に保ちながら。
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