虹村 凌 2009年6月14日1時11分から2009年10月28日13時09分まで ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]面接(8)/虹村 凌[2009年6月14日1時11分] 「出てくんなよ」 「お前が望んだんだろうが」 「うるせぇよ」 「子供みたいな言い方するなよ」 「うるせぇってんだろ」 「まぁいい。それで、どうするんだよ?」 「何が?」 「わかってる癖に」 「だから、何をだよ」 「言わなきゃわからないか?」 「わかんねぇよ」 「本当に?」 「…」 「わかってんだったら、もう一度聞く。どうするんだ?」 「…わかんねぇよ」 「直接言われなきゃわかんねぇのか?」 「違う。どうしたらいいのか、わかんねぇよ」 「あの女に言えるのか?」 「今は、言えない」 「今は、ってお前、じゃあ何時言うんだよ」 「わかんねぇ」 「わからねぇわからねぇじゃ、何も解決しないぜ?」 「んな事ぁわかってるよ」 「じゃあ、どうするんだよ」 「今すぐにはわかんねぇよ…」 「フン。言う時期が遅ければ遅い程…」 「相手を傷つけるのはわかってんだよ。だからって昨日の今日で言える事じゃねぇだろ!」 「でも、ずっと隠し通す気でいる訳じゃないだろ?」 「そりゃそうだけど…」 「まさか、そんな気は無いよな?」 「…無ぇよ」 「今日だって、お前はあの女にキスされた瞬間に、違和感があった筈だ。何か違う、ってな」 「…」 「お前は今後、ずっと違和感を感じていくんだぜ?どんなに女が変わろうとな」 「…」 「それを隠し通す気でいる訳、無いよな?」 「…」 「匂いも、温度も、肌触りも、感触も、全部違うんだぜ?」 「…」 「お前はそれを隠し通す気でいる訳じゃないよな?」 「…」 「折角、受け入れてくれるような奇特な女が出てきたんだ。早めに言えよ」 「…」 「あんな女、そうそう居ないぜ?」 「それは…わかってる…」 「まぁ、お前はあの女じゃなくてもいいんだろうけどな」 「あ?」 「お前を許してくれる女なら、受け入れてくれる女なら、誰だっていいんだろう?」 「それは…」 「普段は色々と言う癖に、いざ淋しいとなったら、誰でもよくなったんだろう?」 「違…」 「違うなんて言うなよ?」 「…」 「言わせねぇよ。俺はお前なんだぜ?わかってねぇとでも思ったか?」 「それでも、好きになっていってるんだ」 「よくもまぁ、そんな恥ずかしい事が言えたもんだな!我ながら情けないぜ。ちょっと優しくされたから、心が動いただけだろう?」 「最初はそうだったかも知れない」 「まだそんな事言うのか?切欠だったって言いたいのか?」 「何が悪いんだよ」 「ギャッハッハ!今度は開き直りやがった!こいつぁ最高だ!」 「うるせぇ!うるせぇよ!消えろ!」 「バカが。俺はお前だ。お前が死ぬまで消えやしねぇよ」 「二度と現れんじゃねぇ!」 「フン。呼び出すのはお前の癖に」 「とっとと失せろ!」 「じゃーな」  俺が湯船から顔を出すと、 「ばぁ〜か」 とだけ言って、ニヤけたツラの俺が、湯船の中に消えていった。  そいつが何時から俺の近くにいるのかわからない。ずっと前から居た気がするけど、つい最近になって出てきたような気もする。勿論、そいつは俺にしか見えない。だけど、俺はそいつ(奴は俺だと言うが)と会話している。独り言なのか、それとも脳内だけで会話しているのかわからない。そいつは、俺が一人の時にしか姿を現さない。俺が狂っているのか?俺の妄想なのか?運動場の隅っこで育てた悪魔の様に、常に俺を見て嘲笑っているそいつを、俺はどうする事も出来ずに居る。孤独と苦痛と不安と後悔と憎しみを、思う存分喰い散らかして育ったそいつは、延々と恐怖を排出し続けている。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]面接(9)/虹村 凌[2009年6月14日1時11分]  胸糞悪い思いと同時に、反論の余地の無い事実と言う二つの思いが、べっとりと身体の真ん中にくっついて離れない。熱めのシャワーで体中を洗い流し、浴室を出る。栓を抜いた訳でも無いのに、浴槽の中から、ゴポゴポと水で誰かが喋っている様な音がする。換気扇のタイマーをセットし、浴室の電気を消す。 「ゴポゴポゴポゴポ…」  真っ暗なリビングに、薄い月明かり、銀色の街灯、それと、走り抜けていく電車の灯りが、部屋を照らしていく。部屋中で無数の、嗅いだ事のある匂い、知っている呼吸音とそのリズム、動き、が光の当たらない闇の中でうごめいている。現実にあった事と妄想の産物、どこまでが現実でどこからが妄想だったのかわからなくなってきた瞬間から、部屋中に少しずつ溢れたそいつが、ずっと俺を呼んでいる。だから、あまり部屋を明るくする気になれない。どうせ、電気をつけたところで、一瞬にして気配は消えるのだが。  俺は机の上に転がっているピースに手を伸ばし、火をつけた。ギシ、ギシと床の軋む音がする。くちゅ、くちゅと口付ける音がする。何時から、現実と妄想のラインがわからなくなったのか、もう最近は思い出す事も出来ない。俺は喉の渇きを覚え、冷蔵庫のドアを開けた。 「本当はわかってるくせに」  冷蔵庫の中で、俺が座ったままこっちを見ていた。 「本当は、わかってんだろう?何が現実で、何が妄想だったかって」  俺は冷蔵庫の扉部に入っているジンジャーエールに手をかけた。 「お前は妄想と現実を混同して、どうにか納得したいんだろ?」  ギギ、と言って冷蔵庫のドアが閉ざされ始める。 「何なら教えてやろうか、どこにそのラインが」 ここまで言いかけて、冷蔵庫のドアを思い切り叩きつけるように閉めた。ブーン、とモーター音を発したそれは、いつもの冷蔵庫と変わらない。  空気の悪さを感じ、俺は窓を開けた。埃っぽい空気が流れ込んで行くのか、流れ出ていくのか、あまり動きを感じさせない夜だった。部屋の中の音が止んでいる。閉じきった部屋の時だけしか出てこない。俺の精神状況を表していると言えば聞こえはいいが、流石にそれだけじゃ無いだろう。窓を開ける事に、俺の精神とどうつながりがあるのかは知れないが、そんなオカルトは信じていない。ましてや…カンカンカン、と遮断機の音が、俺の思考回路を遮った。俺は煙草を灰皿に押し込むと、たたみっ放しにしてあった布団を広げ、横になった。この駅を通過する電車なのだろう、風を切り開いて走って行く音がする。まだまだ後続車があるのか、俺は警報機の鳴る音を数えている間に、眠りに落ちていった。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]面接(10)/虹村 凌[2009年6月14日1時12分]  心臓を氷水の中にぶち込まれたような感覚に襲われて、目を覚ました。悪夢みたいなものを見た気がするが、どんな夢だったか思い出せない。心臓が 物凄い速さで、波打っている。喉がカラカラになっている事に気付き、背中に張り付いたシーツと、薄い毛布を引き剥がし、冷蔵庫の前に立つ。中に、何が入っていたか、思い出すのに、少し、時間がかかった。牛乳は、まだ賞味期限が切れていなかったはずだ。  職場に立つ。彼女は、先にいて、なにやら忙しそうに働いている。一瞬、目で追ったが、いつもの俺であれば、そんな真似はしない。静かに、自分の職務を全うするのみ。昨日までの自分がどんな人間であったかを思い出すのは、容易な事である。昨日までの自分を、覚えていればいいのだから。俺は昨日までの自分を覚えている。だから、違和感など、感じさせるはずが無い。何時間もの間、同じ空間にいる俺と彼女は、言葉を交わす事は無かった。  何事も無く、また、一日を終える。彼女は、再び、ロッカールームの前で待っていた。通り過ぎる人を、やり過ごす為に、携帯をチェックしているフリをした。姑息だと思うが、今のところはこれでいいだろう。俺は携帯を閉じると、彼女に目配せをした。彼女は静かに歩き出し、俺は黙って三歩後ろに従っていた。  外に出ても、彼女は俺の三歩前を行く。曲がり角をひとつ、ふたつ、曲がり、横断歩道を渡る。更に1ブロック歩いて、左に折れる。その先の神社の入り口で、彼女は立ち止まった。くるりと振り返ると、ニコリと笑った。ドロリ、と何かが胸の真ん中で垂れ落ちた。 「お疲れ様です」  俺は平静を装い、精一杯の笑顔で言った。 「お疲れ様です」  彼女は笑いながら、石階に腰掛けた。ハンドバッグの中からピースを取り出し、ジッポで火をつける。ジッポをしまった彼女は、石段を手で叩き、 「隣、座らないんですか?」 と言った。俺は黙って彼女の隣に座って、同じようにピースに火をつけた。 「あれ、セブンスターじゃないんですか?」 「昨日、気分で買ったんです、ピース」 「浮気するんですね」 「浮気、と言うよりはつまみ食いじゃないですかね」 「女の子も、そうなんですか?」 「いえ、それはないです」 「なんでですか?」 「…」  良い返しが思いつかない。しかし黙っておく訳にもいかない。 「一途と言う訳じゃないですけど、浮気は、しません」  正直、言っている最中は自分自身が何を言っているのかわからなかったし、言い終えた後も、何が目的でこう言ったのか、そもそもどう言いたかったのか、ちっともわからなかった。黙って、ピースを吸い込んでは、吐き出した。フォローの言葉も出てこない。 「…」  彼女は黙ったままだった。あー、またしくじったかな、と思う。しかし、下手に動くよりは、しばらく様子を見たほうが良い、と言う結論に至り、俺はその沈黙をやり過ごす事にした。彼女は石段でピースをもみ消すと、ふぅっ、と短いため息をついた。それでも、俺は黙って耐える。下手に動くと、更に状況を悪化させる。彼女の振る舞いを、視界の端に捉え続ける。 「あの」  彼女は思い切ったように、短く、それでも力強さを感じる声で言った。 「はい」 「あの、見られてました」 「え?」 「フロアマネージャーに、駅で一緒にいたの、ばっちり見られてました」 「あ…」 「だから、もう、隠す必要ありませんね」  心なしか、彼女は嬉しそうに言っていた。 「そうですか」 「残念、ですか?」  正直、残念と言えば、多少残念に思える。隠し事と言うのは、非常に良いスパイスだと思っている俺としては、それが無いという事は、多少の愉しみを失ったのと等しい。しかし残念がってもいられない気がするので、ピースを吸い込んで、吐き出しながら答えた。 「そんな事無いですよ」 「そんな残念そうな声で言わないで下さいよ!」  彼女は笑った。結果オーライ、だろうか?そんなに残念そうな声を出していた自覚は無いが、どうやら本当に、相当残念そうな声を出していたらしい。無意識とは恐ろしいものだ。  その後、彼女とは少し話しをした。もう隠す必要が無くなった事、それでも当然ながら職場では節度を保つ事、通勤や帰宅時間の事や待ち合わせ場所、時間、目印。その流れで、当たり前のように、一緒に住もうと言う話になった。どちらも一人暮らしで、通勤距離もさして変わらないので、どっちの家と言う話になる。なし崩し的にこうなって行く事を、俺はあまり快く思っていない気がした。気がした、と言うのは、俺自身がよくわかっていないからだ。俺が彼女に何を望んでいるのか、夢見ているのか、それがわからないのだ。それを見破ったのか、彼女は黙ってこっちを見て微笑んでいる。 「ちょっと、急すぎましたかね」 「あ、いえ、そういうんじゃなくて、俺自身よくわかってないんです」 「そうですか…」 「あの、すみません。俺…」  彼女は目を閉じてこっちを見ている。誤魔化せ、と言っているのか。誤魔化させてくれるのなら、誤魔化してしまおう。ゆっくりと、距離が縮まる。言い知れぬ違和感を抱えたままである事を悟られないように、一瞬で済ませる。恐怖を芽生えさせてはいけない。悟らせてはいけない。冷静さを失ってはいけない。勢いだけで全てを済ませてはいけない。誰にも、悟らせてはいけない。警戒を解いてはいけない。隙を見せれば、一気に恐怖が芽生えてしまう。そうなったら、俺は正常でいられる気がしない。  次の日からも、特に何事も変わりが無かった。特に職場の他の人間の見る目が変わった訳でも、環境が変わった訳でもなく、何も無い、普通な毎日が続いていった。何も期待しちゃいない、と言ったら嘘になる。しかし、特に何があって欲しいと思っていた訳じゃない。ただ、俺自身にも変化は訪れず、相変わらず幻影との会話を繰り返し、彼女には何も言えないままでいた。俺が一方的に一定の距離を保ったまま、何日も過ぎ去った。 ---------------------------- [自由詩]傘/虹村 凌[2009年6月17日23時03分] 「僕が愛おしいと思う女は他人が見たら欲情もしないような女だったんだ」 と雨の中で呟き煙草を放り投げる 傘なんて大嫌いだ 全身を複雑骨折してしまえばいい傘なんて 不貞腐れて雨に濡れて歩き出す 一人誰も居ない道を この道しか知らない気がする 何処まで続いてるかわかんねぇけど 雨に打たれて家まで帰る 傘なんて大嫌いだ 何にも無いこの道を歩く どしゃぶりの雨の中を 敗れた夢の残骸を引き摺って 歩く歩く 誰もが眠る街の真ん中を 一人で 歩いてる 影だけが傍を離れずに歩いている どしゃぶりの痛みの中で 心臓の鼓動だけが聞こえる 誰か一緒にいて欲しいと思うけど 結局いつも一人で 歩く 強風を受けた傘が裏返り 知らない奴が飛ばされていく 傘なんて大嫌いだ 自分が生きていることを確認してから 煙草に火をつけて歩く ---------------------------- [自由詩]ミルクとロイヤルミルクティー/虹村 凌[2009年6月18日13時30分] SOS、SOS アローアロー聞こえているかい。 こちらトウキョウ、こちらトウキョウ アローアロー聞こえているかい ムラートに見えるかい? そいつは悪い冗談だ アローアロー 影を見つめてみなよ 眩しい中を歩くよりは はるかに安全だからさ 影が伝染していくよ コンタギアスコンタギアス 馬鹿みてぇなクソみてぇな気分だよ アローアロー 聞こえているかい? 基本的に憤っているのだよ 今俺がこうしてのうのうと生きている事実と それに付属する様々な不条理だ 理解できりゃいいんだろうけど わからねぇよ アローアロー 汚い言葉を吐いてもいいかい? 