チアーヌ 2008年2月15日12時16分から2008年8月29日14時34分まで ---------------------------- [自由詩]落ちてくる/チアーヌ[2008年2月15日12時16分] 乗っている飛行機じゃなくて 遠くを飛んでいる飛行機が落ちる 夢を見た 空は高くて 青空には白い雲 飛行機って雲の上を飛ぶのだと 知ったのはもちろん初飛行の日だったけど たくさんのあなたが落ちて行く夢を わたしは何度も見る 関係の無いまま わたしの真上に ---------------------------- [自由詩]見通しの良い下り坂/チアーヌ[2008年2月19日21時55分] 広い道路が 真ん中に通ってる 右には 白い塔 左には 黒い塔 そして喫茶店 ひとやすみ ひとやすみ ---------------------------- [自由詩]どこにも行かない日/チアーヌ[2008年2月19日23時33分] どこにも行かない日 窓の外を誰かが 通り過ぎる 誰なのかわからないけど お話 したい どこにも行かないのに 疲れる ---------------------------- [自由詩]メール/パッサカリア/チアーヌ[2008年2月27日23時08分] 1・メール子  俄かには信じられないことかもしれないけれど、乳児を育児中の主婦というのは、自宅の電話線を抜いている場合が多い。こどもが昼寝をしている最中に、うるさいコール音が鳴ったりすると、何もかもが台無しになってしまうし、自分のシアワセな昼寝時間も削られてしまうからだ。  特に、乳児を育児中の主婦は、こどもの夜泣きに付き合ったりもするため、夜に集中して睡眠を取ることができない。だから、昼寝が不可欠になる。そしてそんなときに電話が鳴ったりするのは本当につらいことなのだ。  だから、乳児を持つ主婦同士は、お互いにそれがわかるので、昼間、無神経に電話を鳴らしたりしない。そこで登場するのがメールだ。  メールはいい。音を消しておけば、昼寝から目を覚ました瞬間に、メールを確かめ、そして再び、昼寝をしているかもしれないママ友にメールを返すことができる。お互いに自由は無いに等しいのだからメールくらいは自由にさせて欲しい。  けれど。  育児中にメールばかりしていると太ってしまう。結婚前から考えたら、なんと7キロも太ってしまった!なんていうことは、インターネット上に無数に存在する主婦の情報交換サイトへ行ってみれば別に珍しい話でもなんでもない。だから安心して、みんなどんどん太ってしまう。 そしてそんなサイトには必ず「ママ友募集中!」の掲示板がある。 「なんだみんな一緒ね」 主婦はぐずるこどもを横抱きにしながら痛む腰をさすり微笑む。腰が痛いのはこどもが重いせいもあるけれど、おそらく急激に太ったことが原因でもある。 『こんにちは。ところでこどもがもうすぐ1歳になるんですけど、まだおっぱいを飲んでいるんです。どうすれば離乳食に完全移行できるでしょうか?こんなわたしですけどお友達募集中です!メールください』 『おっぱいなんて何歳まで飲んでいてもいいと思います。ぜひおっぱいが萎むまで何年でも飲ませてあげてください。そして新記録更新してください。わたしが知っている最高記録が6歳ですが、どうせなら20歳まで飲ませてあげたらどうでしょう?ところでこどもは男の子ですか?』 『ぜひお友達になりましょう!うちの子は男の子ですよ。わたしは何も楽しいことがありません。しょうがないので離乳食を半日かけて作りましたが、息子がそれを食べようとしません。腹が立ったので、ついつい大声で喚きながらこども用の椅子をぶち壊してしまいました。次は息子を殺しちゃうかも。こんなわたしは一体どうすればいいんでしょうか?』 『そんなの知らねえよ、クソブタ』 『答えにくい質問しちゃってごめんなさい。あっブタって言えば、わたしはこどもを産んでからとても太ってしまったんです。どうしたらいいんでしょうか?毎日毎日たくさん食べちゃうんです。菓子パン10個は軽いです。今日は菓子パンを7個食べたあとお出かけして、スナック菓子と加糖のアイスコーヒー1・5リットル、それからキットカットお徳用を一袋買ってきちゃいました。キットカットって何でこんなにおいしんでしょうね?今もバリバリ食べていますよ。でもね、こどもの離乳食は一生懸命作っていますよ。農薬を一切使わないっていう産地直送の野菜を毎月届けてもらっているんです。母親なら当たり前ですよね!ところで突然死ってミルクの子が多いってほんとですか?あはは、でもうちの子は完全母乳ですからね。ところで離乳食ってすごくまずくありませんか?だからわたしは毎日キットカットと菓子パン食べてるの〜でもそうしたらもう太りすぎちゃって(笑)でも、最近、最強の方法見つけました!えへへ、夜になったらウィスキーをボトル半分くらい飲んじゃうの。そうするとわたしの場合気持ち悪くなって大量に吐けるんです〜。だから今はそんなにブタじゃないですよ、だって出産して20キロ太ったけどそこから13キロ痩せたんですもの』 『そんなこと知らねえっつーの。だからなんだって言うんだよ、クソブタ。あっそうだ、ほら、とても楽しい写真を添付してやるよ、自分の重みで死んだ世界一のデブだってさ。どうせならこれくらいまで太ったらどうなんだ。お前は何もかもが中途半端なんだ、死ぬまで中途半端なデブで生きるがいいよ、このクソメスブタめ。そんなことじゃどうせちゃんとした幼児虐待ママにもなれねえんだろうな』 『ありがとうございます。楽しい写真ですね。ところで、わたし毎日寂しいんです。このあいだ夫の携帯電話にキャバクラ嬢からメールが入っていました。今度ふたりでディズニーランドへ行くんですって。腹も立つんですけど、それ以上にうらやましくって死にそうです。わたし、毎日毎日寂しいんです。一体どうしたらいいんでしょうか』 『バカかお前は?だったらお前もホストクラブにでも行って、ブサイクで売れてないホストの顔でも札束でひっぱたいて、ちやほやしてもらえ。ついでにセックスもしてもらったらどうだ?どうせ欲求不満なんだろう。お前みたいなデブでも、金さえ出せばセックスくらいしてもらえるだろ。お前はクソブタな上に欲求不満なのか、本当に最低な女だな』 『ホストクラブに行くお金なんかありません。それにセックスがしたいわけでもありません。わたしは寂しいんです。それだけなんです。本当はわたしもディズニーランドに行きたいんです。わたしはどうしたらいいんでしょうか?』 『死ねば』 『わー、メールと一緒にすごいお写真を添付していただいてありがとうございます。なんだかこのお写真を見ていたら、勇気が出てきました!ずいぶん血みどろでわかりにくいんですけど、この女の人の股間からにょっきりと出てるのは埋め込んだ首ですか?どうしたらこんなことになっちゃったんでしょうねえ(笑)わたし、これからもがんばります!ところで、今日はなんとベビーベッドを叩き壊しちゃいました。だって離乳食を食べてくれないんですもの。あと、最近すごく思うのは、一ヶ月に一度でいいから、一晩中起こされずに朝まで眠っていたいってことです。こどもの夜泣きって、いつまで続くんですか?あとそれから、どうしたらダイエットできるのかなあ。またメールくださいね、待ってます!』 2・トーマス・ウエストランド・メール卿 「だからそういうことではなく、そのメール何が書いてあったのか、それだけが問題なのである。そのメールの提出をもしも拒むということであれば、極刑もやむえない。まぁ、それもよかろう。アーネットが斧を磨き明日の用意をしているようだ。今夜のうちに良く考え、メールをプリントアウトしたまえ。明日の朝、一番鳥が鳴くまでにメールが用意できなければ、お前は断頭台の露となるだろう」 トーマス・ウエストランド・メール卿。 青白い顔に、緑の目。