HAL 2019年9月24日21時27分から2020年1月27日18時27分まで ---------------------------- [自由詩]調律/HAL[2019年9月24日21時27分] オーケストラの調律は 音程の不安定なオーボエが担うという 理由はただオーボエの音が大きいからだ その440HzのAの音によって オーケストラのすべての楽器は調律されるが そのAの音が正確でないとオーケストラの演奏は ただの不協和音にしかならない いま世の中の調律はどうだろう 誰もが様々な方法で様々な音を出す それが時には傷つかなくていいひとを 平気で知ったことじゃないと傷つける 匿名性を隠れ蓑にして 多様性の時代を言い訳にして 表現の自由を身勝手に解釈して 誰もが発信できる世の中になった手軽さを すべてがそうだとは言わないけれど 自己満足の写真と好き放題の気儘な言葉を吐く 確かに便利なことは否定しないけれど 役に立つことも多いけれど 強い光には必ず深い闇が生まれることも 知っておかなければならない SNSもLINEもやらない 老いたるものの戯れ言と言われても構わないけれど ひとつだけぼくが思っていることを言おうか オーケストラの調律の基音となるAの音とは この世では良心と呼ぶ ---------------------------- [自由詩]相槌/HAL[2019年9月26日20時26分] きみが声高に叫ぶことに そうそうそうそうそうそううそ きみが胸を張って言うことに そうそうそうそうそうそううそ きみが誇らしげに自慢することに そうそうそうそうそうそううそ きみの着飾った思い出話に そうそうそうそうそうそううそ きみのもっともらしい自己弁護に そうそうそうそうそうそううそ ---------------------------- [自由詩]A River/HAL[2019年9月27日18時13分] ありきたりに言ってしまえば そう 川は人生そのものなのだろう そう 川は生命の流れなのだろう 流れる水と水が寄り添うことは愛のよう 本流と支流に別れていくものは悲しみのよう 岩にぶつかり飛沫をあげる様は まるで憎しみのよう 或いは血族の苦しみであるかのよう 或いは血族の繋がりであるかのよう ぼくはそれを《A River Runs Through It》と 題された一本の映画で教えられた 川はいつもそれを通り過ぎてゆく 川はいつもそれを流れ過ぎてゆく きみも遠い街で観ただろうか ぼくには訳し切れないひとつの言葉を きみはどう訳したのだろうか ぼくは“It”を《時》と訳したけれど きみは“It”を何と訳したのだろうか きみのことだ《無》と訳したのかも知れない でもきみはきっと 穏やかな笑顔を浮かべて言うだろう 正解も不正解もないのだと 感じたままが正解なのだと それをぼくが知ることは もう永遠にないだろうけれど ---------------------------- [自由詩]或る夜 眺めのいい部屋から/HAL[2019年9月29日9時41分] ふとChagallの“恋人”を観たいと 新幹線のグリーン車に乗り 倉敷の大原美術館へと向かう じっとその絵の前でChagallならではの 黄緑色をじっと1時間くらい観つづけた後 また新幹線のグリーン車で帰ってくる でも家には帰りたくないので 中之島のリーガロイヤル・ホテルに電話して スィートをワンユースでと予約して 新大阪駅の1階にハイヤーを呼び 新御堂筋を市内に向かい逆行きの道は 家路へと急ぐ車で渋滞してるなと煙草を吸う ホテルの正面に着いたら顔馴染みのドアマンが 黒塗りの鏡のように磨かれたドアを開けてくれ その僅かな微笑みとこんばんはの挨拶に軽く笑みを返し 真っ直ぐに雲のような柔らかい絨毯を感じながら スィーツ専用の奥のチェックイン・カウンターに行き ダイナースカードを差し出して鍵を貰う そしてそのまま部屋には向かわず バーナード・リーチがデザインしたリーチバーの カウンタに座り最初の一杯としてネグロニを頼み そのビターさが口から消えた後はリーチバーならではの ウォッカ・ギムレットを飲みスィーツ専用のエレベータに乗り 部屋に入り窓のカーテンを開けいつもの高級娼婦を呼ぶ 彼女が来る前にシャワーを浴びバスローブを着て 暮れてしまった街の散らばる光を眺めながら たくさんのひとたちはしあわせなんだろうなと想うと 部屋のチャイムが小さく鳴りドアを開けると かすかな微笑みを浮かべる上品な娼婦を迎え入れる