妖刀紅桜の恋月 ぴのさんおすすめリスト 2008年3月26日22時20分から2008年9月12日21時38分まで ---------------------------- [自由詩]騙されるひと/恋月 ぴの[2008年3月26日22時20分] ぼっかり空いたこころの隙間に あなたの優しさが忍び込む そのひとに騙されているのではと 友達は忠告してくれた 仮にそうであったとしても 構わないと思ってしまうわたしがいる ひとの弱さのようなものを 曝け出してくれる あなたに わたしと同じにおいを感じ取り 「明日には必ず…」 そんな聞き飽きたことばに だまって頷くのは 約束は果たされると一縷の望みを託すから ひとに優しい人は えてして自分にも優しい あと少しもがけば手が届くだろうに こらえきれず力を抜いて この世の涯へと流れ流され 覚悟が女のさだめなら はだけた乳房に顔をうずめる男をあやし どこまでも 疼く子宮は涙に濡れる ---------------------------- [自由詩]まっこりなひと/恋月 ぴの[2008年4月1日21時00分] 焼けてきたお肉を器用に裏返してくれる 横の物を縦にもしない性格だと思っていたのに どうやらそうでも無さそうで アルコールの度数は低いからと ビールの飲めない私に勧めてくれた 甘くてとろりとした白いお酒 タレの辛みを優しく癒してくれる そんな話術に乗せられ飲みすぎてしまう 女房酔わせてどうするつもり そんなコマーシャルが昔あったような 無かったような 焼肉を食べるふたりは何とかと指さされても 程好く焼けたお肉を仲良くつつきあえば 幸せの在り方について思いを巡らせ 春めくってこんな気分なのかと 酔いで焦点の定まらなくなった瞳に映る あなたの笑顔と まっこり もっこり 河岸を変えようと合図を送る指先に 今夜のわたし「サクラチル」 ---------------------------- [自由詩]気の早いひと/恋月 ぴの[2008年4月5日23時58分] 先週末に桜が散ったばかりなのに あなたは 物置から引っ張り出したビーチパラソル 具合を見たいからと これ見よがしに拡げてみせる どうやら使えそうだな アルミパイプの椅子まで組み立てて こっちへ来いよと手招きする わたしって猫だけど猫じゃないよ 不安定な椅子に腰掛け何をするでもなく もっと若い頃ならば お互いにちょっかいでも出すのだろうけど 人生の瀬戸際間近のふたりだから 取り壊しがはじまった銭湯の傾いだ煙突を眺めても 溜め息ひとつさえ出やしない どうせまた物置にしまうのでしょ いや、直ぐにでも使うことになるよ このパラソルで防ぐのさ 海の向うから飛んでくる黄砂とか 死の灰とか 街宣車のけたたましい騒音 そんなものの総てを こんなもので防げるのかな 銭湯の傾いだ煙突をかすめるように ジェット雲幾筋も延びて まだまだ先のことだと思っている わたしたちの心に寒の戻りの風が吹く ---------------------------- [自由詩]もへじなひと/恋月 ぴの[2008年4月11日21時24分] へのへのもへじみたいだねと問いかけたら 「へへののもへじ」が正しいんだと あのひとは言った ―へのへの 叱られて家に帰れなかった 夕焼け空に ロウセキで描いた へのへのもへじ けんけんぱの輪を追憶の黒い影くぐり抜け とうりゃんせの歌声が わたしの背中を呼んでいた ―へへのの 困ったような「へ」の字のまゆげ それでも「へへのの」にこめられた頑なな思いは まるで道化の素顔を垣間見たようで しれっとした眼差しに 愛だけでは幸せになれぬと「へ」の字くち へのへのもへのとも言うらしいけど 「通り抜けできません」と標された 人生の袋小路で捨て猫一匹みゃぁあと鳴いて おままごとしていた、あの頃がよぎる それは空っぽの部屋に 空っぽのふたり お互いを傷つけ合うことでしか満たされ得なかった 忘れようとして忘れることのできない日々 へのへのもへじのげじげじまゆげ カンけりのカン思いっきり蹴られても わたしは案山子と素知らぬ顔で ---------------------------- [自由詩]ふりふりなひと/恋月 ぴの[2008年4月17日21時32分] ゴスロリっていうのかな そんなフリルのたくさん付いた服 一度くらい着てみたいけど 「おばさんの癖して…」 あなたに言わてしまいそうだし そんなの着れる歳じゃないことぐらい判っている ふりふりのお洋服 着れないかわりにいろんなふりをしているよ おとなしいふり 協調性のあるふり つつましやかなふり それから あなたを立てる賢いおんなのふり もしかすると、死んだのに生きてるふりしていたりして ちょこんと乗せたヘッドドレス 球体関節人形の瞳みたいに 果てしなく澄んでいて 血に餓えた花束の匂いがする ほんとのわたしって誰なんだろうね どこの誰だろうと構わないけど ふりふりのふりふりは ふりふりで ふりふりのふりふりは ふりふりだから 自分探しの旅をする気なんて はなから持ち合わせているはずもなく わたしって存在のふりをして生きる ---------------------------- [自由詩]見つめなおすひと/恋月 ぴの[2008年4月23日19時28分] 自分で考えてみても些細過ぎる悩み事を 頷きながら聞いてくれる 復縁できたらとか下心あるのかな 彼だった頃は喧嘩ばかりしていたのに なんだか不思議だよね 今では心を開いて相談できる 同志とか戦友とかそんな存在に思えてしまう これって身勝手すぎるよね 心苦しさとかもあったりするけど あれは親友と信じていた子に裏切られた時のこと 誰にも相談できなくて どこか遠くへ行きたくなって 夜更けのベンチで行く当てもなく星の瞬きを眺めていた 心配かけたくないから 今思えば心の弱さを曝け出すことへの躊躇いから そんな言い訳していたのかも 何かあったら連絡しなよ 優しすぎる笑顔に心揺さぶられ 「やり直してみようか」 喉から出かかったその言葉をぐっと飲み込んだ 改札口に消えるあなたへ手を振りながら ひととひとの関わりの難しさと 心の有り様に思いを巡らせ あのベンチにでも行ってみようかな 誰もいない雨上がりの公園 わたしの帰りを待っていてくれたのか 街灯の明りに浮ぶベンチはあの時と変わらぬままで 過去と未来の真ん中にわたし自身を賭けてみる ---------------------------- [自由詩]ピンポンゲートなひと/恋月 ぴの[2008年4月28日21時00分] 女子トイレに入ってきた あなた あっと小声上げたと思ったら ばつの悪そうな顔して出ていった なんだかおまぬけで可愛いよね あれれ、わざとかな 石橋は疑って渡れ ほとんどの誤りって勘違いの仕業 ―だよね 「わたしはあなたこと愛している」 それはあなたの勘違い ―だったりして そこから何かしらのドラマとか はじまると良いのにね 気づかぬものは久しからず 勘違い、破綻してはじめて誤りだったことに気づく そんな経験を嫌になるぐらい繰り返している おばさんが男子トイレに入っていく それは勘違いでも何でもなくて Going My Way ―ってことなのかな 恥じらいとか優しさとか人間らしさを棄てたとき ひとは勘違いだと気づくことさえ失う スイカを自動改札機にかざしたはずなのに ピンポンゲート閉まるのは 女性としての賞味期限過ぎたから で、それがどうしたと開き直ってみたりする ---------------------------- [自由詩]待合室のひと/恋月 ぴの[2008年5月3日21時47分] 長い間待ち望んでいた瞬間が訪れる 受付の看護士さんに案内され 病院らしい匂いのする待合室の長椅子に わたしはひとりで腰掛けていた 手術自体はあっと言う間ですから こころにメスを入れるなんてと 狼狽えるわたしに向かって 若い担当医は自信満々な口振りで答えた わたしにも思春期があったとして その頃からだったのか わたしを捕らえて離さなかったもの 片時もその存在を忘れることの出来なかったものから わたしはついに解き放たれようとしている いよいよだからね ちょっと汗ばんだ掌を見つめていると わたしの名を呼ぶ声がして 手術室の扉が開き 白いベッドが眩しさのなかに浮かび上がってきた 待合室の長椅子から立ち上がり 眩しさに招かれるまま歩みはじめたとき わたしは気付いた 忌み嫌い取り去ってしまおうと思ったものこそ わたし自身の総てだと言うことに どちらへ行こうとしているのですか 背後から看護士さんの声が追ってくるけど 何処へ行こうとしているか そんなことまで判るぐらいなら こうして生きている意味なんて無い気がして ---------------------------- [自由詩]「また今度」なひと/恋月 ぴの[2008年5月8日19時50分] お愛想だと判っていても みょうな期待を持たされてしまう 口ぐせなんだよね 未来と繋がっているようで 繋がってなくて この連休の天気予報みたいに当てにならない 悪気なんて無いのだろうけど 思わせぶりな仕草で わたしの肩をぽんぽん叩いてみたり そんな人って どこにでもいるよね あなたのそばにも そして わたしの心のなかにもいたりする 言い訳上手なお調子者で 「また今度」 たったひと言で何でも先延ばしにしてしまう ぐずぐず悩むのはよろしく無いけど 「狼が来た」にならないとも限らないから 晴雨兼用の折り畳み傘欠かせなくて 今日出来ることは今日のうちにだなんて そんな殊勝なことを考えてみた ---------------------------- [自由詩]パンダなひと/恋月 ぴの[2008年5月13日21時25分] はじめての出逢い それは父親に肩車されてのこと ガラスの向う側で 愛らしそうな顔して笹を食べていたっけ 何時でもいるのが当たり前 そんな存在でもあったような気がして パンダってまた来てくれるのかな そんなこと話してみたら 「中共のプロパガンダに踊らされるな」って あのひとに言われてしまった チュウキョウってなに? プロパンガスの間違いじゃないのかな フリーチベットとか難しいこと判らないけど パンダって野生なんだよね 