春日線香 2018年10月7日4時37分から2021年3月4日23時12分まで ---------------------------- [自由詩]低い土地 2018・10/春日線香[2018年10月7日4時37分] 茄子にソースをかけたものを食べて外に出た。人が叫んでいる。何事かと思うがこの目ではよく見えないので構わず歩いていく。車と車の間には程よい間隔があってところどころにきれいな売店も出ている。ジュースを買った。飲みながら歩く。人が倒れてもう腐っている。          * * * おじさんは女性器の形の彫像を作って暮らしているという。売れますかと聞くと売れないと言う。できの悪いものはたまに庭に放り投げているらしい。カラスが五羽、電線に並んで黒い目を光らせている。看板にぶつかってはいけないよと言うので、かなり苦労してそこを通過した。          * * * 柿がべちゃべちゃ落ちていて歩きにくい。甘ったるい匂いに胸が悪くなる。今日は薬を切らしてきたので、全部やれるか心配だ。いつも以上に注意を払わなければ駄目になるだろう。部屋に入ってからもまだ不安で、しばらくは電気をつけたり消したりして心を落ち着かせる。          * * * 突き飛ばされて線路に落ちたそうだ。痕が残っていたとのことで恐ろしくなる。数人で肩を寄せて話しているのがガラス越しにぼんやりと浮かび、途切れ目から足元だけがくっきりと見える。いろんな靴を履いていて、男と女の足がある。          * * * 焼け跡を好む茸が一面に生えている。この先は藪になり、様々な鳥の住処になっている。近所の子供たちがよくボールをなくすらしく、金網が張られてその上にツタが絡みついている。ささやかにお化けの噂もあったりなかったり。          * * * うつらうつらしているうちに人が来て去ってしまった。まだ明るいのでもう一度呼ぼうかとも思ったが申し訳なくてやめる。それに夜には外に出かける用事もある。救急車が二台続けて通ったのがちょっと気になる。上着を着て靴下と靴を履いて暗い場所に向かう。          * * * 地上の空気が薄くて息がしづらい気がする。冬服を箪笥から出していると余計に息が詰まって、ぞんざいな手つきで家事を済ませていく。天井いっぱいに知らない人間の顔が広がっている。どこまで読んだかわからない本を開いて、ゆっくりと記憶の脈絡を辿る。          * * * 明晰なままで狂っていくのだ。私ではなく世界が。信号は青なのに携帯電話を覗き込んでいるせいで誰も渡ろうとしない。鳥は空中で弱く羽ばたいている。夜の鉄塔には犬も猫も人間も一緒くたに吊り下げられて、皆まだかすかに息がある。          * * * またこの場面。古い映画の中で若い祖母が蕎麦を啜る。つるつると延々と啜っているので逆に吐き出しているようでもある。黒縁眼鏡をかけて、お下げが二つ。その脇に若い祖父。母方の実家のようだがそうではないのかもしれない。地下かもしれない。 ---------------------------- [自由詩]洪水/春日線香[2018年10月9日1時51分] 玄関まで水が迫っているのでどうしようかなと考えていたところに、甲斐さんがボートで来た。そこら中で孤立しているので拾ってまわっているそうだ。ここもあと一時間もすれば完全に水没するというので、慌てて最低限の荷物を背負ってボートに乗り込んだ。見知った街が変わり果てているのは悲しいことだが自然の暴威は仕方ないことでもある。ボートの備えがあってよかったねえあんたは昔から心配性だったからねえなどと話している最中に、そういえば、と突如気がついた。甲斐さんは八年も前に癌で死んでしまったではないか。これはとうに死んだ人の操るボートではないか。水をかき分けていくボートの周囲に夢のように鮮やかな桃色の花が漂ってきて、甲斐さんと私はさざめく水面をどこまでもどこまでも運ばれていった。 ---------------------------- [自由詩]幽霊の感触―即興詩の試み/春日線香[2018年10月9日23時45分] 幽霊に触ったことがある、と話してその日は家に帰った。心の隅にざわざわと騒ぐものが現れて遅くまで眠れない。布団から起き出してコップに牛乳を注ぎ、壁の前で飲み干す。一人で暮らしている私の肩に触れる無数の干からびた手があり、その来歴を書き記さねばと思う。          * * * 南瓜を切ろうと包丁をぐっと押し込んだ拍子に刃で指を叩いてしまう。幸いにも深い傷にはならずに絆創膏を貼ってことなきを得る。が、何日かはやはり不便だった。怪我をしていることを忘れてドアノブを握ったりして不意に痛みが蘇る。書く文字も虫のようになった。          * * * やり過ごせばいいと考えている。溜まった洗濯物をどうにか片付けて、先送りにしていけばいい。その都度考えればいいと、今は楽な姿勢で本でも読んでいればいいのだと。窓から眺められる近所に工場の煙突があって、晴れた日には煙で雲と大気と繋がっている。          * * * 博物館のエレベーターで上に運ばれる。その後に地下へ。構造の中で身体が物体となる。ガラスケースの中の類人と目を合わせて、唇の端で薄く笑ってみる。組み合わされた標本のラベルを読むために身を屈める。背中の骨が一斉に動く。          * * * 地下鉄の出口ではいつも風に吹かれる。シャツの裾がはためいて、この時をいつまでも残しておきたい。信号は赤から青へ。分岐から分岐へ。落ちるような穴は見当たらない。地獄の入り口を象徴する巨人の大口、そんなものは存在しない。          * * * 本当に?          * * * 遠くで自転車が滑ってこけたので走り寄っていく。声をかけてみるがそそくさと離れて見えなくなってしまった。その後はまた小銭を数えて鶏肉を買い、野菜ジュースも買う。ハクビシンが電柱を器用に登るのに出会う。家に戻って電気をつける瞬きの間に、影が逃げる。          * * * 向かいのアパートにカーテンのない一室があり、部屋の中がよく見える。家具はなくがらんとしている。住んでいない。決まって午後六時に明かりがついて、たぶん明け方まで。幽霊が幽霊の家具を使って幽霊の食べ物を食べている。というわけでもなく。          * * * 時計は壊れる。時間が止まって水槽の中での生活が始まる。廊下の電気は長いことちかちかしているのでもうじき暗闇になるだろう。首に縄が巻きついている。野菜室では生ゴミが霜に覆われて干からびている。腕が空中で揺れる。足が空中で揺れる。          * * * 犬の尻尾が空から垂れ下がって動いているのをなんとか捕まえた。抜けてしまわないのを確かめて体重をかける。地上にはメリーゴーランドが回り、ピエロが風船を配っている。ピエロの風船が風に流される。風船にはピエロの笑い顔が描かれている。          * * * 本当に?          * * * 幽霊に触ったことがある。小学校の六年生の時、夜眠れなくてベッドでごろごろしていると、全身が靄でできたような人影が部屋に入ってきた。そいつは寝ている私に手を伸ばした。不意のことだったので慌てて手を出して握ってしまったその手の感触を、今でも憶えている。 ---------------------------- [自由詩]南の信仰/春日線香[2018年10月13日6時47分] 雀ほどの大きさの塊が手の中にある。線路に沿って歩くと片側がコンクリートで補強した斜面になり、さらに行くと竹藪の奥に家屋や井戸が打ち捨てられている。その先には登山道に続く道端に白い花の群生。あそこまで行く。あそこまでこの塊を持って行く。          * * * 封筒には長い白髪の束と、古い紙幣が二千円分。