おまけにその緑の目は真横についていやがる。 トーマス・ウエストランド・メール卿は、口の端に笑みを浮かべると、牢獄を出て行った。 扉が閉ざされると、辺りは暗闇となり、何も見えなくなった。地面も天井も、何もかも見えない。 真の暗闇だった。 死というのは、無が永遠に続くことだ。 俺は総毛立った。 「待ってくれ、誰か俺の話を聞いてくれ。俺は死にたくない。少なくとも今、死にたくないんだ。メール?メールがどうしたって言うんだ。今度の日曜日、俺は六本木『ヘブン』のナンバー3、23歳の結衣ちゃんとディズニーランドへ行くんだ。その晩のホテルだってもう取ってある。俺はこの牢獄を出て、必ず結衣ちゃんとディズニーランドへ行ってみせる。俺はこのまま死にたくない。死にたくない」 「めえええええええええる」 なんだ、あいつ羊蹄目だったのかよ。 3・メールランド 俺は今、生きている。 彼女の小さな手を握りながら、俺は日本でも浦安でもない場所で、大声で叫びだしたいほどの気分だった。結衣ちゃんはかわいい。信じられないほど。そしてウェストが細い。出るところは出ていて、引っ込むべきところは引っ込んでいる。これが女ってもんだろう。  23歳の結衣ちゃんは、六本木のキャバクラ「ヘブン」のナンバー3。ナンバー1じゃないところがいいよな。それほどガツガツ営業なんかかけてこない。完璧な美貌で、肌の色は抜けるように白い。足首なんか折れそうなくらい細いのに、太ももはほんのちょっとムッチリしていて、大人の成熟も感じられる。話だって面白い。「ヘブン」にいる間は、俺は本当に天国にいるような気分で、時のたつのを忘れてしまう。  一番最初は、取引先の担当者に連れられていって、そこで結衣ちゃんと出会った。もともとそれほどキャバクラ通いなんてする柄じゃなかったのに、俺は結衣ちゃんに出会って、「運命の女」は本当にいるんだと確信できた。もうこんなことは、この先一生ないだろうと俺は思った。  疲れた俺を励まそうと、やさしく微笑む結衣ちゃん。ちょっとハスキーな甘い声で、俺の話に興味深げに相槌を打つ結衣ちゃん。  結衣ちゃんはキャバクラで働き始めて、まだ半年しか経っていないのだという。初々しい笑顔が、たまらない。  初めて俺が、店でこっそりと手を握ったときの、結衣ちゃんのあの恥ずかしそうな笑顔・・・・俺は正に天にも昇る気持ちで、結衣ちゃんに店外デートを申し込んだのだった。 それにくらべてあいつはなんだ?  あのみっともない太りようは。  俺はもともと、あんな女と結婚したくなんかなかったんだ。それなのにずうずうしく妊娠なんかしやがって。あいつに手を出した時、おれはどうかしてたんだ。ただ、溜まっていただけなんだ。 でも結衣ちゃんは違う。結衣ちゃんに対する気持ちは違う。  俺は結衣ちゃんが欲しい。心の底から。 もう夕暮れが近づいている。なんてきれいなんだろう。こんなきれいな夕暮れを見るのは、なんて久しぶりなんだろう。 恋なんて、俺にはもう訪れないのだと思っていた。いや、こんな思いはむしろ、生まれてはじめてかもしれない。  地方都市とは名ばかりの田舎で生まれ、秀才の名を欲しいままにした俺。  でも所詮田舎の秀才は東京の大学へ来ればただの人。  遊び場も知らないし、車も持ってないし、狭いアパート暮らしで、バイトしてもいつも金が足りなくて。  だからやっと大学を卒業して、名の通った商社に入れたときはうれしかった。  都内の一等地にある社宅に入ることもできたし、これでやっと金回りも少しは良くなるだろうと思った矢先に。  俺はヘンな派遣のブスに手を出してしまい、妊娠させ、結婚するはめになってしまった。 俺って本当にバカとしかいいようがないな。 離婚したいけど、こどもが可哀想な気もする。こんな俺にとっても、自分の子はかわいいと感じる。  これが俺の小さいところか。  こどものためにも、離婚はできないんだろうな、俺は。 ああでも結衣ちゃんはかわいいなあ。今は何も考えたくない。  どこでキスしようか。今夜は一晩中愛してやるよ、結衣ちゃん。 4・メール豚 『欲求不満のクソブタです。誰かメールください』 『クソブタちゃん、どんな風にいじめられたいのか言ってごらん』 『妊娠したいんです。中で出してください。もっともっと醜いブタになりたいの』 『そうか、じゃあどこでしてあげようか』 『はい。住所を教えます。東京都杉並区○○○・・・・・・・』 『そこへ行けばいいの』 『はい。来てください。お願いします。待ってます』 5・メール師 絶対イタズラだろうな、とは思ったものの、それほど家から遠くなかったこともあって、俺はついつい車で杉並に向かってしまった。いくら日曜日で仕事が休みだからって、俺もヒマだなあ。 で、着いたところは何の変哲も無い普通のマンション。ひと昔前に流行った茶色いタイル張り、築15年というところか。  さてと。4階か。 表札を見る。高田。最近は表札なんか出してない家も多いけどね。分譲っぽいしっかりしたマンションだ。  結構、中も広そうだな。まぁでも3LDKか?  お。ドアの前にどう見ても男用の自転車が置いてある。 やっぱりイタズラか......。 まぁでもヒマをもてあました主婦っていう可能性も捨てがたいな。  中には誰かいる様子だろうか。 廊下に面した、格子つきの窓を覗き込む。  その瞬間、中からドスの効いた低い声が聞こえてきた。 「なんだよ、おっさん」 そして、いきなり、カーテンがばさっと開けられた。 (ヤバい)  俺は焦った。 「あ、すみません・・・えーとこちらは・・・佐藤さんではないですよね・・・」 俺は必死にごまかそうとして適当なことを言った。咄嗟なのでついびくびくしてしまった。 「はぁ?佐藤?違いますけど。高田って表札、出てるでしょ。どうだっていいけど人の家を覗き込むのはやめてもらえないっすかね。黙ってりゃさっきからさぁ。気が散るんだよ」 カーテンが開けられたので、ついつい中を見てしまう。ドスの効いた声だったので一瞬ひるんだが、良く見るとそうそう悪くもなさそうな、ごく普通の、高校生くらいの少年だ。  言葉遣いがよくないが、この年齢じゃこんなもんだろう。  てっきり女でも連れ込んでいて機嫌が悪いのかと思いきや、机の上にはパソコンをはじめ、参考書やノートが広げられている。 どうも勉強中だったようだ。 「いや、ほんとすみません」 平身低頭で謝りながら、俺はふと、この少年には話をしても良いような気がした。どうせ暇に任せてここまで来たんだし、暇つぶしがてら、この少年にここに来た経緯を語ってみようか。  俺は物好きにも、そんな風に思った。 「佐藤なんて、この階にはいないよ」 少年はぶっきらぼうに言い捨てる。でも、実はそれほど怒っているわけではなさそうだ。少年も家の中に一人きりのようだし、案外ヒマなのではないだろうか。 「あ、そうなんですか。ええと、実は・・・。ちょっと話したい事があって。あ、今、時間はあるかな?」 「なんだよ。おっさん押し売りかなんかなの?俺、金持ってないし未成年っすよ」 「違うんだ。実は・・・」 俺は出会い系サイトのメールでここの住所を知ったことを少年に話した。 少年は憮然とした様子で話を聞いていた。 けれど、不思議なことに、それほど驚いた様子はなかった。 「・・・ってことなんだ。何か心当たりはないかな。いや、別にいいんだけど、あんな風にああいう場所へ住所がさらされるって、あんまりいいことじゃないだろうと思ってさ」  少年は無表情で聞いていたけれど、話を聞き終わると口を開いた。 「スケベ心丸出しでやってきたおっさんに言われたくもないけどな。ふーん、出会い系ねえ。そのパターンは初めてだな。それ、相手はほんとに女?」 「メールだからわからないけどね。でも女だと思うな。なんとなく。不思議なんだけど、ネカマって感じはしなかった。俺、結構そのあたりの勘はいいんだ」 「ふーん。