田中修子のおすすめリスト 2020年11月7日23時59分から2021年1月22日3時09分まで ---------------------------- [自由詩]Avanti/服部 剛[2020年11月7日23時59分] 詩人の友の「活動二十周年」を祝う 朗読会に出演した   それぞれの闇を越えて、再会を祝う ステキな言葉の夜だった  トリの朗読をした彼が 最後の詩を読んだ後 客席の後ろにいたほろ酔いの僕が  頭と頭のすき間から 「あんこ〜る」の声を届ければ  会場に手拍子は高鳴り 「しょうがないなぁ」と照れながら 彼はもう一篇の詩を、手にした  その朗読で彼は 若くして世を去った詩人を惜しみ説教をした 「死んじゃうってことは、才能がないね」 「生きてるってことは、可能性だね」 それは金八先生を彷彿とさせる 語りであった やがて朗読ライブがはねて もう一人の出演詩人と、三人で 高田馬場のうまいラーメン屋の カウンターに肩を並べ 味噌ラーメンにニンニクを少々入れて レモンサワーをごくり、とやった 帰り際の交差点で 二人の肩に手を置いて 「三本の矢って、折れないから  僕もがんばるからさ」 そう言った後、僕が以前に 「ぽえとりー劇場」という朗読会の司会をした BensCafeの跡地へ行き ひとり佇んでいた (懐かしい、言葉の夜の賑わいと  もういない幾人かの詩人の面影を視ていた) コロナ禍の二十三時 すでにシャッターは下りていた 現在の店の名前は「Avanti」 暗がりに光るスマホで 僕は電子の辞書を引く 気づくとなぜか しょっぱいものが目に滲(にじ)み、拭いていた 「Avanti」 前へ、前進、もっと先へ   ---------------------------- [自由詩]本当なら入院してるのお前の方だろ/板谷みきょう[2020年11月8日0時54分] 小学校の時 転校してきたボクは ヒョロヒョロの 末成りの青瓢箪だった クラスで仲間外れに されない為に 必死でお道化ることを 覚えて剽軽者になる道を 選んだんだ タッカは スポーツ万能で 背は高くないけれど 山椒は小粒で ぴりりと辛い そんな男子だった 運動ができるということは 女の子に モテルということだ 勉強ができたり 剽軽が注目されて 人気者になれるのは 小学校時代で 終わってしまう 中学に入っても スポーツ万能の人気は 同じだった タッカは 背が低いのに バスケット部で 大活躍して ボクは 兄の影響で 合唱部に入った 最初は 「君がモトー君の弟かい?」と 注目された けど それだけだった タッカは 早くに父親を亡くし 母親との暮らしを守る為に 学校を中退し 働き始めて 接点は無くなっていた 歌うことだけでは 暮らしていけない現実に 生活の為 精神病院で看護師として 働き始めた頃 閉鎖病棟で タッカと 再会したのだった ---------------------------- [自由詩]怨念の赤い糸/ただのみきや[2020年11月8日14時36分] 湿度計 乾いた悲哀に触れる時 こころは奥から浸みてくる 湿った悲哀は跨いで通る 乾いたこころが風を切る 〇〇主義に痴漢する  ? 知識は雄弁であり 知恵は寡黙である 知識は言葉でしか示されず 知恵は行動でしか示せない 知恵も知識もなんのその 愚者は雄弁で行動的 歴史は時々それを賢者や英雄へと呼び変える 歩がト金に成る以上 イカサマにも寛容で 評価の数がすべてを決める 民主主義とは 自らが主役だと思って疑わない大群衆を 上手に踊らせる者が所有する豪奢な庭園 ? 思想くんは苦行者 彼を慰めて苦痛を紛らわすのは理想さん 二人はティーンエイジャーのカップルみたいに べったりいつも一緒だったけど 悲しいかな 蒸発するのはいつも理想さんの方 人は神の子にはなれない だからと言って蟻にもなれない 宗教はアヘン 然り 共産主義はエタノール 労働者は酒場で夢を見る 雲 雲を眺めていた 良いことのように思えた 海や山を眺めるのと同じように 無垢な心持ちの気がして 比較するものがなければ 綿菓子みたいに掴めるが こう山の上を流れていると 今更ながらでかさに呆れてしまう 人が雲に乗ったところで 地上からは見えはしない 天使のような子どもが手を振ろうと 死んだ祖父母がにっこり笑おうと 恐ろしいほど人は小さい あの綿菓子を覗くには 望遠鏡より顕微鏡 等身大の夢を探索するミクロの決死圏 雲を眺めていた 良いことのように思えた だが良し悪しはいつも後出しで そうしたかった それで十分 羽根 小鳥たちの官能と 黴のように青い月の頬骨 鼻腔を満たした霧の朝 枝分かれした時の先端で 手袋をしたままの雄蕊と雌蕊が発火する 誰かが言葉を投げつけると それは雪玉みたいに大きくなった 叫びながら後を追うサッカー下手のデモ隊を 素早く過去へと押し流す 水洗トイレから逃れるための箱舟工作 不眠症の脳は相変わらず空を浮遊し 粉砕された頭蓋の堆積からなる氷の大地に 舞い降りた一羽のオウムの錯乱と 黒塗りの神話の朗読劇を見下ろしている それが詩人であれ先史時代のラジオであれ 極めて内向的な幽霊であれ 記号の指輪と記号のピアスと 空気を揺らさない呪文で繋がった 虚構的都市生活では鴉の迷惑行為にすぎず 抹殺する手間暇と天秤にかけられたまま 静止的識別を得ようとすることで増していく 眩暈の中で ふと靴の先に見つけられてしまう 抜け落ちた一本の羽根の黒の青さ おんねん芸者 首から上がない着物姿の女が酌をしてくれる 盃は透明でわたしの不安な指先が形作っていた 女の手はことさらになめらかで 女形のように白く科をつくる 酒を注がれる度意識はフラッシュを焚かれたよう 一瞬の心神喪失を引き起こす 短い眠りの合間の夢から覚める瞬間に似ているが 夢ではないから覚めようもない ――まるで三々九度だ まめまめしく酌をされる度 無言の落雷 脳は白熱球になり フィラメントが焼き切れる 女は面白がっているのか止めようとしない だがそこには何の啓示もなく むしろ 誰かの啓示のための挿絵にでもなったようで 入子状の黴臭い笑いが奥の方でカタカタ鳴るのだ 首もないのに女の笑いもそれとなく膝に零れて 真っ赤な情念を散らした後の 満ち足りた諦念を醸している 一本松 呻きが樹皮を裂く 思考と情念を袷に縫い上げてゆく 娘の 白く縺れ合う蛇のような指先に懸想した 片端の翁の顔が 朝の光を陰と陽に振り分る 浮き立つものは雷を流す溝か 千年を超えて燃え上る松明よ 拷問の渦中に大気へ射精せよ ポプラ 赤子の唇に触れる指の重さ いま光は睫毛をみな寝かせてしまう 蜜柑ひとつ額に乗せて ボールの疎らな心音 置き去られた影のように 建物の中を逃げ惑う鳥 老人たちの朴訥なテニス その向こうには一本の樹が 黄色い蝶で埋め尽くされ 眩しくはためいている 脳が内から冷たく焦げてゆく                    《2020年11月8日》 ---------------------------- [自由詩]すときのあとい/トビラ[2020年11月11日10時56分] これなにかなって? 笑いあう くちびるふれあせて あたりまえのように 名前を呼んで、呼ばれて つながった心つながったままで 終わりなんだな 思うほどに 君を想うよ 崩れ落ちる日々に 体がついていかない なけなしの人生をはたいても 届かない 自分を埋めて願うよ 君の幸せ なにも埋め合わせられなくて、ごめんね ---------------------------- [自由詩]天球/トビラ[2020年11月12日18時19分] まぶしい日々が体を通り抜けて、さみしさに追いつけない。約束のブーケをつないでくれた命の舟に、壊れていく今日が降りそそいで。心の目が開いていって、お日様に目を合わせる。 とまらない花束の祝福がそえられる今日は、いつか今、こらえて今日の、割れた宝箱。その内側からあふれだす虹が、運命をそめていく。 恋人の前で頬をそめる赤。教室で笑いあう橙。ハイタッチにきらめく?。草原で編まれた緑。空から生まれた青。抱きよせあって息をはく藍。お茶の間にすえられた紫。 交わした言葉、結んだ約束、つないだ手が光る。だから、地球の想い出を大切にしまって歩みだす、今日も。 ---------------------------- [自由詩]ゆめうらら  (田中修子さんの詩『はなうらら』への返詩です)/トビラ[2020年11月13日12時31分] 死に場所を夢みていたのかもしれない 自分を残さないくらい燃やせる焼却地を 花びら、はがれれば、火花にきらめく 灰になれよ、青春 火傷の焼跡、はがれないくらい 焦土と化せよ 生焼けの夢、炭化するほど 燃やせよ 天使の花蜜ふりまいて 金橙の焔ごうごう 胸を裂いて鮮血で、讃えて 涙の降る夜 疲れはてて眠るやすらか 夢をみたんだ 逃げていたんだ 目が覚めて、痛んだ胸が咲いて 鳴りやまない 鼓動は子どものように弾んでいたんだ 認められない 認めたい想いが宝物だったんだ 何も残らない きれいな余白があったんだ 夢を占う ゆめうらら 夢を占い ゆめうらら ---------------------------- [自由詩]足音のひとつひとつ/帆場蔵人[2020年11月18日1時43分] あしおとをきいてみよう どすどす おこってるのか ばたばた あわててるのか とたとた かわいいあしか ちりとてちん らくごかさんかな ちどりあしの よっぱらい  ずんずんずん つまがくるぞ  いちもくさんに  にげだしてみたけれど ぼくにはつまがいなかった つまがない いやいや つまらない あしおと もうひとつ あしおとがあれば おどってるみたいになるのにさ ひとりのあしおとは さみしい ---------------------------- [自由詩]太陽が地の果てから昇る/トビラ[2020年11月19日6時32分] ほしかった果実や花 手にした人を見ては ほしがって、苦しんで 理想郷は遠く、悪態をつく間もなく 暇もなく隙きもなく埋めた感情 苦しみは、声にできない叫び上げて 誰にも知られないよう焼けただれて 出社しては笑顔であいさつする、朝 無価値さに耐えて 無意味さに疲れて 泣くことすら忘れて 笑う 打ちのめされた日々のはてに気づいた自分は 理想郷にはほど遠く けど 理想を体現しはじめてきて 埋めた感情の芽吹きを感じて 終わってたと思ってたものは はじまってもいなくて これからの自分に希望を感じる 周りを見れば 手にしていた果実を食べ尽くして 花はしおれて枯れて 途方に暮れてる人たちの群れ これからまた花をつけて実を結ぶのは可能なのかな そう思ってもできることもなく うなだれた人たちは動けずにうめいてる 自分をふりかえって 自分の中に埋めた感情の拍動を聞いては まだ行ける ふと見ると、他にも歩き続けている人たちはいて 燃やしつくしていない未来に 燃やしつくせない想いぶつけてる ああ、そうか、これでよかったんだ うなだれながら転がる人たち 灯火をたやさずに歩き続ける人たち 今だけでは測れない明暗が 誰にもあって うなだれている人たちもまた立ち上がる日が来るのだろうか 灯火をたやすことはあるのだろうか わからない わからないままに歩き続けて 太陽が地の果てから昇る ---------------------------- [自由詩]労働傘下/トビラ[2020年11月21日6時49分] 作業服着こなして 流れる汗はそのままに 始める業務はつまらない なんて思うほどに笑えてくる 淡々とこなす作業 先の見えなさ膨大 やればやるほど増えてく、なぜ? 