テシノ 2009年11月1日21時16分から2012年10月22日18時42分まで ---------------------------- [自由詩]閉じる日/テシノ[2009年11月1日21時16分] 手紙には宛名を書かず 飲み込んで 飲み込んで 喉の奥でうずめかす 吐き出さず 吐き出さず 私の口に雨が降る 終いの時と知りながら それでも春になればと信じず 祈る事は諦めであると 人生は幼いまま続くものと 世界は美しいまま運びゆけると 信じぬ事で終いは遠ざかると 私は信じた 私は信じた 私が信じたものをお前は 希望と見たか 欺瞞と見たか どうか答えてくれないか 一言だけで構わないから 何色のペンを使っても 綴る言葉は全て青 お前の声を忘れるたびに 口の中で降る雨がやまない それでも 春になれば と 今でも ---------------------------- [自由詩]居待月/テシノ[2009年11月5日18時45分] あたしゃまだまだここにいて だからそこへは行かれない 待っていてねと呟きゃあ それがいつしかプレッシャア 美味しい食事と少しの薬 ニコチンカフェイン今宵のメイン 耳たぶに空いた小さな穴は あたしと君とを繋ぐ道 遠くて会えない距離の代わりに しっかり貫く金属片 一人はさほど怖くない 孤独を呼ぶにはまだ足りない 見上げれば 外灯の上にお月様 あたしゃそろりとしゃがみ込む ---------------------------- [自由詩]楽園という名の酒場があった/テシノ[2009年11月24日18時03分] 煙草とジャズの匂いのする扉の前ではいつも 客が脱ぎ捨てた今日一日が 肩をすくめて苦笑していた 逃げ込むようにカウンターへ辿り着くパンチドランカー達に タオルではなくおしぼりを投げ マスターは正しい酔い心地へと導いてくれるのだった 囁くようなスツールの軋み 煙草の煙りで天井が遠退く 優しく微笑むポスターに 話しかけている酔っ払い 薄暗い店内に電球ではない何かが ほんのりと浮かび上がらせた 夜ごとの愛すべき風景 誰でも席を立つ時は また明日 見知らぬ客達が答える また明日 流れ行く人生の中で 一瞬だけ楽園を共有した住人達 また明日 よい夢を見ましょう ---------------------------- [自由詩]殺風景/テシノ[2009年11月29日17時03分] 歌う時は過ぎた 語り合いもやがて終わる 引きずるものが風に 飛ばされる事を望む/望まない 両足で押さえたそれを お前は影と呼ぶ 息をつめた手の中で 揺れる蝋燭の炎が 蠢めく影をいつか 逃げ出させはしまいかと 私は心と呼ぶ 押さえ付けた者は 押さえ付けるが故に やはり動けないのだった 私が生かしたものをお前が育てる/お前が殺したものを私が葬る 嘆きにとどめを それなりのナイフを 突き立てる時はどちらが 震えるのだろうか 透明を装って覚悟を強いる 吹き出る血をかぶって 微笑む覚悟を 梯子を下ろす淵に 上ってくるものを待つ 巨大な刃物を持つ者に 名を呼ばせてはならない ---------------------------- [自由詩]越冬歌/テシノ[2009年12月27日22時23分] しわすになれば 吐く息白く 声もそぞろに うつむき歩く 枯木の枝に すずめ幾羽か はらりと土へ あてなくつつく 合図のように からす一声 飛び立つすずめ 裸の枯木 やっと見上げる 視界をよぎる 忘れてしまえ 春の事なぞ ---------------------------- [自由詩]飛ぶ夢を見た/テシノ[2010年1月16日18時49分] 鍵を下ろした扉の前で 不安は芽吹く 膝の裏から 鳥の声を聞いている まだ鳥の声を聞いている 猛禽類の雄々しさと 水鳥達の優雅さは 月食の前に佇んだ 食われるものが光ではなく 月そのものででもあるかのように それでもどうかこの世界から 温度が消えてしまわぬように 祈るだけでいいかと尋ねる 生きるだけでいいのかと 扉を開けるのは誰であるかと 入り口なのか出口なのかと 翼があれば羽ばたけるのか 羽ばたかなければならぬのか 膝の裏から芽吹いたものが 地に根を張って扉の向こう 花を咲かすもよいだろう 空には倚らず地面を伝い 種をこぼすもよいだろう 翼をもたずに飛ぶ術ならば 生まれた時に教えた筈だ 揺り篭の上に運んだものは 歌ではなくて歌う喜び ここまで来たら教えよう ここまで来たらもう一度 その時にまた教えよう 細く薄まる月明かりにすら 影を作り出す生き物ならば 全てが同じ道を行くのだ 喉が渇けば水を求めて 眠りに就けば永久を求めて 明日になれば道を行くのだ 全てが獣の道を行くのだ ---------------------------- [自由詩]戻る日/テシノ[2010年1月26日15時25分] ふと そっと 戻る気がして よみがえる温度が 足にいつでも釘を打つ 約束とは記憶 言葉でできた格子 だがそこに 自分を残し 置き忘れては 出掛けていけない 連れ立つのは夕陽 長く伸びる影 人は不思議だ 本当に不思議 形ないものにさえ 重さをあたえて 動くのは心 佇んでいる体 宇宙はいつか 膨張しながら はじけてしぼみ 時間を巻き戻すという もしかしたら また会う時は 一人また一人と あの場所へ戻る日 そして最後は 知らない人になっても 別れから始まり 出会いで終わるのならば ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]感情による共感、によらない一体感についての個人的な考察/テシノ[2010年3月16日19時40分] まずは思い出話から始めさせていただく。 かつて私の父は、射撃の腕前がなかなかのものだったらしい。まぁ殺し屋だったんですがね、結婚を機に廃業したのも遠い昔のお話です。 で、子供の頃、そんな父とアーチェリーをやった事がある。 的を狙うという行為自体が初めてだった私は、最初こそ自分がひょろんと射た矢が地面に突き刺さるだけでも大興奮だった。 しかしそんな私の隣で、父は何度か試すように矢を放った後、嫌味なくらいにズバズバと的の真ん中に矢を命中させていった。 こいつ…アーチェリー初めてだって言ってたのに… これは子供心にも面白くない。しかも彼は元来、熱中しだすと自分の立場を忘れる類いの父親だった。すぐ脇で唸りながら弓を引いている子供はたちまち置いてけぼりである。 的に刺さった矢を抜きに行くその背中に一発かましてやろうか?などと小さな頭が回転し始めた頃、ようやく殺気に気付いたのだろう。父は私にアドバイスをくれた。 的を狙うだけでは駄目だ。自分が矢になって的まで飛んでいけ。 それは、幼い私が理解するには難しすぎるアドバイスだった。結局その日、私は地面にいくつもの穴を空ける作業に終始した。 小難しい言葉で子供を煙に巻いた感のある彼の背中に穴が空かなかったのは忍耐によるものだったが、しかしそのアドバイスは妙に私の心に残った。そんな事ができるわけない、でもできたら面白いだろうな、と。 それから十数年後の事となるのだが、私はとある本の中に、あの時の父の言葉を彷彿とさせる文章を見つけた。 生憎と本のタイトルを失念してしまったのだが、それは「行為するものと行為されるものの境界が消える瞬間」という内容のものだった。 例えば、氷。 氷は冷たい。しかし氷が単体で存在する限りにおいて、それは決して冷たくはない。それに触れ、「冷たい」と感じる者がいて初めて氷は冷たくなりうる。 「冷たい」のは氷である。しかし「冷たさ」は触れた者の肌に存在する。この瞬間、「氷に触れた者」と「氷」とは、「行為する者」と「行為される物」の境界線を飛び越えた同じ事象、「冷たい」になる。 つまりその時、「者」と「物」とは混ざり合い、不可分の同一体になるのだ、というのである。 私はあの時の父の言葉を、例えばサッカー選手がゴールを決める瞬間などといった、何かを極めた者にしかわからない特別な感覚なのだろうと思っていた。 