只野亜峰 2011年11月20日4時44分から2012年8月7日12時13分まで ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]歌謡曲日和 -あさき 赤い鈴-/只野亜峰[2011年11月20日4時44分]  さて、一日ぶりの歌謡曲日和となります今日この頃ですが皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕と言えばOSをクリーンインストールするついでに7にするからついでにパーティッション分割を元に戻そうなんて余計な事を考え付いたのが発端となってデータ退避する場所を勘違いしたまま多くのテキストデータを失い、面白画像を失いでとてもアンニュイな気分の毎日であります。さてさて、今回の歌謡曲日和はちょっと前回までとは趣向を変えて『あさき』という知る人ぞ知る感じの若干オタッキーな感じのアーティストを紹介していこうかななんて思ったりもするのですが、なにぶん信奉者の多い方ですので往年のファンの方々の心情を逆撫でしないように戦々恐々たる思いでキーボードを叩いていこうかなんて思います。  僕があさきというアーティストに興味を持ったのはゲームセンターに通いつめるような熱心な音ゲーマーの人達からすとずいぶん遅いもので、ちょうど何年か前にjubeatというキューブ型の箱々しい形をしたアーケードゲームが登場した頃の事で、わりとミーハーな僕はホイホイと釣られてポコポコとjubeatを叩いて遊んでいたわけですが、その中で印象に残ったのが『凛として咲く花の如く』という曲であったりしたわけです。当時あさきという固有名詞は知っていても「コナミの音ゲーシリーズにビジュアル系っぽい人がいる」ぐらいにしか認識してなかった僕にとっては、ですから華やかな感じの凛として咲く花の如くの作詞があさきであると知ったときはわりと驚いたりもしたものでした。  興味を持つと見え方も変ってくるもので、古臭いビジュアル系にしか聞こえていなかった具体的に言うと『この子の七つのお祝いに』であるとか『月光蝶』であるとかがなかなかどうして魅力的に聞こえてくるものですから人の耳というのは実にいいかげんなものです。まぁ、基本的に音楽的にはヴィジュアル系のそれなので全く間違いではないのですけれどね。  僕の勝手なイメージですけれど、ヴィジュアル系の歌詞というのは物凄く刺激的にできていると思うのですよね。それこそカチ盛りの山葵の上に七味唐辛子ふんだんに盛り付けてあるような食べ物というよりは劇薬のそれに近い。厨二病なんて揶揄されるのがぴったりの難語と暴力的な攻撃性で取り繕った新宿のギャル男みたいな得体の知れない不気味さがあって、刺激を求めるタイプのうら若き乙女の人達にはそういう危なっかしさが魅力的に映るんだろうかなんて思ったりもするわけですが、僕としては自分のメンヘラ全面アピールしてるメンズとかはなかなか興味の範疇外なのでいまいち良さがわからなかったりもするのですが、そんな僕が何故にあさきなんていうアーティストにのめり込んでしまったかと言えばそれは凛として咲く花の如くの一枚絵の女の子が可愛かったからに他ならないわけで、まぁ野郎の脳味噌なんてものはしょせんその程度の単純な構造で成り立っているに過ぎないわけです。  さてさて暇つぶしにだらだらと書いているせいで話がなかなか地につきませんが、そんなこんなであさきという人の作品を聞き込んでいくうちにすっかり憑かれてしまった僕は難解であると定評のある彼の歌詞の一言一句にまで興味を広げていくハメになるわけです。そうやって段々とあさき節に対する感度を上げて聞き込んでいくと実に彼の曲というのは面白く聞こえてくるのですよね。まぁ、これはギミックに富んだ技巧的な歌詞に楽しさを見出さずにいられない僕の性癖のようなものですから一概に人に薦められるものではないというのがちょっと残念ではありますが。ジャンル的にもなかなかオタッキーですし。  普段常用しない難語やアクの強い言葉というのは確かに無軌道に羅列させていくだけでも結構カッコいいんですよねこれがまた。でも容易く得られるからこそ簡単に毒にも成り得るわけで、全身ギンギラギンに宝石纏った香水むんむんの中年叔母さんに魅力を感じる人はあまりいないでしょうけれども、僕がビジュアル系的なものが好きじゃない理由にはそういう過剰装飾的な部分もあったりするわけです。あさきの歌詞というのも例に漏れず全身小林幸子と言わんばかりの毒々しい言葉で埋め尽くされているのですが、なかなかどうしてそれが綺麗に組みあがっていたりするもので個人的にはなかなか魅力な書き手であるなと思ったりもするわけです。  さてさて、そんなあさきの数ある曲の中でも赤い鈴という曲は結構異端児である印象があります。まぁ、正直なところギタドラのドラム赤とか最後までプレイできた事があんまり無いんですが、薄暗かったり禍々しかったりする曲が多いあさき作品の中では数少ない軽快さを兼ね備えた楽曲であるような気がします。まぁ、歌詞は結局暗いんですけどね。赤い鈴が何を表すのかという考察をされてるサイトなんかだと彼女の首吊り腐乱死体であるなんていう怖い解釈が結構あって、皆良い感じに病んでるので見てて面白かったりもするんですが、今回はあえてそんな流れに反逆して面白解釈でもしていきたいと思いますが、敬虔なるあさき信奉者の方々はかような読み方もあるのかと思って頂ければこれ幸いでございます。  長い前フリでしたがようやく本題に入れますね。本題というのは幸せなものです。『赤い鈴』作中で繰り返し語られる『鈴の音』もきっとそんな幸せを象徴する音色であったのかもしれません。錆色というものが赤みを帯びた茶色で表現されるように、錆というものはわりかし赤みを帯びた色として存在していたりします。かつては幸せを奏でていた小さな鈴。赤く錆び付いてしまった鈴はもう美しい音色を奏でる事は無い。今回はそんな世知辛い話をお届けします。  あさきの作品には野口雨情のテイストが結構詰まっていて、例えば月光蝶の『シャボン玉』というフレーズは雨情作品の中でもあまりにも有名なあの歌を思い浮かべさせますし、『この子の七つのお祝いに』は『七つの子』が思い浮かんだりは……あんまりしないですが、『赤い鈴』というタイトルで思い浮かぶ雨情の作品と言えばやはり『赤い靴』だったりするわけです。異人さんに連れられて行ってしまった少女の事を歌った童謡ですね。考えてみれば赤い鈴のビデオクリップで主人公であるスネオヘアーな少年の手を引いているジェントルマンの図はどことなく異人さんに連れて行かれてしまった少女を連想させます。 赤い靴(くつ) はいてた 女の子 異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった 横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って 異人さんに つれられて 行っちゃった 今では 青い目に なっちゃって 異人さんの お国に いるんだろう 赤い靴 見るたび 考える 異人さんに 逢(あ)うたび 考える  詩の解釈にまつわる議論なんてものは今も昔もあるようで、雨情の『赤い靴』も特定の個人をモデルとした作品であるという解釈が真しやかに語られ、一時期はその解釈が定説にまでのぼりつめたようですが、その後に『定説』に対する批判が起きたり、雨情の親族から実在のモデルはいないという主張がされたり、いやこの詩は社会主義的ユートピア運動の挫折と解するべきだなんていうトンデモ理論まで出てきてすぎやまこういちが憤慨したりとなかなか落ち着かない周辺事情があったりするわけですが、雨情の没後に発見された草稿にこんな続きがあったなんていう逸話もあったりしますね。   生まれた 日本が 恋しくば 青い海眺めて ゐるんだらう(いるんだろう) 異人さんに たのんで 帰って来(こ)  素直に読めば少年視点での少女との別れを描いたこの詩は過不足なく少年の心情を描ききってる作品で、少女が異人さんに連れられていってしまった理由に対する言及も無いですし、少女が去ってしまった現実と少女も異人さんのような青い目になってしまったんだろうかという子供らしい想像が粛々と描かれていますね。しかしながら五番の詩をここに当てはめるとずいぶんと印象が変わります。  『青い目になっちゃって』という描写はもちろん現実にそんな事はありえないのですが、例えばそれが文化的な価値観であったりとかに読み替えると異国というのは現在よりも当時は隔たりのあった場所でしょうから、日本の事を忘れて知らない異国の地でその国の女の子として生きているのだろうかという少年らしい言葉での寂しさの片鱗を垣間見る事もできるのですが、五番では『故郷が恋しいのだろうから異人さんに頼んで帰っておいで』という呼びかけに発展してるわけです。この草稿の五番部分は『幻の五番』なんていう風に読者の中で愛されたり愛されなかったりしていますが、肝心の草稿が雨情の没後に発見されているものですから、どういった理由で世に出なかったのかというのは雨情のみぞ知るといったところでしょうか。  しかしながらこの草稿は雨情自ら没にしたんじゃないかとも思えます。第一に色の対比がありますね。『赤い靴』をはいていた日本に住んでいた女の子が異国に行き『青い目』になってしまったという構図の中で『赤』と『青』が上手く作用しているのですが、ここで日本と異国の間にある海を『青』と表現してしまう事によってこの対比が曖昧になってしまうのですよね。なにより五番を書くことによって少年の心情を描いていたはずの作品が少女への呼びかけへと意義を変えてしまう事を雨情は恐れたのではないでしょうか。四番目までであえて筆を止めることによって特異な意義を持たせる事なく少年の心情を描ききる事に徹底したからこそ五番の詩は世に出る事無く姿を消したのかもしれません。  けれども五番が全くの没であるかと言うとそんな事はなく、この五番が幻と消えたからこそ見えてくる『赤い靴』の姿というのもあったりします。当然ながら三番で歌われる少女の姿と五番で歌われる少女の姿というのは相反するものですね。三番では『青い目になって』つまり日本の事など忘れて異国の一員としてすっかり定着している少女の姿が想われていますが、五番では生まれた日本を恋しさに海を眺める少女の姿が描かれています。