チアーヌ 2009年7月5日14時18分から2020年3月12日16時27分まで ---------------------------- [自由詩]お花畑/チアーヌ[2009年7月5日14時18分] 「お花畑が見たいの」 と彼女がいったので ぼくは一生懸命にお花畑を探した やっと見つけたお花畑に 彼女を連れていくと 「こんなのはお花畑じゃない」 と彼女はいった 前にもこんなことがあった お花畑なんて自分で探せばいいさ ぼくはそう思った そして彼女を無視した 実際、 彼女のいうことはもう ぼくの耳には入らなくなってしまっていた 彼女は不鮮明に歪み、 絵の具を全部まぜてしまったような色へと変化した それはすでに原型をとどめておらず ただの汚い水状ゲルだった 耐えられず別れを告げると 彼女は泣いたが それはぼくのせいではないと思う ---------------------------- [自由詩]修羅場へようこそ/チアーヌ[2009年12月2日15時14分] わたしの これからはじまる 修羅場へようこそ たくさんの首と 臓物が浮かんでる 沈んでる 今はまだ体内に そんな修羅場へようこそ 何も欲しくない だから奪わないで すべて閉じているから そんな修羅場へようこそ ---------------------------- [自由詩]崩壊/チアーヌ[2009年12月11日15時39分] 信号待ち 目の前で ビルが壊されていく ここは日本だから ゆっくり ゆっくり 壊されていく こんなこと とっくにわかってた このビルが建った頃から 滅びていくのを 待っているのが怖いから 壊しちゃうんだ みんな ---------------------------- [自由詩]言わないことば/チアーヌ[2009年12月17日18時53分] わたしたちは とても慎重に おたがいの気持ちや ふたりを限定することばを 言わなかった べつに 逃げていたんじゃない たしかに たまに寂しいけど そういうのはわりと へいきなの ---------------------------- [自由詩]どっちも同じ/チアーヌ[2009年12月20日12時20分] カワカミさんと カワムラさんに 会いに行ったら どっちがカワカミさんで どっちがカワムラさんか わからなくなってしまった カワカミさんとも カワムラさんとも 酔ったついでに チューをしてしまったところまで 条件は同じ 次の日から ひっきりなしに メールが来るのも どっちも同じ やりたい意欲も たぶん どっちも同じ 二人とつき合うか どっちも断るか たぶん どっちも同じ 同じくらい気に入ってて 同じくらいどうでもよくて だから ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]アスラエル/チアーヌ[2010年1月11日18時33分]  今俺は、横になって眠ることができない。  かといってただ座っていることもできない。  前屈みになっているような状態がいくらかましだが、その姿勢そのものが苦しいので全く楽ではない。  そしてずっと鼻から酸素を吸っている。  入院してから、鎮痛剤のおかげか胸の痛みはずいぶん収まったが、ただひたすら、息苦しい。そしてそれは日に日にひどくなっていく。  息苦しさ、というのはどうやら薬ではそれほど軽減しないものらしい。個人差もあるのだろうが。  ヘビースモーカーだった俺は、使えない薬、効かない薬が多いらしい。  まるで犬みたいに首輪をつけられ、それが日に日に少しずつ締まっていくような感じだ。  この苦しさは、胸に水が溜まっているせいだと聞いたが、実感としては息の通り道がどんどん塞がっていくような気がする。  そしてそれは緩くなることはない。  おそらく死ぬまで、この苦しさは続いていくのだろう。    入院したのは二ヶ月ほど前だった。  しばらくずっとイヤな咳が続いており、血の混じった痰も出るので、家の近くのクリニックに通っていたのだが、大きな病院での検査をすすめられ、そこで肺がんと診断されたのだった。  俺にとっては寝耳に水で、まさかそんなことだとは全く思っていなかった。  すぐに入院になった。    その後、医者が妻だけを呼び出した。  妻とは結婚したときから、こういうときにはお互い正直に言い合うように約束していたので、俺は妻に医者との話がどんなことだったのか訊ねた。  妻は動揺し泣いていたが、俺はもう手術しても意味のない末期の状態で、余命は三ヶ月から半年であることを教えてくれた。  数日前に、俺はこの大部屋に移って来た。  ここはどうやら、要観察の肺がん末期患者が集められているところのようだった。  大部屋とはいっても、誰とも会話はない。  みな息苦しいので、しゃべるどころではないのだ。 酸素マスクをつけて寝たきりだ。  がんが脳に転移したのか、わけのわからないことを言っている男もいる。  その男は四十五歳の俺よりも若く見えた。  それだけになかなか死ぬに死ねず苦しいのに違いない。  若いのは俺とその男だけで、あとはみな高齢者だった。  その若い男はベッドに手を縛り付けられていた。  点滴や酸素マスクをむしってしまうからということらしいが、たまに正気に戻ることもあるらしく、縛った手をほどいてくれだの、苦しいから起き上がりたいだのと言うので哀れだった。  起き上がりたいという気持ちは俺にもよくわかった。 息苦しいときというのは、とても横になって寝てなどいられないのだ。  横になっているとひどくなってくるので、少しでも楽になれるよう、いろんな姿勢を取りたいはずだ。  しかしそいつは縛らなければならないからなのか、仰向けにされているのだ。  さぞつらいだろう。  まぁ、俺が哀れんでも仕方がないのだが。  明日は我が身なのかもしれない。  そういえば最近、妙に頭がふわふわする感じがある。 俺の頭にもすでにがんは転移しているのかもしれない。肺がんというのは脳に転移しやすいらしいから。  年寄りの患者たちは、みな静かなものだった。  暴れる気力もないのか、そこはもう通り過ぎてしまったのか、ただぐったりと息だけをしている感じだった。  高齢になればなるほど、それほど苦しくも無いのか、強い薬を使っているからかなのか、ぐっすりとよく寝ている患者もいた。  俺は息苦しさと背中の痛みが強く、良く眠れない日々が続いている。眠っても、すぐに目が覚めてしまう。  薬の量は増えているのだが、段々効かなくなっているような気がする。  眠れない夜、俺はベッドでケータイをいじってばかりいた。  病院内では禁止だとばかり思っていたのだが、それは外来だけで、入院病棟ではそうでもないようだった。 自分のベッドの上で使うだけなら特に制限はなかった。  ノートパソコンを持ち込んでいる患者もいた。それで自分の病気のことを調べて、一喜一憂したりしていた。  俺も最初の頃は、ケータイでそういったページを見たりしていた。が、見れば見るほど、自分がどれだけ希望のない状況なのかを知ることになるだけだったので恐ろしくなり、今はそういったページは一切見ていない。  本や雑誌は頭と目が疲れてしまうし夜の消灯の後は読めなくなる。  ケータイは消灯のあと、眠れないときに暇が潰れるので良かった。  主にゲームをすることが多かったが、妻や友人たちにメールをするのも日課になった。  友人たちには見舞いに来て欲しくないと強く伝えてあるので誰も来ない。  俺はもう、入院する前の俺ではなかった。  こんな姿を友人たちにさらす気にはならなかった。 寝ているだけなのに二ヶ月で十五キロ以上体重が減り、顔貌が変わった。  だからメールが一番良かった。メールなら以前のように話せる。  俺は三十五歳のとき脱サラしてコーヒーショップを始め、最近ちょうど二店舗目を出したところだった。  妻は店に通って来ていた客のひとりだった。結婚したのは三年前だ。  俺にとっては初婚だったが、小学校で教師をしている妻は再婚で連れ子がひとりいた。連れ子とは言っても、もう大学生で、親元を離れて生活しているのだが。  俺は三男坊で、高校生のときに母親をがんで亡くしている。  母親は胃がんだったのだが、俺は体質が似たのかもしれない。  父親は生きているが、認知症が始まっており、一緒に住んでいる兄貴は俺の病気のことを伏せておいているらしい。  俺もそれでいいと思う。  自分の息子がもうすぐ死ぬなどということがわかったら、余計に認知症が進んでしまう可能性もある。  俺はこれまでよくやってくれていた店員に店の権利を譲ることにした。  場所もよく上手くいってる店なのでまだまだ続けられるはずだ。  そんなわけで、俺はもう後の人生は死ぬだけになった。  普通は誰だって死ぬのは嫌だろう。  俺だって嫌だ。  自殺するやつに、寿命をわけてもらいたいと真剣に思う。  この息苦しさもわけてやりたいと思う。  調子が悪いときは苦しみに耐えるだけで何もできない。  いくら胸水をとってもすぐに溜まる。  薬や点滴でいくらか楽になるとはいっても、すべてが消えるわけではない。  俺はもう助からないということは理解したのでせめて楽に死にたいのだが、医者にそう訴えても、 「だいぶ緩和されるはずですがやはり多少はつらいらしいですよ」  などと慰めにもならないようなことを言われる始末で、気分が荒れることも増えた。  俺は孤独だった。  妻は毎日のように病院へ来てくれるが、俺の気持ちや体の辛さは、妻になどわかるわけがないと思った。  現に妻は、一時退院したいという俺の希望を汲んでくれなかった。  酸素の機械を持ち込めば一週間くらいならなんとかなりそうだったのに、仕事も休めないし家で世話をする自信がないというのだ。  俺は心底がっかりした。  まぁでも妻だって、本当は仕事を休みたいのに休めないのかもしれないし、病院での俺の様子を毎日のように見ていれば、家でひとりこんな状態の俺の世話をすることに恐れをなす気持ちもわからないでもない。  そう思えば仕方のないことなのだ。  俺はそう思うことにしたが、妻との間に心の距離ができたことは確かだった。  俺が入った部屋は末期の患者だけを集めたところらしいが、噂ではもう一段階あって、危篤に近い状態になると個室に移されるという話だった。  言われてみれば、俺がこの部屋に入ってから、何人かがすでにどこかへ移動していっている。  交流もないからあまり関心もなかったのだが、行ってしまった患者がここへ戻って来ることはなかったから、おそらくそういうことなのだろう。  そんなある晩、いつものように目が覚めてしまい寝付かれず、ケータイでゲームをしていた俺は、薄明るい病室の中でふと人の気配を感じた。  病院なのだから看護師の見回りもあるし、夜中だってひっきりなしになにかしら動きはある。  人の気配があること自体は全く不思議でもなんでもない。  でも、なんだか妙に気になった。  その晩は、消灯のあたりから静かだった。  いつも夜中に騒ぎがちな同室の若い男は、昼間になにやら大掛かりな処置を受けたらしく、強い薬を飲んででもいるのか、ずっと眠っているようだった。  俺はゲームに夢中になっていたので、最初は気がつかなかったのだが、どうやらその男のところに誰かが来ているようなのだった。  そして小声で、何やら会話をしていた。  男は普通に話していた。  男が普通に話をするのを、俺は初めて聞いたような気がした。  俺はちょっと様子を見てみたくなった。  大部屋だが、ひとつひとつのベッドはカーテンで区切られており、昼間は開け放しにしておくが夜は閉めることが多かった。  俺はそうっとカーテンをつまみ、隙間からのぞいてみた。  男のベッドは斜め向かいにある。  この部屋はスペースを広く取ってあり、斜め向かいといってもわりと離れている。  しかし見えないことはない。  男のベッドのカーテンは一部開けられた状態で、看護師の後ろ姿が見えた。 (なんだ、見回りか)  そう思ったが、ふとなんだかいつもと様子が違うような気がして、俺はもう一度よく見てみた。  そして気がついた。  看護師の、白衣の色が違うのだ。  この病院の看護師たちは、薄いベージュ色の白衣を来ている。そして同じ色のキャップも被っており、足元は白のスニーカーだ。  しかし、目の前で背中を向けてる看護師の白衣の色は、一瞬白に見えたのだがよく見ると、薄いグレーだった。  そして靴は黒いローヒール。  そんな看護師は見たことがない。  少なくともこの病院では。  俺が不思議に思いながら見ていると、その看護師がくるりと振り向いて、俺を見た。 (音は立てていないはずなのに、どうして気がついたんだろう)   俺は慌ててカーテンを閉めた。  すると靴音が近づいて来て、カーテンがめくられた。 