一匹の雌を巡る争いのシーン テレビとかで観たことあるけど 食べることしか能が無いようなヘタレなんかじゃなくて なぜかビートたけしのこと思い浮かべたりした そのパンダ凶暴につき 愛ちゃんと笑顔でピンポンしてたけど 素直に喜べないのは何故だろう 聖火リレーの沿道を埋め尽くした 熱狂的な赤い旗に恐怖心さえ覚えてしまう それでもパンダがまた上野に来てくれたなら 小難しいこと抜きにして逢いに行きたいと思う 屁理屈並べて嫌がるあのひとと一緒に 出来ることならふたりの子供でも連れて たとえかりそめであったとしても 平和は平和 そんな感じで ---------------------------- [自由詩]五月のひと/恋月 ぴの[2008年5月19日19時49分] 好きとか嫌いとか そのような感情と同じ速度で 五月の空はわたしのこころを蝕んでゆく そして陽射しに揺れる葉桜が 散り行く先など知る縁も無いように 他者への憎しみを こころの襞奥に抱え込めば 何時しか憎しみはひとつの美しい球となる その球を慈しみながら 永遠と名付けられた限り在るものに 仄かな恋をしてしまう 触れて欲しいと願わずにはいられなくて 野に咲く花の名前など知るはずも無いのに 流れ行く雲と雲の狭間で 一枚の栞となった わたし自身の姿を水面に映してみる 乱雑に綴られた日記の片隅に 雨音が恋しいと あなたは書き残し 遠く離れてしまったからこそ 語り合えることがある そして 五月とはそのような季節であることを わたし達 誰ひとりとして歌おうとはしない ---------------------------- [自由詩]支えるひと/恋月 ぴの[2008年5月25日20時38分] 世の中には支えるひとと 支えられるひとがいる 支えるひとは暗い海に胸元まで浸かり 力の限り支え続け 次々と押し寄せる荒波に揉まれては やがて力尽き海の藻屑と消える 支え続ければ いつしか報われる日は訪れるのか 伝わらぬは世の常だと暗い海は繰り返す 荒波の砕け散る音 弔いの風音 何度も逃げだそうとした 先の見えぬ日々から 唇を噛み締める夜の虚しさから それでも気がつけば 名も知らぬ誰かを支えようとして 暗い海に胸元まで浸かり 両腕を伸ばし 足元を攫おうとする嘲りに耐えながら 海鳥は鳴く ---------------------------- [自由詩]支えられるひと/恋月 ぴの[2008年6月1日21時35分] 天涯孤独だからさ… それは、あなたの口ぐせ 帰るべき家があって 待っていてくれるひともいる それなのにどうしてそんなことを言うのだろう こころの空白を満たそうと 終わりの無い旅を続けているのか 愛するひとに支えられていることを 忘れてはいないはずなのに 静まり返った食卓に並ぶ料理には目もくれず 吸い指しの煙草に火をつけた 誰ひとり孤独に耐えられないくせして 孤独に焦がれ 破滅の時を誘い込むかのように 支えるひと 支えられるひと 何処までも擦れ違ったまま 愛するひとの待つ寝室のドアに手をかけようとして あなたは 小さく首を横に振り 六月の雨に濡れる夜の街へと消えていった ---------------------------- [自由詩]古いひと/恋月 ぴの[2008年6月7日23時05分] 両の人差し指でぱたぱた ニワトリが餌でも突いているようで 思わず吹き出しそうになるけど なにやら真剣に打ち込んでいる あなたの横顔 見方によっては男らしいとも言えそうで 古いやつだとお思いでしょうが… その台詞の続きって 古いやつこそ新しいものを欲しがる…でしょ その割にパソコンは年代物のMacだし Mac用フロッピーをどこへ隠したのだとか なんだか調子狂ってしまう もしかして手紙を打っているの? だったら手書きにしないと失礼だよ あなたは何も言わず 打ちあがったものをプリントアウトし出した 覗き込んだ手紙らしきものの宛名は 洋介って読めたような気がする 洋介… 別れた奥さんが引き取ったお子さんの名前だったよね 黄色いハンカチ期待して戻った田舎で 新しいお父さんにすっかり懐いた 洋介ちゃんの姿を見て 声もかけず帰ってきたって話しを聞いたのは お酒飲めないあなたが 強かにお酒を飲んだ夜のこと ちょうど三年前の今頃だったかな 洋介ちゃんは今年小学校に入ったんじゃないの ぴかぴかの一年生♪ ベランダに出てみれば 夜空は鬱陶しさを引き摺っていて いまにも降り出しそうな雰囲気だけど あなたは プリントアウトした手紙で折った紙飛行機 あの晩の月に向ってぷいっと投げた ---------------------------- [自由詩]メタボなひと/恋月 ぴの[2008年6月13日22時05分] 一念発起でもしたのか 寝ぼけ眼をこすりながらも 真新しいランニングシューズに足を通す ちょっと昔だったら 恰幅が良いともてはやされた下腹を揺すりながら 近所の公園に出かけていった そんなに暴飲暴食している訳じゃないし 肥満過ぎるって感じはしないけど ある種の脅迫観念ってことかな 痩せなければ失格者の烙印を押されてしまう