しかしこの本によれば、父の言わんとした事とは微妙なニュアンスの差こそあれ、それは日常レベルで誰しもが経験している感覚だという事になる。 前置きが随分と長くなってしまったが、そんな諸々からふと思った事がある。 それは、対象物と私達との境界が消滅する瞬間が確かにあるとすれば、私達は様々な芸術作品に対して、感情による共感以外の方法で一体感を得る事ができるのではないか、という事だ。 私は映画が好きで、ジャンルを問わずわりとよく観る方だと思う。馬鹿馬鹿しい!と思いながらコメディーに抱腹絶倒し、悲劇のヒロインにいつかの自分を重ねて涙する。 しかし、何故自分がそれを好むのかをどうにも説明できないジャンルの作品がある。それはいわゆる映像派と呼ばれる監督、一人あげるならばタルコフスキーの作品だ。 彼の作品の特徴は、少ない台詞と難解なストーリーで構築されているという点だろう。故にそれらの作品には、笑いや悲しみといった感情移入の余地が少なく、上記の「感情による共感」は体験しづらい。 映画の宣伝文句に「笑える」「泣ける」といった、感情を示唆する言葉が多用される事からも、一般に好まれる作品とは「感情による共感」が重要なポイントとなるのだろう。 映像派作品に心惹かれる人は、そこから様々な情報を読み取って独自の解釈を立ち上げる、といった楽しみ方をしている場合もある。 しかし私は、どうもその映像に見入る事だけで満足を得て、感想すら明確には抱いていないようなのだ。 これは何も私が特殊であるわけではなく、例えば好きな絵をいつまでも飽きずに眺めるというような感覚に通じるように思う。しかし、その行為で私の何が満足するのだろうか。 一般に、笑いや泣きには精神の浄化作用があるのだという。人はそれを求めて「感情による共感」をより深めてくれる作品に目を向けるのだろう。だが「感情による共感」を封じられた作品を好む者達は、それらに何を求めているのか? ネット上などで「難解作品が好きだなんて言う奴は、ただのカッコつけだ」という誰かの発言を目にするたびに 「違うんだよ…つまりこう…違うんだよ…!」と、言葉で説明できないもどかしさに身をよじったりよじらなかったりしていたのだが、最近ようやくその正体がぼんやりと見えてきたように思う。 それが「行為するものと行為されるものの境界が消える瞬間」だ。 私はタルコフスキーの作品を観て、感情を一切必要としない、対象物と同一化する事で得られる一体感を楽しんでいるのではないだろうか。ともあれ、そこに私がえもいわれぬ快感を抱いている事を白状しておこう。 「感情による共感」体験は、自分の経験ではない出来事を自分の過去の出来事と上手く擦り合わせ、自分のものとする作業だ。 恐らく、人はそのようにして自分の世界を広めていくのだろう。それは広大な地に柵を立て、自分の敷地を広げていくのに似ているように思う。 しかし、人はその柵を飛び越えて外へ出て行く事はできない。私達は飽くまで「自分」という柵の内側からしか柵を立てられないのだ。 言ってしまえば「自分」とは記憶であり、記憶とは過去の経験である。そして経験とは、その時に生じた感情によって分類されている場合が多い。 簡単に言えば、いい思い出と悪い思い出だ。私達はそんなものに縛られながら日々の生活を送っている。普段の私達は「自分」をどこかに置き忘れて出掛ける事など不可能なのだ。 だからこそ、「行為するものと行為されるものの境界が消える瞬間」の体験は、自分をその柵から解放し、浮遊するような快感があるのではないだろうか。 感情体験による一体感がカタルシスに繋がるとすれば、非感情体験による一体感はエクスタシーに近いのではないだろうか。 そしてこれは映画だけに限らない。この現代詩フォーラムにおいても、タルコフスキー作品から受ける印象と同質のものを与えてくれる作品と出会う事がある。 私は元々、現代詩について多くを語れる知識を持っていないのだが、殊更にそれらの作品に対してはコメントする事が難しく、ただただポイントを入れるのみとなる。 これはタルコフスキー作品の感想を語れないのと同様、それらの作品から得た一体感を私の言葉に倒置する事によって、作品自体のもつ 「映像である事」 「詩である事」 の純粋性を損ない、作品の本質から乖離する事にしか繋がらないような気がするからだ。 忘我によってもたらされるエクスタシーの前には、私ごときの言葉など徒物でしかないのかも知れない。 う〜ん、やたらと長いだけで全然上手く纏められていないが、個人的にはだいぶすっきりしてしまった。 「おいそこの馬鹿!」と呼ばれても、今なら喜んで振り向かせていただく所存。「変態!」でも可である。 ---------------------------- [自由詩]俺と貴様と永遠と/テシノ[2010年3月19日18時48分] 「フッ…悔しいが、どうやら勝負あったようだな…」 「貴様はよく戦った。手向けだ、言い残す事あらば聞いてやろう」 「ならば…………永遠にキミを愛してるんだぞっ☆」 「なにっ?」 「先に涅槃で待ってるもん♪ガクッ」 「おい待て、今のは…クソっ、死ぬな!  頼む、取り消せ!取り消してから逝ってください!  うわぁぁぁん死なないでくれーっ!  メディーック!メェディィィィーック!!!」 ---------------------------- [自由詩]かいまき小唄/テシノ[2010年3月30日22時46分] 何そうやってさっきから イヌコロみてぇに聞き分けねぇのさ これは雨戸のすき間の音で 風は声なぞたてやしねぇよ 聞いてて骨が辛ぇのは いつでもこっちの勝手さね まったく大した晩だねぃ 湯呑みの酒まで震えてらぁな 侘しまぎれに飯でも炊きゃあ 三和土の土がぽっぽとぬくい 誰だい手桶の汲み水に 小鮒放ったバカヤロは 真ん丸お月さんに捕まって 錦の夢を見てやがる 明けのからすの鳴くまでは 寝床におとがいうずませて 坊主っくりのお月さん くしゃみ一つのかいまき小唄 寝付けねぇならこっちへ寄んな ナニ鮒じゃねぇよお前さんだよ 怖かねぇだろシケた面して 風もこんなけ暴れりゃあ 朝にゃおもての木戸まで飛んで 極楽まででも見渡せらぁさ ---------------------------- [自由詩]桜/テシノ[2010年4月6日11時02分] この世に大きな期待もないが 望みもなく生きるには あまりに弱い自分なので 有り得る程度の希望を胸に 少しだけ祈るのさ だから夢は叶えてはならない 追い続けるものだと背中が言うので 私はあなたを見守ろう その夢が叶わぬようにと 眩しげに歩く後ろ姿を 何も起こらぬようにと歩く 土を踏み締め空を見上げて 何も起こらぬようにと歩く 気付けば桜が咲いている あなたの希望の形に似せて 気付けば桜が咲いている ---------------------------- [自由詩]lontano/テシノ[2010年5月9日7時32分] 時計の音 右に あなたは 左に 私の心は振り子のよう ねじの切れた 今夜あなたの見る 夢の中には 遠い空 太陽は雲に消えた それでも見上げてる あなたは行くと言う 忘れればいいのさ 春の歌も鳥の声も どこまでも行けばいい 私が歌おう 曇った空を拭う白い鳥を 沖には雨が降る あなたは行くと言う 彼方から振り向く この部屋も私さえも どこまでも行けばいい 私が歌おう 夜の小舟に灯す白い鳥を ※ジャズのスタンダードナンバー「Lullaby Of Birdland」を日本語で歌ってみました。 ---------------------------- [自由詩]絡む根を梳く/テシノ[2010年6月4日17時50分] 放った視線はもう戻らない 青いラインとなり視野の先へと伸びていく たったいま不可視の場所は あなたの瞼の裏です 略するでもなく連続で地面が傾いていく 朝へ朝へ あちこちに梯子が突き立っている まるで森の骨のようだ 夜明けが来るぞと遠くからフクロウの叫びが始まる 耳に届けたのは古い時計の音です もう人形達との時間はおしまい 夢を覗くための梯子は 放置すれば勝手に根付きやがて芽吹いてしまうもの 瞼の裏で幾千の芝居がはねて みんな出掛けている間に 絡む根を櫛で梳く あなたが誰かは知らないけれど 夢で見知らぬ人物を見かけたら それは私です ---------------------------- [自由詩]越えられぬ丘/テシノ[2010年6月15日10時24分] ここから見えるのは緩やかな勾配と 奥行きのある青い空 越えられぬ丘と誰かが呼んだ そういうものがあるのだと そういうこともあるのだと 例えばパレードを追い掛けていく子供が その浅いふもとで足を止めて聞いている 丘の向こうへ消えるジンタの音色 幼いなりの器量で理解した 自分の帰るべき場所というもの 例えばむかし少年が友から聞いた その言葉の中に見つけた小さな偉大さ 嫉妬にも似た尊敬を抱きつつ 成長した今も眩しげに見上げる 丘の上で彼方をみはるかす友の姿を 叶わぬ憧れとも 単なる諦めとも違う 頂きまでの距離はたやすく しかし 踏み入れる足が畏れるような 美しくそびえ立つあなたの越えられぬ丘 そういうものがあるのだと そういうこともあるのだと ---------------------------- [自由詩]ミルククラウン/テシノ[2010年6月26日18時54分] 一粒の滴りを待つ 張りつめた液体の緊張感 揺すられてこぼしたくない あと一滴であふれ出したい 風のにおいを嗅ぎ分けて水辺を目指す獣 求めるものは 水ではなく ただ己が 命である事 だとするなら この指のわずかな震えも死力を尽くす命 空と土の隙間を埋める密度 ただそれだけでしかない肉体を どこへ運ぶか決めるのは風ではない 次の一滴を待ちながら 今にもあふれ出しそうな この ---------------------------- [自由詩]黙を聞く/テシノ[2010年8月2日18時55分] 屋根と壁が囲う空間に 電気も水もなくなって久しい 電池式の呼び鈴だけが細々と生き延びて 呼ぶものと呼ばれるものを待つ無音 応える黙を聞いている 歌が通りすぎ 語り合いも既に終わり 沈黙を敷き詰めた床で 羽が一つ死んでいる 不幸も悲哀も介入せずに それはとてもよく馴染んでいる 誰かと一緒でなくていい 皆と同じ場所にいたい 応える黙を聞いている ---------------------------- [自由詩]部屋/テシノ[2010年8月18日18時55分] 物語読むように過去の歌を思い出しながら その時聞いた足音が蘇るだけであなたはもう待てないと言う だったらきちんとしぬといえばいいでしょう 私はクローゼットの中で昔の言葉を組み合わせ いくつもの直線にしてあっちとこっちに突き刺している ものが多すぎて足の踏み場がないと泣くけれど 散らかした私を責める前に何か踏み潰してみせてくれないか あの本棚にたどり着きたいんでしょう あなたの十代が整然と並ぶあの本棚に 布団をめくれば骨がある これはあなたの二十代の時の骨 あなたはいつもきちんとしねないんだね 見上げるしゃれこうべが流す涙のカルシウムチックコメディ 乳白色の優しさにハッピーエンドの希求を感じ 肋骨一本折ってあなたの小鳥の餌とする 嘆きの風で涙が輝くあなたの勘違いが世界を美しくしても 私は焼肉のにおいで空を飛べるようになったから どんなにあなたが脅してもこの部屋は片付かない あなたの三十代の肉が私の胃袋で消化されていく今こそ はっきりしなよ きちんとしぬって 一緒に食べたりしてないでさ ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]私の好きにさせてくれ/テシノ[2010年8月20日23時33分] すみません。 っていや何を謝ってるかは定かじゃないんですが、喋り出しと喋り終わりにすみませんって言うのが癖なんで、すみません。 今頭ん中が天地創造みたいな状況でしてね、って書いてみて、私、自分が天地創造についてをよく知らない事に気付いて、ちょっと調べました。 ええもちろんGoogle大先生で。 ゲームがあるんですね、天地創造っていう。そればかりが表示されてしまって。 ゲームはやらないんで知らなかったんですけど、私が言いたい天地創造がゲームの事じゃないって事だけは知ってる。 なんで、「天地創造 旧約聖書」で検索してみました。 まぁ天地創造が旧約聖書に出てくる言葉だって事も知ってたわけだ。すみません、すみません。 そしたら案の定、Wikipedia教授がトップにお出ましになられまして。 あ、なんか知らんけど私、Googleを「大先生」、Wikipediaを「教授」って呼んでるんですよ。 誰かの受け売りかもわかりませんが。 あと、平沢進は「平沢のおっちゃん」って呼んでます。 まるで身内です。親戚扱いです。 まぁ平沢進知らない人のために説明しとくと、決して私の親戚じゃない人です。 おっちゃん呼ばわりは単に親愛の情を込めてるだけです。 どうでもいいけど皆さん、「親愛の情」って言う時、心の中で「G.I.のジョー」って呟いちゃったりしません? しないですか?しないんですか。私はするんですよ。 いいと思いません?「G.I.のジョー」。 「不知火の弥助」とか「六道辻の又五郎」とか、なんかそんな大悪党然とした感じで、盗っ人猛々しくって。 意味違うか。意味違うな。 第一、G.I.ジョーは米国のガキ共のヒーローだしな。 そのヒーローに「自慰愛 やばいやばい、危うくエネミー・オブ・アメリカになるとこだったわ。 とにかくWikipedia教授の資料によると、天地創造ってのは神様が天地創造をしたって話なわけです。7日間で。 あ、正確に言うと6日間だな。だって「7日目 神は休んだ」って書いてある。 安息日ってやつですね。今で言う日曜日だ。 神も休んだんだから人も休めよ、と。 いやむしろ、人が休まねぇと神様の立場がなくなっちゃうからさ、と。 なんてったって書かれちゃったから。 Wikipediaにまで「7日目 神は休んだ」って書かれちゃったから。 だってそうでしょ、1日目に神様が何したかよりも先に、7日目が目に飛び込んできちゃうもんさ、迷える子羊としては。 「えっ、あの神様が!?」ってなっちゃう。 なるでしょ、こっちは無条件で「神様すげー!」って思ってんのに、なんつーかこう、職場の素敵にクールな先輩が、女上司に向かって「母さん」って呼びかけちゃった現場に居合わせちゃった!みたいな気不味さ。 先輩も先輩でさ、「いやー、先日マザコンをこじらせまして」とか言ってくれりゃあいいものを、周りからクールキャラを求められてるって自覚からくるプレッシャーなんかもあったりして、「あっ、いや、ゴホッ」なんて、全然ごまかせてない。 何故か人って何かをごまかそうとする時に咳払いするけど、全然ごまかせてない、かえって際立つ。 そんで聞いてるこっちも「先輩ダメですよー、職場でほとばしるのは控えてくださいねー」なんて軽く流せりゃいいんだけど、なかなかそれもできない。 「あっ、あのっ、私も小学生の時に担任の先生をお父さんって呼んじゃった事ありますっ」とか、それも全然フォローできてないから。 先輩、小学生じゃなくてもう28だから。来月で。多分。 まぁこの場合、一番フォローが必要なのは女上司なんだけどね。 職場でかーちゃん呼ばわりされちゃって。 私が陰で平沢進をおっちゃん呼ばわりしてるのとはわけが違う。 彼女がニ児の母とかならまだいいけど、独身だったら目も当てらんない。 そこで機嫌悪くなれば自分が独身である事を気にしてるってアピールになっちゃうし、気にしてなくても「あたしゃあんたのかーちゃんの歳かい…」とか、やっぱちらっと思っちゃったりする。 女ですもの。 彼女ね、アパートでカメ飼ってるんですよ。 30cmくらいの沼ガメね。