仕事をしてもしても終わらない というところで、就業時間終了 また明日で、お疲れ様 終わらない業務、しかたない キャパオーバー 仕事多すぎ、現場はパンク 人が少ない、回らない もちろん、給料は、あははは 仕事、帰宅、出社、仕事、帰宅、出社、仕事、帰宅、 帰宅したいな 代わりにやりたい人は少ない 代わりにしてくれる人はほぼいない 毎日が地獄と同義語 ま、地獄の最下層は天国の最上層につながる なんて、強がり自分に言い聞かせ 仕事だ、仕事、三倍持ってこい 出来る量は限られるけど ---------------------------- [自由詩]雨に歌う/トビラ[2020年11月23日6時57分] 壊れた想い、思い思いつなげた朝の 優しい雨 あびていく今日は宝物 とりとめもなくつぶやく 音符のように雨音は弾(ひ)く 穏やかな憂い 憂い、嬉しい、目を伏せて ふりむく、落ちる、涙、雨 雨、雨、優しく流れ 嘘も洗い流す 雨に?かれた素肌さらし 今日の、今日も、生きてゆく ---------------------------- [自由詩]君を願う/トビラ[2020年11月24日9時08分] 話したいことがあったんだ もう忘れちゃったけど あげたいものがあったんだ もう失くしちゃったけどさ 話したかったな あげたかったな なんでもない小高い丘で 落ちてく夕暮れに 見守られながら 心を埋めた 涙を箱に納めて 深く掘った穴に埋めた 笑顔を外して 山の祠(ほこら)にそっと供えた 君に幸せがあるように 山の麓(ふもと)で腰かけて 空っぽになって願う ---------------------------- [自由詩]お空の言葉/トビラ[2020年11月28日12時55分] お空 お空を見る 透き通った青 僕の心 ほんとうにほしいもの 夜明け 澄み切った青 終わらない世 もらった命 大切なんだ だってさ こんなにも 愛おしいんだ ほんとうに ほんとうに 愛しくて 愛おしくて 泣いてもさ 転がってもさ やっぱりはじめちゃう うん 好きなんだ 言葉が好きなんだ ---------------------------- [自由詩]孤独な夜を歌う/トビラ[2020年11月29日23時25分] ああ、全(まった)き一人 差し伸べる手も 星の息吹き 呼吸を 息を合わせ 手を合わせ 心合わせ 顔を合わせ ふるわせ 夜の果て 片隅 今ここにある光の柱 御光(みひかり) あきらかなる月 威月(いつき)(樹) 朧雲 星雲の落とし子 夜の安らかな波 ひとひらの永遠 秘密を紐とく 一人の一時(ひととき) ---------------------------- [自由詩]人間は美しい/花形新次[2020年12月14日23時29分] 例えば夏の夕暮れに 線香花火を眺める若い男女は それだけで美しいので そのままで固まっていて欲しい 一歩もその枠組みからはみ出すことも 言葉を交わすこともなく ずっとそのままでいて欲しい 雨のバス停でオレンジ色の傘を差しながら 川端康成のみづうみを読んでいる少女は 濡れた黒髪と白い肌の今が一番輝いているので そのまま一枚のポートレートになって欲しい 誰にでも最高と言える瞬間がある だけどほとんどの人がそれに気付かずに 色褪せてくすんで汚ならしく ショボくれていく 私は人間が嫌いだが その瞬間のその人だけは とても愛することが出来る 私が愛した瞬間を描き留めたとき その人には 瞬間を汚さぬように 消えてもらうことにする そうすることで 美は永遠となり 私は愛溢れる人となる ---------------------------- [自由詩]永遠を頭上へ/中田満帆[2020年12月17日18時14分]  指を、  むすんで、  膝を、  ひらいて、  まだ足りないと、  いやいやをする子供ら  頭のうえにつくった輪っかに  映像がひらく  神になれなかったもののために、  洗礼盤をうち毀すひとり農夫  (わたしは手斧にいったんだ、おまえにできるのはそれだけのことと)  そしていっぴきの犬が  雨とかぜに荒らされた、  土から土へと、  移ろい、  そして眼をつむって、  永遠を頭上へ、  据える    手を、  たたんで  頭を、  閉じて、  まだ語らないと、  いやいやをする大人たち  夢の隠語にあきたらず、  永遠の隠語を求め、  マーケットの棚から、  映像をギって来る  ひとになれなかったけもののために、  血の臭う室のかたすみで、  ひとりの男が、  さらに弱いけものを屠っては、  進入禁止をやぶる  (おれはおれにいったんだ、おれにできるのはそれだけのことと)  町から町へと、  移ろい、  そして閉ざした心が贋物だったというだけの理由で、  腕をふって、野性を謳い、  永遠を頭上へ、  かかげる。 ---------------------------- [自由詩]あるはずの体/はるな[2020年12月18日23時52分] あるはずの体を あるはずの記憶で 建てなおす あちこちにゆがんだ寂しさをもち ありふれた色に懐かしさを覚える 吹けば飛ぶような思想を傘にして いったいこの灰色の粘土細工の どこに芯があったのか はっとするほど重みのない けれどもたしかに触れることのできる ---------------------------- [自由詩]剪定/一輪車[2020年12月22日9時21分] ちぎれた空に 雷鳴が轟くころ 辺境の朽ちた博物館に わたしたちの名札が 置かれる 頭蓋に穿孔のあるapeたちの骨のさまざまな見本 そして 最期に 口蓋に ぶらさがった胃の干物が飾られている (ふふふ (あはははは じぶんでじぶんを 食べてしまったあげく 口と胃だけが残ったのだ すっかり草に覆われた 家やアパートに電報が届き 雨風が窓を叩く さあ、出ておいで 灯の消えた家々をうかがうように 囁くものたち さあ、出ておいでよ 疫苗(ワクチン)を打ってあげるから さあ 美しい衣装をまとった 口と胃だけのものたちが 闇を覗く わたしは 壁で囲まれた部屋にいて クレヨンで 玄関を描いてる そこから 出ていこうとしたのだが 壁は とてもかたい それで しょうがないから 床に湯舟をえがき そこにゃがんで ひたすら 陰謀論を読んでいる 夕食のおかずは 歌を忘れたカナリアの串焼きだ ---------------------------- [自由詩]低愚脳詩集/道草次郎[2020年12月24日20時58分] 低愚脳詩集 1「だろう」 こころがはじまるときは 朝のようだろう こころがおわるとき 夜のようだろう 昼はいまだ だから あかるいんだろう 2「なるようになる」 つぎはプランクトンだ プランクトンになったら個性なんて気にしない プランクトンのつぎは細菌 細菌なんて何がなんだかわからんだろう 細菌のつぎは原子 原子なんて有ればいいんだ大したことは無い 原子のつぎはクォーク クォークのつぎはひも ひものつぎはさあ何だろう なんでもいいや なるようになるんだもん 3「猫釣り」 コーンスープに 焼いたフォカッチャひたして食べたい 寒い北風吹くこんな夜は そんなムクムクした気持ちになるものだ クリーム色のテーブルクロスの上で 猫のみゃーと遊ぶ 玩具の魚つけた釣り糸たらして みゃーをつる 食らいついた、みゃー ぶら下がって離さない、みゃー 赤色が伸縮する 橙色が凸凹する みゃーは まだ、ぶら下がったまま 4「色曜日」 月曜日、空は紫 火曜日、空はピンク 水曜日、空は黄色 木曜日、空は緑 金曜日、空は真っ白 土曜日、空はオレンジ 日曜日、空は青 だったらいいな、と思った 5「東山魁夷の絵」 めり込んだ命が逆さにぶら下がる 路程に sympathyを感じ 手網をひく えい ヤ っと 未明 駆け抜ける純白な駿馬 風の如し 6「なんだこの退屈な詩は」 身を横たえていても 不安な時もある 逆に 嵐の中にいても 安心な時もある 心って 不思議だ 心を御することができたら こわいものなしだ こんな不思議なものが 不思議でないものからできているとしたら それはじっさい もっと不思議なことだ だから 思うけれども 不思議でないものなど ないのだ あってもなくても だってどの道 不思議なんだもの 7「鹿渡り」 バラモンの 木の椀 柳に おちる小雪 耳で 河を渡っていく鹿 乳がゆ も 仏陀も 生まれない惑星 で 8「当たり前」 ただ生きているだけでいい ただ存在しているだけでいい 存在していなくてさえ いいのだから 9「四季」 夏。 草が そよそよと 軽くなることを まず 思い出そうとして いた 秋。 麦わら帽子の 黒ずんだ紐をあらって 暗くなるまで サンショウウオの事を 考えたりして いた 冬。 ツキノワグマの 親子と 出くわし 談合 した 春。 剥離剤で 指紋を消して 惑星で一番素晴らしい 夕焼けを みた 10「無題」 時は間違いだらけで過ぎていった ある時は 何本もの錯綜した脚がせわしくタップダンスを踊るかのように またある時は能の演者の一足目の踏み出しのように どの時どの場面で踏み間違えたかはもう分からない しずしずと今は筆箱の中を整頓している 出来ることはひどく限られている絶望を寄せ付けないように 脇の下にいつもニンニクを挟んでいる 詩を書こうにも その才覚がなく 詩と散文の領分を弁える謙虚さもない 11「ロカンタンてだれ?もしくはなに?」 ロカンタンは 何を言いたかったんだろう 世紀はこのあとも 世紀の上につもってしまうのに ---------------------------- [自由詩]ぶろっさむヨシノそめい/秋也[2020年12月26日19時33分] 桜の匂いが薄れてきた 玄武岩質溶岩 ロープ 太い幹 遠足の準備は万端だ 日本酒に金箔を入れて 瓶の中でひらひら 朱合漆 盃カラカラ 殿様右手をひらひら 「苦しゅうない」 ソメイヨシノは赤い丸 白地がまた美しいんだ まだ死んでいないのに鼻が利かない 満開なのに 「ああ、櫻の匂いがずいぶん薄くなったか」 現代か過去か未来なのか 揺れた遺骸は軽くて重い 波間に漂う軍靴の生き様 遠い遠い花の匂いを幽か辿って 生きよ生きよただ愛せ 愛し万象と往け ---------------------------- [自由詩]Slow Boat/服部 剛[2020年12月30日23時19分] この街には 音のない叫びが無数に隠れ 僕の頼りない手に、負えない  渋谷・道玄坂の夜 場末の路地に 家のない男がふらり…ふらり 独りの娼婦の足音が、通り過ぎ  酔いどれた僕の足音が、通り過ぎ 男の潤んだ赤いまなざしから 一瞬、僕は目を逸らす 人の傷みも背負えずに 自分の傷口が少々沁みる夜には、せめて 絆創膏(ばんそうこう)をぺたりと、心に貼って 生ぬるい夜風の撫でる 道玄坂の人波を下りてゆく 思い出すのは十年前、この坂を歩いた 酔いどれの目線の先に思い浮かべた  あの輝ける不可思議少年という詩人の姿  若き言葉の旗手だった彼は もう世にいない この街には 無数の叫びが隠れ 頼りない僕の手には、負えない  だけどたまには思い出したように この街角で仲間と落ち合い  カウンターに肩を並べるくらいはできる 昔の詩人は言った 「心に少し、余分な場所を」 今日、僕とあなたがこの世界で出逢った 素朴な奇跡を祝い 互いのグラスを重ねれば  頬の赤らむ夜更けには あの丸いお月様を乗っけた 葉っぱの舟が ゆっくり…ゆっくり 明日へ漕ぎ出してゆく   ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一四年十三月一日─三十一日/田中宏輔[2021年1月3日17時32分] 二〇一四年十三月一日 「宝塚」  18、9のとき ひとりで見に行ってた 目のグリーンの子供と母親 外国人だった 子供は12、3歳かな きれいな髪の男の子だった 母親は栗色の髪の毛の、34、5歳かな 宝塚大劇場に、ひとりで行ってたとき ときどき行ってたんだよ 斜め前の席に坐ってた子供が 自分に近い方に 宝塚の街のことは、隅から隅まで知っていた いろんなところ、ぶらぶらしてた あれから何10年経ったろう もしいま宝塚の街を歩いてみたら ぼくの傍らをすれちがっていく 笑い声に出会うだろう それはたぶん きっと あの宝塚の街を通りすぎていく 風だったのだろう 二〇一四年十三月二日 「さつき」 22、3のときのことだった ぼくの住んでいた長屋の斜め向かいの家の 女の子 11歳 (男の子3人と、女の子1人なので、あずかっていた。