南波 瑠以 2009年9月16日0時30分から2009年11月13日0時09分まで ---------------------------- [自由詩]サヨナラのテーゼ/南波 瑠以[2009年9月16日0時30分] ■秋 すべての色を飲み込んで ただ透明である、秋 ■チャイム 夕陽が窓ガラスに映ったとき 風がいつも置き去りにするもの ■図書館 古びた新築の匂いがする ■デジャヴ 誰かが間違って押した 巻き戻しのボタン ■冬 春にぬくもりを渡して 一瞬だけ銀色の、冬 ■体育倉庫 高い跳び箱ほど 空洞は大きい ■グラウンド 四ツ葉のクローバーは けっこうあると思う ■3組 後ろの窓ガラスには 昨日つけた5ミリほどの傷がある ■保健室 校内でいちばん 白の似合わない世界 ■春 くしゃみをすると形が変わる 万華鏡のような木漏れ日がある ■青 朝と自分の 反応式によって生成する色 ■空 それはまるで 紫陽花の花言葉 ■屋上 駆け抜けてしまえないのが いつだってもどかしい場所 ■夏 壊れたヘッドフォンから 潮騒が聴こえるとき ■サヨナラ また会えると信じられるときだけ 目を開けて言う、サヨナラ ---------------------------- [自由詩]空を呼ぶ/南波 瑠以[2009年10月14日23時34分] 遠浅の日々はいつの間にか息継ぎの仕方を忘れさせる。 駅まで、の最後の交差点に立つと 呼吸が止まるほどに夕焼けの匂いがした。   * 「雲は、本当は流れていないのです。」 無邪気な指先で夢を壊してゆくあのひとは、たった一本の紐で宇宙の形を知ろうとする。 けれどもあのひとの作る理科のレジュメには必ず誤植があって、 見知らぬ土地でローソンを見つけたときのような気分になれる。 空、と口にしてごらん ゆるゆると青がほどけてゆくから でも空は わたしをのみこむことはしない。   * さようならで雨がやんで ありがとうで夜が明ける、そんな 世界にいて静脈の いろはここまで澄んでしまった。 空、と口にしてみると 夕焼けの匂いがした ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]忘れられない言葉/南波 瑠以[2009年11月13日0時09分]  「みなさんに明日が来ることは奇跡です。それを知っているだけで、日常は幸せなことだらけで溢れています。」 これは「余命1か月の花嫁」のドキュメンタリーの中で出てきた言葉だ。 この言葉を最初に聞いたのは2年前の初夏。24歳にして末期の乳がんと闘う長島千恵さんを映したこの番組を見て、私は涙が溢れて止まらなかった。 「いつも病室で何してるの?」 という恋人の問いに対して、千恵さんが 「生きてる。」 と答えを返した場面も深く心に刻まれている。だがこの時、すでに余命は1か月。そのことは千恵さんには伝えていなかったが、彼女自身、自分の命が長くないことは感じていた。そんな、明日が来るかどうかも分からない千恵さんだからこそ、残せたメッセージであると思う。  どこにも病気がなく、普通に日常を送っている人にとって、明日が来ることは当たり前である。それは当たり前すぎて忘れてしまうほどに。生きているということだけではない。歩けること、話せること、食事が出来ること…それだけでもう奇跡的なことであり、幸せなことなのだ。 2005年5月24日。  体操部に所属していた私は、平行棒の2回宙返り下りの練習中に技に失敗し、マットを飛び越え頭部から床に落下した。 頸椎損傷。当時は動けと思って体に力を加えても、ピクリとも動かなかった。人に触られてもその感覚はなく、知覚過敏で痛みだけが全身に走るだけだった。  この事故があって、当たり前なことが当たり前に出来るということは奇跡的なことなのだと実感した。そしてその奇跡は本当に幸せなことなのだと、今でも思っている。でも時々それを忘れてしまうこともある。千恵さんの言葉は、それを繰り返すたび私に大切なことを思い出させてくれる。  あの日。ゴロリと回り、大の字に床へ転がったのが分かった。