薄いグレーの白衣を来た看護師は、若いきれいな女だった。  薄暗いところで見たせいかもしれないが、ずいぶん肌の色が白く見えた。  目の色も薄く、全体的に色素が薄い感じ。でも、ナースキャップにまとめられた髪の毛は、黒く艶があった。  この病院では初めて見る顔だった。  が、なぜか初めて会ったという気はしなくて、昔どこかで会ったことがあるように感じた。 「何してるんですか?」  看護師は明るい調子でたずねてきた。 「ゲームですよ」 「どんなゲームですか?」 「こういうのですよ」  俺はケータイの画面をその看護師に見せた。 「あ、これ知ってます。楽しいんですよね、ガーデニングとか農場経営のゲーム」 「今ちょうど、バラの花が咲くところなんですよ」 「あっ、咲いた!バラってけっこう時間かかるんでしょう。三十時間くらいですか?」 「三十六時間らしいですよ。でも肥料をやって短縮してるんですけどね」  このガーデニングゲームというのは、ケータイの中で花を育てるというものだ。  種をまき、ゲームの設定に従って水や肥料をやっているうちに花が咲く。ただそれだけといえばそれだけのゲームだ。  俺は看護師とそんなどうだっていいことをしゃべっていて、不意に気がついた。  苦しくない。  痛くない。  こんなはずはないのに。  いくらでもしゃべれる。  俺はうれしくなりしゃべり続けた。  「でもね。俺、このゲームやってて花が咲くたび、最近時々思うんですよ。何しろ三十時間くらいかかるから、ああ今回も花が咲くまで俺は生きていたんだなぁって」  看護師はにこにこ笑って聞いていた。  普段は、あまりこういうことは言わないことにしているのだが、なぜかこの看護師には気軽に話せた。 「まだ、大丈夫ですよ。もうしばらく」 「そっか。もうしばらく、大丈夫なんですか」 「うーん、もうちょっと、かな」 「しばらくじゃないんだ。ちょっと、なんですね」  俺はなんだかおかしかった。  こんなことを言う看護師は今までいなかった。  でもほんとうは、こんな風に普通に、残り少ない日々のことを誰かと話したかったのだと俺は思った。 「それじゃ、おやすみなさい」  看護師はカーテンを閉めると、再び斜め向かいの男のところに戻っていった。  俺はなんだか気になって、またそっとカーテンの隙間からのぞいた。  看護師は男になにやら話しかけると、男の頭のほうに回った。  すると、部屋の中にゴトン、という重い音が響いた。  看護師は、ベッドを壁から外したのだった。  どこでもそうなのか、ここだけなのかは知らないが、この病院のベッドは簡単に壁から外すことができ、手術のときなどは、患者たちはみな寝ていたベッドごとコロコロと運ばれて行くのだった。  しかしこんな夜中に手術というわけでもあるまいし、と思ったが、 (そうか、あいつは個室に移動させられるのかもしれない)  そう気がついた。  看護師が男の寝ているベッドを押し、廊下まで出ていくのを、俺はカーテンの隙間からずっと眺めていた。    次の日の朝検温にきたいつもの看護師に、俺は昨夜のことを話してみることにした。  が、夜にはあんなに体調が良かったのに、朝になったら体中の倦怠感や痛みがひどく、ろくにしゃべることもできなかった。  俺の話はわかりにくかったと思うが、看護師は一応最後まで聞いてくれた。 「グレーの白衣?そんなのこの病院にはありませんよ。それに、黒いローヒールの看護師なんかいるわけないですよ。ここは、わたしたち看護師はベージュで、ドクターや技師さんたちは真っ白って決まってるんです。それに、斜め向かいの大谷さんなら、今もこの部屋にいますよ。夢を見たんですね」  看護師は忙しいのか、せわしなくそう言った。  きっと俺の話など、夢でも見たか幻覚だろうと思っているんだろう。  そういえば医者も、そろそろ少し強い薬を使うと言っていたから、そのせいだとでも思っているのだろうか。  そうなのだろうか。  夢なのだろうか。  そういえば本当は、俺はここ何日も、ケータイなど触っていない気がする。  なんだか最近、時間の感覚がちょっとへんだ。  ケータイの充電なんかはどうなっているんだろう。  斜め前の男は、やはり今朝もいるようだった。  が、昼過ぎころおかしな声がしたと思ったら暴れ始め、看護師や医者が集まりちょっとした騒ぎになった。  そして男は本当に、その日のうちにこの部屋からどこかへ運ばれていってしまった。  男は戻って来なかった。    俺もそのあとしばらくして、個室へ移された。  その頃から、本当に時間の感覚がへんになってきていて、妻がいつ来て帰っていったのか、よくわからなくなった。  兄貴たちやその家族も訪れるようになった。  起き上がることができず寝たきりになり、持続的な息苦しさが例えようもなくつらかった。腹に穴をあけられ、水も栄養もそこから入れられていた。  いつのまにかつけられていた酸素マスクがうっとうしく外したかったが、あるときから俺の手は動かなくなっていた。  ベッドに縛り付けられたのだ。  ろくに声も出ないのに、  「助けてくれ、ほどいてくれ、苦しいんだ」  と何度も俺は叫んでいた。しかし妻はほどいてくれるでもなく、隣で泣くだけだった。  それに喉が渇いて仕方がなかった。  そばにいる妻に水をくれと頼んでも、霧吹きで唇を湿らせてくれるだけだった。  俺がいくら水が欲しいと訴えても、 「口から水を飲んだら死んでしまうのよ」  などと妻は涙声でいうのだった。  全然わかっていない。  どうせもうすぐ俺は死ぬっていうのに。水を飲んだら死ぬっていうけど、飲まなくたってもうすぐ死ぬんだ、それでも飲ませてもらえないのか。  しかし俺にはもう、妻にそんなことを訴える体力も気力もなかった。  眠っている時間が多くなった。  起きてもただ目を開けているだけだ。  目を閉じていれば眠っているようにしか見えないらしく、あるとき、見舞いに来たらしい兄貴と妻の会話が聞こえてきた。 「式場の下見なんかは済ませましたか」 「ええ、昨日行ってきました。旦那さんの写真を準備してくれって言われたんですけどなかなかいいのがなくって」  なんだ、俺の葬式の相談か。気が早いな。  いやそうでもないのか。    目が覚めたら夜だった。側には誰もいない。  いつかのように、静かな夜。  俺はただ、ぼうっと目を開けた。  すると、どこからか足音が聞こえてきた。  その足音は俺のいる個室の前でピタリと止り、ドアが開いた。  静かだが、はっきりとした足音だった。  その足音は俺の方に近づいてくる。  そしてカーテンがすうっと開けられた。  グレーの白衣に、ナースキャップ。色白の顔に黒い髪。  あの看護師だった。  彼女は、俺の手の拘束をほどき、酸素マスクを外してくれた。 「具合はどうですか?」 「いいわけないでしょう」  そう言いながら俺は驚いた。  あのときと同じだ。  不思議と、つらくない。  へんに体が軽い。  しゃべることができる。 「それはそうですよね。あ、そうそう。そろそろ、別のお花が咲いてるんじゃないですか?あの、ケータイのゲームで」 「ああ、どうなりましたかね。最近具合が悪すぎて見てなかったんですけど」  彼女はベッドサイドのテーブルに置いてあった俺のケータイを開いた。 「わあ、咲いてますよ」  彼女はうれしそうに言った。  俺もつられてのぞき込んだ。  咲いていたのは、白いユリの花だった。 「きれいですね」 「あはは。ゲームですけどね」  俺は久しぶりに笑った。  どうしてだろう。不思議で仕方がなかった。  どうして苦しく無いんだろう。笑うことができるんだろう。  そうこうしているうちに、彼女は俺の腕についていた点滴の針も、 「このほうがすっきりするでしょ」  などと言いながらすべて外してしまった。  そして言った。 「そろそろ、いいかしら。ちょっと、苦しいかもしれないけれど」  彼女がにっこりしてそう言った途端、いきなり激しい発作が起った。  発作というか、息が全く吸えなくなったのだ。  急に俺の回りから、空気がなくなったみたいだった。 俺は苦しさのあまり必死で暴れまくった。  そして回りから空気が消えたと思ったら、俺はビニールに包まれており、そばには巨大な掃除機が現れた。 それがものすごい勢いで、まるで布団でも圧縮するみたいにビニール内の空気を吸い込むので、俺はあっという間に真空パックにされてしまった。  もう限界だ。  痙攣しながらそう思った時、彼女が大きなハサミでビニールを切り裂き、俺を救い出してくれた。 「ごめんなさいね。つらかったでしょ」  彼女はすまなそうに言った。  そうして、俺をゆっくりとベッドに寝かせた。  俺はもう苦しくも痛くもなかった。 「ほんとにごめんなさいね」  そう言いながら彼女は俺の胸にそっと手を当て、何度も優しく撫でてくれた。  すると苦しかった胸がすうっとして、まるで健康だったときのように楽になっていくのがわかった。  俺は彼女を見つめていた。  そのとき、俺はふと気がついた。 (母さん)  誰かに似ている、どこかで会ったことがあると思っていたのだが、彼女は母親とよく似ていたのだった。 高校生の時、がんで亡くなった母親に。 「さあ、一緒に行きましょうね」  彼女はそう言うと、俺の頭のほうへ移動し、壁からベッドを外した。  月明かりだけの暗い部屋に、ゴトン、という重い音が響いた。  そして、押しながら歩き始めた。  まるでベビーカーでも押しているみたいに、その足取りは軽やかだった。  俺はベッドごと部屋から出た。  そして、夜の病院の中を、どこまでも運ばれていった。                       終り   ---------------------------- [自由詩]コンパス/チアーヌ[2010年1月14日15時15分] あなたを中心にして その円の中の全員と しました あなたが好きだったから ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]黒頭巾ちゃんと仮面舞踏会/チアーヌ[2010年1月19日23時59分]    黒頭巾ちゃんは、夜のお出かけの準備をします。  真っ黒なロング・ヘアをアップに結い上げ、深紅のロングドレスを身につけ、広く開いたデコルテにはダイヤのネックレスを。  そして、黒頭巾ちゃんは、鏡の中の自分の顔をしばらく見つめたあと、最後の仕上げに、ペタリと、自分の顔の上に、全く違う顔を乗せました。  そして、濡らしたスポンジで押し当てながら、ゆっくりゆっくりとのばして行きます。  そうして、鏡を見てにっこり。元の顔とは違う、全く違う女の出来上がりです。  もちろん、普段身につけている緑の頭巾はタンスに仕舞ってあります。  今夜は、仮面舞踏会。  みんな、違う顔をつけてその場に現れるのがルールなのです。  身支度を終えた黒頭巾ちゃんが、お庭で咲かせたオールドローズで作った香水を、太腿の内側と手首と耳朶にそうっと擦り込んでいると、ドアを開けておおかみが部屋の中に入ってきました。 「おい、もうそろそろ出かける時間だぞ」 「今、行くわ。あら、あなたも素敵ね。いつもの顔の、何倍もいい男じゃない」 「お前はのセリフはいちいち余計だよ。たまには素直に、俺を褒めたらどうだ?」 「これでも褒めてるつもりよ」 「どうだっていいから早くしろ。本当に、女は支度が遅いから困る」  黒頭巾ちゃんは溜め息をつきながら立ち上がりました。  楽しいはずの仮面舞踏会に、おおかみなんかと出かけなくちゃならないなんて興ざめです。が、しかし、他に一緒に行く相手もいないので、しょうがありません。  おおかみは、パーティに一緒に行く相手としては申し分が無いのですが、他はすべて最悪なのです。  家の前には黒い大きな車が止まっています。  運転手がドアを開けてくれるのを待って、黒頭巾ちゃんは後部座席に乗り込んで体を沈めました。  おおかみが乗り込んで来て、黒頭巾ちゃんのドレスを捲り、手を滑り込ませます。 「今夜は、お前もずいぶんといい女に見えるよ、黒頭巾」 「ふん。いつもと違う顔をつけているのだものね」  運転手が妙に気を利かせて、後部座席と運転席の間に半透明のスクリーンを下ろしました。  すると、急に静かな音楽が流れ出しました。  ラヴェルの「マ・メール・ロワ」です。 「ふん。気が利くじゃないか。俺たちにぴったりだ。まるでお伽噺みたいで」  おおかみが笑いながら言いました。 「気を利かせてもらわなくなっていいのにね。どうせわたしたちなんだから」 「そう言うなよ、黒頭巾。こんな風にさせてもらってるのは、誰のおかげだと思ってるんだ?」 「なんと言われようと、わたしはあんたなんか嫌いよ」 「まあ嫌いでもいいさ。