ひだかたけしのおすすめリスト 2021年11月24日18時32分から2021年12月6日1時19分まで ---------------------------- [自由詩]cycle/ゆるこ[2021年11月24日18時32分] ふるえる液体のように言葉をこぼす その重なりの中のささやかな日常 計測地点からの風景 穏やかに心を柔らかくする 秋の夕暮れ、日差しの降った跡 乾いた血液はさらさらと夜の砂漠に行くよ 瞳を瞑り、考える 宇宙のこと、明日の朝ごはんのスープの具材のこと 滞った支払いのこと、あなたに伝える言葉の次に繋げるif ・ 揺れるように、囁くように 海の街を走る静かな列車のように あの街の風の中の人たちのように 日々を愛せるように ・ ---------------------------- [自由詩]穂渡り/AB(なかほど)[2021年11月24日19時01分] 穂渡りの君が 口笛を吹く 錦糸町にお蚕さんの面影を重ねてみる ほら そんなふうに季節を忘れた町に 探している何かを求めている 探している 穂渡りの君が 嘘をつく 季節は季節はと言いながら 何も変わらない規則正しい日常を 田町から迎える景色を 愛してる、愛しんでいる。慈しんでいる でもなんでもいい 愛でている 穂渡りの君は 季節の上を寝床にして 神田のあちらとこちらで どちらかというと僕はこちらが好きで とか言いながら ああ、 こんな立呑屋で酔えるのは 秋も終わりかなぁ、なんて 穂渡りの僕は なんやかんやと言いながら 昔、裸族禁止と看板があったあたりの フェンスの向こう 流れる呑川に捨てた気持ち それをまた拾い集める年にもなって ああ、あれもこれもだ あれもこれも 君の、僕の、思い出だ こぼれ落ちてくものを 掬いながら 穂渡りの季節が過ぎる    ---------------------------- [自由詩]水/津煙保存[2021年11月25日17時30分] 施錠された雨へたどりつくまでの足取り 輝ける虚空の大理石に屈服してしまうわたしの  一歩を待つ夜を繋いだ 白熱灯が光る死角を擦れ 吸った湿気る一悶着に 手を打ち鳴らせば砂塵の 舐めるは赤茶の風の眼 浸す午前二時の肩口より   追いつけない速度で山が九月をのぼりつづけた ---------------------------- [自由詩]そこのはて/はるな[2021年11月27日16時25分] 暮れ、底に 打ついて聞こえる淋しい声は 違う違うといっている 朝焼けや紅葉の美しいのに 体ははたらかず 心ばかり出掛ける そうしてそのいっさいが失われようというときにはじめて この指が 火を付けようとする 気持はいつもさきに燃えている あまりにはやすぎて もえつきてしまった ---------------------------- [自由詩]頼むから一人にしてくれ/ホロウ・シカエルボク[2021年11月27日17時55分] 世間、世間、世間世間世間、あんたら世間好きだねぇ、世間っていったい何だい、そいつは実体のあるものかい?そんなにムキになるくらい、素晴らしいもんなのかい?まったくどいつもこいつも二言目には世間ってそういうものとかなんだとか、判で押したようなことしか言わねえ、まるで台詞の少ないエキストラみたいにさ、あんたら、世間ってどういうもんだか知ってんのかい?世間ってのはさ、社会ってのは…ごくごく一般的な人間が蠢いてる場所っていうのはさ、自分一人では自分を築けない、そんな連中の松葉杖みたいなもんなんだよ、まったくさ、あんたがたはいつも、その中に居て、その中で知ることだけが大事みたいな口をきくけどさ、そんなもんたいしたことじゃないんだよ、それは、人間の生きる形態の、標準的な側面に過ぎないんだ、なのにあんたがたときたら、来る日も来る日もそれだけが正解みたいなふうに言いやがって、ほんとさ、言っちゃなんだけど、お笑い草だよそれ、自分の頭でものを考えたことがない人間の専売特許ってやつさ、そんな、愚かな連中がさ、寄り合って作るものなんかたかがしれてんじゃん?その不具合を全部さ、あんたたちは、そういうものって言って誤魔化してるってわけなのよ、だいたいさあ、物事なんて常に変化し続けてるのがデフォルトなんだからさ、変わらないものに固執してる時点でどうかと思うわけよ、俺はね―自殺ってあるじゃない、多いよねこの国、でもさ、俺らみんな慣れっこになってんじゃん?冷静に考えてみなよ、毎年数万人が死んでんだぜ、自分にガソリンぶっかけて焼いたりさ、高いビルから飛び降りたり、車の中でガスとか練炭さ、目張りしてね…あとはなんだ、電車に飛び込むとかか、酷いのになると、自分は死なないで他人を巻き込もうとするじゃない、こないだもあったよね、電車の中でさ…ニュースにならないだけで、たくさんの人間が自ら死を選んでる、そんなの絶対まともなことじゃないよねぇ?だけどあんたたちはそういうもんだと納得してる、人が自ら命を絶つことに慣れっこになってる、なんでだろうね?なんでだと思う?教えてやろうか…だって、そいつをおかしなことだと認めてしまったら、世間ってやつをイチから変えなきゃどうしようもなくなっちまうからさ、だから、そいつらには毎年、死に続けてもらっておかないとしょうがないわけさ、変な話だろう?全く万事、世間っていうのはそんな調子なんだぜ―あんたがたには驚くほどオリジナリティってもんがない、自分の力で意識を構築したことがないからさ、なんとなくの世界になんとなく従って、なんとなく大きくなっちまったから、なんとなくの枠内でならそこそこいい仕事が出来るけど、それ以外の場所に出たらなんも出来なくなっちまうんだ、つまりさ、たった一人って概念がないんだよ、あんたらにゃ…世間なんて、世の中なんて、誰が総理大臣になったって、選挙で誰が選ばれたって一ミリも変わりゃしないよ、その中に居る人間たちは変わりようがないんだもの、どろんとした目をしてさ、あてがわれたものを馬鹿正直に必死になって、何十年も何十年もこなしては年金でつつましく暮らして死ぬだけなんだ、あんたらそんな生活を幸せだって信じてるんだぜ、昔っからそう言われて育てられてきたからさ、まったく、そんなやつらが余所の国の文化をどうのこうの言ったりしてるんだから、笑っちまうよなぁ?人間は一度、自分に覆いかぶさっている枠を全部取っ払うべきだ、その時に見えるものこそが真実さ、その時に感じるものこそが真実であるべきだろう、だってそこには前提がなにもないんだから、あんたがたは、前提のもとに生きたことしかないんだから、俺は一度全部、ぶっ壊れちまえばいいと思う、戦争でもなんでもして、俺たちは殺し方を学ぶべきだと思う、そうすればその分、懸命に生きようと思うかもしれないじゃないか、激しいショック、骨の髄まで染み込んだ日常をぶち壊してくれる絶対的なパワー、もちろん、俺は極端な話をしているよ、そうでなけりゃ分からない連中がたくさん居るからね、世間?対面?肩書?年収?金がない男には首がない?お前らそれのせいで首が回らないんじゃないのかい、俺は常に、知らないものについて知り続けたい、そして、知ったものをとことんまで突き詰めていきたい、俺の邪魔すんなよ、俺のやってること分からなくてもいいから、俺の邪魔すんなよ、俺がどうしてこんなこと書いてるのか分かんなくてもいいからさ…もとより俺だって伝わりゃしないよって思いながら喋ってんだ、だけど俺は、相互理解の為にこんなこと垂れ流してんじゃないからさ、俺は自分を忘れないために生きてるんだ、欲望に従って、人間なりの野性ってやつをここに確立させようと躍起になってるんだ、悪いんだけど興味ないんだよ、世間様なんて巨大な生きもんにはさ…。 https://www.youtube.com/watch?v=ORr-ec1f1C4 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一八年八月一日─三十一日/田中宏輔[2021年11月29日15時27分] 二〇一八年八月一日 「どくろ杯」  いま日知庵から帰った。帰りに、セブイレで、きんつばと、玄米茶を買った。寝るまえの読書は、なんにしようかな。きょうのお昼には、金子光晴の『どくろ杯』のつづきを読んでいた。日本の作家ではめずらしく付箋をした。キーツ詩集も中途だし、スタージョンの短篇集の再読もまだだし、本が多いと悩む。 二〇一八年八月二日 「年収200万円」  ぼくは、年収200万円くらいですが、自費出版はしていますよ。簡単にお金なんて溜まります。気力があれば。すでに自費出版に、1500万円くらい使いました。 二〇一八年八月三日 「金子光晴と草野心平」  お昼に金子光晴の『どくろ杯』のつづきを読んでいたのだが、草野心平のことが嫌いだったらしく、草野心平って、わりと詩人たちに嫌われていたのだなあと思った。西脇順三郎とも仲が悪かったんじゃなかったかな。  お昼から塾の夏期講習なんだけど、それまで時間があるから、金子光晴の『どくろ杯』のつづきを読もう。会話がほとんどなくて、字がびっしり詰まっているけど、読むのに苦労はしない。なによりも、おもしろいからだろうけれど。日本人の作家の作品で、こんなにおもしろいのは、大岡昇平の『野火』以来かな。 二〇一八年八月四日 「死の姉妹」  堀川五条のブックオフで、吸血鬼アンソロジー『死の姉妹』を108円で買い直した。むかし読んだけど、だれかに譲ったみたいで、部屋の本棚にはない本だった。M・ジョン・ハリスンの作品が冒頭に置かれていたので、もう一度、買ったのだ。タイトルを見ても、一作も読んだ記憶にないものばかりだった。じっさい、冒頭のM・ジョン・ハリスンの作品「からっぽ」を読んでも記憶になかったものだった。また、再読したのだけど、M・ジョン・ハリスンの「からっぽ」は意味があまりわからない作品だった。長篇の『ライト』(国書刊行会)や『パステル都市』(サンリオSF文庫)はすばらしかったのだけれど。  日知庵の帰りに、きんつばと、麦茶を買ってきた。きょうは、これで終わりだな。おやすみ、グッジョブ! 二〇一八年八月五日 「うんこをもらしてしまった。」  日知庵からの帰り、阪急電車に乗るまえにきゅうにお腹が痛くなってトイレに入ったのだが、間に合わず、ちょっとうんこをもらしてしまった。うんこのついたパンツをクズかごにすてた。濡れたズボンのまま、帰りにセブイレで、きんつばと麦茶を買って帰った。笑。この時間ですけれど、いま洗濯しています。ズボンが濡れたのは、おしっこでだけだったのだけれどね。あーあ、57歳にして、駅のトイレで、おしっこを漏らすとは、笑。あと一秒はやく便座に坐れていたらよかったのだけれど。齢をとると、この、あと一秒というのが意外に多くなるのであった。年に一度は、うんこをもらすぼくであった。 二〇一八年八月六日 「小島きみ子さん」  小島きみ子さんから『エウメニデス?』第56号を送っていただいた。よく名前の知られた詩人たちが12人もいらっしゃってて、なかのおひとり、杉中昌樹さんは、ご自分の詩とともに、小島きみ子さんの詩集『僕らの、「罪と/秘密」の金属でできた本』についての論考も書いてらっしゃる。最新の現代詩!  きみやで、ファッション・カメラマンのジョンさんを紹介される。ジョンさんからは、西院のジェラート屋さんのカフェラッテを紹介される。人間のつながりって、ほんとに不思議。寝るまえの読書は、きょう、小島きみ子さんにいただいた、『エウメニデス?』第56号のつづき、海埜今日子さんの作品から。 二〇一八年八月七日 「クーラー全開」 クーラー全開にしたら、熱力学的に、よけい熱が生じると思うのだが。 二〇一八年八月八日 「厭な物語」  ちょっとまえに日知庵から帰ってきた。きょうは、帰りのセブイレで、108円の水もちと、108円の麦茶を買った。あしたは、お昼の1時から塾の夏期講習だから、もう寝る。きのうの寝るまえの読書で、吸血鬼のアンソロジー『死の姉妹』を読んでいたのだが、ああ、こういう視点があるのかと思った。 『エウメニデス ?』第56号に収められている詩で、いちばん共感したのは、小笠原鳥類さんの作品「「夜についての詩論」詩論」だった。これまでは、ぼくには苦手な詩人だったのだが、この作品はとても読みやすい、わかりやすい作品だった。ユリイカの5月号に掲載されたぼくの詩に似てるとも思った。  いま再読したけれど、似ていないや。どこが似ていると思わせたのだろう。言葉をリフレインさせているところかな。でも、ぼくのは作品の一部だけリフレインさせているだけだからな。言葉の置き方だろうか。いや違うな。どこだろう。読んでるときのここちよさかな。こんな言葉くらいでしか表現できない。  ぼくには、詩がわからないというひとがわかりません。ただ自分の好みの詩に出合ったことがないだけなのでしょうけれど、また詩が芸術として、いかにすばらしいものか、いかにひとの人生を左右するものなのかということを知るひとが少ないということが、日本の国語という教科の問題でもあると思います。アメリカ人の同僚の先生に訊くと、アメリカでは、現代詩は教養として、当然教えられるものらしいです。ふつうの英語の先生ですが、エズラ・パウンドのことなども詳しく知っておられました。日本の教養人と呼ばれるひとたちは現代詩を読んでいるのでしょうか? むかしは読んでいたような気がしますが。  