山人 2020年10月18日9時35分から2021年10月18日6時05分まで ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]伐採/山人[2020年10月18日9時35分]  八月中旬から十月初旬まで、延べ十二日間の登山道や古道整備に出向き、そこそこの賃金を得た。夜明け前にヘッドランプを照らし、山道に分け入る時の締め付けられるような嫌な感じを幾度か重ね、ようやく解放された。さらに作業中は脈抜けの不快を感じながらの作業であり、身体の異常に怯えながらの作業であった。  一〇月四日、最後の作業箇所である守門岳大池登山道除草を終えたのだが、その感慨はあまりなかった。高揚する気分ではなく、むしろ平坦な安堵感とでも言おうか。一〇〇パーセントの健康ではないにもかかわらず、よくやれたものだという自分の体への感謝である。  一〇月十二日から、杉の木の樹齢四〜五〇年物の切り捨て間伐が始まった。暗い杉の林に日光を与え、より健全な林にするために、混みあっている部分を伐採する作業である。伐採対象木には赤テープが巻かれ、根元にはナンバープレートが貼り付けられている。   十二日の現場は木が混みあっている箇所で、倒す場所がないほど密になっていた。杉の木の三密四密である。一本目、切り始めるが、ゆらっと傾いただけで隣の木の枝に阻まれ、動かなくなってしまった。こういう場合は本来専門の機具で索引するのが鉄則なのだが、手間が掛かりすぎるため現実に行うことはない。かなり危険で、本来禁止されている玉切りを行う。つまり、杉の木の根元の方からダルマ落としをチェーンソーで行うのだ。上側から切り、もう一方は下方から切り上げることで杉の木はゆらりと切断されるが、どっちに転ぶかわからない。チェーンソーで切り込みを入れ、大木をヒラリと除けながら、地面に横倒しになるまでこれを繰り返す。午前中はこんなのが何本も続いた。脂汗のような嫌らしい汗が湧き出てくるのを感じつつ、午後からは次第に素直な木が多くなり、さほど苦労はしなかった。  そもそも、なぜ昔の人が苦労し、杉苗木を植え、枝打ちや周りの雑木の除伐など長年管理したものを伐る必要があるのかという事について少し触れておく。本来、野生の杉は太く、枝を十分に張り、私たちのイメージする長くひょろりとしている形状とは違うという事である。つまり、杉のすらりとした形状は、人の意思によって樹木の生長特性を一部制御した結果の姿なのである。苗木で植える杉は三十センチから五十センチほどであろうか。それを地拵えした自然の地形に、唐鍬で土を掘り込み、植え付けるのであるが、その間隔はほぼ二メートル置きである。この、密に植えることが、この後の杉の成長をコントロールするために必要になってくる。どうせ最後には一〇メートル置きくらいの間隔になる大木の杉であるから、最初から大きな間隔で植え付ければ、途中で切り捨て間伐をする必要もなく合理的だろうとする考えが浮かんでくる。しかし、大きな間隔で最初から植え付けしてしまうと、当然太陽光線はどんどん入り、小さい幼樹の杉は上方向よりも横方向にどんどん枝張りを大きくし、周りの草もどんどん繁茂してくる。その結果、枝の量が増えてしまい、節だらけの材ができてしまう。それを予防するために、杉は密に植えることで、周りの草の量を減らし、横への伸びを抑え、縦方向に、より伸びやすくする方法が効率的なのである。さらに年数が経つと枝打ちが開始され、カットされた枝の傷跡は材の中に包まれる。それを何年かのサイクルで行う事で節の少ない材が得られるのである。つまり、良い材を得るためには、土からの栄養と、上部からの太陽光線が最も望ましいのである。よって、杉の成長とともに、不良木や混みあっている部分、隣の木に成長を阻害されている木、それらは適宜カットされ、生き残った木のみが最終的に製品(主伐化)されるのである。     一〇月一六日、午前中休みを取り、長岡市の病院へと向かった。四月二四日の心房細動治療のカテーテルアブレーション手術からほぼ半年経過し、二週前に二十四時間心電図検査を行い、その結果を聞きに行くためであった。いつもの二九〇号線は通らず、二〇〇四年に被災した中越地震の復旧工事によって切り開かれた旧山古志村の新道を通り、小千谷市を経由して病院に着いた。中越地震では私の民宿も少なからず被災したが、それによって建設関係者が長期間宿泊してくれたりし、結果的にあの震災が経営の危機を救ってくれたのも事実である。すでに二十六年を経過した家業の歴史を辿りたくもあり、ときおりこのルートを車で走ることがマイブームになっていた。  病院に着くと、通常のオーソドックスな心電図検査と血液検査、心臓のエコー検査をひととおり行い、自分の順番を待った。結果、脈抜けの症状はいくつか出ているものの、治療の対象にはならないとの事であり、一年二か月続いた血液の通りをよくする薬(イグザレルト)は処方されなくなった。術前の医師の説明では、半年完治率は六割で、その後の再発時に再度手術すると根治率は八割にアップされるという医師の話だったが、成功率六割の中に入ったという事なのであろうか。決して調子が良いとは言えないので、うれしいという気持ちはなかったが、一つの山は越えたのか、あるいは階段を何段か登ったのかはこの後になってみないとわからない。とりあえず肩の荷が一個だけ取り外された気がした。  会計を済ませ、病院の玄関近くのレストランで味噌チャーシュー麺大盛りを注文した。店員はわずか一名の三〇代後半くらいの女性だったが、きびきびとした応対で切り盛りし、地味な店員という仕事をまるで職人のようにこなしていた。誰もがやれそうな職種であるが、その仕事を探求し、如何に完遂していこうとする強い意志のようなものが感じられた。きっと彼女も、余分な因子として切り倒される側の杉なのかもしれないが、その所作は美的にすら見えた。医師や看護師は残される側の木であるかもしれない。しかし、それらの人種を支える人たちによって医師や看護師は成り立っているとも言える。  味噌チャーシュー麺はしかし、冷凍麺と思しき品で、決して美味いと言えるものではなかったが、そのきびきびとしたプロフェッショナルな女性店員の様が美しく、十分なトッピングに思え、それともども馳走と言えた。  午後から少し遅くなったが、一名欠員の二名の作業員と合流し打ち合わせる。混合油を給油し予備運転をする。その間に残念ながら切り倒されるべく当該木を眺め、どちらに倒すかを判断する。三本とも順調に倒したが、四本目は隣の杉の枝が大きく張り出し、それが伐倒対象木の梢に直接絡みつき、倒れる途中にストップがかかるだろうと予想された。しかし、倒すべき箇所はそこしかなく、とりあえず作業を開始した。受け口を伐り、追い口を伐り始め、楔を打ち込む。杉の大木はゆらりと傾き動き始める。が、やはり予想通り隣の大きな張り出した木の枝に阻まれて止まった。