るるりらのおすすめリスト 2020年8月9日22時00分から2020年10月15日20時50分まで ---------------------------- [自由詩]平和の祈り/Lucy[2020年8月9日22時00分] そこまで惨いことをしてみせなければ わたしたちが 気付けなかったとお思いですか それほどまでして ただ懸命に生きていた人たちをいたぶり苦しめなければ 地道に生きることの大切さと 命の尊さを わからせることができなかったと お考えですか 例えばもっと恥知らずな 人を人とも思わないような 罪深い輩のほうをなぜ罰してはくださらなかったのですか 彼らは生きて 笑っている 自分たちの咎を知ろうともせず 犠牲になった人たちを悼むこともせずに 何も知らない私たちの罪と 彼らの罪が同等なら 彼らを指さし断罪する資格が私にないなら 苦しみうめき泣きながら死んだ人たちの絶望は いつどこで報われたのでしょうか いつ果てるともない問いかけに沈黙するだけのあなたは ただ 嵐の後の青空や 津波の後の平らな海を どこまでも続く焼け野原を みせるばかりだ 苦しみを人に与えたのはただ人なのだからと 等しく人を許すばかりだ ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典/アラガイs[2020年8月11日12時31分] 「千羽鶴」 作詞 横山 鼎 作曲 大島ミチル  式の終わりに際して地元の少女たちによって合唱される。悲惨で哀しい出来事を表現したこの歌は決して哀しみだけを閉じ込めて表現されてはいない。それが聴き入るわたしの胸の琴線にいつも触れてくる。何故か「五輪賛歌」から流れてくる絶え間ない強い光と、現実に照らされた暗い影との二面性を強く意識して感動を呼び込んでしまう。これはこの対極に位置する二つの歌に込められた思いから、人類の叡智に対する希望をひとつの夢に託すような願いを同様に感じるからだろう。 作詞は一般公募から選ばれている。 折紙の色に喩えたシンプルな作りの詩である。しかしこの素晴らしい歌詞を選んだ長崎の人々が広島県民のわたしには羨ましくも思えてくる。付けられたメロディーと合わせて歴史に残るような、また遺り続けなければならない歌である。「五輪賛歌」のように。 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世の中へのエールと 花火師の見つめる先が 噛み締めるように、あがり いやでも耳に入る まえふり きっと、5000とかで、寄付したら、込めてくれる 友達とわいわいしながら行って はやくあげろよなーとかディスって 邪魔だなーって でも全部聴こえて ぽーん と、あがる その中には 今か今かと 待ちわびて アナウンス入って喜んだり その中から新しい夫婦が生まれたり いろんな物語があるのが、変に自分のことのようにおもえたり ぽーんとあがる、あのいっぱつ 誰かは必ず 見てる ---------------------------- [自由詩]ラプタ/クーヘン[2020年8月14日12時21分] 天空の城ラプタを観ようとしたが、そんな映画は見つからなかった。 それは、発音のままならない幼少期にだけ存在したのかもしれない。 ---------------------------- [自由詩]こもれび盆/そらの珊瑚[2020年8月15日13時13分] 東の国の光が 樹々のさやさやに濾過されて 薄いカーテンにまるく形作られる あれらは宇宙から帰ってきた魂 風が吹くたび わずらいから放たれて踊ってみせる おばあちゃんのことで覚えているのは 千ピースのうち ほんのわずかで穏やかな数ピースだけ 声と おばあちゃんになってからの顔 人を形作るにはとても足りないね ある年 おばあちゃんは迎える人から迎えられる人になり ある年から あたしはお帰りなさいと言う人になった ---------------------------- [自由詩]憂鬱はこのようにして打ち砕いてゆく/ジム・プリマス[2020年8月15日13時37分] 何故か苛立つ 原因が分からない タバコも旨くない コーラも飲む気がしない 時にはそんなこともある 憎しみの波動を感じる 謂れのない悪意が伝わってくる そんな時は 冷たい水に浸かって 意識を宇宙に向かって開いてみる 身体が痙攣するにつれて 意識がだんだんクリアーになってゆく 気分がスッキリしてきた 天界の意識はいつも前向きだ 天恵を受けると 意識が前向きになる タバコに火をつけて 一本、吸ってみる そうするとタバコも いつもの味に戻っている 憂鬱はこのようにして 打ち砕いてゆく 感覚を研ぎ澄まして 意識をクリヤーに保つんだ そうして得られる空は だだの空じゃない 血沸き肉躍る至福に満ちた空だ チベット死者の書に書いてある通りだ そのことをまたこうして実感する ---------------------------- [自由詩]眠り/道草次郎[2020年8月16日5時17分] 目をつむると 疲れた子のように 眠ってしまった コオロギの子守唄が じつは 守ってくれていた 目を開けると まだ生きていて うれしくって だから 全部 水に流せる 気がした ---------------------------- [自由詩]独白/道草次郎[2020年8月17日9時45分] たくさん詩を書いて たくさん詩を消した 推敲などろくにせず 縋るように投稿した 作品と呼べるものなどなく とても人様にお届けできるものではなかった それでも悪くないねと誰かが言ってくれると ほんの少しだけ生き延びられる気がした そんなぼくの生きようをだれが笑えるか そんなぼくのみっともなさをだれが笑えるか ぼくが吐き出してきた詩はぼくそのものだった ぼくはすごい詩を書きたいわけじゃない 誠実になりたいわけでもない ぼくはただやり場のない気持ちをぶつけたかっただけだ ぼくはいまハローワークへ行く勇気が出ないからこんな詩を書いている そんなぼくをだれが笑えるか これがいまの正直な自分だ この自分というものをぼくはこの先ずっと愛し続けなければならない それだけが確かなこととしてエベレストみたいにそそり立っているのだ ---------------------------- [自由詩]星の刻/道草次郎[2020年8月19日10時33分] 星の刻 ぼくは砂漠のトカゲで 歩き疲れたラクダは銀河を見ていた 水溜まりにはジュラ紀の鬱蒼が ネアンデルタール人の女の子とも恋をして 弄ぶ時流のうねり 倦むことなき鍾乳石たち____ 単細胞生物だった思い出は キリマンジャロの彼方へ疾うに消え失せた 白亜紀の火粉が暁新世の扉に降りかかると さすらい人の太陽が2億年ぶりの帰還を果たす 漂着した羊皮紙を齧り齧り 化石化したスマートフォンに竹節虫(ななふし )のような指を這わせる____ 星の刻 ぼくはふたたび古代魚となって 始原の海へ泳ぎだす ほやほやの脊椎が痒くてたまならない ---------------------------- [自由詩]はなび/AB(なかほど)[2020年8月20日9時02分] やわらかいことばで 伝えようとすると よけいにかたくなに なってゆく ひとは水なんだってさ そんなことも 夕方にもなればようやく ひとごこちのつける その風にふと あの人の花のかおり そらに溶けてゆくのは そらに溶けていったのは 即興ゴルコンダより ---------------------------- [自由詩]わたしがぞうさんだったころ (童謡「かくざとういっこ」によせて・・)/Lucy[2020年8月20日21時09分] わたしがぞうさんだったころ 大きな大きな夢と希望と ありあまる時間と可能性と 努力すればいくらでも磨ける若さと才能と 確かな記憶と集中力と 眠らなくてもどこまでも歩ける体力と 持て余すほどの自意識と 自尊心と傷つきやすいガラスのハートと 