アパート、犬猫ダメだから。 名前はカトリーヌ。オスなんだけどね。後で気付いた。 で、アパートに帰ってスエットに着替えてから、カトリーヌをゲージから出して部屋中自由に歩き回らせるんです。 箪笥の隙間とかはみんな塞いであるから安心してください。 そんで夕飯の用意しながら、「カトリーヌー、お前は男なのにそんな名前で恥ずかしい奴じゃのーう」って話しかけたりする。 いやお前がつけたんだろってツッコミ入れられるほどカメ知能高くない。 夕飯の後には、缶ビール飲みながらカトリーヌの甲羅を掻いてやる。 あ、カメの甲羅ってなんかとっても丈夫なイメージあるけど、あれ皮膚の一部だから、キズがついたりするとやっぱり痛いらしいですよ。 だから掻いてもらうと、カトリーヌも気持ちいい。 そんなスキンシップしながら、「ちょっとカトリーヌ!この甲羅、女ものじゃない!一体どうしたの!?いつからそんな子になっちゃったの!?」 「なんて、あははー、ウソウソ。ごめんねカトリーヌ、改名しようか。でもあんまり変えちゃうのも嫌だし、そうだなー、ああ、カトリ君でいっか」 と言った瞬間、昼間職場で自分を母さんと呼んじゃった部下が香取君である事に気付いて、缶ビール煽りながら、ああいう場合は私が上手いフォローしてあげるべきだったんだよな、とか考える。 「何だい、息子よ」って、私ならその一言でよかったのになー、気にしてるかな、それとももう忘れちゃってるかなぁ、とかちょっとモヤっとするわけです。 ま、結果から言えば明日は何事もなかったかのように先輩はクールだし後輩はいい子だし彼女自身も普通に仕事するわけなんだけど、誰でも一度は経験あるよね、一言で言えば「バツが悪い」って事。 でもね、昔ある本で読んだんですけど、外国人にはこの「バツが悪い」ってのがわからないんですって。 どうやら日本人特有の感覚らしいんですよ。 例えばね、誰もいない職場で残業中、ツェッペリンのイミグラントソングを口ずさんでいたとする。 もうね、あれを鼻歌にしようって時点でアウトなんだけど。 その上、出だしの「アアア〜〜〜アッ!」から始まって、その後の英語歌詞わかんねーしわかったとしても早口で舌回んねーから、続きは 「フンニャラホンニャラパラペンポンパン、ピーヒャラパラリラドドパンドンドン」 なんて歌になってる。頭振りながら。仕事しろよ。 で、お察しの通り、はっと振り向くと警備員さんが戸口に立ってたりするわけですよ。奇声が聞こえたからね。 もうお互い、バツが悪い事この上ないにもほどがあるでしょって感じ。 私なんかこれ書いてるだけで「うわぁぁぁぁっ!」って頭掻きむしりたくなっちゃう。 「どうしてせめて90年代にしとかなかったんだろう、オアシスとか!」って思っちゃう。 でも外国人はそうならないらしいんですよ。 そんな時に彼等はどうするかっていうと、「次のシングルにどうかと思ってるんだけど、歌詞がまだ出来てなくてね」なーんて言いながらちょっと肩をすくめるんですね。 冷静に考えると、いやいやそういう問題じゃないだろとかお前なら英語で歌えるだろとかそもそもお前の歌じゃねーだろとか、色々とツッコミどころはあるけどその場はそれで流せちゃう。 いいなぁ、外国人。 でね、だからひょっとしたら神様も別に平気なんだろうなって、書きながら思った。 7日目に休んだとこまでが天地創造の一部始終なんだよって堂々と公開できちゃう。 書記係の天使に休んでるとこ見られても、「あ、いつも弟が世話になってます」って肩すくめて、またゴロンとしたのかも知れない。 それで天使も肩すくめて、苦笑しながら「7日目 神は休んだ」って書いたのかも知れん。 で、何が言いたいのかってーと、私の頭の中を天地創造って言葉で表現するのは違うなぁと。調べた結果ね。 天地創造の前段階、カオスとかそっちだったなと。 なんで、はい、ここでちょっと冒頭2行目に戻りますよー。 あれは「今頭ん中が混沌とした状況でしてね」って事になります。 混沌としてたもんだから、こんなに長くなっちゃった。 そんでその混沌を整理するために某かの文章を書いてみようと思ってたんだけど、このまま書き連ねるのはやめときます。 だってこれでやっと出だしだからね。 出だしにこんだけかかったんじゃ、一週間で天地創造した神様みたいなわけにはいかない。 次回にします。この調子で次回があるんかいな。 参ったな。なんとか新約聖書みたいにならんもんかな。 初めに言葉があった、なんてさ。それって理想的じゃないですか、ねぇ。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]私の好きにさせてくれ 2/テシノ[2010年8月27日8時56分] 前回のような文章を、自分の中では「ヒッチハイク書き」と呼んでいる。 テーマを定めず書き始め、そこに出てきたキーワードが次の文章の行方を決める。 目的地が決まっているヒッチハイクとは多少ニュアンスが違えども、先へ進む手段を次々と乗り換えていくあたりからそう名付けた。 正直言って、あまり読まれる事を前提としておらず、どこにたどり着くのかわからない自分をただ楽しんでいるという点では非常に無責任だと言えよう。 それはいわば地図を持たない旅のようなもので、自分の軌跡が地図となっていく。 本来、地図とは先立つものであり未来のためにあるものなのだ。 過去を地図にしたって、それは単なるノスタルジアだ。 過去なんてものはジーパンのチャックが開いてる事に気付いた時だけ振り返ればいい。 一体いつから。誰と会ったか。その時どんな体勢をとったか。 しかし、私は未来を考えるのと地図を書くのがとても苦手なのだ。 あ、すみません、なんかわりと真面目に書き始めちゃいましたが、今ヒッチハイクしました。 地図書くの苦手なんですよ、私。 だけど仕事柄、地図書く機会が多くて困る。 今の世の中、地図なんてネットからいくらでも引っ張ってこられるし、カーナビっていう文明の利器もある。 あるんだけど、そんな事知ってんだけど、どうしても仕事の性質上、手書きでなきゃならん事があるんですね。 もうね、私の地図で遭難した人の数が、社内でもわりと問題視されている。 地獄絵図を略して地図か?とか、お前の地図で一個師団くらい軽く殲滅できるぞ?とか、見る人にそんな事を言わせちゃう。 そんで、一個師団って何人なんだろと思って調べたら、1万人って言われた。Wikipedia教授に。 さすがに1万人は無理だよ荷が重いよって思ったけど、よく考えてみりゃ、間違った地図で行軍したら何かの拍子に半分くらいは逝っちゃうかも知れない。 19世紀の初め頃にね、フランスのとある印刷会社が発売してしまったエラー地図があるんですよ。 まぁそれは普通の市街地図だったから、回収騒ぎが起こっただけで済んだようですが。 何がいけなかったかっていうと、その地図、河川が一本も印刷されてなかったんですね。 名付けて「ノーリバーマップ」。今や古地図愛好家達の幻の一品扱いらしいです。 ずるいよねぇ。私が書いた地図と何が違うって言うのさ。 しかし世の中にはそういう失敗作みたいなものを集める好事家も多いみたいですね。 私の知り合いにもそのテの人種がいまして、彼の幻の一品というのが結構面白いんですよ。 こっちは17世紀後半、オランダで作られたかなり大きな振り子の置き時計なんですけどね。 元々振り子ってのは、かのガリレオさんが発明したものなんですが、これを時計に転用したのがオランダ人のホイヘンス。 制作当初は狂いまくりの酷いものだったんだけど、そう間を置かずしてかなり正確に時を刻むように改良されていき、やがて巷に出回るようになった。 そうなると時計は単なる実用品としてではなく、装飾品としての美麗さをも追求されるようになっていった。 17世紀は折しもバロック期、あらゆるものが華美であればあるほど人々に喜ばれたってぇ時代です。 技術だけしかもたない時計職人達は家具職人と組む事で、より装飾性の高い時計を作り上げるようになっていったんですね。 