表にも裏にも無記名。燃やすか流すかしたほうがいいのだろうができないでいる。          * * * 塀の破れ目。ブロックの三つの穴が空を向いて、そのひとつにオロナミンCのビンが挿さっている。草むらから子供が飛び出してきてビンの口に指を突っ込む。これはあったこと。誰も憶えていない、誰も見ていない地上の。          * * * 三輪車がテトラポットの隙間で朽ちている。フナムシの高貴な城がはるかに聳え、影は複雑な表情をする。釣り人が残していった浮きが散らばり、一人の影が両腕を上げて防波堤の先へ駆けていく。痩せ細った胸。南の信仰。フェニックスの木陰。          * * * 彼は今、詩を書いている。          * * * 火山由来の地下水が地下を通って海底に湧くらしい。アパートの駐車場にしゃがんで遊んでいた子供が、五時のチャイムを耳にして家に帰る。彼の家には広い窓がある。窓の向こうには湾があり、湾には古い町が沈んでいる。海の底で暮らす人々がいる。 ---------------------------- [自由詩]白魚/春日線香[2018年10月16日15時29分] 足が寒くて目が覚めた。寝ているうちに片足が布団から出てしまったらしい。なにか不安な夢から抜け切れないで枕元の明かりで足を見てみると、透き通った白魚が腿のあたりまでびっしりと食いついている。食いついたきりでぴくりともしないので生きているのか死んでいるのかもさだかではないが、やはりこれは生きている物の怪だろう。夜中の弱い明かりの下、白魚は食いついた足から吸う血によって徐々にルビー色に染まっていくのだ。 ---------------------------- [自由詩]偽文集/春日線香[2018年10月17日5時29分] 見たところ肝臓のようだ。中学校の階段の踊り場の高窓から差し込む夕日に照らされて、赤黒い肉塊が落ちている。まるで今しがた体内から摘出したばかりとでもいうようにてらてらと艶めかしい輝きを放って、よく見ればその端がわずかに踏みにじられて床になすりつけられた跡がある。おそらく上靴で踏まれたものであろうその跡は筋状になって上階へと続いている。よく掃除されて清潔な踊り場に教師も生徒も通らず、あって然るべき死体もない。ただ肝臓だけが夕日に照らされて急速に腐敗の度を増しつつ、どうしたことか強いスミレの香りを放っている。スミレの芳香が悪意を感じるばかりにあたり一面に漂っている。          * * * 足が寒くて目が覚めた。寝ているうちに片足が布団から出てしまったらしい。なにか不安な夢から抜け切れないで枕元の明かりで足を見てみると、透き通った白魚が腿のあたりまでびっしりと食いついている。食いついたきりでぴくりともしないので生きているのか死んでいるのかもさだかではないが、やはりこれは生きている物の怪だろう。夜中の弱い明かりの下、白魚は食いついた足から吸う血によって徐々にルビー色に染まっていくのだ。          * * * 「僕がその古本屋を訪ねたのは職業上の理由があったからで、それはある秘匿された情報の調査のためである。戦前、日本国の気象情報は軍部によってコントロールされ、敵国にはもちろん、自国の国民にさえ正しい情報が伝わることはなかった。元より古い時代の話ではあるので今更そんなことに興味を持つ人も少なく、戦前の気象情報には相当の空白があり、今日に至るまである種タブーめいた扱いを受けている。中でも昭和十X年に国土を襲ったXX台風は、物理的な被害が甚大かつその後の社会にアパシー的な無力感を生ぜしめたこともあって、本来ならもっと早くに全貌が詳らかにされるべきであった。しかし統制下ゆえに民間はおろか軍部にすら……」          * * * 黄色のレインコートを着た人々が図書館のいたるところに配置されている。顔の部分が妙にうすらぼんやりしているので彼らは死者なのだとわかる。とはいえ、自分も同じような顔をしているのは明らかで、そもそもここに生きた人間が入ること自体が不可能なのだろう。いつのまにか塩素臭いレインコートを着せられて本の番をしている我々がこの職務から解放されるのはいつなのか、いやそもそも職務といえるのかどうか。棚から本を抜き出してぱらぱらと目を通しても、煤けたページに不明瞭な文字や図像が蛇のように蠢くばかり。呆れ果てて本を床に投げ落としても、次の瞬間には書架に新しい本が補充されている。棚から棚へ、部屋から部屋へ。時折すれ違う彼らの顔に絶望や恍惚を読み取ることは困難で、同じように、自分も自らの来歴すらわからなくなっている。レインコートの鮮やかな黄色だけがここでは神のごとく正しい。          * * * 玄関まで水が迫っているのでどうしようかなと考えていたところに、甲斐さんがボートで来た。そこら中で孤立しているので拾ってまわっているそうだ。ここもあと一時間もすれば完全に水没するというので、慌てて最低限の荷物を背負ってボートに乗り込んだ。見知った街が変わり果てているのは悲しいことだが自然の暴威は仕方ないことでもある。ボートの備えがあってよかったねえあんたは昔から心配性だったからねえなどと話している最中に、そういえば、と突如気がついた。甲斐さんは八年も前に癌で死んでしまったではないか。これはとうに死んだ人の操るボートではないか。水をかき分けていくボートの周囲に夢のように鮮やかな桃色の花が漂ってきて、甲斐さんと私はさざめく水面をどこまでもどこまでも運ばれていった。 ---------------------------- [自由詩]Ktの死/春日線香[2018年10月20日1時54分] 死ぬ時は死ぬ時の 風が吹くのではないですか 内側の草むらが騒ぎ いくつかの虫が飛び上がるのでしょうか あれは何? 毛布? 黒い毛布を吊るしてカーテンにしてください 瞼の上から光が眩しすぎる 眩しいところで息をするのは難しい 頬に花が降りかかって たしかに水気が感じられます 部屋を片付けてください スリッパを履いているので足は寒くない 時にはお酒を飲んでもいいでしょう 煙草も少し あとは心を静かに過ごしていれば それでいいのだと思います 陶のコップを割らないように気をつけて 赤い色の絵を取り替えてください 目が眩しい 本の買い過ぎや レコードの置き場所に気をつけること 犬が何枚も割ってしまって…… 冷蔵庫にケーキとソース 好きな花の匂いがします でももういい 手の中で転がす何かが欲しい 冷たい空気 羽毛のような…… この草を払ってください あれは何? 毛布? ---------------------------- [自由詩]ルナ・オービター/春日線香[2018年10月27日8時16分] 夜中に断水するというのでポットにティーバッグを放り込んでおいた。水出しのお茶を枕元に置いて寝れば水道が使えなくても一安心というわけ。そのまま布団で本を読みながら寝落ちすると、案の定夜中に目が覚めてしまう。ライトをつけてお盆ごと引き寄せると、作っておいたお茶は透明なままで、その中を数匹の金魚が泳いでいる。種類はどうやら普通の和金や出目金のようだ。これでは飲めないなあ、困るなあ、とひらひらと優雅に泳ぐ金魚を眺めながら、いつのまにかまた眠っていた。          * * * ゆらゆら帝国の三人がちょうど来たところで、三人とも火男の面を被っている。好きな曲をやってくれるらしい。でも何もこんなところでなくてもいいではないか。橋の上からは暗い水面がただ轟々と下流へ向かうのが見え、少しバランスを崩すとあっという間に水面下に引き込まれてしまうだろう。もしかするとそれを狙っているのかもしれないが、さすがに横暴が過ぎるのではないか。人死が出たらバンドの存続に関わるのではないだろうか……と不安に思っていたら、三人が面をさっと外す。そこにはまたもや火男の面が。