寝泊りしていた。) この子と、向かいのスナックのママの娘 12歳 この2人を連れて あるさつきの季節に 夕方 東山の霊山観音のぐるり 前いっぱいにライトアップされていた さつきが咲き乱れていた この光景は、1生忘れないでおこうと、こころに誓った 二〇一四年十三月三日 「靴」  27のとき 忍び逢い という名前のスナックを経営していた そのとき 京都女子大学の女学生と知り合った その女子学生は 店に聖書を売りにきたのだった 気のいい女の子で、2人で食事をしたり、喫茶店で話をしたり デートした この子が、自分の近所の17の女の子を ある日、連れてきた その娘も、めちゃくちゃかわいい女の子だった 名前はたしか優ちゃんだった 芦屋に住んでいるのだが、きょうは京都に遊びに来たの、っていう 3人で南禅寺に行った 南禅寺の山門をくぐりぬけて 50メートルほど行くと お滝に上がる山道がある 山門の入り口に第2疎水のコンクリートの土台があって (グリーンのレンガ貼り) ハイヒールの中に入っていた小石をとるのに 片手を、その土台において 立ったまま ぱっぱっと その小石を落とした 片方の靴のかかとから ぼくが見つめているのに気づくと とても恥ずかしそうな顔をして見せた そうだ あの娘の表情も けっして忘れはしないと ぼくは、こころに誓ったのだ 優ちゃん 真っ赤な麦藁帽子と 白い薔薇模様のワンピース だけど、あのときの靴の色は忘れてしまった 真っ赤な麦藁帽子と 白い薔薇模様のワンピース これは覚えているのに あの娘の恥ずかしげな顔とともに だけど、あのときの靴の色は忘れてしまった 二〇一四年十三月四日 「風景は成熟することを拒否する」 皮膚にまといついた言葉を引き剥がそう 詩人に要請されることは、ほかには何もない 皮膚にまといついた言葉を引き剥がすこと以外に こころみに、ぼくの皮膚についた言葉を引き剥がそう 10歳のときの記憶の1つが、雲を映す影となって地面を這っている こころもち、雨が降った日の水溜りに似ていないとも言えない 風景は成熟することを拒否する 詩人は自分をその場所に置いて 自分自身を眺めた まるで物でも眺めるように 二〇一四年十三月五日 「時間と空間」 ぼくたちが時間や空間を所有しているのではなく 時間や空間がぼくたちを所有しているのである ぼくたちが出来事を所有しているのではなく 出来事がぼくたちを所有しているように。 ぼくたちが過去を思い出すとき ぼくたちが過去を引き寄せるのではない。 過去がぼくたちを引き寄せるのである。 過去がぼくたちを思い出すために。 二〇一四年十三月六日 「偉大さと、卑小さ」 詩人がなぜ過去の偉大な詩人や作家に 詩人にとって偉大であると思われる詩人や作家に云々しているのか いぶかしむ人がいるが そんなことは当たり前で 卑小な人間の魂に学べることは、卑小な人間について学べることだけだからである 偉大な人間の魂の中には、卑小な人間の魂も存在しているのである 詩人は学び尽くさなければならないのだ 生きているあいだに いや、違うかな。 かつて、親しかった歌人の林 和清ちゃんが ぼくにこんなことを言った。 「どんなひとからも学べるのが、才能やと思うで。」 「おれは、むしろ、ふつうのひとがすることから、いっぱい学んでるで。」 って。 そうかもしれない。 でも、自分がぜんぜん共感できない詩人や作家の作品から学ぶことなんかできるんやろか。 ほんとうに才能のあるひとにならできるのかもしれないな。 卑小なこと、つまらないことからでも学べるのが才能なのかもしれないな。 だとすると、世のなかには、卑小なことも、つまらないこともないっていうことなのかな。 そういえば、日常のささいなことが とげのように突き刺さって痛いってことが、しょっちゅうあるものね。 「偉大さと、卑小さ」か。 浅く考えてたな。 二〇一四年十三月七日 「ぼくたちが認め合うことができるのは」  ぼくたちが認め合うことができるのは お互いの傷口だけだ 何か普通とは異なっているところ しかもどこかに隠したがっているような様子が見えるもの そんなものにしか ぼくたちの目は惹かれない それくらい ぼくたちは疲弊しているのだ 二〇一四年十三月八日 「言葉も、人も」 言葉も 人も 苛まれ 苦しめられて より豊かになる まるで折れた骨が太くなるように 二〇一四年十三月九日 「ポスト」  彼女は その手紙を書いたあと 投函するために外に出た ポストのところまで 少し距離があったので 彼女は顔の化粧を整えた (これは、あくまでも文末の印象の効果のために、 あとで付け加えられたものである。削除してもよい。) 彼女は その手紙に似ていなかった 彼女は その手紙の文字にぜんぜん似ていなかった その手紙に書かれたいかなる文字にも似ていなかった 点や丸といったものにも 数字や記号にも 彼女がその手紙に書いたいかなるものにも 彼女は似ていなかった しかし 似ていないことにかけては ポストも負けてはいなかった ポストは 彼女に似ていなかった 彼女に似ていないばかりではなく 彼女の妹にも似ていなかった しかも 4日前に死んだ彼女の祖母にも似ていなかったし いま彼女に追いつこうとして スカートも履かずに玄関を走り出てきた 彼女の母親にもまったく似ていなかった もしかしたら スカートを履くのを忘れてなければ 少しは似ていたのかもしれないのだけれど それはだれにもわからないことだった 彼女の母親は けっしてスカートを履かない植木鉢だったからである 植木鉢は 元来スカートを履かないものだからである 母親の剥き出しの下半身が ポストのボディに色を添えた 彼女はポストから手を出すと 家に戻るために 外に出た 二〇一四年十三月十日 「ハンカチの笑劇」 オセロウは イアーゴウがいなくても デズデモウナを疑ったのではないか? さまざまな冒険が その体験が オセロウをして想像豊かな 極めて想像豊かな人間にしたはずである 「ハンカチの笑劇」 想像はたやすく妄想に変わる 巣に戻った鳥が 水辺の景色を思い出す 愛によって形成されたものは 愛がなくなれば なくなってしまうものだ 「なにがしかの痕跡を残しはするのだろうけれど。」 そう言うと この詩人は自分の言葉の後ろに隠れた 隠れたつもりになった 二〇一四年十三日十一日 「死んだあと」 死んだあと どうするか 動かさなくてはならない ひとりひとり別の力で ひとりひとり別の方法で 人間以外のもろもろのものも 動かさなくてはならない ひとつひとつ別の力で ひとつひとつ別の方法で いっしょにではなく ひとつひとつ別々に とりわけ両親の死体が問題である 死んだあとも 動かさなくてはならない そいつは 何度も死んで すっかり重たくなった死体だが 二〇一四年十三月十二日 「音楽」 すべての芸術が音楽にあこがれると言ったのは だれだったろうか? たしかに 音楽には 他の芸術が持たない 純粋性や透明性といったものがある しかし ただひとつ ぼくが音楽について不満なのは 音楽は反省的ではないということだ じっさい どんなにすばらしい音楽でも ぜんぜん反省的ではない 他の芸術には ぼくたちに ぼくたちの内面を見るように仕向けさせる作用がある しかし それにしても 音楽というものは それがどんなにすぐれたものであっても ちっとも反省させてはくれないものである 二〇一四年十三月十三日 「書き改めてなかった」 2、30年くらい前のことだけど 『サッフォーの詩と生涯』という本のなかで 引用されていたエリオットの詩の原文にコンマだったかピリオドが抜けていることと あきらかにサッフォーの影響のあるバイロンの詩句について なぜ書かれなかったのですかって 著者の沓掛良彦さんに、直接、手紙を出して訊ねたことがあって 1ヵ月後に、ご本人から丁寧な返事をいただけて なんとか気を落ち着かせたことがある 再刷りするときに書き改めるということだったけど きょう、ジュンク堂で見てきたのだけど、書き改めてなかった 執筆中にご病気で メモでは、そのバイロンの詩句も書いてらっしゃったらしく 外国の研究者で ぼくが指摘した箇所を指摘した方がいらっしゃって 沓掛さんも書くつもりだったらしいのだけれど 体調を崩されて 書くのを忘れられたとのことだった 「あなたは英文学の研究生ですか。」 と書かれてあったので 「いいえ、工学部出身です。」 と返事を出した 批判したかったら、直接、相手に手紙を出す時代が ぼくにもあったんやね いまは しなくなった 二〇一四年十三月十四日 「ママ」 ぼくが子どもだったころね よく言われたことがある あんまり長い時間 ママを見てはいけませんって ママを見る権利をパパがいるときにはほとんど独り占めしてたから ぼくが自由にママを見れたのは パパがいないときに限ってた お兄ちゃんといっしょになって ママを見てた パパがいないときに ママの鼻をつまんで ぐにぐに ぐにぐにひねって ママのあげる美しい悲鳴を聞いてた ママの声は ぼくの耳にとても気持ちよくって ぼくとお兄ちゃんはママの鼻をぐにぐに ぐにぐにひねって ママはぶひぶひ ぶひぶひ きれいな声で歌ってくれた あるとき ぼくとお兄ちゃんがママの鼻がちぎれるぐらいに 思い切りひねっていたときに 突然 パパが帰ってきたからびっくりしたことがあったのだけれど ママは 真っ赤になった鼻を押さえて トイレにかけこんで 鼻がふつうの色に戻るまで出てこなかった パパには ママがおなかが痛いって言ってたよ って ぼくが言っておいた パパがはやくママに飽きてくれたらいいのになって ぼくはいつも思ってた ぼくが子どもだったときのことね いま ぼくは大人になって ママだけじゃなくて パパのことも見てる お兄ちゃんが死んで ママもパパも いまじゃ ぼくだけのものだから お湯がたまったみたいだ お風呂から上がったら ママとパパの鼻をひねって ママとパパの苦しむ顔を見ようっと うっちっち ニコッ 二〇一四年十三月十五日 「うんこ臭い」 クリーニング店に行くの忘れてて 明日はいてくスラックスがない クリーニング店がもっと近くだったら よいのに で これから洗濯 うううん もう預けてて1週間以上になるな 取りに行くのが うんこ臭い 取りに行くのうんこ臭い うん国際 うん国際地下シネマ って えいちゃん 背中にかいた薔薇の字が 自我 自我んだ 違った 自我った スクリーン ひざ の 上 の 手 二〇一四年十三月十六日 「本」 本は 本の海の中で育つ 卵から帰った本は 他の本を食べて だんだん成長する 本は本を食べて 肥え太る 本は 本の父と 本の母の間で生まれた 本は 本の浜辺で生まれてすぐに 本の海を目指す 本能からなんだと思う 自分がどこからきて どこへ行くべきなのか 知っている つぎつぎと本の子どもたちが 砂浜から這い出てくる 二〇一四年十三月十七日 「人生は映画のようにすばらしい。」 dioの印刷の途中で 昼ごはんを食べに行ったのだけれど 京大の近くの「東京ラーメン」という ふつうのラーメンで400円という値段のところで おいしくて有名らしいのだけれど そこでご飯を食べて また京大にもどって印刷の続きをしたのだけれど 帰りに キャンパスに入ったところで 大谷くんが 綾小路くんに DX東寺というストリップ劇場の無料招待券を渡した 綾小路くんが「これ、なんですか?」と訊くと 「山本さんが  それくれたんだけどね。」 「ええ?  大谷さんが行ったらいいじゃないですか?」 「おれ  いっつも断ってるねん。」 