ああ、そうか。だからこそ『青い目』という描かれ方をされてる可能性もあるのかもしれませんね。異国に定着して異人さんの一人になってしまったから『青い目』になってしまった少女と、日本恋しさに眺めた海の青が瞳に映りこんでいる少女という二つの相反する少女の姿が少年の中にあるわけです。これはもうシュレディンガーの猫ちゃんよろしく日本に留まっている少年には確かめようの無い事なわけですが、この相反する少女の姿こそがこの作品の肝と言ってもいいかもしれません。  生まれた日本恋しさに海を眺める少女の姿に描かれる『生まれた日本』という言葉の中には無意識に少年自身の事も内包されているのかもしれません。つまり五番で描かれている少年の心情というのは物凄く噛み砕いて纏めると『外国にいてもつまらないだろうし異人さんに頼んで帰ってきてまた遊ぼうよ!』という物凄い楽観的な感性と、それが容易に叶わない事を子供ながらに感じ取っているアンニュイな子供心という事になるわけですね。  しかしながら、この五番の存在があるからこそ三番の詩というのは深みを増していくわけです。五番で描かれる少女の姿というのはある意味、少年の中でこうあって欲しい少女像であるわけですね。少女のいなくなってしまった風景に寂しさを覚えている少年と同様に、少女もまた日本を恋しく思って寂しがっているはずであるという風に。  そう思いながらも少年は『青い目になっちゃた少女』の存在、つまり少年も含めた日本の事など忘れて異国の一員として何事も無かったかのように日々を過ごしている少女の姿というものも同時に予感しているわけですね。けれど、これは五番で歌われている少年の淡い期待を裏切る姿でもあるわけです。結局五番まで描かれる事は無かったわけですけれども、詩の先に五番の歌詞を見通すと少年の心情というものが少し深みを増していくように思います。もっとも、それを描ききってしまえば今度は生々しい葛藤が強調され過ぎてしまって童謡には似つかわしくなくなってしまいますし、結局のところ幻の五番は幻であるからこそ意義を成していくのかもしれません。  さて、そろそろ閑話休題といきましょう。一体全体何故にあさきがこの『赤い靴』をモチーフにして『赤い鈴』という物語を書き上げたのか。そこにはやはり原題の『赤い靴』では濁された生々しい葛藤に対するアプローチがあったのではないかと思うわけです。つまり、自分の元に帰ってくる筈だという期待と自分の知らない場所で何事も無かったかのように過ごしているのではないかという失望の葛藤に対するアプローチですね。男女の関係というものはこの辺りを描くのに際して実に生々しく作用してくれるものですからあさきの目論見はそういった意味でも面白く思います。  異人さんに連れ去られてしまった青年を想い、少女は葛藤するわけですね。『私のことが愛しいのであれば彼は帰ってくる筈だ!』と。その嗚咽は『本当は私が必要ではなくなったのかもしれない』という失望が増すほどに、それをかき消すように強くなっていくわけです。  『赤い鈴』の主人公とヒロインというのを世間一般的な追って追われてという関係に当てはめるとしっくりくるわけですね。追いかれられる彼女を追う彼という狩猟本能万歳な関係性。たぶん彼も男の子ですから追うのは好きでしょうし、彼女は彼女で彼に飽きられないために刺激的であろうとした部分もあったんじゃないかなんて思ったりもするわけですが、野郎のメンタルなんていうのは女性のそれと違って紙よりも薄っぺらいので強い刺激に長期間耐えられるようにはできていなかったりするわけですね。こうなってしまった場合に野郎という生き物がどうなってしまうかと言うと、それでもしばらくは手放したくないもんですから彼女の事を追いかけるわけですね。けれども喩えるならそれはゴールの見えないフルマラソンをさせられてるようなもんですからいずれ破綻してしまうわけです。どんなに屈強な石橋だって叩き続ければいずれ壊れてしまいますね。  それが『僕は本当は必要とされていないのではないだろうか』という迷妄になり、吐き気さえ覚える能面のような笑顔になったりするわけですね。でも彼女はそれでもキャッキャウフフの追いかけっこを楽しんでいるつもりなので、彼の葛藤など知るわけもないわけです。だから自分に向けられる笑顔に安堵してどんどん先へと行ってしまう。もう追いかける気力を失ってしまった彼はそこで心底萎えてしまったわけですね。彼の目には彼女の背中に自分を取って食おうとする化物が見えていたかもしれませんし、一人で気ままに生きていく人生というのがいくらかマシに見えたのかもしれません。彼の恋は一度ここで大きな転換を迎えます。俗に言うところの「距離を取る」という奴で、自然消滅一歩手前の破局リーチといってもいい感じの試みだったのですが、彼にとってはクールタイムでもあり賭けでもあったわけです。そこで彼女が自分を追いかけてきたなら万々歳。よしんば追いかけてこなくても時間を置きさえすれば持ち直せるという冷静なんだかリスキーなんだか混乱しているんだかよくわからない迷走で、野郎というのはつくづくお馬鹿な生き物であるというのは今更語るほどでもないのですが、彼女にとっては何が起きてるかさっぱりわからないわけです。  昨日まで仲むつまじく追いかけっこをしていた相手が今日になって突然止めると言い出したという事件は、彼女にとっては冗談のようにも聞こえたでしょうし、そうでないのならきっと自分とは関係の無い特別な一時的な事情があるのだろうと思ったのかもしれません。なにしろこの時点で彼女の中の鬼ごっこは終わってないわけですね。「鬼さんこちら手のなるほうへ」と彼を引き寄せていた彼女の恋は依然として幸せの音色を奏でているわけです。彼の心が離れていくのを見えないふりをしながらという形になるわけですけれども。  とろころが鈍さに定評のある彼女もいい加減自分が捨てられた事を悟るわけですね。けれどもそれを認めようとはしない。彼はそんな彼女の姿を遠巻きに見ながらも距離を置き続けるわけです。彼にとっては二人の関係を継続する上で必要な通過儀礼としての冷却期間だったのでしょうけども、彼女にとっては違ったわけです。わけもわからずある日突然捨てられた彼女の心もまた疲弊に疲弊を重ね、「彼はきっと自分の元に帰ってくる」という幻想を保てなくなるほどに磨耗してある日突然擦り切れてしまうわけですね。そんな彼女の近況など知らない彼は「そろそろ良いだろう!」みたいな感じでのこのこ彼女の元へ戻っていくわけです。ところがどっこいそこで彼が目にしたものは……!  これが大まかな『赤い鈴』の物語であるのかと思います。抜けた言い方で収めるのであれば「男女のすれ違い」がテーマであると言いましょうか、男女は分かり合えないんだからちゃんと話し合いましょうね的な教訓と言いましょうか、ままならないのが男女であり男女の面白さでもあるわけで何とも言えない感じであります。  非常に穿った見方をするならば、彼女の部屋に駆けつけた彼の聞いた「鈴の音」というのは、ともすれば彼との関係に終止符を打った彼女が迎えた新しい男との営みで生まれた嬌声である。なんていう見方もできるわけですが、あんまりに生々しいのでやっぱり首吊り死体で良い気がしてきました。まったくもって世の中ネトラレばかりで困ったもんです。あさきよあなたもか。  そんなこんなで後半だれてきたのでちょっと走り気味に纏めてしまいましたが需要があったらどうしてこう読み取れるのかみたいな事もやってみようかと思いますが需要なんて無いので安心して酔っ払って寝ることができます。幸せ。  それではこれにて閉幕といきます。そろそろ朝日が昇りそうなマジで学校の怪談タイムになる10分前の酔いどれ空間より私、只野亜峰がお届けしました。たまにはゲームセンターで汗かきながら音ゲーに興ずるのも悪くないかもしれませんね。それではまたいずれどこかの街角で。 ---------------------------- [自由詩]酔わせておくれよジャックダニエル/只野亜峰[2011年11月20日4時58分] 酔わせておくれよジャックダニエル まっすぐにこの喉を焼ききって 酔わせておくれよジャックダニエル 朝はまだ遠くにあるはずさ 酔わせておくれよジャックダニエル 冷たい夜風も溶かしきって 酔わせておくれよジャックダニエル 少しはマシな気分になるはずだから ---------------------------- [短歌]アラバマ/只野亜峰[2011年12月3日8時54分] アラバマに行きたいななんて歌いつつどんな国かと人に尋ねる 愛よりも恋より金より仕事より雨と布団が愛おしい 昼過ぎになったらお店に出かけようポテトチップス頬張りながら ---------------------------- [短歌]せいきのみかた/只野亜峰[2011年12月6日6時20分] 厨房で話す下世話なエロ話カップヌードにお〜いローション セブンティーン高くて買えない十七歳そんなおまえも嫌いじゃないぜ ---------------------------- [自由詩]ちょこれーとふぃろそふぃー/只野亜峰[2011年12月12日10時16分] 漫然と眺める視界に映りこむ小さな爪きり 朝日のスポットを浴びる雪印コーヒーの紙パック 得意気な自己主張を欠かさぬ柿の種わさび味の空袋 に詰め込まれたビニールとちり紙の山 テレビで流れる何かの報道特集をBGMにしながら 布団の上で悠然と眠る黒猫 まぁ、部屋が片付いて無いのは昔からなんだけども ---------------------------- [自由詩]柘榴記念日/只野亜峰[2011年12月25日1時09分] 貴方の柘榴の一粒は私の愛した貴方の素顔 貴方の柘榴の一粒は彼の愛した貴方の素顔 貴方の柘榴の一粒は無残に地面に転げ落ち まるで散り行く枯葉のように 綺麗な花を咲かせるでしょう ---------------------------- [自由詩]グッバイエロ細胞/只野亜峰[2012年1月7日5時37分] ヤマダ電機ですれ違ったdocomoのお姉さんが可愛かっただとか 彼女と電話したのが楽しかっただとか 久しぶりに読み返したキングダムが面白かっただとか 恋のメガラバのPVがファンキーでいい感じだっただとか その程度の事で幸せになれるんだから 野郎の脳細胞なんて単純に出来てるものである ---------------------------- [短歌]アラバマ居住篇/只野亜峰[2012年1月13日1時44分] アラバマで待てど暮らせど一向にハチワンダイブの終わりは見えず 愛よりも恋より酒より葡萄より漫画と布団でロックンロール 昼過ぎになったら仕事だ頑張りな 寝たら朝日が襲ってくるぞ ---------------------------- [自由詩]星のカービィースーパーマツコデラックス/只野亜峰[2012年1月13日3時47分] 髭面野郎の中年太りした横っ腹をデッキブラシで薙ぎ倒せ 食い倒れサラダ煎餅屋さんはこの先の十字路を右折した先にあるぞ 戦え僕らのサンシャインシティプリンスホテル支配人 明日へと踏み出すその足であの娘のハートをぶち破れ ---------------------------- [自由詩]ジェットヒータードロップキック/只野亜峰[2012年1月15日2時05分] 部屋の中を一瞬で暖めてくれる暖房があれば良いのに 安い石油ストーブとボロいエアコンしかないものだから パソコンの前で布団を被りながら震えていたりする 夢の暖房器具がここには無いから いつも聞いてるナンバーが少しだけ陽気に聞こえたりもする ---------------------------- [自由詩]絡繰ロザンナ/只野亜峰[2012年1月15日18時00分] 車輪に絡まる薔薇の恩寵 手首に滲みこむ利休の水晶 捨て猫のような鳴き声を上げて 夜空を見上げた少女は歪に 絡繰仕掛けの恋に身を焦がし 焼かれた翼で暖を取りながら 絡繰仕掛けの悲劇に酔いしれ 今宵も喜劇を嗜むのでしょう 享楽を謳う道化師のように 捥がれた右手を目で愛しながら 絡繰仕掛けの少女は明日も 向日葵のように咲き誇る ---------------------------- [短歌]火傷すんなよ糞女/只野亜峰[2012年2月4日3時07分] 火遊びぐらいやりたきゃやれよ日が暮れりゃ 帰れる場所はここしかないだろ ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]歌謡曲日和 -supercell 君の知らない物語-/只野亜峰[2012年5月27日6時41分]  始めましての方は始めまして。恐らくいないとは思いますが久しぶりの方はお久しぶりでございます。本日も例の如く大八島一の暑さを誇る田舎風景より私、只野亜峰がお送りしちゃうわけですが、最近のアニメですと最強のヒロインはやっぱり戦場ヶ原さんだと思うのは異論の無いところであるとは思うのですが、所謂空気ヒロインと呼ばれる次々にサブヒロインが出現するせいでおざなりにされがちな正ヒロインの横行しているラノベ業界において戦場ヶ原さんはある種最良の解ではないのかとか思ったりもしますが、主人公の阿良々々木さんの『彼女』であるという明確な立ち位置であるにも関わらずに登場シーンは並といったところでシナリオの核心にも触れたり触れなかったりのアバンチュールな立ち位置を演じていたりで非常に奇怪な存在なのですが、その立ち振る舞いはなんというか古き良きJAPANのお嫁さんを彷彿とさせる気品が漂っていて、動くアホ毛のアンテナ野郎が色んなトラブルに首を突っ込んでいるのを知ってか知らずか毅然とした放置プレイで傍観する様は仕事にはりきる亭主の帰りを待つ新妻のようでもあり非常に感慨深いものがあります。  そもそも戦場ヶ原ひたぎさんの何が魅力的であるかと言えば誰に対しても優しさを振りまくあの朴念仁に心底惚れきっていると言う所でありまして、メッシーアッシーなんていう言葉が横行した時代すら懐かしく感じるほどに野郎をATMか何かと勘違いした娘さんが大量に繁殖していやがる昨今において戦場ヶ原ひたぎというヒロインはまさしく奇跡と言って良いほどにできた娘さんであるわけで、『私だけに貢いで!』とかいう副音声を込めながら『私だけを見て!』とか言っちゃう三次元ガールとは云わば一線を帰した存在であり、やっぱり女は二次元に限るねという結論に至るわけです。ありがとう戦場ヶ原さん阿良々木くんを好きになってくれてありがとう!そしてありがとう!  さて、そんなアニメ『化物語』のEDテーマであり、主人公カップルの天体観測にも使われた「君の知らない物語」でありますが、ニコニコ動画が今みたいに特定の信者で埋め尽くされてわけのわからない空間になる寸前のところで突如ヴォーカロイド業界に旋風を巻き起こした「メルト」の作者でありますryoさんのsupercellとメルトの歌ってみたで人気を博したガゼルさんの共演という事で、ガゼルのメルトを聞きまくってた僕といたしましては大変に胸が熱くなる一曲であったわけですが、「好きな男の子に対して何も言えなかった女の子」という単純明快な図式の独白楽曲なので特に語る部分は無いのですが、個人的にお気に入りのフレーズがあるので今回はそんなフレーズを御紹介したいところであったりします。  ――どうしたい? 言ってごらん  ――心の声がする  ――君の隣が良い  ――真実は残酷だ  いやあ、実に良いフレーズですね。かつて化物語の著者であられる西尾維新先生が少年ジャンプにおいて『女子のわがままに振り回されるのが好きっ!あの子が笑顔ならそれで満足♪ とかそんな奴はライトノベルの中にしかいねーんだぜ』とかいう爆弾みたいなセリフを作中で爆発させてましたが、恋とは時に熱病のようであり精神疾患のようなものでもありますが、おおよそにおいてその衝動は酷く利己的であったりもするわけです。  ですのでこのフレーズで語られる『残酷な真実』というのは、別に彼の隣がすでに別の女に占領されててエーンとかそういうことではなく、自分の淡い恋心の本質が『彼が笑顔でいるなら幸せなのっ♪』なんていう可愛らしいものではなく、独占欲と嫉妬にまみれて汚れきったものであると気がついてしまった瞬間であったわけなのですね。汚れちまった悲しみをたくさん背負ってる歳食った人間にはわりと割り切れる事でも純真無垢な少年少女の感性にとってこれに気がついてしまうのはわりとドギツイものがあるような気がしてとてもホクホクできるフレーズであるわけです。ダメンズキングの桜井なんちゃらさんにも綾波レイが好きなあの娘にも世界の終わりがそこで待ってる祐介さんにもきっとそんな時期があったんじゃないだろうかとか思ったりするとなんだか殺伐とした気分になりますが、戦場ヶ原さんを見てたらなんだか癒されたのでしばらくこの清涼感に浸っていたいところである今日この頃だったりします。二次元はやっぱりいいものなんだなぁ みつを。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]歌謡曲日和 -THE CRO-MAGNONS グリセリン・クイーン-/只野亜峰[2012年5月27日21時07分]  そんなこんなで暇なので二日連続でのこのコーナーなわけですが、先日遥か彼方の将来に一緒になっても別にそれはそれで良いんじゃないと思える気がしないでもない娘さん、略して彼女と子供の頃にやった遊びについてなんて語っていたわけですがその中の一つに「シャボン玉」なるあの奇怪な遊びの話題が出たり出なかったりしまして、なんとなく手元にあったパソコンでシャボン玉の作り方なんぞをグーグル先生に尋ねてみたところ現れたのが「グリセリン」という単語であったわけです。シャボン玉といえば野口雨情の「シャボン玉飛んだ〜」のあまりにも有名な詩があったりしますが、この詩も夭逝した雨情の娘さんを歌った詩であるだとか、いや不特定の子供の命を儚んだ鎮魂歌であるだとか、そもそも死と繋ぎ合わせる事自体に根拠が無いという話があったりで雨情の親族においても解釈が分かれるような非常に包容力のある作品であったりします。  では、そんなシャボン玉においてグリセリンがどのような役割を果たすかといえば保水力であったりするわけで、科学的な話は全くちんぷんかんぷんな私ではありますが、グリセリンを添加する事によって割れにくいシャボン玉ができたりもするんだぜという事が教えてgooに書いてあったりしました。いやはや世の中何が何処で関わっているかなんてわかったものじゃありませんね。  ザ・クロマニヨンズと言えば、ブルーハーツ時代からの盟友の甲本ヒロトと真島昌利を中心に結成されてるバンドで、ザ・ハイロウズの尻とちんこを目掛けてライブハウスを追い掛け回してた僕らの世代からすると嬉しさと切なさを併せ持ったようなバンドだったりするわけですが、若い人達が今もライブでハッスルしてるのかと思うと何やらやっぱり胸にこみ上げてくるものがあったりなかったりするわけで、余裕ができたらまたスタンディングオールの荒波の中で熱狂したりしてみたいなぁ等と歳を感じる今日この頃だったりするわけです。  そんなこんなで僕が「グリセリンクイーン」という曲に出会ったのはクロマニヨンズを特に聞き込んでいたわけでも無い二年前に、件の彼女と付き合う前ぐらいに大喧嘩してヤケのヤンパチになっていたところに偶然にも、かつて一緒にハイロウズのちんこを追いかけ回していた高校時代の友人から「たまにはライブでもいかねーか」と誘いがあり、ホイホイついていったのが横浜ブリッツ。そこで演奏されたナンバーの一つがこのグリセリンクイーンであったわけです。クロマニヨンズの歌といえばハイロウズ時代を知る我々の業界にとってはあまりにもシンプル過ぎるという事で、とっつきにくい部分もあるのですが、良いものは良いというかエイトビートだの鉄カブトだの良い曲が多かったりでよくもまぁ、20年以上のキャリアがあってこれだけホイホイ曲が作れるものだなぁと思ったりもするのですが、やっぱりキャリアを重ねるごとにどんどんと歌詞が必要以上にシンプルになっていたりしまして、グリセリンクイーンの歌詞も文字に書き起こすと吃驚するほど短かったりします。  さて、そんなこんなでグリセリン・クイーンという曲は長い間疑問の残る曲であったわけです。作者が歌詞に込めた意味を読み解かずにはいられないという墓荒らしのような悪趣味な性癖を持った僕にとって「グリセリン・クイーン」という題材はもはや意味のわからない存在でありました。スージークアトロの模倣であると言ってしまえばそれまででまるで面白みが無い。日本で生まれ育った彼らの感性だからこそ生まれでた言葉で無ければタイトルにひっさげる意味が無い。というわけで最初は爆薬であるニトログリセリンの事かとも思ったのですが違和感は拭えない。