それもかなぐり捨てると、さらに火男の面が。いつ果てるともなく無限の火男の面が。          * * * ここに新幹線が埋まっていますよ、と言われたので、そんなものかと覗き込む。本当だ。深いところでまだちかちかと電気が瞬いている。乗っている人は陽気に弁当などを食べているらしく、華やかな歓楽の気配が伝わってくる。それならあちらは何ですか、ともう少し深いところを指差してみると、あっちのは船だという。いくぶんくたびれ気味とはいえ往時の姿をよく残していて風情がある。階段状に下に行くにつれて古い時代に遡っていくようで、周辺を浴衣を着た人々がそぞろ歩いている。私たちも楽しく話しつつゆっくりとそちらに向かう。          * * * フローベールの幻の旅行記が出版されるらしいとの噂が界隈に流れる。極秘で日本に滞在していた本人が編集者に原稿を託していったらしく、まさにその原稿だという画像がネットに出回っているのだ。骨壺と言っても差し支えないような大きさの壺に綿が目一杯に詰まっていて、少し綿を取り除けると黄鉄鉱のような塊がいくつか入っている。その微細な結晶面を特殊な機械にかけて読解するらしい。さらに仏日翻訳もしなければならないことを考えるとなんという手間だろう。あれではまだまだ何年もかかるに違いない。生きているうちにどうにか読めれば嬉しいのだが。          * * * 月の東京から月の横須賀へ。道中は電車での快適な旅で、森の中を通る路線はまことに心が晴れるもの。広いシートは大人が数人並んでも十分なほど広く、窓から差し込む木漏れ日は眠気を誘う。途中下車して名物の遺跡や寺院を見学するのも楽しいし、そこでちょっとした講義を受けて学を深めるのも意義がありそうだ。ただ息苦しいのが難点ではあって、人々は皆ゼリー状のマスクを顔に装着している。月であっても酸素の供給は万全だ。とはいえ、これは秘密なのだが、マスクは気休めであって、本当は皆もう息などしなくてもいいのだけれど。 ---------------------------- [自由詩]朝の窓辺のスケッチ/春日線香[2018年11月4日6時56分]  窓辺に石を置いて。  太陽の銀の腕が頭の上をかすめて、ぼくは聴いている。耳 のないきみもまた、同じように。高速道路を走る軌道トラッ クが光を遮って闇を目指していた。オーガンジーの彩に……。  それとも、割れた壺のように?  イヤホンが片側だけで片歌を歌っていた。  低く飛ぶカラスの群れにつられて、鼠も目を覚ます。  徹夜の人々が溢れ出すのが、この時空ではよろめきという 言語で記された、ただ、瞼を焼いて髪を逆立てて。その時、 夢見られた夢がゆっくりと引き潮に乗って逃れ去る。  射手座と蠍座が牛乳を降り注ぐ。街路樹たちは、うんと伸 びをする。  ぼくは一人だ。  窓辺に石を置いたのはきみだろうか。  陶片に記された物語を読むのに夢中な肺の持ち主。  ネットに入れてバジルを乾燥させている。洗濯物の横では ぶら下がったハンガーが一本、顔をしかめる。  詩を一つ書く。  どんな時空も嘘で、嘘が時空で、厳かに震える、ホルンが 地底で割れているといっても信じようとしない。色が砕けて やり場がない。泡が潰れる。水が吐き出されて。  窓辺に石を置いて。  詩は幾筋もの川を流れようとしているのに、記憶は枝分か れして様々な脳に流れ込むのに、軌道トラック、小さな肉体 を運ばれて、チューブの中に滑り込む。スローモーション。  伏せられた部屋。あなたたち。  五個の石。それから三つの石。  ニュースでは追突された子供が死んだ。死んで、新しく蘇 ろうとして足を滑らせた子供たちが歩道橋を急ぎ足で渡って いく。古新聞がくしゃくしゃになって瓶詰めになる。悲しい とは思わない。悲しいとは  思わない。  ぼくは一人だ。大勢の影が地面に突き刺さる。  断水が突如やってくるのがこの地図の端。夜中の息を吐く と眠りが筒の中で反射されて、出口や入り口を祈っている。  思わない。  ぼくは一人だ。寝不足のトーチカの群れ。  窓辺に石を置いて眠りが来るのを待っている。    それとも、割れた壺のように?  コーヒーを飲み過ぎた海辺の生き物のように? ---------------------------- [自由詩]ポンペイにて/春日線香[2019年2月17日6時32分] 待合室でテレビを見ている。様々に体を病んだ人々。肩。頭の中の狂い。テレビではスポーツ選手の病のニュースがとめどなく流れている。ペットボトルを傾けて濁ったカフェラテを飲む。喉の奥に甘い液体が流れていく。二千十九年午後三時。          * * * 相手が何を言っているのかわからなくなる。口の動きが空中に溶けて、おもちゃみたいな青い梯子に巻き付いたかと思うと、痩せた足だけの存在になって上り下りする。不思議なこともあるな、と思っていると、徐々に世界の温度が下がり始める。          * * * 象の肉をスプーンですくって食べる夢を見る。少し甘くてやわらかい。象は目を細めて気持ちよさそうにしている。鼻を伸ばして池の水をさっと一振りすると、飛沫が陽の光を反射してきらきら輝く。眠っていた他の動物たちも寄ってきた。          * * * 十字架の形の庭で雑草が風に吹かれている。どこにも入り口がなくて随分長いことほったらかしにされている。赤いシーソーが風に揺れていて、赤いというのは錆でそうなっているのだが、ぎいぎいと鳴っているらしい。ここまで聞こえてくる。          * * * ベランダから猫が落とされている。落としている人の顔は影に沈んでよくわからない。あれは増えすぎた猫を間引いているつもりなのだろうか。落ちた地面で死にきれずに鳴いているものが大半で、中には無傷で走り去っていくものもあるようだが。          * * * 掘れば掘るほど水が出てくる。時々、茶碗の欠片が。疲れたので駅舎を迂回して水飲み場に行くと、全ての蛇口が開け放ってあって、その下にみすぼらしい植木鉢が並んでいる。どの鉢にも泥が詰まっている。どの鉢にも白い虫が蠢いている。          * * * 食うことと生きることは同じではないだろう。働くこともたぶん別問題。ポンペイを描いた絵の中で、人々はどこまでも幸せそうだ。用水路には白いザリガニが繁殖している。腹の破れた魚が死なずに泳ぎ続ける。          * * * 風の音だけだ。目の端に現れた黒点がじりじりと眼球を横切る。なにか饐えた匂いが漂っていて天井はやけに低い。首から腰までの接続がわずかにずれて調和を乱している。窓枠に限られた空に月が四つも散りばめられ、彼方で橋が静かに燃える。          * * * 終わりそうで終わらない長い夢。換気扇の中には姉妹が住んでいて、朝になると這い出てきた痕跡が残っている。写真に撮ったこともある。なんともいえない泣き笑いのような顔をして、二人とも子供なのにひどく年老いている。もう死にそうだった。          * * * 半分欠けた男がそこにずっといる。少しバランスを崩した姿勢で片手を上げて頭上を指している。空にはくっきりと飛行機雲が走り、昼の月が静止している。写真の隅に写り込んだような彼を、カラスも雀も、配達のバイクも突き抜けて、平然と暮らしている。 ---------------------------- [自由詩]副葬のためのノート/春日線香[2019年3月21日12時13分] 春の夜、ひとつの管玉がアパートの玄関に埋まっていて、きっとこの世の終わりまで気づかれることはない。それはもう定められたことで覆しようがないのだ。誰がそんなことをしたのか、小さな水仙の花が掲示板に画鋲で留めてある。          * * * 嫌だな、と思って上を見上げる。