Kashin[第4回批評祭参加作品] 2010年1月9日8時09分から2010年1月15日22時14分まで ---------------------------- ????????????????????????? ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】好き勝手言わせて貰う【十年の、事実】/虹村 凌[2010年1月9日8時09分] 十年の、事実 プテラノドン メインレースは悲惨な結末、突風に吹き荒れた 駐車場を後にした。 赤信号に変わろうかという時に友だちが言った、 大外からまくれるぞ。俺たちなら行ける。 僕はアクセルを踏み込んだ。行けるかもしれないと。 「みろ、やっぱり無理じゃないか。」僕らは言った。 それから、大井競馬場前の交差点で 立ち往生するはめになった 車のボンネットに向けて皮肉を言った二人組の男に 僕らは罵声を浴びせた。 膝をついたそいつら二人に大丈夫?と声をかけた。 抗ったつもりかよ。災難だったな。皆てんで別々に笑っていた。 でも、交通誘導の警官が来るとは思わなかった。 赤ら顔の僕らを見て、「アルコール検出の必要アリ」 無線機に手を伸ばしやしないかヒヤヒヤしたものだ。 紙一重であれ、髪の毛一本であれ、競馬場に夢があるのは ハズレ馬券を 床に投げ捨てる者たちが 羽を掻きむしるキチガイ鳥がいたせいだ。 明日からの日々を籠に捕らえられたように過ごすのは 結構なことだが、さえずることを忘れてはいけない。 そうすれば、黒ずんでいく羽根を気にせずに済む。 ところで、その日僕らは揃って大笑いした。 こうして地面に座り込んで食べるラーメンが 一番うまい。と言いながら地面に座り込もうとした友だちの トレイに載せていた当たり馬券を、他の友だちがひったくり、 トレイを持ったまま、それを追いかけようとした友だちが 地面にどんぶりを落っことした時だ。 「こんな風に笑ったのはいつ以来だろう。」 そう言った友だちが、 彼女と別れた経緯を、 その娘が流産した話を、彼女が今は他の男と一緒に暮らしていると、 夏に浜辺で酔っ払って寝そべりがら話した時以来だっただろうか。 「こんな風に笑うなんてね。」僕は言った。 分かるだろうか?僕らが知り合って十年。 やってきたのがそれだ。今さら引き返そうったって無理。  高校二年の梅雨。天候をぬきにしても べとついた中華料理屋のテーブルの上には、 空っぽのジョッキと食べかけの酢豚ー、僕らはすでに そこに居なかった。煙りが立ち込める、駅前の ゲームセンターのネオンの中にも身を隠したりしない。 閉じたらそれっきりの民家の扉の向こう側にも。 或いは、台風が上陸し、増水した川面に水しぶきが上がった。 僕らの内の誰かが、 盗んだ自転車を橋の上から投げ入れたからだ。 「音、聞こえた?」友だちはがなり立てた。 「聞こえねーよ。」どしゃ降りの雨に抗おうとする 僕らの表情は、笑っているようにも見えたに違いない。 その後ずっと、僕らは耳の中にまで侵入してくる雨のせいで、 水の中で話すみたいに、息継ぎもままならないままに 大声で話さなくちゃならなかった。届かせるために。 明日のこと明後日のこと、十年後のことも。 事態や状況がどうあれ、こうなっているはずだと、 当たるもんだと、 何処かで馬鹿笑いをしているもんだと。想像しながら歩いた。 この雨雲のはるか高みでは悠々と飛ぶ飛行機がいるもんだと。 僕は今でもよくよく思っているよ。いつかは皆と、 夜通し機内でひそひそ話をしたい。 ひょっとしたら今頃、 地上には僕らみたいなアホがいるかもな。とか、 その頃にはとっくに錆び付いているであろう 利根川に沈んでいる一台の自転車の話しを。 時折、押し殺せない声と混じりあいながら。 もしくは今日、僕らが競馬場で見た 老夫婦のように、車椅子に座る老婆の耳元に 話しかけた老人のその、優しい声で。 当たるといいね。でも、外れてもいいかもね。 僕らは老夫婦もきっとそう考えたに違いないと信じていたし、 願っていた。当たるもんだと。 これから十年先、どんなことが待ち受けていようとも。 引き返そうったって無理なのだから。 ****** 以上、引用。 自由詩 十年の、事実 Copyright プテラノドン 2009-01-15 21:37:30 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=175634 ******   速いのが好きだ。スピード感があるものがとにかく好きなのだ。音楽にせよ、映画にせよ、雨にせよ、何にせよ速いもの、スピード感があるものが好きなのだ。俺自身の劣等感や焦燥感を煽り立て、いても立ってもいられなくなってしまうような感覚が好きなのだ。マゾヒスティックな性癖の所為かも知れないが、とにかく速いのが好きなのだ。 俺にとって日常とは、あまり速度を感じられるものでは無い。試験前や課題製作中等は、時間に追われる事があっても、速度を感じられる瞬間は少ない。偶発的なボケに対するツッコミ等の短い瞬間はあっても、そうそう速度を感じられる事は無い。だから、他に速度を求めるのだろう。我ながら安易だと思うが、実に手軽に速度を体感出来るのだ。たまらなく気持ち良い。車や単車を持っているのなら話は変わってくるだろうが、もし持っていても違法行為や事故につながりそうなので、あまり良い事では無いだろう。己で創造せぬ、消費だけと言う行為は好感が持てぬよなぁ。万券を崩した直後から恐ろしい勢いで始まる千円札の消費は、いくら速いのが好きな俺でも、あまり好きになれない。 話が逸れた。   日常に存在しそうな混乱が好きだ。B級映画にありそうな、読者(視聴者)が置いていかれる寸前のギリギリの混乱が好きなのだ。難しい言葉や技法、難解な内容で置いて行かれるのでは無く、日常生活で溢れる物事が凄まじい速度で積み重なり、少しずつズレを生みながら、倒れそうで倒れる事無く高々と積み重ねられて行くその様、その感覚が好きだ。その一つ一つが理解出来るのに、つながっていく瞬間に発生する混乱、矛盾、がたまらなく好きなのだ。そのズレは少しずつであるが故に、一つ一つが繋がっていくのも理解出来る。だからこそ、そのわずかなズレ、と言うのがたまらなく愛おしく思える。それが日常に存在しえる、十分に想像出来る、または過去に近い思いでがありうるからこそ、たまらなく愛おしく思えるのだ。   若さは全てでは無いし、その中にある矛盾や混乱、暴力、絶叫が全てでは無い。違法性や犯罪性なんかクソ喰らえ、と言う姿勢が良い訳でもない。ただ、それを情熱的かつ冷静に見つめる独特の匂い、感覚が愛おしく思えるのだ。別に悪い事しろとか、ちょっと悪い事する位何だとか、そういう事を言いたいんじゃなくて、情熱と倦怠が同居するその一見矛盾した感覚が好きなのだ。それに速度が伴えば、言う事は無い。 …と言うような事をこの詩を読み返して、改めて実感した次第である。この詩は私にとって、実に気持ちの良い詩である。速度、混乱、その二つが絶妙に混じり合って、絵の具が新しい色を出す瞬間のような期待と不安、出所のわからぬ倦怠と歓びが入り乱れている。実に素敵な作品だと私は思うのだ。匂い、色、感情が鮮やかに、それでも少し色褪せて霞んだ感覚が、俺の中で膨れ上がって行く。いてもたっても、いられなくなるのだ。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】谷川俊太郎インタビューから考えた事/大村 浩一[2010年1月9日9時38分] 詩はどこで生きるか  =朝日新聞谷川俊太郎インタビュー   「詩はどこへ行ったのか」から考えた事=  世間的には、詩集も詩論も人の目に触れる機会はどんどん減っているように 私には思える。アマゾンですぐに買える、とか言うのとは別の話だ。ネットで 誰でもすぐに買えるということは、それを誰も大して欲しがっていないことの 証左だ。(人気のあるものは行列しても買えない)  詩集のようなものは欲しい人だけが読めばいい、というのが豊かなニッポン の、多様性ある社会の考え方などと言う人は居る。ところが実際には何事にも 経済的な競争がつきまとうせいで、こうした多様性はどんどん根絶やしにされ てきているのが現実だ。  漫画「エンゼルバンク」によれば、日本ではトマトは殆ど一種類しか栽培も 流通もされていない。誰でも何でも手に入るように見えて、実はそんな具合に なっている。本当に安全で美味しい食品は苦労して探さないと手に入らないし、 生産者側もビジネスモデルを懸命に成立させないと持続できない。普通のマン ガ作家にこんな事を指摘されてしまう、マスコミや農学者や農政の不甲斐なさ をどう思えばいいか。…話を詩に戻そう。  私などは、やはり詩に関するものは相応に流通もして、少なくも世間的な存 在価値は主張しなければいけないじゃないかと思う。商業性に対しては安易な 同意はしないが、学問学究的な価値だけでは物足りないし、いまの状況が続け ば後年、学究的な対象にもなり得なく(広汎な社会性を読み取れないという理 由で)なるかもしれない。  少なくも平成以降の日本の現代詩が、海外の現代思想が彼らの近代・現代詩 を研究対象にするような、そういう存在であり得るかというと、とてもそんな 状況にはない気が私にはする。松本隆の歌詞なら、塚本邦雄の短歌ならまだし も。むろん個別の優れた詩集の成果は認めるが、文化的ムーブメントとしては 残念な状況だと思う。  私にとって詩は、とかく生き辛い現実社会に対して、私がはじめて拮抗でき る手掛りになったものだ。だから、人が矛盾だらけの社会を生きる方法として 詩がある事を、皆にももっと知って欲しいと思うのだが。それには単に「教科 書に載せる」とかで人に押しつけるのじゃなく、魅力あるものとして見せて演 じて浸透させていかなければ、共有できる手段や価値にはなかなかならないだ ろう。  世間からみた現代詩の「唯一のトマト」になってしまった詩人が、谷川俊太 郎さんなのだろう。彼はまさにその「魅力あるものとして見せて演じて浸透さ せて」きた詩人だと私も思う。それゆえに彼のインタビューなら、辛くもまだ 情報の公器たる新聞にも取り上げられる。  2009年11月25日の朝日新聞に掲載された谷川俊太郎インタビュー「詩はどこ へ行ったのか」もまた、私のこの拙文と同様に「詩の影が薄らいでいく」こと への危機感から試みられた取材記事だ。この 130円で誰でも買える谷川氏の言 葉に対して、何箇所か取り上げて私が思ったことを書いてみたい。 ○「詩が希薄になってきた」  統計的な実証はともあれ、間違いのないところだと思う。瀰漫(びまん)し ていると谷川氏は書くが、私としてはそれは昔からあるもので、ただそれら作 品のポエジーの源が詩作品である、といった事が無くなってきたと感じる。最 近の芥川賞でも、意識的に現代詩的なメタファを使っているのは諏訪哲史ぐら いじゃなかろうか。つまり日本の現代詩は今やそういう形で参照されるもので は無くなってきている、ということだ。純文学あるいは芸術の一ジャンルとし て、これはゆゆしき事態ではあるまいか。  何年か前、三代目魚武濱田成男が原作でポエトリーリーディングを素材にし た漫画が少年マガジンに掲載されたことがあるが、反響は殆ど無かったように 記憶している。瀰漫というより、詩人の側の希望的観測に過ぎないのでは、と すら思う。それを読んだ人が、詩作品そのものにまで導かれる可能性は非常に 低いのではないだろうか。 ○「短歌や俳句も詩ですし、現代詩より圧倒的に強い」  このコメントの中にある「現代詩の詩集は300冊売れればいいほう」というの は、実に実直なコメントだと思う。現代詩の芥川賞にあたるH氏賞の受賞詩集 でさえ5,000部前後と聞いたことがある。対する小説のほうは、新書判の推理小 説では新人でも最低20,000部出すと聞くから、一般に対する浸透の差は歴然だ。  「現代詩より圧倒的に強い」については、この後に彼自身も言及する戦後詩 のことが一因にある。戦後暫く、あれほど現代詩が詩のジャンルとして強かっ たこと自体が異様だったのかもしれない。これは敗戦後にそれまでの近代詩人 が戦争責任を問われたこと、定形詩はさらに第二芸術論が言われたことで旧来 の詩人が非常な逆境にさらされたためだろう。  現代詩にあっては、思想的にも左翼系の革新的な人たちが、同人誌や詩誌、 評論によって旧弊に妨げられることなく焼け跡の荒地から意気盛んに飛躍して いったのに対し、定形詩では技量の継承が昔ながらの「結社」の師弟関係で行 われ続けたこともあって、暫くは時代の変化に対応出来なかったのではないだ ろうか。  ところがその優位性が、高度経済成長に伴って商業性が求められるようにな ってからは、ゆらいでいった。 ○「高度資本経済が芸術を変質させている」  私が現代詩を始めた80年代前半、コピーライターに対する抵抗感が詩人の側 にはあった。「半周遅れたコピーライターになって」という自嘲めいた言葉が、 平出隆の一文にあった事を私は思い出す。  70年代以降、詩の行き詰まりとは対照的に、コピーライターや作詞家が脚光 を浴びた。ポピュラー音楽でもCMでも(この言い方はどうにもドン臭いが)単 純なものから今日的な感覚を捉えた「面白いもの」が注目されるようになった。 CM界に至っては「逆宣伝」という手法が認められるようになって、表現上不可 能なものはないような錯覚すらあった。  単純にTVと漫画雑誌で流通できるものが戦後のタイシュー文化を席巻して いった。その中ではじめはTVなどのマスカルチャーと、既存の文芸などのハ イカルチャーは並存していたが、徐々にハイカルチャーが侵食されるようにな った。電波に乗せるに際して楽曲の体裁を整えられる歌詞、CMで流せるコピー ライティングに対して、現代詩は中途半端に難解で媒体に乗せる形が無かった。 そして現代詩への価値観を背景で支えていた社会主義も、物質的な豊かさに呑 みこまれてしまった。  詩がそうならずに済む可能性はあった。口語自由詩の本来広汎な浸透性は、 大衆を味方につけられる武器になる筈だった。  しかし現代詩の詩人も、それに係わる出版社にも、文化に対する主導権を維 持する戦略や努力が無かった。日本にはギンズバーグの様な才能は現れなかっ た。マガジンハウスの詩の雑誌「鳩よ!」にはメディアとしての可能性があっ たが、専門出版社に従属した価値観に甘んじたために、結局は失速した。  それに対して短歌・俳句では、形式を固守するために結社による活動が維持 されたため、詩を作るための技術や知識が継承された。伝統的な詩形式なるが ゆえに社会的な趣味としての認知もあり、新聞も投稿欄を持ち続けたし自費出 版も専門誌も堅調に続けられてきた。(経済的なバックボーンがあった、とい うことを言いたい)…それがここまできて、口語短歌認知の動きとともに大き な隆盛を見たのは印象深い。過去からの知的資源と、新しい才能がぶつかりあ って、今日活況を呈している。  しかし逆に言えば、これも現代詩がかつて来た道、と呼べなくもない。短歌 を短歌たらしめてきた文語・文体へのこだわりが知的資源とともに切り捨てら れたとしたら、短歌は音数・形式が限られる分、なおさら平面的なものに陥り かねないのではないか。 ○「批評の基準が共有されなくなっている。みんな人気で計る」  人気で計るのは、それが経済性に結びついていることと、近代社会を動かし ているものが大衆の意識になってきたからであろう。  それが経済大国ニッポンでは「いいものは売れる」という神話になっている のだが、これは実際には「最も(大衆の欲求に)適合したものが売れる」とい う事なのが看過されている。  現代詩の個々の作品の価値は評価・対比しにくい。定型がない以上、その枠 組みをどれだけ見事に固守し活用できたかなどは関係ないし、宗教的・道徳的 な内容があるかどうかも関係無い。同様に哲学があるかどうかも無関係だし、 歴史的な研究成果があるかどうかも無関係だ。それら思想や知識がどれほど盛 りこまれていようと、言語による詩作品として、イメージとリズムの融合した ものとして完成して人への共感を得られなければ、理屈っぽい分鬱陶しいだけ のように言われる。  大雑把には「それが芸術的に高められているか」というのが評価基準と言え れば言えるのだろうが、さてこれら全てのことに通じた読者がどれほど居るだ ろうか。そう考えると、現代の詩の評価基準がけっこう通俗的なところになる のは避けられないし、谷川氏の「ことばあそびうた」に対してある教諭が『気 持ちを表現していない詩なので、生徒に教えられない』と語ったような誤解を、 現代詩が受ける事態も招く。  そしてさらに面倒なことに、実際には大衆は、評価の基準を自分では決め難 い。それはネットを見ていてもよく分かる。その基準は教育によって変えうる し、政治的な圧力でも操作可能である。例えば学者センセイがこぞってTVや 新聞で評価したら、それはやはり「とりあえず名作」にはなってしまうだろう。 詩に対して草の根からの正確な批評が必要な所以である。 ○「(職業詩人として、商品としての詩を書くと言明していたがの問いに対し て)詩の世界全体を見渡した時に、自分がとっている道が唯一だとは思わない。 詩は、ミニマルな、微小なエネルギーで、個人に影響を与えていくものだ。権 力や財力のようにマスを相手にするものじゃない」 ○「これからの詩はむしろ、金銭に絶対換算されないぞ、って事を強みにしな いとダメだ、みたいに開き直ってみたくなる」  この2文は離れた場所に書かれてあったのだが、谷川氏を通底する作品哲学 のようなので抜き書きしてみた。どうもこの辺に、これからの詩がどうなって いくかの鍵が潜んでいるような気がしてならない。  私も若い頃には「いいものは売れる」「良い詩には相応の対価を」などと思 っていた。いま思えばハズカシイし不遜だとも思う。日本教育の平均的水準が 低落していったこの時代に、「売れるモノ」を肯定することは妥協を強要され る事を意味するし、相応の対価を言うなら出版業界のキビシイ市場競争の中で 定まる価格に対してこそ納得すべきであろうと思う。(それにしたって本の価 格は再販制度でまだ護られているのだが)  口語自由詩、そして現代詩は誰にでも書ける、言葉による素描だ。そのくせ 読解には読者の大きなエネルギーを要する。音楽や映像など、その他の表現物 に比べて一般大衆はどうにも吸着しにくく、相性は良くない。  だが、それが良いという面もある。微小な力で描けるということは、その他 のアートではとりこぼしてしまうような、ささやかな声や試みも拾うことがで きるということだ。それに僅かなテキストなら紙1枚、いや暗唱で口承すれば 紙さえ要らない。そこに、他者に通じる奇跡を期待することは可能だろう。  無論いまの現代詩の無力さを正義の手形みたいに言う積りは無いし、仕立て によっては特殊な音楽のような体裁で、差別化されたアートとして大規模に売 れる可能性だってあるが、そういう商業性はすぐさまいかがわしいものと化し てしまうのが今の世の中だ。ならばいっそ、無力さを武器とした、花を抱えた ゲリラ戦を構想するのも楽しいではないか。  金では売り買いされないぞ、というのも良い。どれだけ頑張ってもカネにな らないしプロにもなれないものなのだから、経済的な束縛からは自由でいられ る。経済的利害の外側の立場でだけ語れるものが、詩には存在できるって事だ。 経済万能に見えるこの世の中で、これは貴いというか、粋なモノと言えるので はないか。  そして、谷川さん本人は文中では決して評価していなかったが、そうした些 細なものを拾いあげられるものとして、ネットという場所をもっと肯定して良 いのではと思う。  以上、谷川さんへの批評というよりは、詩のありかたに対する自分の意見の ようなものになった。まだ書き足りないしまとまらないが、ひとまず筆を置く。 2010/1/9 大村浩一 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】原罪と救済のパレード(反射熱 第五号)/古月[2010年1月9日15時01分]  「5号は、全体的に、許しとか、ほんのり希望、というものを感じました。特に示し合わせたわけではないのですが」とは、同人の遠海真野の言葉だが、『反射熱 第五号』の詩は、確かに一定の方向性を持っていた。それは「(人や物が)集まる」、「救済」、という二つのイメージに象徴されるものだった。 そして、その「救済」される世界の土台を、岡部淳太郎の「原罪」が支えている。  ここではそれらの詩の個々の関係性に注目しながら、ひとつひとつ読んでいこうと思う。  まず、服部剛の「孤独ノ星」。 >この胸の暗闇には >ずっと昔から >宇宙にたった独りの >小さい地球が >ぽつんと浮かんでいる  という、オープニングにふさわしい壮大なスケールで「個」をイメージさせ、静かな立ち上がりが素晴らしいイントロダクションとして機能している。また、地球という「個」の中に「地球に生きる命」という集団が内包されていることも興味深い。本誌を最後まで読み終えたあとに再びここに戻ってくると、また違った読み方ができて面白いだろう。短いながらも本誌を見事に象徴する美しい詩篇である。  同氏の「私は、見た。」は、「個」から一歩進み、「小さな集合」を描いている。「個」が集まって力を合わせるという日常の風景の中に、「じーんとくる」救済がある。それは現代社会に蔓延した「いやな世の中だな」といった空気からの救済とでも言うべきだろうか。何気ない「ひとつの絵」に気がつける、作者の視点は優しい。    続く伊月りさの詩では、個人の記憶から紡がれていく糸がたくさん集まって、それが撚り合わされて世界が作られていく光景が描かれている。個人は孤独でも、個人の間には目に見えない「縁」とでも言うべきものが存在し、世界は共有されているのだ。 >点は線になり、 >感傷になり、 >経験になり、 >わたしたちは形成されて、 > >わたしたちはいっそう、 >群衆になるからだろうか  個人の中にある無数の点が列を成し、破線を描く。そして、それは他者と欠けた点を補い合うことで、それぞれの破線を線にする。このイメージは最終連の描写の巧みさもあって、伊月りさの詩を離れたあとも不思議な余韻を持って持続する。    つぎに、大村浩一の詩である。そこにあるのは一転して、人のいない光景だ。詩中の「私」は、生活の中にあるふとした光景に触れて、宗教者が天啓を得たような、理屈ではない救済を感じる。それは奇跡的な偶然が生み出した人間不在の救済だが、人間の生活の中にある救済である。詩中に描かれた様々な事物には背景があり、そこには「人の営み」があるのだ。そこに気づくと、この詩はいっそう味わいを増してくる。  さて、ここで一つ飛ばして、そうした「人の営み」から一転して自然界に目をむけ、「世界の仕組み」とも言うべき構図から「救済」とはなにかを再度問う、佐藤銀猫の詩である。ここでは一転して、不幸とでも言うべき、自然の厳しさが描かれている。 >今日はこの国や >内包する宇宙にも >とりわけ関心がなく >眠りを貪っているうち >羽根を失い >アオムシになったらしい  アオムシに訪れた不幸なできごとは、「ごくふつうのこと」と語られる。 >アオムシは思わない >しあわせについて >あるいは明日について  「しあわせ」とは何なのだろう、と考える。もしかしたら「しあわせ」とは、人間が勝手に作り出した、実体のない妄想なのではないか。これまで語られてきた、人の中に確かにあった救済による幸福とは、もしかして幻だったのだろうか?  不安を抱いたまま、次へと読み進めると、これに続く神山倫の詩も、ある種の天啓について描かれている。  へヴィ・メタルライブと演歌放送の観客という、性質の異なる二つの集団が奇跡的に合流する。たったそれだけと言ってしまえばそれまでの小さな物語が、世間の縮図としての「希望」を感じさせ、感動を呼ぶ。この光景は、実に何のことはないが、そこには紛れもない奇跡が存在している。 >人はきっとわかりあえる  こんな、口にするのも恥ずかしいクサい言葉が、圧倒的な説得力を備えるほどに、この情景は説得力がある。  なお、この詩は単体で読めるだけではなく、服部剛の「私は、見た。」や、大村浩一の「街道」と共にあることで、互いに共鳴しあい、より優れた詩として成立しうると感じた。 ここにも「小さな集合」があるのだ。  今までは日常に根ざす「救済」を見てきたが、そこから一歩内側に踏み込んだところにあるのが、寓話としての、岡部淳太郎の「原罪」、そして遠海真野の「パレード」である。これら二篇の詩は、まるでコインの裏表や、タロットカードの正位置と逆位置のような関係にある。  岡部淳太郎の「原罪」は、うまく表現できない不思議な感情を読み手にもたらす詩だ。「変らずにばらばら」な世界に生きる「みんな」は、それぞれが人間として、人間らしく生きているようだが、その実「世界の仕組み」に組み込まれて生きているにすぎない。そのことが物悲しく、また愛おしくもある。 >遠い春の日に >僕らは追い出されたのだ >そのことの痛みを感じながら >やわらかく往く人の >うたを思い出していた  だが、読み進めるうちに、そうした理解が誤りであることに気づく。楽園追放の物語における禁断の果実は、ここではおそらく「心」なのだ。人間を人間たらしめるものは、アオムシには(おそらく)ない、「しあわせ」を思う心である。  それが「ごくふつうのこと」を不幸せに変え、人間に、痛みを抱えて生きる宿命を背負わせたのだ。かれらの思い出す「うた」は、おそらく誰の耳にも懐かしい、そんなうたなのだろう、とそんなことをふと思う。    そして、この「うた」のイメージを伴って、遠海真野の「パレード」は始まる。  華やかなはずなのに、どこか悲しげなその光景には、読者は最初、違和感を覚えるかもしれない。だが、その「静かなパレード」を歩くたくさんのものたちを一つ一つ追っていくうちに、そのイメージが掴めてくるだろう。  そこにあるのは、この上なく優しいパレードである。そこでは人間も、動物も、物も、すべてが等しく優しい。これまで「反射熱」という長い旅をしてきた読者の胸にある不安に、問答無用で救済を叩きつける、これは静かで力強い無言の意思表示だ。    パレードはいつしか、その列自体が歌になり、「いつまでも いつまでも」続いていく。岡部淳太郎の「原罪」において静かに流れ続ける「うた」と、遠海真野の「パレード」で賑やかに流れ続ける無言の音楽は、おそらく同じものだろう。人が生き続けることは「原罪」であり、また、それ自体が「救済」でもある。そして、それは同時に「贖罪」の唯一の手段でもあるのだ。  今回の第五号は、全体でひとつの詩であると言っても過言ではない、良質なアンソロジーのようだった。本誌は、こうして同人として人が集まるということ、それ自体に大きな価値があると思わずにはいられない、実に優しい詩誌である。この詩誌と出会えたことに、心から感謝したいと感じた。この感情もまた、まぎれもない「救済」なのである。  *「特集・三角みづ紀」と、批評的な散文については割愛した。 詩誌 反射熱 http://hanshanetsu.web.fc2.com/ ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】口語自由詩と散文との違いは何か/……とある蛙[2010年1月9日15時28分]  口語自由詩と散文との違いは正直よく分かりません。 それでよく詩を書いていると言えるなっと詰問されたら「ごめんなさい道楽でやっているものですから」 とでも謝るしかありません。 そんなことどっちでもいいじゃないかという人もいます。  しかし、現代詩と称するものの多くは行分けした不完全な散文であるから 詩は誰も読まない。あるいは読んでも面白くないと言われれば、あながちこの議論を無視して詩を論じて良いかと自問せざるを得なくなると思います。自分なりに考えるところを述べさせて頂きます。  口語自由詩も詩であることは争いがないと思いますが、実際、散文との区別は明確ではありません。まして散文詩というものと散文との区別ははっきりしません。  未完成なモチーフを表現するのが詩だということを考えている人もいます。  文脈の中にある内在的なリズム感あるものが詩で、そうでないものが散文とするという人もいます。しかし内在的リズムとは何なのか不明ですし、どう読んでもリズムなど感じられない詩も多数あります。  なかには作者が詩だといったものが詩だとする人もいます。詩が近代文学の基礎ざさえであると考えれば到底容認できる議論ではありません。  私はおよそ詩である以上何らかの韻文的な要素がなければ詩とはいえないと思います。  詩に関して、サルトルは 当初、「詩人は言葉をものつまり対象として捉えることの出来る人、小説家は言葉を徴表として捉えることの出来る人」と区分けしておりました。この区分けでは 極論すれば詩が韻文であるかないか等問題ではなく、言葉の伝達性を捨て去って何らかのモチーフを構築したものが詩であって、詩に関する解釈とかそのような姿勢で詩を鑑賞してはならないものとして詩が存在することとなります。  詩の中の言葉の伝達機能性を無視することは、言葉という素材それ自身の特徴や利点を捨て去ることですから、詩を書くことに関してある程度は妥当する としても極端にまでこだわることはあまり現実的ではありません。サルトルも少し異なる考え方に変化しているようです(私めんどくさがり屋なのできちんと文献調べてません〜)。  それでは詩と散文を区分けするのはどのような考え方がよいのでしょうか。 ※これから書くことは独善的な私の考えなので、必ずしも正しいかは疑問です。皆様方の考えるきっかけになればと思っています。  言葉を読むことによって、言葉の徴表を積み上げ、それによって作者の考えを読者に理解させる あるいは物語中の事実関係の理解によりそのテーマを理解させ感動させるもの、つまり、言葉の徴表によって物語中のリアルな事実関係を理解させテーマを認識させるものが散文だと考えます。  実用文も事実を書こうとする点、小説などと同様散文の範疇に入ります。しかし、実用文は小説と異なり言葉の意味を厳密に定義付けされたものですから、しかも完結にするため、修飾語は不要です。暗喩も直喩も使いません。極、まれに物の形状などを説明するために直喩を使う場合があります。小説はその点飽きさせないためにあらゆるレトリックを使います。したがって、詩との区別で問題となるのは詩と同様のレトリックを用いる小説などの文芸の範疇に入る文章だと思います。  多くのネット詩などに言えるのですが、暗喩隠喩を使えば詩として成立するという誤解をまず否定しなければなりません。  暗喩、直喩 など喩法は詩のレトリックとしては本質的なものではありません。このことは鈴木志郎康さんも入沢康夫さんもそれぞれの詩論で述べております。つまり、小説でも隠喩暗喩は効果的に使われていますし、踰法を使わない小説は無いとも考えらられます。  特に鈴木志郎康さんは隠喩について 筆者の恣意に依存するのでその詩は読みにくい。そのような詩は読むこと自体が苦痛になるので、できれば隠喩の少ない軽やかな詩を書くべきではないかと提案しております。正しい見解だと思います。  どこでどう勘違いしたか隠喩こそ詩の本質だと思っている人が多いのでは無いでしょうか(間違っていたらごめんなさい−そのような批評が多いので)。詩を読むには素養あるいは基礎的教養は必要ですが、個人的な事情を理解しなければ分からないような隠喩は避けるべきであると考えられます。詩に誤解は付き物ですが、読者を全く無視した詩はいただけません。どうしても使わざるを得ない時は詩の中で喩えの理解のヒントを置くべきです。 と思っています。ちょっと脱線しました。  ※これは、当然、踰法を詩の中で使うことを前提とした使い方を言っているので誤解無きように と思います。  私が考えるに詩の成立には2つの要素が必要だと思います。  第1に 言葉 及び 言葉によって(媒介すると言っても良いと思いますが)構成される話者と読者と作者との関係性 を作者のモチーフを実現するための素材と考え、その中で言葉の伝達性を生かして作られた作品が詩だと考えます。  この場合、言葉の機能の中心は伝達機能それ自体ではないので、言葉自体いろいろ複合的意味を持たせることは当然許容されます。定義付けは不要で詩として構成された作品から読者が何かを感じる……出来れば作者の考えたモチーフ(入沢康夫さんだと図柄になりますか)、ことによって詩は成立すると思います。 アレンギンズバーグの言っていた「主観的真実の表現は他の者が客観化することによって初めて詩になる」ってなこともこのことに連なることだと思います。読者を無視して詩は成立しませんし、客観的真実の表現ではないのです。その点、散文とは大きく違います。  第2に 詩は口に出して読むことを前提として成立しなければなりません。ある人(もう誰であるか覚えていません。寺山修司か?)は「グーテンベルグが活版印刷機を発明してから、詩人はさるぐつわをかまされた。それ以来詩人は文字で詩を書くようになり、長いモノローグを書き続けている。」と喝破しました。つまり、朗読は詩の本質的要素なのです。和歌でも詩吟でもなんでも口に出して読むだけで感動できる物を目指すべきです。そのためのリズム感ではないでしょうか。なお、このことは定型詩とは直接関係在りません。  ※楽譜を黙読して音楽を感じる人が余りいないのと同様(本当の専門家はそれも可能ですが)、楽譜は音楽という一期一会の芸術を便宜的に書きとめた物で演奏しなければ誰も感動しませんし、楽譜自体は芸術でも何でもなく、音楽それ自体を示すものではなく目安としての記録です。つまり、不正確です。  詩を書いている人の中には朗読しない人も多いですし、なかには朗読して欲しくないという詩を書いている人もいるようです。ベルレーヌが「詩の作法」で「まずもって音楽だ」と書いていますが、正しい方向だと思います。自分としても朗読はしたいと思っています。   この2つの要素は散文にはありません。しかし、口語自由詩は何か限界があり、定型化はある程度必要なのかも知れません。それはまた後日投稿させてもらいます。 ※ものすごく素直な内容の詩も好きなので、この文章は実際的ではないかも知れません。実作とはかなりずれていることをご勘弁下さい。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】西瓜割りを見物する人の群れ(詩における批評の風景)/角田寿星[2010年1月9日16時57分] 以前、作家の佐藤亜紀さんが『ユリイカ』で、批評とは西瓜割りみたいなもんだよ、という趣旨のことをちらっと書いていて、なるほどうまいことを言うもんだなあ、と思わず膝をたたいたことがあります。引用してみましょう。   批評というものは往々にしてそういうものですが、どんなにうまく書いた   としても相打ち、大抵は明後日の方向に落ちる作家や作品の影に切り付け、   その切り付け方や明後日の方向の偏りによって批評家自身の自分でも気の   付かない正体を語って終ります―だからこそ、西瓜割りを見物する愉快さ、   とでも言いますか、なまじな小説より面白いわけですが。          (『ユリイカ』2006年7月号「小説のストラテジー」) ここにひとつの批評があったとして、ギャラリーは「読めてねえな」とか「考え方がずいぶん偏ってんな」とか、勝手なこと言いながら囃したてる。「もっと右、右だよ」とか「真後ろにあるじゃねえか」とかの的確なアドバイスが少ないぶんだけ(いや、あるにはあるでしょうが)ちょっと意地悪なギャラリーではありますが、小説批評の世界はそれなりに賑やかそうで、羨ましいですね。 佐藤さんは博識な人ですが(彼女の作品『バルタザールの遍歴』は超一級のピカレスク小説です)小説家なので、こんなことも言ってます。ちなみに連載評論「小説のストラテジー」、最終回だったこの回は、ナボコフやカフカの評論を書いたエドマンド・ウィルソンの評価、でした。   ただし西瓜割りである以上標的がない訳ではなく、振り下ろした先が近いか   遠いかの別は厳としてあり、命中と言える一打も可能なばかりか、外し方に   も良し悪しがあることはお忘れなく。 最後の一文の「外し方にも良し悪しがある」は、確かに心に染みました。が、その前の「標的がない訳ではなく」「近いか遠いかの別は厳としてあり」には、ふーん、小説ははっきりと標的がみえるものなんだなあ、と半ば感慨に近いものを覚えました。 詩というジャンルは、批評の標的となるものは多分あるんだけど、それが最も分かりにくいもののひとつである、と思います。作者さえ「うーん、どうしてこんなの書いたかなあ」なんて言いやがることしばしばなので(在りし日の西脇順三郎センセが自分の作品を語る時よく言ってましたわ)、批評する側は、自分で答えを創作しながら論を組み立てていかなくちゃいけない。それだからこそ面白いんだ、という人もいるでしょうが、やっぱり普通の人にはしんどいことです。近い分野では音楽かな。演奏に関してはさまざまなジャンルでコンテストが盛んですが、曲そのものに対しての批評は―コード進行だとかセリエリズムとか構成とか批評に役立つ材料があるにしても―詩と同じく感覚的なものがかなり入り込むだけに、難しいと思います。 もしかすると詩の批評で西瓜割りをやる時は、目隠しは不要なんじゃないですかね。いっくら目を凝らしても西瓜なんか見えやしない。でもいろんな事情とか理由があって、この詩には何か一太刀浴びせてしまいたい。で、何をするかというと、自分なりの西瓜を創り上げて「いいかみんなこれが西瓜だよ」と高らかに(あるいはおずおずと)宣言しながら、えいやっと振り下ろす。 はいっ、詩の批評いっちょあがり、です。 さて、こうして書かれた詩の批評に対するギャラリーの反応ですが、佐藤さんのいう「西瓜割り見物の快感」を得られることが詩においては少ないのか、黙って見ていることが多いのではないか、と考えます。市場が狭いせいもあるのか、なんとなく静かです。割られて怒る人もたまにいるしね。そんな手合いはどこにでもいるか。 「詩とはなんでしょう」と問題提起した次の瞬間に「わかりません」と書いちゃう、黒田三郎という困ったおじさんが昔いたのですが、確かにそのとおりでして、詩も詩の批評も、答えが存在しないのだから、ぼくらは「いい西瓜を創ったね」とか「気持のよい振り下ろしだ」とか評価するのががせいぜいなのかもしれません。 こんな駄文しか書けないぼくの批評などたかが知れてますが、批評の時にはせめて思い切りよく(そしてできれば丁寧に)振り下ろすことを心がけたい、と思っています。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】近代詩と現代詩の受容の違いについて/岡部淳太郎[2010年1月9日20時17分]  日本の詩が人々にどのように受け取られてきたかという詩の受容の歴史を考えると、近代詩と現代詩の間で大きな切断線が横たわっているのを誰しも感じざるをえないだろう。それは、近代詩は人々の間に幅広く受け入れられ人口に膾炙しているのに対し、現代詩はそのほとんどが人々に受け入れられずにいるというものだ。詩を考える人々の間に広く浸透しているこの認識は、恐らく事実だと思われる。こと日本語で書かれた詩の国内での受容に関して言えば、近代詩は読まれいまも途切れることなく読まれつづけているが、現代詩はそれに関わる者を除いた多くの人々の間で読まれず、それどころか、現代詩というものの存在すら知られていないことが多い。これはどういうことか。近代詩と現代詩の間に何故このような受容のされ方の違いが出て来てしまったのかを考えてみたい。  さて、このように近代詩と現代詩をわけてみて、一方は受け入れられているがもう一方は受け入れられていないとすることは、実はとても危ういものをはらんでいる。何故かというと、受け入れられているものを上位に置き、受け入れられていないものを下位に置くという単純なランク付けを惹き起こしやすいからだ。近代詩は人々に受け入れられているのだから優れていて、現代詩は受け入れられていないから近代詩よりも後退しているのだという、そのような粗雑な意見がいままでに何度もあった。だが、少し冷静になって考えてみれば、これはひとつの指標に拠りかかっているだけで、その本質については何も吟味していないのだということがわかるだろう。作品の価値を計るに際して、人々に受け入れられているかどうかというのはひとつの指標ではあるかもしれないが、絶対的な物差しではない。ある作品が優れているかそうでないかは、ひとつの方向からのみではなく、多くの方向から検討されるべきだ。実際、詩だけに限ったことではなく、世に知られていない隠れた名作など数え切れないほどあるではないか。だから、近代詩と現代詩の受容のされ方を並列して見ることで、その受容の大小の違いをそのまま両者の価値へとつなげて考えることは、厳重に戒められなければならない。  ここまでひととおりの前置きを済ませた上で、改めて考えてみたい。近代詩と現代詩の受容のされ方に、どうしてこのような違いが生じてしまったのだろうか。それはおそらく、日本において人々が詩に対して抱いてきたイメージが元になっている。それは、詩をひたすら抒情詩と見なしてきたということだ。当たり前のことだと思われるかもしれないが、西洋においては古代ギリシャの時代から連綿とつづく叙事詩の伝統があり、その点で日本とは大きく事情が異なっている。日本でも長歌のようにある程度以上の長さを持つ詩の形式があったものの、それは時の流れの中で定着せずに、三十一文字の和歌や十七文字の俳句などの極端に短い形式のものに取って代られることとなった。