ならばグリセリン自体に何か特異な性質があるのかと思ったけれども何も掴めない。第一なんでそのグリセリンの後にクイーンが続くのかと思うともうちんぷんかんぷん。そんなこんなで解読をするのも諦めてグリセリンクイーンという大きな疑問をぶら下げたまま日々を過ごしていたわけですが、何をどう間違えたらこうなったのか、まさかの雑談からの疑問解消で世の中というものはまったくもって摩訶不思議にできているものだなぁと思ったりしたわけであるわけです。  グリセリンクイーンのジャケットと言えばトランプの12であるクイーンの絵柄を模して作られていたりしますが、クイーンの絵柄といっても実は一緒くたではなく、絵柄によって題材が異なっていたりもします。かつてフランスでデザインされたトランプにおいてクラブの絵柄はモデルはシャルル7世の妻であるマリー・ダンジューをモデルとしたアルジーヌ。ダイヤは旧約聖書ヤコブの妻のラケル。ハートはユダヤの女戦士ユディット。スペートはギリシャ神話トリトンの娘パラス、若しくは友人であるパラス・アテナ。といった感じで向こうの神話にあまり明るくないので言及できないのは残念なところではありますが、ともすれば呪術的なニュアンスをも内包させるトランプの絵柄というものはそれだけで想像力をかきたてるものがあります。まぁ、現在流通してるトランプの絵柄はどれも一緒なのでどうでも良い与太話ではあるのですがね。  シャボン玉の保水性を強めるグリセリン。トリトンの娘パラスと友人アテナを模したクイーン。なんだか面白い材料が揃ってきました。この妄想が的を射ていたと仮定してファンの間では文学少年として知られる真島昌利が二つの題材をどのようなロジックで調理したかは結局のところ真島昌利のみぞ知るといったところではありますが、こんな風に墓荒らしチックに妄想を爆発させるのは我々の業界では至極のエクスタシーであったりします。  いくらグリセリンを添加したといってもしょせんはシャボン玉。強い刺激を受ければあっけなく消えてしまう儚い存在であるわけです。99本のエレキギターをそれぞれに手にした少年少女。オムライスが自慢の古ぼけた食堂。吹けば飛ぶような儚さと触れれば壊れてしまいそうな脆さを内包しているからこそ人間の一生は面白い。人生なんて一夜の夢のようであるけれども、だからこそその一秒一秒に価値があるんじゃないかとか。どこか物悲しい寂しさを感じさせるグリセリンクイーンという曲にはそんな文学少年的な侘寂が込められているのかもしれません。 ---------------------------- [自由詩]かけっこのわけ/只野亜峰[2012年6月5日20時04分] アスレチックを潜り抜けて 椅子やベンチをバリケードにして 右へ回り込んで左へ駆け抜けて 追いかけまわった理由は何だったかな ---------------------------- [自由詩]彼女には赤いドレスがよく似合う/只野亜峰[2012年6月6日4時18分] 彼女は生まれつき右手に銃を握っていた やがて彼と出合った彼女は 左手で彼の手を握り 右手で彼の心臓を打ちぬいた 彼の体を突き抜けた弾丸は 二人の暮らす小さな部屋の 白い壁に黒い歪を残して 全てが暗い海に飲み込まれる頃には 彼女の柔らかな唇が 彼の左の掌に ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]彼と彼女のバランスシート/只野亜峰[2012年6月19日10時51分] ■Aくんのバランスシート AくんはB子さんの誕生日に合わせてプラダのバッグをこっそり買いました。 プラダのバッグ 50/現金 50 後日、プラダのバッグを劇的にプレゼントし、彼女は御満悦です。 愛情 50/プラダのバッグ 50 プラダのバッグは無くなりましたが、愛情を費用として計上する人はあんまりいないと思うので資産として計上します。 つまり、A君はプラダのバッグをあげる事によって愛情を深めたわけです。良い話だなー。 ■B子さんのバランスシート B子さんは誕生日にAくんからプラダのバッグをプレゼントされました。 プラダのバッグ 50/愛情 50 愛情を負債として計上する人はあんまりいないと思うので収益として計上します。 つまりB子さんはプラダのバッグをプレゼントされる事によって愛情を確かめ合ったわけです。良い話ですね。 ■中間考察 つまり、プレゼントとあげた側は愛情を資産として計上し、貰う側は愛情を収益として計上するわけですね。 ちなみに一般的に男女間のプレゼントは男性のほうがお値段が高かったりしますが(要出展)、これは一般的に経済力の勝る男性よりも高価なものを買わないほうが男性のプライド的に良いとされているからで(独自研究)、一般的に女性のプレゼント相場は男性の6割程度とされています(要出展)。男性側もよっぽどの貢君やATM君でなければ自分もプレゼントが欲しいと思うでしょうし、これに前述の傾向を踏まえますと次のように補足されると考えられます。 (Aくん) 愛情 20  /プラダのバッグ 50 未収金 30 B子さん プラダのバッグ 50/愛情 20           未払金 30 ■B子さんのバランスシート(2) B子さんはAくんの誕生日にロレックスの時計をプレゼントする事にしました。 ロレックスの時計 30/現金 30 後日、ロレックスの時計をプレゼントされた彼は御満悦です。爆発しろ。 未払金 30/ロレックスの時計 30 あれ? ■Aくんのバランスシート(2) B子さんにロレックスの時計を貰ったAくんはとてもウキウキです。 ロレックスの時計 30/未収金 30 なんか愛情科目がピクリとも動いてませんがきっと気のせいでしょう。 ■中間考察 なんだかビジネスライクな関係になってしまいました。出会った頃の二人がまるで嘘のようです。 ■Aくんのバランスシート(3) なんだかんだあって価値観の違いから二人は別れる事になりました。 /愛情 20 対応する勘定科目を考察します。この場合は思い出が良いでしょう。 思い出 20/愛情 20 彼は愛情という資産を失いましたが、思い出という資産を得ました。 彼の中の思い出はきっと彼の帳簿の中の固定資産として長らく愛されながら緩やかに減価償却されていくでしょう。 減価償却費 3/思い出 3 ■B子さんのバランスシート(3) なんだかんだあって価値観の違いから二人は別れる事になりました。 愛情 20/ 対応する勘定科目を考察します。この場合は思い出が良いでしょう。 愛情 20/思い出 20 彼女は愛情という収益を失いましたが、思い出という負債を得ました。あれ? 彼女の中の思い出はきっと彼女の帳簿の中の固定負債として長らく憎まれながら緩やかに返還されていくでしょう。あれ? 思い出 3/恨み辛み 3 二人の過ごした日々 priceless... ---------------------------- [おすすめリンク]女=悪 放課後の教室で男が女に語らう/只野亜峰[2012年6月20日19時04分] 女=悪 放課後の教室で男が女に語らう http://ana.vis.ne.jp/ali/antho_past.cgi?action=article&key=20030829000039 女は時間と金がかかる(girls require time and money)ので Girl = Time × Money ・・・(1) 時は金なり(Time is Money)という諺によると Time = Money ・・・(2) (2)を(1)に代入すると Girl = Money × Money ここで、金は諸悪の根源(money is the root of all evil)だから Moneey = √(Evil) したがって Girl = √(Evil) × √(Evil) = Evil 女=悪 (証明終)  これはよく2ちゃんねるに書かれる有名なコピペの一つで、今でもいろんなところでしばしば見かけたりします。作中で指摘があるようにツッコミ所満載の色々間違ったコピペなんですが、女性になにがしらの恨み辛みを持った人とか女性が苦手であるだとか女は二次元に限るね!なんて言ってる男子勢にはウケが良かったりする気がしますが、女性に言った日には社会的に抹殺されかねないので御利用には細心の注意を払ったほうがいい気がするわけですが、今回たまたま見かけたSSはこのコピペを題材とした作品だったりするわけで、なんだか甘酸っぱい感じがしてとてもほんわかした読後感が味わえたりしたわけです。  この作品に出会った経緯というのが、先日書いた愚作「彼と彼女のバランスシート」がどうにも消化不良だったので、補足する意味で「考察:彼と彼女のバランスシート」なんていうものを書こうとしていたためなんですが、その折になんとなく「女=悪」のコピペを思い出し「女は時間と金がかかる」でぐぐった結果の二件目に出てきたのがこのSSだったりしたわけで、こういう偶然の出会いもネット文化の楽しみであるなぁ等と思ったりするわけです。  どうやらこのページは小説投稿用の掲示板らしく、コメント欄にいくつか批評が書かれていたりもしますが好意的なコメントがほとんど無かった事が自分としては意外だったわけですが、批判的なコメントのほとんどが「女=悪」の是非に終始していて作品の主題に何が置かれてるかまで言及されてないなぁというのが個人的に残念で、こんなネットの辺境でまともなコメントを残す人間がどれだけいるんだろうかというのは別に置いておくとしても、わりと本気でコメント欄の人達の読解力が心配になったりで、こういう滅茶苦茶な部分も合わせてネット詩だのネット小説だのいう文化があるのかと思えばそれはそれで楽しめたりもして色々面白い感じではあったわけです。  この作品で語られんとしてる事っていうのは結局のところ雄一と加奈のなにげない日常の一コマであるわけですね。「女=悪の証明」なんていうのは主題ですら無い彼らの雑談の一材料に過ぎないわけです。彼らにしてみれば「悪の証明」も「昨日見たリーガルハイ」の感想も同列で、言ってみれば4コマ漫画のタイトルみたいなものだったりするわけです。端的に言えばただの日常系ラブコメですね。  「女=悪の証明」なんていうのはそれらしく見えるただのデタラメなのは言うまでもないわけで、それを得意気に語って加奈をからかおうとする雄一にとっても、軽くあしらって雄一をねじ伏せる加奈にとっても取るに足らない娯楽でしかないわけです。