言わないけどね アローアロー 完璧主義だとか物事は白黒つくものじゃないとか そんな事は全部わかってるよ SOS、SOS アローアロー聞こえているかい こちらトウキョウ、こちらトウキョウ アローアロー聞こえているかい 何を何で喰ったのかも忘れそうだったよ あぁ笑いたいからなのかな そうだ忘れてた 今言った事全部忘れてくれ アローアロー聞いているかい 忘れてくれて構わないよ アローアロー 俺は俺が醜悪であるのは知ってるよ 肉体的にも精神的にも でも退屈しすぎて壊れない自信だけはついちまった 笑えるだろ? ほら笑ってみなよ どこからどこまでが兄弟で どこからが違うのかわからないよ アローアローまだ聞いているかい 君がイカれてる所為で 俺が狂ってるような気分になるよ 多分大丈夫なんだろうけど SOS、SOS いつもそう言っていればいつか助かるよきっと もし助からなくてもずっと黙ってたって言う罪は問われないさ 誰も驚かないだろうってそれだけの話 狂ってもねぇし壊れてもねぇけど イカれてるみてぇに見えるだけならそれでいい それもこれも全部お前の所為だよ アローアロー聞いていてくれよ 笑ってくれて構わないから どうせ同じくらいイカれてんだから お前の目の中に何が住んでるのかわからない だからお前が何を考えているのかわからないよ でもお前の目からは俺の目の中に何か見えるかも アローアロー聞いていてくれるかい 俺はずっと前からそれが知りたかったんだ 頭っからミルクをかけてくれてかまわない お前の頭っからロイヤルミルクティーを被るけど それでも別に狂ってるとは思いもしないだろ? 大丈夫だから アローアロー聞いてくれてありがとう 俺の名前を呼んでくれよ アローアロー アローアロー ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]面接(11)/虹村 凌[2009年6月18日23時55分]  変わらない毎日と言うのは、とても安心できるものである。俺が正気でいられるからだ。周囲の環境が変われば、俺もそれに柔軟に対応しなけりゃならない。彼女と付き合い始めた、と周囲に言われれば、それなりの反応をしなければならない。それが非常に面倒である。相手の思う通りの反応をしつつ、それでいて話を長引かせない、そんな対応を、それぞれのパターンで、いちいちやらなきゃならない。それが無い、と言うのは面倒くさくないので、俺にとってはありがたい事この上無い。むしろ、誰も知らないんじゃないのか、とさえ思う。フロアマネージャーが誰にも言わない、と言う事だって十分にありうる。そんな事を考えながら、毎日は確実に、単純に過ぎ去っていった。  俺は、その中で、ずっと頃合を見計らっていた。俺は、言わなきゃいけない。でも、この空っぽの毎日の中にいると、言わなくてもいいのじゃないかと思う。実際、彼女とは殆ど何もしていないので、あれ以上の違和感を抱える事は無く、恐らく、何かを悟られる事無く、一緒にいる事に成功している。成功している、と言う言葉が、彼女を傷つけると言う事実は見過ごす。見過ごす俺を、俺が見ている。けれど、この日々に埋没するのも、悪くは無い。ただ、彼女と一緒に生活すると言う事になったら、全部を喋らねばならないだろう。いつかバレてしまう事なのだ。そして長ければ長い程、彼女を深く、より大きく傷つける。そのタイミングを、俺はずっと掴みかねていた。  彼女は優しい。何も聞かないでいてくれる。俺が話すのを、待っているのだろう。何度か、俺を甘やかすなよと言おうと思った事があったが、俺はどうしても言えずに、その度にタイミングを見失っていた。いや、俺はタイミングを計ろうとしていたのだろうか?このまま、何も言わずにいる気だったんじゃないだろうか。   とりたてて変わらない中で、ひとつだけ変わった事と言えば、敬語を使って喋らなくなった、と言う事くらいだった。そして俺はその中で、この違和感を消し去ろうとしていた自分を、認識せざるを得ない事を、認め始めていた。  ある時、彼女が俺に再び同居の話を持ちかけてきた。 「ねぇ、一緒に住むって話、前にしたの覚えてる?」 「うん」 「もう一回聞くけど、一緒に住まない?」 「いいよ。一緒に住もう」 「!」  俺の答えが意外だったのか、彼女は驚いた表情をしていた。驚くくらいなら、最初から聞かなければいいのに、と思ったが、そんな事をおくびにも出さない。この瞬間に、俺は記憶を塗り替える自分を認識した。  埋もれてしまえば、事が進むのは早い。俺は、膨れ上がる違和感を彼女に告げる事なく、ドロドロとした本能に従い、動き、毎日をこなしていった。  ある日、彼女は残業を命じられ、俺は一人で二人の部屋に帰る事になった。別に特別な事ではない。彼女の方が、責任ある仕事を任されている訳だから、何も毎日ずっと一緒にいわれる訳ではない。ただ、こういう日は決まってあいつが出てくる。あまり、望んでなどいないのだが。 「おかえり」 「…」 「つれねぇな。一人じゃ淋しかろうと思って言っているのに」 「余計なお世話だ」 「上手い事やってるじゃねぇか。お前、役者の才能あるんじゃねぇの?」 「うるせぇよ」 「いつまで誤魔化せるのかと思ってたが、何だ、隠し通せるかもな」 「…」 「まぁ、そうはさせねぇよ。段々と違和感を感じなくなったようだが、それもいつまで続くかな?」 「どういうことだ?」 「言わなきゃわからないか?」 「いや…いい…」 「お前の悪い癖だ。わかっているのに、そうやって確認しようとする」 「…」 「まぁいい。俺はずっと見てるぜ、今後どうなるのかってな」 「帰るのか?」 「バ〜カ。帰るって何処に?俺はお前の中に戻るだけだ」 「…」 「やけに淋しそうな顔するじゃねぇか。何なら、もう少し付き合うが?」 「いらねぇよ。とっとと消えちまえ」 「ヘッ。相変わらずだな。じゃ、あばよっ」  そういうと、俺を名乗る俺はすっと消えていなくなり、俺は一人、暗い部屋の中でたたずんでいた。電気のついていないこの部屋は、相変わらず通り過ぎる電車の窓の明かりと、街灯、それらの光が、薄く、影を払いのけていた。  この部屋は、元々は俺だけの部屋だった。そこに彼女が移り住む事になったのだ。俺は、慣れた薄暗い部屋の真ん中に座り、セブンスターに火をつけた。  俺が言っていた事は、よくわかっている。今の俺にとっては、あまり有り難い事じゃない。そろそろ、言わないで居る事が限界に近づいている、と言う事だ。それは俺自身の問題でもあり、その女自身の問題でもある。見えていたけれど、見ないふりをしていたその日が、近づきつつある。どうしよう、などと考える事は出来ない。俺は彼女に、言わなければならない。  暗闇を切り裂き、俺の携帯の画面が明るく光る。サイレントモードになっているそいつは、黙ったまま、暗い空間を明るく照らし続けている。俺は電話に出た。 「もしもし」 「あ、出た」 「何だよ」 「出ないと思ったから」 「で、何?」 「え、何?何かあった?機嫌悪いね」 「別になんもねぇよ」 「あっそ。ならいいけど」 「で、何の用だよ。何かなきゃ連絡しねぇくせに」 「帰ってきたよ」 「知ってるよ」 「あ、覚えてたんだ」 「…まぁな」 「これから、ずっとこっちにいるから、時間あったらお茶でもしようよ」 「あぁ」 「まだ聞いてないんだけど」 「何を?」 「ただいま」 「…おかえり」 「うん」 「なぁ」 「なに?」 「なんでもねぇ」 「はぁ?」 「なんでもねぇよ」 「あっそ。んじゃ、またね」  電話はプツリと切れた。  あの女が、帰ってきた。別に付き合っていた訳でも無いけれど、一時期、一緒にいた関係がある。正直、俺は彼女を好いていたけれど、彼女は俺に特別な感情は無いと名言していたので、大した関係には発展しなかった。ただ、帰ってきたら、連絡を取る、と言う話をしていた。だから、俺は自分から連絡しなかったし、彼女も、ここ数年で連絡をよこした事は無かった。  俺は大きく息を吸い込み、大きく吐き出した。  立て続けに、携帯が光った。 「もしもし」 「もしもし?」 「うん?」 「今、仕事終わったよ」 「お疲れ」 「今から帰るね」 「うん。」 「ご飯食べた?」 「いや、まだ食べてない」 「じゃあ、何か買って帰るね。何がいい?」 「何でもいいや」 「うん、わかった」 「気をつけてね」 「ねぇ」 「うん?」 「ねぇ」 「愛してるよ」 「うん。好きだよ」  俺は電話を切って、セブンスターを灰皿にねじ込んだ。消えきらない赤い火を、俺は無理矢理にもみ消して、シャワールームに向かった。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]面接(12)/虹村 凌[2009年6月18日23時55分]  湯船の中に身体を沈めて、肺の中を空っぽにするまで息を吐き出した。 「おい」 「何だ、珍しいな。お前から俺を呼ぶなんて」 「聞いてただろ?あいつが帰ってきやがった」 「何だお前、今更そんな事言いやがって。わかってた事だろうが」 「そうなんだが、どうも実感が無かったんだよ」 「実感が無いってお前…」 「うん、本当に、殆ど忘れてたんだ。そろそろ帰ってくる、ってのは知ってたけど」 「フン。まぁ、そんな事はどうでもいい。問題は、お前がいつ言うかって事だ」 「それなんだ。なるべく急がなきゃいけない」 「だろうな」 「でも、この生活も、悪くないんだ」 「フン。甘っちょろい事言いやがって」 「だって、お前も楽でいいだろう?」 「まぁ、それは認める」 「だから、この生活も壊したくは無いんだ」 「しかし、俺ぁつまんねーと思うぜ?」 「何も無い平地を走るか、ジェットコースターに乗るか、って?」 「このままじゃ、板ばさみになってジェットコースターどころじゃ済まないぜ?」 「それを望んでるのかも知れない」 「何考えてんだお前?」 「わからん」 「わからんって…」 「お前が戸惑うなんて、珍しいこともあるもんだな」 「うるせぇ。てめぇのドタマのイカレ具合に引いてるだけだ」 「ふーん。まぁいいや。じゃ、俺ぁ出るぜ」  俺は湯船から立ち上がり、栓を抜いて風呂場を出た。その瞬間に、身体が強張る。リビングの明かりがついていて、彼女が帰ってきていたのだ。俺は滴る水滴を拭う事も出来ずに、その場にたたずんでいた。全部、聞かれてた?わからない。ここは、スルーするべきか?どうする?聞かれてたら、スルーは惨めだぞ。まずい、どう動いていいかわからない。どうする? 「お、おかえり。早かったね」  結局、選んだ言葉はこれだった。 「ただいまー。思ったより早く終わった…って、身体くらい拭けば?」 「あ、あぁ。帰ってきた音が聞こえてなかったんで、驚いちゃって…」  ここらへんで、何時帰ってきたのか探ろうと思ったのだが、 「ん?今さっきだよ。帰ってきたばっか」  と言う彼女の答えで、それは失敗する。聞こえて、なかったんだろうか?聞いて、なかったんだろうか?それは果たして、良かったのか、悪かったのか。今の俺にはわからないが、とりあえず、身体を拭いて、リビングでセブンスターに火をつけた。 「あ、晩御飯食べた?」 「うん、帰りに牛丼食ってきた。喰った?」 「うん。私も帰りにご飯食べてきたから大丈夫」 「そっか。あ、風呂の栓抜いちゃったけど、いい?」 「うん。お風呂入ると、余計に疲れちゃうからいいや。一緒に入れなかったし」 「うん。明日、入ろっか」 「約束だよー?」 「でも、また残業あるかもね」 「明日はしなーい。明後日休みだし!」 「じゃ、約束するよ」  暗い影が心臓を覆ったまま、俺は彼女と指きりをした。楽しい会話とは裏腹に、俺の心は重く、ちっともスッキリとしていなかった。彼女が聞いていない保障はどこにもない。なら、この態度は何なのだ?俺に気をつかっているのか?そう思うと余計に苦しくなる。彼女に全てを話して、受け入れてもらえるのなら、全てを話してしまいたい。でも、もし受け入れてもらえなかったら、この生活は一瞬で崩れてしまう。それはいやだ。また一人には戻りたくない。 「何を考えているの?」  彼女の言葉が、脳味噌と心臓と鼓膜を貫通した気分だった。心臓が喉から飛び出るかと思った。 「え?」 「ずっとこっち見てるから、何考えてるのかな?と思ってさ」 「綺麗だな、と思ったんだ」 「え?何?いきなり」 「や、働く女の人は綺麗だよ」 「ふーん。ま、いいや。君も、格好いいよ」 「んな事ぁ無ぇよ。俺は…」 と言いかけて、やめた。 「君は、何?」 「いや、なんでもない。眠いからもう寝るぜ?」 「うん。おやすみ」 「おやすみ」  俺は、喉まででかかった言葉を飲み込んで、布団に潜りこんだ。布団の中で、彼女と結んだ小指を眺める。嘘ついたら、か。嘘じゃなけりゃ、許してくれっかな。そんな事を考えてから、ゆっくりと眠りに落ちていった。  翌日の業務も、何事も無く終わり、俺は彼女と並んで帰ってきていた。一緒にご飯を買って、お風呂に入って、ご飯を食べて、煙草を吸って。幸せに見える、と思う。事実、俺は幸せだ。自分の中の、もやもやとした霧みたいなものを除けば。  いざ寝ようとした時に、彼女の携帯電話が鳴った。実家からのようで、祖母が階段から落ちて病院に運ばれたそうだ。両親は旅行中で、なんだかんだと言われ、結局一番近くにいる彼女が、病院へ行く事になった、と彼女は手短に伝えた。声が震えている。動揺しているのが、手に取るようにわかる。残念そうに謝る声が、少し、雑に聞こえるくらいに。  俺は彼女を見送ると、さっさと布団の中にもぐりこんだ。その時、俺の携帯が鳴った。 「もしもし?」 「あ、出た。」 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]面接(13)/虹村 凌[2009年6月19日22時59分] 「出たよ」 「ねぇ、あのさ」 「あん?」 「今からそっち行っていい?」 「はァ?」 「ダメ?」  ダメだと思うが、ダメじゃない気もする。正直、会いたく無いけど、断る理由も無い。断るべきだが、断れる理由が見つからない。 「別に、ダメじゃねーけど」 「よかったぁ。実はもう結構近くまで来てんだよね」 「はぁ?!いま何処にいんだよ!」 「駅」 「お前…ダメだったらどうするつもりなんだよ!」 「直接、君ん家に行ってダメだったらそこらへんで野宿?」 「バカだろてめぇ。イカれてんのか?」 「ハァ?あンたに言われたくないし」 「るせぇっ!んじゃさっさときやがれ!」  俺は電話を切った。実家に帰った彼女は、明日の夕方まで戻らない、と言った。ならば、多少の時間はある。一晩くらいなら、別に大丈夫だろう。何も無い。何も、しなければいい。大丈夫だ、何も無い。何もしない。彼女に操を立てるとか、そういうのじゃない。  喉の渇きを覚え、冷蔵庫のドアを開ける。 「バカ野郎。何考えてやが」  水だけ取り出して、バタン、と冷蔵庫の扉を閉める。俺だって自分が何考えてるのかわからない。普通であれば断るべきだ。偶然、彼女がいなくなったからって、女を部屋に上げていい事にはならない。近所のファミレスでもいい筈だ。