2時間くらいしか寝てない。もう寝られないや。午後一時から塾なんだけど、それまで吸血鬼アンソロジー『死の姉妹』のつづきでも読もうかなと思っている。むかし読んだけど、例のごとく、いっさい記憶にないのであった。  譲った本がまた欲しくなった。『厭な物語』というアンソロジーだ。ただ一作フラナリー・オコナーの作品が再読したかったからだが、このフラナリー・オコナーの全短篇集の上下巻も手放してしまったのであった。まあ、読み直したいのは、『厭な物語』に入っている「善人はなかなかいない」だけだけれど。 二〇一八年八月九日 「ソーリー。」  けさは6時すぎに起きた。隣人が大きな音でテレビをつけてて、その音で目が覚めたのだった。2時間くらいの睡眠だが、もう眠くない。お昼から夜の9時半まで仕事だから、もう起きたまま、これからマクドナルドに行って吸血鬼アンソロジー『死の姉妹』のつづきを読む。  いま日知庵から帰ってきた。帰りに、河原町のストリートで、二十歳くらいの男の子がゴミ袋を友だちに向けて蹴ったのが、ぼくの右足の爪先にあたったので、その子が「ソーリー。」と言って握手を求めてきたのだけれど、ぼくは笑顔を向けて笑って通り過ぎるだけだった。白人によく間違えられるのだった。  日知庵に行くまえは、お昼から塾で夏期講習のお仕事をしていたのだけれど、塾に行くまえに、五条堀川のブックオフの108円のコーナーに、むかし読んで友人に譲った、文春文庫の、恐怖とエロスの物語?の短篇集『筋肉男のハロウィーン』の背表紙を見て、なかをパラパラ見て買うことにして買い直した。 さいきん、手放した本の買い直しが多い。ブックオフのせいだ。  きょうは、塾の授業の合間に、吸血鬼のアンソロジー『死の姉妹』のつづきを3篇ほど読んでいたのだが、よかった。とくに、いま、あと数ページで読み終わるという、ジョージ・アレック・エフィンジャーの「マリードと血の臭跡」がよい。エフィンジャーの電脳シリーズ三作は手放してなくて、本棚にある。 二〇一八年八月十日 「コードウェイナー・スミス」  けさの5時くらいに寝たのに、6時過ぎに起こされた。隣人が窓を開けっぱなしにして、大音量でテレビを観だしたからだ。ぼくも洗濯をして対抗してやってる。きょうはお昼から塾の夏期講習だけど、お昼からだから、このまま二度寝せずに、起きて仕事に行くかもしれない。ちきしょう。なんつう隣人だ。  いまコードウェイナー・スミスの全短篇集の三巻本の第三部、さいごの短篇集が出ている。西院のブックファーストに買いに行く。全短篇集が出るまえのものもスミスの作品はすべて持っていて、いまも本棚にある。ひとに譲らなかったのだ。初訳の作品が4篇も入っているらしい。  売っていなかった。訊くと、そもそも入荷していなかったという。トールサイズの長篇の『ノーストリリア』や、全短篇集の第一巻や第二巻はあったのだけれど。売れなかったから、新しいのは入荷しなかったんだな。昼から夕方の塾の夏期講習が終わって、夜に日知庵に行くまえに、ジュンク堂で買おうっと。  いま、日知庵から帰った。行きしなに、ジュンク堂ではなくて、丸善で、コードウェイナー・スミスの全短篇集・第3巻『三惑星の探究』を買った。1冊しか置いてなかった。  きょうも、せいいっぱい生きた。寝るまえの読書は、吸血鬼アンソロジーの『死の姉妹』のつづきを。ブックオフの108円コーナーは、バカにできないのだ。古本市場では、105円で、単行本の『エミリ・ディキンスン評伝』を手に入れたことがある。いまでも宝物だ。  ノブユキが自転車のカゴのなかから、ぼくのからだを持ち上げると、ぼくはシッポをプルンプルンと振り回した。ノブユキが、「かわいいな、おまえは。」と言ってくれたので、ぼくは4つに割れた唇をのばして、ノブユキの唇にチュッとキッスをした。ノブユキもそれにこたえてチュッとキッスをしてくれた。 二〇一八年八月十一日 「ケビン・シモンズさん」  ケビン・シモンズさんへ、ぼくの友人が出版をしていまして、Collective Brightness の全訳を出版したいと言っているのですが、ケビン・シモンズさんのメールアドレスを教えてもよいでしょうか?  いま日知庵から帰った。あしたも日知庵だけど、ぼくのアルバイトの時間は5時から。 二〇一八年八月十二日 「ジェイムズ・メリル」  ジェイムズ・メリルの「サンドーヴァーの光」三部作がおもしろかったですよ。とりわけ、第二部の『ミラベルの数の書』が、おもしろかったです。あと、英語で読まれるのでしたら、キングズリー・エイミスが編んだアンソロジー「LIGHT VERSE」(Oxford Paperbacks)が笑えるような詩を多く収めています。  いま、コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』を読んでいるのだが、なつかしい言葉を見つけた。44ページの5行目の「(…)若さっていうのは、すぐ治る病気なんだ。ちがうかい?」(『宝石の惑星』4、伊藤典夫訳)読んだ記憶のない作品だ。解説を読むと、SFマガジンには訳されている。SFマガジンも、むかしはときどき読んでたから、そこでかな。一九九三年八月号らしい。読んでた時期かもしれない。全短篇集発行以前の本にはなかったと思う。きょうは、ここらでクスリをのもうかな。おやすみ、グッジョブ! 二〇一八年八月十三日 「コードウェイナー・スミス」  きょうも寝るまえの読書は、コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』のつづきを。あしたは、夕方に塾。塾の帰りに、日知庵で飲む。そろそろ、つぎに出す詩論集と詩集の準備をしようと思うのだが、こう暑くては精神集中ができない。秋になって、涼しくなってから、と思っている。  コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』のつづきを読んでいるのだが、ところどころに出てくる人間への観察の行き届いたまなざしが、すてきに表現されている。付箋だらけだ。やはり読む価値のある作家だ。再読する短篇もあるだろうけれど、それもまた楽しみだ。なによりも忘れているからね。 二〇一八年八月十四日 「藤井晴美さんと倉石信乃さん」  いま日知庵から帰った。きょうは、塾のあと、帰りに日知庵に寄って、お酒をのんでいたのであった。帰ってきたら、郵便受けに、3冊の本が届いていた。2冊は、Amazon で、ぼくが買ったデュ・モーリアの短篇集『鳥』、もう一冊は文春文庫のホラーとエロスの短篇集『レベッカ・ポールソンのお告げ』だ。古書なのに、デュ・モーリアの短篇集『鳥』が新刊本のようにきれいなので、いま、ぼくの顔は満面の笑みだと思う。ヤケがまったくないのだ。390円だった。送料は257円だった。一方、そんなに傷んでいないけれど、ヤケのある『レベッカ・ポールソーンのお告げ』は51円で、送料が300円だった。あと1冊は、藤井晴美さんから、詩集『大顎』を送っていただいた。たいへん美しい装丁なので、どこからなのだろうと思って、見たら、七月堂からだった。さっそく読みはじめると、そこらじゅうに、ぼくの目をひく詩句があったのだった。  フランク・ハーバートの『砂丘の大聖堂』三部作や、『砂丘の子供たち』三部作、また、ポール・アンダースンの『百万年の船』三部作のように、3冊の表紙を合わせて、一枚の絵になるようなものが、むかしは、ハヤカワSF文庫から出ていたのであった。  ぼくの好きな表紙の本たちは、クリアファイルを細工して箱型にして閉じ込め、本棚の前部に飾れるようにしてあるのだ。ぼくの本棚は、ぼくの好きな本の好きな表紙でいっぱいなのだった。きょう寝るまえの読書は、きょう、送っていただいた藤井晴美さんの詩集『大顎』のつづきを。おやすみ、グッジョブ!  倉石信乃さんから、詩集『使い』を送っていただいた。倉石さんの詩は、もう30年近くむかし、ユリイカの投稿欄で毎月のように目にしていて、おもしろい書き方をされる方だなあと思っていた。1989年のころのことだと記憶している。詩集の奥付に「一九八九年 ユリイカの新人」と書いてあったが、それでは、ぼくの記憶と一年ずれる。ぼくが一九九一年のユリイカの新人に選ばれる一年前のことだから、一九九〇年の新人だと思うのだけれど、まあ、そんなことはいいか、倉石さんの詩集『使い』を読んでいるあいだ、つねにガートルード・スタインの文体を思い出していた。対句的なフレーズの反復とずれの手法が似ていると思ったのだった。倉石さんの実生活がどのようなものであるのかは、この詩集『使い』からは、いっさいわからない。というか、じつは、何を書いてらっしゃるのかもわからないのだが、魅力的なフレーズが随所に出てくるので、読んでいて、ハラハラさせられ通しだったのである。とりわけ、つぎの箇所に、こころひかれた。9ページの4〜7行目、34ページの4行目、63ページのうしろから2行目、71ページの4行目、89ページの3〜5行目、94ページの10行目、96ページの5行目、101ページのうしろから1行目〜102ページ2行目まで、106ページの3、4行目。以上の文章は、クリアファイルのなかにあった、きょう、ふと見つけたメモから書き起こしたものである。もしかしたら、以前にも、倉石信乃さんの詩集『使い』について書いたかもしれない。だとしたら、ごめんなさい。  藤井晴美さんの詩集『大顎』(七月堂)怪物的なおもしろさだった。部分引用をしようと思ったのだけれど、後半部にいたり、全文引用しなければならなくなってしまうほどのおもしろさだったのだ。藤井さん、男性かもしれず。そのような記述もあるのだが、現代のロートレアモン伯爵といった印象を受けた。いずれなんらかの賞を受賞されるだろう。完璧な出来だと思われる。すばらしい詩集である。橘 上さんと同様に、詩壇で重きを置かれる立場になられるだろう。それとも、すでに有名な方で、ぼくが知らなかっただけなのかもしれない。この詩集は確実に最高の評価をされるだろう。後半部分は全文引用しなければならないほど完璧な出来だったので引用しない。前半部分もすばらしい出来だったのだが、まだ部分引用できる気配があったので、詩集の前半部分から、ぼくが感銘を受けた場所を引用してみよう。8ページ「あなたの外部とは、ぼくより軽い、しかも同心の過去なんだ。だから外部さ。」13ページ「神は神ができないこともする。」15ページ「住宅地をゆっくりと、立ち止まりながら犬の散歩をさせる宇宙人あるいは武士または泥棒ではないかもしれない猿のように、原因のない世界が広がっているとしたら、ぼくは法外な電波に煽られて。うずくまる扇風機のような男だった。」同じく15ページ「何もないところから泥仕合の場に持ってきた。ぼくは生まれたのだ。植物として。背中に。」22ページ「こちらも重労働ではなかった。軽いんだよ。量子的私。それでもたどたどしいんだよ。」32ページ「呼び止められて思わぬ濡れ衣を着せられる。はがれていく場面のつぎはぎ。」後半部および前半部のいくつもの詩は、部分引用ができない。完璧な詩句がつづくからだ。数年まえに、橘 上さんというすばらしい詩人を知ったのだが、また新たにものすごくすごい詩人に出合うことができて、うれしい。よくぞ、ぼくのような無名の詩人にご傑作を送っていただいたものだ。実に光栄に思う。 二〇一八年八月十五日 「藤井晴美さん」  クスリのんだ。寝るまえの読書は、コードウェイナー・スミスの全短篇集・第3巻『三惑星の探究』のつづきを。おやすみ、グッジョブ!  めっちゃすばらしい詩集『大顎』(七月堂)を出された藤井晴美さんのお名前をグーグルで検索したら、たくさんの詩集が出てきた。ベテランの方だったんですね。ぼくが世間知らず、いや、詩壇知らずでした。 二〇一八年八月十六日 「大谷良太くん」  いま日知庵から帰ってきた。大谷良太くんと、ばったりあった。寝るまえの読書は、コードウェイナー・スミスの全短篇集・第3巻『三惑星の探究』のつづきを。 二〇一八年八月十七日 「太陽パンツ」  いま日知庵から帰ってきた。あしたは、月に一度の、神経科医院に。処方箋だけだから、電話で予約すればよいだけ。クスリがなくなった。これからのむ分で終わり。もう少しきついクスリをとも思うが、クスリをかえて、異変が起こったら怖いし、同じクスリを処方してもらおう。寝るまえの読書は、スミス。  日知庵からの帰り道、河原町通りを歩いていると、男女のカップルの男の子のほうが「太陽パンツが……」という言葉を口にしたのを、ぼくの耳がキャッチした。いまグーグルで検索したら、出てきた。ちょっと、ふんどしテイストのある男性用下着のことだったんだね。まるで詩語のような響きのある言葉だ。 二〇一八年八月十八日 「コードウェイナー・スミス」    いま起きて、病院に電話した。病院に行くまで、コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』のつづきを読もう。今で、半分くらい。 二〇一八年八月十九日 「翻訳プロジェクト」  2、30分まえに、日知庵から帰ってきた。イレギュラーで、あしたも日知庵でアルバイト。がんばろう。