そもそも放課後に教室に残って雑談してる男女とかどう考えてもただのリア充なわけで、恋人同士ではないにせよ少なくとも放課後に一緒に残って一緒に下校する程度の親密さを持った関係である事がうかがい知れる訳で、俗に言う友達以上恋人未満である可能性が高いわけです。彼氏彼女の事情の主人公カップルの付き合う前みたいな感じですね。爆発しろ。  とはいえ男女間の価値観の違いというのは普遍的に語られるものでもあり、時としてそれは些細なすれ違いから民族浄化の如き対立を生み出したりもしますが、ある意味でその対立を象徴したような「女=悪の証明」なんていうプロパガンダが親しい男女の仲で娯楽として語られるというのはどこかホッとする一コマであったりします。中高生の持つ若さゆえの無邪気さの成せる業であるとも言えなくもないですが、それはそれで青春の甘酸っぱさを感じさせてほんのりできたりするわけです。僕もこんな青春送りたかったです。 ---------------------------- [自由詩]君と夢見た夢の終わりに/只野亜峰[2012年6月22日11時13分] 恋の炎もいずれは消える 愛も泉もいずれは枯れる 枯れるだけならまだいいが 時にはそこに濁りきった泥水を注いでいかなければならない そうして出来た泥水に二人で肩までつかりきって 昔の事など語らいながら緩やかに朽ちていけたなら それを幸せと名づけようと思う ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]最終考察あさき 前夜祭 -幸せを謳う詩-/只野亜峰[2012年6月28日19時36分]  こんばんわ。いつも貴方の隣の書物に這い寄るラブリーチャーミングな墓荒らし、私只野亜峰でございます。当初「歌謡曲批評」などと題打って始まりましたこのコーナー。私如きが批評等とはおこがましいという自戒と、また歌謡曲を娯楽として楽しみたいというスタンスから「歌謡曲日和」という日和ったタイトルに差し替えました昨今ではありますが、なにぶん今回の相手は相手が相手なだけに日和ってばかりはいられないのが、私とても嬉しい限りでございます。言いますのも、我々のような墓荒らしにとって「あさき」という存在は云わばラスボスの如き存在でありまして、その難解さたるや言語で表現できる範囲を軽く超えていたりするわけです。  比喩や暗喩を多分に使う歌謡曲シンガーソングライターの存在等というのは昨今においてたいして珍しくありません。歌謡曲はもはや一本のロードムービーの如き世界観を童話の如き簡略化を経て一般大衆庶民に愛されるように大量の添加物を込められた食世界でいうJAPANカレーライスと化していっていると言っても決して過言では無いでしょう。しかしながら、この「あさき」というアーティストだけは別格なる存在であります。男塾で喩えるのなら大豪院邪鬼、ミスチルの桜井がスライムベスだとすれば大魔王ゾーマに匹敵するほどの存在感と厨二力と病的メンヘラセンスを兼ね備えた20世紀最後の砦でありましょう。あくまで我々の業界での話ですが。  とはいえ、「この子の七つのお祝いに」はあさきシリーズの中でも最上級のダンジョンであると言って良いでしょう。いくらラブリーチャーミングな墓荒らしの私としましても相手が古墳だのピラミッドだのとなると普段の385倍は気合を入れていかないといけません。なにせこのあさきという化物は歌詞の大半が暗喩で描かれている上に、その比喩で一枚の絵を描いてしまうというブルシットなナマモノです。先ずはウォーミングアップからいきましょう。 ――折り鶴は木の葉 風に揺れ 傾く ――訪いた 影を延ばしながら  ここで語られる「折り鶴」というのは「願い」の象徴と読み解くべきで、それが風に揺れ傾いているというのは、願いが風に揺れている儚い存在であるという事で、「ああ、私の願いがなんだか風に弄ばれてる木の葉みたいでやばいわ」と読み解く事ができるわけです。影が伸びていくというのは夕暮れの現象ですね。一日は朝がきて夜がきて終わるわけですが、人の一生も晩節を晩秋と表現したりする人がいるように日本人というのは気象現象を人間の一生に喩えるのが好きらしいです。つまるところは夕暮れとは終わりの暗示ですね。願いも虚しく弄ばれてる最中に何かが終わろうとしているというたまったもんじゃないフレーズです。1フレーズでこんだけ語れるんだから一つ一つを全力で追いかけてたら僕の晩秋が見えそうです。終始こんな感じでアレですのでもう細かいところは考えずに感じてください。なんとなくでもわかってくると曲の違った表情が見えてきて楽しいよ。  ところでここに「幸せを謳う詩」の歌詞をもってきたのは理由があります。コアなあさきすとの方々では常識と化していると思われますが、「この子の七つのお祝いに」と「幸せを謳う詩」は対の曲として広く知られていたり知られていなかったりするわけです。「鯉幟」「母子二人」「キネマ」なんていう共通項からも読み取れる事ができますね。さてさて、この曲の考察を始めて実を言うと三年ばかり経つわけですが(常に考えていたわけではないですが)、ずっと謎めいていた存在がこの「幸せを謳う詩」で描かれている「白髪の少女」であったわけです。ラストの1フレーズでのみ語られるこの少女ですが、存在自体が謎。目的も謎。何の意味が込められているのかさっぱりわからない。しかしながらこの白髪少女は「この子の七つのお祝いに」で暴れまわる白髪少女には違いないでしょうからおざなりにはできない。白髪というと先ず老婆が浮かびました。少女のような心を持った白髪の老婆、略して白髪の少女。なんだか納得できそうですが腑に落ちない。しかしながらこの最後の1ピースの正体がわからない事には考察の組みようが無い。墓荒らしの僕としては墓に誰が眠っているのかをわかりかねるというにっちもさっちもいかない状況だったわけです。  しかしながら落ち着いて考えてみればなんとない答えが出たわけです。一般的に考えて日本人というのは黒髪一辺倒の民族なので白髪というのは本来老化以外にありえないわけですが、例外があります。結論からいってしまえばアルビノですね。考えてみれば「この子の七つのお祝いに」というタイトルには「子供は七歳までは神様の子供である」という信仰からきているわけです。これは七歳というのが昔は平均余命的に一つの境であった事からこうなっていると考えられていますが、七五三なんていう行事もこの名残だったりするわけです。まぁ、アルビノである必要は無いんですが、白という色はしばしば信仰の対象として捉えられます。日本神道なんかでも白蛇は重要な存在として扱われたりしますね。つまるところ白という色は云わば神の象徴であるわけです。白髪の髪と神をかけているあたりのオヤジギャグが憎たらしいですね。つまるところ、この歌で描かれる「この子と二人生きていこう」と心に決めた母親の側に座り込んでほくそ笑む白髪少女というのは、母から子を奪い去る存在。この母子の関係の終わりの暗示であるわけですね。なんで気がつかなかったのか不思議なくらいですな。同じく狐も妖怪として扱われるケースが多いですが、神として畏敬の対象となる事も同様に多いです。つまり、この二つの作品で語られる「白髪の少女」と「狐」は主人公である母から子供を奪い去る忌むべき存在として描かれているわけですね。  さて、いつもの歌謡曲日和であればここで適当に切り上げるわけですが今回ばかりはそうは言ってられません。最終考察と題打った以上、そして三年に渡る長き因縁に終止符を打つためにもここで全ての決着をつけねば問屋が下ろしません。ネックであった白髪少女の正体が明らかになった以上はここで決着をつける事とします。それではいよいよ本題の考察部分にかかっていくとしましょう。 ■幸せを謳う詩考察開始■  「幸せを謳う詩」が「この子の七つのお祝い」の下地になっているという話は前述の通りですが、主人公である母の見出した「幸せ」とは一体何であったのかというのがこの曲のミソであるわけです。では、この曲に出てくる人物をさっとおさらいしておきましょう。先ずは、主人公である母とその子供(おそらく文脈からして息子)、母の物語で語られる父親、キネマを上映する爺と、キネマを見る少女、そして前述の白髪の少女ですね。我々の業界では「キネマを見る少女」と「白髪の少女」を同一の存在として見る傾向が少なからずありますが、わざわざ「白髪の」と脚注を入れているあたりで別人と考えるのが妥当かもしれません。そもそも映写機の動きからさっするに「少女」は観る側であり、いわば劇中劇である母子の物語に出てくる「白髪の少女」は劇中劇の登場人物という風に解釈するのが自然であるでしょう。 (1)父親は本当に死別であるのか  この歌は素直に読めば、夫に先立たれた未亡人である母が、残された我が子と供に強く生きていこうという決意を固める物語として捉える事ができます。普通に考えていい話です。しかしながら終始禍々しい曲調で語られるこの物語が果たしてそんな爽やかな物語を語るものだろうかと考えると疑問が残り、語り部である爺の嘲るような言葉の節々にもそれを読み取る事ができます。どうやらこの母の見出した「幸せ」というのは一筋縄ではいかない事が窺い知れて来ました。 ――幸せは 続かない 阿呆であることが 幸せなときもある  まぁ、こんな風に作者からすら罵られている可哀想な感じの未亡人ですが、阿呆とか言われると何か親近感が沸いてくるから不思議ですね。未亡人とか大好きですからー! まぁ、そんな事はわりとどうでも良いんですが、やはり母様は良い感じに狂ってしまっているという事が読み取れてきます。こうなってきますと彼女の主観というものは考察上あまりアテにする事ができません。京極夏彦よろしく"違って"しまった彼女の幸せというのは矢張り幸せではあり得ないのです。  仮説を立ててみましょう。彼女には現実に物凄く心理的ストレスがかかり"違って"しまった。"違って"しまったからこそ彼女は幸せを見出せたのだと仮定しましょう。曲の冒頭部分から察するに彼女のストレスの原因は夫との死別である事が読み取れます。しかしながらよくよく読み解いてみれば夫の死を臭わせるフレーズは冒頭の一節だけで、映写機が回るのはその後の彼女の回想であるわけです。