「大谷さんがもらったんじゃないんですか?」 「違うねん。  これ  このあいだのぼんに渡してくれって言われたんや。」 「ぼんて  ナンですか?」 「「ぼん」て  若い男のことを  そう言うんや。  だれでも  あのひとは「ぼん」て言うんや。」 「そうなんですか。  でも  大谷さんが行けばいいじゃないですか。」 「おれ  彼女  いてるし  行けへんやろ。」 「ええ!  ぼくが行くんですか?」 綾小路くんの手のなかのチケットを取り上げて ぼくが「DX東寺・招待券」という文字を確かめてから 綾小路くんの手に戻して 「行ったらええんとちゃう?  綾小路くん   行ったら  綾小路くんの文学や哲学が深くなるで。  裸で勝負してる人間を見るんや  きっと  綾小路くんが大きくなるで  あそこも  こころもな。」 「そうですか?」 「そうや。」 「じゃあ、  もらっておきます。  でも行かなくてもいいんですよね?」 「そら好きなようにしたら  ええけどな。  行ったら  綾小路くんが  深くなるで。」 と言ってから ぼくは 大谷くんに 「ねえ  ねえ  大谷くん  その山本さんて  何者?」 って訊くと 「いつも行く居酒屋さんでしょっちゅういっしょに飲んでる  元ヤクザの人なんです」 「へえ  その人  いいひとなんやなあ。」 とぼくが言ったら 「いまは  いいひとですよ。」 「その飲み屋って  どこにあるの?」 「ぼくの住んでるマンションの前。」 「どんな店?」 「食べ物  なんでも300円なんですよ。」 「へえ  おいしいの?」 「おいしいですよ。」 「そやけど  そのひととの関わりなんて  なんか  青春モノの映画みたいやなあ。  いや  人生が映画のようにすばらしいのか?  うん  人生は映画のようにすばらしい。  あるいは  映画は人生のようにすばらしい  か。  まあ  どっちでもええけど  どっちかのタイトルでミクシィの日記にでも書いとこうっと。」 ってなことを言いながら 印刷の場所にもどって 作業の続きをしていた あ 印刷は終わってたのか そうだ 紙を折る作業に入ったのだ 借りていた教室で 総勢7人で 紙折り作業をして 最後にホッチキス止めが終わったのが5時40分くらいで そこから みんなで 「リンゴ」という店に行って打ち上げをしたのだった 土曜日のことだった うん うんうん 「人生は映画のようにすばらしい。」 二〇一四年十三月十八日 「三日後に死ぬとしたら」 朝 死んだ父親に起こされたから 3日後に死ぬとしたら どうする? って きのう、リンゴで 雪野くんと 荒木くんに訊いたんだけど あ この荒木くんは 言語実験工房の荒木くんと違うほうの 小説を書くお医者さんで で その2人は それぞれ 「ぼく考えたことないです。  わかりません。」 「ぼくはとりあえず田舎に帰るかなあ。」 やった ぼくはいつ死んでもいいように そのときそのとき書けるベストの作品を書いてるつもりだから 「本読んでると思うわ。」 と言った じっさい 読んでないのが まだ400冊くらい部屋にあるので そのなかから ピックアップして 読んでいくと思う でも2人とも考えたことがないっていうのは ぼくには不思議やったなあ 二〇一四年十三月十九日 「すべての人間はソクラテスである」 セックスを愛だと思ってる人は少ないかもしれないけれど 愛をセックスだと思っている人はもっと少ないと思う セックス=愛 愛=セックス 数式のように書いたら 同じように思えるかもしれないけれど 数式としてもっと厳密に見ると この2つの式が異なる内容を表わしていることがわかる 1+1=2 だけど 2=1+1 だけじゃないやん 3マイナス1だって2だし 7マイナス5だって2だし マイナス4プラス6だって2だしねえ いや 絶対的に 2=1+1だけだったりして 笑 嘘 嘘 でも たとえば 考えてみてよ ソクラテスは人間だけど 人間はソクラテスじゃないものね うん いやいや これも 案外 すべての人間はソクラテスかもしんないぞ ソクラテスがすべての人間であるように てか 笑 まあ ソクラテスって名前の犬とか ソクラテスって名前のパソコンとかなんてのは なしにしてね ふぎゃ 二〇一四年十三月二十日 「Street Life。」 むかし書いた詩があって それは ワープロ時代に書いたもので 1時期 自暴自棄になってたときがあって ワープロに書いたぼくの詩を 『みんな、きみのことが好きだった。』と『Forest。』に 収録したもの以外みんな捨てたんだけど 原稿用紙にして2枚くらいの短い詩で 『Street Life。』というタイトルで書いたものがあって それは どちらにも収録するのを忘れてて でも とても気に入ってたんだけれど 手元に それが収録された同人誌がなくて というのは ぼくは 自分の書いた詩が載ってる本を よくひとにあげちゃうからなんだけど そういうわけで 内容は覚えているんだけど 正確には思い出せなくて で それを思い出す という作業を 散文スタイルで書いてみようと思っているわけ 「ぼく」と「中国人の青年」の話なんだけど ソープランドの支配人をしていた26歳の青年と ぼくとが出会って 彼の初体験(もちろん男)の話と バイセクシャルである彼のセックスライフにからませて ぼくが何度も自殺するという内容で 自殺するのだけれど 死ねなくて 水に顔をつけても呼吸しちゃうし 手首を切っても すぐにもとにもどっちゃうし 飛び降りて ぐちゃぐちゃになっても すぐにもとにもどっちゃうし という感じで現実の彼の話と シュールな場面が交互につづくんだけど フレーズが正確に思い出せないのが ほんとに残念で で 今回 書こうと思うのは 「なぜ  その青年のことを書こうと思ったのか。」 「その青年の話をそのまま書き写しただけなのに  なぜ  その青年の存在が、ぼくにとって  いまだにリアルなのか。」 「ぼくがなぜ何度も死んで生き返るのか。」 「これらふたつのことで何が表現したかったのか。」 といったことを自己分析しながら書こうと思っているのだけれど うまくいくかどうか 二〇一四年十三月二十一日 「ちょっといい感じ」 さっき聴いた曲がちょっといい感じ その分厚い胸に頭をもたげて 話をしていた ヒロくんの言葉を思い出していた ぼくのおなかをさわりながら 「この腐りかけの肉がええねん。」 「腐りかけの肉って、どういう意味やねん?」 「新鮮な肉の反対や。」 好きなこと言ってるなあって思った その分厚い胸に頭をもたげて 話をしていた 「背中とか、頭とか  さわられるのが好きやねん。」 「みんな、そうなんちゃう?」 おなかの肉をつまんだり さすったりしながら 「こうして、さわってるのが好きかな。」 「ぼくはさわられるのが好きやし  あっちゃんは、さわってるのが好きなんやから  ちょうどええな。」 うん?  そ? そかな? 「そんなに、このおなかが好き?」 「好きかも。」 「顔もかわいいしな。」 「めっちゃ、生意気!」 もたげてた頭を起こして目を見る 笑ってた。 ぼくも笑った この生意気さ ヒロくんと、どっこいどっこいやなあ、って思った すぐに夢中になっちゃいけないと こころに向かって言う まだまだ ぼくは傷つくことができるのだから その分厚い胸に頭をもたげて 話をしていた ぼくと同じように 彼の胸もドキドキしてた さいしょ 近づくのもこわかったのも ぼくよりずっと年下なのも 双子座なのも ヒロくんといっしょ O型やけど 好きになったら どうしようって感じ うまくいきそうになったら うまくいかなかったときのことが思い起こされる ぼくの目を見ないようにしゃべってた ぼくが横を向いたら ぼくの顔を見てた たくさんしゃべったのに まだしゃべりたりないって感じで でも 決定的なことは 何も言わなかった 何度も顔を見つめ合いながら 離れていった 微妙で不思議な時間だった はっきり言わない ううううん 人間の魅力って ほんと さまざま 二〇一四年十三月二十二日 「シェイクスピアについて」  エンプソンの『曖昧の七つの型』(岩崎宗治訳)上巻の終わりのほう、372ページの後半から引用すると、 (…)シェイクスピアは、たえず身の危険と戸惑いを感じていたにちがいない。彼自身はこういう政治状況からくるものをうまくかわしていたらしいが、仲間のしくじりのために罰金を払わせられた。ベン・ジョンソンがカトリック信仰と反逆罪の廉で逮捕される少し前、シェイクスピアは宮廷でジョンソン作の『セジェイナス』の上演に俳優として参加していたのである。(…)  好きな詩人や作家について、知らなかったことを知ることのできた喜びは大きい。シェイクスピアが、ペストの流行のせいでロンドンから離れなければならなかったことや、政治的に後ろ盾になっていた人物が反逆罪でつかまったりしたのは知ってたけれど、ベン・ジョンソンとのかかわりについては、それほど知らなかったので、まあ、弔辞を読んだ人だったかな、同時期の作家か先輩の作家だったと思うけれど、追悼の言葉くらいしか知らなかったので、なんだか、得した気分。あるいは、もしかしたら、過去に、ほかで読んでて忘れてることかもしれないけど、笑。忘れてて、思い出すことも喜びだしね。  エンプソンの引用する詩句の多くがシェイクスピアであるのが、うれしい。ときおり混ざる他の作家や詩人の作品の引用も楽しい。上巻、あと少しで終わり。 きょうは、ずっと韓国映画と、韓国ドラマと、エンプソンの詩論集に。  韓国映画とか韓国ドラマとかに、ここまではまるとは思ってなかったので、とても意外で面白い。キム・イングォンの最新作があって、そこでの画像がネットで手に入れられたので、さっそく保存しておいた。どの画像も、ぼくのこころを穏やかにする。イングォンくんって、じっさいには、繊細で、とても傷つきやすいひとであるような気はするけれど、こんどの映画の役柄は、無職のちょっとヤンチャなお兄さんって感じかな。子どもといっしょに映ってる写真なんて、ほんとに、ほっとさせられる。  ひとの気持ちを穏やかにさせる、そんな詩って、めったにないけど、そやなあ。ジャムの詩くらいかな。しかも2つくらいしかあらへんし。エンプソンの詩論、最後の七番目の型、論理学でいうところの矛盾律を利用したもの。しかしこれって、いつも思うのだけれど、排他律と同1律の応用でもある。まあ、エンプソンは、それを「曖昧」という言葉にしているのだけれど。そういえば、対立する意味概念の同時生起って、ぼくが『舞姫。』で書いた「過去時制」と「未来時制」の同時生起に似ていて面白い。孫引きのフロイトの論文に、未開人の言語に、対立する意味概念の1語への圧縮例が出てくるのだけれど、これって、ピポ族の無時制言語に比較できるかなって思った。ただし、エンプソンは、未開という概念ではなく、対立する意味概念の1語への圧縮を「繊細さ」と捉えているようだけど、ぼくも、リゲル星人の言語を「時制のない言語」、「名詞と助詞のみでできている言語(動名詞句を含む)」にするつもりなので、この最後の七番目の章はじっくり読んでいる。英語が苦手なぼくには、ときどきはさまれる引用の原著部分が、ちょっととしんどいかな。そんなに構文は難しくないけど、ああ、詩は、こうやって訳すのねって、勉強にもなるのだけれど。  イングォンくん、勝ちゃんに似てるんだよなあ。だから、画像をながめてると、せつないのかなあ。  エンプソンの詩論集、読み終わった。読んでるときにはそれなりに楽しめたけど、内容は、そんなに得るものがなくて。まあ、いちおう、有名な本だから読んどく必要はあったけど、読んでた時間がもったいなかったかも。さて、つぎは、なにを読もうかな。 二〇一四年十三月二十三日 「きなこ」 きょう 日知庵で飲んでいると 作家の先生と、奥さまがいらっしゃって それでいっしょに飲むことになって いっしょに飲んでいたのだけれど その先生の言葉で いちばん印象的だったのは 「過去のことを書いていても  それは単なる思い出ではなくってね。  