サービスしてくれれば」  おおかみがズボンを下ろすと、黒頭巾ちゃんはドレスを持ち上げて、おおかみの膝の上に跨がるように腰を下ろしました。  何しろ広い車なのです。 「さすがだな、黒頭巾。下着も付けずにお出ましか」  おおかみがちょっと黒頭巾ちゃんを睨むように見ましたが、黒頭巾ちゃんが笑いながら腰を上下に動かすと、もうどうでも良いように笑いました。 「ガーターベルトはつけてるわよ」  車は静かに走り続けています。  もう間もなく、黒頭巾ちゃんとおおかみは、仮面舞踏会の会場へと到着します。 「楽しみだわ」  黒頭巾ちゃんはおおかみの頭を抱きしめながら溜め息をつくようにつぶやきました。 「今夜は、神様は来ているかしら」  黒頭巾ちゃんがそうつぶやくと、おおかみが黒頭巾ちゃんの体を抱き上げ、引き離すようにして、黒頭巾ちゃんを隣へ座らせました。  そうして、ちょっと寂しそうにつぶやきました。 「俺はいつか、お前を殺しちゃうかもしれないな」  黒頭巾ちゃんは何も言わず、おおかみの手を握りました。  車のドアが開きました。運転手がマスケラをつけて、微笑んでいました。 「行ってらっしゃいませ」  大理石の階段を登るとそこには大きな扉があります。  黒頭巾ちゃんはおおかみにエスコートされて、階段を上ります。  マスケラをつけた門番や道化師たちが、黒頭巾ちゃんとおおかみの行く手を広げ、会場の扉を開きます。  すると、溢れるような光と音楽が黒頭巾ちゃんを襲いました。  ハチャトゥリアンの「仮面舞踏会」が流れています。  黒頭巾ちゃんの背後で、扉が閉め切られました。  二人の周囲に、道化師たちが集まって来て、そして二人に、口々に卑猥な言葉を投げかけながら、シャンパンを差し出して来ます。  黒頭巾ちゃんはそのうちのひとつを手に取り、一気に飲み干すと、するりと手からシャンパングラスを落っことしました。これは、わざとです。  すると、まるで床に這いつくばるようにして、道化師がシャンパングラスを受け止め、そのついでに黒頭巾ちゃんのドレスの中に顔を突っ込むと、いやらしい笑い声を立てました。 「奥さん、下着つけてないね。こりゃあいい。こりゃあいい。こりゃあ......」  シャンパンを一気にあけて、とりあえず気分が良くなった黒頭巾ちゃんは、深紅のドレスを軽く持ち上げ、道化師に跨がるようにしてクスクス笑いました。  そうして、道化師にだけ聞こえるように、小さな声で言いました。 「今夜は、あなたにいろいろと協力してもらうことがあるかもしれないわ。いいかしら?」 「奥さんの言うことなら、どんなことでも。へへっ」  黒頭巾ちゃんは、にっこり笑いながら、道化師の手のひらに金貨を押し込みました。 「よろしく頼むわ。そっとわたしについていて」  そんな黒頭巾ちゃんの腕を掴んで、おおかみはどんどんホールの中央へと進んで行きます。  そしてホールの真ん中に来ると、おおかみは黒頭巾ちゃんの腕を離し、背中をトン、と押しました。 「まぁ、いいさ。楽しんで来いよ。久しぶりの舞踏会だろ」  黒頭巾ちゃんが何かを言い返そうと振り向いたとき、おおかみはもういませんでした。  ワルツを踊る人たちの群れの中に紛れ込んでしまったのです。  あのおおかみことだから、すぐにパートナーを見つけて楽しむつもりなのでしょう。 (勝手にやればいいわ)  そう思いながら、黒頭巾ちゃんが踵を返して、周囲の道化師たちが差し出すシャンパンを受け取りながら歩き始めると、向こうからブルーのドレスをを来た女がにこやかに合図をしながら近づいてきました。 「誰よあなた?」  何しろ違う顔を貼付けて来るのですから、誰が誰なのかさっぱりわからないのです。 「うふふ、わたしよ、わたし。ねえ、わからないの?」 「なんだ、青頭巾じゃない。よくわたしがわかったわね」 黒頭巾ちゃんはつまらなそうに言いました。 「ふん。そのダイヤのネックレスでわかったのよ。それ、おおかみが大枚はたいて買ってくれたやつでしょ、アンティークで、世界にこれひとつってやつ」 「そんなこと、放っておいてくれない。おおかみのことなんか今ここで考えたくないわ。それにしても、こんなところで知り合いに会っても始まらないわね」 「ま、それはそうなんだけど。まぁでもあなたも、どうせおおかみと来たんでしょう」 「そうよ。しょうがないじゃない。パーティへは、エスコートの男性なしで来る訳にいかないんだし。ところであなたは誰と来たのよ?」 「決まってるじゃない。柴犬よ」 「は?あなたまだ、あの柴犬とごちゃごちゃやってたの?」 「まぁね。一応ね。親切なヤツなのよ。でも、さすがにもう飽きたわ」 「で、どこにいるのよ、柴犬は?」 「えへへ、撒いて来ちゃったわ。あの男には、ここがどういうところなのかってこともわかってないと思うわ。だからちょっと気の毒なんだけど」 「ひどい女ね」  黒頭巾ちゃんはあきれたように言いました。 「あなたにそんなこと言われたくはないわね。さてと、手を貸してよ」  青頭巾ちゃんはニヤニヤと笑いながらそう言います。 「何をしろっていうの?」 「着替えるのよ!完全に柴犬を撒くためにね」 「あっなあるほど」  黒頭巾ちゃんは感心して、頷きました。 「そんなことなら、任せてよ」  黒頭巾ちゃんはクスクス笑いながら、つぎの瞬間には、獲物を探すために周囲を見回しました。 「あっあいつ!あのバカうさぎじゃない?」  色の白い、耳の長い、出るところが出て引っ込むところが引っ込んでいる、シルバーのドレスを着込んだうさぎが、かなり酔っぱらって、人の良さそうなカモシカ男に絡んでいるのが目に入りました。  違う顔を付けてはいるのですが、詰めの甘いうさぎは、うさぎであることを隠すことができず、見え見えなのです。 「おあつらえ向きのバカ発見ね。ようし」  黒頭巾ちゃんはにこやかに、うさぎへと近づいて行きました。  「こんばんは。久しぶりね、お元気だったかしら?」 「ええ、こんばんは。ねえ、でもどなただっらかしら?何しろ今夜は仮面舞踏会。わたしにはあなたがわからないわ」 「うふふ。そうでしょうね。でも、わたしにはすぐにあなたが可愛らしいうさぎさんだとすぐにわかったわよ。ねえ、ちょっと良い話があるの、ぜひお聞かせしたいわ」 「何よ、良い話って」  うさぎが、ちょっとうさんくさそうな目で黒頭巾ちゃんを見つめます。 「ええ、良い話よ。あなたが昔つき合っていた、柴犬さんのことなんだけど.....」 「えっ?なぜあなたがそんなことを知っているよ?柴犬が、どうしたって言うのよ!あいつはね、酔っぱらったわたしを置いて、他の女とどっかに行っちゃった薄情なヤツなのよ!」  うさぎが、酔いもあったのかちょっと興奮した様子になったところで、 「そうなんですってねえ。そこで、ちょっと良い話がありますのよ。なので、ちょっとこちらへ.....」  と、黒頭巾ちゃんはうさぎを適当に誘導して会場の外へ出て、さっきドレスの中を見せたついでに手なずけておいた道化師を呼び、うさぎに当て身を食らわせてもらい、眠らせました。  そうして、別室に連れ込んだうさぎのドレスを脱がせると、青頭巾ちゃんに、うさぎが着ていたドレスを着せ、うさぎに青いドレスを着せました。 「ちゃんとしたベッドに寝かせてあげるんだし、青いドレスも着せてあげたんだから、悪く思わないで欲しいわね」 「そうですなあ、奥さん。このうさぎは、今夜の仮面舞踏会が半ばを過ぎる頃には、目が覚めると思いますですよ」 「それならいいわ」  そのうちに、着替えを済ませた青頭巾ちゃんが、黒頭巾ちゃんと道化師の前に現れました。 「もう、何よこのペラペラのドレス。安物じゃないの。いやだわ、こんなの」 「贅沢言わないでよ、しょうがないでしょう」 「そっちの奥さん、マスケラをどうぞ」  道化師が、青頭巾ちゃんにマスケラを差し出し、青頭巾ちゃんは、ぶつぶつ言いながらもそのマスケラをつけました。 「うふふ。これでやっと準備ができたわね。さあ、行きましょう!」  黒頭巾ちゃんと青頭巾ちゃんは、微笑み合いながら、ダンスホールへと繋がるドアを道化師に開けてもらい、するりと中へ入り込みました。 「じゃあね、黒頭巾ちゃん」 「うふふ、それではまたね」  青頭巾ちゃんが扇で顔を隠しながら、ダンスホールの中へ消えて行きます。  黒頭巾ちゃんも、扇で顔を隠しながら、眼前で踊り続けている人々を眺めていました。 すると、 「奥様、わたしとおどって頂けませんか?」  そう言いながら、背の高いスラブ系の紳士が黒頭巾ちゃんの前に現れました。 なぜスラブ系かと思ったかというと、その紳士がボルゾイだったからです。  ロシア貴族の犬と伝えられたボルゾイは、とても大きく優雅で、まるで子馬のようです。 「ええ、いいわ」  黒頭巾ちゃんはうなずき、ボルゾイと共に踊り出しました。  ボルゾイはエスコートがとても上手で、黒頭巾ちゃんは自分の意思で体を動かさなくても、ひょいひょいと踊らされてしまいます。 「ダンス、お上手ですのね」  黒頭巾ちゃんがボルゾイを見上げてそう言うと、 「ええ。でも革命のあとは、あまり踊る機会もなかったものでね。今日は思う存分ダンスができて、うれしいですよ」  と、ボルゾイは品の良い笑顔で答えました。 「革命って、ずいぶん昔のお話ではなくて?」  黒頭巾ちゃんが不思議に思って訊ねると、ボルゾイは寂しそうに笑い、 「僕にとってはまるで昨日のことのようなのですが」  と、答えました。  そうしてそのうちに、黒頭巾ちゃんは、腰に回されたボルゾイの腕で、ダンスホールの片隅へと運ばれてしまいました。 「黒頭巾さん。あなたはとても美しい人だ」  ボルゾイが、そう言いながら、黒頭巾ちゃんを抱きしめ、キスをしてきました。  普段の黒頭巾ちゃんなら、ボルゾイの甘い言葉なんかに騙されなかったかもしれません。  けれど、今夜は仮面舞踏会なのです。  甘い言葉の言い放題、聞かされ放題、やりたい放題、今夜の舞台は楽しもうとするものだけに開かれるのです。  黒頭巾ちゃんはボルゾイのキスを受け、ボルゾイの語る甘い言葉に酔いしれながら、スカートの中に潜り込んでくるボルゾイの頭を蹴り出そうとじゃれ合い始めました。  こうなってくれば、ボルゾイだってやはり犬です。  音楽はいつのまにか、チャイコフスキーの5番のワルツに変わっています。 「いやんっ、くすぐったいわよ、ボルゾイ、やめてっ」 「うわっ下着穿いてないんですね、黒頭巾さん。噂通りの人だったんですね。今夜は僕が一番乗りだなんて光栄だなあ」 「あっやめてっほんとにくすぐったいのよ!あっ、....ああん.....はぁぁ」  黒頭巾ちゃんは、いつのまにかボルゾイに乗られてしまっていました。 「奥さん、お楽しみですね」  道化師が側に控えながら、ニヤニヤと黒頭巾ちゃんを見つめています。  そのあと、黒頭巾ちゃんは、ボルゾイと離れ、2、3匹のケダモノたちと遊びました。 (まぁでも、今夜は最初のボルゾイが、一番素敵だったかも。何しろささやきが良かったわ。あとはいまいちだったわね。甘い言葉が下手なケダモノなんか、ケダモノの風上にもおけないわ)  黒頭巾ちゃんはそんなことを思いながら、ふらふらとしていました。 「奥様、シャンパンをどうぞ」  シャンパン好きの黒頭巾ちゃんに道化師が次々に差し出すシャンパングラスを、黒頭巾ちゃんは飲んでは捨て、飲んでは捨てしながら、ダンスを続けました。  もちろん落としたシャンパングラスは、その度ごとに道化師が絶妙のタイミングでキャッチするのです。  それが、この仮面舞踏会での道化師のひとつの芸でもあるのでした。  音楽は「白鳥の湖」のワルツに変わっていました。 「ところで、今日のオケはかなり素敵ね」  黒頭巾ちゃんが、足元に這いつくばっている道化師にそう話しかけると、なんと、 「奥さん、なかなかお耳が高いですね。そうなんです。今日のオーケストラは、お忍びでとても有名な指揮者が来ているんです」  と、答えるではありませんか。 「へえ、有名な指揮者?それは一体誰なの?」 「奥さん、それは聞かぬが花というやつですよ。なにせ今夜は、仮面舞踏会ですから」 「そうか、それもそうね。ふふっ、それじゃあその指揮者の顔でも拝みに行こうかしら?」 「奥様、オーケストラピットはあちらです」  そのとき、ダンスの休憩時間が訪れました。  オーケストラが、ワルツをやめて静かな曲を演奏し始め、ダンスホールの中の人々は、食べ物や飲み物を片手に、バルコニーのほうや、大ホールを出たところに多数用意されている小さな舞踏場へと、移動して行きました。  みんな、今日の演奏が素晴らしいということを、良く知らないのです。 (何かしら。この曲は、確か......)  ふと、黒頭巾ちゃんの胸が騒ぎました。 (どこかで聞いたことがあるわ。どこかで.....)  