この詩の形式の長短の違いが、詩の内容にも影響を与えていることは確かで、和歌や俳句のような超短詩とも呼びうるような形式のものだと、抒情を喚起するものとして見られやすいだろうというのも確かなことだろう。日本の人々はそうした昔からの実例の積み重ねによって、詩は短く抒情的であらねばならないという固定観念を持つに至ったのだと言える。これは詩の実体、また実作者の持つ詩に対する考えとは無関係にそうなったのであって、詩に詳しい者がいくら詩はそれだけのものではないと言ったところで、覆しようのないものとして定着してしまったのだ。問題は詩の(また、和歌や俳句の)本質がどこにあるのかということではなく、それを受け取る人々の間でイメージが定着してしまっているということの方なのだ。  この人々が持つ詩に対する固定化したイメージが、近代詩と現代詩が受容される際にも働いてしまっている。すなわち、近代詩は抒情的であるが現代詩はそうではないということで、より抒情性が強い(と人々がイメージする)近代詩の方が、人々に好まれているのだ。  また、人々が詩に対して抱くこのイメージは、詩を若年の甘い夢として捉えさせもした。人が普段生きている殺伐とした現実からひと時逃れるための便利な装置として詩は見なされ、そのイメージをより人々自らの中で強化してゆくために、夭折詩人の事例が利用された。現実に対して詩は甘い抒情を届けてくれる。そのためには、詩は若年者が書くものであり、浮世離れしていて女々しくて、なよなよしているものでなければならなかったのだ。ここにはおそらく、人々が無意識のうちにも詩に対して抱いていた欲望が介在している。それは先述した現実からひと時逃れるための装置としての役割、そのために抒情を表出して受け手を気持ちよくさせてくれるものとしての詩の姿であり、こと現実生活というものへの融通が利かない勤勉な日本人であるからこそ、逆にそのような便利な機能を詩に求めたのだとも言いうるかもしれない。さらにつけ加えるならば、昭和二十年の敗戦によってそれまで拠りどころにしていたものがことごとく覆され路頭に迷わざるをえなかった日本人にとって、日本の原初の詩的なもの(と人々がイメージする)詩の姿を追い求めたいという欲求が働き、それが現在までずっと尾を引いているのだと言うことも出来るかもしれない。敗戦後の半世紀以上に及ぶ時間の中でも詩に対するイメージにさほど大きな変更が加えられなかったらしいことを見ると、それだけ人々が持つ詩へのイメージは強固なものであり、国際化だのグローバリズムだの言ったところで、本質的に変らないものが日本人の中にありつづけたことのひとつの証左なのだとも言える。だからこそ、現代詩ではなく近代詩なのであり、それは何度も言うように、詩の本質がどうかということに関わりなく、人々の間でそのようなイメージが定着し、それを元にして社会の中で詩が規定されてしまっているからこそなのだ。  そうした人々の詩に対する欲望やイメージとは無関係に、現代詩が歩きつづけてきたことも事実ではある。しかし、だからといって、人々の求める通りのものばかりを書けというのも乱暴な話だ。詩を書くというのが奉仕ではなくあくまでも創作行為である以上、求められるものと実作との間にずれが出て来るのは当然のことだ。また、日本の現代詩は、近代詩が戦時中に時代を蔽った大きな言論の流れの中に吸収されてしまったことへの反省と反発から出発しているのだから(詳しくは吉本隆明や鮎川信夫らの当時の戦後詩人たちの論考を参照)、近代詩からある程度切れてしまうのはやむをえないことだった。ここに他の国とは違う日本の詩に特有の事情があり、それを考慮せずに近代詩と性急に接続してしまおうとするのは怠惰なことだと思う。それに、現代詩にも抒情詩はある一定の割合で生き残っているのであり、それらの詩が何故(谷川俊太郎などの一部の例外を除いて)人々の目に触れることが少ないのかということを考える必要があるだろう。もし素直でわかりやすい抒情詩がそのまま人々に受け入れられるのだとしたら、もっと多くの現代詩人が人々の目に触れてもよさそうなものだが、現実はそうではない。ここにはただ抒情詩であれば良いのだとするだけでは説明のつかない、深い理由が横たわっているのだと推測される。  おそらく、人々が現代詩よりも近代詩に親しむ理由の中には、歴史化されたものへの安心感といったものもあるのだろう。よく有名人が亡くなるとマスコミやファンの間でその有名人への神格化が行われるが、あれと似たような感情だろう。現実にいまここで生きて活動している者はまだ活動の途上にあるため、次の展開が予測出来ない。それに対して、既にこの世に亡い人であれば、その活動の全貌を俯瞰的に捉えることが出来る。もともと人は予測不可能なものを嫌う習性を持っているから(それは社会の中で生きてゆくために、人が自然に身につけた自己防衛本能の一種であろう)、既に完結してしまったものの方がより安心感を得られるのだ。もともとマイナーな表現ジャンルであると見なされている詩であればなおさらのことで、いまだ不安定な状態にある現代詩よりも評価が確立し終ってしまったジャンルである近代詩の方が安心感を得られる。そこには評価の確立したものに惹かれるブランド志向的な気持ちも働いているだろう。そして、現在からより遠い地点にある近代詩は現在との間に置かれた時間の総量の中で歴史化が果たされたがために、より人々に親しまれやすいものとなっているのだ。  人々が詩に対して与えたイメージを元に近代詩に親しむということは、もっと言えば、近代詩であれば何でもいいというわけではなく、近代詩の中でも特に人々のイメージに合致するものが好まれるということだ。それはひとつに抒情詩であり、もうひとつに、出来ることならば夭折詩人であることが望ましい。夭折という物語の中に人々は甘い夢を見て、思う存分自らがイメージする詩の世界に浸ることが出来る。それを具体的な詩人の名前で言うならば、中原中也であり、立原道造であり、宮沢賢治である。逆に、近代詩の範疇に属する詩人であっても、人々がイメージする抒情詩とは異なるモダニズム系の詩人たちや、近代から現代までを股にかけて活躍した長命の詩人たち(特に現代詩の起点とも目される西脇順三郎が好例だろう)に人々が親しむことは少ない。それらの詩人たちは人々がイメージする詩、人々が詩に求めるものから離れたところに位置しているからだ。日本の人々は詩に甘い夢を託そうとしてきた。だからこそ近代詩と中でも夭折した抒情詩人は広く受け入れられ、現代詩は受け入れられないのだ。この人々のイメージや欲求と実際の詩作品との間にギャップがあるということが現在の詩の受容のあり方になっており、そこから現代詩の難解論をはじめとした詩の実作者と受け手との間の不幸な関係が成立してしまっている。そしてまた、現実社会に生きる人々の日々の辛さや苦さをひと時だけでも慰め癒してくれるものとしての詩の姿が求められてきたということは、詩と詩人が社会から見てマイノリティでありながら、それゆえに逆にそのような現実を超越した特殊な機能が期待されてきたのだと言える。社会から隔絶してひとり孤独のうちに黙々と芸術活動に打ちこむという古典的な芸術家像が、ずっと人々のイメージとして保たれてきたのであり、そこにはマイノリティとしての芸術家を忌避しながらも憧れるという背反した感情とともに、社会全体のスケープゴートとしての芸術家像が求められつづけてきたという日本社会全体の精神性も関わっている。このような歴史的および民俗的な事情を考慮しなければ、近代詩と現代詩との間に横たわる深い溝を説明することは出来ない。性急に人に読まれる詩を求めるだけの態度は、その意味において根本的に誤りであると言わざるをえないのだ。 (二〇一〇年一月) ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】逆KETIPA??極私的な詩のつくりかたとよみかた/KETIPA[2010年1月9日23時13分]  しばらく詩作から離れていて、一ヶ月ちょっと前に自分で書いた詩(「ぐっすり消化する」)を読み返してみた。まず、あれこんな詩書いたっけ、と首をひねってしまった。それから単語の切れ切れを見て、ああそういえば、こんなこと考えて書いたんだっけとぼんやり思い出し始めた。やはり個人的には、一度書き終わった詩はもうすっかり作者から離脱してしまうらしい。そういえば以前書いた詩の事も、ほとんど思い出せない。これは何かに似ている、と思い当たったのが夢だった。  ちょっと前から、起き抜けにノートをひろげ、夢を出来るだけ忠実に書きとめようとしている。安部公房もやっていたというし、結構ポピュラーな習慣なのかもしれない。そこで書き残された夢は、しばらく覚えていることもあるが、大抵は印象を含め全て忘れてしまう。それでもそのノート(字が荒れていて古文書のようになっている)を紐解いて解読すると、ああそういえばそんな夢みたな、と思い出せる。ということは、自分にとって夢も詩と同じ創作物なのかもしれない。いや逆に、詩の作り方が夢に似ているのかもしれない。白昼夢ってことか。  そう考えると思い当たる節も多い。詩を作るときに何を考えるかというと、光景、言語または物質の断片、それらの接続と組み替え、全体のバランス、そんなところだ。恐らく多くの詩人さんたちが創作時に考える(はずの)、感情とか根底にあるストーリー性とか、そういうものは考慮されないことが多い。だから共感できる感情や、まして解釈というものは、おれの詩にはそぐわない気がしている。一部を除き。  他の人の文を見ていると、詩の批評にしても、その評価の中心的な部分は感情か解釈に依拠していることが多い(ように感じる。偉そうにいえるほど読んではいないが)。というかそれが批評なんだろうから、別に変だとは思わない。しかし自分の詩の作り方が前述のようなありさまだから、解釈中心に展開するような詩の批評はできないか、できても極めて浅いものとなってしまうだろう(それを承知でこんな文章を書いている)。  そんな調子だから、おそらく人と詩の読み方が違うのではないかと思っている(このことについては一つ前の散文「現代詩をそんな読み方してないゆえに」に書いた)。例えばここで、最果タヒさんの詩の一部を引用してみる。       (前略) (    き        こえる 怒声   ひとがですね   ひとをおこる   ときはですね         + +   、土星のわっ *   かがですね、     ++   あたまにでき   るんですよね   。わたし、そ  +   +   れを目で追っ)   ていて、何度も殴られるんですけれど、 わたし、そうすると、わたしにも、わっかが 出来てですね、++* 両腕両足縛られるん ですね。++* するとかれらはわたしに飽 きてしまうので、土星だけのこして、   土星土星土星   、いっぱいの         土星だけを残して、去って いくのです。いい、迷惑です。… …  ……       …  ……        …  *   処女    細目 」   わたしの、素肌 を舐めるより 確実 なわたしの     味        です。ですますます。べつに     詩人 * ですからうまれたときから表現者ですからべ つにべーつーにー いいです     愛さないでも 最果タヒ「苦行」 初出 現代詩手帖二月号(2005) 投稿欄 Copyright 最果タヒ 2007-04-26 20:04:56縦  この詩からどんな感想を抱くのか。たぶんいろいろ解釈は可能であるだろうし(言葉の配置についてとか、少女性についてとか)、悲しげであるとか具体的な感情を持つこともあると思う。でもそれらは、おれの感じたふるえのような抽象的な感覚を裏付ける説明にはならない。複雑に音が絡み合う電子音楽を聴いたときのような、このはっとする感覚は、具体的な感情や何かしらの解釈から起因するものではない気がしている。それを説明するには、それこそ違った方法論が必要なのかもしれない。  純粋な(生楽器をまじえない)電子音楽は、0と1からなる波形の組合せで構築されている。もしくはその組み合わせに使う要素は、16進数であったり、32進数であったりするかもしれない。今パソコンで書いているこの文章だって、機械語を人間語に翻訳しているから、意味を他人に伝えることが出来る。だけどその根底には、機械語による処理がある。  詩にしても、現代詩にしても、批評にしても、言葉が紡がれる前に機械語の処理をへてアウトプットされている、という気がする。その言葉なりからうけた印象(機械語)を、どうにか人間語にして伝える、という一連の表現。  詩を書く場合は、内面に生じた機械語を人間語になんとか翻訳して伝える。批評の場合は、他人の内面を人間語に翻訳されたもの(つまり詩)を読むことで生じた印象(機械語)を、さらに人間語に翻訳してアウトプットする必要がある。後者の場合三回の翻訳を経ているため、当然最初に生じた作者の機械語(内的感覚)は、批評する側のアウトプットに至るまでに相当変質している。また、この四つの言語(作者の機械語、作者の人間語、批評者の機械語、批評家の人間語)は当然別物であるため、一意的な翻訳など成されるわけがない。それが当然だ。それが当然だからこそ、さまざまな解釈による批評が可能なわけで、そしてそれらのほとんどは、おれの受ける印象を説明してくれない。自分で翻訳していないから。  いまおれの場合、自分の機械語すらまともに翻訳できず、どうにも不完全燃焼な詩になってしまう。その連続で情熱が失われつつあるのも確かだが、はっきり言って「現代詩をそんな読み方してないゆえに」以来進展がない。夢の蓄積は徐々に進んでいるので、それを形にしてみようか(夢はいやに抽象的なので、結構詩に使えそうなモチーフが転がっている)。  コンピューターの世界では、機械語を人間語に翻訳するソフトなリシステムなりを、逆アセンブラという。おれの場合は、KETIPAの中に生じた夢のような機械語を、出来るだけ忠実に、いらん解釈や無駄な技巧を排除して、人間語に翻訳するこころみを繰り返す必要がありそうだ。逆KETIPAといったところか。それが出来るようになれば、もうちょいましな批評が出来るようになっていることだろう。あんま関係ないかな。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】日々のひび割れ −石川敬大『ある晩秋の週末のすごし方が女のおねだりで決まる』評−/大村 浩一[2010年1月10日0時27分] 日々のひび割れ  −石川敬大『ある晩秋の週末のすごし方が女のおねだりで決まる』評−  石川敬大さんは、現フォでは練達の詩人と言ってよい。  彼の近作に、私にとって妙に気になる作品があった。そういう詩に限って一 般の評価は控え目だったりする。作者にとってはこの作品でこういう取り上げ られ方をされるのは不本意かもしれなかったのだが、一応お声がけした上で敢 行した。二晩で書いた拙い文で恐縮だが、この詩に潜むものが多少でも読者の 方に見えてくるのなら幸いである。 ある晩秋の週末のすごし方が女のおねだりで決まる 石川敬大  どこかの紅葉を買いにゆこう  と、女がいった  言葉に  ぼくはまったくピンとこなかった  二歳にもならない  愛犬ミルクは車に弱い  夕方は早く暗くなるので留守番では  可哀想すぎる  ぼくの  こころの足もとが躓くのは  その一点においてなのだが  とても軽視できない一点でもあって  だ、けれど  女が  こんな風にきりだしてくるのは滅多にないことで  そのことだけは確かで  家事の疲れが滞留しているのかしらん  と、溜まった水槽の堆積を思う  ぼくだった  愛犬ミルクと女と究極の選択になれば  泣く泣く  ぼくは女をとるだろう  あしたの予定は  これでもう  決まったようなものだ     *  あした  空が晴れわたったなら  ぼくらは  ジャスコにでもゆくみたいに気軽に  意気揚々と  山へ  どこかの紅葉を買いにゆく  判りやすい詩なので、くだくだ解題する必要はない。  しかし何気なくやっているなかにも、実は注目すべき点が幾つかある。それ を拾えば、この詩の魅力や理由も見えてくる。  まずタイトルの異様な長さが目に入る。しかも何か穏やかではない。 「ある晩秋の週末のすごし方が女のおねだりで決まる」  普通なら「…すごし方」ぐらいまでに留めるところを「女のおねだり」とま で引っ張って、「決まる」と断言で突っぱねる。かなり不機嫌で不遜な感じだ。 ここがこの詩の敷居だ。 「女」という呼び方にもこだわっている。後半に「家事の疲れが」などと出て くるので、恐らくは「妻」であろうのに、妻でも恋人でも女房でもなく「女」 なのだ。呼び掛けの届く相手が随分と広がってしまう。  ふと先日の芥川賞の「終の住処」を思い出した。主人公が妻や母親、果ては 自分の娘や町行く見知らぬ女まで、実は同じ一人の女では、あるいは裏で示し 合わせているのでは、と妄想を抱く描写がある。この詩もタイトルで「女」と 大雑把に括ることで、主人公に身近な筈の女性を、彼には理解できない種類の 生き物へと変身させている。  第1連に進んでみよう。 # どこかの紅葉を買いにゆこう # と、女がいった # 言葉に # ぼくはまったくピンとこなかった  最初、「どこかの紅茶を」と誤読していた。疲れ目で時間に追われて批評な どするものではない(笑)と思ったが、確かにピンと来ない言葉だ。「どこか の」という言い方にはどこか投げやりで逃避の印象がある。意欲的な人間なら 「何々渓谷の紅葉がいま見ごろだから」とか具体性を帯びた提案が出てくるも のだろうから。  しかも紅葉を見るとは自然を愛でる行為であって、カネで買うものではない。 それを「買いに」とは、けっこう不遜なイヤミな言われ方である。  改行位置が意図的に変えてある。「と女がいったその言葉に」と1行に出来 るものをわざと分けてあるため、「言葉に」が前行にかかるのか後の行なのか、 一瞬迷うために異物感が醸成される。詩人だから「言葉」に引っ掛かりたいと いう意図があるのだろう。またこうすることで「女」も目立つ。ここでも呼び 方は当然「女」である。  主人公の当惑の理由が、第2連以降で明らかになる。主人公の幼い愛犬の立 場が、妻の要求でたちまち脅かされてしまうからだ。 # 二歳にもならない # 愛犬ミルクは車に弱い # 夕方は早く暗くなるので留守番では # 可哀想すぎる # ぼくの # こころの足もとが躓くのは # その一点においてなのだが # とても軽視できない一点でもあって # だ、けれど # 女が # こんな風にきりだしてくるのは滅多にないことで # そのことだけは確かで # 家事の疲れが滞留しているのかしらん # と、溜まった水槽の堆積を思う # ぼくだった  各行の長さはまちまちだか、作者固有の呼吸でリズムが形成されている。15 行目まで5行周期で、その1〜3行目が順番に長くなり、4・5行で順に短く なる。(11行目は例外)  そして「だ、けれど」「滅多に」「確か」「滞留」「溜まった」「堆積」と、 ポイントになる所や行の後半に「た」という音が入り調子を整えている。  この「だ、けれど」の読点も、前出の「と、女がいった/言葉に」と同様の、 意図的な言葉の躓きである。そしてここでも「女が」の意図的な際立たせが行 われている。そのほか「一点」を重ねたり、助詞によって各行をつないでいく ことで主人公の逡巡を上手く表現している。  生活の疲れの滞留を「溜まった水槽の堆積」のイメージに重ね合わせる鮮や かさは、最終連のジャスコ同様、この作者の優れた表現力の一端と見ていい。 # 愛犬ミルクと女と究極の選択になれば # 泣く泣く # ぼくは女をとるだろう # # あしたの予定は # これでもう # 決まったようなものだ  第3・4連はやや蛇足気味だが、これも主人公の逡巡の表現と思われる。 「究極の選択」は親切な言い方。それで泣く泣く「女」をとり、結果的に愛犬 は切り捨てられる。逡巡はどうあれ犬にとっては同じことだ。普段は「なにも なくさない」とか誓っていそうな主人公が、自分の利益のためにあっさり哲学 を変える。起きる事は小さいが思想の後退は大きい。ちょっと大袈裟すぎるか。 (笑)最後の「ようなものだ」の未練がましさが、苦笑いを誘う。 # あした # 空が晴れわたったなら # ぼくらは # ジャスコにでもゆくみたいに気軽に # 意気揚々と # 山へ # どこかの紅葉を買いにゆく  最終連。ただ「晴れた」ではなくわざわざ「空が晴れわたった」という言い 方に注意。これは空間に意識を置いた、映像的な描写だ。晩秋の深い青空の下 を、たぶん車に乗った男女が、遠くの山を目指してまっすぐ進んでいく。  この「ジャスコ」が、暗号の多い現代詩にあっては平文っぽい、洒落ッ気の ない言い方で良い。別にケータイがどうとか書かなくても現代の日常性を描く ことは出来る。郊外に乱立する巨大ショッピングセンターへの違和感は、同時 にこの詩を現代社会へと接続している。少なくもこの詩はジャスコの宣伝には 使われまい。西武ならまだしも。(笑) 「山へ/どこかの紅葉を買いにゆく」結局、地名は最後まで出てこない。最後 は女の台詞の復唱である。そして犬をどうするのかは1字も書かれない。  この詩はたぶん。当初はウィットを利かせたライト・ヴァース的な仕上げを 狙って書かれたのではと私は思った。けれども書いていくうちに、何か笑い事 で済まされないものを作者は感じたのではないか。それが遂にはタイトルに突 出した、と考えられないか。作者にとって誤算だったかもしれないが、私にと ってはその誤算のままに描かれたことで、却って印象に残る詩になったように 思う。ただのペーソスギャグだったら読み流していただろう。  この詩の「女」は、単純な生物学的な意味での女性を意味しない。むしろ社 会制度としての女、家計や経済を象徴し、男性に男性性を強いる存在としての 現代の女性である。  ポエトリーリーディングに馴染みのある方は、近藤洋一(1000番出版に詩集 アリ)の声をイメージしながらこの詩を読むといい。この詩に秘められた冷や やかな皮肉が、浮かび上がってくるのを感じるだろう。  最後に、自分の詩に対する考え方を少し書く。  詩や俳句の書き方を教える時「まず日常から書け」みたいな事を言う人が居 るが、あれを真に受けられては困る。いまどきただ平凡な日常や幸福を描かれ ても、そうでない人からの退屈や反感を買うだけだと私は思う。  「短歌研究」の1月号で、岡井隆との対談で松浦寿輝も「(この閉塞感のあ る時代に)明るい詩、明るい文学なんて、嘘臭いものにしかならない」と言っ ている。前後の文脈からそう導かれてもいるのだが、文学の現場にいる人の多 くは、このことを感じていると思う。明るい小奇麗な物件は、マンションでも 詩でもまず疑ってかかるのが、現代人のリアルな感覚ではないだろうか。  現代詩の詩人ならば、まずもって日常生活のなかに潜む矛盾や無常、人の残 酷さをこそ直視しえぐり出す能力が必要ではないか、と私は考える。  詩人の目とは、だから自分の関わるあらゆるものから矛盾や違和感を発見で きる目でなければならない。時には取材も必要だろう。  そしてそうした違和感の鍵を見つけられないまま書くとか、企画の方向性に 安易に従うとか(反戦詩なんかもそうだぞ)、そういうことをしてはいけない。 皮相的な、月並みな安易なものしか出てこないのなら、そういう素材を選んで 書き始めたこと自体が間違いなのだ。 2010/1/8 大村浩一 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】詩人は、ことばだけで勝負するんだ!?/角田寿星[2010年1月10日12時51分] ぼくは4〜5年前に、馬野幹くんが以前主催してた朗読会で、映像で流してくれたのを観たんですが、平成3年、蜷川幸雄さんの演出で、当代一流の詩人たちによる屋外朗読会があって、それをNHKが特集で放送したことがあるんですね。残念ながら一回こっきりで終わっちゃったぽいんですが、亡くなった方々の在りし日の姿もうかがえて、刺戟的な映像でした。それきり観てないのでいくつかの記憶違いは絶対にあるんですが、なにとぞご容赦を。 谷川俊太郎さんはいつもどおり淡々と、ちいさな女の子が主人公の、易しめのことばの詩を朗読。朗読用にこの詩を選びました、という印象。田村隆一さんは『木』を朗読。たしか観客席から木の傍まで歩みながら朗読したっけか。ねじめ正一さんのような人はいたかもしれませんが、んで何か早口で喋ってたような気もするんですが、ほとんど記憶に残ってない。 すごかったのが吉原幸子さんでした。比較的若くしてパーキンソン病に侵されて、闘病の末に最後は車椅子生活になって惜しまれつつ亡くなられた、かの人。細身の身体を折り曲げながら、腹の底というより、心の底から絞り出すようなことばの数々は、彼女の硬質の詩篇と相性もバッチリで、ぼくの心に確かに楔を打ち込みました。ぼくらは「惜しい人を亡くしたねえ」と口々に言い合いました。 驚いたのが石垣りんさん。彼女の詩の朗読なんてイメージが湧かなかったんですが、非常に端正な声の持ち主で、木製の一人用椅子に座って読みましたが、滑舌もテンポも絶妙で、彼女の詩と同じく、奇を衒ったとこはひとつもないのに、じわじわとぼくの心に染み込んでくるのでした。非常に熟練した朗読スキルを感じました。 それでですね、実は。 こうした堂々のラインアップの朗読会で、ほんとに面白かったんですが、飛びぬけて出来の悪かった人がいたんです。 現在でも日本を代表するパフォーマーとして活躍を続ける白石かずこさん、その人です。ものすごく皮肉な物言いなんですが、現在の「仲間内の褒め合い」では断トツの評価ですよね、彼女。 この特集でもトリとして登場して、演出もなかなか凝ってたんですよね。当時でも期待のパフォーマンスだったのでしょう、きっと。パフォーマンス自体はそんなに悪くなかったんですけどね。 彼女の当時の失敗は、ひとえにテキスト選びにあったのではないかと考えてます。月の神秘と狂気をあらわそうという詩篇でした。 舞台に白い法衣のような衣装を着た群像が浮かび上がる。その中央に、同じ衣装を着た白石さんが立ち、青いスポットライトを浴びる。神秘的なことばの数々を読み上げ、一呼吸おいてひとこと軽く叫ぶ。「ルナティック」と。 それは、詩篇のキーとなるところでなんべんも繰り返される。「ルナティック」「ルナティック」「ルナティック」… ぼくらは少しづつ語り合いました。「あれは…何だったんですか?」「笑わそうとしたわけでもないよねえ」「10年以上前だから、まだルナティックが新鮮なことばだったのかなあ」などなど。確かに同時期、ザバダックという野心的な音楽集団がデビューしたてで、『水のルネス』とか『ルナ』とか、ユーロピアンで神秘あふれるサウンドの数々を提供してたんですけどね。余談ですがその後のザバダックはアイリッシュトラッドの方に行ってメンバーの変遷もあって、数年前は幼児番組「いないいないばぁ」の音楽を担当してたらしいです。 ぼくは日ごろの不勉強もあり、最近さしたるイベントにも参加してないので、白石かずこさんのパフォーマンスを拝見したのはこれきりなんです。だからこれが彼女のすべてではないはずで、もっと素晴らしい朗読を観せてくれる力量のある方だとは思うんですが、ぼくの白石さんの印象は「やっちまった人」そのまんまです。映像の残るテレビって、怖いね。 もうひとつ、印象に残ったことがありまして、イベント後に蜷川さんのインタビューがあったんです。 「詩人てほんとに言うこときいてくれないねえ」と苦笑まじりに仰ってました。なんでも田村隆一さんの演出が本番とは違ってたとか。彼の登場の位置、朗読の場所が全然違ってて、どうもかなり苦労したらしいですよ。 ぼくは、あの蜷川さんが闘わなかったんだ、と軽い衝撃を受けました。今では分りませんが、当時の蜷川幸雄さんの演出は超熱血で知られてて、俳優に灰皿を投げつけるなど日常茶飯事だったらしいです。 その蜷川さんが、詩人たちに対しては腰が引けていたのか。少なくとも、自分の土俵にまるまる引きずり込もうとはしなかったみたいですね。やはり「舞台の演出」とはいえ、微妙に専門が違うということで、多少の遠慮もあったのでしょう。 一方、詩人たちはどうだったのかな、と。おそらく、一流の演出家の演出を受けられるという、またとない好機を最大限に活かそうとした人は、もちろんいたと思います。が、詩人田村隆一はそれをよしとせず、あくまで自分の「詩」というフィールドにこだわった。まあ田村さんらしいと言えば田村さんらしいんですが、彼の「詩人はことばだけで勝負するんだぞ」という強烈な自負とか、(言っちゃいますよ)田村隆一というネームバリューが邪魔した結果なのかな、と思います。 このイベントが一回こっきりで終わっちゃったのは、返す返すも惜しいことでした。毎年でなくてもいいから、この朗読会が定期的に行われていれば、詩の世界においてかなりの大イベントに成長していた可能性がありました。少なくとも「詩のボクシング」以上のインパクトがあったんじゃないか、と。その意味では、詩界は千載一遇のチャンスを逃したとも思われます。 続けられなかった真相は何でしょうかね、いくらでも考えられます。演出家のスケジュールが取れなかった、蜷川さんが詩人に愛想を尽かして「もうやらん」と言った、実は予算的に大赤字だった、局のプロデューサーが「これやっぱつまらんわ。もうやめ」とツルの一声、などなど・・・まあぼくは参加者でも当事者でもないんで、勝手な想像を巡らして楽しんでいます。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】客観描写ということ(高浜虚子)/古月[2010年1月10日13時32分]  優れた詩に出会うというのは、そうそうあることではない。  それはインターネットの世界も同じことで、ここ現代詩フォーラムにおいても、文句なしに優れた書き手といえる者は全体の1%にも満たないのではないかと思う。  わたしは詩を書き始めて三年になるが、実にそのうちの二年を、ろくに他人の詩を読むことも技巧を学ぶこともせず、無為に過ごした。おそらくフォーラムの参加者にも書き始めて日が浅く、わたしと同じように自己流であてもなく思うままを書き連ね、同じように伸び悩み、表現の壁に当たっている人もいることと思う。  そこで今回は、そうした初学者のために、俳人である高浜虚子の言葉を「玉藻」に掲載されたものから引用し、紹介してみたい。現代詩と俳句、違いはあれど、表現という点では同じである。これをお読みいただいているあなたが虚子の言葉を心の片隅にとどめ、今後の創作活動において役立てていただけるならば、これに勝る喜びはない。 1.主観批判  のっけから乱暴な話をするようだが、読んでげんなりする詩というのは、残念ながら確かに存在している。読み終わったあと「ああ、またか」と思い、何の感慨も催さず、すぐに忘れる。そういう類のものである。  とはいえ、誰しも好んでそんな詩を書いているわけではないだろう。みな、己の心のうちを伝えようと苦心し、自分では最善を尽くしたつもりで、それでもなお陥穽に嵌っている。その陥穽こそが、「主観」なのである。  虚子の言葉を引用してみる。 「手っ取り早く作者の主観を述べた句、若しくは作者の主観に依って事実をこしらえ上げた句等は、私等から見ると外道である。」 「大衆はとかく感情をむき出しに詠いたがる傾きがある。その感情はもう飽き飽きして居る陳腐なものである。それは好ましくない」 「心に感動なくて何の詩ぞや。それは言わないでも分っている事である。ただ、作家がその小感動を述べて得々としているのを見ると虫唾が走るのである。そればかりでなく、そういう平凡な感情を暴露して述べたところで、何の得る所もない事をその人に教えたいのである。」  こうした思いを、あなたも読み手として、一度ならず感じたことがあるのではないだろうか。月並みでありふれた、百万回も繰り返された言葉を、まるで自分の言葉のように語ってみせる詩、あるいは作者のみが了解している不可思議な思想を、さも読み手と共有できているかのようにおしつける詩、そうした詩は案外に多いものである。  読み手は書き手が思うように都合の良い解釈をしてはくれないが、同時に書き手が思うほど愚かでもない。甘ったれた不幸自慢や幼稚な素人哲学の披露といった自己満足に、他人を巻き込むのは控えたいものである。  そうしたむき出しの主観は、それがたとえどれだけ素晴らしい言葉であろうとも、読み手にしてみれば「それに対して感服するよりもむしろ反感が起こる」ものなのだ。  だが、ならば主観を描いた詩はすべて詩として不出来なのか。そうした疑問をあなたも持つだろう。  そこで、ようやく本題である。 2.客観描写    はじめに、客観描写とは何か。  虚子の言葉によれば、それは「客観を見る目を養い、感ずる心を養い、かつ描写表現する技を練ること」であり、「それらを歳を重ねて修練し、その功を積むならば、その客観は柔軟なる粘土の如く作者の手に従って形を成し、(中略)やがて作者の志を述べることになり、客観主観が一つになる」のだという。  このことを、虚子は絵画にたとえて説明している。  「絵も始めはその対象物を向うに置いて形なり色なりを研究するに始まって、その形や色が出せるに従って自然々々にその対象物と作者の距離が近くなって来て、自分の心に感ずるような形や色が自由に書けるようになって来る」。それによって絵は「同時に作者を写」すようになり、「それがいよいよ進んで来ると、如何にもその作者でなければ描けないというものになって来」る。  客観描写であっても、「その人の現われ」を隠すことは出来ない。「これが芸術の尊い所以である。」そして、詩が尊い所以でもある。  あなたが、自分が詩にこめた内面が読み手に思うほど伝わらないと感じるとき、翻ってあなたは自分の内面にどれくらい真剣に向き合えているだろうか。  どうも、自分は散漫に書き散らして楽をしているくせに、読み手には読解の苦労を強い、そうして自分の望む読まれ方をしないと不満を漏らす書き手が多いように思える。  読む努力をしない読み手を責める前に、書く努力を怠った自分を責めるべきである。 3.寡黙の力  「寡黙の力」というものがある。  「寡黙ということは、最も大きな人間の力の表現である」とはまことに同感であるが、それはおそらくは単純に言葉数を減らせということなどではないだろう。  心のうちを一から十まで説明しなくても、情景を描くことで比喩的に心のうちは描き出せると言っているのだ。  とはいえ、これは現代詩とはそぐわないと感じられる向きもあるかもしれない。  難解・抽象は現代詩の性質上ある程度仕方なく、形式の破壊や文章構造の自由、既存の表現では表現しきれないものを追求する姿勢も分かる。  だが、それでも詩が、書き手から読み手へと向けて伝えられるものであるならば「多くの場合は言葉の単純ということが大事」なのではないか。  「不可解難渋であっては、その事に読者の心が労されて、作者の主観を受取ることが出来ぬ」。本稿を書いているわたしはといえば、ともすれば難解なものを好んで書きたがる人間だが、この言葉はいつも自戒として心に留めている。  「一片の落花を描き、一本の団扇を描き、一茎の芒(すすき)を描き、一塊の雪を描き、唯片々たる叙写のように見えていて、それは宇宙の現象を描いたことになる」という虚子の境地に至ることは到底容易とはいえないが、わたしたちはこの精神を忘れずにいたいものである。   「感懐はどこまでも深く、どこまでも複雑であってよいのだが、それを現す現実はなるべく単純な、平明なものがよい。これが客観描写の極意である。」  平板ではなく、平明ということ。この両者の違いをどうか、考えてみていただきたい。  あなたが向き合う対象がもしも形のない心の中の風景だとしたら、この客観描写ということは想像を絶する苦労をともなうだろうと思う。だが、あなたが本当に良い詩を書きたいと思うならば、それは、どれだけ苦労してでもやってみる価値があるはずだ。    最後に、ここまで読んでくださったあなたへ。  もし本稿を読んで異論や反論をお持ちになるようなら、存分にそのことについて考えてみていただきたい。高浜虚子の「客観描写」は、やや頑迷な部分があることはわたしも否定しない。ぜひ、これを叩き台にして、あなた独自の詩論を組み立ててほしい。  どんな形であるにせよ、本稿があなたの心に少しでも何かを残せることを祈りつつ、筆を置くことにする。 * 文中の「」内はすべて岩波文庫「俳句への道」(高浜虚子)から引用。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】迷子論序説/岡部淳太郎[2010年1月10日21時58分] 1  言うまでもないことだが、道に迷うことは人の心に不安をもたらす。すべて不安というものは未知のものへの恐怖から来るものだが、道に迷うのはこの一点からあの一点へとある目的を持って移動するその途中で生じるものだ。その道が既知のものであれば、迷うことはほとんどないから大丈夫だ。しかし、それが知らない道であるならば、地図を頼りに、目標物を頼りに、おそるおそる移動していかなければならない。その道のほとんどが不安の種を内包しているのであって、いつもの慣れた道よりもさらに慎重を要する。首尾よくゴールにたどりつければその不安の種は消え去るが、途中で道がわからなくなってしまえば、それらの不安の種はいっきに芽吹き出す。移動するという目的が雲散霧消してしまって、人は混沌の中に投げこまれてしまうのだ。それが不安をもたらし、不安は恐怖へと直結する。  さらに言えば、目的の場所にたどりつけずにいることは疲労をもたらす。道に迷ってどこがどこだかわからない状態というのは、言い換えればその道のりを消化する、道を進むという作業が頓挫し、暗礁に乗り上げてしまったということである。確実に進んでいる、近づいているという実感が得られないことが疲労につながるわけで、足が道に迷うと同時に、その事実から精神もまた迷いの中に落とされる。普通、どんなにつらい道のりであっても、確実に進んでいる、この道の先にはたどりつくべき場所が明らかにあるのだという思いがあれば、疲労も軽減されるものだが、迷うことによって目的意識が剥ぎ取られ、心身ともに疲労に落とされてしまう。そして、人は自問する。この道のりは何であろうか。こんなふうに迷ってしまわざるをえなくなったこの道は、果たして正しい道であったのだろうかと。  しかし、厄介なのはそれだけではない。道に迷うということは言ってみれば宙吊りの状態であり、後にも先にもいけない中途半端な状態だ。始まりから終りまで確実に進んでいる限り、人の精神は秩序とともにある。いまはまだ道の途中であっても、その道のりを正確に進んでいるのであれば、秩序によって保護され秩序と同行しているのだという安心感を持つことが出来る。だが、いったん道に迷ってしまうと、秩序はいっきに崩壊して、主体が混沌の中に投げ出されてしまうのだ。それが先ほども触れた心身両面での疲労と、主体が自らに向かって正否を問う事態を惹き起こす。道に迷うことには明確な終りがない。迷いは突如として始まり、いつかは終るだろうという実感を持てないままずるずるとつづいてゆく。一本の道がその上に人を乗せたまま前後をぷつんと切り離されているようなもので、どこか異次元の世界に取り残されてしまったような頼りなさを感じさせてしまう。そこから脱出するには正確な道を見つけるしかないのだが、迷いの始まりも終りも(つまりは、前も後ろも)ぼんやりとかすんで見えなくなっているのだ。そして、他の道はすべて秩序とともにあるのに、自分のいるこの場所だけが混沌の中にあり、自らとともに混沌も随伴して回るような頼りない気持ちになってしまう。  もともと道というものは、ここからあそこへと移動するためにあるはずだ。原野や森を切り開いて道を作るということ自体、秩序を生成することとほとんど同じことであるにもかかわらず、それなのになぜ人は時おり道に迷ってしまうのか。迷子になる、道に迷うことを英語で「lost」というが、それは文字通り道を「失った」状態だ。道はあるはずなのに、その人にとってだけ道は失われている。だから、進むことも退くことも出来ない。  ごく単純に言ってしまえば、道は多すぎてあまりにも複雑すぎる。だが、それだけでは人が道に迷う心身両面からの理由を説明出来ないだろう。道が多すぎて複雑すぎるのは、人に対する一種の罠のようなものだと考えてみよう。道はたしかに秩序とともにあり、秩序を代弁するものであるかに見えるが、秩序とはもともと混沌を内包するものではなかったか。秩序はその中に混沌を胚胎し、ふとした時にそれが隙間から滲み出してしまうのだ。たとえば夜に幽霊が現れるように、条件さえ整えば秩序は混沌を吐き出してしまう。道は人や物を目的地まで導くものとして作られ整備され、人もそう思っている。だが、道の秩序の中に隠れた混沌がそっと息を潜めて道の上を行く者をうかがっていて、その者の気が緩んだ時に静かに溢れ出す。秩序だと思っていたものが、突如として正反対のものに姿を変えてしまう。それに精神が取りこまれることによって、人は道に迷うのではないだろうか。昔話や伝説に旅人をあざむく妖怪などの異世界の住人が登場するものがあるが、それらの混沌とともにある者は、人が道に迷うことの象徴として使われてきた。そうした物語を語り継いできた人々は、人間が整理してきた秩序も一歩足を踏み外せば混沌の闇の中に落ちこんでしまうことを十二分にわかっていたのだろう。そのような象徴的な物語を継いでゆくことで、秩序の側にあるべき人間存在に一種の警告を与えてきたのではないだろうか。  