そんな中、ホイヘンスのおひざ元であるオランダに、一組の時計デザイナーが現れます。 ハンス・イグナーツとファン・ベーヘメン。 イグナーツが時計担当、ベーヘメンが装飾担当でした。 この二人は大変売れっ子だったようで、結構な数の時計を世に送り出しています。 とは言え、彼等は芸術家ではなく一介の職人。 自分達が制作したものに名前を入れる事なんて許されなかった。 そこで二人は考えた。 名前が入れられないのなら、一目で自分達の作品であるという事がわかればいい。 てなわけで、彼等は自分達の作品に共通する2つの特徴を作ったわけです。 本体の素材にはローズウッドを使う事、そしてそのどこかに必ず火焔模様を入れる事。 これらの特徴から、のちに二人の作品は「ロート・フランボワイアン(赤い炎)」と呼ばれるようになったんですね。 さて、そろそろ彼等の失敗作の話を。 失敗作とは言っても、それはイグナーツの確信的な犯行でした。 その業界ではちょっとした有名人になった二人、ある日なんとオーストリア帝国の皇帝に献上する時計を作らないか、という話が舞い込んできた。 これは大変な事ですよ、大変名誉な事ですよ!と喜んだのはベーヘメン。 イグナーツは渋い顔をした。いや見てたわけじゃないけどさ。 というのも、イグナーツはオーストリアの出身で、わりと気位の高い男だった。 当時のオーストリアはハプスブルク家が統治してたんだけど、時の皇帝はオーストリア帝国始まって以来初のハプスブルク家出身じゃないルドルフ一世。 イグナーツはこれがすっごく気に入らなかった。 実は彼の家系は代々ハプスブルク家お抱えの楽器職人だったもんで、はっきり言ってルドルフを馬鹿にしてたわけだ。 そんで、あろう事か献上時計にある仕掛けをしてしまう。 ほら、イグナーツは時計担当だから。その時計部分に細工しちゃった。 ベーヘメンはなんにも知らない。最高級のローズウッドに技の全てを出し切って装飾を施した。 そんでまた、ルドルフもなんにも知らずに一目でこの時計に惚れ込んだ。 で、その日の夜。 いや正確に言うと、午前0時を30分回った時だから、翌日になるんですが。 時計が時を告げたんですね。ボーンと。 0時30分なのでボーンと1回鳴るのはいいんだけど、この時計、ボーンでは済まずにボーンボーンと鳴り続ける事13回。 0時に12回鳴ったその30分後にいきなり13回鳴る振り子時計、それも深夜に。 これはちっとばっかし怖いですよ。 しかもヨーロッパじゃあ宗教上の理由から、13という数字は忌み嫌われているじゃないですか。 というわけで、イグナーツとベーヘメンはすぐさまルドルフから呼び出しくらった。 狂った時計を余に献上するとは何事ぞ!お昼にも13回鳴ってたぞこら!とその場で首をはねられんばかりの勢いで叱責される。 暇だよねぇ、ルドルフさん。たかが時計じゃん。 しかし彼は元々少し変わった人だった。 オカルト趣味が高じて、怪しげな技をもつと噂のある一般市民を宮廷に召し上げて変な実験に入れ込んだり、なんて事もあったようだ。 まぁ暇だったんだよね。平和な時代だったし。 さて、真っ青になるベーヘメンに対して、当のイグナーツは怒り狂うルドルフを前にしても涼しい顔。 「俺達の時計をそんじょそこらのものと一緒にしないでくれないか。 存在しない13時を報らせる時計を持ってるなんて、世界中であんた一人だけだぜ?」 言い切った、言い切ったよこいつ。どう考えても詭弁だろ。 しかしまたルドルフも「あ、そっか。言われてみればそうかも」って納得しちゃう。 狙ってたね、イグナーツは絶対、ルドルフのオカルト趣味を。 でも、そもそも外観は素晴らしいものなわけだし、時計としての機能に差し支えてるわけじゃないから、確かに変なもん好きなルドルフとしてみりゃ自分の嗜好を満たしてくれる一品と言える。 そして普段から市井と積極的に関わっていた彼は、イグナーツの堂々とした態度にも感服したのかも知れん。 そんなわけで、二人はお咎めなしどころかルドルフに気に入られ、その後もいくつか「13時を告げる時計」を献上した。 これを現代の愛好家達は「ロート・フランボワイアン」の中でも特に「デルティン(13)」と呼んで、垂涎の的としてるってーわけだ。 ま、全部嘘なんだけどね。 深く考えずにつけたタイトルなんだが、こうなると正解だったかもわからんなと思っている。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]お前が世界と戦う時は/テシノ[2010年9月5日8時31分] さて、ここへきてやっと私にもためらいが生じてきた。 どうも自分が何を書けばいいのかがわからない。 どうすれば私のこの混沌は整理されるのか? 大体このクソたわけた文章を投稿している事自体の正否の判断がまるでつかん。 しかし私は今、とにかく何かを主張したくてガツガツしている最中なのだ。 それで考えた末に、今まで自分が文章を書く際のタブーとし、あえて避けてきたものを書いてみてはどうかという結論に達した。 それは「世相批判」である。 ごく僅かながらとはいえ、一応世間の密度の一部を占める私である。 自分が生きている世界に対して盾突いたりと、そんな生意気な事をしていいものかという思いがどうしてもあるのである。 例えるならば、牛乳が冷蔵庫に向かって「いいか今から!どこだかわかんねーけどお前の大事そうなところに闇雲に滴ってショートさせてやるからな!」と叫ぶような無謀さと頭の悪さを意識してしまうのだ。 あ、ここで言う「頭の悪さ」とは、世相批判をする奴は頭悪いという意味ではなく、私がそれをやると頭の悪さを露呈してしまうだろうなぁという意味である。 つまり、私は頭の悪い牛乳なので、冷蔵庫の庫内にやたらとこぼれ、ショートはさせられないだろうが確実に場を汚すだろう。 ちょっと試してみようか。 おい、そこのイケメン。 そうあんただよ、自分に磨きをかけるためにシェービングクリームを今手に取った、あんたに言いたい。 なんであんた、イケメンのくせにエコバッグで買い物してんだよ? イケメンとエコバッグ。私はこの組み合わせが大嫌いだ。 方向性は違えども、イケメンもエコバッグも昨今の社会において、人々から「善きもの」と認識されている存在である。 単体においても非の打ち所のない両者にタッグを組まれると、なんつーかこう、「ずへぇ〜」と感じる。 そんなものが地元のヤオコーのレジに並んでいたりすると、これはもうまことに遺憾ながら全く駄目である。 イケメンなだけでも太刀打ちできないのに、その上装備がエコバッグかよ… 何故私がイケメンと戦わねばならんのかはさておき、なんか勝てる気がしない。 ある日あなたがヤオコーのレジ脇に暮れなずむ人影を見たとしたら、それは私だ。 初めまして、こんにちは。 このように、素晴らしいもの同士が組み合わされて無敵となっている状態を、私は「嫌味な大連立」と呼ぶ。 とにかく、イケメンは地球環境なんぞに気を遣わなくてもよろしい、というのが私の持論である。 そこに理由も理屈もない。イケメンとはそういうものなんである。 もし仮に、彼が1枚5円のレジ袋を節約しようと考える、エコロジストではなくエコノミストだとしようか。 うん、間違ってるよね、エコノミストの使い方。でも語呂がいいでしょ? とにかく、彼が己の財布の5円を尊ぶ人柄なんだとしても、問題は残る。 私にとっては節約思考のイケメンも嫌味な大連立の一種なのだ。 イケメンは節約なんぞせんでもよろしい。やはりこれにも理由や理屈はない。 レジカウンターに十円玉をパシリと置いて、「釣りはいらねぇぜ」くらいの事は言ってもらわなければ困る。 いやむしろ「袋はいらねぇぜ」と言い残し、荷物を忌憚なく腕に抱いて帰っていただきたい。 この場合、腕は「うで」ではなく「かいな」と読む。 間違っても、あの無料の小さいビニール袋に無理矢理詰めたり、落ちちゃったシェービングクリームを拾ったりしてはいけない。 