るるりらのおすすめリスト 2010年9月11日13時35分から2010年10月1日10時15分まで ---------------------------- [短歌]9.11/あぐり[2010年9月11日13時35分] ベルリンの壁が壊れて産声をあげたわたしに世界が刺さる 誰とでもハローがいえる。誰にでもわたしのせいぎを「愛せ」といえる。 戦争をしらないこども ほんとうの平和の意味もしらないこども 9と11をあわせてぼくたちの20世紀が答えになります。 2010年9月11日 ---------------------------- [自由詩]腕から先のゆめ/乾 加津也[2010年9月11日17時31分] その日の美術の科目は 自分の もう片方の腕のデッサン  写実主義の鉛筆は  大気の成分のようにすみきっている  大陸棚から  波紋のようにそそりでた喜望峰にゆきつけば  五指しめす照準 むすぶ理念は青臭くも気高い  真珠貝にダイブした手首  は  海流のしたたかさで  アポトーシスに呼吸を与えはじめていた それがいま 生活におわれ 思考も与えず これをひたすら隷従させていたりする それでもぼくらはいたずらな毎日を繰り返しているのではない ただ少し 自分の腕を (信じる奇跡を) 後回しにしているだけだ ◇ ◇ ◇  防空上ノ必要ニ鑑ミ一般疎開ノ促進ヲ図ルノ外特ニ国民学校初等科児童(以  下学童ト称ス)ノ疎開ヲ左記ニ依リ強度ニ促進スルモノトス                          (学童疎開促進要綱)  疎開先に送り出し  一日千秋 安否気遣う我が子に宛てて  (親御さんのみなさんの)手紙を送ってさしあげますと  元気をくださる  親切な先生に  高ぶる気持ちと裏腹に 自分に読み書きができないことの  くやし涙をひたすら堪え  どうしてよいやら 悩みぬいたその母が  「これを」といって託す一枚の  墨でまっくろな  節くれだらけの自分の  手形  だから ◇ ◇ ◇ むすんでひらいたちいさなもみじにも似て ならばこんなことばもこえて あ い の ひ と ひ ら よ と べ ---------------------------- [自由詩]てらてら笑う/豊島ケイトウ[2010年9月12日10時00分] (てらてら笑うニンゲンはたいがい……) ずっとむかし叔父のいった そのつづきを思い出そうとする (てらてら笑うニンゲンは)  (たいがい……)   (たいがい……)    (たいがい……) てらてら、だなんて まるでジョロヤのがらり戸から流れる 紫がかった温風のようじゃないか すると となりのおんなが指をさす 二、三日前に汀を歩いていた、 左手にカザグルマを持っていた、婀娜だった そのおんなが私を指さして、 身重のようにぷっくりふくらんだまぶたを 朱鷺色まで昂揚させて、 半分ゆるんだおとがいに 笑い をにじませて、 ――あなた、どうしててらてらしているの   今てらてらするところかしら   ああ、   こんなにもてらてら笑うヒトはじめて! おかしなことをいうものだ せっかく拾ってやったというのに なんだ、この仕打ちは てらてら笑っているのは そっちの方じゃないか 冗談はよしてくれ ――もうほんとお願い、   そのてらてらを引っ込めてちょうだい   せなのあたりに隠してちょうだい   シッ シッ シッ!   母がよくいってたわ、   てらてら笑うヒトってたいがい    (たいがい……)   (たいがい……)  (たいがい……) (てらてら笑うニンゲンは) だいたい今日の暑さといったらきりがない とことわのようにきりがない 団扇はどこだ団扇をくれ団扇がほしい 行李の中か抽斗かそれともおいおまえ、 どうしてそんなにまぶたを腫らしているのだ ――さては団扇を入れているのだな   てらてら笑ってないで何とかいえ   まぶたに入れたって仕様がないだろう? てらてら笑うニンゲンは、 これだから困る ---------------------------- [自由詩]水際のひと/恋月 ぴの[2010年9月13日19時04分] 手さえ握られたことないのに あれは高校二年生の今頃だったか 「あの子ってやりまんらしいよ」 そんなあらぬ噂を言いふらされたことがある 誰かしら噂になっているなと感づいていたけど まさか私のことだとは思わなかった 火の無いところに煙は立たぬとは言うものの 今どきの女子高生みたいにスカートの丈いじったり 髪の毛染めたりしてた訳じゃない 今までのような曖昧さは許されない