ホールの照明が落とされ、黒頭巾ちゃんの周囲が薄明るい光に包まれました。 「休憩時間まで楽しむつもりかね。全く、好き者の奥さんにも困ったもんだ」  道化師がぶつぶつ言いながら黒頭巾ちゃんに付き従います。 (ああ、そうだわ。これは、チャイコフスキーのロメオとジュリエットじゃないの)  黒頭巾ちゃんの頭上で、シャンデリアが消えました。  そうして、黒頭巾ちゃんの眼前に、オーケストラが現れました。  こちらに背を向けて、指揮者がタクトを振っています。  黒頭巾ちゃんは、そっと横に回り、横顔を垣間見ました。  ベネチアンタイプのマスケラをつけた、その横顔には、見覚えはありませんでしたが、黒頭巾ちゃんは気がついたのでした。  演奏は続いています。  誰もいない大ホールで。 (神様.....)  黒頭巾ちゃんには、その指揮者が黒い神様だと、はっきりとわかりました。  そう気がついた途端、黒頭巾ちゃんの周囲は、暗闇に包まれました。  そうして、黒頭巾ちゃんの目に見えたのは、古い窓枠と、木の床でした。  使い込まれた木の床は、かつて黒頭巾ちゃんが、熱心に磨いたものなのでした。  そして、窓の外には、大きく育ったヒマラヤ杉の梢に、白い雪が降り積もっていました。  その広い部屋の、中央正面に据えられたスピーカーは、とても大きく頑丈で、素晴らしい音を響かせてくれるのでした。  黒頭巾ちゃんは、その頃、いつも神様と寄り添っていました。  その頃からもう、黒頭巾ちゃんは、神様の言葉通りに生きて行こうと決めていたのでした。  黒頭巾ちゃんと神様は、いつもしっかりと抱き合いながら、ステレオの音を最大にして、スピーカーの目の前で唇を貪り合っていたのでした。 (神様。好きよ。好きよ。愛してる。わたしはあなたのためなら何でもするの。どんなことでも、するのよ)  黒頭巾ちゃんの目から涙が流れました。  ふと気がつくと、演奏はすでに終わっていて、黒頭巾ちゃんは涙を流したままホールの隅に立ち尽くしていました。 「全くこの奥さんは、飲むといやらしくなるだけじゃなくて、泣き上戸にもなるのかい。ほんと困ったもんだ」  道化師が背後でぶつぶつ言っています。 「うるさいわね。黙りなさい」  黒頭巾ちゃんは不機嫌に、道化師に命じました。 「へい。へい.....」  道化師はおどけながら一回りしました。  全く腹の立つやつです。  そのときでした。 「奥様。音楽はお気に召しましたでしょうか?」  指揮者が、目の前に立っていました。 「あ、マエストロ....、え、ええ、もちろん。本当に、素敵でした。だからわたし、泣いてしまって」 「おやおや。泣かせてしまったとは。それでは、お慰めしなくてはなりませんね」  指揮者に手を取られ、黒頭巾ちゃんは歩き始めました。 「こんなに人の少ないホールで演奏するなんて、僕は久しぶりですよ。でも、楽しい経験だったな。奥さんのように素敵な女性と知り合いにもなれましたしね」 「みんな、バカなのですわ。こんなに素晴らしい演奏に気がつかずに」 「みんな踊りに夢中ですから、仕方がないですよ。それに、みんな楽しそうに踊っていましたし、それで充分なんです。ワルツと言えど、ダンスミュージックなんですから。踊れないようなものを演奏しちゃまずいですからね。それに、僕も本当に楽しかったなあ。久しぶりで修業時代を思い出しました。さて、今夜の僕のステージはもう終わりです。あとは、若い修行中のものにまかせるとしますよ。せっかくの仮面舞踏会を、僕も楽しみたいですからね。奥さんのような方と.....」  黒頭巾ちゃんが指揮者を良く見ると、髪には白いものがかなり混じっており、品の良い長い指も、骨張っていました。 (今日の神様は、ずいぶん年配の方のようだわ)  黒頭巾ちゃんは、そんなことを思いながら、指揮者に誘われるままに、バルコニーを抜け、指揮者の部屋へと向かいました。 「へへっ、世界的な指揮者なんて言っても、ひと皮剥けばただの男だね。熟れた人妻にはかなわないってことださね」  道化師が下品に笑いながら、黒頭巾ちゃんと指揮者の後を、ついていきました。  そしてベッドの上でのプレイが済み、黒頭巾ちゃんが目を覚ましたとき、指揮者の神様は、もういませんでした。  窓の外を見上げると、ぽっかりときれいなお月様が出ていました。  満月でした。  まだ夜は続いているのです。  指揮者はきっと、別の奥さんを漁りに出かけてしまったのでしょう。  黒頭巾ちゃんは、ベッドを出ると、放り投げてあったドレスを身に纏い、髪を適当になでつけ、部屋を出ました。  バルコニーへ出ると、ホールからはにぎやかなワルツが聞こえてきます。  このワルツは、もうあのマエストロの指揮ではないらしく、黒頭巾ちゃんの耳にはもう魅力的に響いては来ませんでした。 (ダンスは、もう、いいや。疲れちゃったわ)  黒頭巾ちゃんはふらりと、広い廊下へと出て行きました。  すると、どこからか、叩き付けるようににぎやかなピアノの音が聞こえて来ました。 (なによ、これ。まさか)  黒頭巾ちゃんは憤然として、小ホールのドアを開けました。  中では、華やかなドレスを着た牝犬、牝猫、牝うさぎたちに囲まれて、おおかみがピアノに向かい、乱暴な手つきでストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」を弾きまくっていたのでした。ずいぶんと楽しそうです。 「あら、黒頭巾。待ってたのよ。一体どこに行ってたのよ。ま、あなたのことだからロクなことしてなかったんだろうけどね」  赤ワインを手に、青頭巾ちゃんがすっかり酔っぱらった様子で、隣にいるドーベルマンに寄りかかりながら黒頭巾ちゃんに話しかけて来ました。  このドーベルマンは今夜の、青頭巾ちゃんの餌食なのに違いありません。 「あなたたちは、一体ここで何してたのよ?」 「え、別に?ダンスも疲れちゃったから、ここに来てみんなで和んでたのよ。そのうち、おかみがみんなにせがまれてピアノを弾き出したの」  そんな会話を、青頭巾ちゃんとしているうちに、派手なパフォーマンス付きで「ペトルーシュカ」の演奏が終わり、おおかみが黒頭巾ちゃんに気がつきました。 「おっ、黒頭巾。なんだかずいぶん楽しんで来たような顔だな?どうだっていいけど格好がもう乱れてボロボロだぞ」 「ほうって置いてよ、バカ」  黒頭巾ちゃんは、おおかみが相手なので、乱暴に答えました。  すると、取り巻きの女が言いました。 「黒頭巾さんったら、こわーい」  見ると、すっかり目をさましたらしいあのバカうさぎが、おおかみにしなだれかかるようにして甘えています。 「久しぶりですねえ、おおかみさん!あのときからわたし、おおかみさんにまた会えたらいいなぁって思ってたんですよ」 「ふうん、そうなのかい?ま、君のようなナイスバディな子にそう言ってもらえるなんて光栄だね」  おおかみがうさぎの目を見つめながら、ちょっと顎を持ち上げ、軽くキスをしました。  女たらしの面目躍如と言ったところです。まぁ、いつものことなのですが。 「そのドレスも可愛いね」 「あっバカ、あんた余計なことを」  黒頭巾は思わず舌打ちをしました。 (ドレスの話は鬼門なのに)  うさぎはおおかみにうっとりしながら、自分が着ているドレスに目を向けました。 「あら、そうかしら?おおかみさんにそう言っていただけるなんて....あれ?なんでわたしったらこんな見たこともないドレス着てるのかしら」 (まぁでも、今まで気がつかなかったなんて、やっぱり思った通り本物のバカね)  黒頭巾ちゃんは半分あきれながらうさぎの様子を見守っていました。  うさぎは、今初めて気がついたらしく、しげしげと自分のドレスを見、そしてふと顔をあげ、青頭巾ちゃんに目を止めました。 「あっあんた!なんでわたしのドレス着てるのよ!」 「あらうさぎさん。目を覚ましたみたいね?どうだっていいけど、何よこの安っぽいドレス!わたしだってこんなのごめんだわよ。でもねえ、騙しやすそうなバカはあんたしかいなかったんだもの」 「何ですってえ?」  青頭巾ちゃんはすっかり酔っぱらっていたのですが、バカうさぎの剣幕に逆ギレし、ワイングラスをポイと放り投げると、戦闘態勢に入りました。  うさぎもすっかり頭に血が上っているようで、側にいるおおかみに腕を抑えられています。そうじゃなかったらもうすでに飛びかかっているでしょう。 「ああもう、あっちの奥さんも、こっちの奥さんも、こりゃまた大変な方々ですな」  黒頭巾ちゃん付きの道化師が、青頭巾ちゃんのワイングラスをキャッチし、溜め息をつきました。 「ふんっ、なによこんなボロドレス。さっさと返してやるわよ!」  そう言いながら、青頭巾ちゃんはニヤリと笑って、ゆっくりと脱ぎ始めました。  青頭巾ちゃんの色っぽい体に、イタリア製の高級下着がしっとりと似合っています。 「相変わらずいい体してるなあ、青頭巾」  おおかみが青頭巾ちゃんのお尻を軽く撫でました。  すると、ドーベルマンがおおかみを睨みました。  おおかみは笑いながら、ドーベマンをいなすように言いました。 「なんだよ、いちいち真面目に考えるなよ?そんな風だと、人生楽しめないぜ?」  ドーベルマンは溜め息をつきながら、青頭巾の下着姿を、必死にタキシードのジャケットで隠そうとしていました。  もちろん青頭巾ちゃんは、そんなことおかまいなしです。 (青頭巾も、なんでいつもこういうタイプの、四角四面の真面目な男ばかり引っ掛けちゃうのかねえ?)  黒頭巾ちゃんは呆れたように思いました。 「さてと。当然、あんたも脱いでもらうからね」  黒頭巾ちゃんはうさぎに命じました。 「えっ、脱ぐって」 「当たり前じゃない。いますぐここで裸になって、青頭巾ちゃんにそのブルーのドレスをお返ししなさい」 「そ、そんな。いやよ、ここで脱ぐなんて」  うさぎちゃんは、まるで退路を探すかのように後ろをちら見し、後ずさりしながら言いました。  黒頭巾ちゃんは道化師に目配せし、うさぎが逃げられないよう、内側からドアに鍵をかけさせました。  おおかみも、おおかみの周囲にいた取り巻きの雌犬や牝猫たちも、面白そうに事の成り行きを見つめています。 「あんたねえ、自分からケンカを売って来たくせに何言ってるのよ?あははっ、それとも、人に見せられないようなみっともない下着でもつけてるんじゃないの?糸のほつれたような、ね」  青頭巾がからかうようにうさぎに言います。  うさぎは地団駄を踏んで悔しがりはじめました。 「そ、そんなことないわよっ。今すぐ、あんたの鼻先で脱いでやるわよ!」 「そうそう、その調子」  黒頭巾ちゃんが笑いながら言いました。  黒頭巾ちゃんは面白ければなんだっていいと思っているのです。  そして、飲み終えたシャンパングラスを放り出し、 「脱げ!脱げ!」  と、囃し立て始めました。  うさぎは憤怒の形相で、やけくそのようになってドレスを脱ぎ始めました。  すると、これがまた、意外なほど素敵な下着を身に着けています。  黒頭巾ちゃんはちょっと感心してしまいました。 「あら。意外だわ。まぁまぁいい下着、着てるじゃない?」  青頭巾ちゃんもそう思ったらしく、そういいながら、うさぎに近づいて行きました。 「これ、わたしも欲しかったのよ。フランス製でしょ。素敵ね」 「そ、そうです」 「うん、いいわぁ。わたしも欲しい!」 「は、はぁ....あっこれ、南青山で買ったんですよ」  褒められたせいか、うさぎが毒気を抜かれたように答え、そうして二人は楽しそうに、下着談議を始めました。  そこへ、ドンドンとドアを叩く音が聞こえてきました。 「あら、誰か、来たみたいよ」  黒頭巾がそういうと、道化師がドアを開けに行きました。  すると、汗だらけの柴犬が入って来ました。  遊びもしないで、ずいぶん一生懸命に青頭巾ちゃんを探していたみたいです。 「青頭巾!青頭巾、どこだ?あっ!その下着は!!俺が買ってやった下着じゃないか!っていうかなんでそんな格好をしているんだ!」  柴犬は転げるように青頭巾ちゃんの側にやってきました。 「ずいぶん探したんだぞ、青頭巾。一体どこにいたんだ?それにしても何だこの格好は」 「あーこれはね、えっと、ここにいるうさぎちゃんと下着の見せっこしてたのよ」  青頭巾は暗い顔になって、柴犬に弁明しています。 「青頭巾さん、誰です、この方は」  ドーベルマンが不審気に言いました。 「見ればわかるでしょ、はーあ」  そこへ、そうっと道化師が登場し、何やらドーベルマンに囁きながら、ドーベルマンを小ホールから連れ出してしまいました。  男同士のもめ事でも起こったら一大事です。  青頭巾ちゃんは、柴犬にブルーのドレスを着せられてしまい、すっかり意気消沈してしまいました。 「こいつに捕まっちゃったんじゃ、もうつまんない。