しかし、あの女は俺の部屋の位置を知っているし、そんな緊急回避は、大した意味をなさないだろう。  セブンスターに火をつける。  ジ、ジリジリ、ジジ、ジリ。  ドアが叩かれた。セブンスターを咥えたまま、ドアをあける。いつか、見た事がある顔の女が、ドアの前に立っていた。その瞬間の俺は、どんな表情をしていたのだろう? 「なに、どうしたの?…入っていい?」 「あぁ…」  俺は彼女を招き入れると、ドアを締め、チェーンもかけた。 「チェーンするの?」 「ん?あぁ…いつもの癖なんだ。しないほうがいいな」 「いいよ、そのまんまで」 「そうか」 「ねぇ、君、誰かと住んでる?」 「あぁ」 「彼女?」 「うん、彼女と住んでる」 「へぇ…いいの?私がここにいて」 「さっき、実家に帰った。そうじゃなきゃ、家に入れねぇよ」 「ふーん。あ、煙草吸っていい?」 「かまわんよ」  女は、鞄の中から金色のマルボロを取り出すと、100円ライターで火をつけた。 「彼女、ピース吸うんだ」 「あぁ」 「私もね、高校生の頃はピース吸ってたんだー」 「知ってるよ。何回も聞いた」 「あ、そ」 「…」  マルボロの、独特の香りが部屋の中に広がる。 「今、なにしてんの?」 「俺?就職して働いてる」 「就職したの?!どこ?!」 「百貨店」 「どこの?今度買い物行くよー。安くしてくれたらだけど」 「言わない。別に5%くらいしか安くならんし、それだったらいらんだろ?」 「働いてるとろ見てみたいなー、とかダメ?」 「ダメだ」 「彼女いるから?」 「違ぇよ」 「彼女も同じ職場なんだ?」 「…そうだよ」 「ふぅん。彼女、可愛い?」 「素敵な子だよ」 「君の事、ちゃんと知ってるの?」 「…これから、言うつもりなんだ」 「へぇ。受け入れてくれそう?」 「わからない。でも、言わなきゃ」  俺は窓辺に立って、セブンスターに火をつけた。女も、俺の横に立っている。しばらく、無言のまま煙草を吸い込んで、吐いて、吸い込んで、吐いて。踏み切りが鳴り始めたところで、女が煙草を窓の外に投げ捨てた。 「捨てんなよ」 「ごめん」 「で、お前、何しに来たんだ?」 「何って?」 「ここに煙草吸いに来た訳じゃねぇだろ?」 「あ、何?したい?」 「そういう事じゃねぇよ。おい、手ぇどけろ」  女の手が股間を弄る。 「したくないの?」 「したい、とかしたくねぇ、とかそういうんじゃねぇ」 「じゃあ何?」 「何か話があって来たんじゃねぇのか?」 「別に」 「フン。なら話は早い。俺ぁ寝るぜ。てめぇもさっさと寝ちまいな」 「しないの?」 「しねぇよ」  俺はレースのカーテンを締めて、布団にもぐりこんだ。どうも、調子が狂う。特に、彼女との会話に慣れていると、この女とは上手く会話がかみ合わない。かみ合わせたくない、と言うのも正直は話だが。 「私、どこで寝ればいい?」 「ソファでも床でも、どこでも好きなところで寝な」 「じゃあここにする」  と言って、女は俺の布団の中にもぐりこんできた。 「おい、てめぇ何してんだよ」 「何って?あなたの為を思って、ここにしてるのよ?」 「あ?」 「ソファとか、彼女のベッドとか、そんなところにアタシの匂いついてたら、いやでしょ?」 「…」 「彼女との仲を引き裂きにきたんじゃないんだし、ここでいいと思う」 「…勝手にしやがれ」  俺は女に背を向けて、薄い毛布をひっかぶった。 「ねぇ」 「…」 「今でも私の事、好きなの?」 「…」 「私ね、結構好きだったよ」 「過去形かよ」 「あ、起きてた」 「るせぇ。何だよ、好きだった、って」 「事実なの。結構、好きだったんだよ?」 「そうかい。そいつぁありがたい話だな」 「でね、たくさん迷惑かけちゃったから」 「だから、何?」 「させてあげようかな、って」 「上から目線?」 「してもらおうかな、って思って」 「どっちだよ」 「好きな方でいいよ」  女の手が、背中の方から前に回ってくる。しばらくは女のさせたいようにさせてしまったが、どこか遠くの方で、何かが折れる音がした。  俺は寝返りを打ち、女と向き合う。 「やっとこっち向いた」 「…バカヤロウ。今でも…」 「今でも?」 「…」  俺は貪るように口付けると、後は、溶けた絵の具みたいに滲んで一色になってしまうだけだった。頭の中がガンガンしている。色々と脳内で警報機みたいなのが鳴っている。自分が何をしているのかよくわならない、と言うのが最大限、客観的に自分を見た結果だ。とにかく、俺は彼女を犯した事実だけは曲げられない。何かがたまっていた訳でも、なんでもない。彼女の腹部に飛び散った俺を自分でふき取りながら、ようやく世界の配色が元通りになるような感覚に陥った。 「危ないなぁ、もう」 「…」 「さすがに最後はゴムつけると思ったけど」 「ごめん…」  俺はウェットティッシュを渡すと、立ち上がって煙草に火をつけた。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]面接(14)/虹村 凌[2009年6月21日0時31分]  白く濁った煙が、窓の外へと流れ出ていくのを、じっと見ていた。下腹部をウェットティッシュで拭き終わった女は、俺の横で椅子に座り、マルボロライトに火をつけた。 「ねぇ、さっき何ていいかけたの?」 「ん?」 「今でも、って言ってたじゃん」 「さぁな」 「今でも、好きなの?」 「知らねぇよ」  女の横に椅子を並べて、その女の顔に煙をふきかける。実際、何を言おうとしたのか、よくわからない。別に嫌いになった訳じゃないけれど、付き合ってた訳でもないし、確かに好きは好きだけど、それが「愛」なのかと聞かれれば、どうも違う気もする。「隣人愛」ほど、平たい意味ではないけれど、「愛情」とも違う。 「ふーん」  彼女はつまらなそうに、マルボロライトを吸っていた。つまらなそう、と言うよりは期待外れ、と言う方が正しいかも知れない。俺は、半分以上残っているセブンスターを灰皿でもみけして、冷蔵庫を開けた。俺が、いた。 「お前…何でいるんだよ…」 「あの女はお前の事知ってるだろうが」 「…」 「フン。何やってんだよバーカ」  俺は黙って水を取り出して、冷蔵庫を閉じた。味のしない液体が、食道を下っていくのが、よくわかる。ペットボトルの中の水が、脈を打つようにドクン、ドクンと波打つ。 「ねぇ、私にも頂戴」  女は手を伸ばす。 「いいけど、お前少しくらい隠せば?」 「何で?」 「何でってお前…」 「別に欲情するような身体じゃないでしょ?」 「いやそうでも無いけど」 「へぇ」 「な、何だよ」 「なーんでもない。お水、頂戴?」  俺は女にペットボトルを投げてよこした。灰皿から吸いかけのセブンスターを抜き取り、火をつける。夜の窓辺で、全裸で煙草を吸う男と女。絵になってるなら、別に何でもいいかも知れない、と思った。別段、周囲の住人と付き合いがある訳でもないので、誰かがチクったりする心配も無いだろう。俺か彼女のストーカーがいたら、話は別だが。まぁそんなことも無いだろう。  ペットボトルの水を飲み干した彼女は、その中にマルボロライトを入れて、煙草の火を消した。俺に向けて差し出すので、俺も短くなったセブンスターを入れた。微かな煙が、ペットボトルの中で交わって、小さな口から出て、消えて行った。 「何考えてるの?」 「ん?いや、別に…」 「ふーん」  俺が考えている事には、あまり興味が無いそうだ。ぼーっと窓の外を眺める。轟音をたてて電車が走り去る。光と影が素早く流れていく。ドクン、ドクンと心臓が音を立てる。脳味噌の中で、立ち直りかけた理性が、再び吹き飛ばされる。求める、まぐわい、番い、交わり、溶けて、行く、俺を、見つめて、見ぬふりをして、溶けて、溶けて、飛び散る。二人でシャワーを浴びて、もぐりこんだ布団の中は、この世で一番平和で幸せな世界だと、そうやって眠る二人なら誰もが思うように、俺も、感じた。もうどうなっても構わない。この女だって、もうわかっているだろう。生活も、何もかもがどうでも良くて、真っ暗な穴の中に落ちていく、その冷たい感覚すらが、この「世界」のスパイスみたいに感じられた。 「起きてるか?」 「…ん?」 「笑うなよ…?」 「…笑ってないよ」 「本当は、今でも」 「今でも?」 「…なんでもない。おやすみ」 「…おやすみ」  俺は、女を抱きしめて、眠った。  夜の次に朝が来る保障なんてどこにも無いのなら、俺は間違っていない。夜の次には朝が来ると信じている奴等が、俺に後ろ指を、むける。狂った朝が訪れるかも知れないのに、朝は来ないかも知れないのに。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]面接(15)/虹村 凌[2009年6月21日0時32分]  眠りが浅くなり、自然と目を覚ます。腕の中に誰も居ない事に気付き、息が詰まった。俺は布団を跳ね除けて飛び起き、リビングに通じるドアを思い切り開け放った。 「どうしたの?」  果たして、そこに女はいた。何処から出したのか、薄いシーツで身をくるみ、窓際で椅子に座ってマルボロライトを吸っていた。驚いた様な顔でこちらを見ている。俺の全身から、脂汗が吹き出していた。 「…いなくなったかと思った」  自分でも驚く程、声が震えていた。誤魔化そうにも誤魔化せない動揺だが、俺は極力どうにかしようと、セブンスターに手を伸ばした。 「私がいなくなったと思って、飛び起きたの?」 「…うん」 「あははっ」 「な、なんだよ」 「可愛い。こっちおいで」  女がひらひらと手を振って、俺を招いている。俺は黙って彼女の横に体育座りをした。女の手が、俺の頭をクシャクシャと撫でる。思わず、幸福だ、と呟きそうになった。彼女といた時には無かった、この激しい高揚感を伴い幸福が、今、ここにある。罪悪感がスパイスとなって、その幸福はより大きな幸福となる。女は、マルボロライトを吸い終わるまで、ずっと片手で俺を撫でていた。俺はずっと、体育座りをして、撫でてもらっていた。 「もうちょっとしたら、帰るね」 「うん」 「シャワー貸りていい?」 「うん」  女は立ち上がって、シャワールームへと消えていった。    セブンスターの先が、ボロリと崩れ落ちる。 「タオル取って」  女のこの言葉まで、俺はずっと、何も考えておらず、ぼーっとしていた事に気付いた。俺は燃え尽きてフィルターだけになったセブンスターを灰皿につっこみ、干してあったタオルを持って脱衣所に向かった。シャワールームのドアが半分開いて、手が伸びている。俺は黙って、その手にタオルを掴ませる。 「ありがと」  女はドアを締めて、すりガラスの向こう側で体を拭いていた。その様子を少しだけ眺めた後、俺は脱衣所を出て、リビングに戻った。何となく、やらなきゃいけない気になって、部屋を片付けて、灰皿の中のセブンスターやピース、マルボロライトを処理して、部屋中に消臭スプレーを撒く。飛び散った俺も、溢れた女も、全部綺麗に拭き取って、俺は部屋を、眺めた。たった半日で、また、この部屋に、女との思い出が色濃く染み付いた。いくら綺麗にしても、いくら掃除をしても、そのシミが消える事が無い。  ドアを開けて、タオルをまとった女が出てきた。 「掃除したの?」 「あぁ」 「綺麗になったね」  心臓が凍りつくような思いを、した。綺麗になったね、と言うたったそれだけの言葉が、胸の真ん中を突き抜けていったのだ。あぁ、綺麗にしたさ。俺は、何も無い平穏な幸せを、壊したくないんだ。 「あぁ」  とだけ答える俺を、女は楽しそうに、見つめていた。俺は立て続けに煙草を吸いながら、女が支度を整えて行くのを眺めていた。女が下着を、衣服を、見につけていく様子を、ずっと眺めていた。彼女がこうするのを、眺めた記憶が無いな、と思った。気をつかっているのか、どうなのか、よくわからないけれど、彼女のそういう様子は見た事が無い。この女のそれなら、何度か見たのだけれど。女は昨日と同じ服を着て、こちらを向いた。 「似合う?」 「可愛いよ」 「…きもっ」  失礼な話である。正直な感想を言って、この扱いである。しかし、この様なやりとりも、彼女とは取り交わした事が無い。 「知ってるよ」  俺は短くなったセブンスターで、新しく取り出したセブンスターに火をつけた。こうでもしなきゃ、俺の間が持たない。下手をすれば、また女を求めてしまいそうだ。かろうじて抑えている理性を、昨日のように壊す訳にはいかないのだ。理性がそう叫ぶ。本能は壊せと叫ぶ。それを察したのか、女はなかなか帰ろうとしない。 「時間、大丈夫か?」  俺は耐え切れずに、女に聞いた。 「うん、そろそろ」 「そうか」 「駅まで、送って?」 「あぁ」  あまり、何も考えずに、反射的に答えた。  外に出ると、女は俺の手を握ってきた。俺も、女の手を握り返す。特に会話も無いまま、駅に到着した。それまでの間、ずっと手は握ったままだった。 「じゃあね」 「おう」 「また電話するね」 「おう」 「彼女に、ちゃんと言ってね」 「…うん」  それだけ言うと、女はさっと俺の手を離して、改札口の向こう側に消えていった。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]面接(16)/虹村 凌[2009年6月21日0時33分]  俺は改札を離れて、家へと向かった。いや、正確には、改札を離れてから家に帰ってきた間の記憶が、すっぽりと抜けているのである。俺が何を考えて、どういう経路で帰ってきたのか、全く記憶にない。とにかく俺は家に帰ってきていて、リビングのソファに腰かけて、セブンスターを吸っていた。崩れ落ちそうな灰に気付いて、ゴミ箱の中に落とす。小さな音を立てて、固まりかけた白いティッシュの上に着地した。  俺は立ち上がって、ゴミ袋を取り出して、家中のゴミを袋に突っ込むと、その袋を持って外に出た。ゴミ収集室に放り込んだ。グシャリと音を立てて、棚の上を転がるゴミ袋が止まるのをを見届けてから、ゴミ収集室を後にした。ナンプラーの匂いがまとわりついて離れなかった。それが、嫌だとも思わなかった。  そろそろ夕暮れになろうか、と言う時になって、ドアの鍵を開ける音がした。 「ただいま」 「おかえり」  彼女は疲れた顔で部屋に入ってきた。 「どうだった?」 「うん、心配は無いって。骨折っただけで、後遺症とかも残らないって」 「そうか。良かったね」 「うん」  心配して泣いたのだろう、目蓋が真っ赤に腫れあがっていた。 「目、凄い腫れてるよ」 「うん」  彼女は小さく俯いて、荷物を下ろして、俺の隣に座った。フワリ、と彼女自身の香り、汗、病院などが入り混じった匂いがした。彼女は頭を俺の肩の上に置き、大きく息を吐いた。 「疲れちゃった」 「うん。お疲れ様」 「お風呂、入りたい」 「うん。