だが、どんなに注意して、地図と目の前の風景を比較して見ても、迷う時は迷うものだ。目的地へと安全に導いてくれるはずの道は、一瞬にして迷路へと変る。その迷路の中心に、人を喰らう魔物のような存在が舌なめずりして待っている。そんなふうに思えてしまうことがある。そんな時に人が不安を感じるのは、おそらく主体が丸ごと混沌の中に落ちこんでいるというより、周縁の、境界線上の感覚であるのだろう。周縁とは秩序の周縁、秩序が外側に行くに従って次第に薄くなり、密度が薄くなっているような場所であり、境界線上とは秩序と混沌がわずかに袂を接し、その両者の性質が互いに滲み合っているような場所のことだ。だから、秩序は薄まりながらもまだそこにあるのだが、それをあたかも混沌の中にすべて投げこまれてしまったように感じるのは、人がいかに日頃秩序とともに生き秩序に守られて暮らしているかということを示している。秩序に少しではあるが混沌が侵入することで、まだ秩序は大筋で保たれているのにもかかわらず、それが完全に破壊されてしまったかのように思えるのだ。これは見方を変えれば、混沌の方で人を騙しているとも言える。混沌の力はまだ完全に発揮されていないのであるが、秩序に慣れた人間はわずかの混沌の侵入でも敏感に感じ取って、混沌の力に完全に捉えられてしまうかのように錯覚する。そうした混沌に慣れていない人間の混沌を恐れる性質を利用して、「あちら側」の世界に引きずりこもうと画策しているのかもしれない。 2  ここまで見てきたように、道に迷うことは宙吊りになって前にも後にも行けない状態のことだ。そして多くの場合、人は目的を持って道を歩くだろうということも確かなことだ。それならば、そのように宙吊りになって方向がわからなくなって止まってしまうのを誰もが避けたいと思うはずだ。だがここに、奇妙なことにと言うべきか、目的を持たずに歩く人がいる。それもほんの時々ではなく、頻繁にそのような者が出現する。たとえば散歩であるとか、あるいは目的地を持たない風まかせの旅であるとかがそうだ。なぜ人はこのような歩行の跡を道の上に記してしまうのか。それはまるで、積極的に迷おうとしているように見えるほどだ。  おそらくここには、知性を持つ者としての人間の特性が反映されている。歩行とは、自らの脚を使って身体を前へ進ませることだ。その動作自体が、きわめて実用的なのだということが言える。しかし、実用だけで済まないのが知性というものの始末の悪さなのだ。どこかに無駄なものを求めてしまうのが人間の常であり、無駄の探求によって生活を潤してきたのが人間の歴史なのだと言える。  明確な目的地を持って始まる歩行へのある種のカウンターとして、目的を持たない歩行というものはある。一九六〇年代に世界中の若者たちの間でヒッチハイクによる貧乏旅行が盛んに行われたことがあったが、あれなどは非常にわかりやすい実用的人生へのカウンターだった。「自分探し」などと言うと何やら嘘くさく響いてしまうが、要するに日常を覆っている実用性や散文性だけではない別の可能性を探っての試みであり、そういう方面から見るならば、人としてきわめてまっとうな行為だったのだと言える。そのような大がかりなものでなくても、たとえば通勤の道のりをいつもと変えてみるとか、一番近く一番安く行ける道のりをあえて選ばずに遠回りしてみるとか、休み時間に散歩をしてみるとか、実用的で散文的な歩行から離れた韻文的歩行が日常のあらゆる場面で試みられている。そのような非実用的で非生産的でいっけん何の役にも立たない行為こそが、実は人の精神の健康を計る目安になっている。人は精神や生活に余裕がなくなると、よりいっそう実用的なものに重きを置きたがるものだが、あまりに実用性に傾きすぎることで、自らの余裕のなさの中に他者を巻きこんでしまってそれに気づかないという愚を犯すことがままある。どこかで実用性に傾きすぎることに歯止めをかけなければならないのだが、そのためには実用性の正反対にあるものを持ち出すのが手っ取り早い。実用的でない無駄なものへの親和を示すことは、そのようにして思わぬところで役に立つことがあるのだ。  さて、ここまで述べてきたような「意志的な迷子」とも呼びうるような指向は、目的に向かって邁進して一所懸命頑張ることを最上の美徳とする価値観へのカウンターにもなることは見えやすいだろう。また、それがある種の人々から煙たがられると同時に、別の人々からはある憧れを持って見つめられるだろうというのも見えやすい。問題は、そうした既成の価値観(散文的歩行・実用性重視)とその正反対の価値観(韻文的歩行・非実用的なものへの傾き)の二項対立が何をもたらしうるかということだ。目的に向かって一直線に進もうとする「歩行の意志」と、それに対する「意志的な迷子」。それは言ってみれば、社会と社会ならざるものとの、また、生活と生活ならざるものとの対立だが、対立は常に後者の方からしかけられている。何故なら、「歩行の意志」・社会・生活・実用といったものは常に陽であり、「意志的な迷子」・社会ならざるもの・生活ならざるもの・非実用といったものは常に陰であるからだ。そして、陰の側にあるものは陽の側にあるものの鏡として作用しておリ、陽の側が大きければ大きいほど、その反作用として陰の側も大きくなるのだ。こう考えると二項対立というものがすべてそうであるように、陽の側だけ、あるいは陰の側だけで独立して存在しうるのではなく、陰陽合わせて初めてひとつとなるのであり、「歩行の意志」も「意志的な迷子」も、どちらか一方が特権的な力を持ちうるわけではないのがわかる。それは歩行というものの違った形態であるというに過ぎず、時によってどちらの形態を選ぶかはそれを行う者に任されているのだ。  しかしながら、「歩行の意志」が陽であり、逆に「意志的な迷子」が陰である以上、前者に多くの光が当てられ、人の生活が前者のルールによって進められるであろうことも確かなことである。たとえ意志的なものでも、迷子はいずれ迷っていることから解放されねばならない。目的のない旅を終らせ、無理矢理にでも目的を設定しなければ生きてゆくことも覚束なくなってくるのだ。そのようにして、「意志的な迷子」である韻文的歩行は、「歩行の意志」である散文的歩行の中へと吸収されてしまうかに見える。だが、また別の新しい歩行者が現れ、同じように「意志的な迷子」たらんとこころざす。そのたびに、目的地に向かってまっしぐらに突き進むだけしか取り得のない「歩行の意志」は、その価値観を自らの裏側から問い直されているのであり、それを繰り返すことによって、陰陽合わせてひとつとなった歩行の足音は大きくなってゆくのだ。 3  ここで少し個人的な話をする。幼い頃、私はよく道に迷った。正月に親戚の家に行った折、お年玉をもらってうきうきした気分で街中を歩き回っては迷ったり、保育園を脱け出してひとりでさまよっては大人たちを心配させたりしていた。そうして迷いながらも、なぜか迷っていることそのものに陶酔していたような気がする。私の中に残っている迷子の原風景とはこのようなものであり、不安でありながらもどこか未知の世界に踏みこんでしまったようなわくわくするような感じを伴ってもいたのだ。あの陶酔するような感じはいったい何だったのか? こうして昔のことを思い出しながら、それが気になり始めている。  迷子とは常に、それを体験する個人の精神的葛藤とともにある。それは客観的なものではなくどこまでも主観的であり、主体の脳(心と言い換えても良い)の中でしか展開されない。言ってみれば、幻影と同じ構造を持っているのだ。迷うことは基本的に人を不安にさせることはここまで何度も繰り返し書いてきたが、それでいながら時に人を陶酔させる要素を持っているのは、それが徹底して自らの脳内に展開されるものであるからだ。自らの脳内だけで展開されるということは、それは他者が介在しないどこまでもひとりきりの体験であり、一時的にであれ主体が世界そのものとなる(少なくとも、そのような錯覚を惹き起こす)状況をつくり出す。だからこそ、それは主体の精神を陶酔させるのだ。つけ加えるならば、迷子の状態に陥ることは制度からの一時的な離脱である。計画通りに目的地まで進んでたどりつくのは秩序に沿った行為であり、制度の枠内だけで完遂されるものだ。だが、道に迷うのは秩序から混沌へと陥ってしまうことであり、人がそのような状態になることを制度は望んでいない。つまり、迷子になること自体が制度への反旗という側面を含んでいるのであり、人は徹頭徹尾制度の中だけでは生きられず、時には無秩序な混乱に身を投じてしまいたくなることがある。そうでなければ精神のバランスを保てないからだ。秩序と制度の中に生き、それらによって生かされていながら、人は時にそれらを忌避する。道に迷うことは、人の持つそうした潜在的な欲求を刺激するのだ。しかしながら、それは計画的に得られるものではない。前章で述べたような「意志的な迷子」では、それは得られない。何故なら、迷子になることによる陶酔は常に不安とセットになって顕現するものであり、そうであるからには、計画的にではなく偶然性の中で迷子にならなければならないのだ。最初は秩序の中での歩行、目的地への移動であったものが、ある偶然によって秩序から滑り落ちてしまう。意識せずにそうなるということの中に、人が潜在的に抱いていた制度への反抗が思わぬ形で成されてしまったというものがあり、それが偶然そうなったから秩序および制度への言い訳も利くだろうという、多少都合のいい便利さがある。言ってみれば、この時、人の意識は秩序と混沌の両方を同時に向いている。両方に足をかけているから、そのどちらにも完全に囚われることがない。陶酔と不安が同時に現れるということは、そういう状態から来る微妙なものであるから、意識的にそれをやってのけることなど出来ないのだ。  単純な移動の道は、よく人生の長い道のりに比喩的にたとえられる。その中での迷いもまた同じで、移動の途中で迷うことが人生の迷いにたとえられる。これは人の生そのものが社会のつくり出した制度とともに伴走し、その中に捉えられることがほとんどであるからこそだ。その中で人は進み、迷い、そして疲労する。時には制度と秩序から離れて、混沌に身を投じたいと思うこともある。「意志的な迷子」となり、あえて生を無為に過ごしたくなることもある。それはまさに人生の迷子となっている状態だが、誰もが多かれ少なかれそのようにして迷うのだから、そのこと自体が悪いわけではない。また、人は秩序の中で生きるが、秩序の中でのみ生きるわけでもない。秩序の中でのみ生きようとする者は、結局は秩序を変えることは出来ない。秩序から思わず足を踏み外してしまって、迷子となって懊悩する者のみが秩序の変革を成しうるのだ。単純な移動の途上で迷うことも、迷うことによって道を憶えることがあるように、生の中で迷うことでより深くより大きく生を生きることが出来るのだ。迷うとは、一歩間違えれば闇の中の魑魅魍魎に捉えられて、その後の道を狂わされてしまう危険性を秘めているが、それを契機にして再び秩序の方に戻った時、秩序の中にいただけでは得られない「何か」を手土産に出来る可能性も秘めている。「失う」という意味の「lost」でいったんは迷い、秩序を失うが、それを通過して秩序の方に戻れば、何かを「見つける」ことが出来る。「lost」と「found」は表裏一体であり、それは秩序と混沌が表裏一体であることと通低している。いっけん正反対のものであるかに見えるそれらは、実は深い相関関係にあるのだ。  かつてイギリスの詩人ウィリアム・ブレイクは、詩集『無垢と経験の歌(Songs of Innocence and of Experience)』の中で、「失われた少年(The Little Boy Lost)」「見つかった少年(The Little Boy Found)」というふうに、「lost」と「found」という対になる概念を詩集の中でつづけて置くことで、それがただの相反する概念ではなく、ひとつの流れの中でつながっているものであることを示した。『無垢と経験の歌』という詩集の表題が象徴的に示すように、「失われた」と「見つかった」、「無垢」と「経験」という対立概念は、対立していながら互いに飲みこみ合っている。それらのどちらかだけで全的になることは出来ないのだ。  人は道に迷う。単純な移動の途上でも、人生という長い道のりの途上でも、人はしばしば迷う。その時に訪れる混沌はその強大な力で人を闇の中に引きずりこもうとするかもしれないが、そのことで人は不安と恐怖を感じるであろうが、それは長くはつづかないだろう。迷子はいずれ見つかり、大人たちの元へ送り届けられる。そして、迷子であった子供は、迷っていた間に見たものを大人たちに語るのだ。その時、彼は迷子になっていたということで、ほんの少しだけ成長しているに違いない。 (二〇〇九年十二月〜二〇一〇年一月) ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】失われた「鈴子」を求めて/香瀬[2010年1月11日3時03分] ぼくは、父親の名前に格別思い入れなどなかったが、ぼくが名付けたミドリガメの名前には少しだけ特別な感情が残った。 (一条「ミドリガメと父親」) +++  公園にはいつも子供が溢れている。カモン、カモンと鴎は空を飛び交っている。冬の公園は寒くて、組んだ足に乗せたノート・パソコンの温みが心地良いよねと呟く彼の隣であたしはドトールのコーヒーをすすりながら湯気の向う越しに半袖短パンの男子たちやそいつらを軽くいなすキラキラした髪留めとヒラヒラしたスカートで闊歩する女子たちを眺めている。 ――いかがわしい名前のサイトなんやけど、このサイトで「殿堂入り」になっとる一条さんって人の作品がマジおもろいけんさ、ちょっ読んでみ!  滑り台ブランコ砂場シーソー鉄棒ジャングルジム。子供らは公園いっぱいに広がっている。黒い肌、白い肌、黄色い肌。滑り台から降りる女子のスカートが捲れるのを見逃さないままブランコから飛び降りてずっこける男子を砂場で笑っているキラキラした女子ども、そいつら横目にシーソーで好きな女子の話題に耽る茶色いシャツと青いシャツの男子二人を鉄棒に寄りかかってませた噂話に耽るミニスカの群れを確認していると、彼からノート・パソコンを押し付けられた。「文学極道」っていかがわしいサイト名だねって言ったら「さっき言ったやん」って返された。画面上に一条さんって人の作品名が並ぶ、 +++ 05-01-26 鴎(かもめ) 05-02-22 ふっとう 05-03-15 出産 05-03-24 見物 05-03-29 ニンゲン 05-04-21 ベロベロ 05-04-28 マクドナルドは休日 05-05-16 ミドリガメと父親 05-05-27 安息 05-06-16 祖父はわっかにつかまって 05-08-11 ユーフラテス 05-08-16 ローリング・ストーンズ 05-08-30 サマーソフト 05-09-09 あほみたいに知らない 05-09-22 コカコーラ 05-10-12 黒い豆 05-10-19 おしっこ 05-11-02 フルーツ 05-11-09 血みどろ臓物 05-12-12 改札 05-12-28 フィナーレ 06-01-10 nagaitegami 06-01-30 淀川22歳 06-03-09 I can’t speak fucking Japanese. 06-03-18 チャンス 06-03-30 かららまりり 06-04-11 サーカス 06-05-04 先生の道具 06-05-19 メアリー、メアリー、しっかりつかまって 06-06-06 バスケット・ダイアリー 06-06-21 helpless 06-07-11 小さい有色のボール 06-07-21 わたしは今日迎えます 07-01-11 町子さん(巴里子) 07-01-16 朗読(巴里子) 07-02-09 Save me, SOS 07-02-21 母のカルテ 07-03-01 milk cow blues 07-03-09 川島 07-04-06 正方形 07-04-11 こっぱみじんこ パート2 07-05-01 大根 07-06-26 ポエムとyumica 07-07-17 john 07-07-23 I have two beds. 07-11-28 カット、コピー(鈴木) 07-12-28 Miss World 2007(鈴木) 08-01-18 (無題)(もうすぐ。)(鈴木) 08-02-20 (無題)(テレビ局の人間が)(鈴木) 08-04-04 (無題)(ぼくがバスの運転手だったら、)(鈴木) 08-04-17 (無題)(丸の内のOLさんが)(鈴木) 09-01-07 ホーキンスさん 09-01-14 ラオ君 09-02-02 愛と歩いて、町を行く 09-02-10 (無題)(2月には雨の降るように、) 09-03-06 RJ45、鈴木、 09-03-30 「一条さんがやってくるわよ」 09-04-06 詩 In C(debaser) 09-05-13 (無題)(帰ってこない、と妻は言うので、)(debaser) 09-05-27 脈拍と海とケーキ(debaser) 09-06-26 god is may co-pilot(debaser) 09-07-14 帰郷(debaser) 09-07-30 (無題)(国道沿いの吉野家の看板に)(debaser) 09-08-22 SSDD(debaser) 09-11-06 (無題)(おっさんがええ感じで)(debaser) 09-11-26 FUTAGO(debaser) +++ ――なんか後半になればなるほどタイトルに「(無題)」が多くない? ――やけんその後ろに括弧で冒頭のフレーズを付けとるやろ。 ――そういうことを言いたいのではないんだけどね。あ、パンツ見えた。後ろについてる「巴里子」とかは? ――それは名義違いやね。一条さんって人は「一条」って名前が好かんかったらしいね。 ――そうなの? あ、ピンク。 ――いや知らんけど。でも今は「debaser」って名乗りよんしゃるよ。 ――じゃあ一条名義の最後の作品が「一条さんがやってくるわよ」なんだ!きゃははっ!やっぱ縞パンはかわいいね! ――なかなか皮肉がききよるし、デビュー作「鴎(かもめ)」もイメージされるね。ってパンツパンツうっさいわ。 ――タイトルの話に戻るけどさ、名前がタイトルの作品がなかなか多いね? ――唐突だな。そやね。これは投稿日順に並べただけなんやけど、07年以降多く感じるね。 ――06年の「チャンス」はあだ名だけどさ、これが一条さんって人の名前タイトルの始まりと言えそうな気がする。 ――「チャンス」 ――「メアリー、メアリー、しっかりつかまって」 ――「町子さん」 ――「川島」 ――「ポエムとyumica」 ――「john」 ――「ホーキンスさん」 ――「ラオ君」 ――「RJ45、鈴木、」 ――「愛と歩いて、町を行く」 ――「「一条さんがやってくるわよ」」 ――が、挙げられる?  ――「鴎(かもめ)」から「FUTAGO」までの66作品中11作品が名前を含んどるけど、 ――「メアリー」と「愛と歩いて」と「「一条さんが」」はタイトル拝借やけん除外して、そうすると8作品か。 ――約六分の一って多いのか少ないのかわからんけども。  いつの間にか公園中の子供たちの数が倍になって夥しい子供たちがパソコンの周りにあたしたち二人の周りに集まってきていてとてもうるさいしドトールのコーヒーが薄くてぬるくてあたしの気分はとても最低だった。パソコンの隣で煙草を吸うと嫌な顔をする彼を無視してあたしはポケットからキースを取り出し火をつけて深呼吸するの。 +++  「つまり」から会話を始める人間が苦手で、それは「つまり」接続詞が何とも接続されていないことから感じる気持悪さなのだけれど、彼はそんなことお構い無しに「チャンス」から「RJ45、鈴木、」までの人名タイトルについて話し始めた。  13回目まで数えられた「つまり」を無視して彼の話をまとめると、一条さんって人の人名タイトルではタイトルに挙げられている名前の人物が死んでいることがほとんど、ということだった。無視された彼は周りの子供の一人に小銭をやって、何か温かい飲み物を買って来てくれないか、と頼んだ。おつりをお駄賃としてやると横柄に彼が言うと、だったら萬券よこせや、と二人の福沢諭吉が連れ去られてしまった。二人の福沢諭吉はそれを持った男子が隣の女子にもう一人の福沢を渡してしまったので離れ離れになって、福沢と男子と福沢と女子はそれぞれの配下の男子と女子を引き連れて公園の外の自動販売機へ左右に分かれて駆けていった。  つまり、「チャンス」では語り手の回想として「チャンス」というあだ名の男子が語られているけど「チャンス」という男子自体は詩の中に登場しないし、詩の中に登場しないという意味だったら「町子さん」も医者の前で病気と告げられるだけで語り手との距離の隔たりが心理的地理的にあったりなかったりしそうで、肩を叩くのがリストラのメタファみたいな「川島」ではリストラ=首切りみたいなイメージで社員である人格が殺されちゃってそうだし、「ポエムとyumica」の「yumica」は殴り殺されるし、人名っていうか犬名だけど「john」では表記違いの「ジョン」の墓が建てられてるわけで、墓が建てられるというか棺桶に入っちゃったり葬式の場面があったりするのは「ホーキンスさん」で、「ラオ君」はいじめからの自殺が匂わされているようだし、「RJ45、鈴木、」は父である「わたし」と「鈴木」の恋人である「あたい」が相互に語り手になっていて「RJ45」ってのは父のつけた「鈴木」のあだ名でスペースシャトルと七夕のストーリーが地球と宇宙の往還みたいになって兜はそれの目印みたいでなんだかわけわかんないけどなんだか知らないうちにほっこりしてしまうけど、でも妻と義兄みたいな不穏な結びつきは「あたい」と「鈴木」が結ばれないことの暗示にも見えて最後に「死にたくなくなくない?」ってオチつけちゃうあたり死の匂いがするんよね。ソーファーソーファー。  彼が寒いと言うのであたしの飲みかけのドトールを一口飲ましたったけど冷たいって文句ばかり言うからあたしの唾でも舐めてたら?って挑発したらキスしてきたので殴ってやった。唇にはいつも煙が溢れている。カモン、カモンと鴎は空を飛び交っている。そうこうしているうちにパソコンはミドリさんって人のレスを映し出し、男子は大量の缶コーヒーを買って帰ってきて、女子は大量の缶コーヒーを貰って帰ってきた。缶コーヒーのほとんどが空っぽだったけど彼とあたしはそれぞれ未開封の缶コーヒーをもらって温かく飲んだ。一本一万円の缶コーヒーの味がする?ってあたしが訊くと彼は神妙な顔つきだったので煙草の煙を吹きかけてやった。煙はいつもわっかになってあたしたちの周りに溢れている。カモン、カモンとさっきより四倍になった子供たちの何人かがわっかになったそれに つかまった。 +++ ?新聞紙で兜を作るという”昭和初期”の習慣を「今っぽく」見せようとする話者と、その状況的な面白さ。 ?みんなでスペースシャトルの打ち上げを見守った後、「うちゅうがどこにあるのかだれもしらない」などといったナンセンスとイノセンスの同居。 ?「ボストンバックにありったけの下着を詰めこみ」誰だってロードムービーみたいな旅をしたいと「あたい」に謳わせる”無頼派”としてのポエマー=一条の鏡像とロマン。 (ミドリ・レス、一条「RJ45、鈴木、」) * わたしは新聞紙で人数分の兜をこしらえてみんなの頭にかぶせた、なんかスイ カ割りでも始めちゃう気っすかと言って鈴木は兜の位置を今っぽく整えた、お 父さんも興味がなかったりあったりなんかしてとRJ45に言われてわたしは、今 っぽく赤面したが、RJ45にはわたしの思うところの今っぽさが伝わらなかった ようだ スペースシャトルが打ち上げられる時間になるとみんなが空を見上げていた、 ななじななふん、だけども、うちゅうがどこにあるのかだれもしらない、 あたいは鈴木のことがすごく好きだよ、汚物にまみれても鈴木を見てると胸が クソになるくらいときめいて鈴木がなしじゃ到底やっていけないって本気で思 えてくるんだ、そんで鈴木に会えない日は「鈴木がなし」ってパソコンで入力 して画面に浮かび上がる鈴木をずっと見ているんだ、そうやってるとまるで鈴 木がそこにいるみたいで鈴木に話しかけたくなって、 娘が連れてきた男はとんでもなかった、妻は台所でキッチンをして義兄はいっ ぱしの男を夢見てあれやこれやをいじっている、はじめまして、鈴木と申しま す、外資系の証券会社でトレーダーやってまーす、ブルーンバーグの端末すげ え並べちゃってますよデスクに、 あたいはそれで大きな小窓を作った、先っちょがとんがってて何よりも鋭いの、 その小窓から外を眺めると祖父でも祖母でもない人たちのオバケが声をそろえ てソーファーソーファーってなかよく歌っている、なるほど歌声には生きてる も死んでるも関係ない、それにしたってソーファーソーファーと繰り返すだけ の歌をああやってずっと歌っているのはオバケだからやれるんだ、なんてタイ トルの歌なのかしら、あたいだって近頃はうまく暮らしてるんだから、あんな 歌を歌うくらいいちころよ、ソーファーソーファー、ほらね   音楽作って金稼いでモデルと結婚しよう   そんでパリに越してヘロイン打ってスターとファックしよう                            Time to Pretend 鈴木ってありふれた名前だしわたしは鈴木をRJ45と呼んでみようかなと思って いるんだ、わたしがRJ45と呼ぶからといっておまえは今までどおり鈴木で通せ ばいいし、RJ45が気に入ったなら気兼ねなくRJ45と呼んだっていい あたいはボストンバックにありったけの下着を詰め込んだ、だれだってロード ムービーみたいな旅をしたい でもね鈴木あたいも近頃詩を書いてるんだよ鈴木が書いてたみたいに鈴木のま ねをして詩を書いてるんだ、なんで詩を書きたくなったのかわかんないけど鈴 木の詩を読んで単純に泣けてきたんだよあたいも鈴木みたいな詩を書いてあた いの詩が誰かをあたいみたいに泣かせることができたらいいなって鈴木に話し かけたんだでもね鈴木あたい唐突だけど、 テレビは小春日和だかの特集で芸能人が秋葉原で起きた事件を神妙な顔で読み 上げている、妻は押し黙って義兄となにかはじめるようだ、まあ、それくらい わたしたちの目の前に現れたこの鈴木って男ときたら なながつななにちにたなばたつめがあたいが詰め忘れた一枚の下着のほつれを 機織りで補修している、あたいは出来上がるのをそばで待って、知らないうち に眠ってしまった、機織りの音が鳴り止むと、あたいは目を覚まし、下着がす っかり元通りになっていた あたいは鈴木とつまるところで恋人っぽく抱き合った、鈴木はがらにもなく照 れてあたいは幸せだった、あしたはあたいが生まれた日だよって言うと、鈴木 は恥ずかしそうに笑った、なんでそこで恥ずかしがるのよとあたいは鈴木を問 い詰めた   なんにも経験していない青春時代を思う   ばかばかしくて楽しかった そんでとても素敵で若かった                              Salad Days その時間になると、みんなで空を見上げた、あたいはそわそわして鈴木もそわ そわした、ねえねえそれって降りてくるのそれとも。妻は義兄のそばを離れな かったけれど、わたしに言わせればそんなことはどうでもいい。みんながわた しのこしらえた兜をまだかぶってくれているのだ、 トントン、トントン、トントトン、 あたいは元通りになった下着もボストンバックに詰め込んで家を出た、鈴木は あいにく待ち合わせ場所には来なかったけど、あたいはいつも理由もなく幸せ だった、だけど、死ぬかもよってだれかに言われたら死にたくなくなくない? (一条「RJ45、鈴木、」全文) +++  言葉が水にひたされている。どこから流れてきた水なのか、水はとても黒かった。飲みなれない缶コーヒーを吐き出しながら、男子の一人が「RJ45、鈴木、」を朗読した。  「RJ45」ってのをダーザインさんっていう人は「パソコンのコネクタ呼ばわりされてる鈴木」と読んでるし、父親である「わたし」にとって「鈴木」はとんでもない男みたいだった。「スイカ割り」に「兜」は必要ないし、「兜」は頭蓋を守る為のものだし、頭蓋がわれたら赤いのーみそとかがでんでろりんと出てくるから、なんとなく割れたスイカみたいだなって思ったりするよね。  「スペースシャトル」は宇宙へ行くための乗り物で、その行き先はいつだって宇宙なんだろうけど、その打ち上げを見守ってる人たちだって宇宙へ行く乗り物って知ってるんだろうけども、ミドリさんっていう人が「ナンセンスとイノセンスの同居」って指摘してるみたいに、「うちゅうがどこにあるのかだれもしらない。」てのは、あたしたちがいるところとは別に宇宙ってのがあるみたいに言ってるけど、あたしたちがいるところがすでに宇宙じゃないって何で言えるのさ。  たとえば、誰かを好きになるってことは、そんな風に自分の立ち居地を「だれもしらない」って気付いちゃうようなゆさぶりみたいなもんに似ていて、だから「兜」で何かを守った気にしたいし、「汚物にまみれても鈴木を見てると胸がクソになるくらいときめいて」、内も外もくそまみれになったって構わないって気持にさせられちゃう。  「妻/義兄」、「あたい/鈴木」、「わたし/RJ45」ってペアを組んで、七夕から「織姫/彦星」みたいなペアも想像して、結ばれてるけど結ばれない、結ばれてないけど結ばれてる、そんな関係を想像して、それってどんな関係だろうと考えてパソコンのコネクタとかそれをつかった「大きな小窓」とかインターネットであたしたち送信してるのかされているのか、結ばれてるけど結ばれない、結ばれてないけど結ばれてる、そんな感じ?生きてる?ソーファー?  そんな風にのーみそ垂れ流すみたいにあたしたちみんな結ばれてんのか結ばれてないのかわかんないんだけど、「詩」ってものを書いて晒しちゃうことがなんとなく以上に恥ずかしいと思うし、テレビのニュースでは血を流して死んでしまった人が番組として流されていて、まったくの他人の生き死にが情報としてあたしたちと結ばれてんのか結ばれてないのかわかんないんだけど、「ほつれた下着」が直れば「あたい」はそれを履けるし、男の股間のコネクタは薄い布一枚で接続不可能なの?  だからさ、「理由もなく幸せ」でも「死ぬかもよって言われたら死にたくなくなくない?」ってさ、「死ぬかもよ」って言葉が結ばれちゃったの結べなかったのどうなのよどっちなのよ。「兜」でのーみそ守りきれずに、どこかのだれかにぜんぶ送られちゃったの?  ――どんだけ馬鹿やってくれるかなーという他人の期待にこたえて馬鹿をやるほどぼくは馬鹿じゃないんですが、というか、そういう馬鹿にはなりたくないと思いますが、残念ながらぼくは馬鹿なんじゃないでしょうか。  わっかにつかまえられた男子は空に浮かび上がって行くにつれて、少年から青年になって壮年になって老年になった。隣では「兜」をかぶった女子が同じように浮かび上がって、老年になった。ソーファーソーファーと祖父でも祖母でもない二人は歌いながら空を飛び交っている。そのうち一羽の鴎が二人を捕まえているわっかを突き破るだろう。 +++ これはすごく、「0」に近いよな。 なんか、対象の不在を証明する記号。ここには、というか、なんだ、なにもありませんよという、サイン。 難しい事だけど、分りやすいなあ。ホントに。すごいなあ。「0」はこえーなあ。 (Ezra・レス、一条「ラオ君」) * あー、尊(みこと)ちゃんのお母さん、久しぶりやね、いやん、あいかわらず元気よ、そんでね、今度の水曜日、森本先生が見せてくれる言うてるねん、算数の授業、そうやねん、あけみ、算数いっこもわからんわーって言うから、心配なって電話したら、B組やったらええですよって、そうなんよ、A組はさすがにね、そんでね、B組やったら尊(みこと)ちゃんもおるし、ラオ君もおるし、そうそうインド人の、えー、そうなん、ラオ君死んでもうたん、どこでよ、なんでー、ほんまに、うわあ、あけみそんなんいっこも言えへんから、なんでそんな死にかたしたん、いじめられとったん、いつからよ、えー、いややわー、ショックやわー、この前、ラオ君のお母さんダイエーにおったよ、あのひと、ラオ君のお母さんやと思うねんけど、ここらへんインド人なんてラオ君のとこだけやし、あー、でも、ほら、ちょっと前にラオ君のお母さんって駅んとこの本屋さんで万引きして警察につかまったんやって、警察よ、日本の、えー、知らんかったん、有名な話よー、警察に連れて行かれたん見たんよ、いや、わたしやなくて、旦那さんは知らんわ、あ、でも一回ダイエーの家電売ってるとこで会うたことあるよ、そうそう3階んとこの、えー、あそこつぶれたん、ほんまに、いややわー、ショックやわー、そんでね、だからつぶれる前よ、ラオ君もおったからこんにちはって挨拶したら、そう、変な日本語しゃべってたわ、新しい冷蔵庫をね、そう、なんか、サンヨーの冷蔵庫が壊れたとかなんとかで、新しい冷蔵庫をね、東芝のを買いに来たんやって、ちょっと怒ったかんじで、そうよ、そこにおったんよ、奥さんおったんよ、警察につかまる前やと思うけど、あれ、ほら、なんていうの、インドの服、着物みたいなやつ、そうよ、それよ、だらしないやつ、それ着ておったんよ、旦那さんはスーツかなんか着てきちっとしてたんやけど、そうやねん、カレーのにおいがすごいするのよ、カレーばっかり食べるのよね、インドの人って、そうなん、あけみ、そんなんいっこも言わへんから、家でラオ君の話なんて聞いたことないよー、訊いても言わへんもん、だって、そんな死にかたしたらふつうの子は言うやん、そうよ、わからんわ、わからないわよ、え、お墓、お墓でしょ、インドの人も、死んだらお墓やんね、いややわー、ショックやわー、そうやねん、いっこもわからへんねんて、算数、お墓ちゃうよ、尊(みこと)ちゃんは大丈夫やわ、かしこそうな顔してるもん、ほんとよ、旦那さんに似たんよ、男前やもん、ブルース・ウィリスに似てるもん、あんたちゃうよ、あけみはあかんわ、ラオ君に教えてもらえばよかったのに、算数、算数よ、万引きちゃうよ、わたし、そんなんよう教えんわ、ぜったいそうよ、でも森本先生も困ってはったんちゃうかな、ラオ君、算数の時間、ずーっと目つぶってるねんて、ほんとよ、ずーっとよ、知らんかったん、有名な話よー、最初から終わりまでつぶってるねんて、そんでいつもテストは100点なのよ、そうよ、気持ち悪いのよ、そういうこともいっこも言わへんのよ、痛かったやろねー、そうそう今度の水曜日、B組ね、B組のほうよ、あけみはあかんわ、わからんわーばっかり言うてるのよ、算数よ、ラオ君ちゃうよ、なんやいうたら、算数わからんわーって、そればっかりよ、もうね一日中、わからんわーわからんわー言うてるのよ、いっこもわからんわけないわよね、なんかわかってるはずなのよ、そうよ、ぜったいよ、尊(みこと)ちゃんはわかってるのよ、あけみもほんとはなんかわかってるはずよ、そうよ、わかってるのにいっこも言わへんから、そういうことは、いっこもよ、そうよ、算数いっこもわからんわーって、ほんとよ、いややわー、ショックやわー、しっこもれそうやわー(一条「ラオ君」全文) +++  順調に上昇していた別の女子は二人組みでいい感じにおばはんになると、わっかの煙からお腹の肉や背中の肉をはみ出しながら順調に噂話をはじめたようだ。  すべての「尊(みこと)ちゃん」にルビは振られて、ルビは失敗して括弧に括られているのであるが、「(みこと)」は括弧の中で窒息もせずに生き続けているので、会話の中で名前だけが脈動している、それゆえ死んだ「ラオ君」もまた噂話の中だけでは生かされ続けているようで、固有名詞はEzraっていう人が言ったみたいに「0」みたいになってる(?)  やけん「ラオ君」が死んだのも「ダイエーの家電売ってるとこ」がつぶれたのも同様の「ショック」しか受けんし与えられんし、そんなん全部噂話やし「あけみ」は一つも話してくれないし、「わからんわー」「算数わからんわー」って「0」やったら何をかけても「0」やしね、話かけても「0」なんやろうねどうなんやろうね。  インド人の「ラオ君のお母さん」は万引きして日本の「警察」につかまったらしいんやけど、インド人の「ラオ君」は死んだら日本のあの世に行くんかな(?)これってナンセンスとイノセンスの同居か知らん。  あー、「しっこもれそうやわー」ってあたしたちの上空で老年に近付いてってる女子どもが言うので見あげたら水玉のパンツを二人とも履いていて、おばはんのパンツ見上げてもつまらんねって彼が言うので彼には教会に行ってもらったら、やっぱり教会はおしっこまみれで、世界は真暗闇で、おしっこはじょろじょろじょろと流れているようだった。公園の周りのあらゆる走路はすべて妨害されていて、上空でわっかにつかまっている老夫婦はお互いのアイスキャンディーを舐めさせあっていたようだった。  彼が教会に行ってしまったのであたしが代わりにノート・パソコンをいじっていたらまだわっかにつかまっていない女子たち男子たちの何人かが今度はわたちたちが朗読したいというので一条さんって人の別の詩を読ませてあげようとあたしはダブル・クリックを。ダブル・クリック。をを。 +++ そうですね、これを書いているときにはゆらゆら帝国の「空洞です」という音楽が 擬似で流れてましたね。  おれは空洞 面白い  バカな子どもが ふざけて駆け抜ける   おれは空洞 でかい空洞  いいよ くぐりぬけてみな 穴のなか  さあどうぞ 空洞 たとえれば、バカな子どもがくぐりぬける空洞になりたいし いっぽう、空洞をくぐりぬけるバカな子どもでもありたい、とも思うのですよ。 (一条・レス、一条「ホーキンスさん」) * この詩を読むという行為は、座り込んで石を並べている一条さんの向かいに同じように坐って、僕もじっと石を並べるのを見ていることだったような気がします。 (右肩・レス、一条「ホーキンスさん」) * (1) ホーキンスさんの顔はくしゃくしゃだった。ホーキンスさんをみているとこれくらいの年齢で人生を終わるのが楽ちんかもしれないと思った。外はまっ白になる一方で夕暮れになるとみんながそそくさと帰ってしまうこともしかたがないと思った。ホーキンスさんが眠りにおちるとあたしはアメリアを抱いて病室をあとにした。帰り道に厚手のコートが落ちていたらアメリアをほうりだしてあたしはたぶんそれを手にとってしまうような気がした 暴力団は水曜日になると決まった時間にやってきてあたしの家の近くでどんぱちをはじめた、あたしは人生のステップアップのために役に立つ資格をとろうとしてるんだけど、どんぱちが始まると勉強どころじゃなかった。それよりもあたしが言わなきゃいけないことは試験問題がじぜんにもれてたってこと。それはずいぶんとあとになってわかったことだけど、そのせいであたしの人生が台無しになったなんて嘘みたい (2) ホーキンスさんが病院でなくなってからあたしは毎日夢をみた。銃声がきこえて銃弾があたしの頭をかすめたり、銃声がきこえて銃弾があたしの頭をかすめたり、銃声がきこえて銃弾があたしの頭をかすめたり、銃声がきこえて銃弾があたしの頭をかすめたり、銃声がきこえて銃弾があたしの頭をかすめたりした。夢の中で起こることだってすこしくらいは現実になるのかしら、 (3) アメリアは生まれたばかりの赤ちゃんだった。そしてアメリアはいまのあたしと同じ年齢になってそのころには午後三時にどこかへ出掛けるのがあたしたちのかずすくない日課でデパートの特売セールで購入した冷蔵庫が壊れた時に二時間くらい遅刻してやってきた修理工と結婚して生まれたのがアメリアでだけどもなんてことはなくてあたしは彼女にそのことは何度も説明した。だからといってあたしたちのあいだがぎくしゃくすることはなかった、 あたしがいくつかの届出をおこたったせいでアメリアにとっては不都合なことがつぎからつぎへと起きた。例えば彼女には本当の名前がなかったし、それであたしはアメリアと呼ぶことにしたんだけど、なんかの雑誌の表紙にのってたモデルの名前を借りたのだ。アメリアにそれを言うと、いつか返さなきゃ駄目なのって言ってたけど、アメリアに返すあてがあるのかはわからなかったし、ほとんど迷惑に思われるに違いない、どっちにしても。 (4) ホーキンスさんの葬式が終わるとみんなはいちように退屈な顔で帰っていった。水曜日に葬式をしたのがそもそもの間違いなのだ。あたしたちは暴力団のどんぱちが気になってホーキンスさんの生前に思いをはせるまでに至らなかった。自分が死んだときには自分がどんな棺おけにいれられるんだろうってそんなことばかり考えてた。あたしもよとアメリアが言って、知らない女の子があたしもよとあたしたちのうしろから言ったのが聞こえた (5) ホーキンスさんが暴力団と敵対していたことは全国ニュースにもなったし世界中の誰もが知っている。それが原因でホーキンスさんは命を落としたのだ。 (6) 冷蔵庫の中には瓶がいくつかあって瓶の中にはピクルスがあった。それは家族のだれかの大好物でピクルスが合いそうなおかずの時にはあたしもよく食べたりした。瓶がからっぽになるとそれを冷蔵庫の中にもどして、あたらしい瓶がはいりきらくなってはじめていつくかのからっぽの瓶を捨てて、それを年中くりかえしているから冷蔵庫の中にはいつも瓶があった。そして瓶の中にはいつもピクルスがあった。 (7) けっきょく、試験には受からなかった。筆記試験は三回目に合格してそのあと七回つづけて口頭試験でうまくいかなかったから。あたしが出会った面接官は合計二人でそのうちの一人とは街で何度かすれ違って気安く挨拶なんかしてみたけど、だからといってそれだけじゃうまくいかないもの。そのとき、事実上あたしは人生をはんぶんあきらめた。