ただ焦りはなかった。受け口のつる(蝶番となった部分)のストップした側の一部を切り、そこに楔二本を重ねて打ち込んだ。かさかさっと上部の枝は動き、やがてストップをかけていた枝は離れ、つっかえ棒を失った伐倒対象木は観念したように倒れてくれた。倒れた杉はいくつかに玉切り、枝を払い、土になるための化粧をほどこす。うしなわれた命であるが、別な命のために土に還り、養分になるという使命を与えられたのだ。  午後四時、各自がもう一本という時間帯ではあったが、終わりにしようと声掛けした。あともう一本という焦りが事故につながる可能性がないとは言えない。余った時間はチェーンソーをいたわる時間にしてもいいはずだ。  どんなにきつく危険な仕事であっても、最後は笑い飛ばし、ジョークを言い合う仲間がいる。それだけでも少しは救われるのだ。   ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]紅葉狩り/山人[2020年10月26日17時47分]  2020-10-26 一〇月二十五日、三時に起床しそのまま厨房に入った。単独行者の朝食が五時だったので、余裕を持って作業するためには早起きをする必要があった。とは言っても、グリルで魚を焼き、厚焼き玉子を焼くことくらいで、あとはおかずを盛るのみだった。単独行者の登山者は儲けなど出ないが、同じ山好き同志という事もあり、話し込んだりすることがある。お客さんから、山に関する質問などを受けると喜んで応対する自分がいる。これは複数の登山グループの時には見られないことだ。複数人のグループ登山ではリーダーが存在し、その人を中心に行程や行動計画が決められる。  雨の朝だったが、単独行者は登山を決行すると言い、なるべく奥の登山口までサービス送迎した。なので利益が出るというレベルではない。  家に戻り、思案した。一〇月末から十一月頭にかけて山の冬仕舞いをしなければならない。植生保護ロープの鉄筋棒の倒伏と各箇所の道標の倒伏と保管だ。これを怠ると雪の重みで大方曲がってしまう。なので、天気も悪かったが、とりあえず守門岳のみ終わらせたいと思っていた。  自分のための握り飯を四個作り、二個はさっそく腹に収める。昨日のキノコ料理の残りや、漬物などをおかず入れに放り込み簡単な弁当を作る。汗をかき体が冷えるとまずいので着替えなど詰め込む。妻に行き先ををメールする。  しかし、厭だ。行きたくない。できることなら家でまったりし、必要な買い物や書店でCDや本などを眺めに行きたい。その誘惑に打ち勝つためにはどうするのか?方法は無いのだが、淡々とその準備をすることで諦めと覚悟が決まる。わずか一〇分ほどの登山口までの車運転時間だが、お気に入りの音源の音を大きくし、いっときの安楽を貪るのだ。  登山口は晩秋の寂寥があった。当然停車している車は無い。空は鉛色に曇り、幾分だが雨がぱらついていた。雨具を着るべきか、雨が本降りになってから雨具を着るか悩むまでもなく、あまりの気温の低さに雨具を着込む必要があった。  登りはとにかく早く山頂に着くことを意識し、周りに目もくれずひたすら登ることに集中した。登山口から山頂までの間、コースのすべてを把握してしまっているから、下を見ていても「まだ此処か」、「意外と早く此処に来たな」などと感じることができる。尾根の取り付きまで二〇分くらいで着けるかと期待したが、二十三分要した。普通はここで軽く休憩をとるところであるが、休まず登る。コースタイム短縮を意識すると息が上がり、心臓の鼓動がうるさくすら感じられる。そんな時には、歩をゆるめクールダウンしながら登る。つまり登りながら休むという方法だ。これは、ペースを緩めることで心拍数が少し下がるため、コンスタントに距離を稼げる利点がある。  見晴らしの良い、テラス状の地形まで五〇分で至ることができれば、山頂到達時間も大分短縮できるだろうと必死で登ったが、わずか数分超過してしまった。この急登でだいぶ息が上がり、ここでゆっくりしたいところであったが、思い切りペースをダウンし、引き続き登った。極端にペースを落としたため、だいぶ息は平常に戻り、心拍数も落ち着いてきた。  通常このコースは三時間コースであるが、一〇年以上前には一時間二十七分で登ったことがあった。今では当然無理だが、二時間を何とか切ることができればとの思いが強かった。それは四月末に心房細動の手術をし、先週、半年の最終チェックで医師から薬の停止を告げられ、取りあえずは放免されたという経緯があった。その健全な心臓の動きを確かめたいという欲求があった。  山頂直下には、昨晩降ったと思われる雪がところどころ登山道にこびりついていた。周りはガスで覆われ、私の荒い息が白く見えるのみだった。山頂着、一〇時〇五分、一時間五十五分かかって山頂に到着した。目標は一時間五〇分だったから、五分ロスしたという事になる。  山頂には五センチほど雪が積もり、まるで冬山のような景観だった。風は強く、とてもここで食事をすることなどできようもない。そそくさと画像を撮りこみ、植生保護ロープが括りつけてある鉄筋棒を倒伏しながら下山にかかった。途中の風の強くない灌木内で、上半身の着衣を脱ぎ着替えた。相当な寒さであったが、期外収縮の残る我が心臓は、健全に血液を送り続け、体温調整のために汗を促したのである。この寒さで二枚の肌着が汗でびっしょりになるほどの運動量を提供してくれたのだ。着替えた衣服は、心地よい幸福感を与えてくれた。  各所のロープ倒伏や道標の倒伏と格納を進めながら下ると、霧が一部切れ、紅葉のパノラマが眼前に広がってきた。鮮烈な黄、血のような赤、紅葉しない緑、白っぽい黄、ワイン色、オレンジなど、私一人のために壮大な劇場が次々と現れ始めた。月並みな感嘆符を並べ立て、その高揚感はもはや言葉では言い尽くせないほどの美しさだった。あたり一面に繰り広げられる劇場は激情となり、なにもかも許せる心境になる。将来の不安やあらゆる危惧もすべて刈り払われるような世界がそこにあるのだ。  二合目からは布引の滝へ下る周回コースを下った。最後の平らな登山道ではブナの倒木があった。何年も危険支障木という事で、道を迂回させて管理していた大木だったが、ついに力尽き地面に落ちたようだ。  車に着いてみれば、結局私は山を楽しみ、景色に心を揺さぶられ、日常の煩雑さから逃れられたのである。     ---------------------------- [自由詩]帰路/山人[2020年11月16日22時01分] 複雑な小路が入り組んだ先に ほんの小さな広場があって そこに君の住むアパートメントがある 夢しか見えない君を訪ねる 思い切り太っていて あらゆることに考えが歪曲し 君はすっかり君でなくなったけれど 帰り際 私の体調を気遣った たすけたいけれど助けられない 高速道路を追い越したり追い越されたり ちりばめられた家々のそれぞれが 痛ましく、やかましく思え 私たちの力のなさに苛ついた 高坂サービスエリアには 大きく椅子の間隔が開けられ 君の夢の途中を断ち切るように あらゆる物語が細い糸のようにもろく ゆらゆらとゆれていた 長い三国トンネルを抜けると新潟県になる かたくなに東京の夢を食む君が 帰らないと誓った新潟県は もう夕刻を迎え 私たちはまた どこにむかうのだろう ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]ブナを植える/山人[2020年11月21日8時37分]  十一月十七日、前日まで杉林の除伐を行っていたのだが、その作業をいったん中断し、ブナの植え付け作業を開始した。あらかじめ秋口に植え付け面積を刈り払っておき、そこに一・五メートル間隔でブナの稚樹を植え付ける作業である。成長が活発でないこの時期が植え付けの適期だと聞いた。面積は二十五アールほどの箇所が二か所あり、一ヵ所目はかつて砂防工事が行われた盛り土痕の場所で、表面にはプラスチックの網が施されている。刈り払い後のヨシやススキが枯れたままそこに散らばり、灌木も殴り倒されたようにとどまっている。一・五メートルのスケールを持ち、大まかに長さをはかりながら唐鍬で植え付ける。唐鍬を振るうと、ほぼもれなく木の根っこや蔓部分、石が必ず存在する。ブナ稚樹とはいっても長さが五十センチ近くあり、根っこも長い物では三十センチ近い。それがしっかり収まるためには相当の穴ぼこを掘らないといけない。掘って根っこを入れて土をかぶせ、足でしっかり踏みつけるという作業を日が暮れるまで繰り返すのだ。   私たち生産森林組合の作業は、基本的に刈り払い機がメインで二割ほどがチェーンソーである。草を刈り、芝を刈り、灌木を刈る。枝を打ち、木を伐り、玉切る。主に機械を使って作業を行うのが主だが、このように唐鍬のみを使い終日人力だけの作業は珍しい。  十七日から晴天が三日続き、記録的な季節外れの暑さであった。生き残ったガガンボのような小さな生き物がふわふわと飛び、エナガも集団であちこちの灌木の堅果を啄んでいた。着衣も三枚から二枚になり、最後は肌着一枚で作業を行った。三日かかって、ようやく二十五アールと言う僅かな面積を植え付けた。  ブナが意図的に植え付けられていることを知ったのは、森林組合に勤め始めたころであった。どこそこの現場でブナの下草刈りをやるという事で出向いたのだが、ススキがぼうぼう生い茂る中にブナの稚樹が点在しており、その周辺を刈り払うという作業だった。当時は雑草と見間違えよく誤伐した。八年前にも新たなる場所に地拵えし、ブナを植え付けたのだが、目印テープを着けず植え付け、刈り払い時期にはことごとく誤伐した。当然である。ブナの稚樹より周りの雑草の方が大きいからである。それ以来、植え付けの時点で赤テープを巻いてから植え付ける習慣が始まった。  昨年、新たに五十アールほどの荒れ地を地拵えし植え付けた。赤テープを巻き、湿気の多い、水が浮くような場所などにも精魂込めて植え付けた。一冬越し春になり、梅雨時期に一回、八月末に二回目と下草刈りを行った。目印を付けたブナ稚樹であっても、周りの草の成長が早いところは誤伐してしまうし、当然湿地のようなところに植え付けたブナはすでに枯れてしまっていた。それでも、しっかりと葉をつけて生きついてくれているブナも多くあった。  十一月二十日、別な場所へ移動し、ふたたびブナの植え付けを開始。元の地形は山岳からの崩落地で、クサソテツなどの山菜が多く出ていた場所であり、多くの巨石がたくさんある悪場だ。大まかな目印線をナイロンロープで引っ張り、植え付けを始める。下方の現場に較べると人工的なナイロン網もなく、比較的良い土のようで作業ははかどった。  昼からは残念ながら悪天となり、大雨の中植え付けを行った。老朽化した雨具はじわじわと雨水が背中に染み、ひどく不快だったが、気温は高く我慢できるレベルであった。四時少し前には薄暗くなり、早めに声掛けし現場を後にした。 あと二日ほど植え付け終了までかかるであろうか。  地味な仕事である。そして森林組合の中では最も嫌いな仕事でもある。しかし、ここのところ、毎年ブナの植え付けを行い、夏に二回の下草刈りを実施し、ブナの生存を確認する。ここは良い土ではなかったはずなのにしっかり根を張って葉っぱもつけてくれている。それがひどくうれしいのだ。そして、注意はしているものの、うっかり誤伐してしまったブナには、もう一回幹のどこからか葉っぱをつけてくれ!と祈るのだ。  向こう何年かはこうして下草を刈り、意図的に成長を促すのだ。  ここ何年か、当森林組合所有の山林から用材用の樹齢百年以上のブナが伐られ搬出されている。しかし、機械力(重機類)のない当該組合は伐り出し作業や搬出作業はできないのが大変残念ではある。  私たちが植え付けたブナの稚樹が収穫期を迎えるころ、私たちはこの世に存在しないし、話題にすら上ることもないだろう。百数十年後、ブナの大木がゆさゆさと梢を揺らし、無数の野鳥が群がり、樹幹から流れ落ちた雨水が団粒構造状の豊かな土で濾され、未来人の健康に役立つ水を提供してくれていることを願いたい。   ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]野積海水浴場/山人[2020年12月11日20時11分]  今月に入り、上司と二人だけの作業が続き、精神的に疲れていた。月火は休みだったが、あいにくの曇りと雨。家にいるのは退屈だし、出掛けた。  もうすぐ慣れた職場を離れ、あたらしい人間関係の中であたらしい職種をこなすことになる。そのことや、あらゆることが身を縛り、とても家の中に居すわることは不可能だった。とにかく月曜は海が見たかった。  弥彦スカイラインから七浦シーサイドラインに行こうと峠道を走ると、冬季閉鎖の看板が立てられていたがかまわず向かった。しかし、やはり通行止めの柵が施されていて、警備員がなにか言いたそうに誘導棒を手にこちらを凝視した。通行できなければ、何かを聞くまでもなく、そのまま広い場所でぐるりと向きを変え下った。車で走っていると、途中に弥彦登山口と言う朽ちかけた道標を見つけ、左折し車を乗り入れた。軽自動車が一台停車されており、沢筋の湿気っぽい雰囲気のある登山口だった。最短で至れるらしかったが、海には程遠く、ここは回避した。  七浦シーサイドラインに入る手前に、大きな橋を撤去する工事が行われていた。大きなコンクリートの橋台を撤去するために、河床に大型機械でボーリングし、撤去するのだろう。最近の建物や、こういった構造物の撤去工事は、元のままに還すことが義務付けられているようで、相当な予算が計上されているのだろう。  シーサイドラインを新潟方面に向かうと野積海水浴場が見えてきた。一年に一度は妻と子供たちとで訪れた海水浴場だった。私は仕事に追われていたが、順風満帆とは真逆の生活を強いられていた。