るるりらの田中修子さんおすすめリスト 2017年4月4日22時43分から2020年12月25日1時50分まで ---------------------------- [自由詩]花の針/田中修子[2017年4月4日22時43分] あなたは針で わたしを刺していった はたちきっかりでいったあなたの のこしたことば いくど読み返したことだろう 「あなたにわたしを息づかせるよ」 あなたを愛で殺してしまっただれか そのだれかはあなたのこと きっととうに忘れてしまっているだろうに なんでわたしはひんやりした影を 抱きしめつづけている 「ねえねえねえ なくしてから気付くなんて ばかだ」 埃のたつ紙でわたしはいまだ 喉をいためている この紙のなかにたしかにあなたの息がある わたしは満開のまま咲き続けるあなたを うちに棲ませて生きている 「ありったけの花をあげる 消えるまでの涙をあげる」 白い唇を噛んでかかえこんでいる 針の花束 --- ※「」内は友人の書きのこした言葉です。 ---------------------------- [自由詩]みどりの沼にひそむ/田中修子[2017年4月14日0時53分] 飲み込んだ言葉が 胸にわだかまりの どろりとした沼を作る 沼の中で 人に見捨てられ大きくなった亀が 悠々と泳いでいる よく見ると 子どもを食ってふくれた金魚の尾が ひらりひらり こっちへおいでと赤くさそう この風景をとどめよう そして私の胸はまた痛む それでも今日は素晴らしい日 二度と繰り返さないこの空 桃色、青色、金色のかさなる雲に足をとめた 強く吹く風は海からのものだろう ゆうぐれに月はひどく大きい 目をうつ白さに息を飲んで そうすると少し楽になる 私は痛む緑の沼だ 沼の中には大きな亀と 子どもを食ってふくれた金魚 よく見ると金魚は人魚であった 人魚の顔は私、 口の裂けるようにわらった ---------------------------- [自由詩]戦争/田中修子[2017年5月24日21時34分] ある日ふとおかあさんとおとうさんに 問わずにはいられなかった 「戦争ってそんなに悪いことなの?」 「当たり前のことも分からないなんて、そんな教育をした覚えはありません!」 「僕たちが平和のためにどれだけ戦っているか 分からないのか!」 ピシャリと閉じた 閉じられたドアのこっちで唇をかんだ かわいい絵本を卒業したころ 見せられたもの 原爆で黒焦げになった死体 ケロイド ナパーム弾で焼けた子ども ホルマリン漬けの赤ちゃん 放射線で死んでゆく村 そんなのばかり 目を閉じられない ひとってこんなにきたないことができるのならば 戦争が起きて ひとはぜんぶ 灰になって 狼や鹿や 花や葉っぱや みずくさやお魚や そんなのだけ残ればいいのにな そうしたらきっと きれいだろうな 戦争が起こったなら 焼夷弾が真っ赤におちてきたら 燃え尽きていく家のなかで おかあさんとおとうさんは わたしを抱きしめてくれるかもしれない  いま 少し年をとって  公園で遊んでいるこどもたちが いつか  人を殺したり 殺されたりされるかもしれないことを思うと  それは 戦争は ないほうがいいに決まっているけれど  もしおとなたちが  こどもたちの心の中で起きている  荒れ果てたかなしみに気付かないのなら  たぶん そこからもう 戦争ははじまっています ---------------------------- [自由詩]なつみかんとおとな/田中修子[2017年6月8日2時00分] 庭でとれた夏蜜柑 刃元で厚い皮に線を引く ふくいく 薄皮はぐと 黄王がぎっしり 時間の結晶をたべる からだに飾れなくても どこにでもきれいな宝石がある スーパーの帰り 見上げれば 敷き詰められた天青石の空 バロック真珠の雲たち ちいさいとき 香水も宝石も いらないで シャボン玉吹けば なんだかうれしかったのはなんでかな いま、飾りつけないと なんだか恥ずかしいようにおもうのは なんでかな ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]夢夜、三 「孔雀いろの鍵」/田中修子[2017年6月11日18時24分]  Jと別れてあたらしい生活が始まっていたのだけれど、車の世界の帰りだというJがこの家へたずねてきた。  ただあたらしい生活と言っても、螺旋階段を一周して、すこし昔に帰っただけのような気がする。奇妙な、少女たちがなにかと戦う世界へ。  そこで新しい人と、恋をしていないのに恋をしている。戦う世界は懐かしくて馴染んだものだったけど、折にふれてJのことを思い出していた。私の胸にともる唯一のあかりであったから、Jを忘れることは生涯できない。忘れてしまえば私は、冷たいさみしいオバケになってしまう。  それほどにJのことが好きだったけれど、きっともう恋人とか夫婦にはなれないだろうと思っていた。男と女は違って、女はいちどプツンとしてしまうともう好きになることはできない。  Jは分かっているような、諦めきれないような顔をして、昔のように鍵を開けて入ってきた。  「ただいま」 「おかえりなさい、J」 「どうも、はじめまして」  私と、いまの私の彼が後ろで家事をしながらどこかそらぞらしく対応して、最後の期待の力も抜けたようだった。  「これを、思い出に持ってきましたよ。あのうちの。いまのアパートに引っ越してから、荷物を探ったら出てきました」  Jのてのひらに乗っているのは、見たこともないようにきれいでやさしい、孔雀いろに輝いている二本の鍵だった。私はその手の派手な色合いが苦手だったのに、吸い込まれるように鍵の片方を受け取った。  孔雀いろの中に、スーパーの行き帰りに陽に照らされて青い海や、あのうちを季節ごとに飲みこもうとする葛の葉の生き生きとした緑色、少女が着るような赤いワンピースを着て眠りこけていたあのころがくっきりと見える。  私は、息を飲んだきり止まってしまうような気分になった。  いつのまにか私の胸のあたりに鍵がぶらさげられていた。  あのうちにはほんとうには鍵を必要とする扉はいっこもなかった。泥棒ですら素通りするだろうぼろぼろの、いまはもう駐車場になってしまっているあの横須賀のうちの、だが、鍵だった。  「ありがとう。お返しに、この家の思い出の鍵を渡したい。少し待っていて」  気が遠くなるような時間、四つん這いになって私はこの家の鍵を探した。  しかし、この家に思い出と言えるものなどなにもなく、あるとしてもいやなにおいを放つ錆びたようなやつであることはなんとなくわかっていて、触れれば体が吸い込まれるようなからっぽをただ永遠に探しているのだと分かったときに、目が覚めた。 ---------------------------- [自由詩]庭のおかあさん/田中修子[2017年9月11日13時42分] 庭の柿の木は ざらりとしたぬくい腕で 小さなころからずっと わたしを抱きしめてくれました おばあちゃんがわたしを だっこもおんぶもできなくなったころから わたしはランドセルを放り出して 庭の柿の木によじのぼっては ぎゅっとしてもらうのでした わたしが飽きるまで抱きしめてもらって 飽きて離れてもそこにぜったいあって ひそやかに 抱けば抱くほど ぽかぽかするね そのころの わたしが にんげん から おしえてもらったことは 原爆で生焼けになった人のうめき声 731部隊でひとがひとをナマで解剖した 日本の兵士がおんなのひとを犯しまくった とか そうしてお母さんは わたしが子どもの権利条約の暗記を間違えると 怒鳴りつけてくるものでした から そしてまた集会で 「このひげきをにどとくりかえしてはいけません」 とわたしがいうと 「ちいさいのになんてリッパな考え方をする子なんだ さすがしっかり教育なさっているものだ」 みんなすごくよろこんで褒めてくれるものでした わたしはお母さんとお父さんの ゴキゲントリの鸚鵡をしているだけなのに ですから わたしは にんげん って なんてばかでいやなものなんだろって こんなにいやなものしかなくって 死んでしまえばどうも それっきりらしい そしたら はじめに首吊りをこころみたのは小学生のころでした 失敗するごとになぜだか 庭の柿の木にだっこしてもらいにいきました 庭の柿の木は だまって抱きしめてくれました するとわたしはそこでいきなり 涙が止まらなくなるのでした 春には躍るようなキミドリ 夏にはいのちそのものみたいなま緑 秋にはしずかに炎色 冬にはまるで死んでいくように痩せ細ってはらはらしました けれど耳当てれば息づいていて かならず春がくるのです にんげん が 甲高い声で叫ぶくせにおしえてくれなかったこと 庭の柿の木 が だまっておしえてくれたこと ぜったいにまた、春はくるのです 夏もくるのです 秋には鮮やかに燃え盛るのです 呼吸さえやめなければ。 ---------------------------- [自由詩]ウォー・ウォー、ピース・ピース/田中修子[2017年10月7日18時56分] 「せんそうはんたい」とさけぶときの あなたの顔を チョット 鏡で 見てみましょうか。 なんだかすこし えげつなく 嬉しそうに 楽しそうです。 わたしには見分けがつきません せんそうをおこす人と せんそうはんたいをさけぶ人の 顔。 ごぞんじですか、ヒトラーはお父さんに 憎まれて憎んでいたのだそうです。 それでお父さん殺しを ユダヤ人でしたのだ、という説があります。 ヒトラーがお父さんに ぎゅうっと抱きしめられていたら あの偉大なかなしみは 起こらなかったのかもしれません。 お母さんこわい、あなたの顔はどこにいったの ちかよらないで、わたしまで吸い込まないで。 (ウォー、ウォー、とわたしは泣き叫んだ) あなたは幸せですか。 おうちのなかはきれいですか。 玄関のわきに花や木は植わっていますか。 メダカや金魚を飼ってもかわいいかもしれません。 あなたの子どもは むりやりでなく、楽しそうにしていますか。 わたしにながれる カザルスのチェロを 聴いてください。 (鳥はただ、鳴くのです ピース、ピースと) 春、おばあちゃんが フキを 薄口しょうゆでしゃっきりと煮て きれいすぎてたからものばこに 隠しちゃいたい。 夏、おばあちゃんといっしょに いいにおいのするゴザのうえで お昼寝をします。 寝入ったころにさらりとしたタオルケットをかけてくれるの ないしょで知っています。 秋、いそがしいお父さんが、庭の柿の木の落とした葉っぱをあつめ たき火にして焼き芋を焼いてくれて メラメラととても甘いのです。火の味です。 冬、ときたま雪だけが ふわふわめちゃめちゃ生きていて 寒いだけだし 松の葉をおなかいっぱいに食べて冬眠しちゃいたい。 それでうっかり起きちゃってスナフキンと 冒険しにでかけるんだ。 そんなわたしも、お母さんになりました。 今日、じゅうたんを近くの家具屋さんに 買いに行きました。 薔薇とナナカマドの実で染めたような色をしているよ。 夕暮れの空を見ます。 水色とピンクと灰色が入り混じって ひかっていました。 秋の虫がきれいに鳴いています。 わたしはわたしの顔をなくすことなく あなたが羽ばたいてとんでゆくまで このちいさな巣箱を ふかふかにしていたいな。 ほんとうにたいせつなのは 静かに流れてゆく はるなつあきふゆ あたりまえにあってききおとされる 鳥や虫の鳴く。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]ジャンヌ・ダルクの築いたお城 蛸/田中修子[2017年10月12日8時03分]  おととい、あるいてほどなくある実家の父に「婚姻届けのサインをもらいにいっていい?」と電話をした。「いま、選挙期間中だから忙しい」私は黙った。それで、父は慌てて「時間がある今日中にサインしにゆく」「ありがとう」私は笑顔でいった。それで電話を切って泣いた。私は会ったらなにをしてなにをいうかわからなかったから、婚約者に出てサインをもらってもらった。やはり私は活動の次の存在だった。母が死んだことでだいぶ順位はあがったが、そんなことはもうどうでもいい。今日私はあの家から解放される。  母は数年前の11月28日に死んでくれた。何年に何歳で亡くなったのかは忘れた。そのうちに思い出すこともあるだろう。  終戦の年にうまれたのはおぼえているから、2017年のいま生きていれば72才だ。固執する面と関心がない面がある。ふだん旦那の前では「あの女」と呼んでいる。  あの女には民青で活動したときに通り名があった。「同志社大学のジャンヌ・ダルク」という。民青と敵対している勢力に属していた平成うまれの旦那が京都大学で活動していたとき、「同志社大学にはジャンヌ・ダルクがいて、民青のやつらをオルグしようとしてジャンヌ・ダルクに逆オルグされた仲間が何人もいた。だから、同志社大学には近づくな」と同志にいわれていたという。  あの女から留年したという話をきいたことがないから、1967年には卒業していたはずの女の伝説が、2013年頃まで残っていたということになる。  私も家の方針で高校まで民青をやっていた。班長までやっていた。違和感を覚えて辞めようとしたとき、ひきとめがすごかったのと、「なにか悩みはありませんか」という人が来て、「これじゃ宗教と変わんないな」と思っていまは嫌悪感しかない。  いま私は完全なノンポリである。