いまのことにつながるものなんですよ。」 というものだった。 ぼくがすかさず 「いまのことにつながることというよりも  いま、そのものですね。  作家に過去などないでしょう。  詩人にも過去などありませんから。  あるいは、すべてが過去。  いまも過去。  おそらくは未来も過去でしょう。  作家や詩人にとっては  いまのこの瞬間すらも、すでにして過去なのですから。」 と言うと 「さすが理論家のあっちゃんやね。」 というお言葉が。 しかし、ぼくは理論家ではなく むしろ、いかなる理論をも懐疑的に考えている者と 自分のことを思っていたので 「いや、理論家じゃないですよ。  先生と同じく、きわめて抒情的な人間です。」 と返事した。 いまはむかし。 むかしはいま。 って大岡さんの詩句にあったけど。 もとは古典にもあったような気がする。 なんやったか忘れたけど。 きなこ。 稀な子。 「あっちゃん、好きやわあ。」 先生にそう言われて、とても恐縮したのだけれど 「ありがとうございます。」 という硬い口調でしか返答できない自分に、ちょっと傷つく。 自分でつけた傷で、鈍い痛みではあったのだけれど 生まれ持った性格に起因するものでもあるように思い こころのなかで、しゅんとなった。 表情には出していなかったつもりだが、たぶん、出ていただろう。 もちろん 人間的に「好き」ってだけで ぜんぜん恋愛対象じゃないけれど。 お互いにね、笑。 先生、ノンケだし。 60歳過ぎてるし、笑。 ぼくは、年下のガチムチのやんちゃな感じの子が好きだし、笑。 きなこ。 稀な子。 勝ちゃんの言葉が何度もよみがえる。 しじゅう聞こえる。 「ぼく、疑り深いんやで。」 ぼくは疑り深くない。 むしろ信じやすいような気がする。 「ぼく、疑り深いんやで。」 勝ちゃんは何度もそう口にした。 なんで何度もそう言うんやろうと思うた。 1ヶ月以上も前のことやけど 日知庵で飲んでたら 来てくれて それから2人はじゃんじゃん飲んで 酔っぱらって 大黒に行って 飲んで 笑って さらに酔っぱらって で タクシーで帰ろうと思って 木屋町通りにとまってるタクシーのところに近づくと 勝ちゃんが 「もう少しいっしょにいたいんや。  歩こ。」 と言うので ぼくもうれしくなって もちろん つぎの日 2人とも仕事があったのだけれど 真夜中の2時ごろ 勝ちゃんと 4条通りを東から西へ 木屋町通りから 大宮通りか中新道通りまで ふたりで 手をつなぎながら歩いた記憶が ぼくには宝物。 大宮の交差点で 手をつないでるぼくらに 不良っぽい2人組の青年から 「このへんに何々家ってないですか?」 とたずねられた。 不良の2人はいい笑顔やった。 何々がなにか、忘れちゃったけれど 勝ちゃんが 「わからへんわ。  すまん。」 とか大きな声で言った記憶がある。 大きな声で、というところが ぼくは大好きだ。 ぼくら、2人ともヨッパのおじさんやったけど 不良の2人に、さわやかに 「ありがとうございます。  すいませんでした。」 って言われて、面白かった。 なんせ、ぼくら2人とも ヨッパのおじさんで 大声で笑いながら手をつないで また歩き出したんやもんな。 べつの日 はじめて2人でいっしょに飲みに行った日 西院の「情熱ホルモン!」やったけど あんなに、ドキドキして 食べたり飲んだりしたのは たぶん、生まれてはじめて。 お店いっぱいで 30分くらい 嵐電の路面電車の停留所のところで タバコして店からの電話を待ってるあいだも 初デートや と思うて ぼくはドキドキしてた。 勝ちゃんも、ドキドキしてくれてたかな。 してくれてたと思う。 ほんとに楽しかった。 また行こうね。 きなこ。 稀な子。 ぼくたちは 間違い? 間違ってないよね。 このあいだ エレベーターのなかで ふたりっきりのとき チューしたことも めっちゃドキドキやったけど ぼくは 勝ちゃん 二〇一四年十三月二十四日 「世界にはただ1冊の書物しかない。」 「世界にはただ1冊の書物しかない。」 と書いてたのは、マラルメだったと思うんだけど これって どの書物に目を通しても 「読み手はただ自分自身をそこに見出すことしかできない。」 ってとると ぼくたちは無数の書物となった 無数の自分自身に出会うってことだろうか。 しかし、その無数の自分は、同時にただひとりの自分でもあるわけで したがって、世界には、ただひとりの人間しかいないということになるのかな。 細部を見る目は貧しい。 ありふれた事物が希有なものとなる。 交わされた言葉は、わたしたちよりも永遠に近い。 見慣れたものが見慣れぬものとなる。 それもそのうちに、ありふれた、見慣れたものとなる。 もう愛を求める必要などなくなってしまった。 なぜなら、ぼく自身が愛になってしまったのだから。 愛する理由と、愛そのものとは区別されなければならないわけだけれども。 二〇一四年十三月二十五日 「ダイスをころがせ」 ローリング・ストーンズの「ダイスをころがせ」を聞いたのは 中学1年生の時のことだった かな かなかな 同級生の女の子がストーンズが好きで その子の家に遊びに行ったとき ダイスをころがせ、がかかってた ぼくと同じ苗字の女の子だった 名前は、かなちゃんって呼んでたかな 忘れた たぶん、かなちゃん で、ストーンズの歌は、ぼくには、へたな歌に聞こえた だって、家では、ビートルズやカーペンターズや ザ・ピーナッツとか つなき&みどりだとか ロス・アラモスだとか マロだとか ミッシェル・ポルナレフだとか シルビー・バルタンだとか そんなんばっか かかってたんだもん 親の趣味のせいにするのは、子供の癖です パンナコッタ、どんなこった チチ マルコはもう迷わないだろう あらゆる皮膚についた言葉を引き剥がそう ダイスをころがせは、いまでは、ぼくのマイ・フェバリット・ソングだす 大学のときは、リンダ・ロンシュタットが(ドかな)歌ってた デスパレイドも歌ってたなあ ピッ パンナコッタ、どんなこった どんなん起こった? チチ もうマルコは迷うことはないだろう。 迷ってた? パンナコッタ、どんなこった どんなん起こった? チチ もうマルコは迷うことはないだろう 迷ってた 3脚台 ガスバーナー 窓ガラス 水滴 水滴に映った教室の風景 窓ガラス 光 マルコはもう迷うことはないだろう 迷ってたのは、自分のつくった地図の上だ 自分のまわりに木切れで引っかいた傷のような地図の上だ 3脚台 トリポッド かわいい表紙なので、ついつい買っちまったよ で、こんなこと考えた ある日、博士が (うううん、M博士ってすると、星さんだね) 軽金属でできた3本の棒の端っこを同時に指でつまんだら それがひょいと持ち上がって 3角錐の形になったんだって で、博士が指でさわると、その瞬間に歩き出したんだって さわると、っていうか、さわろうとして手を近づけただけっていうんだけど で、その3角錐のべき線の形になった3本の棒についていろいろ調べると その3本の棒の太さと長さの比率がいっしょなら どんな材質の棒でも、3本あれば、そんな3角錐ができるんだって て、いうか、もうそれは過去の話です。笑 いまでは、荷物運びに、その3本の棒が大活躍してますし その3本の棒の上にトレイをのっけると テーブルの上で ひょこひょこ動くんです お肉を上にのっけると さわろうとするだけで テーブルの上のホットプレートの上に お肉を運んで ジュ 頭を下げて ジュ かわいい ジュ ペットの代わりに、3本の棒をひょこひょこさせるのが大流行 町中、3本の棒が、たくさんの人のうしろからひょこひょこついてっちゃう で、ジュ で、ジュ パンナコッタ、どんなこった チチ マルコはもう迷わないだろう 迷ってた? 迷ってたかも パンナコッタ、どんなこった 二〇一四年十三月二十六日 「耳遺体」 ダン・シモンズの 『夜更けのエントロピー』をまだ読んでなかったことを思い出した 『愛死』を読んでたから、いいかなって思って、ほっぽらかしてたんだけど やっぱ読もうかな ハヤカワ文庫の『幻想と怪奇 3巻』 読み終わってみて、ちと、あれかなって思った 創元のゾンビのアンソロジーの面白さにくらべたら ちと、かな と 通勤のときと 部屋で読むのとは別々にしてるんだけど マイケル・スワンウィックの『大潮の道』のような作品が読みたい 『ヒーザーン』読めばいいかな これから、耳のクリーニング ブラッドベリの『死人使い』というのを読んだ いろいろなところに引き合いに出される作品なので 内容は知ってたけれど やっぱりちとエグイ 耳遺体 耳痛い 耳遺体 ブルー・ベルベットや ぼくの『陽の埋葬』が思い出される 花遺体 じゃない 鼻遺体は、うつくしくないね 鼻より耳の方が 部分として美しいということなのかな 以前に詩に書いたことがあったけど あ 理由は書いてないか。 小刻みに震える 耳遺体 ハチドリのように ピキピキ ピキピキ メイク・ユー・シック! 愛は僕らをひきよせる と書いたのは ジョン・ダン と言っても 高松雄一さんの訳で わずらわしいバカでも わかる詩句だけど 愛する対象が人間たちを動かす って 言ったのは ヴァレリーね って 佐藤昭夫さんの訳だけど ぼくの知性は天邪鬼で いつでも その反対物を想起させる あらゆる非存在が 存在を想起させるように 通勤電車のなかで思いついた 昨年の2月8日と書いてある 詩は思い出す かつて自分がひとに必要とされていたことを 詩は思い出す たくさんのひとたちのこころを慰めてきたことを 詩は思い出す そのたくさんのひとたちが やがて小説や音楽や映画に慰めを見出したことを しかし それでも 詩は思い出す ごくわずかなひとだけど 詩に慰めを求めるひとたちがいることを って うううん バカみたいなメモだすなあ 2004年4月15日のメモ ぼくもしっかり働きに行かなければ! 二〇一四年十三月二十七日 「破壊の喜び」 ダン・シモンズの『死は快楽』のなかにある 「プライドや憎しみや、愛の苦しみ、破壊の喜び」(小梨 直訳) という言葉を読んで ぼくの詩集『The Wasteless Land.II』の41ページと42ページにある 「虚栄心のためだった」という言葉に誤りがあったことに気づいた いや誤りと言うよりは あれは故意の嘘であったのだ ぼくのほうから別れを告げたのは じつは虚栄心のためというよりも 意地の悪い軽率なぼくのこころのなせる仕業だった 冷酷で未熟なぼくの精神のなせる仕業だったのだ ぼくが別れを告げればどういう表情をするのか どういう反応を示すのか 子供が昆虫や小動物を痛めつけて 強烈な反応を期待するかのように 幼稚な好奇心を発揮したということなのだ 「破壊の喜び」 ダン・シモンズの言葉は ときおりこころに突き刺さる 真実の一端に触れるからである 「虚栄心のためだった」というのは虚偽である ぼく自身に偽る言葉だった 「破壊する喜び」 なんと未熟で幼稚なこころの持ち主だったのだろう ダン・シモンズのこの言葉を読んだのが 数日前のことだった あの文章を書いていたときには 「虚栄心のためだった」という言葉で 当時の自分のこころを分析したつもりになっていた 「破壊の喜び」という言葉を読んでしまったいま あの文章の「虚栄心のためだった」という箇所には はなはだしい偽りがあると思わざるを得ない いやこれもまた後付けの印象なのか 「虚栄心のため」というのも偽りではなかったかもしれない 「破壊の喜び」という言葉があまりに強烈に突き刺さったために その強烈な印象に圧倒されて より適切な表現を目の当たりにして 自分の言葉に真実らしさを感じられなくなったのかもしれない とすると すぐれた作家のすぐれた表現に出合ったということなのであって 自分の文章表現が劣っていたという事実に 驚かされてしまったということなのかもしれない 「破壊の喜び」 未熟で幼稚な いや 未熟で幼稚な精神の持ち主だけが 「破壊の喜び」を感じるのだろうか どの恋の瞬間にも 「破壊の喜び」が挟み込まれる可能性があるのではないだろうか ぼく以外の人間にも 恋のさなかに「破壊の喜び」を見出してしまって とんでもない結果を招いた者がいるのではないだろうか 1生の間に 恋は1度だけ ぼくはそう思っている その1度の恋に 取り返しのつかない傷をつけてしまうというのは そんなにめずらしいことではないのかもしれない 「破壊の喜び」 未熟で幼稚な精神の と いま言える自分がここにいる 当時の自分をより真実に近い場所から見つめることができたと思う このことは どんなに救いようのないこころも 救われる可能性があるということをあらわしているのかもしれない あつかましいかな 二〇一四年十三月二十八日 「ぼくの脳髄は直線の金魚である」 眠っている間にも、無意識の領域でも、ロゴスが働く 夜になっても、太陽がなくなるわけではない 流れる水が川の形を変える 浮かび漂う雲が空の形を与える わたし自身が、わたしの1部のなかで生まれる それでも、まだ1度も光に照らされたことのない闇がある ぼくたちは、空間がなければ見つめ合うことができない ぼくたちをつくる、ぼくたちでいっぱいの闇 ぼくの知らないぼくがいる ぼくではないものが、紛れ込んでいるからであろうか? 