人生のはんぶんがどこからどこまでか決めることはもっと複雑だけど、とにかくあたしは人生のはんぶんをあきらめることを決意した あたしはしばらく泣きそべった。だれのハンカチかしらないけどそれで涙をふいた。 (8) いわゆる遺産というものはだれの手にもはいらなかった。それはホーキンスさんの遺書にも書いていないし、あとから知った話でもなかったけど、だれもがそう思ったのだから本当なんだろう。 ホーキンスさんがなくなる前の日にあたしはアメリアをつれてホーキンスさんの病室を訪ねた。なんにんかの看護婦さんに囲まれてホーキンスさんはとても楽しそうだった。アメリアは大好きな詩を朗読してホーキンスさんにきかせ、そのときだけはみんなしずかにアメリアの声をきいた。 (9) 暴力団はどんぱちをやめなかった。 それでも暴力団はどんぱちをやめなかった。 (10) あたしはアメリアを寝かしつけるとドレスに着替え、家を出た。暴力団がどんぱちをやっていて、あたしは暴力団の中にはいって、 あなたたちのおかげで街はまえよりもずっとしずかになりました、ありがとうございます、感謝をしているのです、あなたたちがホーキンスさんと敵対していたことも知っているのですよ、ご存知のようにホーキンスさんはなくなりました、だからといってあなたたちがどんぱちをやめる理由などないというのもわかっていますしそれどころか気のすむまでおやりなさいなんてほんきで思っているのです、あたしは人生のステップアップのために役に立つ資格試験に何度もおちた女ですから、そんなおんながあなたたちの目の前でたいそうなことを言えるなんて思ってなどいません、だけど、今日があたしの人生の最後の日になる予感がしたんです、だからこんな色のドレスをあたしは着てるのです、考えてもごらんなさい、こんな色のドレスを正気で着れる人なんてだれがいましょうか、だけどもあたしはほんとうに正気なのですよ嘘とお思いなら撃ってくださいな、あなたたちがいつもやってるようなふうにあたしを撃ってくださいな、なにをかくそう、あたしは正気なのです、ただ人生のステップアップに失敗して、いまはこんなすがたなのにあなたたちになにかを言おうとしてるのです (11) その日は朝になってアメリアが目を覚ますと家にはだれもいなかった。ほんとうにここにだれかいたのかしらとアメリアは思った。もういちど寝ようとしたけどうまくいかなかった。もういちど寝ようとしたけどやっぱりうまくいかなかった。アメリアの部屋にはだれもいなかった。アメリアは起きあがるとホーキンスさんがむかしくれた手紙をつくえから取り出してよみはじめた。それはお母さんが昨日くれた手紙とまったく同じないようだった。アメリアは読みおわるとバカみたいって言ってもういちど寝ようとした、こんどはうまくいって、けっきょくバカみたいなのは(一条「ホーキンスさん」初出、全文) +++  朗読を終えた子供たちの周りでは朗読を聴いていた子供たちが喝采の拍手を行っており、鳴り止まぬ右手と左手の悲鳴を背景に死んでしまった一人の男子をホーキンスさんに見立てた葬儀が粛々と公園内では執り行われていた。  彼女は相変わらず煙草をわっかに吐き出し続けていて足元には吸殻が教会に行く前より増えているから、僕はおしっこに濡れた靴やズボンの裾のべとべとを意識的に無視してさっきよりも八倍に増えた子供たちの群れに入っていった。  公園の地面には水玉の影がいくつもできていて、見あげると水玉のパンツがいくつも浮かんでいる。  今日は水曜日なので公園の右側と左側に子供たちは分かれてどんぱちをはじめた。真ん中には顔をくしゃくしゃにされた「ホーキンスさん」役の男子が横たわっている。固有名詞は「0」で、それを中心にまわりはどんぱちしているけど、そのどんぱちだってルーチン・ワークに過ぎないのだ。  僕は立ったまま眠る自分の特技を思い出し、夢の中で「ホーキンスさん」役の男子に近付いていったり、夢の中で「ホーキンスさん」役の男子に近付いていったり、夢の中で「ホーキンスさん」役の男子に近付いていったり、夢の中で「ホーキンスさん」役の男子に近付いていったりした。空洞の周りで子供たちはどんぱちしているし、どんぱちしている子供たちもまた空洞だった。  眠っている僕に気付いた彼女が一人の女子を連れてきて「彼女がアメリアよ」と言って僕に紹介したけれど、僕と彼女はいっかいもそういった行為にいたったことはないし、きっとこれから先もそういった行為にいたることはないのだろうと思うので、彼女は「アメリア」役に過ぎないわけで。  借り物の名前は借り物固有名詞で、もしかしたらそれは「0」を免れているのかもしれなくて、「アメリア」役の女子はいつか「アメリア」に自分の役柄を返さなくちゃならないんだろうけれど、返せるってことは「0」じゃないってことじゃないかしら、とは彼女の言葉だった。あたしもいつかあたしの役柄を誰かに返さなくちゃいけないのかもね、あたしはまだ返す宛てを見つけてないや、と彼女が続けると、あたしもよ、と知らない女の子が僕たちの後ろで呟いた。 リンリン、リンリン、リンリリン、  鈴の音のように知らない女の子は言う。冷蔵庫の中に瓶がたくさん入っている様を想像してほしい。どの瓶の中にも一欠けらのピクルスも入っていないのだとしたら、冷蔵庫の中は空っぽでいっぱいってことじゃないのかな。  充填された空洞を子供たちが体現している。子供たちを充填された空洞が体現している。男子も女子も色とりどりのパンツだったが、どいつもこいつもつるっつるで空っぽだった。浮遊する水玉は公園の空を飛び交っている。カモン、カモンとはびこっている。どんぱちをくぐりぬけて「ホーキンスさん」役の男子にようやく近付いてみると棺桶は冷蔵庫で代用されていたのだった。  僕は試験に落ちたことを思い出す。スキルアップのための資格試験を受けたのだけれどなんのスキルをアップさせたかったのか今となっては覚えていない。そうやって何かのスキルが知らないうちにアップされていれば社会は僕という個人を認めてくれたのかもしれない。試験に落ちるということは社会に認められないということだろうか。わかんないけど、少なくとも試験官の準拠する合格基準には認められなかったことは確かだ。認められなかった僕の半分側をあきらめたら、もう半分側はなんだろうか。人生のもう半分ってなんだろうか。  人生っていうのが生まれてから死ぬまでの間だけだと考えられてるけど、誰かの話題にのぼっている限りはその話題の中だけでも生きているのかもしんない。人は人から忘れられたときに初めて死ぬのだ。そんなインチキ・ハード・ボイルドみたいな台詞を言ってみて、死んだ後に人人の話題になることが人生のもう半分なんじゃないかって思ったら、遺産もなにもないって「ホーキンスさん」が言うのは、もう半分の人生もなかったてことなんじゃない?って「アメリア」役の女の子が僕の疑問に答えてくれた間だけ、公園はとても静かで、どんぱちはいつのまにか野球になっていて、攻勢の男子と女子も守勢の男子も女子もみんなそろって空を見上げていた。打ち上げられた白球が落ちて来るのを静かに待っていた。黙祷のようだった。  リンリン、リンリン、リンリリン、  その様子を見ていた知らない女の子は退屈そうな顔で滑り台の上に突っ立って公園を一回り見渡すと、バカみたいと言って教会とは反対の方角へ歩き出した。あたしも彼も見上げる子供たちも見上げられてる子供たちも誰一人「ホーキンスさん」の具体的な財産に興味はなかったのだが、誰一人そのことに気付かなかった。 +++ 読み進めるたびに脈絡はぶつぶつと切られては結びなおされ、切られては結びなおされ、浮かび上がってくる謎は、手がかりばかりが死ぬほど与えられて、読者はいつまでも肝心の餌にありつけないまま(まさに犬のように)、お預けをくらわされ続けるわけです。 (ヒダリテ・レス、一条「john」) * 私は、一条さんの作品はまだあまり読ませて頂いてないのですが、この作品を読んで感じたことは、この夫婦は「共犯者じゃないか」ということですね。 だって、私が「犯人役」になったり、妻が「犯人役」になったりするんでしょ? もっとも、この小説?の中でも、私は何回も「書き直し」をしているワケですから、「犯人」なんて、ホントは最初からいなかったのかもしれない、そういう解釈も出来るワケです。 (はるらん・レス、一条「john」) * のっけからヤラれたよ。犯人が「身代金を用意しました」て電話してんだよ ね。人間関係(犬を含む)、小説内の虚構と現実、時間、生と死、すべてが 揺らいで一定しない。そんな状態でキチンと作品になってんだから、エラい ね、一条さん。 一定してる部分が何カ所か。ぼくの気付いた事柄を箇条書きに。 1)葡萄の中身。 2)小説を書くのは、私。 3)歌をうたうのは、妻。 4)犬の名前は、ジョン。 5)ちんこ。(人類は先天的に下ネタが好きなのですw) この中では、1)の「葡萄の中身」のキャラが立ってないのが、残念です。 せめてビジュアル的な描写がいくつかあれば、作品内での葡萄の中身の立ち 位置が決まるのにな、と思いました。 (Canopus(角田寿星)・レス、一条「john」) * この作品は構造として全てが破綻している。ぐっちゃぐたなんです。内部に柱はいくつも通っている、でもその柱って全部が点で勝手な方向に据えられてて、「これで家なんか立つわけねーよ」「あれ?立ってるよ?」みたいなオモシロさがある。 (ケムリ・レス、一条「john」) * >身代金はどこかに用意されたまま、例年より冷たい冬の空から雪が落ちてくるのを、私は妻とベランダで寄り添いながら眺めた。 ここらへんはですね、地味ですが、ぼく的には、この作品のキーのパーツになるわけで、この描写がなければこの作品は成立しない、くらいの思いはあるんですが。思いはあるんですが、意外と、そう思われてないんじゃないだろうか、ということに最近気付き始めまして、中身がないって言われることに関しては、まったく動じないんですが、中身がないと言われて、いや、一応中身はあるんですよ、というのもね。中身が陳腐なだけで、中身がないということではない、ということをこの場を借りて言わせてください。 (一条・レス、一条「john」) * 四つに区切って解読していくといいと思います。 〜誰にも読まれなかった。 〜名前を与えないようにした。 〜問題ではない。 〜ラストまで まず一つ目では小説が印刷された春夏秋の半分が冬であるというのを「妻が歌を歌う」ということでばらしていく。。二重構造になっていて、そこには伏線として犯人との会話が置かれてます。 二つ目では、「二人でワンと〜骨をなめる」 これがどういうことか書かれていく。 二つ目も〜ジョンであることをあかした。で二つに割れていて、ここでは「犯人」(葡萄の中味にこだわる)に近付こうとします。 三つ目は1と2を繋げて、死にそうな犬が死んでいた。破綻している。と、まず大きくふりかえり、(自作に批評) そのあとモニタ‐越しの世界だとばっさり切り捨てるではなく、手厚く十字架をたてる。全てを妻が包んでくれていたと感じる。 これで終らずに四つ目に一条さんはいくんですよね。決着をつけに。。 建ってある建物は図面に絶対おこせますよね。大黒柱は「一条さんの、奥さんへの愛」でしたか。ナンチテ。 (匿名・レス、一条「john」) * 身代金が準備されたと犯人から電話があり、住所名前年齢職業全部を言わされた挙句、犯人は私にすっとんきょうな質問をした。君は葡萄の中身に興味があるかと訊かれ、私は事態が悪化するのを防ぐ為に、葡萄の中身には興味があると答えた。犯人はしばらく沈黙した後、死んでしまいそうな犬を飼っている話を始めたのだが、犬の名前と種類が明かされるまでに数十分も経過し、犯人は私の少しまごついた様子を察知したのか、電話は乱暴に切られた。階下からは妻のうわごとのような歌が聴こえ、春夏秋がちょうど半分になった頃、私は書き終えたばかりの小説を印刷した。紙に印刷された小説を私は何度も読み直したが、ひどく退屈な内容だったので、妻には読ませなかった。それ以来、妻は葡萄の中身を丁寧に櫂棒ですりつぶし、庭に植えられた観賞用の花々とともに食卓に添え、やはりうわごとのような歌を歌うようになった。特に例年よりも冷たい冬になると、その歌は私の耳には必ず聴こえてきた。書き終えたばかりの小説の冒頭には、それらのことが事細かく書かれているのだが、私の小説は誰にも読まれていなかった。眠れない日が増え、夜更かしをした翌朝に私たちは、ワンとふたりで吼え、道端に落ちていた生き物の骨をすみからすみまで舐めまわした。妻は喜んで犯人役を演じたが、私は葡萄の中身には興味がありません、と答える日もあった。そのことに激昂してしまった犯人が、いきおいあまって犬の名前がジョンであることを明かした。その日の夜、数年前に庭にこしらえたジョンの墓が何者かに荒らされ、明日私が妻に代わって犯人役をするのであれば、ジョンの墓を荒らした真犯人を突き止めなければいけない、と私は書き終えたばかりの小説の脚注欄に書き足した。私は紙に印刷した小説を最初から読み直した。最後まで読んでしまうと、冒頭部分が完全に破綻していることに気付き、ジョン以外の登場人物には名前を与えないようにした。テレビは人質が射殺されるシーンを繰り返し、ジョンを救い出した警官がやはり何者かによって射殺された。私と妻は、彼らが射殺されたビルの屋上に挟まっていた鉄パイプを二本引っこ抜いて、それで巨大な十字架を作って、ジョンの墓のそばに飾った。私の横で手を合わせている妻が、犯人だろうが犯人でなかろうが今はたいした問題ではない。やがて取材を申し込む人間が私の家にあふれ、そのうちの半分の人間を私たちは応接間に閉じ込めた。餌を与えなければ、あいつらっていつまで生きるのかしら、と妻はつぶやいた。身代金はどこかに用意されたまま、例年より冷たい冬の空から雪が落ちてくるのを、私は妻とベランダで寄り添いながら眺めた。後は、私が、死んでしまったジョンのように前脚を高く突っ撥ねて、腰を激しく振りながら、妻に覆いかぶさるだけだ。私は左のポケットから三本目の前脚を取り出しそれを真ん中にして回転しながら、後ろに積み重ねられていく手掛かりに焦点を合わせ始めた。(一条「john」全文) +++  鴎は公園の空を飛び交っていたがついにわっかにつかまった祖父や祖母や祖父でも祖母でもないものたちを突き刺した。いっせいに破裂する夥しい数の水玉のパンツはいつのまにか公園を蔽い尽くしていて、攻勢と守勢を三度交代した暴力団の野球チームはタイムアウトをとって落ちてくるものを待った。  ソーファーソーファーと歌いながら砂場の近くの家に入るとあたしと彼は誘拐されていた。身代金は「犯人」が準備してくれていたのであたしたちは安心して誘拐されたけれど、知らない女の子が「葡萄の中身の興味があるか」と訊いてくるのであたしは葡萄に中身があるのなら外見も気になるところよねと答えた。女の子は沈黙して頭を振ると首につけていた鈴が鳴った。  「死んでしまいそうな犬」について鈴を鳴らしながら女の子が語り始めたのでまごついていると、公園のベンチに取り残された彼のノート・パソコンに子供たちのうちの一人がどこかから持ってきたプリンターを接続しているところだった。そのうちここまで印刷しにかかるだろう。葡萄の中身について考えていると、冷蔵庫に埋葬された「ホーキンスさん」役の子供が空洞だったらしいとの噂が聞こえた。  ほんとうに?ほんとうに中身はないの?激昂した女の子は彼の服を次々と脱がし始め全裸にしてしまうとあたしの服も脱がし始めた。あたしたち二人は誘拐されたので人質は人質らしく無抵抗にされるがままにしていた。ほら、中身はあるじゃない!と鈴の音と共に叫ぶと女の子はあたしたちの服をすべてもって家を出てしまった。きっと砂場の近くの砂漠に穴を掘って埋めてくるのだろう。  あたしたちは囚われているのに二人きりになったことで子供たちから解放されたように感じたけれど、翌朝には二人でワンと吼えた。あたしたちは犯人役と犬役を交互に演じて、この家の中にある身代金を探した。いつしかあたしたちはお互いのことを「ジョン」と呼び合い「john」でないことに気付いた。固有名詞は「0」じゃなかったかしら、とあたしが言うと、ほら、中身はあるじゃない!と彼が叫んだ。鈴の音はしなかった。  「ジョン」には墓場があったしだからこそ荒らされもした。あたしたちの埋められた服もどこにあるのかおおよその見当は付いているけれど、埋められてからどのくらいの時日か経過したのか知らない。でも「john」の墓はどこにあるのだろう。名付けるということは、名前とその名で呼ばれる対象を引き裂くようで、そんな裂けるチーズみたいに「ジョン」と犬役のあたしたちはこの家に裸で存在していた。じゃあ、裂けたチーズの境目には「john」がいる気がしない?  「尊(みこと)ちゃん」のルビである「(みこと)」とは読みづらい文字を可視化することであるけれど、「john」と「ジョン」の亀裂は音を日本語で可視化するときに取りこぼしてしまうものを可視化しているように思える。「john」が「ヨハン」ではなく「ジョン」であることから、「h」の存在が印象付けられる。  ようやく空から白いものが落ちてきて子供たちは家の外できゃーきゃー騒いでいるけれど、全裸のあたしたちは寒さに耐えつつベランダで寄り添いながらそれを眺めた。身代金を持った女の子が鈴の音を鳴らすとあたしたちはお座りしていた。女の子はあたしたちに指示を出して、あたしたちはずいぶんと長いあいだ犬だったため、女の子の指示に逆らうことは考えられず、彼が、死んでしまったジョンのように前脚を高く突っ撥ねて、腰を激しく振りながら、あたしに覆いかぶさってくると、鈴子は彼にズボンを履かせ、彼は左のポケットから三本目の前脚を取り出しそれを真ん中にして回転しながら、後ろに積み重ねられていく手掛かりに焦点を合わせ始めた。 +++ yumicaちゃんを殺してしまうほど、可愛いとおもっている、主人公が、yumicaちゃんの読んでいるものが分からない。 でも、それに近づきたいと一生懸命に努力する。だけど、どこまで行っても、yumicaちゃん(理想像なのかしら?)の気に入るような、つまり、自分自身、気に入るようなものは書けないし、何にしても、どこまで努力しても、「天才」とか「名人」とか自分で思うようにはなれない。 (池中茉莉花・レス、一条「ポエムとyumica」) * わたしがブンガクゴク島にたどり着いたとき、そこは、無人の島だった。わたしは、長年連れ添った嫁を捨て、町で偶然拾ったyumicaを連れて島にやって来た。yumicaは、どちらかというと何も知らない女の子だった。わたしたちは一緒に島を探索し、寝床になるような洞穴を見つけ、そこで生活することにした。島での生活にも慣れた頃、朝、目が覚めると、yumicaの姿がなかった。しかし三日ほどして、yumicaは戻ってきた。どこに行ってたのかを尋ねると、yumicaは、これを拾ったのよ、と一冊の古びた書物をわたしに見せた。そこに書かれている内容は、わたしにはひとつもわからなかった。おそらく、ブンガクゴク島の住民が残したものに違いない。yumicaは、それを楽しそうに読んでいる。そこに書いてある内容が君にはわかるのかい、とわたしはyumicaに聞いてみた。全然わからないのよ、とyumicaは答えるのだが、相変わらず楽しそうに読んでいる。その晩、わたしは、なかなか寝付けなかった。昼間のyumicaの楽しそうな姿が目に焼きついて離れなかった。わたしは、yumicaが寝ていることを確認し、彼女のそばに置かれた例の書物を手に取った。わたしは、ペラペラとそれをめくった。やはり、わたしには、そこに書かれている内容がさっぱりわからなかった。翌朝、わたしは、yumicaに何が書かれているのか教えてくれないか、と頼み込んだ。だから、全然わからないのよ、とyumicaは答えるだけだった。わからないものが読めるわけないだろ、とわたしは、幾分いらついた口調でyumicaに詰め寄った。そして、わたしは、yumicaを殴りつけた。yumicaは、逃げようとしたが、わたしは、彼女を逃がさなかった。紐でyumicaの両手を縛りつけた。この書物にはなにが書かれているんだ、とわたしはyumicaを問い詰めた。三時間後、yumicaは重い口をようやく開いた。yumicaの説明が一段落すると、わたしは、yumicaを解放したが、彼女は力なくそこに倒れこんだ。死んでしまったようだ。しかし、わたしは、さきほどyumicaがわたしに与えた説明をにわかに信じることは出来なかった。それから半年が過ぎた。わたしは、例の書物をペラペラとめくることを日課にしたが、やはり、わたしには、さっぱりわからなかった。yumicaが説明してくれた「ポエム」というものが、まるでわからなかった。わたしは、yumicaの腐乱した死体を呆然と眺めた。そして、わたしは、不思議な夢を見るようになった。夢の中で、わたしは「ポエム」を書いていた。死んだはずのyumicaが、わたしの「ポエム」を読みながら、これは「ポエム」ではない、と言う。これは「ポエム」だと言い張っても、これは「ポエム」ではないとyumicaは言うばかりだった。君に一体「ポエム」の何がわかるんだい、と怒鳴りつけると、決まって目が覚めた。それから、半年が過ぎた。その間も、いやな夢は続いた。わたしは、夢の中で「ポエム」を書き、yumicaに読ませた。yumicaは、わたしの「ポエム」を読むと、これは「ポエム」ではない、と言うばかりだった。わたしは、yumicaを喜ばせるために、夢の中で無数の「ポエム」を書いた。こんなことを続けて一体何になるのかわからなかったが、わたしは、しつこく書き続けた。そのたびに、yumicaはこれは「ポエム」ではない、と言った。わたしは、目が覚めると、ブンガクゴク島の住人が書いたと思われる例の書物をペラペラとめくった。わたしには、そこに書かれている「ポエム」と、わたしが夢の中で書いている「ポエム」の違いが、まるでわからなかった。yumicaは、ここに書かれている「ポエム」を楽しそうに読んでいた。わたしは、ここに書かれている「ポエム」とまったく同じような「ポエム」を書くことにした。最初はうまくいかなかったが、少しずつ同じような「ポエム」が書けるようになった。それでも、yumicaは、これは「ポエム」ではない、と言った。わたしは、頭が混乱し、yumicaの両手をふたたび紐できつく縛った。わたしは、目が覚めると、例の書物を何度も読んだ。夢の中で、わたしは、「ポエム」を書いた。両手を縛られ、ぐったりとしているyumicaは、これは「ポエム」ではない、と言った。わたしは、「ポエム」を書き続けた。死ぬまで、書き続けた。わたしは、無数の「ポエム」を書いた。しかし、それはすべてが「ポエム」ではなかった。わたしは、夢の中で、「ポエム」を書いた。目が覚めると、わたしは、例の書物に書かれた「ポエム」を読んだ。わたしには、そこに何が書かれているのかまるでわからなかった。(一条「ポエムとyumica」全文) +++  シャワーを浴びて服を着ると、あたしは昇天した彼を家において外出した鈴子を追った。公園は真白く、どんぱちをしていた子供たちは雪合戦をしていた。半袖短パンの男子たちが鼻水をたらしながら女子たちを追いかけている。雪に濡れたシャツから透ける未発達の胸に興奮していたあたしは鈴子を追いかける為に教会とは反対の方角へ急いだ。  鈴子は公園から少し離れた昔からあるお寺の階段のところであたしを待っていた。紐で両手を縛りつけられた女の人が鈴子の隣でぐったりしている。ここで拾ったのよ、と悪びれる様子もなくぐったりした女の人を鈴子は蹴飛ばし、何段か下にいるあたしは鈴子を見上げる形で詰問した。  ねぇ、「ポエム」って何かしら?  鈴子は、yumicaと呼び掛けると、紐で両手を縛られた女の人が反応しないのでもう一度蹴飛ばし、yumicaと強い声で呼び掛けると、紐で両手を縛られたyumicaが反応しないのでもう一度蹴飛ばし鈴子は、yumicaと更に強い声で呼び掛けると、全然わからないのよ、とyumicaは答えるだけだった。  リンリン、リンリン、リンリリン、  鈴子は頭を振り舌打ちをするとyumicaの鞄をあさり一冊の本を抜き取ってその場にyumicaを置き去りにして階段を上り始めた。あたしは鈴子とyumicaのやりとりを煙草を吸いながら見ていた。ふっ、とあたしの吐き出した煙草の煙がわっかになって飛んでいく。鈴子はそれをひょいとよける。こういう動きが「ポエム」って言うんじゃないの?あたしにはわからなかった。あたしにもわかんないよ、と言って鈴子は手にしていた本をあたしに投げて寄こした。そこに書かれているものが「ポエム」らしいのだが、そこに何が書かれているのかまるでわからなかった。  置き去りにされていたyumicaの死体が腐乱し始めた。あたしはそれを呆然と眺めていたが、鈴子が歩みを止めないので、煙草を咥えたまま一足飛びで階段を上った。  「ポエム」ってのが、「そこに何が書かれているのかまるでわからない」という条件を満たしているものだとしたら、それを読んで「全然わかんない」というリアクションはそれが正しく「ポエム」であったという証左でしかなくて、という考えは間違いで、「そこに何が書かれているのかまるでわからない」という条件を満たしつつ「楽しそうに読まれる」ものが「ポエム」ならば、「ポエム」は「読む」という行為のなかにあらわれてくるようで、同じ「ポエム」を読んでもyumicaは「楽しん」でいたけれど、「わたし」は「わからない」という一つ目の条件につまづいて、それで「楽しめ」なかったため、同じ「ポエム」を読んでもyumicaと「わたし」は異なるリアクションで、それゆえyumicaは殺されて、されば「楽しむ」主体は殺されて、「わたし」は殺してしまった「楽しむ」主体を夢の中で再生産・再殺害しながら「ポエム」ってるけど、「ポエム」ってるって何?だって「わたし」は「楽しめ」ないのだから「わたし」にとって「ポエム」は端的に「まるでわからない」ものであるし、yumicaの「楽しめる」ものと「楽しめない」ものとの違いも「まるでわからな」くて、そもそもそういった違いって言うのはどういう風にアプローチすれば明らかになるのだろうかと考えるけれど、ようは言葉と言葉がどのように関連付けられて配列されているのかというアプローチとそういった配列に期待されている機能や効果といったことを考えなければいけないのだろうけれど、一条さんっていう人の作品を言葉の配列に注視してみてみても正直あっちょんぶりけよね、といったことを考えながらあたしは鈴子に追いつくと振り向くように指示された。下のほうで小さくなったyumicaが真っ黒な何かに覆われていた。 +++ スポーツの「ボーリング」を、地盤調査の「ボーリング」へと意味を滑られせていくことで、窓際族の「川島」君を巡る「肩たたき」と、その社内の戦々恐々とした感じを、ミニマリズムの濃いシルエットを、その鍔の広いシルクハットでかざしながら。優良中小企業の、実に安定した職場環境の実態を、巧みなコノテーションで描いていく。新車に、助手席のパンツとか。笑 (ミドリ・レス、一条「川島」) * 予言する男は あらわれなかった 鬼のような形相 肩叩き リンリン もしもし 名指し どこもかしこも木っ端みじんだなという顔をすれば 僕達は助かるかもしれない 自分の中では こんな感じにイメージが流れました。 川 島 シシャモ となんとなくなじんでいて リンリンと もしもし もひきたつのがいいなあと思います。 (砂木・レス、一条「川島」) * 川島みたいなやつは、鬼のような形相で会議室を後にした。前の日も次の日も、予言する男は現れなかった。宛名書きの仕事は、これでおしまいだ。なあ川島、と川島は肩を叩かれ、おまえは、カワシモじゃないもんな、と再び肩を叩かれた。新しい彼女が出来ちゃったもんで、今度一緒にボーリング場に行かないか、と誘われた川島は、ボーリング場に行ってもいいですけど、ボーリングというのはやらないですよ、と言った。携帯電話がリン・リンと鳴った。その携帯、おまえにやるよ、と言われたら、川島はどうやって答えればいいのかわからなかった。こんな場所にボーリング場があるわけがないという場所でシシャモは、車から降りた。新車ですが、助手席に座っている女は正面から見たらパンツが丸見えで、ここで、ブレーキ。そこは、ボーリング場。川島に聞かなければいけないことは他にもいくつかあって、携帯電話がリン・リンとなった。川島は、もしもしと繰り返しているカワシモに声をかけようかどうか悩んでいる。ここで、ブレーキした新車は、ボーリング場を後にした。ボーリングなんてやってられるか、いえねえボーリングはやらないですよ、と釘をさされたことについて、電話の相手にくどくどと愚痴ってるようだ。電話の相手は、おれじゃないよな、とシシャモが、川島の肩を叩いた。肩を叩かれたいわけではない川島は、肩を叩かれた場合にどんな顔をすればカワシモ君に気持ちが伝わるか考えていた。シシャモも同じ悩みを抱えていたが、肩を叩かれるのは、真昼間だ。ブレーキしている新車は、病院に直行して、腱鞘炎に悩んでいる女を一人拾って、カーブの向こうに衝突した。あの時、川島が助手席に居合わせたなんて、会社の誰もが知らないはずだ。ボーリング場近くのレストランで予定されていたカワシモの送別会は、腱鞘炎が悪化し延期となった。その知らせを聞いたカワシモは、ボーリング場近くの倉庫で発見されたが、シシャモさんのパンツが丸見えの件について、社内では意見がふたつに分かれた。もうシシャモの居場所は、なくなったようなもんだ。川島は、宛名書きの仕事を再開し、今度、ボーリング場に行ったら、それでもボーリングはしないことにしたが、ふたつに分かれた社内を、びゅんと新車が横切った。川島の声で、びゅんと横切った。カワシモさんの声、と女子社員がかしこまって言った。シシャモは、それはおれじゃないおれじゃないと、首を横に振り、パーティションで区切られてしまった川島の肩を、カワシモが叩いた。これはただの肩叩きじゃないのだからな、とシシャモの声で、川島は涙をこらえている。予定されていた会議は全てキャンセルされ、ねえこのあとどうするの、と聞かれたカワシモは、川島を指差した。近頃の世の中は、どこもかしこも木っ端微塵だな、という顔をすれば、ぼくたちは助かるのかもしれない、と川島はどうやら本気で思った。(一条「川島」全文) +++  「川島みたいなやつ」からはじめている。  したがって、  「川島」も、  「カワシモ」も、  「シシャモ」も、  その音の横滑りによって、  同一人物であるかどうかの不確定な揺れを、  「川島みたいなやつ」  というはじまりに託している。  「新しい彼女」は、  「助手席に座っている女」にずらされ、  「腱鞘炎に悩んでいる女」にずらされ、  「女子社員」にずらされた。  「助手席に座っている女は正面から見たらパンツが丸見えで、」  つまり、  「シシャモさんのパンツが丸見えの件について、」  であり、  「携帯電話がリン・リンと鳴った。」  は、  「携帯電話がリン・リンとなった。」  であり、  「もしもしと繰り返しているカワシモ」  (は、  ( (メールをしているのだろうか?  「腱鞘炎が悪化し延期となった」  「カワシモの送別会」  そうだ、  「電話の相手は、おれじゃないよ、とシシャモが、川島の肩を叩いた。」  「近頃の世の中は、どこもかしこも木っ端微塵だな」  つまり、  リストラという社会的な死を、  執行する人される人見守る人たちの固有名詞を  くるくると変えていくことで、  本当にリストラされたのは誰か  ということを攪乱することなしに  「近頃の世の中は、どこもかしこも木っ端微塵だな」  というオチにつなげる。  続く、「こっぱみじんこ パート2」では  「ぐふふ」  と笑う死んでしまったおねえちゃんが出てくる  アパートも崩されてしまう  死んでしまう  「そんな、世の中だそうで。   そんな、世の中に みんな生きてるんだそうで。」  +++ 町田の町子さん、病気です と、医者は繰り返す わたしは、待合室の壁にもたれかけ こわれかけたビデオデッキが再生している映画を、 それがとてもカラフルだったら とても良かったのに、なんて 決して簡単な治療ではないというのに いったい、誰のための手術なんだろう あなたの笑顔には見覚えがありません あなた、あなた、ああああなななたたたた と繰り返してみても だんだん夜が不思議に明るくなるんです 星とか、 犬とか落ちたり なにかをなくしたみたいな気分で それを言い訳にできたら もっと強くなれるような気がするけど それにしても、覚えることと忘れることは どっちのほうがむつかしいんだろう わたしは、もう覚えることをしたくありません うしろからいつも逃げたくなる人には やさしい挨拶を、はらわたが煮えくり返って元に戻るまで やりなさい ああ、わたしの家には出口が一つしかありません だからといって 一度入ってしまうと 出ることは簡単じゃないんです それを知っているから みんな知っているから そんなことさえ忘れていると思うんです 町子さん、ねえ、町子さんってば、聞こえていますか? 東京のはずれで わたし、あなたがしあわせに 今日も明日も生きていることを知っているんだよ (巴里子「町子さん」全文) +++  もうずいぶん階段を上った。いつの間にか鈴子はあたしのはるか前を歩いているし、いつのまにかyumicaはあたしのはるか後ろで腐ってる。しかたがないので上り続けるけど、どこまで上ったら鈴虫寺につくのかわかんなかった。  階段の両脇は山林になっていて、お月様に照らされて雪化粧の木々は震えている、その間で時折白衣を着ているおっさんがちらりちらりとこっちを見ていて、あたしを追いかけているように見えるので、あたしは足早に階段を、  おっさんは「町田の町子さん、病気です」と繰り返すので「医者」なのだろう、あたしは「町子さん」ではないので病気ではないけれど、じゃあ誰って言われてもわかんない。たぶん「わたし」もわかんないから、「こわれかけたビデオデッキ」はそんな風にわかんない人たちを示していて、病院の待合室はだいたいみんなわかんない人たちで、「再生している映画」はどうせ昔話に過ぎないのだから、カラフルってよりセピア色だろうと思う。  どんどんお月様は南の空へ、だんだん夜が不思議に明るくなって、星とか犬とか鈴虫とか落ちてくるんじゃないかな。あたしはたぶんもう「ジョン」って言われても反応しないと思うけど、固有名詞をなくしたような気分で階段を上り続けていると、山林からは鈴虫の音が聞こえて、それは上れば上るほど大きくなってくるようだった。  あたしは自分の名前がわかんないけど、忘れているから覚えなきゃいけないのかな。「わたし」は「もう覚えることをしたく」ないらしいんだけど、それってなんでだろう。「うしろからいつも逃げたくなる人」って順番に並んだ列の最後尾から逃げたくなる人のことか知らん、過去から逃げたくなる人のことか知らん。なんも知らん。「やさしい挨拶」だってなんも知らん。  リンリン、リンリン、リンリリン、  リンリン、リンリン、リンリリン、  「わたしの家には出口が一つしかありません」ので、「わたし」は一つずつしか忘れることが出来ません、ひっきょう、あたしは「なにかをなくした気分」を得たくて、つまり、「忘れ」たくて、だから、「覚えることを」したくなくて、だけど、「町子さん、ねえ、町子さんってば、」って、あたし、「町子さん」に会ったこともないのに、なんか涙ぐんじゃって、「あなたの笑顔には見覚えがありません」だけど「わたし、あなたがしあわせに/今日も明日も生きていることを知っているんだよ」  けっきょく「わたし」は何を知ってるんだろう。あたしは自分の名前も知らないのに。 +++ あたしの学校に チャンスというあだ名の男子がいたんだけど、 すっかり忘れてしまった チャンスは男子からも女子からも ついでに校長先生を含む学校中の全ての先生から チャンスって呼ばれてたんだけど それは蔑称で だけどもチャンスってあだ名は なんて素敵なんだろうって 今さら、あたしは思う あたしの学校にはぺちゃんこのカバンで 必ず遅刻してくる子が何人もいて オキシドールで染めた金色の髪が なびいてやがんの でもさ、あのぺちゃんこのカバンの中には 弁当箱が入る隙間もなくて あたしたちは、 昼休みになると消えていなくなるあいつらの後をつけて遊んだ チャンスは、裸にされて 廊下を逃げ惑い、 大事なとこの毛を燃やされて 本当にぺちゃんこなのは、カバンじゃなかった もう、あたしたち全員ぺちゃんこだった 先生が忘れたのは 夏休みは、とても長くて プールで溺れたら 助けてくれるのは誰かしら あたしたちは、逃げ惑い 大事なとこの毛を燃やして もう、あたしはぺちゃんこで チャンスもぺちゃんこで 先生も校長先生もみんなぺちゃんこじゃんか カバンの中には何が入っていますか 先生、カバンの中に何を入れたらいいですか 先生、カバンの とてもとても長い夏休みがやっと終わって これからだって きっと あたしたちはぺちゃんこで あたしの学校に チャンスというあだ名の男子がいたんだけど すっかり忘れてしまった 助けてくれるのは誰かしら チャンスは裸にされて 逃げ惑い あたしはいつもぺちゃんこで カバンの中には隙間がない あたしたちのカバンの中に あたしたちは 何を入れたらいいですか (一条「チャンス」全文) +++  公園の砂場の近くの家に置き去りにしたあたしの彼は子供たちに延々と肩を叩かれ、あたしの恋人をリストラされてしまった。そうなってはじめてあたしたちはきっと二人が恋人同士であったことに気付くのだと思うけど、だいたい気付くときには気付いたものはどうでもよくなってるよね。  彼のあだ名が「チャンス」だった頃、彼の固有名詞は完全に剥奪されていた。男子からも女子からも校長先生を含む学校中のすべての先生から「チャンス」と呼ばれることで彼の固有名詞は回復の機会=チャンスを奪われ、それゆえ「チャンス」というあだ名は蔑称として機能していた。  「ぺちゃんこのカバン」ってのはだいたいちょっと不良っぽい子が持っていて、いわゆる改造カバンってやつで、彼は、「チャンス」は裸にされたりしていた。きっと、あたしも一度や二度くらい「チャンス」を裸にしたことがあるだろうし、それ以上に裸の「チャンス」を校内で目撃していた。  あたしたちはそろって「ぺちゃんこ」で、中には何も入れられなくて、わけもなく息苦しくて、わけもなく自分を痛めつけてやりたかった。弁当箱も入んないようなぺちゃんこのカバンと同じくらいぺちゃんこのあたしはあたしたちは、それが先生にも校長先生にもあてはまるのを知って、それは大人に対する失望と大人は呼ぶけれど、はなから失えるような望みなんてぺちゃんこのあたしたちの中には入ってなかったんだ。  あたしはいつもぺちゃんこで、「カバンの中には隙間がない」から、隙間もないから、少しも空いてないから、空洞ですらないから。  固有名詞の「0」はこっぱみじんこにばらばらにされてたりぺちゃんこにつぶされてたりしていたそうやってひとはなにかをうしなったりうばわれたりかいふくしたりすかすかだったりしてるのを強い言い訳にしたりしなかったりするの?  階段を上りきると鈴子はあたしの煙草で一服していた。大量の鈴虫が上り終えたばかりのあたしに襲い掛かる。リンリン、と視界が真っ黒になるほど顔中に鈴虫が張り付いて、皮膚を引っかく六本の脚が気色悪い。舌が乾く。体中を、リンリン、鈴虫が、リンリリン、張り付き、リンリン、鈴子は、リン、わっかにつかまって、あたしの顔をしながら、リン、鈴虫まみれの、リン、あたしを突き落とし、リンリリン、 +++  あたしは階段を転がり落ちていく鈴子を見下ろしながら一条さんって人の作品を考える。  誰が呼びはじめたの知らないけど「一条様式」って言葉を目にしたりして、それはたとえばこんな使われ方をしている。 毎回、変えてくる手が一条様式を高めていて、読後の一文が轢いていく力の大きさが昇華を確かにしている、という意見がありました。 (a-hirakawa・コメント「2009年3月選考雑感」「文学極道blog」、一条「RJ45、鈴木、」に) * さすが一条様式の妙は魅力的で有無を言わさず掴まれてしまう、という意見がありました。ただ推敲前の方がすきだった、という意見もありました。一条さんの作品を読むと、突き放しかたが痛快だなーといつもおもう、自身をも突き放してるんじゃないかと時々おもうほど、音読するとなぜか気持ちよかった、という意見もありました。 (a-hirakawa・コメント「2009年1月選考雑感」「文学極道blog」、一条「ホーキンスさん」に)  一条さんっていう人の書く作品の特徴を「一条様式」って言うみたい。それを端的に示しているのは、ミドリさんっていう人の言葉にいくつか見られて、これらはそのうちのいくつか。 滑らかにメタファーが永遠ループしてくんですね。 (ミドリ・レス、PULL.「「犬雨。」」) * ずらす、ループさせる。それも自動書記的に自分のテーマにリンクさせていく書き方で。 (ミドリ・レス、香瀬「[開封後はお早めにお召し上がりください。]」) * 意味の滑らし方や、そっからトリップしてくる、”ナンセンス”の。そのウェルメードな仕上がりは、一条さんと類似しているんだけど。一条さんは、シリアスなものに向かいやすい傾向があるのに対し、ヒダリテ君はユーモアでくる。 じゃ、二人が扱ってる主題は、全く別物なのか?というと、これも案外、ある意味で近接している。ただその表出の仕方が違うんだ。という感じをぼくは持つんですが。 抽象的な言い方で、一応?「逃げておくと」笑 一条さんは、コアな部分に、異常に(ヘンタイですから。)鋭利なナイフ突きつけてくるのに対し、ヒダリテ君は、後ろでに手をくみながら、周縁を散漫に散策する遊歩者。