入れてくるね」  俺は立ち上がり、風呂場へ向かった。脱衣所のドアを閉めると同時に、軽い吐き気に襲われた。理由はよくわからない。罪悪感とか、そういうのかも知れないし、違うかも知れない。そもそも、吐き気に教われてたのかすら、よくわからなくなってきた。俺は風呂場に入り、中を軽く流した後、お湯を張るべく、栓をした。白い湯気が立ち上り、室内の空気が湿気を帯びて、重たくなっていくのがわかる。小さい深呼吸をひとつして、俺は浴室を出た。  リビングに戻ると、彼女はスプーンを目の上に乗せていた。 「ちゃんと冷やした?」 「うん」  彼女は首から上だけ天井を向いたままで答えた。 「もうちょっとで、お風呂入るから」 「うん」 「入浴剤、入れる?」 「この前、ラッシュで買った奴がいいな」 「ん」  俺は洗面所に戻って、入浴剤を出すと、風呂場の入り口に置いた。お湯が溜まっていくのを見ながら、煙草に火をつける。湿った空気が、浴室から洗面所に流れ出る。  気がつくと、彼女が後ろに立っていた。 「もう、お湯溜まった?」 「ん?あぁ、もう少しかな」 「二人で入っても、まだかな」 「二人で入れば、もういいかも」 「じゃあ、入ろうよ」 「うん」  電気のつかない暗い脱衣所で、二人はもぞもぞと服を脱いで、湿った空気の浴室に入った。俺は入浴剤に手を伸ばし、湯船の中に入れた。緑色の粉は、まるで水中で立ち上るきのこ雲のように広がって、急速に溶けていった。  俺はお湯の温度を確かめて、自分と彼女にかけ湯をしてから、ゆっくりと湯船に使った。彼女も続いて、湯船につかる。彼女は俺によりかかるようにして、湯船の中で二人、座った。沈黙が続く。疲れている彼女に、言うべきなんだろうか。正直、迷いがある。今、言わなきゃいけない気がするけれど、正直、今の彼女に言うべきかどうかがわからない。言うべきじゃない気がする。でも、この機会を逃したら、何時、言えるのかわからない。  長い沈黙が続く。聞こえるのは、二人の呼吸の音と、浴槽から溢れ出たお湯が、床を叩く音だけだった。 「ねぇ」 「ん?」 「何か喋って」 「うん」 「何でもいいから」 「…何でもいい?」  今しか、無い。 「俺、さ。普通じゃねぇんだ」 「ちょっと変わってるだけだよ」 「違うと思う。君は、一人の時に、自分が見えたりする?」 「どういう事?」 「風呂場とか、冷蔵庫の中とか、色んな処から出てくるんだ」 「自分が?」 「うん」 「幻聴とか幻視とか、じゃなくて?」 「よくわからないけど、俺自身がいる。鏡でも見るみたいに」 「それで?」 「そいつと喋る」 「喋るの?」 「会話する」 「何を?」 「決まった何かを喋るんじゃない。その時にあわせて、内容は変わる」 「例えば?」 「俺は正しいのか、間違っているのか、何をするべきかって」 「誰もがやる自己対話みたいなのじゃないの?」 「自己対話くらいなら、誰でもやるだろうけど、俺は俺と喋ってるんだ」 「…」 「君は、そういうの無いでしょ?」 「…」 「俺は病んでるのかな。多分、そうだと思う」 「それとね、多分、色んな感覚も普通じゃない」 「…どういう事?」 「いつも、ブレーキかかってる」 「何に?」 「色んな感覚。楽しいとか、嬉しいとか、淋しい、とか悲しい、とか」 「いつも?」 「うん、殆どいつも」 「あの時も?」 「君の前で泣いた時?」 「うん」 「あの時は、半分本当で、半分嘘かな」 「どういう事?」 「嬉しかったのは本当。でも、嬉しくて泣いたんじゃなくて、泣いたら楽になるとか、ドラマっぽいとか、そういう事考えてたのも本当」 「…」 「でも、それだけで泣いたんじゃない。嬉しかったのも、本当に、本当なんだ」 「今は、何で泣いてるの?」 「嬉しいのと、あり難いのと、悲しいのと、申し訳ないので、泣いてる」 「それだけ?」 「それだけ」 「そう…」 「それとね、倫理観も世間一般とは違うと思う」 「え?」 「幸せになりたいなら、何してもいいと思う」 「どういう事?」 「幸せになりたいなら、世間一般で言う浮気もありだと思う」 「したの?」 「帰るべき場所を忘れさえしなければ、いいと思う」 「浮気、したの?」 「本気にさえならなければ、いいと思う」 「したんだ」 「好きな人が、いるんだ」 「…」 「ずっと前から、好きなんだ」 「忘れられないの?」 「忘れられないんだ」 「いつから?」 「君と出会う、ずっと前から」 「会ったの?」 「会った」 「いつ?」 「昨日」 「…私が出た後?」 「うん」 「何したの?」 「…」 「したんだ」 「…」 「ねぇ。どうして?」 「…」 「どうして、最初に全部言ってくれなかったの?」 「怖かったんだ」 「何が?」 「俺、君と一緒にいられて、凄く幸せだった」 「好きな人が、他にいるのに?」 「うん。それでも、君の事も好きだったし、凄く幸せだった」 「最低」 「わかってる」 「わかってない」 「そうかもしれない。でも、嘘じゃない」 「…」 「俺、君と居られて、本当に幸せだったよ」 「ねぇ、気付いてる?だったよ、って過去形になってるの」 「うん」 「もう終わりなの?」 「…それは、わからない」 「どうして?」 「終わりには、したくない」 「なのに、何で過去形にするの?」 「終わりになるかも知れない、と思ってるから」 「どうして?」 「…俺はきっと、許されない事をしたから」 「そうだね」 「…」 「ねぇ、私の事、好きなの?」 「好きだよ」 「どうして?」 「一緒にいると、落ち着くんだ」 「じゃあ、君の好きな人は、どんな人なの?」 「よくわからない」 「何で?」 「頭、おかしいんだ」 「そんな人が好きなの?」 「…うん」 「どうして?」 「俺が、おかしいからかも知れない」 「…離して」  俺は、ずっと体に廻していた手を解いた。彼女はクルリと向き直ると、唇を押し当てて、舌をねじ込んできた。彼女の右手が、俺の股間を弄った。 「…」 「ねぇ、私が変な女なのも知ってる?」  彼女は唇を離して言った。二人の唇の間に、細い銀色の色が引いていた。 「それでも、十分じゃないの?」 「…違うんだ」 「何が?」 「違うんだ、色々と」 「どういう事?」 「誰としても、何をしてても、いっつも違和感があるんだ」 「どんな?」 「アイツと違う、って」 「そんなの当たり前じゃない」 「それがずっと離れないんだ。匂いも、感触も、タイミングも、何もかも全部」 「忘れられないの?」 「…そういう事だと、思う」  俺は俯いて、黙り込んだ。彼女は立ち上がって、そのまま浴室を出た。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]面接(17)/虹村 凌[2009年6月26日11時11分]  彼女が浴室を出て、脱衣所をも出た気配を感じとってからすぐに、俺は湯船に体を沈めた。俺がすぐに出てきた。 「…言ったのか」 「あぁ」 「…今じゃなくても、良かったんじゃないのか?」 「他に言うタイミングがあるかどうかも、わからないよ」 「それにしたってお前…」 「てめぇだって早く言えって言ってたじゃねぇかよ」 「それはお前、空気とか色々読んだ上でって事だよ」 「もう言っちまった事をグダグダ言うなよ」 「…まぁ、そうだわな」 「…」 「彼女、怒ってるぜ」 「んな事ぁわかってるよ」 「どうリカバリーする気だ?」 「考えてねぇ」 「はァ?」 「考えてねぇよ」 「おまっ…」 「んな事まで考えてられっか」 「…」 「必死なんだよ、俺だって」 「必死すぎだろ。無謀だよ」 「笑いたきゃ笑え」 「哀れ過ぎて笑えねぇよ」 「…」 「…まぁ、頑張れよ」 「適当な慰め方しやがって」 「何て言えばいいかわかんねぇよ…」 「俺の癖に、ふざけてんなァ、てめぇは」  俺は湯船から出ると、真っ暗な脱衣所に立った。リビングから、色々なものが倒れる音がする。あまり、驚かなかった。階下の住人だろう、ドアがガンガン叩かれている。体中の水気を拭き取って、さっき脱いだ普段着を再び着て、リビングに出た。  食器棚や、机、椅子などが倒され、カーテンは引き裂かれ、壁には大穴が開いていた。何かの拍子に切れたのだろう、黒い電球がぶら下がり、外の明かりが舞い散る埃を照らしている。幾本ものビームが、彼女の体を貫いている。彼女は窓まで歩み寄り、窓の外に身を乗り出して、ピースに火をつけた。俺は床に転がっていたセブンスターを手に取り、キッチンの換気扇の下で、同じように火をつけた。二つの煙は、まったく絡まる事なく、真っ暗な空と天井へ、それぞれの方向に向かって流れていった。諦めたのか、ドアを叩く音はもう聞こえない。 「…何で、何も言わないの?」 「何かを言う権利は無いだろうから」 「これだけ部屋を荒らされても?」 「そんなのは関係ない」 「…」  彼女はくるりと室内に向き直ると、ニヤニヤと笑っていた。指でピンと煙草をはじき、窓の外に放り投げた。先端が真っ赤に燃える煙草は、くるくると回って、やがて窓のフレームの外に外れて、視界から消えた。 「へぇ。自分には何も言う権利が無いって、そう思うんだ?」 「あぁ、全くその通りだ。そう思う」 「それって何?私が好きだから、とか言うんじゃないでしょうね?」 「それとは別だ。ただ、君の事は、好きな事に違いはない」 「何で?!何でそんな事が言えるの?!」 「嘘じゃない。好きだよ。本当だ。君といると、凄く平和な気分になる」 「バカにしてんの?!私とその女、どっちが好きなの?!」  当然の質問だな、と心の中で思う。逆に、今まで聞かれなかったのが不思議なくらいである。俺は短くなったセブンスターを洗っていないコップの中に放り込んだ。火が水に触れて、ジュッと言う音が聞こえた。 「正直、よくわからないけど、きっとあの女の方が好きなんだ」 「何で?!私とそんなに何が違うの?!こういう事を言うから、私じゃダメなの?!」  随分、普通の女なんだなこの女性(ひと)は。そう思った。 「別にそういう事を言うからダメなんじゃない。敷いて言うなら、安心できるから、かな」 「はァ?!どういう事?!」 「安心しきっちゃって弛緩するより、常に不安でいる方が何か面白いと思うんだ。まぁ、そんなのは本人の心がけなんだろうけどさ」 「…あんた頭オカシイんじゃないの?!」 「ハハ、よく言われるよ」  俺は新しくセブンスターを取り出して、火をつける。 「俺、きっと頭オカシイからさ。ごめんな、言うの遅くなって」 「変なのは最初に聞いた…」 「変じゃなくて、オカシイんだって、きっと」 「…」 「ごめんな」 「…寝る」 「うん。寝るとこ、ある?」 「大丈夫。私が寝るとこは、確保してるから」 「そうか。うん、わかった。おやすみ」  彼女は和室に向かうと、自分の布団だけ敷いて、横になった。俺はそれを見届けてから、リビングのソファを起こし、その上に座った。暗い部屋の中で、真っ赤な煙草の先端だけが、異様に光って見える。床にツバを吐いて、その上に煙草を落とした。ジュッ、と言う音を聞いてから、俺は目を閉じた。明日の朝は、どんな朝だろうか。ちっとも予想がつかない。残酷な匂いのする期待に胸を躍らせて、俺は深い眠りに落ちていった。  目を覚ますと、相変わらず部屋は散らかったままだった。俺は普段着のまま寝ていたようで、時刻は出社時間丁度を指していた。勿論彼女は、既にこの部屋にはおらず、俺はとりあえず、セブンスターに火をつけた。携帯を手に取ると、彼女からの着信が何件もあった。職務に関わるから、起こそうとしてくれたんだろう。メールも着ている。どれだけ深い眠りだったのか知らないけれど、疲れていたのは事実だ。随分と、勝手な言い草だけど。  俺はその携帯から会社に電話をかけた。多分、出るのは彼女だ。 「あの、俺」 「いま起きたの?」 「うん」 「さっさと来なよ」 「あぁ、それだけど」 「何?はやくして」 「俺会社辞めるわ」 「えっ」  何か言おうとした彼女が、次の言葉を発する前に、俺は電話を切った。そのままキッチンに進み、水の溜まった食器の中に携帯を沈めた。適当に身支度を整えて、煙草とジッポ、財布だけを持って、火のついたままのセブンスターをソファの上に投げた。白いソファから、薄い煙が立ち上る。俺はそれを確認すると、鍵もかけずに家を出た。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]面接(18)/虹村 凌[2009年6月26日11時12分]  別に、行くあてなんて無い。何処に行こうかなんて、考えてもいない。会社は辞める気だけれど、今後どうしよう、何て事は考えていない。取りあえず、セブンスターに火をつける。よく覚えていないけど、あの女が住んでる駅に行ってみようかな、と思った。確か、中央線沿線で、駅名は…行けば思い出せるかな。乾いた笑いが込み上げてくる。どうせ、行っても無駄だと思うけど。通り過ぎる人が、迷惑そうにこちらを見ているので、襲い掛かる素振りを見せたら、慌てて逃げていった。だったら、喧嘩売るようなマネしなきゃいいのに、と思った。  電車を乗り継いで、それらしき駅についた。中途半端な駅だな、と笑う。以前、ホームから見えるとか聞いてたのを思い出して、駅を出てから、そこらへんの家の表札を見て回った。すぐにそれらしき表札の下がった家を見つけて、ためらいなくインターホンを押した。しばらくして、あの女によく似た声の女が出てきた。俺は何を考える訳でもなく、自分の身分を明かしてから、女を呼んでもらうように頼んだ。 「あの…」 「いない?」 「いえ…」 「どうしたの?」 「お姉ちゃんは、5年前に…」  死んでいた。そんな事は知っている。随分、昔の事の様に思える。女の骨が何処に埋まっているのか聞き出してから、俺はその家を離れた。  女の眠っている霊園は、そこから少し離れた場所にある静かな霊園だった。確か、俺の祖父もここに眠っている気がする。ただ、莫大な借金に塗れて、墓も立てられずに、集合墓地のどこかに眠っている。  それに対して、女は端の方の一区画に、きちんと眠っている。随分、久し振りな気がした。事務所の前でマルボロライトを買って、桶に水を汲み、再び女の墓石の前に立った。マルボロライトを口に咥え、火をつけえから、女の墓石に水をかけて、表面を少し磨いた。マルボロライトを線香立てに備えて、俺はセブンスターに火をつけた。吸い終わるまで、しばらくじっと墓石を見つめていた。水に反射した光がキラキラと輝いている。  そろそろ出ようかと、俺はセブンスターをマルボロライトの隣に刺して、俺はその区画を出ようとした。その瞬間、何かに後ろ髪を引かれるような感覚に陥った。ただ単純に、濡れた石で足を滑らせたのかも知れない。とにかく俺は、ひっくり返って、後頭部を激しく打ち付けた。