どうだっていいけど、おっさん出会い系にハマりすぎてんじゃない?」 「そんなことはほうっておいてくれよ。.......で、つかぬ事を聞くけど、ここ、賃貸?いや、もしかして、前の住人が、ってこともあるかなって」 「いや、分譲っすよ。6年前に、かあちゃんが買ったもんです。中古だったと思うんだけど、もう6年もいるし、前の住人のことでなんかあったことはないですけどね」 「へえ、お母さんが?」 「俺の進学のために、東京に家が欲しいって言って。かあちゃんは出稼ぎに出たりで忙しかったんで、俺はここで中学のときからほとんど一人で暮らしてるんですよ」 「お父さんはいないの?」 「うん、いないんですよ。生まれたときから」  少年は屈託ない様子でそういった。 「そうか、君のお母さんは苦労してるんだなあ。出稼ぎっていうのも今時なんだか珍しいというか」 「なんかよく知らないっすけど、水商売みたいですよ。同じ店にずっとはいられないってことで全国を転々としているみたいですけど。遠くに行くこともあるけど、今は東京の店にいるみたいです。だから今はかあちゃんはここへ帰ってきてますよ。ま、苦労かけてるのは本当にそうだと思うんで、俺は大学はなんとか国立に入りたいんですけどね」 「へえ。なんか、偉いんだね。君たちは」 「そうっすか?ま、そういうことなんでおっさん、もう帰ってくださいよ。俺は勉強しなくちゃなんないから」 「そうだね、帰るとするか。日曜に勉強なんて君も大変だね。俺も帰って仕事でもするかな」 「ははっ、ほんとそうですよ。うちのかあちゃんも、今日は仕事でディズニーランドに行ってるらしいですよ」 「へえっ、仕事でディズニーランド?そりゃまた。そういえば水商売って言ってたけど・・・。最近の客ってかなりの年でもそういうところに行きたがるのかなあ」 「かなりの年?ま、客は20代後半から30代が多いみたいですけどね。あっそうそう、そういうのはたまに、わざわざ調べてここまで来ることがあるんですよ。興信所かなんか使うんですかね。俺を見て帰っちゃうヤツがほとんどだけど。まぁでも、俺のことまさか息子だとは思っていないみたいですけどね。なんだ男がいたのか、とか言って。そのあとは、かあちゃんが何かいろんな手を使って、二度とここへ来ないように細工するみたいですけど。だからおっさんも、最初はその口かと思った」 「・・・は?お母さんっていくつ?」 「今年30ですよ。でも、店では23って言ってるらしいけど。まぁでも全身整形で、相当きれいっすよ」 「は?30歳?で、23?え?君は高校生なんじゃないの?」 「あはは。混乱しちゃいました?俺、かあちゃんが14の時の子らしいですよ。で、俺、かあちゃんが18になるまで施設で育ったんですよ。なんでもかあちゃんは少年院だか精神病院だかに入っていたらしくて。なんでも、強姦された仕返しに、その相手を殺しちゃったらしいんですよ。たぶんその強姦された相手っていうのが俺の父親なんじゃないかなあ。でも、産んでくれたんですよね、かあちゃん、俺のこと。で、俺が4歳の時に18歳のかあちゃんが迎えに来てくれて・・・・。 はははっ、俺もヒマなのかなあ、なんでおっさんにこんなに色々話してるんでしょうかね?」 「まぁでも俺、話しやすいってよく言われるよ。人徳かな?まぁでもびっくりしたよ・・・。すごい話だなあ」 「あのさ、ひとつ、当ててみせようか」 「なんだよ、いきなり」 「おっさん、教師でしょ。それも、都立の小学校」 「..........もしそうだったら、それがどうかしたのか?」 「俺、割と勘がいいんだ。それに実は、俺も教師になろうと思っているからさ」 「そうか。がんばれよ。あ、あとさ、俺出会い系は大好きだけど、ロリコンじゃないんだ。成熟しまくった年増が大好きなんだ。お前、若い女が好きなら小学校はやめといたほうがいいぞ」 「ははは。おっさん、どうだっていいけどPTAで問題起こすなよ?何年後かわからないけど、そのうち職場で会おうぜ」 6・メールパレード 「きれいね」 夜のパレードは刹那的で、流れていく光は恋に似ている。 なんてエセ詩人な語りをしたくなるくらい、俺はロマンチックな気分に酔い痴れていた。 「君のほうがきれいだよ」 俺ってこんなセリフが言える人間だっけ?地方都市の郊外で育った平凡な公務員の息子がさ。 ま、いいや。下克上、そして身分差別を廃するのはすべて恋の力だ。なんてウソばっかり。 気分は盛り上がりまくり。人間は恋心をなくしたらもう死んじゃったようなもんだよ。 違うか?股間も破裂しそうだぜベイビー。こんなにやりたいのは高校生で溜まりまくってた時以来じゃないか? 俺は結衣ちゃんの腰に手を回し、顔を寄せる。キスまであと30秒。 そのときだ。 ブルンブルンブルン 俺の胸ポケットで携帯が震えだした。そしてすぐに収まった。メールだ。 いいさこんなもの無視しよう。  そう思って俺はさらに結衣ちゃんの腰に回した手に力を込めた。そして少し引き寄せる。結衣ちゃんのプルプルの唇が俺を誘う。ああもう、食いつきたい。 するとまた。 ブルンブルンブルン またメールだ。なんだってんだよ畜生。  無視だ無視だ。 しかし。 ブルンブルンブルン ブルンブルンブルン 携帯は何度も震え続けた。 なんだ?なんだよ?何かあったのか? さすがに不安になった俺は、右手を結衣ちゃんの腰に手を回したまま、左手でパチンと携帯をあけた。 するとメールが立て続けに5件入っていた。 そしてそのメールはすべて、妻からのものだった。 『さようなら』 『さようなら』 『さようなら』 『さようなら』 『さようなら』 俺が顔をしかめてメールをチェックしていると、頭上から、ポツッ、と水滴が落ちてきた。 「あ。雨」  結衣ちゃんがつぶやく。 「行こう」  俺は携帯を閉じ、結衣ちゃんの手を握って走り出す。  こんなメールなんかに、かまっている暇はない。 お土産のショップの店先で雨宿りをする。これもまたオツなもんさ。今日は雨が降るって、もともと天気予報は言ってたんだ。よくこれまで天気が持ったもんだよ。 雨に煙る石畳。浦安のはずなのに、なぜかヨーロッパな雰囲気。そんなことわかっているさ?でも、そういうことじゃないんだ。  雨脚が急に強くなってきた。これじゃあ動けないな。 ところで、なんなんだ、あのメール。ふざけやがって。あの能無しのデブに一体何が出来るって言うんだ。あいつは家の中を這い蹲って便所掃除でもしていりゃあいいんだ。 「ねえ、横におしっこ飛ばさないで」  トイレの床を拭きながら、豚が言う。  膨れっ面で豚がしゃべればしゃべるほど、俺は耳を塞ぎたくなる。  『豚は便所掃除が仕事だろ?』  何度も言ってやりたかったセリフ。  俺は優しいから、黙っててやったんだ。   「最近は、東京にもスコールが降るみたいね」 土砂降りの雨を見て、結衣ちゃんがつぶやく。 俺は結衣ちゃんのカンペキに整った横顔を見て、蕩けそうになっていた。  どうして、こんなにきれいなんだろう? そのとき。  俺の目の端に、見たくない、醜いものが入り込んできた。 信じがたい思いで、俺はそれを見た。 俺を射る様に見つめる視線。どしゃぶりの遊園地。その中に立つ不気味な親子連れ。 ぶよぶよと太ったみっともないデブが、抱っこ紐で赤ん坊を抱き、傘もささずに雨の中に立ち尽くしている。 妻だ。  俺はさすがに動揺した。 「なんだ、お前、何しに来たんだよ」 「ずいぶん、探したのよ。広いんですもの、ここ」 「だから、何しに来たんだよ」 「わたしもここへ来たかったの。それだけよ。でも、生憎、雨が降っちゃったわね」 妻は静かに言った。  太った体に、安っぽい服が張り付き、余計に醜くなっている。バッグも、もう何年も使っているらしい、古びたものだ。 「わたし、遊んで行くわ。荷物も、家から運び出したわ。今夜は、ここに泊まるのよ。