コーリャ 2010年9月1日11時32分から2021年5月30日8時49分まで ---------------------------- [自由詩]mean/コーリャ[2010年9月1日11時32分] mean meanと蝉がぼくを詰っている いじわるなぼくは アスファルトにおちているつよい水性の日差しをひろってたべる 夏というのは架空とおもう ふとてのひらをすかしてみると うすい水かきが指のあいだに張っている 北極までいこうぜ 泳いで 大人のくせにいつも半ズボンだった彼は あるとき虫取り網と虫かごをかついで ハピネスをつかまえにいってくるといって どこかに消えた かれは死ぬように笑っていた しかもちょっと透けていた 青というの色の真実は熱量をはかる尺度だった ほんとうの夏だった こんな暑さにはそれを思い出して あのとき彼が餞別だぜといってぼくにさしだした 麦わら帽子をもらっておけばよかった と後悔したりもする 丘の天辺にある風車は星を発電している たとえばみんなが死んだ夜の せかいのおわりと簡単にすまされる 残骸がそのまま墓石になって いつまでもいつまでも 光るビルディング あるいは たしかに生きたという証拠になってくれる むしろなめらかな海水をてらして おわりなんてものはないというように 戦争がおこって ぼくの街は廃墟で 死体がころがっていて なにもかもがやさしさになりきれず 絶望絶望と指を指しながらなづけていき 夏と冬で街はかわってしまったと嘆き ぼくとあなたはかわってしまったと嘆き 朝焼けを夕焼けとかんちがいしたヒグラシが カナカナカナカナシイと街をもっと壊していく 終電も半年くらいまえにおわったのに 電車の非常停止ボタンをゆっくりと連打しながら なにかをつぶやいているおじさん くちもとにはウスバカゲロウがとまって夜を透かして揮発させてる 「ぼくはねあらゆる季節と関係をもったんだよ、だから」 「だから?」 「非情停止ボタン、非情停止ボタン」 mean meanと蝉がぼくになにか伝えようとしている いきていく いじわるな生を できるだけ優雅に できるだけただしく せかいのほんとうの意味をさがして まぶしい日差しに手をかかげながら 北極に行きたいね なんていいながら ---------------------------- [自由詩]o/コーリャ[2010年10月1日6時56分] 自動販売機のコイン投入口に すいこまれていく女の人をみた金曜日の夜 ポッケの底のおつりの枚数をかぞえていた 裏面をやさしくなぜながら 口当たりの良い絶望味のコーラをぐびぐびのんだ 昔乗用車といわれていた残骸に 昔生きているといわれていた骸骨がのっている 果物と野菜の芳香を煮詰めに煮詰めた グルグルグルグル/夜みたいなくさった色だった ぼくたちはそんな色だった 京都タワーのてっぺんにのぼろうぜ 月がいちばん近くなる時間に! そしてキリストみたいに両手をのばしたら ぼくたちは小さい時絵本で見た 怪鳥になれるんだぜ いつからかあなたを追跡する自転車たちがいる あなたは振り向く それは家族だ おとうさんとおかあさん そしておとうさんにのおねえさんと やっぱりおとうさんにのおとうとが 背筋をぴっしっとのばして (それはまるで氷像みたいに) 自転車をこいでいる あなたは挨拶をする そして無視される 家族はみんな黙っている 自転車をこいでいく あなたをかろやかにおいこしていく ちょっくら月の裏側まで心中しにいくみたいだと あなたはおもった 透明な駅に透明な列車が走る透明な線路がひいてあってそこの透明な終点にある透明なあなたの透明の家にいってしまいたい 言葉の川が白光の波をたてながらながれている あそこには 美人のあのこがあり 不在がある 愛がある きもちいいことがあり ウォッカトニックがあり ビリヤードのナンバーナインの球があり カラオケだってあるし 美人のあのこの顔があり タモリの顔があり ブサイクのあのこの顔があり わたしの顔があり もう死ねがあり 湖だってながれている あそこには龍がすんでいる ガニメデまで通じる井戸みたいな口を おおきく お お おお きく おおおと開けている たぶんあれはexitだぜ それでぼくたちのくだけちった心のかけらかけらで モザイク画みたいになった巨人が 世界をこわしていく 星座が裁断されていくね 思い出がちぎれちぎれ風にまうぜ セックスが文学がかみなりにうたれる 巨人がくさってる! みろよ! ぼくたちの地獄はあんなにも美しいんだ ---------------------------- [自由詩]俺たちの為に鐘を鳴らそう/コーリャ[2010年10月24日22時43分] そしてやっぱり日々はつづき 宙返りした空が浮いたり沈んだり それにあわせておれたちも浮いたり沈んだり 眼の覚めるような光の降る街! けだるさや ちょっとした絶望を明るく照らして おれたちの領分は たぶんこの眼界を区切っていて 囲んでいる 大切に 囲んで 囲んで おれたちの街で 手をつなぐ おれたち 老若男女が互いの手をとりあって おれたちの空白を 囲んで 夕暮れをふみながら 輪舞する かごめ かごめ かもめが飛ぶ 空の一番ちかいところから鐘がなり おれたちは 忘れる だけど 忘れたことは 忘れない ---------------------------- [短歌]いちばんのクズ/コーリャ[2010年11月25日3時39分] 夕暮れが桂川から帰化してる 魔界みたいな街をみつける 出発の笛の前にはsee ya later 言いたいことは線路に棄てる 風が吹く 神社がごうごう鳴っている 秋の夜長の妖怪フェスタ コカコーラ吐き出すきみはやさしいな 自販機なんて名前は捨てろよ 行き先は分かってるけど 捨てられたチャリにのります 22の夜 寂しさを希釈させてくiPod 壊れた日から歌手を目指した 寂しさを希釈させてく 音楽を雨のふる日に処方してくれ 「禁煙に失敗したから 自殺する」 そういう感じで生きて行く秋 そうやって自殺するとかすぐに言う 悪い癖だぜ 啄木と君 沈黙が馴れやすい日のラブレター 郵送先はお前のやさしみ 戦争が海のむこうで起こるから せめて俺らは仲直りしよ 男ってほんとにクズねと言うからさ 俺は目指すよ いちばんのクズ ---------------------------- [短歌]氷降る部屋/コーリャ[2011年1月17日3時13分] おれはいま だれかを そっと 殺したい ともだち ぜんぶ 川にながして きみとおれ 今と昔で 違う町 抱えた秘密の 手品を教えて 夕暮れは 盗人だから おれは今言えない言葉を警備している おれたちは 墜落していく 星をみて そのパイロットに 祈りも捧げず 手のひらに 集めた声を手放して 全部 雨のせいにしていた ほんとうは さみしいなんて いいたくない 雪をみあげて 雪をみあげて うそばかり ついていたので いつのまに ここどこだっけ 蒸発する街 不真面目に マフラー巻いて 歌ってる 祈りの夜に 氷 降る 部屋 ---------------------------- [自由詩]恥ずかしい街/コーリャ[2011年3月1日15時20分] いつも見ている夢は風景として壊されずにある ヒビすら入らない 傷つかない 虫の群れのような街にシャンデリアみたいな雨が降る 道路にこびりついた体液が泡になっている 冬が溶けていく匂いがする 生まれてから死ぬまで恥ずかしがりやだった人は 幽霊になったいまでも恥ずかしい いまは服を着てないことを恥じてる 昔に何に恥じていたのか絶対に喋らない みんな陰鬱な表情をしている 静寂を口元に凍らせている 恥ずかしい街 森なんてない言葉なんてない 人はいる たくさんいる ---------------------------- [自由詩]祈りの鐘/コーリャ[2011年5月12日1時58分] /AM2:00 天国って宇宙のどっかにあんのかな と僕がたずねると 女は黙って指をさした 窓辺においたベッドから 起き直って首を曲げる ちょうおどろいた 世界の破滅みたいに大きな月が浮かんでいた あれ?ときくと 首を横に振る 女の視線をたどっていくと 夜空を列車が駆けていくのがみえた その月を飛び越して 過去にでも行くようだった 悪魔の吹く銀の笛のような汽笛が噴出していた そのあと僕たちは 野原に飛び出したのだった /PM11:00 後ろから怪物がきた 違った 家族だった 自転車に乗っていた 自分たちのただしさを主張する ゆいいつの拠り所のように 背筋をキシンと伸ばして 黙って漕いでいた 夜道にいつまでも 末っ子の補助輪が かるかる 鳴っていた かるかる /PM6:00 夕方時には戦争のように込み合う駅が 今日に限って無人だった レールが 懐きやすい夕べに光っていた その陸だけは 海と地続きだった /PM2:00 海に来ていたのだ 僕たちのしたがえるものすべてが生まれた場所だから まあというか 僕たちそのものが生まれたはずの場所だから 海にきたのに 僕たちはこんなにも違う 桟橋で一人 イロスを食べてたら 感傷を海鳥に笑われる ついでにイロスもちょっと奪われる /AM11:00 「幸せってなんなんすかね?俺にはちょっと手の余る言葉ですよ」 友達が顔をうつむかせた コーヒーカップにそのままめりこんでいくのかとおもった 彼はこのまえ天使に会った 比喩とか幻視とかでなく まじで天使だったらしくて これもらったんすよと 彼の差し出した手のひらには 傷だらけのビー玉がひとつ転がっていた スカイブルーだった 「なにこれ?」 「心臓」 と彼は美しく笑った /AM9:00 だれか結婚するのか 聖堂から鐘の音がきこえる すごく晴れてた でも 神様の手違いみたいに 葡萄畑だけに雨が降っていて 天気雨を 日本では 狐のウェディングというのさ と女におしえる 女は 笑いもせず 真面目に僕のために祈ったので 俺は正気だというと あなたは今泣いているといわれた 頬をぬぐうと あたたかな液体が指にこびりついた だれかの為に鐘が 高らかに鳴っていた ---------------------------- [自由詩]ノット・アズ・センチメンタル・アズ・イット・ユゥズ・トゥービーなジャーニー/コーリャ[2011年5月20日0時25分] 呪文をとなえるみたいに あめだまをころがしながら 光の中を進めば進むほど あんまり寒いので 動物園なんかはすっかり氷付けにされてる 入園できそうもないので そのまま帰った 幽霊がしぬほどいる街についたら ペンキをたくさん買おうとおもう とうめいなかれらをひとりのこらず 生者とおなじにしてやるためだ 次の街では人々が みんな樹木になっている それぞれのポーズで生えながら ざわざわと人語を発しているようにきこえる どいつもこいつも あんまり生きることに絶望してしまったので せめていままで吸った酸素を 地球にかえしてあげるのですと 風に脱字した言葉をきいた とりあえずこいつらも全部塗っておいた 次の街にはガイコツがたくさんいた 昼間には弔花みたいにねむっているが 夜になるとキャシャキャシャと広場にでてきて 噴水で水あびしたあとに 内臓が全部溶けるという呪いの歌にのせて 輪舞していた とびちる飛沫が 月光をびかりびかりとするどく反射させて プリズムでできたスプリンクラーみたいだった またはちいさな宇宙図みたいにみえた このひとたちは無視した 次の街へは電車でいこうとおもったから ぐいぐい流れる景色をみつめながら この景色たちはどこに捨てられていくんだろうかと考えた 景色のゴミ捨て場があるなら きっと景色を収集する人もいて リサイクルして また新しい世界をつくりましょう なんてやっているのかなとおもった 電車は街につく代わりに車庫に回送していった 電灯がいっきに消えて そこは海みたいな闇のなかだった あんまり暑すぎたので とりあえず季節のせいにしてみた 季節をペンキで塗れればいいのにとかもかんがえた ささくれだったライトブルーの季節 朝起きると 2009年の6月と女が手すりにぶらさがって ぼくをじっとみている なんだか気味が悪いので さようなら、とか あなたたちはやさしいね、とか すわったら?とか 憎い!