一輪車のおすすめリスト 2020年9月30日3時44分から2021年1月24日14時00分まで ---------------------------- [自由詩]獅子の町/田中修子[2020年9月30日3時44分] けだものだったころが、もうあんなに遠く 淡い水色を地に、薄紅色の薔薇柄の薄いカーテンが 夏の終わりの風に パタパタ揺らめいていて ベージュのソファがあり 包帯 外の桜の木の緑が、盛りだけれど赤く燃え上がっていくのが 淡い瞼の、うすうい虹色のスパングルの きらめきが満ちている沼のなかに 滑り込んでいくように 鱗になって皮膚に纏わりつき あらゆるものを閉じて、血が止まるから もっとつよく 太古の魚に変化する前に 脚を蹴ることができる 心底に辿り着き 町だ 春でもないのに蓮華の花が降りそそぎ、落ちては地に綯いまじり 塩山を繰りぬいて、ランプを灯している盆地の町だ 星の街灯が立ち並んでいるでしょう 青い夕暮れになると、塩の結晶に橙の炎が反射して、窓や扉から光が漏れ出て 大広場ではチュチュを身にまとった若いバレリーナたちが五人 楽隊を後ろに 軽やかに トトトトトッ つま先で走り 高く飛び 着地に失敗し、骨折の音が響きわたる バレリーナは体をおりこみ丸まって動かない トゥ・シューズのリボンは 細い突風にほどけて何枚もにばらけて やわらかに、お別れの船のリボンのように 絡まって ほかの四人をくくっていく 四肢がそうっと 引き裂かれ 澄んだ塩になって崩れて 溶けていった 美しい結晶 幾人かの町人が拍手を送った たった一人の旅人は その幻惑の舞台に ため息をつき 瓶の琥珀色の液体を煽って それは 蜂蜜 町人は待ち人で、永遠に到着を待っていて 淡い薔薇柄の布をまとわりつかせながら けだものが町を走り抜けた あとには空っぽの瓶がころがっている ---------------------------- [自由詩]庭園/よしおかさくら[2020年9月30日12時59分] 何かが破損している意思の 立て石を滑る力よ 牛の乳を絞る動きと同じに枝豆弾けて 膝は高らかに笑い 崩れ落ち 寂しさとも心細さとも違う 薄っぺらな心で 振り子の反動でしか動けず 何処へ行こうと泣く 頭から片時も離れない歌の如く 誰かの心をひたすらに占めたい 柔らかい 木漏れ日を浴びて眠れ ---------------------------- [自由詩]フェルナンドへ/一般詩人-[2020年10月1日2時19分] なにか大仰なことを話すつもりはなくて ただあなたとなら友達になれるかなと思っただけで あなたが話してくれたことは本当だ ぼくの周りにはドーナツ型のカラーパレットみたいなものがあって 生きるにあたってぼくはハエトリグモみたいにぴょんぴょんと飛び跳ねながら 日々そのうちのいずれかの色を選んでいる 前向きに生きたいときは正面にある赤いパレットに乗るし 人と仲良くなりたいときは斜め後ろにある緑色のパレットに乗る でもあなたは見抜いている 自分というものはそのドーナツの輪の真ん中の空隙だということを ぼくの色がカメレオンみたいに変わることにみんなが困惑している ぼくも困惑していた でもあなたはぼくが誰でもないと 秋晴れみたいに涼しい顔で伝えてくれた あなたは必要だからそこにいた 誰でもない誰かとして ぼくもそうだ それではまた ---------------------------- [自由詩]秋はかなしい、なんてったって/印あかり[2020年10月3日9時33分] 金木犀が、香ってかなしい 手折って、帰ってきて、グラスに飾って、香ってかなしい ゴミ箱の中から、香ってかなしい ゴミ出しをしていたら、金木犀が、香ってかなしい 手折って、帰ってきて、グラスに飾って、香って えーーーーーん えんえんえんえん ---------------------------- [自由詩]日々の連続性は物語の形をとって意味となる(おさなごへの答え)/につき[2020年10月10日23時34分] 東の空に陽が昇り 小鳥が鳴き騒ぐという 小さな物語を知ったとき 「鳥の朝」という意味が生まれ…… 中天に陽があって 猫が居眠りをするいう 呑気な物語を知ったとき 「眠る猫」という意味が生まれ…… 夕暮れの赤い空に 赤とんぼが数限りなく舞うという 切ないような物語を知ったとき 「秋の赤いろ」という意味が生まれ…… 物語たちは意味を生み続ける 意味たちはおさなごに教える 日々の連続する意味を いつか おさなごたちは少し大きくなり 生き続けるという物語を知る それはいつか誰かの物語が 終わることを知ること こどもたちは 残される意味を探すだろう 始まりをまだ覚えているうちに ---------------------------- [自由詩]スパーク/梅昆布茶[2020年10月18日22時15分] 互いにスパークする宇宙で起きた出来事があり 誰も入り込めない花園の君がいていつか僕は叙情になる 面倒くさい真実ばかりがまかり通って 優しい嘘はにぎりつぶされて疑問ばかりが生き残る レノンの夢は皆に引き継がれてパンキッシュな歌が 普通に流れている街が嫌いではないが棲めないでしょう 僕は彼女の言うように毛布を下にして寝ているが 渋谷のように再開発されすぎた夢のような未来が待っているとは ちっとも思ってはいない 死にかけた道玄坂にバイクをとめて 今はない伝説のロック喫茶にウヰスキーのこびんを 忍ばせて通うのが大好きだった時代 僕の妻がいいお尻だなんて ついつい言ってしまうお世辞だが 真夜中をぶっとばしてしまうほど 僕は真剣に生きてきただろうか 誰からも愛されないほどに 真実を語ってきたのだろうか ---------------------------- [自由詩]はなうらら/田中修子[2020年11月8日4時10分] 夜風 白銀色の月光り かじかむ指先の、爪に落ちて、ちいさく照らし返す 甘い潮の香 はなうら 花占 花占ら 月明りの浜辺に咲き 揺れている花々を 一本一本摘んでは花びら千切り 時を湛える浦いっぱい うずもれるほど 白の花びら揺蕩っている 白鳥の羽に違えるほどの 飛び立ちそうな  死のっかな 生きるって でたよ  笑おっかな 泣こっかな わかんなくってさ 分岐点の連続 石けっぽってさ 痛くってさ うまれた真珠の浜に来て 指折るように 花びら千切り もうこんな 「うまれる」って決めたんだっけ かすかに忘れ物のにおいがしたんだ 浦が花びらであふれ返ったときに 私の息は静かになります 青い蝶や銀の蝶やが泳いでいるよ。海のした ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一四年六月一日─三十一日/田中宏輔[2020年11月11日14時55分] 二〇一四年六月一日 「偶然」  あさ、仕事に行くために駅に向かう途中、目の隅で、何か動くものがあった。歩く速さを落として目をやると、飲食店の店先で、電信柱の横に廃棄されたゴミ袋の、結ばれていたはずの結び目がゆっくりとほどけていくところだった。思わず、ぼくは足をとめた。  手が現われ、頭が現われ、肩が現われ、偶然が姿をすっかり現わしたのだった。偶然も齢をとったのだろう。ぼくが疲れた中年男になったように、偶然のほうでも疲れた偶然になったのだろう。若いころに出合った偶然は、ぼくのほうから気がつくやいなや、たちまち姿を消すことがあったのだから。いまでは、偶然のほうが、ぼくが気がつかないうちに、ぼくに目をとめていて、ぼくのことをじっくりと眺めていることさえあるのだった。  齢をとっていいことの一つに、ぼくが偶然をじっくりと見つめることができるように、偶然のほうでも、ぼくの目にとまりやすいように、足をとめてしばらく動かずにいてくれるようになったことがあげられる。 二〇一四年六月二日 「魂」 心音が途絶え 父の身体が浮き上がっていった。 いや、もう身体とは言えない。 遺体なのだ。 人間は死ぬと 魂と肉体が分離して 死んだ肉体が重さを失い 宙に浮かんで天国に行くのである。 病室の窓が開けられた。 仰向けになった父の死体が 窓から外に出ていき ゆっくりと漂いながら上昇していった。 魂の縛めを解かれて、父の肉体が昇っていく。 だんだんちいさくなっていく父の姿を見上げながら ぼくは後ろから母の肩をぎゅっと抱いた。 点のようにまでなり、もう何も見えなくなると ベッドのほうを見下ろした。 布団の上に汚らしいしみをつくって ぬらぬらとしている父の魂を 看護婦が手袋をした手でつまみあげると それをビニール袋の中に入れ 袋の口をきつくしばって 病室の隅に置いてある屑入れの中に入れた。 ぼくと母は、父の魂が入った屑入れを一瞥した。 肉体から離れた魂は、 すぐに腐臭を放って崩れていくのだった。 天国に昇っていく きれいになった父の肉体を頭に思い描きながら 看護婦の後ろからついていくようにして、 ぼくは、母といっしょに病室を出た。 二〇一四年六月三日 「Oを●にする」  ●K、のようにOを●にしてみる。 B●●K D●G G●D B●Y C●●K L●●K T●UCH G●●D J●Y C●●L ●UT S●UL Z●● T●Y 1●● + 1●● = 2●●●● 3●●●● − 1●● = 2●● なんていうのも、見た目が、きれいかもしれない。 まだまだできそうだね、かわいいのが。 L●VE L●NG H●T N● S●METHING W●RST B●X 二〇一四年六月四日 「影」 仕事から帰る途中、坂道を歩いて下りていると、 後ろから男女の学生カップルの笑いをまじえた 楽しそうな話し声が聞こえてきた。 彼らの若い声が近づいてきた。 彼らの影が、ぼくの足もとにきた。 彼らの影は、はねるようにして、 いかにも楽しそうだった。 ぼくは、彼らの影が、 つねに自分の目の前にくるように 歩調を合わせて歩いた。 彼らは、その影までもが若かった。 ぼくの影は、いかにも疲れた中年男の影だった。 二人は、これから楽しい時間を持つのだろう。 しかし、ぼくは?  ぼくは一人、部屋で読書の時間を持つのだろう。 もはや、驚きも少し、喜びも少しになった読書の時間を。 それも悪くはない。けっして悪くはない。 けれど、一人というのは、なぜか堪えた。 そうだ、帰りに、いつもの居酒屋に行こう。 日知庵にいる、えいちゃんの顔と声が思い出された。 ただ、とりとめのない会話を交わすだけだけど。 ぼくは横にのいて、若い二人の影から離れた。 二〇一四年六月五日 「循環小数」  微熱する交番でナオコを直していると、学生服を着た自転車が突っ込んできた。驚いて目を覚ますと、「うつくしいひととき。」とナオコがつぶやいた。「カフェで、こうしていっしょにいることが?」と言うと、「おれの見間違いかな。」とナオコ。微熱する交番でナオコを直していると、学生服を着た自転車が突っ込んできた。驚いて目を覚ますと、「うつくしいひととき。」とナオコがつぶやいた。「カフェで、こうしていっしょにいることが?」と言うと、「おれの見間違いかな。」とナオコ。微熱する交番でナオコを直していると、学生服を着た自転車が突っ込んできた。驚いて目を覚ますと、「うつくしいひととき。」とナオコがつぶやいた。「カフェで、こうしていっしょにいることが?」と言うと、「おれの見間違いかな。」とナオコ。微熱する交番でナオコを直していると、学生服を着た自転車が突っ込んできた。驚いて目を覚ますと、「うつくしいひととき。」とナオコがつぶやいた。「カフェで、こうしていっしょにいることが?」と言うと、「おれの見間違いかな。」とナオコ。微熱する交番でナオコを直していると、学生服を着た自転車が突っ込んできた。驚いて目を覚ますと、「うつくしいひととき。」とナオコがつぶやいた。「カフェで、こうしていっしょにいることが?」と言うと、「おれの見間違いかな。」とナオコ。微熱する交番でナオコを直していると、学生服を着た自転車が突っ込んできた。驚いて目を覚ますと、「うつくしいひととき。」とナオコがつぶやいた。「カフェで、こうしていっしょにいることが?」と言うと、「おれの見間違いかな。」とナオコ。微熱する交番でナオコを直していると、学生服を着た自転車が突っ込んできた。驚いて目を覚ますと、「うつくしいひととき。」とナオコがつぶやいた。「カフェで、こうしていっしょにいることが?」と言うと、「おれの見間違いかな。」とナオコ。…… 二〇一四年六月六日 「LGBTIQの詩人の英詩翻訳」 Sophie Mayer David’s First Drafts: Jonathan Fuck you, Jonathan. You abandoned me. What was it you said? Oh yes: our love is too beautiful for this world. Fuck you. Nothing, Jonathan, nothing is too beautiful for this stupid, unruly world and don’t roll your eyes and ask if I’m alive to the ambiguity. I’m the poet-king and nothing, beautiful Jonathan, nothing is more beautiful in my eyes than you, so I cling, I cling with my filthy bitten fingernails to your non-existence, beautiful filthy bitten sight ─ Jonathan ─ seen everywhere in the nowhere that passes the ark as it passes. I’m the drunken filthy poet-king, Jonathan, that Plato saw in nightmares dancing naked in this gaping, ragged hole that is power. I’m naked without you, not a poem but a king Jonathan, that is power and I hate it. Tell me how he did it, your father, and why I wanted it more than I wanted you, my king-poem, my Jonathan. ソフィ・メイヤー ダビデの第一草稿 『ヨナタン』 ファック・ユー、ヨナタン、おまえってやつは おれのことを見捨てて行きやがって。 おまえは、何て言った? ええ、こう言ったんだぞ、 「ぼくたちの愛は、この世界にあっては 美しすぎるものなんだよ」ってな、ファック・ユー。 何もないんだぜ、ヨナタン、何もないんだ 美しすぎるものなんてものは このバカげた、くだらない世界にはな。 しっかり見ろやい、おまえ。 この言葉の両義性を、おれが ちゃんとわきまえてるのかどうかなんて訊くなよ。 おれは詩人の王で、それ以外の何者でもないんだからな。 おお、美しいヨナタンよ、おれの目にはな おまえより美しいものなんてものは、何もないんだぜ。 それで、おれは、おまえがいないんで おれは、おれの汚い指の爪をカジカジ噛んじまうんだ。 ヨナタンよ、 目に見える汚らしいボロボロの景色ってのは どこにでもあってな というのも、箱舟がそばを通り過ぎるときにはな 箱舟のそばを通り過ぎないところなんてものは どこにもなくってな おれは酔っぱらいの汚らしい詩人の王なんだぜ、 ヨナタンよ、 プラトンが悪夢のなかで見たこと 裸で踊りながらな このぱっくり口を開いたデコボコの穴のなかでな そいつが力なんだ。 おれは、おまえがいなけりゃ、ただの裸の男だ、 詩じゃないぞ、ただの王なんだ。 ヨナタンよ、そいつが力というもので おれは、そいつを憎んでる。 おまえの父親が、そいつをどういうふうに扱ったか、 おれに言ってみてくれ。 そして、なんで、おれが、 おまえに求めた以上のことを、 おれがそいつに求めたのか、言ってくれ。 おれの王たる詩よ、ヨナタンよ。 訳注 David ダビデ(Saul に次いで Israel 第2代の王。羊飼いであった少年のころペリシテ族の巨人 Goliath を退治した話で有名。のち有能な統治者としてまたすぐれた詩人としてヘブライ民族の偉大な英雄となった:旧約聖書の詩篇(the Psalms)の大部分は彼の作として伝えられている:その子は有名な Solomon)。(『カレッジ・クラウン英和辞典』より) David and Jonatan 互いに自分の命のように愛し合った友人(Damon と Pythias の友情とともに古来親友の手本として伝えられている:Jonathan は Saul の子。→1. Sam. 18.20)。(『カレッジ・クラウン英和辞典』より) 著者について Sophie Mayer : ソフィ・メイヤーは、イギリスのロンドンを拠点に活動している作家であり、編集者であり、教育者である。彼女は、二冊の選集、The Private Parts of Girls (Salt, 2011)とHer Various Scalpels (Shearsman, 2009)と、一冊の批評書、The Cinema of Sally Potter: A Politics of Love (Wallflower, 2009)の著者である。彼女は、LGBTQ arts magazine Chroma: A Queer Literary Journal (http://chromajournal.co.uk )の委託編集者である。 Translation from ‘collective BRIGHTNESS’edited by Kevin Simmonds http://www.collectivebrightness.com/ 二〇一四年六月七日 「言葉」  一人の人間が言葉について学べるのも、せいぜい百年にも満たない期間である。一方、一つの言葉が人間について学べる期間は、数千年以上もあった。人間が言葉から学ぶよりも、ずっとじょうずに言葉は人間から学ぶ。人間は言葉について、すべてのことを知らない。言葉は人間について、すべてのことを知っている。  たとえどんなに偉大な詩人や作家でも、一つの言葉よりも文学に貢献しているなどということはありえない。どんなにすぐれた詩人や作家よりも、ただ一つの言葉のほうが大いなる可能性を持っているのである。一人の詩人や作家には寿命があり、才能の発揮できる時間が限られているからである。たとえどのような言葉であっても、自分の時間を無限に持っているのである。 二〇一四年六月八日 「セックス」  ぼくの理想は、言葉と直接セックスすることである。言葉とのセックスで、いちばん頭を使うのは、体位のことである。 二〇一四年六月九日 「フェラチオ」  二人の青年を好きだなって思っていたのだけれど、その二人の青年が同一人物だと、きょうわかって、びっくりした。数か月に一度くらいしか会っていなかったからかもしれないけれど、髪形がぜんぜん違っていて、違う人物だと思っていたのだった。太めの童顔の体育会系の青年だった。彼は立ち上がって、トランクスと作業ズボンをいっしょに引き上げると、ファスナーを上げ、ベルトを締めて、ふたたび腰掛けた。「なかなか時間が合わなくて。」「えっ?」「たくさん出た。」「えっ?」「たくさん出た。」「えっ? ああ。うん。」たしかに量が多かった。「また連絡ください。」「えっ?」思いっきりはげしいオーラルセックスをしたあとで、びっくりするようなことを聞かされて、ダブルで、頭がくらくらして、でも、二人の顔がようやく一つになって、「またメールしてもいいの?」かろうじて、こう訊くことが、ぼくができる精いっぱいのことだった。「嫁がメール見よるんで、すぐに消しますけど。」「えっ?」呆然としながら、しばらくのあいだ、彼の顔を見つめていた。一つの顔が二人の顔に見えて、二つの顔が一人の顔に見えてっていう、顔の輪郭と表情の往還というか、消失と出現の繰り返しに、ぼくは顔を上げて、目を瞬かせていた。彼の膝を両手でつかまえて、彼の膝と膝とのあいだにはさまれる形で跪きながら。 二〇一四年六月十日 「フォルム」  詩における本質とは、フォルムのことである。形。文体。余白。音。これらがフォルムを形成する。意味内容といったものは、詩においては、本質でもなんでもない。しかし、意味内容には味わいがある。ただし、この味わいは、一人の鑑賞者においても、時とともに変化することがあり、それゆえに、詩において、意味内容は本質でもなんでもないと判断したのだが、それは鑑賞者の経験や知識に大いに依存するものであり、鑑賞者が異なれば、決定的に異なったものにならざるを得ないものでもあるからである。本来、詩には、意味内容などなくてもよいのだ。俳句や短歌からフォルムを奪えば、いったい、なにが残るだろうか。おそらく、なにも残りはしないだろう。詩もまたフォルムを取り去れば、なにも残りはしないであろう。 二〇一四年六月十一日 「ホラティウス」  古代の詩人より、現代の詩人のほうが実験的か、あるいは知的か、と言えば、そんなことはないと思う。ホラティウス全集を読むと、ホラティウスがかなり実験的な詩を書いていたことがわかるし、彼の書く詩論もかなり知的だ。現代詩人の中で、ホラティウスよりも実験的な詩人は見当たらないくらいだ。そして、エミリ・ディキンスンとホイットマン。このふたりの伝統に対する反抗心と知的な洗練度には、いま読み返してみても戦慄する。さて、日本の詩人で、知的な詩人と言えば、ぼくには、西脇順三郎くらいしか思いつかないのだけれど、現代に知的な詩人はいるのだろうか。ぼくの言う意味は、十二分に知的な詩人は、だけど。ホラティウスの詩でもっとも笑ったのは、自分がつくった料理のレシピをただただ自慢げに開陳しているだけという料理のレシピ詩と、自分の知っている詩人の実名をあげて、その人物の悪口を書きまくっている悪口詩である。ほんとに笑った。彼の詩論的な詩や詩論はすごくまっとうだし、ぼくもおなじことを思っていて、実践している。詩語の廃棄である。これができる詩人は、現代においてもほとんどいない。日常語で詩を書くことは、至難の業なのだ。 二〇一四年六月十二日 「膝の痛み」  左膝が痛くて足を引きずって歩かなければならなかったので、近くの市立病院に行って診てもらったのだけれど、レントゲン写真を撮ってもらったら、右足の膝の骨が奇形で、体重を支えるときに、その骨が神経を刺激しているという話で、なぜ右膝の骨が奇形なのに、左膝が痛いのかというと、右膝をかばうために、奇形ではないほうの左足が負担を負っているからであるという話だった。これまでのひと月ほどのあいだ、歩行困難な状態であったのだが、そのときに気がついたのは、足の悪いひとが意外に多いなということだった。自分が膝を傷めていると、近所のフレスコで、おばあさんたち二人が、「ひざの調子はどう?」「雨のまえの日はひどいけど、ふだんはぼちぼち。」みたいな会話をしているのを耳にしたり、横断歩道を渡っているときに、おじいさんがゆっくりと歩いているのを目にしたときに、ぼく自身もゆっくりと歩かなければならなかったので、気がつくことができたのだった。それまでは、さっさと歩いていて、ゆっくり歩いている老人たちの歩行になど目をとめたことなどなかったのである。このとき思ったのは、ぼくのこの右足の膝の骨の奇形も、左足の膝の痛みが激しくて歩行困難になったことも、ぼくの目をひろげさせるための現象ではなかったのだろうかということであった。ぼくの目により深くものを見る力をつけさせるためのものではなかったのか、ということであった。左膝の痛みが激しくて、仕事の帰り道に、坂道の途中で坐りこんでしまったことがあって、でも、そんなふうに、道のうえに坐り込むなんてことは、数十年はしたことがなくって、日向道、帰り道、風は竹林の影のあいだを吹き抜けてきたものだからか、冷たいくらいのものだったのだけれど、太陽の光はまだ十分にあたたかくて、ぼくは坂道の途中で、空を見上げたのだった。ゆっくりと動いている雲と、坐り込んでいるぼくと、傍らを歩いている学生たちと、坂道の下に広がる田圃や畑のある風景とが、完全に調和しているように感じられたのであった。ぼくは、あの動いている雲でもあるし、雲に支えられている空でもあるし、ぼくの傍らを通り過ぎていく学生たちでもあるし、ぼくが目にしている田圃や畑でもあるし、ぼくの頬をあたためている陽の光でもあるし、ぼくが坐り込んでいるざらざらとした生あたたかい土でもあるのだと思ったのであった。 二〇一四年六月十三日 「ケルンのよかマンボウ」  戦争を純粋に楽しむための再教育プログラム。あるいは、菓子袋の中のピーナッツがしゃべるのをやめると、なぜ隣の部屋に住んでいる男が、わたしの部屋の壁を激しく叩くのか? 男の代わりに、柿の種と称するおかきが代弁する。(大便ちゃうで〜。)あらゆることに意味があると、あなたは、思っていまいまいませんか? 人間はひとりひとり、自分の好みの地獄の中に住んでいる。  世界が音楽のように美しくなれば、音楽のほうが美しくなくなるような気がするんやけど、どやろか? まっ、じっさいのところ、わからんけどねえ。笑。 バリ、行ったことない。中身は、どうでもええ。風景の伝染病。恋人たちは、ジタバタしたはる。インド人。 想像のブラやなんて、いやらしい。いつでも、つけてや。笑。ぶひゃひゃひゃひゃひゃひゃ。  ケルンのよかマンボウ。あるいは、神は徘徊する金魚の群れ。 moumou と sousou の金魚たち。 リンゴも赤いし、金魚も赤いわ。蟹、われと戯れて。 ぼくの詩を読んで死ねます。か。扇風機、突然、憂鬱な金魚のフリをする。ざ、が抜けてるわ。金魚、訂正する。 ぼくは金魚に生まれ変わった扇風機になる。 狒狒、非存在たることに気づく、わっしゃあなあ。 二〇一四年六月十四日 「ベーコンエッグ」 フライパンを火にかけて しばらくしたら サラダオイルをひいて ベーコンを2枚おいて タマゴを2個、割り落として ちょっとおいて 水を入れて ふたをする ジュージュー音がする しばらくしたら 火をとめて ふたをとって フライパンの中身を そっくりゴミバケツに捨てる 二〇一四年六月十五日 「点」 点は裁かない。 点は殺さない。 点は愛さない。 点は真理でもなく 愛でもなく 道でもない。 しかし 裁くものは点であり 殺すものは点であり 愛するものは点である。 真理は点であり 愛は点であり 道は点である。 二〇一四年六月十六日 「その点」 F・ザビエルも、その点について考えたことがある。 フッサールも、その点について考えたことがある。 カントも、その点について考えたことがある。 マキャベリも、その点について考えたことがある。 M・トウェインも、その点について考えたことがある。 J・S・バッハも、その点について考えたことがある。 イエス・キリストも、その点について考えたことがある。 ニュートンも、その点について考えたことがある。 コロンブスも、その点について考えたことがある。 ニーチェも、その点について考えたことがある。 シェイクスピアも、その点について考えたことがある。 仏陀も、その点について考えたことがある。 ダ・ヴィンチも、その点について考えたことがある。 ジョン・レノンも、その点について考えたことがある。 シーザーも、その点について考えたことがある。 ゲーテも、その点について考えたことがある。 だれもが、一度は、その点について考えたことがある。 神も、悪魔も、天使や、聖人たちも、 その点について考えたことがある。 点もまた、その点について考えたことがある。 二〇一四年六月十七日 「顔」  人間の顔はよく見ると、とても怖い。よく見ないでも怖い顔のひとはいるのだけれど、よく見ないでも怖い顔をしているひとはべつにして、一見、怖くないひとの顔でも、よく見ると怖い。きょう、仕事帰りの電車の中で、隣に坐っていた二十歳くらいのぽっちゃりした男の子の顔をちらっと見て、かわいらしい顔をしているなあと思ったのだけれど、じっと見ていると、突然、とても怖い顔になった。 二〇一四年六月十八日 「順列 並べ替え詩。3×2×1」 ソファの水蒸気の太陽。 水蒸気の太陽のソファ。 太陽のソファの水蒸気。 ソファの太陽の水蒸気。 水蒸気のソファの太陽。 太陽の水蒸気のソファ。 午後の整数のアウストラロピテクス。 整数のアウストラロピテクスの午後。 アウストラロピテクスの午後の整数。 午後のアウストラロピテクスの整数。 整数の午後のアウストラロピテクス。 アウストラロピテクスの整数の午後。 正六角形のぶつぶつの蟻。 ぶつぶつの蟻の正六角形。 蟻の正六角形のぶつぶつ。 正六角形の蟻のぶつぶつ。 ぶつぶつの正六角形の蟻。 蟻のぶつぶつの正六角形。 二〇一四年六月十九日 「詩」 約束を破ること。それも一つの詩である。 約束を守ること。それも一つの詩である。 腹を抱えて笑うこと。それも一つの詩である。 朝から晩まで遊ぶこと。それも一つの詩である。 税を納める義務があること。それも一つの詩である。 奥歯が痛むこと。それも一つの詩である。 サラダを皿に盛ること。それも一つの詩である。 大根とお揚げを煮ること。それも一つの詩である。 熱々の豚まんを食べること。それも一つの詩である。 電車が混雑すること。それも一つの詩である。 台風で電車が動かないこと。それも一つの詩である。 信号を守って横断すること。それも一つの詩である。 道でけつまずくこと。それも一つの詩である。 バスに乗り遅れること。それも一つの詩である。 授業中にノートをとること。それも一つの詩である。 消しゴムで字を消すこと。それも一つの詩である。 6割る2が3になること。それも一つの詩である。 整数が無数にあること。それも一つの詩である。 日が没すること。それも一つの詩である。 居間でくつろぐこと。それも一つの詩である。 九十歳まで生きること。それも一つの詩である。 二〇一四年六月二十日 「詩人」  詩人とは、言葉に奉仕する者のことであって、ほかのいかなる者のことでもない。 二〇一四年六月二十一日 「考える」 よくよく考える。 くよくよ考える。 二〇一四年六月二十二日 「警察官と議員さん」  きょうは、ひととは、だれともしゃべっていない。太秦のブックオフに行くまえに、交番のまえを通ったら、かわいらしい若いガチムチの警察官に、「こんにちは。」って声をかけられたのだけれど、運動をかねて大股で歩いていたぼくは、「あはっ!」と笑って、彼の顔をチラ見して通り過ぎただけなのであった。きょうは、一日、平穏無事やった。だれとも会わなかったからかもしれない。近所の交番の警察官が、超かわいらしかった。あしたも交番のまえを通ったろうかしら? こんどは、ちゃんと、「かわいらしい!」と言ってあげたい。ちゃんと、かわいらしかったからね。一重まぶたのかわいらしい警察官やった。  そいえば、数年まえに居酒屋さんのまえで見た若い議員さんも、かわいらしかったなあ。「かわいい!」と大声で言って、抱きついちゃったけど、隣でその議員さんの奥さんも大笑いしてたから、酔っ払いに抱きつかれることって、しょっちゅうあるのかもしれないね。議員さんてわかったのは、あとでなんだけど。  なにやってるひとなの? って道端で訊いたら、その居酒屋さんの看板の横に、その議員さんの顔写真つきポスターが貼り付けてあって、それを指差すから、「あっ、議員さんなの。めずらしいな。こんなにかわいい議員さんなんて。」って言ったような記憶がある。ぼくといっしょにいた友だちと顔なじみで、先にあいさつしてたから、ぼくも大胆だったのだろうけれど、いくら酔っぱらっていたからって、そうとうひどいよなと、猛反省、笑。 二〇一四年六月二十三日 「こころとからだ」  自分ではないものが、自分のからだにぴったりと重なって、自分がすわっているときに立ち上がったり、自分が立ち上がったときにすわったままだったりする。  自分のこころが、自分のこころではないことがあるように、自分のからだもまた、自分のからだではないことがあるようだ。あるいは、どこか、ほかの場所では、立ったまますわっていたり、すわったまま立っていたりする、もうひとりかふたりの、別のぼくがいるのかもしれない。 二〇一四年六月二十四日 「切断喫茶」  切断喫茶に行った。指を加工してくれて、くるくる回転するようにしてくれた。それで、知らない人とも会話した。回転する向きと、回転する速度と、回転する指の種類で意味を伝えるのだけれど、会話によっては、左手の指ぜんぶを小指にしたり、両手の指ぜんぶを親指にしたりしなければならない。初心者には、人差し指と、中指と、薬指との区別がつかないこともあるのだけれど、回転する指で会話するうちに、すぐに慣れて区別がつくようになる。こんど、駅まえに、首を切断して、くるくる回転するようにしてくれる切断喫茶ができたらしい。ぼくは欲張りだから、二つか三つよけいに、頭をつけてもらいたいと思っている。 二〇一四年六月二十五日 「日記(文学)における制約」  いま、「アナホリッシュ國文學」の、こんどの夏に出る第七号の原稿を書いている。「日記」が特集なのだけれど、ぼくも、「詩の日めくり」というタイトルで、「日記」を書いている。このタイトルは、編集長の牧野十寸穂さんが仮につけてくださったものなのだけれど、ぼくもこのタイトルがいいと思ったので、そのまま頂戴して使わせていただくことにしたのである。  ところで、一文と一文とのあいだに、どれだけの時間を置くことができるのか考えてみたのだけれど、単に一日に起きたことを時系列的に列挙していくだけだとしたら、その置くことのできる時間というものは、一日の幅を越えることはないはずである。したがって、日記だと、その一文と一文とのあいだに置いておける最長時間というものは、二十四時間ということになる。いや、ふつうはもっと短いものにしなければならないであろう。たとえば、こんなふうに。「朝起きて、トイレでつまずいた。夜になって新しいパジャマを着て寝ることにした。」などと。もしも、これが日記でなければ、単に起きたことを時系列的に列挙していくだけだとしても、一文と一文とのあいだに置くことのできる最長時間には制限がないので、たとえば、こんなふうにも書くことができるであろう。「朝起きて、トイレでつまずいた。それから二百年たった。夜になって新しいパジャマを着て寝ることにした。」などと。また、日記を書いている人物が途中で入れ替わったりすることも、正当な日記の条件から外れるであろう。もちろん、SFや幻想文学でないかぎり、日記の作者は、人間でなければならないであろう。創作としての日記、すなわち、それが日記形式の文学作品というものであったなら、多少の虚偽を交えて、作者がそれを書くことなどは当然なされるであろうし、読み手も、書き手の誠実さを、ことの真偽といった側面でのみ測るような真似はけっしてしないであろう。  そうである。日記、あるいは、日記形式の文学作品というものにいちばん求められるものは、作者の誠実さといったものであろう。もちろん、文学に対する誠実さのことであり、言葉に対する誠実さのことである。 二〇一四年六月二十六日 「メールの返信」 出したメールにすぐに返信がないと、お風呂かなと思ってしまう初期症状。 出したメールにすぐに返信がないと、寝たのかなと思ってしまう中期症状。 出したメールにすぐに返信がないと、寝たろかなと思ってしまう末期症状。 二〇一四年六月二十七日 「そして誰もがナポレオン」  作者はどこいるのか。言葉の中になど、いはしない。では、作者はどこで、なにをしているのか。ただ言葉と言葉をつないでいるだけである。それが詩人や作家にできる、唯一、ただ一つのことだからである。言葉はどこに存在しているのか。作者の中になど、存在してはいない。では、言葉はどこで、なにをしているのか。言葉は、作者のこころの外から作者に働きかけ、自分自身と他の言葉とを結びつけているのだ。  折り畳み水蒸気  いま、ふと、ぼくのこころの中で結びついた言葉だ。ところで、作者が誰であるのか、ぼくには不明な言葉がいくつかある。どこかで見た記憶のある言葉なのだが、それがどこであるのかわからないのである。詩人か作家の言葉で見たような記憶があるのだが、その詩人や作家が誰であるのか思い出せないのである。その言葉が、どの詩や小説の中で見かけた言葉なのか思い出すことができないのである。  そして誰もがナポレオン  この言葉が耳について離れない。どこかで見たような気がするので、これかなと思われる詩や小説は、読み返してみたのだが、チラ読みでは探し出すことができなかった。ツイッターで、この言葉をどなたか目にされた記憶がないかと呼びかけてみたのだが、返答はなかった。ぼくの記憶が間違っていたのかもしれない。しかし、いずれにせよ、ぼくのこころの中か、外かで結びついた言葉であることは確かである。もう一つ、どこかで見た記憶があるのだが、いくら探しても見つからない言葉があった。ボルヘスのものに似た言葉があるのだが、違っていた。「夢は偽りも語るのです。」という言葉である。この言葉もまた、しばしば思い出されるのだが、「そして誰もがナポレオン」と同様に、思い出されるたびに、もしかしたら、作者などどこにもいないのではないだろうかと思わされるのである。 二〇一四年六月二十八日 「洪水」と「花」  そのときどきの太陽を沈めたのだった。  これは、ディラン・トマスの『葬式のあと』(松田幸雄訳)という詩にある詩句で、久しぶりに彼の詩集を読み返していると、あれ、これと似た詩句を、ランボオのもので見た記憶があるぞと思って、ランボオの詩集を、これまた久しぶりに開いてみたら、『飾画』(小林秀雄訳)の「眠られぬ夜」の?の中に、つぎのような詩句があった。  幾つもの砂浜に、それぞれまことの太陽が昇り、  ディラン・トマスとランボオを結びつけて考えたことなどなかったのだが、読み直してみると、たしかに、彼らの詩句には、似たところがあるなと思われるものがいくつも見られた。その一つに、「洪水」と「花」の結びつきがある。もちろん、「洪水」は破壊のそれ、「花」は「再生」の、あるいは、「新生」のシンボルであるのだろうが、両者のアプローチの仕方に、言葉の取り扱い方に、両者それぞれ固有のものがあって、ときには、詩集も読み返してみるべきものなのだなと思われたのであった。 わたしの箱舟は陽光を浴びて歌い いま洪水は花と咲く (ディラン・トマス『序詩』松田幸雄訳) (…)洪水も引いてしまってからは、──ああ、隠れた宝石、ひらいた花、──これはもう退屈というものだ。 (ランボオ『飾画』大洪水後、小林秀雄訳)  ディラン・トマスのものは、いかにもディラン・トマスといった修辞だし、ランボオのものもまた、いかにもランボオのものらしい修辞で、思わず微苦笑させられてしまった。 二〇一四年六月二十九日 「苦痛神学」  以下、ディラン・トマスの詩句は、松田幸雄訳、ランボオの詩句は、小林秀雄訳で引用する。      ○ 世界は私の傷だ、三本の木のようによじれ、涙を留める。 (ディラン・トマス『黄昏の明かりに祭壇のごとく』)  長い舌もつ部屋にいる 三文詩人は 自分の傷の待ち伏せに向かって苦難の道を行く── (ディラン・トマス『誕生日の詩』)       ○ 不幸は俺の神であった。 (ランボオ『地獄の季節』冒頭の詩) 世界よ、日に新たな不幸の澄んだ歌声よ。 (ランボオ『飾画』天才) 黒く、深紅の傷口よ、見事な肉と肉の間に顕われる。 (ランボオ『飾画』Being Beauteous) 転々とさまようのだ、疲れた風にのり、海にのり、傷口の上を。 (ランボオ『飾画』煩悶)  ふと頭に思い浮かべてしまった。海を渡って詩の朗読をしてまわる人間の大きさの傷口を、砂漠の砂のうえや森の中を這いずりまわる人間の大きさの傷口を。 二〇一四年六月三十日 「愛」  ある種類の愛は終わらない。終わらない種類の愛がある。それは朝の愛であったり、昼の愛であったり、夜の愛であったり、目が覚めているときの愛であったり、眠っているときの愛であったりする。愛が朝となって、ぼくたちを待っていた。愛が昼となって、ぼくたちを待っていた。愛が夜となって、ぼくたちを待っていた。  終わらないことは、とても残酷なことだけれど、ぼくたちは残酷なことが大好きだった。残酷なことが、ぼくたちのことを大好きだったように。愛は、目をさましているあいだも、ぼくたちを見つめていたし、愛は眠っているあいだも、ぼくたちのことを見つめていた。その愛の目は、最高に残酷なまなざしだった。 二〇一四年六月三十一日 「ガリレオ・ガリレイの実験」  きょう、友だちのガリレオ・ガリレイが、自分の頭と身体をピサの斜塔から落としたのであった。頭と身体を同時に落として、どちらが先に地面に激突するか実験したのであったが、同時に落下したのであった。それまでにも頭と身体を同時に城や橋の上から落とした者もいたが、同時に激突すると宣言したのは、友だちの彼が史上初であった。 ---------------------------- [自由詩]孔雀/アラガイs[2020年11月17日5時17分] 生まれたときは黒曜石のかけら 溶け出した粘綿のように 光の粒が眩しかった 唐突に  知覚らは認識の文字を学び 記憶を辿ればただの生き物と叫ぶ そこはかとなく 溜まる泥水のよう              浸るままに              人はそれをこの世界と詠む  単衣にふりかえる ふりかえると幾人ものわたしがいて                 朦朧と痕跡にゆれる羽織 やわらかな錫    波の気配に打ち消された                ※ 世の中は狭い、空間だらけでオノレと言うからにはオノレでなくてはならないのに俺は何を血迷ってしまったのか跳べもしなければ翅も拡げられない 幾筋もあるアタマに流れる血管はセメダインのように固まってしまったどれが俺なのか、ああ泣けよ泣くなよ、オノさん。オノさんのように跳べるメタルな頸を持ちたい。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一四年七月一日─三十一日/田中宏輔[2020年11月18日15時22分] 二〇一四年七月一日 「マクドナルド」  けさ、近所の西大路五条のマクドナルドのカウンター席で、かわいいなと思った男の子に、ぼくの名前と携帯の電話番号を書いた紙を手渡したら、大きく目を見開かれてしまって、一瞬の驚きの表情がすぐさま嫌悪の表情に変わってしまって、まあ、それ以上、ぼくもそこにいれなくて、そく出てきた、笑。ああ、恥ずかしい。ぼくが見てたら、ぼくの横に坐ってきたから、てっきり、ぼくのこと、タイプなのかなって思ったのだけれど、しばらくマクドナルドには行けへんわ、笑。たぶん、一生のあいだに、一度か二度くらいしか、お目にかからないくらいに超タイプの男の子だった。あ、だけど、おもしろいなと思ったのは、驚きの表情を見せた直後、その顔が嫌悪の表情に変化したのだけれど、そのとき、その男の子の身体が、ちょっと膨らんで見えたってこと。動物が攻撃や威嚇などをするときに、自分の身体を大きく見せることがあるのだけれど、そういった現象をじかに目にできたってことは、ぼくの経験値が上がったってことかな。あるいは、おびえたぼくのこころが、そういった幻覚を引き起こした可能性もあるのだけれど。しかし、あの男の子、もしかしたら高校生だったかもしれない。二十歳はこえてなかったと思う。白いシャツがよく似合う野球でもしてそうな坊主頭の日に焼けたガタイのいい男の子だった。 二〇一四年七月二日 「托卵」 吉田くんちのお父さんは たしかにちょっとぼうっとした人だけど 吉田くんちのお母さんは、 しゃきしゃきとした、しっかりした人なのに 吉田くんちの隣の山本さんが 一番下の子のノブユキくんを 吉田くんちの兄弟姉妹のなかに混ぜておいたら 吉田くんちのお父さんとお母さんは 自分たちんちの子どもたちといっしょに育ててる もう一ヶ月以上になると思うんだけど 吉田くんも新しい弟ができたと言って喜んでた そういえば ぼくんちの新しい妹のサチコも いつごろからいるのか わからない ぼくんちのお父さんやお母さんにたずねてみても わからないって言ってた 二〇一四年七月三日 「ピオ神父」  日知庵(にっちあん)に行く前に、カトリック教会の隣にあるクリスチャンズ・グッズの店に立ち寄った。 ピオ神父の陶器製の置物が10260円だった。 値札が首にぶら下がっていたのである。 キリストも、マリアも、神父さんも、みな首に値札をぶら下げていたのであった。ピオ神父、10260円か、税込みで、と思った。ちょっとほしくなる陶器製の置物だった。そのクリスチャンズ・グッズの店の前に、太ったホームレスのおじいちゃんがいた。店ではぜんぜん気にしていないみたいだった。入口のドアの横で堂々と寝そべっていた。それにしても、やさしそうな顔のおじいちゃんだった。  日知庵から帰ってきてから、鼻くそ、ほじくってたら、あっ、とかいう声がしたから、指先を見たら、25年まえから行方不明になってた父親がいた。ぼくも、あって言って、ブチッて、指先で、父親をひねりつぶした。 二〇一四年七月四日 「FBでのやりとり」  FBの友だちの韓国語のコメントを自動翻訳したら、「最低の稼動時間が数分を残して日ぽんと鳴る何か子供を吸う吸う」って出てきて、ちょっとビビった。めちゃくちゃおもしろかったから。台湾人の友だちたちの会話を翻訳したら、「初期の仕事に行く」「美しいか?」「実質的に頑丈です」「恩知らず!」だって、笑っちゃった。「恩知らず!」の言葉がインパクトある。それに詩を感じるぼくもぼくやけど。いま見直したら、「表面が単相やった夏だからそのような物であるか?」「まあそれにもかかわらず鋭く」「痰の沸点に見て」「キャプチャしようとの意図的に敏感だった緻密であり、迷惑なんだ」「皮膚、なぜこれらのラム酒の球の毒?」「あなたの早期出社イニング」「まだ美しいか?」「まだ実質で頑丈ですか?」「まだ実質的に頑丈です」「恩知らず!」って、つづいてた。つぎのものは、流れてきたものを翻訳したもの。[笑顔]、心から幸せなあなたの周りの人々に感染することができます:)(翻訳: Bing)笑顔が感染するというのはおもしろい。FBのタイムライン見てて、かわいいなと思ってた人から友だち申請がくると、あがってしまう。まあ、アジアの外国の人ばかりだけれど。でも、こんなふうに、翻訳ソフトがあるから、というか、その翻訳ソフトの出来がまだあまりよくないから、記事やコメントが、ときどきめっちゃおもしろい。いままたFBを見たら、友だち申請してた人が承認してくれてて、その台湾人の方に英語であいさつしたら、日本語で返事をされたので、日本語でやりとりしてたら、「ぼくはジジイですから。」と書くと、「ジジイとは何ですか?」と尋ねられた。「an old man のことです。」と書いたら、「「クソジジ」は聞いたことがあります。「ババ」の反対ですね。」と言うので、「「ババア」です。」と書いたら、「「ババ」「ア」ですか?」と訊いてきたので、「「クソババ」と言うときには、伸ばさないこともありますが、「クソ」がつかないときには、多くの場合、音を伸ばして、「ババア」と言います。」というふうに、その台湾人の方の日本語のレパートリーを増やしてあげた。 二〇一四年七月五日 「怖ろしくも、おぞましい存在」  人は、人といると、かならず与えるか奪うかしている。また与えつつ奪うこともしているし、奪いつつ与えることもしている。しかし、怖ろしくも、おぞましいのは、ずっと与えつづける者と、ずっと与えつづけられる者、ずっと奪いつづける者と、ずっと奪いつづけられる者の存在である。 二〇一四年七月六日 「吉野家」  仕事帰りに、牛丼の吉野家に入ってカレーライスを食べた。斜め前に後ろ向きにすわって食べてたガチムチの大学生の男の子のジャージがずいぶんと下に位置していて、お尻の割れ目までしっかり見えてた。見てはいけないものかもしれないけれど、3度ほどチラ見してしまった。帰るときに振り返った。かわいかった。かくじつに、ぼくの寿命が3年はのびたな、と思った。たまに思いもしなかった場所で奇跡のような瞬間に出合うと、ほんとに照れてしまう。その体育会系の学生の子が帰ったあとも、めちゃくちゃ恥ずかしくて、頬がほてって、どぼどぼと汗かいてしまった。カレーの辛さじゃなかった。 二〇一四年七月七日 「いろいろな人の燃え方」 人によって発火点が異なる。 人によって燃え方の激しさが異なる。 二〇一四年七月八日 「受粉。」 猿を動かすベンチを動かす舌を動かす指を動かす庭を動かす顔を動かす部屋を動かす地図を動かす幸福を動かす音楽を動かす間違いを動かす虚無を動かす数式を動かす偶然を動かす歌を動かす海岸を動かす意識を動かす靴を動かす事実を動かす窓を動かす疑問を動かす花粉。 猿を並べるベンチを並べる舌を並べる指を並べる庭を並べる顔を並べる部屋を並べる地図を並べる幸福を並べる音楽を並べる間違いを並べる虚無を並べる数式を並べる偶然を並べる歌を並べる海岸を並べる意識を並べる靴を並べる事実を並べる窓を並べる疑問を並べる花粉。 猿を眺めるベンチを眺める舌を眺める指を眺める庭を眺める顔を眺める部屋を眺める地図を眺める幸福を眺める音楽を眺める間違いを眺める虚無を眺める数式を眺める偶然を眺める歌を眺める海岸を眺める意識を眺める靴を眺める事実を眺める窓を眺める疑問を眺める花粉。 猿を舐めるベンチを舐める舌を舐める指を舐める庭を舐める顔を舐める部屋を舐める地図を舐める幸福を舐める音楽を舐める間違いを舐める虚無を舐める数式を舐める偶然を舐める歌を舐める海岸を舐める意識を舐める靴を舐める事実を舐める窓を舐める疑問を舐める花粉。 猿を吸い込むベンチを吸い込む舌を吸い込む指を吸い込む庭を吸い込む顔を吸い込む部屋を吸い込む地図を吸い込む幸福を吸い込む音楽を吸い込む間違いを吸い込む虚無を吸い込む数式を吸い込む偶然を吸い込む歌を吸い込む海岸を吸い込む意識を吸い込む靴を吸い込む事実を吸い込む窓を吸い込む疑問を吸い込む花粉。 猿を味わうベンチを味わう舌を味わう指を味わう庭を味わう顔を味わう部屋を味わう地図を味わう幸福を味わう音楽を味わう間違いを味わう虚無を味わう数式を味わう偶然を味わう歌を味わう海岸を味わう意識を味わう靴を味わう事実を味わう窓を味わう疑問を味わう花粉。 猿を消化するベンチを消化する舌を消化する指を消化する庭を消化する顔を消化する部屋を消化する地図を消化する幸福を消化する音楽を消化する間違いを消化する虚無を消化する数式を消化する偶然を消化する歌を消化する海岸を消化する意識を消化する靴を消化する事実を消化する窓を消化する疑問を消化する花粉。 猿となるベンチとなる舌となる指となる庭となる顔となる部屋となる地図となる幸福となる音楽となる間違いとなる虚無となる数式となる偶然となる歌となる海岸となる意識となる靴となる事実となる窓となる疑問となる花粉。 猿に変化するベンチに変化する舌に変化する指に変化する庭に変化する顔に変化する部屋に変化する地図に変化する幸福に変化する音楽に変化する間違いに変化する虚無に変化する数式に変化する偶然に変化する歌に変化する海岸に変化する意識に変化する靴に変化する事実に変化する窓に変化する疑問に変化する花粉。 猿を吐き出すベンチを吐き出す舌を吐き出す指を吐き出す庭を吐き出す顔を吐き出す部屋を吐き出す地図を吐き出す幸福を吐き出す音楽を吐き出す間違いを吐き出す虚無を吐き出す数式を吐き出す偶然を吐き出す歌を吐き出す海岸を吐き出す意識を吐き出す靴を吐き出す事実を吐き出す窓を吐き出す疑問を吐き出す花粉。 猿を削除するベンチを削除する舌を削除する指を削除する庭を削除する顔を削除する部屋を削除する地図を削除する幸福を削除する音楽を削除する間違いを削除する虚無を削除する数式を削除する偶然を削除する歌を削除する海岸を削除する意識を削除する靴を削除する事実を削除する窓を削除する疑問を削除する花粉。 猿を叩くベンチを叩く舌を叩く指を叩く庭を叩く顔を叩く部屋を叩く地図を叩く幸福を叩く音楽を叩く間違いを叩く虚無を叩く数式を叩く偶然を叩く歌を叩く海岸を叩く意識を叩く靴を叩く事実を叩く窓を叩く疑問を叩く花粉。 猿を曲げるベンチを曲げる舌を曲げる指を曲げる庭を曲げる顔を曲げる部屋を曲げる地図を曲げる幸福を曲げる音楽を曲げる間違いを曲げる虚無を曲げる数式を曲げる偶然を曲げる歌を曲げる海岸を曲げる意識を曲げる靴を曲げる事実を曲げる窓を曲げる疑問を曲げる花粉。 猿あふれるベンチあふれる舌あふれる指あふれる庭あふれる顔あふれる部屋あふれる地図あふれる幸福あふれる音楽あふれる間違いあふれる虚無あふれる数式あふれる偶然あふれる歌あふれる海岸あふれる意識あふれる靴あふれる事実あふれる窓あふれる疑問あふれる花粉。 猿こぼれるベンチこぼれる舌こぼれる指こぼれる庭こぼれる顔こぼれる部屋こぼれる地図こぼれる幸福こぼれる音楽こぼれる間違いこぼれる虚無こぼれる数式こぼれる偶然こぼれる歌こぼれる海岸こぼれる意識こぼれる靴こぼれる事実こぼれる窓こぼれる疑問こぼれる花粉。 猿に似たベンチに似た舌に似た指に似た庭に似た顔に似た部屋に似た地図に似た幸福に似た音楽に似た間違いに似た虚無に似た数式に似た偶然に似た歌に似た海岸に似た意識に似た靴に似た事実に似た窓に似た疑問に似た花粉。 猿と見紛うベンチと見紛う舌と見紛う指と見紛う庭と見紛う顔と見紛う部屋と見紛う地図と見紛う幸福と見紛う音楽と見紛う間違いと見紛う虚無と見紛う数式と見紛う偶然と見紛う歌と見紛う海岸と見紛う意識と見紛う靴と見紛う事実と見紛う窓と見紛う疑問と見紛う花粉。 猿の中のベンチの中の舌の中の指の中の庭の中の顔の中の部屋の中の地図の中の幸福の中の音楽の中の間違いの中の虚無の中の数式の中の偶然の中の歌の中の海岸の中の意識の中の靴の中の事実の中の窓の中の疑問の中の花粉。 猿に接続したベンチに接続した舌に接続した指に接続した庭に接続した顔に接続した部屋に接続した地図に接続した幸福に接続した音楽に接続した間違いに接続した虚無に接続した数式に接続した偶然に接続した海岸に接続した意識に接続した靴に接続した事実に接続した窓に接続した疑問に接続した花粉。 猿の意識のベンチの意識の舌の意識の指の意識の庭の意識の顔の意識の部屋の意識の地図の意識の幸福の意識の音楽の意識の間違いの意識の虚無の意識の数式の意識の偶然の意識の歌の意識の海岸の意識の意識の意識の靴の意識の事実の意識の窓の意識の疑問の意識の花粉。 猿を沈めるベンチを沈める舌を沈める指を沈める庭を沈める顔を沈める部屋を沈める地図を沈める幸福を沈める音楽を沈める間違いを沈める虚無を沈める数式を沈める偶然を沈める歌を沈める海岸を沈める意識を沈める靴を沈める事実を沈める窓を沈める疑問を沈める花粉。 猿おぼれるベンチおぼれる舌おぼれる指おぼれる庭おぼれる顔おぼれる部屋おぼれる地図おぼれる幸福おぼれる音楽おぼれる間違いおぼれる虚無おぼれる数式おぼれる偶然おぼれる歌おぼれる海岸おぼれる意識おぼれる靴おぼれる事実おぼれる窓おぼれる疑問おぼれる花粉。 猿と同じベンチと同じ舌と同じ指と同じ庭と同じ顔と同じ部屋と同じ地図と同じ幸福と同じ音楽と同じ間違いと同じ虚無と同じ数式と同じ偶然と同じ歌と同じ海岸と同じ意識と同じ靴と同じ事実と同じ窓と同じ疑問と同じ花粉。 猿を巻き込むベンチを巻き込む舌を巻き込む指を巻き込む庭を巻き込む顔を巻き込む部屋を巻き込む地図を巻き込む幸福を巻き込む音楽を巻き込む間違いを巻き込む虚無を巻き込む数式を巻き込む偶然を巻き込む歌を巻き込む海岸を巻き込む意識を巻き込む靴を巻き込む事実を巻き込む窓を巻き込む疑問を巻き込む花粉。 猿の蒸発するベンチの蒸発する舌の蒸発する指の蒸発する庭の蒸発する顔の蒸発する部屋の蒸発する地図の蒸発する幸福の蒸発する音楽の蒸発する間違いの蒸発する虚無の蒸発する数式の蒸発する偶然の蒸発する海岸の蒸発する意識の蒸発する靴の蒸発する事実の蒸発する窓の蒸発する疑問の蒸発する花粉。 猿と燃えるベンチと燃える舌と燃える指と燃える庭と燃える顔と燃える部屋と燃える地図と燃える幸福と燃える音楽と燃える間違いと燃える虚無と燃える数式と燃える偶然と燃える歌と燃える海岸と燃える意識と燃える靴と燃える事実と燃える窓と燃える疑問と燃える花粉。 猿に萌えるベンチに萌える舌に萌える指に萌える庭に萌える顔に萌える部屋に萌える地図に萌える幸福に萌える音楽に萌える間違いに萌える虚無に萌える数式に萌える偶然に萌える歌に萌える海岸に萌える意識に萌える靴に萌える事実に萌える窓に萌える疑問に萌える花粉。 