桐ヶ谷忍のそらの珊瑚さんおすすめリスト 2016年1月15日9時45分から2019年6月8日10時46分まで ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]夜更けの紙相撲「かけがえのないもの」/そらの珊瑚[2016年1月15日9時45分]  弓道の防具で、右手にはめる革製のてぶくろみたいなものを「かけ」と呼ぶらしい。弦を引く際に、主に右手親指を保護するためのものであるとか。  その革は子鹿のものであることが望ましいそうで、かけとなりうるのは、そのほんのいち部分、子鹿一頭でひとつのかけしか作れないときく。  想像するに、戦国時代など、武器であった弓の的中率は自分の命を左右するものであったわけで、かけの善し悪しは重大な意味を持ったことだろうし、自分の手になじんだかけは、他にかえのないほど大切であったことだろう。 「かけがえのない」という言葉の由来は、その「かけ」からきているという説も、うなづけてしまう。「かけ」の替えはない→かけかえはない→かけがえはない  子鹿の命と引換えて作られた「かけ」は他に替えのないほど大切ということか。  自分にとってかけがえのないものを考えてみる。なくなっては困るかもしれないけれど、あきらめがついたり、しかたないと思いつつも替りになるものがありそうな場合がほとんどだ。そうやってなんとか折り合いをつけていくのが人生ともいえるかもしれない。まだ人生を始めたばかりの幼子でも、冬のくもった窓ガラスに今日描いた絵が、ほどなく消えてなくなるのを知る。がっかりするかもしれない。泣くかもしれない。今日の幼子にとって、それはかけがえのないもの、かもしれない。けれどまた明日も同じように、その小さな指で絵を描くという選択肢は残されている。  生きている自分、という、自分なりの答えのようなものにたどりつく。  自分の命は自分でしか生きられない。他の誰にも変わってはもらえないし、他の誰かを生きることも出来ない、そうして命がなくなってしまえば、替え、はない。  あたりまえのようだけど、かけがえのない、は、目に見えないから忘れがちだ。  かけがえのないほど大切な命、たとえば自分以外の命だって、永遠ではない。  永遠ではない世界の中で、また新しい年が始まる。答えだと思っていた地点から、ふたたび問いが始まる。 ---------------------------- [自由詩]おとぎばなし/そらの珊瑚[2016年1月28日9時44分] 火がないのに いつでも 沸きたてのお湯が出てくる 昔、むかし 食卓の上に 魔法瓶という魔法があった ただいまと 帰ってくる 冬のこどもたちのために とても温かい飲み物が 瞬時に作られる カップから生まれる湯気たちが 小さな顔のまわりで ふわふわおどる まるで あそんで、あそんで、と まとわりついてるみたいに 夜がやってくると その魔法は静かに効力を失い 湯気たちは 水に 魔法瓶は ただの瓶に 母は くたびれた人間の女に戻った ---------------------------- [自由詩]蜜柑をむく女/そらの珊瑚[2016年3月2日12時38分] 蛇口が みずうみにつながっているように 蜜柑は 五月の空へつながっている かぐわしい白い花 まぶしい光に 雨だれに ゆっくりと過ぎてゆく雲に 蜜柑をむくと その皮は しっとりと柔らかく はなびらのかたちにひらいてみせる ひらいてそうして おしまいになる 果実を手放し あとはあっけなく ひからびてゆくだろう わたしは どこへつながっているのだろう 爪の先がかすかに香る 刹那の命 今週末 冬は気化され 春になる予報 そんなふうにすべての天気図が 理由もなく過ぎてゆくことを 恨んだりしない蜜柑が ここにある ---------------------------- [自由詩]野うさぎとして生きていく/そらの珊瑚[2016年3月11日8時47分] うさぎは ときおりたちどまり ふりかえる そこに菜の花がうすくゆれていた まるで なにかのじゅそみたいで なにかのしゅくふくみたいで ながい耳は 遠い音をつかまえるため 生きることをつかまえるため ---------------------------- [短歌]青いプールの昨日のさざ波/そらの珊瑚[2016年6月24日14時15分] 気休めな水に放てば金魚らはひと夏きりの命を泳ぐ 六月に不似合いなほど晴れていて昨日の雨がわたしを映す 透明な花瓶の中で紫陽花の茎の模様が屈折してる 雨か汗滴り落ちて黒く染み黒いTシャツなぜ着たんだろ 短冊に書いた願いのほとんどが叶わぬことを知った文月 西陽射すキッチンの片隅で自意識に似たサボテン育つ 