とか試みに言ってみたけれど 瞬きもせずにみつめるばかり 困った 電車はいつのまにか動きだしていた 2009年の6月と女はもういなかった そのかわり氷付けの猿と 肌色の幽霊と 木とガイコツと景色の収集人が乗り合わせていて ぼくはこの道連れと どんな終点までいくんだろうかとおもっていたが ひとりづつ下車し さいごにのこったのは 最初にいなかったはずの女だった すごく困った ぼくはもう喋らなかった 太陽と月のそういう実験みたいに ただ寝たり起きたりをくりかえした ときどきは彼女のために歌をうたってみた うまくうたえたり まったくうたえなかったりした それでもよかった 車窓から吹きこむ風のなかで ぼくらは生きていた それなりにメロディアスに おたがいそっぽをむきながら すごく上手に歌をうたえたことがあった もうこれ以上なかった どうだ?と彼女のほうをふりかえると もういなかった はは、 バイバイ ---------------------------- [自由詩]とんかつソース/コーリャ[2011年6月6日20時38分] 空白をたどる そうすればぼくたちはみんな あの場所と呼ばれつづけている場所に 帰れるはずだ 子供の頃 壁を手のひらで撫ぜながら歩いたみたいに 植物のトゲに傷つけられたみたいに 擦り傷をつくりながら 風景をたどっていく 手品によくある 体内から連なる国旗をしゅるしゅる取りだしてみせる芸のように あなたはその口から言葉を紡いだ 優しいから傷つける言葉は ノルウェーで 未熟なアイラブユーは みたことのない紋章 たぶんベラルーシ あたりだと思う 満月にぼくは怪人になる 鏡粉砕怪人である 家々の姿見を順に回って割ってしまう 自分の姿が反射する間もない早業だ だからぼくはぼくを見ることができない たぶんあなたもあなたを見ることができない ぼくたちは空間であるべきだった 音楽的であるべきだった あとちょっと関係ないけど 夜空には口笛を吹いてはいけない マントを翻し ひときわ深い影を落としながら ぼくはおびき寄せられていくから バスルームには粉々の濡れそぼったガラス まるで雨の風景を破片に砕いたみたいに それは痛感をともなう 複雑な虹のかけら 金魚鉢の水を取り替えるつもりだった あなたの手から すり抜けていった から あなたは叫んだ 靴下が濡れた 金魚はゆっくり乾いて 死んだ あなたは俯いた 長い黒髪があなたの顔を隠すシェードになった 笑いをこらえるように あるいは繊細な楽器のように 肩が震えていた ぼくは 死骸を手のひらに載せて フライにして食べよう と提案する あなたはやっと顔をあげて とんかつソースしかないけれど と笑った ---------------------------- [自由詩]虹のない/あるせいかつ/コーリャ[2011年7月8日16時22分] ダイヤモンドより確かな一瞬に 石版みたいな青い空をみつける だれの名前も刻まれることはないし 法律だって記されていない ましてや 墓碑銘なんて思いもよらないのだ だれかが今も死にいくなんて 信じさせない まっさらな情景 地球は平面である と信じられていた時代があって 円盤の縁には 世界の終わりにふさわしい瀑布がカーテンのように落ち込み その下には 全てを飲み込むべく口を開けた怪物がいる でも ずいぶん前に失踪した台湾人の祖父曰く それは誤りで たしかに滝はあるのだが 盤を支えているのは数匹の巨象だという 象は人を食べたりしない 「でなければ」 と彼は言った 「海は干上がってしまう 鼻先から水を噴出して 海水を絶えず補充しなければ 流れ出る滝のおかげで 海は干上がってしまう」 そして 果てまで行き着き 世界から落下する旅人は 今まで見たどれよりも はるかに大きな虹を 最後の地平に発見する すこしだけ世界が揺らいでるのを感じるときがある それはべつに地震がどうとかいう話ではなく ただほんのすこしだけ 世界が不確かになっていくと感じるときがある たくさんの風船がいっせいに空に放たれるときとか 夜の公園でひとりでにブランコが揺れるときとか 急行列車が駅をすりぬけていくときとか 花火大会の帰りとか すこし個人的な話をする あなたの話をする 金魚鉢の水を換えるときに 誤って手からすり抜け 床に激突して 砕けちったガラスで星図ができた 赤いガス群に あなたはくるぶしをひたした ゆらめく陽光のカーテンに ゆっくりと干上がっていくあいだ ぼくは窓の外に広がる 森をながめていた なんとなく 誠実ってどこにあるんだろうね 違う銀河系の星に埋まってるんだろうか 未発見なんだろうか この星は地球なのに たくさんのビルが悪の怪獣にみえます ひとびとをその感情ごと ふみつぶそうとしてるんだとおもいます そこで何食わぬ顔でせいかつする ひとびとは 悪の怪人にみえます あなたを筆頭に 虹の始まりは燃えている 虹の始まりに狐たちの嫁入りがある 虹の始まりに宝物が埋まっている 虹の始まりには絶望がある 緑の宮殿のような山脈の前には 緑の城下町のような草原 遠くの柵には光がやどって最後の何かを守っている 風がわたって ぼくらの手の甲と甲が 戦闘機みたいに交わされ 戦争が起きて たくさんの人死にがでた 雲が白旗のようにたなびいているのに 橋の赤く錆びた欄干に よりかかりる その水流の光に盲いたように ずっとみつめる 世界が所持するものが 信用ならない いなくなったあなたを筆頭に でも 世界は終わらない いつでも 青空は石版みたい カフェでローストポークを食べる 友達は死人について話していた 窓ガラスに虹が写りこんだ ふりかえれば そこにはなにもない 青い空があるだけだった たぶん いずれにせよ 象は水を与え続けている それが止むまで世界は終わらない どれだけ不確かだろうが あなたが一生いなかろうが 世界がほんとは球体だろうが 象たちが いるかぎり 世界はどうしようもなく 終わらない だから とうめいな水の降雨のあと とうめいな虹が 石版に刻まれていく それを見てみぬふりをして 思い出をすこしづつ 忘れていく それがぼくらの かぎりあるせいかつ ---------------------------- [自由詩]怪物/コーリャ[2011年11月2日0時42分] クジラに呑まれて死にたかった。暗い胎内の小高い場所で三角座り。マッチを擦ったらすこし歌って。誰も助けにこないことがちゃんと分かったら。アイスティーの海にくるぶしから溶かされて。人魚として生まれかわりたかった。潮に吹き飛ばされて飛空する世界は、青色と月がみんな仲良く暮らしてる。 私は待っていた。離れの暖炉のなかに隠した金魚鉢の前で。朝には銀色の水を注いでやり。夜には段ボールを被せて眠らせてやった。餌には私の血をあげた。無口なバイオリニストみたいにカッターを引いて。人差し指で水面を掻いて。早く人間になってもらえるように。私が溶け出すように。でも浮かび上がったままの魚鱗は私を詰った。私は失敗した。たぶん、金魚は黄金の鳥になりたかったんだと思う。黄金の人っていないのだろうか? そんな時だって私はなにかを待ちながら生きていた。乳色の海のように浮かぶ地平線と、降りしきる仮定の隕石群の原を、はんぶんこに眺めながら。私は待っていたのだった。車内は夕暮れを運んだ。戯れに唇を寄せた車窓は湿った紋章を浮かべた。私たちは音を微かに立てるくるみ割り人形みたいな気分だった。果実の匂いがした瞬間にバスはトンネルに入った。出し抜けに闇を食道に流し込まれる。暗闇に溺れる。こんなところでは決して眠れなかった。トンネルを抜ける。人類を皆殺しにしようと、彼は誘う。銀紙を延べたような町々。陸橋を超えて。光はどんどん捨てられて、またトンネルに入って、出たときに、私はやっと、ひとごろし。と発音した。バスは次の王国に向かった。 私たちは体内に動物園を経営しているのです。タオルケットで覆面した教祖が高らかに宣言した。私の豚。私の猿。私の熊。私のきりん。私のドラゴン。私のにんげん。木組みの高台にいる教祖はピンクのスーツを着てる。タオルケットが風にはたはた鳴る。丘にずらっと体育座りな私たちはみずからの胸を抱きながら飼育している。私のキメラ、育ちなさい。忘れられた水車のある風物を過不足なく混じらせてしまうみずいろの降雨。私たちの空。私のキメラの飛ぶ空。さあ祈りましょう。祈りましょう。と言う声は獣のそれが混じっていたけど。私たちは空をみあげることをしてはいけない。 小説みたいなニジマス釣り。電子をてらてら降らす陽光。水面は川魚の影を結んで開いて。ほどけきった言葉。光の溜まりに足をすべりこませる。あの時!はそんな名前で呼び習わされた。そして、それは別の場所で、魚に似た鳥たちがゆっくりと回遊する踊りの下で、尖塔の鐘を三度だけ鳴らした。虹が咲いた根元には王国があって。革命のような雨にゆっくりと溶け出して、消え去り。私たちはそれを確認したあとに飛行。私たちは新しい虹をさがす怪物だった。私たちは。私たちをそんなふうにしか理解できなかった。 ---------------------------- [自由詩]川沿いの聖堂/コーリャ[2011年11月21日9時50分] 聖堂の夜会に踊りに行こうと、あなた以外の右手が誘い出して、音をたてて破裂した日の名残り。俯かせた顔の影絵。錆びた蛇口みたいに固まった猫が見つめ。 祈りとオリーブ色がまじった夜がゆらめき始まる。 車はやっぱりキャデラック。キャラメルを流したように滑らかな道。速度と光を暴いていく。交差するクラックションはあの4文字みたいにきこえる。性交よりも良いサンドイッチをよこせよ。約束されたタイミングでの笑いが買われる。それでも自分たちは卑しくないと信じながら。夜のもっと深くに。 そんな手振りで漕ぎ出していく。 注ぎ過ぎたコーラの炭酸みたいに、夜会が溢れかえってる。割れたステンドグラスが聖母の顔の輪郭を探している。アルコールで建てられた塔たちはお祭りを囲んで照らす。仮面をつけた男女が入り乱れて新しい色を発明していてる。葡萄畑まで祝祭の火が舞う。口元から零れた色水の数滴が、開かれた白い胸で柔らかに着地する。誰かがなにか叫んでいる。酒盃の縁が薬指で弾かれたら、シンバルが砕ける音がして。魚みたいに泡を吹いて倒れたひと。戯れに尖塔の鐘を突くひと。などをない交ぜにする不吉な音楽の。 糖衣を一枚はがしていくと、便所にこもったままの男がずっと手を洗っている。 友達は知らない女と葡萄畑に消えた。闇の奥を冒険するらしい。どこかで怒声がして、夢の水面から鳥がひとなぎで飛び立つ。欲望の渦潮の中で、みんな自分の感覚にしか興味がなくなる。仮面のかぎられた視界は僕たちの暗やみを寄せる。自分の海に溺れているんだとおもう。塩の味がする夜。掻き傷のついた銅のような笑顔を貼り付けている。僕のなにかがざわつくと。後悔はさざなみのように寄せてくる。海にいきたい。冬の海に、いきたい。砂の城なんかつくって。月の城なんて名づけて。汚れてないことを、汚れないことを。祈って。グラスがまた砕け散る。鳴り止まない水の音。どうしてそこまでして手を洗がなきゃならない? すこし吐き気がする。 バックヤードはすずやかに闇を呼吸する。ひきのばしたような貧しい川が身を横たえている。白すぎる星の原に風が鳴る。水に、手を、泳がせる。波紋の野火が白光を川面に散らした。ちいさな波を掠めながら静かに消えた。いつのまにか対岸に女の影が立っている。手をひっこめる。僕は立ってそちらを見つめる。相手も僕を見つめる。女はなぜか裸足だった。後ろで誰かが僕の名を呼んでいる。振り返る。誰もいない。また前を向く。女はいなくなっている。彼岸の先では聖堂が灯っている。そして僕の前には。 川が残酷のような姿をして流れている。 俯くと、水とアルコールの混血児が僕の首に手を回してくる。誰かが僕の名を呼んでいる。鼻の奥から麻の匂いがする。僕たちはあやまっていたんだろうか?なごやかにすべてなかったことにする陽の暮れ方や。恥ずかしさをだしぬけに与える夜の訪れ。かみさまに手紙をだしたはずだ。ワイン瓶の中で身を硬くする手紙。かもめの行き先。海岸の最果て。振り向いたときの表情。斜光。 そんなものたちを弄んだ両手が燃えている。 音楽が鳴り止まない。頭のなかに宿した海の。右耳の裏側。汀がいつも鳴っている。そのことにきづいたときから、僕たちは岸辺に閉じ込められていた。長い岸辺。広がる岸のどこにも、やわらかな砂にささったワインボトルなんて生まれない。城なんてないし、しあわせの国もない。波がなにもない浅瀬になじんでいく音をききながら。みとどけながら。燃える両手をどうすることもできず。彼岸の光をみつめながら。僕たちは。 僕たちを繰り返している。 知らない女が戻ってくる(あなたは戻ってこない)僕は冬の海に行こうと女を誘う。 女はひとつくびをかしげ、泳ぐみたいに聖堂へ戻っていった。 ---------------------------- [自由詩]観覧車に亡命/コーリャ[2011年11月26日2時05分] 私たち逃走していた。かすりきずに錆びついたボディーは、夕日の射光に身包みをはがれ、匂いがするようなレモンの色にそまってしまい、塗装が晴れてしまった下地の部分の、心臓みたいな銀のフレームがばれて、わたしは少し恥ずかしいのだけど、ときどきいたましげな光を散らし、青い草原のコントラストになって、わたしと山とか街とかを、おきざる風でもって、逃がしていくのは、やっぱり、レモンの色のバイバイ、11月がどうしようもなく似合ってしまうわたしたちの自家用車、その鋭角なウィングでそのまま空をとんでしまおうか、というと、ダッシュボードのなかの虹いろ味のメントスが、かろろ、ころがって、ふきこむ風と唱和し、赤土の地平線をこえるまでもなく、わたしたちは鳥のたぐいで、いわば無敵だった。そんな風物をたたえた、きせつのまなざしを、ねえ、あなたの心臓を、いま停めることで、表現してみようか?排気ガスとすなぼこりがまじった煙幕が魔法みたいにわたしたちの旅路の幕をあけるから、ヘンゼル、わたしたちが向かうばしょでは、水中を遊泳する、ぷらんくとんの大家族みたいに、ちいさな絶望たちが空にわだかまっているのかもしれないけど、光跡を辿ってゆけばわたしたち、故郷にいつでも帰れるんだよね?いじわるな鳥たちは色や光を啄むことはできないんだし。 作文の最後に、おしまい、なんて書いてはいけません、幼稚なことですよ、って先生に言われたのはどれくらい昔のことだったか覚えてないんだけど、そのときの原稿用紙いっぱいにつけられたバツじるし、斜線を引かれた題名はいつでも、わたし覚えていて、それからというもの、わたしはその思想をいつも胸ボタンに掛けていて、おしまい、と言うべきときや書くべきとき、それにふさわしい仕草なんてものの、おしまいのやり方を忘れてしまったので、誕生日とか、夕暮れとか、映画が始まるひと呼吸まえの暗やみ、わざと手放した風船とかを、うまく発音できなくて、たぶん英語が苦手なのも、それが理由で、単語帳にはたくさんの空白があって、綴りがそこにあるだけで、意味が剥落していたから、わたしはいろんなことに絶句で、あるいみ、おしまい、ジ、エンド、ハッピリー、エバー、アフター、なんだろうか、関係ないんだけど、えくすらめーしょん、って呪文みたいだけどいつとなえればいいの? 峠道を追いこしたら、西の海のあたまがみえて、わたしは、落陽のまぶしさをかばったあとに、手のひらで魚をつくり、影絵が水平と夕空のあわいを泳いでいくのです。あれが国だよ、と指した先をみると、レゴで埋めたてた島に、りっばな観覧車があるだけで、王様なんてそこにはいない、きがしたんだけど、だんだん近づくにつれて、橋を超えたり、手づくりのパスポートを提示したりしてるうちに、楽しいテーマソングがながれてきて、わたしたちはわりといろんなことがどうでもよくなって、まばゆい光で、ゆっくりと、夕暮れを攪拌しながら、わたしたちに手をふる、観覧車へ、続く道のりに、情景が吸い込まれていって、あ、わたし、こんなときになんていえばいいんだっけ、って、ウィンドウを下げながらおもったんだけど、変な綴りがたくさん思い浮かぶだけで、まあ、いいや、窓から頭をだして、それをひとつのこらず、ちからいっぱい叫んだのだった。 ていねいにならされた波のうえにいるように、観覧車の箱はゆるやか、スロウに揺すれて、遠い海中に沈んだ電灯の群れ、夕日を手に入れられない海中生物の街に同情している。そしてわたしたちこれからここで暮らしてゆく、って、ちゃんとわかってしまった。王族はシフト制だから、とあなたはいった。これからぼくたちは昇ってゆくのだから高貴に振舞おうよ、たとえ、そののちに逃れられない、下降があろうとも。エンドレスワルツっていうんでしょう、わたくし知っておりましたわ、というと、ちょっと傷ついたように、あなた、わらって、めにみえない王冠をわたしの頭のうえにそうっと載せたので。わたしの、綴れない、あたまの、剥落の中から、ビックリマークが、たくさん、発火、ぷらんくとんみたいに、わたしたちの王室をおよいで、きらきら、きらきら、拍手していた。そんな戴冠式でした。 ---------------------------- [自由詩]レモンの花が咲くところ/コーリャ[2012年1月30日5時48分] ・クリスチャンでない僕らは上手な祈り方を知らなかった。 日曜日になると、僕とレモンは当たりをつけた家を訪れる。金属製のドアノックを叩く。臆病な小鳥が屋根から飛び立つ。家人は不在だ。そういう決まりになっている。僕たちは頷く。芝刈り機の心臓を揺り起こす。 ・時間は掛からない。 小石を取りのぞき、芝を刈り高さをならす、雑種の花はすこし眺めてから毟り取る。窓辺の猫は、その工程を宝石の瞳でみつめつづける。すべて終われば写真を三枚撮る。芝生の写真。レモンの写真。僕の写真。家に帰って日付を書き込み、アルバムに挟む。アルバムを閉じる。パタン。 ・名前は呪いのようなものだ。 あなたにいつも寄り添うくせに、それを必ずしも望んだわけではない。レモンという名を始めて耳にしたあなたは、つづりを訊ねてよろしいですか?と言うだろう。L-E-M-O-Nと彼は仕立ての良い楽器のような唇を動かす。当たり前だ。レモンにそれ以外のスペルがあるはずがない。良い名前ですね、とあなたがお世辞を言うと、彼は笑う。彼はかなりスマートに笑う男だった。 ・彼はあまり自分のことを話したがらない。 とくに家族のことを口にしたのは一度しかなかった。左胸のポケットをいじる手癖をしながら、父親が病気だ、と彼は言った。それはまるで宣告のようだった。「早く死ねばいい」と彼が言い継いだとき、車のヘッドライトがガードレールに腰掛けた僕たちを舐め、深い影を張りつけにした。はまってしまったらどこにも出ることができない落とし穴みたいだった。自分の影に吸い込まれないように、彼は黙って足元を見張り続けた。 ・「私の名前が欲しくないか?」 そう彼は言ったことがある「それなら僕の名前はどうなってしまう?」「紙飛行機を折って空に飛ばすさ。ゴッドファーザーに返すんだよ」名前を交換するというアイディアは馬鹿げていた。僕のそれも使い途がないくらい奇妙だったからだ。「それなら君の名前はなくなってしまうよ」「新しいのをみつけるのさ。もっと良いやつだ」それからレモンは名前を失くした。「どうやらどこかに落としたらしくてね」と彼は言った。ちゃんと探したのか?とたずねると彼はスマートに笑った。 ・僕たちは二年かけてたくさんの芝生を刈った。 そろそろ終わりにしようと彼が言った。たしかにアルバムの紙幅も少なくなっていた。僕はゆっくり頷いた。最後の芝生。風の強い日。雲が早送り再生され、さまざまな生物の架空の進化図を示しながら流れていた。裏庭の一番奥には、小さな物置があり、その屋根に老いた果樹の梢が寄りかかっていた。日曜なのに街は無人だった。猫すらいなかった。不気味で静かな庭だった。 ・刈り終えたころに天気雨が降りはじめた。 早く済ませてしまおう。彼がカメラを手にとる。そこで彼は凍りついてしまう。訝しんで彼の視線を追うと。芝生の上にレモンの実がひとつ転がっていた。なんだ。僕はおもわず笑って彼をかえりみたが。彼は無表情だった。僕は笑いを手早く隠す。彼をスポットライトで当てるように、水と陽光が手をとり合いながら降った。雪みたいだ、と僕はおもった。彼はそんな場所に凍っていった。もし彼が名前をもたなければ、僕は彼をどう呼びかければいい?君の名前は?花の名前は?国の名前は?そんなことばかり僕は考えた。おもむろに彼はカメラをあげる。ピントを震える指で丁寧にあわせて、シャッターを切った。 ・すっかり雪の積もった芝生を彼は歩き始める。 そのたびに、ぼとり、ぼとりと肩から雪塊が落ちる。かがんでレモンを取り上げる。そのまま彼は罰のように雨と光を受けながら、ゆっくりと雪原に沈んでいった。 ・その四枚目の写真を僕はアルバムに収めることができなかった。 彼が望んで持ち帰ったからだ。葬式の日。僕は彼にたずねた。まだあの写真は持っているかい?「焼いてしまったんだよ。すごく細かくやぶいてね。焼いてしまった。親父も焼いてやれるとよかったんだけど」この国ではむしろ火葬のほうが高くつくのだ。そういう決まりになっている。夕方。あらかたの光が紫に色を変えながら死んでいく。射光が低いから墓穴はまるで洞窟の入り口のように暗かった。異教の僧侶の呪文が終わると、柩は穴の中へ、やわらかに吸い込まれた。そのまま彼はかがみこみ、闇の深さをはかるように墓穴に手を伸ばした。何も掴むものがないことを知ると、白い花片が彼の手から離れ、それは棺の額に注がれていき、暗闇といっしょに閉じ込められていった。パタン。 ・"Do you know the land where the lemons blossom?" それから彼がどうしたのか? 新しい名前を探しに北半球に渡ったという噂をきいたが、それは誰にも分からない。一度だけ差出人不明の手紙が僕に届いた。消印のスタンプは、いままで誰も見たことがない国名を表記していた。写真が一枚だけそこに入っていた。山の裾まで続く広大な花畑の全景だった。白い花の群れが溢れる光だったころの思い出を懐かしんでいた。まるで世界の始まりの日に盗んできたような情景だ。僕はその花の名前を知らない。裏面には走り書きで。『レモンが花咲く国を知ってる?』 そう書いてあった。馬鹿にしないでほしい。それがレモンの木の花でないことは僕でも分かる。分かるけれど、なるほど。美しい国だ。僕はその絵葉書に書きこみを入れる。名もない花の国。アルバムの最終ページに挟む。アルバムを閉じる。パタン。 *タイトルはゲーテ「ヴィルヘルムマイステルの遍歴時代」第3巻第1章から。原文は"Kennst du das Land, wo die Zitronen blühn" ---------------------------- [短歌]きみにあげます/コーリャ[2012年7月14日8時50分] あ、あ、って、口のかたち、壊さないで、息を、ゆっくり、吐いて 天使がどこに隠れているかはぐぐれかす 合わせ鏡の一番奥か? 『シャブ、草、LSDに覚せい剤。恋愛だってドラッグなのに 』 地球から 海王星まで 何分で? 五光年すか? 三分でよろ 傷ついた海の景色に建てただろ そのお城のさ お姫様して マイライフ ドラクエみたく レベルとか 上がるといいね 俺は勇者ね さようなら くそビッチども さようなら 夕日で感じたグルーブ感は 助手席に荷物を置いて動かない オーマイゴッドユーハブゴーン!(パクリ どうしても言えない言葉 渡月橋 タオルケットに向かって叫ぶ 切れた凧の糸がハトの群れに持ってかれちゃう そんな毎日 金色を そして僕らが 廊下 好き 覚えてないこと 忘れないこと 西(人名)たちが 東にあつまる 二時くらい 虹をちぎって きみにあげます . ---------------------------- [自由詩]生贄/コーリャ[2012年8月11日19時37分] ・ きみがほめてくれた鼻梁のさきから からだはくさりおちていきます (崖にたつ風車たちがうつろにめをまわして 入水自殺をこころみるたぐいの そうして盲いるときは たとえけつえきに影をながされても 黒人というよりはこくようせき(sic!)にちかい鳥類として うみべを警備しようってこんたん 夜が氷を燃やした火矢を星空に放ちながら 朝にプロポーズするのを 指さし確認する というおしごとをします 世界にはいろんなひとがいますからね なんで生きてるんだろうってひとばっかりですが みえない精霊と手をつないでぐるぐるダンスしつづけることで 神様にちかづいていく そんな祈りかたを いちばんはじめに 祈ったひとをしってますか? 階段の折り返しばしょで なんとなく 神聖にふるまっているのは その踊り手へのあこがれからです ・ ヤクの角でできたカヌーが霧の川をのぼっていくときみたいに いちばんはじめにこの街の匂いをかいだときみたいに あるはずもない天国のことをかんがえています そこにすむ動物の性格 なきごえ にじの色のかぞえかたや あらゆるおぞましい地名 ドストエフスキーはそっちでげんきにやってるか ただ生きてるだけでなにかを盗んでいるきもちになることとか なにもかも なにもかもだった ・ 「やっぱり許されたいから?」 