猿と群れるベンチと群れる舌と群れる指と群れる庭と群れる顔と群れる部屋と群れる地図と群れる幸福と群れる音楽と群れる間違いと群れる虚無と群れる数式と群れる偶然と群れる歌と群れる海岸と群れる意識と群れる靴と群れる事実と群れる窓と群れる疑問と群れる花粉。 猿飛び込むベンチ飛び込む舌飛び込む指飛び込む庭飛び込む顔飛び込む部屋飛び込む地図飛び込む幸福飛び込む音楽飛び込む間違い飛び込む虚無飛び込む数式飛び込む偶然飛び込む歌飛び込む海岸飛び込む意識飛び込む靴飛び込む事実飛び込む窓飛び込む疑問飛び込む花粉。 猿の飛沫のベンチの飛沫の舌の飛沫の指の飛沫の庭の飛沫の顔の飛沫の部屋の飛沫の地図の飛沫の幸福の飛沫の音楽の飛沫の間違いの飛沫の虚無の飛沫の数式の飛沫の偶然の飛沫の歌の飛沫の海岸の飛沫の意識の飛沫の靴の飛沫の事実の飛沫の窓の飛沫の疑問の飛沫の花粉。 猿およぐベンチおよぐ舌およぐ指およぐ庭およぐ顔およぐ部屋およぐ地図およぐ幸福およぐ音楽およぐ間違いおよぐ虚無およぐ数式およぐ偶然およぐ歌およぐ海岸およぐ意識およぐ靴およぐ事実およぐ窓およぐ疑問およぐ花粉。 猿まさぐるベンチまさぐる舌まさぐる指まさぐる庭まさぐる顔まさぐる部屋まさぐる地図まさぐる幸福まさぐる音楽まさぐる間違いまさぐる虚無まさぐる数式まさぐる偶然まさぐる歌まさぐる海岸まさぐる意識まさぐる靴まさぐる事実まさぐる窓まさぐる疑問まさぐる花粉。 猿あえぐベンチあえぐ舌あえぐ指あえぐ庭あえぐ顔あえぐ部屋あえぐ地図あえぐ幸福あえぐ音楽あえぐ間違いあえぐ虚無あえぐ数式あえぐ偶然あえぐ歌あえぐ海岸あえぐ意識あえぐ靴あえぐ事実あえぐ窓あえぐ疑問あえぐ花粉。 猿くすぐるベンチくすぐる舌くすぐる指くすぐる庭くすぐる顔くすぐる部屋くすぐる地図くすぐる幸福くすぐる音楽くすぐる間違いくすぐる虚無くすぐる数式くすぐる偶然くすぐる歌くすぐる海岸くすぐる意識くすぐる靴くすぐる事実くすぐる窓くすぐる疑問くすぐる花粉。 猿に戻るベンチに戻る舌に戻る指に戻る庭に戻る顔に戻る部屋に戻る地図に戻る幸福に戻る音楽に戻る間違いに戻る虚無に戻る数式に戻る偶然に戻る歌に戻る海岸に戻る意識に戻る靴に戻る事実に戻る窓に戻る疑問に戻る花粉。 猿をとじるベンチをとじる舌をとじる指をとじる庭をとじる顔をとじる部屋をとじる地図をとじる幸福をとじる音楽をとじる間違いをとじる虚無をとじる数式をとじる偶然をとじる歌をとじる海岸をとじる意識をとじる靴をとじる事実をとじる窓をとじる疑問をとじる花粉。 二〇一四年七月九日 「思い出せない悪夢」  けさ、自分のうなり声で目が覚めたのだけれど、そのあとすぐに、隣に住んでいる人が、「どうしたんですか?」とドア越しに声をかけてくださったのだけれど、恥ずかしくて、返事もできなかった。なぜ、うなり声を出しつづけていたのか不明である。怖い夢を見ていたのだろうけれど、まったく思い出せない。 二〇一四年七月十日 「なにげないひと言」  なにげないひと言が、耳のなかに永遠に残る、ということがある。過去のベスト1とベスト2は、「おっちゃん、しゃぶって!」と「おっちゃんも勃ってんのか?」だ。これまで、どの詩にも書いていない状況のものだ、笑。きょうのは、ベスト3かな。「チンポ、しゃぶりたいんか?」  二〇一四年七月十一日 「怖い〜!」  バス停の近くで派手にイッパツ大きなくしゃみをしたら、なんだか妙にへなへなとした知恵おくれっぽいおじいさんが、「怖い〜!」と言って、ムンクの絵のように両手で頭を抱えて、くたっとひざまずいて、ぼくの顔を見上げた。マンガ見てるみたいで、めっちゃおもしろかった。憐れみを誘う、蹴り飛ばしてほしそうな顔をしていた。 二〇一四年七月十二日 「マクドナルド」  ジミーちゃんちに寄った帰り、北大路のマクドナルドで、「ハンバーガー一個ください」と言ったら、店員の若い男の子に、「これだけか?」と言われた。すぐさま、その男の子が、しまった、まずいな、という表情をしたので、ぼくも聞こえなかったふりをしてあげたけれど、不愉快になる気持ちよりも、こんなこともあるんだ、というか、とっさに思ったほんとうの気持ちが、こんなふうに言葉にあらわれることもあるのかと、おもしろがるぼくがいた。 二〇一四年七月十三日 「湖上の卵」 湖の上には 卵が一つ、宙に浮かんでいる 卵は 湖面に映った自分と瓜二つの卵に見とれて 動けなくなっている 湖面は 卵の美しさに打ち震えている 一個なのに二個である あらゆるものが 一つなのに二つである 湖面が分裂するたびに 卵の数が増殖していく 二個から四個に 四個から八個に 八個から十六個に 卵は 自分と瓜二つの卵に見とれて 動けなくなっている 無数の湖面が 卵の美しさに打ち震えている どの湖の上にも 卵が一つ、宙に浮かんでいる 二〇一四年七月十四日 「フンドシと犬」 フンドシをしていない犬よりフンドシをしている犬になりたい。 二〇一四年七月十五日 「もっとゆっくり」  アルバイト先の塾からの帰りに、西大路五条で車同士が目の前で激突した。バンッという音が目のまえでして、車同士がぶつかっているのを目にした。どちらも怪我がなかったみたいで、双方の運転席の人間はふつうに動いていた。お互いに、車を道路の脇に寄せていったので、二人とも、けがもなかったのだろう。けっこう大きな音がしたのだけれど。みんな、疲れているのかもしれない。もっとゆっくりとした、じゅうぶんに休みが取れる社会であればいいのになと思った。  帰ってから、いまつくっている全行引用詩・五部作のうちの一作「ORDINARY WORLD°」のために引用するエピグラフを一つ探した。きのう目にして、引用しようか、引用しないでおこうかと迷って、けっきょく引用しないことにしたのだけれど、塾の帰りに、ふと思い出されて、あ、あれは引用しなければならないなと思われたのであった。どのルーズリーフにあった言葉か覚えていなかったので、一〇〇〇枚以上のルーズリーフのなかから、きのう読んだものから順番にさかのぼって一枚一枚あたって探していたのだった。こんなことばっかり、笑。しかし、一時間ほどして見つかった。この文章だけ読んでも、ぼくには、もとの作品の全内容がいっきょに思い出せるのだけれど、P・D・ジェイムズは、ぼくがコンプリートにコレクションして読んだ数十人の詩人や作家のなかでも、もっとも知的な書き手で、ヴァージニア・ウルフを完全に超えているなと思っている数少ない物書きの一人である。「ああ、ぼくは大丈夫だよ。ようやく大丈夫になるさ。心配しないでくれ。それから見舞いには来ないで。G・K・チェスタートンの言葉にこういうのがあっただろう。?人生を決して信用せず、かつ人生を愛することを学ばねばならない?。ぼくはとうとう学べなかった」(『原罪』第四章、青木久恵訳)これはエイズで亡くなる直前の作家の言葉として書かれたものだけれど、ぼくは、いまこの言葉を書き写しているだけでも、涙がにじんできてしまった。P・D・ジェイムズ。けっして読みやすい作家ではないけれど、古書でも、たやすく手に入るので、たくさんの人たちに読んでほしいなと思っている。P・D・ジェイムズの作品に、はずれは一作もないのだけれど、とりわけ、『原罪』と『正義』は、天才作家の書いた作品だと思っている。自分のルーズリーフを読み返していて、自分が書いたことも忘れているようなメモが挟まれてあったり、付箋に細かい小さな字で自分の言葉が書き込んであったりと、そういうものを見つけることができるのも、楽しみのひとつになっている。で、そのうちのいくつかのものを書き込んでいこうかな。メモの記述がいつのものか、日付を入れるとわずらわしくなるので省略した。   〇 ごくごくと水を飲んだ。ヒシャクも、のどが渇いていたのだろう。 我慢にも限界があるのなら、限界にも我慢がある。 天国とはイメージである。好きなようにイメージすることができる。  音と昔が似ている。音が小さい。昔が小さい。音が大きい。昔が大きい。大音量。大昔量。 「様々」を 「さま〜ず」と読んでみたり  たすけて を ドレミファ と ドミソファ の どちらにしようか と しあんちゅう 薔薇族と百合族か 茎系と球根系か これはわたしのしっぽ と言って ぼくのゆびをにぎるな!  パクチーがきらいだ と言って ぼくの皿のなかに入れるのは やめて 意味 わかんない ちょっと球形。 余白の鼓動。蠕動する句読点。 ピクルスって、なんか王さまの名前みたい。 過去と出合わないように と思ってみたり  別々の人間なのに、「好きだ」とか「嫌いだ」とかいった言葉で、ひとくくりにしてしまう。  つねに自分を超えていく人間だけが、すぐれた他人と肩を並べることができるのである。  うんこ色の空と書いてみる。でも、うんこにもいろいろあるから、うんこ色の空もあるかもしれない。青虫のうんこは緑だ。空がうんこしたら、やっぱり空色のうんこだろう。空色のうんこと書いてみる。うんこが空色なのだ。いろいろな色のうんこがしてみたい。バリウム飲んだつぎの日のうんこは白だった。  ことし出した詩集『ゲイ・ポエムズ』に収録してた散文詩を読み直していて、京大のエイジくんのことで、詩に書いていないことがひとつあることを思い出した。「たなやん、たなやんって、オレ、ノートに何ページも書いとったんやで。」このときのぼくの返事は「ふううん。」やった。バカじゃないの? 書いたから、なんなのって思った。  父親が、むかし、犬を洗うために洗濯機に入れたことがあって、弟が発狂したことがある。きれいになれば、いいんじゃないのって、ぼくは思ったけど。  たまに混んでいる。ぎゅんぎゅんに。なんでさばけている。ぽあんぽあんに。横にすわった大学生の足元。つぎつぎと飛び込んでいく座席の下。牛のひづめが櫛けずる地面。徘徊するしぼんだ風船。電車のなかは荒地だった。だれが叫んだのか。床が割れた。みんな線路に吸い込まれてしまった。さぼった×(ばつ)だ。   〇  夜遅くなって、雨の音がきつくて、こわい。隣の部屋の人、玄関で、カサ、バサバサとうるさい。 二〇一四年七月十六日 「「ちち」と「はは」」 「ちち」と「はは」を、一文字増やして、「ちちち」と「ははは」にすると、なんかおもしろい。一文字減らすと、「ち」と「は」で、小さな「っ」をつけたくなる感じだけれど、二文字増やしてみると、「ちちちち」と「はははは」で、ここまでくると、三文字増やしても、四文字増やしても、二文字増やしたときと、あまり変わらないような気がする。ちなみに、「ちちち」は否定する場面で使われることが多くて、「ははは」は、とりあえずは肯定する、といった場面で使われることが多いというのも、なんだかおもしろい。 二〇一四年七月十七日 「超早漏」  きょう、新しいズボンをはいたので、超小さいチンポコ(勃起時、わずか1センチ5ミリ)で超早漏のぼくは、道を歩きながら何十回と射精してしまって、まるでかたつむりみたいに、歩いたあとがべとべとになっていた。めっちゃ、しんどかった。さいしょは気持ちよく歩いてたけど、すぐにしんどくなってしもた。 二〇一四年七月十八日 「やわらかい頬」  ふと23才くらいのときに東京に遊びに行ったときのことが思い出された。昼間、ぼくは、バス停でバスの到着時刻表を見ていた。友だちとはぐれるまえに。記憶はそこで途切れて、池袋だったと思うけど、夜にイタリアンレストランで友だちと食事してた。なぜバス停でバスの到着時刻を見てたのかわからない。森園勝敏の『エスケープ』を聴いている。このアルバムのトップの曲が、ぼくに、ぼくの23才くらいのときのことを思い出させたのだと思う。まだ汚れていたとしても、そうたいして汚れていなかった、裸の魂を抱えた、ぷにぷにとやわらかい頬をしたぼくが、無防備に地上を歩きまわっていたころの記憶だった。 二〇一四年七月十九日 「言葉」  自分が考えるのではなく、言葉が考えるように、あるいは、少なくとも、言葉に考えさせるようにしなければならない。なぜなら、本来的には、「言葉が言葉を生む」、「言葉から言葉が生まれる」のだから。 二〇一四年七月二十日 「言葉」  言葉は共有されているのではない。言葉は共用されているのである。あるいは、言葉がわれわれ人間を共用しているのだ。言葉が共有されているというのは錯誤である。われわれはただ単に言葉を共用しているに過ぎない。あるいは、われわれ人間は、ただ単に言葉によって共用されているに過ぎないのである。 二〇一四年七月二十一日 「純粋ななにものか」  現実と接触しているかぎり、どのような人間も、純粋ななにものかにはならない。現実と接触しているかぎり、どのような詩も、純粋ななにものかにはならないように。 二〇一四年七月二十二日 「自分を卵と勘違いした男」 彼は冷蔵庫の卵のケースのところに つぎつぎと自分を並べていった 二〇一四年七月二十三日 「開戦」  きょう、日本が宣戦布告したらしい。仕事帰りに、駅で配られていた号外で知ったのだった。それは、地下鉄から阪急に乗り換えるときに通る地下街にある、パン屋の志津屋のまえで受け取ったものだった。まだ20歳くらいのやせた若い青年が配っていた。押し付けられるようにして受け取ったそれをチラ見すると、バックパックにしまって、阪急の改札に入った。階段を下りていくときに、ちょっとつまずきかけたのだけれど、戦争ってことについて考えていたからではなくて、ただ単に疲れていて、その疲れが足元をもつれさせたのだと思った。烏丸から西院まで、電車のなかで戦争についてずっとしゃべりつづけていた中年の二人連れの女たちがいた。こういうときには、なにも考えていなさそうな男たちが大声で戦争についてしゃべるものだと思っていたので意外だった。むしろ中年の男たちは何もしゃべらず、手渡された号外に目を落として、うんざりとした顔つきをしていた。若い男たちも同じだった。西院駅につくと、改札口で、いつも大きな声で反戦を訴えていた左翼政党の議員が、運動員たちとともに、警察官たちに殴られて連行されていくところだった。人が警察官たちに殴られて血まみれになるような場面には、はじめて遭遇した。捜査員なのか、男が一人、その様子を見ている人たちの顔写真をカメラでバチバチと撮っていった。ぼくはすかさず顔をそむけて駅から離れた。部屋に戻ってPCをつけると、ヤフー・ニュースで戦争の概要を解説していた。ほんとうに日本は宣戦布告したらしい。ふと食べ物や飲み物のことが気になったので、近所のスーパーのフレスコに行くと、みんな、買い物かごに食べ物や飲み物を目いっぱい入れてレジに並んでいた。ぼくも、困ったことにならないように、数少ない野菜や缶詰や冷凍食品などを買い物かごに入れてレジに並んだ。酒もほとんど残っていなかったのだが、とりあえず缶チューハイは二本、確保した。値段が違っていた。清算するまで、いつもと違った値段が付けられていたことに気がつかなかった。人間の特性の一つであると思った。こんなときにも儲けようというのだ。どの時代の人間も同じなのだろう。どの時代の人間も同じように愚かなことを繰り返す。ようやくレジで代金を支払い、買ったものを部屋に持ち帰ると、すぐにキッチンの棚や冷蔵庫のなかにしまい込んだ。 二〇一四年七月二十四日 「海胆〜」 海胆海胆〜 海胆〜 二〇一四年七月二十五日 「輪っか」 指で輪っかをつくると、ついその輪っかで、自分の首を吊りたくなる。 二〇一四年七月二十六日 「夜の」 「夜の」という言葉をつけるだけで、エッチな感じになるのは、なぜだろう。「夜の昼食。」「夜の腋臭。」「夜の中性洗剤。」「夜の第二次世界大戦。」なんか、燃える。いや、萌える。 二〇一四年七月二十七日 「赤い花」  ガルシンのような作家になりたいと思ったことがある。一冊しか本棚にはないけれど、いつまでも書店の本棚に置かれているような。 二〇一四年七月二十八日 「オナニー」  きょうも寝るまえに、小林秀雄が訳したランボオの『地獄の季節』を読みながら、オナニーしてしまった。これって、ランボオに感じてオナニーしてるのか、小林秀雄に感じてオナニーしてるのか、どっちなんやろ? 二〇一四年七月二十九日 「ドリブル」  過去が過去をドリブルする。過去が現在をドリブルする。過去が未来をドリブルする。現在が過去をドリブルする。現在が現在をドリブルする。現在が未来をドリブルする。未来が過去をドリブルする。未来が現在をドリブルする。未来が未来をドリブルする。 二〇一四年七月三十日 「詩と真実」 詩のなかで起こることは、すべて真実である。 二〇一四年七月三十一日 「ペペロンチーノ」  ひゃ〜。ペペロンチーノつくろうと思って、鍋に水入れてたら、水をこぼして、こぼしたまま作業してたら、水がこぼれてることすっかり忘れてて、そのうえをすべって、足を思い切り開いて、おすもうさんの股割り状態というか、バレリーナの開脚みたいになって、ものすごい激痛が走った。股関節、だいじょうぶやろか? ---------------------------- [自由詩]純水メタル/アラガイs[2020年11月19日2時30分] 純水とは何も生み出さず何も破壊しない。   by 多児眞晴 含有量0,1パーセントしか含まれてはいない精液のことを精子と呼べるのだろうか。 みんな死んでいる。 これを愛の力強さで甦らせてみようよ。 愛はどこにあるの。 地上の愛は天上の愛 愛は名も知れずひとり歩きしていく ああ、この液体を愛に変えることができるのならば僕は故郷の石ころになってもいい。 昔天才と呼ばれた画家が吐いた言葉。 これは嘘のホントです。 液体って蒸発してしまえば粒になるの?それとも波になるの? きみは愛を知らないから愛されずに愛を追い求めては愛に裏切られまた愛を憎むようになるんだね。 その0,1パーセントの重力を星の重さに変えて新しい世界を作り出そうじゃないか。 やってる?やってる 。 石ころだって火に炙れば輝いて見える。鍛えられた鋼の意思が実は世界を滅ぼしていくのね。極めて煌めいた不実なこころ。 いきものはみんな不実さ。星は壊れまた生まれいく。はじまりの終わり。それでいいのだ。  by    天才バカボン ---------------------------- [自由詩]どこまでも透明なルビー/アラガイs[2020年11月20日23時51分] ドアは開いたままにしておいた 大型の遺体処理装置が台車に引かれ入りやすくするために 小さな窓からレース越しに薄く幅を調整したLEDの光が差し込んでいた 朝だ!ピクセル形式に時間は感覚に標す。肌触りのいい合成素地のシーツ 今日も大気は赤茶色に染まるだろう 息もなく仄かにアーモンドの香りを携えてアランは眼を閉じていた 摂氏30度を下る体温の、青白い肌に浮かぶ赤黒い火列の脈筋 生き急ぎ窪んだ骨、その間接の狭い軋み、それは春の乾ききった氷河のように硬かった  あと数時間後に彼の生命は尽きる  ありがとう わたしは流れおちていく涙で指先を湿らし、もうピクリとも動かない唇に押し付けた 冷凍保存のまま精子から生まれた第1世代初期型クローンのわたし その時にこれは使命なのだと自分には言い聞かせていた しかし永遠の別れなのだ、意識すればするほど、この哀しみを抑えるこのできる人間はいないだろう これが感情という電気信号を自ら遮断した想像上の悪魔ならば話しはべつなのだが アランと名付けたのには意味がある。 その昔叔母の好きな俳優の話しを母から聞かされたことがある わたしが生まれてまだ地球にいた頃だった クローンは生まれてわずか10年でその生涯を閉じる 否、生まれたときからその生涯を閉じる日は決まっていたのだ。 Aiにつながれたシナプスの空間 立ち上がると三年でわたしの知能を遙かに超えていた  ( ケン、なぜか深い海の生物が行き交う夢をよくみるんだ ) 1年前からそんなことをよく呟いていた    ( 僕は母体というものを知らないからね。) 同じ顔を持ち寸分と違わない肉体を持ちながらみる夢だけは異なっていたのだ     アラン   第一世代の記憶がどこまで遡るのか、わたしたちはまだ答えを見つけ出せてはいない 第二世代のクローンには人工母体という技術が添えられた ときどき在りもしない神秘的な体験の夢を吐き出しては人間たちを戸惑わせている 燃える惑星の冷たい塵から造り出された透明なルビー そろそろ時間だね。 赤茶色窓の外からエアーパーツの噴出する音が聞こえる 。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一四年八月一日─三十一日/田中宏輔[2020年11月23日21時36分] 二〇一四年八月一日 「蜜の流れる青年たち」  屋敷のなかを蜜の流れる青年たちが立っていて、ぼくが通ると笑いかけてくる。頭のうえから蜜がしたたっていて、手に持ったガラスの器に蜜がたまっていて、ぼくがその蜜を舐めるとよろこぶ。どうやら、弟はぼくを愛しているらしい。白い猫と黒い猫が追いかけっこ。屋敷には、ぼくの本も大量に運ばれていて、弟が運ばせていた。弟は、寝室で横たわっているぼくの耳にキスをして部屋を出て行った。白い猫と黒い猫たちが後方に走り去っていった。と思った瞬間、その姿は消えていて、気がつくと、また前方からこちらに向かって、くんずほぐれつ白い猫と黒い猫たちが走り寄ってきて、目のまえで踊るようにして追いかけっこして後方に走り去り、またふたたび前方からこちらに向かって、くんずほぐれつ走り寄ってきた。猫を飼っていたとは知らなかった。でも、よく見ると、それが母親や叔母たちが扮している猫たちで、屋敷の廊下をふざけながら猛スピードで駆け巡っているのだった。ぼくのそばを通っては笑い声をあげて追いかけっこをしているのであった。完全に目を覚ましたぼくは、廊下中に立っている蜜のしたたる青年たちの蜜を舐めていった。 二〇一四年八月二日 「戦時下の田舎」  戦時下だというのに、弟の屋敷では、時間の流れがまったく別のもののように感じられる。中庭に出てベンチに坐って、ジョン・ダンの詩集を読んでいる。ふとページから目を上げると、噴水の流れ落ちる水の音に気がついたり、小鳥たちが地面の砂をくちばしのさきでつつき回している姿に気がついたり、背後の樹のなかに姿を隠した小鳥や虫たちの鳴く声に気がついたりするのであった。ぼくが詩を読んでいるあいだも、それらは流れ落ち、つつき回し、鳴きつづけていたのであろうけれども。足元の日差しのなかで、裸の足指を動かしてみた。気持ちがよい。夏休みのあいだだけでも巷の喧騒から逃れて田舎の屋敷でゆっくりすればいいと、弟が言ってくれたのだった。西院に比べて桂がそんなに田舎だとは思えないのだけれど。ぼくはふたたび、ジョン・ダンの詩集に目を落とした。ホラティウスやシェイクスピアもずいぶんとえげつない詩を書いていたが、ジョン・ダンのものがいちばんえげつないような気がする。 二〇一四年八月三日 「100人のダリが曲がっている。」  中庭でベンチに腰掛けながら、ジョン・ダンの詩集を読んでいると、小さい虫がページのうえに、で、無造作に手ではらったら、簡単につぶれて、ページにしみがついてしまって、で、すぐに部屋に戻って、消しゴムで消そうとしたら、インクがかすれて、文字までかすれて、泣きそうになった、買いなおそうかなあ、めっちゃ腹が立つ。虫に、いや、自分自身に、いや、虫と自分自身に。おぼえておかなきゃいけないね、虫が簡単につぶれてしまうってこと。それに、なにをするにしても、もっと慎重にしなければいけないね、ふうって息吹きかけて吹き飛ばしてしまえばよかったな。ビールでも飲もう。で、これからつづきを。まだ、ぜんぶ読んでないしね。ああ、しあわせ。ジョン・ダンの詩集って、めっちゃ陽気で、えげつないのがあって、いくつもね。ブサイクな女がなぜいいのか、とかね。吹き出しちゃったよ、あまりにえげつなくってね。フフン、石頭。いつも同じひと。どろどろになる夢を見た。 二〇一四年八月四日 「科学的探究心」  きょうも、中庭で、ジョン・ダンの詩集を読んでいた。もう終わりかけのところで、昼食の時間を知らせるチャイムが鳴った。ぼくは詩集をとじて、立ち上がった。ちょっとよろけてしまって、ベンチのうえにしりもちをついてしまった。すると、噴水の水のきらめきと音が思い出させたのだろうか。子どものときに弟のところに行こうとして、川のなかでつまずいておっちんしたときの記憶がよみがえったのであった。鴨川で、一年に一度、夏の第一日曜日か、第二日曜日に、小さな鯉や鮒や金魚などを放流して、子どもたちに魚獲りをさせる日があって、なんていう名前の行事か忘れてしまったのだけれど、たぶん、ぼくがまだ小学校の四年生ころのときのことだと思う。川床の岩石(いわいし)につまずいて、水のなかにおっちんしてしまったのである。そのときに、水際の護岸の岩と岩のあいだに密生している草の影のところの水が、日に当たっているところの水よりはるかに冷たいことを知ったのだった。しかし、川の水は流れているわけだし、常時、川の水は違った水になっているはずなのに、水際の丈高い草の影の水がなぜ冷たいのかと不思議に思ったのであった。ただし、ぼくが冷たいと思ったのは、川のなかにしゃがんで伸ばした手のさきの水だったので、水面近くの水ではなくて、水底に近い部分だったことは、理由としてあるのかもしれない。水底といっても、わずか2、30センチメートルだったとは思うのだけれど。子ども心に科学的探究心があったのであろう。水のなかで日に当たっているところと水際の草の影になっているところに手を伸ばして行き来させては、徐々に手のひらを上げて、その温度の違いを確かめていったのだから。水面近くになってやっと了解したのだった。水の温みは太陽光線による放射熱であって、直射日光の熱であったのだった。すばやく移動しているはずの水面近くの日に当たっているところと影になって日に当たっていないところの温度は、太陽光線の放射熱のせいでまったく違っていたのだった。いまでも顔がほころぶ。当時のぼくの顔もほころんでいたに違いない。40年以上もむかしのことなのに、きのうしゃがんでいたことのように、はっきりと覚えている。あっ、あの行事の名前、鴨川納涼祭りだったかな。それとも、鴨川の魚祭りだったかな。両方とも違ってたりして。 二〇一四年八月五日 「ゴリラは語る」  弟の子どもの双子の男の子たちの勉強をみているときに、大谷中学校の2013年度の国語の入試問題のなかに、山極寿一さんの『ゴリラは語る』というタイトルの文章が使われていて、その文章のなかに、おもしろいものがあった。「「遊び」というのは不思議なもので、遊ぶこと自体が目的です。」「ゴリラは、日に何度も、しかもほかの動物とは比べものにならないほど長く、遊び続けることができるのです。」「時間のむだづかいにも見える「遊び」を長く続けられるのは、遊びの内容をどんどん変えていけるからです。」いや〜、これを読んで、ぼくが取り組んでる詩作のことやんか、と思った。ゴリラとは、ぼくである。ぼくとは、ゴリラであったのだ〜と叫んで、弟の子どもたちとふざけ合って、部屋じゅう追いかけっこして騒いでいたら、突然、部屋のなかに入ってきた弟に叱られた。ちょっとイヤな気がした。 二〇一四年八月六日 「死父」  朝、死んだ父に脇腹をコチョコチョされて目が覚めた。一日じゅう気分が悪かった。 二〇一四年八月七日 「寝るためのお呪(まじな)い」 羊がいっぴき、羊がにひき、羊がさんびき…… 羊がいっぴき、羊がにひき、羊がさんびき…… 羊がいっぴき、羊がにひき、羊がさんびき…… 一晩中、羊たちは不眠症のひとたちに数えられて ちっとも眠らせてもらえなかったので、しまいに 怒って、不眠症のひとたち、ひとりひとりの頭を つぎつぎと、ぐしゃぐしゃ踏んづけてゆきました。 二〇一四年八月八日 「寝るためのお呪(まじな)い、ふたたび」 棺がひとつ、棺がふたつ、棺がみっつ…… 棺がひとつ、棺がふたつ、棺がみっつ…… 棺がひとつ、棺がふたつ、棺がみっつ…… 一晩中、死んだ父親が目を見開いて棺から つぎつぎ現われてくる光景を見ていたので まったくちらとも眠ることができなかった 二〇一四年八月九日 「空気金魚」  人間の頭くらいの大きさの空気金魚が胸びれ腹びれ尻びれをひらひらさせながら躰をくゆらし、尾びれ背びれを優雅にふりまきながら、弟の差し出したポッキー状の餌を少しずつかじっていた。空気金魚は、この大きさで、空気と同じ重さなのだ。ポッキー状の餌も空気と同じ重さらしい。一人暮らしをはじめて三十年近くになる、広い屋敷は逆に窮屈だ、そろそろ帰りたい、と弟に話した。弟は隣の部屋に入っていった。ドアが開いていたので、つづいて部屋に入ると、空気娘たちが部屋のなかに何人も漂っていた。気配がしたので振り返ろうとすると、弟がぼくの肩に手を置いて「兄さんは、興味がなかったかな?」と言う。外見はぼくのほうが父親に似ていたが、性格は弟のほうが父親に似ているのだった。まったく思いやりのない口調であった。 二〇一四年八月十日 「パーティー」  ぜったい嫌がらせに違いないと思うのだけれど、弟に屋敷を出たいと言ったつぎの日の今日に、なんのパーティーか知らないけれど、パーティーが開かれた。空気牛や空気山羊や空気象や空気熊や空気豚などが宴会場になっている大広間で空中にただよっているなかに、弟に呼ばれた客たちが裸で牛や山羊や象や熊や豚などに扮して、かれらもまた空中にただよいながら酒や食事を空中にふりまきながら飲食や会話をしているのだった。不愉快きわまる光景であった。あしたの朝いちばんに屋敷を出ることにした。 二〇一四年八月十一日 「ブレッズ・プラス」  昼ご飯を食べに西院のブレッズ・プラスに行く途中、女性の二人組がぺちゃくちゃしゃべりながら、ぼくの前から近づいてきた。ぼくは、人の顔があまり記憶できない性質なので、もう覚えていないのだけれど、というのも、ちらりと見ただけで、もうケッコウという感じだったからなんだけど、ぼくに近い方、道の真ん中を歩いてた方の女性が、ぼくの出っ張ったお腹を見ながら、「やせなあかんわ。」と言いよったのだった。オドリャ、と思ったのだけれど、まあ、ええわ。人間は他人を見て、自分のことを振り返るんやからと思って、チェッと思いながらも、そのままやりすごしたのだけれど、ほんと、人間というものは、他人を見て、自分のことを思い出してしまうんやなあと、つくづく思った。パン屋さんに入って、BLTサンドのランチ・セットを頼んでテーブルにつき、ルーズリーフを拡げると、つぎのような言葉がつぎつぎと目に飛び込んできた。「今、わたしの存在を維持しているのはだれか?」(ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』50、岡部宏之訳)「人間がその死性を免れる道は、笑いと絆を通してでしかない。それら二つの大いなる慰め。」(グレゴリイ・ベンフォード『輝く永遠への航海』下・第六部・5、冬川 亘訳)「人生で起こる偶然はみな、われわれが自分の欲するものを作り出すための材料となる。精神の豊かな人は、人生から多くのものを作り出す。まったく精神的な人にとっては、どんな知遇、どんな出来事も、無限級数の第一項となり、終わりなき小説の発端となるだろう。」(ノヴァーリス『花粉』 66、今泉文子訳)「人生を楽しむ秘訣は、細部に注意を払うこと。」(シオドア・スタージョン『君微笑めば』大森 望訳)「細部こそが、すべて」(ブライアン・W・オールディス『三つの謎の物語のための略図』深町眞理子訳)「本質的に小さなもの。それは芸術家の求めるものよ」(フランク・ハーバート『デューン砂丘の大聖堂』第二巻、矢野 徹訳)「人生はほとんどいつもおもしろいものだ。」(タビサ・キング『スモール・ワールド』5、みき 遥訳)「そうした幸せは、まさしく小さなものであるからこそ存在しているのだ」(サバト『英雄たちと墓』第?部・4、安藤哲行訳)「重要なのは経験だ。」(ミシェル・ジュリ『不安定な時間』鈴木 晶訳)「人生のあらゆる瞬間はかならずなにかを物語っている、」(ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』四・16、小林宏明訳)「経験は避けるのが困難なものである。」(フィリップ・ホセ・ファーマー『飛翔せよ、遙かなる空へ』上・15、岡部宏之訳)「すべての経験はわたしという存在の一部になるのだから」(ジーン・ウルフ『拷問者の影』11、岡部宏之訳)「新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)「レサマは「覚えておくんだよ、わたしたちは言葉によってしか救われないってこと。書くんだ。」とぼくに言った。」(レイナルド・アレナス『夜になるまえに』通りで、安藤哲行訳)「われわれのかかわりを持つものすべてが、すべてわれわれに向かって道を説く。」(エマソン『自然』五、酒本雅之訳)「あらゆるものが、たとえどんなにつまらないものであろうと、あらゆるものへの入口だ。」(マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第3部・20、嶋田洋一訳)「創造者がどれだけ多くのものを被造物と分かちもっているか、」(トマス・M・ディッシュ『M・D』下・第五部・67、松本剛史訳)「作品と同時に自分を生みだす。というか、自分を生みだすために作品を書くんだ」(オースン・スコット・カード『エンダーの子どもたち』上・4、田中一江訳)「人生の目的は事物を理解することではない。(…)できるだけよく生きることである。」(ウィリアム・エンプソン『曖昧の七つの型』下・8、岩崎宗治訳)「生きること、生きつづけることであり、幸せに生きることである。」(フランシス・ポンジュ『プロエーム(抄)』?、平岡篤頼訳)。 二〇一四年八月十二日 「言葉をひねる。」 言葉をひねる。 ひねられると 言葉だって痛い。 痛いから 違った言葉のふりをする。 二〇一四年八月十三日 「言葉にも利息がつく。」  言葉にも利息がつく。利息には正の利息と負の利息がある。言葉を創作(つく)って使うと正の利息がつく。言葉は増加し、よりたくさんの言葉となる。言葉を借りて使うと負の利息がつく。預けていた言葉が減少し、預けていた言葉がなくなると、覚えていた言葉が忘れられていく。 二〇一四年八月十四日 「くるりんと」 卵に蝶がとまって ひらひら翅を動かしていると くるりんと一回転した。 少女がそれを手にとって 頭につけて、くるりんと一回転した。 すると地球も、くるりんと一回転した。 二〇一四年八月十五日 「卵」 波はひくたびに 白い泡の代わりに 白い卵を波打ち際においていく 波打ち際に びっしりと立ち並んだ 白い卵たち 二〇一四年八月十六日 「10億人のぼく。」  人間ひとりをつくるためには、ふたりの親が必要で、そのひとりひとりの親にもそれぞれふたりの親が必要で、というふうにさかのぼると、300年で10代の人間がかかわったとしたら、ぼくをつくるのに2の10乗の1024人の人間が必要だったわけで、さらに300年まえは、そのまた1024倍で、というふうにさかのぼっていくと、いまから1000年ほど前のぼくは、およそ10億人だったわけである。さまざまな人生があったろうになって思う。どうしたって、ぼくの人生はたったひとつだけだけどね。 二〇一四年八月十七日 「『高慢と偏見』」  あと10ページばかり。ジェーンはビングリーと婚約、エリザベスもダーシーと婚約というところ。いま、ちょっと息をととのえて、書き込みをしようとしているのは、自分のことを嫌っているように見えてたダーシーが、いつ自分を愛するようになったのかとエリザベスが訊くところ。「そもそものおはじまりは?」(ジェーン・オースティン『高慢と偏見』60、富田 彬訳)このすばらしいセリフが終わり近くで発せられることに、こころから感謝。 二〇一四年八月十八日 「Amazon」 これで笑ったひとは、こんなものにでも笑っています。 二〇一四年八月十九日 「ゴボウを持ちながら。」  スーパーで、ゴボウを持ちながら、買おうか買わないでおこうか、えんえんと迷いつづける主婦の話。すき焼きにゴボウをいれたものかどうか、ひさしぶりのすき焼きなので記憶があやふやで、過去の食事を順に追って思い出しては記憶のなかのさまざまな事柄にとらわれていく主婦の話。 二〇一四年八月二十日 「素数」  13も31も素数である。17も71も素数である。37も73も素数である。このように数字の順番を逆にしても素数になる素数が無数にある。また、131のように、その数自身、数字の順が線対称的に並んだ素数が無数にある。 二〇一四年八月二十一日 「有理数と無理数」  きょう、パソコンで、ゲイの出会い系サイトを眺めていたら、「しゃぶり好きいる?」というタイトルで、「普通体型以上で、しゃぶり好き居たら会いたい。我慢汁多い、短髪髭あり。ねっとり咥え込んで欲しい。最後は口にぶっ放したい。」とコメントが書いてあって、連絡した。携帯でやりとりしているうちに、お互いに知り合いであったことに気がついたのだが、とにかく会うことにした。さいしょに連絡してから一時間ほどしてから部屋にきたのだが、テーブルのうえに置いてあった「アナホリッシュ國文學」の第8号用の「詩の日めくり」の初校ゲラを見て、「おれも詩を書いてるんやけど、見てくれる?」と言って、彼がアイフォンに保存している詩を見せられた。自分を「独楽」に擬した詩や、死んだ友だちを哀悼する言葉にまじって、彼が彼の恋人といっしょにいる瞬間について書かれた詩があった。永遠は瞬間のなかにしかないと書いていたのは、ブレイクだったろうか。彼が帰ったあと、瞬間について考えた。瞬間と時間について考えた。学ぶことは驚くことで、学んでいくにしたがって、驚くことが多くなることは周知のことであろうけれど、やがて、ある時点から驚くことが少なくなっていく。ぼくのような、驚くために学んでいくタイプの人間にとって、それは悲しいことで、つぎの段階は、学ぶこと自体を学ばなければならないことになる。そのうえで、これまでの驚きについても詳細に分析し直さなければならない。なぜ驚かされたのかと。その方法の一つは、単純なことだが意外に難しい。多面的にとらえるのだ。齢をとって、いいことの一つだ。思弁だけではなく、経験を通しても多面的に見れる場面が多々ある。ぼくたちが、時間を所有しているのではない。ぼくたちのなかに、時間が存在するのではない。時間が、ぼくたちを所有しているのだ。時間のなかに、ぼくたちが存在しているのだ。まるでぼくたちは、連続する実数のなかに存在する有理数のようなものなのだろう。実数とは有理数と無理数からなる、とする数概念だが、この比喩のなかでおもしろいのは、では、実数のなかで無理数に相当するものはなにか、という点だ。それは、ぼくたちではないものだ。ぼくたちではないものを時間は所有しているのだ。ぼくたちでないものが、時間のなかに存在しているのだ。しかし、もし、時間が実数どころではなくて複素数の数概念のようなものなら、時間はまったく異なる2つのものからなる。もしかすると、ぼくたちと、ぼくたちではないものとは、複素数概念のこのまったく異なる2つのもののようなものなのだろうか。しかし、ここからさきに考えをすすめることは、いまのぼくには難しい。実数として比喩的に時間をとらえ、その時間のなかで、ぼくたちが有理数のようなものとして存在すると考えるだけで、無理数に相当するぼくたちではないものに思いを馳せることができる。しかし、それにしたって、じつは、ぼくたちではないものというものも定義が難しい。なぜなら、ぼくたちの感覚器官がとらえたものも、ぼくたちが意識でとらえたものも、ぼくたちが触れたものも、ぼくたちに触れたものも、ぼくたちではないとは言い切れないからである。この部分の弁別が精緻にできれば、この分析にも大いに意義があるだろう。ところで、実数のなかで、有理数と無理数のどちらが多いかとなると、圧倒的に無理数のほうが多いらしい。多いらしいというのは、そのことが証明されている論文をじかに目にしたことがないからであるが、そのうち機会があれば、読んでみようかなと思っている。 二〇一四年八月二十二日 「チュパチュパ」  阪急西院駅の改札を通るとすぐ左手にゴミ入れがあって、隅に残ったジュースをストローでチュパチュパ吸ったあと、そのゴミ入れに直方体の野菜ジュースの紙パックを捨てるときに気がついたのであった、着ていたシャツのボタンを掛け違えていたことに。朝は西院のマクドナルドを利用することが多くて、たいていは、チキンフィレオのコンビで野菜ジュースを注文して、あと一つ、単品のなんとかマフィンを頼んで食べるんだけど、今朝もそうだったんだけど、友だちと待ち合わせをしていて、野菜ジュースだけがまだ残っていて、でも時間が、と思って、ジュースを持って、店を出て、駅まで歩きながらチュパチュパしていたのだった。いや、正確に言うと、横断歩道では信号が点滅していたし、車のなかにいるひとたちの視線を集めるのが嫌で、チュパチュパしていなかったんだけど、それに、小走りで横断歩道を渡らなければならなかったし、改札の機械に回数券を滑り込ませなければならなかったので、そんなに歩きながらチュパチュパしていなかったんだけど、というわけで、改札に入ってから最後のチュパチュパをして、野菜ジュースの紙パックをゴミ入れに投げ入れるまで目を下に向けることがなかったので、自分の着ているシャツの前のところが長さが違うことに、ボタンを掛け違えて、シャツの前の部分の右側と左側とでは長さが違うことに気がつくことができなかったのであった。「西洋の庭園の多くは均整に造られるのにくらべて、日本の庭園はたいてい不均整に造られますが、不均整は均整よりも、多くのもの、廣いものを象徴出來るからでありませう。」(川端康成『美しい日本の私』)「断片だけがわたしの信頼する唯一の形式。」(ドナルド・バーセルミ『月が見えるだろう?』邦高忠二訳)「首尾一貫など、偉大な魂にはまったくかかわりのないことだ。」(エマソン『自己信頼』酒本雅之訳)「読書の楽しさは不確定性にある──まだ読んでいない部分でなにが起きるかわからないということだ。」(ジェイムズ・P・ホーガン『ミクロ・パーク』26、内田昌之訳)。 二〇一四年八月二十三日 「通夜」  よい父は、死んだ父だけだ。これが最初の言葉であった。父の死に顔に触れ、ぼくの指が読んだ、死んだ父の最初の言葉であった。息を引き取ってしばらくすると、顔面に点字が浮かび上がる。それは、父方の一族に特有の体質であった。傍らにいる母には読めなかった。読むことができるのは、父方の直系の血脈に限られていた。母の目は、父の死に顔に触れるぼくの指と、点字を翻訳していくぼくの口元とのあいだを往還していた。父は懺悔していた。ひたすら、ぼくたちに許しを請うていた。母は、死んだ父の手をとって泣いた。──なにも、首を吊らなくってもねえ──。叔母の言葉を耳にして、母は、いっそう激しく泣き出した。  ぼくは、幼い従弟妹たちと外に出た。叔母の膝にしがみついて泣く母の姿を見ていると、いったい、いつ笑い出してしまうか、わからなかったからである。親戚のだれもが、かつて、ぼくが優等生であったことを知っている。いまでも、その印象は変わってはいないはずだ。死んだ父も、ずっと、ぼくのことを、おとなしくて、よい息子だと思っていたに違いない。もっとはやく死んでくれればよかったのに。もしも、父が、ふつうに臨終を迎えてくれていたら、ぼくは、死に際の父の耳に、きっと、そう囁いていたであろう。自販機のまえで、従弟妹たちがジュースを欲しがった。  どんな夜も通夜にふさわしい。橋の袂のところにまで来ると、昼のあいだに目にした鳩の群れが、灯かりに照らされた河川敷の石畳のうえを、足だけになって下りて行くのが見えた。階段にすると、二、三段ほどのゆるやかな傾斜を、小刻みに下りて行く、その姿は滑稽だった。  従弟妹たちを裸にすると、水に返してやった。死んだ父は、夜の打ち網が趣味だった。よくついて行かされた。いやいやだったのだが、父のことが怖くて、ぼくには拒めなかった。岸辺で待っているあいだ、ぼくは魚籠(びく)のなかに手を突っ込み、父が獲った魚たちを取り出して遊んだ。剥がした鱗を、手の甲にまぶし、月の光に照らして眺めていた。  気配がしたので振り返った。足の群れが、すぐそばにまで来ていた。踏みつけると、籤(ひご)細工のように、ポキポキ折れていった。 二〇一四年八月二十四日 「新しい意味」  赤言葉、青言葉、黄言葉。赤言葉、青言葉、黄言葉。赤言葉、青言葉、黄言葉。「言葉同士がぶつかり、くっつきあう。」(ルーディ・ラッカー『ホワイト・ライト』第四部・22、黒丸 尚訳)よくぶつかるよい言葉だ。隣の言葉は、よくぶつかるよい言葉だ。「解読するとは生みだすこと」(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・71、土岐恒二訳)「創造性とは、関係の存在しないところに関係を見出す能力にほかならない。」(トマス・M・ディッシュ『334』ソクラテスの死・4、増田まもる訳)言葉のうえに言葉をのせて、その言葉のうえに言葉をのせて、その言葉のうえの言葉に言葉をのせて、とつづけて言葉をのせていって、そこで、一番下の言葉をどけること。ときどき、言葉に曲芸をさせること。ときどき、言葉に休憩をとらせること。言葉には、いつもたっぷりと睡眠を与えて、つねにたらふく食べさせること。でもたまには、田舎の空気でも吸いに辺鄙な土地に旅行でもさせてやること。とは言っても、言葉の親戚たちはきわめて神経質で、うるさいので、ちゃんと手配はしておくこと。温度・湿度・気圧が大事だ。ホテルではみだりに裸にならないこと。支配人に髪の毛をつかまれて引きずりまわされるからだ。階段から突き落とされる掃除婦のイメージ。まっさかさまだ。ホテルでは、みだりに裸にはならないこと。とくにビジネスホテルでは、つねに盗聴されているので、気をつけること。言葉だからといって、むやみに、ほかの言葉に抱かれたりしないこと。朝になったら、ドアの下をかならずのぞくこと。差し込まれたカードには、新しい意味が書かれている。 二〇一四年八月二十五日 「天使の球根」  月の夜だった。欠けるところのない、うつくしい月が、雲ひとつない空に、きらきらと輝いていた。また来てしまった。また、ぼくは、ここに来てしまった。もう、よそう、もう、よしてしまおう、と、何度も思ったのだけれど、夜になると、来たくなる。夜になると、また来てしまう。さびしかったのだ。たまらなく、さびしかったのだ。  橋の袂にある、小さな公園。葵公園と呼ばれる、ここには、夜になると、男を求める男たちがやって来る。ぼくが来たときには、まだ、それほど来ていなかったけれど、月のうつくしい夜には、たくさんの男たちがやって来る。公衆トイレで小便をすませると、ぼくは、トイレのすぐそばのベンチに坐って、煙草に火をつけた。  目のまえを通り過ぎる男たちを見ていると、みんな、どこか、ぼくに似たところがあった。ぼくより齢が上だったり、背が高かったり、あるいは、太っていたりと、姿、形はずいぶんと違っていたのだが、みんな、ぼくに似ていた。しかし、それにしても、いったい何が、そう思わせるのだろうか。月明かりの道を行き交う男たちは、みんな、ぼくに似て、瓜ふたつ、そっくり同じだった。  樹の蔭から、スーツ姿の男が出てきた。まだらに落ちた影を踏みながら、ぼくの方に近づいてきた。 「よかったら、話でもさせてもらえないかな?」  うなずくと、男は、ぼくの隣に腰掛けてきて、ぼくの膝の上に自分の手を載せた。 「こんなものを見たことがあるかい?」  手渡された写真に目を落とすと、翼をたたんだ、真裸の天使が微笑んでいた。 「これを、きみにあげよう。」  胡桃くらいの大きさの白い球根が、ぼくの手のひらの上に置かれた。男の話では、今夜のようなうつくしい満月の夜に、この球根を植えると、ほぼ一週間ほどで、写真のような天使になるという。ただし、天使が目をあけるまでは、けっして手で触れたりはしないように、とのことだった。 「また会えれば、いいね。」  男は、ぼくのものをしまいながら、そう言うと、出てきた方とは反対側にある樹の蔭に向かって歩き去って行った。 二〇一四年八月二十六日 「無意味の意味」 「芸術において当然栄誉に値するものは、何はさておき勇気である。」(バルザック『従妹ベット』二一、清水 亮訳)たくさんの手が出るおにぎり弁当がコンビニで新発売されるらしい。こわくて、よう手ぇ出されへんわと思った。きゅうに頭が痛くなって、どしたんやろうと思って手を額にあてたら熱が出てた。ノブユキも、ときどき熱が出るって言ってた。20年以上もむかしの話だけど。むかし、ぼくの詩をよく読んで批評してくれた友だちの言葉を思い出した。ジミーちゃんの言葉だ。「あなたの詩はリズムによって理性が崩壊するところがよい。」ルーズリーフを眺めていると、ジミーちゃんのこの言葉に目がとまったのだ。すばらしい言葉だと思う。以前に書いた「無意味というものもまた意味なのだろうか。」といった言葉は、紫 式部の『源氏物語』の「竹河」にあった「無情も情である」(与謝野晶子訳)という言葉から思いついたものであった。ジミーちゃんちの庭で、ジミーちゃんのお母さまに、木と木のあいだ、日向と木陰のまじった場所にテーブルを置いてもらって、二人で坐ってコーヒーを飲みながら、百人一首を読み合ったことがあった。どの歌がいちばん音がきれいかと、選び合って。そのときに選んだ歌のいくつかを、むかし、國文學という雑誌の原稿に書き込んだ記憶がある。「短歌と韻律」という特集の号だった。ぼくが北山に住んでいた十年近くもむかしの話だ。 二〇一四年八月二十七日 「詩と人生」  きょうは、大宮公園に行って、もう一度、さいしょのページから、ジョン・ダンの詩集を読んでいた。公園で詩集を読むのは、ひさしぶりだった。一時間ほど、ページを繰っては、本を閉じ、またページを開いたりしていた。帰ろうと思って、詩集をリュックにしまい、さて、立ちあがろうかなと思って腰を浮かせかけたら、2才か3才だろうか、男の子が一人、小枝を手にもって一羽の鳩を追いかけている姿を目にしたのだった。ぼくは、浮かしかけた腰をもう一度、ベンチのうえに落として坐り直して、背中にしょったリュックを横に置いた。男の子の後ろには、その男の子のお母さんらしきひとがいて、その男の子が、段差のあるところに足を踏み入れかけたときに、そっと、その男の子の手に握られた小枝を抜き取って、その男の子の目が見えないところに投げ捨てたのだけれど、するとその男の子が大声で泣き出したのだが、泣きながら、その男の子は道に落ちていた一枚の枯れ葉に近づき、それを手に取り、まるでそれがさきほど取り上げられた小枝かどうか思案しているかのような表情を浮かべて泣きやんで眺めていたのだけれど、一瞬か二瞬のことだった。その男の子はその枯れ葉を自分の目の前の道に捨てて、ふたたび大声で泣き出したのであった。すると、あとからやってきた父親らしきひとが、その男の子の身体を抱き上げて、母親らしきひとといっしょに立ち去っていったのであった。なんでもない光景だけれど、ぼくの目は、この光景を、一生、忘れることができないと思った。 二〇一四年八月二十八日 「人間であることの困難さ」  言葉遊びをしよう。言葉で遊ぶのか、言葉が遊ぶのか、どちらでもよいのだけれど、ラテン語の成句に、こんなのがあった。「誰をも褒める者は、誰をも褒めず。」ラテン語自体は忘れた。逆もまた真なりではないけれど、逆もまた真のことがある。一時的に真であるというのは、論理的には無効なのだけれど、日常的には、そのへんにころころころがっている話ではある。で、逆もまた真であるとする場合があるとすると、「誰をも褒めない者は、誰をも褒めている。」ということになる。さて、つぎの二つの文章を読み比べてみよう。「どれにも意味があるので、どこにも意味がない。」「どこにも意味がないので、どれにも意味がある。」塾からの帰り道、こんなことを考えながら歩いていた。ぼくに狂ったところがまったくないとしたら、ぼくは狂っている。ぼくが狂っているとしたら、ぼくには狂ったところがまったくない。じっさいには、少し狂ったところがあるので、ぼくは狂ってはいない。ぼくは狂ってはいないので、少し狂ったところがある。「おれなんか、ちゃろいですか?」「かわいい顔してなに言ってるんや。」「なんでそんな目で見るんですか?」。「なんでそんな目で見るんですか?」いったい、どんな目で見ていたんだろう。そういえば、付き合った子にはよく言われたな。ぼくには、どんな目か、自分ではわからないのだけれど。よく、どこ見てるの、とも言われたなあ。ぼくには、どこ見てるのか、自分でもわからなかったのだけれど。「人間であることは、たいへんむずかしい」(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)「人間であることはじつに困難だよ、」(マルロー『希望』第二編・第一部・7、小松 清訳)「「困難なことが魅力的なのは」とチョークは言った。「それが世界の意味をがらりと変えてしまうからだよ」」(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』1、三田村 裕訳)「きみの苦しみが宇宙に目的を与えているのかもしれないよ」(バリー・N・マルツバーグ『ローマという名の島宇宙』10、浅倉久志訳)ほんと、そうかもね。 二〇一四年八月二十九日 「放置プレイ」  さて、PC切るか、と思って、メールチェックしてたら、大事なメールをいったん削除してしまった。復活させたけど。あれ、なにを書くつもりか忘れてしまった。そうだ、オレンジエキス入りの水を飲んで寝ます。新しい恋人用に買っておいたものだけど、自分でアクエリアス持ってきて飲んでたから、ぼくが飲むことに。ぼくのこともっと深く知りたいらしい。ぼくには深みがないから、より神秘的に思えるんじゃないかな。「あつすけさん、何者なんですか?」「何者でもないよ。ただのハゲオヤジ。きみのことが好きな、ただのハゲオヤジだよ。」「朗読されてるチューブ、お気に入りに入れましたけど、じっさい、もっと男前ですやん。」「えっ。」「ぼく、撮ったげましょか。でも、それ見て、おれ、オナニーするかも知れません。」「なんぼでも、したらええやん。オナニーは悪いことちゃうよ。」「こんど動画を撮ってもええですか。」「ええよ。」「なんでも、おれの言うこと聞いてくれて、おれ、幸せや。」「ありがとう。ぼくも幸せやで。」これはきっと、ぼくが、不幸をより強烈に味わうための伏線なのだった。きょうデートしたんだけど、間違った待ち合わせ場所を教えて、ちょっと待たしてしまった。「放置プレイやと思って、おれ興奮して待っとったんですよ。」って言われた。ぼくの住んでるところの近く、ゲイの待ち合わせが多くて、よくゲイのカップルを見る。西大路五条の角の交差点前。身体を持ち上げて横にしてあげたら、すごく喜んでた。「うわ、すごい。おれ、夢中になりそうや。もっとわがまま言うて、ええですか?」「かまへんで。」「口うつしで、水ください。」ぼくは、生まれてはじめて、自分の口に含んだ水をひとの口のなかに落として入れた。そだ、水を飲んで寝なきゃ。「彼女、いるんですか?」「自分がバイやからって、ひともバイや思うたら、あかんで。まあ、バイ多いけどな。これまで、ぼくが付き合った子、みんなバイやったわ。偶然やろうけどね。」偶然違うやろうけどね。と、そう思うた。偶然であって、偶然ではないということ。矛盾してるけどね。 二〇一四年八月三十日 「火の酒」  きょう恋人からプレゼントしてもらったウォッカを飲んでいる。2杯目だ。大きなグラスに。ウォッカって、たしか、火の酒と書いたかな。火が、ぼくの喉のなかを通る。火が、ぼくの喉の道を焼きつくす。喉が、火の道を通ると言ってもよい。まるでダニエル記に出てくる3人の証人のように。その3人の証人たちは、3つの喉だ。ぼくの3つの喉の道を炎が通り過ぎる。3つの喉が、ぼくを炎の道に歩ませる。ほら、偶然に擬態したウォッカが、ぼくの言葉を火の色に染め上げる。さあ、ぼくである3人の証人たちよ。火のなかをくぐれ。3つの喉が、炎のなかを通り過ぎる。ジリジリと喉の焼き焦げる音がする。ジリジリと魂の焼き焦げる音がする。ジリジリと喉の焼き焦げるにおいがしないか。ジリジリと魂の焼き焦げるにおいがしないか。ジリジリと、ジリジリとしないか、魂は。恋人からのプレゼントが、炎の通る道を、ぼくの喉のなかに開いてくれた。偶然のつくる火の道だ。魂のジリジリと焼き焦げる味がする。あまい酒だ。偶然がもたらせた火の道だ。ほら、ジリジリと魂の焼き焦げるにおいがしないか。My Sweet Baby! Love & Vodka! 「運命とは偶然に他ならないのではないか?」(フィリップ・ホセ・ファーマー『飛翔せよ、遙かなる空へ』下・48、岡部宏之訳)「だれもが自分は自由だと思っとるかもしれん。しかし、だれの人生も、たまたま知りあった人たち、たまたま居合わせた場所、たまたまでくわした仕事や趣味で作りあげられていく。」(コードウェイナー・スミス『ノーストリリア』浅倉久志訳)「すべては同じようにはかなく移ろいやすいものだ。少なくともそのために、束の間のものを普遍化するために書く。