語は定義されたとたん、その定義を逸脱しようとする 言葉は自らの進化のために、人間存在を消尽する 輸入食料品店で、蜂蜜の入ったビンを眺める 蜜蜂たちが、花から花の蜜を集めてくる 花の種類によって、集められた蜜の味が異なる たくさんの巣が、それぞれ、異なる蜜で満たされていく はてさて へべれ けべれ てべれ ふびれ きべれ うぴけ ぴぺべ れぴぴ れずぴ ぴぴず ぴぴぴ ぴぴぴぴぴ ぼくの脳髄は直線の金魚である 直線の金魚がぼくの自我である 自我と脳髄は違うと直線の金魚がパクパク 神経質な鼻がクンクン 神経質な人特有の山河 酸が出ている 鼻がクンクン 華麗臭じゃないの 加齢臭ね セイオン 自我の形を想像する する すれ せよ 自我の形は直線である ぼくのキーボードがこそこそと逃げ出そうとする ぼくの指がこそこそとぼくから離れようとする あるいは トア・エ・ モア ふふん オレンジの空に青い風車だったね ピンク・フロイドだったね わが自我の狂風が わが廃墟に吹きわたる 遠いところなど、どこにもない 空間的配置にさわる 肩のこりは 1等賞 ゴールデンタイムの テレビ番組で キャスターがぼくを指差す ああ、指をぼくに向けたらいけないのに ママがそういってただろ! ぼくに指を向けちゃいけないって 死んだパパやママが泳いでる カティン! 血まみれの森だ 二〇一四年十三月二十九日 「蟻ほどの大きさのひと つぶしたし」 そういえば、きょうは薬の効き目が朝も持続していて ふらふらしていたらしい ひとに指摘された 自分ではまっすぐ歩いてるつもりなんだけど 歳かな たしかに肉体的には 年寄りじゃ ふがふが ふがあ 河童の姉妹が花火を見上げてる ひまわりのそば 洗濯物がよく乾く 夏休み 半分ちびけた色鉛筆 どの猿も 胸に手をあて 夏木マリ 鼻水で 縄とびビュンビュン ヒキガエル 子ら帰る プールのにおい着て まな落ちて 手ぬぐい落ちる 夏の浜  アハッ 漱石ちゃん わが声と偽る蝉の抜け殻 恋人と氷さく音 並び待つ ファッ 夏枯れの甕の底には猫の骨 これも漱石じゃ わがコインも 蝉の亡骸のごと落つ 違った わが恋も蝉の亡骸のごと落つ わがコインもなけなしのポケットごと落つ チッチッチ 俳句の会に出る。 1997年の4月から夏にかけて ばかばかしい 話にもならない 情けない って 歳寄りは思わないのね 会費1000円は 回避したかった チッ 蟻ほどの大きさのひと つぶしたし 人ほどの大きさの蟻 つぶしたり この微妙な感じがわかんないのね 歳寄り連中には なんとなく 蟻ほどの人 つぶしたし ヒヒヒ けり けれ けら けらけらけら けっ まなつぶる きみの重たさ ハイ 飛んで 小さきまなに 蟻の 蟻ひく わが傷は これといいし蟻 蟻をひく 自分と出会って 蟻の顔が迷っている あれ 前にも書いたかな? メモ捨てようっと。 ギャピッ あり地獄 ひとまに あこ みごもりぬ 蟻地獄1室に吾児身ごもりぬ キラッ 蟻の顔 ピカル ちひろちゃん チュ 二〇一四年十三月三十日 「喩をまねる 喩をまげる」  「無用の存在なのだ。どうして死んでしまわないのだろう?」 (フィリップ・K・ディック『アルファ系衛星の氏族たち』1、友枝康子訳) おとつい、えいちゃんのところに、赤ちゃんが生まれた えいちゃんそっくりの、かわいい赤ちゃんだった つぎのdioは 森鴎外 ひさびさに日本の作家をもとに書きます 斉藤茂吉以来かな 問を待つ答え 問いかけられもしないのに 答えがぽつんと たたずんでいる はじめに解答ありき 解答は、問あれ、と言った すると、問があった ヴェルレーヌという詩人について かつて書いたことがありますが ヴェルレーヌの飲み干した アブサン酒の、ただのひとしずくも ぼくの舌は味わったことがなかったのだけれど ようやく味わえるような気になった もちろん、アブサン酒なんて飲んじゃいないけど 笑 ようやく原稿ができた もう1度見直しして脱稿しよう そうして ぼくは、ぼくの恋人に会いに行こう 風景が振り返る あっちゃんブリゲ 手で払うと ピシャリ と へなって 父親が 壁によろける 手を伸ばすと ぴしゃり と ヒャッコイ ヒャッコイ 3000世界の ニワトリの鳴き声が わたしの蜂の巣のなかで コダマする。 時速何100キロだっけ ホオオオオオ って キチキチ キチキチ ぼくの鳩の巣のなかで ぼくのハートの巣のなかで ニワトリの足だけが ヒャッコイ ヒャッコイ ニードル セレゲー エーナフ ああ ヒャッコイ ヒャッコイ ぼくの 声も 指も 耳も 父親たちの死骸たちも イチジク、ミミズク、3度のおかわり 会いたいね 目 合わしたいね きっと カット ね 見返りに よいと 巻け やっぱり、声で、聞くノラ ノーラ きみが出て行った訳は 訳がわからん ぼくは いつまでたっても 自立できない カーステレオ 年季の入ったホーキです。 毎朝 毎朝 いつまでたっても ぼくは 高校生で 授業中に居眠りしてた ダイダラボッチ ひーとりぼっち そげなこと言われても 訳、わがんねえ 杉の木立の 夕暮れに ぼくたちの 記憶を埋めて すれ違っていくのさ 風と 風のように そしたら 記憶は渦巻いて くるくる回ってるのさ ひょろろん ひょろろん って 生きてく糧に アドバルーン 眺めよろし マジ決め マジ切れ も1度 シティの風は 雲より ケバイ そしたら しっかり生きていけよ、美貌のマロニーよ ハッケ ヨイヨイ よいと 負け すばらしく詩神に満ちた 廃墟 の 上で ぼくは 霧となって 佇んでいる ただ 澄んでいる 色 の ない ビニールを 本の表紙に カヴァーにして 錦 葵 ボタンダウンが よく臭う ぼくの欠けた 左の手の指の先の影かな 年に平均 5、6本かな 印刷所で 落ちる指は ヒロくんはのたまわった お父さんが 労災関係の弁護士で そんなこと言ってた アハッ なつかしい声が過ぎてく ぼくの かわりばんこの 小枝 腕の 皮膚におしつけて 呪文をとなえる ツバキの木だったかなあ こするといいにおいがした したかな たぶん こするといいにおいがした まるで見てきたような嘘を 溜める ん 貯める んんん 矯める 矯めるじゃ! はた迷惑な電話に邪魔されて 無駄な 手足のように はえてきて どうして、舞姫は ぼくがひとりで 金魚と遊んでいたことを知ってるんだろう? ひゃっこい ひゃっこい どうして、舞姫は ぼくがひとりで 金魚と遊んでいたことを知ってるんだろう? ひゃっこい ひゃっこい ピチッ ピチッ もしも、自分が光だってことを知っていたら、バカだね、ともたん まつげの上を 波に 寄せては 返し 返しては 寄せて ゴッコさせる まつげの上に 潮の泡が ぷかりぷかり ぼくは まつげの上の 波の照り返しに 微笑み返し ポテトチップスばかりたべて 体重が戻ってるじゃん! せっかく神経衰弱で 10キロ以上やせたのにいいいいい まつげの上に 波に遊んでもらって ぼんやり ぼくは本を読んでる いくらページをめくっても 物語は進まない。 寄せては返し 返しては 寄せる ぼくのまつげの上で 波たちが 泡だらけになって 戯れる きっと忘れてるんじゃないかな ページはきちんと めくっていかないと 物語が進まないってこと ページをめくってはもとに戻す ぼくのまつげの上の波たち いまほど ぼくが、憂鬱であったためしはない 足の裏に力が入らない 波は まつげの上で さわさわ さわさわ 光の数珠が、ああ、おいちかったねえ まいまいつぶれ! 人間の老いと 光の老いを 食べ始める 純粋な栄光と 不純な縁故を 食べる 人間の栄光の及ばない 不純な光が 書き出していくと 東京だった 幾枚ものスケッチが 食べ始めた。 ごめんね、ともひろ ごめんね、ともちゃん 幾枚ものスケッチに描かれた 光は 不純な栄光だった 言葉にしてみれば それは光に阻害された たんなる影道の 土の かたまりにすぎないのだけれど ごめんね ともちゃん 声は届かないね みんな死んじゃったもん もしも、ぼくが 言い出さなかったら て 思うと バカだね ともたん もしも 自分が食べてるのが 光だと 知っていたら あんとき 根が食べ出したら 病気なのね ペコッ 自分が食べている羊が 食べている草が 食べている土が 食べている光が おいちいと感じる 1つ1つの事物・形象が 他のさまざまな事物や形象を引き連れてやってくるからだろう 無数の切り子面を見せるのだ 金魚が回転すると 冷たくなるというのは、ほんとうですか? 仮面をつける 絵の具の仮面 筆の仮面 印鑑入れの仮面 掃除機の仮面 ベランダの手すりの仮面 ハサミの仮面 扇風機の仮面 金魚鉢の仮面 輪投げの仮面 潮騒の仮面 夕暮れの仮面 朝の仮面 仕事の仮面 お風呂の仮面 寝ているときの仮面 子供のときの仮面 死んだあとの仮面 夕暮れがなにをもたらすか? 日光をよわめて ちょうど良い具合に 見えるとき 見えるようになるとき ぼくは考えた 事物を見ているのではない 光を見ているのだ、と いや 光が見てるのだ と 夕暮れがなにをもたらすか? お風呂場では 喩をまねる 喩をまげる 曲がった喩につかった賢治は 硫黄との混血児だった 自分で引っかいた皮膚の上で って、するほうがいいかな だね キュルルルルル パンナコッタ、どんなこった 二〇一四年十三月三十一日 「プチプチ。」 彼が笑うのを見ると、いつもぼくは不安だった ぼくの話が面白くて笑ったのではなく ぼくを笑ったのではないかと ぼくには思われて 表情のない顔に引っ込む この言葉はまだ、ぼくのものではない ぼくのものとなるにつれて、物質感を持つようになる 触れることのできるものに そうすれば変形できる 切断し、結び合わせることができる せっ、 戦争を純粋に楽しむための再教育プログラム。 あるいは、菓子袋の中のピーナッツがしゃべるのをやめると、 なぜ隣の部屋に住んでいる男が、わたしの部屋の壁を激しく叩くのか? 男の代わりに、柿の種と称するおかきが代弁する。(大便ちゃうで〜。) あらゆることに意味があると、あなたは、思っていまいまいませんか? 