旦那もいろいろ事情があって、その民青の敵対組織はすこし前にやめていた。あそびと転職活動を兼ねて都内に飲みに来て、店員さんに昔活動していたころを自慢げに話していた旦那に声をかけられ、「私ノンポリなんで」ととりあえず言っておいて、旦那の「ここでノンポリという単語を聞くとは」で、盛り上がった。  私には瘢痕状になった腕の傷あとがある。瘢痕状、というのは、傷に傷を重ねて、もとのなめらかな皮膚がまったく見えなくなっている状態のことをいう。まるでしわしわのちりめんのようだ。  傷あとは脚にもある、首にもある。そっちは、恐竜にひっかかれたあとみたいになっている。  「傷あと」であることを私は誇りにしている。  精神疾患があって、幼児期からの虐待を受けた人・レイプを受けた人・あるいはナチス収容下の捕虜、そうしてベトナム帰還兵にみられる複雑性PTSDという症名である。    「これ、これ。見て」精神疾患込みで私を好きになってくれる人でないといけないから、会ったときすぐに私は腕の傷あとを見せた。それから首あとを見せた。そのうちに脚のも見せた。  それでも生きている私を、旦那は、「人間こんなになっても生きてられんだな」と、よくわからない感動を覚えたという。旦那のいいなずけは東日本大震災のとき、津波に飲まれた。漁村の網元の娘だったそうだ。一族ごといまも遺体は見つかっていない。「あのいいなずけなら、泳ぎも達者だからどっかで生きているかもしれない。たくましい子だった」というのが、「こんなからだになっても生きている子」という私にスパっと切り替えられたようだ。  それから中距離恋愛をしていたころに、「あんたんとこの活動はどうだった」とか、そういう話しをたびたびした。  「うちの母、同志社大学のジャンヌ・ダルクっていうの。民青でオルグした父と一緒に反戦活動とかめちゃくちゃしていた人よ。日本共産党から市議会議員の立候補もしたこともある。いらだちが凄かったのか、私、ほんとうに罵られまくっていたの。"あ、この女、私をストレス解消道具にしてやがる"って小学生で分かっちゃったときがあったんだよね。小学生が分かるんだから本当よね。その前もそれからもいろいろあってさ、それで私この首と腕と脚で、症名は複雑性PTSDよ。笑えるよね。でも通り名は聖女の名前なんだよね」「お前あのジャンヌ・ダルクの娘か!?」  そうして伝説のことを話してくれた。  私が本当に旦那に惚れたのは、あの女を知っているというその瞬間だったと思う。因業なものだ。  おさないとき、スっ転んでよく怪我をした。  抵抗力をあげるためと、だいたい、放置だった。  そうして私は、自分のかさぶたをはいではよく食べていた。傷が治りきるまえのじゅくじゅくを引っぺがして、またあたらしい赤いのが滲む。また真ん中のほうからこぎたないうす桃茶に盛り上がって、かたまってくる。  自分をたべるのが好きだった。自分で自分の傷を愛していた。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]ジャンヌ・ダルクの築いたお城 少女Aとテントウムシ/田中修子[2017年10月14日2時16分]  私は1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件の犯人、酒鬼薔薇聖斗こと少年Aが好きだった。少年Aは当時14才で中学生という報道で、私は当時12才で小学6年生か中学1年生だった。彼も私も、とびきりの条件付きの愛のなかで生きていた。あれだけ派手な事件を起こし、「私はあの子の母親をいっしょうけんめいやっていたのに、あの子がちゃんと育たなかったなら、私があの子を育ててきたあの時間は、いったいなんだったんでしょう」そんなふうに母親に言わせた彼に拍手喝采だった。  私がいくらいい点数を取ってきても、あの女は満足しなかった。そのわりにあの女は、あの女の友人のダウン症の子は好きだった。私はふしぎに素直なその子を好きだったが、「エンジェルみた〜ぁい」とあの女がいった瞬間、自分の心の中によくないものが芽生えたのがわかった。なぜ私はいっしょけんめい勉強しても怒鳴られるのに、この子は生きてるだけでエンジェルみたいと言われるんだろう。だいたいエンジェルってのはひどく宗教的な発想だ。  少年Aが被害者の1人に知的障がいのある子を選んだ理由がよくわかる、気がした。  小学5・6年生のころから、おばあちゃんが脚を悪くして弱りはじめ、寝たきりになった。たぶん私の心もそのころから寝たきりになって、さいきんやっとまた歩き始めた。  ひとさまをまきこむ気はなく、家族みな殺し、をどうやってしようか毎日ふらふら妄想していた。おばあちゃんは首を絞めて楽にしてあげよう、きっとわかってくれる。父と母と兄は不意をついて心臓をひとつき、いや、どうも肋骨が心臓を守ってそれでは遂げづらいらしいから首の動脈だろうか、とか。  おばあちゃんと両親と兄と私、誰からみても幸せな5人家族だったころである。おばあちゃんは、母の母だった。  「はよう死にとう。はよう死にとうんや。ご飯たべられへん。食べられへんのや、喉のここまであがってきとるんや」耳に沁みついているおばあちゃんのうめき声だ。「はよう食べて! 食べきらんとうちの成人式の晴れ着見せたげんで。ばあちゃん見たいんやろ? 残したらばあちゃんが元気でもぜったい見せたげんわ」おばあちゃんの介護の一部をまかされている小学生の私は、そんな風に言ってスプーンで食べ物をおばあちゃんの小さくなった口につっこむ。  おばあちゃんの部屋は、むかしはすてきな魔法の部屋だった。  障子をとおして透き通ってチラチラ白くひろがる陽の光にあたるこうばしいような畳の匂い。朝起きてたたまれ、夜寝るときに敷かれるおふとん。あれはヒノキだったろうか、白めのこじんまりした箪笥。箪笥の着物が入れてある段からは人工的だが清潔な防虫剤のにおいがして、せがむとときおり見せてくれるビャクダンの扇子の、ものすごくくさいようなものすごくいいにおいみたいな不思議なかおり。こっそり私にくれるザラメせんべいとか、透き通る宝石みたいな純つゆの飴おやつがいれてあるプラスチックの箱があった。    いまは、小便と糞のにおいがする。  「はよう死にとう。はよう死によう。もう食べられへん。喉のここまであがってきとるんや」  ごめんね、本当にごめん。私にはどうしてあげることもできないの、おばあちゃん。勉強を拒否すると、あの女が私にこうわめいてくるんだよ。  「修子ッ、アンタ勉強しないんだったらサッサとこの家から出てけ! あんたみたいなの社会じゃやってけないんだよッ! あたしのいうこと聞けなかったら、野垂れ死ぬだけだねぇ」「子どもは親のものなんだから、自由になりたかったら金払え」それからまたこんなこともいう。「いいか、ご近所さまに家の中のことしゃべるんじゃないよ。あんたがいちばん困ることになるんだからねぇ」   私は小学生のころからよく首吊りをこころみていた。失敗しているけど私の身は私の身だ、やろうと思ったらいつだってできるだろう。赤旗を読んでも、両親の日常会話でも、どうも大人になってもロウドウシャツカイステみたいだし、よくてカクメイ悪くてセンソウがおきたりしてお先まっくらみたいだし、極楽だの地獄だのはサクシュされる人が作り出したあわれなゲンソウにすぎないみたい、死んだ方がぜったい楽だ。  でも、いま、あの女の命令にさからって、おばあちゃんがおばあちゃんのご飯を食べきれなかったら、私だけじゃなくおばあちゃんまで叩きだされて野垂れ死んでしまう。私はなんだって困らないけど、おばあちゃんは悲しい。それなら一緒に死んであげたい、楽に殺してあげたい。あの女はご近所さまに対して困るだろう、それなら私が一家みな殺しの犯人になって最後に自殺したらハッピー・エンドだ。  ト、小学生の私は思っていた。  「はよう死にとう。はよう死にとう」  哀願する大好きなおばあちゃんの口にスプーンを突っ込める私は、頭がおかしい。本田勝一の「南京大虐殺」に出てくる日本兵みたいだ(あとで本田勝一の本の多くにねつ造が指摘されることを知った)。  5人家族の幸せなこの家で、いちばん死にたがり、いちばん頭がおかしく、いちばん頭が悪く、死ぬ可能性の低いのは私だった。おばあちゃんはきっと極楽にゆける。あの両親よりおばあちゃんが教えてくれた、極楽浄土ってとこがあるってのがぜったいほんとだし、私がおばあちゃんを大好きだし、おばあちゃんは苦労してきたから、きっと極楽にゆける。  だからやっぱり、家族殺しはやめだ。とりあえず私を殺そう。そんなふうに思うようになった。  ある日、おばあちゃんは、どうしても洗濯物を二階のベランダに干しに行くと言ってきかず、洗濯かごを抱えて階段を上がっていった。  おばあちゃんはよろけた。下の段にいた私は、無我夢中で、おばあちゃんに飛びついた。飛びついたのは、おばあちゃんの脚だった。おばあちゃんは、ゆっくり階段を落ちていった。落ちていく途中、灰色のかなしそうな目と私の目が合った気がする。次に覚えているのは、階段の下にグタリと倒れているおばあちゃん。それから、記憶が数時間ない。あの女が帰ってきて、おばあちゃんの部屋に行って、私も入っていった。おばあちゃんは自力で部屋に戻ったらしい。淡い銀色の髪の毛に透けて、紫の痣がドッサリ浮かんでいた。  「なんで救急車呼ばなかったのッ!!」  私が殺した。とうとう私が殺した。  すぐには亡くならなかったけど、その頭の打撲が決定打になり、おばあちゃんは完璧な寝たきりになって、1年後、青い稲の揺れる季節に病院で息を引き取った。行きかえり、寒いくらい冷房のきいた電車の窓の外に、光る風に触れられて、稲がキラキラ嬉しそうに、青く青くはしゃいでる。  真っ白な病室でピーという心停止の音が鳴ったとき、家族全員と、あの女の姉のおばさんがそろっていた。おばさんはワンワン泣いていた。父はしずかにため息をついてくるりと後ろを向いて肩を震わせている。兄はおばあちゃんの手を握り、無表情だがツーっと涙が垂れた。あの女は片目から一筋涙を流した(ことを、いま思い出した。あのひとにも感情はあったのだ)。  私だけ、涙が出ない。ひとつぶも涙が出ない。いま、心臓が止まってここを去ろうとしているおばあちゃんの腕に触ることもなんでかできない。私は血も涙もない異常犯罪者だ。お望み通りの少女Aだ。完全犯罪をやらかしたのだ。  その後、「はよう死にとう、はよう死にとう」は耳に沁みついてそのたびに自分を殴った。そのうちに体を傷つけ、そのうちに酒になった。  おばあちゃんのいる極楽には行けなくても、せめて死んでお詫びをしたい。違う、本当は会いたいだけだ。今度こそあの女から守ってあげたい。またあのサラサラでシワクチャであったかくて乾いた手をつないで一緒に歩きたい。すべての四季を、おばあちゃんとやりなおしたい。    ある時から別の理由でカウンセリング併設のトアウマケアを専門にしている精神科にかよって、薬が出るようになって10年になる。  「はよう死にとう、はよう死にとう」というのが、幼い心で抱えきれず脳に傷がついた、フラッシュバックという症状というのも理解できてきた。そのくらい弱っている老人と小さな子どもを二人きりにするのがおかしいらしいということも分かった。あの女が死んでくれて数年、ほとんど薬がなくなったけれど、いちおうそれが聞こるようになれば、薬を再開することになっている。  そうして私はこの頃、自分の体を傷つけたり薬を増やしてはならない事情ができた。  ちょっと前、また「はよう死にとう。はよう死にとう」が聞こえた。もう、捕まえて罰せられたっていい。私は110番に電話をかけた。「祖母を殺したかもしれません」所轄の警察の電話番号を教えられる。「それはいつですか。さっきですか」「私いま、32歳で……小学生のときです」緊張していた年配の警察官の声がやわらいだ。「たぶん小学生の私は祖母が落ちるのを止めたかったんです、でも、とっさに脚に飛びついてしまったんです」私はなぜだかワンワン泣いていた。おばあちゃんが亡くなったときに流したかった涙だった。「大人でも介護中にそういった事故に対応できないことがあるんです。小学生のあなたはいっしょうけんめいだったと思います。それから、こういう仕事をしていますから、犯罪性があるか声を聞いていると分かります。あなたにはそれは感じられません。どうぞ、忘れて前へすすんであげてください。大丈夫ですか。いま一緒にいてくれる人はいますか」「大丈夫です。ありがとうございます」  自分を追い詰めすぎないでください、なんてその人は言ってくれてその電話は終わった。  国家権力とか国の手先、国の犬(犬はとてもかわいい)、とあの女があざ笑っていた警察の人。  私はいま少年Aのことが理解できなくなった。それでいいんだと思う。  「はよう死にとう。はよう死にとう」の声が聞こえなくなってきたこの頃、よく、「おてんとうさまに恥ずかしいことしたらあかんよ」とそれだけを毎日毎日静かに教えてくれたおばあちゃんの声が聞こえてくるようになってきた。  こどものころ、「お天道さま」は「テントウムシ」のことかと思っていた。だから私はむかしからいまから、テントウムシをみるとなんとなくハッとする。  ジャンヌ・ダルクが作り出したあんまりに大きく広い城の、深い闇の底に寒い寒いと凍えてうずくまる少女A。少女Aが気づかないだけで彼女のまわりを、ずーっと1匹のテントウムシがはたはた飛んでいるんだった。