たぶん、それは愛。」(サバト『英雄たちと墓』第?部・四、安藤哲行訳)「ぼくにとってこれが人生のすべてだった。」(グレッグ・イーガン『ディアスポラ』第三部・8、山岸 真訳)「なんのための芸術か?」(ホフマンスタール『一人の死者の影が……』川村二郎訳)「作家は文学を破壊するためでなかったらいったい何のために奉仕するんだい?」(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)「言葉以外の何を使って、嫌悪する世界を消しさり、愛しうる世界を創りだせるというのか?」(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)ウォッカ。火のようにあまくて、うまい酒だ。喉が熱い。火のように熱い。真っ赤に焼けた火の道だ。ほら、ジリジリと魂の焼き焦げるにおいがしないか。 二〇一四年八月三十一日 「できそこないの天使」  瞳もまだ閉じていたし、翼も殻を抜け出たばかりの蝉の翅のように透けていて、白くて、しわくちゃだったけれど、六日もすると、鉢植えの天使は、ほぼ完全な姿を見せていた。眺めていると、そのやわらかそうな額に、頬に、唇に、肩に、胸に、翼に、腰に、太腿に、この手で触れたい、この手で触れてみたい、この手で触りたい、この手で触ってみたいと思わせられた。そのうち、とうとう、その衝動を抑え切れなくなって、舌の先で、唇の先で、天使の頬に、唇に、その片方の翼の縁に触れてみた。味はしなかった。冷たくはなかったけれど、生き物のようには思えなかった。血の流れている生き物の温かさは感じ取れなかった。舌の先に異物感があったので、指先に取ってみると、うっすらとした小さな羽毛が、二、三枚、指先に張りついていた。鉢植えの上に目をやると、瞳を閉じた天使の顔が、苦悶の表情に変わっていた。ぼくの舌や唇が触れたところが、傷んだ玉葱のように、半透明の茶褐色に変色していた。目を開けるまでは、けっして触れないこと……。あの男の言葉が思い出された。  机の引き出しから、カッター・ナイフを取り出して、片方の翼を切り落とした。すると、その翼の切り落としたところから、いちじくを枝からもぎ取ったときのような、白い液体がしたたり落ちた。  その後、何度も公園に足を運んだけれど、あの男には、二度と出会うことはなかった。 ---------------------------- [自由詩]Raman (分光)/アラガイs[2020年11月24日7時05分] 月の灯り陽の光り 誰もいない銀の馬車  不幸など誰が予測できるだろう 誰も予測できないから不幸ではないのか あの人たちも 傍らで見覚えのない家族が啜り泣いている 奪われたのは肉体かそれとも 輝きを放つ魂なのか 死が迷光の扉を開けて近づいてくる 誰もが予感を放棄する 突然の雷鳴に戦いている 無数の影が背中を割った 囁くのはいつも鳥たちの会話 季節に咲く花々よ幸いか樹の枝は 飾り気のない白い壁が にぎやかさに時を弾ませる 誰だろう 枕元から小さな息がゆれた 長い髪の毛のほつれ 少女が近くにいるらしい そして動かないわたしの指先に縫いぐるみを押しあてた  ( だめよ こちらにいらっしゃい ) 声を殺して若い母親は叫んだ 走り去る音が響きながら消えた ぐるぐるとあたまの中を駆け巡る  unknown ひとすじに涙はこぼれ 幼いころのわたしが いま永遠の孤独を感じている  ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]なんちゃって詩人の陰謀論/ジム・プリマス[2020年11月24日22時31分] なんちゃって詩人の陰謀論 経済に関してはニワカ勉強なので間違いもあるかもしれないが、国の経済目標は年率で2%のインフレを目指すということで、これを達成するために、コロナ過の今の状況で、一番、手っ取り早い方法は、特別給付金を毎月でも、五万円なり十万円なり、国民に一律に給付して、国民の手元に金を渡して、これを消費してもらい、市場に金を流すことであり、そうすることによって市場に金を流通させることだ。それなのに内閣も財務省も何もしようとしない。 20年続いたデフレと二度の増税で、国民の手元にも市場にも金が不足している。国民は金を使おうにも使えない状況だ。こういう状況に国民を追い込んでおいて、内閣も財務省も何にもしないのは、一部の、今、手元に金がある金持ちと、多額の内部留保金をためこんでいる大企業以外の勢力を、すべて自滅に追い込もうとする、もくろみが、今の内閣と財務省にあるのではないかという気にさえなってくる。 一刻も早く、特別給付金の第二弾が実現することを切に願う。 ---------------------------- [自由詩]色を食べたなまえ/アラガイs[2020年11月25日1時49分] はなしを食べたおかあさん おとうさんはまだ会社にいる ボクは画用紙にクレヨンをはしらせる えんぴつでなまえのつづきを書いている いろはたのしい 赤や青や黄色 たくさんの色を食べて ボクはおかあさんとおとうさんを書いている ※ 参照  なまえを食べたなまえ氏のなまえによる ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一四年九月一日─三十一日/田中宏輔[2020年11月29日21時00分] 二〇一四年九月一日 「変身前夜」  グレゴール・ザムザは、なるべく音がしないようにして鍵を回すと、ドアのノブに手をかけてそっと開き、そっと閉めて、これまた、なるべく音がしないようにして鍵をかけた。家のなかは外の闇とおなじように暗くてしずかだった。父親も母親も出迎えてはくれなかった。妹のグレーテも出迎えてはくれなかった。もちろん、こんなに遅くなってしまったのだから、先に寝てしまっているのだろう。父親も母親も、もう齢なのだから。しかも、ぼくのけっして多くはない給料でなんとか家計をやりくりしてくれているのだから、きっと気苦労もすごくて、ぼくが仕事を終えて遅くなって帰ってくるころには、その気苦労のせいで、ふたりの身体はベッドのくぼみのなかにすっぽりと包みこまれてしまっているにちがいない。申し訳ないと、こころから思っている。こんな時間なのだから。妹のグレーテだって、眠気に誘われて、ベッドのなかで目をとじていることだろう。グレゴールは自分の部屋のなかに入ると、書類がぎっしり詰まっている鞄を机のうえに置いて、服を着替えた。すぐにでも眠りたい、あしたの朝も早いのだから、と思ったのだが、きょう訪問したところでの成果を、あした会社で報告しなければならないので、念のためにもう一度見直しておこうと思って、机のうえのランプに火をつけると、その灯かりのもとで、鞄のなかから取り出した報告書に目を通した。セールスの報告は、まずそれがよい結果であるのか、よくない結果であるのかを正確に判断しなければならず、そのうえ、その報告の順番も大事な要素で、その報告する順番によっては、自分に対する評価がよくもなり、よくなくもなるのであった。グレゴールは報告する事項の順番を決めると、その順番に、こころのなかで、上司のマネージャーに伝えるべきことを復唱した。朝にもう一度目を通そうと思って、机のうえに書類を置いてランプの火を消すと、グレゴールはベッドのなかに吸い込まれるようにして身を横たえた。グレゴールは知らなかったし、もちろん、グレゴールの両親も、彼の妹も知らなかったし、彼らが住んでいる街には、だれ一人知っているものはいなかったのだが、先月の末に焼失した大劇場跡に一台の宇宙船が着陸したのだった。宇宙船といっても、小さなケトルほどの大きさの宇宙船だった。宇宙船は、ちょうどグレゴールがすっかり眠り込んだくらいの時間に到着したのであった。到着するとすぐに、宇宙船のなかから黒い小さなかたまりが数多く空中に舞い上がっていった。その黒い小さなかたまりは、一つ一つがすべて同じ大きさのもので、まるで甲虫のような姿をしていた。グレゴールの部屋の窓の隙間から、そのうちの一つの個体が侵入した。それは眠っているグレゴールの耳元まで近づくと、昆虫の口吻のようなものを伸ばして、グレゴールの耳のなかに挿入した。彼はとても疲れていて、そういったものが耳の穴のなかに入れられても、まったく気づくこともなく目も覚まさなかった。昆虫や無脊椎動物のなかには、獲物にする動物が気がつかないように、神経系統を麻痺させる毒液を注入させてから、獲物の体液を吸い取るものがいる。この甲虫のような一つの黒い小さなかたまりもまた、グレゴールの内耳の組織に神経を麻痺させる毒液を注入させて毒液が効果を発揮するまでしばらくのあいだ待ち、昆虫の口吻のようなものを内耳のなかからさらに奥深くまで突き刺した。そうして聴力をも無効にさせたあと、その黒い小さなかたまりはグレゴールの脳みそを少しすすった。すると、自分のなかにあるものを混ぜて、ふたたびグレゴールの脳みそのなかにそれを吐き出した。それは呼吸のように繰り返された。すする量が増すと、吐き出される量も増していった。そのたびに、黒い小さなかたまりは、すこしずつ大きさを増していった。もしもそのとき、グレゴールに聴力があれば、自分の脳みそがすすられ、そのあとに、もとの脳みそではないものが、自分の頭のなかに注入されていく音を聞くことができたであろう。「ちゅー、ぷわー、ちゅー、ぷわー、ちゅー、ぷわー、ちゅー、ぷわー。」という音を。「ちゅるるるるー、ぷわわわわー、ちゅるるるるー、ぷわわわわー、ちゅるるるるー、ぷわわわわー、ちゅるるるるー、ぷわわわわー。」という音を。交換は脳みそだけではなかった。肉や骨といったものもどろどろに溶かされ、黒いかたまりに吸収されては吐き戻されていった。そのたびに、黒い小さなかたまりは大きくなり、グレゴールの身体は小さく縮んでいった。やがて交換が終わると、黒い小さなかたまりであったものは人間の小さな子どもくらいの大きさになり、グレゴールの身体であったものは段ボールの箱くらいの大きさになっていた。すべてがはじまり、すべてが終わるまでのあいだに、夜が明けることはなかった。もとは黒い小さなかたまりであったがいまでは透明の翅をもつ妖精のような姿をしたものが、手をひろげて背伸びをした。妖精の身体はきらきらと輝いていた。太陽がまだ顔をのぞかせてもいない薄暗闇のなかで、妖精の身体は光を発してきらきらと輝いていた。妖精が翅を動かして空中に浮かびあがると、机のうえに重ねて置いてあった書類の束がばらばらになって部屋じゅうに舞い上がった。妖精は窓辺に行き、その小さな手で窓をすっかりあけきると、背中の翅を羽ばたかせて未明の空へと飛び立った。もとはグレゴールであったがいまでは巨大な黒い甲虫のようなものになった生き物は、まだ眠っていた。もうすこしして太陽が顔をのぞかせるまで、それが目を覚ますことはなかった。 二〇一四年九月二日 「言葉の重さ」 水より軽い言葉は 水に浮く。 水より重い言葉は 水に沈む。 二〇一四年九月三日 「問題」  1秒間に、現実の過去の3分の1が現実の現在につながり、その4分の1が現実の未来につながる。現実の過去の3分の2が現実の現在につながらず、その現実の現在の4分の3が現実の未来につながらない。1000秒後に、いま現実の現在が、現実の過去と現実の未来につながっている確率を求めよ。 二〇一四年九月四日 「うんこ」  西院のブレッズ・プラスというパン屋さんでBLTサンドイッチのランチセットを食べたあと、二階のあおい書店に行くと、絵本のコーナーに、『うんこ』というタイトルの絵本があって、表紙を見たら、「うんこ」の絵だった。むかし、といっても、30年ほどもまえのこと、大阪の梅田にあったゲイ・スナックで、たしかシャイ・ボーイっていう名前だったと思うけど、そこで、『うんこ』というタイトルの写真集を見たことがあった。うんこだらけの写真だった。若い女の子がいろんな格好でうんこをして、そのうんこを男が口をあけて食べてる写真がたくさん載ってた。芸術には限界はないと思った。いや、エロかな。エロには限界がないってことなのかな。そいえば、「トイレの落書き」を写真に撮った写真集も見たことがあった。バタイユって、縛り付けた罪人を肉切り包丁で切り刻む中国の公開処刑の写真を見て勃起したみたいだけど、あ、エロスを感じたって書いてただけかもしれないけれど、人間の性欲異常ってものには限界がないのかもしれないね。20代のころ、夜、葵公園で話しかけた青年に、初体験の相手のことを訊いたら、「犬だよ。」と答えたので、「冗談?」って言うと、首をふるから、びっくりして、それ以上、話をするのをやめたことがあるけど、いまだったら、じっくり聞いて、あとでそのことを詩に書くのに、もったいないことをした。ちょっとやんちゃな感じだったけど、体格もよくって、顔もかわいらしくて、好青年って感じだったけど、犬が初体験の相手だというのには、ほんとにびっくりした。ぼくは性愛の対象としては人間にしか興味がないので、他の動物を性欲の対象にしているひとの気持ちがわからないけれど、まあ、人間より犬のほうが好きってひとがいても、ぼくには関係ないから、どうでもいいか。えっ、でも、それって、もしかすると、動物虐待になるのかな。動物へのセックスの強要ってことで。同意の確認があればいいのかな。どだろ。ところで、そいえば、ゲイやレズビアンの性愛とか性行為なんか、もうふつうに文学作品に描かれてるけど、動物が性対象の小説って、まだ読んだことがないなあ。あるんやろうか。あるんやろうなあ。ただぼくが知らないだけで。 二〇一四年九月五日 「イエス・キリスト」  きょう、仕事帰りに、電車のなかで居眠りしてうとうとしてたら、そっと手を握られた。見ると、イエス・キリストさまだった。「元気を出しなさい。わたしがいつもあなたといっしょにいるのだから。」と言ってくださった。はいと言ってうなずくと、すっと姿が見えなくなった。ありゃ、まただれかのしわざかなと思って周りを見回すと、何人か、あやしいヤツがいた。 二〇一四年九月六日 「本」  地面は本からできている。本のうえをぼくたちは歩いている。木も本でできているし、人間や動物たちも、鳥や魚だって、もともとは本からできている。新約聖書の福音書にも書かれてある。はじめに本があった。本は言葉あれと言った。すると言葉があった。本の父は本であり。その本の父の父も本であり、その本の父の父の父も…… 二〇一四年九月七日 「カインとアベル」  カインはアベルを殺さなかった。カインのアベルを愛する愛は、カインのアベルを憎む憎しみより強かったからである。そのため人間の世界では、文明が発達することもなく、文化が起こることもなかった。人間には、音楽も詩も演劇もなかった。ただ祈りと農耕と狩猟の生活が、人間の生活のすべてであった。 二〇一四年九月八日 「存在の卵」 二本の手が突き出している その二本の手のなかには ひとつずつ卵があって 手の甲を上にして 手をひらけば 卵は落ちるはずであった もしも手をひらいても 卵が落ちなければ 手はひらかれなかったのだし 二本の手も突き出されなかったのだ 二〇一四年九月九日 「生と死」  みんな死ぬために生きていると思っているようだが、みんな生きるために死んでいるのである。 二〇一四年九月十日 「尊厳詩法案」  今国会に、詩を目前にして、なかなかいきそうにないひとに、苦痛のない詩を与えて、すみやかにいかせる、という目的の「尊厳詩法案」が提出されたそうだ。 二〇一四年九月十一日 「チュー」  けさ、ノブユキとの夢を見て目が覚めた。ぼくと付き合ってたときくらいの二人だった。ぼくの引っ越しを手伝ってくれてた。あと3年、アメリカにいるからって話だった。じっさい、ノブユキは付き合ってたとき、アメリカ留学でシアトルにいた。シアトルと日本とのあいだで付き合ってたのだ。ぼくが28才と29才で、ノブユキは21才と22才だった。夢中で好きになること。好き過ぎて泣けてしまったのは20代で、しかもただ一度きりだった。ぼくが29才の誕生日をむかえて何日もたってなかったと思うけど、そんな日に、ノブユキから、「ごめんね。別れたい。」と言われた。アメリカからの電話でだった。どうやら、むこうで新しい恋人ができたかららしい。「その新しい恋人と、ぼくとじゃ、なにが違うの?」って聞くと、「齢かな。ぼくと同い年なんだ。」との返事。そのときには涙は出なかった。齢のことなら、仕方ないよなって思った。「いいよ。それできみが幸せなら。」そう返事した。涙が出たのは、別れたんだと思って、いろいろ思い出して、三日後。好きすぎて泣けてしまったのだと思う。別れてから8年後に、偶然、ノブユキと大阪で出合ったことを、國文學に書いたことがあった。あるとき、ノブユキに、「なに考えてるか、すぐにわかるわ。」と言われたけど、ぼくには自分がなにを考えているのかわからなかった。なんか考えてるだろうって、友だちからときどき言われるんだけど、なにも考えてないときに限って言われてる、笑。きょうの昼間、買い物に出たら、「あっちゃん!」って言われたから、振り返ったら、すこしまえに付き合ってた男の子が笑っていた。「いっしょにご飯でも食べる?」と言うと、「いいよ。」と言うので、マクドナルドでハンバーガーのランチセットを買って、部屋に持ち帰って、いっしょに食べた。食べたあと、チューしようとしたら、反対にチューされた。 二〇一四年九月十二日「普通と特別」 ふつうのひとも、とくべつなひとだ。とくべつなひとも、ふつうのひとだ。 二〇一四年九月十三日 「確率生物」 「確率生物研究所」というところがイギリスにはあって、そこで捕獲されたかもしれない「雲蜘蛛」という生物がちかぢか日本にも上陸するかもしれないという。なんでも、水でできた躰をしているかもしれず、水でできた糸を編んで巣を張るかもしれないらしい。部屋に戻って、パソコンつけて、ツイッター見てたら、そんな記事がツイートで流れていて、ふと、なにかが落ちるのを感じて振り返った。部屋の天井の隅に、小さな雲が浮かんでいて、しょぼしょぼ水滴を落としてた。これか、これが雲蜘蛛なんだなって思った。見てたら、ゴロゴロ鳴って、小さな稲妻をぼくの指のさきに落とした。ものすごく痛かった。しばらくしてからもビリビリしていた。 二〇一四年九月十四日 「真実と虚偽」  真実から目をそらすものは、真実によって目隠しされる。虚偽に目を向けるものは、虚偽によって目を見開かされる。 二〇一四年九月十五日 「湖上の吉田くん」 湖の上には 吉田くんが一人、宙に浮かんでいる 吉田くんは 湖面に映った自分と瓜二つの吉田くんに見とれて 動けなくなっている 湖面は 吉田くんの美しさに打ち震えている 一人なのに二人である あらゆる人間が 一人なのに二人である 湖面が分裂するたびに 吉田くんの数が増殖していく 二人から四人に 四人から八人に 八人から十六人に 吉田くんは 湖面に映った自分と瓜二つの吉田くんに見とれて 動けなくなっている 無数の湖面が 吉田くんの美しさに打ち震えている どの湖の上にも 吉田くんが 一人、宙に浮かんでいる 二〇一四年九月十六日 「戴卵式」 12才になったら 大人の仲間入りだ 頭に卵の殻をかぶせられる 黄身が世の歌を歌わされる それからの一生を 卵黄さまのために生きていくのだ ぼくも明日 12才になる とても不安だけど 大人といっしょで ぼくも卵頭になる ざらざら まっしろの 見事なハゲ頭だ 二〇一四年九月十七日 「「無力」についての考察」 力のない無力は無であり、無のない無力は力である。 二〇一四年九月十八日 「詩集」  タクちゃんに頼んで、京都市中央図書館に、ぼくの詩集の購入リクエストをしてもらって、いままで何冊か購入してもらってたんだけど、きょう、タクちゃんちに、京都市中央図書館のひとから電話がかかってきて、借り出すひとが皆無だったそうで、田中宏輔の詩集は、京都市中央図書館では二度と購入しませんと言われたらしい。購入したって図書館から通知がきたら、借り出すようにタクちゃんに言っておけばよかったなと思った。 二〇一四年九月十九日 「指のないもの」  指のない街。指のない風景。指のない手。指のない足。指のない胸。指のない頭。指のない腰。指のない机。指のない携帯。指のない会話。指のない俳句。指のない酒。指のないコーヒー。指のないハンカチ。指のない苺。 二〇一四年九月二十日 「指のないひと」  そいえば、むかしちょこっと会ってたひと、どっちの手か忘れたけど、どの指かも忘れたけど、指のさきがなかった。どうしてって訊くと、「へましたからや。」って言うから、そうか、そういうひとだったのかと思ったけど、お顔はとてもやさしい、ぽっちゃりとした、かわいらしいひとだった。背中の絵は趣味じゃなかったけど。 二〇一四年九月二十一日 「緑がたまらん。」 「えっ、なに?」と言って、えいちゃんの顔を見ると、ぼくの坐ってるすぐ後ろのテーブル席に目をやった。ぼくもつい振り返って見てしまった。柴田さんという68才になられた方が、向かい側に腰かけてた若い女性とおしゃべりなさっていたのだけれど、その柴田さんがあざやかな緑のシャツを着てらっしゃってて、その緑のことだとすぐに了解して、えいちゃんの顔を見ると、もう一度、 「あの緑がたまらんわ〜。」と。  笑ってしまった。えいちゃんは、ぜんぜん内緒話ができない人で、たとえば、ぼくのすぐ横にいる客のことなんかも、「あ〜、もう、うっとしい。はよ帰れ。」とか平気でふつうの声で言うひとで、まあ、だから、ぼくは、えいちゃんのことが大好きなのだけれど、ぜったい柴田さんにも聞こえていたと思う、笑。ぼくはカウンター席の奥の端に坐っていたのだけれど、しばらくして、八雲さんという雑誌記者のひとが入ってきて、入口近くのカウンター席に坐った。以前にも何度か話をしたことがあって、腕とか、とくに鼻のさきあたりが強く日に焼けていたので、 「焼けてますね。」 と声をかけると、 「四国に行ってました。ずっとバイクで動いてましたからね。」 「なんの取材ですか?」 「包丁です。高松で、包丁をといでらっしゃる方の横で、ずっとインタビューしてました。」 ふと、思い出したかのように、 「あ、うつぼを食べましたよ。おいしかったですよ。」 「うつぼって、あの蛇みたいな魚ですよね。」 「そうです。たたきでいただきました。おいしかったですよ。」 「ふつうは食べませんよね。」 「数が獲れませんから。」 「見た目が怖い魚ですね。じっさいはどうなんでしょう? くねくね蛇みたいに動くんでしょうか?」 「うつぼは底に沈んでじっとしている魚で、獰猛な魚なんですよ。毒も持ってますしね。 近くに寄ったら、がっと動きます。ふだんはじっとしてます。」 「じっとしているのに、獰猛なんですか?」 「ひらめも、そうですよ。ふだんは底にじっとしてます。」 「どんな味でしたか?」 「白身のあっさりした味でした。」 「ああ、動かないから白身なんですね。」 「そうですよ。」  話の途中で、柴田さんが立ち上がって、こちらに寄ってこられて、ぼくの肩に触れられて、 「一杯、いかがです?」 「はい?」 と言って顔を見上げると、陽気な感じの笑顔でニコニコなさっていて 「この人、なんべんか見てて、おとなしい人やと思ってたんやけど、この人に一杯、あげて。」と、マスターとバイトの女の子に。 マスターと女の子の表情を見てすかさず、 「よろしいんですか?」 と、ぼくが言うと、 「もちろん、飲んでやって。きみ、男前やなあ。」 と言ってから、連れの女性に、 「この人、なんべんか合うてんねんけど、わしが来てるときには、いっつも来てるんや。で、いっつも、おとなしく飲んでて、ええ感じや思ってたんや。」 と説明、笑。 「田中といいます、よろしくお願いします。」 「こちらこそ、よろしくお願いします。」 みたいなやりとりをして、焼酎を一杯ごちそうになった。 えいちゃんと、八雲さんと、バイトの女の子に、 「朝さあ。西院のパン屋さんで、モーニングセット食べてたら、目の前をバカボンのパパみたいな顔をしたサラリーマン風のひとが、まあ、40歳くらいかな。そのひとがセルフサービスの水をグラスに入れるために、ぼくの目の前を通って、それから戻って、ぼくの隣の隣のテーブルでまた本を読み出したのだけれど、その表紙にあったタイトルを見て、へえ? って思ったんだよね。『完全犯罪』ってタイトルの小説で、小林泰三って作者のものだったかな。写真の表紙なんだけど、単行本だろうね。タイトルが、わりと大きめに書かれてあって、ぼくの読んでたのが、P・D・ジェイムズの『ある殺意』だったから、なんだかなあって思ったんだよね。隣に坐ってたおばさんの文庫本には、書店でかけられた紙のカバーがかかってて、タイトルがわからなかったんだけど、ふと、こんなこと思っちゃった。みんな朝から、おだやかな顔をして、読んでるものが物騒って、なんだかおもしろいなって。」 「隣のおばさんの読んでらっしゃった本のタイトルがわかれば、もっとおもしろかったでしょうね。」 と、バイトの女の子。 「そうね。恋愛ものでもね。」 と言って笑った。 緑がたまらん柴田さんが 「横にきいひんか?」 とおっしゃったので、柴田さんの坐ってらっしゃったテーブル席に移動すると、マスターが、 「田中さんて、きれいなこころしてはってね。詩を書いておられるんですよ。このあいだ、この詩集をいただきました。」 と言って、柴田さんに、ぼくの詩集を手渡されて、すると、柴田さん、一万円札を出されて、 「これ、買うわ。ええやろ。」 と、おっしゃったので、 「こちらにサラのものがありますし。」 と言って、ぼくは、リュックのなかから自分の詩集を出して見せると、マスターが受け取った一万円札をくずしてくださってて、 「これで、お買いになられるでしょう。」 と言ってくださり、ぼくは、柴田さんに2500円いただきました、笑。 「つぎに、この子の店に行くんやけど、いっしょに行かへんか?」 「いえ、もうだいぶ酔ってますので。」 「そうか。ほなら、またな。」 すごくあっさりした方なので、こころに、なにも残らなくて。  で、しばらくすると、柴田さんが帰られて、ぼくはふたたび、カウンター席に戻って、八雲さんとしゃべったのだけれど、その前に、フランス人の観光客が二人入ってきて、若い男性二人だったのだけれど、柴田さん、その二人に英語で話しかけられて、バイトの女の子もイスラエルに半年留学してたような子で、突然、店のなかが国際的な感じになったのだけれど、えいちゃんが、柴田さんの積極的な雰囲気を見て、「すごい好奇心やね。」って。ぼくもそう思ってたから、こくん、とうなずいた。女性にはもちろん、ほかのことにも関心が強くって、 人生の一瞬一瞬をすべて楽しんでらっしゃるって感じだった。  柴田さん、有名人でだれか似てるひとがいたなあって思ってたら、これを書いてるときに思いだした。増田キートンだった。 八雲さんが 「犬を集めるのに、みみずをつぶしてかわかしたものを使うんですよ。 ものすごく臭くって、それに酔うんです。もうたまらんって感じでね。」 「犬もたまらんのや。」 と、えいちゃん。 このとき、犬をなにに使うのかって話は忘れた。なんだったんだろう? すぐにうつぼの話に戻ったと思う。あ、ぼくが戻したのだ。 「うつぼって、どうして普及しないのですか?」 と言うと、 「獲れないからですよ。偶然、網にかかったものを地元で食べるだけです。」  このあと、めずらしい食べ物の話が連続して出てきて、その動物たちを獲る方法について話してて、うなぎを獲る「もんどり」という仕掛けに、サンショウウオを獲る話で、「鮎のくさったものを使うんですよ。」という話が出たときに、また、えいちゃんが 「サンショウウオもたまらんねんなあ。」 と言うので、 「きょう、えいちゃん、たまらんって、四回、口にしたで。」 と、ぼくが指摘すると、 「気がつかんかった。」 「たまらんって、語源はなんやろ?」 と言うと、 八雲さんが 「たまらない、こたえられない、十分である、ということかな。」 ぼくには、その説明、わからなくって、と言うと、八雲さんがさらに、 「たまらない。もっと、もっと、って気持ち。いや、十分なんだけど、もっと、もっとね。」  ここで、ぼくは、自分の『マールボロ。』という詩に使った「もっとたくさん。/もうたくさん。」というフレーズを思い出した。八雲さんの話だと、サンショウウオは蛙のような味だとか。ぼくは知らん。 どっちとも食べたことないから。 「あの緑がたまらん。」 ぼくには、えいちゃんの笑顔がたまらんのやけど、笑。  そうそう。おばさんっていうと、朝、よくモーニングを食べてるブレッズ・プラスでかならず見かけるおばさんがいてね。ある朝、ああ、きょうも来てはるんや、と思って、学校に行って、仕事して、帰ってきて、西院の王将に入って、なんか定食を注文したの。そしたら、そのおばさん、ぼくの隣に坐ってて、晩ごはん食べてはったのね。びっくりしたわ〜。人間の視界って、180度じゃないでしょ。それよりちょっと狭いかな。だけど、横が見えるでしょ。目の端に。意識は前方中心だけど。意識の端にひっかかるっていうのかな。かすかにね。で、横を向いたら、そのおばさんがいて、ほんと、びっくりした。 でも、そのおばさん、ぜったい、ぼくと目を合わせないの。いままで一回も目が合ったことないの。この話を、日知庵で、えいちゃんや、八雲さんや、バイトの女の子にしてたんだけど、バイトの子が、「いや、ぜったい気づいてはりますよ。気づいてはって、逆に、気づいてないふりしてはるんですよ。」って言うのだけど、人間って、そんなに複雑かなあ。あ、このバイトの子、静岡の子でね。ぬえって化け物の話が出たときに、ぬえって鳥みたいって言うから、 「ぬえって、四つ足の獣みたいな感じじゃなかったかな?」 って、ぼくが言うと、八雲さんが 「二つの説があるんですよ。鳥の化け物と、四つ足の獣の身体にヒヒの顔がついてるのと。で、そのヒヒの顔が、大阪府のマークになってるんですよ。」 「へえ。」 って、ぼくと、えいちゃんと、バイトの子が声をそろえて言った。なんでも知ってる八雲さんだと思った。  ぬえね。京都と静岡では違うのか。それじゃあ、いろんなことが、いろんな場所で違ってるんやろうなって思った。そんなふうに、いろんなことが、いろんな言葉が、いろんな場所で、いろんな意味になってるってことやろうね。あたりまえか。あたりまえなのかな? わからん。 でも、じっさい、そうなんやろね。 二〇一四年九月二十二日 「時間と場所と出来事」  時間にも困らない。場所にも困らない。出来事にも困らない。時間にも困る。場所にも困る。出来事にも困る。時間も止まらない。場所も止まらない。出来事も止まらない。時間も止まる。場所も止まる。出来事も止まる。時間も改まらない。場所も改まらない。出来事も改まらない。時間も改まる。場所も改まる。出来事も改まる。時間も溜まらない。場所も溜まらない。出来事も溜まらない。時間も溜まる。場所も溜まる。出来事も溜まる。 二〇一四年九月二十三日 「家でできたお菓子」  ヘンゼルとグレーテルだったかな。森のなかに、お菓子でできた家がありました。といった言葉ではじまる童話があったような気がするけど、ふと、家でできたお菓子を思い浮かべた。 二〇一四年九月二十四日 「愛」  二十歳の大学生が、ぼくに言った言葉に、しばし、こころがとまった。とまどった。「恋人と別れてわかったんですけれど、けっきょく、ぼくは自分しか愛せない人間なのだと思います。」 二〇一四年九月二十五日 「過ちは繰り返すためにある。」 まあ、繰り返すから過つのではあるが。 二〇一四年九月二十六日 「神さま」  あなたは目のまえに置いてあるコップを見て、それが神さまであると思うことがありますか? 二〇一四年九月二十七日 「卵」  きょうは、ジミーちゃんと西院の立ち飲み屋「印(いん)」に行った。串は、だいたいのものが80円だった。二人はえび、うずら、ソーセージを二本ずつ頼んだ。どれもひと串80円だった。二人で食べるのに豚の生姜焼きとトマト・スライスを注文したのだが、豚肉はぺらぺらの肉じゃなかった。まるでくじらの肉のように分厚くて固かった。味はおいしかったのだけれど、そもそものところ、しょうゆと砂糖で甘辛くすると、そうそうまずい食べ物はつくれないはずなのであって、まあ、味はよかったのだ。二人はその立ち飲み屋に行く前に、西大路五条の角にある大國屋で紙パックの日本酒を買って、バス停のベンチのうえに坐りながら、チョコレートをあてにして飲んでいたのであるが、西院の立ち飲み屋では、二人とも生ビールを飲んでいた。にんにく炒めというのがあって、200円だったかな、どんなものか食べたことがなかったので、店員に言ったら、店員はにんにくをひと房取り出して、ようじで、ぶすぶすと穴をあけていき、それを油の中に入れて、そのまま揚げたのである。揚がったにんにくの房の上から塩と胡椒をふりかけると、二人の目のまえにそれを置いたのであった、にんにく炒めというので、にんにくの薄切りを炒めたものでも出てくるのかなと思っていたのだが、出てきたそれもおいしかった。やわらかくて香ばしい白くてかわいいにんにくの身がつるんと、房からつぎつぎと出てきて、二人の口のなかに入っていったのであった。ぼくの横にいた青年は、背は低かったが、なかなかの好青年で、ぼくの身体に自分のお尻の一部をくっつけてくれていて、ときどきそれを意識してしまって、顔を覗いたのだが、知らない顔で、以前に日知庵でオーストラリア人の26才のカメラマンの男の子が、ぼくのひざに自分のひざをぐいぐいと押しつけてきたことを思い起こさせたのだけれど、あとでジミーちゃんにそう言うと、「あほちゃう? あんな立ち飲み屋で、いっぱいひとが並んでたら、そら、身体もひっつくがな。そんなんずっと意識しとったんかいな。もう、あきれるわ。」とのことでした。で、そのあと二人は自転車に乗って、四条大宮の立ち飲み屋「てら」に行ったのであった。そこは以前に、マイミクの詩人の方に連れて行っていただいたところだった。で、どこだったかなあと、ぼくがうろうろ探してると、ジミーちゃんが 、「ここ違うの?」と言って、すいすいと建物のなかに入っていくと、そこが「てら」なのであった。「なんで、ぼくよりよくわかるの?」って訊いたら、「表に看板で立ち飲みって書いてあったからね。」とのことだった。うかつだった。メニューには、以前に食べて、おいしいなって思った「にくすい」がなかった。その代わり、豚汁を食べた。サーモンの串揚げがおいしかった。もう一杯ずつ生ビールを注文して、煮抜きを頼んだら、出てきた卵が爆発した。戦場だった。ジミー中尉の肩に腕を置いて、身体を傾けていた。左の脇腹を銃弾が貫通していた。わたしは痛みに耐え切れずうめき声を上げた。ジミー中尉はわたしの身体を建物のなかにまでひきずっていくと、すばやく外をうかがい、扉をさっと閉めた。部屋が一気に暗くなった。爆音も小さくなった。と思う間もなく、窓ガラスがはじけ飛んで、卵型爆弾が投げ入れられ、部屋のなかで爆発した。時間爆弾だった。場所爆弾ともいい、出来事爆弾ともいうシロモノだった。ぼくは居酒屋のテーブルに肘をついて、ジミーちゃんの話に耳を傾けていた。「この喉のところを通る泡っていうのかな。ビールが喉を通って胃に行くときに喉の上に押し上げる泡。この泡のこと、わかる?」「わかるよ。ゲップじゃないんだよね。いや、ゲップかな。まあ、言い方はゲップでよかったと思うんだけど、それが喉を通るってこと、それを感じるってこと。それって大事なんだよね。そういうことに目をとめて、こころをとめておくことができる人生って、すっごい素敵じゃない?」ジミーちゃんがバッグをぼくに預けた。トイレに行くからと言う。ぼくは隣にいる若い男の子の唇の上のまばらなひげに目をとめた。彼はわざとひざを押しつけてきてるんだろうか。むしょうに彼のひざにさわりたかった。ぼくは生ビールをお代わりした。ジミーちゃんがトイレから戻ってきた。男の子のひざがぼくのひざにぎしぎしと押しつけられている。目のまえの卵が爆発した。ジミー中尉は、負傷したわたしを部屋のなかに残して建物の外に出て行った。わたしは頭を上げる力もなくて、顔を横に向けた。小学生時代にぼくが好きだった友だちが、ひざをまげて坐ってぼくの顔を見てた。名前は忘れてしまった。なんて名前だったんだろう。ジミーちゃんに鞄を返して、ぼくは生ビールのお代わりを注文した。ジミーちゃんも生ビールのお代わりを注文した。脇腹が痛いので、見ると、血まみれだった。ジミーちゃんの顔を見ようと思って顔を上げたら、そこにあったのは壁だった。シミだらけのうす汚れた壁だった。わたしが最後に覚えているのは、名前を忘れたわたしの友だちが、仰向けになって床のうえに倒れているわたしの顔をじっと眺めるようにして見下ろしていたということだけだった。 二〇一四年九月二十八日 「シェイクスピアの顔」  塾の帰りに、五条堀川のブックオフで、『シェイクピアは誰だったか』という本を200円で買った。シェイクスピア関連の本は、聖書関連の本と同じく、数多くさまざまなものを持っているが、これもまた、ぼくを楽しませてくれるものになるだろうと思う。その筆者は、文学者でもなく研究者でもない人で、元軍人ってところが笑ったけれど、外国では、博士号を持ってる軍人や貴族がよくいるけど、この本の作者のリチャード・F・ウェイレンというひともそうみたい。あ、元軍人ね。学位は政治学で取ったみたいだけど、シェイクスピアに魅かれて、というのは、そこらあたりにも要因があるのかもしれない。『シェイクスピアは誰だったか』めちゃくちゃおもしろい。シェイクスピアは、ぼくのアイドルなのだけれど、いままでずっと、よく知られているあの銅版画のひとだと思ってた。でも、どうやら違ってたみたい。それにしても、いろんな顔の資料があって、それが見れただけでも十分おもしろかったかな。シェイクスピアっていえば、あのよく知られているハゲちゃびんの銅版画の顔が、ぼくの頭のなかでは、いちばん印象的で、っていうか、シェイクスピアを思い浮かべるときには、これからも、きっと、あのよく知られたハゲちゃびんの銅版画の顔を思い出すとは思うけどね。 二〇一四年九月二十九日 「きょうは何の日なの?」  コンビニにアイスコーヒーとタバコを買いに出たら、目の前を、いろんな色と形の帽子がたくさん歩いてた。あれっと思ってると、その後ろから、たくさんの郵便ポストの群れが歩いてた。きょうは何の日なんやろうと思ってると、郵便ポストの群れの後ろからバスケットシューズの群れが歩いてた。うううん。きょうは何の日なんやろうと思ってたら、だれかに肩に手を置かれて、振り返ったら、ぼくの頬を指先でつっつくぼくがいた。ええっ? きょうは何の日なの? って思って、まえを見たら、ただ挨拶しようとして、頬にかる〜く触れただけのぼくの目を睨みつけてくるぼくがいて、びっくりした。きょうは何の日なの? 二〇一四年九月三十日 「夢は水」  けさ、4時20分に起きた。睡眠時間3時間ちょっと。相変わらず短い。ただし、夢は見ず。さいしょ変換したとき、「夢は水」と出た。 二〇一四年九月三十一日 「返信」  ある朝、目がさめると、自分が一通の返信になっていたという男の話。その返信メールは、だれ宛に書かれたものか明記されておらず、未送信状態にあったのだが、男は自分でもだれ宛のメールであったのか、文意からつぎからつぎへと推測していくのだが、推測していくたびに、その推測をさらにつぎつぎと打ち消す要素が思い浮かんでいくという話。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一四年十月一日─三十一日/田中宏輔[2020年12月5日8時23分] 二〇一四年十月一日 「ネクラーソフ『だれにロシアは住みよいか』大原恒一訳」 血糖値が高くて ブタのように太ったぼくは 運動しなきゃならない。 それで 自転車に乗って 遠くのブックオフにまで行かなきゃいけない。 で 東寺のブックオフに行ったら ネクラーソフの詩集が 108円のコーナーにあって パラ読みしていたら 「ロシアでは あなたたちもよく知ってのとおり だまって頭を下げることを だれにも禁じてはいません!」 って、あって 目にとまった。 これって、 どこかで 近い言い回しを見た記憶があって うううむ と思ったのだけれど 詩集は 二段組で 内容は 農奴というのかな 百姓の苦しさと 百姓のずるさと 貴族の虚栄と 貴族の没落の予感みたいなこととか 宗教的なところとかばっかで 退屈な詩集だなあって思ってしまって さっき読んだとこ どこにあるかな あれは、よかったなって思って ページをペラペラめくって さがした。 あると思ってた どこかのページの左下の段の左側を見ていった。 さがしたら あると思ったんだけど それがなくって 二回 ペラペラしたんだけど あると思ってた どこかのページの左下の段の左側にはなくって 記憶違いかなって思って まあ、よくあることなんだけど こんどは 左のページの上の段の左側を見ながら ペラペラめくっていたら あった。 で もう一度 見る。 「ロシアでは あなたたちもよく知ってのとおり だまって頭を下げることを だれにも禁じてはいません!」 これ 覚えちゃおう って思って この部分だけに 108円払うのも なんだかなあって思ってね。 で 何度か こころのなかで復唱して CDやDVDのある一階に降りて レインのDVDを買おうかどうか迷ってたら うんこがしたくなって 帰って うんこをしようと思って いったんブックオフから出て 自転車に乗って 帰りかけたんだけど 東寺の前を通り過ぎて 短い交差点を渡って なんか、たこ焼き屋だったかな そこの前まできたときくらいに でも ネクラーソフの言葉から そだ。 ふつうのことを禁じるって たしか レイナルド・アレナスが書いてたぞ。 キューバでは たとえ 同性同士でも バスのなかや 喫茶店のなかでも 見つめ合ってはいけないって 同性愛者を差別する 処罰する法律があったって カストロがつくった ゲイ差別の法律があったって そいえば 厳格なイスラム教の国では 同性愛者だってわかったら 拷問死に近い 二時間にもおよぶ 石打の刑という死刑制度があったんだ。 これ 何ヶ月かまえに ニュースになってて 「宗教が違うんだから、 同性愛者が処罰されても仕方がないでしょう」 みたいな発言をしてたバカがいて めっちゃ腹が立った記憶があったから ブタは自転車の向きを変えて たこ焼き屋の前で キュルルンッ と自転車をまるごと反転させて 東寺のブックオフへと戻ったのであった。 二階に行って 108円の棚のところに行くと 白髪のジジイがいて もしや 吾が輩の大切な彼女をば と思ったのだけれど ネクラーソフの詩集の 表紙のなかにいた女性は無事で ぼくの腕のなかに へなへな〜 と、もたれかかってきたのであった。 彼女は たぶん、ただの百姓娘なのだろうけれど とても美しい女性であった。 可憐と言ってもよかった。 その手はゴツゴツしてるみたいだけどね。 そして その目は 人間は生きることの厳しさに耐えなければならない ということを身をもって知っている者だけが持つことのできる 生命の輝きを放っていた。 ブタは彼女を胸に抱き 階段を下りて 一階で勘定をすますと 全ゴムチューブの ノーパンクの 重たい自転車を 全速力で ぶっ飛ばしたのであった。 それにしても イスラム圏じゃ 同性愛者は殺されても仕方ないじゃない って書いてたバカのことは許せん。 まあ、バカには、なにを言っても なにか言ったら こちらもバカになるだけだし ムダなんだけどね。 人間には バカとカバがいてね。 「晴れ、ときどき殺人」 みたいに ひとが簡単に殺人者になることがあるように バカがカバになることもあれば カバがバカになることもあるんだけど ずっとカバがカバだってこともないしね バカがバカだってこともないしね でも、どちらかというと ぼくはバカよりカバがいいなあ。 あ ぼくはブタだったんだ〜。 まっ、 でも、これは 観察者側の意見でね。 あ うんこするの忘れてた。 ところで 途中で寄った フレスコから出たときに スーツ姿の まあまあかわいいおデブの男の子が 図面かな 書類をひらいて見ながら 歩いていたの。 薄緑色の作業着みたいなツナギの制服着て。 ぼくはフレスコから帰るために自転車を乗ったとこだったか 乗ろうとしてる直前で 彼のあそこんとこに目がいっちゃった。 だってチンポコ 完全にボッキさせてたんだもの。 すっごくかたそうで むかって左の上側に突き出てた。 ええっ? って思った。 図面の入った筒を握ってて ボッキしてたのかな。 持ち方がエロかったもの。 かわいかった。 セルの黒メガネの彼。 右利きだよね。 ついて行こうかなって いっしゅん思ったけど それって、おかしいひとに思われるから やめた。 部屋に帰って フレスコで買った 麒麟・淡麗〈生〉を飲みながら ネクラーソフの詩集の表紙のなかにいる 彼女の目の先にある ロシアの平原に ぼくも目を向けた。 二〇一四年十月二日 「みにくい卵の子」 みにくい卵の子は ほんとにみにくかったから 親鳥は そのみにくい卵があることに気がつかなかった みにくい卵の子は かえらずに くさっちゃった 二〇一四年十月三日 「雲」 さいきん、よく空を見上げます。 雲のかたちを覚えていられないのに、 形を見て、うつくしいと思ってしまいます。 覚えていることができるものだけが、 美しいのではないのですね。 恋人たちの表情にも きっと憶えていないもので とてもすてきなものが それはもう、いっぱい、いっぱい あったのでしょうね。 二〇一四年十月四日 「田ごとのぼく」 たしかに 田んぼ 一つ一つが 月を映していた。 歩きながら ときどき月を見上げながら 学校から遅く帰ったとき 月も田んぼの水面で 少し移動して でも つぎの田んぼのそばに行くと すでにつぎの田んぼに移動していて ああ 田ごとの月って このことかって思った。 けれど ぼくの姿だって ぼくが移動すれば つぎつぎ違う田んぼに映ってるんだから ぼくだって 田ごとのぼくだろう。 ぼくが 田んぼから月ほどにも遠くいる必要はないんだね。 月ほどに遠く 月のそばにいると 月といっしょに 田んぼに光を投げかけているのかもしれない。 ぼくも月のように 光り輝いてるはずだから。 違うかな? どだろ。 二〇一四年十月五日 「恋人たち」 「宇宙人みたい。」 「えっ?」 ぼくは、えいちゃんの顔をさかさまに見て そう言った。 「目を見てみて。」 「ほんまや、こわっ!」 「まるで人間ちゃうみたいやね。」 よく映像で 恋人たちが お互いの顔をさかさに見てる 男の子が膝まくらしてる彼女の顔をのぞき込んでたり 女の子が膝まくらしてる彼氏の顔をのぞき込んでたりしてるけど まっさかさまに見たら まるで宇宙人みたい 「ねっ、目をパチパチしてみて。  もっと宇宙人みたいになる。」 「ほんまや!」 もっと宇宙人! ふたりで爆笑した。 数年前のことだった。 もうふたりのあいだにセックスもキスもなくなってた。 ちょっとした、おさわりぐらいかな。 「やめろよ。  きっしょいなあ。」 「なんでや?  恋人ちゃうん? ぼくら。」 「もう、恋人ちゃうで。」 「えっ?  ほんま?」 「うそやで。」 うそやなかった。 それでも、ぼくは i think of you. i cannot stop thinking of you. なんもなくなってから 1年以上も 恋人やと思っとった。 二〇一四年十月六日 「それぞれの世界」 ぼくたちは 前足をそろえて テーブルの上に置いて 口をモグモグさせながら 店のなかの牧草を見ていた。 ふと、彼女は すりばち状のきゅう歯を動かすのをやめ テーブルのうえにだら〜りとよだれを落としながら モーと鳴いた。 「もう?」 「もう。」 「もう?」 「もう!」 となりのテーブルでは 別のカップルが コケー、コココココココ コケーっと鳴き合っていた。 ぼくたちは 前足をおろして 牧草地から 街のなかへと となりのカップルも おとなしくなって えさ場から 街のなかへと それぞれの街のなかに戻って行った。 二〇一四年十月七日 「きょとん」 おとんでも おかんでもなく きょとん きょとん と呼んだら 返事してくれる でも きょとん と目を合わせたら きょとん としなくちゃいけないのね きょとん ちょっとを大きくあけて でへへ えへでもなく でへっでもなく でへへ でへへと言ったら でへとしなくちゃいけないのね でへへ でへへへれ〜 でへへ って感じかな 柴田、おまえもか! つづく 二〇一四年十月八日 「幽霊卵」 冷蔵庫の卵がなくなってたと思ってたら いつの間にか また1パック まっさらの卵があった 安くなると ついつい買ってくる癖があって 最近ぼけてきたから いつ買ったのかもわからなくて 困ったわ 二〇一四年十月九日 「部屋」 股ずれを起こしたドアノブ。 ため息をつく鍵穴。 わたしを中心にぐるっと回転する部屋 鍵束から外れた1本の鍵がくすって笑う。 カーテンの隙間から滑り込む斜光のなかを 浮遊する無数の鍵穴たちと鍵たち 部屋が 祈る形をとりながら わたしに凝縮する。 二〇一四年十月十日 「きょうも日知庵でヨッパ」 でも なんだかむかついて で 帰りは 西院の「印」という立ち飲み屋に。 会計、間違われたけれど 250円の間違いだから 何も言わずに帰ったけど。 帰りに 近所の大國屋に いや そだ このあいだ 気がついたけど 大國屋の名前が変わってた。 「お多福」に。 ひゃ〜 「きょうは尾崎を聞くと泣いてしまうかもしれない。 ◎原付をパクられた。」 って 「印」の 「きょうの一言」 ってところに書いてあって ちっちゃな黒板ね で いいなあって思ったの。 書いたのは たぶん、アキラくんていうデブの男の子 こないだ バカな客のひとりに 会話がヘタって言われてたけど 会話なんて どうでもいいんだよ かわいければさ、笑。 あいきょうさ 人生なんて けせらせら なんだから。 「きょうの一言」 そういえば 仕事帰りに 興戸の駅で 学生の女の子たちがしゃべっている言葉で 「あとは鳩バス」 って聞こえたんだけど これって 聞き間違いだよね。 ぜったい。 ここ2、3日のメモを使って 詩句を考えた。 more than this これ以上 もう、これ以上 須磨の源氏だった。 詩では うつくしい幻想を持つことはできない。 詩が持つことのできるものは なまなましい現実だけだ。 詩は息を与える。 死者にさえ、息を与えるのだ。 逃げ道はない。 生きている限りはね。 勝ちゃん 胸が張り裂けちゃうよ。 龍は夢で あとは鳩バス。 二〇一四年十月十一日 「音」 その音は テーブルの上からころげ落ちると 部屋の隅にむかって走り いったん立ちどまって ブンとふくれると 大きな音になって 部屋の隅から隅へところがりはじめ どんどん大きくなって 頭ぐらいの大きさになって ぼくの顔にむかって 飛びかかってきた 二〇一四年十月十二日 「音」 左手から右手へ 右手から左手に音をうつす それを繰り返すと やがて 音のほうから移動する 右手のうえにあった音が 左手の手のひらをのばすと 右手の手のひらのうえから 左手の手のひらのうえに移動する ふたつの手を離したり 近づけたりして 音が移動するさまを楽しむ 友だちに ほらと言って音をわたすと 友だちの手のひらのうえで 音が移動する ぼくと友だちの手のひらのうえで 音が移動する ぼくたちが手をいろいろ動かして 音と遊んでいると ほかのひとたちも ぼくたちといっしょに 手のひらをひろげて 音と戯れる 音も たくさんのひとたちの手のひらのうえを移動する みんな夢中になって 音と戯れる 音もおもしろがって たくさんのひとたちの手のひらのうえを移動する 驚きと笑いに満ちた顔たち 音と同じようにはずむ息と息 たったひとつの音と ただぼくたちの手のひらがあるだけなのに 二〇一四年十月十三日 「ある青年の日記を読んで」 その青年は 何年か前にメールだけのやりとりをしたことがあって それで、顔を覚えていたので彼の日記を見てたら 仕事でいらいらしたことがあって 上司とけんかして それでまたいらいらして せっかく恋人といっしょに 出かけたのに 道行くサラリーマンに 「オラッ」とか言って からんだそうで それで恋人になんか言われて 逆切れしたそうで でも、それを反省したみたいで 「あと20日で一年大事でかわいい人なのに こんな男でごめんなさいお母さん大好き」 という言葉で日記は結んであって 「あと20日で一年大事でかわいい人なのに こんな男でごめんなさいお母さん大好き」 という言葉に、こころ動かされて ジーンとしてしまった いま付き合ってる恋人とも そういえば、あと一ヶ月で1年だよねとか もうじき2年だよ とかとか言っていた時期があったのだった きょう、恋人に 朝、時間があるから、顔を見に行こうかな とメールしたら 用事ででかけてる、との返事 最近、メールや電話したら、いっつも用事 しかも、きょう電話したら その電話もう使われていないって電気の女の声が言った 「あと20日で一年大事でかわいい人なのに こんな男でごめんなさいお母さん大好き」 彼の日記 なぜだかこころ動かされる言葉がいっぱいで ある日の日記は、こういう言葉で終わっていた さまざまな単行本や文庫本、それに小説現代という雑誌など 読んだ本を列記したあと 「その時は彼によろしくとか僕の彼女を紹介しますとか あなたのキスを探しましょうとか、不思議なタイトルだな… 」 彼の素直な若さが、うつくしい。 最後に、彼のある日の日記の一節をひいておこう ぼくには、彼がいま青春のど真ん中にいて、 とてもうつくしいと思ったのだった 「何でもないような事が幸せだったと思う」とあるけど まさにそうだと思った。金ないとか、仕事疲れたとか言ってたけど、 そんなのは問題じゃないと。何より大事なかわいい恋人と、コーラとセッターと 健康な体、仕事があればそれだけで幸せなんだとしゅんと思った! もう悲しませることなくしっかり生活しようと強く思った。」 「何より大事なかわいい恋人と、コーラとセッターと 健康な体、仕事があればそれだけで幸せなんだとしゅんと思った!」 「それだけで幸せなんだとしゅんと思った!」 こんなに、こころの現われてる言葉、ひさしぶりに遭遇した。 二〇一四年十月十四日 「日付のないメモ」 京大のエイジくんに関するメモ。 ぼくたちは、いっしょに並んで歩いて帰った。 きみは、自転車を押しながら。 夜だった。 ぼくは下鴨に住んでいて、きみは、近くに住んでいると言っていた。 ぼくは30代で きみは大学生だった。 高知大で3年まで数学を勉強していたのであった。 従兄弟が東大であることを自慢げにしていたので 3年で高知大の数学科をやめて 京大を受験しなおして 京大の建築科に入学したのであった。 親が建設会社の社長だったこともあって。 だから きみと出会ったときの きみの年齢は28だったのだった。 きみは京大の4回生だった。 ぼくたちは、一年近く毎日のように会っていた。 ぼくが仕事から帰り きみが、ぼくの部屋に来て ふたりで晩ご飯を食べ 夜になって ぼくが眠りにつくまで 寝る直前まで、きみは部屋にいた。 泊まったのは一度だけ。 さいごに、きみが、ぼくの部屋に訪れた日。 ピンポンとチャイムが鳴って、ドアを開けようとすると きみは、全身の体重をかけてドアを押して、開けさせないようにした 雪の積った日の夜に 真夜中に 「雪合戦しようや。」と言って ぼくのアパートの下で 積った雪を丸めて投げ合った 真夜中の2時、3時ころのことは ぼくは一生忘れない。 だれもいない道端で 明るい月の下 白い雪を丸めては 放り投げて 顔にぶつけようとして お互い、一生懸命だった。 そのときのエイジくんの表情と笑い声は ぼくには、一生の宝物だ。 毎晩のように押し合ったドア。 毎晩、なにかを忘れては 「とりにきた」と言って笑っていたきみ。 毎晩、 「もう二度ときいひんからな」 と言っていたきみ。 あの丸められた雪つぶては いまもまだそこに 下鴨の明るい月の下にあるのだろう。 あの寒い日の真夜中に。 子どものようにはしゃいでいた ぼくたち二人の姿とともに。 二〇一四年十月十五日 「風の手と、波の足。」 風の手が ぼくをまるめて ほうりなげる。 風の手が ぼくをまるめて 別の風の手と キャッチボールしてる。 風の手と風の手が ぼくをキャッチボールしてる。 波の足が ぼくをけりつける。 すると 違う方向から打ち寄せる波の足が ぼくをけり返す。 波の足と波の足が ぼくをけり合う。 波の足と波の足がサッカーしてる。 ぼくを静かに置いて眺めることなどないのだろうか。 なにものも ぼくを静かに置いて眺めてはくれそうにない。 生きているかぎり ぼくはほうり投げられ けりまくられなければならない。 それでこわれるぼくではないけれど それでこわれるぼくではないけれど それでよりつよくなるぼくだけれど それでよりつよくなるぼくだけれど 生きているかぎり ぼくはほうり投げられ けりまくられなければならない。 