だから、あとはもう、メールでね」 まるでバケツをひっくり返したような雨が降る中、妻は俺に背を向けると、とぼとぼと歩き去っていった。 そして、俺が呆然としているうちに、いつの間にか結衣ちゃんも、俺の側からいなくなっていた。 エピローグ 「雨の夜、園庭で」 『梅雨に入りましたね!洗濯物が乾きにくくて大変ですけど、うちの子は、なぜか雨の夜に園庭で遊ぶのが好きなんですよ!  わたしの仕事は残業が多くて、保育園にお迎えに行くのがついつい遅くなりがちで、かわいそうなんです。でも、そんなときは、夜の園庭で滑り台をしたり、ブランコをしたりするとご子供の機嫌が良くなるんですが、特に雨が降っていると、うちの子は大喜びで。傘なんかささないで、二人で雨の中びしょびしょになりながら遊ぶんです。  大雨の時なんか、わたしまで楽しくてすっきりしちゃいます!  雨の中で遊ぶの、すごくオススメです!  ところで、わたしは、以前はすごく太っていて、夫の浮気に悩んでいて、毎日がとてもつらかったんですけど、離婚したらかえって寂しくなくなって、とても安らかな気持ちになりました。今は息子と二人で暮らしてとても幸せです。思い切って離婚して良かった!こんなわたしですけど、保育園のこどもがいるシングルママさんメールくださ〜い!ぜひいろいろと情報交換しましょう!』 ---------------------------- [自由詩]行く/チアーヌ[2008年2月29日0時11分] どこでもない場所へ 行くの 持っていかれて この世は きれいだわ 白亜の神殿が 炎に包まれて 沈む 武器をちょうだい? 三つに分かれて 沈んで行くわ わたしは大丈夫だから 助けないでね ひとりでそこへ 行くの きれいだわ きれいすぎるから 目を閉じて行くわ まるで心の底を 押し上げられるみたい とても幸せ みたい ---------------------------- [自由詩]地獄で/チアーヌ[2008年3月18日16時17分] あ なんか違う って感じが ぐるりと 腰の辺りで動いた スーパーマーケットのど真ん中 わたしは脂汗を流して 立ち止まる 夢見が悪かった 何度も叫んでいた 悔しい 憎らしい どんなに恨んでも恨みきれない そんな思いが 理由も無く 爆発していた ここは地獄だ 花が咲いてる たくさん ---------------------------- [自由詩]社交辞令の裏側/チアーヌ[2008年3月20日16時24分] 別にあなたと つき合わなくちゃいけない 義務なんかないので 適当に 適当に 適当にしているのに まるで水飴を服に付けちゃったときみたいに うっとうしい もう大人なので 側に来るなとも言えないし わかるでしょ言わなくたって わたしたち趣味も合わないし気も合わない 一見優しそうに見えるから つきまとっているの? 道を聞かれたときには 親切だけど 他のときはそうでもないのよ ---------------------------- [自由詩]我慢の限界/チアーヌ[2008年3月25日22時57分] 足の裏に口がある もう顔を使うのは やめにする ---------------------------- [自由詩]ごめんね/チアーヌ[2008年3月26日9時25分] 誘ったわけじゃないけど そうなったらいいなって思ってた そう思っていたらそうなった それだけで満足だったので それ以上のことはなにも いらなかったのに あなたは いろいろなものをくれようとしたり いろんなことを考えてしまったり してしまったので どうしたらいいかわからなくなった そういうことは望んでいない そんなことは必要ない 言葉すれば壊れてしまういろんなこと 黙って 切り抜けようと 思ったけど それは実際難しい 離れてしまうしかなかった シャッターを閉めて 説明は いらないよね 本当は わかってるよね ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]黒頭巾ちゃんとクリスマスケーキ/チアーヌ[2008年3月27日16時39分]  黒頭巾ちゃんは、電車で2駅の場所にあるケーキ屋へ、クリスマスケーキを注文するためにお出かけしました。  もちろん、普段の黒頭巾ちゃんは緑の頭巾を被っていますので、黒頭巾だと見破られるようなことはありません。 「緑頭巾さん、わざわざお越しいただいてありがとうございました。先日お届けしたパンフレットからお選びいただいて、お電話でご注文いただいてもよろしかったのですが」 「そうしようかと思ったのですけれど、たまにはこちらへ来るのもいいかなと思って」  静かな住宅街の中にある、このケーキ屋は、黒頭巾ちゃんのお気に入りの店で、黒頭巾ちゃんはこのお店からケーキや焼き菓子、チョコレートなどをよく届けてもらっているのでした。 「本当にわざわざありがとうございます。それでは、もしよろしかったら奥の部屋で新作のケーキなどご試食して行かれませんか。クルミを入れたタルトにキャラメリゼしたりんごを乗せて、あっさりした生クリームを添えたものなのですが」 「それはおいしそうね」  黒頭巾ちゃんは奥に案内されて、ケーキと紅茶を頂きました。  この店は老舗で、優秀なパティシエを何人も雇っており、都内に何店舗かあるのですが、やはりこの本店のケーキがおいしいと、巷では評判が高いのでした。  そして、この本店ではカフェも併設しており、奥の方には個室もあるのでした。  黒頭巾ちゃんが静かな個室で、おいしいケーキを食べ、紅茶のお代わりをもらって飲んでいると、店のオーナーが現れました。 「ケーキの味は、いかがでしたでしょうか?」 「ええ、とてもおいしかったわ」  黒頭巾ちゃんはそう答えながら、コトリ、と紅茶のカップをテーブルの上に置きました。  お店のオーナーが、そっと個室のドアに鍵をかけ、黒頭巾ちゃんを見つめたからです。  こんなことは、前にもありました。  そのときは、黒頭巾ちゃんから誘ったのです。どんな風にして誘ったのか、黒頭巾ちゃんはもう覚えていませんが。  黒頭巾ちゃんは、薄明るい光の差し込むカフェの個室で、するすると、緑の頭巾を脱ぎました。  お店を出ると、まだ、驚くほど昼間でした。  体がだるくなり、電車に乗るのがイヤになった黒頭巾ちゃんは、駅前でタクシーを止めると、乗り込みました。  すると、携帯電話が鳴りだしました。 「はい」  相手を確かめることもしないまま、黒頭巾ちゃんが電話を受けると、相手はおおかみでした。 「あら。なにか用?」 「なにか用、じゃねえよ。そろそろクリスマスパーティだろ。段取りの方はできてるか」 「ケーキは頼んだわよ」 「しらばっくれるのもいい加減にしろよ。まぁいいけどな」  電話が切れると、黒頭巾ちゃんは小さな溜め息をつき、タクシーのエンジン音を聞きながら、そっと目を閉じました。 ---------------------------- [自由詩]椿/チアーヌ[2008年3月31日11時46分] くらやみに 椿がぼうっと 咲いている 赤と白の 絞り 女のようだが 女のようでもない 花のようだが 花のようでもない とても 黒い 緑色の葉 くらやみに ただ ぼうっと 咲いている ---------------------------- [自由詩]春/チアーヌ[2008年4月2日13時23分] なんかみんなじゃれあってるみたいに見えて いいことだなって思っちゃった 気がついたら 怪我してた みたいだけど 何回聞いても 君の苗字は忘れちゃうよ なんかだからもう聞かなくていいや ティーカップにコーヒー デリバリーのピザ 今夜はお祭り だね ---------------------------- [自由詩]「切ない」を羊に/チアーヌ[2008年4月7日19時26分] どうしたらいいかわからないくらい 切なくなると わたしは乳房を切り裂いて 「切ない」を取り出して 腹を空かせた羊の エサにでもしたくなる いくら「切ない」を上げたって 羊は真横についた目でわたしを見つけるだけで わたしのことを 覚えてはくれないけど ---------------------------- [自由詩]苺/チアーヌ[2008年4月16日15時09分] 直径1メートルくらいの 真っ赤な苺があった もちろん葉も茎もでかい あらすてきお伽噺みたい わたし小人になったのかしら それとも妖精さんかしら なんて思わなかった 当然 気味が悪かった しかし 食べてみなくてはなるまい わたしはスプーンでその実をえぐって 口に運んでみた うん おいしい でも気味が悪い 「そうか」 わたしは すべてのことがわかった ような気がした ---------------------------- [自由詩]わかるわけがないと思う/チアーヌ[2008年4月24日17時59分] わかるわけがないと思う あの頃 みんな もう何をしてもつまらないって知っていた この先何も いいことなんかないって知っていた 生き残るため そう、大していいこともないのに ただ生き残る、というために 多大な労力を払わなければならなくなることを みんな知っていた その中で わたしは上手く 立ち回った方だと思う よくないやり方もあった だから わたしのために 不幸になった人が 何人かいた 崖に捕まったわたしは 非情にも わたしに捕まる人たちの手を 振り払ったから 広くてキラキラした場所で まだまだ未来の夢が見たかったのに みんなそうしたかったのに もう何もかも つまらなくなるんだって みんな知っていた わたしも知っていた 生き残るため だけに 使い果たし すり減らした何かを もう取り戻すことなんかできない わかるわけがないと思うし わかってもらおうなんて みんな思っちゃいない もう楽しいことなんかなにもないんだって あの頃あの人も言っていた だから欲しいものもないんだって 今頃になって いろんなものが欲しくなっても もう遅いのかもしれない みんなそう思ってる でもどこかに残ったかけらを拾おうとして みんな流れの速い川を 渡ろうとして 溺れてしまうのかも しれない ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]大力の女/チアーヌ[2008年4月29日17時44分] 俺の会社は、なぜか各大学の空手部、相撲部、柔道部、レスリング部のOBが集まるところで、派閥もいわゆる学閥ではなく、格闘技別と言った雰囲気がある。 ちょっと不思議な会社かもしれない。 俺はボクシング部から来たのだが、ボクシング系は少なくて、どちらかといえば少数派だ。 が、まぁしかし、全体的な居心地は悪くない会社なので、おそらくこのまま定年まで、勤め上げて行くのだろうと、俺は感じている。 俺も今年で35歳。会社では中堅の部類に入って来た。まぁ、平凡ながら、サラリーマンとしては順調な人生なのだと思う。 時は4月。 新入社員の歓迎会が、ホテルの大広間で賑々しく行われた。 各部署ごとに同じテーブルに集まり、社長の長い話を聞いたあとは乾杯。 これは毎年変わらない。 俺は今年、3月の移動で、総務から営業に来た。 大きな会社なので、部署が違うと、あまり顔合わせすることはない。なので、営業に今年初めて来た俺は、新入社員ではないけれど、気持ちは新参者、という感じだった。 営業部は、相撲部のOBが多いらしいと聞いていたが、噂に違わず、みんな背も高く横も広いという立派な体格の社員が多かった。 そして役員が乾杯の音頭を取ると、めでたく、 「新入社員歓迎大宴会」の幕は切って落とされたのだった。 酒が入ってしばらくすれば、場は無礼講状態。 新入社員はまだまだ固くなっているけれど、社歴が長い人間にとってはただの会社の宴会という感じで、みな好き勝手に話を始めた。 そんな中、出て来た話は、やはり格闘技をやった人間が多い会社なだけに、 「うちの社では、誰が一番強いのか」 という話だった。 営業は相撲部出身が多いし、今年の新入社員も見たところ相撲部の出身のようだった。 そんな彼を囲んで、ふとした流れから、話が膨らんで行った。 「営業部で一番強いのは、なんと言っても今年入社の高田君だろうな。何しろ、学生相撲で優勝したことがあるんだからね。大したもんだ」 「いえ、僕は....それよりも、管理部にいる、大学で2年先輩の、白石さんのほうが」 「ほう、彼の方が強いかね」 「ええ、僕は勝ったこと無いです」 「部長!部長だって昔は」 「あはは、僕が相撲を取っていたのはずいぶん昔の話さ。高田君、活躍に期待しとるよ」 「ありがとうございます。がんばります」 「しかしあれですね、この社全体で考えたら、一体誰が強いんでしょうね?」 課長の下川が言い出した、その疑問は、案外誰もが思うことのようだった。 「そうですねえ。そういえば誰なんでしょうね?」 「直接やり合うと、異種格闘技になっちゃうからなぁ」 「社長はあれだよ、柔道で」 「が、古賀専務に学生の頃負けているはずだ」 「高橋常務は、あれだ、少林寺拳法部だったな確か」 「ほう、少林寺拳法」 「まぁでも何と言っても、経理部の駒井君じゃないですか」 「そうだなあ、駒井君だろうな。何と言っても彼はオリンピック選手だからな」 「全盛期の袴田とやりあって、一歩も引けを取らなかったと言いますよ」 「袴田と言えば、プロレスラーの。ほう、駒井君はやりあったことがあるのか」 「なんでも女を取り合っての路上ファイトだったとか」 「はっはっはっ若いということはいいことだねえ」 「まぁでも駒井君だろうね、それに異存はなさそうだ」 「いえ、この社で一番強いのは、社長秘書ですよ」 酒が入っていたせいかもしれない。俺はふと、口を挟んでしまった。 でも、俺が言い出したことは、総務部では有名な話だったし、俺はある程度古参の社員ならば、誰でもその話を知っていると思っていたのだ。 ところが、そうではなかったようだった。 「社長秘書?それって、あの、確か女性だろう」 部長の矢作が不思議そうに言い出した。 「はい、そうです、女性です」 「年は....何歳くらいだだっけ。我が社では、女性の中では古株のほうだよな」 「僕と同じですね。35歳です」 「まぁでも、きれいな女性だよね。ほっそりとして、華奢な感じだが.....しっかりと仕事をこなしているという印象もあるし」 「なに?で、その女性が、社で一番強いと、君は言うのかね、寺田君」 課長の下川も興味津々だ。 俺はちょっと困ってしまった。 「ええ、そうです.....」 言葉に迷いながらそう答えると、部長も課長も、そんなことはありえないとでも言うように、ニヤニヤしながら顔を見合わせた。 「一体何を言い出すかと思ったら。ではあれかね、あの女性が、女相撲でも取っていたと言うのかね?」 「いえ、本人は、格闘技は一切やったことがないと言っていました」 「じゃあ、何が強いんだね、彼女は」 「いやもう、力が強いんです」 「力が強い?どういうことだ。腕相撲でも取ったのか」 「いえ、取っていませんが、やったらきっと、確実に負けると思います」 「へっ、君が彼女に負ける?君だって腕には覚えがあるほうだろう。確か」 「はい、ボクシング部でした」 「じゃあ女に腕相撲で負けるなんてことがあるわけないだろう」 「いえ、僕は全く自信がありません。あれを見たら.....」 俺はつい口を濁した。 「あれって何だ」 みなが俺に目を向けている。 俺の答えを待っているのだ。 (仕方ないか) 俺は、手元にあったビールを飲み干すと、話をはじめた。 とにかく、俺が今まで生きて来た中で、一番強いのは彼女だ、と思う。 美人で、すらりとしていて、気立てが良くて、しっかりもので。 