あした昼間に時間があったら、西院で岩波文庫から出てるロバート・フロストの詩集を買おう。フロストの訳は、いくつか持っているんだけど、かぶらないものもあるだろうからって、期待は大きいのだ。  大がかりな翻訳プロジェクトが始動しそうだ。ぼくも翻訳家として参加する。というか、ぼくと、ある詩人の方とで翻訳するので、共同訳ということになる。数年はかかると思うけれど、がんばろう。また英語づけの日々がやってくると思うと、ちょっと、へた〜ってなるけれど、笑。翻訳って、しんどいしね。 二〇一八年八月二十日 「対訳 フロスト詩集」  西院のブックファーストに行ったら、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』がなかった。これから河原町のジュンク堂に行って買ってくる。  河原町のジュンク堂で、『対訳 フロスト詩集』(岩波文庫)を買ってきた。840円ちょっと。ポイントを使ったので、正確にわからず。名作と呼ばれるものは、だいたい入っているようだ。ぼくも訳したことのある2つの詩、「After Apple-Picking」と「Birches」も入っていたが、ぼくの訳のほうがよい。この詩集は、岩波文庫の対訳詩集にありがちな直訳である。やはり、詩人的な気質をもった翻訳者か、詩人が翻訳者でないと、詩としては、訳が不満足なものになるのだろう。「After Apple-Picking」なんて、どう読んでも、それはあかんやろうという訳出部分があった。と、こう他人を批判したのだから、ぼくが翻訳するときには、神経を研ぎ澄ませて翻訳に取りかかろう。  きのう、コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』を読み終わったので、これから岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読む。そのまえに、吸血鬼アンソロジー『死の姉妹』とスミスの『三惑星の探究』のルーズリーフ作業をしようっと。夕方から日知庵でアルバイトだから、その時間まで作業かも。  吸血鬼アンソロジー『死の姉妹』と、コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』のルーズリーフ作業が終わった。30分くらい時間があるので、麦茶でも飲みながら、きょうジュンク堂で買った岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』の序文でも読もうかな。この分、翻訳に回せと思う。9ページもある。  さきほど日知庵から帰った。帰り道、虎とか鹿とかのコスチュームを着た外国人がカラオケ屋のまえで、おどけてた。日本の、京都の繁華街である、河原町通りでのことである。国際色は豊かだが、なんだか下品に感じた。京都は静かな方が似合っているような気がするのだった。ぼくの偏見かな〜。どうだろ。  きょうから寝るまえの読書は、デュ・モーリアの短篇集『鳥』である。創元推理文庫の評判のよい短篇集なので、ひじょうに楽しみ。  ジャンプ台から本のなかに跳び込む。行と行のあいだを泳ぐ。ページの端に行き着くとターンして、つぎの行間に身をひるがえさせる。そうして、ページのなかをスイスイと泳ぎ渡って行く。なにが書かれているのかは、水が教えてくれる。言葉を浮かべているページのなかの水だ。水がほんとうは言葉なのだ。 二〇一八年八月二十一日 「デュ・モーリア」  創元推理文庫のデュ・モーリアの短篇集『鳥』の冒頭の「恋人」がとてもおもしろかったので、西院に行き、ブックファーストで、デュ・モーリアの短篇集『人形』を買ってきた。新刊本はやっぱりいいな。とてもきれい。『鳥』は古書で買ったけれど、新刊本のようにきれいだった。きれいな本は大好き。で、デュ・モーリアの短篇集をそろえたいと思ったので、きょうブックファーストには置いてなかったデュ・モーリアの短篇集『いま見てはいけない』を予約した。近くのブックファーストに置いてあるのでってことで、22日には届くそう。これもまた楽しみ。  ブックファーストの文春文庫のコーナーに、以前、持ってた短篇集『厭な物語』が置いてあったので、ついでに買った。友人に譲ったのだけれど、収録されている、フラナリー・オコナーの「善人はそういない」が再読したかったからだ。きょうは、財布のひもがゆるかったみたいだ。こころがゆるかったのか。西院のブックファーストはビルの2階にあって、その一階に、ぼくがよく行くブレッズプラスがある。そこでチーズハムサンドイッチとアイスダージリンティーを注文して食べた。50円引きの券付きのチラシをもらったのだけれど、喫茶コーナーのことをイートインスペースって言うんだね、はじめて知った。  帰りに、セブイレで、きんつばを買ってきたので、おやつにこれを食べてから、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読む。翻訳が直訳なので、どうしても批判的に見てしまうぼくがいる。ぼくって、意地が悪いのかな。うううん。ぼく自身が英詩の翻訳をやってなければ、そうでもなかったかもしれないなあ。  岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読んでいるのだけれど、いま半分くらいのとこ、「After Apple-Picking」の訳のとこで、この訳の一部分に不満だったのだけれど、それまでのところの訳はよかった。二度ほど眠気に催されたが、それはロバート・フロストの原作のせいだし、時代のせいだとも思われる。  スーパーで、そうめんを買って、そばつゆを買ってきて、食べよう。そうめんは、水でときほぐすだけのものがよい。もう十年くらい、調理をしていないので、包丁もさわれない。湯を沸かすのも面倒だ。文学では面倒な作品をつくったり、面倒な翻訳はするのだけれど。それでは、スーパーに行ってきま〜す。  そとに出たら歩いてみたくなって、西大路四条のあがったところにある「天下一品」に入って、チャーハン定食880円を食べて、また歩いて帰った。はじめは近所のスーパー「ライフ」に行くつもりだったのだけれど。気まぐれなのである。さて、これからまた、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読もう。  寝っころがって、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読んでいるのだが、右の肩甲骨のあたりに小さな火山ほどの大きさのできものができて、それがつぶれて、着ているものが汚れるうえに、痛くて痛くてたまらないのだけども、これも神さまが、ぼくに与えてくださった試練のひとつかもしれないとも思う。  ぼくも楽天のブログにフロストの詩を翻訳しているけれど、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』の翻訳者の川本皓嗣さんは「Berches」に出てくる ice-storms の訳語を「凍る雨嵐」とされて「アイス・ストーム」というルビを振ってらっしゃるのだけれど、「雪嵐」という訳語のほうが適切ではないだろうか。  なぜ、その訳語に、ぼくがこだわるかというと、ぼく自身が、その訳語に悩んだからだ。親しい先生に相談したら、ice-storms の訳語はありますよ。「雪嵐」ですよと教えてくれたのだった。  いま、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読み終わった。読んだことがあるなと思った詩がいくつもあったが、それはぼくが、つぎに紹介する、ぼくのブログに訳したものだった。それにしても、この「対訳 フロスト詩集」に収められた「Fire and Ice」 の訳はへたくそだった。 https://plaza.rakuten.co.jp/tanayann/diary/201703300000/… いちじくの絵を見て、いちじくが食べたくなった。 二〇一八年八月二十二日 「柴田 望さん」  さっき日知庵から帰ってきた。シャワーを浴び、横になって、デュ・モーリアの短篇集『鳥』のつづきを読んで寝よう。いま、タイトル作品を読んでいるところ。デュ・モーリアは、P・D・ジェイムズばりに描写力が圧倒的で、なおかつ、P・D・ジェイムズほど読むのが苦痛ではない、すばらしい作家である。  ありゃ、ま。デュ・モーリアの作品、すでに読んでたことがわかった。早川書房の異色作家短篇集・第10巻の『破局』である。ことし読み直したシリーズなんだけど、記憶にまったくない。なにが入っていたのかの記憶もない。なにを読んだのかの記憶がまったくない。なんという忘却力。57歳。ジジイだ。  柴田 望さんから、詩誌『フラジゃイル』第3号を送っていただいた。柴田 望さんはじめ、10名の方が詩を書いてらっしゃる。吉増剛造さんの詩集『火ノ刺繍』の特集というか、詩集評と、これは、ぼくが漢字が読めないのだが、なんとか談が掲載されている。IPパッドで調べても出てこない漢字だった。  たしか、「けん」と読む漢字だったと思うのだけれど、それでは出てこなかった。ところで、いま、デュ・モーリアの短篇集『鳥』を読んでたところなのだが、さきに、きょう柴田 望さんに送っていただいた詩誌『フラジゃイル』第3号を読もう。最新の現代詩が読めるのかと思うと、こころドキドキである。 二〇一八年八月二十三日 「デュ・モーリア」  いま、西院のブックファーストで、注文していたデュ・モーリアの短篇集『いま見てはいけない』を買ってきた。帰りに、ブレッズプラスで、チーズハムサンドイッチとアイスダージリンティーをいただいた。帰りに、セブイレで、きんつばと、麦茶を買った。ああ、なんて単調な生活なこと。きょうは休みだ。  デュ・モーリアの『いま見てはいけない』の表紙をよく見ると、折れて曲がっていた。キーっとなった。もう二度とブックファーストで新刊本を買わないぞと思った。めちゃくちゃ、腹が立つ。ほんとうに、本は、表紙が命なんだぞと思う。うう、ほんとに腹が立つ  いまさっき、日知庵から帰ってきた。きょうは、お客さまに、「ツボ専」という言葉を教わった。「オケ専」という言葉は、棺桶に片足を突っ込んだようなジジイを好む若者のことで、ぼくも目の当たりにしたことがあるのだけれど、「骨壺」に入ったようなジジイを好む若者がいるらしい。90歳越えだよね。  柴田 望さんから送っていただいた詩誌『フラジャイル』第3号を読ませていただいた。林 高辞さんの「詩集だけが残った」がおもしろかった。ぼくも、トイレをしているときや、湯舟に浸かりながら、本とか詩集とかを読むので、トイレをして、うんこを出してるときに、重要なところを読んでることがある。  きょうも寝るまえの読書は、デュ・モーリアの短篇集『鳥』のつづきを。いま200ページだけど、537ページまであるから、5分の2である。デュ・モーリア、優れた描写力だ。イギリスの女性作家、たとえば、P・D・ジェイムズ、アンナ・カヴァン、ヴァージニア・ウルフのようによい作家たちが多い。 二〇一八年八月二十四日 「デュ・モーリア」  デュ・モーリアの短篇集『鳥』を読んでて思ったのだけれど、ぼくって、なにかを食べているかのように、本を味わって読んでいるような気がする。デュ・モーリアの翻訳がいいというのもあるだろう。まことにおいしい食べ物を食べているような気がする。読書において、ぼくはグルメだろうか。どうだろう。  徹夜で、いままで、デュ・モーリアの短篇集『鳥』を読んでた。読み終わった。おもしろかった。ひきつづいて、デュ・モーリアの短篇集『人形』を読む。  不覚にも眠ってしまった。4時間弱。いまから日知庵に飲みに行く。デュ・モーリアの短篇集『人形』の読書は日知庵から帰ってからにする。 二〇一八年八月二十五日 「和田まさ子さん」  和田まさ子さんから、詩集『軸足をずらす』(思潮社)を送っていただいた。第2篇目に収められている「突入する」のなかの詩句に「それだけの理由で脱げすにいるバンプス」という詩句があったのだが、これは、「脱げずにいるバンプス」のまちがいだろう。作者の過ちとともに、編集者の劣化をも感じる。自分の詩句をよく見直しもせずにいる詩人の詩集など、もう読む気は失せたので、デュ・モーリアの短篇集『人形』のつづきを読みながら、床に就こう。おやすみ、グッジョブ! 二〇一八年八月二十六日 「野田順子さん」  野田順子さんから、詩集『ただし、物体の大きさは無視できるものとする』を送っていただいた。詩句の運びは、ぼく好みのなめらかさがあって、詩句も何の抵抗もなく、するすると飲み込めるものだった。詩自体のアイデアは学校ネタがほとんどで、ああ、こういうところに目をつけられたのだなと感心した。せっかく送っていただいたのだから、さいごまで読まなくては申し訳がないと思って、和田まさ子さんの詩集『軸足をずらす』をさいごまで読ませていただいた。うまい。すばらしい詩句の展開。見事な詩集だ。たいへんな技巧家だと思った。それだけに、18ページの「脱げすにいる」の誤植が惜しい。  デュ・モーリアの傑作集『人形』を読んでいるのだが、作者の初期の短篇集らしい。