頭の裏で、何かヌルヌルするものが首筋に伝わっていくのがわかる。あまりよくない事だと思うけれど、体が動かない。あぁ、俺、まずいな。女の墓石の方に手を伸ばす。なぁ、俺、これって不味いよな。そう言おうと思っても、声が出ない。視界がどんどん暗くなっていく。俺が不安そうに顔を覗き込んでいる。そんな顔するなよ、やばいけど、多分大丈夫だって。だから、そんな顔するなよ。  色々な声が聞こえてくる。頭がガンガンする。吐き気もする。回りに、誰かいる気がする。頭の中の声と、外の音が入り乱れて、何が何だかちっともわからない。気持ち悪い。頭が痛い。視界がどんどん暗くなる。  会社のオフィスに、警察から電話がかかってきた、と彼女は電話を廻された。オフィスの中で働く人間が、興味深げな視線をチラチラと送ってくる。電話を手に取り、相手の警察官から詳しい状況を聞いた。彼の家が火事になった事、彼の死体が、霊園で見つかった事、そこは数年前に死んだ恋人の墓石の前であった事、財布の中から、小さなメモの様な遺書があり、それを元に連絡したこと、確認に来て欲しい、との事等を矢継ぎ早に告げられた。よく理解できない言葉が、彼女の脳内を這いずり回った。警察官が最後に何かを言って、電話を切ったが、正直、何を言っていたか覚えていない。彼女は受話器を置いて、呟いた。 「なにそれ」 ---------------------------- [自由詩]狭い部屋で暴発しそうな爆弾を脳味噌の中に抱えて/虹村 凌[2009年6月28日23時08分] 屈辱 禮禍幸忌 となりの芝生 Y氏の隣人 グレートマザー 鈍い頭痛 遠く尖った耳鳴り 想像力 想像力 ビートルズを敢えて避けて 辿り着いたら想像力 喜劇!喜劇!喜劇! 人生!人生!人生! 想像 創造 犠牲 になった物事や出来事 積み重ねられていくそれら の上に立っている のか座っているの か 眠っているの か はたまたそれらの中に埋もれて いるのか いるのか いないのか 俺でなくても良いと言う事実 がつきつけられて 笑う 人生 喜劇 滑稽さに自覚さえあれば 生きていても良いのだろか ヒステリックな自己主張 をする夕焼け が目に痛い 知らない夕焼け が痛く 痛く 眼球を突き抜けて いく 求めなければいいのか 代償 代償 代償 狭い部屋 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]遺書(1)/虹村 凌[2009年6月30日23時51分]  俺は書きかけの遺書をクシャクシャに丸めて、ゴミ箱の方向へ適当に放った。もう、これで六度目である。今日一日で、六度も遺書を書き直している。今週に入って、七十四回、今月で百八十六回も書き直している。  特に莫大な財産がある訳でも無く、必要無いと言えば必要無い。自殺する予定でもないのだが、動物とは何時死ぬのかわからぬのである。備えあれば憂い無し、死ぬ前に何かの形で自分の気持ちを、意思を、残しておいて悪い事はあるまい。  ところで、何故にこうも書き直しているのかと言うと、俺は遺書に完璧性を求めているからだ。遺書とは、その人の最後の言葉であるからして、その人の全てなのである。その人の全てが、そこに表現されるのである。故に、ミスは許されない。誤字脱字など以っての他。文法的誤り、熟語の使用方法、その他全てにおいてミスは許されない。  美しい遺書を書く為に、ペン字講座にまで手を出したのだ。しかし、途中で「日本人ならば、ペンなどと言う洋式よりも、筆であろう」と思い、習字講座に変更した。  しかし、なかなか理想の遺書は書き上げられぬ。思った様に滲まず、思わぬ所で滲み、思った様に掠れず、思わぬ所で掠れる。なかなか、思い通りに行かぬのである。少しでも思い通りに行かぬ場合、それは失敗とみなされ、先ほどの様に、クシャクシャに丸められ、投げ捨てられる。  俺はホープに火をつけると、深く吸い込み、大きく吐き出した。灰色の煙が固まりになって、俺の目の前で踊る。ナメクジの交尾のようにグルグルと周り、そいつはやがて上昇して、消えていく。  ふと思い立ち、俺は立ち上がった。ポケットの中の小銭を確認すると、家の鍵を掴んで外に出た。カーテンを閉め切っていたお陰で、外がどのような明るさなのか理解していなかったが、外の世界は朝とも夕方ともつかぬ、薄暗い曇天であった。ホープを排水溝に投げ捨てて、一度大きく伸びをしてから、自動販売機のある方向に向かった。  自動販売機に向かう途中で、現在は平日の朝である事を知った。どうも、スーツ姿のサラリーマンが多い。OLや学生もいる。これは、間違いなく平日である。そして、朝である。何故なら、それぞれの顔が、色々な期待や欲望に溢れているからだ。夕方であれば、それらの顔に浮かぶ欲望や期待と言うのは、食欲と睡眠欲に限られてくる。少なくとも、俺はそう思っている。ところが、朝の顔と言うのは面白い。色々な事を考えているであろうその顔は、実に私の想像力をくすぐる。  何かよからぬ事を考えている者、本日の予定に絶望しながらも打開策を練っている者、素晴らしい一日になる事を信じている顔。そのそれぞれが、何らかの理由によって支えられているのだろう。テレビや雑誌の占い、前日の行動や言動、それも他人の行動や言動まで含めれば、色々な事が考えられる。  一番面白いのは、男女で通学したり、通勤したりするカップルである。彼らは、会話をしたり、しなかったりする上に、その会話の内容も千差万別である。下さない話から、真面目な議論まで幅が広い。面白いのは、下らない話の方である。何故、その会話に至ったのか。会話の切欠なんぞ、そこらじゅうに転がっているのであるが、しかし、その会話に至った経緯が気になる。例えば、昨日職場で見かけた女性の服装等が話題である場合、何故、今日になって昨日の話をするのか。ただ単に昨日は忘れていたのか、何らかの拍子に思い出したのか、それとも似たような服装の人物とすれ違ったのか。他にも色々あるだろう。そのファッションを肯定したり否定したりを繰り返しながら、その幸せな空気を辺りに発散している。そしてそれに無自覚である場合が非常に多い。個人的には、そのどちらかが冷静になり、周囲を意識した瞬間、と言うのが面白い。挙動がとたんに堅くなる。その無様さは、見るに耐えないのだが、面白いのでついつい見てしまう。  そんな短い間の人間観察の何が面白いかと言えば、その様に一瞬だけすれ違ったりする見知らぬ人間が、この日本国に一億人以上存在し、それらの内3000前後の人々が日々死ぬんである。誰が予想しようか?その多種多様な顔をした人々が、今日死ぬとは思わぬ人々が…中にはいるかも知れないが…、一日で3000前後、と言う俄かには信用しがたい数字を残して死ぬんである。  勿論、その3000人の中に、俺が何時入るとも知れぬのだ。だから、俺は遺書を書く。書きたい。書こうと思っているのだ。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]遺書(2)/虹村 凌[2009年7月2日16時45分]  果たして、俺は目的の自動販売機の前に到着した。俺が欲する飲み物は、あまりメジャーでないのか、近所ではここの自動販売機にしかない。俺はポケットの中から小銭を取り出し、投入口に入れた。チャリン、と言う音を立てて一枚だけが返却口に落ちてきた。少しばかり、苛立ちが募る。俺は乱暴にコインを取り出し、再び投入口に入れた。ようやく、自動販売機のボタンが緑色に輝いた。ゆっくりと、その中の一つのボタンを押した。ガシャン、と言う音と同時に、取り出し口の中に缶が転がった。  俺は身を屈め、その缶を取り出そうとした瞬間に、苛立ちが沸点に達しそうになった。俺が好き好む炭酸飲料のボタンを押したにも関わらず、飲みたくも無い清涼飲料水、ピーチネクターが出てきたのだ。ボタンを押し間違えたのか?まさか。何時ものボタンを押したのだ。配置だって変わってた訳じゃない。俺はピーチネクターを自動販売機の足元に置くと、ポケットの中に残っている小銭を確認した。もう一本なら、買える。再び、その小銭を投入し、その炭酸飲料の配置と、それに対応するボタンを確認して、ゆっくりと、力強く、ボタンを押した。  ガシャン、と派手な音を立てて、缶が落ちてきた。俺はゆっくりと身を屈め、缶に手を伸ばす。今度はピーチネクターではない。しかし、どうも俺が飲みたい炭酸飲料の模様にも見えない。ゆっくりと缶を掴み、取り出して見た。それは、見た事も無い缶珈琲であった。俺は身を起こし、足元に置いてあったピーチネクターを掴むと、思い切り自動販売機に投げつけた。  ゴキン、と言う音がする。遅れて、自動販売機が警報音を響かせ始めた。俺はゆっくりとホープを取り出し、火をつけて、大きく吸い込んだ。煙が、肺の中に満たされるのをイメージしながら、ゆっくりと吐き出す。肺の中の息を吐き出しきってから、思い切り自動販売機に蹴りを入れて、俺はその場を後にした。  気分転換を図ろうとして、こうも苛々するとは思わなかった。今日はもう遺書を書くのをやめた方がいい。こんな気分じゃ、まともな遺書なんざ書けるはずがない。俺は腐る気持ちを、かろうじて落ち着かせながら、自分の部屋へと帰る道を歩いた。  カーテンで閉ざされた暗い部屋に戻ってくると、少しは気分が落ち着く。だが、急がねばなるまい。俺には残された時間が少ないのだ。  「30代以上の人間を信じるな、Do not trust over the thirty」この格言通りであれば、あと五年と半年で、世界の真理が手に入る。既に手中に収めている事も、無きにしも非ずだが、それはあまりにも、自分自身を高く評価し過ぎだろう。  別段、その世界の真理を手に入れたいが為に生きている訳ではない。しかし、手に入るのなら、手に入れてみたい。ただ生きていれば手に入るものでもなかろうし、もし手に入れたとしても、それは俺だけの真理であって、誰かが理解出来る訳でもないだろう。ただ、考えねばなるまい。足掻け、悪掻け。あと五年半。五年半経って、それでも手に入れられない事も考えられるが、もし手に入れて、それを忘れるくらいなら、俺は。  カーテンの隙間から差し込む光が、丸めた遺書の上を通って、俺の右足を焼いている。眩しいその一条の光は、痛みさえも感じさせず、ただただ、俺の足の一部を真っ白に焼いていた。  俺は机に歩み寄り、下書き段階の遺書を手に取って眺めていた。今俺が死ねば、これが遺書になってしまう。だから、死ぬ訳にはいかない。出歩かなければ、少なくとも死ぬ確立は随分と低くなるだろう。間抜けた事故死なんてごめんだ。通り魔に殺されるのも、阿呆臭い。早き遺書を書き上げて、外の世界を闊歩できるようにならなくては。そしてその制限時間は、あと五年半しかないのだ。  何時か、何時かきっと書き上げる。そんな事では、到底書ききれるものじゃないだろう。人間はいつもそうだ。何時か、きっと何時か。後回しにした課題を、間際になって解決出来た例は無い。だから、早く書き上げねばなるまい。 ---------------------------- [自由詩]雨の部屋/虹村 凌[2009年7月2日19時32分] 諦め、絶望、倦怠、鬱屈 何処からか湧いてでたそいつらが腰にぶら下がっている 不安材料?そんなに生易しいものじゃない 諦め、絶望、倦怠、鬱屈 他人と比べたりなんかしねぇ。不幸自慢もしねぇ したってしょうがねぇし、どうにかなるものでもねぇ でも、今のテンションじゃ真っ直ぐ前見て歩けねぇ ポケットに手ェ突っ込んで、煙草咥えて、壁に寄りかかって 斜めになった世界を眺める 世の中の99%以上が、あまりにもどうでもいい事で構成されている 「俺は必要とされているのか?」 『誰もテメェなんざ気にしちゃいねぇよ』 現実。曲がった背骨に覆いかぶさる、現実 別に必要とされてなくちゃ生きていけない程弱くねぇ 同じように今の俺は誰も必要としちゃいねぇ あー 煙草をバイト先に忘れてきちゃったよ 世界の色んなものが壊れていく気がするよ それも、壊されていく気がする 別に最初からそこにあった訳じゃないから 作り上げるしかないのだけど 理想の世界、小さな世界はやはり崩壊していくのだろう らせん階段  世界が循環して カブトムシ  何度も何度も息をする 廃墟の町  そして何度も目を閉じる イチジクのタルト  白い生地の上に散らばる カブトムシ  何度も何度も何度も何度も ドロローサへの道  神も仏もありゃしねぇ カブトムシ  ただ何度も何度も 特異点  交差する通過する ジョット  描いた世界とは違う世界 天使  どうやって辿り着けるのか 紫陽花  耐えていればいいのか  カブトムシ  何度も何度も立ち上がって 特異点  交差して通過する 秘密の皇帝  バイバイ バイバイ、ジャンプ バイバイ、引き金を引く バイバイ、椅子を蹴る バイバイ、飛び込む バイバイ、飲み込む バイバイ、バイバイ 雨が降っている時に部屋の中にいると落ち着く 落ち着く ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]遺書(3)/虹村 凌[2009年7月2日22時47分]  一条の光。今までの人生で、何度かその光を目にした事がある。絶望、それも深い絶望の中にも届く光は、どんなに心を奮い立たせる事か!狂信とも言える程に、その光を盲目的に信じ(光を盲目的に信じる、と言うのは可笑しいけれど)、我武者羅に進む事が出来る。その結果、絶望に死ぬ事は無く、晴れて、生き延びる事が出来た。そうそうある事ではないが、そう感じる事はいくつかあった。勿論、その光有るが故の副作用とも言うべき、負の効果もある。信用や金、その他の何かしらを失っている。絶望の中で死ぬ代わりに失うのだから、俺個人としては、それほど痛手でもない。絶望の中で死ぬ代わりに記憶を失う、などと言われたら、俺はかなり悩んだ挙句、死ぬ方を選んでしまいそうだが…。  俺は手に取った、下書き段階の遺書を眺めながら、そんな事を考えていた。ホープを取り出し、口に咥えて、再び遺書に目を落とす。この下書きも、下書きの下書きを元に作ったものだし、その下書きの下書きは更にその下書きから書き、その下書きは下書きとも呼べぬメモの様なものから作成されたのである。どうしてそこまで遺書を書きたいのだろうか、と自分でも不思議に思う。おそらく、最後まで格好をつけたいのだろう、と思う。何時死んでも格好がつくように、遺書を書き上げ、この恥と屈辱の多い人生を多少なりとも格好良く演出したいのだろう、と言う結論に至った。既に格好のついていない人生なのだから、最後の最後に格好をつけても、そんなに決まらないと思うのだが、どうしてだか、俺は格好付くと思っているようだ。  