とカーラジオのCMがいった やっぱり許されたいから6月 よぞらにアルミ缶を不可思議個吐きだす自販機とおなじ声質で 踏み切りの遮断機はわめき あちら側とこちら側を すらりとした二の腕でへだてた 助手席になげていたポールモールに手をとる さいきんはどの国でも喫煙者をまるで悪魔の従者のようにあつかうため 喫煙は失明のげんいんになります という警告文と アイスランドで食べるブルーハワイみたいな色をした瞳の男が 異端審問官として喫煙者たちを眺めている めのまえを横断していく 二両編成の列車は 仲良く手をつなぎながら 雑種のしょくぶつがよこしまなことをしている森の奥へと いみもなくわらいあいながら かけこんでいった そのあいだ ずうっと車のラジオは 季節のはなしをしていた レモンを半分にきります 片方はすてます のこったほうを お皿にそえます はいどうぞ これが六月です ということらしかった ・ 神様は ひとびとを、はんぶんこにしちゃったそうである だから私たちはいわば理科準備室の人体模型であり いきることは えいえんに放課後をまっていることにほかならず 立たされたままねむる夢のなかで わたしたちは半身の肌を探しに いつもたびにでかけているんだよ と言った 天国では死んだひとたちが 生きてきたなかで いちばんきれいだった海の話をするそうだけど 海のかわりに僕は、いちばんきれいだった女 の子のことを話すよ と言った あなたが死ぬとわたしも死ぬよ と言った 自殺よくない と言った ちがうの 死んだあなたに殺されちゃうんだ 死んだあなたはわたしのすこしのぶぶんを略奪して しのせかいにつれさってしまうの と言った いまも人体模型たちは せかいじゅうのおおきなまちとちいさなまちを疾走しながら 半身をさがしているんだろうか とは誰も言わなかった そのかわり さよならはちょっとだけ死ぬことだ と誰かが言った もしあなたたちのどちらもただしいなら ぼくたちはさつりくをくりかえすことになり ・ そして、そして、とつぶやく接続詞がむねにやさしくいだくうちゅうに ながれる、ながれぼしはいちびょうのあいだになんども死にながら うつくしかったものをひとつづつていねいに忘れていった ショートケーキでできた地上に アイシングシュガーとして流星群の爆撃はふり注いでいた 大気圏を突破したじゅんから 虹色のばくはつをおこす 戦時中にもかかわらず ひとがしんだりするにもかかわらず 彼女はそんなところからわらいかけてる 流れ星をそのてのひらにうけとるごとに 地平線が歌うみたいに仄かに光る そう 滅びるってこういうこと! 彼女は駆け出す もう うごかないオルゴールみたいな うごかない遊園地の うごかないコーヒーカップに ふたりはのりこむ 聴こえる近さのものでは みんな気狂いのお祭りのようだったし きこえないくらい遠くでは 国がチョコレートととして溶けながら滅亡した かれらはまたどうしようもなく諍う ひとが死んだらどうなるのか? 天国にはいかない もしあなたが死んだら? 天国にはいかない さようならは 天国にはいかない そしてそしてそして きみがほめてくれた鼻梁のさきから 崩落がはじまっていったら すべてのビルがぜつぼうにくずれおちたら ぜんぶのことばのいみがほどけて いっぽんのピアノ線になってしまったら クローゼットのなかには さんかくすわりの天使がいて あなたが死ぬまで歌をうたいつづけたら 素敵だなとおもったのですが たぶん ビルはおもいのほかくずれませんし ことばのいみはわりとちゃんとわかってますし 天使とかいない ピアノもなります きせきとかもない それは絶望とすらよんではいけない 魂とかほんとうはわからない それでも 美しさをぜんぶさしひいたあとの地平に咲いた なにかを 神聖とかんちがいしながら 生贄でもいいから 生贄でいいから 列車のレールは 水底まで届いていたから なすがままに列車たちは みずうみに 音もなくすべりこみ やっぱり 手をつないだまま浮かんで そのまま 空を飛ぶさまざまなものを みつめながら くるりくるりと まわりながら 水没してゆきました。 ) ---------------------------- [自由詩]朝を待つ/コーリャ[2012年9月8日1時59分]  /朝焼けを待つ。そのあいだに。口当たりのいいことばかり。話してしまうのを許してほしい。希望や。理想。その怪物的な言葉たちの。立つ瀬がなくなっていく。冬の夜の海浜の。そこここに。誰にも模写されたことのない。不燃性の生き物たちが身を波に洗わせて。すこしづつ体の色をうすめていく。彼は凍えながらそれを眺めている。吐く息が眼鏡のレンズを。バターでも刷いたようにくもらせるから。動物はみんな機械仕掛けにみえてしまう。ヒトデは。波の白さが。接触しあい。ショートして。エラーを起こしている場所から。気だるげに誕生して。そのままのかたちで。かつえながら死ぬのを待つのだろうし。海岸にしきつめられた岩砂は。いつかの満月よりも。なお人工物らしく。むしろここが月の裏側みたいな。水と砂漠の風物だ。抱きあって無理心中を後悔する海藻たち。砂の小丘に埋まったラジオは。そのまま小規模な音楽をながしながら落城し。無人島みたいに誰もいなかった。海が刺青した箇所をひたすら撫ぜながら。すこし―――。その光を思い出すことがある。暗闇とはいまでもときどき連絡を取り合う仲だ。缶コーヒーはまるで鉄を詰め込んだみたいに冷たい。タバコの匂いがしつこく潮の匂いに付け入る。彼は口当たりよく語りはじめる。例えば。そのあいだに。夜は白という色を。絵画を愛撫するみたいに。すこしづつ繋げていく。薬指はそんなときに役立つ。彼の隣で横たわっている女の髪を耳にかけたり。はずしたり。波のリズムにあわせて。首を緩くゆらしながら遊んでいた。 /その夜がすこし憎い。彼は笑顔のまま凍えている。その暗いことがちょっと怖い。みんなそのまま目を覚まさないかもしれない。その夜が怖い。その夜の廊下が怖い。もうひとりの自分がすぐ後ろにいて。いまにも彼になりすまそうとしている。鳥が眠るのを認めない。ずっと彼を見張れ。白夜のことは好きだけど。実在することは信じていない。その夜になると声がきこえる。その夜の声。頭蓋骨のなかに閉じ込めている。ときどき頭をかしげたときに。その夜が擦過音をたてる。それは砂時計の想像する五分間ににてる。耳馴染みのある夜だった。誰かの声がとどかない場所。その夜の音がたえず命令するので。水滴が水面を打って水紋をつくってなにもなくなるようにたよりない彼は従順に生きてきた。なのに砂時計の砂はなぜか湿って。流れることをしない。なのに。また別の朝はやって来る。その朝は彼らの望んだ朝じゃないのに。彼らの大切なことをなにも知らないくせに。彼らをあまねく照らし救う。そんなのもに捧げたくない。その朝も怖い。夜も怖い。だから彼は口当たりのいい言葉で語り続ける。そうすれば。彼の中だけでは。その夜はちがう夜と連結し。満月を背景に弓なりのシルエットを残しながら。長い列車にでもなってしまう。そんなことを独りで考え。彼は笑った。希望が泣いてる。理想が鳴いてる。などという。口笛もふいていく。  /そのあいだに朝を待つ。冬の遅い日の出を待つ。さっきから海沿いの舗装道路に整列して彼らを眺めていたマネキンたちは。なにかの合図を待ちきれずにいっせいに汀に駆け込みはじめる。 車の通りがおもむろに増えて戦車がクラクションのかわりに空砲を打ちはじめる。それに驚いた飛行機はウィングをなくしたからそのままの加速度で溶いた雲につっこんでいく。朝の早いキャンディ屋がたくさんの飴を投げ込んで塩飴をつくってる。それをじっと見てるだけで。隠しステージにいけるような模様の空飛ぶ絨毯が。誰かの手紙をばらばらと捨てにくる。 また朝が始まろうとしてる。もう世界とは呼びたくないなにか。ただの生きるという発音では適切じゃないなにか。道すがらに誰かと手をつなぎ。手放すこと。それは。薬指の爪先が離れたとき。風に触れたとき。オブラートを舌で溶かすように。混沌の中のみえない一色になる。彼らはどんな顔をして溶けてゆけばいい?疑いようもない朝の光の幾筋に!そしてそれは嘘のひとりごとでしかない。彼は彼だけの言葉で。恐れていたものをなだめ。光を崇める。ということはできないことを知ってる。それは誰かから教えてもらったことだから。もうどうでもいい。とくに。あなたなんかは。それでいいから。だから。返そうとおもったんだ。言葉のほかで受け取ったものも。言葉も。そろそろだろう。起ち上がる。朝は来たが。朝焼けはみえない。老いた羊の群れのような雲が現れ。間の抜けたスロー再生で雨を降らせる。長いあいだ。女は砂に頬をつけて横たわっていた。 落ちた泥まみれ手首を唇にあてようとして。やめる。冷たい鉄が重く。冷たい。誰かが叫んでいるけど。わざと振り返らないで。進む。いまさらやっと海の匂いがする。灰色の海の光と闇の段々がさね。水平線のはるか遠く。白と青があざやかに手をつないでみえるのは幻想だね。風が朝から逃げていきざま、彼の長い前髪を開け放つ。緑灰色の泡立ち。僕の頭のなかで水滴が水面を打って水紋をつくる。体を捨てたあとの腕の温感。少しだけの眩しさ。なぜ光っている?どこが?海。海。海。と口当たりのいい言葉で。暁で空にかえっていくはずだから。望まれない冷たさと角度で。朝焼けはやってくるから。 ---------------------------- [自由詩]大僧正 疾風怒濤するの巻/コーリャ[2012年9月28日22時48分] 大僧正は空になった蜂蜜の壺でさえも大事にとっておいて、名もわからない真っ白な花を一輪、そっと刺しておくような優しい方だが、お金は貯めるし、奥さんはたくさんいるし、けっして、聖人ではなかった。 大僧正は空に羽ばたくことができた。翼があったからだし、魔法もつかえるし、なんだったら、パラグライダーを操ることができたが、神様とかべつに信じてないし、聖書とかもべつに煙草の巻紙にしちゃったりするような、ダメプリーストだった。 それでも空が真っ赤になりすぎて、人々が怖がったときは、どうにかしようとし、皆の衆、聞きたまえ!これは世界の終末ではないのだ。おそらく西のトマト畑でヴァンパイアたちが暴れておるのだ!静まりたまえ!、とかって雄々しく叫ばれた。 でもギャグはウケないし、べつに皆の衆は静まらないから、大僧正はますます自信をなくされ、家にひきこもって、本当は好きでもないゲーテとか読んで、疾風怒濤のときのポーズを考えて独りでウケたりされてる。 なんでもその時は弟子のひとりが金閣寺を燃やしちゃうみたいな夢をみておられたらしいが、そういうところではわりと大僧正はインスピレーション派だ。あるひとりの弟子が鶏をぜんぶKFCに売ってしまい競馬場にいって有り金すべてすってしまったのに、これが真理だ!と叫びながら道場のど真ん中で疾風怒濤のポーズをしているというのだ。 普通の戒律てきには死刑だ。大僧正は惑われた。とりあえず、うむ、ついに、シュトルゥムウントドランクゥウ(声真似)を体得したか、とかギャグを飛ばされるが、やはりウケないし、ていうか元ネタがわからない。魔法をつかったように皆の衆はとても静かにちょっと冷ややかな目でことの成り行きをみまもっている。大僧正はため息をついたあと。石のように沈黙して、わざと鹿爪らしい顔をして、自分の室から白いお花を一輪もってこられ、罪人の頭のうえに、ぽんと載せてあげて、それでお終いにしたのでした。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]しもつき七さんがオバさんになっても(HHM開催にあたって)/コーリャ[2012年11月7日14時54分] ■僕らが17歳だったころ 1971年。17歳の南沙織は「17歳」という、そのまんまやーん!な曲名をひっさげ、鮮烈なデビューをかざる。 そしてその18年後の1989年、同曲のカバーが森高千里によって発表される。これも大ヒット。一気に彼女をスターダムにのし上げた。 17歳という曲名に象徴されるようなフレッシュさとキュートさを、彼女独特の品性でラッピングして、さらに、かわいらしい色のリボンをつけてあなたに捧げるような、名カバーである。 この違ったバージョンの「17歳」にはいくつのかの相違点があり、共通点がある。 たとえば、これはネットで調べればすぐわかることだが、 南沙織の「17歳」は、自らの実年齢を曲名に据えることにより、人物的説得力というような、いわばアイドルに必要不可欠であるカリスマ性を演出することに成功した一方、森高千里の「17歳」も、あたかもそのような効果があるように見えもするが、同曲を歌ったとき、彼女は20歳だった。 