時系列的に見て冒頭部分は映写機の写す回想の後の出来事でしょうから、云わばこの曲の語る物語のラストシーンであるわけですね。最初からクライマックスとか少年誌じゃないんだから。つまるところ冒頭のシーンでの彼女はもうすでに"違って"しまっていると考えるのが自然なわけです。こうなってくると夫の死別という事柄にすら疑念が生じてきます。  よく男を作って逃げ出した母親や、女を作って逃げ出した父親の事を子供に語るときに「母さん(父さん)は死んだんだよ」なんて言い聞かせる場面が我々の生きる世知辛い現実世界でもままありますが、これと同じ原理が働いたのではないかと予想されるのです。つまり"違って"しまった彼女が心の平穏を得るために用いた手段は、自らの記憶の塗り替えであったのではないかと推察されるのです。なんらかの理由で夫(或いは恋仲)という伴侶を失ってしまった彼女は、あまつでさえ宿された命をこれから一人で背負っていかなければならないという二重苦の甚大なストレスに脅かされます。そこで彼女が行ったストレス軽減策こそが記憶の塗り替えであったわけです。モチベーションというものは人間が生きる上での重大なエネルギー源となります。男に捨てられ一人我が子を背負っていかなければならない生活と、先立たれた男の忘れ形見を後生大事に背負っていこうというのでは心理的負荷も桁違いであるでしょう。この記憶の塗り替えは母として生きていかねばならない彼女にとっての重大な生存戦略であったと言えます。 ――ふぃるむ は逆さに回り ――二つの笑みを白黒にして 燃やす ――飛び散る灰は 粘土の様に固まり ――後ろに延びた影に散り敷く ――「幸せになるために」  映写機の前半部分で語られた幸せな男女の風景の描写はここで転機を迎えます。フィルムを彼女の記憶を考えると、フィルムが燃えるという現象は辛い現実の記憶の消失を示していると考えられます。そして「後ろに延びた影」を彼女の過去と捕らえるとすっきりします。彼女の辛い記憶というフィルムは一度燃え、彼女の望む過去として形を変え受け入れられたわけです。幸せだった頃の記憶はしっかりそのまま残しているあたりが逞しいですね。恋する女は綺麗さー♪なんて誰かが歌ってましたが綺麗なのは外観だけで中身はドロドロです。 (2)白髪少女特化考察 http://www.konami.jp/bemani/popn/music17/mc/song16/konoko.html お疲れさまです。 あさきです。 遠い昔に作った、幸せを謳う詩の続きです。 優しくて綺麗なお母さん、 愛らしいぼうやちゃん、 頑固で強面だけれど、とっても優しいおじいさん、 いつもいつも甘えてごめんね、大好きなおばあさん、 遠くで、いつも皆のことを優しく包んでくれているお父さん、 しっぽふりふり、笑顔を運ぶよ子狐さん。 そんな、優しいホームドラマをイメージして作らせていただきました。 終点、世界中の狐さんたちが一堂に集まり、 拍手喝采で家族を迎えるシーンは必見です! 何卒よろしくお願いします!!  ――頭おかしいだろこいつ。なんていうふうに、うっかり本音が零れちゃうほどほがらかな「この子の七つのお祝いに」の公式コメントなわけですが、なんとこれが隠れた最後の1ピースだとは僕も思いもよらなかったわけで、色々驚きを隠せないわけですがそれを裏付ける根拠も出てきたりで、新発見に慄く考古学者の如く墓荒らしの私と致しましては大変に狼狽しておりますが、こういった発見もまた墓荒らし冥利に尽きるものと考えればエクスタシーの極みというものでございます。この二作品の大まかな概要がようやくおぼろげながら見えて参りました。  かいつまんで言ってしまえば、重要なのはこのホームドラマの真なる主人公が果たして誰なのかというところです。頑固なおじいちゃんと優しいおばあちゃんは言ってみれば脇役ですので除外するとして、愛らしいぼうやちゃんは主題ではあるけれども主人公とは言い難い、では優しくて綺麗なお母さんが主人公なのかと言えば実は違ったりします。もう一人いるのです。落ち着いてコメントを読み返してみましょう。一見登場人物の事をざっくばらんに紹介している第三者視点のようでありますが、「いつもいつも甘えてごめんね、大好きなおばあさん、」。どう考えても孫の台詞ですね。本当にありがとうございました。つまり、娘がいたわけです。娘さんの家族紹介だったのです。爺とシネマに興じていた少女も最後にほくそ笑んでいた少女も実はこの娘さんだったのですね。恐ろしい子。  さて、この曲の考察冒頭で「少女」と「白髪少女」は別人だなんて声高らかに宣言してしまった舌の根も乾かぬうちに不細工な話ではありますが、この二つの少女は恐らく同一人物と捕らえるのが妥当です。しかしながら一度引き離した意味はあったのかもしれません。優しい家族に囲まれた少女と不気味に微笑む白髪の少女。前者が本来の少女の姿であり、後者は気が触れてしまった母の見る幻影であると考えればすっぽり収まります。  うそっこ劇場版:幸せを謳う詩  優しくて綺麗なお母さん、いつも皆のことを優しく包んでくれているお父さん、優しいおじいさん、大好きなおばあさん。  とっても素敵な家族に囲まれた少女は毎日がハッピーライフ。もうすぐ弟も産まれるんだって。よかったね。  だけどあれあれ、お父さんがいなくなっちゃったよ。お母さんの様子もなんだか変だなぁ。二人ともどうしちゃったんだろう。  「おまえのお母さんはね。とっても辛いことがあって色んな事を忘れてしまったんだよ」  「色んな事を忘れちゃったの?私の事も忘れちゃったの?」  「今はお母さんも辛い時だから、おまえも辛い思いをたくさんすると思うけど、お母さんもきっと立ち直るから頑張るんだよ」  「うん!お母さんだって大変だもんね。私ももうすぐお姉ちゃんになるんだしへっちゃらだよ」  「うんうん。良い子だな。お爺さんもお婆さんもいるし、お父さんもきっと見守ってくれているから一緒に頑張ろうな」  お母さんに忘れられてしまったのはやっぱり悲しいけど、きっといつか優しいお母さんに戻ってくれると信じて少女は今日も頑張ります。  産まれてくる弟といっぱい遊んであげてね。そうしたらきっとお母さんも元気になるよ。もちろん何の根拠もないけどね。 (3)父親不在の謎  父親不在の謎は意外にも「幸せを謳う詩」のショートver.で明らかになってきます。「この子の七つのお祝いに」もそうなんですが、アーケードで使われたショートver.とロングver.とでは歌詞が結構違っていたりします。ここまで読んで頂いた奇特な皆様には是非一度見比べて頂きたいと思うのですが、この違いがまるで異なる曲の表情を見せるものですからこの作品というのは非常に面白いものです。  キーワードは「途切れぬ糸」と「途切れた色 」、そして「貴方」と「あの人」。よく運命で結ばれた男女を赤い糸で結ばれているなんて言いますが、これはわりと古くから言われていることで日本では小指につけられた赤い糸のイメージでよく知られています。消えることの無い縁と消えてしまった赤い色。「貴方」と「あの人」の使い分けにも注視すべきで、作中に亡き夫と思わしき人物が「あの人」と語られたのは一度きりで、後は終始「貴方」と呼びかけられています。これが意味することは何かと言えば「貴方」と「あの人」は別人であると考えるのが妥当であるとう事です。「あの人」って言い方はなんだか色んな意味を含んでいそうです。とりあえず子供には使いません。親に対しても滅多に使う事は無いでしょう。夫で無いとすれば、後は夫の不倫相手の事を指して「あの人なのね!あの人のところに行っていたのね!」なんていう台詞がよく使われたり使われなかったりしますね。不倫相手の好きだったぼんぼりを使うなんていうのはアレですね。まだ一緒にいた頃に「私は全部知っているのよ」という無言の訴えで使っていたのかもしれませんし、「貴方」の好みの「あの人」に少しでも近づこうといういじましい努力だったのかもしれませんし、いずれにせよちょっと怖いですね。まぁ、二股なんてするもんじゃないですね! (4)弔いの灯  二通りの考えができます。先ずは夫の不在から考えて夫の弔い、そして夫ではない誰かの弔いを夫のものと思い込んでいるケース。後者の場合ですと実際には生きて他の女性の下へと向かった夫の不在を夫の死として受け入れた記憶の喪失があったと考えられますね。では、実際に弔われているのは誰なのか。これにも二通りの考えができます。一つは円も縁も無い他人の弔いを夫のものと勘違いしたケース。そしてもう一つが前述の娘の場合ですね。僕はこれが本命なんじゃないかと踏んでいるのですが、娘の存在自体がわりと思いつき一発芸みたいなところがありますので根拠となる描写を挙げていきたいと思います。 ――流れていく弔い灯は風を凪き ――空へ消えた ――流れていく弔いの灯は風を凪ぎ空へ ――水上から流す 幸せを 小さな貴方と  前者がショートver.、後者がロングver.での冒頭部分の歌詞になりますが実はこの二つの曲は全体を通して大きく解釈が異なってきたりします。先ずショートver.ではキネマの存在が語られていなかったりします。夫に捨てられたという自覚が強く描かれているのもショートver.で、実際ショートver.をよく聴いてみるまでは「あの人」と「貴方」の違和感にも気がつかなかったりしました。「あの人」の描写はロングver.にも残っていますが、「途切れた色」等の夫との別れを暗示させる言葉が削られたりで、ロングver.ではその表現がややマイルドになっていると言っていいでしょう。前者の一節では一人で見送っているという印象が強く、後者の一節では亡き夫との忘れ形見としての息子の存在が強くアピールされています。  問題は弔われているのは実際は誰で、主人公である彼女がそれを誰であると思っているかということです。前述の事を踏まえるとショートver.の歌詞ではまだ彼女は正気を保てていたのではないかと考えられます。云わばこの曲の表の部分であると言って良いでしょう。キネマが現れ記憶を焼ききる描写のあるロングver.は云わばこの曲の裏であると考えられるわけです。同じ曲のver.違いで表裏一体を描くとか頭おかしいんじゃないのこの人。後者のフレーズではなんだか忘れ形見を身ごもった女性が亡き夫を見送っているというニュアンスが強く表現されています。恐らくは彼女も本当にそういうつもりなのでしょう。