石川和広の窪ワタルさんおすすめリスト 2004年9月13日22時46分から2005年10月29日15時36分まで ---------------------------- [自由詩]グラウンド・ゼロ/窪ワタル[2004年9月13日22時46分] 汗臭いほんとうのことにはもう付いて行けず けれど 瑞々しい嘘をよけながら 照れ笑いで誰かと話すのが好きだ 政治とか宗教とか戦争とか どうだっていいことじゃないからつまらないんだ たぶん 俺は日本人 似合わないコーラを飲みながら うまいとほんとうにおもえたことなんかない ブシュだってきっと 神様なんか信じていないんだから俺と同じさ 大統領なんかじゃなけりゃ意外といい奴かもしれないじゃないか  なんてあり得ない空想だって別に罪じゃない 俺は日本人 愛国心も日の丸も君が代も 俺は大嫌いだけど好きだって人達と友達にはなれるよ きっと 俺は日本人 51番目の星になんかなりたいとはおもわないけれど ときどき LOVE&PEACEとか云ってみたりする 俺は日本人 戦争を知らない子どもたちなんて云ってほしくない 俺らは戦場を知らないだけ 俺は日本人 グラウンド・ゼロ なんて手垢にまみれた小銭の臭いがする 神風にのった2004年のエノラ・ゲイは おかあさぁーん!!ていわないんだろうか? いずれにしろ すべてはテレビの中 空はずっと延びている 地平線を俺は知らないけれど たとえば俺の 視線の越えて行く先が ずっと記号だけになっていたら もう 誰とも 君とさえもキスしなかったとしても どうにか立っていられるとおもう このゼロに向かって行く線の上の 平和な って 体温から とおいとおいまちで ---------------------------- [自由詩]白い言葉/窪ワタル[2004年10月6日19時25分] 晴れた空は、あまりに眩しくきれいだ 幼い頃、一番欲しいものはなあに?と問われて そら とは答えられず むきかごーぶつ と答えた (空は大きすぎて僕のおもちゃ箱には入らないとわかっていたから) むきかごーぶつになりたい その、透明な産毛のような、拙く、だが尊大な夢が 空を手に入れるのと同じくらい、無謀だと知ったのは 小学校の理科でのこと 「人間は有機化合物です。」 と、先生は事も無げに云った なぜ無機化合物だったかと云えば その頃近くに住んでいたヒロコさんが、無機化合物の研究を志して 遠くの大学へ行ってしまったからだった 一度だけ僕宛の年賀状が届いた ちゃんと返信したのに、次の年からは来なくなって 勇気を出してこちらから差し出したら、しばらくして、宛先不明で戻って来た 僕はそれから、無性に人恋しくなる悪癖を飼うことになった ヒロコさんが空と同じくらいきれいだったから  ― 本当に幸せだと思えることを、一つだけ見つけ出して、それをずっと大切にしようと思います。 ― 中学校の図書室にあった卒業文集に、ヒロコさんの残した言葉を見つけた  ヒロコさん  幸せだと思えることと、自殺願望が似ていることに  あなたは気付いていましたか?  本当に幸せになったら、もう死んでもいいと、僕は思うでしょう  幸せはたぶん、空と同じです 届く宛ての無い手紙を出すわけにも行かず 文集の余白にそう書いて ページごと制服のポケットにねじ込んだそれを 体育館裏の焼却炉に投げ入れてしまった 焼却炉の四角い口から吐き出された欠伸声が 耳の底で泣いた 空を手に入れることも、無機化合物なることもできないまま なんとなく大人になっても、悪癖は貪欲に好意を捕食しながら 胃下垂のようにだらしなく膨らみ続け、やがて 誰かに会いたいときには電話をすることを覚え 話を聴くときには、相手の目を見るといいと知った 会話をするのは、植物が根を伸ばして 結果として、互いに支え合うのと似ている 根の先端の方の繊毛が 言葉だ 白い言葉だ ヒロコさん 僕はようやく見つけたんだとおもう 空でもなく、あなたでもなく 僕が本当に欲しかったものを 幸せかどうかは、まだ分からない でも確かに大切にしようとおもう もう死んでもいい とよぎるのは 空や、あなたと同じくらいきれいだとおもえることが 少しずつ、少しずつ ふえた証拠だから 携帯のメモリーから 「久しぶり。」 