飛び込んだ瞬間なにもかも忘れ或いは死んだ青いプールで ---------------------------- [自由詩]ふたたびの夏/そらの珊瑚[2016年7月21日15時11分] 万年筆の血液が乾いてしまったようだ 無理もない 数年うっかりと放っておいたのだから いちにち、はとても長いくせに すうねん、は あっという間に感じるのはなぜだろう 風、が通り過ぎていく 透明な流動体が何も記さず ただ通過してゆくだけなのに なぜかその風を知っている気がしてふりかえる あなたは誰ですか 万年筆のペン先を ぬるま湯を入れたコップに挿しておく 止まった時間が解凍されて 命が巡りはじめるようにと もしも花が咲いたなら まさかひまわりとはいかないだろうが 万年筆ではなかったとあきらめて 土に埋めてしまえばいい 今年は蝉の声が少ないようだ キミたちが産まれた七年前に何かあったのだろうか 大人になれなかった蝉は眠るように死んだのか そう思案してみても夏は夏でしかない 特定の夏を取り出すことは出来ないし それが答えなのだろう 昨日のことさえすでにおぼろだし なんなら過去を都合良くすり替えることもできる 優しく残酷な手順で人は 悲しみだって上手に薄めてゆけるのかもしれない せめて今日 息を吹き返した黒で文字を書く 書かないことで 刻まれていくこともあるけれど 書くことでしか 確かめられないこともある 風は 無言で 蝉は 啼くことで この夏ごと 生きていることを共有しているように ---------------------------- [自由詩]夏のスケッチ/そらの珊瑚[2016年9月1日13時58分] 糸杉の並んだ道 夏のただ中だった 一歩歩くごとに 汗は蒸発していき 肌に残されたものは べとつくだけの塩辛さだった 暑さのあまり 蝉の声さえ途絶えた 世界には わたしとあなたしか いないのかもしれない という 得体の知れない悲しみと喜び 相反する心は 歩いていくための 双子のストックでもあった あなたのあとを ずっとついて行きたかった あなたが止まれば わたしも止まり そんな時は気づかれないように わたしはさらりと糸杉になったりもした 数メートルの距離を保ったまま あなたの連れる影の後ろに入るともなく こっそりと歩いていきたかった あなたは背負った荷物の重さで 少しばかり左に傾いて デッサンの狂い始めた 一枚のスケッチになった 鉛筆の芯さえ溶ける熱風 白い画用紙が ふいにめくれて あなたを見失う そして 途方に暮れる 燃え尽きるはずだったのに 消滅したのだ 糸杉は或いは幻で 人の群れであった ---------------------------- [自由詩]わたしのアンティークドール/そらの珊瑚[2016年9月5日11時56分] 人形も関節から 壊れてゆく、ら しい。継ぎ目は いつだって弱い 場所だからね。 かつてあなたが 若かった頃、肘 も、膝も、首も 指の中に取り付 けられた小さな 関節たちも、み なすべらかに自 由自在に曲がっ たものだった。 人間だったら不 可能なアクロバ ティックな方角 にさえ曲がって みせたのに。 人形は年を取ら ないなんて嘘。 あなたをこの秋 の窓辺に、座る 格好にかたどる だけで、関節は 固い悲鳴をあげ る。生まれたて の微笑みを保っ たままで。 亜麻色の化繊の 髪の毛が光を吸 ってまぶしい。 紫外線に損なわ れながら天使の 輪をこしらえて いる。 人はあれこれ、 きりきりと継 ぎ目に撚りを かけて結び、 年を経て最後 にはたぶん全 部ほどいてゆ く、か、ぷつ り切れるのだ としたら、あ なたのように 微笑むことが できるかしら。 ---------------------------- [自由詩]夜話/そらの珊瑚[2016年9月8日11時20分] この世でいちばん明るいのは 夜の屋根の いなびかり そのあとを 追いかけてくる音は おそろしいけど、と 小さな人がいう ならば耳をふさいでごらん あてがえば 柔らかな手のひらは 適温の蓋になり 嵐の夜は 美しいまま 朝に消えても まぶたで 息をつなげることでしょう ---------------------------- [短歌]さよなら、自転車/そらの珊瑚[2016年11月14日20時48分] さよならを告げた記憶はないけれど自転車はもう錆びついていた お返事を書くか書かぬか迷ってるヤギはいくぶんヒツジに似てる 降り注ぐ光のすべてうけとめるここはあまりに硝子張りです みなぞこでみつけたうろこきらきらとかつてわたしであったものたち 適切な仕組みによって死んでいく機械仕掛けの薔薇と経血 かげひなたそのどちらでもないような薄闇がありオカリナを吹く 