そんなところだけ格好ついてもな、と呟いて、俺はホープに火をつけた。短いその煙草、名前をホープと言う。俺は小さな希望をポケットに入れて歩いているんだぜ、と言ってみたいのだが、未だにチャンスに恵まれていない。どれ程ホープを吸い込もうと、特別な事はある訳でもなく、日常に特別な希望も現れたりしない。長い目で見て、薄い希望を垣間見る事はあるが、それも何か違う気がする。「希望」。美しい、甘美なその響きは、色々なものを覆い隠し、麻痺させる効力があると、俺は思っている。希望があるから、大きなリスクを無視したり軽視して、突き進んだりする。一条の光、それこそが、希望。麻薬みたいなものだな、と思う。そう考えれば、希望と言う名前の煙草を吸う、と言うのは笑える皮肉かも知れない。  俺はホープを大きく吸い込んで、灰皿に押し付けた。この部屋にある、唯一の時計である、充電器につなげっぱなしの携帯電話を見ると、時計が午前8時半を表示していた。俺は大きく伸びをして、今日はもうかかない決意を硬め、薄汚れた万年床に横になった。煙草と汗の匂いがするシーツと布団の狭間で、再び遺書についての考えをめぐらせる。  俺の行動は、正しいのか。そう考える事もある。恐らく、世間の大多数の若者は、自殺する者を除いて、俺のように遺書を書いたりする事はしないだろうと思う。いや、案外、ブームになっているかも知れないが、外界では何が起こっているのか、新聞も読まなければテレビも無いこの部屋にいると、何もわからない。まぁ、ブームになっていようがいまいが、あまり俺には関係無いが、あまりに酷いブームだと、それに乗っかっているようでむかっ腹が立つ。しかし、それを確かめる術も持たない俺は、黙って横になるのみ、である。確認しようと思えば、即座に出来る事ではあるが、それを確認しようとも思わないので、俺は黙って横になっている。誰とも口を利かない一日が、またこうして終わっていく。別に珍しい事でも、大した事でもない。こうやって、誰とも口を利かない日は年中ある。別に友達がいない訳じゃない。友達がいなけりゃ、遺書も書こうとも思わなかっただろう。別段、普段言えない感謝の気持ち、みたいなふざけた気持ちを書き記すつもりは無い。ただ、何時死んでも良い様に準備している、と俺は思っている。  眠たくなる俺の意識とは裏腹に、窓の外の喧騒は活発になっていく。俺は空調のリモコンに手を伸ばし、スイッチを入れる。カビ臭い匂いを吐き出しながら、冷たい空気が流れ出してくる。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]東京少年 「新宿」/虹村 凌[2009年7月10日10時05分]  俺は急に眩暈の様なものを感じ、 「ちょっと便所」  と短く言って、席を立った。  足が別の生き物の様に、前に進む。ラバーソールの厚い底を通して、床板の軋む感覚が伝わってくる。平行感覚がよくわからない。俺は、真っ直ぐ歩けているのか。柱につかまり、体を預ける。二階にある便所への階段も、手すりに捕まりながらようやく昇りきった。  二階の便所のドアには、雪隠と書かれた板が下がっている。俺はドアをノックして、反応が無いのを確かめてから、流れ込むようにトイレの仲に駆け込んだ。個室になっているドアの鍵を閉めると、俺は便器の上に覆いかぶさるようにうずくまり、喉に指を突っ込んだ。真っ赤なものが飛び散って、すえた匂いが立ち上ってきた。  吐いたら負けだ、と思っていたが、どうにも耐えられなかった。  また朝が来た。来て欲しくも無い朝が来た。何の変哲も無い朝を憎む人間はあまりいないだろう。ましてや祝日の朝だ。殆どの人は喜ぶ筈であるが、俺だけは、この朝が呪わしく、憎かった。俺は「朝が来た」と言う現実を、嫌々ながら受け入れた。文字通り、枕に張り付いた顔を引き剥がし、タオルケットを跳ね除けた。ヒリヒリする顔を指で触ると、ベタベタしたものが付着していた。  どんなに願っても、明けない夜は無い。眠ったまま、朝なんか来なければいいと思うが、矢張り、朝は来る。痛く、苦しい事しかない朝が、俺は大嫌いだった。  ベッドと一体化している引き出しをあけて、新しいトランクスとタオルを掴んで、風呂場に向かった。朝の何が嫌だって、起きた瞬間の次にこれが嫌なのだ。ただでさえヒリヒリとする顔面中についた、薄黄色い体液を洗い流さなくてはいけない。俺はシャワーを浴びながら、小さく呻き声を上げた。耐えようと思っても、この鋭い痛みが、なかなか耐えられない。硬く握った拳を開き、頭を抱え込んで緩やかなお湯で流す。  アトピー性皮膚炎。それが俺が患っている病気の名前である。幼い頃から患っていた訳じゃない。半年程前、急に両腕の間接が痒くなり、気付けば前進に広がっていた。特に、顔周辺の皮膚は酷く荒れ、古い角質と体液が折り重なり、茶色い迷彩色を作り上げていた。  シャワーを止めて、脱衣所に出る。リビングから、ラジオ体操第二の音が聞こえる。毎朝、祖母がテレビでラジオ体操をみながら一緒に体を動かしているのだ。俺はどうも、このラジオ体操第二の音が好きではなかった。水滴が沁みる部分を叩きながら拭き取り、新しいトランクスに足を通し、リビングに出た。 「おはよー」  祖母は何時もと同じように、ラジオ体操を続けたまま挨拶をした。この祖母は呆れるくらいに元気だ。昨日も、友人達と終電ギリギリまで飲んだ挙句、最終電車に乗れたはいいが、寝過ごして一駅先の駅で起き、タクシーに乗ろうにも長蛇の列に嫌気が差し、夜道を一人で歩いて帰ってきた、と言うツワモノである。それでも70過ぎである。流石に、夜道を老人一人で歩かせたくは無かったので、連絡のひとつくらい欲しかったのだが、面倒だったらしい。 「おはよう」  祖母の前を通過しながら、リビングから俺の部屋に入る。  今年度から、俺は祖母と暮らしている。別に両親が離婚したとかの複雑な理由ではなくて、単に妹が親父の実家に近い中学に受かったので、両親と共に親父の実家に帰り、その中学に通う事になったのだ。俺は母方の祖母と同居しながらこちらの高校に通い続ける事になった。その俺と祖母は、小田急線沿いの祖師谷大蔵と言う駅の近くに建っている、マンションの二階に位置する小さめの3DKのその部屋に同居していた。  リビングから襖一枚で隔てられた俺の部屋で、黒いジーンズに足を通し、背中にだけプリントが入った黒いTシャツを頭から被って着ると、リビングに戻った。祖母は、終わりに近づいたラジオ体操に呼吸を乱しながら、朝飯はいるのか、と聞いてきた。 「いや、もう家出るからいらない」  俺はそういって、食卓の上に転がっているセブンスターを掴むと、緑色の100円ライターで火をつけた。アトピー患者が煙草を吸うとは何事か、と言われる事があるが、俺としては精神的ストレスを解放する事を第一に考え、煙草を止めない事を決めたのだ。  しばらくテレビ画面を眺めていたが、やはりラジオ体操第二のメロディーを聞き続ける事が出来ず、灰皿で煙草をもみ消してから自室に戻った。オレンジ色のユニクロのパーカーと、茶色いゴールドウィンのニット帽を見につけて、黒いリュックを背負って部屋を出た。 「行ってらっしゃい。気をつけてね」  祖母は画面から目を離し、俺の方に顔を向けたまま、ラジオ体操第二を続けていた。俺は食卓の上のセブンスターを掴んで、 「行ってきます」  とだけ答えて玄関のドアを閉めた。  待ち合わせの予定は昼近くだったが、目が覚めてしまったので家を出た。どうも落ち着かない。起きてから5回ほど携帯電話を開いて確認したが、特に何も無い。とにかく、12時まで待つしかなさそうだ。俺は近所のコンビニで漫画を立ち読みしたりして、どうにかこうにか時間を潰したが、それでもまだ待ち合わせまで4時間はある。仕方なしにコンビニを出て、新宿駅に向かった。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]東京少年 「新宿 (二)」/虹村 凌[2009年7月11日0時44分]  どんなにゆっくり行っても、祖師ヶ谷大蔵から新宿まで1時間はかからない。煙草を吸ったり、立ち読みをしたり、音楽を聴きながら歩いたり、と出来る限りの方法で時間を潰した。こういう事があまり苦にならない。ただ、今日、これからするであろう話の事を考えると、あまり明るい気分にはなれなかった。  待ち合わせ時間の10分前に、新宿駅小田急改札西口に着いた。俺は携帯を開き、ローザに到着した旨を伝えて、買ったばかりの缶珈琲をプルトップを引いた。カシュッ、という音を立てて、味気ないブラック珈琲の匂いが漂ってきた。口に含むと、苦味と共に缶珈琲独特の安っぽい香りが広がった。この美味しくない感じが好きなのだ。いや、この不味さが美味しいと思うのだ。缶珈琲を飲みながらしばらくボーっとしていると、改札口の向こうから手を振るローザが見えた。  ローザはイタリア人と日本人のハーフで、同級生の粕村の紹介で知り合った、同い年の女の子だった。右目の眼輪筋に軽い障害を抱えているらしく、いつも右目が半分ふさがっていた。ちょっと痩せ気味のローザは、ほっそりしら腕を振りながら、改札を出てきた。 「お待たせ!待った?」  半分ふさがった右目で笑いながら、ローザは俺に訊いた。 「いや、全然」  お決まりの返事をすると、俺とローザは並んで歩き出した。 「元気?」 「うん、元気だよ。ローザは?」 「私も元気だよ。あ、リュウジは朝御飯食べた?」 「うん。ローザは何か食べた?」 「ううん。私何も食べてないから、ちょっとお腹空いてるの。」 「そっか。じゃあ何か食べられるところがいいね」  ローザがドーナツを食べたい、と言うので新宿区役所の側にある、ミスタードーナッツに入る事にした。一階席に空きが無かったが、二階の喫煙席でも構わないとローザが言うので、買ったドーナツと珈琲を持って二階の喫煙席に座った。 「いただきます」  ローザはニコニコしながら、ドーナツを齧った。俺はセブンスターに火をつけて、薄いアメリカン珈琲を一口飲んだ。ドーナツを美味しそうに食べているローザを眺めながら、ちょっと前の事を思い出していた。  粕村の紹介で知り合い、メールから始まった、いかにも最近っぽい関係だった。あまり会う事は無かったけれど、メールと電話でカバーしてきたと思っている。彼氏と彼女、と言う明確な関係ではなかったけれど、俺は彼女の事を好きだったし、きっと彼女だってそうだったに違いない、と思っている。大晦日の時も、会え無いから、一晩中電話していた。大恋愛、などと言う大それたものじゃなかったけれど、確かに、幸せな時間だったと思う。  その関係も、今日で終わるのだな、と覚悟はしていたが、幸せそうにドーナツを食べるローザを見ていると、何だかそれも俺の勘違いのようにも思えてくる。いや、勘違いなんかでは無く、本当にその話をする為に、俺とローザはこうして会っているのだ。  ローザはドーナツを食べ終わると、アイスコーヒーで喉を潤してから、俺の顔を凝視した。 「美味かった?」 「うん」  ローザは頷くと、大きな深呼吸をひとつ、体全体を動かしながらした。同時に俺は、手に持っていたセブンスターを灰皿でもみ消した。 「話って何?」  俺は既に火の消えたセブンスターを、灰皿にぐりぐりと押し付けながら訊いた。 「うん。もう、わかってると思うけど…」  ローザは、煙草を灰皿に押し付ける俺の指を見ていた。 「私、疲れちゃった」  ローザは、俺の目を見ずに、短く言った。 「そうか」  俺が煙草を離すと、ローザは視線を俺に向けた。 「だって、リュウジ、言うことが重いんだもん」 「うん」 「別に、リュウジを嫌いになった訳じゃないんだよ?」 「うん、わかってる」 「リュウジの事、好きだけど、気持ちがね、重いんだ」 「…」  相槌が打てない。 「嬉しいんだけど、今の私には、ちょっと重いの」 「…そっか」 「ごめんね。でも、リュウジの事、好きなんだよ?それは信じて?」 「うん、大丈夫。わかってるから」  そう言いながら、俺は「重い」と言う言葉の意味を理解しかねていた。重い、ってどういう事なんだろう。彼女が俺を嫌いになった訳じゃないと言うのは、半分くらい信じられる。しかし、重いってどういう事だ。同級生が彼女にそう言われた、意味がわからない!と愚痴をこぼしたのを訊いた事があったが、実際に言われてみると、やはり理解しかねる言葉だった。 「なぁ」 「ん?」 「重いって、どういう事だ?」 「え?」 「よくわかんねぇんだ。重いって、どういう事だ?」 「リュウジさ、私の事好きなんだよね?」 「うん」 「私も、リュウジの事が好き。でもね、二人の「好き」の大きさが違うの」 「うん」 「リュウジの私を好き、がね、私のリュウジを好き、より大きくてね、それが重いの」 「同じくらい、じゃないって言うのはわかるよ」 「その違いが怖いの。だから、ちょっと距離を置いて、冷静になって欲しいの」 「うん」  その後も、ローザは何かを言っていたけど、俺の耳には入ってこなかった。俺には、その好きだという感情の大きさが違うから、重いという説明が理解出来なかった。重いとか、軽いとか、そういう事がよくわからなかった。ローザは何かを説明しながら、時折こちらを見て微笑んでいる。俺も、口角を持ち上げて笑いながら、小さく頷いていた。同じ女の子が、同じ声で、俺の事を好きだと言ってくれていた事が、俄かに信じられなくなる。けれど、それはどう考えても事実だった。そして、今ここで言い渡された別れも、事実だった。認めない訳じゃないけれど、人間の心はそうも簡単に変わるものなのかと、俺は不思議な気持ちにさせられていた。  ミスタードーナッツを出て、ローザと別れてからの記憶が無い。気付くと俺は、家のベッドで午睡から目覚めたところだった。まだ太陽は高い位置で輝いており、あまり時間が経っていないことを教えてくれた。  俺は窓を開けてベランダに立ち、セブンスターに火をつけた。ジリジリと音を立てて、白いセブンスターが、オレンジ色を境界として、灰色に変わっていく。短くなったセブンスターを見て、ふと思い立ち、左腕にギュッと押し付けてみた。想像していたよりも、遥かに熱くない煙草を驚きながら見ていた。しばらく押し付けていたが、どんどんと熱が冷めていくのを感じて、ベランダの排水溝に吸殻を放り込むと、洗面所に向かって、傷口を水で流した。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]東京少年 「国立」/虹村 凌[2009年7月11日0時46分]  高校三年になった。ローザと別れてから半年近くが経っていた。相変わらず、毎朝は辛く、苦しいものだった。それどころか、日に日に酷くなっていった。  