持ちきれないほどの恋と憧れと欲望とで 膨れ上がって 自分が嫌いで 勲章はいつもはるかな遠いところに 誰かほかの人の胸に眩しく輝いていて うらやましくて 妬ましくて ぐずぐずしていたものだから 時間はあっという間に流れ ひとつひとつを失くしていった 憧れも希望もなにひとつ手に入れられず 象はしぼんで いつしか小さなありになっていた だから 角砂糖一個の幸せが とてもおおきい ---------------------------- [自由詩]生きてる/よしおかさくら[2020年8月21日16時21分] 世界が変わっていくのが恐ろしい 人が死んだり 気をつけないと私が死んだりする 生きてることは 死ぬかもしれないこと 気づいてしまった五歳児の悲しみ 目を背けて見えないふりが 難しいね けれども 知らないうちに芽吹いて するすると伸びる新芽 輝く緑の命 鳥の声 蝉の力強い独唱 雲の魔術 生きてる ---------------------------- [川柳]月が暮れる/水宮うみ[2020年9月5日2時25分] 思い出はきれいにデザインされていた 悲しみに暮れていたからくれた飴 明らかに、その月日は明るかった ---------------------------- [自由詩]長雨/たもつ[2020年9月5日12時22分] 部屋に雲が入って 雨に濡れていく、色も形も音も 僕らはどこにも繋がらない二つの心臓 匂いもたくさん嗅いだ かつては他の何かだったものが また他の何かになっていく 記憶に触れればいつも 僕らは優しい嘘つきでいられる 昨日より少し衰えた僕が 昨日より少し衰えた君を愛しく思う 明日も これからもずっとだ   ---------------------------- [自由詩]にくじう/田中修子[2020年9月5日16時48分] ふわふわ ふわわん ふわりんりん あはは くすぐったいよう- 夏の温度がさがって ほら クッキリした青い夏のうしろ姿は 日焼けした子たちの笑い声 あの眩しい光にあたりながら歩いたんだね走ったんだね たくさん ね 私の膝あたりのちんまい子から そう これから恋をしたり したいこと探していく 若い子たちの こんがり いきぐるしかったなつかしさがめのうら うららかであります 豚ばら肉をヒノキのまな板に平らかにおいていく まな板ね 世田谷のぼろ市で威勢のいいおっちゃんから買ったの 洗ったししとう えのきだけは石づきを落として 割いておく で、ししとうとえのきだけを豚ばら肉で巻きながら 鉄のフライパンを中火で熱しておく ごま油をたらり B級品を安く買ったのだけど もはやすっかりどこが悪かったのかも忘れて活躍中です 豚ばら肉で巻きあがったのを、巻き始めたとこを下にして敷き詰めて ちょっと生姜焼きも食べたかったから えいやあっ 生姜のすりおろしもパパっとかけちゃう 塩もふっちゃう胡椒もふっちゃう じうじうじうじう じうじうじうじう 豚肉ですから赤いとこ残しちゃだめですよ ほとんど焼けたと思っても油断大敵だから 醤油を細うく ひとまわし いちばんちっさい火にして ガラスブタして蒸し焼き わあ ここにもブタさん (そういや、今日は使わないけど、オトシブタさんもいる) 鍋の下の青い火 にくじう じゃなかった 澄んだ肉汁 少し焦げてきた醤油のにおいが躍ったら 夏の終わりの夕ごはん ---------------------------- [自由詩]妊娠は航海/よしおかさくら[2020年9月17日11時05分] 子どもを産みたい本能をグラフ化するのは難しい 明日は産みたくない昨日なら産みたかった 子ができる工程もそれは楽しみたい 神聖視とは神秘とはなんだろう 人間は動物だ 神の子を産むなら 受胎告知を夢見れば済む事 妊娠は航海である 二百八十日間の船酔い 安全なマリーナに辿り着いてから産みたい 出発の時期も 港も選べないだなんてあってはならない ただでさえ死地への旅路かもしれないのに 腹がせせり出るまでも 長い 歩いただけで 足の付け根の痛みは強く 蹴られ続けて少ししか食べられない 豪華客船でも眠れない 明日か明後日か とうとう痛みが来た ---------------------------- [自由詩]泡立ち/はるな[2020年9月28日23時44分] 木たち 花たち さまざまなプラスチックたち 混ぜ返される色色の 日々の泡立ち いくつもの あらゆる種類の 嘘をついて来た そうして私が 出来て動いて居る 触れる ものの全ては ここにあるのに なぜ私だけ 本当に 嘘なんだろう? 