彼女は受付に配属され、俺は情報管理部で働いていた。 俺と彼女は、同期入社で、何気なく話をする仲ではあったけれど、でも、それだけだった。 そんなある日。入社して確か、半年も経っていなかった頃だ。 とんでもないことが起こった。 社に、おかしな男が乱入して来たのだ。 男は鉄パイプとナイフを振り回し、「社長を出せ!」と叫んだ。 そして受付に座っていた彼女を捕まえ、人質とした。 とっさのことで、受付には人も少なかったし、皆凍り付いた。 人質さえいなければ、誰かが取り押さえたところだったろうけれど、今となってはそうもいかない。 たまたまその場に居合わせた俺は、とにかくなんとかしなければならないと、拳を握りしめていた。 人質になった彼女は、突然のことで驚いてはいたようだけれど、案外冷静な表情で、辺りを見回していた。 うちの社の正面玄関は、ちょっとした表通りに面している。 彼女はそれを見て、たぶん、この状態は外聞が悪いと思ったのだろう、ナイフを持った男になにやらささやき、男と一緒にエレベーターの方へ移動を始めた。 そのエレベーターは、社長室へ向かうものだったので、俺は青くなった。 (あの男を、連れて行く気だ) 人質としては、そうするより他にないのかもしれないが、社長室というのはかなり奥まった場所にあるので、あんなところにおかしな男を連れ込んだら、きっと皆身動きが取れなくなるはずだと思ったのだ。 警察だって逆に入りにくくなるだろう。 「いいか!警察に電話なんかしたら、すぐにこの女を殺すぞ!俺は社長に話があるんだ!」 明らかに目が血走っている男が、エレベーター前で叫ぶ。 エレベーターの扉が閉まる前に、俺は階段を駆け上がり始めていた。 8階の社長室前に到着すると、ちょうど男と彼女を乗せたエレベーターの扉が開くところだった。 俺は社長室の扉を確認した。在室の札が下がっていない。 (なるほど、受付の彼女は、社長が今社長室にいないことを知っていたんだ) 男は興奮した。 「なんだよ!社長がいないじゃねえかよ!」 「そうですねえ....すみません」 彼女がいやにのんびりと言う。 彼女の首に回された男の腕が、興奮でブルブルと震え始めた。 「ち、ちっくしょう!」 「とりあえず、待ってみましょうよ。きっとすぐ来ますよ」 興奮している男に構うことなく、彼女は淡々と話している。 (な、なんなんだ。彼女、怖くないのか) 俺は見ていて不安になった。 そのうちに、俺の周囲に、社長の側近たちが集まって来た。 とっさのことで、連絡はあまり回っていないのか、人は少なめだった。 男は、彼女の首根っこを押さえつけたまま、その場に座り込んだ。 ここで社長を待つつもりらしい。 彼女も同じく、ペタリと床に座り込んだ。 いかにも受付嬢らしい、ストレートなロングヘアに、ピンク色の口紅。 肌は色白で、ぱっちりとした目で、マスカラもばっちり。 細身の体に、会社の制服である、水色のスーツが実によく似合っていた。 ほんとのことを言うと、俺は入社したときから、彼女のことがちょっと好きだったのだ。 (なんとかしなくちゃ) 俺は気ばかり焦り、動けなかった。 すると。 どこからか、ポキ、ポキ、と何かを折るような音が聞こえて来た。 不思議に思いながら、音のする方を見ると、彼女が手元で、何かを潰しているような様子が目に入った。 (なんだ?) よく見ると。 彼女はちょうど座った辺りに男が置いた、鉄パイプを、指先で摘むようにして、捻り切っていたのだった。 (へ???) 俺は一瞬、何がなんだかわからなくなり、周囲を見回した。 社長の側近たちは、みな、唖然としている。 当たり前だ。 見た目、優しげで可愛らしい、華奢な女の子が、いとも簡単に鉄パイプを、指2本で捻り切っているのだ。それも、一センチ刻みくらいの間隔で。 何しろ鉄パイプだ。それを指2本で、まるで楊枝でも折っているかのように、ポキポキと折ってしまうのだ。俺だってそんなことはできない。 俺はいまいち、目の前で起こっていることが、理解できなかった。 そして、おかしな男も、はじめはわからなかったようだけれど、しだいに彼女のやっていることに気がついてきたようだった。 そうして、男は、気味が悪いものを見るような目で、彼女を見始めた。 そうしたら、彼女は、堪えきれないような感じで、クスクスと笑い始めた。 鉄パイプを指で摘むようにして折りながら、クスクスと。 男は、その様子に、不意に恐怖を感じたらしい。 彼女を突き放すようにすると、走って逃げ始めた。 「お、追いかけろ!」 いつの間にやら、俺の後ろに立っていた社長が、慌てて叫んだ。 男は、屈強な男性社員たちに、ただちに取り押さえられた。 俺が話し終えると、場はしーんと静まり返ってしまった。 「そ、そんな話、本当かね」 「本当です。その場にいたものは、みな、その様子を見ていましたから」 「しかし、そんなこと、あるのかね。でもそういえば、前からちょっと不思議だったんだ、社長があの女性を社長室秘書にしていることが....だって彼女は、こういっちゃなんだけど、大した学歴でもないし、英語力もあまりないし」 「そうですね。彼女はしっかりはしていますが、いわゆる勉強方面は弱いです」 「そうすると何かね、彼女はその事件のあとから、社長秘書になったのか」 「そうです。すぐに抜擢されて、今も」 「そうすると、彼女は、秘書というよりは」 「ボディガードのつもりかもしれないですね、社長は」 「なるほど、そうだったのか。しかし.......。大変なものだな」 「彼女のお兄さんと言う人に、話を聞いたことがあるのですが....。お兄さんは、この話を聞いて、もう大笑いで」 「大笑い?」 「相手の男に、よく危害を加えずに済んだと。以前、電車の中で彼女が痴漢に襲われかかったとき、彼女はその痴漢の腕をひねり、そうしてそのまま腕を上に上げ、肩の骨が体から飛び出てしまったらしいんです」 「ひゃあ、たまらんな、痴漢の方も」 「それに、小さな頃は、お兄さんが使っていた鉄アレイを使ってお手玉をしていたそうです」 「お兄さんというのも強いのか」 「はい。お兄さんはアメリカで活躍中のレスラーです。バッファローやクマと戦うプレイで人気を博しているそうですが、そのお兄さんが言うには、彼女のほうが自分の何倍も強いと」 「彼女は、何もしていないのか、逆に、それだけ強いなら」 「イヤなんだそうです、格闘技も、強さを誇ることも」 「しかし、そんな恐ろしい怪力を持っているのでは、なかなか結婚相手は見つからなさそうだなあ」 「いや、結婚してますよ」 「ほう」 「僕と」 「へっ、なんだ、彼女は君の嫁さんか!しかしよくそんな女と」 「あはは、よくそう言われます」 「まぁでもあれだろう、聞いてると、彼女は鉄パイプを折りながらクスクス笑ったり、お茶目で可愛いところのある女性なんだろうな。だから君も惚れたんだろう」 「もう、結婚して10年にもなりますからね。そんなこと忘れちゃいましたよ」 そのとき、彼女が、ビール瓶を持って営業部の席に現れた。 そして、みなににこやかに挨拶しながら、ビールを注いで回った。 「社長室秘書の寺田と申します。今年から主人がこちらにお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」 すると、酔っぱらった部長が、 「怪力というのは、ほんとなんですか、寺田さん」 と、彼女に尋ねた。 彼女は俺を軽く睨みながら、 「なんですか、主人が、またそんな嘘を」 と言いながら、去って行った。 次第に酒が深く回って来て、部長も課長も新入社員も大笑いをしていた。 ホテルの大宴会場は、今を盛りと、賑わっていた。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]沼の主/チアーヌ[2008年5月10日14時52分]  水面に、静かに輪が広がり、女が浮かび上がってきた。  