振り返る事もならぬ。 イケメンよ、どうかそのエコバッグをあなたの肩から下ろしてほしい。 私があなたに望むのは、エコでもなければエロでもない。 憎たらしいまでのエゴである。 と、まぁここまで書いて、エコという思想も人間の大概なエゴであろうという思いに到った。 太古より、人類にとって母なる地球は挑むべきものであった。 それが今や一転し、地球は守るべきものとして人類の足枷となっている。 しかし反面、現代の日本で最も信者を獲得した宗教がエコであろう。 開祖が誰かは知らんが、足枷としては重すぎる地球を御本尊にすげ替えて、「地球のため」という免罪符を「私のため」に発行した。 種の絶滅や異常気象といった終焉の予兆を提示されなければ気付けなかった幼い人類。 地球とは実に気長で、かつ非常に厳しい母だったのだ。 しかしそれでも地球は私達を振り落としたりはしない。 地球はヤオコーでイケメンのエコバッグに噛み付きぶら下がっている私も乗せて回る。 大いなる母はそのように寛容であるが、そんな私の姿を見たら実家の母は泣くだろう。 お母さん、ごめん。 と、冷蔵庫を散々汚した揚げ句に懺悔で終わるのもあれなので、最後にカフカがノートの端で呟いた言葉で締め括ろう。 お前が世界と戦う時は、お前は世界に介添えせよ。 嘘はつかないよ。 私はこの世界がとても愛しいのだ。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]お前が世界と戦う時は 2/テシノ[2010年9月11日10時47分] 「正義」の最大の敵は「悪」ではなくて「べつの正義」なのだ なんだか最近よくこの言葉を見たり聞いたりする。 ひょっとしたらごく一部で使われているだけなのに、私の好みのフィールドが偏っているせいで触れ合う機会が多くなっているだけなのかも知れない。 とか回りくどい事言ってるとちっとも話が進みゃーしねぇので、よく使われてるって事にするよ。 ごほん。 これは寺山修司の「幸福論」に出てくる文章なのだが、この後にはもう少し続きがある。 ご存知の方もあろうかと思うが、一応以下原文。 「正義」の最大の敵は「悪」ではなくて「べつの正義」なのだ、というのが確信犯という犯罪の論理である。 いきなり現れる「確信犯」という言葉だが、誤解されがちなので一応解説しておく。 よく見る誤用は「悪い事と知っていながらわざと罪を犯す」という意味で使われるものだ。 これだと犯罪者に「悪いという確信がある」事になるわけだが、実際の意味は逆となる。 自分の良心や信条に従って正しいとした行為が社会的な法に触れた場合、つまり自分の行為に「良いという確信がある」のが確信犯なわけだ。 本人が法に触れると知っているかどうかは関係がなく、またこれも誤解されがちだが、政治的思想犯だけに当てはまるというものでもない。 さて、何故わざわざ全文を紹介したかというと、この文章は前半のみの場合と全文の場合とでは全く意味合いが異なってくるからだ。 確かに前半部分だけでも意味は通る。 本来、正義が敵とするのは悪である筈だが、その悪とされた側の立場から事態を眺めればそこには「べつの正義」が現れる、といったところだろうか。 だからそんな世界の多様性を認めて仲良くしましょうね、という、どちらかといえばラブ&ピースなプロパガンダとして使われているようだ。 しかしここに後半部分が付け加えられると、どうだろう。 「相手が自分と違う」という多様性こそを敵とし、戦いを挑む事を本懐とする者が世の中にはいるのだという、いわば前半のプロパガンダを打ち消すようなものとなる。 すると前半のプロパガンダを善しとする者はたちまち矛盾に襲われる。 何故ならば、彼等は「多様性を認めないという多様性」を認めなければならないはずだが、それを認めるという事はつまり多様性を認めないというのと同じ事で(以下略)となってしまうのだ。 嗚呼、パラドクス。 まぁ実際のところ、多様性を認めて仲良くしようぜ、なんて事がとっても難しいから敢えてそのような声が上がるわけで、本当にこの矛盾についてを悩んでいる人なんぞほとんどいないだろう。 私達はこの世に同じ人間が二人といない事を知っており、その多様性については全く無意識のうちに認識している。 しかしその中でも、認めちゃいるが絶対に許す事のできない多様性がある。 例えば殺人犯。 私達は「そういう事をする人もいる」と知っているが、だからといって「人それぞれだから仕方ないよね」などと許しはしない。 法律がどうのという以前に、倫理や道徳といった物差しで「こっから先はダメ」と自主的に線を引く。 それらは私達の血肉に染み付いたものであり、理屈ではなくほとんど反射的に、そこにそぐわぬ者を弾き出すのだ。 従って、倫理や道徳の申し子である私達には無造作に世界の多様性を許す事など不可能であり、例のラブ&ピースなプロパガンダも、結局は理想論にすぎないという事になる。 いや、むしろ「違いを知り、違いを許さない」という、本来ならば争いや差別の根幹となる精神を、倫理や道徳という大きな後ろ盾の元に堂々と掲げながら「仲良くするために違いを知ろう」と叫ぶのだから始末に終えない。 敵とはなんであるか。 それは「私に味方をもたらす者」である。 私達は戦いがなければ敵もおらず、敵がいなければ味方を得る事もできない。 乱暴な言い方をすれば、戦わなければ私達は一人ぼっちだ。 戦いとは、何も武器を手に相手を殺すばかりではない。 日常生活の中での他者との意識のぶつかり合い、それも立派な戦いだ。 味方とは、そんな戦いの過程もしくは結果で得るものであり、ある者はそれを「友」と呼び、またある者は「配偶者」と呼ぶ。 そして「仲間」と呼ばれる類いの味方もいる。 全てがそうだとは言い切れないが、この「仲間」という味方は非常にタチが悪い。 何故ならば、人は時として「仲間」という味方を得るために敵を作り出すからである。 この時、戦いは既に己が味方を得るための手段でしかなく、そのためになくてはならない前提条件となる。 こうした「仲間」を得るための戦いで最大の効果を発揮する武器が、倫理や道徳である。 それは大声で叫ばれ、ますます人々の中へと浸透し、叫ぶ声は次第に大きくなり、やがて正義と呼ばれるようになる。 逆を言えば、人々が声高に倫理や道徳を叫ぶ時は、己が正義という力を得んがための戦いにピッタリな敵を見つけた時なのだ。 人々の血肉から抜き出されて武器となった倫理や道徳は、実態のないただの言葉にすぎない。 私は別に構わないのだ。イケメンやエコバッグを賞賛していい。倫理や道徳を大切にしていい。 だが、それらを味方を募るための「善きもの」として、そこから敵を見つけ出すような戦い方をしてほしくない。 そんな風にお前が世界と戦う時は、私がお前の敵となろう。 私はこの言葉でもって、世界に介添えする。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]ポチの消滅/テシノ[2010年9月14日19時30分] 私にとって人生初の友達は、カトウさんちの犬ポチだった。 私の記憶の一番古い場所にあるその姿は、大きくて逞しいボクサー犬だ。 しかし家族に言わせると、ポチは茶色い普通の雑種犬だったらしい。 当時住んでいた住宅地には私よりも年上の男の子ばかりしかおらず、私もポチもしょっちゅうその悪ガキ達にいじめられていた。 しかし彼等は朝から夕方まで小学校に拘束されていたため、日が高いうちは私とポチの天下だった。 名前からもわかる通り、ポチは実に簡単な気持ちで飼われている犬だった。 門のそばに置かれた小屋に鎖で繋がれており、「よそのお宅に勝手に入ってはいけません」という母の言いつけを真面目に守る私のためにポチが門の外まで出てきてくれる、そんな逢瀬だった。 のちに聞いた話だが、母は私とポチの日々の逢瀬を逐一察知しており、私がポチに危害を加えられはしまいかとそっと様子を窺っていたらしい。 