わたし、帰るわ」 「そうねえ」  黒頭巾ちゃんも同意し、すっかり疲れてしまった黒頭巾ちゃんも、一緒に帰ることにしました。  普段から運動不足の黒頭巾ちゃんは、実際のところ、ちょっと遊べばもうくたくたなのです。 「帰るのか、黒頭巾」  おおかみが背後から話しかけてきます。 「うん。もう疲れちゃった。眠いの。だから帰るわ」 「そっか。今夜はもう満足した?」 「そうね。楽しかったわ」 「そうか。そりゃ良かった」  おおかみはいつになく、優しくそう言いました。  そうして、おおかみに腰を抱かれて、迎えの車のところまで行くと、黒頭巾ちゃんはもうすでに目がくっつきそうなほど眠くなってしまいました。  会場へ来た時と、同じ運転手が二人を迎えてくれました。  車に乗り込むと、運転手は来たときと同じように、半透明のスクリーンを下げ、薄く静かに音楽を流してくれました。 「マ・メール・ロワ」を。  黒頭巾ちゃんはおおかみの膝に頭を乗せ、そのまま眠ってしまいました。 ---------------------------- [自由詩]迎えの車/チアーヌ[2010年2月12日22時46分] オシマイにしましょう 大事だったもの全部 ゴミに出して そこにわたしもうずくまる 収集車が来るまで あと少し 大丈夫 オシマイ にしましょう とってもステキな思い出 これまでどうもありがとう 指先から消えて行くわたし 何もなくなっていくね 空気が もうこんなに薄い オシマイは楽しいね 足が浮いちゃうよ なんだか笑いがとまらない 収集車がヘンな音楽鳴らして 近づいて来る もう少しで ---------------------------- [自由詩]胸に溜まる/チアーヌ[2010年2月13日23時09分] 下腹部から そうっと 体の稜線 指でなぞりながら あなたのことを考える そうすると 体の中に 水分が増えて 重くなる あなたのこと 知らないでいたほうが 良かったみたい 胸に水が溜まって どんどん大きくなっちゃった 搾ったら涙がでるかしら ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]going to the moon/チアーヌ[2010年3月19日14時56分]  京の都、土御門大路を、八つか九つかくらいの男の子が辺りを見回しながら歩いておりました。  そのうち男の子は、市の雑踏へと入り込みました。  烏帽子に水干姿の男やら、市女笠に垂布の若い女、上総か常陸あたりから出て来たと思われる田舎者風の従者たち、それに片手の無い物乞いやら傀儡師のたぐい.....もう夕暮れに近くなっても人ごみは続いており、男の子はそれらを眺めながら市を通り過ぎました。  男の子は童直衣姿で、色白で涼やかな目をしておりました。貴人の子にしか見えないこんな子が、供も連れずに市をうろうろしているなど、ありえないことです。普通ならばすぐに人さらいにあってしまうはずです。  けれど市の人間たちは誰もその子に目を留めず、男の子も傀儡師の操る人形芝居の前で物珍しげに立ち止まったりなどしながら、ひとりきりで歩いているのでした。  そのうち男の子は市を出てしまいました。辺りはだんだん暗くなっており、壊れた築土塀の間から犬や牛が出入りしているような廃邸や、いかにも物怪が出そうな、蔦葛に巻かれてしまった門柱の側を通り過ぎた頃、男の子はさすがに疲れてしまったのか溜め息をつきながら立ち止まりました。 「お母さまは、一体どこにいらっしゃるのかな」  男の子は独り言をいい、そして再び歩き出しました。   男の子が次に立ち止まったのは、二条の辺りでした。この辺りの雰囲気はさっきとは全く違っており、立派な築土塀が長々と続いておりました。  どうやらここは、今をときめく顕官の邸のようでありました。  夜なので当然のことながら門は閉まっており、門番の侍もおりましたが、男の子はするりと通り抜け、中に入り込んでしまいました。門番は男の子に気がついた様子はありませんでした。良く見ると、男の子の体は透けて見えます。そう、この男の子はこの世のものではないのでした。  辺りはもう真っ暗になっておりました。けれど、月明かりのおかげでいくらか邸内の様子がわかるのでした。高く聳える木々、前栽の花々、しっとりと繁った苔、澄んだ池に遣水。ここは、贅を尽くして整えられた邸だということがわかりました。男の子はその中を、音ひとつ立てずにどんどん中へと入り込んで行きました。  男の子は妻戸をいくつも通り過ぎると、細殿に女たちが何人か眠っているところに出くわしました。この邸に勤める女房たちのようでした。男の子は、それらのものには目もくれず、踏み越えるようにしてさらに奥へ入って行くのでした。  そのあたりで男の子はやっと、立ち止まりました。そこは邸の最奥、けして人目についてはならない女性の居場所でした。  簾で囲まれた部屋らしきところから、薫物の香りがしてきました。それは貴婦人の香りでした。  男の子はそうっと、中へ入りました。  簾の中はさらに屏風と几帳で囲んであり、磨き立てて黒光りしている板敷きの上には低い寝台が置かれ、その上で紅の衣をかぶって、姫君が眠っておりました。  枕元の髪箱には、つやつやとした豊かな黒髪が傷つかないように丁寧に巻かれてしまわれ、顔は白く、唇薄く、しっとりと切れ長の瞼、なんとも美しい姫君でありました。  男の子は上気した顔で、姫君の顔を覗き込みました。何かを期待している目で。しかしその目はすぐに曇りました。 「違う、やっぱり違う。ぼくのお母さまじゃない.......」  姫君は、まだ十三、四の少女に見えました。  そのとき、眠っていた姫君がパッチリと目を開けました。そうしてすぐに体を起こしました。ほっそりとはしていますが、健康そうな物腰でありました。 「あなた、誰?」  姫君は男の子の姿を一瞥し、言いました。男の子は驚いたような様子で、姫君を見つめました。 「ねえ、僕が見えるの?」 「見えるわよ。はっきりとね」 「びっくりした。だって今まで誰も、僕のこと見えなかったんだよ」 「そうでしょうね。だってあなたは物怪だもの」  姫君がそう言うと、男の子はつらそうに目を伏せました。 「わかってるよ。僕だってまさか自分が物怪になるだなんて思ってもみなかったんだ」  男の子の様子を見て、さすがに哀れに思ったのか、姫君は慰めるように言いました。 「大丈夫よ、あなたは悪い物怪には見えないわ。でもいつまでもこの邸でうろうろしてると、すぐに陰陽師の連中がやってきて、追い出されちゃうわよ。あいつら、物怪と見ればなんだって容赦しないんだから」 「はい。前にも他のお屋敷でそんなこと、された気がします。ぼくは、母君を探しているだけなのですが」 「あなた、お母さまを探しているの」  それを聞いて、さすがに姫君は男の子を哀れに思ったのか、こう訊ねてくれたのでした。 「それはかわいそうね。よかったら事情を聞かせてくれない?」  男の子は、久しぶりに誰かと話ができる喜びを全身に漲らせて話をはじめました。 「僕の母君は、僕を産んですぐにみまかられたんです。でも僕はいつも、母君がそばにいることを感じていたのです。だから、ぼくが八つのときに、病にかかり死んでしまうときにも、これで母君にお会いできると思い、まったく怖い思いなどしませんでした。それなのに、いざ死んでみたら、母君はどこにもいなくて」 「ふうん」 「そんなわけで、ぼくはずっと母君を探しているんです」  男の子は溜め息をつきました。 「どうしてなのでしょうね」 「さあ、よくわからないけど.....そうねえ、もしかしたらわたしも協力できるかもしれないし、手伝ってあげてもいいわよ」 「ありがとうございます!」  男の子はうれしそうに叫びました。 「じゃあ、ちょっと引っ張って。あんたみたいな物怪が引っ張ってくれたら、わたし、この体から抜けられるから」  姫君は男の子に手を差し出しました。男の子はちょっと戸惑いながらも、姫君の指先を握り、そうっと引っ張ってみた。すると。にょろり、という感触がして、姫君が二人になりました。 「ほら、抜けられたわ」  姫君はにっこりと微笑みました。  微笑んでいる姫君は、ちょっと透けていました。そう、男の子と同じように。そして姫君の透けていない本当の体は、目を閉じて、元の通りに寝台へ横になっているのでした。 「さあ、行きましょう。あなたのお母さまを探しに」  男の子はうなずき、二人はまるで転がるような早さで邸内を駆け抜け、背丈の何倍もある巨大な門の、ほんの少しの隙間からぐにゃりと滑り出たのでした。 「ああ、外の空気は久しぶりだわ。それに、なんてきれいな月」  姫君は気持ち良さそうに空を見上げながら伸びをしました。 「ほんとうに良い月だね。まんまるだ」 「わたし、外に出る夜はいつもこんな月が出ているわ。この月があったから、あなたのことも見えたのかしら」  姫君は独り言のようにつぶやきました。 「本当に、いいの?あなたはこのお屋敷のお姫様でしょう?」  男の子はちょっと済まなそうに言いました。けれど、口調はうきうきとうれしそうです。そして姫君も負けじとうきうきしているのでした。 「大丈夫よ一晩くらいなら。それにわたしの体はあの暗い部屋でぐっすり眠っているのだもの。何しろ普段は、お庭を見たくても、端近に出るのさえもダメだって女房たちに叱られるのよ。そんなわけだから、こうやってたまに、外に出るのはわたしにとって大事な息抜きなのよ。だから、あなたみたいな可愛い物怪は大好き。わたしね、良くできる陰陽師は、みんな難癖をつけて出入り禁止にしちゃうの。だから今、邸にいるのは、どちらかといえばいまいちなやつらばかり」 「そうか、だからあなたの家は入りやすかったんだ。いつもはね、ああいう立派なお屋敷は入りにくいんだ。隙間が無くってさ。ところで、あなたの父君はどういう方なの?」 「右大臣よ。そして、わたしは四の姫。これでも美しくてかしこいって都じゃ評判....らしいけど、それはお父様が流してるデマだわね。そして嘘っぱちの噂が効を奏して、わたしは来月、主上のところへ入内するのよ」 「別にデマじゃないと思うよ。あなたはとてもきれいだもの。そうか、ふうん、あなたは入内するのか」  男の子はちょっとまぶしいものを見るような目でお姫様を眺めました。 「それじゃあ、あなたは女御さまになるんだ」 「そういうことね。弘徽殿へ入るの」 「ふうん、今の右大臣さまというのは、ずいぶん勢力のある方なんだね。じゃああなたは皇子さまさえ生めば、皇后間違いなしだ。ぼくの姉様も、入内したんだけど、梨壷でさ。弘徽殿の女御さまとはとても張り合えないって、実家へ帰って来るたび愚痴っていたよ」 「そう。いいことを聞いたわ。あんたの姉さんは、梨壷の女御さまだったのね。で、それ、いつの話?」  男の子は姫君に訊ねられたことを、立ち止まってしばらく考えていた様子でしたけれど、結局、 「.......わからない」 と小さく答えました。 「ふうん」  お姫様は小さくうなずき、二人は裸足のままぺたぺたと都の大路を歩いておりました。  夜になれば、物怪どころか、盗賊も多く跋扈すると言われているので、見たところ誰もおらず、二人だけが白い玉のようにぼんやりと光ながら、行く当てもなくふらりふらりとしているのでした。  けれど、二人は楽しさのあまり夢中になっておりました。姫君は、ひさしぶりの外の空気に、男の子は、ひさしぶりに誰かと話ができることに。 「ぼくね、物怪になって良かったことが、ひとつだけあるよ。それはこんな風に、外を歩き回れること」 「そうでしょうね。あなただって、まだ体がちゃんとあるときに、そうそうそこらへんをほっつき歩いたりできる身分じゃなかったと思うわ。その直衣だって、なかなか良いものですもの。いつの御代か知らないけど、右大臣か左大臣か.....または案外、宮様の子かもしれないわね。お姉様が梨壷の女御さまだったんだから」 「なんだかもう、そういったことは覚えていないんです。だって、あなたの話を聞いて、はじめて姉が梨壷に入られたことを思い出したんですよ」 「そうなのよねえ、物怪って、みんなあまり自分のこと覚えていないのよ。生きていたときのこと、ちょっとずつ忘れちゃうらしいのよね。困っちゃう。お母様、見つかるといいけど」  お姫様が溜め息をつきました。 「そういえばさっき、協力してくれるって、言いましたよね。何か、方法があるんですか?ぼくのお母様が見つかるような」 「さあ、よくわからないわ。協力するつもりだけど、あなた何も覚えていないんだもん」 「いいかげんな人だなあ」  男の子は呆れたように言いましたけれど、怒っているような様子はありませんでした。 「ごめんね。わたし、ちょっと外に出たかっただけかもしれないわ」 「いいですよ、別に。