そのことを、どのくらいの人が知っていたのだろうか? あるいは、どれだけの人が今でも覚えているのだろうか? ていうか、南沙織のことを今のひとがそもそもどれほど知ってるのだろうか? (じつは僕もこの文章を書き出すまで、17歳は森高千里の歌だと思っていたし、そのひとの存在すら知らなかった。) そしてだれが彼女たちのことを覚えているのだろうか? 彼女たちの歌はなにを残せたのだろうか? いわばそのようなインチキ考古学的問いかけから書き始まる、この文章は、case氏が陣頭に立って指揮しておられる、「HHM」(http://anapai.com/tanpatsu/hhm-kari/)と呼ばれるはずの、過去5回にわたって行われた、「批評祭」(http://hihyosai.blog55.fc2.com/)の意志を受け継ぐ形で、ちかい将来に開催されるはずのネットのお祭りのためにささげる文章である。 そのための参考文献はたいていは、グーグル先生が提供してくれた。 そういうネットの情報の(404の遺跡、403の密林の)「様々な出土品にラベルが貼り付けられ、種類別に区分され、分析が行われる。」 (中国行きのスローボート 村上春樹) 例えば1971年、僕はマイナス17歳であったので、春と修羅の序文に予言される未来人のように、まったく見当はずれな空の地層にスコップを突き立てたあげく、まるで意味のないようなものを、まるで意味ありげに、読者諸兄姉にお見せする、という可能性はおおいにありうる。そもそも死ぬほど長文なくせに、説は偏っていて、内容は全くないだろう。これは僕が予言しよう。 つまり僕は2009年に現代詩フォーラムに初めての作品を投稿した。そのころの記憶も定かでないし、そもそも、poeniqueや、文学極道、未詳24といったサイトの存在すら知らなかった。それより以前の文脈を僕は知らない。それは推測することしかできない。 2012/10/30 21:28:43 ことこ 関係ないんだけど 2012/10/30 21:28:48 ことこ たまに妄想するんだけど 2012/10/30 21:28:51 コリャ うん 2012/10/30 21:29:06 ことこ 地層とかさ、何万年も前の化石とか、掘り返したりするじゃん 2012/10/30 21:29:10 コリャ うん 2012/10/30 21:29:24 ことこ これから何万年も後のひとが、今の時代の情報の地層を掘り返して 2012/10/30 21:29:31 ことこ 研究したりとかするのかなーとか (パイ投げチャット 過去ログ http://anapai.chatx.whocares.jp/ ) いいや、関係なくないのだ。 いわばそのようなことを今からはじめるつもりでいるのだし。だれかがこの文章を発掘してくれるように祈る。なのであるいはこれはお祭りにささげるただの祈祷文かもしれない。 なにれにせよ無駄話が長くなってしまった。本論に入ろう。 ■右肩宣言は敗北したのか? この文章の目的は、HHM開催の動機を詳らかにすることである。なので、事の発端であるところの、ハンサム&ファンキーな右肩宣言から、閲していこう。 右肩(右肩良久)氏は文学極道の古参の書き手のひとりであると言ってもいいだろう。同サイトの年間賞である、選考委員特別賞(2008年 稲村つぐ選)文学極道実存大賞(2009年)文学極道最優秀レッサー賞(2009年 2010年 2011年)を受賞している。 レッサー賞を3度受賞したのは、右肩氏だけであり、その批評の態度と能力に対してはコンスタントな評価が与えられていた。例えば、2010年の年間各賞選評において、浅井康浩氏が彼にたいして、こんなふうに言及している。 「【レッサー賞】 右肩 年間大賞の中で、創造大賞にも、抒情にも、実存にも「右肩」というクレジットがなく、レッサー賞にだけ彼の名前があることを不思議に思われた人も多いのかもしれません。 けれど、右肩氏がレッサー賞に選ばれたことを不思議に思う人はいないと思います。 右肩氏の、なによりも相手に自分の意図を間違いのない言葉にして届けようとする姿勢は、文学極道の中で、光っていたと感じています。 そして言葉選びの厳密さ。 たとえば、「浅井康浩は男か女のどちらかである」という仮定を立ててみます。 こうした言葉に対してのアプローチに、右肩氏はおそらくこう答えるように思います。 「男か女かの二者択一しかないように思えるけれども、 浅井が、男でもあり女でもある(両性具有者や性同一性障害者)である可能性もあるし、男でもなく女でもない(クラインフェルター症候群など)可能性もあるのではないか」と。 そのような視線から眺められた批評は、しんじつ、信頼することのできる言葉となって、それぞれの作品の返信となって現われているように感じます。 」 (2010年・総評その2 http://bungoku.jp/blog/20110606-325.html) 一番最初の投稿は過去ログを参照するかぎり、2008年3月の日付(http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/122.html#20080311_796_2651r)で、レスの文体をご覧になってもわかるとおり、誠実かつ、明晰な、それでいてちょっとやさしいスタンスの書き手だと僕は理解していたし、おそらく氏をご存知のかたの印象もそれからそう遠くはないのではないか。 そんな彼が、2012年10月に、文学極道のフォーラム内にスレッドを立て、その提言が盛んな議論を喚起した。(こんな鑑賞ができたら面白いと思うのだけど  http://bungoku.jp/fbbs/viewtopic.php?t=684) 氏の論旨を意訳するとこういうことになる、 「ネット詩の現状はクソである。なので、良質な鑑賞を産むコラボレーションを、作品に対する言及によって実現せよ」 それまで、細密な論理を展開されていた右肩さんには珍しいわりと大振りな議論である。 ネット詩がクソというのは何百回も繰り返された議論である。しかしこの言説が耳目を集めた理由のひとつには、その主張を「コラボレーション」という、他者の参加をうながす方法を強調したというユニークさにあった。つまり、現状をたしかにクソだと仮定した上で、なぜそのようなことが言えるか?そして僕たちが何をできるか?という質問にたいして、自分のレス、あるいは作品が自己言及てきなクローズドサークルで終わってしまっていることを、問題の核にすえ、交流によって、もっと豊かなネット詩の状況を「あなた」といっしょに実現しようという論である。 その後、このスレッドのトピックは背景としての文脈である、「具体的な鑑賞の方法」に集約されてゆき、その範を示してくれというコメントの要請をうける形で、右肩氏はレスをつけるものの、 「作品の弱点はあげつらわず、作者の意図を受け入れながら鑑賞に徹するつもりで。で、(補足:レスをつけた)結果はどうかというと、作者にも受け入れられなかったみたいだし、自分 の文章をひけらかしに来たように捉える人も居たし(考えようによっては確かにそんなところもあったかもしれない、と反省させられ、非常に嫌な気持ちになり ました)、好意的に捉えてくれた方もいらっしゃったようですが、新たな「鑑賞」は現れず、作品のスレッドはまさに僕が一番嫌だと思う雰囲気で進行してしま いました。 何なんでしょうね、これは。雑誌の投稿欄や、管理されたサイトや誌面では起こりえないことが起こってしまう。僕は一方的な雑誌の編集や、有無を言わさず臭 い物に蓋をする管理が嫌いでこのサイトに来ているのに、結局スタッフに(というかケムリさん一人がやってるんだろうか)頼らなければ収拾できない混乱が持 ち上がるんですね。詩のオープンな投稿サイトがあらかた消えていくのもわかるような気がします。 あるいは、こういう過程で栄枯盛衰を繰り返し、消費されていくのがネットの詩のサイトで、「消費者」はその旬だけを楽しんで食いつぶしていけばいいのか……。 」 というレスでもって、議論は一応の終息をみる。 なんか拗ねちゃったのである。 この顛末をどうみるべきだろうか?氏の宣言は敗北したのだろうか?つまり、論点が具体的な方法論に移り変わっていくすがら、「コラボレーション」という、この宣言で一番ユニークだった筈のタームの比重が軽くなり、「そんなに言うんだったら、じゃあお前がやってみろよ。方法論を提示してみろ」という急戦を仕掛けられ、右肩氏自身が、主論である、有機的な「読者(レス)featuring.作者(作品)」あるいは「読者(レス)featuring.他の読者(レスレス)」のコラボレーションという論に回帰できず(おそらくはその誠実すぎる対応のせいで)、そのまま、失意の内に議論が終わってしまったのは、氏の言説の敗北なのだろうか?右肩氏の宣言は、スモールサイズの栄枯盛衰を繰り返し、そして、消費されてしまったのだろうか? おそらくそれはイエスでもあるし、ノーでもある。前者でありうる理由は上述した通りだが、後者でありうる理由は、それはトピックの最後のレスにある、case氏のレスポンスに見ることができる。つまり。 「右肩さんの今回のご提案に応える形というと大げさですが、 現代詩フォーラムの名物行事、批評祭をcaseが主催します。 そんなわけで、右肩さん、そして今回の右肩さんのご提案にちょっと心揺さぶられた皆さま、 そろいもそろって各々の「批評観」をぶつだけでなく、それに則った「批評」をぶつけてくださればと思います。 ほら、いかさんが良く言ってるでしょ? 「とりあえず作品出せよ、話はそれからだ」的な(てきとー)」 僕がこの文章を書いている根本的な理由はこのレスにあるし、さきほど引用した、右肩氏の「過程で栄枯盛衰を繰り返し、消費されていくのがネットの詩のサイトで、「消費者」はその旬だけを楽しんで食いつぶしていけばいいのか……。」この悲痛な呟きに対しての返答でもある。つまり右肩氏のレス自体が作品であるという意見に同調し、豊かなコラボレーションをうながすようなこと。そんな意図があることを断っておく。 たとえば、ネットの詩という場において、レビュアーという稀有なジョブチェンジを果たした露崎氏(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=228850)は、前回の批評祭参加作品において、こんなすてきなことを言っている。 「批評」や「評論」はともかく、レビュー(感想)は主観に偏ってたって いいし、内容がダメだってそれが自分の受容したことなら胸張ればいいん だ。すくなくともぼくは陳腐なこと書いてるかもしれないけど偉そうに生 きてるわけだし、そこにどんな種類でもいいから熱がちょっとでもあれば それを見てくれる人はいる。 なによりその文章が存在することだけで価値があるとぼくは信じている。 右肩さん、貴方は信じないのだろうか? ■衰退していくものとしてのネットの詩たち なにも、この衰退している、という現状認識は2012年現在の文学極道に限ったことではなく、インターネットを媒体とする詩のメディアにほぼ共通していえることだろうが、有象無象の詩投稿掲示板や、ネットを主体に活動する同人など、その範囲は広獏としていてすべて把握するのは不可能であるので、この文章で言及する(インターネットで鑑賞できる詩とシンプルに定義する) ネット詩のメディアの範囲を設定したい。つまり僕がどこのサイトがかつてほどの勢いが無いとカテゴライズするか、を以下に列挙すると、 1. 現代詩フォーラム(詩人SNS  http://po-m.com/forum/) 2. Poenique(詩のポータルサイト http://poenique.jp/) 3.未詳24(ネット媒体の詩誌 http://ip.tosp.co.jp/i.asp?I=heart_throb_exp) 4.文学極道(詩投稿掲示板 http://bungoku.jp/) 以上の4つのサイトである。 まずこれらのサイトがなぜ、どのように「消費されてしまった」と言えるのだろうか?という問いを設定し、議論をすすめていきたい。現代詩フォーラムは後述することにして、まず2.)poeniqueそして3.)未詳24について言及すると、まずこの両サイトはコンテンツの更新が1年以上ない。もはやアーカイブスとしての機能しか持たない状況である。遺跡と言ってもいい(ただしとてもステキな)。 4.)