そんな懸念があなたの背中を追い立てる それよりも こころのメタボを何とかしたいよね ぷよぷよになった感性では 捉えられないことがある すっきりさせようよ まずはパソコンのスイッチを落として 窓の向うに耳を澄ませてみる 何か聞こえてきたのかな お隣りさんの痴話喧嘩じゃ修行足らなくて 聞こえてきたでしょ ほら ね ---------------------------- [自由詩]守れなかったひと/恋月 ぴの[2008年6月18日20時20分] 自ら築いた家庭を守る そんな当たり前の事ができなかったのだと あのひとは言った 幸せそうな笑顔の傍らをすり抜けるとき 言い知れぬ悪寒を覚えるのだと あのひとは呻いた 家族のために自分を棄てられなかったのは 血脈の仕業で 我が子を思う親としての生き方なんて どだい無理な話だったんだと あのひとは言った たとえそれが単なる言い訳であったとしても 断ち切れてしまった家族の絆は 元に戻る事など有り得るはずも無く ふうらり浮き草家業は気楽なものさと 血走る足音に踏みつけられた一枚の馬券へ 手を伸ばそうとした刹那 拭っても拭いきれない手のひらの汚れに気づき 特別でもなんでもない どこにでも転がっていそうな人生だのにと あのひとは呟いた ---------------------------- [自由詩]孤独なひと/恋月 ぴの[2008年6月24日23時00分] 同じフロアの同じ間取り 南西向きの小さなワンルーム 好きなひとの去ったベッドに横たわり ひとりの男の死を想ってみる 駅前のスーパーで買い物を済ませ 近く有料になるとかのレジ袋をぶら下げ 都電荒川線の踏み切りを渡れば マンション前の道路にはただならぬ人だかり 好奇心の眼差しを押し退けるようにして 正面玄関にたどり着いてみれば わたしの部屋と同じフロアに消防車の梯子が伸び 数人の消防士がベランダ側の窓を叩き割ろうとしていた 火事にしては煙出ていないし わたしの部屋に入ろうとエレベーターを降りると 制服姿の警官と私服の刑事が数名 もしかして自殺なのかな ベランダの消防士は携帯で撮影してしまったけど 警察官の姿までは撮影はできなかった それでも秋葉原の事件で被害にあったひとを 携帯で撮影しまくったという群集心理が 少しだけ理解できた気がした やがて窓を叩き割った消防士が 玄関前で待機していた救急士を招き入れ ひとの形をした物体を担架に乗せ玄関から運び出す わたしは携帯で撮ることはしなかった 頭の先から爪先まで布で被われた 動こうとはしないもの 数日前までは確かに生きていたという痕跡を残し 硬直しきった遺体の突きつけてくるもの とりおり玄関の扉の隙間から ものものしさを残す部屋の方向を窺ってみれば 単なる事故なのかそれとも事件なのか 探り出そうとする白い手袋が蠢いていた 独身の中年男性だったらしい かなり以前から病気がちだったらしい 数日前から会社を無断欠勤していたらしい 死と言う現実さえも憶測の海に漂うばかりで 眠れぬままに携帯をいじっていると 窓を叩き割る消防士の姿 そして 撮っていないはずの担架で運ばれる遺体が写っていて それはわたし自身だったことに気づいてみせる ---------------------------- [自由詩]無人駅のひと/恋月 ぴの[2008年6月29日23時08分] (1) あなたにはじめて出逢ったのは この廃屋が未だ駅舎として機能していた頃のこと 夏草の浸食に怯える赤錆びた鉄路と 剥がれかけた青森ねぶた祭りのポスターが一枚 この駅を訪れるひとと言えば夏山登山の客か 写真家ぐらいなものなのに その何れでもない風体のあなたは 人目を避けるように待合室の古びた壁へ寄りかかり しきりに時刻表を気にしていた (2) どちらから話しかけたのだろう 実家から東京のアパートへ戻るわたしと 何故この駅を訪れることになったのかさえ語ろうとしないあなたに ほんの僅かな接点さえ有り得る筈は無かったのに いつの間にかあなたはわたしのアパートに転がり込んでいた ある種の感情の表現 例えば好きだとか愛しているとかの言葉が あなたの薄い唇から一度も発せられたことは無かった 冷たく光る瞳に映るのは 枕を濡らす情愛に溺れた女の痴態と 男の肩にしがみつこうとするわたしの白いうなじ (3) あなたが革労協の主要メンバーだと知ったのは ふたりで暮らしはじめて半年ぐらい経ってからだった ゼミの授業を終えてアパートへ戻ると 黒いヤッケにナップザック そして野球帽にマスクをした男達が数人 狭い四畳半に篭り一晩中何やら話し合っていた ときおり窓から向かいの路地裏を見下ろせば 公安の刑事らしき男達がわたしの部屋を見張っていて わたしの姿に気づいたのか 顔を隠すかのように咥え煙草をつま先でもみ消した (4) わたしにとって毎日が刺激的だった 地方の女子高から東京の大学へ出てきたものの 親しい友だちが出来た訳でも無く 大学と親が借りたアパートを往復する日々 何かしらの変化をわたしは求めていたのかも知れない 一晩泣き明かそうが朝になれば鏡に向かい化粧を整えるように 