そんな強迫観念じみた空気に支配されてた時期だったしね 私のこと多少なりとも快く思っていないひとがいて 何かの拍子にそんな虚言を口にして 言葉自体に罪はないにしても 勝手に一人歩きしていく言葉ってなんだかとても恐ろしい 「イジメ」にあっているとは思わなかったけど 進路指導が頻繁になった頃には耳にしなくなった 人の噂も七十五日ってことだったのかな 秋ってどこへ行ってしまったのだろうか この頃自傷するような感覚に陥ることがある それでも弱音なんか吐かないし 誰彼となくお愛想振りまくような真似だけはしたくない 部活で怪我した私の登下校に付き添ってくれた友だちがいた 決して恩着せがましくなかったし 彼女の親切を素直に受け入れられる私がいた あの頃に戻りようは無いのだけど 失ってしまったものをほんの僅かでも取り戻せるならと 季節を綴る絵葉書に感謝の気持ち添えてみた ---------------------------- [自由詩]孤独なガゼル/響[2010年9月14日0時47分] けんけんぱをしながら あの日の顛末を見ていた ほとばしる水しぶき 暮れかかる ガーゴイル けんけんぱをしながら あたしはどこまでも無敵だった 孤独なガゼルみたいに 焼け落ちる 夏の日に ---------------------------- [自由詩]塩/ふくだわらまんじゅうろう[2010年9月15日22時46分] 塩だ 塩だ 砂漠のような 塩だ 俺と お前を ここまで運んできた 塩だ 最初の光が生まれたその時から 永い 永い 旅を経て お前と 俺を ここまで運んできた 塩だ 砂漠のようで もの言わぬ しかし饒舌な その塩だ ---------------------------- [携帯写真+詩]オモチャかぼちゃ/アラガイs[2010年9月16日2時34分] 居酒屋で マラカス代わりに腰ふってオモチャのチャチャチャ はぁ〜あ ---------------------------- [自由詩]灰/ポー[2010年9月16日20時48分] 不死鳥は灰の中で 生まれ変わる 肉体を失われた 魂だけの灰色の世界 この灰は藁か 炭か… 私の灰かもしれない ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]死について   mixi日記より/前田ふむふむ[2010年9月17日1時02分] 数年前のことであるが、東京・新宿の某所で 在る人道主義を標榜する学者の講演があり、僕は、たまたま聴く機会があった。 そこで講演者は、「人間はうまれる時は、一人ではないのである、少なくても、 母親に抱かれて生まれてくる。だから死ぬ時も、決して一人であってはならない。 必ず誰かに看取られながら死の旅路に付かせるべきである。そして、そうすることが、逝くべき人間の尊厳を尊ぶことである。だから、私もそのように心がけてきた。」という話をした。 そのときは、とても感銘を受けて、その話を、一編の詩にした事があった。 僕が年を取って、そろそろ、死というものが、ある程度現実的なものになってきている、だから、そういう心境も理解できるようになってきて、感傷的な思いに浸っていたのかもしれない。 また、父の死を看取り、母が高齢になった現在において、人としては、やはり、そのようにあることが、当然であろう、と自らの確認作業として、そして、自らのこれから将来あるだろうことの善人としての正当性を獲得することができるという満足感で、感銘を受けたのかもしれない。 しかし、今思えば、死とは、そのように簡単に考えてよいのだろうか。 そういう疑問が湧いてくるのだ。 古来より、死はなぜ、いつも特別に厳粛であったのだろうか。時に恩讐をこえて 追悼された死も多くある。人々をして、どうして敬虔な気持にさせられるのだろうか。 それは生(世の中)からの完全の隔絶がなされるからだと思う。 つまり、人間は、死ぬ時はたった一人で、この世の中から別れるからだ。 どんな状況にあったとしても一人なのだ。だれも付いてきてはくれない。 また、多くの人に看取られようと、たった一人で死のうが、孤独の旅に出なければならない。だれも助けてくれないし、誰も助けられない、 人間が必ず通らなければならない宿命なのである。 僕たちが死に際にどんなに温かい情を表したとしても、生(世の中)にいる者の自己満足に過ぎないと思う。とくに、前述の講演の話は、生(世の中)にいる者の傲慢な偽善といってもよいかもしれない。なぜなら、あえて、わざわざ言葉にして言うべきものではないと思うからだ。 