意識はあったが、何が起きたのか分からず、ただただグルグルと回る天井を見ていた。顧問の先生や部活の仲間が駆け寄ってくる音が、頭の遠くの方で聞こえた。なぜだろう…不思議と私を覗き込む顔が潤んで見えた。 (たいしたことないのに)  そう言わんばかりに、体を起こそうとするが動かない。というより、まるで自分の体だけがどこか別の場所へ行ってしまったような、そんな感覚に襲われた。大きな一粒の滴が頬を伝って落ちた時、私はようやく事の重大さに気付いた。 とにかく私は、自分の体の所在を明らかにしたかった。 「俺の手…持ち上げて見せて…。」 そう友達に言った後、私の目の前に現れたのは、マメだらけで滑り止めの粉が沢山付いた、紛れもない自分の手だった。 (良かった…体はちゃんと引っ付いているじゃないか…) 私は安心を覚えた。だがその次に現実を突きつけられた。その手は手首から先がだらんと垂れ下がり、力がなかった。首から下の感覚が無く、手の在りかは確認したものの、未だ体はどこかへ行ってしまったようであった。混乱状態でありながらも (これは死ぬかもしれない) と感じた。私は一度、死を受け入れた。すると妙に冷静になり、私は今自分に何が出来るかを考えた。まず頭に出てきたのは 「ローソンで待っとくね。」 という当時付き合っていた彼女の言葉。そう、彼女は同じ体操部の後輩で、事故が起きる数十分前に 「一緒に帰ろう?」 と私に言った。少し迷ったが、どうしてもこの日に2回宙返りを成功させたかった私は 「もうちょっとしたら行くし、ちょっと待ってて。」 と返した。「ローソンで待っとくね。」はそれに対する彼女の答えだった。私はその言葉を思い出し、まず彼女に心配はかけまいと考え、 「さやかがローソンにおるし、ちょっと帰るの遅くなりそうやから先に帰っとけ…って、そう伝えて…。」 と友達に頼んだ。友達は快く引き受け、ローソンへと走ってくれた。  しばらくすると救急車が到着し、私は担架で関西医科大学付属病院まで運ばれた。車内では様々な質問をされたが記憶になく、覚えているのは、 「首は動かさんと、ハイかイイエで答えて!」 という救急隊員の言葉だけである。急患室では医師や看護師が慌ただしく動いていた。体中がどんどん熱くなってきて、私は氷を求め口に含んだが、すぐに嘔吐した。体が受け入れなかった。同時に激しい痛みが全身を襲い、動かない体でのたうちまわった。この後のことは覚えていない。  次に記憶があるのは25日の夜。相変わらず激しい全身の痛みと、自由に動いていた体が急に動かなくなったことへのショックで錯乱状態だった。動いていた体が急に動かなくなるということは、想像以上に辛いものである。歩き方、跳び方、倒立の仕方…全部全部頭の中ではイメージ出来るしビジョンも浮かぶのに、体だけが言うことをきかない。「ほんの数時間前までは出来たのに…。」そう思うと自分の体に対する怒りと悔しさでいっぱいだった。  そんな時、私のいたICUに中学の時からの親友と、その家族が来てくれた。元々面会の出来ないICU。私の年齢のことも考えてくれた主治医の配慮だった。10分ほどの短い面会だったが、その時初めて冷静さを取り戻し、涙を流しながらも 「来てくれてありがとう、ゴメンな。」 と言うことが出来た。友達はじっと目を見て、目で答えてくれているようだった。私は本当に友達に支えられているなと感じた。この時、初めてこの体と向き合う覚悟が出来たように思う。後で聞いた話だが、友達は面会後、病室を出るなり 「泣いたらアカンと思って、必死に耐えとってん。」 と言ってしゃがみこんだそうである。  診断名は頸椎損傷だった。一時は強心剤も打つほど事態は一刻を争っていたが、生死の峠は越え、6月1日に手術を受けた。頸椎前方固定術という、脱臼箇所に骨盤の骨を移殖し、プレートで固定する手術だった。5時間近くの手術は無事成功したが、何より辛かったのはその後だった。全身麻酔が切れ、目が覚めると声が出なかった。喉を切っての手術。人工呼吸器を付けていた為、声が出なかったのである。体も動かない、声も出ない。どうやって気持ちを伝えればいいのか、私は極度の不安に陥った。