女は何かしらの変化を期待し続け そしてその変化のために恋の夢を紡ぎ出す (5) 刑事の聞き込みに慌てた両親に実家へ連れ戻されてから あなたと再び逢うことは叶わなかった 携帯電話とか便利なものがある時代では無かったし あなたからの手紙は総て破り捨てられてしまった 地元の男性と結婚して今では子供がふたり あの頃のわたしが求めていた変化 それを我が子に託すのが母となった女の定めなのだろうか (6) 温泉巡りを兼ねた夏山登山の帰りだったのか 定年退職を迎えた公安の刑事と道の駅で出会った 咥え煙草をもみ消したつま先からは未だに刑事特有の臭いがした その男が押し付けがましく語り出すあなたの最後 対立するセクトのメンバーに側頭部を鉄パイプで叩き割られ 即死状態だったあなたの手首に手錠をかけた薄汚れた掌 内ゲバで死ぬなんてなあ わたしの連れ子をあなたの忘れ形見と勘違いでもしているのか 嘲るような薄ら笑いを浮かべていた (7) ねぶた祭りのポスターの掲示してあった壁には 画鋲を差した痕跡ばかりが目立ち ひとの手の入らなくなった駅舎は今にも崩れ落ちそうで ひび割れたホームではセイタカアワダチソウが蒸し暑さに揺れている 見上げれば夏らしい雲が梅雨明けの空に浮び あなたの知らない男との子供がわたしを呼んでいて ひとつの夢の終わりにあなたの好きな向日葵を一輪手向けた ---------------------------- [自由詩]お隣りのひと/恋月 ぴの[2008年7月6日22時45分] (?) 久しぶりのドライブは仲直りのしるし お正月に学生さんの駆け登る急坂をアクセル吹かしながら ふたりを乗せたクルマは芦ノ湖畔を目指す 車内にチェックを入れてみても 知らないおんなのひとの気配は感じられず まあとりあえず良しってところかな 最高地点手前の直線道路はジェットコースターのようで この峠道をひとの脚力だけで駆け抜けるなんて信じられなくて 下り始めると夏の湖畔はもうすぐそこで 一雨恋しいと深い緑は焼ける陽射しにじっと耐えていた (?) 搭乗を促すアナウンスも賑やかに 観光船乗り場には大勢の人たちが繰り出していて 記念写真とか思い思いに楽しんでいる どこの国の言葉なんだろう 地方からの観光客と思っていたら大きな間違いで 聞きなれない言葉があちこち飛び交っていた 「どうせ、あいつら中国人だろ こんな山のなかでもみゃあみゃあ言いやがって」 みゃあみゃあ…それも可愛いけど (?) 芦ノ湖畔の箱根園からロープウエイに乗ってみた 海抜一千メートル超の駒ケ岳山頂へ近付くにつれて 箱庭みたいな箱根の全景が眼下に広がってくる あなた中華料理好きだったよね ラーメン チャーハン 焼き餃子にマーボ豆腐 それから横浜の中華街で肉まん美味しいって言ってたけど あまりに近すぎて 見た目も似ているから妙な嫌悪感覚えてしまうのかな 駒ケ岳頂上の箱根元宮神社 秋になると平和祈願祭が斎行されるらしいから 小さな声で祈ってみた 何をって それは内緒の内緒にして欲しい (?) 明晩は七夕だったよね このところ好天に恵まれず天の川眺めることできないけど あの織女と牽牛の伝説って中国から伝わったらしくて 一年に一度しか逢えない おとことおんなの仲に限らず それぐらいの距離あれば良かったりするけど 理性ではどうすることもできない感情が お隣りさん同士を引き裂いてしまう それは近親相姦を忌避しようとする潜在意識にも似て 避けがたいってことぐらい判っているつもりでも 「みゃあみゃあ言うの聞いてたら なんだか中華料理食べたくなってきた」 相変わらずあなたは訳の判らないことばかり言っていて 気がつけば山並みの向う側から湿った風吹き抜けて 真っ黒な夕立雲もくもくと わたし達の頭上に拡がってきた 雨降って地固まるってことばもあるし いつかはきっと…だと嬉しくて わたしまで中華料理食べたくなった ---------------------------- [自由詩]ホコテンのひと/恋月 ぴの[2008年7月10日12時25分] みんな大好き! と叫んだアイドルがいた その場の誰もが 「みんな」には自分も含まれている と信じようとして アイドルの名前を大声で叫んでみたりする 「みんな」 そして「わたしたち」 それらの意味を今さら探ったところで 何になると言うのだろう 「わたしたち」ということばは絶えて久しいのだから ホコテンに集ったひとびとは 常に「個のわたし」の集合体でしかなく 「みんな」ということばの生み出す状況に寄り添いながら 終わりの無い孤独感を紛らわそうとする あの事件のせいでホコテンがひとつ無くなって 中央通りの狭い歩道を行き交う人々は いからせる肩に当った他人の痛みなど思いやろうともせず フィギュアの性器へ差し入れた人差し指の感触に妄想を膨らませて みんな大嫌い! と叫ぶひとりの男がいた その場の誰もが 「みんな」に自分は含まれているのかなんて 疑問を差し挟むはずもなく 昔は竹の子族だったという万世橋交差点付近から 日は昇り ゲルマニウムラジオのダイヤルを回す ---------------------------- [自由詩]iなひと/恋月 