しかしながらコインの表部分では、つまり実際には彼女は夫に捨てられた自覚をまだ残しています。つまり弔われているのは夫ではありえないわけです。――では、一体弔われているのは誰なのか? という話になります。 ――そう、幸せの終わりに小さな花が咲いていたとして ――私にとってそれがこの子でした  ショートver.ではこのフレーズが締めくくりに使われ強くクローズアップされています。語られる夫の裏切りと、幸せな記憶の残骸としての「この子」が強くクローズアップされている締めくくり、冒頭の弔い火、ショートver.というのはつまり亡き娘の喪失を嘆いた詩であると仮定すれば不都合無く全てが収まるわけです。ロングver.にてこのフレーズが「」で括られている事も注視するべきで、ロングとショートではそれぞれこのフレーズを扱う解釈自体が異なることを予感させています。ともすれば彼女の記憶の中の幸せの残光としての娘の姿は焼ききれたキネマのフィルムと共に消え果てしまったのかもしれませんね。忘却によって時に人は悲しみを乗り越えるものですが、娘の死すら記憶の彼方へと追いやってしまうのは一抹の寂しさを禁じ得ません。幸せの価値観は人それぞれという事でしょうかね。 (5)途切れぬ糸が語るもの ――静かに舞う 緋色の糸  さて、ロングver.に特化した考察となります。「静かに」という言葉が語られるフレーズは作中に三回ありまして、その都度で場面が入れ替わっています。引用した部分は爺と少女がキネマに興じる禍々しい姿を描いた直後に描かれる幸せな男女の姿なわけですが、素直に読めばこれは主人公である母と夫とが二人で過ごした幸せな記憶という事になるのですが、問題はその後に描かれるフレーズです。 ――ふぃるむ は逆さに回り ――二つの笑みを白黒にして 燃やす  ここで描かれる二つの笑みというのは先に描かれていた男女の笑みには他ならないでしょう。しかしながら、この男女が主人公と夫であったというのなら、幸せな記憶をわざわざ自らで焼ききるだろうかという疑念が生じます。彼女が消し去りたい記憶が夫の裏切りであったなら尚更の事で、わざわざ幸せの記憶を消し去る意味は無いわけです。つまり、ここで描かれる男女というのは主人公である彼女ではありえないわけです。 ――「いつまでも続くといいな」 ――彼女は言う  わざわざ「彼女」という言葉を持ち出してきた事にも注視するべきで、ほぼ一貫して主人公である母の視点で描かれたこの作品に三人称である「彼女」が出現したというのはつまり、「彼女」というのは主人公では無い異なる誰かという事になります。考えてみれば「緋色の糸」というフレーズからして、ショートver.で謳われた「途切れた色」との対比になると考えるのが妥当ですから、この男女の姿というのはつまり夫の裏切りそのものであったと考えるのが妥当であるわけです。そして、幸せな男女の姿を描いた後に描かれる「静かに」、この考察の冒頭で紹介した「折り鶴は木の葉〜」のフレーズへと差し掛かります。「静かに」で区切られたフレーズの後に「途切れた色」を対比として当てはめると、裏切りの果てに燃え上がる恋を静かに暖める男女と、信じていた夫に裏切られ一人残された母というなんとも言えないフレーズに変容するわけです。あらま、酷い話だね。  そして、最後の「静かに」のフレーズ。ふぃるむが焼ききれ「幸せになるために」全てを忘却の彼方へと追いやった彼女は、眠るぼうやちゃんにそっと手を差し伸べます。彼女にしてみればぼうやちゃんというのは夫と幸せに過ごした日々の残光としての愛娘。そして、そんな愛娘を失った彼女にとっての支えであり、最後の希望なわけですね。愛しき夫の思い出と、亡き娘の存在と一気に押し付けられてぼうやちゃんはたまったもんじゃありません。しかしながらこのぼうやちゃん一体どこから沸いて出てきたのでしょう。作中で歌われる「この子」が亡き娘の事だとするならば、このぼうやちゃんどこからともなく沸いて出てきたようにしか思えません。考えられる可能性はいくつかありますが、この謎は次回「この子の七つのお祝いに」に持ち越すとしましょう。まぁ、もったいぶるほどの事では無いのですが、なんせ「この子の七つのお祝いに」の中核になる考察材料となりますからあえてもったいぶる事にします。気になる人は「映画 この子の七つのお祝いに」でぐぐると良いかもしれません。うふふ。 さて、いい加減結構なテキスト量になってしまいました。残された謎は対の曲である「この子の七つのお祝いに」は次回へ繰越す事に致しましょう。ここまで読んで頂いた奇特なあさきすと諸兄に幸せの風が吹く事を祈って。そろそろマジで夏の暑さに厳戒態勢な片田舎の田園風景より私只野亜峰がお届け致しました。ばいばいまたね! ---------------------------- [自由詩]特アはそれを愛と呼ぶんだぜ/只野亜峰[2012年7月8日1時13分] 特アはそれを愛と呼ぶんだぜ ――だから言いたいわけですよ。こう。 ――特アはそれを愛と呼ぶんです。 テレビの中に多額の賄賂が渡ったら 君の目の前で家ごと帳簿燃やすのさ それでも小沢新党に潰されてゆくだけなら 任期来るまでせめて利権を掴み取るんだ 選挙公約が嘘だと言うなら 選挙公約を捨てちまうだけだ 新しい日々を繋ぐのは 新しい僕と君なのさ 選挙前に死人が出る 特アじゃそれを愛と呼ぶんだぜ メディアの謳う真実が これ程安いモノだとは 金と嘘で席を増やす 高速道路無料化なんて無かったかのようにスルーするんだ 福祉はいずれ破綻をきたしてしまうから せめて今だけ 子供手当てを配るのさ 道路作りでは オーゥエ 何も貢げないんだぜ 売国の何が悪いっていうんだ! 昨日の特アが反日の国なら 昨日の特アを忘れちまうだけさ 新しい日々を変えるのは いじらしいほどの金なのさ 生活保護不正受給 特アじゃそれも愛と呼ぶんだぜ 他人の金で食う飯が これ程美味いものだとは 次長課長キングコング 片山さつきの提起など無かったかのようにスルーするんだぜ ――僕らが、僕らが、新しい日々を思うときに、 ――僕らはどうしても友愛と言う言葉を使ってしまうわけですよ。 ――献金と証拠隠滅と隣の反日感情を愛と言いたいわけですよ! 愛と友愛! 愛と友愛! 愛と友愛! 日本の事など知るものか! 新しい日々の僕たちは さらなる搾取に励むのさ 国を挙げて金を貢ぐ 特アはそれを待っているんだぜ 日本の資源ばらまいて 亜細亜諸国を救うのさ 少女時代冬のソナタ 外国人の献金なんて無かったかのように 尖閣領土問題なんて無かったかのようにスルーするんだぜ ――そして本当に歌いたいことはこの事ですよ 特アじゃそれを愛と呼ぶんだぜ asian slave!asian slave!asian slave!asian slave! 韓国魂 豚足人種は潰せ 都合良く歴史作れ 他人の事は認めず それが韓国魂 街宣車乗り回し 盗って盗って盗りまくれ 豚足人種のクセに 小生意気な連中だ おい俺の言う事聞けないって言うのか おい俺を誰だと思っているのだ 韓国人 俺は韓国人 俺がキムチチャンピョンだぴょん 韓国人 俺は韓国人 限りなき起源だぴょん 旭日旗はぶっとばせ 俺はピザも作ったぜ 俺ってカッコイイだろう 俺って頭良いだろう チョッパリの悲しみは俺にはわからないけど 俺の賠償はどうか君たちは払ってくれ おい俺の言う事聞けないって言うのか おい俺を誰だと思っているのだ 韓国人 俺は韓国人 俺がキムチチャンピョンだぴょん 韓国人 俺は韓国人 限りなき起源だぴょん 金正日!金正日!金正日!金正日! 金正日!金正日!金正日!金正日! おい俺の言う事聞けないって言うのか おい俺を誰だと思っているのだ 韓国人 俺は韓国人 俺がキムチチャンピョンだぴょん 韓国人 俺は韓国人 限りなき起源だぴょん 若者たち 日本!!日本!!日本!! 民主政権になった 日本が真っ二つに軋んだ 原発か 売国か 国政を掻き毟った 調子づいた連峰は未来を真っ白けに染めて 明日はもう二度とやって来ないと思った 国民よ選挙に向かえ 特アの闇を切り裂いて 死にてぇ奴は 茜色の空を見なよ 石破も昭一も おんなじ空を見てる 国民よ選挙に向かえ 特アの闇を切り裂いて この時代に この国に生れ落ちた俺達 光溢れ 涙拭いて 最後笑って死ねるそんな国を守りたいだけさ サァ 政権-タマシイ-ヲ ツカマエルンダ ぶっ殺してくれ 国にたかる蛆虫を ぶっ殺してくれ 国にたかる蛆虫を おてんと様 おてんと様 日本!!日本!!日本!!日本!! 国民よ選挙に向かえ 歴史さえ切り開いて この時代に この国に生れ落ちた俺達 光溢れ 涙拭いて 最後笑って死ねるそんな国を守りたいだけさ サァ 政権-タマシイ-ヲ ツカマエルンダ 若者たちよ 暮れなずむ永田町-マチ-に 歌え 歌え 歌え やるなら今しかねぇぜ やるなら今しかねぇぜ やるなら今しかねぇぜ ---------------------------- [短歌]ヤスデさん/只野亜峰[2012年7月12日10時17分] ヤスデさん 溺死まぬがれ僕の家 来たはいいけど踏殺されて ヤスデさん 優しい人に会えたなら もっと長生きできただろうに ヤスデさん 広い世界の片隅で 僕に会ったが運の尽き哉 ---------------------------- [自由詩]キャンディハウス/只野亜峰[2012年7月14日18時09分] 飴玉一粒つまみ上げ お口の中に放り込み 無敵の戦士になったなら 装甲戦車に乗り込んで この世にはびこる悪行を ばっさばっさと切り伏せろ 桜吹雪の刺青いれて 印籠片手に杖を付き 夜神月のノートを借りたら 公爵夫人を轢殺だ 阿米 キャンディ ロリポップ トローチ 水飴 りんご飴 甘い瓦礫に群がる蝿を アースジェットで焼き殺せ ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]歌謡曲日和 sasakure.UK -ぼくらの16bit戦争-/只野亜峰[2012年7月21日21時01分]  こんばんわ。いつもあなたの寝床に這い寄るラブリーチャーミングな墓荒らし。私只野亜峰でございます。最終考察書くためにあさきばっかり聞いてるとそれはそれでメンタルヘルス的にえらい事になるので、現代の萌え文化の象徴である大天使ミクさんを筆頭としたヴォーカロイド旋風の中に身を潜め、しばしの憩いの時間を堪能している今日この頃ではありますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。  