の文学極道は運営サイドの人材が少なくなったようで、3代目のフロントマンである、ケムリ氏、あるいは他の発起人たちの負担がかさみ、結果的にユニークアクセス数、PV数、投稿数が減っている。コラムの更新が終了し、月間選評がなくなって、右肩氏の認識がどうであるにせよ、失速があることは否めない。 最後に1.)現代詩フォーラムはどうであろうか?現フォは比較的これらのサイトのなかでも堅調を保ってると言えよう、毎日、30〜60の新規投稿があり、それらひとつひとつの記事のアクセス数は知りようがないものの、それぞれの詩に「お気に入りポイント」が投票されている。しかしたとえば年間のポイント順リストを例にあげてみると、2005年(http://po-m.com/forum/menu_p2005.htm)が総ポイント数のピークであり、Monk氏の190ポイント(2012年11月3日確認)は、2011年得票数トップである、吉田群青氏の54ポイントのダブルスコアのダブルスコア、4段重ねのアイスクリームである。 相田九龍氏が第四回の批評祭開催にあたって、「衰退している現状」をこう表現していた。 「2010年1月の9日から13日にかけて、現代詩フォーラムにて第4回批評祭を開催します。 個々の詩サイトは閉鎖的だという論があります。その根拠はそれぞれの詩サイトが限られた利用者による、限られた利用者のための場所であるからという ものです。閉鎖的な場所では議論が閉塞し、それが争いの火種になることがあります。また、インターネット全体を指して閉鎖的だという論もあります。 その論に依れば、現代詩フォーラムも例外でなく閉鎖的です。実際に過去につまらない争いごとが多々ありました。そのためここ数年ぽっちで、多数の良い書き手が現代詩フォーラムから離れていきました。皮肉にもその結果人間関係のゴタゴタが、無くなることはないにしろとても減りました。 しかし書き手が離れることによって、残念なことに有効な批評は減り有効な合評や意見交換も減りました。私はその状況に強い危機感を感じました。この まま詩の現場で詩が語られない状況が続くと、有望な書き手が早々に詩自体から離れ続けることに繋がるのではないでしょうか。そしてその現象は現代詩フォー ラムに限らず多くの詩サイトで起こっているように思います。 その現状を鑑み、このたび第4回となる批評祭の開催を決めました。今思うと、私が開催した第2回、第3回の批評祭も同じような理由だった気がします。」 (第4回批評祭開催にあたって  http://hihyosai.mikosi.com/10/10-53.html) 過去に行われた批評祭もそのような認識から起こったものであった。 ■そして僕はなにも新しいことは主張しない 再度、言い訳のように。この文章は、HHM(仮)を開催するにあたって、その動機、そしてその文脈をみなさまに提示することが目的である。なのでここにある主張は主張の体をなさないであろう。だから僕はなにも新しいことは言わない。そして言えない。 ただ、 「(前略)僕が言うのもなんですが、若い方、色んなことをやってみて下さい。やって失敗して後悔もして反省もするかもしれませんが、あなたにはきっとそれが必要です。失敗の数大会があったらいい線いく僕が言います。大丈夫、やってしまえ。 ということで批評祭の主催者を募集します。無責任に丸投げするつもりは全くないのでやってみたい方は是非申し出て下さい。」 (相田 九龍 批評祭やってくれる人募集中! http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=243871) だとか 「そこで、いかいかさんは考えました。一生懸命メルヘンチックに考えた結果、古参はとりあえず生贄になって、比較的若い人ががんばってほしいという投げやりな 感じになっちゃいました。墓石君に、破片君、yukoさん、黒埼立体さん、藤崎原子さん、雛鳥むくさんetc、と、文学極道で、黒沢、ケムリ、右肩、浅 井、一条、そして俺とか、ゴミクズです、と言ってやってくれる人が出てきてほしいなぁ、と。俺が2chにポエム板に書き込んだとき、全員に喧嘩売りまし た。詩を書いている奴全員に対して喧嘩売るような形で登場しました。2chポエム板は今の極道よりもひどい状況で、ろくでもないスレとろくでもない作品と ろくでもない名無しとコテとレスばかりで、本当にろくでもない奴が拙い文章を晒してもうめたくそでしたよ。それはもう、ありえないほどにね。そして、何人 かの人と仲良くなり、そして盛大に決別したり、自然消滅しました。そんな詩ポエム板にシバン派といわれるものが存在していて、ダーザインやボルカさんと かは知ってると思うけど、もしシバン派のメンツで極道に書き込んだら余裕で優良作品と年間各賞を総なめできる水準にありましたよ。でも、自然消滅したし、 皆、詩を書かなくなっていきました。  めでたしめでたし、なわけねーだろ。ここで終わりたくなければ、必死こいて素晴らしくひどくろくでもないものを作ろうぜ。 だ から、書いてください。だって、感動したいじゃない。感動できる作品を読みたいじゃない。それを読むために、下水管でドブネズミやってゴミを毎日丁寧に読 んでるんですよ。じゃんじゃんもってこい。」 (いかいか すばらしくひどいものたちへ http://bungoku.jp/blog/20111027-368.html) だとか、 「詩のサイトは学校だと思う。教える者と教えられる者が存在する学校だと思う。基本的にはみんなでニコニコしながら、たまに厳しい目を向け合いながら、切磋琢磨するべきだと思う。詩のサイトは学校だと思う。 何考えてるか分からないヤツが学園祭を開いて、少し寂しかったところがパレードみたいに賑やかになって、まぁ苦情なんかも出て、それでも楽しかったなあ、と思ってもらえれば、それで十分。  僕にはたくさんの先生がいて、たくさんのクラスメイトがいて、それぞれ癖があってみんなと仲良くはなかなか出来ないけれど、卒業する気はさらさらなくて、「お前が俺の批評祭だ!」って気になる女の子に言ってみたら、笑われて、このへんで、お開き。  いっつも疲れるんだけど、やり切るって、結構いいもんだよ。」 (相田九龍 学校だと思う http://hihyosai.blog55.fc2.com/blog-entry-133.html) それらの言葉に真に受けて、あなたにパイを投げる人たちは批評のお祭を企画する。それが完全な姿で復活するか?それとも「腐ってやがる早すぎたんだ!」となるかは、It’s up to you!である。 いわば、ネット詩のどの場がどうとかは関係ないのだ。あなたがどこでどんな詩を書いていたか、それももはや問題ではない。これからの話だ。これから、あなたたちが、どんな言葉を捧げてくれるのか。あなたの言葉でどれだけの人が踊れるのか。希望のような絶望のような、あるいは真摯な、あるいはポップな、ネット詩はあなたがたひとりひとりが豊かにしていくだろう、そんな願いが批評祭にはこめられていた。HHMはその意志を受け継ぐものである。はずである。 ■ヘイ、彼女、コーリャをディスコに連れてって 2012年現在、現代詩フォーラムでいちばん「ポイント」を獲得している、たもつさんが、僕らが目にしうる一番最初の批評祭でこんな文章をエントリーさせた。 「僕にとっては何も残らない祭りだった。 最初から何も残す必要などなかった。 常に僕の肉の体がひとつあって どうしようもならない自分がいて そうこうしているうちに 何かは始まって何かは終わる その繰り返し。」 (■批評祭参加作品■第二回批評祭  http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=100262) 2007年、たもつ氏にとって未来人のことはどうでもよかったのだろうか? 2012年、僕はこの文章を読んだ。たもつさんにはなにも残らなかったかもしれないが、僕には残ってしまったのである。 つまり、そもそも祭というものの始まりが終わりの予感をはらんでいるということ。 八田一洋氏は、「そもそも歴史なんてあるのか」(http://www50.atwiki.jp/netpoemhistory/pages/15.html)において「ネット詩には歴史がない」とすら断言する。そしてそれは、ある種のコンセンサスとして成立してるように思える。ヴァーティカルでない場所。反復横跳びばかりで日が暮れる街。 ネットとはいつでもそういう場なのかもしれない。 右肩氏の言説はなにかを残せたのだろうか?相田九龍氏の一連のムーブメントは、ひとびとになにかを継承していくことができたのか?未詳24の更新が途切れた。poeniqueが活動休止している。現代詩フォーラム、文学極道、あなパイも、いつか、そして、まだ始まってすらいないHHMも、いつか、ひとつ、ひとつと重たいドアが閉ざされていく。ぜんぶいつかは無くなってしまう。それからは逃れられないのだ。だけど、だからこそ。 「そういう状況を見て、「停滞している」「何も始まっていない」 などと述べるのは、なんだかそれこそ、 停滞の渦の中にいるんじゃないかな、と、最近思うようになった。 なんだろね、嘆息ではなく感嘆しながら、 「よくこんだけのリセットが繰り返されるよな。」とか、 「よくこんだけ同じような議論がいつも起こるよな」とか、 なんか、そんな、停滞し続けるパワーみたいなものを感じるのだ。 継続にはエネルギーが必要で、 上昇しない螺旋階段のような場所で、それでも同じ場所を回り続ける、 そんな継続が未だに続いている、 なんだかそれって、 じつは凄いことなんじゃないの?って。」 (いとう 停滞が継続していくこと http://hihyosai.blog55.fc2.com/blog-entry-121.html) あなパイは2012年に始まった。そして、その11月。僕はアデレードという、オーストラリアの小さな地方都市でこの文章を書いてる。これを読んでるあなたが、2012年にいるか?あるいは西暦何年を生きていて、どんなサイトを贔屓にしていて、どんな詩を、どんな言葉を書いているか、それはわからない。あなたがどんな「場所」にいるかはわからない。でも、少なくとも、あなたの言葉は、誰かに受け継がれていくかもしれない。 現在、若いといわれてる詩の書き手、たとえば、浪玲遥明くん、藤崎原子さん、そして、しもつき七さんが、オジさんになっても、オバさんになっても、いや、なるときがいつか来る。そのときまで続ける。と、すべての元凶、る氏は一番はじめに宣言した。 「秋が終われば冬が来る ほんとに早いわ」 (森高千里 私がオバサンになっても) 森高千里は22歳のとき、こんな、すこし切ない、まるで、そのまま終わってしまうような歌い出しの詩を書いた。いま、森高千里は43歳。彼女はオバサンになり、むしろ美しさを重ねながら、すてきな歌を歌っている。 まだ始まってすらいないHHMもいつか終わる。そしてネット詩もいつか終わる。でも終わらないお祭りなんてない。森高千里だって、いつか忘れられちゃうだろう。 「まあ私は「批評は作品の餌」って考えにも「批評は作品を殺す」って考えにもある程度与するんだけど、結局自分の書いた文章を人に読ませるってのが破廉恥な 行為だよね、という意識があって、そこからの開き直りとして「同じ阿呆なら踊る阿呆」「阿呆を躍らせる阿呆」でありたいなとは思う。 格好つけた言い方をすれば、作品と上手にダンスしているような、作品と一緒に読者がダンスしたくなるような、そんな文章が理想の批評。」 (case ツイッターから  https://twitter.com/case_ko/status/245729697273630720 https://twitter.com/case_ko/status/245730240532447234) だから、あなたの自慢のダンスを僕に見せてくれないだろうか? あなたが楽しそうに踊れば踊るほど、踊る阿呆は増えていくのだ。 例えばこんな喩えはどうだろうか?しもつき七氏が、あなたに、いつか、どこかのチャットで、こう言うのだ。 20X2/10/30 21:28:48 七 秋が終われば冬が来る ほんとに早いわ 七さんがオバサンになっても、ディスコにいこう。 できるかぎりの大人数で踊ろう。お祭りをしよう。ボリュームをあげよう。 できれば未来まできこえるように。 ---------------------------- [自由詩]世界の終わり/コーリャ[2012年11月14日18時52分] 弟のプリンを冷蔵庫から盗む。