思い 考え 息をしていた 軋む音がする 扉が開かれる 眠ろう ---------------------------- [自由詩]庭園/よしおかさくら[2020年9月30日12時59分] 何かが破損している意思の 立て石を滑る力よ 牛の乳を絞る動きと同じに枝豆弾けて 膝は高らかに笑い 崩れ落ち 寂しさとも心細さとも違う 薄っぺらな心で 振り子の反動でしか動けず 何処へ行こうと泣く 頭から片時も離れない歌の如く 誰かの心をひたすらに占めたい 柔らかい 木漏れ日を浴びて眠れ ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]庭の話など/道草次郎[2020年10月4日1時06分]  歳を取り年々感じるのは、死んだ父にますます自分が似てきたという事だ。父は自分が十七の時に他界した。享年五十八。逝ったのは冬のおそろしく寒い夜更けの事だった。その時のことは今も鮮明に覚えている。  何といっても植物が好きな人だった。ことのほか花木を愛しており、実家の庭には種々の珍しい花木と見たこともない花々が植えられていた。それらの大半は現在も残存しているのだが、自分には、その名前すらよく判らない樹や花も少なくはない。  父が入院していたとき、いつもその枕頭には植物図鑑があった。元来恐るべき蔵書家で、またそういう方面の仕事を生業にしていた手前他に幾らでも読みたい本はあっただろうに、何故か植物図鑑だけは手放せない様だった。それだけ好きだったのだと思う。  元気だった頃は、夜も明け切らぬうちから林檎と葡萄の消毒と草刈りを済ませ出勤。帰宅してからは何時間もかけて水やりをして雑用もこなす。そんな生活を当たり前のように何十年も続けていた。家庭状況その他の事情は違えど、自分には到底できない事と今になり振り返れば思う。  父に似てきたというのは、見た目云々に関しては言うまでもなく、その好むところが似通ってきたという意味でもある。食い物然り、読む本然り、母に言わせれば一寸した拍子にする返事然りである。しかし、もっとも自覚するのは、先ほども触れた通り植物への関心についてである。  父は本当に植物に詳しかった。そして、植物を愛していた。行きつけの植木屋では半分冗談で先生と呼ばれ、会社でも植物博士で通っていたらしい。そんな父を見て思春期を過ごした自分は、父のやっていた事を何となくただ見ていただけであった。やがて父が世を去り、一人暮らしをする為に自分が家を離れてしまうと庭はみるみる内に荒廃していった。致し方ない事ではあったが、それは情けないことでもあった。  我が家の庭の真ん中には、シンボルツリーとして、花の木という名の大樹が鎮座していた。とある大風が吹いた日の未明の事である。根方から二股に分かれているうちの一方が、予てよりひどく朽ちていた洞の脆弱さに耐え切れずに、一気にドッスンと倒れたのだ。倒れた幹はちょうどそのとき母が寝ていた部屋の上に直撃した。損害は樋がひしゃげたのと屋根の一部がわずかに破損したのみで済んだが、破壊音がした瞬間、母はついに大地震の到来かと吃驚し飛び起きたそうだ。そのあと母と二人で、「これはお父さんが守ってくれたのか、それとも怒ったのか分からないね」と言い合ったものだ。そんな事もあり、父が存命なら丈夫に立派に育って行けた筈の樹木たちは年々に脆くなり、その結果として倒木の憂き目にあったりするようになった。  