叙述も、短篇集『鳥』(創元推理文庫)に比べると、ベテラン作家の初期の作品なんだなと思ってしまう。ちょっと休憩して、また読もう。  なんとも言えない陳腐なタイトルと、下品な表紙絵に魅かれて、五条堀川のブックオフで、16作品収録の短篇集『ラブストーリー、アメリカン』(新潮文庫・柳瀬尚紀訳)108円を買った。キャシー・アッカーマンが入ってなかったら買わなかっただろう。でも、見知らぬよい作家に遭遇するかもしれない。  いま日知庵から帰った。きょうも、お酒と、これから読むデュ・モーリアのすてきな短篇集『人形』で一日が終わる。文学、あってよかった芸術分野だな。ぼくは不器用だから楽器もへただったし、絵もへただったし、詩以外にできることなんて、ひとつもない。その詩も、ぼくが無名のせいで、しゅんとしてる。 二〇一八年八月二十七日 「弟」  うとうとして昼寝をしてしまった。弟の夢を見ていた。弟がかわいらしい子どものときの夢だ。大人になって、発狂して、精神病になってしまって、顔も醜くなってしまったけれど、子どものときは天使のようにかわいらしかったのだ。父と母が甘やかして育てたせいである。ぼくは父母を憎む。もう死んだけれど。  きょうは、うとうとしながら、ずっと、デュ・モーリアの傑作集『人形』のつづきを読んでた。寝るまえの読書もつづきを。おやすみ、グッジョブ! 二〇一八年八月二十八日 「「笠貝」または「あおがい」」  さいきん、お昼ご飯は、イオンのフードコートで、冷たいうどんと、鶏ご飯とのセットを食べている。590円なので、手ごろな価格で、おなかがいっぱいになる。  ケンタッキー・フライド・チキンに行った。680円のセットメニューを食べた。ドリンクはコーラ。糖尿病にとっては毒物である。まあ、うどん屋に行列ができてて、並ぶのが嫌で、だれも並んでいないところに行っただけなのだが。  いま、デュ・モーリアの傑作集『人形』のさいごに収録されている「笠貝」を読んでいるのだが、読んだことのあるような記憶がある。似た設定の小説を読んだのかもしれないけれど。きょうは日知庵にアルバイトだ。行くまでの時間に読み切れると思う。300ページちょっとの本にけっこう時間をとられた。  デュ・モーリアの傑作集『人形』を読み終わった。さいごに収録されてあった「笠貝」は、やはり、以前に読んだものだった。ネットで、なにで読んだのか調べたけれど、傑作集『人形』にしか収められていないようだったので、不思議だ。たしかに以前に読んだ作品だった。もう少し調べてみるかな。  ネットで調べても、ぼくの本棚にある、岩波文庫の『20世紀イギリス短篇集』上下巻、エラリー・クイーン編『犯罪文学傑作選』を見ても、デュ・モーリアの「笠貝」は目次になかった。おかしい。たしかに読んだはずなのに。日知庵に行くまでの時間、さらに調べてみよう。  原題の「The Limpet」で検索した。早川書房の異色作家短篇集の第10巻、ダフネ・デュ・モーリアの短篇集『破局』のさいごに収録されていた、邦題「あおがい」が、そうだった。まったく異なる邦題なので、すぐに探せなかったのである。読んだことがあると思った通りだった。これでひとまず、ひと安心。  肝心の作品「笠貝」または「あおがい」という邦題の短篇だが、サマセット・モームの作品にも似た、にやにやと読んでる途中でも笑けるブラック・ユーモアに満ちたもので、人間のもついやらしさというかあさましさを表していた。 もちろん、こんなにこだわったのは、傑作だと思ったからである。 二〇一八年八月二十九日 「カレッジ・クラウン英和辞典」  ぼくのもっとも信頼している英和辞典、カレッジ・クラウン英和辞典で、limpet を引くと、アオガイ・アミガイの類(海岸の岩石や棒ぐいなどに付着している小さな編みがき状の貝がらを持った節足動物;肉は魚釣のえさになったり中には食用になるものもある)語源は古代英語のlempedu, lamprey とあった。  きょうから寝るまえの読書は、デュ・モーリアの短篇集『いま見てはいけない』だ。西院のブックファーストで買ったのだけれど、部屋に帰ってよく見たら、表紙が曲がっていて、キーって精神状態がもろに悪くなったシロモノだ。交換しろと迫ってもよかったのだけれど、レシートを捨ててたからあきらめた。 そこにも、ここにも、田中がいる。 豊のなかにも、田中がいる。 理のなかにも、田中がいる。 囀りのなかにも、田中がいる。 種のなかにも、田中がいる。 束縛のなかにも、田中がいる。 お重のなかにも、田中がいる。 東のなかにも、田中がいる。 光輪のなかにも、田中がいる。 軸のなかにも、田中がいる。 竹輪のなかにも、田中がいる。 甲虫のなかにも、田中がいる。 横軸のなかにも、田中がいる。  触のなかにも、田中がいる。  きょう、大谷良太くんと会って、collective BRIGHTNESS の全訳の話をした。ぼくと、もうひとりの詩人との共同の大掛かりな翻訳になるのだけれど、ぼくが訳す詩があと40篇くらいあって、1年から2年はかかると思う。翻訳作業に入ったら、通勤時も寝るまえも翻訳のことで、頭がいっぱいになるだろう。  もう、アメリカの出版社と編集者の許可は取り付けてある。残っているのは、翻訳の実行と日本語全訳の詩集の出版だけである。 出版社は、書肆ブン。 二〇一八年八月三十日 「デュ・モーリア」  デュ・モーリアの傑作集『いま見てはいけない』を読んでたら、おもしろくて眠れず。うううん。おもしろいのにも、ほどがあると思う。眠れなくさせるのは、完全な行き過ぎ。いま2篇目の小説だけど。(5篇収録の短篇集)デュ・モーリアの短篇集『鳥』も、けっきょく、徹夜するくらい、すごくおもしろかったものね。 二〇一八年八月三十一日 「きみの名前は?」  きょうは、夕方からイレギュラーの塾だ。塾が終わったら、日知庵に飲みに行く。塾に行くまで、デュ・モーリアの傑作集『いま見てはいけない』のつづきを読んでいよう。字が詰まっている。読みにくい。ブランチを、西院のブレッズプラスで食べよう。ハムチーズサンドイッチとアイスダージリンティーだ。  ブレッズプラスで、食事後、デュ・モーリアの傑作集『いま見てはいけない』の三作目「ボーダーライン」を読んでいると、ひきつづき捜しつづけていた詩句「きみの名前は?」(ダフネ・デュ・モーリア『ボーダーライン』務台夏子訳、203ページ)と遭遇した。さっそく「HELLO IT'S ME。」に加えよう。 ---------------------------- [自由詩]対話篇/やまうちあつし[2021年11月29日19時09分] 残業で すっかり遅くなってしまった 疲れた身体を引きずって 車のドアを開け乗り込むと 助手席にいる 随分大きくなった 初めて出会ったときは 小さな子猫ほどだったのに ある日突然 姿を現したこいつは いつの間にか車に乗り込み 毎日の帰路を ともにするようになっていた 日を重ねるごとに成長し どうも猫ではないらしい と感づいたときには 言葉さえ話すようになっていた 「長いことかかったな」 黒ヒョウが言う 繁忙期だからね 仕方がないんだ、この時期は 「残業のことじゃない」 そう言って黒ヒョウは 器用にシートベルトを締める ネコ科の猛獣とはいえ 物理法則には逆らえない 私は黙って車を出した バイパスは今頃 ちょうど渋滞の時間 家につくまで 一時間ほどはかかるだろう 「いったい何が残っただろう、  なんて考えているんだろう?」 冷房が効き始めた車内で 黒ヒョウが口を開く いつだってこちらの 心中をお見通しなのだ いや、べつに 残らなくたってかまわない 「無理しなくていい  だけど拙速な判断は禁物だぞ  何が残るか、なんていうのは  人類史を貫く根源的な問いだよ」 少しもたつきながら車線を変更し 渋滞の列に割り込む 黒ヒョウは言う 「最初の覚悟や決意など  何の足しにもならないということさ  人間はそれほど  賢くはできていない」 知るかよ、そんなこと! 遅々として進まぬ渋滞への苛立ちを クラクションに込める 今日日 あまりに乱暴な煽りはご法度である 「そもそも間違いでないことが  これまでに一度でもあっただろうか?  間違いのなかから  どうにかやりくりした結果が  今なのではないのか?」  アクセルを踏む足に力がこもる 「赤だぞ」 車が急停車する ガクン、と衝撃を受ける 一人と一匹 確かに間違いだったかもしれない こうしてお前を 車の助手席に乗せるようになったことも 黒ヒョウはフフン、と鼻を鳴らす 「気分を害したなら  謝ろう  この牙と爪にかけて」 思えばこんな間違いはない 何といっても相手は ネコ科の猛獣だ 分別があるように見えても 黒い毛並みの内側には 野生の血脈が滾々と息づいている 平和ボケした人間の喉元を 食い破ることなど朝飯前だ 「心配するな  襲いかかったりはしないよ」 黒ヒョウは静かに言い放つ 「今はまだな  しかし考えてもみろよ  今回のことでわかっただろうが  世界は可能性ではなく  不可能性で成り立っているとは思わないか?  ニンゲンも黒ヒョウも同じさ  できそうなことではなくて  できそうもないことによって   我々の歩みは力強く  導かれてゆくのだよ」 妙な汗をかいてしまった 明日からこいつを 助手席に乗せるのも避けなくてはならない しかし そんなことできるだろうか それこそ可能性ではなく 不可能性によって 定められたとおりのことなのでは ふと脳裏に浮かぶのは  信号待ちで停車した 自分の車のフロントガラス 運転席には だらりと力なくシートに体を預けた 私自身の姿 首から胸にかけて 真っ赤な地で染まり 生気があるようには見えない そして助手席には 黒ヒョウがいる 血で染まった口元を べろり、と舌なめずり とても穏やかな表情で前を見据える そしてこちらに気づいたようにつぶやく 「青だぞ」         ---------------------------- [自由詩]棄民のうた/梅昆布茶[2021年12月1日8時11分] いつも通貨は飢民を迂回して流通する いびつな地球儀の舵をとっているのは誰 鍋の底に経済の残滓がEDMみたいだ 僕は誰。僕のからだのなかには吸い殻と 古い写真と優しかった女しかいないから ディランのジャケットのカバーみたいに 寒い冬をやり過ごして春と契約するんだ 誰もなにも間違えていないのにね 誰もが恩恵を受けていないような 地の果てに星が堕ちる 夜の隙間に朝がある 人称を無視した古代の合図と目線の 身体言語をつねに身につけて 新小岩駅前の平和通り沿いのタクシーは 人情をわきまえているみたいに粗っぽいが 僕は君と猫と一緒に時代の空をながめている 翻弄されながら生きて唄い続けるのかもしれない ---------------------------- [自由詩]#/津煙保存[2021年12月1日11時06分]     岩    せせらぎがながれ    葉やはなびらがながれて     風    計量器の退屈を戯れ     ・    無が刻印された    塩化ビニールの神を    セルフレジにて清算する    原理主義者の忠実について     音    空を地を    ひっかく    音がする     川      たくさんの帽子を流れているとしても    空の水面をみつめるなら ---------------------------- [自由詩]絵心/やまうちあつし[2021年12月1日11時17分] 絵を飾る   遠い砂浜 日が沈む五分前    遠くに人影が 犬の散歩だろうか それとも 心の散歩だろうか     気がつけば 絵の中に立っている 橙色に染められて 描いた人はわからない 飾った人はもういない ---------------------------- [自由詩]障子紙/ナンモナイデス[2021年12月1日20時32分] こんなクソ寒い日 障子紙がえ みすぼらしいらしい 寒い日 声がデカくなる 「詩とはなにか」 白紙でいいんだよ だろう 障子紙なんか ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]20211201/はるな[2021年12月2日8時50分] 心の外側で謝ったり笑ったりするとき、自分を消費している感じがしてよかった。精神の空洞に合わせて身体を削って、サイズを合わせようとしていた。自分の欠けているところがはっきりと見えていて、でもなんと言ったら良いかは分からなくて、それではだめだとも思っていた、だからいくつもの物語、詩や歌は必要だったし、血も酸素もあるだけ欲しい。切ったり貼ったり抱かれたりするとき、それはみんな体を心に合わせるための作業だった。 でも思う、どうして削って削って合わせようとしたんだろう。それ以外に思いつかなかった、やり直してもきっとまた同じふうにするだろう。削って削って削って、どこにもいなくなりたかった。 風がだんだん乾燥して、土も乾いてくる。『球根は寒さに当てないと美しい花を咲かせません』。(「ママ、はなが水をあげるよ。ママは心配しないで。」)わたしはむすめをまっすぐ見ることができないときがある。優しくて、本当で、人間だから。離れていたいと思うこともある。だれか別の人間になりたいと思ったりもする。 