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[自由詩]風花のことづて/そらの珊瑚[2017年1月18日8時02分] あの頃 きみはまだ産まれていなかった 着床しない 小さな種だった 人はなぜ産まれてくるんだろう 人はなぜ産むんだろう いつか手ばなす命であるのに わたしが 影も形もない頃 少女だった母のまなざしの中に住んでいた だから この儚い雪たちを見たことがある ハロー風花 優しさが曇らせた窓硝子を 指で撫でれば 涙を流して 凍えた箱庭を透過してくれる なぜおまえは 積もらぬことを知っていて 天から身投げしてくるのかい ---------------------------- [自由詩]つくろい/そらの珊瑚[2017年1月20日8時18分] 朝 おはようを云いたくない時にも おはよう、と云う ほんの少しほほえんでいたかもしれない 本意ではないし 嬉しいからではなく 茶柱が立っていたわけでもなく それは 毎日の習慣だったから 時に 習慣は心に不誠実だ 家族を送り出し もやもやとくすぶりつつ 玄関の鏡を見ながら 髪の毛に手ぐしなどを入れれば とても誠実な仏頂面がいて くすりと笑えば あなたも笑った ---------------------------- [自由詩]風船革命/そらの珊瑚[2017年1月23日10時37分] かつて風船には二種類あった 空気より軽いガス製と 人間の息製と 人間由来の僕らは 空を飛べないはずだった 小さな手ではじかれて ほんの少し空を飛んだ気分になって じべたに落ちて あとはゆるやかにもれて 死んでいくだけ ぽーん ぽーん 小さな手にやわらかくたたかれ 薬局のおまけでしかなかったこの僕に うたかた 夢を見させた  坊や 苦いお薬ちゃんと飲めておりこうさんね  きっと次の日曜日までには熱は下がるわ  そしたらパパもいっしょにピクニックにいきましょう  おむすびにぎっていきましょう  桜が咲いているかもしれないわ あの日のあと 僕らはついに空を飛んだ 人間の息がガス化したんだろう 青い風船が云ったけれど 息もガスも透明だから その真実は誰にもわからないよと 赤い風船が云う どちらにしても革命はなされたんだ 無血革命を誇ろうではないか、諸君 黄色の風船はますますふくらんだ 革命? そんなことより僕は あの日からずっと ガイガーカウンターが鳴り続けている方が 気になっている 僕のおなかに描かれていた 象は巨大化し いずれ輪郭を失くすだろう たが、が はずれ ふくらみ続ける僕らの色は やがてうすまり 透明に近づくだろう ふくらんで ふくらんで この空は おまけだった僕らが支配するだろう 宇宙もふくらみ続けて そのあとどうなるんだろう ぽーん ぽーん たたかれてるのに 楽しい気持ちにさせてくれた 小さな手は 小さな手の持ち主は あのあとどうなったんだろう ---------------------------- [自由詩]冬のひまわり/そらの珊瑚[2017年2月10日9時42分] 立ったまま 枯れている あれは 孤高の命 もうおひさまをおいかける元気もないし だれかをふりむかせるような輝きもない けれど おまえがひまわりで 凍えながら 戦い続けていることを 私は知っているよ ---------------------------- [自由詩]虹色のさかな/そらの珊瑚[2017年3月29日8時34分] 針穴に糸が通った遠い日から ずいぶんいろんなものを縫ってきた 時には 縫われることを嫌って ぴちぴち跳ねて てんでに海へかえってしまう布もいたけれど 人の営みのかたわらに 一枚のぞうきんがあったそうな 汚れを身につけ 洗ってもとれない汚れを誇る そんなぞうきんが 年度初めに学校に一枚のそうきんを持っていく そんなしきたりが日本に出来たのはいつからなのだろう ぞうきんがタオルではなく手拭い製だったころからだろうか 母も、そのまた母も 小学校の長い廊下を競争のようにして ぞうきんがけをしたのだろうか 高校三年生に進級する娘に 持たせるためのぞうきんを縫う 幾度か水をくぐったうすいタオルは これからどんな汚れを身につけるのだろう それはわたしが知りえないことだけど いつか あの広い海にかえっておいで そしたら小さなループはうろこに変わるし 泪の跡はまなこに変わるだろう たぶんぞうきんを縫うのは これでさいごになるんじゃないかな 相変わらず縫い目はでたらめでそろってないけれど せめてとびきり綺麗な虹色の糸で おまえを縫ってあげよう ---------------------------- [自由詩]水辺の魂/そらの珊瑚[2017年5月20日11時53分] うすい影がゆれている