「ぼくらはめいめい自分のなかに天国と地獄をもってるんだ」 (ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第十三章、西村孝次訳) 「ぼくだけじゃない、みんなだ」 (グレッグ・ベア『天空の劫火』下・第四部・59・岡部宏之訳) 人間は、ひとりひとり自分の好みの地獄に住んでいる そうかなあ そうなんかなあ わからへん でも、そんな気もするなあ きょうの昼間の記憶が そんなことを言いながら 驚くほどなめらかな手つきで ぼくのことを分解したり組み立てたりしている ほんのちょっとしたこと、ささいなことが すべてのはじまりであったことに突然気づく 「ふだん、存在は隠れている」 (サルトル『嘔吐』白井浩司訳) 「そこに、すぐそのそばに」 (ジイド『ジイドの日記』第二巻・一九一〇、カヴァリエール、八月、新庄嘉章訳) 世界が音楽のように美しくなれば、 音楽のほうが美しくなくなるような気がするんやけど、どやろか? まっ、じっさいのところ、わからんけどねえ。笑。 バリ、行ったことない。中身は、どうでもええ。 風景の伝染病。 恋人たちは、ジタバタしたはる。インド人。 想像のブラやなんて、いやらしい。いつでも、つけてや。笑。 ぶひゃひゃひゃひゃひゃひゃ。 ある古書のことです ヤフー・オークションで落札しました 11111円で落札しました 半年以上探しても見つからなかった本でしたので ようやく手に入って喜んでいたのですが きのうまで読まずに本棚に置いておりました きのうは土曜日でしたので 1気に読もうと思って手にとりました 面白いので、集中して読めたのですが 途中、本文の3分の2ぐらいのところで タバコの葉が埃の塊とともに挟まっていて おそらくはまだ火をつけていないタバコのさきから 縦1ミリ横3ミリの長方形に刻まれた葉がいくつかこぼれ落ちたのでしょう タバコの脂がしみて、きれいな紙をだいなしにしておりました それが挟まれた2ページはもちろん その前後のページも損傷しておりました すると、とたんに読む気がうせてしまいました まあ、結局、寝る前に、最後まで読みましたが 昨年の暮れに買いましたものでしたので いまさら出品者にクレームをつけるわけにもいかず 最終的には、怒りの矛先が自分自身に向かいました 購入したらすぐに点検すべきだったと しかし、それにしても 古書を見ておりますと タバコの葉がはさまれていることがこれまでに2回ありました これで3回目ですが、故意なのでしょうか ぱらぱらとまぶしてあることがあって そのときには、なんちゅうことやろうと思いました 自分が手放すのがいやだったら 売らなければいいのにって思いました ちなみに、その古書のタイトルは 『解放されたフランケンシュタイン』でした ぼくがコンプリートに集めてるブライアン・オールディスの本ですけれど 読後感は、あまりよくなかったです 汚れていたことで、楽しめなかったのかもしれません 途中まで面白かったのですが こんなことで、本の内容に対する印象が異なるものになる可能性もあるのですね うん? もしかして ぼくだけかしらん? 「すべてが現実になる。」 (フレデリック・ポール&C・M・コーンブルース『クエーカー砲』井上一夫訳) 「あらゆるものが現実だ。」 (フィリップ・K・ディック『ユービック:スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳) ケルンのよかマンボウ。あるいは、神は徘徊する金魚の群れ。 moumou と sousou の金魚たち。 リンゴも赤いし、金魚も赤いわ。 蟹、われと戯れて。 ぼくの詩を読んで死ねます。か。 扇風機、突然、憂鬱な金魚のフリをする。 ざ、が抜けてるわ。金魚、訂正する。 ぼくは金魚に生まれ変わった扇風機になる。 狒狒、非存在たることに気づく、わっしゃあなあ。 2006年6月24日の日記には、こうある 朝、通勤電車(近鉄奈良線・急行電車)に乗っているときのことだ 新田辺駅で、特急電車の通過待ちのために 乗っている電車が停車していると 車掌のこんなアナウンスが聞こえてきた 「電車が通過します。知らん顔してください。」 「芸術にもっとも必要なものは、勇気である。」 って、だれかの言葉にあったと思うけど ほんと、勇気いったのよ〜 笑 「思うに、われわれは、眼に見えている世界とは異なった別の世界に住んでいるのではないだろうか。」 (フィリップ・K・ディック『時は乱れて』11、山田和子訳) 「人間は、まったく関連のない二つの世界に生きている」 (トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』4、友枝靖子訳) 「世界はいちどきには一つにしたほうがいい、ちがうかね?」 (ブルース・スターリング『スキズマトリックス』第三部、小川隆訳) 「きみがいま生きているのは現実の世界だ。」 (サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳) 「精神もひとつの現実ですよ」 (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』16、菅野昭正訳) 『図書館の掟。』は、タイトルを思いついたときに これはいい詩になるぞと思ったのだけれど 書いていくうちに、お腹を壊してしまって 『存在の下痢。』を書くはめになってしまった 『図書館の掟。』は、たしかに、書いているときに 体調を崩してしまって、ひどい目にあったものだけれど まだまだ続篇は書けそうだし 散文に書き直して小説の場に移してもいいかもしれない 『存在の下痢。』は、哲学的断章として書いたものだけれど 読み手には、ただ純粋に楽しんでもらえればうれしい 『年平均 6本。』は、青春の詩だ 一気に書き下ろしたものだ 「青春」という言葉は死語だけれど 「青春」自体は健在だ 現に、dionysos の同人たちは いつ会っても、みんな「青春」している 表情が、じつに生き生きとしているのだ 『熊のフリー・ハグ。』以下の作品は opusculeという感じのものだけれど これまた書いていて、たいへん楽しいものだった 読者にとっても、楽しいものであればいいと願っている 去年の1月1日の夜に コンビニで、さんまのつくねのおでんを買った 帰って、1口食べたら 食べたとたんに、げーげー吐いた 口のなかいっぱい、魚の腐った臭いがした すぐに、コンビニに戻った 「お客さんの口に合わない味だったんですよ。」と 店員に言いくるめられて、お金を返してもらっただけで、帰らされた くやしかった たしかに、そのあと、おなかは大丈夫だったけど 1月2日には、アンインストールしてはいけないものをアンインストールして パソコンを再セットアップしなければならなくなった ふたたびメールの送受信ができるようになるまで、3日の夜までかかってしまった 作業の途中で、発狂するのでは、と思うことも、しばしばであった ものすごくしんどかった パソコンについて無知であることに、あらためて気づかされた ことしの始まりは、最悪であった すさまじくむごい正月であった 詩のなかで 「世界中の不幸が、ぼくの右の手の人差し指の先に集まりますように!」 と書いたけど ほんとうに集まってしまった こんどは、こう書いておこう 世界中の幸福が、ぼくの右の手の人差し指の先に集まりますように! と ぼくたちは おそらく、ひとりでいるとき 考える対象が、何もなければ だれでもない ぼくたちでさえないのであろう 「自分が誰なのかまるで分らないのだ。」 (ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸生訳) そこにいるのは、ただ 「見も知らぬ、わけの分らぬ自分」 (ブラッドベリ『刺青の男』日付のない夜と朝、小笠原豊樹訳) であり、その自分という意識すらしないでいるときには そこにいるのは何なのだろう 自分自身のこころを決めさせているものとして考えられるものをあげていけば きりがないであろう たとえば、それは、自分の父親の記憶 ぼくの父親が ぼくや、ぼくの母親に向かって言った言葉とか その言葉を口にしていたときに父親の顔に浮かんでいた表情や そのときのぼくの気分とか そのときの母親の顔に浮かべられた表情や 母親の思いが全身から滲み出ていたそのときの母親の態度とか 反対に、そのときの思いを必死に隠そうとしていた母親の態度とか そのときの部屋や、食事に出かけたときのお店のなかでのテーブルの席とか いっしょに旅行したときの屋外の場面など その空間全体の空気というか雰囲気とかいったものであったり 本のなかに書かれていた言葉や 本のなかに出てくる登場人物の言葉であったり 恋人や友だちとのやりとりで交わされた言葉であったり 学校や職場などで知り合った人たちとの付き合いで知ったことや言葉であったり テレビやインターネットで見て知ったことや言葉であったりするのだけれども だれが、あるいは、どれが、ほんとうに、自分の意志を決定させているのか わからないことがほとんどだ というか、そんなことを 日々、時々、分々、秒々、考えて生きているわけではないのだけれど ときどき考え込んでしまって 自分の思考にぐるぐる巻きになって まれに昏睡したり 倒れてしまったりすることがある 先週の土曜日のことだ 本屋で なぜ、ぼくは、詩を書いたり 詩について考えたりしているのだろうと そんなことを考えていて、突然、めまいがして倒れてしまって その場で救急車を呼ばれて そのまま救急病院に運ばれてしまったのである シュン 点滴打たれて、その日のうちに帰っちゃったけどね 考えつめるのは、あまり身体によくないことなのかもしれない チーン 『徒然草』のなかに 「筆を持つとしぜんに何か書き、楽器を持つと音を出そうと思う。 盃を持つと酒を思い、賽(さい)を持つと攤(だ)をうとうと思う。 心はかならず何かをきっかけとして生ずる。」 (現代語訳=三木紀人) とか 「主人がいる家には、無関係な人が心まかせに入り込むことはない。 主人がいない所には、行きずりの人がむやみに立ち入り、 狐(きつね)やふくろうのような物も、人の気配に妨げられないので、 わが物顔で入って住み、木の霊などという、奇怪な形の物も出現するものである。 また、鏡には色や形がないので、あらゆる物の影がそこに現われて映るのである。 鏡に色や形があれば、物影は映るまい。 虚空は、その中に存分に物を容(い)れることができる。 われわれの心にさまざまの思いが気ままに表れて浮かぶのも、 心という実体がないからであろうか。 心に主人というものがあれば、胸のうちに、 これほど多くの思いが入ってくるはずはあるまい。」 (現代語訳=三木紀人) というのがあるんだけど 最初のものは、第117段からのもので それにある 「心はかならず何かをきっかけとして生ずる。」 という言葉は ゲーテの 「人間の精神は万物に生命を与えるが、私の心にも一つの比喩が動き出して、その崇高な力に私は抵抗することができない。」 (『花崗岩について』小栗 浩訳) といった言葉を思い出させたし あとのものは 第235段からのもので それにある 「鏡には色や形がないので、あらゆる物の影がそこに現われて映るのである。 鏡に色や形があれば、物影は映るまい。」 とか 「虚空は、その中に存分に物を容れることができる。  われわれの心にさまざまの思いが気ままに表れて浮かぶのも、  心という実体がないからであろうか。  心に主人というものがあれば、  胸のうちに、これほど多くの思いが入ってくるはずはあるまい。」 といった言葉は 「多層的に積み重なっている個々の2層ベン図  それぞれにある空集合部分が  じつは、ただ1つの空集合であって  そのことが、さまざまな概念が結びつく要因にもなっている。」 