二〇一四年十月十六日 「卵」 万里の長城の城壁のてっぺんに 卵が一つ置かれている。 卵はとがったほうをうえに立てて置かれている。 卵の上に蝶がとまる。 卵は微塵も動かなかった。 しばらくして 蝶が卵のうえから飛び立った。 すると 万里の長城が ことごとく つぎつぎと崩れ去っていった。 しかし 卵はあった場所にとどまったまま 宙に浮いたまま 微塵も動かなかった。 二〇一四年十月十七日 「ウィリアム・バロウズ」 下鴨に住んでたころ 十年以上もむかしに知り合ったラグビー青年が バロウズを好きだった。 本人は異性愛者のつもりだったのだろうけれど 感性はそうではなかったような気がする。 とてもよい詩を書く青年だった。 ユリイカや現代詩手帖に送るように言ったのだが 楽しみのためにだけ詩を読んだり書いたりする青年だった。 ぼくは20代後半 彼は二十歳そこそこだったかな。 ブラジル音楽を聴きながら 長い時間しゃべっていた日が 思い出された バロウズ 甘美なところはいっさいない すさまじい作品だけれど バロウズを通して 青年の思い出は きわめて甘美である なにもかもが輝いていたのだ まぶしく輝いていたのだ 彼の無蓋の微笑みと その二つの瞳と 声 カウンターにこぼれた グラスの露さえも 二〇一四年十月十八日 「ウィリアム・バロウズの贋作」  本日のバロウズ到着本、6冊。なかとカヴァーのきれいなほうを保存用に。『ダッチ・シュルツ』は500円のもののほうがきれいなので、そちらを保存用に。『覚えていないときもある』も710円のもののほうがきれいなので、そちらを棚に飾るものにして。 きょうから通勤時は、レイ・ラッセルの『嘲笑う男』にした。ブラッドベリの『メランコリイの妙薬』読了したけど、なんか、いまいちやった。詩的かもしれないけれど、そのリリカルさが逆に話を胡散臭くさせていた。もっとストレートなほうが美しいのに、などと思った。  学校から帰って、五条堀川のブックオフに行くと、ビアスの短編集『いのちの半ばに』(岩波文庫)が108円で売っていたので買ったんだけど、帰って本棚を見たら、『ビアス短編集』(岩波文庫)ってのがあって、それには、『いのちの半ばに』に入ってた7篇全部と、追加の8篇が入っていて、訳者は違うんだけど、持ってたほうのタイトルの目次を見ても、ぜんぜん思い出せなかった。ううううん。ちかく、新しく買った古いほうの訳のものを読んでみようかなって思った。  おとつい、ネットで注文した本が、とても信じられないものだった。 裸の審判・世界発禁文学選書2期15 ウイリアム・バローズ 浪速書房 S43・新書・初版カバー・美本  きょう到着してた。なんと、作者名、「ウイリヤム・バローズ」だった。「ア」と「ヤ」の一字違いね。まあ、大きい「イ」と、小さい「ィ」も違うけど。浪速書房の詐欺的な商法ですな。しかも、作者名のはずのウイリヤム・バローズが主人公でもあって、冒頭の3、4行目に、  私、ウイリヤム・バローズは、パリのル・パリジャンヌ誌特派員として、このニューヨーク博覧会に行くことになった。 とあって、これもワラケルけど、最後のページには  そしていざというときは、鞭という、柔らかい機械が二人を結びつけるだろう。いま、二人に聞こえるものは、路上にきしる、濡れたタイヤの連続音と、彼らの廻りに、うなりを上げている。雨の叫びだけであった。 とあるのである。「雨」の前の句点もおもしろいが、「鞭」を「柔らかい機械」というのは、もっとワラケル。ほかの文章のなかには「ランチ」という言葉もある、笑。翻訳した胡桃沢耕史さん(本に書かれている翻訳者名は清水正二郎さんだけど、胡桃沢さんのペンネームのひとつ)のイタズラやね。おもろいけど。パラパラとめくって読んだら、これって、サド侯爵の小説の剽窃だった。鞭が若い娘の背中やお尻に振り下ろされたり、喜びの殿堂の処刑室とか出てくる。はあ〜あ、笑。この本を出版した浪速書房って、エロ本のシリーズを出してて、たとえば、 世界発禁文学選書 裸女クラブ 新書 浪速書房 ペトロ・アーノルド/清水正二郎訳 昭45 世界発禁文学選書 乳房の疼き 新書 浪速書房 マリヤ・ダフェノルス 清水正二郎・訳 世界発禁文学選書〈第2期 第11巻〉私のハンド・バッグの中の鞭(1968年)  こんなタイトルのものだけど、戦後、出した本がつぎつぎに発禁になったらしいけれど、発禁の理由って、エロティックな内容じゃなくて、この「詐欺的商法」なんじゃないかな。  で、いま、浪速書房のウィリアム・バローズの「やわらかい機械」を買おうかどうか迷っている。ヤフオクに入札しているのだけど、いま8000円で、内容は、山形訳のソフトマシーンのあとがきによると、このあいだ買ったウイリヤム・バローズと同じように、主人がウィリアム・バローズで、またまた女の子を鞭打つエロ小説らしい。 出品しているひとに、ほんとうにバロウズの翻訳かどうか訊いたら、答えられないという答えが返ってきた。贋物だと思う。あ、この贋物ってのは、ウィリアム・バロウズが著者ではないということなんだけど、まあ、話の種に買ってもいいかなって思う。でも、8000円は高いな。キャンセルしてもいいって、出品者は言ってくれたのだけれど、贋物でも、おもしろいから買いたいのだけれど、8000円あれば、ほかに買える高い本もあるかなあとも思うし。あ、でもいま、とくに欲しい本はないんだけど。 ヤフオクでの質問  小生の質問にお答えくださり、ありがとうございました。小生、ウィリアム・バロウズの熱狂的なファンで、『ソフトマシーン』の河出文庫版とペヨトル工房版の2冊の翻訳本を所有しております。ご出品なさっておられるご本の、最初の2行ばかりを、回答に書き写していただけますでしょうか。それで、本当に、ウィリアム・バロウズの『ソフトマシーン』の翻訳本かどうかわかりますので。小生は、本物の翻訳本でなくても、購入したいと思っておりますが、先に本物の翻訳本かどうかは、ぜひ知っておきたいと思っております。8000円という入札金額は、それを知る権利があるように思われますが、いかがでしょうか。よろしくお願い申し上げます。  バロウズの『やわらかい機械』の本邦初訳と銘打たれた本に価値があると思って、最初に8000円の金額でオークションをはじめさせているのだから、ある程度の知識がある人物だと思う。その翻訳が本物かどうか、本文を見ればすぐにわかるはずなのに、それを避けた回答をしてきたので、このような質問を再度したのだった。なにしろ浪速書房の本である。山形裕生さんの『ソフトマシーン』の訳本の後書きでは、それは冗談の部類の本だと思われると書かれている本である。 回答があった。  第一章ニューヨークへの道 一九六四年から五年にかけての、ニューヨークの最大の話題は、ニューヨーク世界博覧会が開かれたことである。私、ウィリヤム・バローズは、パリのル・パリジャンヌ誌特派員として、このニューヨーク博覧会に行くことになった。  ひえ〜、これって、ウイリヤム・バローズの『裸の審判』の1〜4行目と、まるっきりいっしょよ。完全な贋物だ。ああ、どうしよう。完全な贋物。ふざけた代物に、8000円。どうしよう。相手はキャンセルしていいと言ってた。ううううん。マニアだから買いたいと返事した。あ〜あ、このあいだ買った『裸の審判』と中身がまったく同じ本に8000円。バカだなあ、ぼくは。いや〜、バロウズのマニアなんだよね、ぼくは。しかし、この出品者、正直なひとだけど、最初の設定金額を8000円にしてるのは、なんでやったのかなあ。バロウズのこと、あんまり知らなかったひとだったら、そんなバカ高い金額をつけないだろうしな。あ、知ってたら、そんなものをバロウズが書いてたとは思ってもいなかっただろうしなあ。 不思議。でも、完全に贋物でも、表紙にウィリアム・バローズって書いてあったら買っちゃうっていう、お馬鹿なマニアの気持ち、まだまだ持ち合わせているみたい。この浪速書房の本も、きっと、詐欺で摘発、本は発禁処分を受けたんだろうね。 ぼくはただのバロウズファンだったけど、思わぬ贋作の歴史を垣間見た。胡桃沢耕史さん、生活のためにしたことなんだろうね。 ちなみに、あのあと、つぎの二つの質問をオークション出品者にしたけど、返事はなかった。  お答えくださり、ありがとうございました。その訳本は贋物です。先日購入しました、浪速書房刊のウイリヤム・バローズ作、清水正二郎訳の「裸の審判」の第一章の3行目から4行目の文章とまるっきり同じです。本物のウィリアム・バロウズの作品には、そのような文章はありません。きっとその本の最後のページには、次の文章が終わりにあるのではないでしょうか。「そしていざというときは、鞭という、柔らかい機械が二人を結びつけるだろう。/いま、二人に聞こえるものは、路上にきしる、濡れたタイヤの連続音と、彼らの廻りに、うなりを上げている。雨の叫びだけであった。」 それでも、小生はマニアなので、購入したいと思っております。  ちなみに、引用された所からあとの文章はこうですね。「私の所属している、ル・パリジャンヌ誌は、アメリカのセブンティーン誌や、遠い極東日本の、ジヨセイヌ・ジーシン誌などと特約のある姉妹誌で十七、八歳のハイティーンを目標に、スターの噂話や、世界の名勝や、男女交際のスマートなやり方などを指導する雑誌であり、たまたまこの賑やかなアメリカ大博覧会は、近く開かれる東京オリンピツクとともに、我々女性関係誌のジヤーナリストの腕の見せ所であつた。」ご出品のご本は、当時、詐欺罪で差し押さえられ、発禁になりました。亡くなったエロ本作家の胡桃沢耕史(訳者名:清水正二郎)の創作です。本物のバロウズの翻訳本ではありません。 「極東日本の、ジョセイヌ・ジーシン誌」だって、笑っちゃうよね。ほんと、胡桃沢さん、やってくれるわ。  やったー、ぼくのものになった! 中身は贋物だけど、画像のものがぼくのものになった。8000円は、ちょっと高かったけど、いま手に入れなかったら、いつ手に入れられるかわからなかったからうれしい。中身は、胡桃沢耕史さんの創作ね。しかもいま、ぼくが持ってるものとおんなじ内容、笑。早期終了してもらった。じつは、最後に、ぼくは、つぎのような質問をしていたのだった。 質問かな、強迫かな。  そういった事情を知られたからには、出品されたご本の説明を改められないと、落札者の方とトラブルになりかねません。小生は、そういった事情を知っていても、この8000円という金額で、買わせていただくことに依存はありません。ウィリアム・バロウズの熱狂的なファンですから。オークションを早期終了していただければ、幸いです。  贋物だとわかっていたんだけど、バロウズ・コンプリートのぼくは、ちょっとまえに、 世界秘密文学選書10 裸のランチ ミッキー・ダイクス/清水正二郎訳 浪速書房 を買ってたんだけど、その本の末尾についている著者のミッキー・ダイクスの経歴の紹介文って、現実のウィリアム・バローズのものの経歴だった。ちなみに、訳者はこれまた清水正二郎さん、つまり、胡桃沢耕史さん。ほんと、あやしいなあ。このミッキー・ダイクスの『裸のランチ』の裏表紙の作品紹介文がすごいので、紹介するね。 「アメリカの、アレン・ギンスバークと共に、抽象的な難解な語句で 知られる、ミッキー・ダイクスが、詩と散文の間における、微妙な語句 の谷間をさまよいながら、怪しい幻影のもとに画き出したのが、この作品である。ほとんど翻訳不可能の、抽象の世界に躍る語句を、ともかくも、もっとも的確な日本語に訳さねばならぬので、大変な苦心をした。陰門、陰茎、陰核、これらの語句が、まるで機関銃のように随所に飛び 出して、物語のムードを形作っている。しかし、現実には、それは何等ワイセツな感情を伴わなくても、他のもっと迂遠な言葉に言い変えねばならない。かくして来上がったものは、近代の詩人ダイクスの企画するものとははなはだしく異なったものとなってしまった。しかし現実の公刊物が許容される範囲では、もっとも原文に近い訳をなし得たものと自負している。         訳者」 「ギンズバーグ」じゃなくて、「ギンスバーク」って、どこの国の詩人? そりゃ、詐欺で、差し押さえられるわ。ぼくは、500円で買ったけれど、この本、ヤフオクでいま5800円で出品しているひとがいたり、amazon では、79600円とか9万円以上で出品しているひとがいて、まあ、ゴーヨクなキチガイどもだな。  しかし、こんな詐欺をしなきゃ生きていけなかった胡桃沢耕史って方、きつい人生をしてらっしゃったのかもしれない。自己嫌悪とかなしに、作家が、こんな詐欺を働くなんて、ぼくには考えられない。こういった事情のことを、戦後のどさくさにいっぱい出版業界はしてたんだろうけど。いま、こんなことする出版社はないだろうな。知らないけど。  ちなみに、本物のウィリアム・バロウズの『裸のランチ』って、陰門や陰核なんて、まったく出てこないし(記憶にないわ)。むしろ、出てくるのは、ペニスと肛門のことばかり。 二〇一四年十月十九日 「土曜日たち」 はなやかに着飾った土曜日たちにまじって 金曜日や日曜日たちが談笑している。 ぼくのたくさんの土曜日のうち とびきり美しかった土曜日と 嘘ばかりついて ぼくを喜ばせ ぼくを泣かせた土曜日が カウンターに腰かけていた。 ほかの土曜日たちの目線をさけながら ぼくはお目当ての土曜日のそばに近づいて その肩に手を置いた。 その瞬間 耳元に息を吹きかけられた。 ぼくは びくっとして振り返った。 このあいだの土曜日が微笑んでいた。 お目当ての土曜日は ぼくたちを見て コースターの裏に さっとペンを走らせると そのコースターを ぼくの手に渡して ぼくたちから離れていった。 二〇一四年十月二十日 「チョコレートの半減期」 おやじの頭髪の、あ、こりゃだめか、笑。 地球の表面積に占める陸地の割合の半減期。 友だちと夜中まで飲んで騒いで過ごす時間の半減期。 恋人の顔と自分の顔との距離の半減期。 大学の授業出席者数の半減期。 貯蓄の半減期。 問題の半減期。 悲しみの半減期。 痛みの半減期。 将来の半減期。 思い出の半減期。 聞く耳の半減期。 視界の半減期。 やさしさの半減期。 機会の半減期。 幸福の半減期。 期待の半減期。 反省の半減期。 復習の半減期。 予習の半減期。 まともな食器の半減期。 原因の半減期。 理由の半減期。 おしゃべりの半減期。 沈黙の半減期。 恋ごころの半減期。 恋人の半減期。 チョコレートの半減期。 二〇一四年十月二十一日 「魂」  魂が胸のなかに宿っているなどと考えるのは間違いである。魂は人間の皮膚の外にあって、人間を包み込んでるのである。死は、魂という入れ物が、自分のなかから、人間の身体をはじき出すことである。生誕とは、魂という入れ物が、自分のなかに、人間の身体を取り込むことを言う。 二〇一四年十月二十二日 「卵病」 コツコツと 頭のなかから 頭蓋骨をつつく音がした コツコツ コツコツ ベリッ 頭のなかから ひよこが出てきた 見ると 向かいの席に坐ってた人の頭の横からも 血まみれのひよこが ひょこんと顔をのぞかせた あちらこちらの席に坐ってる人たちの頭から 血まみれのひよこが ひょこんと姿を現わして つぎつぎと 電車の床の上に下りたった 二〇一四年十月二十三日 「十粒の主語」 とてもうつくしいイメージだ。 主語のない という主題で書こうとしたのに 十粒の主語 という うつくしい言葉を見つけてしまった。 ああ そうだ。 十粒の主語が、ぼくを見つけたのだった。 どんな粒だろう。 きらきらと輝いてそう。 うつくしい。 十粒の主語。 二〇一四年十月二十四日 「よい詩」 よい詩は、よい目をこしらえる。 よい詩は、よい耳をこしらえる。 よい詩は、よい口をこしらえる。 二〇一四年十月二十五日 「わけだな。」  ウォレス・スティーヴンズの『理論』(福田陸太郎訳)という詩に 「私は私をかこむものと同じものだ。」とあった。 としら、ぼくは空気か。 まあ、吸ったり吐いたり、しょっちゅうしてるけれど。ブリア・サヴァラン的に言えば ぼくは、ぼくが食べた物や飲んだ物からできているのだろうけれど、ヴァレリー的に言えば、ぼくは、ぼくが理解したものと ぼくが理解しなかったものとからできているのだろう。それとも、ワイルド的に、こう言おうかな。 ぼくは、ぼく以外のすべてのものからできている、と。まあ、いずれにしても、なにかからできていると考えたいわけだ。わけだな。 二〇一四年十月二十六日 「強力な詩人や作家」  真に強力な詩人や作家といったものは、ひとのこころのなかに、けっしてそのひと自身のものとはならないものを植えつけてしまう。 二〇一四年十月二十七日 「名前」 人間は違ったものに同じ名前を与え 同じものに違った名前を与える。 名前だけではない。 違ったものに同じ意味を与え 同じものに違った意味を与える。 それで、世界が混乱しないわけがない。 むしろ、これくらいの混乱ですんでいるのが不思議だ。 二〇一四年十月二十八日 「直角のおばさん」 箪笥のなかのおばさん 校長先生のなかの公衆電話 錘のなかの海 パンツのなかの太陽 言葉のなかの惑星 無意識のなかの繁殖 箪笥のうえのおばさん 校長先生のうえの公衆電話 錘のうえの海 パンツのうえの太陽 言葉のうえの惑星 無意識のうえの繁殖 箪笥のよこのおばさん 校長先生のよこの公衆電話 錘のよこの海 パンツのよこの太陽 言葉のよこの惑星 無意識のよこの繁殖 箪笥のしたのおばさん 校長先生のしたの公衆電話 錘のしたの海 パンツのしたの太陽 言葉のしたの惑星 無意識のしたの繁殖 箪笥のなかのおばさんのなかの校長先生のなかの公衆電話のなかの錘のなかの海のなかのパンツのなかの太陽のなかの言葉のなかの惑星のなかの無意識のなかの繁殖 箪笥のうえのおばさんのうえの校長先生のうえの公衆電話のうえの錘のうえの海のうえのパンツのうえの太陽のうえの言葉のうえの惑星のうえの無意識のうえの繁殖 箪笥のよこのおばさんのよこの校長先生のよこの公衆電話のよこの錘のよこの海のよこのパンツのよこの太陽のよこの言葉のよこの惑星のよこの無意識のよこの繁殖 箪笥のしたのおばさんのしたの校長先生のしたの公衆電話のしたの錘のしたの海のしたのパンツのしたの太陽のしたの言葉のしたの惑星のしたの無意識のしたの繁殖 箪笥が生んだおばさん 校長先生が生んだ公衆電話 錘が生んだ海 パンツが生んだ太陽 言葉が生んだ惑星 無意識が生んだ繁殖 箪笥を生んだおばさん 校長先生を生んだ公衆電話 錘を生んだ海 パンツを生んだ太陽 言葉を生んだ惑星 無意識を生んだ繁殖 箪笥のまわりにおばさんが散らばっている 校長先生のまわりに公衆電話が散らばっている 錘のまわりに海が散らばっている パンツのまわりに太陽が散らばっている 言葉のまわりに惑星が散らばっている 無意識のまわりに繁殖が散らばっている 箪笥がおばさんを林立させていた 校長先生が公衆電話を林立させていた 錘が海を林立させていた パンツが太陽を林立させていた 言葉が惑星を林立させていた 無意識が繁殖を林立させていた 箪笥はおばさんを発射する 校長先生は公衆電話を発射する 錘は海を発射する パンツは太陽を発射する 言葉は惑星を発射する 無意識は繁殖を発射する 箪笥はおばさんを含む 校長先生は公衆電話を含む 錘は海を含む パンツは太陽を含む 言葉は惑星を含む 無意識は繁殖を含む 箪笥の影がおばさんの形をしている 校長先生の影が公衆電話の形をしている 錘の影が海の形をしている パンツの影が太陽の形をしている 言葉の影が惑星の形をしている 無意識の影が繁殖の形をしている 箪笥とおばさん 校長先生と公衆電話 錘と海 パンツと太陽 言葉と惑星 無意識と繁殖 箪笥はおばさん 校長先生は公衆電話 錘は海 パンツは太陽 言葉は惑星 無意識は繁殖 箪笥におばさん 校長先生に公衆電話 錘に海 パンツに太陽 言葉に惑星 無意識に繁殖 箪笥でおばさん 校長先生で公衆電話 錘で海 パンツで太陽 言葉で惑星 無意識で繁殖 ポエジーは思わぬところに潜んでいることだろう。 これらの言葉は、瞬時にイメージを形成し、即座に破壊する。 ここでは、あらゆる形象は破壊されるために存在している。 単純であることと複雑であることは同時に成立する。 箪笥がおばさんを直角に曲げている 校長先生が公衆電話を直角に曲げている 錘が海を直角に曲げている パンツが太陽を直角に曲げている 言葉が惑星を直角に曲げている 無意識が繁殖を直角に曲げている 左目で見ると箪笥 右目で見るとおばさん 箪笥の表面積とおばさんの表面積は等しい 箪笥を粘土のようにこねておばさんにする 箪笥はおばさんといっしょに飛び去っていった 箪笥の抜け殻とおばさんの貝殻 箪笥が揺れると、おばさんも揺れる すべての箪笥が滅びても、おばさんは生き残る 右半分が箪笥で、左半分がおばさん 左目で見ると校長先生 右目で見ると公衆電話 校長先生の表面積と公衆電話の表面積は等しい 校長先生を粘土のようにこねて公衆電話にする 校長先生は公衆電話といっしょに飛び去っていった 校長先生の抜け殻と公衆電話の貝殻 校長先生が揺れると、公衆電話も揺れる すべての校長先生が滅びても、公衆電話は生き残る 右半分が校長先生で、左半分が公衆電話 左目で見ると錘 右目で見ると海 錘の表面積と海の表面積は等しい 錘を粘土のようにこねて海にする 錘は海といっしょに飛び去っていった 錘の抜け殻と海の貝殻 錘が揺れると、海も揺れる すべて海が滅びても、錘は生き残る 右半分が錘で、左半分が海 左目で見るとパンツ 右目で見ると太陽 パンツの表面積と太陽の表面積は等しい パンツを粘土のようにこねて太陽にする パンツは太陽といっしょに飛び去っていった パンツの抜け殻と太陽の貝殻 パンツが揺れると、太陽も揺れる すべての太陽が滅びても、パンツは生き残る 右半分がパンツで、左半分が太陽 左目で見ると言葉 右目で見ると惑星 言葉の表面積と惑星の表面積は等しい 言葉を粘土のようにこねて惑星にする 言葉は太陽といっしょに飛び去っていった 言葉の抜け殻と惑星の貝殻 言葉が揺れると、惑星も揺れる すべての惑星が滅びても、言葉は生き残る 右半分が言葉で、左半分が惑星 左目で見ると無意識 右目で見ると繁殖 無意識の表面積と繁殖の表面積は等しい 無意識を粘土のようにこねて繁殖にする 無意識は繁殖といっしょに飛び去っていった 無意識の抜け殻と繁殖の貝殻 無意識が揺れると、繁殖も揺れる すべての無意識が滅びても、繁殖は生き残る 右半分が無意識で、左半分が繁殖 閉口ともなるとも午後とはなるなかれ。 いま言語における自由度というものに興味がある。 美しいヴィジョンを形成した瞬間に そのヴィジョンを破壊するところに行ければいいと思う。 二〇一四年十月二十九日 「卵」 終日 頭がぼんやりとして 何をしているのか記憶していないことがよくある 河原町で、ふと気がつくと 時計屋の飾り窓に置かれている時計の時間が みんな違っていることを不思議に思っていた自分に はっとしたことがある きょう ジュンク堂で ふと気がつくと 一個の卵を 平積みの本の上に 上手に立てたところだった ぼくは それが転がり落ちて 床の上で割れて 白身と黄身がぐちゃぐちゃになって みんなが叫び声を上げるシーンを思い浮かべて ゆっくりと 店のなかから出て行った 二〇一四年十月三十日 「ピーゼットシー」  きょうからクスリが一錠ふえる。これまでの量だと眠れなくなってきたからだけど、どうなるか、こわい。以前、ジプロヘキサを処方してもらったときには、16時間も昏睡して死にかけたのだ。まあ、いままでもらっていたのと同じものが1錠ふえただけなので、だいじょうぶかな。ピーゼットシー。ぼくを眠らせてね。 二〇一四年十月三十一日 「王将にて」  西院の王将で酢豚定食を食べてたら、「田中先生ですよね。」と一人の青年から声をかけられた。「立命館宇治で10年くらいまえに教えてもらってました。」とのことで、なるほどと。うううん。長く生きていると、どこで、だれが見てるかわからないという感じになってくるのかな。わ〜、あと何年生きるんやろ。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一四年十一月一日─三十一日/田中宏輔[2020年12月9日19時13分] 二〇一四年十一月一日 「She’s Gone。」 風水って、よう考えてあるえ。 そなの? 東西南北すべてに地上があって宇宙があるのよ。 東に赤いもんを置くのは、あれは、お日さんがあがってきはるからやし 西に黄色いもんを置くのは、あれは、お月さんの明かりを表してあるのんえ。 へえ。 ちょっと、きょう撮ったこの花見てえな。 なになに。 これ、冬桜。 へえ、大きいの? アップで撮ったから大き見えるけど、こんなもんえ。 と言って、右手の人差し指と親指のあいだをつづめて2、3センチにして見せる。 藤とザクロと枇杷は、家の敷地のなかには植えたらあかんえ。 なんで? 根がものすごう張るし、上も繁殖するから、家のなかに光が入らへんのえ。 そだよね。 藤の花って、きれいだよね。 むかし、船くだりして見た藤の花の美しさには、びっくりした。 トモくんといっしょに、船で川くだりしてたときに見たんだけど 船頭さんの話を聞かされながら川をくだってたんだけど がくんとなって、はっとして見上げたら 数十メートル先の岩頭に、藤の花がまといつくように いっぱい咲いていて、あの紫色の花が 太陽光線の光で、きらきらきらめいて、ほんとにきれいやった。 突然、ふっと目に見えるところに姿を現わしたってことも その美しさをより増させたように思う。 こころの準備のないときに、ふっと姿を現わすということ。 このことは、ぼくにヴァレリーの、つぎのような言葉を思い起こさせた。 それとも、つぎのようなヴァレリーの言葉が、ぼくにこのような感慨を抱かせたのか。  兎は、われわれを怯えさせはしない。しかし、兎が、思いがけず、だし抜けに飛び出して来ると、われわれも逃げ出しかねない。  われわれに取って抜き打ちだったために、われわれを驚嘆させたり、熱狂させたりする観念についても、同じことが言える。そういうものは、少し経つと、──その本来の姿に戻る…… (『倫理的考察』川口 篤訳) 二〇一四年十一月二日 「Sara Smile。」 ずいぶん、むかし、ゲイ・スナックにきてた 花屋の店員が言ったことだったかどうか 忘れてしまったのだけれど 切花を生き生きとさせたいために わざと、切り口を水につけないで 何日か、ほっぽっておいて、かわかしておくんだって。 それから、切り口を水にさらすんだって。 すると、茎が急に目を醒ましたように水を吸って 花を生き生きと咲かせるんですって。 さいしょから たっぷりと水をやったりしてはいけないんですって。 そうね。 花に水をやるって感じじゃなくって あくまでも、花のほうから水を求めるって感じでって。 なるほどね。 ぼくが作品をつくるときにも さあ、つくるぞって感じじゃなくて 自然に、言葉と言葉がくっついていくのを待つことが多いもんね。 あるいは、さいきん多いんだけど 偶然の出会いとか、会話がもとに いろいろな思い出や言葉が自動的に結びついていくっていうね。 ああ なんだか いまは、なにもかもが、詩とか詩論になっちゃうって感じかな。 書くもの、書くもの、みんなね。 すると、マイミクの剛くんからコメントが たしか 水の代わりに炭酸水をやるといいらしいですよ これも ストレスみたいなものでしょうね ぼくのお返事 初耳でした。 ショック療法かしらん。 すると、またまた、剛くんからコメントが ヴァレリーの兎みたいですね。 ぼくのお返事 そうね。 そして、その驚きが長続きしないように 切花も ポエジーも 瞬間的沸騰をしたあとは じょじょに あるいは 急激にさめていくという点でも酷似してますね。 ふたたび熱されることはあってもね。 まえより熱せられることは まれですね。 シェイクスピアや ゲーテくらいかな。 ここに パウンドをくわえてもいいかな。 あと ボードレールくらいかな。 きのう おとつい ずいぶんむかしの自分のメモを読み返して ボードレールのすごさに 感服してました。 すると、またまた、剛くんからコメントが あつすけさんは、ボードレールをどの本でどの訳で読みますか? ぼくのお返事 人文書院の全集を持ってるから、それで。 詩は文庫で堀口さんと三好達治だよ。 マイミクの阿部嘉昭さんからもコメントが、じつは、うえの剛くんとの応答の前に 水で蘇るというのは やはり魔法ですね。 花田清輝『復興期の精神』の 「クラヴェリナ」は はたして実在の生物なんだろうか。 ぼくのお返事 花だ性器ですね。 読んだことがないのですが ああ まだまだ読んだことのないものだらけです。 読むリストに入れておきます。 二〇一四年十一月三日 「If That’s What Makes You Happy。」 ときおりボーッとしているときがあるのだが 放心と言うのだろうけれど わたしはときどきそういう状態になるが 起きているあいだにも 自我が休息したいのだろう 魂が思考対象と共有する部分を形成しないときがあるようだ 孫引きされたマルセル・モースの『身体技法』を読んで こんなことを思った たしかにそうだ 人間は食べることを学んで食べることができるのだ 話すことを学んで話すことができるのだ 愛することも学ばなければ愛せないだろう 愛することのはじめは愛されること また他人がどう愛し愛されているかを知ることも大事 自分とは違った人間が 自分とは違った愛され方をし 愛し方をしていることを知るのも大事 食べ方が違う 話す言葉が違う 愛し方が違う いま同じ日本にいる人間でも ひとりひとりどれだけ違うか考えると 人間というものがいかに孤独な存在かわかる かといって 同じ食べ方 同じ言葉 同じ愛し方 これは孤独ではないが とてもじゃないけれど 受け入れがたいことだ まるでミツバチのようだ マルセル・モースの『身体技法』から ずいぶん離れたかもしれないけれど ふと思ったのだが 愛もまたわたしという体験からなにかを学ぶのかもしれない 神がわたしという体験を通じて学ぶように エドモンド・ハミルトンの『蛇の女神』(中村 融訳)を読んでいると 「音には目をくらませる力がある」とあったのでメモしていたら ジミーちゃんから電話があって 「あなたの詩は  リズムによって  理性が崩壊するところがよい。」 と言われて ものすごい偶然だと思った あ 正確に言うと 電話があったのは メモをルーズリーフに清書しているときにだけど その花は肛門をひろげたりすぼめたりしていた。 二〇一四年十一月四日 「シャロンの花」  ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『輝くもの天より堕ち』を読み終わった。ぼくが満点をつけるSFは10冊から20冊のあいだの数だと思う。けっして少ない数ではないが、これは満点以上のものだった。本文517ページに、「シャロン」あるいは「シャローン」は「そこらの女」という意味の俗語だという割注があったのだけれど、ぼくの辞書やネットで調べても、そういう意味がなかったが、シャロンというのはイスラエル西部の肥沃な場所で、もとは「森」の意とあった。俗語に詳しくないし、ネイティヴでもないので、「シャロンの花」とかいった言葉が聖書にあるが、そういったものが転用されて、俗語化して卑俗な意味になったのかもしれない。これは、いつか、ネイティヴの知り合いに話す機会があれば、訊いてみようかなと思う。物語に夢中になって、引用メモすることをいっさいせずに読み切ってしまったので、これから印象に残った言葉を探さなければならない。一か所だけだけど。内容はだいたいこういうもの。「すべてのもとは、子どもの時代になにをしたかということ。」もちろん、ぼくは、「なにをしなかったか。」ということも大事だと思うけれど、いまからできることも大事だとも思う。数時間前の読書なのに、記憶が違っていた。本文497ページ「もしもあなたが年を経た金言を聞きたければ、わたしはこういいたい。幼いころにあなたがやるすべての行動、そして起きるあらゆることが重要だと。」(浅倉久志訳) 二〇一四年十一月五日 「お風呂場」  お風呂場でおしっこしたり、セックスしたり、本を読んだり、ご飯を食べたり、自転車に乗ったり、家族会議を開いたり、忙しいお風呂場だ。 二〇一四年十一月六日 「言葉」 言葉にも食物連鎖がある。 言葉にも熱力学の第2法則がある。 言葉にもブラウン運動がある。 言葉にも屈光性がある。 言葉にも右ねじの法則がある。 言葉にもフックの法則がある。 二〇一四年十一月七日 「ヴォネガットの『国のない男』を読んで」 人間というのは、何かの間違いなのだ。 (ヴォネガット『国のない男』2、金原瑞人訳) たまには、本当のことを書いてみたらどうなの? (ヴォネガット『国のない男』2、金原瑞人訳)  ご存じのように、事実はじつに大きな力を持つことがある。われわれが望んでいないほどの力を。 (ヴォネガット『国のない男』2、金原瑞人訳)   〇  いくつか全行引用詩に使えそうなものを抜き書きしてみた。しかし、読んだ記憶がある文章も書いてあった。もしかしたら、読んだ本かもしれない。つぎのような個所である。   〇  思い切り親にショックを与えてやりたいけど、ゲイになるほどの勇気はないとき、せめてできそうなことといえば、芸術家になることだ。これは冗談ではない。 (ヴォネガット『国のない男』3、金原瑞人訳)   〇  そいえば、ヴォネガットも専攻は化学だったらしい。ぼくと同じで、親近感が増すけど、ヴォネガットのような経験もやさしさや思いやりも、ぼくにはないので、人間はぜんぜん違う。ヴォネガットは、こうも書く。   〇  詩を書く。どんなに下手でもかまわない。ただ、できる限りよいものをと心がけること。 (ヴォネガット『国のない男』3、金原瑞人訳)   〇 「できるだけよいものをと心がけること。」これは、もちろん、ぼくもいつも思っていること。 二〇一四年十一月八日 「ヴォネガットの『青ひげ』を読んで」  たまにする失敗。本のうえで、開けたページのうえで、メモをとっているときに、ペンがすべって、メモしてる紙からはみ出して、本のページのうえを、ペンがちょろっと走ること。いま、ヴォネガットの『青ひげ』184ページのうえで起こった。2行+***+2行目の下のほう、「途中ずっと」の左横で。読書が趣味なだけではなくて、うつくしい表紙の本のコレクターでもあるぼくは、以前なら、本のページがちょっとでも汚れたりしたら、発狂した人間がとる行為のような勢いで部屋のすみに本を投げつけたりしたものだけれど、きょうはおとなしかった。どうしてだろうか。いや、むしろ落ち着いておとなしい、いまのぼくの精神状態のほうが、以前の精神状態よりも狂っているような気がする。ちょっとしたインクの汚れ、これが数時間後に、あるいは、数日後に、頭のなかで、巨大な汚れとなって発狂したような状況を引き起こすかもしれない。などと、ふと考えた。いったい、ぜんたい、ぼくは、本の価値をどこに置いているのだろうか。内容だろうか。文字の書かれた紙という物質だろうか。その紙面の美しさだろうか。表紙の絵の好ましさだろうか。いや、そのすべてに価値がある。ぼくには価値があるのだった。そうだ。ぼくのメモの走り書きがなぜ、印刷された文字の左横に存在するのか説明していなかった。ふだんのメモや文章は、すべて横書きにしているのだが、このときのメモにはもう余白がほとんどなく、メモ用紙の下から引き出し線をちょこっと上に書いて、そのあと、メモ用紙の右の残された少ない余白に、それは縦2cm、横5mmほどのものだったのだが、そこに「縦書き」で変更メモを書いたのだった。それが、本のページに縦にペンの走った跡が残される理由だったのである。ちなみにその少ない余白に書いたぼくの言葉は、「別の現実の」であった。ここだけ赤色のインクである。なぜなら、まえの言葉「ある事柄の」のうえを赤線を引いて書いたものだからである。それまでのメモは、そのメモ用紙に関しては、黒インクだけで書いていたからであった。ちなみに、メモ用紙のした3分の1を訂正含めて書き写すと、「p.184うしろ l.6-7参照 現実の出来事が象徴そのものとなることがある。あるいは、現実が別の現実のメタファーとなることがある。(自作メモ)」である。もとの本にはこうある。「ときには人生そのものが象徴的になることがある。」(浅倉久志訳)さて、ぼくがいったい、ふだん、本を読んでなにをしているのか、その一端を披露したのだけれど、本を読んで、その本に書かれた事柄をさらにひねったものにしたり、逆にしたり、拡げたり、一般化したり、パーソナルなものにしたりして、変形しているということなのだ。初期の読書では、詩人や作家の書いたものの解釈をしていたのだが、あるときから、本に書かれた内容以外のものも含めて「読書」に参加するようになったのだった。いわば読みながら創作に関与しているのだった。これを正当な読書だと言うつもりはない。ぼくの読み方だ。ところで、つまらない作品だと思うものに大量のメモをすることもあれば、傑作だけれど、いっさいメモができなかったものもあるのだが、おそらくさきほど書いたような経緯もあるのだろう。あまりに完璧すぎてメモができなかったものにP・D・ジェイムズの『正義』がある。いや、『正義』からもメモをした記憶がよみがえった。しかし、ぼくの頭は不完全なので、あったことのない記憶もあれば、なかったことのある記憶もあるらしい。メモしていなかったかもしれない。読書に戻ろう。ヴォネガットの『青ひげ』への感情移入度がきわめて高い。ふと思ったのだが、「現実が別の現実のメタファーとなることがある。」は、「ある一つの現実がそれとは別の一つの、あるいは、いくつかの現実のメタファーとなることがある。」にしたほうがいいだろうか。いじりすぎだろうか。まあ、状況に合わせて変形すればよいか。そいえば、さっき、ヴォネガットの『青ひげ』(浅倉久志訳)を読んでいて、「「まちがいね」と彼女は言った。」を、さいしょ、「「きちがいね」と彼女は言った。」と読んでいた。ルーズリーフにメモしようと思って再読して勘違いに気がついた。疲れているのだろうか。きのうもほとんど眠っていない。クスリの効きが落ちてきたようだ。 二〇一四年十一月九日 「アップダイクの『走れウサギ』を読んで」  ジョン・アップダイクの『走れウサギ』の冒頭の2ページを読んで、あれっと思い、さらに2ページを読んで確信した。これ、まえに読んで退屈だと思って、捨てた本だった。しかし、いま読むとメモ取りまくりなのである。ぼくの言葉の捉え方が変わったのだと思う。こういったことも、ぼくの場合、めずらしくないんだな。 二〇一四年十一月十日 「amazon」 こんなやつに笑われたひとは、こんな連中にも笑われています。 二〇一四年十一月十一日 「おれの乳首さわってみ。」 ふざけ合った。 「ほらほら、おれの乳首さわってみ。」 ケンコバが、ぼくに彼の脇のしたをさわらせた。 「これ、イボやん。」 「オレ、乳首3つあるねん。」 「こそばったら、あかんて。」 ああ、楽し、と思ったら目が覚めた。 二〇一四年十一月十二日 「かわいいおっちゃん」  きょう、近所のスーパー「フレスコ」で晩ご飯を買ってたら、ちょっと年下かなと思えるかわいいおっちゃんがいて、見たら、見つめ返されたので、目線をそらしてしまった。目線をそらしても、まだ見てくるから、近所だからダメだよと思って、顔を上げないで買い物をつづけたけど、帰ってから後悔した。こういうときに、勇気がないから、ときめく出会いができないんやな、と思った。数か月に1度くらいある、稀な機会やのに。また会うかなあ。ここに住んで10年くらいで、はじめて見た顔やったから、もう会わへん確率が高い。もったいないことをしてしまった。ちょっと声をかけるだけでよかったのに。 二〇一四年十一月十三日 「卵は廻る」 一本の指が卵の周りをなぞって一周する 一台の自転車が地球のまわりを一周する 二〇一四年十一月十四日 「マイミクの方のブックレビューで見つけた、ぼくの大好きな詩句。」 マイミクの方のブックレビューで見つけた、ぼくの大好きな詩句。 Jean Cocteau の 「赤い包み」 という詩にある詩句 Je suis un mensonge qui dit toujours la v?rit?. (ぼくはいつも本当の事を言う嘘つきだ) 原文を知らなかったので とてもうれしい。 フランス語が読めないので 語音が楽しめないのだけれど。 あるサイトがあって そこは英語で、コクトーの言葉が書いてあった。 上の詩句は I am a lie who always speaks the truth. でした。 ふつうやね、笑。 でも、lie を受けるのが who なんて、意外やわ。 へんなとこで感心してしまう、笑。 すると、マイミクの剛くんからコメントが はじめてlieを習ったとき、 英語でこのことばを人に使うと、 ものすごい中傷になるので 日本語のように使ってはいけないといわれた記憶があります。 ジーニアスにも、 かつてはこのことばを使われたら、 決闘を申し込むほどだったとありました。 mensonge は〈嘘つき〉ではなく「嘘」 qui は英語でいうところの「who」ですから 「嘘」が人間のように修飾されているみたいです。 日本語では訳しづらいニュアンスですね。 ぼくのお返事 文法上は、擬人法的な扱われ方で 語意上は、擬人法的に訳したらダメってことね。 堀口大學さんの訳文って たしか 「わたしとは真実を告げる偽りである。」 って訳していたような記憶があります。 いま ネットで調べました。 ぼくという人間は虚偽(いつわり)だ、 真実を告げる虚偽(いつわり)だ。 (堀口大学訳) たしかに、こうでしたね。 しかし、つぎのように訳しておられる方もおられますね。 「ぼくはつねに真実を語る嘘つきだ。」 ジャン・コクトー「赤い包み」末尾 1927 『オペラ』収録 ううううん。 「嘘つき」という訳には抵抗があるなあ。 堀口さんの訳が耳にこびりついてるからかなあ。 まあ、単なるメタファーなんやろうけど。 たしかに、微妙なメタファー。 そうだなあ。 たとえば 名詞の ruin なんてのは、ひとには使わない単語だけど 使うとしても、one's ruin って感じでだろうけど He was a ruin. で 彼は廃墟だった。 彼は破滅だった。 ってメタファーとして使えるってことやね。 たしかに、詩的な感じがするね。 すると、また剛くんからコメントが 嘘そのものってことね。 たんに 不定冠詞の un 数形容詞の un として 「一つの」 「一個の」 と、つけて訳しても、カッコいいかもね。 すると、ぼくがブックレビューで右の言葉を見つけた 当のマイミクのしーやさんからコメントが そう、嘘つきではなく、正しくは、嘘なのだけれど 詩集ではなく、絵で知ったの 13,Novembre 1934 とあるので、詩集のほうが、先ね 挿絵として描かれたものなのでしょうか いま、図録がすぐ手元にみつからなくて、あいまい そう、オペラで括られて、展示されていた気もする そのための作品だったかもしれない おとこのこの顔が、描いてあったから 「嘘つき」と勝手に訳した嘘つきです ちなみにその絵画のほうの英語訳は I am a lie that always tells the truth  でした。 ぼくのお返事 that のほうが自然な感じがしますね。 で 「嘘つき」と訳されてあるものもありますね。 といいますか、いまネットで調べたら 堀口大學さんの訳以外、みんな、「嘘つき」になっています。 不思議! Comprenne qui pourra:  Je suis un mensonge qui dit toujours la v?rit?.  わかる人にはわかって欲しい、  「ぼくはつねに真実を語る嘘つきだ」ということを。 (コクトー「赤い包み」 1927 ) どっちのほうがいいかは、もしかしたら好みによるのかもしれないですね。 二〇一四年十一月十五日 「重力」 鉛筆が机の上から転がり落ちる速さと同じ速さで 机が同じ向きに90度回転したら 鉛筆は机の上で静止したままだ 鉛筆が机の上から転がり落ちる速さと同じ速さで 机が同じ向きに90度回転し それと同じ速さで建物が同じ向きで90度回転したら 鉛筆は机の上を逆向きに転がり落ちる 鉛筆が机の上から転がり落ちる速さと同じ速さで 机が同じ向きに90度回転し それと同じ速さで建物が机と同じ向きで90度回転し それと同じ速さで地面が机と同じ向きで90度回転すると 鉛筆は机の上を逆向きに転がり落ち 机の下を転がり 机の脚元から上昇する 鉛筆が机の上から転がり落ちる速さと同じ速さで 机が逆向きに90度回転したら 鉛筆は倍速で転がり落ち 机の下を転がる 鉛筆が机の上から転がり落ちる速さと同じ速さで 机が同じ向きに90度回転し それと同じ速さで建物が机と逆向きに90度回転すると 鉛筆は机の上から転がり落ちる 鉛筆が机の上から転がり落ちる速さと同じ速さで 机が同じ向きに90度回転し それと同じ速さで建物が机と逆向きに90度回転し それと同じ速さで地面が建物と同じ向きに90度回転すると 鉛筆は机の上に静止したままだ 二〇一四年十一月十六日 「本のうんこ」  本がうんこをするとしたら、自分より小さい本をうんこにして出すんやろうか。それとも、印刷された文字をうんこにして出すんやろうか。まあ、余白の紙をうんこにはしないだろうけれど。おなかをくだしてたら、文字がシャーって出てきたりして。本の出す固いうんこって文字がギューってからまってそう。 二〇一四年十一月十七日 「本のイメージ」  本のイメージって、鳥かな。魚っぽい形もしてるけど。虫じゃないだろし、猿や犬とも違ってっぽい。やっぱ、鳥かな。鳥は卵だし、本も卵から生まれるのかもしれない。そしたら本が先か卵が先かって話になるのかな。鳥かごのなかの止まり木に小さな本がちょこんと腰かけて、足をぶらぶらさせてる姿が目に浮かぶ。 二〇一四年十一月十八日 「本の料理」  本を料理する。煮たり、焼いたりするのもいいけど、サンドイッチもいいかな。細く切って、パスタにもできるし、厚く切って、おでんの具材にもいいかもしれない。ピザの生地にも使えるかな。でも、本って、さしみがいちばんおいしかったりして。和・洋・中華、なんにでも使える具材だね。 二〇一四年十一月十九日 「フューチャー・イズ・ワイルド」  塾の帰りに、五条堀川のブックオフで、『フューチャー・イズ・ワイルド』という本を買った。200000000年後の地球に生息しているかもしれない生物を予測してCGにした本。とてもきれい。108円。きのうも見たのだけれど、買わなかった。でも、気になって、きょう、あるかなと思って行った。200000000年後の世界なんて、関係ないじゃん、とか、きのうは思ってたのだけれど、きょう、通勤電車のなかで、5000000年後の風景とか、100000000年後の風景とか考えてたら、あ、参考になるかな〜と思って、あれ買わなきゃと思ったのだった。氷結した地上で、畳のうえに坐って、おかきをパリパリ食べてるぼくとか、焼けるような日差しのなか、ジャングルのなかで、そばでは巨獣が咆哮してるというのに、ヘッドフォンでゴキゲンな音楽聴きながら、友だちとピンポンしてるぼくとか、思い浮かべていたのだった。 二〇一四年十一月二十日 「ラルース 世界ことわざ名言辞典を読んで」 二兎を追うものは三兔を得る。 証拠より論。 我がふり見て人のふり直せ。 一方美人。 皿を食らわば毒まで。 仇を恩で返す。 三度目の掃除機。 あらゆる善いことをした人でも、わたしに悪いことをした人は悪人である。 金銭は人の尊敬よりも確かな財産である。 二〇一四年十一月二十一日 「円筒形のパパ」 ぼくが授業をしていると 円筒形のパパが 教室の真ん中に現われた 円筒形のパパは くるくる回転していて ぼくは授業中なので 驚いた顔をしてみせるわけにもいかず 黒板に向かって 複雑な因数分解の解法について書き出した 式を書き終わったところで振り返ると やっぱり円筒形のパパは 教室の真ん中で くるくる回転していて ぼくは生徒がノートをとり終わるのを待つふりをしながら 生徒の机と宙に浮かんだ円筒形のパパに 交互に目をやった ほとんどの生徒のペンの動きがとまったことを確かめると 黒板に向かって式の解説をはじめた 黒板をみるときに ちらっと目の端でとらえた円筒形のパパは やっぱりくるくる回転していて 生徒といっしょに せめて じっとして こっちを見ていて欲しいな と思った 二〇一四年十一月二十二日 「パパ」  父親には恨みごとしかないと思っていたのだが、ひとつだけ、感謝していることがあった。ぼくの知るかぎり、一生のあいだ働かずに生きていた父親の趣味が文学や芸術であったことだ。映画のスティール写真を写真屋に言いつけて1メートル×2メートルくらいの大きなものにして寝室に飾っていたり、しかもそれは外国人俳優のヌード写真だった。たしか、『化石の森』という映画で、レイモンド・ラブロックがベッドのうえで、背中とお尻の半分を露出している白黒写真だった。書斎にはほとんどありとあらゆる本があった。ほとんど外国のもので、なかにはゲイ雑誌もあった。薔薇族やアドンやさぶやムルムといった日本の代表的なゲイ雑誌があった。生涯において、女性の愛人しか持たなかった父親だったが、精神的には、男性にも魅かれていたのかもしれない。あるいは、単なる文芸上の趣味だったのか。継母は、女の愛人には厳しかったが、ゲイ雑誌は、単なる趣味だったと思っていたようだ。ぼくが父親の本棚にあるゲイ雑誌について尋ねると、「単なる趣味でしょ?」と言って笑っていたから。ぼくが翻訳小説に親しんでいるのは、父親の影響だろう。音楽の趣味も、父親の趣味と同じだ。ポップス、ジャズ、ロック、ラテンといったものが好きだった。サンバやボサノバをよく錦市場のところにあった「木下」という喫茶店で聴いた。家でも聴いていたが、父親は、その喫茶店のアイスコーヒーが好きで、ぼくもよく連れて行ってもらった。「ここのママはレズビアン。」と言っていた。大学生のときに、「ママって、レズビアンなの?」って訊いたら、「よく言われますけど、レズビアンじゃありません。」と言っていた。どうだったんだろう。そのお店にはレズビアンって感じの女性や、見た目あきらかにゲイのカップルがよく行ってたから。父親は、そんな雰囲気が好きだったのだろう。父親の頭のなかでは、ゲイやレズビアンは、人生をちょっぴり違った味わいにしてくれるスパイスのようなものだったのだろうかと、いまとなってはそう思う。靴とかもすべてオーダーメイドのおしゃれな父親だった。錦市場のその喫茶店「木下」で飲んだアイスコーヒーはほんとにおいしかった。漏斗状のプラスティック容器を使って、アイスコーヒー用に焙煎されたコーヒー豆の粉を紙フィルターに入れ、氷をたっぷり入れたグラスのうえにそれを置いて、細く湯を注いでいったのだった。とても香り高くて、行くたびに、その香りのよさに目を見張ったものだった。その店のママもいまは亡くなり、その店もないらしい。ぼくも祇園に住んでいたころは、父親とよく行ったものだったが、家を出てからは、下鴨に住んでいたので、錦市場には足を運ばなくなった。きょう、武田先生に、錦市場のなかにある居酒屋さんに連れて行ってもらったのだ。以前は、そんな居酒屋などなかったのであるが、魚介類を目のまえで網焼きして出してくれる店が何軒もできていたのだった。錦市場の様子が、30年前とは、まったく変わっていることに驚かされたが、驚くことは何もないと、いまこの文章を書きながら、ふと思った。30年もたてば変わって当たり前だ。父親によく連れて行ってもらった喫茶店の「木下」もとっくになくなっていた。 二〇一四年十一月二十三日 「アスペルガー」  いま塾から帰ったんだけど、帰りに五条通りの北側を歩いていると、向かい側から素朴系の口髭ありのかわいい男の子が大きなバッグを背負いながらやってきたんだけど、かわいいなあと思って顔をみたら、近づいてきたから、ええっと思って避けて急ぎ足で通り過ぎたんだけど、振り返ったらふつうに歩いてたんで、べつにヨッパでもなく、なんだか、損した気分。声をかければよかった〜。こんなんばっかし。数年前には、電車のなかで、かわいいなあと思って顔を見たら、にこって微笑まれて、びっくりして、見なかったふりして、場所をかわったんだけど、それもあとでは損した気分。もっと積極的にせなあかんのになあと思いつつ、53才。もう一生、出会いはあらへん感じ、笑。「神々が味わいたいのは、動物の脂身と骨ではなく、人間の苦しみなのよ。」(マーガレット・アトウッド『ペネロピアド』XVI、鴻巣友季子訳、141ページ)そいえば、好きだった子に「言葉とちゃうやろ、好きやったら抱けや。」と言われたのだけれど、「言葉やと思うけど。」みたいなことを言ったような記憶がある。言語化されていないことがらについて解する能力が欠如していたのだと思う。アスペルガーの特徴の一つである。いまでも、そういうところがあるぼくである。 二〇一四年十一月二十四日 「詩の完全立方体」 この詩篇は 一辺が一行の詩行からなる立方体である 一行は一千文字からできている 八個の頂点には句点が置かれている 上面と下面に正方形がくるように置き 上面の正方形の各頂点を反時計回りにABCD Aの下にEがくるようにして 下面の正方形の各頂点に反時計回りにEFGH と仮に名づける 辺AE、BF、CG、DHの各中点を通る平面で この立方体を切断すると 切断面の一方は男となり もう一方は女となる 平面ABGHでこの立方体を切断すると 切断面の一方は夜となり もう一方は昼となる 二つの頂点B、Hを通る平面で 体積の等しい四角すいを二つつくる平面で切断すると 切断面の一方は神の存在を証し もう一方は神の不在を証す このように この立方体を分割する際に 同じ体積の立体が二つできるように切断すると 相反する事物・事象が切断面にできる 二〇一四年十一月二十五日 「小鳥」 猫の口のなかで 噛み砕かれた小鳥の死骸が 元の姿にもどって 猫の口から出て 地上から木の上にもどった 小鳥は 幾日も幾日も 平穏に暮らしていた 河川敷の ベンチの後ろの 藪のなかに捨てられていた 錆びた鳥籠が もとの金属光沢のある きれいな姿になっていった 小鳥が 子供が待っている 鳥籠のなかに背中から入っていった 子供は鳥籠の扉を閉めて 後退りながら 鳥と鳥籠を家へ持ち帰った 二〇一四年十一月二十六日 「卵病」 卵の一部が 人間の顔になる病気がはやっているそうだ 大陸のほうから 海岸線のほうに向かって 一挙に感染区域が拡がっていったそうだ きのう 冷蔵庫を開けると 卵のケースに入れておいた卵が みんな 人間の顔になっていた すぐにぜんぶ捨てたけど 一個、割ってしまったようで きゃっ という、小さな叫び声を耳にした気がした こわくて それから残りの卵はそっとおいて捨てた 二〇一四年十一月二十七日 「素数と俳句/素数と短歌」  ふと思ったのだけれど、俳句の5・7・5も、短歌の5・7・5・7・7も、音節数の17と31って、両方とも素数だよね。ただそれだけだけど。17と31の数字を入れ替えた71と13も素数だった。べつに、これまた、ただそれだけのことだけど。 二〇一四年十一月二十八日 「言葉でできた犬」 言葉でできた犬を ぼくも飼ってる 仕事から帰ると 言葉が わっと走りよってきてくれる 言葉といっしょに河原を散歩するのも気持ちいい 公園でも言葉といっしょに夕日を見ながら ジーンとすることもある いまも隣で わけわからないながらも ぼくといっしょに 言葉が このパソコンの画面を 眺めている 二〇一四年十一月二十九日 「ペリコロール。」 ぺリコロールだったかな お豆さん入りのパンを食べてたら けさ、奥歯のブリッジがバキッ って、割れた。 きょう一日、食べ物に気をつけないと いや、食べ方に気をつけないと。 左奥歯のブリッジが割れたので 右奥歯で食べないとね。 パンのなかに入ってた豆が硬くて ふつうは柔らかいんだけど 生地の表面近くにあった豆だったから 焼き上げたときに乾燥して硬かったのね。 ひゃ〜 びっくらこきました。 でも、悪いことのあとには いいことがあると思うからいいかな。 明日、歯医者に行こうっと。 午後から、もと彼とお食事の約束。 二〇一四年十一月三十日 「小子化」  きょう、ネットのニュースを見てびっくらこいた。小子化だって。不況のせいで、子どもに栄養が行き渡らないで、だんだん子どもの大きさが小さくなっていってるらしい。このまま不況がつづくと、21世紀の終わりには、5歳の子どもの身長が5cm。15歳の子どもが15cmになると予測されている。 二〇一四年十一月三十一日 「月間優良作品・次点佳作」 今月投稿された詩のなかで もっとも驚かされたのは 吉田 誠さんの『吉田 誠参上!』