それでも子供たちを喜ばせたいと向かった海だったが、車中で妻との口論を繰り返し、それを子供たちは黙って聞いていたのだった。自分の力の無さを怒り、どうしようもない心情を家族にぶつけてしまっていた。あの頃に戻ることなどできないが、過去に許しを乞うように、ときおり海を眺めに来たくなる。  海は荒れていた。海水のモンスターが岩を襲い、そしてまた海に戻るというその凄まじい圧力は、何かを思考することを忘れてしまう。ひたすらそれを見入ることで、自我を失わせ、気持ちが平坦になる。山は動かないが、海はこうしていつも壮大な動きを見せつけてくれる。  日本海の岸壁を縫うように走る、シーサイドラインの途中に、田ノ浦海水浴場のだだっ広い駐車場がある。トイレ棟があり、弥彦一帯の観光地図のパネルが掲示されている。過去に複数名でこの登山口から弥彦に至ったことがあったが、もう十六年も前の事だ。知人の案内で行ったのだが、わいわいと騒ぎ立てながらの登山であり、特にコースの概要など記憶にない。ただ、その昔銅山であったという事がうっすらと記憶にあった。十五分も車道を歩くとようやく登山道となる。沢を幾度と渡っては対岸に移り、また同じことが何度も繰り返される。  この田ノ浦コースは、春には花の時期で賑わうコースだ。幾分マイナーなコースではあるが、旬のユキワリソウ(オオミスミソウ)を求めて人があふれる。今は初冬で、草木の葉もなく、いたるところが黒や茶色といった味気ない風景が続く山道だ。そして肌寒い曇り空で、予報は時々雨。登山者は誰も居なく、一時間強歩き尾根にようやく取りついた。尾根をしばらく登ると、冬季以外は山頂直下まで車で行ける弥彦スカイラインに飛び出た。観光地の登山道には途中で車道に出ることが少なくない。車の通らない、車道をスパイク長靴だけがザリッザリッと音を立てている。単独で山を歩くことを楽しむというロマンはない。ただ、自身の生を確認し、その鼓動や息づかいを味わうということにつきる。   表参道登山道からの登山道も平日で天気も良くない事から、数人行き会ったのみであった。山頂手前九合目までロープウエーが運行され、それを利用して来たのであろうか、普段着で傘をさした夫人が山頂を後にし帰っていった。弥彦山には幾度と登っているが、山頂の鳥居前に人がいなかった記憶はなかった。賽銭箱に百円を投げ込み合掌した。人の視線を感じることもなく、多くを願った。  一時間三十五分の軽登山であったが、まったく休むことなく登り、かなり汗をかいてしまった。下山中の山道で、上半身裸になりすべて着替えた。湿気が絡みつく感覚は失せ、いくぶん皮膚と肌着が触れ合う感触が心地よい。下山は帰り道ではあるが、ゴールへと向かう登山でもある。  車のエンジンをかけ、降り始めた雨にワイパーを作動させる。車は私の行かんとするところへ向かうはずだ。何だってそうだ。行こうとするところに素直に行けばいい。普通に。なりふり構わず。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]今日からは道の駅には寄らない/山人[2021年3月15日8時07分]  昨日。朝からの雨と風で、もしかしたら最後の勤務は営業休止になるのかもしれない。と、スキー場勤務最終日を期待したが、営業休止の連絡の電話は鳴らず、今シーズン最後の道の駅で時間をつぶすことにした。三月に入った途端、県道と国道の排雪作業は一旦中断されたのか、交通誘導員の軽自動車が見られなくなった。加えて昨日は日曜日で雨。山愛好家の登山者の待ち合わせの車もない。いつものダイドーのコーヒーは私が買うのを待っていたかのように、売り切れにならず購入可となっていた。駐車場の近くの杉の木が風で少し揺れているが、さほどでもない。多少リフトの風の警告ブザーは鳴るだろうが、営業休止となることはないだろう。辛く厳しい冬だった。最後の一滴の缶コーヒーの液体を喉に落とすと、時計は七時半を指した。  昨日の営業最終日は、人員不足につき、別なペアリフトの山頂番勤務を命ぜられ単独勤務となった。みぞれ交じりの天気で、客の入りは少ないと思われたが、予想通りの入込だった。混み合う日は、頻繁に表に出て、客のレベルに合わせ減速をしたり、転倒した客は事故防止のため速やかに非常停止ボタンを押したりと、殺伐とした忙しさであるが、昨日の最終日は客足も極めて少なく、ほぼ山頂小屋に入り浸りで過ごした。  私より年配の男性が、一生懸命不整地の練習を繰り返す一方、スキーに嵌り始めたと思われる若者もそこに身を投じトライしていた。これから、まだ先のある若者と、もう先が見えている年配の男性が同じ斜面にチャレンジしている様は、何かとても新鮮で微笑ましく見えた。そこに、年配者男性の人生や若者の置かれている「今」は欠如し、ひとつの不整地斜面目掛け、そこを攻略することだけに意識が注がれているという事実だけがあった。新鮮で微笑ましいとともに、神的で、ある種の美しさをも浮き立たせていた。  暇な長い一日が終わり、社長と支配人の話があった。コロナ禍という事もあり、慰労会は実施されず、代わりに全従業員に一万円づつ一封された封筒を受け取り解散となった。重く暑苦しい、スキー場のウエアーを返却し、殻を脱ぎ捨てた気分だった。  朝、昨日までの残り香のような雪がちらついていた。長い辛い冬だったし、決して納得できる仕事内容ではなかった。でも、その時その時に私は必死に食らいつき、教えを乞い、まさに虫のように動いた。これ以上、自分に何ができただろう。一回のミスで、ずっとやらせてもらえなかった作業も今月に入り、さほど苦労なくできるようになった。このことが私にはとてもうれしく思え、それなりに自己満足を得た。もちろん上司や同僚の、私に対する評価など期待していない。それよりも自分自身への納得が唯一無二であると感じる。  今日は休み。明日からしばらく、変則的な元の職場での勤務となる。    遠い国の森のジャングルで裸のまま、ふるえながら木の袂に隠れて身を寄せていたような、あの、道の駅はもう消滅した。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]早朝の散歩から/山人[2021年5月18日6時14分]  ひどいもので、昨晩午後七時過ぎに眠くなり、そのまま朝の三時頃まで眠ってしまった。読みかけの本はわずか一ページしか読まないうちに眠りの世界へと入っていったのである。当然、朝は早くなる。尿意で目覚め、時計を見ると二時四十五分。さすがにまだ起きるわけにはいかないがとりあえずトイレに立つ。トイレを終え、そのまま眠れることもあるが、だいたいは眠れない。着替えて、朝の散歩に出ることにした。朝の散歩はここのところ一カ月以上続けているが、まだ夜が明けないうちからは初めてである。  小雨が降っている。否応なしに気持ちは沈んでいる。ずっとここ数カ月は沈みっぱなしで上昇が見込めない。