わたしの欠けたところに、むすめの形はぴったりだった。 いつも何か探していて、それが何かは分からないけど、見ればわかる、すぐにわかるはず、と思っていたような瞬間だった。足したり引いたりしなくても良い体だったいっとき。 以前、少女だった頃、本の中にたびたび住んだ。本屋や図書館にある膨大な物語を、早く読みたい、いくつも読みたいと思っていた。 でももう今はそういう気持ちはなく、ただその急いた思いや楽しい焦りを懐かしく覚えている。 もう身体を強く削ったりしない、足りないまま疲れて、ぼんやりと座っている。そうするとかつて望んだように、わたしはだんだんいなくなってくる。 ---------------------------- [自由詩]時間を落とし切る/朝焼彩茜色[2021年12月2日13時04分] 季節を思い出した この冬に    時間のないジェットコースターに乗った感覚で 花を一輪大切に指で包む 会話を弾ませる 微笑みを正面に 時間の感覚を麻痺させる脳処理をして この星から時間を最後まで放出させて 行きたい場所へ時間を超えて直ぐに行けるように 時間を消してみたかったんだ 想像は難しい だけど 新しい空間を懐に隠すことなく もっと両手が輝くほど翼になるほど 自由に拡がって行く気がしたんだ 花を一輪 貴方の海に 飛び込ませて ゆらりひらり浸って ---------------------------- [自由詩]スケアクロウ/木葉 揺[2021年12月3日15時52分] ようやく畑にたどり着いた 遠くを見て佇む案山子ひとり 腕はだらりと垂れている そばへ歩いてゆくと 帽子を取ってお辞儀をしてくれた 私もお辞儀をする 顔を上げると案山子は 帽子を持ってない方の腕で 遠くを指した 私を促すように指し続ける 帽子は胸の辺り とまどう私にたしなめる目 期待外れを滲ませる 足取り重く私は歩き始める どこだかわからない 案山子の指す方向へ ---------------------------- [自由詩]カシマシ娘/やまうちあつし[2021年12月3日16時33分] さみしい思いをしていたら 母親がゾウを買ってきた 我が家は1DKだけど ゾウ一頭くらい 生活する余地はある 問題はどうやって ゾウを部屋の中に入れるかだが 販売業者はお手のもの 手際よく済ませて さっさと引き上げていった ゾウとの暮らしは悪くない いくらよりかかっても いくらしがみついても ゾウは拒まない 静かな目をして 干し草を口へ運ぶだけ ある時ふと思いつき 机の引き出しから 黒いピストルを取り出す ゾウへ向く銃口 銃弾は吐き出され ゾウの表皮にはじかれる 傷くらいついている 何度でも引き金を引く チューン、チューンと 夜もすがらやっている ---------------------------- [自由詩]海の呼び声/由木名緒美[2021年12月3日21時39分] 海からの手招き ちいさく おいでおいでと飛沫をあげて 幾千の光があなたを呼ぶ 神の隠した浮島が 夕陽の産卵に砂を捩らせ 浜辺を涙で湿らせる頃 あなたの瞳にひそむ楷が 海底の椚に突き刺さる 波浪のごとく生命は海水の一粒の隙間に那由多の航路を編み上げて 翻っては沈む波飛沫に鳶は過去と現在を押し戻しては再生の流線に生まれ続け 飛魚は跳点に一粒の逡巡も残さず半丁の輪廻を泳ぎ切る ここが桃源郷ならば私は白布 何処から来たのかも 何処へ行くのかも問われずに 地図さえない流浪の旅は命名を免れ宇宙の神秘をもすり抜ける この島であなたと出逢い 大地の隆起が燃える夕陽に轟こうとも 私の運命を侵すことは出来ない あなたの剣が海底を裂き 水煙が最期の砂粒を呑み込むその時は あなたを包む産衣となろう 血潮で染められた私の体が あなたという命を孕む初夜の晩に 私は運命をすり抜ける 永劫に回帰する海の輪廻の臍となって あなたの婚儀を祝しよう ---------------------------- [自由詩]英雄の死/おぼろん[2021年12月3日23時19分] 英雄の生を語るには、その死をもって始めなければならない。 なぜなら、死こそが人間の生き様の帰結点なのだから。 アイソニアの騎士のような男にとっては、なおのことだ。 なぜなら、その生は謎に包まれたものであるのだから。 アイソニアの騎士には、グロリオサのような花が似合う。 しかし、アイソニアの騎士に捧げられる花は、 いつもポピーのように優し気な花だ。それはなぜだろう? アイソニアの騎士が、憐憫にあふれた男だったからかもしれない。 アイソニアの騎士の死に、ロマンティックな言葉はふさわしくはない。 その死はロマンスとして表現することは出来ない。 否、むしろ無機的な表現こそ、アイソニアの騎士の死には似つかわしい。 なぜなら、それは裏切りによるものだったのだから。 アイソニアの騎士は、もっとも信頼する友の裏切りによって殺された。 その友の名は、エイソスと言う。 ---------------------------- [自由詩]戦士エイソス/おぼろん[2021年12月3日23時20分] 戦士エイソスは、クールラントの東の外れにある、 ディペルスの街の出身だった。 その出自は高名な貴族の家系で、 とくに剣と弓矢の扱いに秀でていた。 しかし、アイソニアの騎士がエインスベルや盗賊ヨランのような、 信頼のおける仲間たちとだけ旅をしていたのとは違って、 常に十名ほどの手勢を引き連れていた。 戦士エイソスは、指導者として、リーダーとしての才覚を持っていた。 戦士エイソスは、クールラントの北隣にある、 オークの国、レ・スペラスとも戦ったことがある。 それは、類稀なる戦勝のうちに終わった戦いであった。 この勝利によって、戦士エイソスはアイソニアの騎士に次ぐ、 武勇に秀でた勇敢な戦士として知られるようになった。 戦士エイソスは常に清廉であり、国の指針にも忠実だった。 ---------------------------- [自由詩]戦士エイソスとアイソニアの騎士/おぼろん[2021年12月3日23時21分] 戦士エイソスは、最初は密偵として、 アイソニアの騎士の元に遣わされた。 というのは、アイソニアの騎士が善なる者か、悪なる者か、 元老院の長老どもには分からなかったためである。 アイソニアの騎士を自軍に引き込めば、 南の国ラゴスとの戦いにも勝てる、と、 クールラントの民は考えていた。それは確実だった。 戦士エイソスは、たった一人でアイソニアの騎士の元へと赴いた。 最初は、アイソニアの騎士の監視役としての務めであったが、 次第にアディアの真珠にも勝る友情が、二人の間には芽生えた。 アイソニアの騎士と戦士エイソスとは、お互いの勇気と武勇を確かめ合い、 そして信頼の絆が結ばれていった。戦士エイソスは、 国の掟よりも、アイソニアの騎士との間の友情に心を傾けるようになったのである。 アイソニアの騎士を自らの手にかけた、その日まで。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]精神病院でのある一日/おぼろん[2021年12月5日1時14分]  病院のなかでの自分の定位置というものを決めることは難しい。けれども面白い。制約のなかで何かが生まれる。制約がないのであれば、作ればいい。自由がないのであれば、それを作ればいいのと同じように。制約がなく、すべてが自由なのであれば、自分で制約を作り出し、そのなかでの自由を求めればいい。  病棟外の敷地では、デイケア向けの喫煙コーナーを出て、排水溝にそってまっすぐ歩いていったところにある、植え込みのなかの日陰に自分の居場所を与えている。そこがわたしの定位置。  傍らには、プラスチック製の配管が流れている。目の前には、ツツジの低木とソテツの樹があって、落葉が何枚か散り敷いている。数日前までは、ツツジの花が地面にたくさん落ちていたけれど……。今はまばら。  コンクリート製の段々の上に腰をおろして、漫画を読む。森薫氏の「乙嫁語り」。19世紀の中央アジアが舞台で、時代劇のはずなのに、争うシーンはあまりなく。結婚がテーマという漫画。  今、子供が嬌声を上げながら通り過ぎていった。丁度下校時間なのだろう。こんな病院に入院しているわたしは、彼らの目からしたら野生動物のようなものなのだろうけれど、どちらが動物らしいだろうか、などと思ったり。病院の駐車場に、バイクがけたたましい排気音を立てて入ってくるのにも驚いたりしている──。  けれども、爽やかな風が肌を撫でるとなごんだり。今のこの病院では、南病棟の改築をしている。だから、工事関係者が大勢(でもないけれど)出入りしている。今、その一人が停めてあるワゴン車のドアを開けて、工事用具の積み下ろしをしているんだろうか、それとも何かの書類を探しているのだろうか。がたがたと音を立てている。  都会の住宅地のなかにぽつんとある病院だけれど、敷地内というよりは、その周囲に緑が多いために、小鳥たちがやってきて啼いている。縄張り争いをしているのだろうか、それとも、友人や恋人と言葉をかわし、さえずり合っているのだろうか。……そう思うと急に、その鳥たちが押し黙る。ふいと吹く、やや強い風。工事の人も、何かを閉じたぱたん、という音を立てる。  そして今度は、コカ・コーラの配送車が一台入ってくる。台車をおろして、ペットボトルのケースを乗せていく。──こんな風に書いていると、まるで日常生活の一コマのようでもあるのだけれど。……看護師さんが、車いすに一人の患者を乗せて、押して歩いていく。(そこでやはり自分は入院中なのだ、と思ったり)  今度は頭上にヘリの旋回音。雲の上を飛んでいるのか、姿が見えない。淡い雲間光はいつしか、低く垂れこめた雲のなかに隠れている。  また、通りかかった父親と息子(?)の親子が、 「〇〇ちゃんがタンコブ作ったんだって……」 「本当?」 「〇〇がタンコブ作ったから」  ……そうして、どうなるんだろう。  工事業者の人は、ワゴンのスライドドアをやや勢いよく閉めて、去っていく。コカ・コーラの配送者のほうも、配達員の人が荷下ろしを終えて、車をバックさせ、今敷地の外へと出ていった。  今度は、母親と娘さんの親子連れか、 「がんばって!」 「え?」 「がんばって」  まるで病院のなかへ向かって話しかけているように……。  わたしのこの地球(ほし)での定位置はどこだろう。わたしも立ち上がって、ジーンズのお尻についた土を手で払う。さて、こんなところ(精神科病棟)にも、人間関係はあるし、そこには社会がある。自由も、制約も。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]概念とはグラデーション的な実在ではないのか?/おぼろん[2021年12月5日1時39分]  このごろ考えていることに、「概念とはグラデーション的な実在ではないのか」というテーマがあります。世の中を科学によって見る物の見方は、遠く過去にはギリシア文明の時代、いいえ、それよりもずっと遠い過去から人間は引き続いて考えてきました。例えば、世界はアトム(原子)によって出来ている、という考え方は古来からありましたし、東洋の伝統的な哲学では有と無が一体である、といった考え方が継続して行われてきました。  現代科学にあっても、例えば物理学の分野では、「真空は真に空っぽである訳ではない」という考え方があります。つまり、真空というのはこれから生まれ出る原子(基本粒子であるクォークやそこから生まれる光子など)で埋まっていて、空っぽであるはずの空間から物質やエネルギーを作り出す、という事実があります。これは、東洋思想における伝統的な考え方にも通じるものでしょう。そこでは、やはり有と無が一体となっているわけです。  こうした科学的な事実を、わたしたちはどのように受け止めれば良いのでしょうか。例えばの話になりますが、物理学における真空というものを一種の「混沌」であるとする捉え方も出来ると思います。  わたしたちの宇宙は必然的に無から生じなければいけないわけですが、その無から有が生じる過程というのはどのように行われたものなのでしょう。物理学的な一つの解釈としては、無からのビッグバンによってこの宇宙が誕生した、というものがあります。もちろん、世界五分前仮説のように、宇宙はある日突然に過去(の情報)も含めて生じた、とする考え方もあります。しかし、この考え方はやはり唐突なものでしょう。世界が無から生まれたと考えても、何ら問題はないからです。  例えば、現在の数学の世界では0除算というものが禁じられています。0除算を含めると、結果が無限大となってしまい、どんな等式でも成り立ってしまうからです。例として、1を0で割れば無限大となり、2を0で割っても無限大となります。これを数式で表せば1/0=∞、2/0=∞となり、両者を比較して1=2となってしまうのです。  しかし、もしこうした計算が許されているとすればどうでしょう。  実際、数学の世界ではすでに数の定義というものが変わっています。これは19〜20世紀の哲学者であるカントールやゲーデルらの考え方を推し進めたもので、0というのは空集合、すなわち何もない状態のことを指している。「無もない無」と書けば分かりやすいでしょうか。そして、1というのは空集合、すなわち0が1個ある状態と対応しています。