ぴの[2008年7月17日23時45分] * 1 愛無しには生きられない わたしは本気でそう思っていた * 2 あの水着もそうなんだけど これもなんだよね 目新しさは常に外側からやってくる そんな時代になったことを 思い知らされた日に 指先で踊るパズルはふたりの思い出 懐かしさに立ち止まろうとしても 許されることでは無く 雨戸を閉ざした母屋の軒先で ビードロの風鈴 ちりりりんと風に揺れた * 3 目に見えるものだけを信じる そうすれば ひとは愛無しでも生きていけるのだから あなたはそんな言葉を残して ひと夏の記憶となり わたしの心は人肌の優しさを忘れ得ずに ざくろの花は 愛するひとの想いに染まり 秋になると熟れた果肉を庭先に曝す * 4 だとするならば 心を通わすことへの戸惑いは ひとを愛した証しだと ビードロの風鈴 ちりりりんと風に揺れた ---------------------------- [自由詩]遠ざかるひと/恋月 ぴの[2008年7月23日22時11分] (1) 明日と言う日の訪れを恐れるときがある 気を紛らわすことさえままならず 早々に床についたとしても 考えるのは埒のあかないことばかりで 苦し紛れの寝返りを打てば 人の気も知らず目覚し時計は時を刻む そして寝付けぬままに朝を迎えれば 何一つ変わること無く 今日という日がただそこに在る あれほど思い悩んだ明日と言う日は わたしを突き放したような素振りを見せて 熱帯夜の向う側へ遠のいてしまう (2) 縁日で買ってもらった狐のお面が 外れなくなった夢を見た この子をサーカスに売ってしまおうかと 話し合うひそひそ声に聞き耳を立て サーカスに売られるとはどんなことかと思い巡らす 紅白のピエロの服を着せられて 旅から旅への日々 背負う行李に 外れぬままのお面の下でくやし涙を流したり 旅先で出逢う心優しい少女の横顔に 生き別れた妹の姿を宿し 望む夜空にふたり遊んだ小川のせせらぎを聴く (3) 雲一つ無い青空に照りつける夏の陽射し 影法師さえもその姿を隠し 街路樹はただひたすらと耐え忍ぶばかりで 無機質に焼けた歩道に 男がひとり こちらへ背を向け佇んでいた その男の肩に手をかけようとして 狐のお面を被った男の行方を尋ねようとして わたしは陽炎の立ち昇る歩道を走った 息を切らし 噴出す汗を拭おうともせずに (4) あまりの寝苦しさに目を覚ます 相変わらず狐のお面は取れぬままで 今しがたまで見ていた夢を想う わたしに良く似た男が走り寄ってくる 肩に手をかけようとして 狐のお面に気付き驚愕の眼差しを向けた ぜえぜえと荒い息を吐き 噴出す汗を拭おうともせず凍て付いたままの男 そして紅白のピエロの服を着た男 ---------------------------- [自由詩]消費されるひと/恋月 ぴの[2008年7月30日18時57分] (1) 掛け声と干物の臭いに押し流されるようにして 昼下がりの賑やかさに身を委ねてみる 所狭しと商品の並んだ店先を覗けば 一見かと値踏みする手練の客あしらいに 思わず半歩後ろへ下がりつつ 心細い財布の紐を殊更に締め上げてしまう それでも 煩わしい孤独感とは無縁の世界がここに在る その他大勢に紛れる安逸さと 割り箸に串刺したパイナップルの甘酸っぱさ そしてアメ屋横丁をガード沿いに歩めば 二木の菓子と徳大寺の境内を右手に見やり やがて春日通りに突き当たる (2) 小高い丘の美術館にその絵画は展示されていた 芸術としての尊厳を些かも損なう事無く 空調の整った展示室の良く目立つ位置に飾られていた 昨今の美術ブームとやらの影響なのか 善男男女の行列は途切れる事無く 一端の鑑賞家にでもなった気で連れに解説したり 絵筆のタッチに画家の意思を探ろうとする そんな一枚の絵画と人々の関わり様を 私はスツールに腰掛け眺めていた 数世紀もの時空を越え 描かれたばかりの鮮やかさで息づく一枚の絵画 そしてその絵画を優れた芸術として鑑賞し 対話を試みようとする人々 たとえ対話が不調に終わったとしても 試みようとした意志は一枚の絵画に生を注ぎ 鑑賞の眼差しはカンバスの裏側まで捉えようとする (3) 再開発から取り残されたような一角に その飲み屋はある 「縄のれんには演歌が良く似合う」 そんな定説を覆そうとでもしているのか 軒先のスピーカーから弾き出される大音量のバップ 安酒と黒褐色の腕が叩き出すフォービートのうねり ジャズとは小難しく向かい合うものでは無く 日没を待ちきれぬ赤ら顔にこそ似合うのかも知れない 至上の愛の旋律が備長炭の煙を震わせ 客が客でいられる最低限のつまみと一杯のひや酒 先ほどの美術館とは直線距離にして数キロと離れぬ場所で 安酒の酔いに身を任せた私がいる 「どこでどう間違えてしまったのだろう」 そんな疑問を差し挟む余地など無い現実があり そして 心を再び侵しはじめた孤独感から逃れようとして なけなしの財布から無明の酒に手を伸ばす ---------------------------- [自由詩]働くひと/恋月 