鳥の名前にやたら詳しい。血液型が気になる。勉強ができない。(世界の終わり) 遅刻する。早退する。ブッチする。君に会いにいく。電車のドアが目の前で閉まる。(世界の終わり) 「蟻の巣にさ」「うん」「溶かしたアルミニウムを流し込むのね」「えげつな」「でも、キレイなんだよ」「うん」「ビルの化石みたいでさ」「うん」沈黙が実はキライじゃなかったりする。(世界の終わり) 蝶を原に放つ。シマウマを塗り絵にする。月光が自販機に落ちてる。天使についての歌を口ずさむ。(世界の終わり) カブトムシになりたかった。船乗りになりたかった。通訳になりたかった。 詩人になりたかった。(世界の終わり) ビッチのあの娘はカポーティを借りパクした。「遠い声、遠い部屋」(世界の終わり) 光る。回る。自転車のスポークス。坂道をくだる。先月の移動遊園地のポスターをはがす。(世界の終わり) 決まって深夜に出発する。助手席にカバンを置く。なにも終わらない。なにも始まらない。環状の橋を越えつづける。朝にはまだ時間がある。タイムスリップしちゃいそうな。濃い霧の先。(世界の終わり) いつもの散歩道に花が咲いてた。(世界の終わり) 流れ星はあまり見たことがない。どこからか懐かしい匂いがする。振りかえる。シーンとしてる。フードをかぶる。冷蔵庫の扉はパタリと閉める。(世界の終わり) ---------------------------- [自由詩]走れ私/コーリャ[2013年3月5日2時35分] 私は歓喜した。私は恋愛がわからぬ。私は非リアである。詩を書き、文学を読んで暮らしてきた。私は硬派である。コーヒーはブラックしか飲まない。そんな私が女子から一粒のチョコをもらった。オリゴ糖入りで頭がすっきりするという。口に含んだら甘やかに溶けていった。頭がすっきりした後、私はうれしがっていて、あまつさえ女子のことがすきだ、と気づいた。私は深く恥じ入った。 どうもさいきん頭がすっきりしないので、件のチョコを購うためにampmに入った。似たパッケージが陳列されているなか、そのチョコは売られていない。それから、セブンイレブン。ポプラ。デイリーヤマザキ。二件目のセブンイレブン。サンクス。そして二件目のサンクス。どこにも売られていない。私は疲弊してきた。頭がどんどんすっきりしなくなってきた。ならば、と思って、イオンに行った。見当たらない。けばけばしい極彩色の製菓が虹の光線で私の目を刺す。担当者にたずねると、静かに首を横にふり、私はこの道に入って長いが、そんなものはきいたことがない、と言われた。実在しているのか?とすら言われた。実在しているのか?だと。頭がどんどん甘やかになって、すっきりしなくなってきた。 オリゴ糖入りのチョコはどこに売っているのか?女子にメールをしようとおもってiPhoneを取りだす。日付けが目に入る。2/14である。ヴァレンタイン……。頭が甘やかになり、くらくらしはじめ、私はなにかに恥じ入った。連絡先をスクロールするが、女子の名前が思いだせない。さ、し、し、し、女子、違う、し、す、せ、せ、せ、聖ヴァレンタイン、違う。iPhoneをしまう。頭が疲弊してきた。実在しているのか?だと。違う。チョコだ。私はサンクスに駆けこむ。虹色の製菓が笑いさざめていている。実在しているのか?違う。iPhoneを取り出す、さ、し、し、実在しているのか?違う。頭がもっと甘やかになる。甘やかになった頭のなかで製菓担当が首を横にふりつづける。セブンイレブン。ポプラ。聖ヴァレンタイン。メールだ。違う。実在しているのか。ポプラなんか実在しているのか。違う。iPhoneをしまう。そうだ、チョコだ。そうだ、メールだ。iPhoneを取りだす。さ、し、女子。違う。さ、し、す、す、す、すき。違う。さ、し、す、す、すき、すっきりしたい。違う。頭が。虹が溶けていった。違う。さ、し、す、せ、そ、そうだ。チョコだ。チョコが女子なのだ。製菓担当が首をよこにふる。違う。チョコの実在をたずねるのだ。そうなのか?私は首を横にふり、スクロールする。さ、三件目のサンクスに駆け込む。さ、し、し、し、女子。違う。さ、し、す、す、せ、せ、せ、セックス。違う。違う。違う。私は純粋だ。私は硬派だ。私は聖ヴァレンタインだ。違う。私はサンクスだ。違う!私はなにをしているのだ。わたしは、わたしは、わたし。わたし、し、す、す、せ、製菓。そうだ。製菓コーナーだ。さ、し、す、せ、せ、聖歌コーナーで、チョコたちが歌をうたっている。虹色の光線のなかでチョコたちが。虹の歌。そうだ。チョコ。あ、チョコ、チョコ、チョコ、あ。あ、あ、あ、実在し、し、し、ていた。うれしい!うれしい!チョコたちが歌をうたっている。実在していた。私は実在しながら虹色の歌をチョコたちと共にうたいはじめた。 オリゴ糖入りチョコを購い。その場でパッケージを破る。一粒、口に含む。甘やかに溶けて、だいぶ頭がすっきりした。レジ待ちの客が訝しげにこちらをみている。あ、違います、違うんです。私は硬派なんです。と私は言う。レジの担当者が、いいからはやく帰ってください。と私に言い放つ。私は深く恥じ入った。 ちなみに、その後、メールは一通もこない。連絡先も見当たらない。女子は聖歌コーナーで虹色の歌をうたっているのだろうか?そして私の頭のなかでは、聖ヴァレンタインが静かに首を横にふりつづけている。 ---------------------------- [自由詩]軽口/コーリャ[2013年9月18日2時02分] 新しいノートを開いて。さいしょのページだけ。きれいな字を書くようなひと。僕もいっしょだ。 サイドミラーに映った、中華門のおおきな金文字。鳥居っぽいね、話しかけると。となりでは眠るひとがいた。遅いな、とおもった。38度。暑すぎて、透明な鳥が光の群れではばたいている。 友人は、ついさっきですね、強盗をね、ちょっとしてきたところなんですよ、と、いわんばかりのたくさん小銭の入った袋をかついでいたのに、(たくさんのエリザベス女王たちが、それぞれの年代に応じて雅にする微笑み)銀行からでてくるときは、お札を何枚かぺらぺらしていた。このスキルを世間では両替という。$634もあったんですよ。スカイツリーといっしょですよ。といって。銀貨でできた塔を発見したみたいに笑った。 ですからね。とさっきまで眠っていたほうの男は、会津弁でしゃべるときのように、言葉を北風にとばされないじゅうぶんな速度をたもちながらいった。逆銀行泥棒はスーパーに買い物にいった。僕らはショッピングセンターのベンチにすわって涼んでいた。待ちぼうけ。「ですからね。可愛い。なんていうのはよくないす。美人。っていえばいいす」僕はちょっと笑ってしまう。「なんでかというとすね。可愛い。なんてゾウにもいえるす。なんでも可愛くなるす。そうじゃないす。美しいす。」「じゃ、きくけどね。美しい、ってなんなの?」目の前の特設ブースの天井だけ、なぜか雨漏りしていて、誰かを呼びにいったのだろうか、その場で脱ぎ捨てられた着ぐるみは、まるで今までの人生すべてが失敗だったかのように、うなだれていた。落ちる水滴はリズムにのって、白いバケツへと集団自殺的な飛込みをつづける。みているだれかが涙をながしてしまうような、かなしいやりようが、いつまでもみつからないまま、飛び込みつづけた。 じぶんがそんなにかわいそうですか? 僕、革命しますよ。と冗談をいうと、タバコをまぜるのがヨーロピアンスタイルや!でおなじみのR氏は革命をするとしたら、どえらいトンネルを、地球のコアに貫通させて、ブラジルまで二時間で到達できるインフラを整えることを公約してくれた。マグマの海中クルーズ。サブマリンに乗って。透明な怪獣にも会いにいけるかもしれませんね。というと。 透明なねぇちゃんもおるがや、透明なデートや、服を脱がさなくていい、そもそも透明だから。といってみんなを笑わせた。 (街をそうように生きてきたから。これからもそうする。ぐるぐる回る。ひとつのコースばかり走る仮免運転の助手席で、プラスチックカップのなかの氷がいくつか溶ける温さにさだめられた。夏時間の熟した夕暮。ジャカランダの花冠の紫が、いろのある陽光に騙されて、桜色に変わり果てて、それが、夏なのに、並木道で、ゆっくりと、みずからちぎって落とす花占いを、窓から首をだして見上げた僕は錯覚しつづける。(北半球だけが皮むきされて (AとBが双子のように交差したそばから入れ替わり(愛の「あ」と「い」がお互いの向こう岸から。(やさしいこと。降って。半袖と半ズボンがはばたいて。弱いこと。罪深さ。風が咲いて。手をのばす。花が。 過不足ない錯覚。なにもかも? 夜の窓辺が明るい夢を見ている。どこまでも書き綴られることにいみなんてないことが分かったノートは窓際の風にあおられて、一枚、一枚はがしていく自分たちが時のすばやさのなかに・・・・・・? こころや過去 No man is an island. とおくにみえる 漁火が。) そして朝がくると昨日のことをぜんぶ忘れてしまう。夢の破片がくだけちるのをみつめながら目覚める。日課のジョギングをする。僕は走る。走る。走る、が、走れ、にかわる。走れ。僕は走れ。心臓が溶けるまで。僕は、僕を、けしかける。息を、吐き切りながら。かんがえる。僕はいま直線だ。直線的に、あなたに、向かってる。もう二度と、会うことのない、あなたや。名前も、顔も、まだ知らない、あなたへ。あなた、あなた、と、走れ、走れ。だれでもない、あなたへ。強く。 ・・・・・・そして絶句。とりあえずの結末。ノートを最後まできれいな字で書き終えたことがないように、きれいな終わりなんていちども出会ったことがない。だからせめて最後には、透明な怪獣への手紙をきれいな字で書こうとおもってる。透明な挿絵だってそえる。透明なデート。したいな、みたいに。心のなかではいつも冗談をいってる。破ったページでつくった紙飛行機が世界の透明に隠されていく。そんな冗談。もう二度とだれかのために詩なんて書かない。ぜんぶ愛していたよ。憎むことはあったけれど。それも、もちろん。冗談だけれど。さようなら。 と汚い字で書いた。 ---------------------------- [自由詩]げんかい/コーリャ[2014年9月29日20時51分] わたくしは わたくしに命令する みろ あからさまに すべての理知的なリズムが 生き死にちかづく様を 眩しさの 言葉の 世界の それぞれの海に よせてはかえす波に わたくしはなすすべもなく 沖へと流され わたくしは わたくしに命令する あからさまに それぞれの海に よせてはかえす波に 命令する みろ なすすべもなく 理知的なリズムが 言葉の よせてはかえす波に ちかづく様を 世界は 命令する みろ 眩しさの海は 命令する みろ 沖へと流されながら 世界は 言葉のそれぞれの波を あからさまに みろ すべて生き 死に ---------------------------- [自由詩]批評/コーリャ[2016年11月15日16時48分] 藝術としての詩とは生きるうえでわきあがる言葉のことだ。本当の批評は生に向かわせる。 批評は相手を必要とする。誰にもきかれない批評は批評と呼ばれない。批評は相手とその周縁を必要とする。その総体に向かって、生きるうえで感じることを、とにかく誰か相手に伝えることだ。 だから、 呪いは批評ではない。むしろ逆のものだ。 批評はことほぎだ。 生は、相手を必要とする。その周縁を必要とし、言葉はそこで生まれて育つものだ。 そして、詩は、藝術は、その周縁や、その相手と、育てるものだ。 批評は、詩であるし、藝術だ。 本当の言葉は、生に向かわせる。 死や、存在しないということは、批評の対象にならない。 批評は、どうしても生を前提としているから、 その相手と、その周縁と その周縁を、その相手と どうしても、生きるということ、 生きるということや、生まれてしまったということ、 言葉が生まれるということ、言葉が死ぬということ、 感じるということ、世界ということ、 周縁や、生きるということ、 その相手と、生きるということ、 感じる、生きるということ、 に向かわせるのだ。 ---------------------------- [自由詩]友のうた/コーリャ[2019年6月22日14時41分] カレンダーを これから旅立つ友だちにもらって 廊下にかけた それは ラウンジの一人がけのソファに座ると 真正面にあって ふとスマホから目を離したりすると かつては真っ白な壁だったところに なにかあるなと思って いまさらのように気づく それは日本の心 富士山と題された 富士山をあらゆる構図で収めた 美しい写真のついたカレンダーで なんとなくダサいが やっぱり富士山はキレイだ 酒好きだった友だちと一緒に買った ウィスキーをロックで注いで 傾ける ふとカレンダーが目に入り それを火がつくまでみつめる 2月は28日までだったんだね そんなの当たり前のことで 富士山はキレイで 人とはお別れしなきゃいけない そんなのは当たり前のことで 強くなきゃいけない 美しくなきゃいけない 人に優しくなきゃいけない 大人だから なにもかもに 責任をもたなきゃならない 夢を見ることや いつか死ぬこと そんなのも 当たり前のこと 神さまが 僕らに足をくれたのは まだ見ぬ世界を進むため そんな当たり前の いろいろのことで 僕らはできてるのに 風が吹いて カレンダーがめくれるうちに なにもかもすっかり忘れて ほんのすこしの 忘れられないことだけを思いながら ぼくらは生きていくんだ ---------------------------- [自由詩]Line/コーリャ[2020年5月3日10時01分] 今日は 楽しかった みんな またね って言って 僕は 終電に走る なんとか 間に合って 来ていた LINEを 返す みんな ありがとう 出会えて よかった そしてスマホを カバンにしまって 地下鉄の 白い壁を 見守る 隣では アジア系の 英語の声 まもなく 最終列車の 到着でございます お乗り遅れの ないように ご注意ください 電車がきます。 が灯って 1番到着しました 最終列車の到着でございます この 電車に 僕は 間に合ってよかった 相変わらずの アジア系の 英語の会話 door on the right side will open 光が いくつもの光が 流れていき 中野坂上 中野坂上 一番線お待たせしました 都庁前 最終列車でございます エスカレーターは 緊急停止することが ございます ご注意ください ご注意ください みんな ありがとう お降りの際は 足元にご注意ください エスカレーターは緊急停止することが ございますし 丸ノ内線は 終了いたしましたが Marunouchi Line wasn't finished Yes It is finished for today But 僕たちは まだ どこかに 続いている ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]広くて静かで誰もいない/コーリャ[2021年5月27日14時59分] 「あれからどのくらいたつの?」 「もうすぐ3年」 「ちょうどこのくらいの時期だったね」 と言って彼はガラスの外に目を移した。 人びとが川のように行き交っている。 俺もそれを眺めた。 「まだハガキは来るのか?」 まだハガキは来る。たいていは絵葉書だ。この時期には、夫婦で揃って旅にでかけているようで、気持ちのいい景色の写真が載っている。空色の海原。広大な花畑。大きな時計塔。端正な筆致で、時候の挨拶から始まり、申し訳にこちらの近況を祈る文句で締められる、お定まりのテンプレートに沿った以外のことは何ひとつ書いていない。 「来るね」 「そっか」 彼はコーヒーカップを上げて下ろす。俺もつられて上げて下ろす。店内のささやかな喧騒が聴こえている。 「今年も行くんだろう」 「そうだな、多分」 「あそこは、町から離れた、気持ちのいい場所だから」 彼は顔を背けたままで言った。 「そうだね」 外では人の川が絶えず流れている。それから、俺もずっとそれを見ていた。 花束を買ったあと、駅まで来て、大きな葉脈のようにかかげられた路線図を眺める。値段を確認して、切符を買う。子どもの頃はすぐに切符を失くした。今になっても、その頃のことがどことなく忘れられずに、ポケットに入れた切符を固く握っている。ホームに立って、街を眺める。ビルや家屋、その音や空。どこかへの急行が過ぎ去る。人びとは一様に、同じ方向を向いて立ち、何かを待っている。ほどなく列車が来る。それに乗り込む。ずいぶんと空いている車両だが、俺は座らなかった。そのかわりに、窓際に立って、過ぎていく景色を、なんとなく眺めた。 終着の数駅手前で下車する。降りるものは俺だけだった。いつもここでは同じ匂いがしている。そしていつもここでは同じ季節だ。周りの風景もだいたい同じで、時そのものが保存されているように感じた。改札を抜ければ、迷うことのできないような構内で、外に出ると、バス停と、数台のタクシー。最初の車両のドライバーは、新聞紙を広げているが、その後のものには、誰にも乗っていない。日差しがすこし強くなってきていて、周りが眩しくて、すこしぼうっとする。停留所のベンチに座る。 バスの中には、同じくらいの年頃の男女の子どもが、最後部で手を繋ぎながら眠っている。運転手はときどき言葉ではないようなものを呟く。今度は腰を下ろした。ただ、景色を眺めていると、さまざなことをとりとめもなく思い出す。思い出は、俺だけのもののはずなのに、俺はそれが俺の体のどこから湧き上がるかを知らない。遠くに見える山並みや、光景を渡る風には、思い出はないのに、俺はそのことを思う。バスはガタガタと揺れながらカーブを曲がり、道を走り続ける。俺は肘を窓枠について、ただ運ばれていく。俺は運ばれ、世界に置き去りにされない。思い出だけが、そこに永遠のように留まっている。俺はあるところで、ボタンを押す。タラップを降りるときに、チラリと最後部を見たが、子どもたちは、初めにみた時とまるで同じように、眠り続けている。 バスが去っていく後ろ姿を、見つめて、また歩き出す。とても静かな場所だ。静かで広くて何もない。石たちが林のようにどこまでも立っている。空がさっきよりも明るくなって、潮の匂いがする。俺はだいたいの見当をつけて歩きながらあなたの名前を探す。遠くで煙が上がっている。見知らぬ名前をいくつも行き過ぎて、あなたの名前の刻印を見つけて、止まる。世界が風を運んでいる。俺は何も思うことができない。空から降ってきた光が墓石をゆくりなく照らしている。俺はしばらくして、手を伸ばして、触れた。涼しくて硬い。俺はそのままかがんで、花束を置いた。こんなことになんの意味があるんだろう。 「あなたが、こんなところに眠っているとはどうしても思えないんだ」 「人はあなたが死んだというよ。あなたがもう世界のどこにも、存在しないと」 「だけど、あなたは、俺のなかでいなくならない。あなたは、笑ったり、泣いたり、詰ったり、励ましたり、望んだりする。あなたの肉体は、砂になったり、海になったり、温度になった。それでもあなたはどうしても滅ばない」 「思い出が、俺の中にないように。世界が、俺の中にないように。あなたは、生きているんだ、俺と、世界と」 いつか、あなたは、広くて静かで誰もいないところに行きたいと言っていた。それでも、あなたは、こんなところに眠っていないだろう。あなたは、流れている。俺も、きっと、流れている。俺たちは、運ばれていくほかないんだ。それが存在するということで、それが生まれてきたということなんだ。俺は、また、人びとの中に帰る。あなたが、どこに帰るか、俺は知らない。思い出が、どこに帰るのか知らないように。世界が、どこに帰るのか知らないように。俺は知らない。ただ運ばれるだけだ。あなたが永遠になってしまったと人は言うよ。あなたが季節を重ねなくなったと。俺はそんなことを信じないんだ。永遠なんてなかったんだ。どこまでも、あなたは、運ばれていく。運ばれていってしまうんだよ。俺もそうだ。みんなそうだ。だから、いつか、離れてしまうときに、小さく、小さくなったとき、あなたは、ようやく辿りつく、本当に、広くて、静かで、誰もいないところに。いつか、あなたは、そこに辿りつく。でも、それは、そんなにすぐじゃないんだ。あなたは、長い流れのなかで、ゆっくりと、みんなと同じように、運ばれて、運ばれて、いくしかないんだ。 ---------------------------- [自由詩]バスが来る文体/コーリャ[2021年5月30日8時40分] やはりまず書くことが大切なのだ。例えばきみは、詩を書こうとしている、お話を書こうとしている、批評を書こうとしている、哲学を書こうとしている、文字を書こうとしている。言葉は、始まりがあって、終わりがある。それは序列になっている。それは過去と未来がある。それは出来事である。それは身体を伴うことである。それはバスを待つことに似ている。冬は終わろうとしている。向かいのホテルのバルコニーでは酔っぱらいの男女が笑って話している。隣のおじいさんは家に電話している。過ぎ去る学生たちが異国語を話している。いつかバスは来るだろう。そしてきみは、バスに乗るだろう。過ぎ去るカップルが異国語を話している。隣には水を飲むダブルデニムの男がペットボトルをポッケにねじ込む。向かいのゴミ箱にはたくさんのガラクタが捨てられる。春が地平線の彼方に待っている。バスはまだ来ない。未来はそこに行くまで来ない。それは身体を伴うことである。それは出来事である。冬は寒くてみんな震えている。でももうすぐ春が来る。ぜんぶぜんぶ始まりがあって、終わりがある。きみは文字を書こうとしている。哲学を書こうとしている。批評を書こうとしている。お話を書こうとしている。詩を書こうとしている。 ---------------------------- [自由詩]光色のコークレッスン/コーリャ[2021年5月30日8時47分] もう何も書くことがなくなってしまった。と書いたら。書くことが始まる。書くことは終わらない。書くことは続いていく。たとえば、君が思いうかべるいちばん青い青よりもすこしだけ青い、青空を想像してほしい。その青空はどこまでも続いていく。そしてその青空を、よく見れば、すこしずつ移り変わる青色のグラデーションで出来ている。その青の始まりや、終わりのことを考えてほしい。なにがいったい終わるんだろう?そして、なにがいったい始まるんだろう?その青のいちばん青いところから、白が始まる。たとえば、君がおもいうかべるいちばんの白い白よりも、すこしだけ白い、砂浜を想像してほしい。その砂浜はどこまでも続いていく。そして、よく見れば、ガラスで出来ている。とても小さく細かいので、よく分からないが、いつかこなごなにしてしまった思い出の欠片で出来ている。その、君がおもいうかべるいちばん白い砂浜よりもすこし白い砂浜と、君がおもいうかべるいちばん青い青空よりもすこし青い青空は、すこしずつ移り変わる、思い出のグラデーションで出来ている。なにがいったい始まるんだろう。そして、なにがいったい終わるんだろう。光はどこから来るんだろう。思い出の光のグラデーションがある。そして、今、ここに降る光のグラデーションがある。それは、今という、未来に向かう、グラデーションだ。未来と、さっきの海浜を想像してみてほしい。その光景のグラデーションで、今が出来ている。(今、テレビでは、クリケットのプレビューが流れている。ボールが高くあがる。カウチ脇の窓から、飛行機が果てしなく飛びさる音。誰かのFacecook-Messengerの着信音。もう一本、ただの煙草を吸って、探偵のように、飛び出すつもりだ。)未来にも、降る光のグラデーションがあるように、そして、それもいつか思い出のグラデーションになるように。今は、今が、思い出と、未来の、グラデーションになるのを見つめている。それは煙。それは団欒で、ひとくくりの日常だ。そして、それは終わらずに続いていく。そのグラデーションを見つめれば、光の欠片で、始まらない今で、終わらない今で、もうそれからは何も書くことがなくなってしまうような、さっきの海浜からゆくりなく続いていく、光あふれる光景だ。 ---------------------------- [自由詩]越冬/コーリャ[2021年5月30日8時49分] 越冬のことはなにもいえない あれから僕の身体には青空が広がっていて 雲もない なにもない 誰にもなにも いいたくなくなってから 人の言葉が まるで湖のようにきこえる 僕は両手を いっぱいに広げて 湖面すれすれを横切るすがら 青空がまた広がっていくのをかんじる そして僕ははなすというよりうたう 意味というより音のために 青空の高いところでは 強い風がふいて 僕は両手いっぱいに広げて バランスをとる 減速し 翻り 加速する 加速するたび 僕の中で青空が広がる そして僕は加速して なにもいえなくなり なにもきこえなくなる ---------------------------- (ファイルの終わり)