そんなイメージですね。 (ミドリ・レス、ヒダリテ「猥褻物陳列罪の王様」)  ここで、「一条様式」ってのをミドリさんっていう人は、「メタファー」や「意味」を「ずらす」「滑らす」さらに「ループ」させて「自動書記的」に「トリップ」して「シリアスなもの」を「ナンセンス」に仕上げていくものと解釈しているように思える。では、主題とはなんだろうか。それについてはダーザインさんっていう人のコメントをいくつか見てみたい。 空無の中に恐ろしい亀裂が走っており、真っ赤な地獄の業火の舌がちらちら蠢いているさまが見えるのです (ダーザイン・レス、一条「ホーキンスさん」) * 一条さんの空虚の中には無意味という意味がいつも暗黒の深淵を開けており、いたるところに意味の痕跡が記されています。それが、テクニカルな側面からもたらされるものとあいまって作品に立体感を醸しています。一条さんの詩群には存在論的に最悪の痛みが常に在る。 (ダーザイン・レス、香瀬「[開封後はお早めにお召し上がりください。]」) * 中身はすっからかんでも、いつもは読後に強烈なインパクトのあるイメージが残ったり、ループして行く空談の中に絡め取られたりするのです (ダーザイン・レス、一条「小さい有色のボール」)  「空無」「空虚」「中身はすっからかん」と、ダーザインさんって人は一条さんって人の作品を徹底して空っぽなものと見ています。そして、「真っ赤な地獄の業火の舌」という比喩は読後の「強烈なインパクト」を「意味の痕跡」や「存在論的な痛み」にたとえたものでしょう。  空っぽ。  空っぽの約六文の一。  名前をタイトルにした作品について考えてみる。  「チャンス」はぺちゃんこだったし、  「町子さん」は病気だからか、忘れてばかりで何を知っているのかすら知らない。  「川島」は「カワシモ」と「シシャモ」と不統一ゆえにこっぱみじんだし、  「yumica」は全然わかんないのに楽しんでる。  「john」と「ジョン」は別の音を表記していて、  「ホーキンスさん」の棺桶は空洞で、  「ラオ君」は死んでるのに噂話で再生されて、  「尊(みこと)ちゃん」の発音は可視化している。  「RJ45」はあだ名だけど、  「チャンス」みたいに固有名詞は奪われておらず、  「鈴木」は「鈴木」って「あたい」に呼ばれてる。  固有名詞には何も入ってないかもしんないけど、  入れようと思ってもぺちゃんこかもしんないけど、  入れようとしたらこっぱみじんこになってしまうかもしんないけど、  誰かがその名で呼んでくれることもあって、  ねえだから、  あたしの名前を呼んでくれる? +++ 引用・参考  文学極道(http://bungoku.jp/)  文学極道blog(http://bungoku.jp/blog/) ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭り参加作品】現代詩手帳散見/リーフレイン[2010年1月11日6時40分]  2009年9月号の現代詩手帳の裏表紙は、第一回「鮎川信男賞」募集のお知らせでした。 その募集文の中に 「歌う詩」から「考える詩」「感じる詩」へと展開してきた現代詩の今日から明日を予見する「詩」と「詩論」 という言葉があり、なるほどなあと思ったものです。進化ではなく展開であるところがまことに頷ける話です。歌う詩が古いものというわけではなく、詩作の重心のバリエーションが少し広がっているということではないかと感じるのです。(もしかしたら「流行り」ということかもしれないですが。)今は、様々な音律が流れる時代であるのだろうなあと思いをはせたりします。 「新人欄の半世紀」という特集でしたのは現代詩手帳の2009年の11月号です。 ずいぶんとお得感のある号で、50年の年月を一気に駆け抜けていくような爽快さを感じました。 で、2003年のピックアップは 伊藤伸太郎さんの「銭湯」という詩で、非常に素直に日常のなかから自殺を思い留まる姿が浮き彫りにされていました。実際のところ、この作品は新人欄特集の中でも異色な存在で、イメージのカオスをまったく含まない、素直で逸脱のない描写です。心が惹かれました。こうした詩を好む自分の嗜好をかえりみるにつれ、(象徴性の強い作品よりも、物語がある、平易な詩が好きだったりするわけですよ。奇妙なメロディーがあればさらにツボだったりします。)「読み手は様々なのだから。こういう詩がもっとあってもいいのになあ。」と詩手帳の時代性に逆行しそうなことを考えたりしました。  話はもどって音律といえば、2010年の新年号。 四元さんの「マダガスカル紀行」が載っていたのですが、四元さんの音がちょっと好みです。四元さんは散文(詩ではなく)でも結構リズミカルに描かれます。 マダガスカルの場合はあっさりと書かれている短文の中に、忙しい3の音節の連なりを作っておいて、少し長めの音節で破調するっていうパターンが隠されているような感じがします。 音ってなあ、どうも繰り返すことでリズムが生まれるみたいで、たとえば ぐん ぐん ぐん ぐん ぐん ぐん ぐん ぐん という2拍子の連続はこれだけで強いリズムを生みます。(3でも4でも連続によってリズムが生まれますね) この連続だけだといつにか単調に陥ってしまうところですが、割と早めに破調させることで調和しすぎないバランスを取っているような感じです。3,3,5、とか3,3,6とか3,3,9とか。スピードあります。 そこまで考えると、そもそも5,7の調というのはリズムバランスを複合的にとってる形式だったりするのかなと思ったりもします。7の音節はたいがい3や4の短音節で構成されているんですが、全体での調和の中で短音節をうまく埋め込んでまとめあげてしまいます。  現代詩でもよく読むと7、5の音節が利用されている場合は多いです。あれも好きなんですが、崩した音律がある詩はどことなくスイングするジャズを聴いているようです。 あぁ しばらくまじめな詩手帳の中にこもっていると、なにやら人間がまじめになりすぎるような気がしてきました。 あんまりまじめだと血尿が出ちゃいます。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】知らんがな【うさこ、戦う】/虹村 凌[2010年1月11日20時43分]   俺はポエムが嫌いだ。ポエムと言う単語が嫌いだ。何のセンスも無い、ダサいとしか良いようが無いこの英単語が嫌いだ。そしてそう呼ばれても仕方が無いような作品が嫌いだ。何が嫌いって、ボクとかキミとかカタカナで表記されている作品が嫌いだ。ちらっと見ただけで寒気がするし、それが半角だったりすると虫酸が走る。俺はボクの事は知らんし、ボクがスキなキミの事も知らん。カタカナ語以外の言葉にカタカナが当てられるのが気に喰わんのだ。何故かは知らん。このサイトにそういう詩が多いとは言わん。あるにはあるが、そんな作品は読まん。俺はダメな映画をわざわざ見て駄目出しするような当たり屋みたいな奴だが、詩に関して言えばそうでは無い。俺が詩に何を求めているのかは、俺自身わからない。その時の気分とか、状況とか様々なものに左右されると思うが、これと言って何かを求めている訳じゃないのかも知れない。(※お前もポエム書くじゃねーか、と言う批判はこの際聞かない事にする。   別に詩に限った事じゃないが、絵画であれ音楽であれ映画であれ、俺と言う人間のスタンスは基本的に「知らんよ、そんな事」なのだ。理由は色々ある。言ってる事がわからない、単純に面白く無い(笑い所が無い)、興味が持てない、理解出来ない、等である。君の世界をそんなに自慢げに披露されても、俺は知らんよ君の世界なんぞ、と思うのだ。俺の詩や他の作品を読んだり見たりする人間の中にも、そう思う人はいるだろう。ブログを読むのと大差無いんじゃないだろうか。少なくとも俺はそう思っている。知らんよ、君の世界とか日常とか思想とか色々あるみたいだけど。俺にゃわからん。   読者に媚びて、彼らに共感が持てるような作品が良いと言っている訳じゃない。意味がわからなくても面白い(笑える)のならいいと思うし、訳がわからなくても興味が持てる内容であれば良いと思う。「知らんよ、そんな事」と言うラインと「面白い」のラインは非常に曖昧であって、俺の様なボンクラが満足するような作品は稀である。更に俺はあまり他人の詩を読まないので、出会いそのものが少ない。一重に俺の所為でしか無いのだが、面白いタイトルじゃないと読む気がしないと言うのは我が侭だろうか?ダラダラと溢れるように並ぶ詩の中で、「なんじゃこりゃ」と思う、思わず目が止まる様なタイトルが欲しい。そこで始めて、「知らんがな」と言うラインを超えて、俺の興味を引き、そっちの世界(作者の世界)へと足を踏み入れる事になるのだ。別にタイトルが詩の全てでは無いが、詩の顔なのだ。人の見た目は9割だが、詩の5割はタイトルだと思っている。   その興味深いタイトルをクリックして、中身を読んだ瞬間から作者と読者の攻防戦が始まる。作者の「どうよこの世界観、どうよこの世界、どうよこの感じ」に対して、俺の「知らんよそんなもの」が挑むのだ。俺が「なるほどね」と思えば負けだし、最後まで「知らん」と思えば作者の負けだ。お互い実に暴力的な姿勢だと思うが、作品なんぞそんなものだろう。別に崇高でも神聖でも何でも無い、恐らく何の役にも立たない無用の長物なのだ。詩に限らず、芸術全般そうであろう。ジェットコースターみたいに、一時の快楽は得られても目的地には着かないし、ジャンクフードみたいに、美味しくても腹持ちも栄養もイマイチであると思うのだ。   別に君等の世界とかに対して否定的なスタンスを取っている訳じゃない。ただ、俺は知らんと言うだけだ。君等の世界が違うとも言わんし、狂ってるとも言わん。だってそれが君の世界なんだろ?俺にはわからんが、君にそう見えるのなら、そうなんだろう、と思うだけなのだ。俺は世界が歪んで見えた事は無いし、狂って見えた事も無い。ただそれだけなのだ。  その俺が今回、この批評祭に参加するにあたって選んだ詩は、俺が好きな詩でポイントが少ないものと、極端に多いものと決めていた。極端に多いものは、昨年の一位の詩を選ぶ事にした。何故かはわからん、気分でしかない。昨年ポイント数一位の詩はこれである。 うさこ、戦う/最果タヒ http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=178483   この作品の中では、学校は「沈められるべき存在」であり「水族館」であるようだ。俺にとって学校は沈むべき存在では無かったし、水族館でも無かった。何故、作者にとって学校は沈むべき存在であったのか、水族館であったのかは知らん。作中で語られているようには見えん。いや、沈むべき存在である学校だとか、水族館っぽい、と言う以前に、この詩が全く理解出来んのだ。兵士です、と叫ぶクラスメイトに消しゴムを貸す意味も、そいつの二世になる意味も、やってくるらしいアポロと言う人物も知らんし、その後の事なんざ聞いてないし知らないし、俺はゴジラに勝てない。最初の半分が俺にはどうしたって理解出来ん。水族館、みたいな表現はわからんでもないが、兵士ですと叫ぶ君に消しゴムを貸すのはボケなのかマジなのかもわからん。残念ながら同級生である以上、君の二世には慣れんと思うし、アポロと言う人物で該当するのはロッキーが戦った黒人ボクサーくらいである。アポロは君を連れていかないだろうし、あのお菓子だって君を連れて行く事は出来ない。あのお菓子のアポロが何を暗喩してるかも理解出来ない俺の頭脳が間抜けなのかも知れない。何回読んでも理解出来ないのだから。     後半半分の冒頭、おそらく作者の話を聞いている人の事だろう。まさに俺の気持ちと同じだ。「左手でたたいた人がある日とつぜん破裂をしたりとか、そんなことを想像すると毎日つらい気持ちになるね。知らない女性がいきなり訪れあなたのせいで彼は死んだとか言われたらどうするよとマクドナルドでストローを割る。」いや、知らんし!(笑)、である。そんな事は君の中にしまっておけばいい事で、他人に言うべき事じゃなかろう。ブログならまだしも、そんな訳のわからん妄想じみた突拍子の無い事を言われても、「知らんし!」としか言えん。だのに「いやしらないよ、ないよそんなことと答えるきみはいいね。寝ているまにブランコにのせられ往復し、そしてまたベッドにもどされているとは知らないんだろう。」と、何か上から目線なのか何なのか、羨ましがられる始末である。馬鹿にされてんのか、本気で羨ましがられているのか何なのかわからんが、君は寝ている間にブランコに乗せられて往復してベッドに戻されている事を知っているのか、と。じゃあ人が破裂するとかより重要っぽいその話をしてくれよ、と思うのだが、それも特に語られない。ここら辺も俺には理解出来んのだ。   そしてビーム。ビームですよビーム。ボンクラなら誰だって一度は思っただろう、手から指からビームでないかな、と。でも残念ながら人間は手からビームが出せんのだ。でも語り手はビームが出るんだそうだ。きっと君は人間じゃない。俺もそう思うよ、よう知らんけど君の事。ビームが出るのは羨ましいが、ビームが出るなら出るなりの苦悩があるのだろう。君が死んで一杯いっぱいになるメールボックスに気づける自信は微塵も無い。良いゴジラか悪いゴジラかは俺も知らん。ただ君は街を人間を守ってくれてるんだろう。俺の知らん所で。君の暴力(ビーム?)に俺の名前がついたらしい。名誉かも知れんが、愛かどうかは知らん。知らんよ、好きにしてくれ。   もう俺の理解の範疇なんぞ余裕で飛び越えて、何がなんやらちーっともわからんのだ。そうか、うさこ戦ってるのかー偉いねー頑張ってるねー、ありがとう、くらいにしか思えんのだが、去年一位となると共感者だとか面白いと思った人が多いのだろう。やはり理解出来ぬ俺の頭脳ば間抜けなのか、余程のボンクラなのか、その両方なのかも知れない。そっかー、そういう世界なのかー、とは思うが俺の見える世界や思い描く世界にはほど遠く感じられる。この作品はポエムじゃないと思う。だが理解は出来ぬ。ようわからん。ただ間違いなくジャンクフードであり、ジェットコースター(はたまたブランコ)である事は間違いないだろう。惹かれるタイトルである。なにせ、うさこが戦うのだから。何で戦うって?ゴジラだよゴジラ。昭和か平成か知らんが、ゴジラと戦うんだよ。しかもビームで。人の名前がついたビームで戦うんだってさ。このB級映画みたいなノリは嫌いじゃないが、俺にはちっとも理解出来なかった。最後まで、「知らんよ」としか言えなかった作品である。そうじゃない日が無いかと、ここ数日に渡って何度か読み返したが、何回読んでも「知らんなぁ」としか思わなかった。   ここまでくると、俺が低能とか無知であるとか以前に、ただ単に性格の悪いアホなボンクラでしか無いような気がしてきたので、筆を置こうと思う。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】批評もそこそこに現代詩の先行きが不安だ/KETIPA[2010年1月11日23時27分] おそばを食べていたのね、ギターの音がしたの、夜になって、電気を消した、私は眠る時間で、猫は目を覚ました。 「空が光っていればよかったんじゃないの。」 夜は出歩かない住宅街の人たち、仲良く同じころあいに眠り短い人生を消費していく、「かみなり、走った跡、」みどりいろの今朝はみずいろの上層部から、落ちてきた透明の何かをありがたがっていた。 「死んだのは蝶だけです、人じゃなくてよかったですね」 電話 の 宛先がない (後略) 最果タヒ「あの海は、破損した恋について」(現代詩手帖2009年9月号)  はいこの冒頭を読んで「そば」「ギター」「夜」を結びつけて情景を浮かべた人挙手。あと「電気」「私」と「猫」も情景に組み入れたよと言う人はもう起立で。じゃあそのまま聞いてくださいね。  人によってはかなり細かく頭の中に再現されましたでしょうか。例えばそばを食べてる「私」は自宅で、隣のミュージシャンかぶれが鳴らすギターを聞いたと、で窓枠に猫でも乗っけましたでしょうか。何かその後でいろいろ組み合わせにくいモチーフが出てきて、もう混乱してしまったでしょうか。それともそれらのモチーフの組み合わせから、何かしら作者の意図なり表現している世界を考察できるとおっしゃるでしょうか。そしてそれが現代詩の批評であるというのでしょうか。  だとしたらおれに現代詩の批評は無理です。違う世界です。だってこれを読んだとき、「おそばを食べていたのね、ギターの音がしたの、」でもう半笑いなんだもんおれ。そのモチーフの接続そのものに面白みを感じてしまう。内容とか展開とかはその次。別個のものとして、別次元のものとして「そば」「ギター」がぽこんと出てくる。文脈から離れた言葉そのものがもつ固有の周波数同士が組み合わさって、「そんな音出せるのか」と驚くような音色で、コード進行とか完璧に無視したようなメロディを打ち鳴らしていく。  人によっては雑音と捕らえるかもしれないような、でも文脈もコード進行も気にしなければ最高に心を捉える音楽、それが最果さんの詩だと思っている(あれ、なんかこれ、そこそこまともな批評になっちゃってんじゃないの。おいやべー、言ってること矛盾してるな)。もちろんそれとは違う視点で、違う世界を見出して最果さんの詩に惹かれる人もいると思うし、そういう人はこの詩にしてもまた違う切り口で批評が出来るんだと思う。  ちなみに、音楽の世界でも電子音をメチャメチャにつないだような作品ってのは、おうおうにして発行枚数が少ないようです。現代詩の詩集と音響系アルバムの発売部数は、ひょっとするとトントンくらいかも。音楽好きな人は山のようにいるけど、特定ジャンルだけ見るとそんなもんだったりするわけです。  ていうかあの、作家とか、文字を書いたり読んだり解釈したりすることに慣れてる人ばかりが、現代詩を読んだり語ったりしてる間はダメなんですよ、きっと。音楽好きは別に演奏家ばかりじゃないでしょ。それじゃいつまでたっても、現代詩が堅苦しいっていうイメージすらなかなら取り払われない。しかも、そもそも持っている性質として、大衆の好みに迎合するってのは現代詩として面白いことじゃない(と思う)。それは別にいいんだけど、現代詩を書く人間はコマーシャル能力がないんじゃないかとすら思ってしまいますよ。なんかこう「売れないなら別にいーじゃん」みたいな、もっと言えば「売れてはないけどおれは好きだ」的な、(無意識的に)通としての地位を保ちたいし、どっちみち多くの人は興味持たないだろう、といった姿勢があるんじゃないかとすら疑ってしまいます。  100人に見せて3人が興味持つなら、100万人に見せれば3万人が興味を持つわけです。とはいっても、現代詩で採算が取れる見込みが低いから、宣伝にお金かけても回収できないかな。というかね、100万人に当たらずとも、現代詩って面白いかもと思う人だけを狙い撃ちして引き込めばいいわけですよ。せっかくネットがあるんだから。足りないのは、露出の足りなさと見える選択肢の狭さ。  現代詩とひとことにくくっても、いろんなタイプの作品があるんだから、それをもうちょい選びやすい状況を作らないと、さらに事態は悪くなると懸念しています。クラシック音楽もおれから見ると似たような状況で、一部の有名曲ばかり何度も取上げられて、その一方20世紀の作曲家なんぞ滅多に省みられない。詩をプッシュするにしたって、中原中也とか萩原朔太郎とか、いつまでたっても近代詩どまり。別に中也がダメというわけじゃいけども、中也よりタヒさんのほうが性に合うという人をたくさん取りこぼしてしまう。で「詩ってつまんねー」というネガティブイメージを受け取ってはいさようなら。不幸なことこの上ない。  正直、現代詩フォーラムのカテゴリ別新着見てても、自分に合った作品なんていきなり見つけられませんよね。玉石混交過ぎて。適切な音楽レビューがマイナーなアーティストに光を当てる如く、適切な現代詩レビューによって新規読者を獲得して行かないと、現代詩は今同様細々とやっていくほかないでしょう。たまたま新着作品を見た時に、性に合う作品が見つからなければ、「なんだ大したことねーな」といってリピーターにはなってくれないでしょう。  今マイナーなインディーズバンドとか海外のマイナーアーティストとかに興味を持つ人が増えつつあると感じてるわけですが、それを知るきっかけは、統括的なレビューサイトなり専門誌なりに多数の選択肢が提示されてて、これちょっと聴いてみようかな、と、そんなもんでしょう。現代詩のさまざまなタイプの作品をレビューっぽく網羅的に紹介してて、そこから自分が好きになれる詩を見つけられるサイトってありますか? ないでしょう。専門的、文学的な批評はあっても、ビギナーのための批評がない、これが現代詩が細々としてる理由の一つでしょう(あるわボケという方がいらっしゃれば教えてください、土下座くらいはさせていただきますんで)。  ということで読み始めと最後でえらく内容が変わってしまいましたが、まとめなどは特になくこの文章はもうすぐ終了です。あ、この文章をお読みの現代詩ビギナーの方、もしいらっしゃれば、現代詩は感じたままに読めばいいので、よくわかんねー解釈はとりあえず気にしないで下さいね(あと現代詩は音読をおすすめします)。というわけでこの文章は終了です。お帰りの際は下部のニコちゃんアイコンをクリックしてってください(任意)。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】つめたくひかる、1?江國香織『すみれの花の砂糖づけ』/ことこ[2010年1月11日23時38分]  江國香織の詩集『すみれの花の砂糖づけ』(新潮文庫)は、理論社刊の詩集『すみれの花の砂糖づけ』に12篇を増補した、全部で70篇ほどの詩集だ。  今回はこの詩集を、「つめたい」というひとつの言葉に着目して読みながら、「詩を読む(あるいは、書く)」ということについても、考えていきたいと思う。   *  『すみれの花の砂糖づけ』には、「つめたい」という形容詞がぜんぶで4ヶ所でてくる。さて、なぜ今回「つめたい」を取りあげるのか。そう問われても、なんとなく印象に残ったから、としか答えられないのだが、たとえば一番はじめに出てくる詩は、こんな具合だ。 「おっぱい」 おっぱいがおおきくなればいいとおもっていた。 外国映画にでてくる女優さんみたいに。 でもあのころは おっぱいが おとこのひとの手のひらをくぼめた ちょうどそこにぴったりおさまるおおきさの やわらかい つめたい どうぐだとはしらなかったよ。 おっぱいがおおきくなればいいとおもっていた。 おとこのひとのためなんかじゃなく。  この詩は、「9才」という詩と並べてよんでみると、おもしろい。 「9才」 母と肉屋にいくたびに 私はレバーに見入っていた ガラスケースの前につっ立って ケースの中のそれは つめたそうに 気持ちよさそうに つやつやと濡れてひかっていた あれを食べたい とか あれにさわりたい とか 私が言うと 母は顔をしかめた 母は決してそれを買わなかった そして あなたは残酷ね と 言うのだった  ここにも、「つめたい」という言葉がでてくる。9才。それは恐らく、「おっぱいがおおきくなればいいとおもっていた」年齢なのではないだろうか。初潮のはじまる、少し手前の年齢でもある。  ここで一度、「つめたい」という語句の意味について、辞書を参照してみたい。 つめた・い【冷たい】(形) 1物質の温度が自分の体温より著しく低いと感じる。「―・く冷えたジュース」 2体や体の一部が、普通より低い熱をもっていると感じる。「凍えて手が―」 3人情味にかけ、冷淡なさま。つれない。「彼の態度が急に―・くなった」「―仕打ち」 (『明鏡国語辞典』)  上で挙げた2篇では、どの意味にあたるだろうか。「9才」の「つめたそうに」というのは、1の「物質の温度が自分の体温より低い」というのであてはまるだろう。  では、「おっぱい」の「つめたい/どうぐ」は、どうだろう。この詩の「つめたい」の場合、問題なのは、「物理的なつめたさ」ではなく、「精神的なつめたさ」なのではないか、と思える。つまり、「つめたいジュース」とか、「手がつめたい」とか言うのより、「つめたい仕打ち」の「つめたい」と同義なのではないだろうか。この、ここの部分。「おっぱい」を「どうぐ」であるという、身体の一部を、物に例えるという物理的な次元で物事を語りながら、精神的な次元での「つめたさ」を語るという、ずらしかた、こういったことを、あたり前のようにやってしまうのが、詩のおもしろさだと、私は思う(もちろんすべての詩にこういった部分があるわけではなく、ある必要性もない)。  ところで先ほど「9才」の「つめたそうに」は「物質の温度が自分の体温より低い」という意味であると断じたが、次の詩を読むと、この「つめたそうに」には、精神的な距離、といったものも含まれているのではないだろうか、と思えてくる。 「つめたいメロン」 つめたいメロンをたべながら 「つめたいメロン つめたいくちびる 官能的なきもちになりました」 と 言ったら あなたはおどろいて あわててコーヒーをのんだね きもちよ、きもち あなたと私は全然ちがうね つめたいメロン つめたいくちびる しずかな昼下がりです  「つめたいメロン」はもちろん物理的にも「つめたい」わけだが、この詩では、「官能的なきもちになりました」と言われて、「あなた」は「あわててコーヒーをのん」でその場を取り繕い、「あなたと私は全然ちがうね」と言わしめてしまう、つまり、「私」と「あなた」の精神的な距離が、「つめたいメロン」をモチーフとして語られているわけだ。  そう考えると、「おっぱい」でも、「つめたい/どうぐ」であるという「おっぱい」に対して、どこか冷めた視点、精神的な距離があるように思われる。  では、「9才」ではどうか。「ガラスケース」の中の「レバー」は、話者から物理的な距離もあるわけだが、そもそも、人が憧れを抱くのは、精神的な距離、方向性の違い、があるからではないだろうか。「よそゆきの服はきらいだった」(「よそゆき」)と語る、両親の庇護のもとにある作者と、母に「顔をしかめ」られるグロテスクなレバー、その立ち位置の違いが、「私」に憧れを抱かせているのではなかろうか、と言える。  ここでもう一篇、「つめたい」という語が出てくる詩を読みたい。 「なにもない場所に」 なにもない場所に 言葉がうまれる瞬間を 二人でもくげきしたね あれは 夜あけのバスにのって遠い町にいくときの つめたくうす青い空気くらいまぎれもない たんじゅんにただしい できごとだったね  この詩の場合、少し難しい。その短さゆえに、如何ようにも読めてしまうからだ。ただ、「もくげきしたね」と、「できごとだったね」という語り口から、もう終わったことだという意識、これまでの「つめたい」という語から、やはり「二人」の精神的な距離の隔たりを書いているのではないか、と考えられる。   *  この「つめたさ」の距離感は、似たような言葉である「ひいやり(ひんやり)」を参照すると、より鮮明になる。 「午後」 (前略) うえをむいて目をつぶったら まぶたに日があたって きもちよかったので 私は まぶたに日があたってきもちいい と、言った。 すると、とじたまぶたに やわらかな唇がおちてきた やわらかな、ひんやりとした。 それで私は 唇のほうがもっときもちいい と、言った。 (後略)  ここで「ひんやり」は物理的なつめたさを指しているが、「わたし」と「あなた」はまさに熱烈な仲であり、精神的な隔たりはまったく見られない。 「私はとても身軽です」 浴衣をきるのはひさしぶり あとは余生 と おもうので 私はとても 身軽です (中略) 夏の夜は闇が濃く 風が甘く ひいやりとして いい匂い そばにいる と いってくれてありがとう でも あなたはここにいないので 私はとても 身軽です  ここでは、「あなたはここにいない」わけだが、「私」は「とても身軽です」と語っているように、精神的な欠落は見られず、完全にふっきれていて、安定している。つまりいずれにしても、「ひいやり(ひんやり)」は満たされた感情の場面で用いられており、「つめたい」との違いは歴然と言える。ここからも、「つめたい」が用いられた場合の精神的な距離、隔たりが浮かび上がってくるのではないだろうか。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】ひろげた本のかたち(佐藤みさ子)/古月[2010年1月11日23時50分]  ・藤篭に鳴く生きものや死にものや  わたしが佐藤みさ子の川柳と初めて出合ったのは、『川柳MANO』だった。  『川柳MANO』は樋口由紀子が発行人を勤める川柳誌であり、佐藤みさ子はその会員のひとりである。  そもそも私と現代川柳との出会いに遡れば、きっかけは確か『幻想文学』に連載されている俳句時評であったと思う。そこでは現代俳句に近いものとして、樋口由紀子の現代川柳が何句か紹介されていた。わたしはそれを読んで、川柳の持つ「平易さによる力強さ」に強く心引かれた。口語でのさっぱりとしたスタイルが、他のどの俳句よりもダイレクトに心を打ったのだ。  それまでのわたしは、川柳というものについて「日常の諧謔や社会風刺をテーマとして主に扱う、暇な老人の娯楽。求める文学からは程遠いもの」という、勝手な先入観に基づく誤った認識を持っていた。だが実際はといえば、現代における川柳とは、わたしが思うよりもずっと斬新なものだった。  二物衝突から生まれるイメージの飛躍という詩作法は、こんにち詩全般において割とポピュラーなものだが、わたしがその中でも川柳をとりわけ好むのは、先にも述べたが「言葉の平易さ」のためである。  川柳には、韻律があり、難解がない。わたしにとっては現代詩のなかの「短詩」や「一行詩」は緊張感のない弛緩したものに見えるし、俳句は少々堅苦しく、しゃちほこばって見える。短歌は語りすぎている。断片的なイメージで鋭く読み手の心にすっと入り込み、言葉を最低限にとどめることで発想の自由度を確保する現代川柳は、わたしにとって居心地が良い。    話を佐藤みさ子に戻す。  最初に言っておくと、わたしは彼女のことを、何一つとして知らない。  わたしは彼女とは面識も交流もないし、彼女の人物像や私生活についても、インターネットからは何ひとつ伺えない。わかるのは公開されている略歴くらいのものである。  本稿の執筆動機は、ただわたしが彼女の句を心底から好きだという、たったそれだけだ。そして、本稿はそうした限りなく予備知識ゼロの状態で書かれていることを、読者にはくれぐれもご留意いただきたい。  作品を通じて作者自身に切り込むような批評も、それが正当な方法に則って行われる限り許されるはずだが、わたしは彼女について論ずることを、正直恐ろしく思っている。佐藤みさ子は、わたしが広義の詩人の中でただ一人尊敬する書き手だ。本稿を書くに当たっても、これを書いたら失礼なのではないか、これは的外れなのではないか、と様々な葛藤をさんざんしたし、一からの書き直しも、都合十回ほど行った。それでも、最終的に本稿は、もっとも率直で、もっとも遠慮のないものになったと思う。それは本稿が、川柳の門戸を叩いたばかりのわたしから佐藤みさ子への、感謝と敬意を込めたラブコールであるからに他ならない。    前置きが長くなってしまった。恐れずに感じたままを書くことが誠意であると信じつつ、本題に入りたいと思う。  まずは、佐藤みさ子の句をいくつか紹介してみたい。  ・春の沼家をさかさに突き落とす  ・玄関に寝床になだれ込む道路  ・吊りかごの穴から春の足を出す  ・カサコソと言うなまっすぐ夜になれ  ・赤ん坊と視線が合わぬように産む    ・家一つ二つはぎとる目の仕事  ・みんな帰ったあとの夜空に浮く帽子  ・点線で表わす塔の地下部分  ・花びらの汁のしたたり肉屋まで  ・年齢を問うので足の骨を出す    ・新しい箱を汚していく月日  ・二人で食う意味を一人で考える  ・首と身の模様つながるよう祈る  ・両足を下ろす実印押すように  ・窓みんな閉めると家が浮きあがる    ・まず首をつくるそれから仕事する  ・浴室に古い桜の木が一本  ・身代わりになると言い張る犬連れて  ・もうすこし掘れば出てくるわたしたち  ・おばあさんはこれからいぬになるところ  ・食べられぬものをひねもす焼いている  ・次は終点ですと他人が声を出す  ・万物をゆすり子供が通過する  ・目から水出してせんたく完了す  ・ガラス屋が来て落日をはめていく    これらを読んで、どう感じられただろうか。  おそらく、明るいという印象はさほど受けなかったのではないかと思う。印象を言葉で表現しようとするとどうしても、不安だとか、怖いとか、陰のあるイメージをあてはめたくなる句だが、だからといって不快ではなく、どこか懐かしい、童話的な風景でもあるようにわたしは思う。  ここにあるものは、とても不安定なものだ。ぐらぐらした、あるかないか分からない景色。たとえば、いま自分が目で見ている景色は、もしかしたら目をつぶっている間だけ歪に変容しているのではないか……、視界に納まらない背後では、なにか恐ろしいことが起こっているのではないか……、そして、自分が正常だと思っている日常は、ほんとうは正常ではないのではないか……。あらゆるものの実在が疑わしくなるような、自分に属する全てのものをぐらぐらと揺さぶる、それが佐藤みさ子の川柳だ。  そしてそれは、彼女にとっての彼女自身が恐らくとても不確かで不安定なことに起因するのではないかと、わたしは考えている。  たとえば、彼女の句から、顔にまつわるものをいくつか選んでみる。   ・どの貌が人間なのか当てなさい  ・顔の無い人がつくった夕食です  ・顔半分もらう半分消してから  ・顔洗い続けていくと骨残る   ・「顔無し」と「顔無し」見つめあう電車  ・「いないいないばあ」をしていて怖くなる    ここには空白のイメージがある。顔は言うまでもなく人間の人格や社会性といった、パーソナリティを表わすものである。  そして空白といえば、  ・部屋の空白と争っている  ・空席にくうせきさんがうずくまる  ・からっぽをみっしり詰めた人形です  ・新しい箱を汚していく月日  ・ねむっているうちに空き箱できあがる  などの句もあるが、佐藤みさ子はなぜこのように空白を描きたがるのか。  ことによると彼女自身、自分のことを空白のような存在だと感じているのではないか。だから「部屋の空白と争」ったり、顔の無い不安にさいなまれるのではないのだろうか。ならば句中の「箱」も「人形」も「くうせきさん」も、おそらく彼女自身なのだろう。  ・歳月や四角になってゆく身体  この「四角」のイメージが、「箱」からそのまま地続きで「棺」までつながっていると思うのは穿ちすぎだろうか。  たとえば、彼女の句には葬式を扱ったものが多い。  ・恩恵のような死に目に会っている  ・祭壇の写真わたしと違います  ・拝まれているわたくしは死んだのか  ・はじまりか終りか布をかけられて  ・生きていた頃もヴェールを顔にかけ  彼女は他人の葬式を見ていながらも、どうも同時に自分の葬式を見ているように思われる。彼女と葬式の距離は、常人のそれに比べて余りにも近い。  この中でも「祭壇の写真わたしと違います」はとくに面白い。すでに死んでいるわたしが祭壇を見ていて「祭壇の写真がわたしと違う」と言っているのか、それとも、他人の葬式に参列した自分が祭壇の写真を見て「あそこにあるのは本当はわたしの写真であるはず」と思っているのか、細かい部分まで突き詰めると、実に多種多様な解釈が考えられる。  布をかけるという情景も、日本人の心に深く染み付いた、ぬぐえない不安要素のひとつだろう。  白いシーツを被った子供がおばけごっこをしたりするのは端的だが、もっと日常的な場面で、たとえば食卓の上でふきんを掛けられた皿などにも、正体の分からない不思議な不安感を感じたりはしないだろうか。  ・食卓に向かうマスクをした男  ・カーテンらしくふるまっている  ・青色のシートの下の焼け野原  ・包まれていると誰だか分からない  ・災いに布をかけると人のかたち  カーテンや衣服など、よく見れば日常の中にはそこかしこに布がある。普段は誰もその裏側にひそむものになど意識を向けないが、ひとたびそこに不安を感じれば、もういけない。日常はたちまち非日常になるのである。ここにも不確かさへの恐れがあるのだ。  だが、日常を隠すのは、布だけではない。たとえば「夜」や「闇」という自然の作用や、自ら目をつぶるという自発的な行動もまた、日常を覆い隠す。  そこで次は、「眠る」ということを考えてみたい。    ・明日生まれ変わると思う寝入りばな  ・消したテレビに棺を入れておきました  ・あおむけになるとみんながのぞきこむ  眠りを擬似的に死と同一視する観点はわりとありふれたものだが、彼女の句は、不思議と死を特別視していない。  死とは人間にとって絶対的なものであり、畏れの対象であるはずなのに、彼女はまるで長年暮らした同居人のように死とつきあっているように見えるのだ。  ・移転する死んで間もない姑連れて  ・ああ言えばああと答える死後の人  ・人類の告別式は一時より  ・葬式が済んだら風呂にしてください  ・詰めてください次々死者が参ります  ・亡父も亡母も行くよ不在者投票に  ・戦死者になって何年経ちますか  ・亡くなったものがあふれている道路  日常には死者があふれ、神聖さを剥奪された死が、当たり前のような顔をして彼女の隣にいる。  彼女の生きる世界では、あらゆる境界がゆらいでいる。本来誰しもが当たり前に引いている自己と他者との境界線、自己を定義付ける他者の存在、生と死、すべてが彼女にとっては酷くあいまいなのだ。彼我が溶け合っている。  そのため、限りなく希薄な彼女の存在は、他者からの定義が望めない世界で精一杯の自己を保つため、自分で自分を定義付けようとする。  ・わたしが造るわたしは誰なのか  自己と他者の境界が存在しない世界は寂しくはないが、それはまた同時に、永遠の孤独をも意味する。本来は外側から恩寵のように与えられる救いは、外側が存在しない以上、絶対にありえない。あいまいになった世界で彼女がすがる藁ほどの確かさ、それこそが己の内にある言葉であったのだろう。自己について書き続けることでのみ、彼女は自分の「空白」のページを埋め、生きた証を「確か」に残せるのだ。だからこそ、彼女はひたすらに言葉を書き続ける。    ・言葉だけ立ちふさがってくれたのは  ・あちこちを傷つけ滲みてくる言葉  ・書きながら老いながら死にながら    やや乱暴に言えば、詩人はみな大なり小なり固有のトラウマ、あるいはオブセッションを有しており、そうした心の引き出しの暗い片隅から言葉を抽出している。それはたいていの場合は限りある資源であり、書き続けていると枯渇しかねないものだ。  だが、この資源は有限であるという逃れられない詩人の宿命においてこそ、佐藤みさ子の強みがある。  彼女の希薄であいまいな存在は、そのあいまいさゆえに、彼女の目に私たちとは異なる日常を見せる。われわれが暗い片隅からこっそりと取り出してくるものが、彼女にとっては平然と、日常の中に存在しているのだ。そして、日常は枯渇しない。  ・正確に立つと私は曲がっている  彼女は、自分の立ち位置の特殊さを自覚している。  そして、自覚した上でその孤独を受け容れているのだ。  ・さびしくはないか味方に囲まれて  ・たすけてくださいと自分を呼びにゆく  ・たすけてとだれもいわないたすけない  ・倒れないように左右の耳を持つ    もしかすると、佐藤みさ子は境界線のない人間なのではなく、境界線上の人間なのかもしれない。  彼女は、生と死のはざまで、生きながらにして死んでいる。あるいは、永遠のように長い死を、ゆるやかに死んでいる最中なのであろう。  藤篭の中で鳴く生きものと死にもの、これを並べて描写できることが、佐藤みさ子の特異性に他ならない。    ・言葉だけ先に行かせて後から逝く  ・さよならをするさよならのずっと前  ・ひろげた本のかたち死というものがあり  彼女が書くことをやめるとき、すなわち肉体的な死を迎えるときに、佐藤みさ子という一冊の本は未完のままで終わり、あとには開かれたままのページと、彼女の言葉だけが残されるのだろう。  そしてそれは佐藤みさ子という名前とともにいつまでも語り継がれ、これからも永遠に生き続けていくのだ。  ・読みふけるブックカバーにくるまれて 川柳MANO http://ww3.tiki.ne.jp/〜akuru/ ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】 それは水の話ではなく/たりぽん(大理 奔)[2010年1月12日1時05分] ロスト / 水無月一也 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=200920  忙しいということはストレスがたまることばかりではありません。時には憶えておきたくない事柄を体の片隅に追いやってくれます。くしゃくしゃにしたレシートをベットの下に追いやり、過去の負債を目の前から消し去ってくれるのです。そう、しかもいつか見つけることができるように。久しぶりに水無月一也さんの投稿作を読んで、また私は忙しかったのだと気付かされました。ロスト、失われていたと思い込まされていた気持ちが揺り起こされたのです。  雪が消え去るときに奪っていく体温。でも確かに掴み取ろうとしていたものがそこにあって、それは掴み取ったが故に消えていったのです。まさにそれは時間だったのかも知れません。本人だけが納得してうなずいた、そんな独りよがりの。  