しかし、これは生態系における常識なのだろうが、珍しいものや土地に根付きにくいものはやがて他の優勢なものに駆逐される。珍花より雑草のほうが強壮なのは誰でも知っている。父は花木の珍種をことに好んだ。なかなか人が育てない樹を手に入れてきて、それを育て上げることに喜びを感じているような所があった。だから当然その父が居なくなり、面倒を見る者がなくなればそれらの珍種が朽ちるのは時間の問題だった。ものの数年で殆どが病気をわずらうようになり、十年を過てからは倒木はざらだった。  しかし、なかには強いものもあるにはある。  例えば棗(なつめ)の樹である。これを人家の庭に普通に植えることがよくあるのかは知らないが、この樹はじつにたくさんの棘を持っている。それはそれは恐ろしく尖った棘である。これは自分の思い込みかも知れないが、前年に剪定を施された樹は必ずと言っていい程かかる年の棘を増やしてくる。それどころか棘は前より鋭くなっている。とは言えこの樹は木質がしっかりとしていて成長も逞しいので、枝を落とす必要はどうしても生じる。よって、毎年大変痛い思いをしなければならなくなる。しかも、年々棘の脅威は増すのだ。病気にも十全な抗体があるらしく、秋には臙脂(えんじ)色の熟れた実をふんだんに落とす。その樹の枝々を剪定するのは、どことなく、縫い針だらけのクリスマスツリーの飾り付けでもしている様な気分だった。そういうじつに恐ろしい樹だけは、憎まれっ子世に憚るではないが、負けずに生き残っているというそんな話である。  それから、ブナ、クヌギ、ナラの類である。これらもじつに強い。所謂ドングリをならすのがこれらの樹なのだが、確かにあのドングリ一つとっても全く硬くて丈夫なものだ。ブナもナラもクヌギも何本かあった。これらはあまり病気にならない。もともと強いのだろう。でも、あまりに強く枝の勢いも盛んな為、あっという間に茂ってしまい周りに害を成すきらいがある。周りにあるのが、他の植物や家の物置などだけならば放っておけばいいが、場合によっては公道や隣家へもその手を伸ばすことがある。いったい何本この手でそれらの図々しくはみ出した枝を切ったか知れない。いきなり根本からチェーンソーを入れるわけにはいかないので、上のほうから徐々に少しずつ枝を落としていく。梯子に乗ってそれをやるからうっかりもしていられない。大きなナラともなれば電線にまで達するほどの高さだから、気を抜いていると死ぬのである。落とした枝も幹もこれがまた厄介で、けっきょくはバラバラにしないと燃やせない。何か月か放置して乾燥させた後、畑の一角で盛大に焚くのである。新聞紙や焚き付けの為にストックしてある藁などを使い、火を付ける。いくら乾燥させてあるとはいえ最初はどうせ燻っているから、長い柄杓に少量のガソリンを汲んでそれを上からぶちまけてやる。そうすると、一気にぼわっと燃え立ち驚くほど赤々と焔える。ブナやナラはこういう面倒な事をしなければならないので、有るだけで、随分と困るのだ。  もう一つ、とりたてて珍しい事ではないのだが、自分にとっては印象深い話を。  ヤマボウシという樹がある。どうもこの樹にまつわる話は変わっていて、実のなるものは不吉だという言い伝えに端を発する。なぜそういう伝承があるのかその詳細に関しては不明である。ただ自分が覚えているのは、父にヤマボウシの白い花がきれいだと言うと決まっていつも、「あんまりよくない、不吉な花だから・・・」と話を濁された事である。それは何かこうモヤモヤしたしこりのような感情を幼心に残した。ヤマボウシは美しい白花を付けるのだが、不吉と言われるとなぜかその白さが少し青みを帯びてくるから不思議だった。言い伝えや伝承の類が事実であるか否かは、何というか、あまり重要ではない気がする。白いものが青白く見えてくるというのが、父の捉えどころのない濁しとともに脳裏に立ち昇って来る時、ある種の真相を自分がそこに見てしまう事の方が肝心である気がする。或いは、父は自分が記憶したようには言わなかったのかも知れない。