低いベランダから垂れ下がる食虫植物の房のひとつが、熟れたような赤紫に変わって膨れている。たしか去年の夏、些細な出来心で蝉の死骸を放り込んでおいたはずだ。それを思い出した。中は見えないが。          * * * 自転車を置きに裏に回るとあちこち工事している最中で、脳を露出させた人々が忙しそうに立ち働いている。生コンを注がれた一輪の猫車を操りながら、片方の手で頭をおさえて脳がこぼれないようにしている。危なっかしいのに不思議と整然として、夜遅くまで作業は終わらなかった。          * * * 老人が壁を舐めるのに必死だ。青白い舌をひらひらさせて土塀を舐め取ろうとしている。耳のうしろに大きな腫瘍がぶら下がっていて、頭を動かすごとにそれも一緒に揺れる。不憫に思って飲み物を用意したが一向に手を付けようとしない。壁はとても甘いのだという。          * * * ベランダに誰かいるらしい。磨りガラスの向こうに人影が蹲っていて、ほとんど頭を床につけて丸くなっている。部屋の中からは薄ぼんやりとして男か女かさえよくわからないが、少なくともまだ生きている存在ではあるようだ。しかし、それは、いつからそこにいたのだろうか。          * * * 毛玉を吐いて死んでしまった。そこに長いこと残されていたがやがて誰かが植え込みに蹴り込んだようで、いつのまにか草に隠れて見えなくなった。煙草の吸殻や砕けた鉢植えがごちゃごちゃと混ざるあたり。ビニール袋が飛んできてしばらく引っかかっていた。          * * * 目に見えないものが入ってきて、束の間、電気が明滅する。金魚鉢の出目金が腹を上に向けて死にかけている。茶碗、箸、ハンガーなどが床に散乱しており、足の踏み場もないとはまさにこのこと。外は花粉が飛んでいるのでもう何日も部屋にいる。何日も。          * * * そこには男女が千人も葬られ、時の経過につれてゆっくりと地中を動き回っているだろう。清潔な骨が擦れ合う中に、子供が差し込んだアイスの棒や自転車のスポークが混じったりする。急ぎ足で林を抜けてそこを過ぎる。ちょうど空に大きな月が掛かったところだ。 ---------------------------- [自由詩]婚活詩篇/春日線香[2019年3月26日11時34分] 刹那 ここを起点としてカンザスシティに熱い風が吹く。 推敲はしない。わけがない。 渦巻くウシュアイアのバルコン。 汗だくで田植えを終えたら トゥクトゥクに乗ってどこまでも行こう。 封筒豆腐に琺瑯老父。解体新書はアナトミア。 河出文庫の『西洋音楽史』を開いて もはや情報弱者の一人としてあり。 最近オペラにも興味あり。 マナスル登攀、そこまで産卵。 いつまでやっているのか。十一時半? このコーヒーを飲み終えたら、トーイック受けよう! 皿屋で皿買ってただけなのに 頭から真っ二つになるなんてオプションも。 伊勢神宮からまっすぐ続くレイラインが…… 阿蘇クマ牧場に八百頭のくまモンが…… 泥足が苦いから泥足にがえもん……日本会議が…… 地獄の第四圏の泥の底で カッフェーでコッフイー飲んでただけですか。 でも毎週ピッチャーできっついサッワー飲んでますよね。 やめ時がわからないっていうか、 あの人はたぶんふざけてるだけ。 「ほんとっすか!」「トスカーナ?」 キャリアとノンキャリアとバリキャリ。 あとカロリング王朝。 携帯でツイッター見ながら詩を書いてました。 気づかなかった。本当に? 「右は右翼の棚、左は左翼の棚」 「セクハラですよ」 「もう心臓止まってたし」 賽の河原も護岸工事したらいいし、 すまし顔ですまし汁飲んでる時代じゃない。 言葉の美とは、詩の効用とは。 (真面目?)(紀伊国屋書店?) グッピーディスカスサイゴン陥落。 川崎のパルコ一天にわかに掻き曇り、 女。 ならぬものはならぬ。 いかにして日本の精神分析は始まったか。 あそこラブホテル。どこラブホテル。 ここラブハリケーン。 カスパー・ハウザー夜更けに一人。 ニトリのベッドで起き伏し一人。 本当に心底それが必要ならば 失われし花と美と鼻水の国へようこそ。 あーぶくたった、にえたった。 パーソナライズ、リアライズ。 これは犬ですか? それとも四つ目のネコ? 幻ノ聲ノ先ノ根ノ國ノ吉ノ増ノゴーゾー? 紀伊国屋書店? 朝も夜も強く抱いたグーグルマップに弱点がある。 骨灰ギャラリー分厚い坂。反射炉さかしま鯨の胃。 バグパイプ鳴らすならず者。もう一人胡乱なならず者。 紅茶には塩、薔薇に蛆。有為の奥山けふ越えて。 ダイモーン三匹ねじれ六角柱。 「ここに空白を挿入しませんか?」 さあれ、雷様の陽気な瑜伽。 丸焼けタイヤ、伽藍堂。目刺しも目刺して骨の芯。 とっぷり日も暮れる。 ---------------------------- [自由詩]抜歯の周辺/春日線香[2019年8月26日18時36分] 親知らずが生えてきているらしい。レントゲン写真には横向きに生えた奥歯が白く輝いていて、このまま処置をせずに伸びれば隣の歯に突き当たってしまうのが容易に想像できる。今のうちに抜いておいたほうがいいだろうという医師の歯並びがとてもきれいだ。悪くないかもしれない。 誰もいないのにシャワーから熱い湯が流れ続けている。 窓際の観葉植物は枯れ、乾いたひとつひとつの葉が平たく張り付いている。最近、目が覚めると口の中が犬の毛でいっぱいだった。 最初からこうなることはわかっていたのだけれど、いざその時が来ると立ちすくんでしまう。目眩がして足元もおぼつかない。駅からついてきた幽霊が不思議そうに見守っているのがなんとなく感じられる。ポケットに突っ込んだ手に針が刺さって、そこから冷たい汁が止めどなく溢れ出る。 箪笥の裏、床下、排水口の先、いたるところに人形が置かれてある。物干し竿に吊られて、首を折り曲げられて、針山にされて、どの人形も両目を潰されて嬉しそうだ。まるで人形として仮初の生を受けたことが幸せでたまらないといった風に微笑んで。 抜けた歯がどんどん口に溜まってくるので、枕元に用意した洗面器に吐き出す。ぽろぽろととうもろこしの粒でも吐いてるみたいだ。何度かそれを繰り返しているうちに眠りが深くなって、気づくと資料館の中庭を上から覗く視点が始まる。草むらの陰で無数のトカゲが息づいているだろう。 蝶に蜜をかけてやりたいな。バケツに溢れるくらいの蜜の中に何匹も沈んで、陽の光が差し込んで影絵のようで、そのまま庭に置いておくと虫が寄ってきて真っ黒になってしまうだろうな。(それもいいな。)(夢みたいだな。) キリンは目に涙を浮かべて、深さのある池をゆっくり歩き回るとそのたびに波が押し寄せる。平屋建ての校舎はマッチ箱を踏み潰したみたいにぺしゃんこに潰れている。小さな悪夢の一片がうめきながら空を飛び回る。それにつれて折れ曲がるキリンの首はメトロノームのよう。 ラウンジの床は蜂の死骸で埋め尽くされて足の踏み場もないほどだ。 膝のあたりまで泥水が来ているので歩くのも慎重になる。自転車の残骸や倒れた自販機をやっとのことでまたいで、図書館のほうへやってきた。途中、水面を小さな紫色の花が埋めた小道を折れると、水没してしまった地下鉄への出入り口は板で塞がれて、そのあたり一面は髪の毛に似た藻で覆われて全然通れなくなっていた。 昼も夜も同じ靴を履いてきてしまったと考えながら話を聞いていた。植物は暗闇で眺めるべきではないかと熱弁している人。ひまわり、八つ手、モンステラには人間に似た感情があり、よくよく観察しているとそれがわかるようになるとか。とうに死んだはずのその人は嬉しそうに華やいで、薄暗い室内には草の匂いが立ち籠めている。 モノクロームの画面から常に逸脱していくものたち。それは目の端を横切って細長い体をシーツに潜り込ませる。布団を剥いだそこには影も形もなくて、あるいは錯覚かとも思うが、印象だけが灰色の壁に白線として刻まれる。 