「お手軽詩人の作り方」から思ったこと/水中原動機
いたね」っていう言葉を
投げかけられたとき、聞いてる側(読者)が想起するのは
自分ちの近所の公園の桜だったり
小学校の入学式の日に一緒に撮った桜だったり
あるいは先日の花見で呑んだ酒とか
ベロンベロンに酔っぱらった友人の醜態とか
ってことが多々あるんだろうな。
だって、自分が聞いてるときそうだもん。
にもかかわらず、自分自身が話者になって(あるいは詩作の際)
「桜が咲いたね」と言ったとき、相手は自分が見た桜を
見ているんだと思いこんでいたり、あるいは、その桜を
見せるためにいろんな言葉を使って情景を説明しようと
したりする。という自分の創作のくせに気づいた。
楽しい会話とか、いい詩を書くって、どういうことか
いまだ分からない。でも、言葉にまつわるイメージは、
言葉を受け取る人の数だけある。会話したり詩を読んだり
する人が求めているのは、話者だったり詩人が見たものを
そのまんま見せてもらうことではないかもしれない。
てなことを今更、意識しました、
というやや恥ずかしい話です。
戻る 編 削 Point(0)