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]ジャンヌ、雪の病室/田中修子[2017年10月22日1時38分]  あのひとは損な人だった。  15歳くらいまでにやられたこと言われたことがえげつなすぎて、本当にいい思い出がない。やはり亡くなってスッキリした、と思うたびに、風穴が空いている自分を知る。  ときたま必死に思い出す。あのひとが、あの女ではなく、お母さんであった日を。  私の拒食が発症した次の冬の日、あのひとが肝臓を壊して入院していた。  それでお見舞いに行った。  私はお気に入りの、ガイコツみたいに痩せ細った体にピッタリ合う真っ黒いコートを着ていた。そう、あのひとが買ってくれたのだ。素敵な細身の黒いコート。    そもそも地元の中学校に通いたかったのだが、あの女は、「あたしのいうこと聞かないんだったら地元の中学なんか出たらさっさと働いてもらう。労働者で搾取されて一生おしまいだよ。社会でやっていけないあんたが生きていけるわけないね」そう私をなじる。  受験に受かったときは褒められた。きっと父か誰か、そばにいたのだろう。ひとりでいるとなじるし怒鳴るが、少しでもひとめのあるところでは気持ちの悪いほど褒める人だった。「修子ちゃんはほんとうにすごい子だわ〜。ここ、見学のときにあなたが入りたいと言っていたわぁ。さすがパパとママの子ね」それで私はますますあの女が嫌いになった。   入学式でも、入ってからも、私はその女子校の建物に見覚えがない。校風も経血くさくてあまりにも合わなかった。あるときあまりにも不思議で尋ねた。「私、ほんとにここ入りたいって言った?」「あんたは見学もしてないねぇ!」勝ち誇ったような薄汚い笑い声。  私はある日決意する。この学校で、誰よりもか細い、生理もとまってしまうような少女になってやろう、と。私は、あの女に似ているとよく言われた。あの頃の私は、女になってはならなかった。女になればあんな女になるのだ。  お昼にカップラーメンと菓子パンを買うためにくれる500円をため、イトーヨーカドーのワゴンセールに足しげく通った。朝ご飯は、実家で毎朝出される玄米が腹に合わないので気持ち悪く、毎朝実家の立派な植え込みに吐いていかずにはいられなかった。お昼代は服代に消え、夜はほとんど食べなかった。三か月で50キロ代から40キロまで落ちた。私の筋肉はほとんど溶けて、鎖骨とあばらの浮き出る、青白い低体温の少女になった。    そうして、少女が着るにふさわしいコートを見つけた。大学生向けのショップだった。黒い、細い、ダッフルコート。どうしても手の届かない値段だった。あんなに憎かったのに、あの女にねだったのはなぜだったろう。  まだリサイクルショップのないころ、服はイトーヨーカドーのワゴンセールで買うのが当たり前のあのひとにとって、大学生向けのブランドの2万円のあのコートはすごい出費だったろう、それなのに、ものすごくイライラしながらも、買ってくれた。  私は嬉しくてそれからその真っ黒いコートを、破けるまで10年くらいは着てた。  お見舞いの日、真っ白い雪の坂をすべらないように上るのが大変だった。手はかじかんで縮まりそうだった。  真っ黒いコートにボタっと雪が散って、ドロッと透明に溶けていって、どんどん体がしみてった。  そうだ、あれは青く光る稲の日におばあちゃんを送ったのと同じ病院だった。  個室じゃなかったと思う。大部屋で他に人はいなかった。やっぱり病室はおばあちゃんが亡くなったときとおんなし、まっしろだった。  母は、すごくこころぼそそうな、はにかんだような顔で、 「お見舞いありがとう」 と言ってくれた。  あ、お母さんだ。このひと、私の。  それからしばらくして家に帰ってきたらあのひとはまたおそろしい、イヤーな感じのする存在になった。  あのひとが家で体調を崩したときがあった。私の名を呼ばれて飛んでいく。おばあちゃんが亡くなるまで介護をしていたし、ともかく必要とされたかった。そう、私を見てほしかったのだ。  引き戸の向こうで、えっ、えっ、という音がして、「ビニール袋持ってきて」というので吐くんだと分かった。ビニール袋を持って、引き戸の向こうからニュッと突き出た手に渡す。吐き終わるだろう頃を見計らって、引き戸をノックした。嘔吐物の入ったビニール袋や部屋にこもっているだろう匂いを処理してあげようと思った。  布団に横になってまた険しい顔をしてあのひとは邪魔そうに私を見た。「なに」部屋はなんの匂いもなかった。けど、あのビニール袋もなかったから、あのひとはたしかに吐いたのを処理したはずだ。  差し伸べた手を切り刻まれたみたいな気分。  おばあちゃんを送ったのと同じ病院に入院したい雪の日、あの顔。あのひとが、あの女、でもなく、こころぼそそうではにかんだ、お母さんの顔をした、ほんの数回のうちのひとつ。  あのひとが亡くなる数日前に、お弟子さんがなぜかどうしても撮る、と言って撮った写真があった。険しいか不安そうな顔で睨んでいてほしいのに、私ですらほんの数回しか見たことがない、いや、私ですら知らない、こころぼそさが抜けてほんとうに花がほころんでいるように柔らかいお母さんの顔があった。  そのポートレートが遺影になった。私は遺影でしかあんな、優しい、けがれのない、お母さんの顔を知らない。    その写真を見ると、ぶん殴りたくなる。  あのひとは晩年、活動をしていなかった。  仕事を引退した父は逆にのめり込んでいった気がする。  されたことを全部思い出して、首をきって、私の水ぼうそうをえぐった頃の母を、過去視のできる人にみてもらったことがある。その人は私の過去を見て、「あなたがいちばん意地悪をされていたとき、お母さんは、自分がしたくないことをしていたようね」って言っていた。時期的に、活動しかないじゃないか。  活動から遠のいてからのあのひとを、私を知らない。その時にはもう、あのひとに会うだけで自分を傷つける症状が出てしまっていて、私は精神科へ入院したりアルバイトをし過ぎてからだを壊して寝たきりになったり、そんな生活の繰り返しだった。  ジャンヌ・ダルクはジャンヌ・ダルクをできる人じゃなかった。きっとそうだ。  晩年はフラワーエッセンスとかアロマオイルとか、害のない民間療法に凝って、ひろめてた。  あのひとはただの平民で、ただの娘で、ときたま可愛らしい、少し不思議な仕事をする人でいるべきだった、と思う。  ジャンヌ、いまこんなふうに娘に文章で火あぶりにされている、かわいそうな、ジャンヌ。  私はあなたを愛したかった。  私がいつかお骨になって火あぶりに、真っ白に燃え上がるとき、あなたのこと、少しは分かる? そうして砕けたお骨は雪になって、あの病院の日に、しずかにつめたく降り積もる。 ---------------------------- [自由詩]真珠の記憶/田中修子[2018年2月25日23時31分] ミルク色の波が打ち寄せる 甘い浜にね 真珠がコロロンコロロンと いっぱい ころがっていてね カリリカリリと 齧って飲み込むと うんと 力いっぱい 泣けると ねむいの みんなこの 微睡む浜にいたの ほんとだよ うちのママは ほんの少し覚えているって この消えそうな 小さな足跡が ママだったって おとなになると 忘れちゃうのよって なんだかすこし かなしそうだから おおきな指をにぎってあげたよ なんだか モキュモキュするんだ へん だなぁ ---------------------------- [自由詩]下弦の恋/田中修子[2018年5月18日0時57分] ッポン ッポン スッポンポン ちょっと不安な夜はね お月様に弦をかけて 愉快にかきならして御息所を追い出すわ 獏 パクパク かあさんてばアマテラスだったのよ かっこつけすぎひねくれすぎて おかげで娘はアメノウズメじゃ お酒に飲まれてスッポンポンにあの浮かれよう 豊穣で自然なこのからだをみよ ボインのタワワな余韻 ムッフーフーがワッショイ ワッショイ 天岩戸をひらいたら かあさんをだきしめて揺れ動く 思想のははにうまれた詩のむすめじゃ ッハイ ッハイ 月は叢雲 しとやかな浜辺におどるように 揺れ動く中空の神 もういさかいはおしまいだ かあさんととうさんがお互いを捧げあうダンスをして わたしがうまれたこと かあさんは忘れちゃったみたい こりゃァ ちっとした 奇跡だァってのになァ 困ったもんだァ 夢の中で折れるナイフ ヴィクトリア時代のあのおはなしがとても好き 殿方が家具のエロティックなおみあしに欲情してしまうから ピアノにもカヴァーをかけたという わたしは淡いピンク色のつむじ風になって ゼウスのごとくありとあらゆるカヴァーを まくりまくり ひらひらひらめく布布から ルルルンルンっとかわいい音階 下弦の月の恋に痩せ細る 悩ましげなため息 ---------------------------- [自由詩]こおり/朝の空/鏡/田中修子[2018年5月20日1時34分] 考えてみたらあたりまえだけど 詩をかくひとにも なにかしら毒のようなものをまとう ひとがいた 目立ちたいひと 偉くなりたいひと 人を貶めたいひと なんだか スンと さみしいきぶん 澄んだ 冷たい こおりになって ?み砕かれたい / 詩人と名づけられたとたん わたしはなにもかも 分からなくなってしまう それらしきものに変化するのは むかしからとても得意だった そうでなければ生きられなかった いい子になる 優等生になる 職場でいちばん頑張っている人になる なりきったとたん つかれてしまう そしてわたしは 言葉の浜に うちあげられた 私はただの生きている人 ひとりぼっちなひと 風が鳴る 空が青い 朝の空がにがてなのは なにも隠せなくてこわい / ことばが好き すべてを反射して 醜いわたしも 戸惑うわたしも ごまかせない 本日 ことばは 鏡 わたしはだれ 冷ややかに じっとみいる わたしの顔を映す 自分を偽るなと わたしがわたしをはたいた ---------------------------- [自由詩]きみのとなりにユーレイのように/田中修子[2018年6月10日12時22分] きみのかあさんになりたい お洋服を手縫いしたり 陽に透けるきれいなゼリーをつくったり おひざにだっこして絵本を読んだりする いつも子育てのことで はらはらと気をもんでいる きみのとうさんになりたい 上手な火のおこしかたナイフの使いかたを教えよう 子育てノイローゼ寸前のかあさんを 「こら ちょっとやりすぎだ」 と抱きしめて デートにつれだしたりする きみのばあちゃんじいちゃんになりたい かあさんもとうさんも苦しそうなとき ちょっぴり預かって あくまでこっそりと いつもより贅沢な 歯の溶けそうなチョコレート菓子を 買ってあげたりする 内緒ですよ きみのともだちになりたい かあさんにもとうさんにも なんとなく話せない あのことを ひそひそ話すんだ なん時間だって きみの先生になりたい しかめつらしながら授業するあいま 生きることにほんとにひつようなことを ボソッともらして 校長先生にしかられる きみの 恋人になり……はべつにいいかな わりとテレビとか本とかに載っているし でも、空想と現実はちがうのである ガッカリするでないぞよ きみがもう だれかの かあさんでありとうさんであり ばあちゃんでありじいちゃんであり ともだちであり 先生であり 恋人……はいいんだった で、あるとして それでもぼくは ひつようなときに ひつようなだけ きみのそばにいよう ---------------------------- [自由詩]永遠の雨/田中修子[2018年6月21日0時31分] いつくしみを ぼくに いつくしむこころを ひとの知の火がなげこまれた 焼け野が原にも ひとの予期よりうんとはやく みどりが咲いたことを  アインシュタインはおどけながら呻いている  かれのうつくしい数式のゆくすえを あなたがたの視線はいつも ぼくらをすり抜け よその とおくの つぎの  ちいさなヒトラーが泣いている  打擲されてうずくまっているあわれな子 ここにいる ここにいるのだよ ぼくは そうして きみは 母の父の わらうクラスメイトらの まるで 業火のような そしてこのようなひ ぼくのことばもまた  あのひとびともまた かつて  愛情を泣き叫び希う  子らであったことを  ぼくに あのひとらに  おもいださせておくれ 雨よ、ふれ 六月の雨、紫陽花の葉の、緑けむる 淡い水の器がしずかに みたされてゆく あふれだす色の洪水で ぼくの 母の父の クラスメイトの 科学者の独裁者の兵士の 胸に焼け残っている 優しいものだけ にぶくかがやく砂金のように とりだしておくれ  絵本を破ることのできるちからづよい  手をくるめば  ぼくは  いまここで、永遠に  だきしめられた きみもまた永遠を かならず 与えたひとであったのだ ---------------------------- [自由詩]クローズド/田中修子[2018年7月15日16時19分] わたしがおばあちゃんになるまで あるだろうとなんとなく思ってた レストランが 「閉店いたしました 長年のご利用をありがとうございました」 さようならのプレートが 汗ばむ夏の風にゆれてた 鼻のまわりの汗 うー 小学生のとき おとうさんと あたらしいお店さがしをしていて みっけたのだった