死を看取ることを、まるで受け売りにしている講演者に、死に逝く人の気持が、本当に分るのかと、あえて問いたいのだ。死に逝くことは、絶対に、死に逝く者にしか分らないのだと思う。 確かに、死にゆく者に、情を表すことで、他者からみて、僕たちは人間として、人道的な行いをすることが出来るかもしれない。 すなわち、死に逝くものに最大の愛情と敬意を払っていると、自らに言い聞かせることで、 生(世の中)で生きてゆく自らを、道徳的な正当性を持たせることができるだろう。 また善意な行為は、自分が良い事をしたという心の透き間を埋めて、 充実した満足感を得られるだろう。 しかし、死に逝くものにとっては、恐怖と孤独とかなしみ以外何があるだろう、 それを、埋めることなど誰もしてくれない。 では、死に逝くものを看取ることは、意味の無いことなのだろうか。 僕は、そこで立ち止まってしまう。 でも、やはり、僕は、死に逝くものを看取るだろう。 ただ、死に逝くものに、何もする事が出来ない無力な人間として、何もしてあげることの 出来ない人間として看取るだろう。 別離という、どうする事も出来ない現実に直視しながら、 そこでは、ただ沈黙だけしか出来ない僕は、やはり死に逝くものの生きてきた人生に 敬礼を捧げるだろう。 そうすることだけが、死に逝く者に対する、僕たちのあり方だろうと思う。 ---------------------------- [自由詩]大人の休日/小川 葉[2010年9月17日4時03分]     朝五時になれば 二階の廊下を軋ませて 起きていた 早起きの父が 祭壇の裏でまだ寝ている ひさしぶりに 子吉川に 鯉釣りに連れていって 父に話しかけても 眠ったまま あなたが死んだおかげで 一足早い お盆休みがもらえたんだ だから 連れていって あの頃みたいに 日が暮れるまで 大人の休日は なぜこんなにも かなしいのだろう 親が死ななければ まとまった 休日がないなんて なぜなのだろう 私はしだいに 私に戻りかけていた 故郷の家で暮らしていた 昔の自分に 戻りかけた頃 都会の暮らしに 帰っていった そしてまた 都会の暮らしに 戻りかけた頃には 四十九日 ふたたび故郷の暮らしに 戻らなければならない いっそのこと 戻ってしまいたい 休日ではない 日常の 故郷の暮らしに 帰ることができるならば     ---------------------------- [自由詩]白蝶貝/アラガイs[2010年9月18日4時58分] * 面影に 蝋燭が淡く 拾う貝殻は 潮に消された 砂浜にねむる白ユリ 風に剥がされ おちた 化粧箱の螺鈿 あなたは アルバムのなかで微笑む ちぎれた月の真珠 少女のように いまも てのひらのなか 夢をみる その貝殻に いつまでも 夢をみた * ---------------------------- [自由詩]クレープは包むものだ/N.K.[2010年9月23日0時05分] 若い女性に人気があるクレープを 男子高校生たちは売ろうと決意した クレープは売る前に クレープは包むものだ 経営観は強気の攻め一本 結果については勝つか負けるか の二分法 若気の至りと 振り返って言ってもいいよ と若さを窘めたい中年男は少々の いらだちとともに思う クレープは勝ち負けではない クレープは包むものだ 男子たちは おまえは皮と骨でできていると からかい合うこともあるが クレープは皮と中身でできている 皮は出来合いのものでよいといいたかったが 原価計算と技術楽天主義を持ち出して 焼くという 若さよ クレープは焼くこともあるが クレープは包むものだ 中身はチョコバナナクリーム一刀流の 直球勝負 イチゴとかの変化球は使わない クレープは相手に投じるものではない クレープは相手を包むものだ クレープを焼く高等技術は端からない 楽天主義は画期的な クレープ焼き器を見つけ出す 溶いた粉へ淵のないフライパンをくっつけて 薄い皮が焼ける 逆転の発想 逆転ホームランになるか クレープは発想法ではない クレープは発想をも包むものだ 野球部のピッチャーが 生真面目な坊主頭さながらに皮をそぎ落として スライスしたバナナに 仕入れで苦労したホイップクリームを 絞って乗せて チョコソースを少々塗り ぱらぱらデコチョコの粒粒を振りかけた そうして真面目に クレープは包むものだ 老婆心も 老婆心の中年男の偏狭な人間観も そうしてクレープは包むものだ そうしてクレープは包むものだ クレープは意外にいけた ---------------------------- [自由詩]出題/Giton[2010年9月23日21時48分]     . あなたは出題する あなたが謎であるかのように あなたは謎ではなく あなたが謎をかけているだけなのに     . だからぼくはあなたの出題を読む ふりをして あなたを盗み見ている そうか あなたはまだ言い足りないのだ 6時間話した後でも     . だからぼくはあなたを盗み見る ぼくの視線の向こうには 笑っているあなたがいるから     . だからぼくはあなたから離れない ぼくの瞼(まぶた)の向こうには 泣いているあなたがいるから     . ---------------------------- [自由詩]氷/泡沫[2010年9月24日11時14分] 冷たくなって 眩暈がして 氷の様な冷たさが 僕を包んでく ---------------------------- [自由詩]連詩 「 知覚 」 よもやま野原・竹中えん・なき・夏嶋真子/夏嶋 真子[2010年9月25日20時25分] ほろほろとくずれはしない鍵の化石があなたのからだをひらいています 記憶は銀河のように 白い、黒い乳房のあわいをすり抜ける あたたかな指先であなたの軌跡に限りなく薄い爪痕をつけたい のびてゆくラインはゆるやかに地平線を絡め捕り虫籠を編む 夕日色したあなたの脱け殻をとどめて背中の裂け目に触れようとしていた + 空蝉は、天使の季節に生る林檎だろうか 光に透ける乾いた体は過去の幸福をくり返す レコードの回転数を指紋の磨耗する速度に重ね 空耳の薄膜にくるまれてしまえば わたしはわたしのマリアを捜してしまう +  憶測の言葉に縛られた祈りを纏い窓硝子を蹴破って 奔放な空へ翔び立てば青と青の反転 尾びれの生えた爪先が波に翻る 空と海と宙の境をしなる身体ひとつで射ちたい 星を受胎する少女らの眸は、まだ蕾のまま 白い毛糸で編まれた貝殻をポケットにしのばせる +   結び目を解けば幾億の雨の順列に細胞は萌芽し 双葉が囁くように震わせる睫毛の先に架かった光の梯子 それは、瞼のうちで裏返ってゆく月光に似て 草の根の這う体で空へ空へと手をのばす 銀の海を湛えた浜昼顔は点在する世界を連ねた双曲線を描き咲いた +   てのひらのまるみを重ねてそのなかで船を育てよう 地球儀のうえを爽快に漕ぎゆくふたり つややかな飛沫はとびうおとなり鱗は光る虹になり 虹彩の中でなんどでもあたらしく出会うきみ そのたびに名づける こぽこぽと湧き出る入れ子の世界の中心はきみの返事で時がねばつく + 次々と死のひらく、枯れ野を火が舐めるゆうべ 踊りましょう、歌いましょう 熱く輝く花から生まれ出づる命に焦がれ 散り散りと燃えるノートはやがて正しいことだらけの教科書を焼く 走り書きした「こわい」の文字が脈打ちながら燃えている 匿された病と、灰かぶりへの遠い輪生 + 遠い遠い昔にあなたが育んでくれた枕もとの小さな小さな物語 Age 1・3・13・17・29 それは繰り返される 紋白蝶のゆらぎを真似て 身体中の円に回帰する たとえばその泣きぼくろ、胸の膨らみ、口の開きに 崩落した廃墟の螺旋階段よ、わたしはおまえを見たくない 目を閉じて胸の前で手を組んで壊れた星の中心でおやすみのキスを待っている +   最果ての図書館ではこの瞬間が記述され決して失われない法則になる 「えいえんを見たいから眼鏡は好きなページに捨てていきます」 不可視の運動を(祈り/渇き)と名付けなさい 乳白色の記録の中でみつけた時の欠片 繋ぎ合わせる断片の一瞬 それが私 其々の断片に棲む各々の私は円へ近づき ∞の/無の独楽は青く発火する +   見えないもののなかでポルターガイストみたいな私の炎が点滅している 午前4時の信号(私たちは/、全ての生命は/異質でしかなかった) 赤青黄色、緑桃色 魂はくっきりと光を放ち滑って行く薄闇色を 掬ってだれかの呼吸音に混ぜる(ひゅうひゅう/だれか/、救って) 外気と擦れた唇は静電気を帯びて固まり 口内で膨らむ気の抜けた白い空を仰ぐ +   星状六花はやさしさを携える(。