ぴの[2008年8月6日19時01分] 今日も一日誰とも話さずに終わってしまう 仕事柄何十本もの電話をこなし お昼には職場の友だちとランチなんかしたけど それで誰かと話したってことにはならない パソコンの電源落として 机のまわりとか整理整頓して タイムカードには定時退社の時刻が並ぶ わたしがこの会社に入ったときには すでに制服は無くなっていた 無い方が良いってひともいたりするけど おしゃれな制服って憧れるし オンオフの切り替えできないままに 漫然と一日を過ごしてしまうような気がする そう言えば職業婦人なんてことばあったよね らいてうさんの新婦人協会とかのにおいがすることば 新しい女のあり方を模索したとかで 何だか進歩的な雰囲気あるけど どうもぴんと来なくて 女の自立って制服のある無しよりも大切なのかな らいてうさん達の活動があってこそ わたし達の今がある そう思ってみたい気もするけど あちこちのビルから出てくる ひとの流れに逆らうことなんか出来なくて ビッグイシューをかかげる帽子のおじさんの脇をすり抜け 東京駅丸の内北口への交差点を渡った ---------------------------- [自由詩]捻くるひと/恋月 ぴの[2008年8月12日11時03分] 人間すなおじゃないとね と あのひとは言った あなただって… と 言い返そうとして こ としはまだ蝉の鳴き声を聞いていないことに気付いた あのガード下へ行けば 聞く ことできるのかな 薄暗くて罅割れた壁面から地下水 滴り 落ちてぽとり ぼとり と そんな湿った気配のなかで 蝉 ナイテイル 蝉ってさ未通女の危うい恋心 が 好きなのさ ガード下を抜けたところで は ひとりのおじさんが缶を潰していた あちこちから拾い集めてきた空き缶を が しがし叩いていた 人生って 一 度は誰でもぺちゃんこになるんだよ だとしたら ひんやりとした棺のなかで悲嘆と献花に埋もれて み たい気がして 夏の陽射しは眩しすぎると 蝉 ナイテイタ ---------------------------- [自由詩]頑張ってのひと/恋月 ぴの[2008年8月16日17時47分] 「頑張って!」 と思わず口に出してしまう それは頑張っている他者への共感であり ふりかかる火の粉を払おうとする ある種の逃げ口上とも言い得て 決して自分の事ではないのだから 「それじゃぁね」 それぐらいの軽妙さを保ちつつ いつも応援しているからと ファイティングポーズでおどけてみせた ことばの無力ってことを覚えても 四年に一度の季節だから 突き進むひたむきさに心打たれ そして あくまでも他人事の気軽さで 「頑張って!」 身を乗り出して叫んでしまう私がいる ---------------------------- [自由詩]乾いたひと/恋月 ぴの[2008年8月22日20時25分] 永遠に交わらぬはずの者同士が 交わろうとする 水と油 そんな感じで 高温にまで熱せられた油は 邪険にも寄せる思いを弾き飛ばして ふつふつと 行き場の無い怒りに震えている 誰が悪いって? わたしなの? 満たされることの無い乾き 苦しくなるほどに抱きしめあって 求め合って あなたの息遣いを奥深く受け入れたはずなのに わたしの身体は乾いている 乾ききってしまっている あなたに殴られた頬の痛み 殴っても 殴られても 何かを満たすことなんてありえないのに あなたの固い拳と わたしの腫れあがった左頬 神田川に 幸せだったあの頃を捜し求めてみた 面影橋から望む黒い流れは あまりにもそっけなく 見られまいと頬を隠した袖口の解れに 涙まで失ってしまったことを知る ---------------------------- [自由詩]考えるひと/恋月 ぴの[2008年8月29日21時35分] ねえねえと肩を揺すっても 寝たふりしてたはずの あいつは いつの間にか深い眠りに落ちていて 久しぶりに触れ合いたかったのに わたしのこころは ちょびっと傷ついてしまった それでも癒せないほどではなくて 背中合わせに丸くなったら 友だちと出かける小旅行に思いを馳せてみる わたしの横で歯ぎしりしているひとよりも ずうっと付き合いの長い おんな友だちと出かける温泉旅行 相模湾を望む素敵なお部屋と 食べきれないほどテーブルに並ぶ海鮮料理 愛するひとと触れ合う 肌と肌を重ねあう 子供は作らないって約束してるので 子孫繁栄って訳じゃない お互いを知り尽くしたふたりだから 今さら興味本位なんてことも有りえない 何のために触れ合うのかな どうして触れ合いたくなるのかな 友だちが選んだエステ付きのパック旅行 すべすべになった頬を突き合い 露天風呂を堪能したなら ぱりっと糊の利いた浴衣に袖を通してみる やっぱビールでしょ きゅんと冷えたビールでまずは乾杯なんかして 近況とか報告しあいながら 空いたビール瓶がテーブルに並びだす おんなふたり酔いが回るにつれ ここだけの話しだからを連発しあって 酔い覚ましに開けた窓からは 初秋らしい涼しさが頬の赤さを癒してくれる あっちの方とかはどうなの あっちねえ ご無沙汰同士ってところかな 