テーブルの上にいつも ほんとうのお花が飾られていて お水はほんのりレモンの味がした お客さんの声がざわざわして 子どもがさわいでも音楽と混ざり合って 耳に楽しくて 緑に花柄のテーブルクロスはたぶん ずうっと洗われてつかわれていて 少しずつ色褪せていく様子が とてもやさしいのだった ということに いま気づいたのだった わたしは おとうさん や おにいちゃん 死んでしまったおかあさんとおばさん に電話をして あのお店がなくなったことを ともに悲しみたいのだけれど あれからほんとにいろんなことがあって ありすぎて 戸惑った まんま ---------------------------- [自由詩]ちいさなちいさなことばたち/田中修子[2018年8月11日23時19分] 「錯乱」 しをかくひとは 胸や、胴体に肢体、に まっくらな、まっくらな あなが、ありまして のぞきこむのが すきなのです のぞくとき、 のぞきかえされていて、 くらいあなからうまれますよ 母や父や人魚のなみだや 星のうく夜を さんらん します あなた 「花よ咲け鳥よ飛べ」 体を引きちぎりたい にくしみも うらみも かなしみも 生きておればこそ 死んじまったあの子らの 想い出を 背負ってゆけるのも 生きておればこそ 死にたいのも 生きておればこそ いつか 叫びつづけ流しつづけた 悲鳴は涙は 火が虫が 地に返してくれるから いつか 花の咲くように 鳥の飛ぶように --- 「ふりかえる」 じょうぶな みひとつで どこどこまでも そらをつきぬけて ひとのあいだをただよい うみのはてさきまで いきてゆけていた くるしみの ひびが ただひたすらに なつかしい --- 「麦茶」 五月の 雨の翌朝に 冷蔵庫で冷えたキュウリを かじると 歯が シミシミした おなかが クルクルした 麦茶の湯気 --- 「ねどこに花は散って」 終わってしまえば いい生き方だったと 老兵の 死ぬように 毎夜眠る 今日友とした ふしぎな語らいを 思い出す 一輪の花の 散るように --- 「少年兵」 おかあさん 愛して おとうさん 見て と叫んだ ところから、首が、千切れたよ ろれつはまわらない ふりつもる雨みたいな サラリとしたてざわりの 言葉でくるみたい おやすみと囁きたい 母父を失った だきしめる あんしん、あんしん だきしめられている 愛してる とても なによりも だれよりも --- 「端午の節句」 ニラが ニラニラ笑ってる やだな 今日はニラ風呂か ニラが ニラニラ笑ってる ちがうよ きょうは 菖蒲風呂 ツンツン ジャブジャブ 菖蒲風呂 ごがつ いつか --- 「うた」 ツツジ らっぱっぱ らっぱっぱーのら コウモリ ぱたぱた虫をたべ 汗ばむ青い五月の夕暮れだ おふろのにおい 石鹸の 赤ちゃんあくびで 猫わらう --- 「海」 かわいそな かあさん あなたのこと 愛してた だれよりも 海の中から だれよりも --- 「テンテン」 きょうもこれまた いちどかぎりだ いちどかぎりだからこそ つらねてゆきたい がっかりもわるかない のほほんもなかなかよい ギラギラではなく キラキラしたい 点点でだいぶ かわるものである ふしぎなものだ --- 「深呼吸」 うまれたことや まだいきていることの おかしいわたしだ なにができるか できないのか なにをしたいか したくないのか ときどきふっと たちどまる でもどうせまた あゆみだす --- 「ひかる心臓」 私の心臓の中に 持ってる宝物 なーんだ あなたの心臓の中に 持ってる宝物 なーんだ こうかんこは できないけど かなしい、さみしい、ひとびとは ひびくよに互いの心音 きくことできるんだな --- 「氷のトンネル」 両親や教師のあつい語らいに当てられ わたしは冷えてしまった わたしにはひとり穿ちつづけた 透きとおった氷山のトンネルがある 氷山を、海を、浜を 庭を、一輪の花を 恥じらいながら もくもくと探検していた おとなたちもいるときく あなたのみた すばらしいひとりの風景を わたしは聞きたい --- 「皿洗い」 涙をぬぐうように お皿を洗った 傷をふさぐように やわらかい布でお皿をふいた お皿は ほのかにあたたかくて キュッキュと鳴った --- 「浮かぶ骨」 青い赤い金のピンクの 息飲むような夕暮れに いまだ怯え泣く 木に逃げ遅れた友が家族が 獣の歯に 食われたのをみたのだ 猿をとらえ食いちぎり 共に家族に分けあたえ やせおとろえ 飢えて倒れたのだ 最後の吐息の記憶よ 夕暮れ わたしの血肉 夜に薄っすら浮かぶ白い月 わたしの骨 --- 「空と月」 空はこんなに青かったっけ 月はこんなに白かったっけ いい夕暮れ まいにちまいにち一回こっきり --- 「フトンのきもち」 お布団が明るいおひさまあびて 香ばしくよろこんでいる だから夜フカフカの お布団もぐると わたしもキャイキャイ 喜んじゃう 気のせいだろか 気のせいかもな 黙ってぬくたい風に揺れる お布団はえらいな --- 「たんぽぽ」 おてんとさまの花 ハラランラン 錆びたフェンスだって フワワンワン 今日も笑ってるかい ムーッフッフゥ --- 「どこか遠く」 ひとりひとり くるしみをかかえていて なのにどうしようもなく わかりあえなくて そんなものかかえながら まわっている地球さん 空と風 鳥と花 どこか遠くでとどろいている海 どこか遠くで輝いている月と星 --- 「二子玉川」 家へ帰る人や仕事へ行く人の 金色の電車が夜に走るかわべりに はんぶんこの月が出ていて 星もチラチラ 金星かしら くらやみに黄色の菜の花揺れてます 夜の明かりはきれいだな わたしもユラユラ揺れてます ここですこうし光ってます --- 「ねんねのにおい」 かあさんのお膝で まぁるくなって ねんねしながら お花見できたらすてきだな 桜が散ってさみしけりゃ さらさら髪を撫ぜられて まぶたウトウト花びら落ちる ねんねのにおいは桜もち --- 「ぶらんこさん」 ぶらんこさん 今日は桜が満開だ 桜飛び越えて 月へと飛ばしとくれ 握るてのひら赤錆のにおい ぶらんこさん --- 「夜桜ラムネ」 好きな人どうしても欲しくってさ ラムネ瓶叩き割って ビー玉だしてしゃぶってた もう蓋開いて取れるんだって したら欲しくなくなっちゃって 薄青甘い味 記憶の舌 記憶だけ溶けない えいえんに瓶の中 --- 「お船とお花」 壊れて空き地に捨てられた 錆びだらけの ちいさな漁船によりそって 菜の花が笑ってた ムラサキハナナも揺れていた 向こうに海の音もした たくさんたくさん働いて いまはきっと虫や猫の寝床だろう いつか壊れてしまうなら あんながいいな --- 「花曇り」 薄曇りの日は きぶんがなんだか ドヨドヨ ドヨヨン ドヨヨン ドン ムームー の 御機嫌ななめ やんなっちゃう あらあらあら桜の蕾が パラパラ パララン パララン ラン ムニャムニャ ウフフ もうちょいで ヒラヒラ ヒララン ヒララン ラン 爛漫 爛漫 --- 「くりがに」 じぶんで 死んでしまうのは なかなか なんぎなことである いやしかし うまれないほうが よっぽどきらくで あったような などどモニャモニャ思いながら 生きているくりがにを 味噌汁にしていたら なんだかたいへん 申し訳なくなり せめておいしく いただいたのだ うーん おいしかったぁ そんな毎日である --- 「菜の花の味」 ひとはひと ひとり その透きとおるような さみしさを かろやかにさばけるようになったのは いつからか 菜の花がうまくなったからもう春だ --- 「椿のかけら」 好きよ好きよ 生きるって好きよ 地面に落っこっちゃっても なかなかやめらんないんだもん 生きるって罪だわ あたしからのチュウ --- 「鳥」 おいちゃんはもう歳だから こんな日は いちにちじゅう 鳥をみているだろう なにを考えているのかと すると なにも考えてないんだな 鳥は 人が想像しているほどには おいちゃんが人でいるのも あと少しだ 枝垂れ桜 ---------------------------- [自由詩]きれいなそらの かげ/田中修子[2018年9月13日13時25分] わたしのみていた きれいなそらを だれもがみていたわけではない と おしえてくれた ひと がいる お金もなく居場所もなくからだ しかなく ゆびさきはかじかんでいて いつもうまれてしまったことだけを 鳥が群れて空をゆく 羽のね 母も父も兄も いるのになく 家族がすきとおって いる トンボらは眩しいように 赤く風に揺れる 翅のね 秋が終わってしまったら ぬくいとこを さがさなくっちゃあ あったかいコートが マフラーが てぶくろが ほしいな からだをうろうか かってくれるひとは ありますか どこへいけば ありますか (知りたくもなかったことを) わたしのみていた きれいなそらが やねのしたに 子といる いまも 淡くまぶたに やきついて 薄みずいろの かげになっている ---------------------------- [自由詩]ちいさなちいさなことばたち 二/田中修子[2018年11月12日17時00分] 「黄色い傘」 きいろい傘が咲いていて わたしのうえに 屋根になっている かさついた この指は 皿を洗い刺繍をし文字を打ち 自由になりたくて 書いていたはずの文字に とらわれている おろかさよ 羽根だった指が 雨の日に白く 燃えあがる、よう きいろい屋根だけが あたたかく笑っていた --- 「ねがい」 詩をいかめしいところに 座らせないでください 擦り切れてゆく手縫いの雑巾、フラミンゴ色の夕暮れ雲、磨き上げたシンク、縫いかけの針のすわるピンクッションのように 思いだせることはないけれど、想うことだけはできる あの花色の風景のように すぐそばにいさせてください。 --- 「金の王冠」 王に追われた道化が 身を投げた 翡翠のくらい、夜の海 うちあげられた 不思議の文字の浜で ぐちゃぐちゃの体で 笑っていましたら 投げ銭くれるひとがいて 寂しかった 道化はいつのまやら うす汚れた 冠かむった王様に なってしまい ありゃあ、もう、 何者でも、ありゃあ、せん。 --- 「秋のベンチ」 しいのみパラパラ 公園の のざらしの 木目のベンチに 赤とんぼが二匹 座って おしゃべり しているよ 秋ですね 秋ですよ --- 「まどあかり」 とりかえしのつかないことを うまれたことを きずつけたことを そんなことばかりが 海のにおいのする いつか住む 知らない町の やさしい窓明かりのように 胸をよぎっていくのです。 胸をよぎっていくのです。 --- 「空と雨」 そらは きっと 寂しかろうに みまもる ばかりで ひとりぼっちで そらも きっと 泣きたかろうに なみだが とんとん ふって きた --- 「雷風」 かみなり びかびか 雲光る 雨宿り猫ちゃん ままはどこ ままはどこ --- 「ギラギラとかげ」 おっきな とかげの ぎらんぎらん しっぽっぽ 入道雲 夏の終わりに ウロチョロ チョロ 夏の終わりは さみしいかしら 羊歯にまぎれて 虫たべろ --- 「どこかとおく」 どこか とおくへ ゆきたいけれど どこか とおくへ いったって じぶんはずっと ついてくる --- 「白い蟹」 夏の終わりの 群青のゆうぐれだ 赤ちゃんと あまい浜辺で遊んでた 夜が そろそろ やってきた 中身の啄ばまれた 塩につかった 白い蟹が パッカリ 割れた --- 「ひとりの結晶」 あなたに ある あなたにしか ない ひとりきりでみた あの風景が 星や 宝石 きれいなビーズや 波音に風の鳴る音に 結晶 しています。 -- 「路上の会話」 きん色のおひさまですね 風がいいですよ --- 「てのひらいっぱい」 あなたは 宝石をなくしたと いつも 泣いてた 紫陽花がうな垂れて 夏はおわる さがさなくても わたしには よくみえた 伝えられないまま いなくなってしまって わたしのなかに あなたの 美しい宝石が とりのこされたまんま --- 「まちをあるく」 息がしろいということは、からだは雨よりあたたかいのだ まちを歩く すこしのかどを曲がるだけで 知らない花が咲いている 煉瓦の玄関が雨に 濡れて光っている だいたいの人は 自分で決めた 自分の部屋に 住んでいる 自分で決めた自分の人生を歩んでいるのだ 雨音がからだに 滲みこんでいく 傘のした --- 「いつかさよなら」 いつか みんな かならずね さよならを するんだよ できたら かなしくて あたたかいもの のこして ゆきたい もん ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]詩をめぐる冒険◆閉ざされた可能性 追記あり/田中修子[2019年1月6日8時55分] 「ちょっぴりゼツメツ寸前の詩をめぐる冒険◆詩をへだてるベルリンの壁」https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=339862&filter=usr&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D11348 に対する追記を書いていたのだが、追記のほうが長くなってしまったので、一記事とする。  三年ほどまえから現代詩フォーラムで詩を書きはじめ、狭い世界ではあるが、自分なりに現代詩というものを冒険した。  