こうやって、誰かと話せれば、それだけでぼくもうれしいですから」  ふたりがのんびり歩いていると、不意に目の前に、ぬうっと烏天狗が現れました。夜、都の大路をほっつき歩いたりすれば、この世ならぬものに出会うのはよくあることとされています。  暗闇の中でさらに真っ黒な烏天狗は、修験者の格好をしているものの、顔は烏そのもの。初めて見れば、やはり驚きます。 「うわっ」  男の子は後ずさりました。 「なんだ、お前ら」  烏天狗はうさんくさいものを見るような目で二人を眺めました。 「ひとりは物怪になった人間のようだが、もうひとりはそうではないな。それにしても二人とも、ずいぶん良い身なりだ」  姫君は烏天狗を一瞥し、 「そうよ、わたしの体はまだちゃんとあるわ。あんたには関係ないわ」  と、きつい口調で言い返しました。  烏天狗は少々驚いた様子で、 「ありゃりゃ。きれいな顔をして、こりゃまたずいぶん気の強い」  と、位負けした様子で言いました。 「こ、この方は、右大臣家の四の君で、来月は入内なさるんだぞ」  男の子も少々怯えながらも、烏天狗に言いました。 「ほう、そうなのか。しかし、そんな深窓の姫君が、またどうしてこんなところをうろうろしているんだ」  烏天狗の疑問は最もでありました。 「別に、理由なんかないわ。わたしだってたまには外に出たいのよ。わたしは物怪の力を借りなければ外には出られないし、入内してしまったら、あそこには物怪が入り込むことはほとんどできないから、もうこんな機会も無くなるのよ。放っておいて欲しいわ。それよりも」  姫君は急に笑顔になり、言いました。 「そうそう。いいところであなたに会ったわ。あのね、この子の母君を探してもらえないかしら」 「へ?」  烏天狗は、ちょっと戸惑っているような様子でした。 「ちょっかいを出しただけのつもりだったのに、なにやら、面倒なことになっちまったなぁ......」 「わたしにできることだったら、なんでもお礼するわ。ねえ、お願い」 「ま、今夜はいい月夜だしな。変わったお姫様の頼みを聞いてやるくらいいいか。よしわかった、仲間にいろいろと聞いてみるよ。ところで姫君と坊やは、これからどこへ行くつもりだ?お前たちの居場所がわからないと、せっかく母君を捜し出してもどこへ伝えにいったらいいかわからない」 「そうねえ。じゃ、法成寺へ行っているわ」 「そうか。あそこは広いぞ。それなら、阿弥陀如来のところにいてくれ」  烏天狗はそう言うと、背中にある大きな黒い羽根を広げ、月夜の空へ向かって飛び立って行ってしまいました。    姫君と男の子は、法成寺へと到着しました。  中に入ると、そこはまるで夢の世界でした。生まれてからこれまで、姫君は数えるほどしか外に出たことがありません。  噂に高い法成寺には、姫君ははじめて訪れました。 「美しい寺だね」  男の子も辺りを見回しながらしきりに感心しています。  二人は、東の五大堂から入り、西の橋を渡り、阿弥陀堂へと入りました。  それらの建物はみな大変豪奢で美しく、庭の造りも見事でした。  阿弥陀堂へ入ると、月明かりに照らされ、周りを囲むように置かれている九体の阿弥陀如来像が目に入りました。  二人はその像ひとつひとつに、手を合わせて拝みました。 「お母さまが見つかりますように」  男の子がつぶやくと、姫君は隣で、 「この子が、ちゃんと成仏できますように」  と言いました。  男の子は、はっとしたように姫君を見ました。 「それ、ぼくのこと?」 「そうよ」 「ぼく、成仏してないの?」 「してないから、物怪なんじゃない。迷ってるのよあなたは」 「そうなのか」  男の子はしゅんとしてしまいました。 「落ち込むことないわ。きっと大丈夫よ」  姫君は慰めました。そうして二人は阿弥陀堂の真ん中に座り、烏天狗を待ちました。  静かな夜です。  八歳の男の子と、十三歳の姫君は、まるで姉と弟のように、じゃれ合い、ふざけ合いました。 「あなたはほんとうにきれいな姫君だね。あなたが入内したら、主上もさぞかしお喜びだろうな」 「さあ、どうかしらね。主上はもう二十七歳におなりになっていて、東宮時代からの愛人が大勢いらっしゃるのよ。でもご身分の軽い方が多いから、わたしのようなものも召したいのだと思うわ。だから別に、わたしの入内を楽しみになさっているわけではないのよ。それにわたしだって」  姫君は少し笑いながら、 「別に楽しみにしてるわけじゃないわ。本当はね、寺にでも入って、尼になりたいの。そうしたら、毎日物怪たちと遊んだりできるでしょう。あなたみたいな」 「そんなことを言ってはだめですよ。今上帝の第一の妃に立とうという方が」  男の子はまるで分別のある大人のように重々しく言い、でもすぐに口調が崩れ、 「.....でも本当はぼくも、そのほうがいいな。あなたみたいな尼君がいてくれたら、どんなに楽しいだろう」  と言い、にっこりと笑いました。 「わたし、主上がお年上じゃなくて、あなたくらいの年の男の子だったらどんなにいいかと思うわ。そうしたら、きっと入内しても楽しいでしょうね。一緒に絵を見たり、お話したり.....」  姫君がそう言うと、男の子は少しの間姫君を見つめ、不意に姫君の手を取りました。 「そうですね。そうしたら、どんなに楽しかったでしょう」 「うふふ」  姫君も笑い、少しの間、二人は寄り添いました。  すると、急に月明かりが曇りました。見ると、烏天狗が大きな翼を広げ、月の光を遮っているのでした。 「ねえ、暗いわよ」  姫君は文句を言いました。 「はあ、まったく、こんなに急いで調べて来たっていうのに、ねぎらいの言葉もなしか」  烏天狗はブツブツ言いながら降りて来ました。 「それで、どう?」 「うん。仲間にいろいろと聞いてみたが、この子の母親はもうとっくに浄土へ行っているらしいよ」 「っていうことは、この子は、母君に会えないの?」 「そうだねえ。おそらく無理だろうね。浄土へ行っちまったら、この世のことは遠い昔さ。会えるかもしれないけど、もうお互いにわかりゃしないよ」 「ああ、お母さまと、もうお会いできないなんて」  話をきいているうちにたまらなくなったのか、とうとう男の子は泣き始めました。しかし姫君にも、どうしてやることもできないのです。  でも姫君はほんとうは、そんなことだろうと思っていた部分もあるのでした。 「ねえ、これはもうしょうがないわ。あんたは、母君が無事に浄土へ行かれたことを喜んであげなくては」 「そうですね...それはわかっているのですが、でも、ぼくは、寂しいのです」  烏天狗はお手上げだと言うように、姫君に目で合図しました。 「困ったわねえ。どうしたら寂しくなくなるかしら」  姫君がそう言うと、周りを囲んでいる九体の阿弥陀如来像が、不意にゆらりと動きはじめ、二人のほうへ歩み寄って来ました。 「あら」  姫君は驚き、その様子を眺めました。そうして、大変ありがたいことなので、一心に手を合わせました。 「このお子は、寂しいとな」 「まだお小さいのに、迷っているとは哀れ」 「さあ、お手をこちらへ」  九体の像は口々に、男の子に向かって語りかけます。  男の子は泣くのをやめ、しばらく阿弥陀様方を眺めていましたが、烏天狗が横から、 「良かったじゃないか。阿弥陀様に連れてってもらえよ、浄土にさ」  などとけしかけるので、とうとう手を伸ばしました。  すると、天からするすると、九本の紐が降りて来て、阿弥陀如来像は満足げに、その紐を束にし、男の子に握らせました。  姫君はその様子を眺めながら、そっと話しかけました。 「どう、もう寂しくない?」 「うん.....どうしてなのかわからないけれど、さっきよりましになったよ。でも、最後に、あなたにお願いがあるよ。抱きしめてもらえないかな。まるであなたは、わたしの姉君のような、母君のような気がされるから」  もうお別れのような気がされましたので、姫君のほうも、なんだか急に寂しい気持ちになってしまいました。姫君は男の子をしっかりと抱きしめ、頬と頬をすりあわせました。 「ありがとう。ぼく、もう大丈夫だよ。あなたも、どうか立派なお后さまになってね」 「そうね。あまり気が進まないけど」 「そんなこと、言わずにさ」 「それじゃあね、さようなら」  最後は、姫君は男の子からあっさりと離れ、送り出しました。  男の子は下りて来た紐に捕まって、天空へと吸い込まれてゆき、やがて見えなくなってしまいました。  そしてふと気がつくと、九体の阿弥陀如来像も、すでに何ごとも無かったようにもとの場所へと戻っているのでした。 「さて、お姫様。あんたも帰らないと」  烏天狗が表情の無い顔で言いました。  姫君は満足気なため息をつき、烏天狗におぶさりました。  そうして姫君は烏天狗の背中に乗って、月へ向かってどこまでも昇っていきました。                                 ---------------------------- [自由詩]鬱陶しい膜/チアーヌ[2010年6月6日19時29分] 鬱陶しいものが わたしを柔らかく包んで 膜を作っていく ほんとうは嫌だけど 鬱陶しい膜を 破ってしまって 鬱陶しい液体に 塗れるのも嫌だから 鬱陶しい膜 を我慢する たまに ぷち と ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]失恋に溺れて/チアーヌ[2010年7月14日23時14分]    捨て身の勢いだけで引っ越して来た初めての街は、知り合いがひとりもいないところだった。  寂しい、とかそういう気持ちは、どこか麻痺してしまっていた。誰も知り合いのいない場所で、毎日黙って暮らした。それでわたしは一向に平気だった。  でも本当は、自分が平気なのが自分でも不思議だった。  あれほどいろんなことがあったのに、それが解決することなく、ただ心のどこかが死んだような状態。あるいは、感情に強烈な麻酔でも打たれたような。  まぁでも、平気なのはきっといいことなんだろう。  わたしはただただ毎日、寝たり起きたりして日を過ごしていた。  引越の前まで、とあるクラシック音楽系のマネージメント事務所に勤めていたわたしは、大学を出てから正社員としてすでに10年近く働いていたから、一応わずかながら退職金も出たし、失業手当も貰うことができた。だから、引っ越し代には困らなかったし、半年くらいは寝て過ごせそうなのだった。  仕事を辞めて引っ越しをする。  これまで、まるで石橋を渡るようにして生きて来たはずのわたしが、こんな思い切ったことをすることになった理由はずばり、失恋だ。  平凡過ぎて嫌になってしまうが、本当のことなんだから仕方がない。  でも、生まれて初めてだったのだ。  恋が、というわけじゃない。そんなにわたしだって幼くなんかない。いい年をした大人の女であるはずだったわたしは、生まれて初めて、恋に「溺れて」しまったのだ。  悔しいけれど、「溺れた」のは初めてのことだった。  相手は、俊彦という、7歳年下の男の子だった。  舞台を作る関連会社の男の子で、制作を希望していたけれど、修行中という感じで、仕事に関しては、わたしから見てもまだまだだった。  わたしは、俊彦の会社に仕事を発注できる立場の人間だった。  クラシックの舞台マネージメントに関して、業界でそこそこ名の知られた存在だったわたしに、妙な自分アピールをしてくる若い男というのは実のところけっこういたのだけれど、わたしはその手の男の子たちに全く興味は無かった。  だから、年下だから転んだとか、そういうわけではなかった。それに、長いことつき合っていた妻子持ちの男もいた。  だから別に、寂しかったとかそういう感じでもなかった。わたしは仕事が忙しかったこともあり、教養が深く得るものが多い不倫相手との関係に充分満足していたはずだったのだ。  そのわたしが、なぜ、俊彦に、あれほどまでに嵌ってしまったのだったろうか。  自分でもわからない。わかれば苦労しない。理由なんかないのだ。今だってよくわからない。本当に、なぜあんなことになってしまったのだろう?  わたしが長くつき合った年上の不倫相手は、ひとことで言えば尊敬できる人だった。教養があり、仕事ができ、一緒にいて安心できる。見た目だって良かった。わたしは彼の側にいられればそれでいいと思っていた。彼はすべての面でわたしの好みだった。  それにくらべたら、俊彦はどこもいいところなんかないと言っていいほどだった。  まず、教養がない。これは致命的だった。  この業界は、教養がすべてと言ってもいいくらいなのだ。クラシック音楽は古い文化や芸術と密接に結びついている。語学ができるのはもちろんのこと、この仕事をしていくつもりなら、とりあえずこの業界の誰とでも会話を合わせられる程度の教養はどうしても必要だった。