信ずるな、考えよ!/カスラ
として意志して信じられるものではない。「信」は意志とは別の位相を動くのだ。発語されることによって逆説的に現されるそのような意識は、いつも何かを隠蔽している。「信じる」というその表現自体が、実は逆に、多数の世界観の存在を示唆しているのだ。
詩歌はこの最も自由で、人称性さえ超えた普遍の場所から発語される言葉である。その中にあって、纏足の呪詛を受け、自身へ唱えられるその500余りの呪文の言葉が痛ましい。金太郎飴のごとく毎日連ねられるそれ曰く、「助けて」と聞こえるのははたして空耳であったのだろうか。この盲目ていると想われる眼には、本当は自身が唯一としている世界の他に違う世界が在り、自身も世界を生み出しているというということを気づいていたのでなければ、ここに届け掲げられてきた無数の詩歌の言葉に、未だ力が宿らなかったということなのか…やはりソクラテスが言ったように「相応しい魂」となるまでは詩の言葉は鎧を通すことはできないのだろうか…。
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