私は室生犀星など近代詩の詩人と、詩誌「詩とメルヘン」しか知らず、「詩と思想」「現代詩手帖」の存在すら知らなかった。ましてやネット詩に触れたのもはじめてで、興奮状態にあったようだ。  その状態で書いた自分なりの旅日記について、訂正しなければならないことがある。    ■そこで、文学極道という詩サイト(スルースキルや、かなりの遊び心がためされる)が、「文極ツイキャス」というこれは司会のかたの采配がしっかりしているので安心できる番組を開催されていて、それを聴いたり、一回参加してみて、これもなかなかオモチロイものであるな、という感じがしました。  この一文である。    2018年の秋ごろ、文学極道のサイトの代表とスタッフの方が、大分でひらかれた国民文化祭に招かれた。  そのスタッフのかたは、現地での扱いのされかたが気に入らなかったらしく、帰ってからツイッター上で現地スタッフの方を罵っていた。  もちろん現地スタッフのやり方が気に入らなかったのであれば、抗議してよい。その場合は電話などですませるべき内容であるが、百歩譲ってツイッターで目に見えるやり取りでしてよかったかもしれない。(ただ、ふつうの会社員ですら、内々のトラブルをツイッターで発信・やりとりすることは考えられないだろう。)  しかしそのスタッフのかたは、抗議と罵りの区別もつかないようであった。少なくともそのツイッター上でそのスタッフの罵りを代表の方や他スタッフの方が止めている様子も見えなかった。  結果、現地スタッフの代表の方がすべての責任をとって辞任され、騒ぎはおさまった。  代表の辞任によってすべての騒ぎがおさまったのは本当に見事で、ハンディキャップのある身で十二分に責を果たされた。  しかし、近年珍しくテレビ放映されていたこともある彼女が代表を辞任されることになったのは、現代詩人界すべてにとっての損失だった。  かつてセクハラ・宗教の勧誘コメントが放置されていた掲示板は、老齢の声の一人物から大分側に向けて「脅迫」があったため、その「脅迫」後には非常に使いやすいサイトになった。  一般ユーザーの私から見てセクハラ・宗教の勧誘コメントの放置がなおってしまったという実感があるのだから、脅迫という面だけでなく、改善のキッカケとも明らかになっているのだが、代表やスタッフのかたにはその老齢の声の人物が起こした行動が、やはりいまだ脅迫としかうつっておらず、自分は迷惑な人に巻き込まれた可哀相な被害者で、恥ずべきところなど一点もないと思っていらっしゃるのだろうか。  国民文化祭に招致されたということは、国民の税金から支払われるギャラも発生しただろうし、それ以上に「国に招待された現代詩人」と、これ以上ない広告の機会だった。  とうてい、個人では出せない広告費を、彼らは自身でふいにしたことになる。(あれだけの損害を出した彼らが、これかも継続的に公の場に出ることがあるようであれば、それだけ現代詩人界の人材が払底しているということであり、それはそれでまたなんとも残念なことである。)  国民文化祭への出演が決まった時点で、善意のボランティアが運営する無料サイトではなく、実際に手元にはいるギャラは少数としても、目にみえない広告費をふくめれば、はかりしれない利益と可能性が発生するサイトになっていたのだが、そういった今後の発展の可能性が閉ざされてしまったように見える。  そのように、あまりにも残念な過程があったために、文学極道のサイトもツイキャスも以前のように安易にはお勧めできなくなった。     そういう経緯もあって私自身、文学極道のツイキャスは聞きもしないし、作品投稿もやめた。  ただ、私には見えないところにいらっしゃったスタッフの方が、あの騒ぎの前後に、掲示板の作品に対して丁寧な選評を出されるようになった。掲示板にもいまだ、まじめで熱心なユーザーもいる。おそらくはラウドスピーカーが目立つだけで、しずかにサイト運営をされている方々もたくさんいらっしゃるのだろう。  ああいった選評を参考にしてユーザーが互いに批評をしあうようになったら、また、サイトがよいほうに変化するかもしれない。  詩は書くのも読むのもやっぱり好きだが、しかし、自分もふくめ、詩人とはいったいなんだろう。もちろん、個人的にお会いして楽しかったり、やはり尊敬している詩人さんもいる。  けれどそれ以上に、ほんとに、詩なんて書かない方がいいし、詩人なんていないほうがいいのかもしれないのかもなあ、とも、立ち止まって考えさせられた。  見ていて、責めるだけのことは簡単だ。  私も自分なりにできることをしていく。  いつかすべてのことが、現代詩の発展に結び付けばいい。  冒険が終わるとき、この出来事もなつかしい想い出になるのだろうか。  ※2019年2月11日 追記  昨夜、文学極道スタッフ芦野夕狩さんとお話をさせていただいた。芦野さんが特に不本意に思われたのは、私の散文内にある『かつてセクハラ・宗教の勧誘コメントが放置されていた掲示板は、老齢の声の一人物から大分側に向けて「脅迫」があったため、その「脅迫」後には非常に使いやすいサイトになった。』という点であった。  じつはそれ以前からサイトの整備は進んでおり、脅迫後に突如整備が進んだのではない、ということを丁寧に説明してくださった。  当時の打ち合わせ画面も、非スタッフ側に見せられるギリギリのところまで開示してくださり、また、「田中さんの目には突如使いやすくなったように見えるのもその通りだと思う」、という私の視点も尊重してくださった。  ですので、追記の追記にて、以前からサイト整備が進んでいた、ということを付けさせていただく。  また、追記があったりして。どこまでも果てしなく続く追記。  それから、芦野さんからも、私を含むグループで文学極道への攻撃をはじめたように見えていたとのことだった。私からの、けっして全員で示し合わせてはいないという意見も信じてくださった。  現代詩フォーラムのアカウントや、ツイッターアカウントも持っていらっしゃらないスタッフの方がお疲れになっていて、やむにやまれぬ気持から「文学極道批判(twitterコピペ」https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=345033&filter=cat&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26cat%3D5 を書かれたとのこと。いま、〇〇という表記になっているところは、私も含むグループだと思われていた方々のお名前で、昨夜芦野さんの側でも誤解が溶けたので、消されたのではないかと思っている。  自分の文章内でも「ただ、私には見えないところにいらっしゃったスタッフの方が、あの騒ぎの前後に、掲示板の作品に対して丁寧な選評を出されるようになった。しずかにサイト運営をされている方々もたくさんいらっしゃるのだろう。  ああいった選評を参考にしてユーザーが互いに批評をしあうようになったら、また、サイトがよいほうに変化するかもしれない。」とも書いていたが、書き方が足りなかった。裏方のスタッフで全く名前も出さず、本当になんの見返りもなく運営に携わっていらっしゃる方を傷付けた。その方々から見た場合には、現代詩フォーラムによく投稿している私もまた「名前のよく見える強い人がなんか安全圏からヤイヤイ野次を飛ばしている」になっていたんだろうな〜……と、話し合いの中でいまさら気づかされた。  大分の件は、ネット詩以外の人もまきこんだあまりにも印象的な出来事だったのでここに書いたが、私はもし今後文学極道に対して意見がある場合は、芦野さんに相談させていただくか、文学極道のフォーラムにトピックを作ることとする。私自身はもう、ユーザーではないから、そういうこともないと思うんだけど。ちなみに芦野さんの選評文はとても丁寧で、選評文を読むだけでワクワクする。  私はこういう、ネット詩にどっぷり浸かって、あれは某さんであれは某さんではないか、あそこらへんがかたまってどこどこを攻撃してるんじゃないか……みたいになっちゃう現象を「ネット詩神経症」と名付けていたのだけど、いつのまにか自分もどっぷり罹患者になっていた。これはいかん。  「詩をめぐる冒険」では、詩人さんの面白かった・素敵だった点や自分の詩の学びを書くこと、それからふっと浮かんだ詩を現代詩フォーラムに投稿させていただくこと以外には、しばらくリアルでちょこちょこやってみます。  また、追記が、長い。 ---------------------------- [自由詩]置手紙/田中修子[2019年1月21日10時58分] 美しい本と空と地面があった あるいてあるいて 夜空や 咲いている花を 吸い込んでいくと かさかさになったこころが 嬉しがっているのを 感じた 雨の日には 本を読んだ 子どもらのあそぶ 不思議な魔法や、庭や、冒険の こむずかしい悩みをつづるより しずかで 丁寧で うんとやさしいことこそ わたしの失ったものだ ということに気付いたのが このところ あなたにいつか 贈り物をしたい 贈り物ができるほどの こころになりたい あなたのなかにある庭に みどりが芽吹き 花が咲き 風が吹いて 鳥が来て 葉が落ちて すこしさみしくて 寒くても そのぶん 夜空には星が光るだろう 月はしずかに照らすだろう あなたの かなしみといかりに それらが しずかに吸い込まれ ひたひたと 満たしていく日日を わたしの 小さな庭は まだまだ泣きたくなるほど貧しいのですね もうすこし 待っていてください いつかあなたに 贈りたいものがある それはまだわたしの桜の蕾のなかに眠っているのでしょうから ここに置手紙を 残していきます ---------------------------- [自由詩]花真珠のくびかざり/田中修子[2019年4月3日18時23分] 真珠はだれに殺された 孫娘に殺された。  (はないちもんめ あの子が欲しい) 孫娘は泣いている おうちに帰りたいと 泣いている 真珠の背中のぬくもりが 帰るおうちよ ほたほた落ちたぬくい涙は 手の甲に 薄い昼の月のようにしみ込んで 目を細くしてほほ笑んでいる。 孫娘は大人になって そうして母になりました。  (はないちもんめ 売られた過去は  水に流して しまいましょうね) 銀の針に白い糸とおして 桜の花びら縫いましょう あしたには枯れてしまうのよ 淡いピンクのくびかざり 花真珠のくびかざり。 散りぎわの桜がみせる 甘くて柔い 花の顔の幻よ 後ろ髪 引かれて いくど ふりかえっては ……きこえるはずのないおとが……花の雨  はら、 はら   はららら ららら、 るる らっ、 らっ    ぽと ぽとととと さら、 っらっら、 風のかたちに花が舞い 春のつむじ 桜の蜜は女のにおい。少女は、娼婦は、少女は、みなしご。 春のうた 春のおうたを うたいましょ。  (はないちもんめ はないちもんめ  百年まえも  百年あとも  必ず咲いて  そうしていつもとかわらず散った  百年まえも  百年あとも  あしあとのこし 消えてゆけ) 桜並木が揺れている 銀とピンクのトンネルは 雪のようにくずれながら みんなに おうたを うたっているよ。 ※「はないちもんめ あの子が欲しい」童謡 はないちもんめ 歌詞より ---------------------------- [自由詩]あじさい/田中修子[2019年6月8日13時36分] 濃灰色に、重く雲があって 息苦しいような午前中に 雨がふりだした 傘が咲くだろう ひとはそのひとの人生のために 雨の底を歩いてゆく 歩んだ歩数のおおさ すくなさ おもさ かろさ かろやかにたくさんあゆみたかったと思いながら わたしはそのひとつひとつを数えながら  ポトッ ポトッ  ザー…… ザー……  トトトトトッ トトトトトッ  ピチャ ピチャ ピチャ  シャルルル シャルルル ことばにしきれない 雨のその音 音の数より人生があって そのひとつぶひとつぶが 少し歪んだがらす玉のように 正円でなくとも できるだけ 空の涙のように 澄んであればいいと 一日中 夜まで降りしきる 赤い麻のカーテンの向こう マンションの窓に橙色のあかりが やがて消えていく時間まで 眠れないでいる 濃紺の夜 (ひとのすくない北の国の夜は真っ黒だった 都会の夜はすこし なにか明るくて目をつむっても 手で瞼を覆っても 隠れることができない) 車のタイヤが雨溜まりをよぎる音は波の音に似ているらしい 海のそばですか とたずねられた いえ 海のそばではありませんが そうか 水が耳のなかにひたついて なみうっていて あんなにも恋しかった 海の底 が、こんなに近くにあったのだと知る 学名 Hydrangea macrophylla 水の器 七色の小さな手が無数に合わさり鉛色の雲を瑞々しくたたえた天に向かってひらく 雨粒をうけとめ それを飲み干していくのは アマガエルそうして子どもたち、夢想にふける自我なんて 雨をうけとめつづけた器その内側からやがて水そのものがあふれ出し 地を満たすなら 箱舟にのせて流してしまいたい 羽ばたく白い知らせを待って  時期に咲く花花があの神話を生み出したの いえ、二度目の洪水なの 耳からつながって頭蓋のなか 人魚が水死体を喰らう みなそこに 紫陽花の鉢植えをおきたい 淡い あかむらさき・あおむらさき 白い紫陽花もあるよう 北欧のランプみたいだね みなそこを光らせよう アジサイという題名で小さな詩のようなものをつぶやく 鳥の鳴く苑 どきどきする心臓に赤い接吻が降りしきる わたしのゆびさきも求愛の嘴   紫陽花には 陽 という字が入っていて 梅雨の時期 煙る雨の中 永遠のように反射しながら光る 雨の日だけ、あの花から 紫の陽が差す  梅雨の時期 ほんとうに 紫陽花のまわりは 粉ガラスのように きらめいていくから 牙をむいたシャチでさえ そのまわりを くるくるくるくる 泳いでしまって そのくちもとが すこし 笑っている すこし欠けた空想がめぐりめぐる くらい深層のゆめのなかに やはり空想の紫陽花の鉢植えをおくと そのまわりだけパッと明るくなった 人魚たちは水死体の肉を喰うのを少しやすんで イソギンチャクやフジツボで飾りした黄色や紅色の傘をさして たまには女どうし 華やいだ噂話をする その色情の鱗を つゆ色にくるおしく染めて みなそこにも雨の季節がきたようだ ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]複雑性PTSDという病、メンタルハラスメントにあってからの再発と回復/田中修子[2019年6月10日18時13分] 複雑性PTSDという病気と、メンタルハラスメントにあってからの再発と回復を、ただ淡々と、いまその症状に苦しむかた、それからいわゆる健常者のかたにも届くような書き方で書いてみたいと思っている。 