でした 目にした瞬間に凍りつきました 高校3年生 体育会系男子 身長176センチメートル 体重67キログラムの吉田さんが 猛吹雪とともに 画面のなかから躍り出てきたからです まあ、それからの一時間というもの 猛吹雪のなかで ずっとしゃべりっぱなし 吉田 誠さんの饒舌さには呆れ果てました というのも 吉田 誠さんは留学先の火星で整形手術をしたらしく 二つの口で同時に違う内容のことを ずっとしゃべりつづけていたのですもの しゃべり終わると 吉田 誠さんはすっと目の前から姿を消してしまいましたが 画面のなかをのぞいても何も出てこず 幻でも見たのかしら、などと思ってしまいました (後で留学先の火星に帰られたことがわかりました) 今月、一番、驚かされたのは この吉田 誠さんの『吉田 誠参上!』でしたが つぎに驚かされたのが 吉田 満さんたちの『手』でした 画面を見ると ぐにゅっと手がでてきて ぼくの手をパチンってしばいたのです それも一本の手ではなく 何十本もの手で で びっくりして画面を見ると パソコンのスピーカーから「ナンじゃ、ワレッ」という怒鳴り声の合唱が聞こえたので 蹴りつけて踏んづけてやりました ぎゅっ、ぎゅって踏んづけてやると 吉田 満さんたちの手はおとなしくなりました つぎに驚かされたのは 吉田和樹さんの『ぺんぺん草』でした 画面を見ると 床一面にぺんぺん草が生えて ぼくの部屋が河川敷の見慣れた景色になりました 毒気の強い作品が多いなかに このような凡庸な作品もときにはよいのではと みなさんも、こころ癒されてくださいね 発想は貧弱ですが、想念を現実化する確かな描写力には目を瞠りました 以上の3作品を、今月の優良作品に選びました。 いつものように つぎに、次点佳作の方のお名前と作品名をあげておきますね 次点佳作 吉田めぐみ「フランケンシュタインとメグ・ライアン」 吉田裕哉「戦場の花嫁 あるいは 戦場は花嫁か?」 吉田ところてん「イカニモ・ガッツリ・発展場」 吉田ぼこぼこ「昼ご飯を食べるのを忘れて」 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]卵化石/田中修子[2020年12月25日1時50分] ね、みんなは、恐竜だったころをおぼえている? むかし博物館に家族全員を、父がつれて行ってくれた。幸せな会話で窒息しそうな電車、はやく終わらないかな。 父はティラノサウルスが好き。わたしはトリケラトプスが好き。 そのころ母がとっていた子ども新聞に、トリケラトプスの男の子と女の子が恋に落ちて、滅びていく恐竜世界を冒険するまんがが載っていた。火山がドカンと噴火して、灰がおちて、空がどんよりと曇って、濃いみどりの羊歯や、大きなイチョウやソテツが、どんどん燃え上がり容赦なく枯れていく。二匹の両親は、二匹を守って死んでいった。寒くて寒くて、二匹はからだを寄せ合いながら、まだどこかに残ってるあったかな理想郷を探して……わたしは結末まで読まなかった。 だって、そのトリケラトプスの男の子と女の子が、あったかいとこにぶじたどり着けて結婚して幸福な結末を迎えたとしても、もうぜったいに二匹とも、死んでしまっていた。 恐竜はうんとむかしに、ゼツメツしてしまったのだ。 かなしくて仕方がないから、うんっと思いっきり力を込めて左手の親指の爪を半分まで引っぺがした。 我が家では、神さま仏さまのはなしは科学的根拠のないものとして、あざけりと共にあったが、お兄ちゃんは後日、生き仏様をあがめるようになる。お兄ちゃんがコワイものに変わってしまった気がしたし、それに父は「お兄ちゃんのことは、なにかあったら刺し違えてでも止める」と熱い青年のまなざしで云って、母は「まぁパパ」と感涙するのである。どうしたらいいんだろう、わたしはせめてかわいらしくニコニコした。 でも、お兄ちゃんが借りていっしょに見てくれたジャン・コクトーの、「美女と野獣」のしろくろの映画の、お姫さまの長いまつ毛と目の深い陰翳・ドレスのきらびやかさ・野獣のかなしみと、ふたりの深い愛は、わたしの目のうらにいまでもあざやかにある。 父母・ティラノサウルスがほえるようにわらうと、頑丈な真珠の白い歯が見え、レースの羊歯はめくるめくように湿度の高い甘やかなにおいで中生代世界を装飾し、黄金のイチョウはひらひら落ちる。半透明の翡翠でできたトリケラトプスのわたしは、ふるふる震えているミニお兄ちゃんをうしろにまもり、突進して、しゅんとした父母・ティラノサウルスを三本角の頭突きで追い返したあと、ソテツの宝石みたいに赤い実をカリリカリリとたべてお腹がグルグルしちゃうんだな。 上野駅で迷わぬように、父が手をひいてくれる。父の手は、銀色の製図用のペンで設計図を描きなれた乾いたさらさらのぬくもりで、書きダコがあって、深いあったかい肌色をして、神さまみたいに大きかった。父のつくった偉大な建造物を、わたしは生涯乗り越えられないだろう。もし父が逝っても、あのひとの巨大な足跡は、各地に残り続けてるのだから、さみしくなったら、彼が設計に携わった建物の中のカフェに行ったらいい。--この小さな島がいつか、火山の噴火によってあるいは、たかいたかい津波によって飲み込まれるまで、あのひとは、遺すものをつくったんじゃないだろか。 わたしは地球の燃え尽きたあと、きらめく星になりたい。 少年のように、父は目を輝かせてチケットを博物館の入口にて買い求めた。おっきいお札がさーっと消えてゆく。おにいちゃんは幽霊みたいにボンヤリして、消えていく代金を母は目をキリキリさせてじっと眺めている、わたしはあとで母がバクハツして、家族が青く透き通ったカチンコチンの氷河期にはいるのを、いまから、みがまえる。 そうそう。そういえば、零下の雪と氷の世界を、わたしは、毛皮を着て風にさまよい歩いた。あれ、さむかったなぁ、おなかも減るし、家族も仲間もじゃんじゃん死んでった。歩けなくなったおばあちゃんの遺体から、着古した毛皮を引っぺがして、からだに重ねて、歩いて行った。ちょっとまえ、七万年前くらいかな? でもいまおもえば、命がけで歩いた氷原は、けっこう綺麗な風景だった。夕暮れには、氷原は、赤く青く金に、どこまでもあてどなく、きらめいてね。月があがってね、ふっと息を飲んで、それきりだった。 --わたしたち家族は、人をかき分けてまわる。 それで、ある展示の、孵らないで化石になってしまった恐竜たちの卵、というのをみたら、胸が痛んだ。 あ、わたしたち、一億数千年ぶりに、邂逅したんだ。 --- 某サイト投稿作品 ---------------------------- [自由詩]ちっぽけ/田中修子[2020年12月27日3時51分] やっとたどりついた水死体が 黄緑の棘のある 白薔薇のいばらのしたに 寝っ転がっていて 飛び出た澄んだ眼玉で 悪咳が流行ってから澄みゆく空を わらうように泣くように眺めている しずかに 夜明けの水平線のようなうす紫色のくちびるで なにかを 祈りながら  土の上 季節外れの花たちが咲いている 陽春・朱夏・秋冷・霜天 あらゆる季節を 輝く宝石として敷石にしました 桃、濃い緑、燃える赤、琥珀でできている この道 亡き人の 立ち寄る小国だからね、すこしばかりおかしくって 同じ時期に咲くはずがなくとも 十二単で口元を覆い 枝垂桜の淡さ、あかしやの鮮烈な金、野薔薇の、灼けつくような紅葉を さらさらと和紙に写していくだけの わたくしどもは、番人、 白い野薔薇をのぞき込んだら、真珠がいたよ 喪われた人の、呼吸たち  ここは これでいい 幸福の青い鳥が二羽、囀りながら飛び交っていて、 いくら食われてもなくなることのない、水死体をついばみ、 糞から種が落ち、そうして花々が咲き 白い野薔薇に巣をかけて  どこまでも生態系だ。こうもりの咳だ。みンな、九相絵図だ。 淡い紫にも見える、灰色の雲がやってきて 青と金の破片を降らせる雨なんです。 「佳雨(かう)だね」「さうです」ふふ、 雲の上には金の星を抱いた夜空が果てのない、 わたくしども死んだらすべて巡りゆくのです、 人が喪われたとて(百年後には忘れられている、肺の弱い、わたくしのいき)  この輪廻に抱かれ  ちっぽけ。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一四年十二月一日─三十一日/田中宏輔[2020年12月27日21時06分] 二〇一四年十二月一日 「イエス・キリストの磔刑」  イエス・キリストが磔にされるために、四条河原町の交番所のところを、自分が磔にされる十字架を背負いながら歩かせられていた。それほど多くの民衆が見ていたわけではないのだけれど、片側の狭い橋のうえは、ひとが磔にされる様子を見ようとする人間でいっぱいだった。磔など、そう珍しくもないものなのに。イエスが河川敷に降りていく坂道でつまずいた。すると、警吏のひとりが鞭を振り上げて、イエスの血まみれの膝に振り下ろした。ビシリという鋭い音がすると、イエスの血まみれの膝にあたらしい傷口が開いた。イエスの身体がよろけた。背負っていた磔(はり)木(ぎ)が、彼の背中からずり落ちた。すると、別の警吏が、群衆の先頭にいて、イエスの様子を見ていたぼくの目のまえに鞭を振り下ろして、「おまえが代わりに背負え!」と大声で言い放った。鞭の音とともに、地面のうえを一筋の砂塵が舞い上がった。恐怖心でいっぱいのぼくは、臆病なくせに、好奇心だけは人並みに持ち合わせていたのであろう、裸同然のぼろぼろの腰布一枚のイエスの代わりに、重たい磔木を背中に負って、刑場の河川敷の決められた場所まで歩いた。道中をイエスが磔木を引きずらなければならなかったのと同様に、そのあまりに重い磔木を、ぼくもまた河川敷の地面のうえで引きずらなければならなかった。群衆の見ているまえで、ぼくは磔木を刑場の決められた場所まで運んだ。警吏たちがイエスの身体を十字架のうえに載せ、一本ずつ釘をもって彼の手のひらを磔木に打ちつけると、イエスがそのたびに悲鳴をあげた。警吏たちが、イエスの両足を重ねて、太い釘で磔木に突き刺すと、イエスはひときわ大きな悲鳴を上げた。何人もの警吏たちによって、磔木が立てられると、それを見ていた群衆たちは罵声を上げながら手を叩きだした。拍手しだしたのである。さすがに、ぼくには、拍手をする気など起こるはずもなく、ただ、苦痛にゆがんだイエス・キリストの顔を見上げることしかできなかった。風はなく、空には雲ひとつない、十二月の第一日目の出来事であった。そう思っていると、どこから雲があらわれたのか、にわかに空がかち曇り、突然の嵐のように風が吹きすさび、大雨が降りだしたのである。イエスが雨に濡れた顔を上げて、何か叫んでいた。聖書にある言葉だったのであろうか。でも、その言葉ではなかったような気がした。 二〇一四年十二月二日 「かさかさ」  後ろで、かさかさという音がしたので振り返った。すると、かさかさという文字が壁のうえを這っていた。手でぱちんと叩くと、ぺちゃんという文字となって床のうえに落ちた。 二〇一四年十二月三日 「シェイクスピア」  ウルフの『自分だけの部屋』を読んでいるのだが、たしかにまっとうな見解だとは思うものの、ちょっと古いなあと思われる記述もある。じっさい、古い時代の書物なのだが、ではなぜ、シェイクスピアが古くならないのだろうか。シェイクスピアにはなにがあるのだろう。あるいは、なにかがないのか。わからない。きょうは、ヴァージニア・ウルフの『自分だけの部屋』のつづきを読みながら寝よう。バリントン・J・ベイリーの『時間帝国の崩壊』めっちゃゲスい。10年ほどむかしに、たしか、5000円くらいで買った記憶があるのだけれど、ちょっとイラッてくる。ふと思ったのだけれど、なぜシェイクスピアの戯曲が、その言葉が、いまにいたってもなお、ぼくのこころに深く迫ってくるのかというと、それは、シェイクスピアの言葉の簡潔さ、単純さ、直截さによってもたらされたものではないのかなって。どかな。もちろん、きわめてレトリカルでもあるのだけれど、使われている言葉は、常日頃、ふつうに使われている言葉ばかりなのだ。 二〇一四年十二月四日 「シェイクスピア」 カレッジクラウン英和辞典をパラパラとめくっていると Silver often occurs native. 銀はよく自然のままに見いださる といった 受験のときに見た覚えのあるものや A mule is a cross between a horse and an ass. ラバは馬とロバの合いの子である という とっくにぼくが忘れている というか 思い出すことのなかったものや There was a congregation of bees around the hive. ハチの巣のまわりに蜜バチが群れていた といった まるで詩の一節のようなものに出会ったのだけれど Shakespeare had small Latin and less Greek. シェイクスピアはラテン語はほとんどわからなかったし、ギリシア語にいたってはなおいっそうわからなかった なんてのに出くわしたときには なんだか固い言い方だけど 当惑させられてしまった 本を読んで シェイクスピアが大学を出てなかったことや ギリシア語やラテン語ができなかったってことは知ってたけど 何も辞書の例文として、そんなことまで書かなくてもいいんじゃないのって そう思った そんなことで うんこにすることないんじゃないのって 顔面ストリップ 友だちのハゲが気にかかる ぼくも売り切れです 二〇一四年十二月五日 「言葉」 空気より軽い言葉がある。 その言葉は空中を上昇する。 空気より重い言葉がある。 その言葉は空中を下降する。 二〇一四年十二月六日 「言葉」 うちの近所にうるさい言葉が飼われていて 近づくと、うるさく吠えかかってくる。 二〇一四年十二月七日 「言葉」 北半球では 言葉も 東から上り 南で最高点に達し 西に沈む。 二〇一四年十二月八日 「興戸駅」 これって生まれてはじめての経験かも。 ぼくがびっこひきひき歩いていたら 後ろから歩いてきた学生たちが みんな ぼくを横切って ぼくの前を歩いていった。 ぼくだって歩いていたのに なんだか ぼくだけが後ろに ゆっくりとさがっていってるような そんな気もした。 なにもかもが ゆっくり。 ぼくが見上げた空は たしかにいつもよりゆっくりと 風景を変えていった。 いつもより たくさんのものに目がとまった。 田んぼの周りに生えている雑草やゴミ 通り道にあった 喫茶店のドアに張られたメニューのコピー 歩道橋の手すりについた、まだらになった埃の跡。 これって、きっと雨のせいだろうね。 さいきん降ったかな。 どだろ。 ぼくは何度も その埃が手のひらにくっついたかどうか 見た。 埃はしっかり 銀色に光った鋼鉄製の手すりにこびりついていて (ステンレススティールだと思うけど、違うかな?) ぼくの手のひらは、ぜんぜんきれいだった。 歩きながら食べようと思って ル・マンドというお菓子を リュックから出したら そのお菓子を買ったときのレシートが道に落ちたので 拾おうとして、しゃがみかけたら 学生服姿の高校生の二人組のうちの一人が さっと拾い上げて ぼくに手渡してくれた。 きっと、ぼくの足が不自由だと思ったからだと思う。 人間のやさしさって 感じる機会ってあんまりなくって あんまりなかったから 電車の扉がしまってからでも その高校生たちの後ろ姿を 見えなくなるまで ぼくの目は追っていた。 二〇一四年十二月九日 「生きること」  生きてみないと、意味がわからない。生きていても、意味がわからない。生きているから、意味がわからない。意味がわからないけれど、生きている。意味がわからないのに、生きている。意味がわからないようにして、生きている。このどれでもあるというのは、生きていることに意味がないからであろう。それとも、このどれでもなくって、意味があって、生きているのかもしれない。でも、その意味がわからない。しかし、意味がわからなければ、自分で意味をつくればいいわけで、それなら、いくらでも意味を見いだせる。見いだした意味が、自分の人生に意味をつくりだす。でも、とりあえず生きてみることかな。つべこべ言わずにさ。齢をとって容色は衰え身体も大丈夫でないところが出てくるのだけれど、とりあえず生きつづけることかな。意味よりは、まずは生きていくことの使命のようなものを感じる。生まれてきた以上、生きつづける努力は必須なのだと思う。 二〇一四年十二月十日 「恋人たち」  過去形で書いてきた恋人たちだって、いまでもまだ、ぼくのなかでは現在形である。いや、未来形であることさえあるのだ。 二〇一四年十二月十一日 「桃太郎」  村人たちは笑顔で宝物を桃太郎に手渡した。桃太郎は後ろ向きに歩いて大八車のうえに宝物を並べて置いた。すると、犬や雉も宝物を持って後ろ向きにやってきて、それを大八車のうえに載せた。山盛りいっぱいになった宝物を積んだ大八車を後ろ向きに進ませて、桃太郎たちは後ろ向きに歩きはじめた。一行は港に着けてあった船に後ろ向きに歩いて乗り込んだ。船は後ろ向きに海のうえを走った。鬼が島に着くと、一同は宝物を積んだ大八車を後ろ向きに押して鬼のすみかまで運んだ。そうして、桃太郎たちは、血まみれの鬼たちに宝物を順々に配っていった。 二〇一四年十二月十二日 「間接キッス」  台湾にいるテッドから葉書がきた。貼り付けてあった切手をうえからちょっと舐めてみた。間接キッスかな、笑。 二〇一四年十二月十三日 「タクシーを捨てる」 「タクシーを拾う」という表現があるのだから、「タクシーを捨てる」、あるいは、「タクシーを落とす」といった表現があってもよいのになあと、ぼくなどは思う。 二〇一四年十二月十四日 「宇宙」  たぶん、ぼくたちひとりひとりは、違った宇宙なんじゃないかな。だから、ぼくがぼくの地球上で空気より重いものを放り投げてたら、ぼくの宇宙では下に落ちるけれど、ほかのひとの宇宙では、地球上で空気よりも重いものを放り投げても、宙に浮いて空にまで上がってしまったりすることもあるんじゃないかな。違った宇宙だから、違った力が作用したりするんだろうね。そうだね。ぼくたちは、ひとりひとりが、きっと違った宇宙なんだよ。そんな気がする。 二〇一四年十二月十五日 「お出かけ」 これが光。これからお出かけ。少し雨。これが光。ぼくのなかに灯る。少し雨。 二〇一四年十二月十六日 「100円オババと、河原町のジュリーと、堀 宗(そ)凡(ぼん)さんのこと」 ぼくが子どものころ 祇園の八坂神社の石段下で よく、100円オババの姿を見かけた。 着物姿の、まあ、お手伝いさんって感じのババアだった。 うちにも、ぼくや弟たちが子どものころは お手伝いのおばあさんがいたのだけれど うちのお手伝いのおばあさんたちのほうが だんぜん清潔っぽかったし、見た目もよかったし なにより、ずーっと穏やかな感じだったように思う。 いまだに、おふたりの名前は覚えている。 おふたり以外のお手伝いのおばあさんたちの名前は出てこないけど。 すぐ下の弟のほうは、「あーちゃん」 一番下の弟のほうは、「中島のおばあちゃん」 と呼んでいた。 なつかしい、音の響きだ。 どちらのお名前も、思い出すのは、数十年ぶりかもしれない。 一番下の弟を背に負いながら、トイレをしていて ひっくり返って、弟が泣き叫んで その声のすごさに家中で大騒ぎになって 一日でクビになったお手伝いのおばあさんの顔は覚えているのだけど そのおばあさんって、一日だけのひとだったのだけれど、顔は覚えていて 名前は覚えていないのね。 人間の記憶って、不思議ぃ〜。 で 100円オババは、道行くひとに 「100円、いただけませんか?」 と言って歩いていたのだけれど まあ、早い話が 歩く女コジキってとこだけど あるとき、父親と、すぐ下の弟と 祇園の石段下にあった(いまもあるのかな) 初音といううどん屋さんに入って それぞれ好きなものを注文して食べていると その100円オババが、店のなかに入ってきて すぐそばのテーブルに坐って 財布から100円硬貨をつぎつぎに取り出して お金を数えていったので びっくりした。 「あれも、仕事になるんやなあ。」 と父親がつぶやいてたけど ぼくは ぜんぜん腑に落ちなかった。 河原町のジュリーと呼ばれていたコジキがいた。 死ぬ半年くらい前に 市の職員によって救い出され 病院に入っていたのだけれど 足かな 膝かな 歩くのに不自由していたのだけれど そのボロボロのコジキ姿を見かけると ぼくは、とても強い好奇心にかられた。 そのひとの過去が自由に頭のなかで組み立てられたからだ。 何才くらいだったのかな 70才は過ぎてたと思うけど。 もしかしたら、過ぎてなかったかもしれない。 あるとき 祇園の八坂神社の向かって左側の坂道で 父親とぼくが 河原町のジュリーが足をひきずりながら歩いてくるのを見ていた。 ジュリーが近くまでくると 父親がタバコの箱を手渡した。 ジュリーは 脂まみれのドレッド・ヘアーのその汚い頭を大きく振って ぼくの父親に何度も頭を下げていた。 父親は、つねづね、 施しだとかいったことは偽善だと言っていたように記憶しているのだが 父親が、ジュリーにタバコをやっていたのは、このときだけではなかったようだ。 ぼくの心理はとても単純なものだけれど ぼくの父親の心理は、ぼくにはまったくわからないものだった。 日本でより 外国でのほうが有名だったのかしら? 堀 宗凡さんに フランスの雑誌社がインタビューするというので そのときに 宗凡さんの家の庭に立てる板に ぼくがいくつか、一行の詩を 花の詩を書いてあげたのだけれど 雑誌には ぼくの名前がいっさい載らなかった。 庭に立てられた板の詩は載っていたように記憶しているのだけれど。 宗凡さんのお人柄は とてもあっさりしたもので ぼくもお茶を少し習っていたし お茶だけでなく、個人的にも交流があったのに ぼくの名前をいっさい出さなかったことに ぼくはとても強い怒りを感じた。 いまでも不思議だ。 なぜ、ぼくの詩だという説明が どこにもなかったのか。 そのことは、宗凡さんがもう亡くなられたので きくことができないけれど。 そのときの、ぼくの一行詩。 いくつか書き出してみようかな。 花もまた花に見とれている。 これって、ヴァリエーション、いくつもできるね。 見つめているのは、わたしかしら? それとも花のほう? 花も花の声に耳を澄ませている。 とかとかね。 そいえば、むかし、『陽の埋葬』のひとつに 雨もまた雨に濡れている。 と書いたことがあった。 二〇一四年十二月十七日 「「あ」と「い」のあいだ」 こぶし大の白い立方体の上に「あ」が生まれる こぶし大の白い立方体の下に「い」が生まれる こぶし大の白い立方体が消え去る こぶし大の白い立方体が消え去っても 「あ」と「い」は存在しつづける かつて「あ」と「い」のあいだには こぶし大の白い立方体が存在していたのだが いまや「あ」と「い」のあいだには 何もない かつて「あ」と「い」のあいだに こぶし大の白い立方体があったことを知っているのは わたしとこの言葉を読んでいるあなただけだ わたしたちの知らないところで こぶし大の白い立方体が現われては消えてゆく わたしたちの知らないあいだに こぶし大の白い立方体が現われては消えてゆく 二〇一四年十二月十八日 「名前間違え」  塾の帰りに、ふだんは見ない日本人作家の棚の方へ足を運んだら、永 六輔さんが選者をしてらっしゃる『一言絶句』という本があって、サブタイトルが「「俳句」から「創句」へ」とあって、あれ、たしか、むかし、『鳩よ!』という雑誌で、ぼくの作品が選ばれたことがあるぞと思って、手にとってみたら、ぼくが書いた 鮭はうれしかった、またここに戻ってこられて 川はよろこんだ、まだ水がきれいだと知って が、133ページ(光文社 知恵の森文庫 2000年初版第一刷)に載ってたのだけれど、いまのぼくなら、「水」を「自分」にするかなって、ふと思った。あ、光文社さんからは、あらかじめ、なんの連絡もなかったのだけれど、この本のなかで、作者の名前が「田中弘輔」になってて、ぼくの名前って、そんなに珍しくないだろうから、間違いにくいと思うんだけど、訂正していただける機会があったら、光文社の方に訂正していただきたいなと思った。こうして、名前を間違えられたのだけれど、間違えられた名前のひともいらっしゃる可能性はあるわけで、自分が書いてもいないものを書いたと思われて迷惑なひともいるだろうなと思った。ところで、ネットでググると、ぼくと同じ名前のひとが何人もいらっしゃってて、「田中宏輔」というと、ハゲ・デブ・短髪・ヒゲのゲイの詩人だと思われて迷惑なひともいるような気がする。自分で、ハゲ・デブ・短髪・ヒゲのゲイの詩人だって公言してるからね。そいえば、「田中宏輔」というお名前のプロ野球選手もおられる。 ありゃ、いま奥付を見たら 「お願い(…)どの本にも誤植がないようにつとめておりますが、もしお気づきの点がございましたら、お教えください。(…)」 ってありました。連絡してみましょうか。ツイットのアカウントにあるかもしれませんね。検索してみます。 ありました。つぎのようなツイートを送りました。  知恵の森文庫の、永 六輔さんの『一言絶句』に、作品を収録されている作者なのですが、作者名の一文字が違っています。133ページの作者名「田中弘輔」は、正しくは、「田中宏輔」です。きょう、偶然、本を目にして、気がつきました。そのうち訂正していただければ幸いです。 二〇一四年十二月十九日 「ふと思い出した言葉」  キッチンでタバコをすってたら腰をぐねった。体重が重すぎてだと思うけれど、ひとりだけど、カッコつけて足を交差させていたためだと思う。なんちゅう重さ、笑。かなり太った感である。むかし、「このでっかい腹は、おれのもんや」と言われた記憶がある。だれにだったろう。(覚えてるよん、エイジくん、チュッ!) 二〇一四年十二月二十日 「自由電子」 いきなり自由だなんて まあ、かまわないけどね。                ──自由電子 どうせ、自由電子の顔なんて ひとつひとつ、おぼえてなんかいないでしょ? まさか、きみも自由電子? ぼくも自由電子。 そろそろまいりましょうか? そうさ、お前も強い電磁場のなか 思い通りには動けないのさ。 じゃあ、もう自由電子じゃないじゃん。 不自由電子じゃん。 自由なうちにやりたいことやっておかなきゃね。 マニア 自由電子もエコだから。 ブイブイ。 ちょいとちょいと そこの自由電子のおにいさん、 寄ってかない? 二〇一四年十二月二十一日 「コンドーム」 コンドーム って、おもしろいものですよね。 チンポコ以外のものにもはめられますものね。 拳銃は男性器のシンボルの一つでしたね。 弾は精子ですものね。 でも、拳銃だと、精子が突き抜けちゃいますね、笑。 なんかおもしろい。 答案用紙に穴をあけるのに、コンドームをかぶせる必要はないのですが 必要のないことをするというのが、人間のおもしろさで 文化とか、芸術とかって、そんなところにあるんだな〜 とかとも思いました。 ところで 2年ほど前に聞いた話です。 インド旅行に行った若い男の子が 売春宿の裏側にまわってみたら 使った後のコンドームが洗って干してあったんですって。 いっぱい。 で それを写真に撮ろうとしたら とても怖い感じのひとがカメラを取り上げたんですって。 こわいですね〜。 一度使ったコンドームをまた使うなんて。 いや 怖いというのではなくて 貧しさが、そうさせているのでしょうけれど この逸話を 立ち飲み屋で おもしろそうに話している若い男の子に 「無事に帰れてよかったね。」 と ぼくは言いました。 中盤から終わりにかけての情景 まるで映画のよう そういえば 冒頭のシーンも映画のひとコマのよう。 とても映像的で シリアスなのに ユーモラスでもありました。 楽しい話でしたね。 いま部屋で、キーボードを打ち込んでいるのですが なんだか、外に出て行きたくなっちゃいました。 公園は寒いから 古書店めぐりでもしようかな。 あ、いま気がつきましけれども コンドーム のばす「ー」を「う」にしたら こんどうむ 今度産む になっちゃうんですね。 おもしろい。 二〇一四年十二月二十二日 「芸術家の幸せ」  いまふと思ったのだが、詩を読めるだけでも幸せなのに、詩を書かなければ、より幸せではないというのは、とても不幸なことではないかと。もしかしたら、芸術家って、芸術作品をつくらなくなったときに、ほんとうの幸せがくるのかもしれない。まあ、それを世間じゃ、芸術家の死と言うだろうけど。 二〇一四年十二月二十三日 「卵」 窓の外にちらつくものがあったので 目をやった。 二〇一四年十二月二十四日 「代用コーヒー」 メルヴィル『白鯨』の1に 「豆コーヒー」(幾野 宏訳) フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』の7に 「炒りどんぐりのコーヒー」(篠田一士訳) というのが出ていた いわゆる「代用コーヒー」ってヤツね コーヒー党のぼくとしては ぜひ一度は飲んでみたいなって思っている あっ 勝手にコーヒーいれちゃだめだよ なにさ なによ なになにぃ? なになにぃ? くるくる パー! と どんどん× じゃなく どんどん書ける じゃなく どんどん駆ける じゃなく どんどん賭ける どうしたんだろう 投稿時代みたいだ 投稿時代には 多いときは 一日に十個くらい書いてた ううううん 間欠泉かな やっぱ でもこれでとまったりして、笑 二〇一四年十二月二十五日 「一途」  きょう、日知庵で飲んでたら、日知庵でバイトをしてる女の子の彼氏が仕舞いかけに店に入ってきたのだが、常連さんのひとりが、「いちずだねえ」と彼氏に声をかけて、彼氏が照れ笑いをしていたので、ぼくが「いちずって、どういう漢字を書くの? いちはわかるけど。」と言うと、「途中の途です。」と答えてくれて、そこですかさず、「一途なのに、途中の途って、へんなの。」と思ってぼくがそう言うと、「途中の途って、道って意味らしくて、一つの道って意味らしいですよ。」「へえ、そうなんだ。さすが京大生、よく知ってるね。」と言って、ぼくも感心したのだった。一途なのに、途中の途ってねえ。ぼくには、おもしろかった。 二〇一四年十二月二十六日 「死体が立ち並んだ畑」 20年近く前ですが 甥の面倒を見ているときに 甥が親から買ってもらっていた 絵をつくって動かすことができるおもちゃで 草原に木を生やしたりして背景をつくり 草原に、たくさんの手が生えるような光景を つくってやって その手が、ゆらゆらと動くようにしてやった記憶があります。 パソコンで描く絵の先駆的な おもちゃだったわけですが それが思い出されたのです。 手が生えてくるといえば コードウェイナー・スミスの『シェイヨルという名の星』を思い出しますが そこは地獄のような風景で 罪人たちに放射線のようなものをあてて 身体や顔面のいたるところから生えてくる手や足や耳や鼻や目を 牛頭人が、罪人たちの身体から 手術用のレーザーメスでつぎつぎと刈り取って行くというものでしたが それも思い出しました。 怖くて、ぞくぞくする小説でしたが いまだに細部の描写をも忘れられません。 のばした手が枯れるというのは 聖書に記述があり、それも美しいのですが むかし 北山に住んでいたとき 畑に いっぱい名札が立てられているのを見て ここには中村さんが ここには山田さんが ここには武村さんが 生えてくるのね。 と思ったことがありました。 ずいぶんむかし ブログか 詩に書いたことがありましたが あれは 貸し畑っていうのでしょうか。 なんていうのか忘れましたけれど。 名札がたくさん並んでいるのは 不気味で、よろしかったです。 ことに夕暮れなんかに その畑の前を通りますと。 二〇一四年十二月二十七日 「業」 歌人の林 和清ちゃんとの会話。 「こんど生まれ変わるとしたら どんな人間になりたいって思う?」 「う〜ん。 高校時代にすっごく好きなヤツがいたのね、 ソイツみたいのがいいな。」 「もっと具体的に言ってよ。」 「具体的ね。 そうだね、 すっごくフツーだったのね、 フツーにあいさつできて、 フツーに人と付き合えて。」 「ふうん。」 「だれとも衝突しないし、 だれからも憎まれたことがないって、 そんなヤツ。」 「は〜ん。 アツスケって、 ほんとに業が深いんだ。」 二〇一四年十二月二十八日 「焼き飯頭」 もしもし なあに わかる よっちゃんでしょ ああ きのうは サラダ・バーでゲロゲロだったね ほんとにね あっ きのう言ってた 死んだノーベル賞作家って 何ていう名前か思い出した カミロ・ホセ・セラでしょ きのう ファミレスで思い出せへんかったから キショク悪くて ふうん あっ それより これから うちに来てゴハン食べへん なんで なんでって べつに はあ いっしょのほうがおいしいから はあ でも きのうもゴチになったやん そんなんええで 何 つくってくれるん チャーハン チャーハン さいきん コッてるねん きのうは焼きそばで きょうは焼き飯 まあ まあ そう言わんと おいしい だいじょうぶ ほな行くわ まずかったら 近所のコウライに行って チャーハン食べたらええんちゃう そやなあ なあ なあ ぼくってなあ いっぺん 焼き飯って聞いたら 焼き飯頭(あたま)になるねん はあ  なにそれ 頭んなか焼き飯焼き飯焼き飯って焼き飯でいっぱいになるねん ああ それおもろいやん じゃ 詩にするわ と 二〇〇二年一月十九日のお昼ごろに このような会話が電話でやりとりされたのです 頭のなかで焼き飯頭焼き飯頭焼き飯頭って頭が焼き飯になった人のイメージを 思い浮かべながら近くに住んでるよっちゃんちに行きました それ違うやん 焼き飯頭頭(あたまあたま)ってことになるやん そうでもないんちゃう どういうこと 焼き飯頭を考えてる頭ってことにならへん それで 焼き飯頭頭ってこと ウィ そっかなあ そっかなあ なんか違う気がするねんけどなあ じゃあ 焼き飯頭頭のことを考えたら 焼き飯頭頭頭になるってことね 焼き飯頭頭頭のことを考えたら 焼き飯頭頭頭頭になるのね それより チンチン頭(ヘッド)っていうのもええで なにそれ あんたも ときどきそうなってるはず あっ そういうこと でも そんなん詩に書けへんわ やること やっとるくせに そやけど あんまりやわ チンチン頭(ヘッド)なんて 頭 チンチンと違うで チンチンになってるやんか なってるんやろか なってるはず ポコポコヘッドもあるで それ 吉本やん そういうたら コーンへッドちゅうのもあったなあ とうもろこし頭の変な宇宙人がでてくるヤツね ちょい チンチンやわ ちゃうやろ そうかなあ おもろかった 見てへん ぼくもや あほみたいな感じやったもん ぼくらの話より ましかもしれへんで そうかなあ そやろかなあ たぶんなあ たっぷん たっぷんな 二〇一四年十二月二十九日 「小鳥」  地面のうえに、ひしゃげてつぶれたように横たわっていた小鳥の骨が血と肉をまとって生き返った。小鳥は後ろ向きに飛んで行った。何日かして、ベンチのうえに置かれた鳥籠に、その小鳥が後ろ向きに飛びながら、開いた扉から入った。鳥籠を持ち上げて、一人の少年が後ろ向きに河川敷を歩き去って行った。 二〇一四年十二月三十日 「ぼくと同じ顔をした従兄」 小学校のときに、継母の親戚のところに一日、預けられたことがあるのですが よそさまの家と、自分の家との区別がつかなかったのでしょうね。 なにをしても叱られるなんてことがないと思っていましたら 冷蔵庫のプリンを勝手にぜんぶ食べてしまって その親戚のひとのおやじさんに、きつく怒られてしまいました。 二十歳のときに 実母にはじめて会いに高知に行きましたときに 自分の血のつながった従兄弟たちに会いましたら そのうちのひとりが、ぼくの顔と体型が瓜二つだったのです。 ぼくは、当時はあまり酒が飲めませんでしたが ぼくと同じ顔をした従兄は大酒呑みでした。 日本酒を2升は呑むと言うのです。 はじめて血のつながった従兄弟たちといっしょに過ごした日の 夜の大宴会の様子は、いまでもすぐ目に浮かびます。 2、30人の親戚が集まって 祖母の2周忌で、酒を飲んでいたのです。 ぼくの知らない ぼくの赤ん坊のときの話だとか ぼくが2歳のときに、従兄弟の顔を引っ掻いたらしくって 「これ、あつすけにつけられた傷やけ。」とか、額の髪を掻き上げて見せられました。 高知弁をもう20年くらい聞いていないので だいたいの音しか覚えていませんが 京都弁に比べると いかにも方言って感じに思えました。 京都弁も方言なのですが、笑。 ぼくにそっくりの従兄弟は2歳上だったのですが 数年前に、心筋梗塞で亡くなりました。 亡くなる前に、足を怪我して引きずっていたそうです。 田舎なので、差別語をまだ使っているのでしょうか。 それとも、実母が年寄りなので、差別語というものを知らないのか、 「あの子は、ちんばひきよってね。かわいそうに。」と言っていました。 もちろん、差別意識はなく、使っていた言葉だと思います。 十年以上前ですが、実母が泣きながら、電話で、ぼくに謝っていました。 ぼくの父親が実母と別れた理由のひとつに 実母が被差別部落出身者であることを 結婚するまで、ぼくの父親に隠していたとのことでした。 それが原因のひとつで、ぼくの父親と離婚したとのことでした。 もう三十代半ばを過ぎていたからかどうかはわかりませんが ぼくの身体に、被差別部落のひとの血が流れていることに なにも恥じる気持ちも、逆に誇る気持ちも感じませんでしたが たぶん、若いときに聞かされていても、動揺はしなかったと思います。 そして、ぼくが三十代半ばだったか、後半くらいに出会った 青年のエイジくんが、高知県出身だったのです。 高知県高知市出身でした。 彼とのことも、いっぱい思い出されました。 ふたりでいたときのこと ひとりひとりになって 相手のことを考えていたときのこと 楽しかったこと 笑ったこと 口惜しかったこと 悲しかったこと さびしかったこと そうだ。 親戚の家の玄関で靴を脱いだとき 自分の脱いだ靴を見下ろして ああ 足がちょっとしめっていて 靴、臭わないかな なんてことを 少し暗い玄関の明かりの下で ふと思ったことなど どうでもいいことですが どうでもいいことなのに 細部まで覚えているのですが。 どうでもいいことだから 細部まで覚えているのかもしれませんが。 さっき 「血のつながった」 と書いたとき はじめ 「知のつながった」 でした。 手書きと違って ワードでの書き込みって 偶然が、いろいろあって、おもしろいなと思いました。 二〇一四年十二月三十一日 「ホサナ、ホサナ」 福井くん きょうのきみの態度 よかったよ 吉田くんがいなくなって こんどは ぼくってわけ きみで四人目だよ きみも ぼくのコレクションに加えてあげる きみは なにがいいかな 鉛筆 消しゴム それとも三角定規かな きみの体型に合わせて選んであげるね ううん そうだな 先をビンビンに尖らせた鉛筆がいいかな きみの神経質な感じにぴったりだろ じゃあ 台所にあるゴキブリホイホイ 見てくるね アハッ いたよ おっきいのが まだ生きてるよ こうやって 脚をもいでって っと アハッ つぎは 福井くん きみね きみの番ね ちょっと アゴ あげてね 頭 引っこ抜くから いっ いいっ いいっ っと アハッ やったね やったよ きれいに引っこ抜けたよ きみの頭 あれっ 泣いてるの 痛かったの でも もう何も感じないでしょ ぼくだって痛かったんだよ ほら これ見てよ 左目のまぶた 腫れてるでしょ きみに殴られた痕だよ 痛くてたまらなかったよ まだヒリヒリしてるよ でも もういいんだけどね ゆるしてあげるね そうだ まだやることが残ってた 両方削った鉛筆は 鉛筆は っと あった これだ これね これって たしか 貧乏削りって言ったんだよね これを こうして きみの首に突き刺して グイグイグイって と ふう できた あとは ゴキブリの脚をくっつけていくだけだね ほうら こうして ボンドでくっつけてっと ふうふう ふうっと はやく乾け はやく乾けっと ほら できあがったよ きみは ぼくの四番目のコレクション ぼくの大切なコレクション さあ 友だちが待ってるよ きみの友だちたちがね ぼくの机の引き出しの中にね みんな知ってるよね ホサナ ホサナ 主の御名によって来たる者に祝福あれ かつて来たる者にも いま来たる者にも祝福あれ アハッ 知らなかっただろう ぼくにこんな力があるって ぼくのお祖母ちゃんは霊媒だったんだよ ぼくは、よくひきつけを起こす子だった お祖母ちゃんには ちいちゃい時によく幻を見せられたんだよ お祖母ちゃんがね 呪文をとなえながらね こんなふうに 目をつぶって ふっ ふって 手の二本の指に息を吹きかけてね えい えい えいって突然叫んだりしてね あれは いくつのときのことだろう 針の山の頂上に 座布団の上に坐ったお祖母ちゃんがいてね えいって叫んで お祖母ちゃんが両手をあげると まわりじゅうに火が噴き出したのは そのとき ぼくは まだちっちゃかったから お祖母ちゃんのひざの上に抱きついて離れなかったんだけど とっても怖かったんだろうね しばらく気を失ってたらしいんだ あとで聞いたらね それからだよ いろんなものが見え出したのは いろんなことができるようになったのは ホサナ ホサナ 主の御名によって来たる者に祝福あれ かつて来たる者にも いま来たる者にも祝福あれ みんな ゆるしてあげる ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]初夢/足立らどみ[2021年1月2日8時31分] 昨晩は瀬古選手語録を調べていた。 気になった言葉。 「 私だったら自分の得になると思って喜んで上るけれど、エスカレーターを選ぶ者はマラソン選手になれないと思う。 」 深夜1時過ぎに就寝して4時過ぎに目が覚める。複雑で深い重い夢を見ていて日記に書くため記憶しようとしたが忘れてしまって残念に感じた。久々に金縛りになっていた身体がほぐれていくことに気づいて今回の「初夢」は「身体が持たなかった」と布団の中で思った。二度寝。2度目の起床は7時過ぎ。「今まで何度か繰り返して出てくる夢でしか行けない場所、電車、乗りつぎ、駅員、ホーム、電車」と「現実社会でともに困難に立ち向かった友人達」が出てきた。今でもはっきり覚えているやりとりの部分を頑張って切り出してみて以下、記載しておきます。 ● 遅刻しそうになり速い電車に乗り換える夢● 朝、いろいろなことに巻き込まれ遅刻しそうになって、駅で、まごまごしていたら、駅員Aが現れて、こちらですと教えてくれる。改札口で定期を出したら、駅員Bが「これはまた珍しい切符をお持ちですね」と判子を押してくれた。見ると、実名の名前の後に●に白抜きで「男」と印字されてある。定期券の記載と確かに違うと解る。コンコースは地上5階にあり車椅子に乗っている私は駅員Bに誘導して貰って自動階段のようなエレベータに乗って目的の4階のホームに向かう。壁のないエレベーターから階数が見える。地上5階の一つ下は1階でその下が2階でその下が3ー4階で変な順番の表記なのに納得している。ホーームに着いた。普通電車は出発してしまっていたけど速い特別電車に乗ることができた。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一四年十三月一日─三十一日/田中宏輔[2021年1月3日17時32分] 二〇一四年十三月一日 「宝塚」  18、9のとき ひとりで見に行ってた 目のグリーンの子供と母親 外国人だった 子供は12、3歳かな きれいな髪の男の子だった 母親は栗色の髪の毛の、34、5歳かな 宝塚大劇場に、ひとりで行ってたとき ときどき行ってたんだよ 斜め前の席に坐ってた子供が 自分に近い方に 宝塚の街のことは、隅から隅まで知っていた いろんなところ、ぶらぶらしてた あれから何10年経ったろう もしいま宝塚の街を歩いてみたら ぼくの傍らをすれちがっていく 笑い声に出会うだろう それはたぶん きっと あの宝塚の街を通りすぎていく 風だったのだろう 二〇一四年十三月二日 「さつき」 22、3のときのことだった ぼくの住んでいた長屋の斜め向かいの家の 女の子 11歳 (男の子3人と、女の子1人なので、あずかっていた。寝泊りしていた。) この子と、向かいのスナックのママの娘 12歳 この2人を連れて あるさつきの季節に 夕方 東山の霊山観音のぐるり 前いっぱいにライトアップされていた さつきが咲き乱れていた この光景は、1生忘れないでおこうと、こころに誓った 二〇一四年十三月三日 「靴」  27のとき 忍び逢い という名前のスナックを経営していた そのとき 京都女子大学の女学生と知り合った その女子学生は 店に聖書を売りにきたのだった 気のいい女の子で、2人で食事をしたり、喫茶店で話をしたり デートした この子が、自分の近所の17の女の子を ある日、連れてきた その娘も、めちゃくちゃかわいい女の子だった 名前はたしか優ちゃんだった 芦屋に住んでいるのだが、きょうは京都に遊びに来たの、っていう 3人で南禅寺に行った 南禅寺の山門をくぐりぬけて 50メートルほど行くと お滝に上がる山道がある 山門の入り口に第2疎水のコンクリートの土台があって (グリーンのレンガ貼り) ハイヒールの中に入っていた小石をとるのに 片手を、その土台において 立ったまま ぱっぱっと その小石を落とした 片方の靴のかかとから ぼくが見つめているのに気づくと とても恥ずかしそうな顔をして見せた そうだ あの娘の表情も けっして忘れはしないと ぼくは、こころに誓ったのだ 優ちゃん 真っ赤な麦藁帽子と 白い薔薇模様のワンピース だけど、あのときの靴の色は忘れてしまった 真っ赤な麦藁帽子と 白い薔薇模様のワンピース これは覚えているのに あの娘の恥ずかしげな顔とともに だけど、あのときの靴の色は忘れてしまった 二〇一四年十三月四日 「風景は成熟することを拒否する」 皮膚にまといついた言葉を引き剥がそう 詩人に要請されることは、ほかには何もない 皮膚にまといついた言葉を引き剥がすこと以外に こころみに、ぼくの皮膚についた言葉を引き剥がそう 10歳のときの記憶の1つが、雲を映す影となって地面を這っている こころもち、雨が降った日の水溜りに似ていないとも言えない 風景は成熟することを拒否する 詩人は自分をその場所に置いて 自分自身を眺めた まるで物でも眺めるように 二〇一四年十三月五日 「時間と空間」 ぼくたちが時間や空間を所有しているのではなく 時間や空間がぼくたちを所有しているのである ぼくたちが出来事を所有しているのではなく 出来事がぼくたちを所有しているように。 ぼくたちが過去を思い出すとき ぼくたちが過去を引き寄せるのではない。 過去がぼくたちを引き寄せるのである。 過去がぼくたちを思い出すために。 二〇一四年十三月六日 「偉大さと、卑小さ」 詩人がなぜ過去の偉大な詩人や作家に 詩人にとって偉大であると思われる詩人や作家に云々しているのか いぶかしむ人がいるが そんなことは当たり前で 卑小な人間の魂に学べることは、卑小な人間について学べることだけだからである 偉大な人間の魂の中には、卑小な人間の魂も存在しているのである 詩人は学び尽くさなければならないのだ 生きているあいだに いや、違うかな。 かつて、親しかった歌人の林 和清ちゃんが ぼくにこんなことを言った。 「どんなひとからも学べるのが、才能やと思うで。」 「おれは、むしろ、ふつうのひとがすることから、いっぱい学んでるで。」 って。 そうかもしれない。 でも、自分がぜんぜん共感できない詩人や作家の作品から学ぶことなんかできるんやろか。 ほんとうに才能のあるひとにならできるのかもしれないな。 卑小なこと、つまらないことからでも学べるのが才能なのかもしれないな。 だとすると、世のなかには、卑小なことも、つまらないこともないっていうことなのかな。 そういえば、日常のささいなことが とげのように突き刺さって痛いってことが、しょっちゅうあるものね。 「偉大さと、卑小さ」か。 浅く考えてたな。 二〇一四年十三月七日 「ぼくたちが認め合うことができるのは」  ぼくたちが認め合うことができるのは お互いの傷口だけだ 何か普通とは異なっているところ しかもどこかに隠したがっているような様子が見えるもの そんなものにしか ぼくたちの目は惹かれない それくらい ぼくたちは疲弊しているのだ 二〇一四年十三月八日 「言葉も、人も」 言葉も 人も 苛まれ 苦しめられて より豊かになる まるで折れた骨が太くなるように 二〇一四年十三月九日 「ポスト」  彼女は その手紙を書いたあと 投函するために外に出た ポストのところまで 少し距離があったので 彼女は顔の化粧を整えた (これは、あくまでも文末の印象の効果のために、 あとで付け加えられたものである。削除してもよい。) 彼女は その手紙に似ていなかった 彼女は その手紙の文字にぜんぜん似ていなかった その手紙に書かれたいかなる文字にも似ていなかった 点や丸といったものにも 数字や記号にも 彼女がその手紙に書いたいかなるものにも 彼女は似ていなかった しかし 似ていないことにかけては ポストも負けてはいなかった ポストは 彼女に似ていなかった 彼女に似ていないばかりではなく 彼女の妹にも似ていなかった しかも 4日前に死んだ彼女の祖母にも似ていなかったし いま彼女に追いつこうとして スカートも履かずに玄関を走り出てきた 彼女の母親にもまったく似ていなかった もしかしたら スカートを履くのを忘れてなければ 少しは似ていたのかもしれないのだけれど それはだれにもわからないことだった 彼女の母親は けっしてスカートを履かない植木鉢だったからである 植木鉢は 元来スカートを履かないものだからである 母親の剥き出しの下半身が ポストのボディに色を添えた 彼女はポストから手を出すと 家に戻るために 外に出た 二〇一四年十三月十日 「ハンカチの笑劇」 オセロウは イアーゴウがいなくても デズデモウナを疑ったのではないか? さまざまな冒険が その体験が オセロウをして想像豊かな 極めて想像豊かな人間にしたはずである 「ハンカチの笑劇」 想像はたやすく妄想に変わる 巣に戻った鳥が 水辺の景色を思い出す 愛によって形成されたものは 愛がなくなれば なくなってしまうものだ 「なにがしかの痕跡を残しはするのだろうけれど。」 そう言うと この詩人は自分の言葉の後ろに隠れた 隠れたつもりになった 二〇一四年十三日十一日 「死んだあと」 死んだあと どうするか 動かさなくてはならない ひとりひとり別の力で ひとりひとり別の方法で 人間以外のもろもろのものも 動かさなくてはならない ひとつひとつ別の力で ひとつひとつ別の方法で いっしょにではなく ひとつひとつ別々に とりわけ両親の死体が問題である 死んだあとも 動かさなくてはならない そいつは 何度も死んで すっかり重たくなった死体だが 二〇一四年十三月十二日 「音楽」 すべての芸術が音楽にあこがれると言ったのは だれだったろうか? たしかに 音楽には 他の芸術が持たない 純粋性や透明性といったものがある しかし ただひとつ ぼくが音楽について不満なのは 音楽は反省的ではないということだ じっさい どんなにすばらしい音楽でも ぜんぜん反省的ではない 他の芸術には ぼくたちに ぼくたちの内面を見るように仕向けさせる作用がある しかし それにしても 音楽というものは それがどんなにすぐれたものであっても ちっとも反省させてはくれないものである 二〇一四年十三月十三日 「書き改めてなかった」 2、30年くらい前のことだけど 『サッフォーの詩と生涯』という本のなかで 引用されていたエリオットの詩の原文にコンマだったかピリオドが抜けていることと あきらかにサッフォーの影響のあるバイロンの詩句について なぜ書かれなかったのですかって 著者の沓掛良彦さんに、直接、手紙を出して訊ねたことがあって 1ヵ月後に、ご本人から丁寧な返事をいただけて なんとか気を落ち着かせたことがある 再刷りするときに書き改めるということだったけど きょう、ジュンク堂で見てきたのだけど、書き改めてなかった 執筆中にご病気で メモでは、そのバイロンの詩句も書いてらっしゃったらしく 外国の研究者で ぼくが指摘した箇所を指摘した方がいらっしゃって 沓掛さんも書くつもりだったらしいのだけれど 体調を崩されて 書くのを忘れられたとのことだった 「あなたは英文学の研究生ですか。」 と書かれてあったので 「いいえ、工学部出身です。」 と返事を出した 批判したかったら、直接、相手に手紙を出す時代が ぼくにもあったんやね いまは しなくなった 二〇一四年十三月十四日 「ママ」 ぼくが子どもだったころね よく言われたことがある あんまり長い時間 ママを見てはいけませんって ママを見る権利をパパがいるときにはほとんど独り占めしてたから ぼくが自由にママを見れたのは パパがいないときに限ってた お兄ちゃんといっしょになって ママを見てた パパがいないときに ママの鼻をつまんで ぐにぐに ぐにぐにひねって ママのあげる美しい悲鳴を聞いてた ママの声は ぼくの耳にとても気持ちよくって ぼくとお兄ちゃんはママの鼻をぐにぐに ぐにぐにひねって ママはぶひぶひ ぶひぶひ きれいな声で歌ってくれた あるとき ぼくとお兄ちゃんがママの鼻がちぎれるぐらいに 思い切りひねっていたときに 突然 パパが帰ってきたからびっくりしたことがあったのだけれど ママは 真っ赤になった鼻を押さえて トイレにかけこんで 鼻がふつうの色に戻るまで出てこなかった パパには ママがおなかが痛いって言ってたよ って ぼくが言っておいた パパがはやくママに飽きてくれたらいいのになって ぼくはいつも思ってた ぼくが子どもだったときのことね いま ぼくは大人になって ママだけじゃなくて パパのことも見てる お兄ちゃんが死んで ママもパパも いまじゃ ぼくだけのものだから お湯がたまったみたいだ お風呂から上がったら ママとパパの鼻をひねって ママとパパの苦しむ顔を見ようっと うっちっち ニコッ 二〇一四年十三月十五日 「うんこ臭い」 クリーニング店に行くの忘れてて 明日はいてくスラックスがない クリーニング店がもっと近くだったら よいのに で これから洗濯 うううん もう預けてて1週間以上になるな 取りに行くのが うんこ臭い 取りに行くのうんこ臭い うん国際 うん国際地下シネマ って えいちゃん 背中にかいた薔薇の字が 自我 自我んだ 違った 自我った スクリーン ひざ の 上 の 手 二〇一四年十三月十六日 「本」 本は 本の海の中で育つ 卵から帰った本は 他の本を食べて だんだん成長する 本は本を食べて 肥え太る 本は 本の父と 本の母の間で生まれた 本は 本の浜辺で生まれてすぐに 本の海を目指す 本能からなんだと思う 自分がどこからきて どこへ行くべきなのか 知っている つぎつぎと本の子どもたちが 砂浜から這い出てくる 二〇一四年十三月十七日 「人生は映画のようにすばらしい。」 dioの印刷の途中で 昼ごはんを食べに行ったのだけれど 京大の近くの「東京ラーメン」という ふつうのラーメンで400円という値段のところで おいしくて有名らしいのだけれど そこでご飯を食べて また京大にもどって印刷の続きをしたのだけれど 帰りに キャンパスに入ったところで 大谷くんが 綾小路くんに DX東寺というストリップ劇場の無料招待券を渡した 綾小路くんが「これ、なんですか?」と訊くと 「山本さんが  それくれたんだけどね。」 「ええ?  大谷さんが行ったらいいじゃないですか?」 「おれ  いっつも断ってるねん。」 「大谷さんがもらったんじゃないんですか?」 「違うねん。  これ  このあいだのぼんに渡してくれって言われたんや。」 「ぼんて  ナンですか?」 「「ぼん」て  若い男のことを  そう言うんや。  だれでも  あのひとは「ぼん」て言うんや。」 「そうなんですか。  でも  大谷さんが行けばいいじゃないですか。」 「おれ  彼女  いてるし  行けへんやろ。」 「ええ!  ぼくが行くんですか?」 綾小路くんの手のなかのチケットを取り上げて ぼくが「DX東寺・招待券」という文字を確かめてから 綾小路くんの手に戻して 「行ったらええんとちゃう?  綾小路くん   行ったら  綾小路くんの文学や哲学が深くなるで。  裸で勝負してる人間を見るんや  きっと  綾小路くんが大きくなるで  あそこも  こころもな。」 「そうですか?」 「そうや。」 「じゃあ、  もらっておきます。  でも行かなくてもいいんですよね?」 「そら好きなようにしたら  ええけどな。  行ったら  綾小路くんが  深くなるで。」 