詩集に挟んだ青いカード。 空虚を埋めていくということ。 抜いたあとが大きな穴になってそこに血の塊が被さっているようだ。舌で触るとぷよぷよしている。痛みは大分やわらいだがどうしても気になって何度も触ってしまう。これではいけないと思って、気を紛らすために停留所脇の草むらに目をやる。今しがた、白い蛇のようなものが日向を逃げていった。 ---------------------------- [自由詩]地底湖/春日線香[2019年10月11日22時20分] オリーブ 明滅 ギャラリーにて 同居人 夜毎の腕 声たち 鬼火を辿って 地底湖 川辺を行く 夢から夢へ          * * * 砂から掘り出したオリーブの瓶を並べているのを見かけてひとつ買ってきた。光に透かすと粒に気泡がついている。少し塩気が強いが美味しいオリーブで、いろんな料理に使ってみたいと考えていたのに、身内の不幸で忙しくしているうちにどこかに紛れてわからなくなってしまった。          * * * それが本当なら酷いことだと話がまとまって席を立つ。別室にいる当人に詳しい話を聞こうということになって入っていくと、知らんぷりで後ろを向いている。窓の外が奇妙に明るくなったり暗くなったりを繰り返して少し肌寒い。自分たちが明け方の悪い夢の中にいると全員がとうに知っている。          * * * ギャラリーの床は水浸しだった。ところどころに小動物の死骸が転がっていて、聞けば土竜のものだという。近代文学と自我の話をつっかえながらした。出てからどこかで食べて帰ろうと思ったが、なんだか嫌な気分になってやめた。車輪が線路を削るような電車に乗って家に帰る。          * * * 住み着いた蛙を潰してしまわないよう、ドアを開けるのも慎重になる。思わぬところにいるのでぎょっと驚くこともある。そんなものは早く殺せと言われても、どうしたらいいのかもうわからない。肩が急に重くなったりして、まるで悪霊のようだなと思いつつそれが逆に面白い。          * * * 小麦粉まみれの腕が夜毎にやってきて窓にべたべた手形を押して帰っていく。それはいつからのことだったか。大きな黒犬に追いかけられたあとか。彼岸花をぼきぼき折った時か。とにかく窓ガラスが真っ白に曇って大変迷惑している。雨が降ると汚く流れてなめくじが這ったように見苦しいのだ。          * * * 商店脇の排水溝ががぼがぼと人間の声みたいな音を立てているのが気になる。さっきスマホのライトに照らされていた顔が、もうあんなに上空に移動した。蝙蝠が共食いをしている。敷石がずれて足場が心許ない。閉めた花屋の奥で人間と人間が会話しているのも妙だった。          * * * 捨てに行ったら帰れなくなっていた。広い道の真ん中に一列に花が咲き、夜中の町を冷たい鬼火が走っている。辿っていくと見覚えのある場所に出たが微妙に配列が狂って女の顔や髪が壁に張りついている。風が吹くとかすかに揺れながら、脳から歯を抜き取ってくれと細い声で笑う。          * * * せっかく地底湖まで来たので畔の教会に立ち寄った。観光地と聞いていたけど人がまばらでとても良かった。本来はもっと低い位置にあった建屋が、度重なる増水で湖に沈んでしまったために、百年ほど前に現在の場所に建て直されたらしい。祭壇にはタールを黒々と塗った当時の舟が今も残されていた。          * * * 飛蚊症なのか空全体が雲母を散りばめたようにきらきら輝いて、見ていると生きるのもそんなに悪くない気がした。崩れかけた自転車が川の中州に引っかかっているのもいい。水子が小さな手を振るのでおそるおそる振り返したら、波紋が空と水面の青を揺らがせて、それも秋の寂しさに合っていると思った。          * * * 遠く暗い場所を風が流れていくのが楽しかった。ふと目が覚めて、普段暮らしているアパートの一室ではなく実家にいることに気づいた。いつの間に戻ってきたのだろう。押し入れがいっぱいに開け放ってあって、下段から伸びるつるつるした坂道は海まで続いている。誰かいるようだ。登ってくる。 ---------------------------- [自由詩]通り魔たち/春日線香[2019年10月19日23時33分] 風はプールを波立たせた 濁った水底には幾人もの女が沈み ゆったりと回遊している 着物の裾を触れ合わせながら 言葉も交わさずに * 青いゴムホースで縛られた家 血管のように水が通っている 夜の間にだけ現れて 猫が出入りする * 饐えたゴミ捨て場に群れる カラス 野良猫 ハエや虫けら それから髪を引きずる なにか得体のしれないもの * 妊婦の腹のような 鞠状のものがぶつかるので 壁にはうっすらと 茶色い跡が残っていた * 坂下のどん詰まりに 桜の古木があって 黄昏時に木肌に触れると 人間の舌のような風が 耳元を吹き過ぎるという * 地蔵の頭上を 飛行機雲が伸びていく その束の間にだけ 地蔵は忿怒の表情をする * ブロック塀の穴に みっちりと肉が詰まっていた 轢かれた空き缶が 内臓をはみ出させているのも そう珍しくない * 運ばれていく事故車の上に 小さな獅子舞が舞う 華やかに紙吹雪を撒いて 空中を上下に 無音のままで * 電柱の高いところに ビニール袋が引っかかっていて その中で蛆混じりの赤土が 延々と何かを呟いている * 人が飛び降りた後の地面を 馬ほどのタツノオトシゴが 長い舌で舐めにくる つられて何匹か次々と * 雨が降って 捨てられた骨壷が 白い中身を吐き出している バスターミナル * 片隅の井戸は 何度さらっても髪が出るので 長年閉鎖されている 嵐の晩にはその下から 宴会の音が漏れ聞こえる * 藤棚の砂場から 這い出てくる子供たち 羽化するための 適当な高さの木を探して 町をさまよい歩く * 入道雲になって 歩いている男が 火葬場の煙突を ちゅうちゅう吸っている * 首の周りに 赤い布を巻きつけたような そこだけ血まみれになった白馬が 電線を伝って走っていく * どの窓にも顔が映し出されて 等しく激怒の表情を浮かべているが 何に怒り 何に絶望しているのか 自分にもわからないのだ * 高い木の枝から 様々な年齢の男女の 胴から下の部分が吊られている どれも裸で性器がある 鳥のいない雑木林 * 猫の死骸は常に変わる 緑色に苔生していることも 骨になって散らばっていることもある 時々は生き返って 餌をねだりに行くこともあった * 鏡は砕けて散らばり 方々で同じ顔を映す 顔は軽く口を開けている そこから甲虫が這い出る 何匹も * 焼けた金木犀が片付けられて そこは小さな駐車スペースになった もう何十年も前のことなのに まだ香りが漂っている 秋の暖かい日 ---------------------------- [自由詩]通り魔たち 2/春日線香[2019年10月24日17時29分] カーブミラーに映されている神社は かつても これからも 一度も存在しない * 残された靴を 一室に全て保管してあるという 棚には老若男女の区別なく 薄墨色をした靴が きれいに両足を揃えて並べられていた * 石段の上から 卵が数個、転がってくる 割れる気配はなかった 下まで転がり落ちてすうっと消える そしてまた上から転がってくる * 用水路から伸びる首が メトロノームのように角度を変え なるべく日向に向かおうとする 喉のあたりが寒いのだろう * ある山際の一角には 鬼の生臭い息が流れてくるので 水などは腐りやすい ただし柿はひどく甘いのだという * 高台の緑地公園 古びたコートを着て 妙に両腕の長いそれは 水道の蛇口にぴったりと口をつけ 朝から晩まで吸い続ける * 石垣の隙間に生きる 無数のかたつむりたち 地震があると ぽろぽろとこぼれ落ち 足の踏み場もないほどだ * 