そしてその女は、青緑色の沼の表面に浮かび、まるで肘をつくかのような格好でこちらを見た。  時刻は、薄ぼんやりとした昼間で、のんびりと釣り糸を垂らしていた俺は、少々驚きはしたものの、なぜか取り立てて恐怖は感じなかった。 「釣れるかしら?」 女が話しかけてきた。 「ねえ、釣れてる?」  女の肌の色は、まるで水に透けるくらいに青白く、長く垂らした髪の毛は、一見黒に見えるのだけれど、よく見ると濃い緑色をしていた。  女が、尋常なこの世のものではないことは、俺だってすぐに気がついたけれど、薄明るい、平和で静かな沼のほとりにいると、俺は女がおかしいことなど、あまり気にならなかった。 「見ればわかるだろ」  俺は仕方なく、ぶっきらぼうにそう答えた。  朝からずっと、俺は釣り糸を垂らしているが、魚は一匹も釣れていなかった。 「うふふ。そうみたいね」 女はそう言いながらゆっくりと水面を泳ぎ始めた。  女は、薄衣のようなものを纏ってはいたが、それは透けていて、ほぼ全裸に近い姿だった。  均整のとれた体つきに、形よく張りのある乳房、くびれた腰。滑らかな白い肌に細くしまった足首。俺は、ついつい女の体を見つめてしまった。 (足は、あるんだな) 俺は女を眺めながら、どうだっていいことを思った。 (人魚でもないんだ。鱗もついていないようだし) 「人魚なんかじゃないわよ」 まるで俺の気持ちを見透かしたかのように、女が笑いながら言った。 「ほら、足だってあるわよ。こーんなに、立派な足が」 ちゃぷん。  女はくるりと仰向けになり、まるでシンクロナイズドスイミングでもしてみせるように、片足を水面に高く上げてみせた。そしておどけるように足首を回した。  俺は完璧にからかわれているようだ。 「でも君は、人間じゃないだろう?」 俺は思い切って尋ねてみた。  女は首をかしげた。 「そうね。あなたの基準で考えたら、たぶん人間じゃないわね。でも人魚じゃないわよ。幽霊でもないわ」 「じゃあ何だ?」 「そうねえ」 女はじゃぶん、と音を立てて水の中に潜り込み、中で一回転すると、また浮かび上がってきた。 「昔風に言うと、この沼の主、ってところかしら」 「なるほど」 俺は妙に納得した。 「嫌だ。納得しないでよ。なんか、主なんて、そういう言われ方好きじゃないのよね」 「でも、実際、そうなんだろう?」 「あなたが理解しやすいように、昔風にわかりやすく言ってあげただけよ。本当は、そうねえ、沼の精ね。わたしはこの沼の水から生まれた、水の精なの」 「水の精」 そう言われれば、そんな気もした。 「ところで」 女は水面に肘をついたまま言った。 「盲亀の浮木優曇華の花、ここで会ったが百年目、ね。さて、遊びましょうよ」 「百年目?どういうことだ?」 「うふふ。何まじめに取ってるの?そういう気分って事よ。ねえ、遊びましょうよ。どうせ魚なんか釣れないわよ。それに釣ってどうするのよ。キャッチ・アンド・リリースでもするの?くっだらない。そんなこと、おやめなさい。魚たちだっていい迷惑だわ。それよりも」 「それよりも、なんだよ」 女はほんのりと赤い唇の端を上げながら、すうっと水の中へと消え、そしてその次の瞬間に、水辺に椅子を置いて腰掛けていた俺の足に、白い指が絡み付いた。 「うわぁっ」 俺は思わず叫んだ。それはまるで、ブルドーザーにでも巻き込まれたように感じるくらいの、強大な力だった。  叫び声も虚しく、俺はあっというまに沼の中へと引きずり込まれて行った。 「何、焦ってるのよ」 水の中で、女が笑いながら言う。ゆらゆらと深緑色の髪が揺れている。 「びっくりしないでよ。ほら、大丈夫でしょ」 そういわれて、俺はふと気がついた。俺はしっちゃかめっちゃか手足を動かして、慌てて水面に這い上がろうとばかりしていたけれど、よく考えたら全然苦しくなんかない。 「不思議だな。どうして平気なんだろう?」 「それはね、わたしと一緒だからよ」 女はそう言うと、俺の手を握った。その手は、思いのほか、温かかった。 「さあ、いらっしゃい」 「どこへ?」 「いいから黙ってついて来なさいよ」 女は諭すように言うと、俺の手をしっかりと握ったまま、泳ぎだした。  水の中で、女は自由自在に動いているのだった。  水の精なのだから、当然なのかもしれないが。  俺と女は、奥へ奥へと進んで行った。  深い深い沼の底へと。  そして、沼の底は暗いものだと、俺は勝手に思っていたのだけれど、そんなことはなく、辺りはただいつまでも薄ぼんやりと明るいのだった。 「さあ、ついたわ」 女はそう言うと、沼の底にすうっと足を着いた。  俺も同じように、沼の底に立った。  ぬる、とした妙に温かい沼底の泥の感触が、俺の足の裏を包んだ。  俺の目の前には、一軒の家があった。  赤い瓦屋根に、白い壁。玄関前のポーチはクリーム色のタイル。見たこともないような花が玄関脇に植えられ、風、じゃない、水流に揺れている。見たことはないが、きれいな花だ。が、しかし沼の底に花など咲くのか。造花かもしれない。そう思って見ると、その花々はまるで安い造花のように色鮮やかだった。そして、白い格子のついた可愛らしい出窓には、アーチスタイルのレースのカーテン、そしてやはり花の鉢植え。 (おもちゃのようだな。まるで、リカちゃんハウスかなんかみたいだ) 俺はぼんやりとそう思った。 「さあ、ここよ」 女が得意気に言った。 「何なんだ、ここは」 「わたしのうちよ。素敵でしょ」 「なんだかちょっとメルヘンチックだな」 俺がそういうと、女はちょっと膨れっ面をしてみせた。 「やっぱりね。そういうと思ったわ。でも、まぁいいわ。入って」  中に入ると、女は無言のまま、廊下の奥へ奥へと進んで行った。  外から見た時は、そんなに奥行きのある家に見えなかったのに、どこまで行っても、廊下は終わらず、先ははっきりとは見えないのだった。  そしてしばらく行くと、女はようやく立ち止まり、正面のドアを開けた。  女について中に入って行くと、そこには大きなベッドがあった。  部屋の中は安っぽい装飾で満たされ、どこからともなくローションの香りがしてくるのだった。 「早く、いらっしゃい」 女はさっさとそこへ横になると、俺を呼んだ。  そうして、何のためらいも無く、申し訳程度に纏っていた薄衣を脱いでしまった。  青白い体は、薄ぼんやりとした蛍光灯のような明かりのなかで、ますます白く見えた。  何度も洗った後のような、白くて清潔なシーツの上に、ふたりで横たわると、布団がとてもふわふわと柔らかいのがわかった。 「気持ちいいわね」 そう言いながら、女の腕が俺に巻き付いてきた。  一瞬、海の中で海藻が、ぐるぐると巻き付いて来るような感触がしたけれど、それはそれでいいと思った。巻き取られ、優しく締め付けられるような。 「そうだな」 俺も同意した。  女は俺の頭を優しくなでながら、まるで子供に言うように、 「いい子ね」 と言った。  そして、ベッドの上に半身を起こし、ゆっくりと両足を大きく左右に広げ始めた。  俺も半身を起こし、女を見た。  女は薄く笑いながら言った。 「さあ、お待ちかね。面白いものを見せてあげるわ。ねえ、見たいでしょ」 俺は黙ったまま女を見ていた。  女が両足を大きく開くと、そこには真っ赤な空洞があった。入り口は血の色で赤く、奥へ行けば行くほど真っ黒になって行くようだった。 「ねえ、覗いてみて」 女にそう言われ、俺はそこへ顔を近づけた。  こんなおかしなものを見たのは、初めてだった。  ぐにょぐにょ、ぐにゃぐにゃとした肉の内部は粘膜で覆われているけれど、その奥がどこまで深いのか、俺には見当もつかなかった。 「そんなんじゃ、よく見えないでしょ。もっと奥まで見るのよ、さあ」 女がそう言いながら、俺の頭をぐいっと押さえ、女の足の間にあった真っ赤な空洞へ、俺の顔を押し付けた。  