そしてその娼婦のディオリッシモの香水に包まれ性交をする 彼女は気がついてないだろうが彼女を指名する男が多いのは 彼女が左利きなところだ右利きのフェラチオとは微妙に違う 男がそんな小さな長所を気にいってしまうことを知ってる女は少ない またピロートークは彼女の愛読書であるHeideggerの『存在と時間』 Heideggerの唯一の失敗はヒトラーとナチズムと関わったことだと言う でも形而上学を否定しSartreが実存主義に到達したのは彼のお陰とも言う 普通でも『存在と時間』について話しのできる女は数少ないが SartreはHeideggerに比べただの餓鬼よと言える女はもっと少ない だから彼女は一流企業の部長クラスの1ヶ月分の報酬を一晩で稼ぐ 帰りどきも分かり客の希望を察知してシャワーを浴び報酬を受け取り帰る 確かに一流娼婦と呼ばれるのは性的なサービスだけではない 高級娼婦の仕事とはを熟知しているプロフェッショナルだといつも想う 彼女が帰った後もう一度シャワーを浴びながら ある夕暮れにチャイムが鳴り友人がドアを開けると パリにいるはずの高田賢三氏が『河豚が食べたくなったから帰ってきた』 そんな話をふと想い出す その友人はすでに予約されている銀座の一流の割烹に 待たせてあったハイヤーに賢三氏と一緒に乗り込む 酒を飲みながら河豚を肴に歓談してたちまち河豚の夕餉は終わり 賢三氏はその割烹にハイヤーを頼み羽田空港へと向かい 来たときと同じエア・フランスのファーストクラスで 仕事の拠点でもあり自宅もあるパリへと舞い戻るという話だ お金があるとそんなことがいとも簡単にできる お金がないとできないことがいとも簡単にできる でもお金ってそんなことをするためにあるんだよなと またシャワーを浴び新しいバスローブを着て窓際に立ち 夜だけ眺めのいい部屋から光が少なくなった虚勢の街を見下ろす お金では絶対にできないこともあるんだと想いながら ---------------------------- [自由詩]苦手/HAL[2019年10月1日18時33分] 最高気温が随分と下がったのに まだエアコンは点けっぱなしのまま 温度が高いのが苦手なのではない 湿度が高いのが苦手なのだ ある種の人間と同じように ---------------------------- [自由詩]脱自的想考力(存在の序章として)/HAL[2019年10月5日17時11分] 飛んでいる矢は静止していることに 時熟できる者は決してゼノンのパラドックスが あながち間違いではないことに気づく者であり 現在は常に過去であることを知る者である それは己を時間化することにいつか到達できうる 正しい哲学的想考力という資質を持つ者であるといっても あながち間違いではない ---------------------------- [自由詩]実存在と無存在と(存在の本章として)/HAL[2019年10月5日17時24分] ぼくらが見ているのは鏡に映ったかのような仮想現実だ それは一見現実かのような様相を呈するがあくまでも現実ではない ただ厄介なのはその仮想現実が ぼくらの現実とぴたりと寸分違わず重なってしまうことだ もしも仮想現実を何らかの方法で分離できるとしたら 仮想現実はすでに余りにも現実との密着性が強い故に 同時にぼくらの見ている否もっと正確にいうと ぼくらもぼくらの現実も共に削除されてしまうことだ それをどこかで食い止めないと ぼくらのものではない現実がもうひとつ出来上がる それらが急速であろうと緩慢であろうと連鎖は連鎖を生み この世界の仮想現実と実際の現実がぴたりと重ね合わさった これまでの常識が通用しない不可解な世界が生まれてしまう そのどちらが本物の現実でどちらが仮想現実かの見分けはつかない 言い替えれば正常な善人と異常過ぎる悪人の区別が 外見だけでは見分けられない状態といったら分かるだろうか つまり或る作家がさりげなく残したように 異常過ぎる人間はまともに見えるときがあるということだ その仮想現実と現実との密着性が強められていないうちに 仮想現実と現実を見分け仮想現実だけを分離していかないと ぼくらもきみらもそのまた違うだれかの実存在という事象がなくなり 無存在となって存在してしまうことだ なくなってしまう存在なら何の問題もない しかし無存在もまたひとつの存在として存在しているのだ そのままにしておくと無存在で埋め尽くされた仮想現実だけが存在し 実存在という存在本来の有り様がすべて無存在という存在になって