そして、「空集合」と「空集合を1つ含む集合」というのを集めたものが、2と対応しています。以下、このような定義が無限に続いていくのですが、「数」というもの自体が20世紀に入ってからは変化してしまっているのです。  もし、0除算が許されるのであれば、1割0は∞で、∞=1/0ということになります。また、1/0=∞、2/0=∞という計算を無限に続けていけば、いつかは1=2=3=...=∞という結果が得られます。ということは、0=∞/∞=1でもあるわけです。とすると、0に関してもやはり先の等式に含まれることになり、0=1=2=3=...=∞となるのです。  もちろん、これは0除算が許された時に得られる結果なのですが、数学の世界ではそうした計算が許されていない、という訳ではありません。このように、0が全ての数や無限大と等しくなる計算、ひいては全ての数がその他の数や0や無限大と等しくなるというやり方があまり役に立たないから、わたしたちはそうした計算方法を使用していない、ということに過ぎません。  0除算を許可する方法としては、1/0=∞で得られる無限大と、2/0=∞で得られる無限大とが異なるものである、という定義を導入しさえすれば、そこに何ら数学的な問題点は生じないと言えます。現代の数学では、無限大には異なる階層の無限大がある、ということは周知のこととなっています。カントールの考案した連続体仮説、というものもその一例です。また、全ての無限大の上に立つ無限大として、「到達不能基数」というものも定義されています。そうした、「限りなく大きな無限大」が存在する数学的な世界としては、「グロタンディークの宇宙」というものが考案されています。  すなわち、数学の世界を「限りなく大きな方向」に辿って行ったときに現れるものが「グロタンディークの宇宙」や「到達不能基数」です。反対に、数学の世界を「限りなく小さな方向」に辿って行ったときに現れるものが0だとすれば、どうなるでしょうか。その「限りなく小さな世界」に到達するためにも、「限りなく大きな世界」の数分のステップが必要になります。「限りなく小さな世界」に存在する「0」は「限りなく大きな世界」に存在する何らかの数と密接な関係を持っているのです。  混沌の真の意味というのは、そうしたものなのではないでしょうか。このとき、数0の中には限りない豊穣が含まれていると見なすことが出来ます。  このように、「混沌」と「虚無」の間には密接な関係があるのですが、もし真の混沌というものが「秩序が存在しない状態」すなわち「乱雑さ」として定義されるのであれば、これは数学の世界ではランダムネスという名前で呼ばれるものの集合と同じものになると思われます。数学的な秩序が与えられた時に、有限のやり方では導き出すことが出来ないものがランダムネスです。  数学というものをどう定義するかによっても変わってくるのですが、わたしたちの住んでいる物質的実在の世界、すなわち実数をベースにした世界で真のランダムネスの集合とされるものは、マルティン=レーフ・ランダムネスと呼ばれます。一方、これと対になる秩序について言えば、これは「チューリング計算可能性」として定義されるものと等しくなるでしょう。  例えば、コインを投げた時に、表が出た時には0、裏が出た時には1、というやり方で数字を並べていくと、これは二進数における「ランダムな数」ということになります。同じように、0〜9までの数をランダムに並べていけば、十進数における「ランダムな数」を作ることが出来ます。また、ランダムな数をランダムに取り出して並べていくことで、「ランダムな数を要素とするランダムな集合」というものをも作れるでしょう。ですから、「限りなく大きな世界」における乱雑さというものは、「あらゆる要素があらゆる結びつき方で結び付いている状態」だと言えると思います。  ここで本題に入るのですが、「概念」の話に戻ります。「概念」というものをどう定義するかは人によって違ってくるのですが、わたしは「概念」というものを「フォーマット」であるという見方を提唱したいと思います。  例えば、「お金」という概念であれば、誰もが「お金」として思い浮かべる、その共有された意識のことを表しています。「数学」しかり、「文字」しかり、「文章」しかりです。このように、誰かが利用し、また別の誰かにも抽象的な実在として伝えることが出来るものが「概念」です。ですから、これが「フォーマット」と同じもの、同じ仕組みを指しているのだとする考え方は、比較的受け入れやすいのではないでしょうか。  もちろん、「概念」というものについて考えるときには、「概念」の「概念」ということまで考えなくてはいけません。しかし、「概念=フォーマット」という視点に立ったとき、「フォーマット」の「フォーマット」を考えるということは、「フォーマット」という現象の「フォーマットっぽさ」だけを測れば良いことになります。「ニワトリが先か卵が先か」という議論に陥る危険がないわけではないのですが、「フォーマット」が「フォーマットとして再利用可能なもの」を表している時、「フォーマット」という「フォーマット(概念)」自体はそれだけで自明に「フォーマットらしい」と言うことが出来ます。  ここで話題がずれるのですが、「グロタンディークの宇宙」における「乱雑さ」というのは、「グロタンディークの宇宙」そのものの大きさとほぼ等しいと言えるでしょう。「グロタンディークの宇宙」における計算方法というのは、「あらゆる計算の仕方が許されている計算」だと言えるのですが、そうした計算方法を許容する世界というものも、その要素は「限りない混沌」でしかあり得ないからです。すなわち、「限りなく大きな世界」におけるユニットそれ自体が「あらゆる要素があらゆる結びつき方で結び付いている状態」であるということになります。  こうした世界では、どのような「部分」であっても「より大きな部分」の相似形になっています。そして、その世界全体が一つのフォーマットになっていると考えて良いでしょう。その世界の中に、「全体」の相似形である「部分」すなわち、再利用された「全体」が無限個存在しているからです(「再利用」という言葉には語弊があるかもしれませんが、全体が作られると同時に、それに似せて部分が作られた、というアプローチを取れば、それは「再利用」という言葉を使用しても違和感がないのではないかと思います)。  もう一歩考えを進めて、「フォーマット」、すなわち「概念」というものが「再利用可能度」のことを表しているのだとすれば、フォーマットの中には「フォーマットらしいフォーマット」と「フォーマットらしくないフォーマット」、「概念」の中には「概念らしい概念」と、「概念らしくない概念」があると言うことも言えます。  例えば、マンデルブロ集合というものが何らかのフォーマットになり得るとして(実際、タコの腕はマンデルブロ集合の細部を元にして作られていると考えられます)。マンデルブロ集合はそのままでも利用することが出来ますが、もしマンデルブロ集合をグラフ化した際にそこに1ピクセル余分な「点」を加えたような集合は、マンデルブロ集合よりも「フォーマットとしての実用度」が低下することになります。その集合はマンデルブロ集合というフォーマットとして使用する前に修正を加える必要があり、「フォーマットらしさ」はマンデルブロ集合よりもいくぶん低下するからです。  もう少し文系的な物の見方をすると、例えば「挨拶」というものの概念について考えることが出来ます。「挨拶の言葉」というテーマを与えられた時、ほとんどの人は「こんにちは」や「ハロー」といった言葉を思い浮かべるでしょう。聾唖の人であれば、手話による挨拶をまず最初にイメージするかもしれません。これに対して、「日本人の挨拶」や「職場内での挨拶」といった場合には、フォーマットとしてのそれらの概念はよりあいまいなものになります。日本人であれば、「こんにちは」や「おはようございます」などの挨拶はすぐに頭に浮かびますが、「ハロー」や「よう」といった言葉は、特定の関係を持った人たちの間でしか使われることはありません。「職場内での挨拶」ならさらにあいまいで、「おはようございます」が通例である職場もあれば、時間帯によって挨拶を使い分ける職場もあるかもしれません。  このように、「概念」が示すものというのは、元々あいまいなものです。「熱さ」や「厚さ」といった概念について考える場合には、「何に対する、何の」熱さなのか、厚さなのか、といったことをまず考慮しなければなりません。その「概念」を使用するに当たって、補助的な「概念」による補完をしなくてはいけないわけです。この点、例えば「円」や「直線」といった「概念」に比べると、「概念らしさ」は低下します。  もちろん、文化が違えば概念の取り扱い方にも変化が表れてきます。「円」や「直線」といった概念を一切使わないという文化も、ことに未開部族の間であれば未だに存在するかもしれません。今後文明が退化した場合にも、そうした表現や文化は表れてくる可能性があると言って良いでしょう。  単純そうに見えるのに、実は複雑であるような概念も存在します。例えば、「存在」あるいは「存在する」といった概念についてはどうでしょうか。何をもって物事が「在る」という状態を示すのか、これはとてもあいまいだと言えます。過去に在って現在にはない事物や現象は、果たして「存在する」という概念に結び付いているものでしょうか。あるいは、イメージの中だけに存在する事物や現象は、どの程度「存在する」という概念に結び付いているでしょうか。そうした事を考える時、「存在」というのは果たして「何に対して存在すること」を意味しているのか、そして「存在する」ということを本質的に定義するには、どういったことから考えを進めていけば良いのか、という新しい問題が生じてくるのです。  先のマンデルブロ集合の例に戻りますが、例え不確かな概念(マンデルブロ集合に1ピクセル加えたような集合)であっても、それを利用する側が一工夫を凝らせば、それは二次的に生み出された概念として利用することが出来ます。むしろ、自然界にはマンデルブロ集合のような「完全さ」をもった集合よりは、乱数的な要素によってかきみだされた「不完全な」集合のほうが多いです。「完全な」集合とはむしろ人為的(あるいは神意的)である場合が多く、自然な集合としては稀にしか存在し得ないのです。  例えば、太陽系一つとってみても、完全な円や楕円を描いている星々よりは、その星々の内部にあって不完全な乱雑さに支配されている運動のほうが圧倒的に多いでしょう。  こうした世界のあり方を解決していくためには、わたしたちはどのような物の見方、考え方をしていけば良いのでしょうか。  その一つの方法としては、世界を出来るだけ数学的に正確に記述する方法をわたしたちが見つける、というものがあるでしょう。また、他のやり方として、世界をより人間らしく、文学的に見ていくという方法もあると思います。古代の宗教が陰陽や言葉を重視したように、「1/0=2/0=3/0=...=∞」といった考え方を容認していく、ということが一つの解決に向けた方法なのかもしれないのです。  文学の世界も哲学の世界も数学の世界も、日進月歩ですから、今日通用した考え方が明日も通用するとは限りません。一つの「概念」のみならず、「概念という概念」それ自体がグラデーション的なものである、と考える時、わたしたちが何を見、何を感じ、何を手に取り、どう扱って行くのか、といった一挙手一投足が世界のあり方を導いていく、そういった世界もやがてやって来るのかもしれません。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]ポピュラー・ミュージックは文学たり得るのか?/おぼろん[2021年12月5日1時53分]  奇妙な縁があって、X JAPANやミレーヌ・ファルメール、マリリン・マンソンらの音楽を聴きなおしてみています。そして思うのは、彼らの創作する作品というものは、今ではすでに過去の再構築だけを目指しているということ。現代で見つけやすい一流の芸術と言えば、彼らが作り出しているポピュラー・ミュージックや映画、テレビCMといった作品でしょう。しかし、それらの作品はマニエリズムとしての一流であって、先駆性を持った真の一流だと言うことには難しいものがあります。  後から、彼らを追いかけているアーティストはいくらでもいるでしょう。そして、そうしたアーティストの追いつけないものを、彼らは持っているでしょう。それを求める者に対して、過去の音楽を再度作り直そうとする彼らの作品は、必然的にアンニュイの調子を帯びてくることになります。しかし、それは実際にはアンニュイですらなく、明るいデカダンスとでも呼べるものであるような気がしています。  ポピュラー・ミュージックの世界には、すでに文学の意匠や技法が流れ込んでいますし、西洋であれば、その皮切りになったのは言うまでもなくボードレールです。しかし、ボードレールが単にデカダンスに溺れていたと考えるならば、それは間違いであると言えます。ボードレール自身は、よくある芸術家と同じように、登場する時期が単に早すぎたのです。彼が表現した退廃や諦観は、世代への諦観であって、自分自身への諦観ではないということになります。  