現代詩なんていうハイカラな文化を嗜んでいる皆様におかれましては、ヴォーカロイドなんていう俗物に興味の無い方も多いとは思うのですが、あれはあれでなかなか面白い存在でして、まるで興味ない皆様もとりあえず週刊ヤングジャンプの「週刊はじめての初音ミク」あたりから入場して頂いて、ニコニコ動画に蔓延る魑魅魍魎のような楽曲に慣れ親しんで頂きますと、新しい扉が開けちゃったりなんだりするかもしませんので、とりあえずその扉には触れない事をお勧めします。ちなみに個人的にはデッドボールPとかも好きです。  まぁ、そんなこんなでそろそろ三十路の扉が迫ってきた高層年齢の私にとって最初に触れたネット音楽文化というのはBMSというムーブメントでして、これは当時から現代にかけて人気を馳せたコナミの音ゲーであるビートマニアを模して作られたPC用のフリーゲームbm98に端を発し、今に至るまで著作権的な問題も孕みながらメーカーの黙認という形でかろうじて今も残っていたりしますが、youtubeもニコニコ動画も無い当時においては著作権のグレーゾーンをひた走る媒体の一つであったりもしました。しかしながら自由に曲を拡張していける性質はアマチュアの作曲家にとっては絶好の発表舞台であった事も事実で、BMSでの活動を足がかりにプロのステージへ羽ばたいたり活動の幅を広げた方も少なくないんじゃないかななんていう風に思います。今ではニコニコ動画がその役割を果たしているとも言えますが、個々の作品にかかる熱量は当時のほうが高かったんじゃないかななんていう風にも思ったりします。まぁ、ここは回顧厨のおっさんの戯言ではありますが。  ともあれ、そういったBMSムーブメントの中で出会ったBMS作者の一人がこのsasakure.UKであるわけです。無駄に壮大だったり無駄にぽわぽわしていたりする作風にすっかり惚れこんでしまった僕はそれはもう日がなシナモンやらXやらをピコピコ叩いて遊んでいたものですが、やがてBMSブームも下火になって自然と遊ばなくなったりしていたわけで。なので、ニコニコ動画でsasakure.UKの文字を見つけた時にはそれはもう飛び上がったものでした。相変わらずのピコピコ感にそれはそれは歓喜した僕は以来この曲を聞き込む感じになり、今度アルバムでも買いにいこうかと画策しているわけであったりするわけです。  まぁ、個人的な思い出話はほどほどにしておくと致しまして、この曲が流行った当時と言いますのがちょうど石原の爺様が非実在青少年がどうとか言い出した問題が囁かれてた時期で、16bitという言葉を二次元と捉えて二次元弾圧に対して反旗を翻す時が、来たのだー。なんていう風にハッスルする方たちもおもしろい事になっていたりしましたが、石原都知事といえば基本的に保守的な方ですので最近は尖閣問題で面白い事してたりして応援したら良いのか反旗を翻したら良いのか微妙なところですが、保守成分がわりと不足してる今の日本ではとりあえず応援していた方が無難な気がしていたりで非常にアンニュイな今日この頃だったりします。ただしアグネス、てはーはダメだ。  あんまり娯楽文化の嗜みに政治的主張を組み込むのは趣味では無かったりするのですが、最近はむしろそういうのも娯楽の楽しみ方の一つだったりするんじゃなかったりするんじゃないだろうかと思ったりで、例えば忌野清志郎のTHE TIMERSなんていう覆面バンドではむしろこういった社会的な問題を積極的に扱っていてロボトミー殺人事件を題材にした「トカレフ」でありますとか、「宗教ロック」「偉人のうた」「税」なんていう過激な歌が枚挙に暇なく結構ありました。忌野清志郎といえばRCサセクション時代から歌われていた「サマータイムブルース」や「LOVE ME TENDER」なんかが反原発の歌として知られていて、僕が初めて行ったFUJIROCKでもホワイトステージで元気にサマータイムブルースを歌う姿を良く覚えていたりします。反原発の歌といえばブルーハーツの「チェルノブイリ」なんかも有名な歌であるかもしれません。  とはいえ当時は「反原発」というメッセージにあまりピンと来ないところがあったのも事実で、3.11の東日本大震災の原発事故以来積極的にサマータイムブルースが取りざたされていたのはむしろ違和感を覚えたりもしたものでした。忌野清志郎のコアなファンとは言い難かった僕が清志郎のこういった政治的なメッセージに対して興味を持ったのはむしろ彼の死後の事でしたし、今思えば甲本ヒロトがチェルノブイリを歌うことをやめても清志郎がサマータイムブルースを歌い続けたのは原発の脅威を知らない若年層に対する警鐘のアプローチとして一定の意義があったようにも思えますが、それでも3.11以降の原発アレルギーとも言える諸所の活動に対しては冷ややかなものを感じざるを得ないわけです。この違和感をはっきり感じたのがその昔Hi-standardというバンドを率いてインディーズシーンを盛り上げた横山健その人のツイッターであるわけですが、問題に対する無知を自覚しながらもまるで夢遊病のように反原発の発現を繰り返す彼の姿にはっきり落胆してしまった僕は一抹の寂しさを感じつつも、その後も様々な思惑に絡め取られていく反原発思想の姿を目の当たりにしてくると、どうにも素直に受け入れられなくなったりしてきたわけだったりするわけです。忌野清志郎が細々と、しかし力強く発信し続けたサマータイムブルースがこのような一過性のプロパガンダに利用されてしまうのはどうにもやるせないものがあります。  確かに原発ビジネスなんていうふうに揶揄されるほどに巨額の資金と利権の渦巻く原発問題には一市民である僕なんかには考えが及ばないような暗い部分が漫然と存在しているのは確かにそうなのでしょうけれども、かといって容易く反原発のムーブメントに恭順してしまうのはこれまた望ましくないように思ったりもします。脱原発運動自体は個々人の主義や正義に準じて行われるのですから好ましい事のように思うのですが、反原発デモ等のこういった活動の陣頭指揮には必ずといっていいほど思想的に偏ったよからぬ人間が紛れ込んでくる事も否定できないわけです。よからぬ連中というのはもちろん日の丸や君が代に異常な嫌悪感を示すあの連中の事だったりするわけです。  積極的な活動自体に問題があるわけでは決して無いでしょう。知見を深めるも良いですし、声を上げて不条理を訴えるのも悪いことではありません。しかしながら、かつての学生運動がそうであったようにそこには必ずよからぬ思惑が渦巻いている事も否定できないものです。そういった大きなうねりの中で個々人の主義と正義を守ることはおそらく容易い事ではありません。自らの主張がいつの間にか異なる他人の正義にすげ変わっていたとしても不思議は無いのです。朱に交われば赤くなるとも言いますし、行動を起こそうという時は自分が行動を共にする人間が何者であるのかを過不足無く真摯に見極めることが重要になってくるように思います。残念ながら今の世の中には他人の情熱を自らの暴力に取り込もうとする人間がわりと溢れかえっていたりするものです。それでもあえて大きなうねりの中に身を投じるのであれば、他者の正義が介入する間もないほどに強固に構えることが重畳であります。個人の正義はその個人だけの聖域です。たやすく他人の侵入を許せばロクでもない事になる事はうけあいであるでしょう。  さて、そろそろ肩が凝ってしかたがありません。慣れない政治的主張なんてするもんじゃないですね。小難しく考えずに娯楽は娯楽として享受するのがなによりであるというお話でした。おとなしくささくれPにベキベキされてるのが一番ですね。それでは亜熱帯の片田舎より私、只野亜峰がお送りしてしまいました。どうかあなたの掲げる正義が異なる誰かの正義に蹂躙されぬ事を祈って。 ――GOOD LUCK. ――幸運を祈ります。 めぐっぽいどオリジナル曲】ぼくらの16bit戦争【PV付き】 http://www.nicovideo.jp/watch/sm7610111 ---------------------------- [短歌]胸毛腋毛鼻毛/只野亜峰[2012年7月29日2時19分] お互いに罵り合って良い物が書けるのだったらやったらいいさ お互いに傷を舐めあい良い物が書けるのだったらやったらいいさ 見下して俺は違うと息巻いて価値ある文化に浸ればいいさ 価値の無い戯言一人で垂れ流しおいらは猫と戯れるから ---------------------------- [短歌]出会い系短歌/只野亜峰[2012年7月30日6時02分] モバゲーでグリーでネトゲでフィッシング原発反対スポーツ万歳 ---------------------------- [短歌]ナマクラ工房/只野亜峰[2012年7月31日9時59分] ナマクラじゃ切れぬ冴えぬと嘆くより己が未熟を嘆くべき哉 ---------------------------- [自由詩]地下鉄ゾンビポチョムキンの何気ない日常/只野亜峰[2012年8月5日10時25分] うごうごうごうご地下鉄ゾンビ 腐った肉片引き摺り回し うごうごうごうご地下鉄ゾンビ ハイソなOLつまみ食い うごうごうごうご地下鉄ゾンビ 濁った眼であの娘を見つめ うごうごうごうご地下鉄ゾンビ 崩れた肉片拾って捨てる うごうごうごうご地下鉄ゾンビ 空き缶拾ってプルタブ抜いて うごうごうごうご地下鉄ゾンビ 狂った時計を見つめて笑う ---------------------------- [短歌]只野亜峰のお料理教室/只野亜峰[2012年8月7日11時15分] 焼きうどん 油ちょろちょろ肉ジュージュー 野菜お好み うどんはレンチン 炭火焼 炭は無いから 諦めて レンジでチンして バーナー炙り 冷や奴 わさびにかつおに ねぎ刻み 醤油たらせば 出来上がり哉 ---------------------------- [自由詩]ブラウンシュガー/只野亜峰[2012年8月7日12時13分] あの娘の瞳のブラウンシュガー手のひらの上で転がして ブリキ玩具の鈴の音を夏の日差しに溶かしていく ハビットメタルの軸受けにビー玉一つを投げ入れて ---------------------------- (ファイルの終わり)