でも、散歩は続ける。と決めた。闇の中でフクロウの鳴き声がする。ほ、ほほう。遠慮しがちな声が闇にまとわりつく。朝鳥はまだ鳴くことはない。するとどこからかヨタカの声がする。きっと不思議な形相でヨタカはキョキョキョと鳴いているのだ。すでに二シーズン営業を休んだスキー場のロッヂ前の急な車道を早足で登る。歩幅を大きくして一気に登ってしまおう。平らな場所に着いた時にはずいぶんと息が上がっていた。あとはだらだら下る。田植えを前にしたそれぞれの田は田打ちを終え平らにならされている。冬、膨大な雪の下敷きになっていた田の土が攪乱されてにおい立っている。土というよりも泥の香だ。この誘いこむような泥濘に若苗を埋め込むことで、稲は新たな生息地を獲得するのだ。  折り返し地点を過ぎ、道路は下り勾配となり、大原橋を渡る。過去に水害で架けなおされたが、数えきれないほど渡った橋だ。右側を歩きながら河床を眺める。昨日の雨と昨晩の雨で水量はさほどではなかったが、川底を走るように流れている。    一年経てば好転するのではないか?そう思っていた人は私だけではないだろう。昨年冬から始まったコロナ禍は最初は話のネタ程度だったが、徐々に各地へと侵入し、緊急事態宣言や自粛など、どんどん加速していった。人が病気になり、治療するために病院に行くことも憚られるのである。そして万が一、家族や自分が罹患すれば複数の人を巻き込む可能性が大きい。病気のみならず経済的な部分や人間関係などをも巻き込むこの疫病はいったい何のためにやってきたのだろうか。神が私たちに与えた試練なのだろうか。それがゆくゆく何かの足しになるというのだろうか。    川は守門川と言い、破間川と合流し、魚の川と信濃川と破間川が一体となり、信濃川として日本海へと流れる。大海のなかに流れ込んだ水は、やがて蒸散され雨をもたらす。鬱積した雲から水滴が落ち始め、大きくせり出したブナの樹冠へと降り注ぐ。葉は基部から雨水を受け取り、葉先のとがった部分で雨を集め、樹幹へと流してゆく。樹幹から根元に流れた水は団粒構造状の土の中に蓄えられ、濾され、ちろちろと山麓へと流れだす。もしかしたら過去に出会ったことのある水同士が、再び同じ場所で出会ったりすることもあるかもしれない。しかし、水はそのことを特に意識するでもなく、下方へ下方へと流れていく。そこに彼らの意志があるわけではなく、沈黙の引力によって移動しているだけなのだ。はじまりは終わりを迎えるが、終わりは終わりではない。次のステージへ向かうプロローグでもある。そのために沈んでいたままではならない。そのことはわかっている。川の水に様に、また元に戻ってこれることを祈るのみだ。 ---------------------------- [自由詩]藤の花/山人[2021年5月22日7時05分]  クジラの胃の中で溶け始めたような、そんな朝だった。朝になりきれない重い空気の中、歩き出す。歩くことに違和感はないが、いたるところが錆びついている気がする。明るい材料は特にないんだ。アスファルトの凹んだところのわずかな水たまりに目を落とす。もちろん、こんな、不毛な一人語りはどこにも行けない河原の石だ。  少し歩くと川の音が大きくなる。と同時に、鼻孔に突き刺さる芳香に心を奪われた。いたるところに絡みつく藤蔓の花の香りだ。その甘い香りに衝き動かされるものがある。いろんなものを失い、それに慣れてしまった自分が存在し、その負の安寧に包まっている自分がいる。直線的に永遠に続くかのような負の連鎖の中、それを切り裂くように、藤の花の香がいっとき私を解放した。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]緑は濃く/山人[2021年6月20日5時49分]  五月二十六日、伐採した木が跳ね、左腿を痛打した。骨折は免れたがひどい打撲に悩まされ、丸四日休んだ。その後復帰したが、膝は痛くて曲がらず、その不具合な足で、やらなければならない登山道作業や林業作業をこなし、今に至っている。皮膚下の血腫は次第に痛みがなくなり、しこりも目だたなくなってきていた。  六月十四日から週末まで、浜建設の手伝いで東京電力の鉄塔線下の刈払い作業を行った。斜度は三十度から六十度近くもある急傾斜地だ。立っていることすら難しいような斜面を灌木や草を刈り払っていく作業だ。同じ作業を五年前に手伝った経緯があったが、前回は比較的斜度の緩い現場だった。前回も補助ロープを垂らしながらチェーンソーで伐り下ろした箇所もあったが、難所は其処一ヵ所のみだった。今回はいたるところ、そんな箇所だらけだった。斜面上に立つことができない部分は、鉈やノコギリで手作業で伐った。  元請けの浜建設の人員は刈り払い機要員が一名と、現場代理人が一名。私たち森林組合従業員も六十台五名。元請けの刈り払い機要員一名は七十八才。現場代理人も七十三歳。高齢者集団が、挙って危険作業に従事している様はまさに滑稽で絵にすらなった。  私たち森林組合作業員の最高齢は、典夫氏六十九才、酒井氏六十九才、私を含む三名が六十三才である。その高齢者五名を浜建設の最高齢者七十八才の五十嵐氏は「お前さん方なんざ、まだ若い」と一蹴する。五十嵐氏が言うには、電力会社から福島県側も高齢者が多くなって山作業のやり手がなく、我々が駆り出されているのだとぼやく。俺らだって十分すぎるほど高齢者なんだがなと、豪快に笑い飛ばす。  二日目の岸壁の木の根っこにつかまりながらの手刈りによる作業。三日目の雷の鳴る大雨の中の作業。最終日の炎天下で意識が混濁してくるようなきつい労働。それが終わってから、家に着けば厨房仕事が待っていた。今月初めから始めた登山道整備と今回の送電線下作業で体中は悲鳴を上げていたが、やっと落ち着ける。あと数か所ほど、細かい登山道整備が残ってはいるが、今月末の山開きには何とか間に合うだろう。  春は某建設会社の県道の掃除の手伝い。この間も近くの建設会社の手伝い。そして今回は浜建設の手伝い。まさに老人派遣肉体労働請負人集団になってしまっているありさまだ。それはそれでまったくかまわないのだが、失われつつある体の機能を改善する特効薬はないものだろうか。まったく元気なのは、あいかわらずふてぶてしく濃くなる緑ばかりだ。    ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]掃除/山人[2021年7月8日6時58分]  数日前の日曜日、めずらしく一日中掃除をした。夏の初めと晩秋に行われる保健所の巡回のための掃除である。年に二回、保健所職員と食品衛生指導員が各営業施設を見て回る。基本的になぁなぁな巡回でしかないのだが、一九九四年十一月開業以来今までずっと受け続けている。  考えてみれば、もう二十七年になろうとしてるのだ。バカの一念と世間知らずと、短絡的で衝動買いのようなノリで始めた家業だった。