言われてみれば、ポチと別れて家へ帰る途中でばったり母と出くわす事が多かった気がする。 一人遊びが苦手だった私のために、母はたびたびカトウさんちへ挨拶に行ってくれていたようだ。 当時の私はそんな事も知らずにポチとの友情を育んでいたのだった。 ポチはとてもおとなしい犬で、私が遊びに行くといつもにこにこと出迎えてくれた。 そして、彼は賢かった。何せ人間語を話す事ができたのだから。 私達は飽きる事なくいつもおしゃべりしていた。 私が姉と喧嘩をした時には優しく慰めてくれたし、昨日の夕立で雷が何回鳴ったのかも彼は知っていた。 私は雷がとても怖かったので、ポチはやっぱりすごいな、と思った。 今思えば、ポチだって雷が怖くて仕方なかった筈だ。 だって犬というものは雷嫌いと決まっているのだから。 それでも、明日も遊びに来るであろう怖がりの子供のために、彼は小屋の中で一人、ビカビカと光る雷をじっと見つめていたのだろう。 やがて、ポチが見つめているであろう雷を私も窓から見るようになった。 それでも母に手をつないでもらいながらだったが。 今はわりと雷が好きだが、夕立の時にはふと考える事がある。 ひょっとしたらあの頃、私の方が犬語をしゃべっていたのだろうか? ある日、私は道端で「ものすごくまっすぐな棒」を見つけた。 恐らくそれは通りかかったトラックから落ちたか何かの建築資材だったのだろう。 しかし幼かった私にとって、「ものすごくまっすぐな棒」が道端なんかに落ちているという事はとんでもない大事件であり、これはきっと何か特別なものに違いないと思った。 すぐにポチに報告だ。 私はその頃、自分の宝物は全てポチに見せており、そのたびに彼は私の宝物を褒めてくれたのだった。 12色のクーピーを買ってもらった時は、彼が少しうらやましそうな顔をしたのが気になり、どれか一本をポチにあげるつもりだと母に話した。 すると、じゃあ明日一緒に行ってポチに何色が好きか聞いてみようか、と言われた。 私はその提案にあまり乗り気ではなかった。 何故なら、母と一緒の時はポチが無口になってしまうからだ。 そして彼が母に尻尾を振るのも気に食わなかった。 次の日、案の定ポチは黙って尻尾を振るだけだった。 ポチはお前がそれで絵を描いてくれればいいって言ってるよ、と母は言った。 母が嘘をついている事はよくわかった、私は母がポチとおしゃべりできない事を知っていたのだ。 その日、それが何かはわからないが、私は心にざわめくものを感じた。 それ以来、私は宝物を母ではなくポチだけに見せるようになった。 ポチはこの宝物をどんな風に褒めてくれるだろうか。 何せただの棒ではない、「ものすごくまっすぐな棒」なのだ。 私はわくわくしながらポチの元へと向かった。 しかし、その日のポチはいつもと様子が違った。 私が門から覗き込むなり、いきなり吠えかかってきたのだ。 びっくりして身を引く私に構わず、ポチは突然「ものすごくまっすぐな棒」に噛み付いた。 そしてあっという間に私の手からそれを引き抜くと、そのまま小屋の中へ入って出てこなかった。 その時のポチは犬そのもので、私は泣きながら家へと走った。 こんな日に限って母は私がポチの元へ行った事を知らなかった。 大泣きしながらポチがポチがと叫ぶ私に相当驚いて、怪我がないかと確認した事だろう。 私はしゃくりあげながら何が起こったかを説明し、ポチが怖いと訴えた。 訴えながら、そうとしか表現できない事にもどかしさを感じていた。 今ならばわかる、私は怖いだけで泣いていたわけではないのだ。 いつもは優しい友の裏切りが悲しくて泣いていたのだ。 そしてその悲しみが私には怖かった。 それは私にとって人生初の友との喧嘩だったのだ。 母にはそれがわかったのだろう、泣き止んだ私にポチの所へ謝りに行こうと言った。 もしかしたら、ポチはあの棒で悪ガキ達にいじめられた後だったのかも知れない。 そう考えるとあの豹変振りにも納得がいくし、そうだとしたら裏切ったのはポチではない、私の方だ。 しかし当時の私には、そこまで考える余裕も脳みそもなかった。 ひたすらにイヤイヤをして、その後何日もポチの所へは行かなかった。 ポチとの思い出はここまでとなる。 私が彼と喧嘩をした数日後、カトウさんちに泥棒が入ったのだ。 ポチは一声も吠えなかったらしい、それが主人の怒りを買ったのだろう。 ポチがどうなったかは知らない。 母からは、カトウさんには田舎に親戚があり、ポチはそこで暮らす事になったのだと説明された。 そして私は次第にポチの事を忘れていった。 母と一緒にポチの所へ行った時の、あの心のざわめきは一体なんだったのか。 自分もやがては母と同じように、ポチと話す事ができなくなるだろうというかすかな予感だったのだろうか。 予定外にポチがいなくなってしまったため、私はその瞬間を体験はしなかった。 小学校に通うようになってから、我が家に一匹の子犬が迷い込んで17年間のさばった。 その犬が10歳の時にやはり迷い込んできた子犬が、今でも我が家にのさばっている。 今の私は、彼等と言葉を越えた何かでコミュニケーションしており、それでも特別不自由はなく、むしろ絆のようなものすら感じる。 しかし、彼等がふと私を見上げるその目の中に、時々ポチを思い出す。 恐らくは世界中の子供が、そんな風にしてポチの消滅を思い出すのだろう。 ---------------------------- [自由詩]静物画/テシノ[2010年10月6日11時22分] 燭台に突き刺した月を育てる 見ろ 昔燃やしたものがゆっくりと蘇る こうなる六ヶ月前 舌は正常さについてを繰り返し そしていつの間にか燃える事なくただ焦げていった 深い森を想う 舌先の熱を燭台に移す 木立に憩う心臓の鼓動を想う 手足は畜生まぎれの痙攣に泣く 砂溜まりの窓 風の落下 いつか森でなくした時計が草に包まれて針を止める 金属が腐食するように 拭っても熱のまま 錆びていく月の赤い様子を 細い窓に映す磔刑 ---------------------------- [自由詩]橋の下、工事中/テシノ[2010年10月26日18時03分] この橋の下 工事中 柳の根もと 猫の死体 あなたの足に釘を打つ 銀鼠の雨 おちょこ傘 真っ暗がりが落ちてくる 重機の沈黙 橋の下 ねんねこねんね 濡れ鼠 たんたとたんた 雨の音 生きてる猫はにゃあと鳴く 死んでる猫にゃ 涙雨 おちょこ傘なら貸しますよ お気遣いなくと死んだ猫 そろそろ工事もしまいゆえ 土へと還る手筈です さればおさらば ばさらとすれば 三界見下ろし鳴けば「なお」 雨の降り出し 気付いても やんだ雨には音がない 此岸と彼岸の工事中 柳の根もと おちょこ傘 ---------------------------- [自由詩]三丁目南バラ公園/テシノ[2011年5月18日14時24分] お前にかける言葉を私は忘れた その肩の向こうに続く飛行機雲を見た時に こんなに高い空の下では 自分が何か過ちを犯している気がしてならない だから今日は嘘を話そう 明日の天気みたいに嘘の話を 並んで歩く二人の間に横たわるかつてが 川霧のように和らいで私達を甘やかす その行き先を知っているから落ち着いて私達は 爪先に視線を落としてゆっくりと並んで歩く 嘘は風にのせて 風にのせて空へ返すものだと私達はもう知っているから 風が来るのを待っていた もうすぐあの公園に着く 人々がいなければいいと思う さざめくような笑い声に私達が負けないように 公園がなければいいと思う 何年もかけて私達は もうすぐあの公園に着く かつて 二人が埋めたものが芽吹いたかのように 咲いていた 揺れている 風だ いつかのさよならだ 今ならば言える 空は広いというように 海は深いというように もう二度と私は この肩の向こうに飛行機雲を見ることはない だから今は丁寧に その雲の行方をたどる 咲き誇るバラは一際赤く 群青の空に染み付くように 