私自身の経験について書くと、20年近く前の一時期、人生や文学に対する絶望のなかで聴いていたものは、スピッツの「ホタル」でした。そして、絶望というものは、全く答えなどではないということにすぐに気づきました。それは、考えようによっては皮肉なことなのかもしれません。自分自身の悩みを、そして自分自身を終わらせようとしても、それは決して終わらないのです。  立ち止まることも、諦観することも、一人の人間にとって何らかの答えにはなり得ません。そうした感情は、エンターテイナーが気分として与えるものであって、全く文学にはなり得ないのです。  文学というものは、何もないところに何かを作り出さなければいけない、そういったものだと言えます。近代までの文学が表現していたような、「絶望」や「悲哀」といった伝統を、私自身は文学の本質として信じ切ることは出来ませんでした。それが正しいのか、間違っているのか、それは未だに分かりません。ただ、時流にただ流されることは文学ではないし、しかも時流に流されなければ文学は文学たり得ないものでもあります。この矛盾と相克こそが、文学そのものであり、その意義なのでしょう。 「悲しみ」は文学の目標ではない。「希望」もまた文学の目標ではない。文学の目標というのは、それを越えたところにあります。「悲しみ」と「希望」とは、常に遠すぎる距離を保って連結しているものだからです。そして、人というものは、全ての感情や意志や動機というものを、常に同時に抱えてながら生きている存在だと言えます。  こうした文学の本質において、思想や哲学、システム論、世界観、そういったものを表現したところで、文学にとってはさしたる価値をもたらすものではありません。文学というのは、人間という極小のものと、世界という極大のものを表現するものだと言えます(人の精神が触れ得る極小のものとして、人間自体という存在があり、極大のものとして、世界という存在があります)。  そして、世界には最小のものと最大のものとがともに含まれている。世界というものは、常に人間が目にする世界としてのみ存在することが出来ます。人の見る世界というものは、世界そのものが自己主張をする世界のことではないのです。  今、自分の書いた作品(と呼び得るものであれば)を読み、確かめてみる時、私自身はスマートフォンを使用しなければ、十分にその価値や意味合いを確かめることが出来ないようになってきています。そして、過去の作品を読むときには、スマートフォンを利用するのではなく、書籍自体に当たらなければ、その意味も感覚も確かめることが出来ません。  そこには、やはり何かがあるのでしょう。文学もまた、メディアによって左右され、そこから作り出されるものであり、価値観や意味だけを取り出せることが、文学の本質的な意義ではないのです。 「新しいものなど、真には存在し得ない」 「真に新しくなければ、芸術ではない」  そういった矛盾する考え方も、様々な人たちによって様々に語られることがあります。  しかし、時代より先んじることなく、懐古趣味に陥るのでもなく、時代と常に同時にあること、そこにしか真の文学というものは成立し得ないような気がしています。ポピュラー・ミュージックは、すでに文学の色彩を十分に帯びています。もしこの時代に、ポピュラー・ミュージックのミュージシャンたちの作品が文学たり得るとしたら、それは時代に遅れず、時代に先んじることもなく、正しく彼らや彼女らの現在として作品が作られている場合に限られるのではないか、そうも思っています。 ---------------------------- [自由詩]※これは五行歌です。/こしごえ[2021年12月5日13時18分] 夏だなあ うちわあおいで 麦茶飲む 四十九日も 静かに過ごす ※五行歌とは、「五行で書く」ことだけがルールの、新しい詩歌です。 ---------------------------- [自由詩]※これは五行歌です。/こしごえ[2021年12月5日13時22分] がじゅまるの 青々とした 葉の光 あらゆることが こころの糧だ ※五行歌とは、「五行で書く」ことだけがルールの、新しい詩歌です。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一八年九月一日─三十一日/田中宏輔[2021年12月6日1時19分] 二〇一八年九月一日 「葉山美玖さん」  葉山美玖さんから、小説『籠の鳥 JAILBIRD』を送っていただいた。クリニックに通う女の子の成長物語だ。会話部分が多くて、さいきん余白の少ない目詰まりの小説ばかりを読みつづけているぼくにとっては、読みやすい。ぼくなら、平仮名にするかなと思う個所が漢字であるほかは、ほんとうに読みやすい。 二〇一八年九月二日 「キーツ詩集」  デュ・モーリアの傑作集『いま見てはいけない』を早朝に読み終わった。デュ・モーリアの傑作集『人形』より長めの短篇が入っていたのだが、とくにさいごに収められた短篇などは、『人形』の作品と違って、あいまいな印象をうけた。だが、読んでるときは、どれもおもしろく感じられてよかった。佳作かな。  きょうは、いちにちじゅう、岩波文庫の『キーツ詩集』を読もうかなと思っている。たいくつな読書になると思うのだが、あしたから学校だ。退屈な読書を、できれば、きょうじゅうに終わりたい。どうしてキーツがイギリスでは大詩人なのか、ぼくにはまったくわからない。もしかしたら、きょうわかるかな。  岩波文庫の『キーツ詩集』 長篇詩の物語詩「レイミア」と「イザベラ、またはバジルの鉢」を読んだ。もとネタのある詩で、へえ、もとネタの伝承や小説をそのままを詩にしただけやんか、と思った。こういう詩もあるねんね。そういうと、ポープもそんな神話劇のような詩を書いてたなと思い出された。いつぞやとは違って、きょうは、岩波文庫の『キーツ詩集』すーっと読める。いまから西院のブレッズプラスで、サンドイッチとアイスダージリンティーを食べに行く。で、そのままブレッズプラスで、残りの部分を読み終えてしまおう。体調がいいのかな。詩句がするすると入ってくるのだ。  ちょっとまえに、西院のブレッズプラスから帰ってきた。岩波文庫の『キーツ詩集』を読み終わった。これから、ルーズリーフに書き写す作業に入る。夕方までに終えられたら、日知庵に飲みに行こうって思っている。あしたから学校なので、はやい時間に帰ると思うけれど。というか、帰らなくちゃいけない。  ルーズリーフ作業が終わった。ブレッズプラスで、ふと思い出したように思って、キーツの詩句と、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの作品のタイトルとの関係についてメモしたけど、部屋に戻って調べたら、関係がないことがわかり、ルーズリーフには記載せず。似ている個所が僅かだった。健忘症だね。  いや、やはり関係があった。いま、さっきとは違うティプトリーの短篇集を手にしてタイトルを見たら、「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた」(伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫『故郷から10000光年』所収)とあって、キーツの詩には「そして目が覚め、気づくとここにいた。/寒い丘の中腹に。」(『非情の美女(ラ・ベル・ダーム・サン・メルシ)』11、中村健二訳)とあった。  いま、日知庵から帰ってきた。きょうから寝るまえの読書は、この下品な表紙の『ラブストーリー・アメリカン』(新潮文庫・柳瀬尚紀訳)である。ひじょうに楽しみ。きっと、人間がどこまで薄情で下品かってことが書いてあるような気がする。先入観だけどね、笑。この表紙を見ると、そう思えてくるのだ。 二〇一八年九月三日 「ラブストーリー、アメリカン」  短篇集『ラブストーリー、アメリカン』、やっぱり、へんな短篇集みたい。冒頭の作品から、いきなり、妹のバービー人形とセックスするお兄ちゃんのお話だ。キャシー・アッカーマンが入ってたので買ったのだが、これは期待していい短篇集のような気がする。大げさすぎるところが、アメリカンって感じだ。 二〇一八年九月四日 「断章」 一たびなされたことは永遠に消え去ることはない。 (エミリ・ブロンテ『ゴールダインの牢獄の洞窟にあってA・G・Aに寄せる』松村達雄訳)  過去はただ単にたちまち消えてゆくわけではないどころか、いつまでもその場に残っているものだ。 (プルースト『失われた時を求めて』ゲルマントの方・?・第二章、鈴木道彦訳) いちど気がつくと、なぜ今まで見逃していたのか、ふしぎでならない。 (ドナルド・モフィット『第二創世記』第二部・7、小野田和子訳) 一度見つけた場所には、いつでも行けるのだった。 (ジェイムズ・ホワイト『クリスマスの反乱』吉田誠一訳) 瞬間は永遠に繰り返す。 (イアン・ワトスン『バビロンの記憶』佐藤高子訳) 二〇一八年九月五日 「ラブストーリー、アメリカン」  新潮文庫の『ラブストーリー、アメリカン』2番目の短篇は、レズビアンのお話で尻切れトンボみたいな終わり方をするものだった。3番目の短篇は男に執着する女で、男にできた新しい女に嫉妬して喧嘩して目をえぐられる話だった。  いま、短篇集『ラブストーリー、アメリカン』に収録されている4篇目のデイヴィッド・フォスター・ウォーレスの「『ユリシーズ』の日の前日の恋」という作品を一文字も抜かさず読んでいるのだが、さっぱりわからず。まあ、意味のわからないものも、ときには読んでみる必要があるとは思っているのだが。  いま、塾から帰ってきた。塾が移転して、ちょっと遠くなったのだ。塾の空き時間に、短篇集『ラブストーリー、アメリカン』のつづきを読んでたのだけれど、5篇目にして、ようやくふつうの恋愛小説になった。つぎに6篇目はめっちゃ差別的な作品で、そのつぎに、またふつうの恋愛小説になっているようだ。 二〇一八年九月六日 「詩を書くきっかけ」  既知の事柄と既知の事柄の引用によって、未知の事柄に到達することがあるということがあるのですが、このことは、まだ、だれも気がついてないようです。もともと未知なるものの記述も既知なる事柄の組み合わせによって成立するものなのだと思っています。あたりまえと言えば、あたりまえのことであるかもしれませんが。科学の発見でさえ、近いものを感じます。  わかっていることがわからないことと、わかっていないことがわかっていることとは、まったくちがうことである。わかっていることがわかっていることと、わかっていないことがわかっていないことも、まったくちがうことである。  内藤すみれさんが、いつも的確に表現なさるのに驚いています。詩は書けるのですが、ぼくにはまっとうな文章が書けません。20代はじめ、さいしょは小説家を目指していたのですが、小説は書くのだけでも一作に数年かかることがわかり、また、ぼくの書くものは詩だという友人の忠告に従い、やめました。もう少し正確に書きますなら、ぼくの原稿を見た友人が、ぼくの手を引っ張るようにして書店に連れて行き、ユリイカの投稿欄を開いて、「ここに投稿しろ。」と言ったのがきっかけで、詩を書くことにしたのでした。そのときには、ぼくはもう27、8歳になっていました。もう30年もむかしのことです。その友人自身は小説を書いていました。いま舞台関係の仕事をしています。彼が年上でした。憎たらしい言い方で、小説の書き方を指南されましたが、いまでは感謝しています。「見たものを書け。おまえが喫茶店と書いたなら室内の様子をすべて把握してなければならない。」などと、いろいろ言われました。「「すべて」という言葉を使うなら、即座に、百や千の例をあげられなければならない。」などとも言われました。ためになることを、いっぱい教えてもらいました。ごくごく一時的な恋人でした。東京に行き、文学座の研究所に入りました。そのあと舞台関係の仕事をしています。遠いむかしの思い出です。 二〇一八年九月七日 「ふつうのサラリーマン」  これから塾。水曜日の振り替え。連日の仕事はきついな。身体が慣れていない。ふつうのサラリーマンだったら、若いときに、即、やめていただろうな。 二〇一八年九月八日 「ラブストーリー、アメリカン」  大雨の警報のせいで、学校の授業がなくなったので、短篇集『ラブストーリー、アメリカン』のつづきを読んでいる。あと4篇くらいで、読み終わる。少年愛の中年女性の話や、ゲイの話や、性奴隷志願者の女性の話などがつづいて、まっとうな恋愛ものはほとんどない。でも、ルーズリーフ作業はできそうだ。  短篇集『ラブストーリー、アメリカン』を読み終わった。ふつうの恋愛小説は皆無だった。ふつうの、というのは、白人同士の同年代同士のストレートのカップルの健康的な恋愛話は、という意味。老人同士の狂った恋愛話がさいごの短篇。これから、これをルーズリーフ作業する。ルーズリーフのネタは多い。  短篇集『ラブストーリー、アメリカン』のルーズリーフ作業が終わった。1ページに収まった。きょうから読むのは、再読になるが、先日、Amazon で買った、恐怖とエロスのアンソロジー『レベッカ・ポールソンのお告げ』である。