まったく別種のまたそれまでと余りにも似た不気味な世界が生まれてしまう それはいまぼくらのきみらのさらにまた違うだれかの存在の意味が すべて失われてしまうことを意味するが それはそれまでの存在と酷似しているが中核はまったく異質なものだ ぼくらもきみらもさらにまた違うだれかもそれを肯定できるだろうか それを受け入れるならそのままにしておけばいい しかし無存在となっての存在を拒絶し実存在となって存在したいなら すぐにでも現実と仮想現実の見分けがつくうちに まずぼくらが仮想現実と対峙しそれらが存在し難い世界を構築することだ それは実際の戦争よりも多くの心の犠牲を伴うだろうが 実存在としてぼくらのきみらのさらにまた違うだれかの無存在までを 実存在させられることであり仮想現実がもたらす無存在に対して 言葉の素数でもある存在から無存在と実存在を見分ける数式を導き出し すべてが実存在となり得る方程式を見つけ出すことが命題となる そしてその解は詩にとっても必要不可欠な核といっていい本質でもあるのだ もちろん無存在と実存在の違いを知りたいのは分かる でもいまは無存在は衝動性を抑制できない静体であり 実存在は衝動性を制御できる動体であるとしかいえない ---------------------------- [自由詩]分別塵/HAL[2019年10月9日20時22分] あのう すいません 悲しみって燃える塵ですか それとも燃えない塵ですか どちらでもないですよ 悲しみは塵じゃありません 悲しみは壁を越えていく力の父です そしてひとと世界への想いやりの母です そしてどれもがそれぞれです 同じものなんてひとつとしてありません 分かりますか それはかけがえのないものです だからどんなに望んでも捨てられないんですよ じゃあもしかして 淋しさも苦しさもそうなんですか そして孤独も辛さや苦しみもそうなんですか そうですよ どれも同じです だから塵として処分できないんです あなたと一緒に荼毘に伏されるまでは でもそれはあなただけと想っちゃいけませんよ だれだってそれを抱えていることを知りながら それでもみんな笑いながら生きてるんですから ---------------------------- [自由詩]嘘/HAL[2019年10月12日18時15分] 愛なんて嘘だけど でもとても綺麗な嘘なんです また人生も嘘だけど でもとても美しい嘘なんです だから悩まなくていいのです 愛だって人生なんてみんな嘘なんだから 愛や人生に悩む必要はないんです ましてや傷つくことすらもないんです もしかしたら 苦悩すらも嘘かも知れないから 悩む必要なんてないんじゃないと想います どうですか嘘と分かっていても 愛を信じてみませんか 人生に期待を寄せてみませんか 騙されたって好いじゃないですか 裏切られたって好いじゃないですか どうせ愛も人生もどっちも嘘なんですから でももしかて その愛も人生も嘘であったとしても 嘘だけが本物を教えてくれる教師だとしたら 嘘の愛も人生もそれほど捨てたもんじゃないと想いませんか ---------------------------- [自由詩]香炉/HAL[2019年10月17日14時43分] ひとはそれぞれに 生き方や経験だけが醸し出す そのひとだけの香りを漂わせる ---------------------------- [自由詩]戒め/HAL[2019年10月19日18時44分] 言葉にはできないものがある 言葉からは洩れるものがある その溢れ落ちた得体の知れないものを 掴みどころのない感情を 何とか伝えようと 何とか形にしようと 何とか掬い取ろうと 名も無き詩人が此処に集まる ただし覚えておかなければならないことがある それは迂闊には詩にしてはならないことがあること ---------------------------- [自由詩]悲嘆/HAL[2019年10月23日9時32分] 本当に心底悲しい時 ひとは涙を流さない ---------------------------- [自由詩]器/HAL[2019年10月27日8時46分] 器の中に様々な言葉が投げ入れられる 器はその度にかたちを変えていく 選んで選んで投げ入れられる言葉もあれば 一気呵成に投げ入れられる言葉もある 思った通りのかたちになることもあれば 思った通りのかたちにならないこともある 大きな器もある 小さな器もある でも空っぽの器はない だからひとは器に言葉を投げ入れる それが詩(うた) そこにあるのは言葉を投げ入れるひとの想い