真っ赤な嘘よと手を振りながら またいつかねと風に言う ---------------------------- [自由詩]雨の格子/テシノ[2011年9月8日21時50分] 振り向けば銀鼠 雨の格子に閉じ込められた独りよがり メリーゴーランドから逃げ出した木馬の 回転しか知らない走り 雨の日のベランダで 列になって群れないパレード 眠らせてハモンドオルガン カタカタ鳴らすブーツシャフト 薔薇色と嘯いて ゆっくり明日へと見送る光 人々のスピードを嘲笑うカラスの急降下 くちばしで切り裂いて作る道に かぁと一声残したら あとから雨が追う 手をそわせるものを探す 寄りそうまででなくていいから 手の中に温度を探す 温もりほどでなくていいから 空に向けた手の平で 小さな魚を飼っている 雨を伝って逃げないように 人差し指に見張らせて 振り向けば銀鼠 次第に細くなる雨の格子に阻まれて まだ間に合う  と見送る背中 ---------------------------- [自由詩]うちのこ/テシノ[2012年9月6日13時33分] こっそりと私を 押入れに隠しました 母さんに見つからないよう 襖の裏にしゃがんでます 真っ暗い中 怖くはないけど 心臓がドキドキして 飛び出す機会をうかがって 期待をこめてそれでも 用心深く唐紙に穴を空け 襖の裏から向こうを見れば 母さんは子供と穏やかに笑っています 私の顔をしてました 私の顔をしてました 母さん母さん母さんは 一体何を作ったの? 私を産んでその次に ほしかったものは何? 私の目玉が凝視する あれが母さんの希求 私の脳裏に焼き付ける 母さんの望む形 母さんお腹が空きました 私はずっと隠れています 餓えて死んでもここにいます そしたら気付いてくれるかな (なんて汚らしい、と 母親がそれを燃えるゴミにする そんな予感が浮かんでしまえば 子供は襖の裏から出られない 内なる子供はいつだって 知るのではなく感じることで あなたと自分を理解する) 楽しそうに笑う子供が 怯えるように言いました 母さん怖い 押入れに怪物がいる それで私はうちの中から 押入れごと消えたのです ---------------------------- [自由詩]えじき/テシノ[2012年9月12日18時45分] あなたは  わたしを  たべます わたしは  あなたに  たべられます みりみりとにくが  ほねからはがれるおとがします しゅくふくのかねのように  あなたののどがなります それをきくのは  あなた わたしでは  ありません あなたは  いきている わたしは  いきていた ただひともじの  ちがいで わたし  あなたのえじき かみへのかんしゃも うしろめたさもなく あなたはわたしをひつようとした そんげんというものがあるならば わたしにとっては  それ てつがくや  りんりや どうとくや  あいぞうは いまはかんけいありません これは  ちと  にくのおはなし ちとにくが  ほねになるおはなし ほこりたかく  にくをくらうあなたに もうなにもかんじず  わたしははいる あなたの  なにかに  なる わたしが  どこかに  いる そんなふうでありたい きょうも  あなたの しゅくふくのかねがきこえます ---------------------------- [自由詩]ギブ・ミー・シェルター/テシノ[2012年10月2日19時52分] 読みかけの本の 開いたページのすぐ横に わたしを置き忘れてしまった 駅に着く頃 あ、しまったと気付くが 頭はどうしてもあの電車に乗りたがる 今日は座れた 昨日は座れなかったからね よかったよかった と話しかけても 返事がない わたしはわたしを忘れたことを忘れた 学校に着いたらおはようの応酬 見慣れた朝に紛れ込むとき 人は人の形をしたただの密度だ ふと鞄の中から気配がした 何かと思って覗き込むと 小さいの頃のわたしがいた ああ、これはまずいな まずいことになった 着替えのTシャツを掴んだときに 間違えてしまったのだ 久しぶりに部屋を出た小さいわたしは 戸惑い、怯え、縮こまってゆがんでいる わたしの中にわたしが不在なのに 鞄の中に小さなわたしがいる 廊下が真空になった、音が遠退く 何階にいるのかわからなくなって ベソをかきながら歩く 怖い、怖い、こわいよお 悲しくなるのがこわいよお 絶望するのがこわいよお 気づかれる前にここから逃げなきゃ 思い出せ、思い出すんだ 初めて自分で歩いたときを 勇敢だったその日のことを たすけて消火器 たすけてトイレのマーク たすけてかべの画びょう たすけてカナブンの死がい たすけて交通安全週間のポスターのおねえさん たすけてわたしの鞄の肩ひも 肩ひもにしがみついて窓から中庭を見たら 黒い鳩のなかに白いのが一羽だけいた それで思いついた そうだ、透明になればいいんだ 昔叱られたときみたいに 誰からも見えなければ誰も怖くない コンコン、コンコン、入ってますかぁ? いませんよー、だぁれもいません ほぉらいた、うーたんここにいたぁ お母さんにはわかるんですよーだ うーたんがどこへ行っても いつ誰と何をしてても お母さん、全部知ってるんだからね あれ?どうしたの 友達に声をかけられた いやぁ、鳩がね わたしは鼻声で答える 一羽だけ白いのが悲しくてさ ええぇ?…ああ、屋上いこっか なんとなく並んで歩く廊下は もう真空じゃなくなっていた どうして見つかっちゃったの? わたし、透明になってたのに だって、見えるよ、と友達は笑った それなら服は脱がなきゃダメなんじゃない? チャイムの音を聞く、空が近い どうすんの、教室に荷物置いてあるのに これじゃわたしが透明じゃん 友達がフェンスに寄りかかってぼやく わたしは中を確認してから そっと鞄を閉じた 空が近い ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]一人で終わる/テシノ[2012年10月22日18時42分] 野良猫が歩いていました。 な〜んて言っても それが本当に野良猫かどうかは 知りません、雰囲気です。 つまり、小汚い猫でした。 後ろ足を引きずっていました。 痛々しくはありましたが 怪我をしている様子はありません。 恐らくもう何年も前の怪我の 後遺症なのでしょう。 しかしそれを見た瞬間、私の子供が いえ、正確に言えば 私の中の子供の部分が 可哀想、助けなきゃ! と叫びました。 私は、大人としての私は 過去に散々、道端の小動物を 助けたり助けられなかったりした私は あの猫は助けなんか求めちゃいないと なんとなくわかっていました。 けれど、足を引きずって歩く猫を 助けたいと叫ぶ子供に 何と説明し どう納得させればいいのか 私にはわからなかったのです。 なので 見なかった気付かなかったことにして そのまま忘れてしまおう、と。 通りすぎようとする私になおも 子供は叫びます。 助けないの!?見捨ててしまうの!? その時、声が落ちてきました。 いいえ雨降るようにではなく それは落雷でした。 ドカンと一発、頭の上から まるで私を叩き潰すかのごとく 違う!あの猫は今、一人で歩いているんだ! その瞬間、振り返ると 猫はただ 自力で歩く一つの命でした。 救いたいという想いと 自分以外の命への不可侵。 前者は優しさですか? 後者は冷酷ですか? 私にはわからなかったのです。 一丁前にその昔、死にたいなどと 口走ることなくその言葉だけを 育て続けたことのある私は 救う対象に、命ではなく自分を 救われたかった自分を見ていたとしたら もしも他者の命への介入が罪深いとしたら 救いたいという私の想いは、いったい どこへ還せばいいのでしょうか? 私にはわからなかったのです。 いまだにわかりません。 どちらにしてもあの声は 答えを出すのはお前自身だ と。 ---------------------------- (ファイルの終わり)