と云いたい友を選び、注意深くノックする 呼び出し音が、心地よく白濁する前の 言葉の種子になって 透明な軽さでもって、空へ、と弾む ---------------------------- [自由詩]天動説の子ども/窪ワタル[2005年3月9日15時48分] 天動説の子どもが増えてるらしいのですが それはまったく自然なことです 地球が回っているのだとしても朝が来るのは退屈なのですから 僕はお布団で魚になって 箱舟に乗ったかあさんとはなしをします 火葬場で さくっ と砕けたかあさんを 胸に抱えて帰るとき 空は雲ひとつない晴れた冬で あまりに早く走りきってしまったかあさんは 空がこんなに広いなんてしらなかったろうとおもいました それはまったく不自然なことです 骨壷を位牌の奥において 隣で眠ろうとしたのですが お酒の力をいくら借りても まるで眠くならないので 肺呼吸をわすれたのだとおもいました 骨壷を開けると かあさんは頭から ちん と座っていて 頭蓋骨を一枚ずつ剥がして 喉仏をつまんでどけて その下の小さな小さなかあさんの かあさんの骨を 食べました 粉っぽくってざらついた骨は 簡単に砕けて 僕のものになりました でもね かあさん 肺呼吸をわすれたままです かあさんみたいに走れないので 僕は泳ぐことにします 上手く泳げなくっても もう誰もお小言を言わないので安心です それはまったく不自然なことです 僕は魚になります それはまるで自然なことです 海の底は太陽が射してきても 冷たいので 地動説をわすれられるでしょう それはまるで自然なことです ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]『詩は求められているか?』/窪ワタル[2005年8月4日15時57分] 本題に入る前に、誤解がないように、少し、前置きしておく。 最近、某所の日記に、朗読について考えていることを書いた。日記だから、特定の個人に向けて書いたものではないのだが、やや、感情的と取れる反論があった。原因は分かっている。自分で蒔いた種なので、何を言われても仕方ないし、これ以上反論する気もなければ、種を蒔いたことを謝罪するつもりもない。謝罪したところで、和解できるかどうか覚束ないし、言い方や態度、場所柄などの点で、不適切であったのは間違いないが、自分の発言内容そのものへの確信は何ら揺らいでいないからである。まして、そのことをネットと言う場に持ち込んで議論するのは場違いであるとおもっている。ネットと言う場は、それがいかなる類の議論であれ、妥協点をお互いに見出せない場合、その議論自体、不毛に終ることを、私は知っているからだ。この文章は、その方への反論では決してない。ただ、私見を述べておきたいだけのことである。 例によって、反論、抗議、誹謗・中傷の類は自由であるが、全て無視する旨を予め述べておく。 と、どうでもよい前置きはこのくらいにして、本題に入ろう。 「詩は求められているか?」と問われれば、私は、迷わず「Yes」と答える。なぜなら、詩を取り巻く環境は、大きな流れとして見れば、前進しつつあるからである。 確かに、詩は売れていないようである。一般に、詩集や詩誌を手にしようとすれば、大型書店に行くか、ネット販売に頼るしかない。詩誌については、その他に、定期購読と言う方法があるのみである。詩集の即売を中心にしたイベントなどが、東京、京都などでは行われているが、集まるのは、詩人か、詩に関わっている人々がほとんどで、まだ、とても一般に認知されたイベントとはなっていないのが現状なのである。しかし、そのような中でも、変化は生まれつつある。「ネットでの詩作」の広がりに伴い、詩誌の投稿欄には、一昔前なら考えられなかった、カタカナや、アルファベット表記の名義で作品を発表する、比較的若い詩人の入選が確実に増えている。