どんなかたちになろうとも ぼくはそんな想いの器を愛している ---------------------------- [自由詩]落とし穴/HAL[2019年10月29日18時21分] 或るひとのことが心から離れない 胸がときめき締め付けられる そのひとを思うと切なくなり 夜が一気に長くなり眠れなくなる それはいつかとまた同じ きっときみは笑うだろう いい歳をして何を言っているのかと まるでガキのようじゃないかと でもね 心が動いてしまったんだ 理性もある 経験もある 抑える術も知っている それでも心が動いてしまったら どうしようもないんだ そして長く忘れていたことに やっと気づく 恋はするものではなく 落とし穴のように突然 落ちるものだということに ---------------------------- [自由詩]ググる/HAL[2019年11月3日11時13分] これまでに余りに 多くの音楽を聴いてきたせいだろうか ふっと頭に突然メロディが流れてくることもあれば TVを観ていてCMや番組の曲が思い出せないことがある 脳にメロディが張りついた感覚だと言えば 分かってもらえるだろうか そのまま忘れてしまえばいいのだろうが どうしても思い出したいのでググる うろ覚えの歌詞や鼻唄を手がかりにググる 眠る暇を惜しんでとにかくひたすらググる そうしてやっと曲名を見つけたり思い出したりすると 自己満足なのに心がすっきりとする 音楽からはこの歳になるまで随分と幸せを貰ってきたが ネット社会になって便利になったせいだろう まさかこういうしっぺ返しを喰らうとは よもや思っても見なかった ---------------------------- [自由詩]静寂/HAL[2019年11月8日21時01分] 朝目覚めて何もせず ベッドからソファへと身を移す 時計は6時を指している 街はまだ微睡の中 幹線道路から離れた住宅地のせいか 車の音も人の声も聴こえてはこない 漸く鳥たちが目を覚まし囀りで朝を知らせる 煙草に火を点け 昨夜飲み残した冷めた珈琲を啜る おはようの挨拶を掛ける人はいない もう吐く息は白く空気の色だけが蒼い ただ晩秋 ---------------------------- [自由詩]圧迫骨折/HAL[2019年11月17日11時23分] 長く歩けないほど腰が痛いので 近くの整形外科に行った 背中のレントゲンを撮られ 腰椎の圧迫骨折だと診断された でも心はもうとっくの前から 圧迫骨折している ただ心の圧迫骨折はMRIにも レントゲンにも映らないし もちろん手術で治すこともできない ---------------------------- [自由詩]睡眠薬/HAL[2019年11月27日8時44分] ワイパックス1錠 ジプレクサ1錠 ランドセン1錠 ベンザリン1錠 ヒルナミン3錠 そしてきみの寝息 ぼくが眠るために必要なもの ---------------------------- [自由詩]抱擁/HAL[2019年12月5日22時02分] いい歳をしてなんですけれど だれかに抱きしめられたいと 想ったことはありませんか もちろんだれでもいいって訣じゃないですよ ほんの少し心の体温が伝わってくる女性(ひと)に 悲しいときも淋しいときも辛いときも 笑いながら実は心はいつも泣いている女性に 抱きしめられたいと想うんです そしたらその女性の悲しみや淋しさと ぼくの苦しさや辛さが化学反応を起こして なぜかは分からないけれど中和される気がするんです そうです マイナスとマイナスをかけたら プラスになるというなぜそうなるのかが分かりませんが それにほぼ近いことを想っているということです だれかに抱きしめられてみたいと想うのは いい歳をして笑っちゃうことですか 好いんですよ柔な男だと想われたら存分に笑ってください それでもぼくはだれかに抱きしめられたいと 想うことを打ち消せないでいると想いますから 自分に嘘をつくことってとても嫌じゃないですか 弱い男だと想われたらどうぞ遠慮なく笑ってください 全然ぼくは平気ですから もちろん性的欲望なんてありません 何人かの女性を抱きしめてきていつも想っていたんです きっと抱きしめられるってとても気持ちがいいんだろうなと ただそれだけの理由です いつかあるときだれかに抱きしめられたら 多分ですが向精神薬を飲まなくても いいような気持ちになるとも想うんです 詩人諸兄 あなたは一度としてそう想ったことはありませんか ---------------------------- [自由詩]Pain/HAL[2019年12月12日21時19分] 風が痛い 雨が痛い 雪が痛い 陽すら痛い そして何よりぼく自身がもっとも痛い ---------------------------- [自由詩]夜の果ての墓/HAL[2019年12月15日3時54分] その墓はアフリカ大陸が視える小高い丘にある だけど墓地ではない あるのはその墓だけ その墓には埋葬された彼の名前も 1894.5.27に生まれたことも 1961.7.1に亡くなったことも彫られていない その墓に彫られているのはたったひとつの言葉 それは『NON !』