くちばしで 虫をついばむのだけど やわらかな影であるから 獲物はするりと逃げてしまう  命でなくなったものは もう命には触れることができない それでも 巣に残してきたヒナに なにか食べさせなければ そんなおもいだけが 残像になってたたずんでいる ---------------------------- [自由詩]夏へ向かう羽/そらの珊瑚[2017年5月29日9時39分] 透明な羽が浮かんでいた 透きとおっているけれど それは無いということではなくて 小さなシャボン玉は 虹を載せてゆくのりもの パチンとはじければ 虹はふるさとへ還る ふいに風 さざめく声が 頭上三十センチ地帯を追い越してゆく 風は私が載れない透明なのりもの 完璧な蝶々は すぐに飛び立ってしまうから 運動靴のひもは いつだって いびつな縦結びが許されていて 私たちはパジャマのままでゴム跳びをした くるぶしは対の種だよ いつか発芽したら あたしたちは光合成する羽になる   そういって彼女は 息を止め 重力を蹴り 昏い放課後を跳んだ あれが遺言だとしたら あの羽は彼女だ 角を曲がってしまえば 影を持たない光、光、光まみれて そこは 在るけれど無い夏 ---------------------------- [自由詩]今日の水に寄せて/そらの珊瑚[2017年7月6日9時17分] うまれたての水のつめたさで 細胞のいくつかはよみがえる けれど それは錯覚で 時は決してさかのぼらない この朝は昨日に似ていても まっさらな朝である それでも あなたの水は 六月のさなかにあって 清涼そのもの 小さなさかなの群れ さざ波は永遠を真似た反復記号 戯れてひとときの命を生きる 救命ボートの舳先は丸く この手はすべりおちてゆく えら呼吸が出来たらいいのに どこへむかうのか、水 たぶんそれは少しかたむいてゆく明日のほうへ ---------------------------- [自由詩]青信号に変わるまでの時間に/そらの珊瑚[2017年7月28日12時31分] ひらひらと横切ってゆく蝶々 つかまえようとして 伸ばされた小さな手 初めての夏という季節の光 街路樹の葉が落とす濃い影 見えない風の気配 蝉のなきごえ お母さんの胸に抱かれた その幼子は ノースリーブの肩越しから世界を見ていて けれどそのまなざしのゆくえを 一番近い人は知らないままなのだろう 娘と信号待ちをしながらふと ショーウィンドウに目をやると 私より背の高い娘が映っていた いつのまに こんなにたくさんの時間が経ったのだろう あなたのまなざしのゆくえを知らないまま 店先にはバーゲンセールの文字 ふあふあのタオルが飾られていて つい欲しくなる もう赤ちゃんはいないのに (いつのまに) 縁をぐるりと囲むように施された 愛らしいブランケットステッチ ほつれないように、と 願う糸飾り そのひと編みひと編みをかがった人の手は 今どのあたりを歩いているのだろう ---------------------------- [自由詩]夏のあとさき/そらの珊瑚[2017年8月6日11時16分]  盂蘭盆会 暮れてゆきそうでゆかない 夏の空に うすももいろに 染まった雲がうかぶ 世界はこんなにも美しかったのですね なんども見ているはずの景色なのに まるで初めて見たように思うのはなぜだろう 死んでしまった人と知っているはずなのに まだ死んではいない気がするのはなぜだろう 満ち欠けを繰り返す月は 相変わらずの孤独を誇る  原爆忌 見なければよかった 世界は残酷でどうしようもなく理不尽だ 見たことで 刻まれてしまった 柔らかな心の奥底に 鋭い刃で掘ったように ないことになど 出来ないのだ 緑燃える広島平和記念公園の蝉たちの 鳴く声のけたたましさ  真夏に想う氷 ひとかけの氷が ほどけて水にかえってゆく 人生において一瞬の点のような時間 何の役にも立たないひとかけらの時間 犬は氷が怖いらしく ただ遠巻きに見ている 臆病だね、 蝉の抜け殻は目ざとく見つけて食べるくせに 北極の氷がみんな溶けて海にかえっていったら 北極熊はどうしたらいいのだろう ただの熊に戻れるのだろうか それはちょっと困るわ アザラシと間違えられて あたしは喰われてしまうじゃないの、と いいたげな犬は なるほど少しばかりアザラシに似ている  満月の夜 一匹狼は遠吠えをしないなんて嘘だ 誰とも分かちあえなくても さみしさを 月にだけ打ち明ける夜がある ---------------------------- [自由詩]猫とバラ/そらの珊瑚[2018年9月19日10時14分] 赤い線が 