永久にきみとした)い、)のちの)あふれるほうへ) 透明なナイフは今すぐあなたに刺さる「やさしいやさしい「つめたい…」あなた」 震えるフォノンのパズルは 遠い意識の底でゲルダを求める 指でカシャンとはじく歯車 動いたきみを五感のうねりで飲み込んだまま 口のなかで息づく少女の唄う恋/風/花になりたかった、わたし + 重ねた両手に落ちた涙に目覚めた心 温もりの風に身をゆだね やわらかな闇を包む皮膚が一つの林檎を愛撫する 湖の栓を抜くような、共鳴に晒されている 愛の果てから索漠の果てまでが 湖底に春を敷いた 息吹は湖を押し上げる + 結末につづきを書きこみ月光をはさんでとじる水辺の詩集 寂として声なく満ちる詩集から言葉は闇を抜き取り眠る 木菟の静かに眠る箱のなかの無花果に書くやさしいみらい 満月の光が伸びる湖に指先を置きやさしく揺らす 孵化をする月のかけらに刻まれた詩(うた)をならべる朝(あした)の子ども ---------------------------- [自由詩]夏の温度/塩崎みあき[2010年9月26日15時29分] 日差しに焼けた肌が 深夜の電光に溶けている 胡瓜は フルーツだろうか という議論を 今し方 あの白い壁の向こうに聞いた そうだ もう 夕焼けのときめきが 透明な鴇色のレイヤーになる 時間なのだ あの年の 海ではしゃいでいた ポリプロピレン製の女たち そんなものにさえ 少しの憂いをこめて 上空を見れば 虫の羽音のみさみしく シノニム 電光掲示板 シグナル 闇と点滅の十字路 ソーラーパネルの中に居座る サウナの中の常夏が 特別暑いわけではないことに 誰もが承知している 立体的な道路こそ 本当のロマンチストだ あの年の 焦げた肌の冷たい目 と手と海水と空 と砂と月と泡と 干上がってとうとう 枯れてしまった 僅かばかりの ポタジェの野菜たち 夜になると やけに白くなってゆく 書物のどうでもいい ページをめくって その摩擦だけが少し夏だった ---------------------------- [自由詩]『しゃぼん玉爆弾』/なごまる[2010年9月26日23時45分] 久しぶりにヤツをみた 心に爆弾を埋め込まれたアイツ 触れれば必ずわれちまう その名もしゃぼん玉爆弾 着火装置は最新式の『横恋慕片思い型』 彼女に気持ちを伝えれば100%吹っ飛ぶぜ その名もしゃぼん玉爆弾 胸のなかでパチンとわれて ヤツの全てを消し去るのさ ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]新しさと、詩と  mixi日記より/前田ふむふむ[2010年9月28日0時59分] 新しい芸術とは、本来、違和感が伴うものだ、なぜなら、私たちが、見慣れている既成のものから、逸脱している部分が作品上、多分に見られるからだ。それを言葉にすれば、欠損および不足、過剰、単調、複雑、奇妙な美しさ、汚さ、などが、ある一定の器から零れて、はみ出している状態である。時として、その芸術を鑑賞する者が、ここの部分はこうしたほうが良いと、自らの既成の価値観で変更や、添削をしてしまうこともある、しかし、その部分こそが、作者自らが最も表現したかったところであったりする事がある。例えば、音楽においては、嘗て、ベルリオーズが「幻想交響曲」を初演したとき、ドイツ古典派の高度に精密な伝統音楽になれている聴衆にとって、その甘い感傷的なメロディと、それを支えるリズム、ハーモニーの単調さから、素人のように稚拙な音楽と揶揄されたが、そのシンプルさこそが、ベルリオーズが、もっとも表現したかったところなのだ。アメリカの名指揮者である、レナード・バースタィンは、作曲者の指定した音符を、わざと汚い音色を交響楽団の演奏者に要求した、それに対して少なからず批判があったが、もし、違和感を伴う、その突起する音色がなければ、あの壮大な演奏はありえなかっただろう。 絵画の世界で見てみよう、ピカソの「ゲルニカ」を始めとする小作品に至るまで、欠損および不足、過剰、単調、複雑、奇妙な美しさ、汚さ、などが、一通りそろっているのである、壮大な違和感のなかにある美が、より事象の本質へと深化しているといってよいだろう、 音楽、美術に近い、詩にとって新しさとは何であろうか、やはり、違和感であるといってよいだろう、但し、その違和感は、たびたび心地良いものである。それは、抵抗感があるものの、即ちノイズの伴った、何か違った世界を覗いてしまったような、視てはならないものをみたようなものであろうか ---------------------------- [自由詩]リスは有袋類/海里[2010年9月28日19時34分] どんぐりの双葉はたくましい 芽を出しなさい世界樹 リスたちはみんな 頬ぶくろを持っている そんなリスたちに運ばれて 埋められて 忘れられて どこか幼稚園の片隅からでも 天の屋根たる尾根にでもいい トネリコであろうとなかろうと オークであろうとなかろうと 聖なる木でない木があるだろうか 芽を出しなさい世界樹 双葉を開きなさい 毎年毎年 野原の野茨や 若葉のトリルや 春の常緑樹たちに負けてしまうとしても たとえ幾百世代 双葉で終わり続けるとしても  「色鉛筆のためのパレット」より。 ---------------------------- [自由詩]貝の祈り /服部 剛[2010年9月28日20時21分] ほんとうに心配なことは  まるごと天に預けよう  あまりに小さいこの両手は  潮騒を秘める貝として、そっと重ねる    ---------------------------- [自由詩]散策の色/番田 [2010年9月29日3時46分] 私は何も知らない子供の目をして 今日も行くだろう 私の出歩く季節の中を ぼんやりとざわめきの中で思いをこらし 腰を下ろす 木影は蝉の鋭く鳴く暑い季節もあるだろう とても穏やかな色彩の晴れの日の音楽は 青色をしている 流れる川のほとりに私は腰を下ろして その音色を 私はぼんやりと聴きとめるだろう  そんなとても暑い日の緑色を駆け回る子供の姿は  心の中に明確に捉えた その流れていく矛先を見つめるだろう 私は思う 流されてくるその音色たちを 私の茶を飲んでいる 焦げ茶色に濁った影は いつまでもその音階を聴かされることだろう  色々な彩色を施した音色の中にある 荒れ狂う雨の日の音階の激しい音の流れだとしても 私は川辺でひとり 流れる時代の現風景を見つめる この散歩に何か特別な理由があるのかどうかなど知らないけれど こうして嵐の日も風の日も 私は川のほとりに居座り続ける 私小説の表紙に彩られた 青白い田園風景を手にしながら ---------------------------- [自由詩]ラブホテル/吉岡ペペロ[2010年9月29日20時26分] 学生のころ 留年すれすれだった彼女と試験期間中 ラブホテルに十連泊した ゼミイチだったから ぼくには後期試験は関係がなかった フラ語を教え、経済原論を教え、 商業簿記なども教えた べつにその学科が得意だった訳ではない 彼女がまじめな友達にコピーさせてもらったノートやテキスト それをぼくが いちから勉強しなおして彼女に教えていたのだ 最終日彼女が試験を終えたあと ふたりでまたラブホテルにはいった たしかコンビニで一万円くらいいろんなものを買った お菓子やお弁当やドリンク、アイス、雑誌、コンドーム、 しかし朝までただ眠っただけだった ほんとうにただ ぼくらはひたすら眠っただけだった ---------------------------- [自由詩]中 庭/塔野夏子[2010年9月29日20時35分] かたちのない宝石を 手のひらで転がす九月の午後 孔雀たちはまどろんでいる 淡く実る葡萄の夢を見ながら ---------------------------- [自由詩]恋人達/salco[2010年9月30日1時39分] 赤い月夜の森の中を 恋人達が無言に行く 凍った大気と闇の道を 二人は抱き合って行く 抱き上げられた女は 男の肩に頭を預け 柔らかに目を伏せて その温かさに耳を着け 胸の鼓動を感じている 力強い歩みのままに体は揺れて 長衣の裾が流れ舞う この女には踊る為の肢が無い 連れて行って、と 言わずに女が頼んだのだ 黙々と男は女を運ぶ 違う、二人で行くのだ 潅木の茂みを跨ぎ 小枝や枯葉を踏みしだいて行く 吐く息は優しい湿度を帯び白く 凍った闇に消えて行く 女は首に腕を回し 薄い掌を胸板に置いて そこが冷気に刺されぬよう 道に疲れてしまわぬよう その心拍を支持しようとする 肢の無い体の軽さが男は不安だ 今にもどこかへ飛び去って 服を残して消えてしまうのではないか だからしっかり腕で抱き締め 自分の体へ引き寄せている けれどこの男には両手が無い ---------------------------- [自由詩]フラッグ/umineko[2010年9月30日8時06分] 私は想う あなたと出会う その事実を あなたの意味を これから 私は失っていく 例えば友を 痛みを そのとき 私が還れるために 北極点のすがしさで あなたが たとえば カフェの片隅で 公園通りの 枯れたベンチで あなたが今日も戦っている その事実を 私は 今日もまぶしく想う 私は あとどれほどのことばを遺し 死んでいくんだろう 届かない 闇に投げた 麦わら帽子も 蝉の声も あなたは ただ消えていく私の声に 耳をほどいてくれるだろうか それとも あなたはあなたのままで 夜にたなびく 道標として       ---------------------------- [自由詩]青波/吉岡ペペロ[2010年9月30日9時22分] 青の敷布には 愛し愛されるふたりによって 波もようができていた それはまるで 遠くから眺める海のようだった 波は変化してやまないはずなのに 青い革にできた皺を見つめるようだった 青の敷布には 愛し愛されるふたりによって 波もようができていた それはまるで 遠くから眺める海のようだった ---------------------------- [携帯写真+詩]亀/アラガイs[2010年9月30日16時08分] キャンプ場の近くを車で走っていたら20センチくらいの亀が道路をえっちらほっちらと横切っていました。 僕が車を止めて近づくと、亀は首や手足を引っ込めたまま 動かなくなりました 。 このままでは 後から来る車に轢かれてしまいます。 ---------------------------- [携帯写真+詩]亀 ‥‥ 続き/アラガイs[2010年9月30日16時21分] 亀はじっとして動かない 僕は固い甲羅になった亀の両脇を片手でおそるおそる上から掴み上げると 道路脇の川へ下りてゆき逃がしてやりました 。 亀は うれしかったのか 哀しかったのか 目には涙に濡れた跡がありました 。 死んだ 兄さんの目によく似ていました 。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]「檻の中の同性愛」/桐ヶ谷忍[2010年9月30日20時45分] 私立女子高。 可愛い制服と、私の他に、私の中学から受験する者が居ない事を 目的で選んだ第二志望の高校だった。 第一志望の高校は落ちた。当然第二志望の女子高は私の偏差値より 下回っていた。 だから成績はいつも上位。優等生だった。 中学までいじめにあっていた私は、高校ではいつも微笑を絶やさずにいた。 またいじめにあうのはもう、心が本当に壊れてしまう。 いじめで培われた他人の顔色を窺う事に長けた事で友達も出来た。 「優しい」「頭がいい」「大人っぽい」それでいて「天然ボケ」。 私は、上手く演った。 けれど、本心では全く、何もかもが楽しくなかった。 いじめとは、人間を恐れ、嫌う人間を作り出す行為だ。 他愛もない事ではしゃぐ友達に合わせながら私は醒めていた。 くだらないとか馬鹿らしいとか、そんな言葉すら浮かばないほど 醒め切っていた。 だが、居たのだ。 私が作り上げたキャラクターを上手く演っている事を気が付く友達が。 そしてその友達に「好き」だと告白された。 女子高だ。 思春期の少女ばかりの集まりの中なら、そういう子が居ても不思議ではない。 所詮は同性だけが集められた檻なのだから、同性愛も発生する。しない方が おかしいと思う。 子犬のような子だった。 誰にでも愛されるような性格の子が、その正反対である私を好きだと。 最初は、はぐらかして微笑んでいた。 好きになってくれてアリガトウ。 それだけ。 彼女は私に、何も求めなかった。だから私も彼女を好きとも、なんとも 思ってない事も、何も告げなかった。 けれど、二人きりになるとささやかれる「好き」。授業中に回されてくる 紙切れの、どうでもいいような文章のどこかに必ずある「好き」。日常の 延長線上で、しかし明らかに恣意的に触れられる。休日には他の友達に内緒で 二人きりで会いたいと誘われる。会わない日は、電話が鳴る。 私は、当時親からでさえ愛情を持たれていると思った事などなかった。 初めての、他人からの接触に戸惑った。 彼女の「好き」な女は、架空のキャラクターであり「私」ではないのだと 自嘲もした。 なのに彼女は、どういうわけか皆がだまされている中で私がひどく醒めた 人間である事を嗅ぎ取っていたらしい。 友達の中で同じように笑い転げた後、二人きりになるとふと問いただすのだ。 「本当はさっき何て思ってた?」 演じるという事は、ひどく消耗する。 「私」は外面に出さない。 その「私」を、彼女は問う。 繰り返される「好き」にほだされ、本音を問われ続けられ、少しずつ、 彼女の前でだけはボロが出た。 そうしてボロを出すほどに、彼女は私を好きだと言った。彼女以外の 友達の前では一切出さない「私」を彼女にだけは打ち明ける。 今思えば、彼女は多分そんな私の外面と内面の落差に恋をしていた のではないかと思う。 自分だけが知る「私」に恋をしていたのではないかと。 二人きりになると突然冷ややかに他人を見下した評価をする私を、彼女は 「そう思っているだろうなーと思った」無邪気に看破し、その私を嫌う どころか益々好いてくる。 