と言ってから ぼくは 大谷くんに 「ねえ  ねえ  大谷くん  その山本さんて  何者?」 って訊くと 「いつも行く居酒屋さんでしょっちゅういっしょに飲んでる  元ヤクザの人なんです」 「へえ  その人  いいひとなんやなあ。」 とぼくが言ったら 「いまは  いいひとですよ。」 「その飲み屋って  どこにあるの?」 「ぼくの住んでるマンションの前。」 「どんな店?」 「食べ物  なんでも300円なんですよ。」 「へえ  おいしいの?」 「おいしいですよ。」 「そやけど  そのひととの関わりなんて  なんか  青春モノの映画みたいやなあ。  いや  人生が映画のようにすばらしいのか?  うん  人生は映画のようにすばらしい。  あるいは  映画は人生のようにすばらしい  か。  まあ  どっちでもええけど  どっちかのタイトルでミクシィの日記にでも書いとこうっと。」 ってなことを言いながら 印刷の場所にもどって 作業の続きをしていた あ 印刷は終わってたのか そうだ 紙を折る作業に入ったのだ 借りていた教室で 総勢7人で 紙折り作業をして 最後にホッチキス止めが終わったのが5時40分くらいで そこから みんなで 「リンゴ」という店に行って打ち上げをしたのだった 土曜日のことだった うん うんうん 「人生は映画のようにすばらしい。」 二〇一四年十三月十八日 「三日後に死ぬとしたら」 朝 死んだ父親に起こされたから 3日後に死ぬとしたら どうする? って きのう、リンゴで 雪野くんと 荒木くんに訊いたんだけど あ この荒木くんは 言語実験工房の荒木くんと違うほうの 小説を書くお医者さんで で その2人は それぞれ 「ぼく考えたことないです。  わかりません。」 「ぼくはとりあえず田舎に帰るかなあ。」 やった ぼくはいつ死んでもいいように そのときそのとき書けるベストの作品を書いてるつもりだから 「本読んでると思うわ。」 と言った じっさい 読んでないのが まだ400冊くらい部屋にあるので そのなかから ピックアップして 読んでいくと思う でも2人とも考えたことがないっていうのは ぼくには不思議やったなあ 二〇一四年十三月十九日 「すべての人間はソクラテスである」 セックスを愛だと思ってる人は少ないかもしれないけれど 愛をセックスだと思っている人はもっと少ないと思う セックス=愛 愛=セックス 数式のように書いたら 同じように思えるかもしれないけれど 数式としてもっと厳密に見ると この2つの式が異なる内容を表わしていることがわかる 1+1=2 だけど 2=1+1 だけじゃないやん 3マイナス1だって2だし 7マイナス5だって2だし マイナス4プラス6だって2だしねえ いや 絶対的に 2=1+1だけだったりして 笑 嘘 嘘 でも たとえば 考えてみてよ ソクラテスは人間だけど 人間はソクラテスじゃないものね うん いやいや これも 案外 すべての人間はソクラテスかもしんないぞ ソクラテスがすべての人間であるように てか 笑 まあ ソクラテスって名前の犬とか ソクラテスって名前のパソコンとかなんてのは なしにしてね ふぎゃ 二〇一四年十三月二十日 「Street Life。」 むかし書いた詩があって それは ワープロ時代に書いたもので 1時期 自暴自棄になってたときがあって ワープロに書いたぼくの詩を 『みんな、きみのことが好きだった。』と『Forest。』に 収録したもの以外みんな捨てたんだけど 原稿用紙にして2枚くらいの短い詩で 『Street Life。』というタイトルで書いたものがあって それは どちらにも収録するのを忘れてて でも とても気に入ってたんだけれど 手元に それが収録された同人誌がなくて というのは ぼくは 自分の書いた詩が載ってる本を よくひとにあげちゃうからなんだけど そういうわけで 内容は覚えているんだけど 正確には思い出せなくて で それを思い出す という作業を 散文スタイルで書いてみようと思っているわけ 「ぼく」と「中国人の青年」の話なんだけど ソープランドの支配人をしていた26歳の青年と ぼくとが出会って 彼の初体験(もちろん男)の話と バイセクシャルである彼のセックスライフにからませて ぼくが何度も自殺するという内容で 自殺するのだけれど 死ねなくて 水に顔をつけても呼吸しちゃうし 手首を切っても すぐにもとにもどっちゃうし 飛び降りて ぐちゃぐちゃになっても すぐにもとにもどっちゃうし という感じで現実の彼の話と シュールな場面が交互につづくんだけど フレーズが正確に思い出せないのが ほんとに残念で で 今回 書こうと思うのは 「なぜ  その青年のことを書こうと思ったのか。」 「その青年の話をそのまま書き写しただけなのに  なぜ  その青年の存在が、ぼくにとって  いまだにリアルなのか。」 「ぼくがなぜ何度も死んで生き返るのか。」 「これらふたつのことで何が表現したかったのか。」 といったことを自己分析しながら書こうと思っているのだけれど うまくいくかどうか 二〇一四年十三月二十一日 「ちょっといい感じ」 さっき聴いた曲がちょっといい感じ その分厚い胸に頭をもたげて 話をしていた ヒロくんの言葉を思い出していた ぼくのおなかをさわりながら 「この腐りかけの肉がええねん。」 「腐りかけの肉って、どういう意味やねん?」 「新鮮な肉の反対や。」 好きなこと言ってるなあって思った その分厚い胸に頭をもたげて 話をしていた 「背中とか、頭とか  さわられるのが好きやねん。」 「みんな、そうなんちゃう?」 おなかの肉をつまんだり さすったりしながら 「こうして、さわってるのが好きかな。」 「ぼくはさわられるのが好きやし  あっちゃんは、さわってるのが好きなんやから  ちょうどええな。」 うん?  そ? そかな? 「そんなに、このおなかが好き?」 「好きかも。」 「顔もかわいいしな。」 「めっちゃ、生意気!」 もたげてた頭を起こして目を見る 笑ってた。 ぼくも笑った この生意気さ ヒロくんと、どっこいどっこいやなあ、って思った すぐに夢中になっちゃいけないと こころに向かって言う まだまだ ぼくは傷つくことができるのだから その分厚い胸に頭をもたげて 話をしていた ぼくと同じように 彼の胸もドキドキしてた さいしょ 近づくのもこわかったのも ぼくよりずっと年下なのも 双子座なのも ヒロくんといっしょ O型やけど 好きになったら どうしようって感じ うまくいきそうになったら うまくいかなかったときのことが思い起こされる ぼくの目を見ないようにしゃべってた ぼくが横を向いたら ぼくの顔を見てた たくさんしゃべったのに まだしゃべりたりないって感じで でも 決定的なことは 何も言わなかった 何度も顔を見つめ合いながら 離れていった 微妙で不思議な時間だった はっきり言わない ううううん 人間の魅力って ほんと さまざま 二〇一四年十三月二十二日 「シェイクスピアについて」  エンプソンの『曖昧の七つの型』(岩崎宗治訳)上巻の終わりのほう、372ページの後半から引用すると、 (…)シェイクスピアは、たえず身の危険と戸惑いを感じていたにちがいない。彼自身はこういう政治状況からくるものをうまくかわしていたらしいが、仲間のしくじりのために罰金を払わせられた。ベン・ジョンソンがカトリック信仰と反逆罪の廉で逮捕される少し前、シェイクスピアは宮廷でジョンソン作の『セジェイナス』の上演に俳優として参加していたのである。(…)  好きな詩人や作家について、知らなかったことを知ることのできた喜びは大きい。シェイクスピアが、ペストの流行のせいでロンドンから離れなければならなかったことや、政治的に後ろ盾になっていた人物が反逆罪でつかまったりしたのは知ってたけれど、ベン・ジョンソンとのかかわりについては、それほど知らなかったので、まあ、弔辞を読んだ人だったかな、同時期の作家か先輩の作家だったと思うけれど、追悼の言葉くらいしか知らなかったので、なんだか、得した気分。あるいは、もしかしたら、過去に、ほかで読んでて忘れてることかもしれないけど、笑。忘れてて、思い出すことも喜びだしね。  エンプソンの引用する詩句の多くがシェイクスピアであるのが、うれしい。ときおり混ざる他の作家や詩人の作品の引用も楽しい。上巻、あと少しで終わり。 きょうは、ずっと韓国映画と、韓国ドラマと、エンプソンの詩論集に。  韓国映画とか韓国ドラマとかに、ここまではまるとは思ってなかったので、とても意外で面白い。キム・イングォンの最新作があって、そこでの画像がネットで手に入れられたので、さっそく保存しておいた。どの画像も、ぼくのこころを穏やかにする。イングォンくんって、じっさいには、繊細で、とても傷つきやすいひとであるような気はするけれど、こんどの映画の役柄は、無職のちょっとヤンチャなお兄さんって感じかな。子どもといっしょに映ってる写真なんて、ほんとに、ほっとさせられる。  ひとの気持ちを穏やかにさせる、そんな詩って、めったにないけど、そやなあ。ジャムの詩くらいかな。しかも2つくらいしかあらへんし。エンプソンの詩論、最後の七番目の型、論理学でいうところの矛盾律を利用したもの。しかしこれって、いつも思うのだけれど、排他律と同1律の応用でもある。まあ、エンプソンは、それを「曖昧」という言葉にしているのだけれど。そういえば、対立する意味概念の同時生起って、ぼくが『舞姫。』で書いた「過去時制」と「未来時制」の同時生起に似ていて面白い。孫引きのフロイトの論文に、未開人の言語に、対立する意味概念の1語への圧縮例が出てくるのだけれど、これって、ピポ族の無時制言語に比較できるかなって思った。ただし、エンプソンは、未開という概念ではなく、対立する意味概念の1語への圧縮を「繊細さ」と捉えているようだけど、ぼくも、リゲル星人の言語を「時制のない言語」、「名詞と助詞のみでできている言語(動名詞句を含む)」にするつもりなので、この最後の七番目の章はじっくり読んでいる。英語が苦手なぼくには、ときどきはさまれる引用の原著部分が、ちょっととしんどいかな。そんなに構文は難しくないけど、ああ、詩は、こうやって訳すのねって、勉強にもなるのだけれど。  イングォンくん、勝ちゃんに似てるんだよなあ。だから、画像をながめてると、せつないのかなあ。  エンプソンの詩論集、読み終わった。読んでるときにはそれなりに楽しめたけど、内容は、そんなに得るものがなくて。まあ、いちおう、有名な本だから読んどく必要はあったけど、読んでた時間がもったいなかったかも。さて、つぎは、なにを読もうかな。 二〇一四年十三月二十三日 「きなこ」 きょう 日知庵で飲んでいると 作家の先生と、奥さまがいらっしゃって それでいっしょに飲むことになって いっしょに飲んでいたのだけれど その先生の言葉で いちばん印象的だったのは 「過去のことを書いていても  それは単なる思い出ではなくってね。  いまのことにつながるものなんですよ。」 というものだった。 ぼくがすかさず 「いまのことにつながることというよりも  いま、そのものですね。  作家に過去などないでしょう。  詩人にも過去などありませんから。  あるいは、すべてが過去。  いまも過去。  おそらくは未来も過去でしょう。  作家や詩人にとっては  いまのこの瞬間すらも、すでにして過去なのですから。」 と言うと 「さすが理論家のあっちゃんやね。」 というお言葉が。 しかし、ぼくは理論家ではなく むしろ、いかなる理論をも懐疑的に考えている者と 自分のことを思っていたので 「いや、理論家じゃないですよ。  先生と同じく、きわめて抒情的な人間です。」 と返事した。 いまはむかし。 むかしはいま。 って大岡さんの詩句にあったけど。 もとは古典にもあったような気がする。 なんやったか忘れたけど。 きなこ。 稀な子。 「あっちゃん、好きやわあ。」 先生にそう言われて、とても恐縮したのだけれど 「ありがとうございます。」 という硬い口調でしか返答できない自分に、ちょっと傷つく。 自分でつけた傷で、鈍い痛みではあったのだけれど 生まれ持った性格に起因するものでもあるように思い こころのなかで、しゅんとなった。 表情には出していなかったつもりだが、たぶん、出ていただろう。 もちろん 人間的に「好き」ってだけで ぜんぜん恋愛対象じゃないけれど。 お互いにね、笑。 先生、ノンケだし。 60歳過ぎてるし、笑。 ぼくは、年下のガチムチのやんちゃな感じの子が好きだし、笑。 きなこ。 稀な子。 勝ちゃんの言葉が何度もよみがえる。 しじゅう聞こえる。 「ぼく、疑り深いんやで。」 ぼくは疑り深くない。 むしろ信じやすいような気がする。 「ぼく、疑り深いんやで。」 勝ちゃんは何度もそう口にした。 なんで何度もそう言うんやろうと思うた。 1ヶ月以上も前のことやけど 日知庵で飲んでたら 来てくれて それから2人はじゃんじゃん飲んで 酔っぱらって 大黒に行って 飲んで 笑って さらに酔っぱらって で タクシーで帰ろうと思って 木屋町通りにとまってるタクシーのところに近づくと 勝ちゃんが 「もう少しいっしょにいたいんや。  歩こ。」 と言うので ぼくもうれしくなって もちろん つぎの日 2人とも仕事があったのだけれど 真夜中の2時ごろ 勝ちゃんと 4条通りを東から西へ 木屋町通りから 大宮通りか中新道通りまで ふたりで 手をつなぎながら歩いた記憶が ぼくには宝物。 大宮の交差点で 手をつないでるぼくらに 不良っぽい2人組の青年から 「このへんに何々家ってないですか?」 とたずねられた。 不良の2人はいい笑顔やった。 何々がなにか、忘れちゃったけれど 勝ちゃんが 「わからへんわ。  すまん。」 とか大きな声で言った記憶がある。 大きな声で、というところが ぼくは大好きだ。 ぼくら、2人ともヨッパのおじさんやったけど 不良の2人に、さわやかに 「ありがとうございます。  すいませんでした。」 って言われて、面白かった。 なんせ、ぼくら2人とも ヨッパのおじさんで 大声で笑いながら手をつないで また歩き出したんやもんな。 べつの日 はじめて2人でいっしょに飲みに行った日 西院の「情熱ホルモン!」やったけど あんなに、ドキドキして 食べたり飲んだりしたのは たぶん、生まれてはじめて。 お店いっぱいで 30分くらい 嵐電の路面電車の停留所のところで タバコして店からの電話を待ってるあいだも 初デートや と思うて ぼくはドキドキしてた。 勝ちゃんも、ドキドキしてくれてたかな。 してくれてたと思う。 ほんとに楽しかった。 また行こうね。 きなこ。 稀な子。 ぼくたちは 間違い? 間違ってないよね。 このあいだ エレベーターのなかで ふたりっきりのとき チューしたことも めっちゃドキドキやったけど ぼくは 勝ちゃん 二〇一四年十三月二十四日 「世界にはただ1冊の書物しかない。」 「世界にはただ1冊の書物しかない。」 と書いてたのは、マラルメだったと思うんだけど これって どの書物に目を通しても 「読み手はただ自分自身をそこに見出すことしかできない。」 ってとると ぼくたちは無数の書物となった 無数の自分自身に出会うってことだろうか。 しかし、その無数の自分は、同時にただひとりの自分でもあるわけで したがって、世界には、ただひとりの人間しかいないということになるのかな。 細部を見る目は貧しい。 ありふれた事物が希有なものとなる。 交わされた言葉は、わたしたちよりも永遠に近い。 見慣れたものが見慣れぬものとなる。 それもそのうちに、ありふれた、見慣れたものとなる。 もう愛を求める必要などなくなってしまった。 なぜなら、ぼく自身が愛になってしまったのだから。 愛する理由と、愛そのものとは区別されなければならないわけだけれども。 二〇一四年十三月二十五日 「ダイスをころがせ」 ローリング・ストーンズの「ダイスをころがせ」を聞いたのは 中学1年生の時のことだった かな かなかな 同級生の女の子がストーンズが好きで その子の家に遊びに行ったとき ダイスをころがせ、がかかってた ぼくと同じ苗字の女の子だった 名前は、かなちゃんって呼んでたかな 忘れた たぶん、かなちゃん で、ストーンズの歌は、ぼくには、へたな歌に聞こえた だって、家では、ビートルズやカーペンターズや ザ・ピーナッツとか つなき&みどりだとか ロス・アラモスだとか マロだとか ミッシェル・ポルナレフだとか シルビー・バルタンだとか そんなんばっか かかってたんだもん 親の趣味のせいにするのは、子供の癖です パンナコッタ、どんなこった チチ マルコはもう迷わないだろう あらゆる皮膚についた言葉を引き剥がそう ダイスをころがせは、いまでは、ぼくのマイ・フェバリット・ソングだす 大学のときは、リンダ・ロンシュタットが(ドかな)歌ってた デスパレイドも歌ってたなあ ピッ パンナコッタ、どんなこった どんなん起こった? チチ もうマルコは迷うことはないだろう。 迷ってた? パンナコッタ、どんなこった どんなん起こった? チチ もうマルコは迷うことはないだろう 迷ってた 3脚台 ガスバーナー 窓ガラス 水滴 水滴に映った教室の風景 窓ガラス 光 マルコはもう迷うことはないだろう 迷ってたのは、自分のつくった地図の上だ 自分のまわりに木切れで引っかいた傷のような地図の上だ 3脚台 トリポッド かわいい表紙なので、ついつい買っちまったよ で、こんなこと考えた ある日、博士が (うううん、M博士ってすると、星さんだね) 軽金属でできた3本の棒の端っこを同時に指でつまんだら それがひょいと持ち上がって 3角錐の形になったんだって で、博士が指でさわると、その瞬間に歩き出したんだって さわると、っていうか、さわろうとして手を近づけただけっていうんだけど で、その3角錐のべき線の形になった3本の棒についていろいろ調べると その3本の棒の太さと長さの比率がいっしょなら どんな材質の棒でも、3本あれば、そんな3角錐ができるんだって て、いうか、もうそれは過去の話です。笑 いまでは、荷物運びに、その3本の棒が大活躍してますし その3本の棒の上にトレイをのっけると テーブルの上で ひょこひょこ動くんです お肉を上にのっけると さわろうとするだけで テーブルの上のホットプレートの上に お肉を運んで ジュ 頭を下げて ジュ かわいい ジュ ペットの代わりに、3本の棒をひょこひょこさせるのが大流行 町中、3本の棒が、たくさんの人のうしろからひょこひょこついてっちゃう で、ジュ で、ジュ パンナコッタ、どんなこった チチ マルコはもう迷わないだろう 迷ってた? 迷ってたかも パンナコッタ、どんなこった 二〇一四年十三月二十六日 「耳遺体」 ダン・シモンズの 『夜更けのエントロピー』をまだ読んでなかったことを思い出した 『愛死』を読んでたから、いいかなって思って、ほっぽらかしてたんだけど やっぱ読もうかな ハヤカワ文庫の『幻想と怪奇 3巻』 読み終わってみて、ちと、あれかなって思った 創元のゾンビのアンソロジーの面白さにくらべたら ちと、かな と 通勤のときと 部屋で読むのとは別々にしてるんだけど マイケル・スワンウィックの『大潮の道』のような作品が読みたい 『ヒーザーン』読めばいいかな これから、耳のクリーニング ブラッドベリの『死人使い』というのを読んだ いろいろなところに引き合いに出される作品なので 内容は知ってたけれど やっぱりちとエグイ 耳遺体 耳痛い 耳遺体 ブルー・ベルベットや ぼくの『陽の埋葬』が思い出される 花遺体 じゃない 鼻遺体は、うつくしくないね 鼻より耳の方が 部分として美しいということなのかな 以前に詩に書いたことがあったけど あ 理由は書いてないか。 小刻みに震える 耳遺体 ハチドリのように ピキピキ ピキピキ メイク・ユー・シック! 愛は僕らをひきよせる と書いたのは ジョン・ダン と言っても 高松雄一さんの訳で わずらわしいバカでも わかる詩句だけど 愛する対象が人間たちを動かす って 言ったのは ヴァレリーね って 佐藤昭夫さんの訳だけど ぼくの知性は天邪鬼で いつでも その反対物を想起させる あらゆる非存在が 存在を想起させるように 通勤電車のなかで思いついた 昨年の2月8日と書いてある 詩は思い出す かつて自分がひとに必要とされていたことを 詩は思い出す たくさんのひとたちのこころを慰めてきたことを 詩は思い出す そのたくさんのひとたちが やがて小説や音楽や映画に慰めを見出したことを しかし それでも 詩は思い出す ごくわずかなひとだけど 詩に慰めを求めるひとたちがいることを って うううん バカみたいなメモだすなあ 2004年4月15日のメモ ぼくもしっかり働きに行かなければ! 二〇一四年十三月二十七日 「破壊の喜び」 ダン・シモンズの『死は快楽』のなかにある 「プライドや憎しみや、愛の苦しみ、破壊の喜び」(小梨 直訳) という言葉を読んで ぼくの詩集『The Wasteless Land.II』の41ページと42ページにある 「虚栄心のためだった」という言葉に誤りがあったことに気づいた いや誤りと言うよりは あれは故意の嘘であったのだ ぼくのほうから別れを告げたのは じつは虚栄心のためというよりも 意地の悪い軽率なぼくのこころのなせる仕業だった 冷酷で未熟なぼくの精神のなせる仕業だったのだ ぼくが別れを告げればどういう表情をするのか どういう反応を示すのか 子供が昆虫や小動物を痛めつけて 強烈な反応を期待するかのように 幼稚な好奇心を発揮したということなのだ 「破壊の喜び」 ダン・シモンズの言葉は ときおりこころに突き刺さる 真実の一端に触れるからである 「虚栄心のためだった」というのは虚偽である ぼく自身に偽る言葉だった 「破壊する喜び」 なんと未熟で幼稚なこころの持ち主だったのだろう ダン・シモンズのこの言葉を読んだのが 数日前のことだった あの文章を書いていたときには 「虚栄心のためだった」という言葉で 当時の自分のこころを分析したつもりになっていた 「破壊の喜び」という言葉を読んでしまったいま あの文章の「虚栄心のためだった」という箇所には はなはだしい偽りがあると思わざるを得ない いやこれもまた後付けの印象なのか 「虚栄心のため」というのも偽りではなかったかもしれない 「破壊の喜び」という言葉があまりに強烈に突き刺さったために その強烈な印象に圧倒されて より適切な表現を目の当たりにして 自分の言葉に真実らしさを感じられなくなったのかもしれない とすると すぐれた作家のすぐれた表現に出合ったということなのであって 自分の文章表現が劣っていたという事実に 驚かされてしまったということなのかもしれない 「破壊の喜び」 未熟で幼稚な いや 未熟で幼稚な精神の持ち主だけが 「破壊の喜び」を感じるのだろうか どの恋の瞬間にも 「破壊の喜び」が挟み込まれる可能性があるのではないだろうか ぼく以外の人間にも 恋のさなかに「破壊の喜び」を見出してしまって とんでもない結果を招いた者がいるのではないだろうか 1生の間に 恋は1度だけ ぼくはそう思っている その1度の恋に 取り返しのつかない傷をつけてしまうというのは そんなにめずらしいことではないのかもしれない 「破壊の喜び」 未熟で幼稚な精神の と いま言える自分がここにいる 当時の自分をより真実に近い場所から見つめることができたと思う このことは どんなに救いようのないこころも 救われる可能性があるということをあらわしているのかもしれない あつかましいかな 二〇一四年十三月二十八日 「ぼくの脳髄は直線の金魚である」 眠っている間にも、無意識の領域でも、ロゴスが働く 夜になっても、太陽がなくなるわけではない 流れる水が川の形を変える 浮かび漂う雲が空の形を与える わたし自身が、わたしの1部のなかで生まれる それでも、まだ1度も光に照らされたことのない闇がある ぼくたちは、空間がなければ見つめ合うことができない ぼくたちをつくる、ぼくたちでいっぱいの闇 ぼくの知らないぼくがいる ぼくではないものが、紛れ込んでいるからであろうか? 語は定義されたとたん、その定義を逸脱しようとする 言葉は自らの進化のために、人間存在を消尽する 輸入食料品店で、蜂蜜の入ったビンを眺める 蜜蜂たちが、花から花の蜜を集めてくる 花の種類によって、集められた蜜の味が異なる たくさんの巣が、それぞれ、異なる蜜で満たされていく はてさて へべれ けべれ てべれ ふびれ きべれ うぴけ ぴぺべ れぴぴ れずぴ ぴぴず ぴぴぴ ぴぴぴぴぴ ぼくの脳髄は直線の金魚である 直線の金魚がぼくの自我である 自我と脳髄は違うと直線の金魚がパクパク 神経質な鼻がクンクン 神経質な人特有の山河 酸が出ている 鼻がクンクン 華麗臭じゃないの 加齢臭ね セイオン 自我の形を想像する する すれ せよ 自我の形は直線である ぼくのキーボードがこそこそと逃げ出そうとする ぼくの指がこそこそとぼくから離れようとする あるいは トア・エ・ モア ふふん オレンジの空に青い風車だったね ピンク・フロイドだったね わが自我の狂風が わが廃墟に吹きわたる 遠いところなど、どこにもない 空間的配置にさわる 肩のこりは 1等賞 ゴールデンタイムの テレビ番組で キャスターがぼくを指差す ああ、指をぼくに向けたらいけないのに ママがそういってただろ! ぼくに指を向けちゃいけないって 死んだパパやママが泳いでる カティン! 血まみれの森だ 二〇一四年十三月二十九日 「蟻ほどの大きさのひと つぶしたし」 そういえば、きょうは薬の効き目が朝も持続していて ふらふらしていたらしい ひとに指摘された 自分ではまっすぐ歩いてるつもりなんだけど 歳かな たしかに肉体的には 年寄りじゃ ふがふが ふがあ 河童の姉妹が花火を見上げてる ひまわりのそば 洗濯物がよく乾く 夏休み 半分ちびけた色鉛筆 どの猿も 胸に手をあて 夏木マリ 鼻水で 縄とびビュンビュン ヒキガエル 子ら帰る プールのにおい着て まな落ちて 手ぬぐい落ちる 夏の浜  アハッ 漱石ちゃん わが声と偽る蝉の抜け殻 恋人と氷さく音 並び待つ ファッ 夏枯れの甕の底には猫の骨 これも漱石じゃ わがコインも 蝉の亡骸のごと落つ 違った わが恋も蝉の亡骸のごと落つ わがコインもなけなしのポケットごと落つ チッチッチ 俳句の会に出る。 1997年の4月から夏にかけて ばかばかしい 話にもならない 情けない って 歳寄りは思わないのね 会費1000円は 回避したかった チッ 蟻ほどの大きさのひと つぶしたし 人ほどの大きさの蟻 つぶしたり この微妙な感じがわかんないのね 歳寄り連中には なんとなく 蟻ほどの人 つぶしたし ヒヒヒ けり けれ けら けらけらけら けっ まなつぶる きみの重たさ ハイ 飛んで 小さきまなに 蟻の 蟻ひく わが傷は これといいし蟻 蟻をひく 自分と出会って 蟻の顔が迷っている あれ 前にも書いたかな? メモ捨てようっと。 ギャピッ あり地獄 ひとまに あこ みごもりぬ 蟻地獄1室に吾児身ごもりぬ キラッ 蟻の顔 ピカル ちひろちゃん チュ 二〇一四年十三月三十日 「喩をまねる 喩をまげる」  「無用の存在なのだ。どうして死んでしまわないのだろう?」 (フィリップ・K・ディック『アルファ系衛星の氏族たち』1、友枝康子訳) おとつい、えいちゃんのところに、赤ちゃんが生まれた えいちゃんそっくりの、かわいい赤ちゃんだった つぎのdioは 森鴎外 ひさびさに日本の作家をもとに書きます 斉藤茂吉以来かな 問を待つ答え 問いかけられもしないのに 答えがぽつんと たたずんでいる はじめに解答ありき 解答は、問あれ、と言った すると、問があった ヴェルレーヌという詩人について かつて書いたことがありますが ヴェルレーヌの飲み干した アブサン酒の、ただのひとしずくも ぼくの舌は味わったことがなかったのだけれど ようやく味わえるような気になった もちろん、アブサン酒なんて飲んじゃいないけど 笑 ようやく原稿ができた もう1度見直しして脱稿しよう そうして ぼくは、ぼくの恋人に会いに行こう 風景が振り返る あっちゃんブリゲ 手で払うと ピシャリ と へなって 父親が 壁によろける 手を伸ばすと ぴしゃり と ヒャッコイ ヒャッコイ 3000世界の ニワトリの鳴き声が わたしの蜂の巣のなかで コダマする。 時速何100キロだっけ ホオオオオオ って キチキチ キチキチ ぼくの鳩の巣のなかで ぼくのハートの巣のなかで ニワトリの足だけが ヒャッコイ ヒャッコイ ニードル セレゲー エーナフ ああ ヒャッコイ ヒャッコイ ぼくの 声も 指も 耳も 父親たちの死骸たちも イチジク、ミミズク、3度のおかわり 会いたいね 目 合わしたいね きっと カット ね 見返りに よいと 巻け やっぱり、声で、聞くノラ ノーラ きみが出て行った訳は 訳がわからん ぼくは いつまでたっても 自立できない カーステレオ 年季の入ったホーキです。 毎朝 毎朝 いつまでたっても ぼくは 高校生で 授業中に居眠りしてた ダイダラボッチ ひーとりぼっち そげなこと言われても 訳、わがんねえ 杉の木立の 夕暮れに ぼくたちの 記憶を埋めて すれ違っていくのさ 風と 風のように そしたら 記憶は渦巻いて くるくる回ってるのさ ひょろろん ひょろろん って 生きてく糧に アドバルーン 眺めよろし マジ決め マジ切れ も1度 シティの風は 雲より ケバイ そしたら しっかり生きていけよ、美貌のマロニーよ ハッケ ヨイヨイ よいと 負け すばらしく詩神に満ちた 廃墟 の 上で ぼくは 霧となって 佇んでいる ただ 澄んでいる 色 の ない ビニールを 本の表紙に カヴァーにして 錦 葵 ボタンダウンが よく臭う ぼくの欠けた 左の手の指の先の影かな 年に平均 5、6本かな 印刷所で 落ちる指は ヒロくんはのたまわった お父さんが 労災関係の弁護士で そんなこと言ってた アハッ なつかしい声が過ぎてく ぼくの かわりばんこの 小枝 腕の 皮膚におしつけて 呪文をとなえる ツバキの木だったかなあ こするといいにおいがした したかな たぶん こするといいにおいがした まるで見てきたような嘘を 溜める ん 貯める んんん 矯める 矯めるじゃ! はた迷惑な電話に邪魔されて 無駄な 手足のように はえてきて どうして、舞姫は ぼくがひとりで 金魚と遊んでいたことを知ってるんだろう? ひゃっこい ひゃっこい どうして、舞姫は ぼくがひとりで 金魚と遊んでいたことを知ってるんだろう? ひゃっこい ひゃっこい ピチッ ピチッ もしも、自分が光だってことを知っていたら、バカだね、ともたん まつげの上を 波に 寄せては 返し 返しては 寄せて ゴッコさせる まつげの上に 潮の泡が ぷかりぷかり ぼくは まつげの上の 波の照り返しに 微笑み返し ポテトチップスばかりたべて 体重が戻ってるじゃん! せっかく神経衰弱で 10キロ以上やせたのにいいいいい まつげの上に 波に遊んでもらって ぼんやり ぼくは本を読んでる いくらページをめくっても 物語は進まない。 寄せては返し 返しては 寄せる ぼくのまつげの上で 波たちが 泡だらけになって 戯れる きっと忘れてるんじゃないかな ページはきちんと めくっていかないと 物語が進まないってこと ページをめくってはもとに戻す ぼくのまつげの上の波たち いまほど ぼくが、憂鬱であったためしはない 足の裏に力が入らない 波は まつげの上で さわさわ さわさわ 光の数珠が、ああ、おいちかったねえ まいまいつぶれ! 人間の老いと 光の老いを 食べ始める 純粋な栄光と 不純な縁故を 食べる 人間の栄光の及ばない 不純な光が 書き出していくと 東京だった 幾枚ものスケッチが 食べ始めた。 ごめんね、ともひろ ごめんね、ともちゃん 幾枚ものスケッチに描かれた 光は 不純な栄光だった 言葉にしてみれば それは光に阻害された たんなる影道の 土の かたまりにすぎないのだけれど ごめんね ともちゃん 声は届かないね みんな死んじゃったもん もしも、ぼくが 言い出さなかったら て 思うと バカだね ともたん もしも 自分が食べてるのが 光だと 知っていたら あんとき 根が食べ出したら 病気なのね ペコッ 自分が食べている羊が 食べている草が 食べている土が 食べている光が おいちいと感じる 1つ1つの事物・形象が 他のさまざまな事物や形象を引き連れてやってくるからだろう 無数の切り子面を見せるのだ 金魚が回転すると 冷たくなるというのは、ほんとうですか? 仮面をつける 絵の具の仮面 筆の仮面 印鑑入れの仮面 掃除機の仮面 ベランダの手すりの仮面 ハサミの仮面 扇風機の仮面 金魚鉢の仮面 輪投げの仮面 潮騒の仮面 夕暮れの仮面 朝の仮面 仕事の仮面 お風呂の仮面 寝ているときの仮面 子供のときの仮面 死んだあとの仮面 夕暮れがなにをもたらすか? 日光をよわめて ちょうど良い具合に 見えるとき 見えるようになるとき ぼくは考えた 事物を見ているのではない 光を見ているのだ、と いや 光が見てるのだ と 夕暮れがなにをもたらすか? お風呂場では 喩をまねる 喩をまげる 曲がった喩につかった賢治は 硫黄との混血児だった 自分で引っかいた皮膚の上で って、するほうがいいかな だね キュルルルルル パンナコッタ、どんなこった 二〇一四年十三月三十一日 「プチプチ。」 彼が笑うのを見ると、いつもぼくは不安だった ぼくの話が面白くて笑ったのではなく ぼくを笑ったのではないかと ぼくには思われて 表情のない顔に引っ込む この言葉はまだ、ぼくのものではない ぼくのものとなるにつれて、物質感を持つようになる 触れることのできるものに そうすれば変形できる 切断し、結び合わせることができる せっ、 戦争を純粋に楽しむための再教育プログラム。 あるいは、菓子袋の中のピーナッツがしゃべるのをやめると、 なぜ隣の部屋に住んでいる男が、わたしの部屋の壁を激しく叩くのか? 男の代わりに、柿の種と称するおかきが代弁する。(大便ちゃうで〜。) あらゆることに意味があると、あなたは、思っていまいまいませんか? 「ぼくらはめいめい自分のなかに天国と地獄をもってるんだ」 (ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第十三章、西村孝次訳) 「ぼくだけじゃない、みんなだ」 (グレッグ・ベア『天空の劫火』下・第四部・59・岡部宏之訳) 人間は、ひとりひとり自分の好みの地獄に住んでいる そうかなあ そうなんかなあ わからへん でも、そんな気もするなあ きょうの昼間の記憶が そんなことを言いながら 驚くほどなめらかな手つきで ぼくのことを分解したり組み立てたりしている ほんのちょっとしたこと、ささいなことが すべてのはじまりであったことに突然気づく 「ふだん、存在は隠れている」 (サルトル『嘔吐』白井浩司訳) 「そこに、すぐそのそばに」 (ジイド『ジイドの日記』第二巻・一九一〇、カヴァリエール、八月、新庄嘉章訳) 世界が音楽のように美しくなれば、 音楽のほうが美しくなくなるような気がするんやけど、どやろか? まっ、じっさいのところ、わからんけどねえ。笑。 バリ、行ったことない。中身は、どうでもええ。 風景の伝染病。 恋人たちは、ジタバタしたはる。インド人。 想像のブラやなんて、いやらしい。いつでも、つけてや。笑。 ぶひゃひゃひゃひゃひゃひゃ。 ある古書のことです ヤフー・オークションで落札しました 11111円で落札しました 半年以上探しても見つからなかった本でしたので ようやく手に入って喜んでいたのですが きのうまで読まずに本棚に置いておりました きのうは土曜日でしたので 1気に読もうと思って手にとりました 面白いので、集中して読めたのですが 途中、本文の3分の2ぐらいのところで タバコの葉が埃の塊とともに挟まっていて おそらくはまだ火をつけていないタバコのさきから 縦1ミリ横3ミリの長方形に刻まれた葉がいくつかこぼれ落ちたのでしょう タバコの脂がしみて、きれいな紙をだいなしにしておりました それが挟まれた2ページはもちろん その前後のページも損傷しておりました すると、とたんに読む気がうせてしまいました まあ、結局、寝る前に、最後まで読みましたが 昨年の暮れに買いましたものでしたので いまさら出品者にクレームをつけるわけにもいかず 最終的には、怒りの矛先が自分自身に向かいました 購入したらすぐに点検すべきだったと しかし、それにしても 古書を見ておりますと タバコの葉がはさまれていることがこれまでに2回ありました これで3回目ですが、故意なのでしょうか ぱらぱらとまぶしてあることがあって そのときには、なんちゅうことやろうと思いました 自分が手放すのがいやだったら 売らなければいいのにって思いました ちなみに、その古書のタイトルは 『解放されたフランケンシュタイン』でした ぼくがコンプリートに集めてるブライアン・オールディスの本ですけれど 読後感は、あまりよくなかったです 汚れていたことで、楽しめなかったのかもしれません 途中まで面白かったのですが こんなことで、本の内容に対する印象が異なるものになる可能性もあるのですね うん? もしかして ぼくだけかしらん? 「すべてが現実になる。」 (フレデリック・ポール&C・M・コーンブルース『クエーカー砲』井上一夫訳) 「あらゆるものが現実だ。」 (フィリップ・K・ディック『ユービック:スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳) ケルンのよかマンボウ。あるいは、神は徘徊する金魚の群れ。 moumou と sousou の金魚たち。 リンゴも赤いし、金魚も赤いわ。 蟹、われと戯れて。 ぼくの詩を読んで死ねます。か。 扇風機、突然、憂鬱な金魚のフリをする。 ざ、が抜けてるわ。金魚、訂正する。 ぼくは金魚に生まれ変わった扇風機になる。 狒狒、非存在たることに気づく、わっしゃあなあ。 2006年6月24日の日記には、こうある 朝、通勤電車(近鉄奈良線・急行電車)に乗っているときのことだ 新田辺駅で、特急電車の通過待ちのために 乗っている電車が停車していると 車掌のこんなアナウンスが聞こえてきた 「電車が通過します。知らん顔してください。」 「芸術にもっとも必要なものは、勇気である。」 って、だれかの言葉にあったと思うけど ほんと、勇気いったのよ〜 笑 「思うに、われわれは、眼に見えている世界とは異なった別の世界に住んでいるのではないだろうか。」 (フィリップ・K・ディック『時は乱れて』11、山田和子訳) 「人間は、まったく関連のない二つの世界に生きている」 (トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』4、友枝靖子訳) 「世界はいちどきには一つにしたほうがいい、ちがうかね?」 (ブルース・スターリング『スキズマトリックス』第三部、小川隆訳) 「きみがいま生きているのは現実の世界だ。」 (サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳) 「精神もひとつの現実ですよ」 (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』16、菅野昭正訳) 『図書館の掟。』は、タイトルを思いついたときに これはいい詩になるぞと思ったのだけれど 書いていくうちに、お腹を壊してしまって 『存在の下痢。』を書くはめになってしまった 『図書館の掟。』は、たしかに、書いているときに 体調を崩してしまって、ひどい目にあったものだけれど まだまだ続篇は書けそうだし 散文に書き直して小説の場に移してもいいかもしれない 『存在の下痢。』は、哲学的断章として書いたものだけれど 読み手には、ただ純粋に楽しんでもらえればうれしい 『年平均 6本。』は、青春の詩だ 一気に書き下ろしたものだ 「青春」という言葉は死語だけれど 「青春」自体は健在だ 現に、dionysos の同人たちは いつ会っても、みんな「青春」している 表情が、じつに生き生きとしているのだ 『熊のフリー・ハグ。』以下の作品は opusculeという感じのものだけれど これまた書いていて、たいへん楽しいものだった 読者にとっても、楽しいものであればいいと願っている 去年の1月1日の夜に コンビニで、さんまのつくねのおでんを買った 帰って、1口食べたら 食べたとたんに、げーげー吐いた 口のなかいっぱい、魚の腐った臭いがした すぐに、コンビニに戻った 「お客さんの口に合わない味だったんですよ。」と 店員に言いくるめられて、お金を返してもらっただけで、帰らされた くやしかった たしかに、そのあと、おなかは大丈夫だったけど 1月2日には、アンインストールしてはいけないものをアンインストールして パソコンを再セットアップしなければならなくなった ふたたびメールの送受信ができるようになるまで、3日の夜までかかってしまった 作業の途中で、発狂するのでは、と思うことも、しばしばであった ものすごくしんどかった パソコンについて無知であることに、あらためて気づかされた ことしの始まりは、最悪であった すさまじくむごい正月であった 詩のなかで 「世界中の不幸が、ぼくの右の手の人差し指の先に集まりますように!」 と書いたけど ほんとうに集まってしまった こんどは、こう書いておこう 世界中の幸福が、ぼくの右の手の人差し指の先に集まりますように! と ぼくたちは おそらく、ひとりでいるとき 考える対象が、何もなければ だれでもない ぼくたちでさえないのであろう 「自分が誰なのかまるで分らないのだ。」 (ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸生訳) そこにいるのは、ただ 「見も知らぬ、わけの分らぬ自分」 (ブラッドベリ『刺青の男』日付のない夜と朝、小笠原豊樹訳) であり、その自分という意識すらしないでいるときには そこにいるのは何なのだろう 自分自身のこころを決めさせているものとして考えられるものをあげていけば きりがないであろう たとえば、それは、自分の父親の記憶 ぼくの父親が ぼくや、ぼくの母親に向かって言った言葉とか その言葉を口にしていたときに父親の顔に浮かんでいた表情や そのときのぼくの気分とか そのときの母親の顔に浮かべられた表情や 母親の思いが全身から滲み出ていたそのときの母親の態度とか 反対に、そのときの思いを必死に隠そうとしていた母親の態度とか そのときの部屋や、食事に出かけたときのお店のなかでのテーブルの席とか いっしょに旅行したときの屋外の場面など その空間全体の空気というか雰囲気とかいったものであったり 本のなかに書かれていた言葉や 本のなかに出てくる登場人物の言葉であったり 恋人や友だちとのやりとりで交わされた言葉であったり 学校や職場などで知り合った人たちとの付き合いで知ったことや言葉であったり テレビやインターネットで見て知ったことや言葉であったりするのだけれども だれが、あるいは、どれが、ほんとうに、自分の意志を決定させているのか わからないことがほとんどだ というか、そんなことを 日々、時々、分々、秒々、考えて生きているわけではないのだけれど ときどき考え込んでしまって 自分の思考にぐるぐる巻きになって まれに昏睡したり 倒れてしまったりすることがある 先週の土曜日のことだ 本屋で なぜ、ぼくは、詩を書いたり 詩について考えたりしているのだろうと そんなことを考えていて、突然、めまいがして倒れてしまって その場で救急車を呼ばれて そのまま救急病院に運ばれてしまったのである シュン 点滴打たれて、その日のうちに帰っちゃったけどね 考えつめるのは、あまり身体によくないことなのかもしれない チーン 『徒然草』のなかに 「筆を持つとしぜんに何か書き、楽器を持つと音を出そうと思う。 盃を持つと酒を思い、賽(さい)を持つと攤(だ)をうとうと思う。 心はかならず何かをきっかけとして生ずる。」 (現代語訳=三木紀人) とか 「主人がいる家には、無関係な人が心まかせに入り込むことはない。 主人がいない所には、行きずりの人がむやみに立ち入り、 狐(きつね)やふくろうのような物も、人の気配に妨げられないので、 わが物顔で入って住み、木の霊などという、奇怪な形の物も出現するものである。 また、鏡には色や形がないので、あらゆる物の影がそこに現われて映るのである。 鏡に色や形があれば、物影は映るまい。 虚空は、その中に存分に物を容(い)れることができる。 われわれの心にさまざまの思いが気ままに表れて浮かぶのも、 心という実体がないからであろうか。 心に主人というものがあれば、胸のうちに、 これほど多くの思いが入ってくるはずはあるまい。」 (現代語訳=三木紀人) というのがあるんだけど 最初のものは、第117段からのもので それにある 「心はかならず何かをきっかけとして生ずる。」 という言葉は ゲーテの 「人間の精神は万物に生命を与えるが、私の心にも一つの比喩が動き出して、その崇高な力に私は抵抗することができない。」 (『花崗岩について』小栗 浩訳) といった言葉を思い出させたし あとのものは 第235段からのもので それにある 「鏡には色や形がないので、あらゆる物の影がそこに現われて映るのである。 鏡に色や形があれば、物影は映るまい。」 とか 「虚空は、その中に存分に物を容れることができる。  われわれの心にさまざまの思いが気ままに表れて浮かぶのも、  心という実体がないからであろうか。  心に主人というものがあれば、  胸のうちに、これほど多くの思いが入ってくるはずはあるまい。」 といった言葉は 「多層的に積み重なっている個々の2層ベン図  それぞれにある空集合部分が  じつは、ただ1つの空集合であって  そのことが、さまざまな概念が結びつく要因にもなっている。」 という、ぼくの2層ベン図の考え方を 髣髴とさせるものであった この空集合のことを、ぼくは しばしば、「自我」にたとえてきたのだが ヴァレリーは、語と語をつなぐものとして 「自我」というものを捉えていた あるいは、意味を形成する際に 潜在的に働く力として 「自我」というものがあると ヴァレリーは考えていたし カイエでは 本来、自我というものなどはなくて 概念と概念が結びついたときに そのたびごとに生ずるもののようにとらえていたように思えるのだけど これを思うに、ぼくのいつもの見解は ヴァレリーに負うところが、多々あるようである しかし、そういったことを考えていたのは 何も、ヴァレリーが先駆者というわけではない それは、ぼくのこれまでの詩論からも明らかなように 古代では、プラトン以前の何人もの古代ギリシア哲学者たちや プラトンその人、ならびに、新プラトン主義者たちや、ストア派の哲学者たち 近代では、汎神論者たちや、象徴派の詩人や作家たちがそうなのだが 彼らの見解とも源流を同じくするものであり それは、現代とも地続きの19世紀や20世紀の哲学者や思想家たち 詩人や作家たちの考えとも その根底にあるものは、大筋としては、ほぼ同じところにあるものと思われる ぼくが、くどいくらいに繰り返すのも ヴァレリーのいう、「自我」の役割と、その存在が 空集合を下の層としている、ぼくの2層ベン図のモデルと その2層ベン図が多層的に積み重なっているという 多層ベン図の空間モデルで10分に説明できることが それが真実であることの証左であると こころから思っているからである また、第235段にある 「主人がいる家には、無関係な人が心まかせに入り込むことはない。  主人がいない所には、行きずりの人がむやみに立ち入り、  狐やふくろうのような物も、人の気配に妨げられないので、  わが物顔で入って住み、木の霊などという、奇怪な形の物も出現するものである。」 とか 「虚空は、その中に存分に物を容れることができる。」 とかいった言葉は ぼくの 「孤独であればあるほど、同化能力が高まるのだろうか。 真空度が増せば増すほど、まわりのものを吸いつける力が強くなっていくように。」 といった言葉を思い起こさせるものでもあった このあいだ、『徒然草』を読み直していて あれっ、兼好ちゃんって ぼくによく似た考え方してるじゃん って思ったのだ チュチュチュ、イーン。パッ ううぷ ちゃあってた Aじゃない Eだ リルケは ちゃはっ 視点を変える 視点を変えるために、目の位置を変えた 両肩のところに目をつけた 像を結ぶのに、すこし時間がかかったが 目は、自然と焦点を結ぶらしく (あたりまえか。うん? あたりまえかな?) それほど時間がかからなかった 移動しているときの風景の変化は 顔に目があったときには気がつかなかったのだが ただ歩くことだけでも、とてもスリリングなものである 身体を回転させたときの景色の動くさまなど 子供の時に乗ったジェットコースターが思い出された ただ階段を下りていくだけでも、そうとう危険で まあ、壁との距離がそう思わせるのだろうけれども 顔に目があったときとは比べられない面白さだ 左右の目を、チカチカとつぶったり、あけたり 風景が著しく異なるのである 顔にあったときの目と目の距離と 肩にあるときの目と目の距離の差なんて 頭ふたつ分くらいで そんなにたいしたもんじゃないけど、目に入る風景の違いは著しい 寝る前に、ちかちかと目をつぶったり、あけたり 1つの部屋にいるのに、異なる2つの部屋にいるような気分になる 目と目のあいだが離れている人のことを「目々はなれ」と言うことがあるけど そういえば、志賀直哉、じゃなかった、ああ、石川啄木じゃなくて 漱石の知り合いの、ええと、あれは、あれは、だれだっけ? 啄木じゃなくて、ええと あ、正岡子規だ! 正岡子規がすぐれていたのは、もしかしたら 目と目の間が、あんなに離れていたからかもしれない 人間の顔の限界ぎりぎりに目が離れていたような気がする すごいことだと思う こんど、胸と背中に目をつけようと思うんだけど どんな感じになるかな あ、それより、3つも4つも いんや、いっそ、100個くらいの目だまをつけたらどうなるだろう 100もの異なる目で眺める あ、この文章って、プルーストだったね。 The Wasteless Land. で、引用してたけど じっさい、100の異なる目を持ってたら いろいろなものが違って見えるだろうね 100もの異なる目 あ 100の異なる目でも 頭が1つだから 100の異なる目でも 100の同じ目なのね 考える脳が同じ1つのものだったら じゃあ 100の目があってもダメじゃん 100の異なる目って 異なる解釈のできる能力のことなのね あたりまえのことだけれど 違った場所に目があるだけで 違って見える 違って解釈できるかな? わからないね でも生態学的に(で、いいのかな?)100もの目を持ってたら? って考えたら、ひゃー、って思っちゃうね あ、妖怪で、100目ってのがいたような気がする いたね 水木しげるのマンガに出てたなあ でも、100も目があったら、花粉症のぼくは いまより50倍も嫌な目にあうの? 50倍ってのが単純計算なんだけどね あ プチッ プチ プチ、プチ あの包装用の、透明のプチプチ 指でよくつぶすあのプチプチ プチプチのところに目をつけるのね で、指でつぶすの プチプチ プチプチって ブ ブブ ブクブホッ いつのまにか、ぼくは自分の身体にある目を プチプチ プチプチって ブ ブブ ブクブホ って で ひとりひとりが別の宇宙を持っているって書いてたのは ディックだったかな リルケだったかな ふたりとも カ行の音で終わってる あつすけ も カ行の音で終わってるね 笑 おそまつ 笑 ところで 早くも、次回作の予告 次回の dio では 失われた詩を再現する試みをするつもりである その過程も入れて、作品にするつもりである かつて、『Street Life。』というタイトルで どこかに出したのだが、それが今、手元にないのだ よい詩だったのだが、ワープロ時代の詩で データが残っていないのだ 原稿用紙に2枚ほどのものだったような気がする 覚えているかぎりでは、よい詩だったのだ ベイビー! そいつは、LOVE&BEERの いかしたポエムだったのさ (いかれたポエムだったかもね、笑。) フンッ ---------------------------- [自由詩]Risei/アラガイs[2021年1月5日11時39分] つまりは嘘になるから すべてをさらしてみたいとは思わない。 書いていると気は楽になるけど、 、友や家族を前にして言葉を発したことがないのよ    なんで照れちゃうるのかな。 それはあなたというあなたが               いつまでも他人のままだから。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一五年一月一日─三十一日/田中宏輔[2021年1月11日21時04分] 二〇一五年一月一日 「初夢はどっち?」  ようやく解放された。わかい、ふつう体型の霊が、ぼくの横にいたのだ。おもしろいから、ぼくのチンポコさわって、というと、ほんとにさわってきたので、びっくりした。きもちよかった。直接さわって、と言って、チンポコだしたら、霊の存在が感じられなくなって、あ、消えてしまったのだと思うと、からだの自由がとりもどせたのだった。それまで、口しかきけず、からだがほとんどうごかなかったのだ。手だけ、うごかせたのだった。しかし、この部屋とは違う部屋になっていた。その青年の霊が、ぼくのチンポコをさわっているときに、窓に何人もの霊があらわれて、のぞいていたのだけれど、ぼくの部屋に窓はない。ひさしぶりに、霊とまじわった。まあ、悪い霊じゃなくて、よかった。気持ちいいことしてくれる霊なら、いくら出てきてくれてもよい。ただし、タイプじゃなかったので、まえのように、ふとんの上から、重たいからだをおしつけてきてくれるようなオデブちゃんの霊なら、大歓迎である。も一度寝る。はっきり目がさめちゃったけど。寝るまえの読書が原因かな。じつは、ロバート・ブロックの『切り裂きジャックはあなたの友』のつづきを読んでいたのだ。『かぶと虫』というタイトルのエジプトのミイラの呪いの話を読んで寝たのだ。これが原因かもしれない。しかし、ぼくの言うことを聞いてくれた霊だったので、もしもこれが夢だったら、ぼくは夢を操作できるようになったということである。これからは、夢に介入できるという可能性があることになる。怖いけれど、楽しみである。こんど出てきたら、ぼくのタイプになってってお願いしてみようと思う。そしたら、恋人いない状態のぼくだけれど、ぜんぜんいいや。寝るのが楽しみである。お水をちょこっと飲んで、も一度寝る。おやすみ。起きた。すぐに目が覚めてしもた。学校の先生のお弁当の夢を見た。こっちが初夢なのかな? なんのこっちゃ。先生のお弁当の心配だった。「奥さんがつくってくれはりますよ。」とぼくが言ったところで終わり。だけど、あんまり親しくない先生だったのが不思議。 二〇一五年一月二日 「SF短編集・SFアンソロジー」  SFの短篇集やアンソロジーは、おもしろいものが多く、また勉強になるものも多い。 ぼくがもっとも感心したのは、つぎの短篇集とアンソロジー。 1番 ジョディス・メリルの『年間SF傑作選』1〜7(創元推理文庫) 2番 20世紀SF?〜?(河出文庫) 3番 SFベスト・オブザ・ベスト 上・下巻 創元SF文庫  4番 ロシア・ソビエトSF傑作集 上・下巻 創元推理文庫 5番 東欧SF傑作集 上・下巻 創元SF文庫 6番 時の種(ジョン・ウィンダム) 創元推理文庫 7番 ふるさと遠く(ウォルター・テヴィス) ハヤカワ文庫 8番 ヴァーミリオン・サンズ(J・G・バラード) ハヤカワ文庫 9番 シティ5からの脱出(バリントン・J・ベイリー) ハヤカワ文庫  9番 サンドキングズ(ジョージ・R・R・マーティン) ハヤカワ文庫 10番 第十番惑星(ベリャーエフ) 角川文庫 11番 マッド・サイエンティスト(S・D・シフ編) 創元文庫 12番 時間SFコレクション タイム・トラベラー 新潮文庫  13番 宇宙SFコレクション? スペースマン 新潮文庫 14番 宇宙SFコレクション? スターシップ 新潮文庫 15番 〈時間SF傑作選〉ここがウィネトカなら、きみはジュディ ハヤカワ文庫 16番 〈ポストヒューマンSF傑作選〉スティーヴ・フィーヴァー ハヤカワ文庫 17番 空は船でいっぱい ハヤカワ文庫 18番 第六ポンプ(パオロ・バチガルピ)ハヤカワ文庫 19番 河出書房新社の「奇想コレクション」全20巻 20番 早川書房の「異色作家短篇集」全20巻 21番 スロー・バード(イアン・ワトスン) ハヤカワ文庫 22番 ショイヨルという名の星(コードウェイナー・スミス) ハヤカワ文庫 以上、いま本棚をちらほらと眺めて、これらは読んでおもしろく、また勉強になった作品だなと思ったものだけれど、順番をつけて書いたが、その順番には意味がない。