想像してほしい。 あなたはいつも通りの生活を送っていた。そうしてそのときやらなければならない仕事をこなしていた。小学生だったり、大学生だったり、社会人だったり。 ありふれた日々だ。退屈なことも嫌なこともあるが、時たまの気晴らしのために働ける。うっとおしい梅雨の時期には紫陽花が咲き、ビニール傘の雨粒越しにその紫陽花が煙るのを見てすてきだな、と感じたりする。 そこにとても高圧的な人が一群やってくる。その人々は少し前まで、あなたの両親だったり、クラスメイトだったり、仕事先の仲間だったり、趣味の友人だったりした。その人々がまるで豹変したかのようにあなたを罵ったり、無視したり、情報操作をしたりする。 彼らはとても姑息で、ほかのおおくの世界からあなたを分断する。その人々があまりにも巧妙にあなたを孤立させる。(私の両親は地域の有力者だ。だから、「あの人がああするのであればあなたがおかしい」という二次被害には、ずっとずっと遭いつづけてきた) 「のたれ死ね」「お前が悪い」「秘密をバラしてやる」「あんたが一番損をするんだからね」 あなたは恐怖する。体の方では交感神経と副交感神経のバランスがおかしくなる。セロトニンという物質が不足して、生きたいという気持ちが薄くなり、世界は灰色になる。食事は砂を?むようだ。味がしないのでいくらでも食べてしまい、食べ過ぎて太るとよりあざ笑われるので、のどに突っ込んでトイレに戻すようになり、よりいっそう自己嫌悪に陥る。あなたは不信の眼差しで世界を睨みつけるようになる。そうすると、目つきが悪いという理由で全く知らない人に絡まれたり、暗くて引っ込み思案そうという理由でさらにあなたを利用する人々を呼んでしまう。真夏だというのに空は灰色だ。酒を飲むと少し気分が紛れることに気づく。やがて気分を紛れさせるために飲んでいた酒が、酒がないと生きられないようになる。あなたはあなたを異常、意志の弱い人間だと貶め始める。 困り果てたあなたは精神科のドアをノックする。多くの精神科では、ろくに話も聞かれないまま、多くの病名が付き多くの薬が出される。精神薬に不信を覚え代替療法やカウンセリングでなんとかしようと思うかもしれない。カウンセリングの世界にも、たくさんの間違ったことがある。たとえば私は親に連れられて受診し自分の成育歴に悩みを持っているという状態で「境界性人格障害」という診断を受け続け、精神分析を受け続けた。(現在では、境界性人格障害の幼児期に虐待や無視が多くみられることから、解離性障害に病名が変更になっている)この時点でそれまでにない侵入性の悪夢からの不眠、自分を切り刻んだり焼いたりする自傷行為が激しくなった。 ここで、ゆっくり話を聞き、あなたが悪いのではなく、あなたの上に様々な問題が噴出してしまっているだけだと理解を示したり、その恐怖がはじまる前の、正常なあなたにいつかは薬なしで戻れると信じてくれる精神科や、PTSD患者に精神分析をしてはいけないという知識のあるカウンセラーに当たれば、それは回復の一歩になるだろうが、その病院を探し当てる前に、あなたはボロボロになってしまっているかもしれない。 かつて、体中のあらゆるところから血を流し、包帯を買う金もなく、傷の上に生理用品をセロテープで巻き、その上からフェイスタオルを結んでいた私のように。 あなたは精神疾患者になった。 なったらなったで今度は、自分に自信のない人が自分より下のものを見つけて叩くために「メンヘラ」と名付けている世界がはじまる。あるいは病的な行動そのものが魅力を持つ若い層に「メンヘラ」と、少し畏敬の念をもって呼ばれ始める。(「メンヘラ」という呼称を考え付いたのはどの層だろう。) やがてあなたは「メンヘラ」である自分自身にしか価値を見出せなくなり、「メンヘラ」らしい行動をし始める。ODしてみた、腕を切ってみたとネットで誇示してみる。「メンヘラ」仲間同士で集まるうちに、自死者が出る。あなたは自死を願うようになる。 しかしやっと日本にも新しい知識が普及しはじめている。虐待や苛めに遭えば、PTSDを罹患するのは当たり前である。自身の病識を持って回復し、生き抜く「サバイバー」という言葉があると。 メンタルハラスメントという単語は私の造語である。 しかし、私の友人にも、レイプ被害を克服しようとする精神科医とのセッション中に、精神科医に性的な被害を受け、その精神科医を通じての回復が不可能になった子がいた。あれを一体何と名付けるかといえば、メンタルハラスメントというのがしっくりくるだろう。彼女は結局、慢性貧血からの心臓肥大で、季節の変わり目に心臓発作で亡くなるというある種の完全な自殺を遂げた。その友人は幼児期から家庭内で性暴力を受けていた。彼女が複雑性PTSDという精神疾患を罹患しなければ、つまりその状況で健常に生きていたら、その方が「異常」ではないか。 彼女のことを引き合いに出すのは、ためらいがある。しかし、おそらく彼女が遭った目と似たような目に、今回私も遭ったのだろう。 つまり、精神科医や心理職というものも、PTSD症状に詳しくなければ、あまり、信用してはならないのだ。ましてや、ネット上にいる自称心理職など、PTSD患者は、決して、絶対に、信用してはならないのだ。 そして、その手の人というのは、どこにでもいるのだとあらためて噛みしめる。 友人が被害に遭ったのは精神科医であった。私が被害に遭ったのとその仲間の方々は、現実の世界では、援助職であったり、いいお父さんであったり、倫理学者であったりするらしい。 「加害者タイプ」にあなたが思い浮かべるのはどんな人だろうか。私は、ある時まで、加害者というのは、まっとうな悪人だと信じていた。つまり、物心ついた時から犯罪に興味を持ち、常に?をつき、酒を飲みながら女を犯し、窃盗を繰り返し、自分が罪を犯していると知り、やがて刑務所に行くような人々など。 このような絵に描いたように歴然とした悪党も、もちろん、いるのかもしれない(だが、もちろん、そのようなタイプの人にも、成育歴やその時の社会の抱える問題が積み重なっているはずである)。 しかし、いちばん恐ろしいのは、「善良な、優しい人」が自分のこころに無自覚な嘘をついて行ってゆく加害であることを、思い知る。アウシュビッツからの数少ない生還者であるプリーモ・レヴィが、生還後に一番苦しめられたのも、このタイプの善良なドイツ人であった。彼が収容所で骨と皮になってやせ衰えて病気にかかり、ドイツ人の医師に受診できた時、その診察室の窓から仲間のユダヤ人を破棄するための煙突が見える状態にありながら、そのドイツ人医師は、「あなたはなぜそんなに不幸な顔をしているのですか」と尋ねたという。そして、戦後、そのドイツ人医師からは、収容所でそんなことが起こっているはずがなかたったことと、自分は善意の人であるということを強調する手紙が来たという。 圧倒的な否認のもとに行われる、善意あるいは無知、被害者に責があるという「犯罪」にすらなりえない、それ。 彼女の苦しみを、いまになって、すこしだけ知れたと思う。 「少しでも他人を信頼した私がいけないのではないか」 彼女は、メンヘラと自分を卑下していた私に、サバイバー(被虐待児で精神疾患を罹患せざるをえなかったものが、回復して自分自身の生き方を取り戻す)という言葉を教えてくれた友人だ。将来は、被レイプ女性を診る精神科医になりたいという夢をもっていた。 きっと許してくれると思う。 前回の、平川某さんの記事は、文章それ自体が怒りを解き放つというものであり、攻撃性を帯びたセラピー文章であった。 ある意味で、このように自分の怒りに直面し、言語化できるというひとつの自信を持ったと同時に、いただいたコメントなどを拝見して、これではいけないのだ、と自戒の念をもった。 「精神疾患者が何か錯乱しながらものを書いている」 それ以上の文章にしなければならない。 私は、精神疾患者といわゆる健常者の枠をこえて、だれにも届く文章を書きたいと願う。 このところよく思う。いったい、精神疾患とは何で、健常者とはなんなのか。 今回私に遭った出来事はどうも、狭いネット詩界で、意外と多くの人に影響を与えているようだ。そして、この出来事自体を茶化してくれた作品まで出てきた。私はその作品をみて大いに笑った。そうして、自分のなかでユーモアの感情が死んでいないことにひどく安心した。 その作者が、「ハラスメントをするひとも、されるひとも、同様に弱いひとなのだ」という視点を提示してくれた。 そうなのだろう。 私は、治療の方針で現実でやらなければならないことがある。と、同時に、どこかで、治療の過程でメンタルハラスメントに遭って苦しんでいる人、あるいはPTSDの状態で精神分析を受け苦しんでいる人にとって、参考になる文章を書きたい、と思う。 PTSDの状態で、精神分析というメスで脳のやけどしたところを切り刻まれる、ということ。 私がいままで十年以上の時間をかけて克服してきた症状は以下のものだ。発症は、祖母の介護の強要を受け、彼女が目の前で転落してきた日にすれば、二十年以上もたっている。 アルコール依存症、自傷行為、拒食・過食や過食嘔吐の摂食障害、醜形恐怖、視線恐怖。 中学生のときから口止めとともに不適切なカウンセリングへのたらいまわしが始まり(これを精神的な子捨てという)、22歳にやっと自力で自分に合いそうな医院につながった時には、極度の貧血状態によって精神薬の投薬を始められず、鉄剤で内臓を治してから一日五十錠の投薬が始まった。 それから約十年間、回復に費やした。そして、一時期すべて寛解するに至った。 長かった。あまりにも多くの時間と、一部内臓の健康を失った。 過覚醒(不眠)の症状だけが根強く残り続けている。 今回、再発症したのは自傷行為と過食嘔吐だ。メンタルハラスメントにあったのが二月だったろうか。それがじっくりと効いてきて、目に見えるものになってきたのが四月半ばくらいだったように思う。当初、訳が分からなかった。薬だけが増え、やっと主治医に何があったのか口頭で伝えられたのが四月半ば。主治医はトラウマケア専門医で、いままで精神分析や催眠療法などでボロボロになってきた人をたくさん見てきたようだ。それで、なぜここまで症状が悪化したのかをやっと把握できた。 新しく出た症状は記憶の欠落と、覚えのない文章を友人に送るというものであった。 記憶の欠落という新しい症状が一番恐ろしかった。いぜん希死念慮がひっ迫して右の首を切って既遂しかけるということがあったが、記憶が欠落している間にもしそれを起こせば、止める術がない。五月中は、あたらしい症状の把握に、自分が使える時間と気力ほとんどを費やした。 記憶の欠落と、覚えのない文章を送り付けていた等は、解離止めの投薬によって収まり、腕を切るという自傷行為が、過食嘔吐へとうつっている。覚えのない文章を、うけとめてくれた友人、うまいことスルーしてくれた友人には感謝するしかない。 現在出ている症状、過食嘔吐は、子どもが保育園に行っている間に行う(2019/6/11 昨夜この文章を走り書きしてから、過食嘔吐の衝動は収まっている)。子どもがいる間はなるべくものを食べないように心掛けている。このところ、鶏肉とチーズは胃に収まることを発見した。夫には事情は話してあるし、過去の症状が再燃しているということを、担当カウンセラーと把握してもいる。 もちろん、過食嘔吐というのは、非常に惨めな気持ちになるものだ。 記憶の欠落は一か月で投薬で落着き、腕を切る行為は、二次被害(「あなたが我慢すべきだった」等)のほか一回で収まった(計二回)。 この過食嘔吐も、近いうちに収まることを願ってやまない。 私はうつ病チェックをすると、常時27点ほどある。7点以上は精神科へ、という点数だ。もう慣れてしまったが、おそらく普通の人々より慢性的な感情麻痺があるのだろう。22歳のとき自分で選んだ、カウンセリングが義務付けられているトラウマケアに特化した医院へ、週一で通院している。 メンタルハラスメントにあった直後、私はそれまで興味を持たなかった箱庭療法にいきなり興味が出た。