という、ぼくの2層ベン図の考え方を 髣髴とさせるものであった この空集合のことを、ぼくは しばしば、「自我」にたとえてきたのだが ヴァレリーは、語と語をつなぐものとして 「自我」というものを捉えていた あるいは、意味を形成する際に 潜在的に働く力として 「自我」というものがあると ヴァレリーは考えていたし カイエでは 本来、自我というものなどはなくて 概念と概念が結びついたときに そのたびごとに生ずるもののようにとらえていたように思えるのだけど これを思うに、ぼくのいつもの見解は ヴァレリーに負うところが、多々あるようである しかし、そういったことを考えていたのは 何も、ヴァレリーが先駆者というわけではない それは、ぼくのこれまでの詩論からも明らかなように 古代では、プラトン以前の何人もの古代ギリシア哲学者たちや プラトンその人、ならびに、新プラトン主義者たちや、ストア派の哲学者たち 近代では、汎神論者たちや、象徴派の詩人や作家たちがそうなのだが 彼らの見解とも源流を同じくするものであり それは、現代とも地続きの19世紀や20世紀の哲学者や思想家たち 詩人や作家たちの考えとも その根底にあるものは、大筋としては、ほぼ同じところにあるものと思われる ぼくが、くどいくらいに繰り返すのも ヴァレリーのいう、「自我」の役割と、その存在が 空集合を下の層としている、ぼくの2層ベン図のモデルと その2層ベン図が多層的に積み重なっているという 多層ベン図の空間モデルで10分に説明できることが それが真実であることの証左であると こころから思っているからである また、第235段にある 「主人がいる家には、無関係な人が心まかせに入り込むことはない。  主人がいない所には、行きずりの人がむやみに立ち入り、  狐やふくろうのような物も、人の気配に妨げられないので、  わが物顔で入って住み、木の霊などという、奇怪な形の物も出現するものである。」 とか 「虚空は、その中に存分に物を容れることができる。」 とかいった言葉は ぼくの 「孤独であればあるほど、同化能力が高まるのだろうか。 真空度が増せば増すほど、まわりのものを吸いつける力が強くなっていくように。」 といった言葉を思い起こさせるものでもあった このあいだ、『徒然草』を読み直していて あれっ、兼好ちゃんって ぼくによく似た考え方してるじゃん って思ったのだ チュチュチュ、イーン。パッ ううぷ ちゃあってた Aじゃない Eだ リルケは ちゃはっ 視点を変える 視点を変えるために、目の位置を変えた 両肩のところに目をつけた 像を結ぶのに、すこし時間がかかったが 目は、自然と焦点を結ぶらしく (あたりまえか。うん? あたりまえかな?) それほど時間がかからなかった 移動しているときの風景の変化は 顔に目があったときには気がつかなかったのだが ただ歩くことだけでも、とてもスリリングなものである 身体を回転させたときの景色の動くさまなど 子供の時に乗ったジェットコースターが思い出された ただ階段を下りていくだけでも、そうとう危険で まあ、壁との距離がそう思わせるのだろうけれども 顔に目があったときとは比べられない面白さだ 左右の目を、チカチカとつぶったり、あけたり 風景が著しく異なるのである 顔にあったときの目と目の距離と 肩にあるときの目と目の距離の差なんて 頭ふたつ分くらいで そんなにたいしたもんじゃないけど、目に入る風景の違いは著しい 寝る前に、ちかちかと目をつぶったり、あけたり 1つの部屋にいるのに、異なる2つの部屋にいるような気分になる 目と目のあいだが離れている人のことを「目々はなれ」と言うことがあるけど そういえば、志賀直哉、じゃなかった、ああ、石川啄木じゃなくて 漱石の知り合いの、ええと、あれは、あれは、だれだっけ? 啄木じゃなくて、ええと あ、正岡子規だ! 正岡子規がすぐれていたのは、もしかしたら 目と目の間が、あんなに離れていたからかもしれない 人間の顔の限界ぎりぎりに目が離れていたような気がする すごいことだと思う こんど、胸と背中に目をつけようと思うんだけど どんな感じになるかな あ、それより、3つも4つも いんや、いっそ、100個くらいの目だまをつけたらどうなるだろう 100もの異なる目で眺める あ、この文章って、プルーストだったね。 The Wasteless Land. で、引用してたけど じっさい、100の異なる目を持ってたら いろいろなものが違って見えるだろうね 100もの異なる目 あ 100の異なる目でも 頭が1つだから 100の異なる目でも 100の同じ目なのね 考える脳が同じ1つのものだったら じゃあ 100の目があってもダメじゃん 100の異なる目って 異なる解釈のできる能力のことなのね あたりまえのことだけれど 違った場所に目があるだけで 違って見える 違って解釈できるかな? わからないね でも生態学的に(で、いいのかな?)100もの目を持ってたら? って考えたら、ひゃー、って思っちゃうね あ、妖怪で、100目ってのがいたような気がする いたね 水木しげるのマンガに出てたなあ でも、100も目があったら、花粉症のぼくは いまより50倍も嫌な目にあうの? 50倍ってのが単純計算なんだけどね あ プチッ プチ プチ、プチ あの包装用の、透明のプチプチ 指でよくつぶすあのプチプチ プチプチのところに目をつけるのね で、指でつぶすの プチプチ プチプチって ブ ブブ ブクブホッ いつのまにか、ぼくは自分の身体にある目を プチプチ プチプチって ブ ブブ ブクブホ って で ひとりひとりが別の宇宙を持っているって書いてたのは ディックだったかな リルケだったかな ふたりとも カ行の音で終わってる あつすけ も カ行の音で終わってるね 笑 おそまつ 笑 ところで 早くも、次回作の予告 次回の dio では 失われた詩を再現する試みをするつもりである その過程も入れて、作品にするつもりである かつて、『Street Life。』というタイトルで どこかに出したのだが、それが今、手元にないのだ よい詩だったのだが、ワープロ時代の詩で データが残っていないのだ 原稿用紙に2枚ほどのものだったような気がする 覚えているかぎりでは、よい詩だったのだ ベイビー! そいつは、LOVE&BEERの いかしたポエムだったのさ (いかれたポエムだったかもね、笑。) フンッ ---------------------------- [自由詩]サイレントチンドン/ただのみきや[2021年1月16日17時48分] 愛憎喜劇 遮二無二愛そうと 血の一滴まで搾り出し 甲斐もなく 疲れ果て 熱愛と憎悪 振子は大きく揺れ始める 愛も親切も笊で受け 悪びれることのない者 理解できずに困惑する 押しつけの息苦しさ 相手が病んで見える (なぜ自分ばかり     双方そう思う 趣味の憂い 憂いは雨の引く灰色の街 化粧を滲ませたマネキンの面影 蜘蛛の巣が張った窓から見る コートの襟に包まれた乾いた薔薇の蕾 古いシャンソンのレコードのノイズ 見出しばかりで進展しないニュース 思いに濡れてまといつく経帷子 深いところから階段を上がって来る 苦笑 ロマンスの壊死 捨てられた吸殻と河面の微かな叫び 指先を黒く染める青インク ずぶ濡れで魚を買って帰る顔のない女 乗り捨てられた子供の自転車 銀色の微かな刺殺ベルが鳴った 予感 不安 少し先の未来が恐い 凝視しようとすれば震えが起きる 自分の幻が自分のすぐ先を歩いている 寒い夜だった ただ暗い道が続いていて 貧困に苛まれ 己が生を死産の子のように抱いて 黙々と暗い吹きさらしの橋を渡って行く どこかへ歩いてはいるが たどりつく場所があるのだろうか そこは温かい場所だろうか さかしま この橋は長く右に湾曲している 河口が近く水は雪と氷に覆われて見えない 濁っているのか澄んでいるのか 空もまた同じこと 時折カラスが流れて行く つかみどころのないものを次々複写して 折り畳まれた世界 季節が巡ってもいつまでも逃れられず この情景が真っ逆さまに落ちて来て 寒さで蝕むだろう わたしが冬空へ飛び降りるその時まで 図書館の女 エメラルド色の四角いソファー 搾り出したクリームみたいに腰を掛け 白い表紙の本を開く いま女と本は不可分 意識は本の世界に入り込み 言葉は心に次々と波紋を起こす 本を閉じて立ち去る時 言葉はまだ女の海を漂っている だが本の中に女はもういない 盗人 月の浮かぶ二つの琥珀を 短い指の手がそっと覆う 釘を踏み抜いたまま少年は 太陽と対峙する 蜂蜜色の時が背中を流れ 樹々は風に燃えていた 雛鳥の囀りは頭の中でぼやけ 遠く微かな蝶になる                 《2021年1月16日》 ---------------------------- [自由詩]はなれなれて/トビラ[2021年1月17日14時09分] 水面から飛んでいったよ 白鳥一羽 連れはいなくて さみしさを推進力に 二度ない羽ばたき 空に刻み 一、ニ、三の 呼びかけもなく その日になったら 後悔もなく そんな姿を見送って僕は 僕は 腕を広げるのもためらう だって だって むなしいからさ 叶えても 叶えても 満たされない 想いを抱えて 欲しい物さえ 触れる端から溶けていく いついつまでも 離れても いくつもの夕陽を沈めて生きてきた僕は 痛く優しい匂いを嗅ぐでしょう 避けられず ありふれて 差し出された手を取ったら 黄色の証明 捺印されたノート 三月を区切りに 変わっていく世界に 変わらない歩幅で 渡り鳥みたいに 昨日に手を振る 卒業式の帰り道 オレンジ色の僕の道 ---------------------------- [自由詩]勿忘草/トビラ[2021年1月19日13時40分] なくしたことさえ忘れてた 時計が引き出しの奥で 止まらずにずっと動いていたんだ なんで なんで 止まって しまって いなかったんだろう ずっと ずっと 動いていたんだろう 今、あの日とここが重なりあって 歪んだ境界線は 閉じたはずだったのに 泣きだしそうな感情あふれ 涙腺崩壊 止まれまぶたに 泣きたくないのに泣いた夜は 本当は泣きたい夜であって 涙腺と一緒に壊した あの日に見失った時が動く なんで きづいてしまったんだろう きづいたらもう 傷ついても 止まれないじゃないか どうして 多面的な夢が乱反射 これじゃもう観覧者じゃいられない 壊れはじめた 動きはじめた 忘れることはもう諦めて 血管走る 羅針のふれた先の 薄明るい 空をたしかめ 幾千なんて 簡単に言わない はみ出したっていいのに なんで、僕は、忘れて、逃げて それをよしとしていたんだ 最期まで燃やし尽くす 長距離走の発火回路だって いいね ---------------------------- [自由詩]夜の信号/服部 剛[2021年1月20日18時49分] 今日もふらふら 音のない家へ帰る男の背中は 言葉にならない寂しさを醸(かも)し出す   〈人生はひまつぶし〉と嘆く男の一日は 二十四時間ではなく  長さの計れぬ夜なのだ  この街の所々には  独りの人がいて  それぞれの胸に灯る信号は、点滅している  ある散歩者は人気(ひとけ)ない夜道をコツコツ歩き  隠れた人の心の信号を、そっと見つめる  ――誰もこの手ですくえない そう呟(つぶや)きながら、散歩者は  日々聞き流されてゆく、独りの声を拾おうと  夜の静寂(しじま)をコツコツと往く  ---------------------------- [自由詩]本を買うんだ/道草次郎[2021年1月22日3時09分] たくさんな人のたくさんなこころ そのどれをとっても たった一つのものだ 少し離れていればよだかの星か天の蠍に それは 見えるけれど 近寄ればすぐ灼かれてしまう ぼくはあす 近くのBOOK・OFFで 700円が110円になるのを一年近く待っている エリアーデの『世界宗教史〈1〉石器時代からエレウシスの密儀まで』(上) (ちくま学芸文庫) を買うだろう もう待てないのだ 下巻を買う金もなく 上巻のみを買うだろう それが あすへぼくを運ぶ舟となる ---------------------------- (ファイルの終わり)