岡部淳太郎「迷子 その他の道」に寄せて/ふるる
 
詩において、「死」とはいかなるものなのだろうか。あるいは「生」は?
視聴者を引きつける手段としての「死への恐怖」「死んだらこうなる」というものは、メディアに数多くあり、利用されている。ドラマを盛り上げるために、映画や小説その他の表現の中で誰かが死ぬように設定されることも否定できないだろう。しかし、宮沢賢治の「永訣の朝」にしろ、高村光太郎の「レモン哀歌」にしろ、詩の中での「死」は、そういった手段やドラマにはなり得ず、(読者の受け取り方はどうかは知らないが)作者の意識はそれからは無縁であるような気がする。それに向かう時、作者や話者は、ただ死に行くものを見つめるばかりだったのである。
私は、詩の中に
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