人間と言うのは、痛みと言うのはある程度耐える事が出来るが、痒みと言うのには耐える事が出来ないと思う。痛みが最初だけで慣れてしまえば大丈夫、などと言うつもりは無いが、痒みと言うものは、歯を食いしばってどうにか耐えられるものでは無いと思う。起きている間でさえ、余程の気合を見せて、何か物に八つ当たりでもしなければ耐え切る事の出来ない、猛烈な痒みを、寝ている間も耐えろというのは無理な話である。  深爪気味に指の爪を切り揃え、寝具を目の細かく柔らかい生地に変え、室温を調整し、それでも尚、毎朝変わらずに顔は枕に張り付き、痛みに歯を食いしばりながら、シャワーで洗い流す。地元の皮膚科で貰った薬を塗って、何時もの様に学校に向かう。  苦しい毎日であったが、学校が楽しい場所であった事が、俺を登校拒否にさせなかった。彼らは、変わらず俺と付き合ってくれた。厭な顔もしなかったし、それをネタにからかう事もしなかった。それが嬉しくて、どんなに酷いコンディションでも、なるべく学校に行く事にしていた。学校に行って、特に何をする訳でもない。ただ、気の合う友達と喋っている事が、本当に面白かったのだ。どれ程救われたかわからない。毎朝は辛かった。けれど、それさえ乗り切れば、毎日は楽しかった。  それでも鏡に映る顔は、日に日に崩れ、剥がれきらない角質、老廃物、体液が段々と層を成し、自分でも一瞬誰かわからない程、崩れていっていた。それを見る度に、絶望的な気分にさせられた。  表だって何か言われた事は無いが、陰で気持ち悪いと言われている事はわかっていた。実際に、街を歩いていて笑われたり、満員電車の中で隣に立った人にあからさまに厭そうな顔をされる、なんて事はしょっちゅうで、その度に、憎しみだとか、怒りだとか、悔しさだとか、そういった感情は膨れ上がったけれど、学校について楽しい話をしていれば、忘れる事が出来た。多分、学校がそれほど楽しくなければ、とっくに引きこもっていたと思う。  もう一つ、俺を救ったものがある。それは、詩を書く、と言う行為だった。大したテクニックも無いし、知っている言葉は少ないけれど、思った事をノートに書きとめて、記していくと言う行為は、少なからず、破裂しそうな精神のガス抜きになっていた。別に公表する訳でもなく、ただひたすら、ノートに書き溜めていった。実に根暗な趣味だと思うが、暴発するよりゃマシだと思っていた。  そんな風にして、辛く苦しい朝と楽しい日中を繰り返していたある日、授業の為に教室に入ると、川村の周りに人が集まっていた。川村は、漫画家を目指しているんだか何だか知らないが、とにかくマンガを描くのが上手な奴だった。その上、明るい人間なので、川村の周囲にはよく、彼に同調する人間が集まっていた。ただ、どうも細かい嘘を吐く、いわゆる虚言癖があるらしく、人としての信用は、あまり高い方ではなかった。  そんな川村の周りに、今日もまた、人が集まっている。何事かと覗いてみると、どうやら女の話をしているようだ。川村に彼女が出来たらしく、その話で盛り上がっている。男子校だったし、何より周囲でそんな話を聞いたりしなかったので、みんな新鮮な話題に食いついているようだった。新鮮なのは川村の周囲にいる人間達だけで、サッカー部やバスケ部に所属している連中たちは、実に興味無さそうに(又はニヤニヤといやらしい目つきで)こちらを見ていた。  どうやら、彼女は我が学園の女子校の生徒らしく、相当可愛いんだそうだ。どんな女の子か、イラストにしてくれと言うと、川村は嬉しそうに書き上げた。出来上がった絵を見て、その彼女を知っている友人らは、 「それは可愛く書きすぎだ」  などと言ってキャッキャとはしゃいでいた。名前は、「荒巻 恵美」と言うらしい。俺はそれを横目で見て、自分にはあまり関係の無い事だと思い、さっさと席について、ノートと教科書を広げると、あまり興味が無いその会話に、何も考えずに適当な相槌を打っていた。  それからしばらく経ったある日、何時も通り授業の空き時間を持て余した俺は、開いたばかりの誰もいない学生食堂で、2色パンを紙パックのコーヒー牛乳で流し込んでいると、授業をサボったのか、ただ単に遅刻して教室に入りそびれたのか、川村が姿を現した。川村は俺の姿を見るなり、ニヤニヤしながら近づいてきた。俺も暇していたし、別に川村を嫌っている訳じゃないので、態度を合わせてにこやかに対応した。 「おう、どうしたん?遅刻?」 「そうなんだよ。体調よく無くってさ」  何の病気か知らないが、あまり体調が良く無いらしい。血だ反吐だ血反吐だと、年中吐いたりしているので、なんらかの病気らしいが、詳しい事は一切言わないので、よくわかっていないが、そこは会話を合わせなきゃいけないだろうと思う。 「大丈夫かよ?」 「まぁな。それより話聞いてくれね?」  川村はそういうと、隣に座って「恋人」である「荒巻 恵美」の話をし始めた。最初は惚気話だけだったが、段々と真面目な話になり、ついには重たい話へと変化していった。 「実はさ、俺の彼女、レイプされた事あんだよ」 「はァ?」  俺はその事実と、その出来事を他人に平気で言う川村の神経の両方に突っ込みを入れたつもりだったが、川村は前者だけだと思ったようだった。 「男に騙されてさ、そいつん家に遊びにいったら輪姦されて、それをビデオに撮られてさ」 「何だよそれ。立派な犯罪じゃねぇか」  俺は構わず話を続けさせた。正直、興味はある。 「そうなんだよ。でも、事件にはしたくないって、結局そのままなんだ」 「それでいいのかよ…」 「アイツがそれでいいって言うから、俺もそれを受け入れる事にしたんだ」 「そうか…」  そんな事件が身近で起こっているとは考えたくも無いが、実際にあったのなら仕方が無かろう。それを受け入れると言うのだから、黙って見守るしかないだろう。大体、俺が干渉できる事でも、するべき事でもない。喋り続ける川村を見ながら、そんな事を考えていた。そんな恋人が居る事を、羨まなかったと言えば、それは確実に嘘だ。確かに半年前はローザがいたが、別に痛手を負う程の別れじゃなかった。いや、別の意味では、大きな痛手を負っていたのだが。  同じクラスの中路と言う奴から聞いた話よれば、ローザには元々彼氏がいて、そいつと別れたいが為の正当な理由を作る為に、粕村が俺を当て馬に使おうと提案したらしい。つまり、もともと俺はローザが彼氏と別れる為の手段だったに過ぎず、用が無くなったので重いとかなんだとか適当な理由をつけて別れた、と言う事らしい。  それだけならまだ良かったのだが、粕村と言うのが小学校からの同級生で(尤も、一貫校だった為にそんな奴は大勢居たのだが)、高校に入るまでは比較的仲良くしていた奴だったのだ。むしろ、中学までは親友だったと言って差し支えないだろう。ところが、高校に入ってデビューしたくなったのか、急に今までの仲間を売って他のグループに入り込む様な奴に成り下がり、最近では俺の居ない所である事ない事を言って周り、俺の評価を貶めているようだった。人の悪口は、敵を作るが仲間を作るのにも使える、と思ったのだろう。  粕村の話をそのまま俺に流す中路も中路だが、粕村の行動も信じられなかった。既に親友と呼べる間柄で無いとは言え、表面上は俺に笑いかけている粕村が、裏でそういう行動を取っているとなると、その十年近い間続いた友達関係は何だったのかと思いたくなる。彼が、新しい関係性を築き上げるのは彼の勝手だが、その為にそれまで仲良くしていた人間をダシに使う、と言う裏切りにあたいする行動はとても同調できるものではなく、彼を狡い屑としてしか見る事は出来なくなった。  その一連の出来事で、人間を信じる事に疑問を感じる様になっていたのは事実で、それを教えてくれた中路も、正直信用しかねていた。  ただ、俺自身の容姿が醜くなった事もあり、別に俺を捨てる人間が出てきても、おかしくは無いと思っていた。俺の友人が俺と同じ状況に置かれた時、今の彼らと同じように対応出来る自信は無かった。それくらい俺は醜くなっていた。だから、粕村にとって俺を捨てる絶好のタイミングだったのだろう。丁度、俺の精神が捻れ始めていた事もあり、拍車が掛かったのかも知れない。認める事は出来ないが、その程度の屑と十年も付き合っていた俺が悪いのだろう、とも結論付けていた。  授業の終わを告げるチャイムと共に、生徒達が食堂へ飛び込んでくる。パン売り場は築地の魚市場を思わせるような盛況ぶりで、あっと言う間に人気のパンは売り切れてしまった。その様子を眺めながら、俺と川村は世界史の授業の為に、食堂を出て校舎の階段を昇り始めた。  中庭から空を見上げると、重苦しい曇天であった。 ---------------------------- [自由詩]ギャリギャリと蝉が/虹村 凌[2009年8月15日7時29分] ギャリギャリと蝉が鳴いているのだが どの音がどの蝉なのかわからないので耳を塞いだ ひぐらしが鳴いていても 悲しくなるので耳を塞いでいる 口に咥えたままの煙草の灰が 洗いたてのシャツに引っかかって 白黒灰色の線を引いて何処かに消えた 喫煙所の前に立っていたのに 知らない奴らが睨むように 蔑んだ視線を投げてくるから 視線を外してうつむいた 走る 走る ドアを開ける 家に入る ドアを閉める 鍵を掛ける クーラーを入れる ブラインドを閉じる この中にはとりあえず敵がいない テレビのスイッチを入れて音を消す パソコンを立ち上げて音を消す 冷蔵庫からジュースを取り出して飲む テレビでは死んだ人や捕まった人の写真が次々と出てくる パソコンの中では細かい文章になって生きたり死んだりしている クーラーの冷たい風が頭を撫でていく 遠くで蝉がギャリギャリと鳴いている 性格が悪い女だと思っていたら 誰かが「典型的なB型女だよね」と言った どうでもいいがその女は意外にも ショートケーキが一番好きだった ---------------------------- [自由詩]憧れの人に会いに青い海を渡ろう/虹村 凌[2009年8月15日21時51分] 珈琲屋に寄って一休み極めてる間も 彼が桟橋を一番先まで駆け抜けている間も 彼女が砂浜から上がったテトラポットの上で踊っている間も 秒針が俺の人生を刻一刻と追い詰めていく みたいな事が言いたいんだけど上手くいえない ポケットに入れっぱなしになっていた 薄べったくなった煙草に火をつけて 薄らぼんやりとそんなことを考えながら 瞬く間に満ち満ちていく潮を見ていた 左右から押し寄せる波の合間は 引きが強いから 足元の砂がズルズルと溶けていく感覚が大きくて 面白かったんだ 彼女も面白そうに笑っていたよ ふと足元を見ると カナブンが引き波にさらわれそうになっているのが見えた 手を伸ばして捕まえると その小さな硬い体から 弱りかけた それでも小さな生命力を感じたんだ 何かいい事した気になって まだ満ちるには時間がかかりそうな砂浜の上に放した 波打ち際に戻って気をつけてよく見ていると それ以外にも数々の虫が波に飲まれてしまっていたんだ 恐らくこの海岸のずっと先まで そうやって虫が飲まれていってるんだろうし この海岸だけじゃなく 日本中で世界中でそうなってんだろう と考えると 逆に彼だけを救出した気になっていた自分が恥ずかしくなってきたんだ 何と言う偽善! また恥が増えたよ 煙草の灰が落ちて波に飲まれていった しばらくすると 先ほどのカナブンかは分からないけれど 一匹の甲虫が海に向かって飛んでいくのが見えたんだ それが彼のやりたい事なのか ただ明るい方向に飛んでいってるだけなのか もしくは運命を悟っているのか何なのか知らぬが 言いようの無い 得体の知れぬ感情に襲われて 「何だそれ」と思わず言ってしまったんだ 思わず言ってしまったんだ 海を越える蝶がいるのは知っているが 海を越える甲虫は知らない 生命 生命 生命 食物連鎖? 俺が死んだら みんな喰ってくれんのかな 彼女は聞いたんだ 「この海の向こうには何があるの?」って それが地球儀の上の話じゃない事はわかったんだけど どうしても答えられなかったんだ 煙草が短くなってきているよ 世界は生ゴミと癌細胞の中に横たわって あんなにも愛した世界を あんなにも憎んだ世界を 気付いているさ 与えられる側じゃないって事は だからもう君の魔法には夢が無くなったし ちっとも効きやしないんだ さようなら もう疲れちまったよ まだ海は俺を連れて行ってくれないみたいだけどね ---------------------------- [自由詩]西陽に背を向けてる訳じゃないんだ/虹村 凌[2009年8月15日22時49分] 人生の最終目標は「ラプラスの悪魔」って訳じゃねぇし 知りたい事は多いけど全てを知りたいって訳でもねぇ そんなチートコードみたいな力は欲しくねぇ 覚悟は必要でそれが幸福に繋がるとしてもだ あー 今日はどうしようもなくお前が嫌いなんだ そういう日ってあるだろう? 面倒臭いとか忙しいとか理由は色々だろうけどさ やってられねぇから 今だけは放っておいてくれ そんな気分になる時って よくよくあるだろう? もしかしたら 俺だけかも知れないけど フラストレーションが溜まってくよ 今でももう十分だってのに クソみてぇに行き詰った状況が 煮詰まった鍋みたいな頭ン中みたいに焦げ付いてきてるぜ 「血を見ない日なんて、太陽を見ない日みたいなもんだ」 と血まみれ米兵は言った そういうもんかも知れないな 苛々しない日なんて無いからさ 連続した選択肢をこなして 今までの人生があるらしい 正解か不正解かもわからないままで ずっとこうしてきてる事だけが確かなんだ 気が狂いそうにならないか? ギラギラと輝くまぶしくて見えない太陽ですら 俺には嘘みたいに思えてくるんだ まぶしくて見えないからかも知れない とにかく それが正解か不正解かわからないんだ それこそラプラスの悪魔にでもならなきゃ 一生かかってもわかんねぇ事だろう でも覚悟は出来てないよ 諦めと覚悟は違うだろう? 覚悟を持って選んだ選択肢は幸福に繋がるらしい たとえ後悔してもな そうカリカリすんなよ たかが選択肢のゲームじゃねぇか どの選択肢を取っても 結果はここにいる俺だと言う事か? よォ平行世界の俺達 元気にやってるかい? アローアロー聞こえているかい? ああ ここにいる俺は 一応元気にやってるぜ 色んな選択肢で逆を選んだ俺と 話をしてみたいなァなンて思うんだ 多分どの俺も説明が下手だろうから 会話滅茶苦茶なんだろうけどさ 別に並行世界を信じるとかじゃなくてさ 違う選択肢を選んだ俺ってのがいると思うと ちょっとわくわくするじゃん そうカリカリすんなよ 気楽にやんな たかだかゲームじゃねぇか なに オカルトだって? そう固い事言うなよ たかが戯言じゃねぇか 幸運も勇気もねぇ この手の中にあるのは絶望と倦怠と諦めと眠気だ そいつらが描くマーブル模様の中に未来がある 太陽がそれを照らすかどうかは置いておこう その太陽が本物かどうかも置いておこう 選択肢を乗り越える度に 俺は運命に逆らっているのか? だから苦しいのか? ろくでもない終わりに向かっているのか? 