しかし、記憶のそういう不確かさも織り込み済みで立ち現れて来るものこそ、もしかしたら本物の記憶なのかも知れない、そんな事をつらつらと考えたりする。  父に似てきたと言ったら父はたぶん笑うだろう、お前などまだまだと言いたげに。最近どうにかやっと植物を愛でる気持ちが分かってきた、ような気がするという話である。心が惑ってわなわなとなるような宵口にふと玄関を出て、庭へと続く飛び石の方に行く。暗がりに咲く孔雀草やジニア。白い花を咲かせるシュウメイギクの細いうなじのような茎。そういった花々の姿に、近頃、心奪われることがあるというだけの話だ。  あまりに何もかもが変わり過ぎたここ最近の事々に追いつくように、花々も樹木も、その身にしんしんと秋を刻み付けつつあるようにみえる。そこにあるものがただ美しい、それだけなのである。父もやはりそうではなかったか。美しいと感じることに理由など要らない。歳月が自分を父に似せたのか、それとも、父が歳月を自分に送って寄越したのか、それはどちらにしても同じことだろうか。  ただ季節は一時も止まることなく、こうしている間にも冬の足音は近づいている。もしかしたら、花木を愛するというのはその季節の音を聴く事と似ているのかも知れない、そんな風に考えたりもするのだ。 ---------------------------- [短歌]秋深し金木犀のご近所に銀杏植えたの誰や出てこい/46U[2020年10月5日11時46分] 秋深し金木犀のご近所に銀杏植えたの誰や出てこい #においが混ざり合って大惨事に。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]振り返ること?/道草次郎[2020年10月6日22時52分] 自助グループがその後どのような経過を辿り雲散霧消したのかはまた別の機会に触れるとして、今回はぼくが当時していた仕事の話を少しだけ。 ぼくは20代後半の時、これはどこかで書いたかも知れないが、ホームヘルパーという仕事をしていた。訪問介護とも呼ばれていて女性ヘルパーの数が圧倒的に多い職業だ。 まあ、なんでこの仕事を選んだかなんて実はこれと言った理由もないのだが、ただ何となく「人にやさしくする自分」というのをデフォルト状態と見なしてしまうフシが自分にはあり、これは今思えば思い込みに過ぎないのだけど、とにかく、その時は殆ど成り行きでそういう職に就いてしまったというのが本当のところだ。 じつに色々な利用者がいた。何から話せば良いかかなり迷ってしまう。 朝のごみ捨てのサービスをする為だけにわざわざ20キロ先から直勤して、玄関のチャイムを鳴らすと、いきなり「殺すぞ!」と怒鳴り付けられた時はさすがにびっくりした。あんまりびっくりしてかえって爽快だったぐらいだ。あの時の朝空の美しさは今でも覚えている。 それからこれは別の利用者だが、生活保護の金が入るとすぐにナンバーズ4を買って来いというのもいた。しかも、そのナンバーズ4が奇跡的に当選するのだから始末が悪い。気が付くと、ピカピカの新しい冷蔵庫なんかが台所にあって、なぜかヘルパーであるぼくが古い冷蔵庫の中の腐った食材を全部かきだすハメになったり…そんな笑い話みたいな事もしばしばあった。 あとは、蛆だらけのゴミ箱を隅々まできれいにしろと言われ、はい、と素直に言い雑巾で拭いている所に便所スリッパを投げつけられた事もあったし、床に落ちた糞尿みたいな得体の知れない塊を2時間も3時間も拭き続けたこともあった。鼠とゴキブリが駆けずり回る密室で恐ろしい異臭に苛まれながらゴミの分別をすることもしょっちゅうだった。昔水商売で荒稼ぎした90近いおばあさんの利用者にシコタマ絞られてしまい、自転車に乗って上司と謝りに行ったこともあった。 こうやって書くと辛い事ばかりのようにも見えるが、それは事実しんどい事でもあったのだが、家で引きこもりみたいな生活をしていたぼくにとっては何もかもが勉強だったし、家で考えあぐねている生活の方がよっぽど苦しいものだった。