俊彦は、その教養があまりにも足りなかった。覚えようという気持ちはあったのかもしれないが、基礎知識部分ですでに躓いていた。  わたしは三十二という微妙な年齢だったので、業界の若者が集まる飲み会に、時折誘われることがあった。断ることも多かったけれど、気が向けば出席していた。  俊彦と話すようになったのは、そんな飲み会の席でだった。 「ねえ町村さん、俺、また東谷さんに怒られちゃいましたよ。お前は黙ってろって。俺は普通のこと言ったつもりなのにさあ」  俊彦は勝手に、わたしのことを優しい人だと思い込んでいたらしく、飲み会の席で同じ会社の上司に対しての愚痴を語ったりしていた。 「それはそうじゃない?だって俊彦君が言ってることは、ただの小手先の技術面のことなんだもん。そんな専門学校で習ったようなこと言っても、悪いけどバカにされるだけよ」  ワインのデキャンタを独り占めして飲みながら、俊彦の愚痴を聞き流すのは楽しかった。俊彦には、どこにも、わたしを緊張させるものがなかった。俊彦はまだこの世界のイロハを知らない可愛い男の子で、気がつけば、わたしのちょうどいいストレス解消の相手になっていた。けれど、それはそれだけの話で、それ以上でもそれ以下でもないはずだった。  でも、とある飲み会の晩。  いつのまにか夜が更けて、わたしは酔いで半分濁った目で俊彦の指先を見ていた。俊彦の横顔、そして煙草に火をつける仕草。足を組む。ほどく。笑う。グラスを口に運ぶ。そんな様子を見ているうちに、なんだかわたしの頭が重く、熱くなってきたのだった。  ひとことで言ったら、俊彦は仕草が素敵な男の子だった。そしてモノを言う表情も良かった。それだけかと言われたらきっとそれだけだ。  あの夜、わたしに神の啓示が降りて来た.....というのは嘘だけれど、とりあえず、理性的に考えたら全くわたしの範疇ではない男の子を、ただ単純に好きになったのは、どちらかと言えば頭でっかちだったわたしにとって、とにもかくにも生まれて初めてのことだったのかもしれない。    何度も何度も迷いながら、でも結局わたしは俊彦を誘った。俊彦のほうもまんざらではなかったようで、わたしたちは案外簡単につき合うようになってしまった。  そして俊彦は、いつのまに、わたしの住んでいたマンションに居着いてしまった。  その気になれば追い出すこともできたけれど、そうしなかったのは、やはりわたしが俊彦のことを完全に好きになってしまったからだろう。でも、一緒に暮らすのは危険なんじゃないか.....そんな気は、どこかでしていた。  俊彦は、知性も教養も無かったけれど、よく気の利く優しい男の子だった。疲れた夜、家に帰ると、簡単ではあっても食事が出来ている。掃除や片付けもやってある。有り難かったけれど、それに慣れてしまうことに一抹の不安はあった。  わたしは一度も俊彦にちゃんと好きだなんて言わなかった。仕事面でも褒めたことなんか無かった。俊彦が家で待っているだろうとわかっている日でも自分に仕事があればそちらを常に優先した。  わたしにはわかっていたから。いつか俊彦が出て行ってしまうことが。そして自分が俊彦に嵌りつつあることが。わたしは怖かった。  怖かったのだ。  何年もの間、忙しさにかまけて目をそらしていたはずの、わたしの「寂しい」が入っていた秘密の箱を、俊彦は開けてしまったのだ。  その箱からは、いろんなものが逃げて行った。もう取り返しがつかなかった。閉じ込めておくしかないものばかりだったのに。  パンドラの箱は、最後に「希望」が残っていたというけれど、わたしの「寂しい」が詰まった箱の中は、最後に「空虚」だけが残っていた。  引っ越して来たばかりのとき、何もない部屋の中に布団を敷いて、ただ仰向けに寝て天井を眺めていると、よくグルグルと回り出して、自分が床下に吸い込まれて行くような気がした。  異常な感覚だったけれど、怖いなんて感じなかった。  死ぬときってもしかしたらこういう気持ちなのかなあ、とぼんやり思った。寂しくもなく恐怖も感じない、いたって平常心だった。でも、心のどこかが麻痺している感じはした。  そう。恐怖など、今も感じない。  前まで住んでいた、恵比寿のセキュリティばっちりの15階建てマンションとは全然違う、適当に決めた木造の、もちろんセキュリティ機能なんか何ひとつついていない、小さな2階建てアパートに住んで、わたしは毎晩、窓を開けて寝ている。  だってそのほうが気持ちいいのだもの。  夏の初め、世田谷の奥の、駅から25分も歩かなければならないアパートは家賃も安く、窓を開ければ川のせせらぎが聞こえた。隣に古いお屋敷が建っていて、そのお屋敷の庭の木々がまるで自分専用の林のようだった。  想像していた通り、やはり恋の終りはやってきた。  ある日、俊彦が出て行って、帰って来なくなってしまったのだ。  わたしはしばらく、何も無かったように過ごしていた。  これが当たり前の状態なのだと、思い込もうとしていた。  しかし。  ある晩、わたしの中の何かが切れてしまったのだった。  わたしは俊彦の携帯に電話をしまくった。メールもしまくった。戻って来て欲しかった。元通りになりたかった。一緒に暮らしたかった。  それまで冷静に構えていたわたしの、異常なまでの豹変ぶりに、俊彦は完全に引いてしまったらしく、ある日、携帯は着信拒否になっていた。  それでもわたしはあきらめきれなかった。俊彦に会いたい一心で、仕事場まで押し掛けた。  自分で自分のことが信じられなかった。7歳も年下の男にストーカーまがいのことをするような女では無かったはずだった。  そんな状態をとうとう周囲の人間が知るようになった頃、俊彦は人を介して、わたしにもう二度と近づかないで欲しいと言って来た。  惨めだった。本当に惨めだった。   しばらくして、わたしはやっと落ち着きを取り戻した。その後、わたしは一時期、かなり熱心に仕事に打ち込んだ。  ちょうど、大きな仕事も抱えていた。わたしが企画し進めていた計画は、滞り無く実現された。  全国の主要都市で開かれる、ヨーロッパのオーケストラの公演。  新進気鋭の指揮者による冠公演だった。演奏は素晴らしく、評判も良かった。企画は大成功だった。  それらの後処理も含めすべてが済んだとき、わたしはふと気がついたのだった。  自分が空っぽになってしまっていることを。  燃え尽きるってこんな感じなのか、とわたしは変に感心してしまった。  わたしは会社を辞めた。引き止められたけれど、留まることはできなかった。  そして、俊彦と三ヶ月ほどを過ごした部屋を出るために引っ越しをした。よく考えたらたった三ヶ月間のできごとなのだった。  会社を辞めてしまったら、もう都心に住む必要は無かった。  そしてわたしは、今までと全然違う私鉄沿線の、しかもその駅からさえかなり遠い、世田谷の奥のアパートに決めたのだった。  恵比寿のマンションで暮らしていた頃とは全く違う環境で暮らすことになって、わたしは満足だった。  わたしは毎日、どこへいくということもなく、近所だけですべての用事を済ませ、散歩などしながら日々を送っていた。  仕事をしているときには、いつもきちんとした格好をしてばっちりとメイクをしていたけれど、仕事をやめた途端、それらのすべてが不要になった。ブランド品も香水もネイルアートも、すべてが自分から縁遠いものになった。わたしはノーメイクで髪を束ね、近所の店で安い普段着を買い、毎日それで過ごしていた。  そうして、いつのまにつらつらと、半年近くが過ぎたのだった。  そんなある日のことだった。  一番わたしを買ってくれていた人が、不意に訪ねて来たのだった。  わたしの直属の上司だった、定年間近の女性、小早川さん。  この業界の裏も表も知り抜いた、海外の演奏家たちにも信頼の篤い、この道では有名な人だった。  わたしはその女性上司の跡を継ぐものと、周囲からは見なされていたのだ。すっかり燃え尽きて会社を辞めてしまうまでは。 「久しぶりね尚美さん」  わたしが少し重い気持ちでアパートのドアを開けると、小早川さんは戸口に立ってにこにこしていた。相変わらず、白髪を染めることなく上品に整えていた。  小早川さんは、田園調布にある古い洋館に、年老いた家政婦さんと二人で暮らしている。彼女は、その洋館に一人娘として生まれた人だった。  そんな上司に、こんなみすぼらしいアパートへ来てもらうなんて、気が進まなかったのだけれど、小早川さんは不意打ちのようにわたしの住む街の駅までやってきて、そして絶対にここに来ると譲らなかったのだった。  「尚美さん。あのときは、何を言ってもダメなようだったから黙って見送ったけど、あなたとはいつかきちんと話したいと思っていたから来てみたのよ。ねえ、そろそろ、落ち着いたんじゃない?」  小早川さんは、わたしの出したお茶には手をつけず、ただ静かに手を重ねて、そう話し出した。  わたしは何を言ったらいいかわからず、一瞬ためらった後、 「疲れちゃったみたいなんです」 と、小さな声で答えた。 「そう」  小早川さんは頷いた。  そして部屋を見回し、わたしを見つめ、 「でも、ちょっと安心したわ。やっぱり来て良かったわ」 と、にこにこしながら言った。 「え?」  わたしが思わず聞き返すと、 「もっとひどいことになっているんじゃないかと、心配していたのよ。でも、部屋もそれほど散らかっていないし、ここで気持ちよく暮らしているようね。顔色もまぁまぁいいみたい」 「そう、ですか」 「詳しいことはわたしもよく知らないし興味もないけど。今回みたいなことって、あなたくらいの年齢のときには、一度くらいはあることよね。わたしにだって身に覚えが無い訳じゃないわ。だから、あまり気にしない方がいいわ。もう落ち着いたのなら、忘れてしまいなさい」  小早川さんに話したことは無かったけれど、やはりすべてを知っていたのだと思った。わたしは何も言えず黙った。 「さて。じゃ、本題に移るわね」  小早川さんは持って来たバッグから、大きめの封筒を取り出し、それをわたしに差し出した。わたしは戸惑いながら受け取った。 「わたし、もうすぐ定年で今の会社をやめるでしょう。そのあと、個人事務所を立ち上げることにしたの。それでそこへ、あなたにぜひ来てもらいたいのよ。詳しい事はその封筒の中の資料を見てちょうだい。なんといっても半年もお休みしたんだから、もう疲れは取れたでしょう」  小早川さんはにっこりと微笑むと、わたしの肩に手を置いて、 「待ってるわ」 と優しく言い、アパートの玄関から軽やかに出て行ってしまった。  部屋の中にひとりになると、わたしは封筒を開け中身を確認した。  事務所の概要と、働く場合の条件面などが書いてあった。  内容は、良かった。  その文書を読みながら、わたしは、やっと頭の中が少しずつ動き出したような気がしていた。  その書類は、目の前に広がった、久しぶりの「社会」だった。  ゆっくりと書類を眺めていると、自分がそこで何をすべきかが、確かなビジョンとして頭に浮かんで来た。  何か、憑き物が落ちたように、わたしは感じた。  そしてわたしは再び働き始めた。  俊彦のことは、もう思い出すことも少なくなっていた。   そうして季節が過ぎ。  夏の終わりに差し掛かった。  夏の終わりは、空気と風の匂いでわかる。わたしは鼻がいいのだ。  平日に休みを取ったある日、わたしは駅前商店街を歩いていた。晩ご飯にナスのカレーを作ろうと、材料を買いに出て来たのだけれど、なんだか面倒になって、外食でもいいかなあと思い始めていた。  来週には再び都心へ引っ越しをすることに決まっていた。ここはいいところだけれど、わたしの仕事には向いていなかった。  私鉄沿線のこの街は、昔ながらの商店街が充実していて、ほとんどすべての買い物がここで間に合った。  大きなスーパーなどはあまり無く、小さな豆腐屋がまだまだ現役で商売をしていた。魚屋や肉屋もあって、店先で揚げているコロッケが、これまたとてもおいしかった。  もう、こんなところに住むことはないかもしれない。そう思うと、ちょっと寂しかった。  夕暮れがそこまで近づいていたけれど、まだ外は明るかった。  わたしは、どうせなら一度、商店街のはずれまで歩きながら隅々まで探検してみようと思った。  そんなことを考えながら、ぶらぶらと通りを歩いていると、ふと、どこからか太鼓の音が聞こえて来たのだった。  ぽこぽことした、自然の素材で作った太鼓のような、素朴な音色だった。その音と一緒に、しゃらしゃらとした、アコースティックギターらしき音も聞こえて来た。  なんだろう?と思いながらわたしは周囲を見回した。  音は上の方から聞こえて来るようだった。まるで音のシャワーを浴びたように感じた。