妻の希望のある人生を踏み倒し、我を通した結果が今であるわけだが、それが罪だとすれば償いようがないだろう。  安いcdカセットにディスクをセットすればおおかた一時間弱で終わる。それが終わるまで各所を磨く。コンロの焦げを擦ったり、ステンレスの錆を細かい金たわしで擦ったりすると、床に錆びの汁や、焦げて散らかった鉄くずが飛び散ってしまう。掃除をしつつ、自分のまわりを拭いたりし、トロトロ作業する。いったいこんなことをやって、いつになったら終わるのだろうか。しかし、徐々にではあるがきれいになっていく。あそこが終わり、此処が終わる。そして、聞きなれた音源も最後の曲をむかえ、ディスクが終わると厨房には静寂が訪れる。あと、もう一回聞こう。そんなことを繰り返し、午後三時まで行なったが当然まだ終わらない。もう六時間も同じ掃除をやっている。いい加減飽きてくる。  休み明けの月曜日の夜明け頃、登山口の管理棟の掃除とトイレ掃除に向かうのだが、月曜の朝は何かとバタバタしなければならず、気分転換に向かうこととした。  ネズモチ平登山口の大駐車場には雨にもかかわらず、二台の車が停まっていた。ヒメサユリという花愛で登山の適期でもあり、六月下旬ごろから山は流行った。まだ七月のはじめなので、天候に関わらず人が登っているのだろう。  管理棟内の一室には、パイプ椅子が使いっぱなしであちらこちらに散乱し、床は泥や何かの生き物の死骸が踏みつぶされた痕跡があった。女子トイレにはコバエが喜んで飛び回り、ボーリングのピンのようにトイレットペーパーの芯が並べられている。なぜか、男便所にはコバエがいないという謎についてはまだよくわからないが、トイレの使用頻度の違いによるものだろう。  デッキブラシや、便器ブラシ、ホウキ、水切りなどを使い、汚れを掻き落とす。汚い場面が綺麗になる。作業が終わりを迎える時にどこか冷風のようなものが胸を通過する瞬間がある。それが達成感などと呼ばれる俗っぽい感情なのだろう。用具置き場の鍵を締め車に乗り込む。なにか、ぼそぼそと独り言を言ったような記憶があるが、どんなことをしゃべったのか覚えていない。  浅草岳の二重遭難事故で四名の方々がブロック雪崩で死亡したのが、二〇〇〇年の事だった。現在の大駐車場からさらに数キロ上まで当時車で入ることができ、多くの登山者たちの車が狭い林道ごった返し、いつ事故が起きてもおかしくない状態だったころの事故である。以降、そういう意味合いも含め、雪崩崩落事故付近まで許可なく車乗り入れができないように、数年後ゲートが設けられ、その手前に大駐車場とトイレ付管理棟施設が建設された。その管理は地元民宿旅館組合に委託され、私が即行に手を上げたという経緯がある。その建設は二〇〇一年にすべて完成し、二〇〇二年から解放されたと記憶している。以来、足しげくこの登山口に通い、今に至っている。掃除は管理棟掃除だけにとどまらず、二つの山の管理や除草も行う。山全体を掃除しているのかもしれない。  家に帰り、ふたたび掃除の続きを行った。cdを交換し、主に拭き掃除をした。私の厨房は十五畳あり、狭い宿ながら厨房の広さだけは他宿に負けていなかった。これは開業からしばらくは、手打ち蕎麦店もやっていたからであり、厨房の一角に巨大な?打ち台が居すわっているのだ。この台は滅多に使うことがなく、最近はモノ置き場になっている。麺打ち台の下のスペースも物入になっていて、いろんなものが雑多に押し込まれている。掃除をしつつ、不要なものを捨てたり、探していたものが見つかったりする。掃除は好きではないが、そこから得られるものは少なくない。  おおかたの掃除が終わり、記録簿の記入作業を行った。食品賠償共済に入った証明、食品衛生協会講習会出席実績、検便の実施、冷蔵庫や冷凍庫の温度管理、各所の掃除や手洗いの有無、食材の管理状況など、すべて〇をつけまくって終了。これらの記録簿を開示することが義務付けられた。これら保健所関係のほか、年一回は消防署の立ち入り検査も行われ、そこで不備なものは適宜改善しなければならない。  法は緩むことはなく、どんどん加速される。規制を厳しくする部分、緩和する部分、色んな思惑がごった煮のようになってしまっている。先のことはわからない。偉い人の思惑など知ったとしても弱者に如何こうできるものではない。とりあえず、明日のためにやれと言われたことをやるしかないのだろう。やれないわけではないのだから。    ---------------------------- [自由詩]七月の雨/山人[2021年7月11日5時50分]  山域は乳白色となり、雨粒が地面を叩く音が、朝未明から始まった。決まって七月は、雨が多いと、誰彼なく言うのだった。  雨が満ちてくる。体の中にも脳内にも、まるで人体は海のように静まり、宇宙のように孤独になる。  半眠りの意識の中、タオルケットの感触が心地よくて、そして柔らかく寝返りを打てば、雨音が骨まで入り込む。私という人体模型は、雨を歓迎しているのだろうか。  七月は、どこか物悲しい。半袖に突き出た二の腕のまとわりつく湿気が、ニイニイゼミをよぶ。  空は粘っこく泡立ち、息を止めている。 どうか、助けてください、 声にならない声が小窓から出ることなく停滞している。  七月は、湿り気で飽和され、落としこまれた安寧が発酵し始める。ぶつぶつと菌が活動をし始め、巨大な入道雲を、埃っぽい陽向のにおいを、待っている気がする。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]夏はもう秋/山人[2021年7月20日5時57分]  ヒグラシが鳴きはじめ、アブラゼミからミンミンゼミと蝉の声は種類を増し、最終的にはミンミンゼミが最後となる。里では秋に鳴くツクツクホウシなどがあるが、こちらではあまり聞かない。また、これから八月の声を聞くと、イヨシロオビアブ(通称 メジロアブ)が獰猛に集ってくる季節だ。衣服の上からでも頭を皮膚にこじ入れ、口を突き刺し血液を貪り飲む。アシナガバチの営巣も見られるようになった。  野のススキも膨らみを増し、ヒヨドリバナ(ヨツバヒヨドリ)も花をつけている。これから咲くクズもフルーツに似た芳香を放ち、虫をよぶことだろう。  先週から開始された県道除草は刻々と進んでいる。この作業は元請けではないため、一日のうち何度も元請けが来て作業写真を撮る。刈り払い機二台を前に配置し、三番目と四番目に熊手だの鎌だのを持ち、草を弄っているという図柄だ。加えて、それらの作業員の安全や、交通を阻害しないために、誘導棒を持った交通誘導員を一人配置する。それらの作業写真を一日三回ほど現場監督が撮りにやってくる。その都度、持ち場を離れて画像を撮りたい場所に集合させられ、実に面倒くさい。  県道の草刈りは、アスファルト端から八〇センチ刈り、側溝があればその外側を八〇センチ刈る。また道路わきの側溝の隣が傾斜していれば、その分高く刈らなければならない。