だから、来る日も来る日も多くの事を甘んじて受けた。 とりわけ覚えているのは末期の大腸癌を患っていた利用者の方だ。大変な強面で無口で頑固一徹、昭和の親父みたいな人だった。その人の目の前でヤカンの水をぜんぶひっくり返してしまった事があった。あの時は本当に死ぬかと思った。ヤクザみたいな人だし、末期ガンだし、ぼくの切る千切りキャベツに大いなる不満を抱いていたらしいし、全くチビりそうになったものだ。その件があってから程なくしてぼくは担当を外されてしまった。しばらくしてその人が亡くなったという話を人づてに聞いた時は、何とも言えない気持ちだった。優しくあるということの無力さは勿論、死期にある人もしくは死んだ人に対する自分の残酷な感情を知った。 それから、こういう人もいた。この人もやっぱり末期ガン患者で、人工肛門をされていた。なぜか部屋中に白いカサカサしたものが大量に落ちていたのが強く印象に残っている。その人の家に行くと、自分はその事ばかりが頻りに気になって仕方なかった。その人は古いポルシェを所有していて、ぼくが訪問する度にそれをとびきり安く譲ってやると言った。ぼくは「そんな高価なものいただけませんよ」とかわしていたけれど、後で先輩ヘルパーに聞いたら、どうやらあれは負債に過ぎないらしく、処分するにも金がかかるから玄関にああして置いておくより他にないという事なのだった。その人はいつも、どうしてもあじフライが食べたいと言った。提供できるサービス時間の都合上、最寄りのスーパーへしか行くことができず、しかもそのスーパーにはさんまのフライしか置いていなかった。だからいつも、「すみません、今日もさんましかありませんでした」と言わなければならなかった。その人はそんな分かり切ったぼくの報告を、少しだけ哀しそうな顔をしていつも聞いていた。 1月2日だったと思う。どうしてもと頼まれ訪問した時、もうどうにも悪い状態となったその人がソファに崩折れるように沈み込んでいた。床は血糊と人工肛門から溢れ出した汚物とで足の踏み場もない状態だった。自分の職務能力の限界をすぐさま覚ったぼくは事務所に連絡をした。するとものの10分で課長補佐が現れた。課長補佐はベテランのヘルパーで看護師の資格もあるから、ストーマの処置を速やかに行い、ぼくに床を綺麗にするよう指示をした。ぼくは言われるがままにそれをし、時間がきたのでその旨を課長補佐に伝えると帰っていいと言われた。その時見たその人の後ろ姿が、僕が見たその人の最後の姿となった。ぼくはその人にあじフライ一枚すら買ってくる事ができなかったのだ。 こういうことが日常茶飯事のように起きる毎日には言うまでもなく慣れてきていたし、場合によっては飽きてさえきていたのだが、そうしたさなかにありながらも、自身の真実の姿を直視せざるを得なかった瞬間が幾度となくあった。それは、こうした様々な体験を、個人的な幾つかの場面においていみじくも利用してしまった時である。 たとえば、先述した年明けに亡くなられた末期ガンの利用者の方についてがそうだった。それは当時付き合っていた彼女とちょうど上手く行っていない時期で、たしか友人何人かと食事をした時だったが、ぼくはなぜかその日は無口だった。元々複数人での雑談というものが極めて苦手ということもあったし、たぶん特に意味もなくそういう態度をとっていたのだと思う。きっと彼女にはぼくが面白くなそうに見えたのだろう。その事を後になって車の中で責められたことがあった。その時ぼくはうまく弁解しなければこの関係がいよいよ面倒な方向へ行きかねないと思った。だからつい、自分が今携わっている仕事の深刻さを引き合いに出してある種の同情を乞うたのだ。ぼくは人の血と糞尿を拭いてきたばかりなんだ、という感じに。こうした事を平気に行う自分というものを睥睨しつつ、一時のはかない関係修復の為だけに取扱いに慎重を期すべき事柄を姑息にも利用したのである。少なくとも、ぼくはそういうふうに自分を見た。