見上げると、窓が開け放たれたカフェがあった。  はじめて見るカフェだった。  わたしは音に誘われるまま、細い階段をそのカフェへ向かって上がって行った。  扉を開けてカフェに入ると、そこはなんだか不思議な空間だった。  天井の梁は剥き出しで、裸電球が下がっているだけ。そうして古ぼけた木製の椅子やテーブルが、わりと無造作に置いてあった。窓が四方八方開け放たれているせいか風の通りが良く、そのせいか、エアコンは回していないらしいのに、それほど暑くなかった。  前の方を見ると、簡単なステージが用意してあって、そこで2人の奏者が準備をしていた。ジャンべに似た太鼓とアコースティックギター。楽器はただそれだけ。  わたしはカウンターへ行って、ビールを一杯もらった。ライブは、1ドリンクで見られるようだった。  風の入る窓際の席に腰掛けると、間もなく演奏が始まった。客はまばらだったけれど、仲間内だけという雰囲気でもなく、適度にばらけていて居心地が良かった。  普段、わたしは仕事で音楽を聞きすぎるくらい聞いているけれど、こういう音楽をライブで、それもこんな風に聞くことは稀だった。  ビールを飲むと、歩き疲れた体に、気持ちよく酔いが回って来た。  風が顔を撫でる。  そして音楽。  そんなに上手な演奏ではなかった。  けれど、この演奏に関して、わたしは一切判断する必要がないのだと思うと妙にうれしい気がした。  ふと、そのあまり上手ではないギターの音が、ぐさりと体に刺さった、気がした。そして通り抜けて行くような、奇妙な幻想を持った。音楽がわたしの胸に穴をあけ、外の風を通し始めたような気がした。  空の色が、薄くなって行くのがわかった。  日が暮れてきているのだ。周囲の物が見えにくくなって行く。照明が少ないのか、カフェの中はどんどん暗くなって行った。  気がついたら、わたしはボロボロと涙を零していた。  我慢していたつもりは無かったのに、どこにこんなに涙が溜まっていたんだろうと不思議なくらい、涙は流れ続けた。  シャラシャラと流れるギターの音が、まるでシャワーのようにわたしの胸の中を洗ってくれた。そして太鼓の響きが、わたしの胸の中から凝固した悲しみのようなものを押し出してくれた。  音楽のどこにも悲しみは無くて、むしろ乾いていた。それなのに。いや、だからいいのだろうか。  わたしは椅子に寄りかかり、ビールを片手に、声も無く泣き続けた。つらい気持ちはなく、むしろ気持ちよかった。  わたしはどこでもないところにいるような気がした。そしてそのどこでもないところに、わたしの中に溜まっていた水が、どんどん流れ出て行っているような気がした。  胸につかえていたものが取れて行くのを感じた。自分でもなぜそれが今なのかわからなかったけれど、単にタイミングの問題かもしれない。  ほんとうにびっくりするほど、わたしの目から涙が後から後から溢れてきて、わたしはそのままずっと、泣き続けていた。 ---------------------------- [自由詩]頭の中身/チアーヌ[2010年8月7日12時07分] 記憶は情報 とても懐かしい ビー玉があったとして もうそのことを忘れちゃっていたら ただのビー玉 自分との距離は 等間隔 ---------------------------- [自由詩]星のくまさん/チアーヌ[2010年11月25日21時32分] くまさんはひとりでした 森の中 誰にも出会いませんでした 花咲く森の道 くまさんは ひとりでした 孤独なくまの気持ちは 孤独じゃないくまには けしてわかりません ある日森の中 くまさんはおじさんに出会いました おじさんはとてもやさしくしてくれて 「くま牧場へ行こう」 と 誘ってくれました そこはくまがたくさんいるところなので 寂しくないからと くまはくま牧場に行きました そこには確かにくまがたくさんいました でもくまは やはり ひとりでした おじさんは嘘をついたのではありませんが くまをくま牧場にいれてしまうと 別のくまを探しに行ってしまいました それがおじさんの仕事だからです 今夜もくまさんは まばゆい星空の下に ひとりで立っています ---------------------------- [自由詩]無/チアーヌ[2010年11月26日21時39分] いつか死ぬ ってことと同じくらい当たり前に 恋は終る 今座っている 椅子も無くなるし すべてが 変更になる もちろん 地面も無くなるし きっと時間も 無くなる ね、無 ね、無 ね、無 だからさっさと ベッドに入りましょ ---------------------------- [自由詩]黒い空/チアーヌ[2011年8月30日21時59分] さびれた屋上の遊園地では もう二度と動かないパンダの乗り物が 片隅に追いやられていた 大きな看板が目の前に見える さっきまで雨が降っていた 空がどんどん黒くなっていく インクを塗り込めたように 誰でもいい 何かしゃべって ---------------------------- [自由詩]爪先から/チアーヌ[2012年2月27日14時19分] ためしに握ってみて けっこう冷たいでしょ 手が冷たい女は 心が暖かいなんて嘘 かじかんだ指が しだいにほどけていく 甘いアイスバー 口に入れて溶かすみたいに たくさん舐めてね ---------------------------- [自由詩]大きなゴミ箱の中で/チアーヌ[2012年2月27日18時55分] 大きなゴミ箱の中で 暮らしている 最近 腐ってしまって 汁が出てきた 犬でも飼おうかな このままどんどん腐って いつか雲に乗って 飛べたらいいな ---------------------------- [自由詩]ヘッドフォン/チアーヌ[2012年2月28日20時34分] 落ちていた ヘッドフォンをした瞬間 違う場所にいた そこは 永遠に明るくならない 静かな楽器の中 誰かのヘッドフォン ---------------------------- [自由詩]おでかけバスブーツ/チアーヌ[2012年8月17日14時28分] わたしね びっくりして バスブーツのまま外に出ちゃったの そう カビとりしてたから そうしたら外は 一面、お風呂 だから バスブーツでおでかけ バスブーツで 遠くまでおでかけ ---------------------------- [自由詩]あなたがいた頃/チアーヌ[2012年9月28日9時57分] 気温が下がって 空気の色が透明になった頃 あなたの部屋からの帰りはいつも 背の高い雑草を 踏み潰しながら歩いた 道路を 通らずに 今はもう あの空地はないだろうけど あの頃平気だったコオロギ もう触れない つまらない大人になりました ---------------------------- [自由詩]逢った日/チアーヌ[2013年2月20日22時56分] 夜に紛れて逢いました 指の先から次々零れるシャボン玉 幸せな夜のコーヒー 眠くない コインロッカーの陰で 階段下の倉庫脇で 立ち止まる 進めない 雨が降っていて 目の前をたくさんの傘が 水を垂らして通りました   手をつないで欲しかったのに ---------------------------- [自由詩]知らない人と/チアーヌ[2013年7月23日12時16分] がたたん ごととん 外は いつのまにか暗く ここまでは来たことがある という駅を通り過ぎて 全く 知らない場所 予想通りの 小さな駅 どこで降りても スーパーがあって コンビニがあって 居酒屋があって 何も 変わらない 入ったところも どこかで見たような 来たことがあるような そんなところで 全く知らない人と 会いました 自分は家に置いてきたので ---------------------------- [自由詩]不確か/チアーヌ[2013年7月23日14時22分] 一歩 踏み入れて 安全を確かめ もう一歩 入って どうでもいいことを しゃべり そして いきなり 足が 泥水に 掬われた そこは ぬるま湯 腰まで浸かったら 案外 気持ち良くて 溜息が出ちゃった とても深い ---------------------------- [自由詩]動と静の密林/チアーヌ[2014年3月6日9時54分] じぶん が揺らぐ 動と静の密林で わたしは 音と 光と 緑と 土と 一緒になる 「そういう気がする」 のではなくて 本当に一緒になる わたしはバラバラで 形はなくって そんなことは 人より木が多いところに行けば すぐわかること もともと形なんかなくって ---------------------------- [自由詩]瘡蓋/チアーヌ[2014年3月7日8時54分] 幼いころ せっかく瘡蓋になると はがして食べちゃう癖があって これがどうにもこうにもやめられない しちゃいけない、なんてことは 五歳でもわかるんだけど 知らず知らずのうちにやってしまう たぶんそれは 気持ち良かったから 心にも瘡蓋というのはできるのだけど これがまたはがすのが少し快感だったり むしろたまにはがして 中のぐちゅぐちゅを空気にさらして そう 何もしない さらすだけ 生きているといつまでも 瘡蓋との戦い でもどんなにできたって ぜったいはがしてやるんだから はがして 食べちゃうんだからね だって 大嫌いなんだもの 瘡蓋 ---------------------------- [自由詩]窓の大きさ/チアーヌ[2014年3月7日17時51分] 窓は小さなほうがいい のかもしれない 見えすぎて困っちゃう 見られすぎて困っちゃう 市販のカーテンじゃ合わせにくいほど 大きな窓なんか 結局あとで困るだけ 窓の無い部屋は 時々すごく安心する ここまでは誰も 水や 風も 入って来られない 指先で 壁に穴をあけてそっと 覗いたら ---------------------------- [自由詩]かもしか、君が好きだよ。/チアーヌ[2015年7月2日17時07分] わたしの知っているかもしかは緑色だ。松脂がびっしりと体について光っている。つやつやした毛並み、つぶらな瞳、五メートルほど前に立っていたかもしかは「誰?」と小首をかしげてみせた。 一歩前に出れば向こうは一歩下がる。もう一歩前に出ればもう一歩下がる。距離は縮まらないけれど不思議と嫌われている気はしない。なぜなら、かもしかはずっと笑っていたから。動物には笑顔が無いなんて言うけど本当かなあ。だってちゃんと笑っていたよ。 考えた。どうしたらいいかなって。一番簡単そうなのは投げ輪。首にひょいとかかったらあとは引っ張るだけ。できれば太い木の枝にひっかけ、体重をかけ一気に輪を引き絞るのがいいだろう。次に考えたのは網。頭上からかけてやることができれば、あとは棍棒で滅多打ちにすればいい。毒を食べさせるのもいいな。でもかもしかが好きなものってなんだろう。鉄砲があればなあ。一発で仕留められるんだけどな。 目の前でにこにこ笑うかもしか。楽しいんだろうな。森の中で光を浴びて松脂で輝いて。緑のかもしかよ、お前は役立たずだ、だからわたしの快楽のために殺される。 そろそろ不安になってきたか? 体の中に血が流れていることを思い出したか? 呼吸が止まれば死ぬことも? 皮を?がれるのは痛いだろうなあ。でもそのときは死んでいるから関係ないよ。本当にそうかな? 試してみようか。楽しいね。とても気持ちがいい。 かもしかよ。お願いだからもっと笑顔を見せておくれ。目が潰れ鼻が潰れ口が裂け、それでも。まだ口角はちゃんと上がっているか? そうだ良く気が付いたね。さあ後ろを向け。ねえ、ここは、初めてかな? 死んでも泣いてもやめない。だってかもしかは確かに、わたしに微笑んだのだから。 ---------------------------- [自由詩]知らない話/チアーヌ[2020年3月12日16時27分] 知らない駅の改札を出ると右に曲がった 四車線の道路があり 階段がいくつもの方向に分かれている 大きな歩道橋を渡った 焼肉屋からは 肉の焼ける匂いが流れ出ていた これが鰻だったら たぶん帰っていた 肉が焼ける匂いは わたしの気分を邪魔しなかった 焼肉屋の向かいのコンビニに入った 後方の冷蔵庫から ミネラルウォーターのペットボトルを取り出す 蓋を開けると床に中身を零した 知らない夜に高架下のガードレールを跨いで ぬるい川に潜りゆっくり遡った 向かい合う人の顔がわからない あなたは誰ですか? この際だから 「月がきれいですね」 月ってそんなにきれいかな まあいいや これも何かのご縁 何度も何度も同じページを捲る 最後まで読んでないけど もういらないからあげるね その本 ---------------------------- (ファイルの終わり)