雪がつもるためには、それが溶けてしまわない気温が必要です。「わたし時がふりつもる」ためにはいったいどんな気温が必要なのでしょうか。 必ずめぐる冬の日に この身をぬくめるすべとして わたし、 すべてを 失くしてゆくのでしょう    生き続けるために、いきていくためのぬくもりのために失うものがある。それに気付いたときの孤独感を私は痛みとともに感じます。水も雪も元は同じものなのに、同じ世界では長くは一緒にいられない。でもこの言葉たちは雪のことを語ろうとします。作者に「冷たさ」がもたらした暖かさ。そして「孤独」をもたらす暖かさ。僕たちは生きているということだけで、どんなに多くのものを失ってしまうのでしょう。  記憶の中、雪の冷たさに暖められながら永遠に失っていくこと。そんな孤独の中に閉じこもらないことを私は祈ってやみません。季節は失われません。必ず裏切ることなく巡ってくると微笑みの中で信じて欲しい。そんなかすかな希望のぬくもりが、また指先で雪をとかすのでしょう。それでも、それが生きることなのだと。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】詩だとかブログだとか日記だとか【虹村 凌】/虹村 凌[2010年1月12日9時56分]   ジェームスブラウンが「俺の音楽使って面白い事しろよな」と言ったもんだから、サンプリング文化が生まれてヒップホップが大流行した、みたいな話を何処かで聞いた。生憎、ヒップホップ文化には詳しく無いので深く語れぬが、ヒップホップの起源を辿ればJBに行き着くって程度の事なら知っている。そう、サンプリング、である。何故ヒップホップはサンプリングが許されるのに、ロックはサンプリングが許されずに「パクり」だ何だと言われねばならぬのか。俺はちょっと昔のB’zが好きなのだが、あまりいい顔をされない事が多い。いいじゃないか、本人達だって「聞いてわかる奴はニヤニヤすればいい」と言っていたのだから。何も音楽に限らず、絵画だって映画だって遊べばいいじゃないか、と思うのだ。タランティーノの映画なんか、サンプリングの塊みたいなもんじゃないか。詩だってそうやって遊べばいいと思うんだ。どうせ何の役にも立たない無用の長物なのだ。存分に遊べばいい。反則技なんかありゃしないんだ。   こうやって俺の詩がサンプリングの塊である事を真っ先に正当化しておきたいのは、俺と言う人間が卑怯者であり逃げの姿勢が強いからであろう。サンプリングが上手くないので、よく出典がバレて「○○を思い出しました」と言われてしまうが、そんなのはご愛嬌、であると言いたい。面白い事言うなぁ、と思ったら即座にサンプリングすればいいのだ。長渕剛の表現なんか、俺にとっちゃサンプリングしたい言葉の宝庫である。「クラゲになっちまった」「蝉が泣くチキショウと」「幸せのトンボ」もう素敵過ぎてどう調理していいのかもわからない位だ。恐らく、俺のボンクラ知識に近しい人が読めば、どこからもってきた言葉かすぐに見抜けるのだろうな、と思いながら詩を書いている。   オリジナリティなんぞについて語る気は毛頭無い。オリジナルが何だろうが、面白い事をやった奴が勝ちなのだ。オリジナルが何かなんてのは問題じゃない。パクりだ何だと言われようが、笑わせた(感動させた、感を動じさせた)奴が勝ちなのだ。俺を怒らせたり笑わせたりすれば作品と作者の勝利なのだ。そこら辺については、ひとつ前の批評でも書いたが、俺の斜に構えた「知らんよ」と言う投げやりで倦怠感の強い、とてもネガティブでアンニュイな感覚を、「おっ」と言わせりゃいいのだ。俺が偏った人間なので、なかなかそういう作品に出会う事は少ないのだけど。それは君たちの所為じゃなく、俺の所為なのだ。気にする事は無い。   俺だってそういう作品を書けているかどうかと問われれば、実に怪しい。俺が書く作品は、実際の日常であり、現実の出来事である。色々とボカして書いているのも事実だが、それは君たちにとって「俺の友人が誰とつきあって誰と別れた」等と書いても「知らん」だろうから書かないのだし、俺に拒食症で過食症の妹がいる事も「知らん」だろうから、そんな事は書かずにいるだけだ。それを書く事は作品を現実味があるものにするのでは無く、ただの散文詩的で個人的な日記でしかなくなる。事実、俺の作品と言うのはその日にあった事、その瞬間を切り取って書く以上、日記に近いものだろうと思う。それと作品の線引きは難しいのだろう。作者が作品と言えば作品なのだろうな。そういうものだろう。アンディーウォーホールみたいなふざけた奴だっているのだ。作品と言ってしまえば全部作品なのだ。そういうものだろう。それを見た者がどう思うかは、また別だ。例え見た者が作品である事を否定しても、作者が作品だと言う以上は作品である。よって、日記ですら作品だと言えば作品になってしまう。俺の日記みたいな詩も、こうして作品になってここに投稿される訳だ。   文明の発展により、日記と言うものが世間に公表される機会が多くなり、書き手として読まれる事を意識した作りに変化してきたんじゃないだろうか、と思う事がある。俺が日記を作品へと書き換えた時に、ふと思って以来、ずっと気になっている。読まれる事を意識した時点で、作品への第一歩が踏み出されているのだろうが、それに無自覚な人は多いかも知れない。それを作品と呼ばないのは、そのつもりが無いからなのか、作品と言う事に抵抗を感じるからなのかは分からない。抵抗を感じる事について、理解出来ない訳でもない。相変わらず、詩と言う文化はあまり強く根付いて無い気がするからだ。その苦手意識は何処から来るのだろう。小学校の時とかだろうか。知らんけどな、アンケート取った訳じゃないし。ただ、やはり詩って独りよがりだとか、何かあまりプラスのイメージが無い気がするのは、気の所為では無いだろう。それは詩が面白く無いからなのだろうな。詩がもっと面白くなればいい。文壇だとか何だとかは知らん。現代詩だ古典だ、等と言う議論にも興味は無い。面白ければいいじゃないか、と思うのだが、いかにもボンクラの考えそうな結論だと我ながら思うよ。   その面白そうな事をするにあたって、日常とは切っても切り離せぬ事だと思う。そしてそれを作品にするにあたって、ブログやSNSと言う媒体を語らない訳には行かなくなるだろう。日常とはネタの宝庫であり、それを他人に読まれる形で公開すると意識する事で、その言葉達は面白味と緊張を帯びて、実に素敵なものになると俺は考えているのだ。「知らんよ、君の日常なんぞ」と言うスタンスに相手を引き込むには、それなりの技法と努力が必要だろう。その手法の一つとして、サンプリングがある訳だと俺は思い、己の行為の正当化を計っている。   相手の想像力を刺激せねばならぬ。日常は想像に足るから、共感を得易いのじゃなかろうか。ぶっ飛んだ事も面白いが、他人の日常は更に面白い。だからブログやSNSが流行るのだ。知りたい、覗きたい他人の日常を堂々と垣間みられる。ドキドキするじゃないか!今日は何があったのか?明日はどっちだ?泣き、笑い、怒り、悲しむ他人を冷静に見る。俺の性格が悪いだけかも知れないし、悪趣味なだけかも知れない。ただ、面白い事を求めて行き着いた結論が、これだったのだ。   今日はアルパチーノがでかでかとプリントされたTシャツを探したが、見つからなかった。公式の奴じゃなくて、下世話で悪趣味なプリントされた奴が欲しいのだ。マイケルのシャツは見つかった。パチーノのシャツが欲しいのだ。レスラーのミッキーロークでもいいんだけど。でもこれは詩にならないだろうな、あまりにもボンクラ過ぎて。そう思う。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】ネット詩批評/相田 九龍[2010年1月12日19時34分]  批評を書く、ということは他人と自分が違うことを認めることです。僕は批評を書こうとすると絶望の淵に立たされた気持ちになります。僕はひとりなんだと途方に暮れます。誰が僕なんかの批評を求めるのだろう。  ・どうでもいいこと、どうでもよくないこと。       【詩学社、そして寺西さん/角田寿星さん】http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=168204  詩は読まれていない。ネットで詩を投稿する人すら詩を読まない人がいる。詩がこの先どうなろうと、今ネット上で詩人がどうなっていようと、どうでもいいことなのだろうか。意図的に話を大きくする。人を傷つけてでも自分の夢を本気で叶えたいと願った人が、子供の夢は、他人の希望は叶えてあげない。そんなことでいいのだろうか。ネットにおける責任者は誰なんだろうか。誰が弱者を助けるのだろうか。誰が努力を認めるのだろうか。  そういうことばかり言ってる人は正直鬱陶しいと思う。しかし僕の心の中で問いは尽きない。次々と溢れてくる問いに対してなるべく「どうでもいい」と口にしないために、馬鹿にしていた「大人」に向かって直進しないために、活動家を名乗ることにした。どうでもよくないから、どうにかしたい。辞任のとき、記者に怒った福田元総理が「あなたとは違うんです!」という台詞を言い放ったことがとても印象に残っている。僕にとってその台詞はとても悲しい。僕とあなたが違うことはとても悲しい。  僕はそういう鬱憤をこの批評祭にぶつけている。  ・詩を売れるものにしよう?        【詩の商品力/いとうさん】http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=58523  活動家を名乗って分かったことは「詩人」と「活動家」は違うということだ。或いは、違うとすべきだということだ。すべての詩人がどうにかしなきゃいけない問題と活動家がどうにかしなきゃいけない問題がある。  2001年あたりに「詩のマーケティング論」という評論をいとうさんが書いた。ネット上における「詩を売れるものにしよう」「詩を読まれるものにしよう」という合唱はこのあたりがピークじゃないかと推測する。しかしどれだけ議論が続いても一向に結果が出ない。詩集も売れないし、詩の認知度も変わらない。そんな中でネット出身の最果タヒさんや、文月悠光さんが一部で高い評価を受けた。ネット上でいくら議論しても無駄じゃないか、そういう倦怠感が未だに漂っている。みんなで首を傾げたまま、「もう話しても無駄だ」などとぼやいている。  一体、あなたは何の心配をしているのだろう。詩を売るために必要なのは効果的なマーケティングの技術と実践であり、詩人がみんなで首を傾げることじゃない。それは活動家がやればいい話だ。詩人の仕事は別にある。そんなことはもうしなくていい。  詩人たちが語るべきことは他にいくらでもあるんじゃないだろうか。いとうさんを責めるわけではない。その知識を提示したことは有益であったと思う。問題はそんなことしか語ることを知らないネット詩人たちにある。  ・詩人たちの語るべきこと        【若いひとたちがやってきてみんなを殺す/choriさん】http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=72813  choriさんの散文が深く印象に残っている。言葉を大切にしなければいけないであろう詩人が、「人が人を"殺す"」という言い回しを使ってまで伝えようとしたもの。choriさんはイベントを主催したり全国ツアーを行ったり活動家の色が濃い詩人なのだが、詩を愛するが故に活動家であるジレンマを勝手に読み取ってしまう。これは活動家としての叫びではなく、詩人としての叫びなのだ。  売ることしか、読まれることしか本当に語ることはないのだろうか?本当に詩人として大事なことは詩でしか伝えられないのか?その自問自答を僕はあなたに提案する。今、ネットでは批評を見ない。それは過去の人物を"殺す"だけでなく、自分たちで殺し合いをしているようなものじゃないだろうか。ネット詩の将来のために、再考を提案する。 (つづく) ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】ネット詩批評(2)/相田 九龍[2010年1月12日19時35分]  ・ネット詩は存在するのか        【■批評祭参加作品■ネット詩fについて/清野無果さん】http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=100523        【インターネット時評(5回)・ネットと活字媒体、詩の状況は刻々と変化していく /光富郁也さん】http://wolfeditorial.at.webry.info/200809/article_2.html  「ネット詩は存在するのか」という問いは誰かの私邸で行われる合評会で「この私邸は存在するのか」と問うのと大した変わりはない。つまりあなたの僕の眼前に確かにネット詩は存在する。後はそれをなんと呼ぶかの違いだけであり、便宜上僕もその現場をネット詩と呼び、そこにいる詩人をネット詩人と呼ぶ。  ネットに投稿される詩の数や質についてはもう語る必要はないと思っている。単純に詩誌と比べるのならそれは編集者がいるかいないかだけの違いだ。僕はネットの"詩の現場としての質"を問題にする。  ・ネット詩の風景        【ネット詩人は電気詩壇の夢を見るか/いとうさん】 http://poenique.jp/jisakusi/ronkou/net.htm  三角みず紀さんは詩誌の投稿により育ったそうだ。そこにある詩を読み、投稿する中で意見を取り入れたり、何くそと思ったりしながら自らの詩を見つめ直して詩の才能を開花させていった。  ネット詩はそういう"育つ現場"として詩誌や朗読の現場を抜いて一番大きくなっている。これからもネット詩は存在し続け、その存在感は益々大きくなっていく。膨大な情報の渦の中で詩人たちは呑まれるのか、或いは何かを打ち立てるのか。  分母分子論という論が存在するそうだ。「ある世代にとって土壌とした背景が分母で、そこから生まれたその時代の作家の作品群が分子としたとき、次の世代にとっては前の世代の分子が分母として加わっていく」。この論に依るまでもなく、ネットという現場で何も積み上げることなく無為に時間と有効な場、何より人材を浪費すれば何も未来のためにならない。  ・批評せよ        【ネット詩も孤立するか ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ】http://abecasio.blog108.fc2.com/blog-entry-526.html  外部からの忠告を頂くまでもなく批評は必要である。基準の明確な足し算に批評家は必要ない。基準が存在しないからこそ批評が必要なのだ。批評祭にわざわざ参加してくれるあなたたちが必要なのだ。現代詩フォーラムという場が必要なのだ。文学極道という場が必要なのだ。当初「ネット詩」とやらと対立した詩誌で活躍される方も必要なのだ。詩人も学者も批評家も読書家も若者も老人も、みな未来のために必要なのだ。  ・批評するには        【批評についてつれづれに思ったこと。(おまけ付き)/いとうさん】http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=100009  これで僕自身批評祭を三度繰り返した。批評という言葉の持つ悪いイメージを覆したと胸を張って言わせて頂く。ネット内ではこれまでの挙げ足取りばかりの批評から大きく前進した。出来れば詩人さんたちはこのイメージを大事にしてもらいたい。それは酷評を避ける、ということではなく、いとうさんの言う「肉屋で魚を売っていないと騒ぐこと」をしなければそれで十分だと思う。  先は長い。あなたの責任感の続く限り未来は続いていく。書ききれないことがあるので、それはいつか書きたいと思う。  最後に改めて。批評をすることは他人と自分が違うことを認めることです。あなたが他人とあなたの違いを認めたとき、あなただけが持っているスパイスに気付けることを、この散文があなたにとって少しでも良いスパイスとなることを、僕は願っています。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】つめたくひかる、2?江國香織『すいかの匂い』/ことこ[2010年1月12日19時43分]  前回の「つめたくひかる、1―江國香織『すみれの花の砂糖づけ』」(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=201263)では、江國香織の詩における「つめたい」という言葉は、精神的な距離、隔たりを暗示させる場面で用いられていると結論づけた。今回はさらに、江國香織の『すいかの匂い』を「つめたい」に着目して読んでみたいと思う。   *  『すいかの匂い』(新潮文庫)には、夏をテーマにした、11人の少女の、11話の短編が収められている。この中で「つめたい」という言葉を探したところ、全部で10ヶ所、8話に出てきた(さすがに小説になってくると文章量が多くなるので、見落としもあるかもしれないが、そう大きく数が変わることはないと思う)。まずはそれを、挙げてみたい。 ○みのるくんは真剣な顔で言って、私のほっぺたにそっと触れた。細くてつめたい指だった。(「すいかの匂い」) ○つめたく濡れた甲羅、暗緑色のひんやりした手足、厚ぼったいわりになめらかな皮膚、無表情な瞳。(「蕗子さん」) ○持っていたコップから石鹸水がこぼれ、私の腕をぬるぬると濡らす。つーっと肘までこぼれたしずくが、つめたくて不愉快だった。(「蕗子さん」) ○くつ下が、濁った泥水の中で鮮やかに白い。つめたさが私に現実を甦えらせ、おとし穴とわかっていておちたくせに、ふいに涙があふれる。(「蕗子さん」) ○ビニールプールのへりは赤く、私はいつもそこにぐたりと頬をもたせかけていた。日ざしにあたためられたビニールは水に濡れ、あたたかさとつめたさをいっぺんに、頬で味わうことができた。(「水の輪」) ○金魚。たしかに金魚みたいだ。つめたい水の中を泳ぐ、ひらひらした金魚。(「海辺の町」) ○木々の深い匂いと土のつめたさ、それにめまいのような日ざしの中でするお葬式ごっこは、家の中でするそれの比ではなかった。(「弟」) ○そう、と言って学生はもう一度わらう。おしろい花の濃いピンク色が、まるで闇を吸収するように、深く、つめたく、冴え冴えとしている。(「焼却炉」) ○はじめていった日、茶色い大きな椅子にかけさせられ、銀色の器具で乱暴に鼻を上に向けられた。そんなものを鼻につっこまれたことはなかったし、器具はやけにつめたくておどろいた。(「はるかちゃん」) ○背中に舐めるような視線を感じ、私は体がつめたくなって手のひらが汗ばんだ。(「影」)  まず、「焼却炉」の「おしろい花の濃いピンク色」が「つめたく、冴え冴えとしている」というのは、精神的な「つめたさ」について語っており、これは詩にみえた「つめたい」と同じと言えると思う。 それ以外の「つめたい」は、物理的な「つめたさ」を語っている。ただここで少し気にかけておかなければならないのは、「つめたい」と語られているときの主人公の心理状態である。  例えば「すいかの匂い」では、「みのるくん」にほっぺたを触られているわけだが、この「みのるくん」というのは、あずけられた田舎の叔母の家から家出した「私」が道に迷い、辿りついた家にいた、「上半身を共有した」男の子二人のうちのひとりなのだ。みのるくんに触れられた「私」は「ひろしくんになでられているようでもあ」り、「混乱した」というのだから、主人公の心理状態は不安定な状況であったと言える。  また、「蕗子さん」のひとつ目は、「蕗子さん」から裸のカメをみるためにカメの甲羅に切れ目を入れるという話を聞いた時の回想シーンだ。続けて「じゃこじゃこと腹を切り裂く包丁の感触まで手に残っているような気がする。そして、その感触は、私が生まれてはじめて味わった「とりかえしのつかないこと」の苦さだったと思う」と書かれており、やはり主人公は不安定な心理状態であることが窺われる。他にも挙げていけばキリがないので割愛するが、前後の文脈から推察しても、『すいかの匂い』において「つめたさ」が語られるとき、主人公は不安定な心理状況に置かれていると言える。   *  ところで、江國香織の詩において、「つめたい」は精神的な隔たりがあり、「ひいやり(ひんやり)」は精神的に満たされ、安定している、といった具合に、用いられる場面が異なることを前回指摘した。では、小説においてこれらの差異は見られるだろうか。『すいかの匂い』で「ひんやり」が用いられている場面を見てみよう。 ○つめたく濡れた甲羅、暗緑色のひんやりした手足、厚ぼったいわりになめらかな皮膚、無表情な瞳。(「蕗子さん」) ○午後、私と蕗子さんは台所で一緒にアイスクリームを食べた。(中略)ひんやりとうす暗く、ぬかみその様な匂いのする台所だった。(「蕗子さん」) ○とてもしずかな場所だった。かなり奥まっていたので空気がひんやりし、秘密の火葬場には、これ以上ないくらいふさわしかった。木々の深い匂いと土のつめたさ、それにめまいのような日ざしの中でするお葬式ごっこは、家の中でするそれの比ではなかった。(「弟」) ○台所は暗く、ひんやりとして、私は、流し台の向うの小さな窓をみていた。(「ジャミパン」)  ここでまず気づくのは、「蕗子さん」のひとつ目と「弟」、2ヶ所の「ひんやり」は、「つめたい」とごく近い場所で用いられているということだ。「蕗子さん」のひとつ目の、「つめたい」と「ひんやり」を入れ替えてみても、「ひんやり濡れた甲羅、暗緑色のつめたい手足、厚ぼったいわりになめらかな皮膚、無表情な瞳。」となり、ほとんど意味は変わらないと言える。  一方、「蕗子さん」のふたつ目と「ジャミパン」は、どちらかというと精神的に安定している場面で用いられている。「蕗子さん」では、同級生にいじめられた「私」が、何故だか気の合う下宿人の「蕗子さん」とアイスを食べる場面であり、「ジャミパン」では、「私」と「母」は「スリップ一枚で、うちじゅうで一ばん涼しい台所の床にならんで横にな」っているというリラックスした状態である。  ここから、小説における「ひんやり」の場合は、「つめたい」と共に精神的に不安定な場面でも用いられており、単独では精神的に安定している場面で用いられている、といった具合に、詩のなかにおける使用ほどには明確な違いを断定することは出来ないと言える。   *  話を再び「つめたい」に戻したい。冒頭でも述べた通り、『すいかの匂い』は夏をテーマにした短編集である。そのことと、「つめたい」が精神的に不安定な場面で用いられていることは、『すいかの匂い』の各話を構成する上で、非常に重要な位置を占めている。  ここで、「つめたい」の出てこなかった3話のうちの2話で、挙げておきたい場面がある。  数人の客が降り、女はいちばん最後に――しかしいちばんきっぱりした足どりで――ホームに降りた。ふりむいて、さあ、というように私を見る。  私は一歩も動けなかった。  キオスクに、袋に入った冷凍みかんが並んでいるのが見えた。公衆電話が見え、銀色の大きなごみ箱も見えたけれど、私は一歩も動けなかった。 (「あげは蝶」)  これは、「あげは蝶」の最後のほうの場面であり、帰省する途中の新幹線の中で出会った「女」とともに、「私」は両親から逃げようと一度は決意するものの、結局出来なかったところである。足がすくみ動揺する「私」の目の中に、「キオスク」の「冷凍みかん」が飛び込んできている。  海で、父の教え方は厳しかった。  毎年、最初に海に入る瞬間がもっともいやだ。ひたひたとまず足のうらが、砂の上で泡立っている水に触れる。ついで足指、足首からふくらはぎ、膝。このへんまでで、上半身にはたちまちとり肌がたつ。水に足をとられて歩きにくい。 (中略)  水からあがると母が待っていた。バスタオルをひろげ、にっこりとわらって。かわいたタオルはあたたかく、秩序と安心の匂いがした。 (「薔薇のアーチ」)  ここでは「つめたい」という言葉は使われていないものの、朝の海の水はもちろん「とり肌がたつ」ほどに「つめたい」わけで、「海は苦手だった」という「私」の不安定な心理状態を増長させている。  このように、「つめたい」という語が出てこない話においても、「つめたい物」が登場することで、主人公の不安定な心理状態が暗示されていると言えよう。  これに加え、今度はエッセイ集『いくつもの週末』(集英社文庫)から少し引用してみたい。 ●いちばん気持ちがいいのは朝の公園だ。空気が澄んで、まだ誰も吸っていない酸素にみちている。物の輪郭がくっきりし、世界じゅうがつめたくしめっている。(「公園」) ●そうして、公園というのはそれでさえおおらかに、空の高さや空気のつめたさ、葉の揺れる音や小枝の美しさ、季節の推移や雨の匂いを頭上にひろげていてくれる。(「公園」) ●夜中の雨はとくに爽快なので、ベッドに膝をついて寝室の窓から存分に眺める。雨に洗われた、つめたく気持ちのいい空気が肺いっぱいに流れこむ。(「雨」)  以上3ヶ所が、私が探した限りで見つけられた、『いくつもの週末』における「つめたい」だ。このエッセイでは、「つめたい」はいずれも爽快な、プラスイメージで用いられている。  これに対して、『すいかの匂い』における「つめたい」が不安的な、マイナスイメージを抱かせる場面で用いられていることは、やはり意図的であり、物語を読者に印象付ける上で重要な役割を果たしていると言える。夏のうだるような暑さの中、ふいに触れる「つめたさ」。幼いころの記憶を手繰りよせたとき、ビビッドに脳裏に浮かぶ、心を乱されたときの、生々しい「つめたい」という感触、。『すいかの匂い』は、11人の少女の夏の記憶として、実に巧みに「つめたい」という感覚を描いた作品だと言えよう。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]『批評際参加作品』私が読みたい詩-実存と世界性/ダーザイン[2010年1月12日21時58分]  相田さんの情熱には是非とも応えたいと思っていたのだが、ダーザインは入退院を繰り返すなど体調悪く、ちゃんとした文章を書くのは無理でした。今も3日間何も食べられず一日点滴を打ってきたところです。ダーザインの散文というのはスペキュラティブフィクションであり、魔術的レアリスムであり、ワイヤード至上主義の演説であり、要するに得体が知れないことを書かないと気が済まないのだが、今日は推敲も何もせず投稿掲示板に直打ちで至って当たり前のことしか書けないと思います。ご容赦ください。私が読みたい詩がどんなものかを少しずつ書いていけたらと思います。  大変当たり前のことですが、文章のデッサン力・まっとうな作文能力、要するに基底現実(実存の存在様態「世界内存在」)に下支えされていない文章を私は評価しません。どんな飛躍も、飛び立つためのしっかりした足場、デッサン力に下支えされていなければなりません。デッサン力が無い絵描きが抽象画だと言ってぬたくりものを書いて誉めたたえられている様子を見るのは私には実に滑稽なことに思われます。どいつもこいつもイデオサパタ志願かよと。  皆様方には大道を歩んでいただきたいと思う。言語派とやらのぬたくりものと老人のつまらない身辺雑記で書店に置かれることがなくなった商業活字詩誌の中から、光冨郁也さんの大変上等な文章を見つけた時、私は思わずユリイカ! と叫んだものである。光富郁也(現在光冨いくや)さんの現象学的ハードボイルド文体が異界へと越境し、現実という事柄の可能性を飛躍的に拡大するのを見て、私は速やかに、新しい文学がここから始まるなと確信した。光富郁也さんのバードシリーズ、マーメイド海岸シリーズについて、「現実と幻想の往還」という評を付けた人がいるがそれは表層的な読みだ。あそこに書かれていることはことごとく現実の諸相であると考えるべきである。現実という事柄は、集合的無意識の諸相や多元宇宙のあらゆる可能性へと開かれているのである。ここに新世紀詩文学メディア文学極道が発起する。彼は21世紀文学の荒野に預ばうるものであった。  彼の傑作の数々は文学極道でも読めますが、是非とも詩集を買っていただきたいと思います。  http://bungoku.jp/monthly/?name=%82%dd%82%c2%82%c6%82%dd  http://mitsutomi.web.fc2.com/index.html  21世紀の詩集で読むに値する最大の詩集は光富いくやさんの「バ―ドシリーズ」と佐藤yuupopicさんの「トランジッション」である。   http://bungoku.jp/monthly/?name=%8d%b2%93%a1yuupopic  http://blog.livedoor.jp/yuupopic/  私は人間が描けない子供の詩など読みたくない。人間が描かれていない詩とは言語遊戯であり、ダスマンであり、書くべき人間でない輩だとさえいえる。佐藤さんの実存描写力は圧巻である。蛍さんが彼女の詩を評して憑依と語ったことがあるが彼女がさまざまの語り手に成りきる実存の作劇法は、憑依とでも言うよりほかない大変な集中と、ただの力技ではない真摯な生がもたらすものである。みなさん、ちゃんと生きていますか? 一所懸命生きていますか?  私はあなたたちが身命をかけて書いた作品が読みたい。  次にまーろっくさんの「カン・チャン・リルダの夜」について触れたい。  http://bungoku.jp/monthly/?name=%82%dc%81%5b%82%eb%82%c1%82%ad  見よ、この男の強烈な実存を。初読、インドかどこかの異郷の話かと思ったら、これはまぎれもない日本というこの国の現実なのだ。ネオリベ施政のもとでの人間の惨状を先験的に描いた傑作である。大都市の裏町の精神病院から暗渠に流れ出る廃水のようにこの詩は死と汚辱にまみれているが神々しい。この詩のどこに自己への憐れみがあるだろう? そのようなものはない。雄々しく猛々しい。手足のない異形の子供たちの切断面から、娼婦の空疎な笑顔から、  「なにもかも見失って誰かの夢に迷い込みたくなったら、首都のターミナルのF番ホームをたずね歩いてみるといい。 カン・チャン・リルダだ。忘れるな。俺が影を失くしてから十年が経つ。」  このように重たい鉈で叩き付けるように終える話者の口から、きっと異形の花々が咲きほころぶ事だろう。  触れたい詩人は山ほどいるのだが、もう時間が無いので現代日本最大の詩人・文人コントラさんについて触れて最後にしたいと思う。  http://bungoku.jp/monthly/?name=%83R%83%93%83g%83%89  コントラさんは、光冨さんが切り開いた新世紀文学の大道を突き進み、現象学派とでもいうべき文学の新境地を開いた文学史的な英傑である。彼の作品、言説ともに、文学極道のテーゼである。世界性、モダニズムの構築、弁証法の第一原理・異質なもののせめぎあい、中心と辺境とのせめぎあい、土俗とパンアメリカン、メディア化された現実への深い洞察、そして圧倒的な美質。完璧な筆力で現代を描き切る最大の文人である。彼が描くのは話者の主観ではなくて、話者がいる世界全体である。熱帯アメリカの過飽和なほどの光の描写を見よ、AYAKOと共にいた世界の完璧な描写を見よ。驚がく的な筆力である。 「シルビア」コントラ作 シルビアは恋人の兄のマルコスに「デブだ」とからかわれても、黙って顔をそむけるだけだった。雨上がりの日曜日。表通りのアスファルトから湿った風が這い上がり、リビングの古びたテーブルクロスの上では、錠剤の袋がかすかに音をたてている。門の向こうに車がとまり、礼服を着たシルビアの家族が午前のミサから帰ってくる。彼らは部屋に入って 着替えを済ませると、すぐにまた車に乗ってでかけてゆく。シルビアの家族は、小さな二人の弟もふくめ、みんな太っている。国境を越えて輸送される黄色やオレンジ色の炭酸水は、この国の神話のプログラムを見えないところで書き換えている。 パウンドケーキのような熱帯林の中央基線が交わるあたりには、巨大なショッピングコンプレックスが午後の陽を浴びて白く光っている。シルビアによれば、ここのフードコートで売られているピザやフライドチキンは、母がつくったものとは違う味がする。しゅわしゅわと口のなかで溶け、まるで宇宙食を食べているような感じなのだ。シャーベットのよ うな冷気が充填されたフロアを出ると、シルビアの家族は地平線が見えるハイウェイに車を入れる。後部座席では、シルビアが朝からの物憂げな表情で窓ガラスに額をあてている。いつからか、彼女の視界には光る綿のようなものがちらつくようになり、体のだるさはいつまでたっても直らない。 シルビアの父がいつも赤信号で急ブレーキを踏む、環状道路の交差点。車の列が停止すると、安物のキャップをかぶった物売りたちが寄ってきて、小さな押し花やボトル詰めの炭酸水を売り歩く。汗ばむ褐色の腕に握られた炭酸水がきらきらと熱を放射するのを見まもるシルビア。排気ガスで黒く汚れた壁と、炎天下に立ちつくす売り子たちの姿が無声映画 のカットのように映り、アクセルを踏み込むと視界から消える。ドライバーの目線をはばむ鋼鉄の防音壁の外に広がる原生林のむこうには、板きれやダンボールで風をしのぐバラックの群がゆるやかな丘の中腹まで続いている。 あれは小さなころ、縫いぐるみを抱いて祖母の家に遊びにいったときのことだ。眠たい目をこすりながら飛行機がこの街に着陸してゆくとき、砂粒のようなの電灯の群が、この丘のうえまで這い上がっているのを見て、シルビアはベッドカバーに落ちた宝石のように、それらを手にとることができるような気がしていた。いま、そこから数百メートルも離れ ていない、なめらかに舗装されたハイウェイを、日本製のセダンは滑ってゆく。道が緩やかにカーブしていくと、フライドチキンの広告塔が回転しているのが視界の隅にはいり、そのむこうには広く青ざめた空が緑の地平線をすりきりの地点で飲みこんでいる。  もう時間が無いので多くの人について触れられなかったが、続きは批評祭の後でも書いていこうと思う。私はこれらの人たちから多くを学んだ。皆も彼らの作品を読んで開眼していただけたらと願う。ではまた。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】うたう者は疎外する/される/岡部淳太郎[2010年1月12日22時42分] 1  社会には様々な個性を持った人が住んでいて、その個性の色合いは千差万別だ。まったく同じ性質の人間は二人といないのであり、それぞれが唯一無二のかけがえのない個性を備えた、取替えの利かない個人で社会は埋めつくされている。そのことをひとまず確認した上で、話を先に進めたい。確かに、人はみなそれぞれに異なる個性を持っている。それらは決して一般化されうるようなものではない。しかしいっぽうで、多くの人が共有する社会の常識というものがあり、それをどれだけ諒解しているかということが、その人に社会性が備わっているかどうかを計る重要な指標となっている。つまりは、身につけた社会常識の濃淡の違いによって、その人が一般的な存在であるか否かということが決められる。言ってみれば社会というのは平均値であり、その値に近づけば近づくほど一般的な存在であり、遠ざかれば遠ざかるほど特殊な存在となる。ここまでは当たり前の話であり、いまさら蒸し返すようなことでもない。では、なぜある者が一般的な存在でありながら、別のある者は特殊な存在になってしまうということになるのだろうか。それはおそらく、社会とそこに住む人々によって決められる問題だ。ある者が自分は一般的な存在になるぞと思って懸命に社会の平均値に近づこうと努力してなるというよりも、それを社会が承認することで初めて一般的な存在として認められる。同じように、意識的に社会の平均値から遠ざかろうとして特殊な存在になるのではなく、社会がその裡に入れるかそれとも弾き出してしまうかで決められる。つまり、ある人が一般的な存在であるか特殊な存在であるかという分類の決定権は本人にはなく、あくまでも社会の側にあるのだ。これはよく考えてみれば当たり前のことだ。なぜなら、一般的か特殊かというのは社会の平均値に合致しているか否かということとほとんど同義であるから、それぞれの個人にそれを決められるはずもない。社会はそこにふさわしい存在を選び取り、ふさわしくないと判断された存在をその外、あるいは周縁部に追いやる力を持っている。マジョリティやマイノリティというのは社会によって生成されるのであり、それぞれの個人が自分はマジョリティになるぞと思って(あるいはマイノリティになるぞと思って)なれるものではないのだ。そして、人はすべて例外なく社会を映し出す小さな鏡であるから、社会が自らに与えた属性を気にして生きていかざるをえない。  当たり前のことだが、人が自らを特殊な存在、社会の中の少数派であると見做すにはそれなりの心的実感が伴っているはずだ。その実感が生まれるには本人の認識と合わせて社会の側からの追認があり、それによって本人が自らの特殊性を自覚するという二重三重の過程がある。個人はまず自らの特殊性、自分は社会の平均値から著しくかけ離れた存在であるということを感じ、そして社会の側から差別されたり冷笑されたりすることで確認する。さらにそうして社会から認識させられたことを自らの中で反芻するうちに、自分でもそれを再確認する。すると再び社会から差別されたりということになって、認識の方向が自分から社会へ、社会から自分へと行ったり来たりしているうちに次第に固められてゆくものだ。ここには人をマイノリティ化させる悪循環のようなシステムが成立していて、この連鎖からはそう簡単に抜け出せないことになっている。  社会の平均値からかけ離れている者は、このようにして社会と相対することで自らが特殊なマイノリティであるという心的実感をつくり出してゆく。自分が社会の平均値から外れた存在であると自覚する「内部からの作用」と、社会から白い目で見られたりといった「外部からの作用」、この内/外の両面からの力によって、個人は追いこまれてゆく。これがもし内か外かどちらか片方のみの力であったなら、強固な心的実感は形成されないだろう。自分の内側と外側両方から矢印の方向が往還するような感じで確認しさらに追認し、果てしなく自らのマイノリティ性を自覚させられてしまう。だから、自分はマイノリティなのだという心的実感に捉えられた者は、それにがんじがらめにされているような状態になっている。もちろん先ほども書いたようにある者が特殊なマイノリティであるかどうかを決めるのはあくまでも社会の側であり、自分はもしかしたら少数派なのではないかという個人の感じだけではマイノリティにはなりえない。その個人の感じを裏書きするように社会の側からの白眼視や差別があって、はじめてマイノリティはつくり出されるのだ。  社会の側がマイノリティをつくり出すということは、それを社会自体が求めているからだ。言わば生贄(スケープゴート)であるが、そのへんの詳細は多くの民俗学関連の書籍で繰り返し語られている。そうして社会から自分たちとは異なる者として扱われ、異なるがゆえにマイノリティとしての社会性を帯びてしまった存在は古今東西途切れることなく生まれてきた。生贄などというと何やらおどろおどろしい未開社会の儀式を想像してしまいそうになるが、明らかな儀式化が簡略されたりなくなったりしただけで、相変らず社会は生贄を必要としているし、その需要に応えて人々は生贄を生成しつづけている。社会が特定のある者に対し自分たちとは違う何かを感じることから、生贄の生成は始まる。それは最初に書いた社会の平均値にどれだけ合致しているかということで計られる。社会は多くの平均値に沿った人間たちと、少数の平均値から外れた者とで成り立っている。平均値に沿った者たちがあくまでも社会の中心であり、そこから外れた者は社会の周縁に存在する(存在させられていると言うべきか)。人間社会というのはある種の秩序であり、もともと大自然の混沌の中から生まれた人間が自分たちの周囲を秩序立てようとしてつくり上げたものだ。人間は本能的に混沌を恐れるから、何としても自分の身の回りを秩序立てておきたいと思う。混沌を整理し分類し、ひとつひとつに名を与える。そうして混沌を排除し、自分たちの社会をつくり上げる。だがいっぽうで、混沌を完全に秩序の方に組み入れることを、人間はしてこなかった。それは単に、文明の発達の度合いがまだ浅かったゆえに組み入れきれなかったというだけではない。おそらく、人間は精神の深層のどこかで混沌をそのままにしておきたいと願ってきたのではないだろうか。人間は自分たちがつくり上げた社会のシステムが原初の混沌の大きな力の前では時に無力であることを知っていた。だから、社会が揺らいでしまった時のためにそれを補助する力を混沌に求めたのではないだろうか。そして、自分たちの住む社会の中にも混沌からの使者を必要とした。それがマイノリティであり、彼等少数派たちは普段は社会の平均値に沿ったマジョリティたちからの白眼視を受けながら、いっぽうで無意識のうちに社会の変革や救済の役割も期待されていたと思われる。つまり、マイノリティは単に迫害されるだけではなく、社会全体の安全弁や救済装置としても存在していた。それは混沌の使者として恐れられ周縁に追いやられながらも、いっぽうでは常人の成しえない大きな力を発揮する英雄にもなりうるという表裏一体の存在でもあったということだ。民俗学的見地ではこれは正しい解釈であろうと思われるが、現代の民主主義社会においてはマイノリティのこうした裏の側面はなかなか発揮しづらくなっていると思われる。