さらに自分の意思と関係なく、呼吸器によって呼吸させられていることも不安を増大させた。これではまるで生き人形である。生きていながら何も出来ない。あるのは激しい痛みと苦しみだけ。私は声の出ない口で 「死にたいー!殺せー!」 と叫び続けた。  これほどまでに長い夜は初めてだった。地獄、そう言っても過言ではないぐらい、今思い返してみてもゾッとする。私は結局一睡も出来ぬまま朝を迎えた。そんな地獄のような一晩を乗り越え、呼吸の状態も良いということで、午前8時に呼吸器が外された。私は覚えていないが、10時に親が面会に来て顔を覗かせた時には、目を潤ませながら、まるで小さい子どものように 「1人で頑張ってんで!」 と言ったそうである。  手術から一晩が経ち、ICUから重症患者病室に移る事となった。病室に移動する前 「少しだけ外に出よっか。」 と言われて、ベッドに横たわったまま15分間の外出をした。雨が降っていたため、病院入り口のひさしの所までだったが、9日ぶりの空はとても綺麗で、心地良い風を全身で受け止めた。 「空を見れることがこんなに嬉しいこととは思わんかった。」 そんな言葉が自然と出た。空だけでなく、目からも雨が落ちてきた。  手術が終わってからは回復に向かった。9日ぶりに口にした食事は重湯だったが、母親の必殺コロッケに匹敵するぐらい美味しかった。ぎこちない動きながらも、日に日に少しずつ動くようになり、そのたびに家族や仲間と喜びを分かち合った。リハビリも始まり、座ることさえままならなかったこの体も、支えがあれば座れるようになった。四六時中天井ばかり見ていた私にとって、その視界は全然違うもので、本当に毎日が感動の連続だった。  しかし全てが順調にいっていた訳ではない。熱も39℃を超える日が頻繁にあったし、何より相変わらずの全身の痛みが私を苦しめた。夜眠れない日も多く、小さい簡易ベッドを持ち込んで付き添いで横に寝ている親を起こすまいと、歯を食いしばり涙を堪えて「あと5分頑張ろう…あと5分頑張ろう…。」と自分に言い聞かせていた。 父親と深夜にテレビを見ていたある日、突然の激しい痛みが全身を襲い、病院に響き渡るぐらい大きな声で泣き叫んだ。父親はどうすることも出来ず、ただナースコールを押すだけだった。看護師に体の向きを変えてもらうと痛みが和らぐのだが、目の下に大きなクマを作った父は心痛そうにしていた。そんな父の表情を見たのはこの時が初めてだった。私は涙を流しながら 「ごめんな、絶対強くなるから。絶対乗り越えるからな。」 と言った。テレビのわずかな明かりに照らされた父の顔から、涙が零れるのが見えた。  事故から1か月半経った7月7日。病院にも笹が置いてあり、みんなが願い事を書いた短冊を付けていた。「願いが何でも叶うなら…。」そんな思いを込めて、何とか書けるようになった字で書いたのは「Let’s work」…? 「Let’s walk」と書きたかったのだが、この時は誰も気付かずにそのまま笹に付けた。どうやら英語はダメなようだ。しかし、そんな願いが通じたのか、リハビリで左・右・左と足が前に出た。こうして一つ一つ出来ることが増えていった。その時は本当にそれだけで幸せだった。  今、私は車イスや杖を使いながらも、ゆっくりと歩くことが出来るまでに回復した。しかし、時に自分の歩く遅さや力のいる作業が出来ないことに苛立ちを覚える。道で人にどんどん抜かされたり、ペットボトルの蓋が開けられなかったり。そんな時、初めて歩けた時の感動や、徐々に体が動かせるようになった時の嬉しさを忘れてしまう。今の状態が自分にとって当たり前となっているから、そのことがどれだけ素晴らしいことなのかが見えなくなってしまっているのかもしれない。千恵さんの言葉は私にそのことを気付かせてくれた。 「みなさんに明日が来ることは奇跡です。それを知っているだけで、日常は幸せなことだらけで溢れています。」  その幸せを常に意識しておくことは難しいことかもしれないけれど、時にふと、感じられればいいと思う ---------------------------- (ファイルの終わり)