いまのカウンセラーはPTSD患者への知識が深く、安心できる。 箱庭療法というのは、砂のおかれた箱庭に、ミニチュアの人間・動物や家、恐竜・花・マリア像・阿修羅像などのミニチュアを置いていくもの。例えば、私にとってマリア像は母性本能を意味する。私は虐待する母と無力な父の組み合わせの被虐待児である。マリア像の後ろに父と思わしき男性が完全に砂に埋もれてしまうこともある。 蛙やトカゲなどを私は現実で見るとかわいいと思うが、箱庭療法ではどうも加害者のイメージを持つらしい。ある時、ベッドに横たわる少女の上に蛙やトカゲがのさばっている状態の箱庭が出来上がった。 「この女の子が無力な私で、この一番気持ち悪いのがHさんで、私のこころとからだを搾取する対象としてみている。それからまわりにうじゃうじゃいるのが、仲間の人たち……私いま、こんな状態なんですね。自分自身では平気だと思っていたけど、少し彼らから距離を取らないと危ないです」 そんな風に、自分でもわからない自分のこころの状態を言語化し、距離をとるなどの行為をとってきた。逆に、箱庭の状態を見て、コミュニケーションをとろうとすることあった。 過食嘔吐は摂食障害にあたる。拒食なども摂食障害である。 これは、自分の意志では、ほとんど食欲の制御ができない状態をさす。 摂食障害は、母親とその子(特に娘)の関係に密接に関係するらしいが、なぜか、という理由は明確にはわかっていないらしい。 「複雑性」がつくと、たしかにすこし特殊かもしれないが、PTSDはだれもが罹患しうる病である。 それからまたうつ病とも実は密接な関係があるのではないかといまは思っている。「うつヌケ」という、うつ病からの回復を描いた漫画を読んだところ、多かれ少なかれうつ病を抱えているひとの中には、過去にちょっとしたキズを抱えていた。私のように状態が悪いとき、瞬きすると祖母が目の前で落ちていく等のある種典型的なラッシュバックというほどでなくとも、「小さいときお母さんやお父さん、先生に〇〇といわれた」という、ちょっとしたつらい心のヒッカキ傷が、のちに過労体質になったり自己肯定感の低い人になったりする経験は、みな、あるだろう。 最初に書いたとおりだ。それはあなたのところにも、普通に、少しずつやってきて、少しずつあなたを侵食する。……そういう意味では、戦争とも共通点があるかもしれない。私は自分や友人にあったことを、「こころの戦争が、だれにも気づかないうちに、ごく局地的に起こっていた」と人に説明することもある。 いじめに遭ったり、通りすがりにレイプに遭ってもなるし、震災に遭ってもなる。 事故や事件を目撃しただけでもなる場合があるし、友人や近親者が自殺してしまい、「なぜ気づけなかったのか」と自責の念にかられて、すぐれない気持ちが続くようであれば、それもまだ一種の罹患である。 また、ある種のひとびと、絶対に自分は精神疾患とは関連がないという否認や防衛の強い人々にとって、頭痛やめまい、腹痛などの身体化表現というかたちをとることもある。 そうして、私にでた症状、アルコール依存症、自傷行為、拒食・過食、過食嘔吐、醜形恐怖、視線恐怖などは、PTSD諸症状の典型である。 正常と異常というものがある。正常な人は、異常との間に大きな壁を置き、異常者を収容所のなかに押し込め、特別という焼き印をおす。あちらに行った人は、おかしいひとなのだ、と。そして、壁の向こうで起こっていることを、自分にはほとんど関係のないゴシップとして扱う。……しかし、頭痛やめまい、腹痛などのストレス性のものを含めれば、この世に完全な健常者などいるだろうか。 たとえば今回私やその他の女性に嘘をつき、悪態をつき、無視をしている「善良な」人々は、いったい「何者」なのだろうか? 私はこの人たちが、自称・文学をやっている人々ということに驚く。彼らはおそらく、最も、文学とは縁遠いところにある人々だろう。自分の中の醜い心理に直面しなければ、細やかには人間のことをえがけないだろう。 私? 「本当にいい人たちは、収容所からは戻ってこなかった」 死んでしまった子たちは、本当にまじめで、優しい子たちだった。家族を恨まず、加害者を恨まず、すべて自分が生まれたことがよくなかったと引き受けて、亡くなっていった。 ある意味で、いま生きているというそれだけで、私は相当年季の入った悪人である。醜い心理状態の人たちのもとで、それらをつぶさに観察し、ある時は利用し、生き延びてきた。-人は醜い、私も醜い、神も持たない私が信じていたのは、雨だれの音や咲く花、青い夕暮れや、一人ぼっちで聞いた夜の、真っ暗い海の音、そして亡くなった子のうつくしい思い出である。 私は死後、彼女たちがいったところとは別のところにいくだろうと夢想する。しかし、いまここに私の脳もからだも生きている。 回復して、収容所から一歩出、雨の音が美しく聞こえ、気に入った傘の色を見ながら、雨に黄色い花がしなだれ落ちるのを歩いて、振り返るとき、正常な人こそが私を狂気に追いやった人間であったことを思い知る。そして、いわゆる健常者が、「私はぜったい正常だ」と言って自らの狂気から目をそらす弱い人にしか見えないことがある。むしろ、収容所のなかで、生きようと、病識を得ようとあがく人こそが、大いに正常なのではないかすら、と思うこともある。 PTSD患者は、みな戦友だと思っている。それぞれが傷つき、攻撃的になったり依存的になるため、あまり近づくことがかなわない。-それでも戦友だ。私に起こったことが戦友たちの今後の知識になればいいと願っている。 ---------------------------- [自由詩]クチナシと蜘蛛/田中修子[2019年7月6日17時53分] すこし朽ちかけたクチナシの白い花 濃い緑の葉のなかに 銀色の籠を 蜘蛛が編んでいて そのつましいようにみえて ほそうい ほそうい レース糸でできた瀟洒な籠のなかに 澄んだ雨粒が ころんコロンころんコロンと 何粒かしまい込まれていたわ。 やがてポロロンと溢れるクチナシ香水 みちゆくひとのあしもとを ほんのりと白く飾っていく 幽香 あまりにもあふれて 人は口がないように はなをひくひくさせてしまう そうして声がひととき 止んで 傘にたたきつけられる雨の音だけが あたりにパタタタタッて 鳴りはためく そのためにこの色白の女の胸元みたいな花は クチナシと名付けられたんだわきっと。 正確無比の編み手 蜘蛛さん、どうかあなた わたしの髪の毛に その 銀色の籠をかけて そしてまた編んで編んで、編んで 立体籠模様のレース飾りにしてはくれませんこと? ニシン業へ冬の荒波へと出かける男たちのために女が編むという セーターの模様 「海の男の鉄(シーメンズ・アイアン)」のように 銀の籠模様をつないで わたしがそこに入れるのは 果てしなのない空想! スーパーと保育園とおうちの行きかえりだけの 狭い世界でも ふと 耳を澄まし目をとめたとき 毎日違う音の雨が降り 紫陽花が咲き 小さな庭にはもみじがいつの間にか生えてきたの! 若葉色の葉と朱の茎 土にもみ殻を植え込み混ぜて手入れさえすれば 毎年顔をのぞかせてくれるようになった ペパーミントとレモングラスを手に取って やかんにいれてわかして飲むと ハーブ・ティの出来上がり いえこれはたんじゅんなお茶ではありません きらめく蜘蛛の巣を髪飾りにした魔女が淹れた稀代の味がいたします。 息苦しく眠りづらい夜がずうっと続くわ よくない夢をみるの だから ちょっとついでだし ユングがいう原型を探しに行くわ 詩という白魔術をおこないますのに おのれとのたたかい 御守りは 知恵の象徴、蜘蛛さんは簪 そして たくさんの空想を入れた銀の籠の髪飾り 暗闇の深層を数瞬 照らし出す 老賢者はどこにいる? アニマ、アニムス グレートマザーは海となりわたしをのみこみ そして吐き出されて。 眠れない女が立ち枯れた木をみつめている けれど その 木に 赤ちゃんの寝息が すはすは かかると みて! ほら、簪と髪飾りがその木を しゃらしゃら 笹にして あっという間に 五色に金銀砂子 薄暗かった深層は青闇になり 鈍色の雲がかかって そのむこうに お星さまキラキラして ああ、簪蜘蛛さんあなた 棚機(たなばた)の乙女が悪い魔法にかけられていたの 織姫だったのね 御覧! 彦星があなたを迎えにやってきたわ 手を伸ばし懐かしく見つめあう ふたりに うやうやしく あのあまい香りを振りかけて差し上げたわ。 そこかしこに クチナシ香雨真珠の ふるふるまわりに かつて 雪の地の神がふらせたという この列島唯一の 叙事詩に記された 銀のしずくたちのように。 ※ セーターの模様の着想 鳩山郁子「ダゲレオタイピスト」より 童謡「たなばたさま」歌詞 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]すいそう/田中修子[2019年7月26日13時40分]  孤独になじむから、すこし壊れかけているような古い町が好きだ。  その古い町の小さな裏通りに子どもの死体一つ入れられるほどの大きさの水槽があった。緑色の藻が内側のガラスに張り付いていてよく見えない。水もぬったりと淀んでもうじき梅雨にはいる生ぬるい風が吹くのに波打つこともない。これからの季節、蚊がわかないだろうか。  それともこの中にはわたしに見えないだけで魚がいるのか。  かつてあったかもしれない水草も光なく腐り、酸素が足りずに喘いでいる魚だ。エラが酸素をもとめて痙攣する。呼吸ができないから魚はどんどん透けて行ってしまう。内側の骨だけが、消えゆく命のように銀色に光っている。  その澄んだ魚の、ヒューゴー、ヒューゴーという苦し気な音が聞こえるような気がしたのは、脳溢血で倒れて病院に運ばれた母の鼻に差し込まれた透明なチューブと、死へと歩んでいく母の呼吸と。 (あなたはなにをおもっている)  淡く銀色に光っている魚、すでに溶けてかけている目玉、落ちくぼんだ眼窩と。  そんな姿になってもゆらりと泳いでいる魚と、わたし。  一枚のガラスをとおして見つめあっている。  と、歪んで崩れてゆく世界。  わたしは水槽の中にいた。  いや、水槽ではなくて、そういえば、わたしのいるのはガラスの箱舟だった。なにをぼんやりとしているのだろう。  幾度目かの洪水があった。人はほとんど滅びかけていた。父も母も知らずに育って、コンピュータ先生の作った楽園という名の孤児院で暮らしていた。  あれは紫陽花の咲く季節だったと思う。そう、紫陽花が異常繁殖したのだった、あれが兆しだった。雨が降って降って紫陽花の杯にたまり、そしてやがてその杯から水がコンコンと湧き出して止まらず、地上にあふれだしたのだった。その水は紫陽花の放つ薄紫色をしていて淡い色の水平線になった。  人はみなその美しい水にとりこまれて、人としての輪郭を失い溶けていくのだった。あれは幸福だったのだと思う。  夥しい幸福の死から何かによって取り残され-たぶんコンピュータ先生の選定によるもの-、ガラスの箱舟に閉ざされてしまったわたしら。  ここにはあらゆる動物や植物が、つがいでいる。  ビルディングのような高い高い箱舟で、あらゆるものが閉じながら循環できる構造になっている。  わたしは動物の世話という生きる目標を与えられている。もう何年になるか。  きちんと整備された動物の部屋だ。きっとコンピュータ先生なら、餌から糞尿まで自動的にきれいになるように方舟を設計出来たろうに、わたしの仕事のためにわざと自動化されていないところが残されている。いつもの糞尿と藁の湿ったにおい。    このところ、異変があった。ふしぎな黴の増殖だ。  放っておくと緑色の黴にびっちりと覆われていく。その緑色の黴を近くで見ると何かの鱗のようにも見える。もう数年あてどなくさまよっている箱舟の、動物たちでさえ何かしらのあきらめをふくんだ沈黙の空気と。    --わたしがくるのはいつもこんな世界ばかりだ。  「また増殖していく黴をみているの。黴を削いで、それから、動物たちの世話をしないとね」  呼ばれて振り返ると細身の筋肉質の男がいる。彼は、わたしのつがいだ。幼いころからずっといたので兄と思っていたが、血は繋がっていないのだった。  彼の、かつて日に焼けて浅黒かった肌は色白くなっている。こんな状況でも彼はぜったいに声を荒げない。いや、一度だけ低くなった声を聞いたことがある。わたしが生きることに飽いて首を深く切った時だ。大量の血を噴出させながら、それでもなぜか気絶しただけで死ねなかった。気づけば足の先から髪の隙間まで血のこびりついたわたしを、彼が抱きしめていた。失禁もして、寒くて寒くてガタガタと震えていた。  気絶していたわたしを見つけて、切り裂いた首を彼は手で押さえ続け、止血をしてくれたのだろうと思った。のどが渇いてうめくわたしにくちうつしで少しずつ水をくれた。  つがいではあったしつがったこともあったが、軽い快楽を得るだけでそれまで特に彼になんの感情を抱いたこともなかった。  水が甘かった。  彼はしっかりと私の目をのぞき込み、低い、低い、冷酷な声で言った。私は、まるではじめてあらわれた人を見るように彼を見た。  「いいか。おまえはおれのものだ」 かすれた声で、はい、といった。 「おまえが投げ捨てた命をおれが拾った。だからこれからおまえはおれのものだ。わかったな?」 また、はい、といった。  気持ちのなかに紫陽花の咲く静寂が訪れたようだった。  