太古から中世までの社会において、マイノリティたちは公権力に利用されることが少なからずあった。だが、現代では公権力は縮小し、もっと曖昧な社会全体の意思、世論が大きな発言力を持っている。そのような状況の下では、マイノリティ排除の裏でその力を利用するという両義性は喪われつつある。言ってみれば、マイノリティはより強大な排除の力にさらされることになってしまったのであり、これはマイノリティにとってはかなりきつい状況だ。自らの行動すべてが、時によっては自らが生きていること自体が社会全体から認可されていないという感じに捉われてしまいかねない。結局のところ、マイノリティにとって現代ほど生きづらいと感じる時代はないのかもしれない。 2  社会の周縁部に追いやられた者は、必然的に無名性を帯びる。名づけるとは、一種の呪的行為である。私たちは自らの周りに出没する人や物を名づける。名づけることによって、それらを所有する。少なくとも、所有への端緒につくことになる。人は名づけられないものを所有することは出来ない。もし仮に名づけようのない何だかわけのわからないものを所有してしまったとしたら、人はそれに何とかして名前を与えようとするだろう。たとえば憎悪の対象である人物を呪い殺すということが洋の東西を問わずあったが、あれも相手の名前がわからなければ呪いの効力を発揮することが出来ない。相手の名を知ることではじめて、憎悪対象の死という結果を所有することが出来るのだ。つまり、名づけるとは混沌に形を与えるということであり、混沌を混沌のまま所有することは不可能であるから、(社会の中で)生きるために人は事物に名を与えるのだ。そういう観点から考えると、社会の周縁部に追いやられたマイノリティが無名性を帯びるということは、それによってますます社会から疎外されるということになる。人が名づけという呪的な力から離れると、ある「無縁」の感覚に捉えられる。思いきり噛み砕いて言ってしまえば、それは淋しさという感情である。無名ということを現実的に言えば、人に名前を覚えてもらえないということである。そしてそれは、名づけによって所有するという人間社会の法則が自らに対してだけは機能していないということでもあり、そのために他から所有されない、所有の欲望を持たれないということでもあるのだ。そのような状態に置かれることで、彼の心中には混沌が生じる。名づけというものが元々世界の混沌に秩序を与える行為であったことを考えると、無名性の中に投げこまれた個人が混沌を抱えてしまうのはきわめて当然の成り行きだということが言える。  名づけられたものと名づけられざるものの対比によって事物を認識するのが人間の(そして社会の)常であるが、名づけられたものは人々によって社会の内部へと導き入れられ、名づけられざるものは社会の周縁部へと追いやられる。そのようにして世界を認識するというのは、必然的に差別を孕む。認識自体が世界を分断し分節し分類する行為であるからだ。おとなしい目立たない人がともすればいじめられたり迫害されたりするのは、人がどこかで本能的に名づけの力を感じ、目立たないゆえにいまだ名づけられない者として在る存在を恐怖するからだ。だから、社会的に認められない、社会の平均から外れた人や物は必然的に無名性を帯びて、そのために忌避されたり馬鹿にされたりする。そこには自らが名づけられてあることへの安心感と、いまだ名づけられざるものへの恐怖心の、二つの心理が働いている。自らが名づけられてあることへの安心感というのは、名づけによって得た地位を誇り、それをいまだ名づけられざるものに対してひけらかすという行為に結びつく。そこには自らの地位を失ってしまうかもしれない恐怖心が常に裏側に貼りついており、そのためになおいっそう名づけられていないものに対しての酷薄な態度となって現れる。いまだ名づけられていないものは、自分が得ている地位を脅かし、それに取って代わる存在であるかもしれないからだ。同時に、そこには名づけられないものそれ自体への恐れも平行してある。名づけというのは世界の混沌を整理し、秩序立ててゆこうとするものであるから、そこから零れ落ちてしまったもの、名づけられざるものはいまだ混沌の中にあるということになる。名のある者たちで満たされた社会は秩序の側にあるから、混沌の側にある無名性を忌避し、恐れるのだ。それは秩序の側から見て混沌は何だかわからないもの、それゆえにこちら側の法則では計算出来ないような何かを持ちうるものとして感受される。社会の内側にある者は、このようにして社会の周縁にある者を認識する。それは半ば以上無意識的なものではあるが、それゆえに非常にしつこく社会に定着しているものだ。  そのようにして、自らの内側にあるもの=名づけられたもの=秩序、自らの外側にあるもの=名づけられざるもの=混沌、という区分けを社会と人は行ってきた。もともと混沌に形を与えようとするのが人間の欲望である。先に述べたことの繰り返しになるが、そのような欲望があるのならばすべてを自らの内側に、秩序の方に組みこんでしまった方がよっぽどすっきりすると思うのだが、何故か社会および人間はそれをして来なかった。いつもどこかに余剰分を残し、それをあえて整理せず名づけずに、社会の周縁にそのままで放り出してきた。どうして混沌を徹底的に整理して来なかったのか。それはおそらく、ひとつには人がもともと持っている二元化による分節への欲望があるだろう。たとえば昼と夜、男と女、生と死、陸と海、聖と俗というふうに、周囲のあらゆるものを人は二元的に分類してきた。混沌を整理するということには分類も含まれるから、秩序の側にあるものと混沌の側にあるものというふうに分類することで、ひとまず物事を整理するという欲望は叶えられる。つまり、整理し名づけて開拓するということよりも、二元的に分類するということの方が優先されているのだ。そこには、どこかに混沌を残しておきたいという無意識的な思いもあるのではないだろうか。すべてが名づけられ社会の内側に組みこまれてしまったら、それ以上名づけによる開拓が出来なくなってしまう。人の根源的欲求が未知の混沌を整理し開拓することにあるとしたならば、すべてを整理し開拓しつくしてしまえばそうした欲求が満たされなくなる。人として生きる理由の多くが失われてしまうのだ。それを防ぐためにも、あえて未知の部分を残してそれを整理するのを先送りにしてきたとは言えないだろうか。同時に、社会の周縁または外側に混沌を残しておくことで、それを社会の安全弁または活性化の手段として利用しようとしてきたようなところもあると思われる。つまり、社会は意図的に混沌を残してきたのであり、そうすることで秩序を保ってきたのだと言える(余談だが、昔から物語られてきた妖怪や怨霊などの怪異の伝承は、社会のこうした意図的に混沌を残しておきたいという欲求もあって生まれてきたのかもしれない。もちろんそれだけが理由ではないだろうが、妖怪や怨霊などはまさしく混沌の側に属する者であるからには社会や人々の欲求と無関係ではないと思われる)。もしも世の中のあらゆるものが秩序の中に組みこまれてしまったら、どこかで無理が生じてくるだろう。社会はその内側にあるものを平均化する力を持つが、明らかに異質なものまで無理矢理に平均化出来てしまうわけではない。周囲に比して異質なものまで内部に取りこんでしまえば、それが秩序を掻き乱す要因となってしまう。それがひいては秩序を破壊してしまうようになってしまえば、せっかく混沌を整理してきた努力が水泡に帰してしまいかねない。そういう事態は何としても避けねばならないので、異質なものはあらかじめ排除して遠ざけておくのだ。それは、秩序が自らの体系を保持するために必要なことであるからそうするのだ。そこには人道主義的な考えや、排除された者を憐れむなどの感情が入りこむ余地はない。人は秩序の内部にある時、その人個人であるよりも前に秩序の代弁者であるから、極めて機械的に異質物を排除するのだ。 3  ここまでは、社会の中でマイノリティとされた者がどのようにして社会から疎外されるかを見てきた。その議論はまだ充分に尽くされたとは言いがたいが、ここで視点を切り替えて、社会から疎外されている者、マイノリティの側から状況を見てみることにする。  既に述べたように、人が自らを社会の中のマイノリティであると自覚するには、何重にも往還した認識の構造がある。人の意識がその中に投げこまれることは、逃げ場のない檻の中に閉じこめられることと同じだ。それだけの強固な認識の往還の中では、自らがマイノリティであるという実感が根強く心中に根を下ろし、容易にそれを覆すことは出来ない。ところがここに、そうしたマイノリティを自覚する心理を良からぬものとして排斥しようとする意見がある。すなわち、マイノリティであることを自覚するのは自分以外の周囲の社会すべてを否定することにつながり、社会への逆差別を生むとして、それを諌める意見だ。これはいっけんまともな、常識的な意見のように見える。だが、常識的に見えすぎてしまうところがくせものだ。この意見がどう問題の的に命中しているのか、あるいは外しているのか、それを見てみたい。  マイノリティの側からの社会への逆差別とは何だろうか。それは自らを受け入れてくれなかった社会を否定する態度であり、こんな一介の個人すら救えない、救おうとしない社会は駄目な社会であるとして、社会への攻撃的な姿勢を伴って現れることがありうるということだろう。さらに言えば、そうした反抗的態度を取るということは社会を一面的にしか見ていないということであり、社会の複雑な実態の層を認識していない近視眼的なものであるという含意もあるだろう。だが、自らのマイノリティ性を自覚した上で社会を否定しようとする者が近視眼的であるのに対して、それを戒める意見はあまりにも近くを見ていない。状況を遠望しすぎているがために、マイノリティであるという自覚に懊悩する個人の心理を読み切れていない憾みが残るのではないだろうか。一方は個人の立場から発言して大きなものが見えていないのに対し、もう一方は社会の中に立脚するがために小さなものが見えていない。どちらも片手落ちという点では同じように見えるのだ。  マイノリティを自覚するがために生じる社会への逆差別を指弾する意見には、一種のモラリスト的な響きがこもっている。そして、モラリスト的態度というものは、しばしば冷たく見えてしまいがちだ。何故そうなのかというと、モラルというもの自体が社会の立場を代弁するものであり、社会の側に一方的に傾いて、数多ある個人の心の彩りを無視してしまうからだ。社会の側に立つということは個人の事情を最初から考慮に入れないということであり(そうでないと、社会的態度であるとは言えない)、それで個人がいくら泣き喚こうが一切関知しないということである。だが、絶えざる認識の往還によって自らのマイノリティ性を確立してしまった個人にとっては、それでは済まないのだ。社会の側からの意見も頭ではわかるが、心情的に納得出来ない部分がどうしても残ってしまう。その、計算式から零れ落ちた余りのようなもやもやしたものを抱えて生きていかなければならないのは他ならぬ自分自身であり、いくら社会の側からそれでは逆差別になるから良くないと言われてもどうしようもないのだ。たとえば生まれつき身体に障害を抱えるとか不治の難病で苦しんでいるとかの場合、自らをマイノリティと見做すのを戒めるといったモラリスト的態度が通用しづらいのは明らかだろう。そのような眼に見える不利な特徴は本人にとっても周囲にとってもある種の刻印(スティグマ)として見られやすいから、よりいっそうマイノリティとしての心的実感をつくりやすい。たとえモラリスト的意見に接したとしても、本人にしてみれば何を悠長なことを言ってるんだと思ってしまうだろう。それほど極端な場合でなくても、マイノリティとしての心的実感の強固さはなかなかしつこいものであり、程度の違いこそあれ、社会の中で少数派である自らを感じて、そこに自らの特殊性を付与してしまうのはマイノリティの自覚がもたらす必然的な帰結であるのだ。それはある意味どうしようもないものであり、マイノリティがマイノリティである限りは消すに消せないものだ。また、マイノリティである自覚から惹き起こされる自我の肥大と特殊化および周囲への敵対心は、自らがつくり出すというより、社会によってつくらされているといった方が正確だ。マイノリティであるという自覚(そこには言わば、眼に見えない心理的刻印〔スティグマ〕が刻まれている)がなければそうした心情も育たないであろうから、個人をマイノリティの認識に追いこんだ社会の側にも責任の一端はある。言わば、社会はその手で自らの敵をつくり上げてしまっているのだ。そのことに思い至らずに、社会の立場を代弁して、マイノリティの自覚に苦しむ個人の側にすべての問題が存在するとばかりに批判するのはあまりにも鈍すぎると言わざるを得ない。  ここでは、客観的態度と主観的態度がせめぎ合っている。自らがマイノリティであると認識した個人の心中では、このような静かなドラマが進行している。人はすべて、どんな者であっても生きていかなければならない。そして、生きるための場所(その手段と実現の双方を包含した)は、社会以外にありえない。ここまではいい。だが、厄介なのは、自分が社会から疎外されていると感じ、それを社会の側から追認させられる個人もまた、社会の中で生きていかなければならないということだ。おまえはこのゲームに関わるなと言われながらも、そのゲームをやらなければ生き延びられないようなもので、明らかな矛盾が生じてしまっている。いくらマイノリティといえども、人であるからには社会的存在である。だから、マイノリティであるという認識によって頑なになりながらも、いっぽうでそうした自分を客観的に見ようという意思が働く。これは主観と客観によって自己が引き裂かれているということであり、社会の内側にいてモラリスト的意見を言う者にはほとんどありえない感覚だ。ということはつまり、社会への逆差別を云々するモラリスト的意見は不完全だということになる。自分の側にはない感覚を相手が持っているのに(さらに、相手がその感覚を根拠にして語っているのに)、そうした感覚のことに思い至らずに批判するのは完全ではないだろう。こうした感覚は当の本人にしかわかりえないような種類のもので(個人の心の中が舞台になっているのだから、それも当然だ)、先のようなモラリスト的意見を言う者に対しては、あなたも自分と同じマイノリティになって体験してくださいと言う以外にない。こんなところにも、周囲から理解されにくいマイノリティの苦しい立場が現れている。 4  さて、ここまで来てようやくおおまかな道筋をつけられたように思えるが、ここからはマイノリティが社会に対して果たす役割とは何なのかについて考えてみたい。そして、それこそが筆者がこのコンクリートを流しこんだ枕のようなごつごつとした見栄えの悪い文章で書いてみたかったことなのだ。  マイノリティが社会に対して果たす役割などというと、いっけんはなはだしい語義矛盾であるかのように思える。マイノリティとは社会の内側から外側に向かって弾き出された者のことだ。そんな者が内側の社会に対して何かを成しうるなどとは考えづらいだろう。だが、ここで注意したいのは、社会というものはその内部だけで自足した空間ではないということだ。社会は城壁のように内と外ですっぱりと切断されて、区分けされているわけではない。ここから中は社会で、ここから外は社会ではないなどという、はっきりとした境界線があるわけではない。社会は外側に行くに従って次第に密度が薄くなり、だんだんとフェードアウトしていっているのだ。その社会の実態が曖昧になっている場所にこそ、マイノリティが社会に割りこむ余地が残されているだろう(それは、社会への割りこみ方のひとつの方法でしかないのかもしれないが)。また、マイノリティは社会の外(正確に言うならば「周縁」だが)からでも、社会に影響を及ぼすことが出来る。先ほども書いた通り、社会は周囲の社会ならざるものとの間に明確な境界線を持たないから、外から異物が入りこんでくるのは比較的容易だ。また、社会そのものにも外側から異質なものを取りこんで、それを自らの内で培養して社会のシステムのために役立てようとする機能がある。この小文の最初の方で「社会自体がマイノリティをつくり出すことを求めている」というようなことを書いた。それは畢竟、社会が自らの内側にあるものだけでは成立しえないことを表している。社会は社会の外に弾き出すためのマイノリティを必要としている。それは内側からの不満を抑えこむためのある種の安全弁であると同時に、内側からの作用だけでは自浄能力を持てないがために、外側からの作用によって社会をより強く高い場所へ押し上げるための力が期待されているのだ。つまり、マイノリティが成すべき社会への働きとは、社会の内部に入りこんで行う単純な社会貢献だけでなく(そうした作業は、社会の内側にいるマジョリティが行うのがふさわしい。また、マイノリティよりもマジョリティの方が、そうした作業をよく成しうるだろうことは簡単に予測出来る)、外側から社会を変革してゆくことも含まれている。いや、マイノリティであるからには、後者の働きこそがよりふさわしい。何故社会の外に弾き出されてしまったのか。それを考えるならば、マイノリティは社会を逆差別しなければならない。社会へのそうしたマイナスの(ある種のルサンチマンに似た)思いがなければ、社会を外から変えてゆくことなど出来はしないからだ。ここで前章で挙げた「社会への逆差別はよくない」というモラリスト的意見は完全に否定される。そんなことを言っていたら、社会はいつまで経っても外側からの作用にさらされずに低い位置に留まったままだろう。「それでも地球は回っている」と言ったガリレオ・ガリレイのように、人類の文明の発展や法の整備などがしばしば社会の中の少数意見を元にしていることを考えると、社会への逆差別を戒めるモラリスト的意見は視野が狭いと言わざるを得ない。マイノリティは社会から疎外されているからこそ、自らもそれと同じかあるいはそれ以上の強度でもって、社会を疎外しなければならないのだ。もちろん用心深くつけ加えておくが、その疎外は社会を破壊する方向で働いてはならない。社会を外側から変革するためのマイノリティなのだから、その社会を壊してしまっては意味がない。マイノリティはすべからく、社会を冷静な眼で観察する批評者でなければならない。  ここで想起されるのは、昔から連綿とつづいてきた「表現者」の系譜だ。社会の外に立つことで自らは不遇をかこちながらも、それゆえに社会への痛烈なカウンターとして存在した「表現者」たち。芸術家や異端として一括りにされてきた人々だ。前時代的なアナクロじみた考えだと批判するむきもあるだろうが、歴史を検分すれば、そうした「表現者」たちが社会を変革する原動力を多少なりとも担ってきたことは明らかだ。むしろそうした「表現者」像が古くさいものとして廃棄されるようになったのが、現在の社会の停滞を招いてはいないだろうか。いくらアナクロニズムだと批判されようと、社会の構造を考えるならばマイノリティが「表現者」としての道を歩み始めるのは至極まっとうな帰結だと思われる。  マイノリティは社会から疎外される。そして、マイノリティ自身もまた、社会を疎外する。その互いに疎外し合う関係性の中で、マイノリティの心は育まれてゆく。そんな疎外し疎外される静かな劇が進行する心を持つ者であるからこそ、マイノリティは「表現者」たりうるのだ。自らがマイノリティであるという認識を持つことは、社会に容れられない孤独感とともに、自らの卑小さを思い知らされることにつながる。マイノリティはそうした欠如の感覚に絶えず苛まれている。しかし、昔話の一寸法師がその小さすぎる体躯のゆえにこそ鬼を退治することが出来たように、マイノリティは自らにしつこくつきまとう欠如の感覚ゆえに何事かを成しうるはずだ。言ってみれば、欠如があるからこそ打ち出の小槌を振るうことが出来るのだ。それが「表現」ということであり、「表現者」とは何らかの欠如の感覚と引き換えに「うたう」力を与えられた者の謂いであるはずだ。  ここにマイノリティの「社会的立場」というものがある。そして、そこからある種の「実現」を果たすためには、疎外し疎外されるという社会との相互作用が必要になってくるのだ。マイノリティが社会を変革する力を持つということは混沌が秩序に新しい形を与えるということであり、社会(秩序)がそこに容れられないマイノリティ(混沌)の力をうまく利用しているということである。マイノリティが社会から完全に弾き出されているわけではないのと同じように、混沌と秩序は徹底した対立関係にはない。社会という秩序は混沌を恐れる。何故なら、混沌とは秩序にとってわからないものだからだ。だが、わからないものであるゆえに、混沌にはこの世のものならざる強大な力が備わっているのではないかと、秩序は考える。だからこそ自らの変革とさらなる成長のために、時に混沌の持つ力を利用しようとするのだ。マイノリティも社会にとってはわからないものであり、それゆえに大きな力を持ちうる。わからないからといって、無理に社会の既成の枠に組みこもうとするのは怠惰なことだ。マイノリティの社会との関係性を考慮することなしに、ただ社会の内側に引き入れようとしても意味がない。往還する認識によって根を下ろしたマイノリティ性と、これまた往還する疎外の作用は、ともに社会がつくり出したものであり、それらは社会にとって有効活用することが可能である。残された問題は、社会秩序の内部にいる者が混沌を直視出来るかどうかということだけだ。昨今の均一化された精神性の影響を受けて、異質なものまで平均化してしまおうとするのは愚かなことだ。それでは自らが所属している秩序全体の停滞を招いてしまう。いっぽうのマイノリティの方は、自らが持っているかもしれない力を信じるしかない。自己実現のためでも、遠大な社会貢献のためでも、どちらでもいっこうに構わない。自らが疎外され、自らもまた疎外するという社会との関係性の中で、自分自身を確立させてゆく以外に道はないのだ。そこからおそらく秩序の内側からは決して発生することのない、新しい「うた」が生まれる。そして、いつの間にか「表現者」として存在するようになった自らを見出すことになるだろう(ここで言う「表現者」とは、芸術家や詩人などの文字通りの表現者だけを指すのではない。社会から疎外されている者は必然的に外側から社会を批評的な視線で眺めるようになるが、そのような視点を獲得すること自体「表現者」になるということとほとんど同義であり、特別な創作活動をしていなくても「表現者」たりうるのだ)。「表現」すること。「うたう」こと。うたう者は疎外し、疎外される。そこから響く「うた」は、いまは孤独の旋律を奏でているだけかもしれない。だが、いつの日かそれが受け入れられ、疎外し疎外されることのない、新しい朝がやって来ないとも限らないのだ。 (二〇〇九年六月〜七月) ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】停滞が継続していくこと。/いとう[2010年1月13日0時51分] さて。 40歳になったら隠居すると前から言っていて、 そのとおりに隠居しながらもう三年くらい経った。 なんだかネット上で詩を書き始めてから 十数年も経ってしまったこんなロートルがしゃしゃり出ても 百害あって一理なしなのだろう。 老害とはよく言ったものだ。 で。 ネット上の詩を見始めた頃と、今と、 状況は実は、なんの変化もない。 同じ話題や同じ議論が、 数年ごとに場所を変えて浮かんでは、 同じように収束していく。 個人的には「ネット詩」なんて言葉は そろそろ無くなってもいい頃だと思っているのだけれど、 そんな気配すら起こらない。 実際のところ、そんな状況に「飽きた」というのも、 隠居理由のひとつだったりする。 インターネットは蓄積が困難な媒体であるという思いが強く、 たとえばこの批評祭だって、 たった十数年のスパンで見ても、 「なんだか昔どっかで同じようなことやってたよなぁ」 という思いに駆られてしまう。そんなものだったりする。 何度もリセットされる仮想現実を延々眺めているような気分だ。 (もちろんそれがこの祭の批判につながることはない。  行動するものだけがいつも結果を得るのだ) よくよく考えれば、 インターネットの発展というのは、 それは記録の蓄積からではなく、 システムの新築からしか生まれていない。 初めはホームページというシステムだった。 それがブログになり、SNSになり、 最近はTwitterとかなんとか、 新しいシステムが生まれ、それが時流になり、 なんだか発展している(ように見える)、けど、 実際のところ、参加者が行っていることは、 ほとんど変わっていない。 結局“停滞”というのは媒体特性によるものであって、 詩の状況とかそんなもんは、実はまったく関係ないのだろう。 裏を返せば、「ネット詩」なんて呼ばれるもの“だけ”を見続けても、 「詩」については何もわからないままなのだ。 (悪い意味ではなく)「ネット詩」なんてそんなものだと思う。 ただ、そこにあるパワーは、大切にしたい。 そういう状況を見て、「停滞している」「何も始まっていない」 などと述べるのは、なんだかそれこそ、 停滞の渦の中にいるんじゃないかな、と、最近思うようになった。 なんだろね、嘆息ではなく感嘆しながら、 「よくこんだけのリセットが繰り返されるよな。」とか、 「よくこんだけ同じような議論がいつも起こるよな」とか、 なんか、そんな、停滞し続けるパワーみたいなものを感じるのだ。 継続にはエネルギーが必要で、 上昇しない螺旋階段のような場所で、それでも同じ場所を回り続ける、 そんな継続が未だに続いている、 なんだかそれって、 じつは凄いことなんじゃないの?って。 「どこにあっても詩は詩でしかない」というのが持論のひとつで、 それは結局「どこにあるか」で判断されるべきものではないということで、 「ネット詩」なんて言葉が生まれたのは、 「どこにあるか」で判断されてきた経緯の結果であって、逆に、 「ネット詩」なんて言葉が残っているのは、 それが続いているのか、あるいは、 (ネットで詩を書いている人ではなく)ネット上の詩を気にしている人が、 それがもう終わっていることに気づいていないのか、 あるいはもっと別の、何か別の要因なのか、 なんだかそれはわからない。 さっき書いたように個人的には「ネット詩」なんて言葉は そろそろ無くなってもいい頃だと思っているのだけれど、 そんな気配すら起こらなくて、 でもなんか「ネット詩」と叫び続ける人、叫び始める人は、たくさん生まれて、 それを批判する人もいつも同じように生まれて、 それこそそれは「インターネットだから」と言ってしまってもいいんじゃないかと思う。 「インターネットだからこそ」と、言い換えてみようか。 まー結局、実際のところ、 そんなパワーを持ち続ける年齢じゃなくなったというのも、 隠居理由のひとつだったりする。 同じ場所をぐるぐる回れるエネルギーなんて、 ロートルは持ち合わせていないのだ。 老人は、縁側で茶を啜ってればいいのだ。 なんだか毎日ぐるぐる昇ってくる太陽の パワー溢れる陽光に浸りながら。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】 現代詩フォーラム50選 (1)/露崎[2010年1月13日5時22分]  どうも!ショートレビュー・サンデーをかいてる者です。  現代詩フォーラム50選を発表し、わたしがたのしい。という企画です。  新しくこのフォーラムにきた人のガイドになれればいいとおもいます。  「なぜこの作品が入らない」とおもったら、自分で書いちゃいましょう。  これを読んでおけばまちがいない!な50個になったとおもいますよ。  001  ラブホへ行って死のう / しゃしゃりさん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=78621  笑いと泣きの表現では一級品の腕前をもつしゃしゃりさん。  伝説の「〜死のう」シリーズのなかでも「ラブホへ行って死のう」は  序盤に発表されたこともあり、インパクトがありました。  三国志買っちゃうあたり、どうしようもなくて、うわあ。となる。すごい作品。  「恥をしのんで生きよう」でシリーズを完結させるあたり、にくい作者でした。    002  コバルトブルー99% / ピッピ(ウィズアウト詩)さん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=23603  青をモチーフにしたら、右にでる者はいないピッピさん。  みずみずしい感性というのはこういうものを指すとおもう。しびれた。  「きみは青いねえ」なんて表現があって、たしかに青いわけなんだけど  でも、そんな言葉で否定しつくせない思いがこめられている入魂作です。  003  世界はいま、キッチンにあるとして / バンブーブンバさん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=13901  日常をただ描いただけにはとどまらない視野の広さを  この短さにさりげなく濃縮させるあたり、すばらしい技が光る作品。  身近なことをなにかに届かせようと目指す作品は多いですが、  これだけジャストな言葉たちはなかなかないでしょう。必見。  004    Love Song / 安部行人さん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=3841  恋や愛についての詩はそれこそ山のようにありますが、  群をぬく力強さでうたう愛がめちゃくちゃかっこいい作品。  大仰な表現だって「きみとだ」といわれたら、うなづかずにはいられない説得力がある。  無骨な男気をストレートかつ巧みに表現した一品。  005  少年予定 / 霜天さん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=69674  少年性を語っているようで、それだけではなく  読みようによって考えさせられることが、ひとりでたくさんでてくる不思議な作品。  読み手にすべてをゆだねるようなことはしていないのに、  けれど、読む側の意識を引き出してくれるような懐の深さがすばらしい。  006  金(キム) / 馬野幹さん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=62375  でました、キム。このすさまじさは一度読まないと分かるまいな一作。  コント的な展開から、そこまで到達してしまうのか。と驚くし  ひいてしまいそうな言葉や表現でさえ、美しいと感じさせる熱量は  なかなか触れることはできないものだとおもう。名作。  続編の「金金金(キムキムキム)」もおもしろい。  007  おはなし 1〜50 / Monkさん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=10872    でました、Monkさん。才能で、ずば抜けたものをもっている方だとおもいます。  散文や批評でも名文をいくつも輩出していますが、詩もすごい。  50個のおはなしどれもがどこかにアイデアがあり、工夫しているのがわかる。  わかるのに、それがつくれるのか。とおもいあたって、戦慄を感じてしまった。  また投稿してくださるとファンとしてはうれしい。  008  君に覚せい剤を打ちたい / 寺崎 マサシさん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=125563  「覚せい剤を打ちたい」そのまがまがしいまでの強烈な言葉が、  なんどもなんどもくりかえされるこの作品。  一歩まちがえれば、ただ物議をかもすようなものになってしまうけれど、  それをぎりぎりで回避して、美しさすら感じさせてしまうまでいたっている。  タイトルのインパクトもふくめて、すさまじい作品。  009    ひとつの車輪が回っていった / こもんさん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=167105  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=167778  これは以前、レビューをかいた作品ですが、当然のようにいれます。  相変わらずわからないわけですが、そのわからなさがやはり素敵な作品。  010  ANOTHER GREEN WORLD / カワグチタケシさん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=20645  朗読を聞いたことがあるのですが、そのリズム感たるやすごいものがありました。  解釈をこえた部分に作品があって、ひとつひとつの表現が、  強烈に映像をおびてくるこの高出力の描写はなんなのだと衝撃でした。  いまだに色あせない訴えかける名品。  011  寿司屋にて / 嘉村奈緒さん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=3410  これも初期の名作だなー。吐露とトロ。言葉の妙が実におかしい作品。  大将と私のコミカルなかみ合わないやりとりが単純におもしろいし、  全速の助走からの後半は、人間と人間のかかわりを自問しているようで  全体にわたって、鋭さがまったく落ちないすばらしい詩になっている。  012  センチメンタルレッスン / ナカゾエ ヨシヒロさん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=86696  知る人ぞ知るナカゾエさん、シニカルさ全開の一作。  なんてったってタイトルがまず良いわけですが  キャッチーな「いいえ、ゴリラです」の問答から、ここまで広げられることがすごい。  「軽作業->16歳->」の散文もすばらしいものがあります。  013  ハピネス / いとうさん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=138  おなじみいとうさん。名作がおおすぎて選ぶのも一苦労ですが、  やはりこれでしょう「ハピネス」。  ただ善と悪が戦うようなものでもなく、敵と味方というわけでもなく、  戦争が持つ一般的なイメージを、本当の意味でつきつめていくには  これだけの思考が必要で、それでも足りないのだということがわかる  人間の深淵をのぞきこむような作品。  014  光、スロウ、アウェイ / nm6さん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=13881  冒頭から全速力で疾走する言葉は、まさにnm6節といったところでしょうか。  当時、これを読んでそれは真似しましたよ。かっこいいもの。  バチバチと言葉が反応しあっていくさまは単純に快楽がある。  酔ってしまうような極上の作品。  015  よるにとぶふね / haniwaさん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=106107  人の息遣いを感じる詩で、せつなさがあふれてきてしまう。  やっぱり人間ってせつない生き物だよな。とおもって  なんだか泣けちゃう。そういう作品はとても少ない。  静かな夜の空気感がつたわるすばらしい一作。     つづく。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】権威と小波/atsuchan69[2010年1月13日12時45分]  そもそも我国において権威ある詩壇というものが存在するのだろうか? ひどく気になる。  きわめて発行部数の少ない「詩」の商業誌も複数あるようだが、そのどれをとっても「権威ある詩壇」というのには程遠い、と思うのは果たして私だけだろうか?  詩、そのものに無知な私があえて語るのも全くもって幼稚だと思うが、国体を維持/あるいは破壊するための権力装置としての各ジャンル・・・・。その片隅に「詩壇」も当然ある筈で、既得権益を温存したい社会的集団にとって個々の名もなき詩人(カオス)を無視するという権力者の傀儡である秩序/「詩壇」。  ――いや、そんなものが果たして存在するのだろうか?  別の見方をすれば、秩序/「詩壇」とは「既得権益を温存したい社会的集団」にとって都合のよい工作員(アジテーター)であるにちがいない筈なのだが、そういうものを――今のところ――私は皆目知らない。  もしも権威ある詩壇というものがこの世に存在するというなら、おそらくきっと神々の座に就いた秩序/「詩人」の名は、さぞかし広く世間に知れわたっていることだろう。(無知な私は、テレビアニメ・鉄腕アトムの歌詞を書いた谷川俊太郎と、テレビアニメ・あしたのジョーの歌詞を書いた寺山修司と、なぜか個人的なしょぼい理由で新川和江しか知らない)  純粋に、彼ら――秩序/「詩人」の役割とは、「詩壇」の維持(保身)であり、雨後の筍のごとく現れるカオス/「名もなき詩人」たちの黙殺である。  と、書いてしまった。が、こんなもん、ぜんぶデタラメであり、あくまで仮定の戯言だと言っておこう。    では、ここは現実的に・・・・自分自身を鏡の前でじっと見つめて――「名もなき詩人」たちの作品は、底なしの泥沼にただ埋もれてしまうのだろうか? ――と、いう哀れな問いかけをしてみよう。  おそらくは、あなたは余命一ヶ月です。と、宣告されるに等しい(みたいに)。  おそらくは、あなたのことはキライではありませんが、けして恋人にはなれません。と、大好きになってしまった片思いの人に交際を断られるに等しい(みたいに)。  そう、一抹の望みもなく、全くその通りであるにちがいない。  それでも、溺れる者が縋りつく藁のごとき詩壇が存在するというなら、たぶん「名もなき詩人」の居場所は、秩序/「詩人」の死者の数だけ空いているのかも知れない。  もしも権威ある詩壇というものが本当にこの世に存在するというなら、いっそ黙殺されるよりカオス/「名もなき詩人」たちがこぞって権力の側にまわるというのも妙案だ。  カオス/「名もなき詩人」から、秩序/「詩人」へ至る道のりは様々ではあるが、各界同様に以下の事柄が挙げられる。――   ?「既得権益を温存したい社会的集団」からの直接的な推薦。   ?「既得権益を温存したい社会的集団」傘下にある広告代理店等の働きかけ。   ?秩序/「詩人」との激しく、淫らな肉体的関係。   ?秩序/「詩人」への金銭授与も含んだ献身的従事。  因みに、文学賞は金で買える。私は、断じてそう信じて疑わない。(笑)  だがしかし、そもそも「詩」とは何なのだ。  いったい詩人(という職業?)は、ちゃんと金儲けになるのだろうか?  アタマの悪い私には、よくわからない。  そこで煉瓦造りの古く寂びれたチャペルへ行き、かよわい冬の光のなかで一人、お祈りをした。するとなんだか眠くなり、いつしか夢うつつに天使たちの飛び交う雲の間に間に、あふれ滲む陽光がつよく虹色にかがやくのを見た。  そして雷鳴にも似た轟きが遙か上空で響いたかと思うと、いやそれは耳にはよく聞きとれぬほど力強いノイズの雑じった人の声だった。轟く声は、こう言った。  ――詩とは、あなたがたの憎むべき金銭の対義語である。  そして虚しくも、ふりだしに戻る。・・・・我国において一般的にアカデミックであると認められる神々の住まう「詩壇」は存在するのだろうか?   安室奈美恵、木村拓哉らの国民的大スターに匹敵する詩人はいるのか?  AKB48、GIRL NEXT DOOR、ICONIQ×ATSUSHIのメンバーたちみたいにパワー全開の詩人はいるのか?   そんな凄いやつ、現れたら・・・・きっとまた「既得権益を温存したい社会的集団」という、さもしい権力者の傀儡に抹殺されちゃうのかもしれない。というか、詩壇にそんな凄いやつが現れたって世間一般のごくフツーの人たちにとってはゼンゼン関係ないだろうが。(汗)  元来、詩人ってのは、派手に目立つべき存在ではない。だからこそ、かえってそこがカッコイイともいえる。  とことん、カオス/「名もなき詩人」であるこの私も、一滴の水が小さな波紋をつくるように、今後もぽつん、ぽつんと詩のようなものを書きつづけよう。  やがて私が滅びても、数多の名もなき詩人たちは虚空にむなしく、それでも表現すべき何かがあるかぎり、永劫に向けてきっと詩のようなものを細々と書きつづけるのだ。それは私たちの憎むべき金銭の対義語である――生きている、そのこと自体の・・・・煌く、た、た、たどたどしい言葉の羅列である。  それらが後世に記録されるべき価値を持つか否かは、さして重要な事柄ではない。  言葉を紡ぐ・・・・いや、それ以前に「言葉を発する行為」そのものが、権力へのレジスタンスとして十分に機能するものなのだから。   ――追記。    さて、詩人たちが対峙するものとは、いったい何であろうか?    詩において表現者のまえに峙つのは、多くの一般的読者なのだろうか?   否。――詩人(ジェダイ)が対峙するものとは、銀河に果てしなく拡がるダークフォース・・・・憎むべき永劫の他者、虚無そのものである。  その輝ける闇のまえでは、きっと誰もが名もなき詩人たちなのだ。   ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】つめたくひかる、3?