そして私もまた、彼女を、気づけば好きになっていた。 ありのままを肯定してくれる存在に初めて出会ったのだ。 同性であるとかは全く気にも留めなかった。 そして、こんな想いは、思春期特有の少女にありがちなものであり、高校を 卒業したらこの関係も終わると私は悟っていた。 高校生時代、同性から「好き」と言われた事は二度。言われなくても私を 「好き」だと想っている子がいた事も含めれば、三人の同性から好かれた。 当時、腰まで長く伸ばしていた髪を、執拗に「梳かせて」と毎日のように 放課後遅くまで私の髪の毛を梳いていた子に彼女は嫉妬した。 その子も私を好きになってくれたひとりだった。彼女もそれを知っていた。 だから剥き出しギリギリの嫉妬をした。 嫉妬される優越感というものを、初めて知った。 「同性愛」は禁忌であるから、あからさまな対決など彼女らはしなかったし、 表面上は和やかだった。 そして、私は彼女以外には「私」を前面に出す事はしなかった。 彼女だけが特別だった。 一番最初に「好き」と言われたからではなく、他の子達は私の作った キャラクターに幻想を重ねている事を、私は知っていたから。 何より、みんなから好かれる彼女の一番が私だった事がひどく誇らしかった。 嬉しかった。可愛くてならなかった。 物心つく前から互いに互いを罵り合っていた両親。家庭では罵倒か、 子供に八つ当たりするか、緊張した無言が常となっていた。 明るい子供が育つわけがない。保育園から中学までいじめ。家庭においても 学校においても怒鳴られるか嘲笑されるか無視される環境で育ってきた私には、 あの頃、彼女という存在がどれだけ、どれだけ大切だったか。 作り物ではない笑顔で接する事が出来る存在がこの世に唯一人でも居る という事が、あんなにも泣きたいほどにありがたい事だなんて、彼女に 出会う前まで知らなかった。 排斥され続けてきた私なんかを「好き」だと言ってもらえるたびに 哀しいほどに切なくなった。 たとえ期間限定の恋愛関係だと分かっていても。いずれ女子校という檻を出て 男と触れ合うようになれば、高校の三年間は気の迷いだったと否定されたとしても。 あの頃の救いは彼女、唯一人だった。 そして、あらかじめ私が分かっていた通り、高校を卒業して、彼女の心は 私から離れた。 私も数年間は彼女の事を想い続けていたが、自然に恋心は消滅した。 彼女は今、私の一番の親友である。 私も彼女も、異性と付き合う時にはいつも報告しあった。 そして、高校時代の恋愛感情など蒸し返さない。 なかった事にするように、普通の友達付き合いをしている。 私は、高校時代に作り上げたキャラクターが世間に通用すると分かり、 以降そのキャラを演じ続けてきている。 そして、そのキャラをキャラと見破る人にだけ好かれた。意図的に、 ボロを出す事で好いてくれる人も居た。 私は、そうやって見破ってくれる人を好いた。 見破ってくれた彼と結婚した。 彼女はまだ未婚。 彼女は、本当にもてるのだが。 そうして付き合う人間が変わるたびに、その人物の詳細を報告し、 時には3人で会い、そして必ず「あの人の事、どう思った?」と聞いてくる。 私は決まって「ちょっとどうかな…と思った」と返す。 別に妬いているわけではない。 ただ彼女が選ぶ異性はいわゆる遊び人タイプなのだ。 予想通り彼女は短期間で別れ、また別の、同じタイプの人間を私に引き合わせる。 「長続きしないんじゃないかな…」 私が男だったら、と考えた事などない。 私は女である事に満足している。 けれど、私のような男性が彼女の前に現れれば良いのに、と思う。 きっと彼女を幸せにする。 大事に、大切に、彼女を愛するのに。 妬いているわけでは、ないのだけれど。 恋愛感情など、とうに消滅している。 だけど、ただの友達とも思えない。 この感情を何と名付ければよいのか分からない。 あの当時とニュアンスは少し変わったかもしれない。 けれど、彼女の事は今でも「好き」なのだ。 ---------------------------- [自由詩]水のあがき(五)/信天翁[2010年10月1日10時15分] げんこつであごを支えている 机上の散乱物をながめて あがきつつ果たしている 四次元から背負わされたミッション ひとつひとつに浮き出ている カルマからくくられた押し花の自分史 あゝ 天海ではこだましている ペガサスの優雅なはばたきが ---------------------------- (ファイルの終わり)