と云うフランス語一語だけ それが墓の場所も彫られる言葉も 彼が残した遺言を親族が従ったため なぜあれほど彼はすべてを憎んだろうかとぼくは 遥か昔に読んだ書物なのにその憎しみを忘れられない 憎しみでしか殺せない悲しみが この世界にあることを知っていたのだろうか でも彼は絶望していたのではない 絶望しているものが書物など書くはずはない 苦い呪詛の言葉が綿々とつづく本だったけれど その憎悪は正真正銘の稀なるものだったとぼくは想う でもなぜそこまで彼がすべてを 憎んだ理由はぼくにはわからない でも彼の物語は確かに若いぼくの胸を撃った 彼の憎悪は世界を憎むぼくの心を粉砕した 『これは文学の本ではない。人生の本だ』 『この作品は、自分の人類愛から生まれたものだ』 との自らの言葉は正しい 彼は67年間夜の果てへの旅人だったのだろうか 彼はいまでも夜の果てへの旅をしているのだろうか 愚かなぼくにはその答えは見つけ出せない ただ墓を視るためだけにここを訪れた 献花すらも持たずただ視るためだけにここにきた 彼は献花など望まないことくらいはぼくでもわかる ぼくは彼の愛したシャンソンを口ずさみながら いちどだけ十字を切ろうとしたけれどやめた 献花と同じだ彼はきっとそれを侮辱と想うだろう そろそろパリへ戻るための最終電車の時間がくる ぼくはその墓と遥か彼方のアフリカ大陸を心に焼きつけ なにも言わずに踵を返して遠く小さな駅へと向かう もちろんAu revoirとは口が裂けても言わなかった Merci Monsieur Louis=Ferdinand Celine. ---------------------------- [自由詩]SAD BAR/HAL[2019年12月22日10時04分] まだ6時前だが ぼくはカウンターのいちばん手前の椅子を引く マスターが早かったね と言いながら ぼくのアーリー・タイムスのボトルを出してくれ 磨かれたオン・ザ・ロック用のグラスがひとつカウンターに置かれる ぼくはマスターが氷を砕く音を聴きながら ストレート・ノー・チェイサーと言い チェイサーの代わりにオレンジ・ジュースにしていたのは 誰だっけと考えセロニアス・モンクだったと気がつく でもいまラークに火を点け深々と吸い込むながら 耳は適度な音量で流れている ジム・ホールのアランフェス協奏曲を聴いている その透み切ったテクニックを抑えた弦を滑る音は どこか遠くの沢の奥深くの 小さな清流を想い起こさせる 岩魚が泳いでいるのさえ見える そんな幻覚を見ている内に ぼくの前には素っ気のないボトルと コースターの上に露をかいたオン・ザ・ロックが置かれている ボトルを見ると丁度指一本分減っている 24杯飲めばニューボトルが何も云わず卸される グラスを取りいつものざらつく安物の味が喉を通る でも氷代をこの店は取らない チェイサーは大層なデキャンタに入れた水道水だ お通しだけなら300円でしかもツケで帰れる マスターは入ってきた顔色ひとつで 話しかけていいかいけないかを一瞬で見抜く プロの眼だ 多くの人間の裏を見てきたプロの眼だ その眼は一見の客には特に厳しく向けられる 一瞥で嫌な客にはうちは会員制なのでと 北新地の高級クラブでしか遣わない理由を いけしゃあしゃあと大きく威圧的な声で言う オーディションを通らなかった一見は 扉を少し不機嫌な力で締める ターンテーブルに乗っているLPは トニー・ベネット・シングス・バーリンに替わっている 還暦を越えたばかりの録音のはずだけど 歌いすぎない男でしか歌えないシミとシワを感じる 測り知れない辛酸を隠した男ならではの稀な歌声が流れる いつしか馴染みの客がふえている ぼくはそれぞれの客にグラスを掲げ挨拶をする その馴染みの客のなかにあいつの顔は見えない あれほど酒の好きだった男の顔は見えない ぼくはそれで満足だろうと ラークにまた火を点け心底想う