ジョディス・メリルの編集したものに、はずれが1つもないことには驚嘆した。とくにSFという枠に収まらないものがあって、その中の1篇の普通小説が特に秀逸だった。ここに怪奇小説の傑作集を入れると、右にあげたSFの傑作集以上の数のものがあるけれど、それにミステリーを加えると、ものすごい数のものになってしまって、短篇集やアンソロジーだけでも、50以上の秀逸なものがあると思う。「読まずに死ねるか」と、だれかが本のタイトルにしていたような気がするけど、ほんと、おもしろい本と出合うことができて、よい人生だなと、ぼくなどは思う。 二〇一五年一月三日 「人間のにおい」 「指で自分の鼻の頭、こすって、その指、におてみ。」と言われて 指で自分の鼻の頭をこすって、その指のにおいをかいでみた。 「くさっ。」と言うと 「それが人間のにおいや。」と言った。 テレビででもやっていたのだろう。 ぼくがまだ中学生のときのことだ。 中学生の同級生とのやりとりだ。 中学生が「人間のにおい」などという言葉を思いつけるとは思えない。 そのとき、友だちに確かめたわけではないけれど。 それから40年以上たつけれど ときどき鼻の頭のあぶらをティッシュでぬぐって そのあとティッシュの汚れた部分を見て そこに鼻を近づけて そのいやなにおいを嗅ぐことがある。 くさいと思うそのにおいは、ずっと同じようなにおいがする。 「人間のにおい」って言っていたけれど 「人間のにおい」だなんて、いまのぼくには思えない。 「ぼくのにおい」だったのだ。 二〇一五年一月四日 「登場人物と設定状況」  文学作品を読んでいて、その登場人物のことや、その作品の設定状況などについて考える時間が多いのだが、一日のうち、あんまり多くの時間をそれに費やしていると、頭のなかは、その架空の登場人物や設定状況についての知識と考えにとらわれてしまって、じっさい現実に接している人間についてよりも多くの時間を使っているために、現実の人間についての考察や現実の状況についての考察を、架空の人物や設定状況の考察よりも手薄くしてしまうことがあって、ああ、これは逆転しているなあ、これでは、あべこべだと思って、ふとわれに返ることがある。一日じゅう、文学作品ばかりに接していると、そういった逆転がしょっちゅう起こっているのだった。ところで、これまた、ふと考えた。しかし、現実に接している人間でも、じっさいに接して、その人間の言動を見て、聞いて、触れて、嗅いでいる時間は、その人間といないときよりずっと短いのがふつうである。したがって、現実に接している人間でも、自分がその人間の特性のすべてを知って接しているわけではないことに注意すべきだし、その点に留意すると、現実に接している人間もまた架空の人間と同様に、その人物について知っていることはごくわずかのことであり、それから読み取れることはそれほど多くもないということで、そういう彼らを、自分の人生という劇に登場してくる架空の人物なのだと思うことは、それほどおかしなことではないようにも思われる。ただ、現実の人間のほうが感情の起伏も激しいし、意外な面を見せることも多くて、文学作品のほうが驚きが少ないような気がするが、それは、つくりものがつくりものじみて見えないように配慮してつくってあるためであろう。これはこれでまた一つの逆転であると思われる。皮肉なことだ。 二〇一五年一月五日 「主役と端役」  日知庵でも、よく口にするのだが、ぼくたちは、それぞれが自分の人生という劇においては主役であり、他人は端役であるが、それと同時に、他人もまた彼もしくは彼女の人生という劇においては主役であり、ぼくたちは彼らの人生においては端役であるのだと。 二〇一五年一月六日 「磔木の記憶」  木の生命力はすごくて、記憶力もそれに劣らず、ものすごいものであった。イエス・キリストの手のひらと足を貫いて打ち込まれた鉄釘の衝撃を、いまでも覚えているのだった。さまざまな教会の聖遺物箱のなかにばらばらに収められたあとでも。 二〇一五年一月七日 「弟」  お金ならあり余っている実業家の弟からいま電話があった。「あっちゃん、生活はどうや?」と言うので、「ぎりぎりかな。」と言うと、心配して援助してくれそうな雰囲気になったので、「食べていけるぶんだけはちゃんと稼いでるから、だいじょうぶやで。」と言うと、「なにかあったら電話してや。」とのこと。ありがたい申し出だったのだけれど、25才で芸術家になると宣言して家を出て30年。意地でも自立して生きてきたのだ。いまさらだれにも頼る気はない。人間はまず経済的自立にいたってこそ、自由を獲得できるのだ。芸術はその自由のうえでしか築けるものではないのだ。 二〇一五年一月八日 「少女」  二日まえから少女と暮らしている。まだ未成年だ。大坂の子らしい。すこしぽっちゃりとして、かわいらしい。肉体関係はない。けさ帰ってしまった。ぼくの夢のなかに現われた少女だったけれど、なぜか、いなくなって、さびしい。いい子だったのだ。高校生だと言っていた。どこかで見た子ではなかった。河原町にいっしょに買い物に行ったけど、「京都って、やっぱり、大阪よりダサイんじゃないかな。」と、ぼくが言うと、「そうかな?」って言って、店のなかに入って行った。けさ、駅まで見送ったけれど、そのまえに、自動販売機でジュースを買って、ふたりで飲んだ。その自動販売機って、おかしくって、買ったひとの名前が表示されるのだけれど、彼女の名前が出て、ふううん、こんな名前だったんだと思ったのだけれど、目がさめたら、忘れてた。おぼえておきたかった。なんていう名前だったのだろう。とてもかわいらしい少女だった。 二〇一五年一月九日 「ちょっとだけカーテン。」 ちょっとだけ台風。 ちょっとだけ腹が立つ。 ちょっとだけ崩れる。 ちょっとだけ助ける。 ちょっとだけ地獄。 ちょっとだけ天国。 ちょっとだけ感傷的。 ちょっとだけノンケ。 ちょっとだけゲイ。 ちょっとだけプログレ。 ちょっとだけアウト。 ちょっとだけ嘔吐。 ちょっとだけ喜劇。 ちょっとだけ一目ぼれ。 ちょっとだけ偉大。 ちょっとだけ四六時中。 ちょっとだけ正当。 ちょっとだけ正解。 ちょっとだけ螺旋。 ちょっとだけ奥。 ちょっとだけ5時間。 ちょっとだけアルデンテ。 ちょっとだけバカ。 ちょっとだけ永遠。 ちょっとだけボブ・ディラン。 ちょっとだけ激しい。 ちょっとだけフンドシ。 ちょっとだけ孤独。 ちょっとだけTV。 ちょっとだけ愛する。 ちょっとだけいい。 ちょっとだけ聞きたくない。 ちょっとだけほんとう。 ちょっとだけカーテン。 二〇一五年一月十日 「頭のおかしい扉」  うちのマンションの入り口の扉、自動ロックなんだけど、変わってて、ぼくがドアの前に立つとロックして、それから勝手に開錠するの。頭おかしいんじゃないのって思う。 二〇一五年一月十一日 「ドブス」 高校時代の クラスコンパの二次会のあとで 友だち、6、7人といっしょに行った ポルノ映画館の 好きだった友だちと 膝と膝をくっつけたときの 思い出が いまでも、ぼくを興奮させる ドブスってあだ名の かわいいらしいデブだった 酒に酔った勢いで 生まれてははじめてポルノ映画館に行ったのだけれど そのときに見たピンク映画の一つに 田んぼのあぜ道で おっさんが農婆を犯すというのがあった でもあまり映画に集中できなかった ドブスに夢中で 二〇一五年一月十二日 「詩人の才能」  けっきょく、詩人の才能って、ときどき、とんでもないものを発見する才能じゃないのかな、と思う。つまり、遭遇する才能じゃないのかな、と思ったってこと。たとえ、日常のささいなことのなかにでも、目にはしていても、それをまだだれも表現していないものがあって、それを詩句というもののなかに描出できることを才能って言うんじゃないのかなって思ったのだった。このあいだ行った、第2回・京都詩人会・ワークショップ・共同作品に参加してくれた森 悠紀くんの「やおら冷蔵庫を開け/煙と共にしゃがみ込み」という表現にはほんとうに新鮮な驚きがあったのだ。もちろん、観念だけで書かれた作品のなかにも、機知というものがうかがえるものがあるだろう。それも、もちろん才能によって書かれたものだと思う。ぼくも、どちらかといえば、そちらの人間なのだろうけれど、だからよけいに、ごく自然に書かれたふうな風情に強い共感を持ってしまうのかもしれない。若いときには、ぼくは機知だけで書いてきたようなところがあった。これからも多くはそうだろうけれど、そのうち、いずれ、ごく自然なふうに、すぐれた詩句を書いてみたいものだと思わせられたのだ。 二〇一五年一月十三日 「詩語についての覚書。」  表現を洗練させるということは、詩語を用いてそれらしく仕上げることではない。ふつうに普段使っている日常の言葉を用いて、まるで、かつての詩語のように(その詩語が当初もたらせた、いまはもうもたらせることのない)さまざまな連想を誘い、豊かにその語の来歴を自らに語らしめさせること、それこそ表現を洗練させることであろう。現在、このことを全的に認識している詩人は、日本にはいない。詩語を用いて詩作品をつくるつもりならば、それは反歴史的に、反引用的に用いなければ、文飾効果はないだろう。すなわち、詩語は、もはやパロディー的に用いるほか、まっとうな詩作品など書けやしないであろうということである。ほんとうに、このことを認識していなくては、これから書かれる詩のほとんどのものは、後世の人間に見せられるようなものではなくなるだろう。 二〇一五年一月十四日 「プラスチックの蟻」  赤色や黄色や青色や緑色や紫色など、さまざまの色のプラスチックの10センチメートルほどの大きさの蟻が、ぼくの頭のうえにのっかっている。で、ぼくの脳みそから、赤色や黄色や青色や緑色や紫色など、さまざまな色のプラスチックのぼくの脳みその欠片をとりだして、カリカリ、カリカリと齧っている。 二〇一五年一月十五日 「ウサギには表情筋がない」 ぼくが孤独を求めているんじゃなくて 孤独のほうが、ぼくを求めているんじゃないかなって思うことがある。 ぼくはそこに行った。 なぜなら、そこが、ぼくにとって、とても親しい場所だったからだ。 Poets eat monkeys, flowers, benches, chocolate, faces, windows ─. Monkeys change flowers change benches change chocolate change faces change windows change ─ Chocolate のつぎは changes かな? イーオンに行ったら、 ぼくが探してたボールペンがあった。 黒0.38ミリの本体つきのもの3本と黒インク7本。 赤0.5ミリの本体つきのもの1本と赤インク4本。 合計1370円。 これって、買い占めじゃなくて、買い置きだよね。 書くと嘘になる。 書かなければ、少なくとも嘘にはならないってこと? 嘘でないことと、ほんとうのことは同じ? 老いたる表情筋がぴくぴく。 そだ、きのう読んだ本に、ウサギには表情筋がないって書いてあった。 「兎は顔面筋をほとんど動かせない。」(チャールズ・ストロス『シンギュラリティ・スカイ』金子 浩訳、370ページ) ちょっと違ったね。 近くのうんこと、遠くのケーキ。 知覚のうんこ。 内容が貧しいものほど、表現が大げさなのは、なぜなのだろう? ちいさいものが かわいらしいと むかしのさいじょは かいたっけ ちいさいことばが かわいらしいと いまのぼくにも よくわかる よくわかる ふむふむふむ〜 あなたの足が、洗面台のうえに、床のうえに、台所のシンクタンクのなかに、ベッドのうえに、テーブルのうえに同時に置いてある風景。 疑問を削除する花粉。 新たな視力を得ること。 理論的に言うと、スイカは電磁波ではなく、球形である。 犬や猿やない 見たらわかるし 見たらわかるし 自分自身をたずさえて、自分自身のなかを潜らなければならない。 人間は自分の皮膚の外で生きている。 人間は、ただ自分の皮膚の外でのみ生きているということを知ること。 ロゴスが自らロゴスの圏外に足を踏み外すことがあるのかしら? と、ふと考えた。 二〇一五年一月十六日 「霊」  電気消して二度寝してたら幻聴がして、たくさんの人がいる場所の声がして、とつぜん、布団のうえから人が載ってる感じがして、抱きしめられて、怖いけど、なんか愛情みたいなの感じたから、耳なめて、って声に出して言ったら、かすれた声が耳元でして、耳に息を吹きかけられて気持ちよくなって、ええっ? ほんまものの霊? って、思って、ぼくのむかしの彼氏のうちのひとりかなって思ってたら、気持ちよく頭をなでられたので、あれっ、ドアの鍵してなくて、いま付き合ってる子がいたずらしてるのかなって思って、電気のスイッチに手を伸ばして電気つけたら体重もすっとなくなって気配も消えた。こんなに生々しい肉体の感触のある幻覚はひさしぶり。やさしい霊だった。耳元に息を吹きかけられて頭なでられて、声はちょっとかすれてて、ヒロくんかな。どうしちゃったんだろ。もしかしたら、ヒロくんが、むかしの夢を見たのかもしれない。ヒロくんが二十歳で、ぼくが二十代後半だった。電気つけなきゃよかったかな。でも、怖さもちょっとあったしなー。でも、気持ちよかったから、いい霊だったのだと思う。さっきの霊となら、つきあってもいいかな。やさしそうだし、体重は重たかったし、たぶんデブで、かわいいだろうし、声もかすれてセクシーだったし。あしたから二度寝が楽しみだー。 二〇一五年一月十七日 「セックス」  おじいさんとおじいさんがセックスしても子どもが生まれるわけである。おばあさんとおばあさんがセックスしても子どもが生まれるわけである。体位についても考えた。親指から人差し指から中指から薬指から小指から、ぜんぶ切断して、くっつけ直すような体位。あるいは、すべての指を親指につけ直してまぐわう体位。忘れてた。息子と娘の近親相姦で親も生まれるし、息子と息子の近親相姦でも親は生まれるし、孫とおばあちゃんとのセックスでも親は生まれる。どうしたって親は生まれる。孫が携帯電話とセックスしても生まれる。あたらしい親。キーボードを打つたびに、親が生まれるのだ。体位はさまざま。指の切断、首の切断も、実質は同じだ。交換し合う指と指。交換し合う首と首。さまざまな体位でまぐわり合う言葉たち。言葉と言葉の近親相姦。他人相姦。はじめて出合う言葉と言葉がはげしくまぐわうのだ。体位はさまざま。とりわけ推奨されるのが切断と接合の体位である。すべての指を切断し接合し直すのだ。すべての首を切断し接合し直すのだ。体位はさまざま。言葉と言葉がはげしくまぐわい合うのだ。あ、さっき、り、と書いた。いだ。いいだ。いいいだ。 二〇一五年一月十八日 「小西くん」  日知庵では、小西くんが隣でコックリ、コックリ居眠りしていて、えいちゃんの、「あっちゃん、お持ち帰りしたら?」という声に反応して、きゅうに頭を起こして、両手でバッテンしたのには笑った。たいへんかわいい小西くんでした。 二〇一五年一月十九日 「なんちゅうことざましょ。」 プルーストの『失われた時を求めて』の「花咲く乙女たちのかげに」のなかで シャルリュス男爵が言うように 「人生で重要なのは、愛の対象ではありません」(鈴木道彦訳) 「それは愛するということです」(鈴木道彦訳) そうね。 愛こそが どのように愛したか どのように愛していたのかという愛し方が まさに、愛し方こそが、問題ね。 しかも、 「われわれは愛の周辺にあまりにも狭苦しい境界を引いているけれども、そうなったのも、もとはと言えば、ただもうわれわれが人生を知らないからなのです。」(鈴木道彦訳) なんちゅうことざましょ。 二〇一五年一月二十日 「真意」 真意はつねに誤解を通して伝わる。 折り曲げた針金をまっすぐにしようとして、折り曲げ戻したもののように。 二〇一五年一月二十一日 「言語意識」 「言語自体が意識を持ちうるか」という点について、文学的な文脈や、比喩的に、ではなく、きちんと科学的に追及されるということが、いままでに一度でもなされたのだろうか。可能なら、追及してみたい。もしも、科学的に追及できないものなのだとしたら、科学的に追及できないということを証明したい。人間が言葉に意味を与えたのだ。その言葉が人間に意味を与えるのだ。言葉が意識を持っている可能性は十分にあると思う。 二〇一五年一月二十二日 「両もものかは」  ジョン・クロウリーの『リトル、ビッグ』?の誤植・その2 276ページ上段2行目にある「男は短い両もものかは、ちょこまかとした足取りで」 なんだろう? 「両もものかは」って。いかなる推測もできない誤植である。 二〇一五年一月二十三日 「無意識領域の自我と意識領域の自我」  クスリをのんで1時間たったので、電気を消して、自分自身と会話してたら、ふたりか三人の自分のうちのひとりが、「これだよこれ。」と言って、自分のうなじを両手でかきあげるしぐさをしたのだが、わけがわからなかった。これは起きて書かなくてはと思った。わけのわからない夢のほうがおもしろいからである。無意識領域の自我が出現間近だったような気がする。それでも、意志の力で、身体を起こして、目を覚まさせ、意識領域の自我にパソコンをつけさせたのだった。そう促せたのは、いくつかのぼくの自我のうちのどれかだったのだろうが、もちろん、それは意識領域の自我か、意識領域に近いほうの自我だったのだと思う。まだ無意識領域の自我にはなっていなかったと思う。いつもなら、こんなふうに無理に起きようとはしないで、その日に見た夢は、その夢の記憶を夜に書きつけて眠るのだけれど、夢の入り口から戻ってすぐにワードに書き込むのは、はじめてかもしれない。夢。限りなく興味深い。その夢をつくっているのは、ぼくなのだろうけれど、起きているときに活動している意識領域の自我ではないと思っている。無意識領域の自我というと、記憶が意識領域とは無関係に結びつける概念やヴィジョンがあって、自我という言葉自体を用いるのが適切ではないのかもしれないけれど、きょうの体験は、その無意識領域の自我と意識領域の自我が、わずかな瞬間にだが、接触したかのような気がして、意味の不明な、つまらない夢なのだけれど、体験としては貴重な体験をしたと思っている。 二〇一五年一月二十四日 「吊り輪」  ぼくの輪になった腕に男が吊るされる。男は二人の刑務官によって、ぼくの腕のそばに立たされる。男が動くので、なかなか、ぼくの輪になった腕に、男の首がかからない。二人の刑務官ががんばって、ぼくの腕に、男の首をかけた。床が割れて、男の身体がぶら下がる。輪になったぼくの腕に吊るされて。 二〇一五年一月二十五日 「簡単に捨てる」 シンちゃんからひさしぶりに電話があった。 「前に持ってたCD  ヤフオクで買ったよ。」 「なんで?  あ、  また前に売ったヤツ買ったんやな。」 「そだよ。」 「なんでも捨てるクセは  なおらへんねんな。」 「売ったの。  飽きたから。」 「いっしょや。  そうして、人間も  おまえは捨てるんや。」 「人間の場合は  ぼくが捨てられてるの。」 「いっしょや。」 「いっしょちがうわ。」 と言ったけど もしかしたら いっしょかもしれない。 二〇一五年一月二十六日 「カムフラージュ、ユニコーン、パルナス、モスクワの味」 「あっくんてさあ  どうして  そんなに言葉にとらわれてばかりいるの?」 「うん?」 「まるで言葉のドレイじゃん。」 「言葉のドレイ?」 「そだよ  もっと自分のことにかまったほうがいいと思うよ。」 「自分のことに?  ううん  それで  言葉にかまってるんだと思うんだけどなあ。」 「言葉は  あっくんじゃないでしょ?」 「言葉はぼくだよ。」 「うそつき!」 「うそじゃないよ。  ほんとだよ。  シンちゃんは  そう思わないの?」 「思わないよ。  まっ  あっくんのことだから  ぼくは  べつにかまわないんだけどね。」 「かまわないんかよ?」 「かまわないんだよ。」 「ふふん。」 「でも  あっくんは  言葉じゃないんだからね。」 「言葉かもしんないよ。」 「バーカ。」 カムフラージュ ユニコーン パルナス モスクワの味 あら しりとりじゃなかったの? 二〇一五年一月二十七日 「いやなヤツ」 しょっちゅう 烏丸のジュンク堂でチラ読みしてたのだけれど で いいなあとは思っていたのだけれど 雑誌のアンケートがきっかけで買った パウンドの『ピサ詩篇』 やっぱり とてもいい感じの詩集だった。 ああ なんでSFみたいなものにこの4、5年を費やしてしまったんやろか。 時間だけやなくて お金も、そうとう、つぎ込んだけど あほやった。 歴史に出てくる人物とか 詩人とか そんなひとの名前は、わからんものも多かったけど 言葉の運び方がいいので ぜんぜん気にならず ときおり見せる抒情と 言葉のリフレインに こころがキュンとつかまれたって感じ。 じつは、きょうは 『消えた微光』も読んでいて ルーズリーフ作業のついでに もう一度ね とてもここちよかったのだ。 ジェイムズ・メリルの場合もそうやった。 ここちよかったのだ。 ただし、メリルのほうは もう一行もおぼえていないし ひとことの詩句も出てこないのだ。 パウンドの詩句も、きっと近いうちに忘れるだろう。 で それでいいのだ。 ぼくのなかに埋もれて いいのだ。 「さみしい」は単複同形だ。 どの引き出しにも「さみしい」がぎっしり。 「わっ!」 「うん?」 「びっくりしないんですね。」 「なんで?」 「いや、いままでのひと、みんな、びっくりしたから。」 「ぼくは、反応が遅いのかもしれないね。」 なんでびっくりさせようとしたんやろうか。 あの男の子。 もう20年くらい前のこと火傷。 火傷ねえ、笑。 無名であること。 ぼくの作品や文章には 完全ゼッタイ的に無名な人物がたくさん出てくるのだけれど それでいいのだ。 と思う。 『マールボロ。』のシンちゃんについて。 とても相性が悪いのだ。 なんかのときだけど なんのときか忘れたけれど あ 誕生日かな 違うかもしれないけど で 横綱っていうラーメン屋に入って 「きょうは、おごるね。」って言ったら いちばん高いラーメンを注文して (1500円!) しかも 「これ、まずい。」 って言って ほんのちょっと食べただけで そのあとずっと 「まずい。」 「まずい。」 って言われつづけて ぼくはギャフンとなりました。 「ギャフン」というものになったのだ。 で それから ぼくのなかで シンちゃんは 「とてもいやなヤツ」になったんやけど 「とてもいやなヤツ」というものになったのね。 そのほかに これまで ぼくの恋人のことを やれブサイクだとか デブだとか ブスだとか もっとマシなのにしたらとか チョーむかつくこと言われてて 電話も 用もないのにかけてくるし しかも 話をしてるのよりも 沈黙のほうがずっと多いし。 はあ? って感じの会話が多いし 一度なんて 恋人とのデート前に電話をしてきて なかなか切ろうとしないし ほんとにうっとうしかった。 「こんなん読んではるんですか?」 「そだよ。」 なんで、そこで本棚、見つめて ぼくに背中向けてるんだよ。 「なに?」 「いや、どんなん読んではるんかなあって思って。」 襲われ願望? 「ああ、ぼく襲われるかなって思っちゃった。」 「どっちがですか?」 大笑い。 そかな? そうかなあ? これは5、6年以内の思い出かな。 いまの部屋やから、笑。 あ シンちゃん 本人は 短髪 ガッチリで モテ系だと思ってて まあ じっさいそうなんだけど モテ系のくせに 性格 暗いし 悪いし 最悪なのに ぼくの純情な恋人を ぜったいにほめないし 死ね とか キチガイ とか 平気で ぼくに言うし もう おまえのほうが 死ねよ って感じ。 しかも フリートウッドマックちゅう 二流バンドが好きで 趣味が悪いっちゅうの。 まあ ええ曲もあるけど あ これはカヴァーやけど カヴァーのほうがいい。 あっは〜 あっは〜 「そんなに真剣になって読むものなんですか?」 ムカッ。 「あとで読めばいいっ!」 ムカムカッ。 ここで シンちゃんから離れて エイジくんのことを思い出す。 予備校に勤めていたときに ビックリしたことがある。 静岡から京都に来て どんな事情か知らないけど 奈良の予備校で教えていた子がいて エイジくんと 同じようなジャケット。 ニットの帽子。 そういえば エイジくんのはいてたのもゴアテックス。 その子は 髪を金髪に染めた ロン毛やったけど。 エイジくんは 短髪 バチムチね、笑。 あ ガチムチ。 「弟さん、おれとおない齢や。」 そうやったね。 ヒロくんの写真見て エイジくんが笑いながら 「こんな弟が欲しいなあ。」 もうひとりのエイジくんの記憶もよみがえる。 っていうか 前恋人、笑。 合鍵を持っているから (いまだにね。) 勝手に部屋に入って 内部調査。 メールも勝手に見るし でも、自分の携帯はぜったい見せない。 ここで シンちゃんに戻る。 いつも不機嫌そうな顔をして ぼくの部屋の玄関のチャイムを鳴らして ぼくがドアを開けたら 勝手にあがるバカ。 あ そういえば エイジくん ぼくが玄関を開けようとしたら しょっちゅう ドアを身体で押さえて あけさせようとしなかった。 バカ。 バカ。 バカ。 みんな、なんちゅうバカやったの? ふう 落ち着いた。 友だちの悪口を書くと けっこう気持ちいいものだね。 もしかして もしかしなくても ぼくがいちばん いやなヤツやね、笑。 二〇一五年一月二十八日 「ひざまずくホッチキス」  ひざまずくホッチキス。不機嫌なビー玉。気合いの入った無関係。好きになれない壁際。不器用な快楽。霧雨の留守電。趣味の書類。率直な歩道橋。寝る前の雑草。気づまりな三面鏡。粒立ちの苛立ち。無制限の口紅。 二〇一五年一月二十九日 「階段ホットココア。」 階段ホットココア。半分、階段で、半分、ホットココア。 ディラン・ディラン。半分、ボブ・ディランで、半分、ディラン・トマス。 チョコレート・バイク。半分、チョコレートで、半分、バイク。 欺瞞円周率。半分、欺瞞で、半分、円周率。 ひよこマヨネーズ。半分、ひよこで、半分、マヨネーズ。 金魚扇風機。半分、金魚で、半分、扇風機。 シャボン玉ヒキガエル。半分、シャボン玉で、半分、ヒキガエル。 二〇一五年一月三十日 「一羽の悩める鶫のために」 言葉の死体が岸辺に打ち上げられていた。 片手の甲に言葉の波が触れては離れ触れては離れていく 言葉の死体は言葉の砂に顔を埋めながら 言葉でできた過去を思い出している たくさんの美しい裸体の青年たちのまわりに無数の太陽を撒き散らし たくさんの太陽のまわりに無数の美しい裸体の青年たちを撒き散らしていた 日が落ちてきて真っ赤に染まった砂浜を 言葉の死体は思い出していた 青年たちの裸体は赤く染まり 岸辺の砂も赤く染まり あらゆる言葉が赤く染まって輝いていた 言葉の死体はもう十分死んでいたとでもいうように起き上がると 手のひらや腕や肘についた言葉の砂を払い落として つぎの死に場所を求めて足を踏み出した 言葉の死体はバラバラになった自分の死体を見つめていた。 言葉の死体は 言葉でできた自分の身体を切断し、腑分けしていった 言葉の指を切断し 言葉の目を抉り出し 言葉の舌を抜き 言葉の腹を切り裂いて 言葉の内臓を紙の上に撒き散らした それから 言葉の死体は 自分の身体をつぶさに見つめながら 口と耳のまわりに指を縫合し いらなくなった腕を捨てて 膝から下を切断し 腹部に目を縫いつけて 背中の皮膚を裏返しにした。 それでも自分がまだ言葉でできた死体であると そう思っていたのであった。 言葉の死体は 言葉でできた情景に目をうつした 言葉の死体は さまざまな情景を 自分の身体のさまざな部分と交換しはじめた それでもやっぱり 言葉の死体は 自分がまだ言葉でできた死体であると そう思っていたのであった。 やがて すべての部分が 自分の身体ではなくなってしまったのだけれど その新しい身体もまた 言葉でできた死体であると そう思っていたのであった。 二〇一五年一月三十一日 「服役の記憶」 住んでいた近くのスーパー「大國屋」の あ いまは スーパー「お多福」と名前を替えているところでバイトしていた リストカットの男の子のことを書いたせいで 10日間、冷蔵庫に服役させられた。 冷蔵庫の二段目の棚 袋詰めの「みそ」の横に 毛布をまとって、凍えていたのだった。 これは、なにかの間違い。 これは、なにかの間違い。 ぼくは、歯をガチガチいわせながら 凍えて、ブルブル震えていたのだった。 20代の半ばから 数年間 塾で講師をしていたのだけれど 27、8才のときかな ユリイカの投稿欄に載った『高野川』のページをコピーして 高校生の生徒たちに配ったら ポイポイ ゴミ箱に捨てられた。 冷蔵庫のなかだから 食べるものは、いっぱいあった。 飲むものも入れておいてよかった。 ただ、明かりがついてなかったので ぜんぶ手探りだったのだった。 立ち上がると ケチャップのうえに倒れこんでしまって トマトケチャップがギャッと叫び声をあげた。 ぼくは全身、ケチャップまみれになってしまった。 そのケチャップをなめながら 納豆のパックをあけて 納豆を一粒とった。 にゅちょっとねばって ケチャップと納豆のねばりで すごいことになった。 口を大きく開けて フットボールぐらいの大きさの納豆にかじりついた。 ゴミ箱に捨てられた詩のことが ずっとこころに残っていて 詩を子どもに見せるのが とてもこわくなった。 それ以来 ひとに自分の詩は ほとんど見せたことがない。 あのとき 子どものひとりが 自分の内臓を口から吐き出して ベロンと裏返った。 ぼくも自分の真似をするのは大好きで ボッキしたチンポコを握りながら 自分の肌を つるんと脱いで脱皮した。 ああ、寒い、寒い。 こんなに寒いのにボッキするなんて すごいだろ。 自己愛撫は得意なんだ。 いつも自分のことを慰めてるのさ。 痛々しいだろ? 生まれつきの才能なんだと思う。 でも、なんで、ぼくが冷蔵庫に入らなければならなかったのか。 どう考えても、わからない。 ああ、ねばねばも気持ちわるい。 飲み込んだ納豆も気持ち悪い。 こんなところにずっといたいっていう連中の気持ちがわからない。 でも、どうして缶詰まで、ぼくは冷蔵庫のなかにいれているんだろう? お茶のペットボトルの栓をはずすのは、むずかしかった。 めっちゃ力がいった。 しかも飲むために ぼくも、ふたのところに飛び降りて ペットボトルを傾けなくちゃいけなかったのだ。 めんどくさかったし めちゃくちゃしんどかった。 納豆のねばりで つるっとすべって 頭からお茶をかぶってしまった。 そういえば フトシくんは ぼくが彼のマンションに遊びに行った夜に 「あっちゃんのお尻の穴が見たい。」と言った。 ぼくははずかしくて、ダメだよと言って断ったのだけれど あれは羞恥プレイやったんやろか。 「肛門見せてほしい。」 だったかもしれない。 どっちだったかなあ。 「肛門見せてほしい。」 ううううん。 「お尻の穴が見たい」というのは ぼくの記憶の翻訳かな。 ぼくが20代の半ばころの思い出だから 記憶が、少しあいまいだ。 めんどくさい泥棒だ。 冷蔵庫にも心臓があって つねにドクドク脈打っていた。 それとも、あれは ぼく自身の鼓動だったのだろうか。 貧乏である。 日和見である。 ああ、こんなところで ぼくは死んでしまうのか。 書いてはいけないことを書いてしまったからだろうか。 書いてはいけないことだったのだろうか。 ぼくは、見たこと あったこと 事実をそのまま書いただけなのに。 ああ? それにしても、寒かった。 冷たかった。 それでもなんとか冷蔵庫のなか 10日間の服役をすまして 出た。 肛門からも うんちがつるんと出た。 ぼくの詩集には 序文も 後書きもない。 第一詩集は例外で あれは 出版社にだまされた部分もあるから ぼくのビブログラフィーからは外しておきたいくらいだ。 ピクルスを食べたあと ピーナツバターをおなかいっぱい食べて 口のなかで 味覚が、すばらしい舞踏をしていた。 ピクルスっていえば ぼくがはじめてピクルスを食べたのは 高校一年のときのことで 四条高倉のフジイ大丸の1階にできたマクドナルドだった。 そこで食べたハンバーガーに入ってたんだった。 変な味だなって思って 取り出して捨てたのだった。 それから何回か捨ててたんだけど めんどくさくなったのかな。 捨てないで食べたのだ。 でも 最初は やっぱり、あんまりおいしいとは思われなかった。 その味にだんだん慣れていくのだったけれど 味覚って、文化なんだね。 変化するんだね。 コーラも 小学生のときにはじめて飲んだときは 変な味だと思ったし コーヒーなんて 中学校に上がるまで飲ませられなかったから はじめて飲んだときのこと いまだにおぼえてる。 あまりにまずくて、シュガーをめちゃくちゃたくさんいれて飲んだのだ。 ブラックを飲んだのは 高校生になってからだった。 あれは子どもには、わかんない味なんじゃないかな。 ビールといっしょでね。 ビールも 二十歳を過ぎてから飲んだけど 最初はまずいと思った。 こんなもの どこがいいんだろって思った。 そだ。 冷蔵庫のなかでも雨が降るのだということを知った。 まあ 霧のような細かい雨粒だけど。 毛布もびしょびしょになってしまって よく風邪をひかなかったなあって思った。 睡眠薬をもって服役していなかったので 10日のあいだ ずっと起きてたんだけど 冷蔵庫のなかでは ときどきブーンって音がして 奥のほうに 明るい月が昇るようにして 光が放射する塊が出現して そのなかから、ゴーストが現われた。 ゴーストは車に乗って現われることもあった。 何人ものゴーストたちがオープンカーに乗って 楽器を演奏しながら冷蔵庫の中を走り去ることもあった。 そんなとき 車のヘッドライトで 冷蔵庫の二段目のぼくのいる棚の惨状を目にすることができたのだった。 せめて、くちゃくちゃできるガムでも入れておけばよかった。 ガムさえあれば 気持ちも落ち着くし 自分のくちゃくちゃする音だったら ぜんぜん平気だもんね。 ピー! 追いつかれそうになって 冷蔵庫の隅に隠れた。 乳状突起の痛みでひらかれた 意味のない「ひらがな」のこころと 股間にぶら下がった古いタイプの黒電話の受話器を通して ぼくの冷蔵庫のなかの詩の朗読会に参加しませんか? ぼくの詩を愛してやまない詩の愛読者に向けて 手紙を書いて ぼくは冷蔵庫のなかから投函した。 かび臭い。 焼き払わなければならない。 めったにカーテンをあけることがなかった。 窓も。 とりつかれていたのだ。 今夜は月が出ない。 ぼくには罪はない。 ---------------------------- [自由詩]1行詩。禁煙報告「われ禁煙に成功せり」/足立らどみ[2021年1月14日8時15分] 既に心の中で暴れずにそっといきづいている(煙草) ---------------------------- [短歌]湯豆腐/足立らどみ[2021年1月17日16時48分] 恋してるそっと掬って湯豆腐とタラと白菜 里は深雪 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一五年二月一日─三十一日/田中宏輔[2021年1月17日20時56分] 二〇一五年二月一日 「樵」  30年ほどむかし、毎週土曜の深夜に、京大関係の勉強会かな、京大の寮をカフェにしていて、関西のゲイやレズビアンの文学者や芸術家が集まって、楽しく時間を過ごしていたことがあって、そこに樵(きこり)の青年が来ていて、ぼくもまだ20代だったのだけれど、彼もまだ二十歳くらいで、その青年のことを、きのうふと思い出していた。文学極道に投稿されていた作品に、「樵(きこり)」という言葉があったからだけど、その彼も生きていたら、50才くらいになってるんだな。いいおっちゃんである。この素晴らしく、くだらない、おもしろい世界に生きていたとして。この素晴らしく、くだらない、おもしろい世界で、20代、30代を過ごし、40代、50代を過ごすわけである。最高にくだらない人生を送ってやろうと思うわけである。最高にくだらない詩と、小説と、音楽と、映画といっしょに暮らすのである。大満足である。きょうもいっぱい、くだらない音楽を聴きまくって過ごした。音楽は、ぼくのくだらない人生におけるくだらない栄養源である。ぼくのどの作品にも音楽があふれているのは、ぼくのなかに音楽があふれているからである。音楽は耳からあふれるほどに聴きまくるのにかぎるのである。ビューティフル・ライフ。 二〇一五年二月二日 「模造記憶」  塾の帰りにブックオフで、ディックの『模造記憶』を買った。持ってるのだけれど、持っているもののほうの背が傷んでいたので買った。さいきん、お風呂場で読むものがなかったので、傷んでるほうを、お風呂場で読む用にする。ディックも、もういらないかなって感じだけど、ぼくの原点のような気もする。そいえば、ぼくがユリイカの新人に選ばれたユリイカの1991年度1月号は、ディック特集号だった。ディックといえば、『ヴァリス』の表紙がいちばん好きだけど、物語的には、やはり『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』がいちばんいい。ジーターによる続篇もよい。 二〇一五年二月三日 「収容所行き」  きょう、同僚の吉田先生が教職員のみんなに別れを告げた。明日、収容所に収容されるらしい。1週間前に行われた能力テストで不合格だったらしい。家族ともども収容所に行くように命じられたという。収容所では、医学の発展のために、生体解剖はじめさまざまな人体実験が行われているという。生きたまま献体する場所である。1年ごとに教職員みんながテストされて、ある能力に達していないと、家族ともども、国に献体させられるシステムなのである。いまのところ、ぼくには家族がいないので、家族の心配をする必要はない。自分のこともあまり心配はしていないけれども。 二〇一五年二月四日 「フンドシ・バーに行けば、いいんですよ。」 ひさびさに日知庵に行って そのあと大黒に行ったのだけれど 大黒で飲んでいると インテリっぽい初老の客が入ってきて ぼくの隣に坐ったんだけど キュラソ星人に似た顔の人だった で このひとが話しかけてきたので 答えていたのだけれど このひと 旅行が趣味らしくって このあいだアポリネールのお墓を見に行って そのあとモジリアニのお墓を見て イタリア語で書いてあるので あらためてモジリアニがイタリア人だと思い至った話だとか ヴェルレーヌの詩について話をしていたのだけれど 「きみも旅行すれば、内向的な性格が変わりますよ。」 とかとか言われて 「旅行は、嫌いです。」 と返答すると 「じゃあ、フンドシ・バーに行けば、いいんですよ。」 と言われた。 「フンドシ・バー?」 「堂山のなんとか通りを東に行って、そしたら  なんとかビルの二階になんとかというフンドシ・バーがあってね。  そこに行けば、第一土曜日と、なんとかは、9時まで  店員も客も、全員、フンドシでなければならないんですよ。  フンドシはいいですよ。」 「ええっ?」 「わたしも、ここぞっていうときには  部屋で、パソコンの前で、フンドシを締めます。」 「はっ?」 「フンドシをすれば、気が引き締まるんですよ。」 「そうなんですか?」 すると、大黒のアルバイトの子が 「ふだんと違う姿をすると、気分が変わりますよ。  真逆がいいんですよ。」 「ええっ?」 ぼくは苦笑いしながら フンドシの効能について耳を傾けていたのだけれど 隣に坐った初老の客が 「きみも、フンドシが似合うと思いますよ。」 「そうですか?」 「きみは、身長、173ぐらいですか?」 「いえ、179センチあります。」 「そんなにあるの? 体重は?」 「80キロです。」 「40歳を少し出たところ?」 「いいえ、54歳です。」 「見えないなあ。」 「そうですか?」 「もてますよ。」 「はっ?」 「フンドシ締めるような子って  まあ、30代、40代が多いですが  きみ、もてますよ。  選び放題ですよ。」 「そんなはずはないでしょう?」 「いえいえ、もてますよ。  それに、フンドシ締めるひとって  エッチがねちっこいのですよ。」 「ぼく、淡白なんですけれど。」 「わたしはねちっこいですよ。」 「ええっ? (そんなん言われても光線発射!)」 「まあ、一度、フンドシ・バーに行ってみればいいと思いますよ。」 なんともへんな顔をして、ぼくは笑っていたと思うのだけれど 「マニアなんですか?」 と訊くと 「ただのフンドシ好きです。」 それをマニアと言うんじゃ、ボケッ と思ったのだけれど きわめて紳士的な初老のおじさまには そんな言葉を発することもできず お店の子に 「お勘定して。」 と言うことしかできなかった。 ふがふがぁ。 マスターのみつはるくんの髪型が変わっていた。 なんだかなあ。 短髪のほうがよかったなあ。 10年以上も前の経験だけど ゲイ・サウナで 真夜中 うとうとしてたら きゅうに抱きつかれて なんだか重たいって思ったら ぼくより身体の大きな子が上からのってきて 抱きつかれて 顔を見たら、かわいかったので ぼくも抱き返したら お尻のところに硬いものがあって なんだろ、これ って思って、相手の顔を見たら 笑ってるから ええっ って思って、しっかり見たら フンドシだった。 フンドシ締めながら チンポコを横からハミチンさせていたのだった。 「仕事、なにしてるの?」 って、たずねたら 「大工。」 って。 まあ、そんな感じやったけど たしかにイカニモ系だったような記憶が。 で、付き合ってもいいかなって思って 長い時間 イチャイチャしていたのだけれど もう帰ろうかなって思った時間の少し前に 「付き合ってるひと、いるの?」 って訊いたら 「うん。」 って言うから そこで、ぼくは言葉を失って 身体を離そうとしたら その子も、腕の力をすっと抜いたので 大きなため息をひとつして、彼のそばから 簡単に離れることができた。 フンドシの出てくる詩集を 串田孫一さんにも送ったことがあって 串田さんからいただいた礼状のおハガキに 「あなたの詩の最後に  フンドシという言葉を見て  なつかしく思い出しました。  わたしも戦争中と、戦後のしばらくのあいだ  越中褌をしていましたから。」 とあって、そんな感想をいただいたことを、 うれしく思ったことを思い出した。 そうか。 フンドシ好きは、ねちっこいセックスするのか。 で ねちっこいセックスって、どんなセックスか訊くの、忘れた。 ふつうのと、どう違うのかなあ。 ぼくは、ふつうのがいいかな。 二〇一五年二月五日 「時間金魚」  きょう、時間金魚を買ってきた。時間金魚の餌は、人間の寿命である。きのう、時間金魚のための餌に、20才の青年を買った。青年の残りの寿命を餌にして、きょう、時間金魚に餌を与えた。時間金魚は、顔が人間で、与えられた餌の人間の顔になる。顔面が人間離れしてきたら、餌のやり時なのでわかる。 二〇一五年二月六日 「イエス・キリスト」  四条河原町で処刑されたイエス・キリストはクローンだったという噂だ。教会に残された磔木についた血液からクローンがつくられたらしい。処刑されたあと、イエス・キリストの遺体は火葬されたので復活することはなかったのだが、信者によるイエス・キリストのクローニングはふたたびなされるだろう。あるいは、また、このようなうわさもある。四条河原町で処刑されたイエス・キリストは、じつはホムンクルスだったというのだ。では、あの槍に突き刺されて流れ出た真っ赤な血はなんだったのか。ホムンクルスならば、銀白色の霊液をしたたらせたはず。しかし、そこには術師である幻覚者がいて、見物人たちに幻の真っ赤な血潮を見させたというのだ。強力な術師ならば、それも可能であったろう。いずれにせよ、あのイエス・キリストはオリジナルではなく、レプリカだったというのだ。レプリカであっても、クローンならば遺伝情報はオリジナルと変わらないはずだし、たとえホムンクルスであっても、大方の遺伝情報を復元しているはずであった。それにしても、あの四条河原町でのイエス・キリストの処刑というパフォーマンスには意味があったのだろうか。火葬しなければならなかった理由はわかるが、処刑自体のパフォーマンスに、いったいどのような意味があったのだろうか。戦争はまだつづいている。呪術の訓練をされた若者たちが、戦場にぞくぞくと送られている。街の様子もすっかり様変わりした。戦争一色である。老詩人は、ただ戦勝祈願するほかないのだけれど。 二〇一五年二月七日 「高倉 健」  そだ。きょう、烏丸御池の大垣書店に行って、びっくりしたことがあった。ユリイカの高倉 健の特集号が平積みだったのだけれど、明らかに売れているみたいで、もうあまり残っていなかった。ユリイカが売れることも稀だと思うが、いまさらに高倉健が? という思いがした。高倉 健なんて、いまさらだよね。 二〇一五年二月八日 「好き嫌いの超越」  さいきん、好きとか、好きじゃなくなるとか、そういうの超越してきているような気がする。付き合っている人間の数が少ないせいかもしれないけれど、なんか、付き合いって、好きとか、好きじゃないとかを超越している部分があって、それが大きくなると、人生がよりおもしろく見えると思えてきたのだ。 二〇一五年二月九日 「吸血怪獣 チュパカブラ」  まえに付き合ってた子が、いきなりのご訪問。相変わらずかわいらしい顔してて、でも、より太って、よりかわいらしくなってた。100キロくらいまでなら、かわいいかも。その子といっしょに、ギャオで、『吸血怪獣 チュパカブラ』というB級ホラーを見たのだけれど、ほんと、B級だった。怪物もB級だったけど、シナリオもB級だった。俳優たちも、シロートちゃう? って感じの演技で、ほんとにゲンナリ。血まみれゲロゲロの、そして、汚らしい映画だった。 二〇一五年二月十日 「ながく、あたたかい喩につかりながら(バファリン嬢の思い出とともに)」 あたたかい喩につかりながら きょう一日の自分の生涯を振り返った。 喩が電灯の光に反射してきらきら輝いている いい喩だった。 じつは、プラトンの洞窟のなかは光で満ちみちていて まっしろな光が壁面で乱反射する まぶしくて目を開けていられない洞窟だったのではないか。 洞窟から出ると一転して真っ暗闇で こんどは目を開けていても、何も見えないという 両手で喩をすくって顔にぶっちゃけた。 何度もぶっちゃけて 喩のあたたかさを味わった。 miel blanc ミエル・ブラン 見える ぶらん 白い蜂蜜。 茣蓙、道標、熾火。 ギリシア哲学。 色を重ねると白になるというのは充溢を表している。 喩からあがると 喩ざめしないように すばやく身体をふいて まだ喩のあたたかさのあるあいだに 布団に入った。 喩のぬくもりが全身に休息をもたらした。 身体じゅうが、ぽっかぽかだった。 ラボナ、ロヒプノール、ワイパックス、ピーゼットシー、ハルシオン。 これらの精神安定剤をバリバリと噛み砕いて 水で喉の奥に流し込んだ。 ハルシオンは紫色だが、他の錠剤はすべて真っ白だ。 バファリン嬢も真っ白だった。 中学生から高校生のあいだに 何度か、ぼくは、こころが壊れて バファリン嬢をガリガリと噛み砕いては 大量の錠剤の欠片を、水なしで 口のなかで唾液で溶かして飲み込んだ。 それから自分の左手首を先のとがった包丁で切ったのだった。 真・善・美は一体のものである。 ギリシア思想からフランス思想へと受け継がれた 美しくないと真ではないという想い。 これが命題として真であるならば 対偶の、真であるものは美である、もまた真であるということになる。 バラードの雲の彫刻が思い出される。 ここで白旗をあげる。 喩あたりしたのだろうか。 それとも、クスリが効いてきたのか 指の動きがぎこちなく、かつ、緩慢になってきた。 安易な喩に引っかかってしまったのだろうか。 その喩は、わたしを待ち構えていたのだ。 罠を張って、そこに待ち構えていたのだ。 わたしは、その場所だけは避けるべきだったのだ。 たとえ、どんなに遠回りになったとしても どんなに長く道に迷うことになったとしても その安易な喩だけは避けなければならなかったのだ。 だからこそ わたしは、どこにも行き着けず どの場所もわたしを見つけることができなかったのだ。 白は王党派で 赤は革命派。 白紙答案。 赤紙。 白いワイシャツ。 赤シャツ。 スペインのアンダルシア地方に プエブロ・ブロンコ(白い村)と呼ばれる 白い壁の家々が建ち並ぶ町がある。 屋根の色だけはいろいろだったかな。 白い壁の家々は地中海に面したところにもあったような。 テラコッタ。 横たわるぼくの顔の上で そこらじゅうに 喩がふらふらと浮かび漂っていた。 横たわる喩の上で そこらじゅうに ぼくの自我がふらふらと浮かび漂っていた。 無数の喩と 無数のぼくの自我との邂逅である。 目を巡らして見ていると 一つの喩が ひらひらと、ひとりのぼくの目の前にすべりおりてきた。 ぼくは、布団から手を出して、 その喩を待ち受けた。 すると、その喩は ぼくの指の先に触れるやいなや ぼくのそばから離れていったのだ。 夢のなかでは 別の喩がぼくに襲いかかろうとして待ち構えているのがわかっていた。 裏切り者め。 ぼくは、危険を察して 喩のそばから、はばたき飛び去っていった。 二〇一五年二月十一日 「犬のうんこ」  飼ってる犬がうんこしたの。それ踏んづけて、うんこのにおいがして目が覚めた。夢にもにおいがあるんだね。 二〇一五年二月十二日 「自己愛」  FB フレンド の画像を見てたら、筋力トレーニングや顔パックしてらっしゃる画像が多い。自分自身に関心のつよいひとが多いのだな。それはすてきなことだと思っている。ぼく自身は、自分にあまり関心がなくて、と言うと、たいてい、びっくりされてしまう。ぼくの経験は詩の材料にしかすぎないのに。ぼくの経験以上に、ぼくが知っているものがないので、仕方なく自分の経験を詩の材料にしているだけなのである。もしも、ぼくが、自分自身の体験以上に知っていることがあれば、それを詩の材料にすると思う。自己愛が強いんですねと言われることがある。びっくりする。 二〇一五年二月十三日 「旧友」  ひさしぶりにオーデンの詩集を図書館で借りた。詩論を読んで、まっとうなひとだと再認識した。オーデンもゲイだったけれど、そのオーデンが、これまたゲイのA・E・ハウスマンについて書いているのも、おもしろかった。むかし、はじめてふたりの詩を読んだときは、ゲイだって知らなかったのだけれど。 あした、大谷良太くんちで、むかしの dionysos の同人たちとホーム・パーティー。いまの京都詩人会も、半分以上、dionysos のメンバーだし、長い付き合いなのだなって思う。偶然、啓文社で、ぼくが同人誌の dionysos の何号かを手にして、連絡をとったのが始まりだった。「Oracle」も「妃」も、1冊も手元にないのだけれど、「dionysos」と「分裂機械」と「薔薇窗」は、すべて手元にある。 二〇一五年二月十四日 「世界はうれしいのだ」  いま日知庵から帰った。かわいい男の子も、女の子も、世のなかにはいっぱいいて。そだ。それだけで、世界はうれしいのだ。きょうのお昼は、アポリネール、アンリ・ミショー、フランシス・ポンジュ、イヴ・ボヌフォワ、エリュアールの詩を読んでいた。アポリネールは、あなどれない。ぼくがフランス語ができたら熱中していただろうと思われる。 二〇一五年二月十五日 「彼女」 ペッタンコの彼女。ピッタンコの彼女。ペッタンコでピッタンコの彼女。ペッタンコだがピッタンコでない彼女。ペッタンコでないがピッタンコの彼女。ペッタンコでピッタンコの彼女。ペッタンコでもなくピッタンコでもない彼女。 ペラペラの彼女。パラパラの彼女。ペラペラでパラパラの彼女。ペラペラだがパラパラでない彼女。ペラペラでないがパラパラの彼女。ペラペラでパラパラの彼女。ペラペラでもなくパラパラでもない彼女。 ブラブラの彼女。バラバラの彼女。ブラブラでバラバラの彼女。ブラブラだがバラバラでない彼女。ブラブラでないがバラバラの彼女。ブラブラでバラバラの彼女。ブラブラでもなくバラバラでもない彼女。 コロコロの彼女。ボロボロの彼女。コロコロでボロボロの彼女。コロコロだがボロボロでない彼女。コロコロでないがボロボロの彼女。コロコロでボロボロの彼女。コロコロでもなくボロボロでもない彼女。 キラキラの彼女。ドロドロの彼女。キラキラでドロドロの彼女。キラキラだがドロドロでない彼女。キラキラでないがドロドロの彼女。キラキラでドロドロの彼女。キラキラでもなくドロドロでもない彼女。 スラスラの彼女。ポロポロの彼女。スラスラでポロポロの彼女。スラスラだがポロポロでない彼女。スラスラでないがポロポロの彼女。スラスラでポロポロの彼女。スラスラでもなくポロポロでもない彼女。 チンピラの彼女。キンピラの彼女。チンピラでキンピラの彼女。チンピラだがキンピラでない彼女。チンピラでないがキンピラの彼女。チンピラでキンピラの彼女。チンピラでもなくキンピラでもない彼女。 プルプルの彼女。ブルブルの彼女。プルプルでブルブルの彼女。プルプルだがブルブルでない彼女。プルプルでないがブルブルの彼女。プルプルでブルブルの彼女。プルプルでもなくブルブルでもない彼女。 チンチンの彼女。キンキンの彼女。チンチンでキンキンの彼女。チンチンだがキンキンでない彼女。チンチンでないがキンキンの彼女。チンチンでキンキンの彼女。チンチンでもなくキンキンでもない彼女。 ムラムラの彼女。ケチケチの彼女。ムラムラでケチケチの彼女。ムラムラだがケチケチでない彼女。ムラムラでないがケチケチの彼女。ムラムラでケチケチの彼女。ムラムラでもなくケチケチでもない彼女。 カチカチの彼女。ピキピキの彼女。カチカチでピキピキの彼女。カチカチだがピキピキでない彼女。カチカチでないがピキピキの彼女。カチカチでピキピキの彼女。カチカチでもなくピキピキでもない彼女。 二〇一五年二月十六日 「頭が割れる」 見ず知らずのひとのミクシィの日記を読むのが趣味のあつすけですが いま読んだものに 「頭が割れそうなぐらいに痛い。」 て書いてあるのを見て ふと あれ 頭が割れてるひと 見たことないなって思って あ 小学校の6年生のときに 思い切り 頭から血を流して 河原町でね 理由は忘れちゃったけど 弟とケンカして 頭突きしたら 弟がひょいとよけて ぼくの頭が 映画館のポスターとか貼って 入れてある スチールの大きなフレームにあたって スパッ と切れちゃって 弟は逃げちゃって 血まみれになったぼくを 見ず知らずの大学生のお兄ちゃんに 頭をタオルで押さえてもらって 祇園の家まで 連れて行ってもらったのだけれど あ これって 頭割れるのと ちと違うか 違わないか そうあるか そうないか わたしわからないことあるよ ええと これとはちゃうかなあ。 で 頭割れてるって どこまで〜? ってことになりますわなあ。 どこまで〜? あ で 頭が割れそうに痛いって ぼくの場合 痛くなかったのね。 出血が激しくて 自分でびっくりして 気を失いかけてただけだから ぜんぜん痛くなかったの。 あんまり頭って ケガしても痛くないんだよねえ。 で 頭が割れそうに痛いって これ おかしくない? まあ 割れ方によるのかな。 そいえば、関西弁には 「どたま、かち割ったるぞ!」という喧嘩言葉があったな。 めっちゃむずかしいと思うけどね。 二〇一五年二月十七日 「確定申告」  確定申告してきた。けさ、夢を見た。家族で旅行していて、朝の食事中に、急に立ち上がって、食事の席を立って部屋を出て行き、コンビニでお菓子を買おうとしていた。父親が心配して、後ろから肩に触れた。ぼくは、ごめんねとあやまって泣いていた。そこで目が覚めた。日知庵に行くと、藤村さんからチョコいただいた。えいちゃんがあずかってくれてたのだけれど、おいしいチョコだった。お返しに、詩集をプレゼントしよう。そう言ったら、えいちゃんに、「ただですますんか!」と言われたけれど、貧乏詩人だから、ただですまそうと思ってる、笑。人生うにゃうにゃでごじゃりまする。 二〇一五年二月十八日 「大谷良太『Collected Poems 2000-2009』」  大谷良太くんにいただいた『Collected Poems 2000-2009』を読んでる。もう15年以上の付き合いがあって、初期の詩から知っていたはずなのに、知らない感じのところが随所にあって、自分の感じ取る個所が違っていることに、自分で驚いている。大谷良太くんのもっている繊細さは、ぼくには欠落していて、でも、ぼくには欠落しているものだと、ぼくに教えてくれるくらいに、表現が強固なのだと思った。もちろん、表現は強固だが、詩句としては、詩語を排したわかりやすいものである。後半は散文詩が多い。