そういう自分を意識しながら、それをしたと思う。そういった経緯の一切の中にある何か非常に深いもの、底光りをするようなものの存在を認めざるを得ない自分というものを直覚しながら、そして一方ではそれを全的に否定しつつ。 と、言いながらも日々は坦々と過ぎてゆき、やがてこのホームヘルパーという仕事にも限界を感じ始めたぼくは、そこから身を引くことを選んだわけだが、あの時の経験はいったい何だったのだろうと、時々、このようにして思い返すことがあるのだ。 少なくともぼくにとってあの経験は、ぼくの範疇を逸脱してはいない。何もかもが、独りで部屋にいた時と同じに、起こるように起こったのだと思う。ただひとつ言えるのは、感覚の鈍感な凡人にとって想像力を刺激するボタンを見つけるのは至難の業であるという事だ。なかなか独り部屋にいてはそのボタンがどこにあるのか分からないのが普通だから。 新しい感情を発見する為に、たぶん人は外の世界に出ていくのではない。おそらく人は自ら発見した素描のような直覚に想像力の肉を施す為にこそ外に出るのだ。今は何となくそんな事を考えたりする。これは間違っているかも知れないが、別に間違っていても一向に構わない。そう思えたという事それ自体が収穫であり、人生のスタートラインに立てたという自覚こそ自分が求めていたものだったからである。 _______________________ 次回へ続く。 ---------------------------- [自由詩]かじってごらん砲を放て/ブルース瀬戸内[2020年10月7日11時54分] 私はリンゴであると宣言しても リンゴじゃないよと宣言しても 丸みを帯びた至高のフォルムと 英語でアッポーと呼ばれるのを 冷静無垢に考え併せてみるなら 私はかなりの確率でリンゴです それでも宣言したい時はあって それは確認かもしれないけれど 私はリンゴであると宣言します 私はリンゴであると自覚します かじってごらんとの誘い文句で 宇宙の果てを射程にとらえつつ 買ってくれた人に伝えるのです 消費社会の記号的存在ではなく 栄養学的見地の王様を気取らず しりとり先でゴリラを独占せず 本来の魅力を今こそ全開にして かじってごらんを放つわけです かじってごらん祭りではないか そんな穿った見方も一掃すべく 情熱と覚悟と誠意をひっさげて かじってごらん砲を放つのです 決して忘れてはいけないことを 決して忘れないことが大事です 私の魅力は何なのかを忘れない ということで優しくかじってね ---------------------------- [短歌]ワンス・ア・ディ/アニュリタ[2020年10月7日19時42分] 過ぎ去りし日々を思わず 帰らざるその一日の落葉を思う ワンス・ア・ディは少女の名前 猫になり女になりて消失したひと その時は失うことを思わざり 唯の一日 明日またねと 湖はワンス・ア・ディの瞳にも 似てると思う吾を視てるか 異世界のワンス・ア・ディに恋をせし 少年の日は誰も報いず ---------------------------- [自由詩]いつからそこにいたのだろう/Lucy[2020年10月15日20時50分] 線路の脇の赤茶けた砕石の荒野 そこに芽吹いてしまったジシバリ 細長い茎のてっぺんに ちいさいタンポポに似た花を掲げ 電車が来れば車輛の下に潜り込むほどレールに近いのに 倒れずに ふらふら風に揺れている 砕石の層の下の土にまで まっすぐに根を下ろしたのだ こんなところに芽吹いたことを 嘆いただろうか それとも喜んだだろうか 意を決してここに立つことを 自ら選んだのであろうか 目立たないから抜かれずに済んでいるのか それとも心優しい保線係がわざと抜かずに見逃したのか 雨にも 照り付ける陽射しにも 嬉しがったり 憂いたりして うつろう季節に身を委ねている 一本の野草 か細い命の豊かさが 黄色い花を揺らしている ---------------------------- (ファイルの終わり)