いつかバータンダーが 死神に変わることを知っていたはずだから ぼくがいま吸っている煙の向うに 死神が笑んでいるのを知っているように ぼくは椅子を引き立ち上がり 馴染みの客に別れの会釈をする じゃあ とぼくはマスターに眼で挨拶をする 奴はアルコールを飲んだんじゃない アルコールに飲まれたんだ 奴は敗れたんだ 他の客に聞こえない微かなマスターの声を聞く シングス・バーリンのエンディング曲である この季節らしいホワイト・クリスマスに送られながら ぼくは暖かい巣から飛び立つ鳥のような気分で扉を開ける 外は寒風に吹かれ 素っ気のない今年初めての粉雪がそれぞれに 行き場を失ったかのように風まかせに吹き荒ぶ お前は寒かったんだろうね 此の世界も此の国も此の長い付き合いだったぼくですら お前を温めるものではなかったんだろうね 他人の破滅にも苦いものがあるんだなと ぼくは黒い背広の襟を立て 誰も待ってはいない部屋に帰ろうと急ぐ どれだけ心の扉を閉めても どこからか隙間風が入ってくるんだなと感じつつ  お前は信じなかったかも知れないが お前には伝え損ねたかも知れないが お前は独りじゃなかったんだ お前は独りじゃなかったんだ 手遅れの言葉を心の中で呟きながら 待つもののいない家路へ向うためのタクシーを拾おうと手を挙げる  ---------------------------- [自由詩]バチ/HAL[2019年12月27日18時00分] よく気にくわないものがあれば 重いとかウザいとか 軽々しく口にする阿呆がいるが 生きていく上で 大抵のことは 重くてウザいものだ それを覚えておかないと いつかバチがあたるよ いまのぼくのようにね ---------------------------- [自由詩]最近/HAL[2019年12月28日9時59分] 最近 鳥の鳴き声を聴きましたか 最近 波の打ち寄せる音を聴きましたか 最近 雑踏の喧騒を聴きましたか 最近 話し掛けてくれる人の声を聴きましたか ぼくはどの音も聴いていません 聴いたのは ただ雨の音だけです ---------------------------- [自由詩]男やもめ/HAL[2020年1月2日5時11分] 今日の夕飯はお節はないのでサバの塩焼定食 サバの塩焼に野菜サラダと長ねぎのお味噌汁 炊いたご飯以外は 全部コンビニで買ったものだけど 男やもめにはこういう正月がふさわしい ---------------------------- [自由詩]答え/HAL[2020年1月5日12時18分] 怖いものの先に 見えないものの先に きみの求める何かがある きみの探している何かがある だから向こう見ずになってご覧 或る作家が書いたように 見るまえに跳んでご覧 その何かとはを ぼくは知らない だれも知らない きみしか知らない きみしか求めない それはかつてきみが捨て去った 生きていくための きみだけのたったひとつの答えだ ---------------------------- [自由詩]殺意/HAL[2020年1月10日17時49分] 撃鉄を起こし引き金を引いた でももう弾は残っていなかった ---------------------------- [自由詩]大抵の事/HAL[2020年1月17日11時06分] 大抵の事は いつか笑い話になる事である 但しそうはならない事があるのは 常々肝に命じておかなければならない ---------------------------- [自由詩]不可知/HAL[2020年1月24日22時00分] 悲しみを癒してくれるのは 時の流れなのかもしれない 悲しみを救ってくれるのは 寄り添ってくれる愛なのかもしれない しかし ぼくらはただ知らないだけなのかもしれない もしかしたら 憎しみでしか殺せない悲しみがあることを ---------------------------- [自由詩]氷点下/HAL[2020年1月27日18時27分] どれだけ着込んでも どれだけ暖房を強くしても 寒さを凌ぐ方法をぼくはまだ知らない 寒いのは冬だからじゃない 寒いのは一人だからじゃない 氷点下を感じているのは 身体ではなくぼくの心 この歳になっても ぼくはまだ自分の心を温める方法を 知らないままに生きている ねえきみは一体どうやって 自分の心を温めているんだろう その方法があるのなら どうかぼくに教えてくれないだろうか ---------------------------- (ファイルの終わり)