大谷くんの現実の状況とだぶらせて読まざるを得ないのだけれど、そいえば、翻訳詩を読む場合も、詩人の情報をあらかじめ知って読む場合が多いことに気がついた。読み進めていくと、完全な創作なのだろうか、まるで外国文学を読んでるみたいだ。現実の大谷くんとだぶらない状況のものがあって、びっくりした。いや、びっくりすることはないのかもしれない。ぼくだって、現実の自分の状況ではない状況を作品に織り込むことがあるのだから。くくくく、と笑う男が主人公の散文詩の連作が、とりわけ印象的だった。自分より20年くらい若い詩人を、大人の書き手だなと思ったのは、たぶんはじめてだと思う。より広く読まれてほしいと思う数少ない書き手。 二〇一五年二月十九日 「ウンベルト・サバ詩集」  いま日知庵から帰った。ジュンク堂では、キリル・ボンフィリオリの『チャーリー・モルデカイ』1〜4までと、ウンベルト・サバ詩集を買った。サバのこの詩集は買うのは2回目だけど、さいしょに買ったのは、荒木時彦くんにプレゼントしたので、手もとになかったもの。大谷良太くんの詩集を読んでて、ふつうに平易に使ってる言葉で書かれているものの詩のよさをあらためて知ったせいだろうかなって思う。サバの詩の翻訳も、日常に使う言葉で書かれてあって、大谷くんの詩との共通点があったためだと思う。やっぱり、詩は、詩語を使っちゃダメだと思う。いま書かれている詩のほとんどのものは、ぼくには、下品に思えちゃうんだよね。詩語を使えば、それなりに詩っぽくなるけど、あくまでも、それなりに詩っぽくなるだけで、ぼくには、詩には思えないものなんだよね。たぶん、ぼくの詩の定義は、めっちゃ広いものだけど、めっちゃ狭いものでもあって、たぶん、いま書かれているものの99%くらいのものは、ぼくには詩じゃなくって、詩のまねごとにしか思えなくって、でも、詩ってものを、ちゃんとわかってるひとは、1パーセントもいなくって、仕方ないのかもしれない。いい詩が書かれて、いい詩が残ればいいだけの話だけどね。 二〇一五年二月二十日 「詩論」  夕方に「詩論」について考えた。「詩」についての「論」とは、なにかと考えた。「詩とは何か?」と考えると、なにかと難渋してしまう。AはBであると断定することに留保条件が際限なく出現するからである。そこで、「何が詩か?」と考えることにした。論理的に言えば、「詩とは何か?」と「何が詩か?」というのは、同じ意味の問いかけではない。しかし、おそらくは断定不可能な言説について云々するほどの無能者でもないものならば、「何が詩か?」という問いかけについて思いをめぐらすことであろう。たとえば、何が詩か。ぼくの経験からすると、堀口大學の『月下の一群』に含まれているいくつかの作品は詩だ。シェイクスピアのいくつもの戯曲、ゲーテの『ファウスト』、ホイットマンの『草の葉』の多くの部分、ディキンスンのいくつかの作品、ジェイムズ・メリルのサンドーヴァーの光・三部作。これらはみな翻訳を通じて、ぼくに、詩とはこれだと教えてくれた作品たちである。書物の形で、紙に書かれた言葉を通して、詩とはこれだと教えてくれた作品たちである。エイミー・ローエルの『ライラック』を忘れていた。ハート・クレインの『橋』を忘れていた。パウンドの『ピサ詩篇』を忘れていた。エリオットの『荒地』を忘れていた。たくさんの詩人たちの作品を忘れていた。しかし、どれが詩だったのかは、思い出すことができる。詩ではないものを思い出すことは難しいが、詩だと思ったものが、だれのどの作品かは思い出すことができる。詩人の書くものがすべて詩とは限らない。イエイツの初期の作品は、ぼくにとっては、詩とは呼べないシロモノである。イエイツはお気に入りの詩人であるが、後期の作品のなかにだけすぐれた作品があり、しかもその数は10もない。すなわち、ぼくにとって、イエイツの作品で、詩であるものは、10作しかないということである。このことは別に不思議なことではないと思う。お気に入りの作家の作品で好きな作品がいくつかしかないのと同様に、お気に入りの詩人の作品に、詩だと思えるものが数えるほどしかないということである。例外は、ジェイムズ・メリルのように全篇を通じて霊感の行きわたったものだけだ。さて、「何が詩か?」という問いかけに対して、およそ3分の1くらいは答えたような気がする。書物の形で目にしたものについての話はここで終わる。「何が詩か?」書物以外のものを詩だと思ったことがある。小学生のときに見た『バーバレラ』という映画は、詩だった。山上たつひこの『ガキデカ』も、シリーズ全作品、ぼくには詩だった。この2つの作品のほかにも、詩だと感じた映画やマンガがある。そして、仕事帰りに目にした青年があまりに美しすぎて、すれ違ったあと涙が流れてとまらなかったときも、この瞬間は詩だと思ったのだ。と、ここで、ぼくは気がついたのであった。「何が詩か?」と考えたときに、ぼくの頭が思い浮かべた詩というものは、言葉によって作品化されたものだけではなかったのである。そして、その判断をしたものは、ぼくのこころだったことに。ここで、残り3分の2のうちの2分の1が終わった。残り3分の1に突入する。すなわち、「何が詩か?」と考えるのは、こころであったのだ。つまり「何が詩か?」という問いかけには、ただ「こころが何が詩であるかを決定するのだ」という答えしかないのである。ということは、と、ここで飛躍する。「何が詩か?」という問題は、「何がこころか?」という問題に帰着するということである。「何がこころか?」は、「何が意識か?」に通じるものであろうが、「こころ」と「意識」とでは、違いがあるような気がするが、というのも、意識を失っている状態でも、こころがあるような気がするからである。しかし、「何が詩か?」という問題は、「何が意識か?」に通じるものであるということは理解されるだろう。以上の考察からわかったことは、詩の問題とは、こころの問題であり、意識の問題である、ということである。詩論は、心理学や生理学上の問題として扱われるべきである。これまでに、ぼくが目にした詩論の多くのものが、歴史的な経緯を述べたものや、特定の詩人や、詩人の作品を扱ったもので、とくに、心理学や生理学の分野から扱ったものではなかった。これからは、詩論とは、心理学や生理学の分野の研究者が考察すべきものであるような気がする。 二〇一五年二月二十一日 「言語の性質を調べる実験」  2014年の7月に文学極道に投稿した実験詩『受粉。』では、言語の性質について調べました。ぼくの実験詩では(もちろん、全行引用詩も、●詩も、サンドイッチ詩も、実験詩だったのです。)言語の性質を調べています。だれも言ってくれませんが、そういう詩の日本でさいしょの制作者だと思っています。実験詩には、「順列 並べ替え詩。3×2×1」や「百行詩。」も入ると思いますが、これらが、将来、日本の詩のアンソロジーに入ることはないでしょうね。いまの日本の詩壇の状況では、ぼくの先鋭的な作品は、いまと同じように無視されたまま終わるような気がします。遅れています。これは、まだ、だれも書いてくれたことがないことなのだが、ぼくの「全行引用詩」や「順列 並べ替え詩。3×2×1」などは、作品の生成過程そのものを作品として提出していると思うのだけれど、そういう詩というのは、これまでになかったもののような気がするのだけれど、単なる思い過ごしだろうか。もちろん、たしかに、構造がまったく異なりますから、生成過程も異なりますね。「順列 並べ替え詩。3×2×1」は、組み換えの列挙を通じて、一行ごとの異なる相から作品のブロックが生成する新たな相を形成して見せたのに対して、「全行引用詩」のほうは凝集の偶然というものを通して、作品の構造を露わにして、その生成過程を作品そのものにしていました。どちらの偶然性も無意識領域の自我が大いに関与していると思います。ちなみに、言葉の並べ替えのヒントは、ラブレーのつぎのような言葉でした。ちょっと違っているかもしれませんが。「驢馬がいちじくを食べるのなら、いちじくが驢馬を食べちゃってもいいじゃないか。」これって、もしかすると、ロートレアモンだったかもしれません。そこに、数学者のヤコービの言葉が重なったのでしょう。あるとき、ヤコービがインタビューで、なぜあなたが数学で成功したのかと訊かれて、こう答えたというのです。「逆にすること。」 二〇一五年二月二十二日 「歌留多取り」 ぼくの詩論詩・集ですが、阿部裕一さんから まるでトマス・ハリスのハンニバル・レクターが 書いたものみたいだと言われました。 ほめ言葉として受け取りました。笑 亡き父と二人つきりの歌留多取り われが取らねば父も取らず いまつくった短歌です。 加藤治郎さんの「加藤治郎☆パラダイス短歌」に投稿しました。 以前にも一首、投稿したことがありますが およそ半年ぶりの短歌づくりです。 ちなみに半年前に投稿した短歌は 月もひとり ぼくもひとり みんなひとり スーパーマンも スパイダーマンも  でした。これは、10年ぶりの短歌でした。 二〇一五年二月二十三日 「人間市場」 SFマニアの方に、お尋ねしたいことがあります。 むかし読んだSFで、人間市場があって その市場で売られている美男美女たちは ただ殺されるためだけに売られているという そんな設定のSFを読んだことがありました。 残念なことに中学生のときくらいのことで タイトルを忘れてしまいましたが…… 最初のシーンは ある男が自分の生まれた島にもどるところで 船の中で、眠っている間に 心臓を魔術でぎゅっと握られるという 苦悶のシーンからはじまるものだったと思うのですが 父親の持っていたSFだったと思うのですが 死んだ父親の蔵書に、それがなくて 何度かSFマニアの方に尋ねたことがあるのですが もし、ご存じの方がいらっしゃったら ぜひぜひお教えくださいませ。 シリーズものの外伝といいますか そういった作品であったと思います。 二〇一五年二月二十四日 「浮橋」 きょうは、京都駅のホテル・グランビアにある、 『浮橋』という日本料理屋で、ある方と食事をしていて、 従業員の失礼な態度にあきれました。 まあ、予約をせずに行ったこちらもよろしくないのかもしれないけれど テーブル席についてコースを頼んだところ 一時間半しかいられませんが、というので、それで結構ですよと言ったのだが それほど時間もしないうちに 従業員が執拗に何度もやってきて 料理の途中で まだ皿に料理が残っているのに 下げてよろしいですかと嫌がらせのようなことをして さんざんだった。 ただ料理はおいしかったことは認めるが 従業員をあんなふうに指導している店の接客態度には いっしょにお食事をしていた方とも 「なんなんでしょうね、これは。」と話をした。 ぼくと違って その方は、そういうところでよく食事をされると思うので きのう 『浮橋』という店は ぜったいに損をしたと思う。 まあ、いくら上等の料理を出しても あんな接客態度では、よい噂は流れないと思う。 そういえば グランビアには 吉兆もあった。 二〇一五年二月二十五日 「ジュンちゃん」  いま日知庵から帰った。帰りに、阪急西院駅で、ジュンちゃんに出合う。何年振りだろう。「46才になりました。オッサンです。」と言うのだけれど、ぼくには、やっぱり、19才のときのジュンちゃんが目に残っていて、面影を重ねて見ていた。ずっと京都に住んでいると、付き合った子と出合うこともたまにあって、いろいろ話がしたいなあと思うのだけれど、思ったのだけれど、バスが来てしまって、「また会ったら話をしよう。」と、ぼくが言うと、笑ってうなずいてバスに乗っていった。声は19才のときから太くて(からだもガチデブだっけど)、いまだに魅力的だった。いまだにガチデブで、おいしそうだった、笑。ぼくが文学なんてものやってるからかな、めんどくさくなったのかな。ぼくも27才だったし、詩を書きはじめて間もなくだった。下鴨のマンションにいたとき、土曜日になると、かならず、ピンポンって鳴ってたのに、いつの間に鳴らなくなったんだろう。ああ、27年前の話だ。うん? 28才か。そだ。1年ずれてる。ぼくが詩を書きはじめたのは、28才のときか。ジュンちゃんは19才だった。身長がぼくよりちょこっと高くって、180センチはあったのかな。ぼくも178センチあるから、しかもデブとデブだったので、レストランに行っても、どこ行っても、目立ってたと思う。こんど出会ったら、「ちょっと一杯のまへんか?」と言って誘ってみよう。きょうは、ぼくがベロベロだったから、誘えなかった。残念。 二〇一五年二月二十六日 「配管工の夢」 どこにもつながらない って書けば詩的だろうけどさ つながってるかどうかなんて そんなことはどうでもいいのさ ただパイプをくねくねくねくね いっぱい部屋のなかにつくって くねくねくねくねパイプだらけの部屋をつくるのが おれっち 配管工の夢なのさ 廊下も階段も地下室も屋上もくねくねくねくね いっぱいパイプをくねらせて パイプだけで充満させたビルをつくるのが おれっち 配管工の夢なのさ おいらのオツムもおんなじさ からっぽが ぎっしりつまってるのさ 二〇一五年二月二十七日 「とかとかとか」 お昼に西院の駅の前で、 額に血を縦一文字にべったりとつけたお兄さんがいて、 野菜を売っていた。 まだ30代やと思う。 小太りの背の低い浅黒い顔のお兄さん。 ちょっと、その血をどうかしてよ と思うぐらいに はっきりと べっとりと 額に血がついてて ちょっと怖くて ちょっと心配しちゃった。 それに だれがそんなひとから野菜を買うのかしら とかとか思ったのだけれど 日曜日には 血はついてなくって ほっとした。 あんなにどうどうと血を額につけたままいられると 自転車で前を通っただけのぼくだけれど 心配しちゃうんだね。 真夏のように暑かった 日差しの強い土曜日とか日曜日。 駅の喧騒。 人・人・人。 「とか」という言葉がすっごい好き。 駅とか 人とか とかとかとか。 二〇一五年二月二十八日 「いっぱい」 あいている手紙いっぱい。 あいている手がいっぱい ああ いてる 手紙 いっぱい ああ いてる 手が いっぱい ああしてる 手紙 いっぱい ああしてる 手が いっぱい 愛してる 手紙 いっぱい 愛してる 手が いっぱい あいている 手紙 いっぱい あいている 手が いっぱい 二〇一五年二月二十九日 「かわいそう」 マイミクのいもくんが 以前くれた ぼくの日記を読んでの感想 「なんで?」 「コメントほとんどないやん。」 まあね。 べつになくってもいいんだけどね、笑 ひとりごとのつもりだから そういえば ぼくは 自分の詩集に対する手紙や葉書もぜんぶ捨ててるし 卒業アルバムもぜんぶ捨ててる いま 部屋にある本も SFだけど 表紙に愛着のあるものを除いてだけど 勤め先の図書館に寄贈している ほんとに必要な本って そんなにないのかもしれない いや いま思ったのだけど 1冊もないかも 「えっ? 30才?」 「うん。」 「童顔なんやね。」 ときどきぼくの顔を見る ぼくはずっと彼の顔を見てる 「まだ20才くらいにしか見えへん。」 苦笑いしてた エイジくんに似ていた 「なにしてたの?」 「指、入れてた。」 「何本?」 「1本。」 「ふうん。」 少しして ぼくはいなくて こんどは本物 「あってもなくてもいいんだけど。」 パラメーターは 複雑なきりん かな テイク・アウト i don't wannna go there ごめんなさい そして 記憶はサテンのモーニング ふたりで かな とか ふたりしかいないから かな とかとか 「理想的な感じだから  なんだか恥ずかしくって。」 恋人がぼくを捨てた理由もわかんないし ぼくが恋人を捨てた理由もわかんない それほど深刻でもなかったと思う 笑けるね 笑っちゃえ アハッ って かな あさって かな こんどは本物 かな って でもね 「なにもかもが  期待はずれ。」 って ふほほ だからね 教えてあげる 時間と場所と出来事がすべてだって 西院の王将でご飯を食べてたら 隣の隣に 高校時代のクラスメートが坐っていることに気がついた 高校時代にはカッコよかったのにね 時間って残酷 あこがれてたのになあ どの指って きくの忘れてた ばかだなあ 細部の事実がうつくしいのに 細部が事実だとうつくしいのに ちょっと待って って 時間には言えないし 立ち戻ることもできない できやしない 「格闘技やってそう。」 「やってたで。」 「なに?」 「柔道。」 エイジくんも柔道してた ぼくは 自分が柔道してたことは言わなかった どうして言わなかったのだろう むかしのことだもの こたえは わかりきってる おもっきりむちゃな 恋のフーリガン いや 恋はフーリガン きみのかけら 指のかけら あちこちに撒き散らして それだって 厭きのこない顔だから what? すぐにこわれるから こわれもの いつまでもこわれない こわれものって、なに? こんどは本物 かな いきなり? そうさ そうじゃないことなんて 一度だってなかったじゃない いつだって そうさ 二〇一五年二月三十日 「さいしょから部屋に行けばよかった。」 彼は27才だった 彼の彼女は39才だった ぼくは49才だった ひどいねえ ぼくがノブユキと付き合ってたのは ぼくが28で ノブチンが21 はじめ20だって言ってたんだけど 1つ少なめに言ってたんだって 3年浪人して 日本の大学には進学できなかったからって シアトルの大学に入って 「バイバイ!」 って言うと へんな顔した 「バイバイって言われて  こわかった。」 どうして? あ ノブチンじゃなくって 彼なんだけど 「彼女と会う気がなくなってきた。」 って言うから 「会わなきゃいけないよ。」 って、ぼくが言って へんな感じだった 「さいしょから部屋に行けばよかった。」 「またいつでもこれるやん。」 「彼女と会う気がなくなってきた。」 「疑われるからって  携帯にぼくの電話番号、書き込まなかったくせに。」 苦笑い そういえば なんで、みんな苦笑いするんやろう? 彼は27才 彼の彼女は39才 数字が大事 「もう好きって感じやない。  いや  好きなんやけど  恋人って感じやない。  うううん  思い出かな。」 同じこと言われたぞ エイジくんに 「エイちゃんて呼ぼうかな?」 って言うと 「おれのこと  エイちゃんて呼んでええのは  高校時代に付き合うとった彼女だけや。」 クソ生意気なやつ、笑。 それにしても彼女のいる子って多いなあ バカみたい だれが? もちろん ぼくが いつだって 踏んだり 蹴ったり さんざんな目にあって それでも 最終的には 詩にして 自分を笑ってる 最低なやつなんだから ぼくは 思い出は いつだって たくさん もっとたくさん もうたくさん チュッチュルー ルー 二〇一五年二月三十一日 「光と熱」 そうだ 言葉と出合って そんな感情が自分のなかにあることに そんな気持ちの感情が自分のこころのなかに存在することに気がつくことがある 映画を見て そう思うこともある 通勤電車に乗っていて 向かいに坐った男のひとの様子を見ていて このひとはわたしに似ていると思った 女性ではどうだろうかと思って 目をつむって眠っている女性を見つめた このひとも ぼくに似ていると思った ここで 彼はわたしだ あの女はわたしだ って書けば ジュネが書いてたことの盗作になるのだけれど で ジュネはそこでまた 書くと言う行為について疑問を持ったんじゃなかったっけ 持ったと思うんだけど ぼくは別に そんなことは思わなかったし 彼はわたしだ とか 彼女はわたしだ なんてことも思わなかったのだけれど いや ちらっと思ったかな ジュネの文章を むかし読んでたしぃ でも おそらく そのときは ただ単純に みんながぼくに似ていることに気がついて 笑ってしまったのだった 声に出して笑ったのじゃなくて またすぐにその笑顔は引っ込めたのだけれど だって ひとりで笑ってるオッサンって不気味じゃん みんながぼくに似ている ときどき ぼくがだれに似ているのか そんなことは考えたこともないのだけれど まあ ぼくもだれかに似ているのだろう おそらくぼく以外のみんなが どことなくぼくに似ているのだろうし ぼくもぼく以外のみんなに似ているのだろう ときどき ぼくは ぼくになる と書けば嘘になるかな リズムもいいし かっこいいフレーズだけど で 人間だけじゃなくて たとえば スプーンだとか はさみだとか 胡椒の粉だとか 練り歯磨き粉だとか そんなものも ぼくに似ているような気がするんだけど ぼくも いろんなものに似ているんだろうな 橋や あほうどりや 机や カバンや 木工用ボンドとか いろんなものに もともとぼくらはみんな星の欠片だったんだし チッ 光と熱だ でも そのまえは? ---------------------------- [短歌]われに死地を/道草次郎[2021年1月21日18時16分] 菜の花のおしたし風にすきとほるほどな弔列春もみえずに くちびるのまわりたくさんなかつお節のよな古語の御祠 とてもながーい縦書きの文章のよな気持ちです透き通ってゆくにごりみず哉 こころゆるぎふららの穹に春雨にゃ尋めゆく我ぞ独りなりけり しなびれてしにそびれてはしにかるのケセランパサラン死地に赴く 脳のある鷹なら風花の鷹なら春は名のみの頃まで生きよ 我といふ美しき壺割りて切る血溜まりにすむうつくしき我 はるまでははるのほとけをみるまではそれまではそらあさぎ色かも ---------------------------- [自由詩]AI大統領/花形新次[2021年1月23日14時07分] 人類史上初めて 人工知能の大統領が誕生した 民衆からは AIジョーと呼ばれている 半年前にコロナ感染死した 民主党のジョー・バイデンの剥製に 人工知能を有したロボット「C-robot19」を 組み込んだものだ やや、動きはぎこちなく 人間のおじいちゃん仕様となっており 会話もAlexaと同等レベルだ こちらから「よっ大統領!」と呼び掛けないと 反応しない 会見でも数十秒間無言となるなど 課題は多いが 本格的なAI時代の到来と 世界中が注目している ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一五年三月一日─三十一日/田中宏輔[2021年1月24日14時00分] 二〇一五年三月一日 「へしこ」  日知庵で、大谷良太くんと飲みながらくっちゃべりしてた。くっちゃべりながら飲んでたのかな。ケルアック、サルトル、カミュの話とかしてた。へしこ、初体験だった。大人の味だね。帰りに、西院で駅そばを食べた。毎日がジェットコースター。 二〇一五年三月二日 「ぼくより背が高いひとがいない」  ぼくは身長がひじょうに高いので、いつも、ひとの顔を見下ろして話してることになるのだけれど、たまには見上げながら話す経験もしてみたいなとは思う。でも、ぼくより身長の高い人って、まわりに一人もいないし、道端で歩いてるひとたちも、ぼくの半分くらいの背しかないし、無理かもしれない。 二〇一五年三月三日 「ぶふう」 ぶふう ぶふう って、彼女の髪の毛のなかに息をこもらせる。 ベンチに坐っていると 向かい側のベンチで 高校生ぐらいの男の子が おなじくらいの齢の女の子の後ろから ぶふう ぶふう って、髪のなかに息をこもらせる。 そのたんびに 女の子の頭が ぶほっ ぶほっ って、膨れる。 なんども ぶふう ぶふう ってするから、そのうち 女の子の頭がパンパンに膨れて 顔も大きくおおきくなって 歯茎から歯がぽろぽろこぼれ落ちて ひみつ と呼びかける。 本棚を見つめながら 本の背に ひみつ と呼びかける。 本棚に並んだ本が聞き耳を立てる。 ひみつ という言葉が中継して ぼくと本棚の本を結びつける。 手のそばにある電話に ひみつ と呼びかける。 電話が聞き耳を立てる。 ひみつ という言葉が中継して ぼくと電話機を結びつける。 ひみつ と呼びかけると まるで、ひみつというものがあるような気がしてくる。 ええっ? そんな画像送ってきてもらっても。 人間って、いろんなことするんやなあ って いや 人間って、いろんないらんことするんやなあ って、思うた。 もうはじめてしまったものは仕方なく だれがだれだかわからない 連鎖 順番に見ていこう これは違う これは、わたし これは違う あ、これも、わたし これは? ううん、どちらかと言えば、わたしかしら? これは、わたしじゃなく、あたし これは違う これは? かぎりなくわたしに近いわたし これは、わたし これまた、わたし これは、さっきのと同じわたし これまた、わたし これも、わたし これは、たわし これは、違うたわし これは、わたし これも、わたし これまた、わたし これは、違うわたし もうはじめてしまったものは仕方なく だれがだれだかわからない 連鎖 目の前にある、いろいろなものを見て わたしと、わたしでないものを分けていく独り遊び とてもむなしいけれど コーヒーカップやマウスを手にしながら つぎつぎやっていくと けっこう本気になる遊び あ これって 友だちと言い合っても面白いかもね あれは、きみ これは、ぼく そっちは、きみで むこうのきみは、ぼく きみの前にあるのは、ぼくで そこのぼくは、きみだ ってのは、どっ? どっどっどっ? 二〇一五年三月四日 「Touch Down」  Bob James の Touch Down を聞いてたら、20才ころに付き合った、1つ上の男の子のことを思い出してしまった。朝に、彼の親が経営してた大きな喫茶店で、二人でコーヒーを飲んでた。大坂だった。まえの夜に、出合ったばっかりだったけれど、ああ、これって青春だなって思った。どんなセックスしたのか覚えてないけれど、そのまえに付き合ってたフトシくんのことが思い出される。ラグビーで国体にも出てた青年で、ぼくより1つ下だった。SMの趣味があって、彼はSだった。ぼくにはSMの趣味がなかったから、セックスは合わなかったけれど、いまでも覚えてる。かれの声、「お尻、見せてくれる?」20才くらいのときのぼくは、「やだよ」とか「だめ」とか返事したことを憶えてる。それから何年もしてたら、「いいよ」って言えるだろうけれど、笑。ふたりで歩いてたり、飲み屋のあるエレベーターに乗ってたら、若い男女のカップルとかにジロジロ見られたけど、それももう30年くらいまえの話。なんか、一挙に、思い出しちゃった。 二〇一五年三月五日 「ちょびっと」  きょうも、ひたすら屁をこいた。違う、せいいっぱい生きた。遊んだ。楽しんだ。日知庵で飲んでてかわいい男の子もいたし、いっしょにしゃべってたし、飲んでたし、笑。齢をとって、若いときには味わえなかった楽しみ方をしてる。恋はちょびっとになってしもたけど、ちょびっとがええのかもしれへん。 二〇一五年三月六日 「パンをくれ」  へんな夢を見た。外国人青年の友情の物語だ。「パンをくれという率直さが彼にあったからだ。」という言葉を、ぼくの夢のなかで聞いた。ふたりの友情がつづいた理由だ。片方の青年の性格の話だ。ふたりはいっしょに暮らしていたようだ。その片方の青年が死ぬまで。長い夢だったと思うが、はしょるとこれ。 二〇一五年三月七日 「1行詩というのを考えた。」 1行詩というのを考えた。 また転校生が来た。 また転校生が来た。 また転校生が来た。 また転校生が来た。 また転校生が来た。 また転校生が来た。 また転校生が来た。 また転校生が来た。 また転校生が来た。 また転校生が来た。 また転校生が来た。 また転校生が来た。 ‥‥‥‥‥‥‥ 1行詩というのを考えた。 羊がいっぴき。 羊がいっぴき。 羊がいっぴき。 羊がいっぴき。 羊がいっぴき。 羊がいっぴき。 羊がいっぴき。 羊がいっぴき。 羊がいっぴき。 羊がいっぴき。 羊がいっぴき。 羊がいっぴき。 羊がいっぴき。 羊がいっぴき。 羊がいっぴき。 ‥‥‥‥‥‥ 1行詩というのを考えた。 この文には意味がない。 この文には意味がない。 この文には意味がない。 この文には意味がない。 この文には意味がない。 この文には意味がない。 この文には意味がない。 この文には意味がない。 この文には意味がない。 この文には意味がない。 ‥‥‥‥‥‥‥ 二〇一五年三月八日 「ひととひとを結ぶもの、あるいは、夢と夢を結びつけるもの」  ひととひとを結ぶのは橋でもなく川でもなく流れる水でもない。水面に浮かぶきらめきだ。それは、ただひとつの夢だ。たくさんの輝きでできている、ただひとつの夢だ。ひととひとを結ぶのは橋でもなく川でもなく流れる水でもない。川底に横たわる岩と石だ。たくさんの岩と石でできている、ただひとつの夢だ。あるいは、夢と夢を結びつけているのが、ひとなのだとも言える。ひとが、夢と夢を結びつけているのだ。それは、橋でもなく川でもなく流れる水でもない。ひとなのだ。 二〇一五年三月九日 「パラドックス」  パラドックスは言葉であり、言葉があるからパラドックスが生じる。したがって、言葉がなければ、パラドックスは生じない。(2014年5月16日のメモ) 二〇一五年三月十日 「デブ1000」  塾の帰りに日知庵に行った。眼鏡をかけたおデブちゃんがかわいいと言ったら、「デブ1000ですか?」と隣にいた、常連のひとに言われて、「いや、デブ1000とは言えないかも。デブだけじゃないし」とか返事してたのだけれど、一般ピープルも、デブ1000なんて言葉を知ってるんだね。いまどき。ぼくが20代前半のときに付き合ったおデブちゃんに似てた。足とか太ももとかお腹とか顔とか、ボンボンに太ってた。 二〇一五年三月十一日 「なにのさいちゅうに、いっしょうけんめい鼻の穴に指を入れようとする」 なにすんねん! そう言って 相手の手をはらったことがあるけど そいつったら、繰り返し何度も ぼくの鼻の穴に指を入れてきて 横に伸ばしたりして 鼻の穴をひろげようとするから しまいには怒って なにどころやなくなった ひみつ 同じ言葉やのにねえ。 ひみつ というだけで すべてのものが聞き耳を立てる。 すべてのものが ぼくとのあいだに、なにかを共有する。 なにか。 きのう、帰りに 地下鉄に乗ってるときに アイコンタクトされてたのに 気がつかないふりをしてしまった。 あまりにも、むかしの恋人に似ていたのだ。 彼はぼくより2段上のエスカレーターに立って ぼくを振り返っていたけれど ぼくは横を向いていた。 先に改札を出て わざとらしく案内地図を眺めていた。 ぼくには勇気がなかった。 すべての人類から肌の色を奪う。 すべての人類から言葉を奪う。 うんうん。 そうしてくださいな。 あと、耳とか少し感じますぅw 揚子江は、どこですか? 自分以外が みんな自分って考えて その上で 自分だけが自分じゃないって 考えることができるのかどうか どだろ むずかしいね 相手のメールを読まないで はげしくレスし合う な〜んてね 懐かしいでしょ? ピコ ひみつはコップを所有する。 ひみつは時計を所有する。 ひみつはスプーンを所有する。 ひみつは本を所有する。 と書くことはできる。 意味をなさないように思われるが 書くことはできる。 書くことで、なんらかの意味を形成する可能性はある。 上のままでは負荷が大きいので 言葉を替える。 ひみつは同一性を所有する。 ひみつは差異を所有する。 ひみつは矛盾を所有する。 この同一性や差異を矛盾を わたしという言葉に置き換えてもよい。 これなら負荷はずっと少ない。 言葉の力の面白い性質のひとつに その力が、万人に同じように働くわけではないという点がある。 負荷の大きさも、ぼくよりずっと大きいひともいるだろうし まったく負荷とは感じないひともいるだろう。 意味をなさないようなものまで書くことができる。 と、塾からの帰り道に考えていた。 目にあまる たんこぶ 思いつきと 思いやりが 同じ重さで痛い 同時にごめん ふたりで並んで歩きませんか? 二〇一五年三月十二日 「ちょこっと詩論」  ちょこっと痛いのが好き。言葉もそういうところあってね。詩人なんて、言葉責めを自分にしているようなものなんじゃないかなあ。言葉で解放されるのは、言葉自体であって、詩人は苦しめられるだけちゃうかなあ。それが、ほんものの詩人であって、ほんものの詩を書いてたらね。そんな気がする。詩や詩の才能は、ちっとも詩人を幸せにすることなんかないんじゃないかなあ。と思った。詩を書いて幸せな時期は過ぎました。 二〇一五年三月十三日 「道が道に迷う」 とてもまじめな樹があって きちんと両親を生やす。 季節がめぐるごとに 礼儀正しい両親を生やす。 両親が生えてくる樹。 樹はときおり 自分が歩いてきた道を振り返る。 そこには光がきらきらと泳いでいて その間を影が満たしている。 違った時間と場所と出来事の光と 違った時間と場所と出来事の影が 樹に見つめられている。 光は薄くなったり濃くなったり 影は薄くなったり濃くなったり あった光と なかった光が あった影と なかった影が 樹に見つめられている。 見るように見る。 見るように見える。 見えるように見る。 見えるように見える。 そんなことは じつはどうでもいいことなのに ひっかかる。 ただ、よくわからないという理由だけで ひっかかっているような気がする。 ふつうだよ。 ふつうだったよ。 リプライズ ふたたび現われた A B C D E 違った時間に現われた 違った場所に現われた 違った出来事に現われた 無数の同じアルファベット 繰り返されることで、ようやく意味を持つ。 それが意味だから? 言葉だからといってもよい。 顔を歪める。 歪めるから顔なのだけれど 渡っているうちに長くなる橋 たどり着けないまま 道が道に迷う。 道が道と出合って迷っている。 ただ言葉が言葉に迷っているだけなのだろうけれど 意味が意味に迷っているだけなのだろうけれど 樹は自分の姿を振り返っていることに まったく気がつかないまま もくもくと歩いている。 「事実ばかりを見てても  ほんとのことは、わからないよ。」 「わかるって前提で、話をされても・・・」 ここには意味しかない。 だったら、がっかり。 意味しか意味をもたない? だったら、がっかり。 現実さえも ただ語順を入れ換えるだけの操作で 目いっぱい。 で いっぱい なのだけれど 自分の書いているものが よくわからないということを書くためだけに こんなに言葉をついやすなんて 余裕でストライクゾーン ほんとに? サイゴン 彼女は階段ですれ違った幼い子どもの頭をなでた。 子どもは笑った。 子どもは笑わなかった。 二〇一五年三月十四日 「カメ人間」 庭にいるカメ人間に ホースで水をかけていた。 カメ人間は 庭のそこらじゅうにいた。 つぎつぎと水をかけていった。 けさ見た夢だった。 二〇一五年三月十五日 「TCIKET TO RIDE。」 昼に、近くのイオン・モールで いつも使っているボールペンを買おうと思って 売り場に行ったら、1本もなかった。 MITSUBISHI UM−151 黒のゲルインク ぼくの大好きなボールペン 待ちなさい。 空白だ。 すべての人間が賢者になったとき 互いに教え合うといった行為はもうなされないのであろうか。 それとも、さらに賢者たちは、互いに教え合うのであろうか。 おそらく、そうであろう。 互いに、もっと教え合うのであろう。 賢くなることに限界はないのだ。 きみの考える天国には きみのほかに、いったい、だれが入ることができると言うのかね? すべてが変化する。 とどまるものは、なにひとつないという。 だから、むなしいと感じるひともいれば だから、おもしろいと感じるひともいる。 詩を書いていると、しばしば思うのですけれど 象徴が、ぼくのことをもてあそんでいるのではないかと。 ひとが象徴をもてあそんでいるというよりは 象徴が、ひとをもてあそぶということですね。 ぼくのなかに訪れ、変化し、立ち去っていくものに さよならを言おう。 ぼくのなかのものと恋をし、別れ、 また、別のものと恋をするものを祝福しよう。 ぼくのなかに訪れる顔はいつも新しい。 ぼくのなかで生まれ、ぼくのなかで滅んでいくもの。 言葉には喉がある。 喉にはあえぐことができる。 喉には悦ぶことができる。 喉には叫ぶことができる。 喉には苦しむことができる。 ただ、ささやくことは禁じられている。 つぶやくことは禁じられている。 沈黙することは禁じられている。 突然 小学校の教室の、ぼくの使っていた机の穴が ぼくのことを思い出す。 ぼくの指が その穴のなかに突っこまれ ぼくの使っていた鉛筆が出し入れされる。 ポキッ 間違って 鉛筆を折ってしまったときのぼくの気持ちを 机の穴がなんとか思い出そうとしている。 折れた鉛筆も、自分が折られたときの ぼくの気持ちを、ぼくに思い出させようと ぼくの目と耳に思い出させる。 ポキッ 鉛筆が折れたときの光景と音がよみがえる。 鮮明によみがえる。 目が 耳が 顔が 折れた鉛筆に近づいていく。 ポキッ 再現された音ではなく そのときの音そのものが ぼくのことをはっきりと思い出した。 ここで転調する。 幻聴だ。 また玄関のチャイムが鳴った。 いちおう見に行く。 レンズ穴からのぞく。 ドアを開ける。 だれもいない。 だれもいない風景が、ぼくを見つめ返す。 だれもいない風景が、ぼくになり ぼくは、その視線のなかに縮退し 消滅していった。 待ちなさい。 空白だ。 今年のカレンダーでは 6月が削除されている。 笑。 だれひとり入れない天国。 訪れる顔は 空白だ。 女給の鳥たちの 死んだ声が描く1本の直線、 そこで天国がはじまり、そこで天国が終わるのだ。 線上の天国。 笑。 あるいは 線状の天国 二〇一五年三月十六日 「家族烏龍茶」 器用なぐらいに不幸なひと。 真冬に熱中症にかかるようなものね。 もう鯉は市内わ。 もーっこりは市内わ。 通報! 南海キャンディーズの山里にそっくりな子だった。 竹田駅のホームで 突っ立って いや チンポコおっ立てて あそこんとこ ふくらませてて 痛っ。 かっぱえびせん2袋連続投下で おなか痛っ。 赤い球になった少年の話を書こうとして なんもアイデアが浮かばなかったので マジ痛っ。 二〇一五年三月十七日 「趣味はハブラシ」 何気に はやってんだって? んなわけないじゃない。 ただ透明な柄のハブラシが好きで 集めてるっちゅうだけ。 あ べつに ブラッシングが趣味じゃなく むろん元気 さかさま ときどき指先で さら〜っと触れるんだけど うひゃひゃひゃひゃ こいつ 笑ってる。 わけわかんないまま ところどころ、永遠な感じで そこはかとなく バディは エッグイとです。 体育会系のハブラシとか ちまちま 親子ハブラシとかねえ ええ、ええ グッチョイスざましょ?  素朴でいいと思います。 それだけにねえ 残念だわ。 生石鹸みたいに たいがい中身丸見えだもの。 そんなこと言って むかしの身体で出ています。 仮性だっちゅうの! ああ、宙吊りにしたい。 あがた 宙吊りにしたい。 濡れタオル ビュンビュン振り回して ミキサー 死ね! とか言って とりあえず寝るの。 二〇一五年三月十八日 「桃太郎ダイエット」 いまのままでいいのか? サバを読むって 年齢だけじゃないのね。 解決しちゃいます。 静けさの真ん中で 新しい気がする。 動悸が動機。 ほら エブリバディ わたくしを、ごらんなさい。 パッ。 ひとつ、ひっどい作品を パッ。 ふたつ、不確かな記憶を頼りにして〜 パッ。 みっつ、みんなにお披露目と よくもまあ、遠慮なく 厚かましいわね。 はやく削除してください。 おねだりは おねがいよりも難しい。 ぼくは ハサミで空を つぎつぎと割礼していく。 空は ハフハフと 白い雲を 吸い込んでは吐く。 ハフハフと 吸い込んでは吐く。 光が知恵ならば 影もまた知恵でなければならない。 Palimpsest くすくす ぼくは、噂話に 膝枕。 すくすく ぼくは、噂話に 膝枕。 機会があれば また遊ぼね。 機械があれば you know いつでもね。 「行かなくてもいいし。  こうしてるだけでもいいねん。」 好き! あつくんは? へっ なんで? おねだりは おねがいよりも難しい。 ほんまにねえ。 お友だちからでも。 二〇一五年三月十九日 「大根エネルギー」 日本語は下着ですけれど 薄着ね 笑顔に変わる ラクダnoこぶ 堂々として スキューバ・タイピング パチパチ、パチパチ トライ・ツライ・クライ 極端におしろい 旋回する田畑 最適化 ゆっくりなぐる あきらかになぐる みだらになぐる うつくしい図体で 悪意はない 傷口が開く 傷口が閉じる 悪意はない 傷口が開く 傷口が閉じる なめらかに倒れる 倒れた場所が カーカー鳴く。 足のある帽子が 床の上に分泌物をなすりつける はじける確信 肩の上の膝頭が恥じらい 挨拶の視線がしおれる様子 すべて録画 恍惚として 自分の首をしめる 有害な夜明け 波の上に波が ずきずき痛むように 重なる なじり合いながら 二〇一五年三月二十日 「全身鯛」 おれの口 こぶしがはいるんやで 言うから 右腕をそいつの口に突っこんだら あれ 肘まで えっ 肩まで 頭がはいって 胸まではいって へそのところまではいって そしたらあとは ずる〜って 全身 鯛 二〇一五年三月二十一日 「つぎの長篇詩に入れる引用」 外へ外へと飛び立つ巨大なエンジンが視界から消え 大道(オープンロード)とあなたが名づけたあの意識の橋梁の上を飛んでゆく この今だ──あなたの夢幻(ヴイジオン)がまた私たちの計器となるのだ! (ハート・クレイン『橋』四 ハテラス岬、東 雄一郎訳) ↑ もちろん、ホイットマンの引用のあとに   〇 私をわれに返す (ポール・ヴァレリー『海辺の墓地』安藤一郎訳) 「夢」が知となる。 (ポール・ヴァレリー『海辺の墓地』安藤一郎訳) 夢は、自らが自分に架け渡した橋である。 絶妙に <自らに橋懸けるあなた> よ、ああ、<愛> よ。 (ハート・クレイン『橋』八 アトランティス、東 雄一郎訳) ↑ 「自らに橋懸けるあなた」=「愛」 「愛」=「知」 こう解釈すると、ぼくの長篇詩のテーマそのものとなる。 想像が橋がける高み (ハート・クレイン『フォースタスとヘレネの結婚のために』三、東 雄一郎訳) ↑ しかし、その橋脚を支えるのは、「現実」であり、「現実の認識」である。 「きれいね、こんなにきれいなものがあるなんて」 (ハート・クレイン『航海』五、東 雄一郎訳) ↑ プイグの「神さまは、なんてうつくしいものをおつくりになったのかしら」とともに引用。 歯の痛み? (ハート・クレイン『目に見えるものは信じられない』東 雄一郎訳) ↑ 肘の関節の痛み、側頭部の電気的なしびれ、胸の苦しみ、胃の痛み、皮膚を刺す痛み 腎炎になり人工透析を受けたときのこと、腸炎での入院体験などとともに神経症と不眠症と実母の狂気についての怖れと不安について列記すること。   〇 松の木々を起こせ──でも松はここに目醒める。 (ハート・クレイン『煉獄』東 雄一郎訳) ↓ 水鳥を眠らせるのは、何ものか? 水鳥を目ざめさせるのは、何ものか? 水鳥を巣に運び眠らせるのは、何ものか? 水鳥を目ざめさせ巣から飛び立たせるのは、何ものか? それが、ぼくの愛なのか、それとも、ぼくの愛が、それなのか? Dream, dream, for this is also sooth. (W.B.Yeats. The Song of the Happy Shepherd) 夢を見ろ、夢を、これもまた真実なのだから。 (イェイツ『幸福な羊飼の歌』高松雄一訳) ↑ アッシュベリーやシルヴァーバーグの Dream の詩句や言葉をつづけて引用。   〇 一羽の老いた兎が足を引きずって小道を去った。 (イェイツ『かりそめのもの』高松雄一訳)  百丈が一人の弟子と森の中を歩いていると一匹の兎が彼らの近寄ったのを知って疾走し去った。「なぜ兎はおまえから逃げ去ったのか。」と百丈が尋ねると、「私を怖れてでしょう。」と答えた。祖師は言った。「そうではない、おまえに残忍性があるからだ。」と。 (岡倉覚三『茶の本』第三章、村岡 博訳) ↑ ヴァレリーの「ウサギが云々」とともに引用。  すべてが出合いだとするぼくの考え方について、出合いを受け取るときの心構えについて言及するよい例だと思われる。忘れず引用すること。   〇 苦労せずにすぐれたものを手にすることはできない。 (イェイツ『アダムの呪い』高松雄一訳) 努力を伴わない望みは愚かしい (エズラ・パウンド『詩篇』第五十三篇、新倉俊一訳) 誤りはすべて なにもしないことにある (エズラ・パウンド『詩篇』第八十一篇、新倉俊一訳) ↑  パウンドがイェイツと交友関係にあったこと。秘書になったことがあることを思い起こすと面白い符合である。ヴァレリーの「そもそも、ソクラテス云々」を入れるとより効果的な引用になるだろう。   〇 不運にして未来に名を持てる者たち (エズラ・パウンド『詩篇』第八十篇、新倉俊一訳) 必ず人間も死んで分かるんだ。 (ハート・クレイン『万物のひとつの名前』東 雄一郎訳) ↑  イーディーのこともあるけれど、多くの芸術家が、とりわけ、時代に先がけて才能を発現した芸術家に共通することである。生きている時代には評価されなくて当然である。その時代を超えて評価されるのであるから。だから、「すべての顧みられない芸術家」に、「いま現在においては認められていない芸術家」に、このことは、こころにとめておいてもらいたいと思っている。  二〇一五年三月二十二日 「ハート・クレインの『橋』の序詩『ブルックリン橋に寄せて』の冒頭の連の翻訳について」 How many dawns, chill from his rippling rest The seagull's wings shall dip and pivot him, Shedding white rings of tumult, building high Over the chained bay waters Liberty─ (Hart Crane. To Brooklyn Bridge) 幾朝、小波の寝所に冷えとおる 鴎の翼は急降下、錐揉みさせて 白い波を投じつつ、鎖で囲われた 湾上高々と「自由」を築き接ぐや─ (ハート・クレイン『橋』序章 ブルックリン・ブリッジに寄せる歌、森田勝治訳)  これは、『ハート・クレイン『橋』研究』にある、森田さんの訳なんだけど 原文に忠実な訳は、この人のものだけだった。どこの箇所に関して言及しているのかといえば、2行目である。ほかの訳者の翻訳部分を書き並べると かもめの翼は さっと身をひたしては旋回に移ってゆくことだろう (楜澤厚生訳) 鴎は翼に乗って、つと水をかすめては旋回し、 (川本皓嗣訳) 鴎は翼で躯(からだ)を浸し舞いあがってゆくのだろう、 (東 雄一郎訳) 鴎は翼で?を濡らし 回転する (永坂田津子訳)  原文に忠実な訳であり、詩の大切なイマージュを翻訳しているのが、この箇所に限っていえば、森田さんの訳だけであることがわかる。ぼくが英語の詩や小説を読んでいて、もっとも自分の詩句のためになると思う書き方の一つに物主語・抽象的事物を主語にしたものがある。日本語で考えるときに、なかなか思いつかない発想なのだった。いまでは、もうだいぶ、操作できるようになったのだが、それでも、やはり、英文を読んで、まだまだ新鮮な印象を受ける。この2行目の箇所が、そのさいたるものであった。森田さんの注釈がまた行き届いたもので、たいへん読んでいて楽しい。この2行目のところの注釈を書き写すと 1. 1 “his”: は“him”(1.2)と共に鴎のこと。だが朝早くから寝呆け眼で出勤する人でもあり、次の行でカモメが空に舞い上がるが、そうは表現されておらず、翼がカモメを振り回す。寒い寝床で強ばった体が翼に引き回されれば解れるか。鳥に翼があるように、人には明日を夢見る向上心があるから、それに書き立てられて吹き晒詩の冬の橋も渡る。 1. 2 “The seagull's wings ”: これは、橋のケーブルが織り成す翼の形とも重なる。 1. 3 “white rings of tumult”: カモメが空に描く「心を掻きたてる幾重なす白い輪」、または「騒々しい白がねの響き」とでもするか。白い鳥の描く軌跡に音を聞く(共感覚、後述。“Atlantis,” 11. 3-4の項参照)。あるいは 〈ring〉を私利私欲のために徒党を組む政治ゴロの集団(例えば1858年から1871年にかけてニューヨーク市政を牛耳ったTweed Ring のような)と考えても面白い。実際この橋の建設には膨大な闇金のやりとりがあって、ローブリングを悩ませたという。(…)  あまりにも面白過ぎるから、2行目以外のところもちょこっと引用したけれど、森田さんの注釈は、ものすごく興味深い記述に満ちていて、それでいて、詩句の勉強にもなるので、マイミクの方にも、強くおすすめします。買って損はしない本だと思います。病院の待ち時間の3時間で、5,60ページしか読めなかったけれど、原文と比較しながらなので、まあ、そんなスピードだったのだけれど、帰ってきてからも読みつづけています。ポカホンタス、出てくるよ、笑。ずっとあとでだけど。東 雄一郎さんので、全詩を翻訳で読んだけれど、ハート・クレインは、すばらしい詩を書いているなあって思った。  ちなみに、この2行目から、つぎのような詩句を思いついた。  たしかに、自分の知恵に振り回され、きりきり舞いさせられるというのが、人間の宿命かもしれない。どんなに機知に長けた知恵であっても、そこに信仰に似たものがなければ、すなわち、人間の生まれもった善というものを信じることができなければ、あるいは、人間がその人生において積み重ねた徳を信じることができなければ、知恵には、何ほどの値打ちもないものなのに。  そう思う自分がいるのだけれど、しばしば、言葉に振り回されることがある。思慮深く対処すれば、その言葉の発せられた意図を汲み取ることが容易なはずなのに、浅慮のせいで、対処を誤ってしまうことが多いような気がする。  しかしながら、あまりに深く思考することは、沈黙にしか?がらず、ふつう、人間は、浅慮と深慮のあいだで、こころを定めるものである。偉大な精神の持ち主だけが、そういった精神の持ち主の言葉だけが、深慮にも関わらず沈黙に至ることなく、万人のこころに響く、残りつづけるものとなり、後世の人間を導くものとなるのであろう。言葉と書いたが、これを魂と言い換えてもよい。 二〇一五年三月二十三日 「トライアングル・ガール」 トライアングル・ガールのことが知りたい? じゃあ、そのペンでいいや。 それでもって、彼女の顔をたたいてごらん。 チーンって、きれいな音がするじゃない? それだけでも、すてきだけれど きみがリズムをきざんでごらんよ。 世界が音楽になるから。 トライアングル・ガールたち 彼女たちが顔を合わせれば 蝶にもなるし葉っぱにもなる 蝶になれば、追っかけることもできるさ 葉っぱになれば手に触れることもできるさ トライアングル・ガールたち 彼女たちが顔を合わせれば 花にもなるし蜜蜂の巣ともなる 花になれば、香りもかげるさ 蜜蜂の巣ともなれば蜜が満ちるのを待つこともできるさ トライアングル・ガールたち 彼女たちが並ぶと 波にもなるし 鎖にもなる 波になればキラキラ輝くさ 鎖になれば公園で遊んだ記憶を思い出させてくれるさ トライアングル・ガールは ぼくのかたわらのボーイフレンドの喉にもなるし ぼくのボーイフレンドのくぼめた手にもなる 彼女はあらゆるものになるし あらゆる音にもなる トライアングル・ガール 彼女の三角の顔を見てると 幸せさ 公園のブランコで ブランコをこいでる トライアングル・ガール 顔のなかを風がするする抜けるよ 飛び降りた彼女の顔に まっすぐ手を入れると 手が突き抜ける あらゆる場所に突き抜ける 二〇一五年三月二十四日 「知恵」 なぜ、地獄には知恵が生まれて 天国では知恵が死ぬのか。 地獄からは逃れようとして知恵を絞るけれど 天国からは逃れようとして知恵を絞ることがないからである。 二〇一五年三月二十五日 「歌」 まったく忘れていたのに さわりを聴いただけで すべての部分を思い出せる曲のように きみに似たところが ちょっとでもある子を目にすると きみのことを思い出す きみは ぼくにとっては きっと歌なんだね 繰返し何度も聴いた これからも 繰返し何度も思い出す 歌 二〇一五年三月二十六日 「なによりもうまくしゃべることができるのは」 手は口よりも、もっと上手くしゃべることができる。 目は手よりも、もっと上手くしゃべることができる。 耳は目よりも、もっと上手くしゃべることができる。 二〇一五年三月二十七日 「ハート・クレイン」 聖書学を教えてらっしゃる女性の神学者の方が ぼくを見て、「お坊さんみたいと思っていました。」 と、おっしゃられて、このあいだ、帰りに電車でごいっしょしたのですが アメリカに留学なさっておられたらしく そのときの神学校が左派の学校であったらしくて ゲイとかレズビアンの先生がカムアウトしてらっしゃって ぼくがゲイということも、「わたし、さいきん、まわりのひとが ゲイだとかレズビアンだとかいうことを公言するひとがたくさんいて ふつうって、なんなのだろうって、もう、わからなくなってきました。 でも、その告白で、彼や彼女の、なにかが、それまでわからなかったところが 腑に落ちたようにわかった気がしました。」 とのことでした。 それから、先生は映画が好きとおっしゃったので、ぼくと映画談義に。 きょうも、ハート・クレインの詩集を。 『『橋』研究』を、このあいだから読んでいて とても詳しい解説に驚かされている。 ほんものの研究書という気がする。 原文の語意や文法解説もありがたいが クレインの触れたアメリカの歴史的な記述や クレイン自身の日記や、身近な人間のコメントも収録していて こんなにすばらしい本が1050円だったことに、あらためて驚く。 本の価値と、金額が、ぜんぜん釣り合わないのだ。 すばらしい本である。 湊くんは、持っていそうだから あらちゃんには、すすめたい本である。 はまるよ。 パウンド、ウィリアムズ、メリルに匹敵する詩人だと思う。 二〇一五年三月二十八日 「みんな、犬になろう。─サン・ジョン・ペルスに─」 みんな、犬になろう。 犬になって、飼い主を 外に連れ出して 運動させてあげよう。 ときどき、かけて 飼い主を、ちょこっと走らせてあげよう。 家を出たときと ほら、空の色が違っているよって わんわん吠えて教えてあげよう。 みんな、犬になって 飼い主に、元気をあげよう。 ひとを元気にしてあげるって とっても楽しいんだよ。 みんな、犬になろう。 犬になって くんくんかぎまわって 世界を違ったところから眺めよう。 犬のほうが 地面にずっと近いところで暮らしてるから きっと人間だったときとは違ったものが見れるよ。 尾っぽ、ふりふり 鼻先くんくんさせて みんな、犬になろう。 犬になって その四本の足で 地面を支えてやるんだ。 空の色が変わりはじめたよ。 さあ みんな、犬になろう。 犬になって 飼い主に、元気をあげよう。 飼い主は、だれだっていいさ。 ためらいは、なしだよ。 犬は、ちっともためらわないんだから。 二〇一五年三月二十九日 「金魚」 きみの笑い顔と、笑い声が 真っ赤な金魚となって 空中に、ぽかんと浮いて ひょいひょいと目の前を泳いだ。 コーヒーカップに手をのばした。 もしも その真っ赤な金魚が きみの喉の奥の暗闇に きみの表情の一瞬の無のなかに 飛び込み消え去るのを ぼくの目が見ることがなかったら ぼくは、きみのことを ほんの一部分、知っただけで ぼくたちは、はじまり、終わっていただろう。 コーヒーカップをテーブルに置こうとする ぼくの手が 陶製のコーヒーカップのように かたまって動かなかった。 真っ赤な金魚の尾びれが 腕に触れたら 魔法が解けたように ぼくは腕を動かすことができた。 目のまえを泳いでいる きみの笑顔と、笑い声が ぼくの目をとらえた。 二〇一五年三月三十日 「きみのキッスで」 たったひとつのキッスで 世界が変わることなんてことがあるのだろうか。 たったひとつのまなざしで 世界が変わるなんてことがあるのだろうか。 たったひとさわりで 世界が変わるなんてことがあるのだろうか。 あるんだよ。 あったんだよ。 きみのキッスで、世界が一変したんだ。 あるんだよ。 あったんだよ。 きみのウィンクひとつで、世界が一変したんだ。 あるんだよ。 あったんだよ。 きみのひとふれで、世界が一変したんだ。 二〇一五年三月三十一日 「ぼくの道では」 泥まみれの ひしゃげた紙箱が 一つの太陽を昇らせ 一つの太陽を沈ませる。 ヴァリアント 泥まみれの ひしゃげた紙箱が かわいた 泥まみれの ひしゃげた紙箱が 一つの太陽を昇らせ 一つの太陽を沈ませたのだ。 ヴァリアント 泥まみれの ひしゃげた紙箱が いくつもの太陽を昇らせ いくつもの太陽を沈ませる。 ---------------------------- (ファイルの終わり)