鎧姿の武者が佇み 行き交う人を睨めつける ただそれは 駅の改札の真上から 逆さにぶら下がってのこと * 無人の電車の床に 瓶が一個転がっていた 小鬼が封じられ 長い時間揺すられたのだろう 中でぐちゃぐちゃに潰れている * 肉色のなめくじが壁面に蠢き 太陽を避けて移動する それでアパート全体が 麝香の匂いを漂わせる * どこにも上り口がないのに 八階建ての屋上に設置されたジャングルジム その骨組みの中を 青い魚影が行き来する * 走る霊柩車の屋根に それは立っているのだが 不思議と着衣は乱れず 口に蛇を咥えて垂らしており 非常に満足げだ * もう顧みられることのない 小さな劇場の地底に いまだに腐敗の途にある 巨大な骸骨が直立している * 羽の目玉が瞬きする蛾が 一斉に飛び立ち あとから ピアスがついた耳が追いかけていく * 雲の中から透明な腕が伸びてきて 何をするわけでもなく そこに垂れ下がり 指先から腐っていくばかり * 博物館の敷地から出たという 二体の子供の人骨が 並べて展示されている ともに顎がないが * 強い風に煽られ ばたばたと身悶えする 鉄塔に引っかかった凧は 両面が闇黒 血色の目だけがぎらつく * 人間だったが もう人間ではなくなった 鳥に近いようである 喉の奥から 波音に似た呻きを漏らす * 新聞紙で汚物を拭いた跡があり 廊下の隅に寄せられていた 窓の向こうで 向日葵の死骸が列をなす 海のほうまで * 自分の首を手に下げて 歩いてくる人もいた 橋の上を吹く風は強い 鳥は羽をたたんで 光る川面を見極めていた ---------------------------- [自由詩]通り魔たち 3/春日線香[2019年10月29日18時07分] バスには人形が乗っていた 窓の外を眺めるのも 母に抱かれる子供も ハンドルを握る運転手でさえ 皆、焼け焦げたマネキンなのだ * エレベーターの隅に 風船が浮いていることがある いつも同じ風船のようだ 長い紐が垂れ下がっていて よく乗客の頭を貫いている * 目に墨の入っていない 大きな達磨が商店街に下げられ 折からの雨に濡れて 少し萎んでいるが 膨らむこともある * 全身に目をつけた人が 鋏から逃げ回っている 生前の罪でもあるのだろうか 徐々に追いやられて 有刺鉄線の山のほうへ * 曇り日の竹藪では 伸びてくる竹の子の 頂点が生々しく赤い そこに火が灯ることがある * 花に留まろうか 水溜りに降りようか 宙を迷ううちに蝶は ぺろりと女の髑髏の口に 飲まれてしまう * 何かを囲むようにして 無数の赤い塗箸が地面に突き立ち その真四角の一角には 草は生えていなかった 雪すら積もることがなかった * 空中を飛び交う仏壇が 時々落ちて 地面で粉々になっている 産業道路の朝 * 経典の文字が書かれた石が そこで大量に出土した 雨の日などには樹の下に 脳を露出させた僧が立つという * 蜘蛛の巣に 折り鶴が数羽 かかって弱っている 風下の暗い場所でのこと * 捨ててある冷蔵庫の中に 水が溜まっているようだった 亀かなにかが棲んでいるらしく 夜には水音がする 時々大声で笑う * 線路の枕木の間 そこだけいっぱいに 炊きたての白飯が敷き詰められ よく見ると中央に 梅干しさえ添えてある * あとからあとから墨汁が湧くので 塀は黒々と輝き 周囲の光を吸収するようだった かつて一家心中があった家で 市域からは離れている * スクラップ置き場では声が聞こえる くり返されるのはたった一言 『大丈夫?』 『大丈夫?』 * 今ではきれいに整備されて グラウンドになっている 死んだ力士が二人 水に膨れて流れ着いた河原 * 二人の女が 昔から将棋を続けていて いまだに決着がつかない 身体は腐り果てているというのに * お歯黒をしている と見えてその実 石炭を貪り食うので あんなに歯が黒いのだ * 洗濯物から手足が出るので 病院の屋上は閉鎖されている 中庭には蘇鉄 地下水を汲み上げた池には 真夏でも氷が浮かんだ * 猫は黒いゴミ袋に入って もう出てこなくなる 強い風が吹いてゴミ袋は 空高く舞ったあと 二度と地上に落ちなかった * 電柱のそれぞれに 花が供えてあって 灯りに照らされて輝いていた 風にそよとも揺れず 時間が止まったように ---------------------------- [自由詩]通り魔たち 4/春日線香[2019年11月4日17時25分] 藪にピアノが捨ててある 埋もれているがそれは確かで おぼろげに形がわかる 鳴ったりはしない 棺のようで気味が悪い * 腹の裂けた猫が 中身をこぼしながら歩いていく こぼれたのは極小の猫 共食いをするだけして やっぱり皆死んでしまう * ぶらんこや滑り台など 遊具があるのに人がいない それには理由があって 遊んでいると男の声が耳元で 長い悲鳴をあげるからだという * ある庭でずっと バウンドしているボール 二階の高さにまで上がって 落ちても音はせず 怖いほど血管が浮いている * なんのつもりか 生の鶏の手羽元が 塀の上にずらりと並べられ 荒らされもせず 新鮮さを保っていた * 陸橋の裏側には 熟れたりんごの実が沢山 時々滴るように落下して 人を殺す 大きな腫瘍にも似て * 段ボールが舞い上がって 一瞬人間の形を作り すぐに落ちて動かなくなった 車輌はその上を通る * 世を深く恨む 遊歩道の車止めの群れ 己の存在に飽き飽きして 風が吹くたび 酷く軋んでみせる * 一本足で 苔や新聞紙を食べる 死んでいるのに 本人はそれを知らない 鳥と仲がいい * ミミズの化生なので 両目は潰されていた 歩きながら口を動かして たまに泥を吐き出した * 羊羹や豆腐は 歯がなくても食べられる 顔の中心に 闇の穴をぽかりと開いて 這う女は笑っている * 唇も目蓋もなくて 生きるのは大変そうだった もうじき取り壊される ゴミまみれのアパートのベランダに 彼らは住んでいる * 花壇には首が埋まっているので 花木の育ちは良い ほとんど黒に近い赤薔薇が 健やかに南を向いて 刺す虫と戯れていた * 雲の上はるか 青空の小さな染みとして のんびりと優雅に飛び去る 巨大な牛の舌 * 幾重にも重なった 花弁をむしっていくと 恐怖に表情を歪めた 顔が現れることがある * 雨垂れの跡が 壁に格子のような模様を作り その中に 仲の悪い姉妹が暮らす 路地は血の色の夕日 * 描いた者も忘れている 看板の隅の黒猫 伸びをする姿勢のまま いつまでも生きて この世が先に終わる * 断ち割られた犬が 全力で駆け回っている 校庭はぬかるんで 早すぎる冬の 心音の夜が始まっていた * 砂から手足が出ているのが 流木のようでもあった 波打ち際に海月が寄せて 骨の海亀も 産卵にやってきた * フロントガラスには落ち葉が積もり 車の中を見えなくしていた ほんの少しだけ腐敗臭が 外に漏れている ---------------------------- [自由詩]通り魔たち 5/春日線香[2019年11月16日21時20分] 闇に飲まれる海を 歩いてくる人々がいる 靴を履かずに 埋立地から町へ 明かりへ * 事故の影響で ダイヤは一斉に狂った 側溝に流れ込む雨は こんなはずではなかったと 地上を蔑んでいた * 鳩が鳩を食っている 噴水はからからに枯れて 人の気配は久しくない 棚が倒されたコンビニの 自動ドアが執拗に開閉を繰り返す * 一室は閉め切られたまま 大人の背丈ほどの雪だるまが 溶けずに佇んでいた ちかちかと 蛍光灯が明滅している * 取り壊された後でも まだ建っている 住人もいる 水道は通っているが 金気が強いらしい * 空中で分解する電波 強い電波、弱い電波 尻尾と目玉を持った 死んで間もない電波 * てるてる坊主の影が 映っているのに どこにも吊られていない 部屋は静かで 窓は固く閉ざされていた * 壁にめりこんでいる男 胸のあたりで断ち切られ 頭が向こうに抜けている スーツ姿 夜には発光する * 耳まで裂けた口で 猫を食べる きゅうりもかぼちゃも食べる ああ見えて実は 落ちてきた天使なのだ * 宙に浮かぶ片足の靴は よく見ると糸で吊られ 静かに回転していた 餡子がぎっしりと詰まって 重そうだった * 積荷を降ろして トラックは去っていった タイヤの跡には水が溜まり それで化粧を直す 顔のない動物もいた * 腕を広げた案山子のようで 案山子ではなかった タイヤで平たく潰された 猫なのかもしれない * 昼も夜も 野原で回っている室外機は 自分が幽霊であると 知りながら回る 回り続ける * 折れた枝の先から 複数の白い紐が伸びて うつろに宙を掻いていたが 鳥は見向きもしなかった 雲は素早く流れた * 落ち葉の一枚一枚に 墨の文字が浮かび上がる しゃがんでそれを読んでいた 透明な人が 轢かれて粉々になる * 日差しを避けて かたつむりが多く住む 雑木林の下生えに 点々と 手首が落ちている * 敷き詰められた畳は 全て腐っていた そこに住む家族は ガスで死んだというので 声が少しおかしかった * 川は地下深くを流れて 輝く五色の花々を運んだ 時に人がそれを得て 不死になることもあった * 羽根と骨の塊になって ゴミはよちよちと歩く レールの上の光の反射 乾いた砂利が勢いよく 垂直に飛び跳ねて 静止している * もう長いこと 膝を丸めて埋められていた 人が起き上がって 雲の流れる空を眺める そのすみれ色 ---------------------------- [自由詩]ふぐ/春日線香[2019年11月29日0時21分] ふぐをもらった 皮がとても硬いので扱いかねていたが 家庭用の鋏で簡単に捌けるらしい 表面の針をぼきぼき折って 力を込めて刃を入れると 驚くほどオレンジ色の肝がこぼれ落ちた 身もガラも肝も一緒にして 野菜を加えて水炊きにすることにした ぐらぐら炊いているうちに出た灰汁を お玉ですくって流しに捨てる 浮かぼうとするふぐの身を 大量のネギをかぶせて汁に沈める いい匂いがしてくる 居間には家族が揃っている 父と母、妹、祖父 わたしはそれを隅で見ている 鍋つかみをした母が鍋を持ってきて 卓袱台の真ん中に置く 蓋を取ると湯気が上がって 祖父の眼鏡が曇った ふぐを家族で食べながら 父はわたしに様子を聞く 最近どうだとか 友達はいるのかとか 聞きながら切り身を放ってくれる わたしはそれが嬉しくて這っていき 口をいっぱいに開けてかぶりつく 塩辛いけどおいしい 身もガラもとてもおいしい 食べ終わった妹が横になる 父も腹を上にして横になる 母はいつまでも鍋をかき回していたが ついに諦めて横になる 祖父はさっきから見あたらない 父と母と妹とわたし 父は笑顔だ 妹も母も同様に笑顔だ わたしは悲しくなってきて ふぐなんて食べなければよかったと思う 家族が居間に横になって 天井を見上げている 暖かい空気と冷たい空気が混ざって やけに眠気がする 祖父があたりに漂っている 雨音が天井を通して聞こえてくる カーテンは閉め切られて 家族は眠っている わたしだけが起きていて ふぐなんて食べなければよかった あんなふぐなんて食べなければよかったと 泣くほど後悔しているのだ ---------------------------- [自由詩]手形/春日線香[2020年6月15日20時20分] 見えるでしょうか あの屋根の下、切妻という 人間で言えば額のあたり 大きな手形がついているのがわかりますか 男の手が両手揃って 雨の日などはくっきりと浮かび上がるのですが 今日もよく見えるかと思います あれはずっと昔からあるのです 一人の天狗が酔いを発して あんな高いところに手をついていったのです そのせいで我が家の者は皆 死のうにも死ねず 殺しても蘇ってしまうのです 覚えていますか 百年前のあの夜 寒い夏が終わろうとする頃 あなたは印を残していきました もっとよく見て 家族にも会ってください 皆待っています ---------------------------- [自由詩]巣/春日線香[2020年7月5日20時17分] 鶏の手羽みたいな女が 高いところにずっとぶら下がっている 肌は青いペンキを塗ったように真っ青で 裸足の爪まで青紫をしている 表情は暗くて見えない 垂れた乳房の横に穴が空いていて そこから音立てて蜂が出入りしている あのあたりに巣を張っているのだろう ぽたぽたと下に落ちる蜂蜜は 手で受け止めて舐めると甘い 舌が痺れるほどに甘い 風が強い真夜中などに女は ゆっくりと揺れて嬉しげに見える ---------------------------- [自由詩]鯉/春日線香[2020年7月5日21時03分] 水面に顔を寄せていくと 無数の鯉が浮かび上がってくる 餌をくれると勘違いしているのか ぱくぱくと開け閉めする口が異様である 指でも突っ込んでやろうか でも吸い付かれたら気持ち悪いな 上空の雲は思いのほか素早く動き 街を行く人も足早に行き来する 長いこと水辺に腹ばいになって 目を血走らせているのは自分だけだ それでも鯉は寄ってきてくれる どれも期待に胸膨らませて うまいものをくれると思いこんで なんて健気なんだろうと思う すばらしいな 脳が小さいな ---------------------------- [自由詩]巨人/春日線香[2020年7月6日19時29分] 巨人になって 谷を飛び越すことがある 足裏に地上の凸凹を感じながら 足首に絡む電線や 田んぼのぬかるみを楽しんだり 街を念入りに踏み潰す そんな時、人は わずかな寒気を感じて振り返り 呆然と街の死を見つめている あの顔はいい 天女でも放ってやりたくなる そこで逆立ちして 昔の踊りを踊ってやりたくなる ---------------------------- [自由詩]古雛/春日線香[2020年7月7日20時13分] 廃屋だと思ったのに誰かが住んでいる 破れた障子が引かれて その奥の暗がりがあらわになると 豪勢な雛飾りが設えられている 古い古い人形たち とてもきれいに手入れされて 唇に薄紅さえ塗られている つんと澄まし顔の古雛たち 廃屋だと思ったのに誰かが住んで ここで人形に仕えている 磨りガラスに頬を押し当てて 痩せた顔が助けを求めているような そんな気もする ---------------------------- [自由詩]柳蔭日記 2020.7/春日線香[2020年8月9日7時11分] 病院だった。身体中に青いペンキを塗った人々が、病室のベッドで睦み合っている。一階から五階までおおむね全ての部屋がそうなのだ。不思議と廊下や待合室はしいんと静まり返っている。外は薄曇りでところどころ陥没した道路には水が溜まっていた。          * * * 家を建てる時に壁に取り付けてもらったたばこの販売機を、三十年間一度も使わないまま解体したという。黒いパッケージに金で印字された高級そうな箱がぽろぽろ出てきたと聞いた。話のついでにひとつもらってみたが、黒糖のような香りがある以外はほとんど新品と変わりがないのが意外だった。          * * * 店では小さなタイルに少しずつ炒飯を盛って出してくれる。それが皿代わりで、コの字のカウンターは隅から隅まで客でいっぱいである。食べ終わってアーケードの中を通っていくと、どこで間違ったのか何度も同じ広場に出て、錆びた立て看板の地図をじっくりと見ることになった。通りすがりにコンビニでジャスミンティーを買う。          * * * おばけサボテンに次々に花が咲くのを、小学生たちが目と口をまん丸に開けて見ている。みんな鯉のような顔なので気味が悪いなと思っていたらどこかに行ってしまった。