ネット上で使っているハンドルネームもそのままに、詩誌に進出しているのである。もしかすると、ネットとは別名義で掲載されている詩人もあるかも知れない。更に云えば、昨年の「詩学最優秀新人」の二氏は、共にネットでの詩作から、詩の世界に入られた詩人である。 最近では、「ポエトリーリーディング」(詩の朗読)テレビ放送されている「詩のボクシング」児玉あゆみ氏らがNHKに取り上げられもした「スポークンワーズ」(言葉の異種格闘技)など、詩と言葉を届けようとする試みも、東京を発火点として、ゆっくりとではあるが、各地に広がりつつある。 どれも、一昔前ならば、考えられなかった状況ではなかろうか。これはつまり、まだ、本格的な広がりこそないが、人々が、潜在的には詩を求め、或いは、スタンスの違いこそあるが、自らも表現者として、“表舞台に出てゆこう”という欲求の広がりとして見ることが出来ると、私はおもう。 「スタンスの違い」ということから云えば、例えば“自分はリーディング中心”だとか“現代詩でなくポエムだ”“これからはスポークンワーズだぜ!”だとか云った違いがあるわけだが、そんなことは、それこそ“焼酎が好きかビールが好きか”はたまた“やっぱりワインでなきゃヤダ”“なに言ってんだウイスキーだぜ”というくらいの違いでしかないのである。その程度の違いは、全体の大きな流れから見れば、何ら対立し合うものではない。それどころか、むしろ素晴らしいことではないか!読者や聴者は、常に、自分に合うもの、面白いもの、感動するものを望んでおり、選択肢は多い方がいいのである。そもそも、詩の一番面白い所は「ルールがない」こと「自由である」ということなのだから、表現手法は勿論、詩の表出方法も、ルールは、始めた者が決めればいいのである。 ただ、当然ながら、今挙げたことをもって、詩を巡る状況や、詩人をとり巻く環境が、未だに厳しいと云う現実を、今すぐに変え得るものではない。しかし、こうした変化が、この先に何らかの影響をもたらすことは、ほぼ、間違いであろう。その影響に、私、個人として、大きくはないが、丁度、手のひらに収まるぐらいの希望は持てるとおもっている。そして、最も重要なことは、願ったり、祈ったり、希望を持ったりするだけでは、折角、傾きかけている流れを引き寄せることは出来ないということである。自らを詩人だと自称し、詩の閉塞を憂いている賢明な詩人諸氏ならば、こうした流れに、温かい眼差しを注ぎ、出来るなら、その発展の担い手や、支え手になろうではないか!それが嫌でも、無理でも、せめて、詩のいいお客様にぐらいはなろうではないか!  と、若干演説調になったので、どうやら、そろそろ筆を置く頃合であるらしい。 最後に、詩の市場性について書こうかとおもったが、それは、また、次に譲るとしよう。 ---------------------------- [自由詩]故郷といる/窪ワタル[2005年9月1日2時10分] 故郷といる 私は故郷といるのだ 何処へも行かない故郷は やはり田んぼの匂いがして 葬式と悪い噂話が好き 山は刻々と死に 生まれる 夕方には日暮が鳴いて 21時を過ぎたら車は一台も通らない 呆けはじめた祖母と 夕食に鰻丼を食う 通夜から遅く帰った父と ビールを呑んでテレビ 母の携帯電話はまだそのままのテーブルに置かれ 何の比喩も持たず ただ有る 父の愚痴を黙って聴く 耳は聴くための器官なのだ 唇は乾いたまま 父は質問はしないので 祖母への愚痴は涼しい 言葉は唇で流産し続け 私は罪になったまま 耳ばかり忙しいので 左右二つでは足りないで 時々瞬きなどして 故郷をかみ殺そうとするが 故郷は微動だにしない テレビでは  方耳に補聴器を付けた 背番号30が 三振をとって マウンドを均している ---------------------------- [自由詩]それでも 生きているのだ/窪ワタル[2005年9月8日9時53分]  心臓を 下さい  何処かに置き忘れたのです シナプスを飛ばして 過去の駅 遺失物預かりの四角い顔は どうして揺れることがないのでしょう 同情して下さい なんて  