そしてもちろん、刈り払われた草や側溝の中に入った草はきれいに除去しなければならず、刈る時間の二倍から三倍の時間を要する。写真では、刈る人、片づける人、誘導する人という建前ではあるが、我々は自分の持ち場は自分で刈って片付けるというスタンスでずっとやっている。刈払いに飽きると片づけるというスタンスは、肉体的にも酷暑の中では効率的だ。   数年前、河川除草で水だけをがぶ飲みし、家に帰ってからビールの大瓶を二本空け、エアコンをガンガン利かせてパンツ一丁で寛いでいた時にそれは起こった。体を動かした途端、いきなり足全体の痙攣が起こり、背中やあちこちが攣ってしまい激痛となったことがあった。幸い妻にその心得があったらしく、蒸しタオルで温湿布をしてもらい、事無きを得たことがあった。以降、酷暑の時には必ず梅干を小瓶に詰めて持ち歩くようになったのである。また、昨年は盆明けから極めて暑い日が数日続き、期外収縮も多く発生した。ごまかしごまかし刈り払いを続け、三十分ごとにキンカンを体に塗布し皮膚を冷やした。加えて昨年は、ユキツバキが大量のチャドクガの幼虫に食害され、私たちも漏れなく刺され、全身痒みと湿疹に明け暮れたのである。   まさに命の危険にさらされる日々ではあるが、何の能力もない私に何ができるというのだろう。せいぜいこんなことくらいだ。仮になにかの技術が多少あったとしても、六十を越えた人間を戦力として見てくれる会社は稀だ。ただ、こんな危険で体力の限界を彷徨うような場面ではニーズが無いことはない。そこにしがみつけるだけマシという事だ。  九月になれば多少暑さは緩和されるだろう。しかし私には九月の個人的な登山道除草が待っている。土日と苦行を行い、平日はきつい山林労働で体を休めるというナンセンスな日々が続く。しかし、それをやらないと生活できない。まさに命を削りながら生き続けるというおかしな話だ。そんな中でも夜明けの雲海や、沈みゆく赤い稜線、夜の山道に飛び交う生き物達や忍び鳴くカエルの声、下界の集落の灯り、いろどりを開始した樹林帯の紅葉。そんな場面に出会うと、悪くはないと思うのだ。逆にそれしかないだろうすら思えてくる。   ---------------------------- [自由詩]きりとられた残像/山人[2021年7月24日5時33分] 遠くに見えるのは 幼子の手をひいた二人の影 エノコログサを君の鼻にくすぐれば ころころと笑い 秋の残照に解きはなされた 浜茶屋のまずいラーメンをすすり それぞれの砂粒が肌に残り それをそっと落とす 三つの幼い笑顔と私たち 未来さえ見えない、ゆく先々で 笑顔すら凍らせながら 私たちは泥の中を泳ぎ続けた 夏のかなしさはいつも訪れる 鳴き疲れたセミは私で 虚空を食べるホオジロは君 もどることができない あのころの夏 きりとられた残像が痛む ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]休養/山人[2021年8月1日7時59分]  もう無理はできないな、と最近感じる。年々、暑さが身に沁みて体を痛めつけているのが解る。昔はそうではなかった、というのは誰もいずれは知ることである。私も老いつつあるという事なのだろう。  三週前から開始された県道除草も、おおかた目途はついた。草丈はもちろん、作業車道の延長もあって、作業効率は悪かったと言えよう。昨年は、まだ梅雨明けもせず、気温も高くなく、わずかながら捗った。今年は梅雨明けも早く、異常な暑さに無理が利かなかった。  連日の午後からの日照は堪えた。三十五度近い直射日光の下で刈り払い機を振り回す。いったいどれだけの水分が失われたのかと、下着を脱いで搾ってみればアスファルトにはおびただしい汗がびしゃびしゃと落ちていく。汗が出るだけまだマシなのだ。まだ、体は汗を出すことで体温を調整してくれている、という事だ。  昨日、土曜は県道除草から一旦離れ、少人数での薪づくりの伐採と造材の仕事があった。今の時期のチェーンソー仕事は刈り払い機よりも疲労度が強い。重いチェーンソーを持つだけで体力は消耗され、汗も多く出る。木を伐るという、やや緊張度の高い作業そのものは気を張っているせいかさほど苦にならないが、伐った後の造材の仕事で一気に疲労度が増す。昨日、一昨日と一瞬立ち眩みのような症状に見舞われ、声の枯れと耳の異常も認められた。また、帰ってからのそこらじゅうの軽いこむら返りもあった。あとで調べると、すべて塩分摂取不足のようだったが、作業中は水と共に梅干しも食べ、塩分摂取も欠かさないようにしていた。だが、まだ摂取量が足りなかったのだろうか。   我慢できず、日陰で休むのだが、シャツは川から服を着たまま上がったかのようにずぶ濡れ状態だ。休んでいても、手の甲からは汗が噴出し続け、額から地面に汗がぼたぼた落下し続けた。そんな中、アブたちは盛んに美味しい獲物に群がるかのように、私の汗もろとも吸いながら、着衣もろとも頭を押し付け口を皮膚に差し込む。汗と熱疲労でグダグダになっていつつも、その痛みに耐えることはできない。バシッ。背中に手の平で打ってみるが、アブは平然と逃げていく。しかしながらだ。同僚と笑い話の中でよく言い合う事だが、虫はとにかく暑さに強い。アリはもとより、こういったアブや蝶、甲虫類。暑さに強いのではなく、むしろ快適ですらあり、活動しやすい時期なのだろう。蝶など、のんきに手の甲の汗を飲んでいる。そんな、虫たちの営みを眺めながら再び水を飲む頃、次第に体温は下がり、汗も収まってくる。そのタイミングで作業再開となる。  今日も単独で請け負っている除草作業に行くべきかと軽く悩んだが、体は一方的に拒否していた。止めとけと。  外ではキリギリスの類と、エゾゼミだろうか、とにかくあまりうるさくない程度に鳴いているのだが、残酷なほど聞きなれた音だったりする。そこに時折ホオジロが凡庸な鳴き声を散らしているのだが、それが痛い。  今日は、温厚な私の体内都市が育まれているのだろうか。できれば一日くらい汗を流さない日があってもいいだろう。君らもたまには鳴くのをやめたらどうなんだ? ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]山の中の孤独/山人[2021年8月17日21時27分]  八月十五日、登山道の除草を開始した。四カ所の登山道コースを一人で受け持っている。トータル十日以上はかかるだろう。  人は「大変ですね」と言う。しかし、大変なことなど何一つない。思い悩むことはないし、他者に頭を下げる必要もない。上司の顔色をうかがう必要もない。重い荷を背負い、所定位置から草を刈り始めるだけで良いし、ゴールまで刈ればよいだけだ。  何が厭かと言えば、孤独の中にいると言うことだろう。朝、車に乗り込む瞬間から孤独は始まる。現場に着き、それぞれの道具ですらも孤独であり、孤独一式を一個のザックに詰め込んで歩きはじめる。