犠牲 犠牲 犠牲 今まで積み上げ築き上げたものは 何かを傷つけ犠牲にしてきた物の上にある 当然の事だ 生きるってのはそういうことだ そうだろう? だから今度 誰かが俺を傷つけその上に何かを築き上げても 文句は言えないんだ そうだろう? 落ち着けよ 別にお前を傷つけて生きようってんじゃないんだ だからもうちょっと聞いてくれよ そうカリカリすんなって 珈琲おごってやるからさ 人生に何度ピークがあるのか知らないけど 一度目のピークはとっくに過ぎてるんだ 引き際を間違えてる事には気付いているよ もうやってる事も言ってる事も滅茶苦茶で それだけが何年も変わっていない 気付きたくない事実だったが こうも突きつけられるとどうしようもない 笑うしかねぇよな 無様に試合をしようぜと叫ぶけど誰も見てねぇし 試合が始まったと思って手を出して挑発までして 気がつきゃただのシャドーボクシングだったりするんだ 勝ちもなけりゃ負けもねーのに なぁ 喧嘩しようぜ 殴り合いのやつをさ ガードなんかできゃしねぇけど 殴り合いの喧嘩しようぜ だってさっきまで大切だったものが 今この瞬間にはもう意味をなさねぇなら 何かを守る必要なんか無ぇだろう? 笑いたきゃ笑えよ 例えば どうにかしてお前の中に入っていけたら 世界は変わるのだろうかって考える事があるんだ そう気持ち悪がるなよ 少しは俺が見えるのだろうか 俺は変わったのだろうか そう考える事があるんだ 少しは変わったのかと思えば 「全然変わってないね」と言われるしさ 変わりたいのかもよくわかんねぇけど 停滞は趣味じゃないんだ 繰り返す 繰り返す 繰り返すけれど物事てのは変わっていく 諸行無常って言うだろ? 以前と同じだとは思わないし マシかどうかも分からない 前より酷くなってるかも知れない それでさえ構わないから どうなってるのか知りたいんだ 誰かが大丈夫だよって言うけど それは何か違う気がする どう思う? よくわかんねぇって? そうだよな 俺もよくわかってねぇんだ 笑えるか? そうか ならいいんだ 手を出す 手を出す 手を出さなきゃ殺られる 防御なんか出来っこねぇけど 手を上げろ 上げろ 上げなきゃ 殺られる 磨り減ったブレーキは無いも同然で 何処をどう走っているのかもわからないくらいに お前の目に反射された光で焼け付いているらしいぜ 今の俺 笑えよ どうにかしてお前の中に入っていけたら 何か変わるのか そう考える事がよくあるんだ ---------------------------- [自由詩]HONDA RATで/虹村 凌[2009年8月22日14時37分] 相変わらず将来の見通しは立たず ピッツバーグの夜は何もない リクナビもマイナビもエンジャパンも放置して セブンスター吸ってブラウザを疲れさせてる ピッツに何もないって言っても東京だって大して変わんない 行くとすれば雀荘かファミレスで カラオケでもいいけど 大して歌は上手くないしネタを披露する相手もいない 知ってる奴等は就職したり卒論書いてたりで 暇してんのは俺くらい やる事は沢山あるけど 今日やらなくたって言って先延ばしにし続けてる リッケン4001Sをキャッシュで買った奴がいて 俺も金稼がなきゃって思うけど 結局買ったのは宝くじ10枚で 当たったのは300円一枚 セブンスターの匂いで脳味噌ぶっ飛んで 通りすがった黒人がマリファナ臭くて吐きそうになる 4年前のバッドトリップで体が受け付けなくなっちまったみたいでさ なんてマリファナ程度を自慢気に話すアホを 生真面目な奴等が蔑んでる それをウケてると勘違いしてベラベラ喋ってんだ 笑えるよな 最近はモヒカンで悪そうな奴ごっこ そういう奴等は苦手なんだけどね 東京生まれ温室育ち シャッター通りの裏で新しいビルが建てられていく 走る車は減らないけど 車を売る店はどんどん潰れていく レシート貰ったって出納帳なんざつけてねぇし 気付けば100ドルがあっと言う間に消えてなくなってる 将来僧になったら結婚してくれっかなーとか考えたけど 味覚も思考も相容れないからきっと無理だなって思って笑う 鶏肉屋には彼女がいなくて 持ってるのはオレンジのプレベだけ 誰かHONDA RATで俺を轢いてくんねーかな 占ってもらいたい気分だよ タロット手相なんでもいいから きっと安心したい いい歳ぶっこいて 天国も地獄も無ぇけど たまに考える事があるんだ 良い事をした回数と 悪い事をした回数 どっちが多いんだろうって 今まで殺した虫の数と 見逃して生かした虫の数 老人に席を譲った数と 譲らなかった数 人を喜ばせた数と 悲しませた数 脂臭ぇションベン垂れながら 考えたりしてる 人生がプラマイゼロだってんなら まぁ結果トントンなのかな いつもの麻雀みたいだなんて弱く笑う 一晩中打って 最初に負けが込んで 徐々に挽回してトントンみたいな感じ じゃあ折り返すまで大変だなと一人でか笑って ションベンし終えたチンコ振ってパンツに仕舞う この瞬間にパンツん中に覚醒剤あったら大変だよな 英語で何て言うんだろ 「パンツん中にあったんだよ!」って 信じて貰えないって 絶対に突っ込まれるよな そう言えばやる事って結構あったな まァどうにかなるだろ するさどうにか 脚本書いて 役者見つけて あと授業登録のやんなきゃ 他何かする事あったっけ 携帯買い換えなきゃ プリぺの安いヤツ あるかな これが人生の何分の一かわかる腕時計があったら怖いよな 申し訳を立てて安心させなきゃいけねぇと思ってる それが間違ってるのか正しいのかわかんない きっと正解も不正解も無いんだろうね やりたいようにやりゃーいいってのも難しくて 帰る所が欲しいなら正解っぽい方行かなきゃいけない いらないんなら、本当に勝手にすりゃいい アラミスの匂いでぶっ飛べるかな 誰かHONDA RATで轢き殺してくんねーかな 脳味噌が曇天だからさ ---------------------------- [自由詩]紅/虹村 凌[2009年9月28日16時01分] 世界中のお偉いさんが集まって 金の話してた時の事を書こうとしてやめた 別に誰もデモ隊の言いたかった事も知らないし 知ったってどうせ大した事言ってないんだし 結局は彼らも資本主義があったから生きて来られたんだし フリーチベットとか何だとか 言いたい事言った挙げ句に街の生活壊してちゃ 得られる支持も得られなくなる 世界の金の為に街の金が潰されて 俺達の授業代も緑色の河に流されていって 面倒臭くなって ほら ショットガンとサブマシンガンを装備した警官隊が 俺たちに向かって催涙弾投げて寄越したぜ 面倒臭くなって家に帰ってテレビ見てたら ついさっきまでいた近所から ちょっと離れた町に移って それでもやってる事は大して変わらなくて テレビを消して外に出ると もうデモ隊も警官隊も居なくて 近所のカフェでケーキを珈琲で流し込んで 新聞拾って家に帰る 実際にそうだったから 言いたい事は沢山あるけど 言った所で何も変わらないし変えられない 諦めてる訳じゃないんだけど 何か違う気がするんだ ピカピカのショットガンとサブマシンガン 緑色の戦車と黒いプロテクトスーツ そいつらが格好良く見えて 戦争でも始まりそうな状況にドキドキしてたのが事実 別にデモ隊が言ってた事に興味も無ければ 警官隊がやった事に反感を持つ訳でもない どうせどっちもどっちで その証拠に昨日も今日も何にも無くて 何も無かったかの様に世界は回ってる みんな言ってるよ 楽しかったなって この保守的な街が そういう類いの物で彩られて 真っ赤な空気に包まれて 目眩がするような匂いで ちょっと興奮出来たんだって 貧乏人が太って金持ちが痩せて とか そういう事も言いたいけど腹減ってるから面倒臭くて お姉ちゃんとセックスする小説を3本くらい読んで やっぱりピカピカのショットガンとサブマシンガンを思い出して あれで深紅のざくろを咲かせるみたいな事を一瞬考えて スカイプでおしゃべりして眠る これが事実で これが現実 面白くもなんともねぇ ---------------------------- [自由詩]飯を喰いに行こう/虹村 凌[2009年10月11日17時26分] 原爆落とした国の偉い奴が ノーベル平和賞だって 笑わせてくれるよな 長崎の市長も広島の市長も 一回だってそんなもの貰った事ないのに もしその偉い奴がこの事に気づいて その賞の無価値を叫んで どぶ川に捨てる事が出来たら 彼はきっともっと偉い人になれるだろうけど そんな事言う暇があったら就職活動でもした方がいいのが現実 飯が喰えなきゃ何も言えないし下手すりゃ死んじまう 別に難しい事が言いたい訳でもなくて 誰にでも出来る事をやろうとしてるだけだよ 詩も絵も 誰にだって出来るんだからさ 崇高でも何でも無い 難しく考える奴らはちゃんと飯を喰ってないだけだろう そう思わないか? 腹減ったな どっか美味い飯喰いに行こうぜ ---------------------------- [自由詩]ハンバーガーでも喰いながら/虹村 凌[2009年10月11日17時45分] 昔から芸術の展示品に触れない理由がわからなかった 作った本人ですら価値を見いだせるのかわからないそれは 興味の無い人間からすればただのゴミでしかないのに 偉そうに台座に座って手の届かない場所にいるそいつ等が 昔から本当に気に喰わなかった 出来ることなら齧ったり叩いたり バットで粉々にしてやりたいと思っていた 茶渋がへばりついたマグカップにミルクを注いで 一気に飲み干して今日もそんな事は忘れてしまおうと思った 別に斜に構えてる訳じゃないと思うんだけれど どうやらそう思われても仕方が無い人間らしい よく言われるよ変だって 見下して笑ってお前等が安心出来るなら 思う存分そうすればいいさ 俺の中で虫は何時も復讐を叫んでいるけどね 茶渋とミルクが乾いたマグカップに インスタントコーヒーを注いで今朝の事を思い出しながら 灰皿の中で一番長いのを選んで火を付ける 何処か遠くに行きたい気もするけど 帰ってくるのも面倒だと思っているうちに 免許がどんどん薄くなって紙になった 別にポリシーなんて無いんだ 柔軟な訳でも無いと思うよ 俺は卑怯で狡いだけの人間だから 不器用じゃないけど雑だしさ 一人じゃ生きて行ける自信なんざ無いんだ 誰かに甘えたい気もするけど 甘えられるのは俺に余裕が無いと無理だって考えると 相手に迷惑かもなって思って いつも声をかけられないでいる フライパンの上で一昨日の鶏肉が冷え固まって ネギや醤油と一緒に黒くなっている 暖めなおしたら喰えるよな あー ラーメン喰いたいな 何だよ 何もオリジナルとか何だとか 難しい話がしたいんじゃないんだ もっと簡単で単純な話を そうだ 未来の事とかそういう話がしたいんだ 別に生きる上での戦略とかじゃなくて この暗闇の中で何が出てくるか ワクワクしながら話そうって言うだけ 酒は飲まないからコーラでいいよ ハンバーガーでも喰いながら 未来の話をしようぜ ハンバーガーでも喰いながらさ ---------------------------- [自由詩]笑う電車の中で/虹村 凌[2009年10月27日5時49分] 鞄はあまり好きじゃないんだ 手が塞がるのが苦しくて リュックならいいんだけど サラリーマンになったら鞄を持たなきゃいけないのかな 黒いスーツを来て 地味なネクタイをして リーマンにはなりたくないって言って 全てのサラリーマンを否定してた友達が 気づけばサラリーマンになっていた 不味そうに煙草を吸いながら 煙草を止める話をしている 後はよくわかんない 聞いてなかったから バイト先で話が弾まない 絵とか詩とか映画とか言っても 何か違うって言う目で見られて ハリウッドとか言われて 俺もそれに合わせて作り笑うんだから そりゃ話は弾まないだろうな 絵なんて誰にでも書けるし 詩なんて誰にでも書けるし 映画なんて誰にでも撮れるのにね 鞄が嫌いで 手ぶらで外に出ると 鞄は?って聞かれる 別にいらないじゃないかって思うけど 何も言わないで缶コーヒーを飲み込む 友達と会ってもバイト先でも 手ぶらでいる事が変みたいな雰囲気で どうしようもなく眠くなる 確かに電車の中で手ぶらの奴って見ないな そう思って笑う 電車の中で ---------------------------- [自由詩]グッドバイ/虹村 凌[2009年10月28日13時09分] 力道山が死んだ時に レスラーは四六時中強くなければならなくなった 横山やすしが死んだ時 芸人は四六時中面白くなければならなくなったのか? コメディアンがいなくなった、と彼は呟いた 爆弾が落ちる時に天使達が歌わなくなったから 詩人が代わりに歌わなければならなくなった なんて事は全然彼女も言っていない ハリネズミみたいになった灰皿を交換しなけりゃならない ここはファミレスでも雀荘でもパチンコ屋でも無く自分の部屋で それでもパラダイスには変わりないのだ 缶コーヒーに突き刺さった吸い殻を見て地球に謝る ハルクホーガンがアメリカそのものを象徴している ディス イズ アメリカ 強靭な肉体の奥にある弱り切ったハート 青山君は何でまた特等少年院にいるのか 彼が時折見せる残虐性にそれを垣間見た気がする きっと普段は大人しいもの静かな少年だったんだろう 彼が野菊島を訪れた時に 鞄の中には家族写真は無かったと思う なんて事は全然彼女も言っていないけど 撃鉄を起こして引き金を 安全装置が邪魔を 喉の奥から吐き気が 空っぽの胃袋から胃液が 疲れ果てたブラウザの向こうに 泥の様に眠る携帯電話の向こうに 尿道の奥から精液が 子宮の奥から卵子が ビルの上から人が 縄の下に人が 今日も2000人が泣いたり笑ったりできずに 今日も2000人が食べたり飲んだりできずに 今日も2000人が射精したり受精したりできずに それ自体が奇跡なのかはよくわからない 偶然だとか必然だとかもよくわからない ゆりかごから墓場まで運命がついてまわる なんて事は全然彼女も言ってない だけど今 こうして布団の中で独り煙草を加えて 白い天井を眺めている 鞄の中には明日の学校で使うものが立ち並んで 昆虫標本みたいにじっと動かずに押し黙っている グッドバイ ---------------------------- (ファイルの終わり)