皮膚の上に浮かび上がる 今朝 バラのとげが作った傷が 今 わたしのからだの中の 赤いこびとたちが あたふたと いっせいに傷をめざして 走っていることだろう 猫を飼っていたころもまた そんな傷をこしらえては 夜、風呂の中で しみて痛かったけれど もうあとかたもない あの傷も あの猫も 薄いくもり硝子をふるわせていった あの風も 明日の宿題も 決して致命傷にはならない 消えていくだけの傷だから わたしの日々は 安心して やさしいものたちに傷つけられている ---------------------------- [自由詩]ダイアリー/そらの珊瑚[2018年10月5日15時03分]  とある街で 金木犀が香る だけど金木犀はみあたらない 探しているうち 何年経ったろう すっかり風向きは変わってしまった 行きついた先で 仕舞い忘れられた 軒先の風鈴が鳴った  再会 海がこんなに満ちているのに 潮の香はしない 途方もなく遠い場所から 旅しているうちに 海は透明な雨になった  寝坊 目覚ましタイマーの音を 青いカナリアに変えたせい 棺桶の寝心地はとても悪かったけれど  雨上がり 少しだけ窓を開けておく 乳房から孵化したわたしの蝶が 旅立つにはちょうどいい温度  風待ち 昨日と違う今日にするために スカートをはく  乱数表 いってらっしゃいと わたしたちは毎朝別れ ただいまと毎夜再会する 迷子にならなければ 或いは 死ななければ  夏供養 ひまわりは枯れて 彼女が背をむけた場所に 黒々とした影が生きている    ハッピーバースディ 娘が十九歳になり 私は 母になって十九歳になった ともに未成年 蕁麻疹の原因は不明 ---------------------------- [自由詩]冬のパズル/そらの珊瑚[2019年1月7日14時10分] 晴れた港の 防波堤を歩いた コンクリートのひび割れから 小さな花は灯る テトラポットは 夜ごと 組み替えられている それらが いつか砂粒になるまで 続いていくとしても さかなのほかには 誰も知らない 朝火が 闇を燃えつくし 月を 白い燃えかすに替えて なにもかも見失っていけば 心は みるみる弱くなる いつか泡になっても さかなのほかには 誰にも告げない みんな 解けないパズル 解かれることさえ 彼らは望んでもいないのです ---------------------------- [自由詩]小さな散歩/そらの珊瑚[2019年1月18日11時51分] いとしいといわない 愛しさ さみしいといわない 寂しさ 祖母と行く畦道 ふゆたんぽぽを摘みながら 手は 手とつながれる 枯れ野には 命の気配がして 墓所には 命だったものの気配がした ささやかなあの時間が 遠くなるほど 近くなり 見えないどこかに 無言のままで宿っている ---------------------------- [自由詩]りんごの神様/そらの珊瑚[2019年1月25日11時17分] りんごを 横にスライスしていくと 星の形が現れた こんなところに ひっそりと 神様がいたことを 初めて知った 冬の日 湯気みたいな嬉しさを 胸であたためて いっとき 死を忘れてみる 砂糖と檸檬を ふりかけられて 今 りんごの神様たちは 鍋の中で煮詰められてます ---------------------------- [自由詩]ヤモリ/そらの珊瑚[2019年2月28日11時09分] 最近ヤモリは現れなくなった 夜のはめ殺しの天窓に映させている 流線形のシルエットが好きだった イモリだったかもしれない それとも風に導かれて降り立った 小さな神様だったのかもしれない 便宜上ヤモリとうちでは呼ばれているけれど そもそもヤモリは自分が誰なのかなんて興味ないだろう 好きといいつつ ほんとのことなんてなにひとつ知らないまま 季節は閉じられていく 生きていることと死んでいることの間に リボンがゆらゆらとはためいていて 機械ではないわたしたちは日々 細胞を分裂させている 奇跡のように ---------------------------- [自由詩]梅雨空に/そらの珊瑚[2019年6月8日10時46分] 手のひらの小鳥が 命を使い果たしていくとき 呼んだら 返事をした それは 声にならない声 音を失った声は 振動だけになって 手のひらをかすかに震わせた あれはやっぱり声だった 命は生まれてから 引き算や足し算を繰り返して ゼロになる前に ぎゅっと何かをふりしぼる いっとき銃撃戦が途絶え 梅雨空は 白いやわらかなまぶしさ 想い出すのは 巣立つ前に墜落したあの子の 空気みたいなぬくもり ---------------------------- (ファイルの終わり)