江國香織の表記/ことこ[2010年1月13日19時15分]  前回、前々回の「つめたくひかる、1―江國香織『すみれの花の砂糖づけ』」(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=201263)「つめたくひかる、2―江國香織『すいかの匂い』」(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=201312)では、それぞれ詩集『すみれの花の砂糖づけ』と短編集『すいかの匂い』を「つめたい」という言葉に着目しながら読んできた。これらを読んだ方は薄々感づいていることと思うが、江國香織の「つめたい」は、「冷たい」ではなく、「つめたい」であり、すべてひらがな表記である。今回は、この表記について考えていきたい。   *  江國さんは、漢字とひらがなにも独特の選択眼を持っている。  何を漢字にするか。どの部分をひらがなにするか。同じ言葉でも、あるときは漢字になっている。あるときはひらがなになっている。  文章の中での、言葉の力の入れ方を決めるために、江國さんは漢字とひらがなを選ぶにちがいない。  この言葉ならば、必ず漢字。この言葉ならば、いつもひらがな。そういうふうに、自動的に書くのではなく、言葉ごとに立ち止まって、文章ごとにためつすがめつして、そして決めるにちがいない。 (『すいかの匂い』(新潮文庫)解説 川上弘美)  例えば、短編集『すいかの匂い』の中では、「すいかの匂い」という話では「扇風機」をすべて「せんぷう機」と表記しているが、「ジャミパン」などの話では普通に「扇風機」と表記している。ここから見ると、なるほど、川上氏の指摘も頷ける。しかし、「つめたい」は『すいかの匂い』に限らず、私が探した限りではすべてひらがな表記であった。これは、何故だろうか。  まず初めに考えたのは、もしかしたら形容詞はひらがなである、という傾向があるのかもしれない、ということだった。しかしその可能性はすぐに否定されてしまった。 ○蕗子さんからきいた話のなかで、いちばん印象に残っているのはカメの話だ。かなしい話だったが子供心を揺さぶるものがあり、くり返しせがんできかせてもらった。(「蕗子さん」) ○(とられた体操着袋を水たまりの泥の中にみつけたときの哀(かな)しさと屈辱感、そして、一人だけ汚れた体操着をきて受ける体育の授業のいたたまれなさといったらない。)(「蕗子さん」)  同じ話の中で「かなしい」は「かなしい」と「哀(かな)しい」(本文にもルビがふられている)の二通りの表記がある。他の場所でも、「かなしい」はこの二通りの表記が見られた。  他にも、 ○元来羊羹は苦手なので、買っても一口食べれば満足してしまうお菓子だったが、名前の美しさと姿の涼しさにつられ、毎年どうしても欲しくなった。(「水の輪」) ○私には父親がいない。死んだり別れたりしたのでなく、はじめからいないのだ。それでもとくべつ淋しいと思ったことはない。(「ジャミパン」) と、「涼しい」や「淋しい」は漢字表記の傾向があるようだった。こうなるとやはり形容詞だから、という理由は無理だ。しかも、一般的にいっても、小学4年生で習う「冷たい」より「涼しい」や「淋しい」の方が難しい漢字である。恐らく、文章を書くときに、特にこだわりがなければ、普通は「つめたい」は「冷たい」と漢字表記にするのではないだろうか。ここで「つめたい」を「つめたい」と表記することには、意図的なものがあると考えられる。  では、「つめたい」というひらがな表記には、どのような効果があるだろう。Yahoo!で「つめたい」を検索してみたところ、一番上に出てきたのは「きゅんとつめたい。「カルピスウォーター」|カルピス」というキャッチコピーだった。他にも、Yahoo!キッズのページを除けば、上位に出てくるのは歌詞や本のタイトル等が中心である。カルピスのキャッチコピーの場合、「つめたい」にはやわらかさ、老若男女を含めたしたしみやすさ、などの意識が込められているのではないかと思う。しかし、それ以上に、通常ならば漢字表記にするだろう字をあえてひらがな表記にすることで、読み手の意識をはっとひきつける効果というものが生まれるのではないだろうか。  ここで、詩作品を見てみよう。 古月「初秋」(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=195935)  この詩の場合、かなり漢字が多用されている。その中で、「つめたい」は「つめたい死体」「つめたい井戸」「つめたい井戸」と3回出てきており、いずれもひらがな表記である。ともすると漢字の勢いに乗ってすべり読みしてしまいそうなところを、ふいにひらがなで抜けることによって、読者の目を引きつけ、「つめたい」の次の「死体」「井戸」をも強調する効果を生み出しているのではないだろうか。 もう一篇みてみよう。 小川 葉「つめたいビールが飲みたくて」(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=172645)  こちらは、「つめたいビール」「つめたい女」「つめたいビール」とやはり3回(タイトルを含めると4回)、「つめたい」が出てくるが、いずれもひらがな表記である。この詩では「つめたいビール」が重要なモチーフとなっており、特に、中盤の「ぬるいビール」と「つめたい女」の対比が印象に残る。  以上で見てきた通り、「つめたい」をひらがな表記にすることには、その言葉を読者に読み流して欲しくない、丁寧に扱いたい、といった気持ちが反映されており、ひらがな表記にすることで、読者の目を引きつける効果があると考えられる。   *  さて、私は、「つめたくひかる、1―江國香織『すみれの花の砂糖づけ』」の冒頭で、何故今回「つめたい」という言葉を扱うのかということに対して、「なんとなく印象に残ったから、としか答えられない」と書いた。  この、「なんとなく印象に残った」というのが、実はすごいことなのではないかと、先ほど引用した解説の続きを読むとそう思う。  工芸品をつくる職人さんのような技だと思う。完成した作品はとてもなめらかなので、どんな技を使ったか、すぐにはわからない。わからないけれど、確かに技は使われている。わからないということが、何より、技を使ったしるしなのだ。 (『すいかの匂い』解説)  これまで、江國香織の「つめたい」という言葉を巡って、詩においては精神的な隔たりのある場面で、『すいかの匂い』においては精神的に不安定な場面で用いられていることを述べてきた。この、ここぞ、という場面で用いられる「つめたい」という言葉は、やはり江國香織にとって大切にしたい言葉であり、だからこそ私にも、つめたくひかる、言葉として、心に留まったのだと思う。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]『批評祭参加作品』いとう氏へのレスポンス/ダーザイン[2010年1月13日21時08分]  ネット詩などという死後は活字媒体のインターネットが使えない一部の老人たちだけが使う言葉であり、私はネット詩などという意味不明の言葉はもう随分前から一切使わなくなっている。ネット以外のどこに活きの良い詩があるというのか? 老人権力に媚び諂い一私企業にすぎない思潮社の引いた老人ホーム行きのレールに乗る輩は芸術家じゃない。現代詩手帖の発行部数を考えてみるべきだ。思潮社から著者自腹で発行される詩集の発行部数は五百部だ。そんなもの、この情報社会でシェアされていない。存在しないも同然だ。ゼロ年代の詩人という言葉があるが、あそこには本物の現代詩人はほとんどいない。  携帯から世界に接続し始める中高生の目に真っ先にとまる詩は月刊未詳24の吉田群青さんの詩だろう。谷川俊太郎の詩など一つも読んだことが無い彼らが無学だと考えるのはおかしい。シェアされていない情報は、存在しないと同じことなのだ。パソコンを使う世代はすぐに文学極道創造大賞を見つけるだろう。創造大賞受賞者の凄さと比して、H氏賞受賞者の名前を言ってみるとする。ほとんどすべての者が「そいつ誰? そんな奴知らねえ」と応えるだろう。  何故そういうことになるか。ネットに出てこない老人とそれに媚び諂う若年寄たちは、物凄く内閉した発行少部数のおもちゃの城で瞞着しているからだ。  では、本物の現代詩人はどこにいるのか? 文学極道などのワイヤードメディアにいる。情報が無限にシェアされる地平に人様に読まれるべき現代性を担った書き手は姿を現す。  ネットの情報は儚い、継続性が無い、流れ去っていくものだというが、そのようなことは文学極道でも月刊未詳24でもまったくない。文学極道では落選作ですら含むすべての投稿作品にパーマネントurlが与えられ、永遠に視聴可能である。可読性の高さに於いてもパラダイムの巨大な転換が起こったのだ。  歳をとったと嘆く前に、現実に即した詩壇を作らなければならない。文学極道創造大賞受賞者にマスコミから執筆依頼が来るまっとうな世の中になるまで、俺たちは本物の現代詩を守り、見守り続けなければならない。それが、事を起こした人間の責任だ。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】批評なんて書く気も読む気もしねえっていう、僕へ/葉月二兎[2010年1月13日23時19分] 僕は不思議に思うかもしれない。批評祭なんてもんをやって、どうして皆は詩についてウダウダ書くのか、そして批評なんていう難しそうなことをするのか。第一どうしてわざわざ批評なんかをしなければなんないのかって。 じゃあ、僕はなんで詩なんて書いてるんだい? それも何作も。誰かに認められたい? そうだね、みんな多かれ少なかれ詩なんか書くのは、自分のエゴイスティックな感情が動くからにすぎない。で、他には? 書きたいことがあるから? でも、それがなんで詩じゃないといけないんだい。 表現したい? その通り。でも他の人たちは僕の書いたものについて、あれこれ言うかもしれない。「あなたのスタイルは〜」、もしくは「イメージをもっと練り上げて〜」なんてことを言われることもあるかもしれない。 ここでそんなどうでもいいことを挙げてみよう。 【詩になってない】 この世の中で最もくだらなくて価値の無い言葉だ。あんたが詩と思わないことを僕は詩と思っている。こう思えば神様だって納得してくれるはずさ。ただそれだけ。 【詩のスタイルがどうのこうの〜】 これもどうでもいい。どうやって表現するのか、ってのは僕の勝手。表現したいことが表現するように書けば何だって構わない。ようは思ったように書けばオーライってこと。 【眼に見えるイメージを描き出して〜】 もう本当に聞きあきたよ―――少なくとも僕にとっては、ね―――クソッタレ。でも本当に詩がイメージを書かなければならない必要なんて、蟻の涙ほども、全然ない。 僕たちはあまりにも簡単な言葉で伝えられることを、わざわざ詩にしたがる。それもわざわざ難しい言葉を使ったりしてね。別にそれは悪いことじゃないけど、詩なんかにしなくてすむなら、その方が遥かにずっといい。「好きだよ」、「愛してる」、「綺麗だよ」……でもそんなことは本人にちゃんと言った方が人生は上手くいくかもしれない。恥ずかしいって? 気にすることはない。今は詩を書いちゃってるって、暴露される方が恥ずかしい世の中なんだから。ともあれ、時たま神様の気まぐれってやつは、たとえそいつがどんなに敬虔な清教徒かヨブであっても、↓のようにしちゃったりする。 「さようなら」、「苦しい」、「嫌だ」、「助けて」……でもね、こういった感情はそのまま声に出して言ってしまった方が、大概は楽になるってもんだよ。 それでも僕が表現をしたいんだったら、またはこう言ってよければ、「創作」をしたいんだったら、表現したいことにあった形式にするのがベストだ。たとえば絵を書いたり小説を書いたり映画を撮ったりね。これは僕の経験則だけど、詩なんて自分の伝えたいことが一番伝わんない表現方法なんだよ。だからもっと良い方法があるのなら、とっとと詩なんて形で表現するのはやめたほうがいい。 それでも僕は詩なんか書いてる? ま、そうなってしまったんなら、もう病気みたいなもんだ、って思って諦めよう。たぶん僕自身はそいつをこじらせて、誰も読み解けなくて分からないような詩を書いてる。「読み解く鍵ない文章は生活だ」って書いたのはベンヤミンって奴だけど、そいつの言葉だって、「そんな文章を書いてる奴は病気だ」ってことを言い換えてるにすぎない。 もしかすれば、そのうちペニシリン級の特効薬が登場して、僕の知らないうちに世界の全員に処方されるかもしれない。 ……まぁ、なんだ。話を戻そう。もう僕は疲れているし、そんなに時間もない。とにかく言いたいのは、批評なんていう御大層な言葉をもち出して、僕や僕の書いた作品のことを一つも気にも留めていないような、お決まりの言葉や単なるジャーゴンの塊なんか気に掛ける必要なんて、宇宙の塵一つ無いってことさ。でもそんなクソの塊を一度でも目の前にすれば、僕は次に詩を書くときに、表現したいことを少しだけ、僕なりに書き表しやすくなるかもしれないけどね。 さぁ、いよいよ終わりにしよう。批評するってのは、作品のことを、それを書いた人のことをちゃんと分かろうとすることなんだ。でもみんな他人のことなんて分かりっこない。僕自身だって、僕のことは分かんないんだからね。でもさ、そう、たとえばそれを、スプーン一匙汲み取ってみるだけでもいいんだよ。 それが結局は批評の言葉になる。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】馬野幹のやさしさについて/大覚アキラ[2010年1月13日23時24分] というわけで、今回もまた大好きな馬野幹について語りたいと思うのです。 『ラストオナニー』馬野幹 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=125719 何かが終わるとき、人はなぜかやさしい気持ちになるものです。 卒業だったり、退職だったり、年末だったり、死だったり。 ほかにもいろいろ、ね(時にはやさしい気持ちになれない終わりもあったりしますけどね)。 どうしてなんだろうね。 終わる、ということによってもたらされるカタルシスがそうさせるのかな。 それとも宗教的な「赦し」の感覚に近い何か、かな。 この『ラストオナニー』という作品は、そういうやさしさに満ちているよね。 終わりに向かって減速しつつ、すべてを脱ぎ捨てながら搔き消えていくような、やさしさ。 こんなに美しく、やさしい詩が、この世にあといくつ存在するだろう。 この作品に限らず、馬野幹の作品は意外にも(意外じゃないか、ごめんね)やさしさに満ちている。 『夜勤明けのガードマンへ』とか、 みんなが大好きな(笑)『金(キム)』なんかも、 そこには無条件で全身で抱きしめてくれるようなやさしさがある。 やさしいなあ。そして美しいなあ。 でもさ、馬野幹がほんとうにみんなに叩きつけたいのは、 きっとこういうことなんだと思う。 社会人になるとなかなか面とむかってあほとは言われなくなるでしょう だが俺は君に言おう うすうす気づいているだろう 君はあほだ そうさ。 詩を書くなんて、あほのすることなんだよ。 そしてきっと馬野幹に言わせれば、それを批評するなんてのは、最上級のあほなんだろうな。 素敵だ。       ※文中、敬称略。       ※文中の引用は、馬野幹『グリーングラス』より。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】 現代詩フォーラム50選 (2)/露崎[2010年1月13日23時50分]  現代詩フォーラム50選を発表し、わたしがたのしい。という企画です。  みなさんついてきてますか?テンション落とさず残り35個いきましょう。  016  野球やりに行こうぜ磯野 / セガール、ご飯ですよさん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=170034  ユーモアならこの人は外せない、セガール(略)さん。  「野球やりに行こうぜ磯野」その言葉になにかが足されるだけで、  こんなにもおもしろくなりますか。という才気がほとばしる作品。  終盤には狂気すら感じられて、磯野と中島の背中がみえるようでした。すごい。  017  醤油 / たもつさん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=504  おまたせしました、たもつさん。たもつさんも名作が多く選ぶのはむずかしい。  ここはやはり以前もレビューした「醤油」をあげておきたい。  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=187342  いつか、たもつベストアルバムを勝手に妄想して投稿したい。  018  世の中がどんなに変化しても、人生は家族で始まり、家族で終わる / 吉田ぐんじょうさん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=194835  でた。吉田さんのクリティカルな一作。吉田さんも名作多数ですが、  これが一番、吉田さんの持ち味をあらわしているとおもいます。  語り部としてトップクラスの作者だとおもうので、  長いのにめげず読み進めると、ひきこまれてしまいますよ。  019  かみさまについての多くを知らない / 望月 ゆきさん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=35474  望月さんのやわらかでうつくしい表現、ゆったりとした語り口、  作者の魅力をかたちづくる色々なエッセンスがつまった一作。  「かみさま」というどうにもあつかいにくいモチーフを、  すてきに詩に封じ込めています。おぼれないように気をつけましょう。  関連として「かみさまについて学んだいくつかのこと」もあげておきたい。  020  風が唄っていた / ダーザインさん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=10143  文学極道のドン、ダーザインさん渾身の名作。  身構えてしまいそうな幻想的な描写さえ、受け入れさせるような説得力は圧巻。  最終行の「風が唄っていた」の余韻は、特筆すべきものがあるとおもう。  「旅の終わりに」「星屑の停車場にて」などでもその持ち味が堪能できます。  021  肉じゃが / 窪ワタルさん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=16766  これを選ばずにはいられないでしょう。窪さんの「肉じゃが」。  身を切るような痛みが読むたびにやってくる鋭すぎる作品です。  痛みをともなうような読詩体験は、この作品がはじめてでした。  一度でもよいので目を通すと、その強烈さにひきこまれるでしょう。すさまじい一作。  022  スタンダード / 大村 浩一さん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=37228  大村さん、ご結婚にさいしての、でましたこの詩「スタンダード」  「君の幸せに、間に合って良かった」ずるい。こんなこと言ってみたい。  車の種類からはじまって、人生が透けて見える展開が見事な一作。  愛についての詩を読みたいかたはご一読を。にやにやしてしまいます。素敵。  023  ピース、ストロボ / 高田夙児さん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=15167  現代詩フォーラムでは、一番すきな作者である高田夙児さん。  淡々とした描写や、あとに未練を残さないような言葉の使い方にしびれます。  それでいて、余韻が美しいというクールさにわたしはやられました。  この詩がすきな人とは趣味があうのではないか。そんな傑作!  024  きゃらめる 5 / アンテさん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=8332  全編、ひらがなで書かれた作品ですが、この幸福さはなんなのか。  キュートな印象が目立つけれど、芯がとてもしっかりしていて、  深みのある味わいがとても素敵な作品です。  かわいい詩が読みたい、そんなあなたに最適な名作。  025  稲妻でみんな酔って終われるって言うから此処に来た / 水在らあらあさん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=106614  水在イズムがもっともあらわれているのはこの作品ではないでしょうか。  乱暴でさえあるような勢いのある言葉が放たれていくさまは、  ほんとうに自由に詩をかいているのだなと心打たれるものになっています。  名作多数ですが、危険なほどにかっこよいのでおぼれないように!傑作。  026  美しき日々 / 石畑由紀子さん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=17499  石畑さんのぞくぞくするほど官能的な一作。  下品にならずに、ここまで男女の関係を描けるのかという衝撃がありました。  小指を与えてみる。というそのなんとも妖しい発想。  女の美しい所作が思い浮かぶようです。読むべし。  027  アースシャイン / 夏野雨さん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=147713  近年の現代詩フォーラムではMVPなのではないか。  そんな称賛をおくりたいぐらい、良作名作を送り出してる夏野さん。  以前レビューしましたが「アースシャイン」。孤独の輝き。  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=173862  028  滑らかに廻り続ける欲望の輪 / 大覚アキラさん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=32086  大覚さんのシンプルかつ力強い一作「滑らかに廻り続ける欲望の輪」  無駄をそぎ落としたソリッドな本作は、そのたたずまい、まさにロックですね。  やはりこういうシンプルな構造の場合、作者のセンスが問われるものですが  見るものを圧倒する畳みかけに参りました。名作です。  029  いるかのすいとう / かいぞくさん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=24102  これほどまでに透明な絶望があるのか。と読んで言葉をうしなった作品。  こんなに美しいのに、こんなに残酷で、けどやさしくて、希望がある。  「これがひかりだ」という一行にはさまざまな感情をもって読みました。  自信をもっておすすめできる名作です。  030  すれ / ミサイル・クーパーさん  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=12565  最高の瞬間を、適切に切り取って表現する。できそうでできない芸当を、  やってのけているすばらしい作品。平易な言葉で語られているから、  すっと心にしみわたってゆくことができる。そんな魅力があるとおもいます。  現代詩フォーラム史にのこる不朽の名作でしょう。     つづく。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】死蔵作品を救うのは批評じゃない/KETIPA[2010年1月13日23時51分]  端的に言って量が多い、ネットにある現代詩てのは。現代詩フォーラムだけでも、数えたことないけど何作あることか。で今の現代詩フォーラムでは、その中から作品をより分けるシステムがろくに整っていない。書いたら書きっぱ。ポイント数やら個人のオススメからより分けていきゃいいんだろうけど、右も左もわからない現代詩初心者、しかもつまんなければパッパとページを変えていくネットサーファー達が、あるかもしれないお気に入り作品を根気よく探すわけがない。  だから現状では、現代詩フォーラムは単なるデータベースに近い。積極的にそのデータベースから良質と思われる作品を引き出すシステムがないから、99.9%の作品は死蔵状態のようだ(しかもそのうちのほとんどは駄作かもしれない)。ある意味ここは、ネット詩の墓場だといってもいい。アーカイブは閲覧されなければ価値がない。  例えば現代詩フォーラムの詩から、テーマや作風ごとにアンソロジーを組んだり(なにも紙媒体にする必要は無い)、pixivのようにユーザータグ設定をするだけでも格段に視認性が上がるだろう。  そもそも詩を知りたいと思う人が、必ずしもその詩の解釈や批評を必要とするかは疑問だ。おれのように、たまたま現代詩に触れて「なんだこれは」という経験をすれば、そこから探しにかかってくれるかもしれない。詩の批評に触れて詩に誘いこむより、詩を提示したほうが手っ取り早い。音楽でも視聴は大きな誘引効果を持つはずだ。それなのに現状では、去年(2009年やぞ)30ポイントを獲得した作品の検索すらままならない。当然ポイントの多い少ないは、個人的感動に比例するわけでもないから、ポイントはあまり入ってないけど個人的にはこういうの好き、という作品との出会いは相当難しい。  カテゴリーにしても大雑把過ぎる。せめてインディーズ音楽投稿サイトのmuzieくらいに細分化してくれないとダメだ。なんでもいいから音楽を知りたい、というのでなしに、ロック調の音楽が聞きたいとか、そういう具体的なニーズを満たしてくれる環境が、ここは整っていない。その分思いがけない作品に出会えるというメリットはあろうが、視認性の悪さはそれを上回るデメリットだと思う。  断言してもいいが、批評だけでは新たな読み手、書き手を誘引できる効果は少ない。恐らく何度も言われていると思うが、システムの見直しか、新たなポータルサイトでも設立して、さまざまなタイプの詩に触れられる場を設けるべきだ。そこに必ずしも批評は必要ない。例えば近現代詩まとめ(http://uraaozora.jpn.org/index4.html)や、ネット詩:選出作品リンク(〜2008.12)【完成版】 (http://caseko.blog90.fc2.com/blog-entry-307.html)のほうが、現代詩フォーラムの新着や、ぽっと出の詩批評より遙かに有用だ。そこのところの、データベース運用のセンスを持った人間が、現代詩フォーラムにはいい加減必要だ。何回言ってんだ過去の人(あまり知らないけど、言ってんですよね?)。  あと現代詩フォーラムというか、現代詩の書き手達は、読み手として想定される人間を限定しすぎてはいないか。自分がそうだからと言って、人が同じ読み方をしてくれるとは限らない。むしろ解釈は邪魔だという人だっているだろうし、そんなとこに面白みを見出されるとは、と作者の想像を超えた感動を勝手に受けてくれるかもしれない。そしてそれは邪道な読み方だなんていってるうちは、客はどんどん店にこなくなる。言葉遊びでいいじゃないか、ノリだけで感じたっていいじゃないか。意味がどうした、解釈がどうした、そんなんより先に、現代詩を、それなりに読めたレベルの現代詩を黙って提示する。それだけのことが未だに出来てないんじゃないか。  まだまだ現代詩の認知度なんて話にならないくらい低いんだから(Wikipediaの現代詩の項目とかがっかりするよね)、もっと門戸を広げましょうよ。潜在的読者はいるはず。どう理解してもらうかとかじゃなくて、もう理解できる素地をもっている人間は絶対いるはず。そこの結びつけをすることが、現代詩を広めるための第一歩なんじゃないかと思う。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】学校だと思う。/相田 九龍[2010年1月13日23時59分]  詩は勉強するものだろうか、という問いにイエスと答える自信はない。詩は教えられるものだろうかという問いにも同じく明確に答えられない。  短歌などの世界では結社というものが存在するそうだ。自由詩にそれは必要だろうか。それは、必ずしも必要ではないだろう。  詩のサイトは学校だと思う。教える者と教えられる者が存在する学校だと思う。基本的にはみんなでニコニコしながら、たまに厳しい目を向け合いながら、切磋琢磨するべきだと思う。詩のサイトは学校だと思う。  では冒頭の部分と矛盾するではないか、と思った人も多いかもしれない。誰が教師で誰が生徒なのか、と疑問に思う人もいると思う。すべての人が学校だと思わなくてもいいと思う。ただ単純に、少しずつ成長していく詩人に、少しずつ良い影響を与える人がいれば、それは良い環境だと思う。多くのサイトがそういう環境になればいいと思うので、そう思う。  批評家が先生ってわけじゃない。批評家はひとりの生徒です。詩人がじゃあ先生なのかって言うと、でもそうでもない。詩人のひとりひとりも生徒です。謙虚に学ぶ姿勢で詩を読んで発表して欲しいと思う。これが勉強になるよって批評家はみんなに教えてあげればいいと思う。みんなが生徒で、そのときどきで誰かが先生だと思う。持ちつ持たれつだと思う。  言ってみれば、文学極道は大学になって、現代詩フォーラムは中高一貫になって、小学校もたくさんあって、居心地の良い場所を自由に行き来できて、そうなればいいと思う。  どこぞの校長は体悪くしてる癖に喧嘩好きだったり、どこぞの校長は説明下手で愛想悪かったり、どこぞの校長は酒ばっかり飲んでたり・・・まぁ、そこはご愛敬ってことで。  何考えてるか分からないヤツが学園祭を開いて、少し寂しかったところがパレードみたいに賑やかになって、まぁ苦情なんかも出て、それでも楽しかったなあ、と思ってもらえれば、それで十分。  僕にはたくさんの先生がいて、たくさんのクラスメイトがいて、それぞれ癖があってみんなと仲良くはなかなか出来ないけれど、卒業する気はさらさらなくて、「お前が俺の批評祭だ!」って気になる女の子に言ってみたら、笑われて、このへんで、お開き。  いっつも疲れるんだけど、やり切るって、結構いいもんだよ。  来年も、よろしくお願いします。  あ、なんか、期間に間に合わない参加作品があるらしいけど、そこもご愛敬ってことで。  ポイントの集計は、19日の夜に行われます。出来ればそれまでに、ひとつでも多くの作品に目を通していただければ、とても、嬉しく思います。  ではでは、ありがとうございました。  すべての詩人に、拍手。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】<椎野いろは>さんの『つなぎ』と『低気圧』を読んで/Kashin[2010年1月15日22時14分] <椎野いろは>さんの作品、それは「展開の美しさ」 ■作品1 つなぎ   椎野いろは 詩になることで 一歩ずつ押しだされ ひとつ またひとつ 人間になっていく 詩になれなかったぼくが 水溜まりに転がって ぼんやりと 道行くサラリーマンに踏み潰されるのを待っている カラスに食い散らかされる前に 夕日の端で焼却され 塵となったぼくは 雨粒に溶け込んで きみの傘へと降りそそぐ 晴れた夜には 大気の層が ぼくを哀しみで包み込み 誰も気づかなかったような色で 淡い光を灯すだろう ランダムな日付のカテゴリーに解体され 分類・整理されそうになるぼくを 言葉が つなぎとめている ■批評 まず前置きとして、私が今後使う「作者」とは、作品を実際に作成した人の事を指し、「語り手」とは、作中で客観的に語っている語り部の事を指し、「主人公」とは、作中で実際に行動・言動している人の事を指します。いきなりそんな面倒臭い事を述べて申し訳ないのですが、それらの区別はとても重要なので、約束事として提示しておきます。<椎野いろは>さんのこの二作品は、おそらくそれら三つの区別が成されておらず、ほぼ同一にして扱っている可能性が高いと思われます。ちなみに、二作品目の『低気圧』は批評の後に掲載しています。 二作品とも、改行する事でうまくリズムを作っているので、読者としてもとても読み易いし、語り手に寄り添って読んで(歩いて)いけます。「詩」は、小説や映画のように物語の形式を取らない事も多いですが、リズムを付ける事で、物語のように展開の盛り上がりを作れる効果を生みます。無論、その効果により、読者もハラハラドキドキしたり、それとは逆に、安らいだり、感情が揺さぶられる事もあると思います。リズムを作るという事は一つの演出技術といっても良いでしょう。改行でリズムを作る事も出来れば、他には例えば、普通なら区切るのに、わざとずらずらと長い一文にして異様な感じや鬼気迫る感じを出す事も可能ですし、わざと全文カタカナにして読み辛くしたり、ロボットなど、人間じゃないような雰囲気にしたり、単語を羅列したり、体言止めしたり、○○よ!とか、ああ、とか使ってみたり、本来一つの文だったものを五行に分けることでサスペンスみたいする事も可能ですし、一行目読んだ後の予想とは反する事を二行目に書いたりもあるやんかね、あ、なんかごめん、リズムとは関係ない話も最後に混入しちゃったけど(笑)、まぁ大人には色々事情があるという事で・・・w。んまぁとにかく、私が思うに、「詩」において「リズム」とは、息遣いを与える事で、作品に命を与える事に等しいと考えています。無生物である作品が、生物になるわけです。改行は詩の基本技術!これマジ最高! ではそろそろ、本文を読み解いて行きたいと思いますが、『つなぎ』の一連目にある「詩になる」というのはどういう事でしょうか。純粋な存在になるという事かもしれないし、矛盾を受け入れるという事かもしれないし、疑問を抱えるという事かもしれないし、光や闇になる事かもしれないし、冒険する事かもしれないし、生命に絶望・歓喜し、爆発する事かもしれないし、大きな意味で、戦う、または、逃げる、事かもしれません。人によって、「詩になる」という事がどういう事なのか、色々違うとは思いますが、今回重要なのは、この語り手が思う「詩になる」の意味です。この語り手が言うように、「詩になる」ことで、ひとつずつ人間に近づいていくのだとしたら、「詩になれない」「詩にならない」と、人間から遠ざかっているもの(または停滞しているもの)になると思います。一般的に考えたら、詩になろうが、詩にならなかろうが、人間は人間だと考えるはずです。よく、一般的に、残虐な行為など、心無い事をする人間に対して、人間じゃないと言ったりしますが、この語り手もそれと似たように、人間の中にある何らかの部分を、人間らしい部分と、人間らしくない部分とに区別しているのかもしれません。 二連目、詩(人間)になれなかったぼくが、サラリーマン(おそらく、一般社会のシンボルみたいな意味)に踏み潰されるのを待っている。気が強い人間であれば、それに抵抗してもいいし、別に待たずに「水溜り(哀しいイメージの場所?)」なんかじゃなく、何処かに移動してもいいわけです。ですが、この語り手はそうじゃなく、自らの無力感のようなものに打ちひしがれている感じです。だから、「水溜り」なんかで待つしかないわけですが。こういう感覚は、人間誰しも一度は持った事があるし、理解できます。この作中で描かれている主人公の「ぼく」のキャラ設定が、そうなっているので、一個人の読者である私がうだうだ文句を言ったところで、変えようがありません。映画を観賞している人間が、映画のストーリー展開を変更できないのと同じです。だから私は、どんな作品に触れた時もまずは受け入れなければなりません。そして感じ、できれば理解し、一回近付いてみるわけです。どんな作品も、色々な情報(手掛かり)が散りばめられており、受け取る者はそれを拾い集めます。 三連目は面白い展開を見せます。「カラス」は一般的に悪いイメージがありますし、「カラス」の語の直後に、「食い散らかされる前に」とあるので、おそらく語り手がここで提示した「カラス」の隠喩も、あまり良いイメージではないでしょう。カラスは黒なので、暗闇とか、宇宙とか、そういう怖いもの、呑み込んでくるような、そういうメタファー(隠喩)かと思われます。「夕日の端」は、夜(暗闇)の前ですから、「カラス」に呑み込まれる前となります。したがって、「夕日の端」は逆に、やや良いイメージのもので、それに「焼却」されるのですから、悪いものからやや純化された存在に昇華したと思われます。ただ、これは、あくまでも自分の力ではなく、地球/太陽/宇宙/超自然の力によってです。そして、その純化した「ぼく」が「きみの傘へと降りそそぐ」わけです。「きみ(他者)」へ「降りそそぐ」のは、ある種の訴えや共感してほしいなど、そういう他者の存在への渇望があると考えられます。しかし、あくまでも「傘」に降りそそぐのが精一杯で、要するにガードされてます。たぶん作者的には、傘を差していても雨粒の衝撃音が聞こえるように、ある程度は雨粒(ぼく)がきみ(他者)に浸透する、良いイメージで書かれてると思いますが、私が感じたのはやはり、完全には拭えないその孤独感です。 ちょっとここで、違う話をしますが、二連目と三連目に書かれているように、「ぼく」が実際に「水溜り」で転がったり、「焼却」されて「塵」になったり、現実世界では普通はありえませんよね。こういう表現をしても良いところが、表現作品全般に於ける良い(面白い)ところの一要素だと思うのですが、例えば自分をまるで「物」のように扱ったり、客観的な目線で物事を見ようとする行為は、芸術など表現に於ける大変重要な基本技術だと思います。もちろん理性的な態度や観察や分析だけではなく、感情や感覚などの盲目性(のめり込む衝動)も大切だと思います。要はバランスです。個人的には感性大好き人間なので、理性とか論理とかクソくらえなのですが、やっぱり感性方向にいっぱい振った時は、ちゃんと地球の物理法則に従って、逆方向にも同じだけ振っとこうと、思ったりする二十代後半の私です。感性を磨く事は理性を磨く事にも繋がるし、理性を磨くことは感性を磨く事にも繋がると私は勝手に信じてるんですね。要は何が言いたいのかと言いますと、批評を書くと論理的思考だけじゃなくて感性も磨けるんじゃね?ってことで、、批評嫌いのあなたも一回どうぞ・・・という…(笑)。。 で、ええと、四連目は孤独で哀しいけど、やさしいですね。。「淡い光を灯すだろう」、ん〜、なんかやさしい気分になるね〜。。「誰も気づかなかったような色」、自分は居るやね〜、ここに居るんやから!居るどー!、居ますわね、ああ、まぁ、とりあえずまず、自分は自分で愛すわね、でも超自然パワーぼくをサポートしてねん。愛してる宇宙とボク。。。オーロラになった気がする!けど、四畳半の極貧生活だった!ビックリ!!(^o^)/ で、まぁ、弱い自分を肯定する、または否定してもある程度救う、ような内容を含んだ作品というのは、下手に書くとウザいです。私は基本的に弱さを肯定するような内容はあまり好きではないのですが、ウザいと感じさせない面白さや美しさや技術があればいいわけっす。で、ちなみに、この作品はここで終りません。 弱さだけじゃなく、強さが見えた最終連。一連目も相当格好いい出だしでしたが、最終連も相当格好いいです。イイ所もダメな所も全部ひっくるめて自分なのに、自分の部分ABCDが別々に判断され、何かの基準によって決めつけられそうになる、固定化されていく部分が硬直化する!、ああ!俺の体から生気が失われ、石みたいに!乾燥し、ひび割れが!ああ!体が圧力でバラバラに砕け散る!!、でも、そんな「ぼく」を、「言葉が」「つなぎとめて」くれてるんですよ!と考えると、この主人公にとって「言葉」は、矛盾した人間性の接着剤、葛藤する余地、水が水蒸気になって大気になって雲になって雨粒になって降って水溜まりになってそこに詩になれなかったぼくなんかが転がっちゃったりして、夕日の端で焼却なんかされて、え!?また雨粒になって降んの!?みたいな堂々巡りみたいな循環とか、そういう変化していく余地、姿を変えていく自分、「言葉」で、「詩」なんか書いたりして、「ぼく」は・・・「ぼく」の思う人間らしさを獲得できるだろうか。。いや、書くんじゃない、「ぼく」が、「なる」んだ、詩になれなかったぼくが、 詩になることで 一歩ずつ押しだされ ひとつ またひとつ 人間になっていく /// で、えーっとぉ・・・二作品目は敢えて批評しません。作成された時期も一作品目と近いので、作風も似ていますし、似たようなテーマ性、読解が可能だと思います。それでは『低気圧』でさよならしましょう♪^^ ちなみに高気圧は大抵、晴れです^^ ■作品2 低気圧   椎野いろは 前線が ぼくらを踏みつけにして 粘着質の雨を停滞させる 内臓は肋骨にぶら下がったまま くるくると渦をまいて 今日の天気に反応している こみ上げてくる葡萄の粒、 胸で弾けて お気に入りのシャツをひどく汚してしまった 新しい知識をはめこむ細胞に 蚊取り線香の煙が染み 真夜中に/早朝に/夕方に 目を覚ましては だらしなく口を開きながら 大気のせめぎあいに 気づいていく 「 地下鉄の轟音のなかに 〈美しいもの〉を忘れてきた ぼくを 」つかまえてくれ、 カビ臭い岩壁よ ゆがんだ蛍光灯が 震える自動車のバックシートに照らしだす 鮮やかな鼓動に打たれ 流れるテールランプの残像といっしょに 見すごしてきた過ちが 砂利道に突っ立ってるのに ただ事態を傍観することもできず リアルな世界の鳥羽口で どこまでも濁流に流されて―― ぼくは、形を変えて行く きみをまるごと引きずり込む 低気圧なのだ。 ---------------------------- (ファイルの終わり)