踊り子になった気分で天城峠越えてみようか 何だか出会いあるかもよ 手すりのついたベランダに出てみれば 遠く漁火が瞬いていて どこか遠くへ行ってしまいたくなるけど あいつおとなしく寝ているのかな 疲れたと寝たふりが得意で 歯ぎしりがやけにうざったいくせして 不思議と触れ合いたくなるあいつのことが気になった ---------------------------- [自由詩]ゲリラなひと/恋月 ぴの[2008年9月5日21時27分] 湯船に浸かり うつらうつらしていたら 突然誰かが部屋に入ってきた気配を感じ バスタオル胸元に巻いて飛び出すと 消したはずのルームライトに薫る わたしの大好きな秋桜のアレンジメントに 添えられたメッセージカード 今夜は来ないって言ってたのにね 立ったままで解読してみる ヒッタイトの象形文字にも似た金釘文字 キ・ミ・ノ・ヒ・ト・ミ・ニ・カ・ン・パ・イ ついでにって感じで アイシテル! 「総ては突然はじまり 突然終わる そしてそれらはチェ・ゲバラのゲリラ戦のように 巧妙に仕組まれているのだ」 あのひとがそんなこと言っていたの思い出した 確かに突然かかってくる電話だって かける方にはそれなりの動機とかある訳だし レースのカーテン越しに遠雷とどろくと 鉛色の雲の動き忙しくて 突然降りはじめた雨音はアスファルトに弾け飛ぶ こんな突然さえも仕組まれているのかな だとしたら誰が仕組んだのだろう あのひとの部屋に飾ってある ウォーホルのチェ・ゲバラ 未来を射抜くまでに眼光鋭くて 巡りゆく存在のあり方に思いはせてみた ---------------------------- [自由詩]ひよこなひと/恋月 ぴの[2008年9月12日21時38分] 玉子の親じゃ、ぴよこちゃんじゃ、ぴっぴっぴよこちゃんじゃ、アヒルじゃぐぁーぐぁー。 (一) 「兄ちゃん、コイツをくんねぇ」 カーバイトランプに照らされた みかん箱のなかで ぴよぴよと行く末を案じ 心細げに鳴いていた黄色い群れのなかから おいちゃんは ひょいとおいらを掴みだした おいちゃんの掌は 根っからの職人らしく それでいて優しさに満ちていた (二) おいちゃんの家は台東区根岸にあって 代々通底器を作ってきた 仕事場の奥には 磨き上げられた通底器 真鍮板を叩いて成形した曲線は まるで人肌のように滑らかで どこからともなく唸り声にも似た音がして おいらの鼓膜を揺さぶった (三) 縁日で売られていたおいらを おいちゃんは 家族と分け隔てなく育ててくれた ひよこのくせして卵焼きの大好きなおいらのために ほくほくの厚焼き玉子を作ってくれた 「うめぇかい」 卵焼きにぱくつく おいらの姿に満足げな笑顔をみせていた (四) 「どうでぃやってみるか」 おいちゃんはそう問いかけてくれた 見よう見まねの職人修行 とんとん木槌で真鍮板を叩いては 恐る恐る差し出してみても 「まだまだひよっこだぁ」 おいらに背を向けたまま 人肌とは程遠い出来の真鍮板をつっかえした (五) 「石の上にも三年って言うじゃねぇか」 とある超現実主義者から注文のあった通底器 大切な仕事をおいらに任せてくれた その日から仕事場に篭り 精魂込めて真鍮板と向かい合った 血豆がつぶれようと 寝る間も惜しんで真鍮板をとんとん叩いた ひよこだって ひよこだって おいらは心のなかで何度も叫んだ (六) 新宿二丁目に会員制バー「ナジャ」は在る カウンターだけの小さな店 開店に向けて 氷屋から仕入れたオンザロック用の氷を砕く 昨夜は久しぶりにおいちゃんの夢を見た 「涅槃で待っているから」 相変わらずおいらに背を向けたまま 夢の中で優しい言葉を囁いてくれた気がした (七) 有頂天になりすぎていたようだった 精魂込めて作り上げた通底器 超現実主義者達の間で一躍評判になった 一点の曇りもなく叩き上げた真鍮の作り出す曲線を ジョセフィーヌの柔肌のようだと褒め称えた やがて海外からも注文が舞い込むようになり 一人前の通底器職人になったと勘違いしてしまった そんなある日 おいちゃんと些細な事で口喧嘩してしまい 売り言葉に買い言葉 「ひよこはひよこでも 醜いあひるの子ぢゃねぇか」 おいちゃんの怒鳴り声に おいらは根岸の家を飛び出してしまった (八) 「ぴーちゃん寂しくないのぉ おいちゃんのお葬式にも行けなかったしぃ」 まーちゃんが擦り寄ってきながら 酒臭い顔を押し付けてきた 他の店から流れてきたお客で 「ナジャ」はそこそこの賑わいを見せている 「この店自体が通底器だから」 そんなおいらの言葉に 「ぴーちゃん、通底…って何よぉ」 しなを作りながら問いかけてきたけど それ以上は気にするでも無く まーちゃんは何杯目かの水割りに手を伸ばした (九) ちょっとした更衣スペースの奥には 小さな仏壇 線香の香りは疲れきった心を癒し お供え物にはおいちゃんの大好きな剣菱と あの懐かしい厚焼き玉子 「これから会いに行くからね」 午前四時 唸り声にも似た音がする通底器に身を投げた ---------------------------- (ファイルの終わり)