慢性的な低体温だけが残った。あれから、肌色だったわたしのゆびさきは白くなり、時たま輪郭が溶けていくように薄紫色の燐光をはなつことがある。その燐光に照らされて緑色の藻が方舟のなかに増殖していくことも、ほんとうは、気付いていた。  数か月たって、方舟のなかに、死の病が流行り始めた。  緑色の藻はいまやガラス質や機械だけでなく、ほかの人間のつがい・動物のつがいを覆うようにもなった。特に人間だ。生きる意志のないものから、一晩で黴が皮膚を覆いつくし、崩れていった。夕暮れに発症し、朝には小さな山になるのだった。  紫陽花色の水にふれて輪郭が崩れていった幸福な死の様相と、あまり、かわらなかった。みな、ふっとロウソクを吹き消すように、静かに命の灯を消してゆく。  あの、首を切って死に損なって以降燐光をはなつようになったわたしの手同様、目もおかしくなったんだろうか? 時折、命が灯にみえるようになったのだった。そのひとの皮膚をとおりこし、輝いている命、弱っていく命が見えるのだ。  はじめての死者が出たその朝、かき集めた死骸を方舟の外に放った。はじめての死骸は水葬するつもりで、柔らかい赤い毛布に包んだのだった。そうしてその赤い布を金色の光線と薄暗い水色の入り混じる水平線へと放り投げた。  赤い布は内側から風船のように膨らみ、やがてパチンと千切れた。内側から何羽もの白いハトが飛び立ち、あかるい陽の差すほうへ羽ばたいていった。  それから幾度も幾度も水葬を行った。くずれおちた死骸は途中から布に包むのはよして、手でつかみ、放って投げるようになった。わたしの手はそのたびに、内側から薄紫色に輝いた。そうして方舟からはなれると、かつて人や動物で、死んで、黴になったものは、たくさんのものになった。  白いハトになったのは最初の遺体だけだった。  あとは魚になったり、貝になったり、海藻や、珊瑚や……あらゆる種類の海の生き物になった。  あるいは花になり、まるで自らの死をみずからの変身で弔うように、淡い色の海の上へ、遠く漂っていった。重なる水平線の揺らぎの向こうへ遠ざかっていくその白い花を、わたしはずうっと目で追った。死があらたな生に変換され、あらたな生を惜しげもなくまき散らしながらすすんでいくガラスの方舟に、閉ざされている、わたし。  死んでしまえれば、どこかへ、ゆけるのに。  水葬を繰り返しながら、幾度も幾度も、わたしはわたしのつがいを横目で見た。彼はいつも淡々として、安定している。静かな声で話す、でも時たまくだらない冗談を言って笑わせてくることもある。わたしは子どものように思いついたことをなんでも話す。彼はわたしの言葉に耳を傾ける。  夜遅く眠り、朝早く起き、ともに仕事に出かけ、一緒に方舟のなかで食料を調達し、時間になれば料理を作る。彼の作る野菜スープやサラダがとてもすきだ。ざくざくと刻んで、すこし塩味をつけているだけなのに、ほろ苦いのや甘いのや、たくさんの味がする。そうして、ときおり、わたしを抱く。  のしかかられて彼の背中に手をまわし、爪を立てながら、わたしは性的な快楽よりむしろ、彼のなかの命の灯に照らされることに喜びを感じる。彼の命は灯というよりはむしろ、巨大なたき火……炎に近い。数メートル近く赤々と光る炎。燃え上がる火柱にあおられて、わたしの髪の毛がチリチリと焼ける音さえ聞こえることがあるような気がする。  こんなに穏やかな人のどこにこんな力があるのだろう。  行為が終わる。火をもらって、この瞬間だけ、指先すべてに血が通ってあたたかくなる。  「コンピュータ先生に拾われて孤児院に行く前さ。おまえはまだ小さくて覚えていないが、おれは災厄があってから拾われたからね」 寝転がりながらしゃべってくれたことがある。 「村があったんだ。両親がいて、親戚がいてね。米を作っていたのさ。田んぼがあって、稲刈りが終わって残った藁を、あつめて焼くんだよ。三メートルくらい火柱がたつね、一メートルも近づけない。すごい音がしてさ……おまえはあれを見たことがないんだね」 「わたし、孤児院育ちだから」 「だからそんなふうに命を粗末にするんだね」 いまはもう白くなった、首の傷跡をなぞられる。それは、頸動脈を淡く抑えられることでもあった。  わたしのからだは日に日に透け、そうして薄紫色の燐光を放つ。藻は燐光にあてられて日々増殖し、人はわたしと彼以外すべて飲み込まれてしまったが、動物や植物は逞しく繁殖していく。動物は寿命を終えるその日以外、わたしに感染することはない。生きているうちに感染するのは、人だけだった。  彼がわたしに感染するときがあるのだろうか。この、巨大な火柱を内側にもつ男に。きっとそれは不可能なことだと思う。彼はわたしを半ば妹として見ていることもしっている。  この方舟が約束された地にたどり着く日を待っている。  最初の遺体の白いハトがやがて月桂樹の葉を咥えて戻ってくる。祝福の鐘の音はすでに耳鳴りのように低く響いている。  約束の地にはまだたくさん人がいるだろう。彼はそこで理想の恋人に出会い、わたしを捨てるだろう。半ば壊れたコンピュータ先生はどうなるのだろう?  わたしはまた独りになり、黴となって崩れ落ち、そうして、孤独な少女の指先に宿って、たくさんの生き物を咲かせることができるだろう。 ---------------------------- [自由詩]桜姫/田中修子[2020年8月13日0時31分] ふわりとしたエメラルドグリーンのワンピースが 雨上がりで蒸し暑い灰色の 川辺に映え 道化師が その様子を写した ワンピースに茶色の髪の毛が、あんまり優しく垂れさがっていたので。 たくさんの人魚姫たちが、とってもうつくしいシッポをうねらせて このとこ、しずかになった、夜の街の、夜の道を泳いでいる。 (蝋燭を作りましょうね、おじいさまとおばあさまのために。) 村が亡んで、雪が降った。 ときに縄師は、陶然と縄酔いした客を犯し 界隈は嬌声かまびすしいことこの上なしだね 赤・黒・白、吸ってきた汗やら何やら、黴のにおいがするんじゃねえの 遊郭は画一的なビルディングのまちにこそ出現し 逃げるおんな赤襦袢 うろこの剥げ落ちた なよやかな白い足うらに目を打たれ いまは怨霊と化した刺青師は どこかに隠れて、さらう日を待ち構えているのだから こんなところにいるのはよさないか? だってさ、もっともっと雪が降り積もってくるよ あの日降りはじめて、止むこともなく 冷たいとか寒いとかそんなものもある日、ふつっと途切れて そのまんま 人をやめて、人魚になったね スノウ・ランタンの灯かりに照らされる、青い唇で。 重い灰の雲のきれまに、薄い水灰色の空が覗く、 ま白い傘をさす彼女、藻に銀の蠅がたかっている水面を覗いていて、 「絵になるな」 と道化師が呟く ぬるくなったノンアルコール・ビールがまとわりつきながら 胃の腑に落ちていく。 川底には、ひとを愛しきれず泡にもなり切れなかった こわされた人魚姫たちの死骸が重なっているから 一緒に踏み入って、死骸から鱗をちぎりとってやろうか。 こんなになってもまだ、人になるのがあの子らの想望ぞ。 剥いで剥いで、清めの塩みたいに投げたら、空に青金がひろがって あなたは耐えきれずに、桜の花びらになってくずれていった。 ---------------------------- [自由詩]にくじう/田中修子[2020年9月5日16時48分] ふわふわ ふわわん ふわりんりん あはは くすぐったいよう- 夏の温度がさがって ほら クッキリした青い夏のうしろ姿は 日焼けした子たちの笑い声 あの眩しい光にあたりながら歩いたんだね走ったんだね たくさん ね 私の膝あたりのちんまい子から そう これから恋をしたり したいこと探していく 若い子たちの こんがり いきぐるしかったなつかしさがめのうら うららかであります 豚ばら肉をヒノキのまな板に平らかにおいていく まな板ね 世田谷のぼろ市で威勢のいいおっちゃんから買ったの 洗ったししとう えのきだけは石づきを落として 割いておく で、ししとうとえのきだけを豚ばら肉で巻きながら 鉄のフライパンを中火で熱しておく ごま油をたらり B級品を安く買ったのだけど もはやすっかりどこが悪かったのかも忘れて活躍中です 豚ばら肉で巻きあがったのを、巻き始めたとこを下にして敷き詰めて ちょっと生姜焼きも食べたかったから えいやあっ 生姜のすりおろしもパパっとかけちゃう 塩もふっちゃう胡椒もふっちゃう じうじうじうじう じうじうじうじう 豚肉ですから赤いとこ残しちゃだめですよ ほとんど焼けたと思っても油断大敵だから 醤油を細うく ひとまわし いちばんちっさい火にして ガラスブタして蒸し焼き わあ ここにもブタさん (そういや、今日は使わないけど、オトシブタさんもいる) 鍋の下の青い火 にくじう じゃなかった 澄んだ肉汁 少し焦げてきた醤油のにおいが躍ったら 夏の終わりの夕ごはん ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]卵化石/田中修子[2020年12月25日1時50分] ね、みんなは、恐竜だったころをおぼえている? むかし博物館に家族全員を、父がつれて行ってくれた。幸せな会話で窒息しそうな電車、はやく終わらないかな。 父はティラノサウルスが好き。わたしはトリケラトプスが好き。 そのころ母がとっていた子ども新聞に、トリケラトプスの男の子と女の子が恋に落ちて、滅びていく恐竜世界を冒険するまんがが載っていた。火山がドカンと噴火して、灰がおちて、空がどんよりと曇って、濃いみどりの羊歯や、大きなイチョウやソテツが、どんどん燃え上がり容赦なく枯れていく。二匹の両親は、二匹を守って死んでいった。寒くて寒くて、二匹はからだを寄せ合いながら、まだどこかに残ってるあったかな理想郷を探して……わたしは結末まで読まなかった。 だって、そのトリケラトプスの男の子と女の子が、あったかいとこにぶじたどり着けて結婚して幸福な結末を迎えたとしても、もうぜったいに二匹とも、死んでしまっていた。 恐竜はうんとむかしに、ゼツメツしてしまったのだ。 かなしくて仕方がないから、うんっと思いっきり力を込めて左手の親指の爪を半分まで引っぺがした。 我が家では、神さま仏さまのはなしは科学的根拠のないものとして、あざけりと共にあったが、お兄ちゃんは後日、生き仏様をあがめるようになる。お兄ちゃんがコワイものに変わってしまった気がしたし、それに父は「お兄ちゃんのことは、なにかあったら刺し違えてでも止める」と熱い青年のまなざしで云って、母は「まぁパパ」と感涙するのである。どうしたらいいんだろう、わたしはせめてかわいらしくニコニコした。 でも、お兄ちゃんが借りていっしょに見てくれたジャン・コクトーの、「美女と野獣」のしろくろの映画の、お姫さまの長いまつ毛と目の深い陰翳・ドレスのきらびやかさ・野獣のかなしみと、ふたりの深い愛は、わたしの目のうらにいまでもあざやかにある。 父母・ティラノサウルスがほえるようにわらうと、頑丈な真珠の白い歯が見え、レースの羊歯はめくるめくように湿度の高い甘やかなにおいで中生代世界を装飾し、黄金のイチョウはひらひら落ちる。半透明の翡翠でできたトリケラトプスのわたしは、ふるふる震えているミニお兄ちゃんをうしろにまもり、突進して、しゅんとした父母・ティラノサウルスを三本角の頭突きで追い返したあと、ソテツの宝石みたいに赤い実をカリリカリリとたべてお腹がグルグルしちゃうんだな。 上野駅で迷わぬように、父が手をひいてくれる。父の手は、銀色の製図用のペンで設計図を描きなれた乾いたさらさらのぬくもりで、書きダコがあって、深いあったかい肌色をして、神さまみたいに大きかった。父のつくった偉大な建造物を、わたしは生涯乗り越えられないだろう。もし父が逝っても、あのひとの巨大な足跡は、各地に残り続けてるのだから、さみしくなったら、彼が設計に携わった建物の中のカフェに行ったらいい。--この小さな島がいつか、火山の噴火によってあるいは、たかいたかい津波によって飲み込まれるまで、あのひとは、遺すものをつくったんじゃないだろか。 わたしは地球の燃え尽きたあと、きらめく星になりたい。 少年のように、父は目を輝かせてチケットを博物館の入口にて買い求めた。おっきいお札がさーっと消えてゆく。おにいちゃんは幽霊みたいにボンヤリして、消えていく代金を母は目をキリキリさせてじっと眺めている、わたしはあとで母がバクハツして、家族が青く透き通ったカチンコチンの氷河期にはいるのを、いまから、みがまえる。 そうそう。そういえば、零下の雪と氷の世界を、わたしは、毛皮を着て風にさまよい歩いた。あれ、さむかったなぁ、おなかも減るし、家族も仲間もじゃんじゃん死んでった。歩けなくなったおばあちゃんの遺体から、着古した毛皮を引っぺがして、からだに重ねて、歩いて行った。ちょっとまえ、七万年前くらいかな? でもいまおもえば、命がけで歩いた氷原は、けっこう綺麗な風景だった。夕暮れには、氷原は、赤く青く金に、どこまでもあてどなく、きらめいてね。月があがってね、ふっと息を飲んで、それきりだった。 --わたしたち家族は、人をかき分けてまわる。 それで、ある展示の、孵らないで化石になってしまった恐竜たちの卵、というのをみたら、胸が痛んだ。 あ、わたしたち、一億数千年ぶりに、邂逅したんだ。 --- 某サイト投稿作品 ---------------------------- (ファイルの終わり)