その力は、さっき水の中に引きずり込まれた時と同じように、強大な力だった。  まるで巨大なクレーンの先に取り付けられた鉄骨のように、俺は、女の空洞へとセットされてしまった。  そして、真っ赤な空洞が、ぴたりと張り付くように、俺の顔に吸い付いてきた。そうしてそれは、俺の顔面を覆い尽くし、俺の顔についているすべての穴を塞ぐように浸食して来た。 しかしそれは、とてもやわらかで、優しい感触だった。 「もっとよ、もっと奥まできて」 女は言い、俺の頭をがっしりと両手で掴み、ぐい、と真っ赤な穴の中に、俺の頭をすっぽりと納めてしまった。 「ああ」 俺はつぶやいた。  首から上が、女の中に入り込み、俺の頭と顔は、ぴったりと生暖かいものに包まれた。  全く身動きが取れないまま、俺の体から力が抜け、俺は次第にぼんやりとしていった。  すると、俺の足首を誰かが掴み、ぐいぐいと、空洞の奥へ奥へと、俺を丸ごと入れてしまった。  俺は全身を、まるで高圧のクッションのようなもので包まれたように感じた。 けれど、絶えず、ぐにゃぐにゃした感触が体中を撫で回してくる。   俺はすごく気持ちよかった。  俺は、その中で、体勢を整えるように、静かに丸くなった。   ---------------------------- [自由詩]はばたくめんどり/チアーヌ[2008年5月16日16時04分] ある日めんどりは思いました どうしてわたし 歩いているのかなあって ためしに羽ばたいてみたけれど やっぱり重くて飛べなかった もう何年経つかしら 最近は疲れちゃって 毎日卵は産めないわ 早起きが好きな旦那さんは ある日小屋から消えました そろそろわたしもそうかしら お腹に無精卵をたくさん抱いて わたしは毎日歩いています お腹が重いわ でも産んだらちょっと軽くなる お空を飛びたいなあ ためしに羽ばたいてみるけれど やっぱりわたしは飛べません だから 地に足つけて歩きます 迎えが来るまで歩きます ---------------------------- [自由詩]考えないこと/チアーヌ[2008年5月23日16時30分] 別に何言われたっていいや って思いながら 平気な顔して 行ってみる 負けず嫌いなんかじゃない 悔しくも 悲しくもない 理由とか必要とか みんないろいろ言うけれど 考えるからダメなんだ ---------------------------- [自由詩]本の精/チアーヌ[2008年5月31日19時24分] 胸苦しくなって 本の精が現れた 中空の四角い顔が ぐにゅぐにゅと巨大化して わたしを押しつぶそうとする ねえ本の精 なぜそんなことをするの? そう訊ねると わたしの胸はまた苦しくなって まるで心臓を握られるような そんな感じで 大きな快感に連れて行かれ わたしは飛んだ 四角い顔は 気味悪く広がったり 丸くなったりしながら わたしを見ていた ---------------------------- [自由詩]帰宅/チアーヌ[2008年6月5日12時19分] 電車を降りたら 小雨が降っていた セブンイレブンで傘を買った 駅前の商店街を抜けると 道は一気に暗くなる 細い道の両側から漏れる 家々の明かりがメインで わたしは足早に家路を急ぐ 朝 ちょっと季節早めの サンダルなんか履いちゃったから 爪先に冷たい水が沁みてくる 薄手のカーディガンの下は ノースリーブで 昼間は良かったけど 今は 寒すぎる 無意識のうちに 足はわたしを運ぶ 何も考えなくても 歩ける だってわたしは 家に帰ろうとしているのだから ようやく辿り着いた マンションの3階 わたしは階段を上る わたしの部屋には もう違う人が住んでいるのに ---------------------------- [自由詩]処理/チアーヌ[2008年6月10日14時19分] 責任なんか持てないよ と思いながら優しくしている 口にすると妖怪が飛んでくるから さっさと優しくする ---------------------------- [自由詩]愛と呼んで/チアーヌ[2008年6月13日12時39分] ただの優しさとか 口癖とか 背中に回した腕とか 押し付けちゃった腰とか もう面倒だから すべて愛と呼んで ---------------------------- [自由詩]たくさんの赤ちゃん/チアーヌ[2008年6月25日21時52分] 死んだわたしの 腐りかけた体に たくさんの赤ちゃんが やってくる 死んでぶよぶよに 腐りかけた体を 舐めて 舐めて 穴をあけて ちゅうちゅう ちゅうちゅうと 吸ってくれる赤ちゃん 穴をあけた場所に 小さな手指を突っ込み ぐちゃぐちゃにかき回して お口に運んで 食べてくれる赤ちゃん たくさんの赤ちゃん ---------------------------- [自由詩]川岸で待つ人/チアーヌ[2008年6月26日8時13分] 穴を掘る 沈んでしまえるほど 掘りたいのに ところで もう覚えていない あっちもこっちも忘れたという人が 川岸で待っている らしい どうか 思い出さないでね そうしたら 会えるから ---------------------------- [自由詩]色の消滅/チアーヌ[2008年6月30日23時29分] 夕暮れ 赤い窓の外 見つめているわ ほんとは待っているの 好きなの とても 置いて来たのはわたしだわ わかっているけど ほんとは もう忘れたかな 色が消えて行くね 日は沈んで行く もうわからないよ わたしも忘れて行くよ 受け入れて行くよ 今を もう触れない 遠くに行くのね ほんとは 中空にいる ---------------------------- [自由詩]思い出せる/チアーヌ[2008年7月2日22時34分] もう忘れてしまったから 思い出せる 縦に細長い 三角屋根の家は 白い壁に 木の階段 小さな抽象画が 三つ 上って行くと グランドピアノと 背の高い譜面台 バルコニーには テーブルと椅子 風が吹いていた さらさらと 音がした 恋だったのか わからないけれど 胸が詰まった もう二度と訪れないと 知っていたから わたしの場所 なのに もう覚えていないから 思い出せる ---------------------------- [自由詩]道具みたいなものだけど/チアーヌ[2008年7月15日14時34分] 目を開けたときには もう夢の中 あなたの考えていることはすべてわかる あなたはわたしと離れられない でしょ 「仕方ないね」 ちょっと笑ってみせてよ 「これでいいんでしょ」 そうね 大嫌い あなたはわたしが大好き わたしもあなたが大好き 全く違う気持ちで たぶん ---------------------------- [自由詩]跡形も無い話/チアーヌ[2008年8月27日23時45分] 好きだけど 別れるとき 当たり前だけど もう何もかも ズタズタ 最後まで 優しくいよう そう思うけど 気がつくと 笑顔が薄くなって あまり好きだと言えなかった 言っちゃいけなかった きっとあなたの中には わたしは残らない 家には帰れない だから知らない街で ありふれた店に入って アイスカフェオレを頼んで 隅っこに座って 目を閉じる ---------------------------- [自由詩]らあしど/チアーヌ[2008年8月29日14時34分] らあしど らあしど 夜色のサラリーマン 白目が赤い 大きなヘッドホン 隣で眠る ピカピカ光る ケータイ電話 電車はきしむ らあしど らあしど 向かいの女 カメオのロケット 紫のスカーフ 口がモグモグ 動く 夜色のサラリーマン 眠りながら わたしの腕に 伝わる体温 らあしど らあしど 斜め向かい 初老の男 にこにこ顔で うつぶせに ---------------------------- (ファイルの終わり)