スパイク長靴のザリッという摩擦音ですら孤独を演出してくれる。  単調な作業は、頭の中に様々な思考を呼ぶ。脳とは勝手なものだ。何か特定のものについて、思考しようとしなくても、勝手に次から次へ出てくる。掛け流し温泉のように次から次へと湧き出てくる。思考は止まることがない。脳とは誰なのか?ろくな機能しかないのに、こんな時だけせっせと働く、ふざけた脳だ。私の孤独を慰めるために、脳は何かをわざわざ思考させるというのか。ご苦労なことだがいい加減うんざりしてくる。  さっきからどれだけ働いているのだろう。単調なエンジン音と背中のザックの重みが脳内を粘る。腕時計を見る。未だ一時間半しか作業していない。あと三〇分頑張る。二時間。刈り払い機とベルト、ザックを投げ下ろし、濁音の入った声で息を吐く。ヘルメット、虫除けおよび防塵ネットを取り、薄くなった頭髪を掻き上げる。防水手帳に作業記録を書く。喉を鳴らしながら水を飲む。  こんな貴重なくつろぎの瞬間に害虫は吸血しに来る。一匹のアブを仕留める。ブチッと頭部の破壊を知らせる音とともに、アブは絶命する。自らの生命を顧みず、害虫は玉砕覚悟で吸血しにやってきている。生命の危機と言うよりも、本能。それはどうしようもない勝手な思考を増産する私の脳にも似ている。少なくとも私はアブに産まれてこなかっただけましなのだろうか?それと引き換えに孤独を味わえというのだろうか。  私の作業を監督する者も、指示する者もいない。しかし、休憩を済ませた私には、再び作業を行えと私が指令する。装備を整え、またはじめるか、と私に言う。  作業を終え、道具とガタガタな体を運転席に投げ出し、車を運転するときに、私の孤独は解放される。唇からゆるい吐露が流れ出て、それが疲れ切った私の全身をマッサージする。 ---------------------------- [自由詩]晩夏/山人[2021年8月25日20時28分] 失われつつある夏の日差しをむさぼるように 虫はうるさく徘徊し最後の狂いに没頭する 夏の影は次第にゆがみながら背骨を伸ばし 次の季節の形を決めてゆく 夏、それは誰もが少年であり、少女であった 切ない疼きのようなものが春を知らせれば 夏はそれはあらゆるものを開花させていた季節 まなざしは汗でひかり それを晩夏の風がさらう みんなが生きた夏 夏は終わるという 古い砂防堰堤の濁った水の上を 水鳥たちはいっとき憩い 葦の生い茂る闇から力強い羽ばたきで飛び立つ 研ぎ澄まされた諦めの瞬間 やさしく晩夏は けなげに時を潤した ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]雲海/山人[2021年9月27日19時28分]  九月十九日、登山道除草九日目。先月中旬から土日を狙い、作業は遅々ではあるが進んでいた。  未だ暗い早朝、ヘッドランプを点けて準備をする。ときおり、行楽に向かうのか県境トンネルの中を疾走する車たちをうらやむ私がいる。いつものことながら、こんなことをしなければならない境遇を呪う。  県境尾根から刈り払い機を担ぎ、歩き出す。暗い山道をヘッドランプで照らせば、朝露がふるふると跳ねるようにひかり、ヤマアカガエルの幼生がびっくりして跳ねていく。ときおり、光を求めて小さい蛾が寄ってくるが、さほど多くはない。闇は次第に薄れ、灯りがなくても歩けるようになる。  県境尾根登山道は、途中まで送電線の巡視路となっており、そこの部分は登山道除草は除地となっている。なので対象部分の登山道まで刈り払い機を担ぎ、ひたすら登ることになる。その間、山道は九十九折りとなっていて、さして急ではないが、開けた場所に行くまでの間はひたすら我慢の登りとなる。なにを考えるでもなく、いつの間には体は暑くなり、汗の雫が落ち始める。それをひたすら数える。開けた場所に行くまでに、どのくらいの雫を地面に落とすのだろうか。たぶん、百は行くだろう。実に下らないことだが、そんなことを楽しみながら、いわば苦しみを楽しむ術とでも言おうか、変態的とも言えよう。汗はおそらく眉に集まり、そこからその都度落下していくのだが、起伏のある所では、連続で汗粒が落下することがある。そんな時には、なんだかちょっとうれしいような、得したような気分になる。そんな苦行の中の楽しみ方も工夫すればないわけではない。  十日目、九月二十日、前日の作業地に刈り払い機はデポしてあり、作業の荷物だけを背負っての県境登山口スタートであった。前日の作業現場まで二時間半は掛かる。四時過ぎから歩き出す。気温は高くなると思い、水は二リットルにしたし、燃料も十分持った。ゆえに荷は軽くはない。  早朝に登り始めるのには二つの理由があった。一つはもちろん早めに行って早めに作業を開始し、日の暮れないうちに帰路に着くという事である。もう一つは最初の樹林帯を登り切ると電力会社の反射板があるのだが、そこから眺める福島県側の町並みに雲海が発生するのである。 十一日目、九月二十五日、この日は約三時間の作業で終わる予定であったが、そこまではきつい登りの連続であり、作業開始時にはすでに疲労困憊となっていた。しかし、刈払い機は従順に活動を開始し、まるでそのマシンに操られているかのように私の体は自動筆記のように動いていて、ぐいぐい刈り進むことができた。  二時間四十五分刈り、すべて終了となった。  雲海の事だが、九月二十日は見事な雲海だった。そして二十一日も稜線を流れる様は心をとらえた。  日々の怒りや、不条理を呪う気持ちが一瞬だけすべて消えてしまう瞬間だ。そんな時、私はいつも少年になる。 https://www.facebook.com/photo/?fbid=1961865953975930&set=pcb.1961866827309176 ---------------------------- [自由詩]山道/山人[2021年10月18日6時05分] 不思議であった 私の前にはいつも道があって そこをしずしずと歩いている ホウの葉とサワグルミの、落葉の上を ソフトに足を進めている まったくなんの期待もない山旅に向かったのだった ただ、歩く どちらかと言えば不毛でもあり、無益でもあった しかし、それは義務ですらあり、運命だった 山道はとにかく、私が歩くのをやめるまで続くのだった 誰も居ない、孤独な山道には いくつもの熊の糞が置かれていて 巨獣はそこで吐息を漏らしたことだろう 奇声を上げて私の存在を知らせる 漆黒の山の主はおだやかに瞑想を続けていたのかもしれない 泥濘を歩き、沢を何回も越え とても私の足は疲れ始めていた どこにも行けない、ぬるま湯のような感情が 消えそうな炎を呈して私の眉間にとどまっている 時代がのそりと動き始めているのだ どうか私を置いていかないでくれ やがて滑稽なアスファルトの車道が見えてきたのだった ---------------------------- (ファイルの終わり)