道に生ゴミが点々と落ちて、サボテンの花に夕日が照り映えているのが眩しかった。その下を人の乗っていない自転車が素早く走り過ぎた。          * * * 出先で雨に降られて傘を買った。葡萄も買った。公園は通り抜けられると思っていたのに現場検証のようなことをやっており、すぐに元の道に引き返した。結局、生き死にのことなど何もわからない。玄関を開けて上着と靴下を脱ぐ。葡萄を冷蔵庫にしまう。蛍光灯の光。どこまでも。          * * * 井戸蓋の上に料理が並べてあるのを順に片付ける。酒の瓶もいくつかあった。足元には小さな流しがあり、そこで箸や皿を洗っていると隣の人とも話が弾んだ。夏なのに柳の蔭は風が通って涼しかった。死んだ人も驚くほど元気で、次の場所のことなど話して楽しかった。          * * * 竹藪のほうに回ってみると大勢集まっていて、皆スマホやカメラを頭の上に向けて写真を撮っている。よく見ると竹は煙で霞んだように白い。百年に一度の竹の花が咲いているのだという。あちこちに小さな売店まで出ていて、歩きながら湯呑で甘酒を飲んでいる人もいた。色とりどりの風車がくるくると回っていた。 ---------------------------- [自由詩]トラムの話/春日線香[2020年11月1日8時53分] トラムは悪い病気を持っている。唇に薄紅色の肉の塊が垂れ下がり、ちょっと見には馬鹿みたいな花を口にくわえているようだ。だから大首女や酒飲みのガンに笑われるし、うだつが上がらなくていつまでも一人前に見られない。今日も街外れの遺跡で砂を掘っている。空に月が昇るまで毎日そうしている。 トラムが歌うと人々は嫌がる。口の肉がぶるぶると震えて、深い地の底で鳥が殺されているような音がする。おまえが歌うとどこかから不幸が運ばれてくるようだと皆はトラムに言い、また彼自身もなかばそれを信じているので人に聴かせようとはせず、一人のときに口ずさむ。トゥララ、トゥルララ。おもちゃみたいなスコップで砂を掘る。 ある日、トラムが砂掘りに精を出していると、小さな石の扉が砂の下から現れた。ずいぶんと古びた扉だ。苦労してこじ開けると階段が下へ下へと伸びて、冷たい空気がすうすう流れている。どこへ続いているのだろう。トラムはおそるおそる地下に降りていった。トゥララ、トゥルララ。歌は壁に反響していつもよりもっと奇妙に響いた。 それきりトラムは消えてしまった。彼がいないことに最初に気づいたのはバベル屋の主人だった。もう何ヶ月も経っていて、トラムが掘っていた遺跡は砂に埋もれてわからなくなっていた。トラムの消息を尋ねても誰一人知らなかった。主人は胸騒ぎを覚えたが厄介者に気を回す余裕はなかった。人々も病気持ちの妙なやつのことなんて気にもとめなかった。 何年かして街にはある噂が生まれた。どこからか気味の悪い音が聞こえる、と。誰もがふとした瞬間にその音を耳にして怖気をふるうのだけれど、どんなに調べても出所がわからない。それどころか、本当にそんな音がしているのかもよくわからない。耳のうしろを撫でる風、ほんの少しの空気の流れにその不吉な音が混じっているようだった。 またしばらくして親たちはあることに気がついた。子どもの間に病気が流行っている。唇が腫れ上がって、垂れ下がった肉がそのままの形で治らなくなった。一体何が原因なのかわからないまま多くの子どもが患った。あの不吉なトラムを思い浮かべる者もいたが数は少なかった。大首小屋は場所を移していたし酒飲みのガンはとうに死んでいた。バベル屋もなくなった。 今では何十年も経っている。子どもたちは親になり、彼らにも子どもが生まれた。どの住人の唇にも肉の塊が垂れ下がっていて、歌うと奇妙な響きの音楽になる。トゥララ、トゥルララ。不吉な風が吹くとき、彼らは歌わずにはいられないのだ。トラムの名前を知らなくてもその歌は口をついて出て、時折来る旅の者を不安がらせたりする。トゥララ、トゥルララ、ルルルルル。ざわざわと胸の奥をかき混ぜる。 ---------------------------- [自由詩]人面犬/春日線香[2020年12月8日17時28分] 今どき人面犬でもないと思って ジャージを着て走りに行って 駅からバラ公園に曲がった先の坂に 実際いたのだ それは 柴犬かと思って 首輪もつけていないのはめずらしい この近所の犬かなと覗き込むと くるりと振り返った顔が お誂え向きに人の顔で 咄嗟にスマホを取り出して 写真を撮ってみたらもう逃げてしまって なんだかやっていること全部が 馬鹿みたいな気もして よく撮れてはいたのに 顔は普通の犬の顔 やっぱそんなもんだよなとか 思いながら風呂に入って ベッドに横になって目をつぶる 人面犬か 今どき人面犬でもないけれど どこかで期待してもいる 呼吸を落ち着けて 夢の中でしか行けない町を ゆっくりと歩いてみる ---------------------------- [自由詩]デュカットは静かだ/春日線香[2020年12月26日22時56分] デュカットは静かだ それからエレミア、彼女の犬 犬は饒舌だ、名前はクーパー クーパーは今日一日元気だった 川辺で古い骨を拾った それは太古の地層から掘り出されたダイナソーの尾 というわけではなく5年ほど前にカーラが投げ捨てたKFCの骨 カーラは長生きして死んだ、彼女が若い頃 伴侶のダグラスは戦場で銃撃を受けた 腿から血が流れた それは脛を伝い、黒っぽい地面に流れた 戦友のゴードンはそれをきれいだと思った ゴードンは終戦後、銀行員になったが 戦場のあのひりつく感じが忘れられなかった 夜には自宅のバスタブで体を洗いながら 黒っぽい船が並ぶベトナムの港を思い出した あの頃の俺が一番輝いていた それが今ではTVショーを眺めながら 一日頭に染みついた数字を振り落とすことしかできない そんな彼の同僚であるところのアオキは いつも職場で性欲を燃やしている 彼の頭の中で戯れる黒い肌の妖精は コールガールであるとともに母親でもあって 巨大な乳房を振り振りスーパーマーケットで買い物をした レジでは43歳のジェーンが対応した 仕事が終わったら明日はようやく休みだ 休みの日にはいつも図書館に行くことにしている 返却本を司書の手に渡して そのハンサムな司書が奥に下がっていくのを最後まで見る それを心の底から堪能している オフィスの四角い扉が開いてまた閉まる一瞬の間に 奥の壁に貼られたポスターがちらりと見える それはカーデシア人デュカットのいかつい顔の大写しだ オフィスの窓から静かに外を見ている 窓の外には川が流れ エレミアの犬が古い骨をくわえて走っていく この骨でずいぶん長いこと楽しめるぞと思っている 犬の名前はクーパー 4歳オス、白と黒のまだらの雑種 この犬がいずれ宇宙を救うことになる ポスターのデュカットはそれを知っているのだ ---------------------------- [自由詩]穴/春日線香[2021年3月4日23時12分] おとこが夜中にやってくる そのおとこは生まれたことがないのである いっしょにゆこう どこへ とおくへ くちびるでかすかに笑っている いそいそと身を起こして 服を着て出ていこうとすると なまぐさい と言われる くさいとはなんだ と怒りたくなるが やっぱりそうなのかとわかっている じわじわと水位が下がっていく おとこは岸に舟を着けて わたしを突き飛ばしざまに ぐいっとやわらかいものをもぎとる よくわかっている 舟はおとこひとりを乗せて とおいとおい穴へと流れていく そこでは無数のかにが ひそやかに触れ合う音をたてて この世をやわらかく憎んでいる わたしは置いていかれて 薬缶のふたみたいにころがっている ふなむしがいっせいに目覚めて 体を食い荒らそうとも 目をあけてころがっている ---------------------------- (ファイルの終わり)