云えないのだけれど  からっぼの胸骨には  脳味噌がすっぽり収まるので  代用には十分ですよ と 云うのですよ 医者のヤツ  試しに頭蓋骨を砕いてみましょうか ですって  ただし暫く真っ直ぐ歩けませんよ ですって ただでさえナケナシのプライドが 揺らぐじゃないのさ 血が流れていないのか 今朝からひどく寒いのです まだ秋だというのに 街は冷蔵庫の底のようで 制服を着たカップルが キス なんかしてる マッチよりは温かそう 唇をなでると 手触りは骨に似ていて 輪郭だけが残っているのでした ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]石川和広詩集『野原のデッサン』を読んで/窪ワタル[2005年10月29日15時36分] まず、この文章の性格について前置きしておかなければならない。 この拙文は、批評などという立派なものではなく、感想文である。 文中『あとがき』から若干の引用はあるが、作品そのものからのそれは行なわない。 理由は二つある。 一つは、そのような手法で作品について語るのは、優れた解説者や、批評家諸氏の仕事であり、私ごとき者が出る幕ではないとおもう。 二つ目は、これからこの詩集を手にされるかもしれない幸運な読者諸氏に、なるべく余計な先入観を持って頂きたくないからである。 この拙文が、この詩集に未知の読者諸氏の手が伸びるための、ささやかな助力になれば幸いである。少なくとも、邪魔にはならないようにと祈っている。 ****** この詩集は、秋から冬に向かう風のようだと私はおもった。 個々の作品によって、当然、趣が異なるが、そこにあるのは、素朴な暮らしの発見である。発見と云っても、特に取り立てて目新しい何かではなく、極々ありふれた日常の事象や、心情の「再発見」である。 詩人は、ただ、素直にそれを観察し、書き起こしたのだとおもう。日常というのは、そうそう取り立てて心騒ぐような事象に溢れてはいないものである。うっかり暮らしていると、その輪郭さえも薄ぼんやりとして行き、捉えて言葉にすることなど覚束なくなる。 だが、詩人はそうではなかったのだ。それは、意識的にそうしたと云うより、詩人にとってそれは、まったく自然な行為であったのだろう。 詩人はそれを「デッサン」と呼び、詩作とは「呼吸の形をたどる」ことであり「速い息、ため息、深呼吸、あくび、色んな呼吸のリズムがある」と、自作を振り返っている。 “なるほど軽いわけか”と私はおもった。個々の作品で扱われた主題のそれぞれが“軽い”とはおもわない。むしろ、モチーフとしては、重い部類に入る詩が多いとおもう。 しかし、詩集全体の印象としては“軽い詩群”という感じがある。これは、はたして何処から来る“軽さ”なのか?おもうに、それは詩人の「虚栄心」の希薄によるものではないかと私はおもう。「何か後ろめたいモノ」或いは「恥ずかしいモノ」を見せてしまったような居た堪れなさに近い。だが、それでも曝け出さずに居れない、一言で云えば「実直さ」が「軽さ」になって表れていて、それが不思議な磁力を発している。 まるで後から吹き付けたような嫌な重々しさがまるでない。それが、詩人いわく「呼吸」の「デッサン」なのかと、心地よく得心が行く。丁度、夏場は湿って重く纏わり付く風が、秋から冬にかけて、ゆっくりと乾いて軽くなるような、だが、物悲しく、深い寂しさや、無垢な優しさ、少年のような、時に破壊的な正直さが、詩人の息づかいとして通ってくる。 実直であることは、簡単ではない。自己との対話を日々積み重ね、日和の良い日も、雨の日も風の日も、揺れ続ける内心から目を逸らす訳には行かないからだ。 ありのままに書こうとして、書けているところも、書けないでいるところも、言葉にして定着させることで、すべては詩人の再発見して作品化されているようにおもう。 作品化した以上、それはもう発見したとは別のモノである。けれど、それが「不作為」ででもあるかのように、無理なく頬に触れてくる。 ---------------------------- (ファイルの終わり)