13篇の物語が入っているのだが、例によって、ひとつも記憶にない物語ばかりだ。 二〇一八年九月九日 「断章」 やれやれ、何ぢやいこの気違ひは! (ヴィリエ・ド・リラダン『ハルリドンヒル博士の英雄的行為』齋藤磯雄訳) やっぱり芸術は、それを作り出す芸術家に対してしか意味がないんだなあ (ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』8、井上一夫訳) でも、 (ポール・アンダースン『生贄(いけにえ)の王』吉田誠一訳) 詩のために身を滅ぼしてしまうなんて名誉だよ。 (ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第四章、西村孝次訳) そんなことは少しも新しいことじゃないよ (スタニスワフ・レム『砂漠の惑星』6、飯田規和訳) 人生をむだにややこしくして (ダグラス・アダムス『さようなら、いままで魚をありがとう』34、安原和見訳) ばかばかしい。 (フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』13、宇佐川晶子訳) 二〇一八年九月十日 「いときん」  きょうは、大雨警報が出てて、学校が休校だった。ぐったり疲れていて、いままで寝てた。体力がなくなってる。夏バテかな。  ちょっと寒くなってきた感じがする。窓を閉めようか思案中。頭がぼうっとして、きょうは読書もはかどらない。あくびばかりが出る。齢かな。あと3カ月で58歳になる。 いときん、亡くなってたんやね、残念。 二〇一八年九月十一日 「松川紀代さん」  松川紀代さんから、詩集『夢の端っこ』を送っていただいた。言葉の置き方がとても落ち着いた詩句が書かれてある。書き手の実生活感がある詩句が書かれてある。読み手に読みの困難さを要求する詩句はいっさいない。やわらかい、ここちよい詩句。読ませていただいて、こちらのこころも落ち着く気がした。表紙がまたおもしろい。というか、たいへんにていねいなつくりなのである。文字の部分が貼り絵になっているのである。びっくりした。こんなに手間暇をかけてある詩集に出くわしたのは、はじめてである。落ち着いた詩句にもぴったり合う。書き手のこだわり、性格なのであろう。誠実な方を思い浮かべる。 二〇一八年九月十二日 「レベッカ・ポールソンのお告げ」  アンソロジー『レベッカ・ポールソンのお告げ』を半分くらい読んだ。読んだ尻から、もうほとんど忘れている、笑。きょうは、夕方に塾があるので、それまでに、これから残りの半分を読み切りたい。がんばるぞ。翻訳は来週からする。これを含めて、あと3冊、アンソロジーを読んだら、翻訳にとりかかる。  アンソロジー『レベッカ・ポールソンのお告げ』を読み終わった。強く印象に残ったのは、冒頭のタイトル作品と、さいごに収録されていた作品くらいで、トマス・M・ディッシュは大好きな作家だが、収録作品は並だった。きょうは、これから、夕方に塾に行くまで、金子光晴の『どくろ杯』のつづきを読む。  ちなみに、トマス・M・ディッシュはコンプリートに集めた作家で、去年、書籍の半分を友人に譲ったときにも、一冊も手放さなかった作家である。『歌の翼に』『M・D』『ビジネスマン』『334』『人類皆殺し』『キャンプ・コンセントレーション』『プリズナー』は傑作である。なかでも『歌の翼に』は群を抜いて傑作である。『ビジネスマン』も群を抜いている。 二〇一八年九月十三日 「茂木和弘さん」  茂木和弘さんから、詩集『いわゆる像は縁側にはいない』を送っていただいた。一行一行の詩句が短く簡潔で、かなりレトリカルな展開をしていくのに読みやすくて、読んでて新鮮だった。簡潔でレトリカルというのは、新鮮な驚きを感じさせられた。詩を読んでいて、潔いといった言葉がふと浮かんだ。 二〇一八年九月十四日 「どくろ杯」  金子光晴の『どくろ杯』を読み終わった。徹夜した。読みにくかったけれど、字が詰まりきりで、会話部分がほんのわずかしかなく、ぜんぶといってよかったほどほとんど字詰まりだった。でも、金子光晴の記憶力はすごいね。びっくりした。76歳で、鮮明に2、30代のことをとことん憶えていた。  あさから病院にいくので、このまま、恐怖とエロスのアンソロジー第2弾『筋肉男のハロウィーン』を読もう。これは、一、二か月くらいまえに、堀川五条のブックオフで108円で買い直したもの。例によって、収録作品をひとつも記憶していない。新刊本を買ってるようなお得な気分だ。おもしろいかなあ。 二〇一八年九月十五日 「ハンカチ」 ハンカチからこぼれる海。 ハンカチがこぼす海。 ハンカチに結ばれた海。 ハンカチが結ぶ海。 海をまとうハンカチ。 ハンカチにまとわれた海。 ハンカチの海。 海のハンカチ。 ハンカチにほどける海。 海はハンカチ。ハンカチは海。 ハンカチに海。海にハンカチ。 ハンカチの海。海のハンカチ。 ハンカチでできた海。海でできたハンカチ。 ハンカチの大きさの海。海の大きさのハンカチ。 ハンカチに沈む海。海に沈むハンカチ。 ハンカチのかたちの海。海のかたちのハンカチ。 ハンカチと寝そべる海。海と寝そべるハンカチ。 35億年前のハンカチ。35億年後のハンカチ。 惑星の軌道をめぐるハンカチ。惑星の軌道をめぐる海。 惑星の軌道をめぐるハンカチ。ハンカチの軌道をめぐる惑星。 波打つハンカチ。折りたたんだ海。 ハンカチのうえに浮かぶ海。海のうえに浮かぶハンカチ。 ハンカチの底。海の裏。 ハンカチのたまご。海のたまご。 海の抜け殻。 細胞分裂するハンカチ。 海から這い出てくるハンカチ。 端っこから海になってくるハンカチ。 ハンカチの半分。海の半分。 海に似たハンカチ。ハンカチに似た海。 海そっくりのハンカチ。ハンカチそっくりの海。 海の役割をするハンカチ。ハンカチの役割をする海。 60℃のハンカチ。 直角の海。 正三角形の海。 球形のハンカチ。 ハンカチを吸いつづける。 海に聞く。 ハンカチに迷う。 ハンカチが集まる。 ハンカチが飛んでいく。 ハンカチがふくれる。 ハンカチがしぼむ。 ハンカチが立ち上がる。 ハンカチが腰かける。 ハンカチを食べつづける。 ハンカチを吐き出す。 ハンカチの秘密。秘密のハンカチ。   二〇一八年九月十六日 「短詩」 「台湾兵。」「ハイ!」「休憩したか?」「ハイ、休憩しました!」「では、撃て!」 二〇一八年九月十七日 「小松宏佳さん」  小松宏佳さんから、詩集『どこにいても日が暮れる』を送っていただいた。冒頭の作のさいごの三行「地峡へ向かうこの石の階段は/わたしたちの運命を/かぞえている。」にみられるようなレトリックがすばらしい。「逆の視点」だ。おわりのほうの詩「春荒れ」にも見られるが、非常に効果的なものと思う。 二〇一八年九月十八日 「筋肉男のハロウィーン」  短篇アンソロジー『筋肉男のハロウィーン』を読み終わった。きょうから、文春文庫のアンソロジー『厭な物語』を再読する。パトリシア・ハイスミスの「すっぽん」とかシャーリー・ジャクスンの「くじ」なんて、何度読み返したかわからない。いちばん再読したいのは、フラナリー・オコナーの「善人はそういない」である。 二〇一八年九月十九日 「草野理恵子さん」  草野理恵子さんから、同人詩誌『Rurikarakusa』の第9号を送っていただいた。草野さんの2作品「白い湖」と「靴下」を読ませていただいた。「白い湖」は、モチーフ自体が扱うのが難しいものだと思うのだが、草野さんの「書く気迫」のようなもの、「勇気」といったものを見させていただいた気がする。 「鼎談」ていだん、と読むこの漢字が、3人による座談会を表現する言葉だと、はじめて知った。二人の座談会が「対談」というのは知ってたけれども。高校時代の国語の成績が悪かったのもうなずけます。  短篇アンソロジー『筋肉男のハロウィーン』を徹夜で読み直した。憶えている物語が6、7割あった。それだけ名作が収録されていたのだろう。中断していた、というより、読み直しさえまだしてなかった、奇想コレクションの、シオドア・スタージョンの『[ウィジェットと]と[ワジェット]とボフ』を再読しよう。ただし、この記憶に残っていた6、7割のものも、読んでいるうちに思い出したので、正確には憶えていなかったものかもしれない。微妙。しかし、それにしても、記憶力の衰えはすごい。すさまじい忘却力。 見つけたぞ。何を?  「きみの名前は?」(シオドア・スタージョン『必要』宮脇孝雄訳)  奇想コレクション、シオドア・スタージョンの『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』の77ページの4行目にあった。これで、コレクションがまた増えた。(「HELLO IT'S ME。」の詩句がさらに長くなった)これ、再読なんだよね。なんで初読のときに見つけられなかったのか、不思議。それとも、初読のときにはまだ「HELLO IT'S ME。」のアイデアを思いついていなかったのかもしれない。 二〇一八年九月二十日 「ぼくの詩」 ぼくの詩が紹介されています。 http://www.longtail.co.jp/bt/a024_f.html 二〇一八年九月二十一日 「学校の授業のこと、中間テストのこと」  きょうは一日、学校の授業のこと、中間テストのことを考えたいと思う。そのまえに、スタージョンの短篇集のつづきを読んでほっこりしよう。 二〇一八年九月二十二日 「シオドア・スタージョン」  シオドア・スタージョンの『[ウィジェットと]と[ワジェット]とボフ』を徹夜で読み直し終わった。タイトル作品、記憶になかった。つぎの奇想コレクション再読は、ジョン・スラデックの『蒸気駆動の少年』まったく記憶にない。ひとつも憶えていない。このすばらしい忘却力。新刊本を買ってるようなもの。 二〇一八年九月二十三日 「ぼくたち二人が喫茶店にいたら」 ぼくたち二人が喫茶店にいたら 籠に入れた小鳥を持って女性が一人で入ってきた。 見てると、女性は小鳥に話しかけては 小鳥の返事をノートに書き留めていた。 「彼女、小鳥の言葉をノートに書き留めてるよ。」 「ほんとう?」 ぼくたち二人はその女性がしばらく 小鳥に話しかけてはノートを取る姿を見た。 彼女が手洗いに立ったとき 興味のあったぼくは立ち上がって 彼女のテーブルのところに行った。 ノートが閉じられていた。 その女性が小鳥の言葉を書きつけていたのか それともまったく違うことを書いていたのか ぼくにはわからなかった。 これは、けさ見た夢を書き留めたものである。 二〇一八年九月二十四日 「ジョン・ウィンダム」  数学の仕事で、テスト問題をつくっているので、読書ができない。翻訳は10月中はいっさい手をつける時間がないようだ。57歳のいまが、人生でいちばん忙しい。若いときは、遊び倒してても、なおかつ読書する時間がたっぷりあったのに。体力が落ちて、横になる時間が増えたってことが大きな原因かな。  持ってたけど、本棚になかったので、ジョン・ウインダムの『海竜めざめる』を Amazon で買い直した。カヴァーが、じつにすてきな文庫本だった。内容は忘れたけれど。  ジョン・ウィンダムは大好きな作家で、むかし、『トリフィド時代』というSFを読んだ記憶もあるけど、いま手元にない。新しい訳で、創元SF文庫から出てるけれど、描写を憶えているから買わないつもりだ。まあ、気まぐれだから、わかんないけど。スラデックの短篇集『蒸気駆動の少年』を読んで寝る。 二〇一八年九月二十五日 「佐々木貴子さん」  佐々木貴子さんから詩集『嘘の天ぷら』を送っていただいた。モチーフが独特の散文詩集だ。物語詩にもなっている。読み込まれる。 二〇一八年九月二十六日 「加藤思何理さん」  加藤思何理さんから、詩集『真夏の夜の樹液の滴り』を送っていただいた。濃密な世界がたんたんと書かれている詩篇が多く、しかし、読むのには苦労しなかった。描写力がすぐれているからだろう。おもしろい詩を書くひとだ。 二〇一八年九月二十七日 「短詩」 空に浮かぶ青でさえ胸狭い バッグの中の面積を集める 二〇一八年九月二十八日 「荒木時彦くん」  荒木時彦くんから、詩集『NOTE 004』を送っていただいた。いまのぼくの精神状態では切実なモチーフだった。アルファベットの使い方が秀逸だった。さすが。 二〇一八年九月二十九日 「海竜めざめる」  Amazon で注文した、ジョン・ウィンダムの『海竜めざめる』が届いた。ビニールカヴァーがかけてあって、これ、ぼくがひとに譲ったやつだった。買い直し1400円ちょっと。なんだかなあ、笑。 二〇一八年九月三十日 「箴言」 表現において、個人の死は個性の死ではない。個性の死が個人の死である。 二〇一八年九月三十一日 「人生」  ぼくは愚かだった。いまでも愚かで浅ましい人間だ。しかし、ときに は、いや、まれには、それは一瞬に過ぎなかったかもしれないが、ぼく は、やさしい気持ちでひとに接したことがあるのだ。ぼくのためにでは なく。そんな一瞬でもないようなら、たとえどれほど物質的に恵まれて いても、とことんみじめな人生なのではなかろうか? 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