佐々宝砂 2006年11月27日23時38分から2007年2月19日16時51分まで ---------------------------- [自由詩]創書日和。白 【ながい首】/佐々宝砂[2006年11月27日23時38分] きみの首はしろくてほそくて 手折られるのを待ってる野菊の茎 だなんて 心底バカ丸出しな手紙を見つけて 真夜中にひとり わたしはけらけらわらった ああそうなのねそうなんだ だからあのひとは 今ここにいないんだ そういうことなんだ なんだなんで気づかなかったのかな わたしって本当にバカ しろくてほそい首の持ち主を ねえ わたしよく知ってるよ あのこわたしの妹だもの あのひとは知ってるかなほら わたしの首もしろくてほそくて しかもあのこより熟してるんだから だから秋の夜のしめった風の中 わたしの首はするりと抜けて くるくると白い螺旋巻いて あのひとのもとまで飛んでゆく わたし飛頭蛮 あのひとのもとまで飛んでゆく ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]眠れぬ朝に実験する(親指1000字エッセイ)/佐々宝砂[2006年12月3日8時24分] 睡眠薬服んだのに朝になってしまった。眠るの大好き、夜の夢大好きな人なので不満である。眠れぬ夜は本を読む習慣だが、眠れぬ朝はどうしたものか。私の枕元の本はみなホラーで、朝の光に似つかわしくない。悩んだ挙句、こうして携帯で散文を書いてみている。個人的にはじめての試みだから、一応実験だ。 文章というものは、何を用いて書くかによって変化する。少なくとも私の場合はかなり激しく変化する。句会で筆を使わされたときは、つい書きやすい文字を選んでしまった。一般的な原稿用紙を使うと、まのびする気がして外来語が減る。ワープロの使いはじめは漢字が増えた。IME、ATOK、ことえりなどなど、どの日本語変換システムを使うかでも違ってくる。漢字の選択肢がかわるし、予測変換を使えば語彙すらかわる。 表面的にすらそんなふうに一転二転するのが私だ。いったい私に核はあるのだろうかとふと思うが、特に不安はない。 私の奥に何があるか私は知らない。所詮そこらで拾い集めたガラクタだろうが、なんか危険物でもあると楽しいなあ。そんなことを思ってこれを書きはじめたのだが、どうも今朝の携帯には危険物が隠れていないようだ。残念無念。 ---------------------------- [自由詩]口唇期/佐々宝砂[2006年12月3日9時05分] あなたはわたしのものではない わたしはあなたのものではない うそぶく唇にくわえる煙草はバージニアスリム 煙草を吸うやつは口唇期から抜けてないんだぞと 嘲笑ってはみたが おれも喫煙者だから薮蛇だ 口唇期の精神的幼児どうしヤニくさい舌を絡めて 朝日のなか崩れくずれ どこまで堕ちるかしらないが 女はゾンビみたいに何度でも復活する 地の底で腐敗したおれを見つけたら そのでかい口でおれを残さず食ってくれ 約束だ 今はおれがおまえを天に飛ばしてやるから ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]異形の詩歴書 高校編その3/佐々宝砂[2006年12月17日22時18分]  トシを隠す習慣は私にないのでちゃんと書くが、私は1968年生まれ。だから私が16歳だったのは1984年のこと。ジョージ・オーウェルの年。そのころ、静岡の片田舎にコンビニはない。ファミレスもない。モスバーガーもマクドナルドもない(ミスタードーナツだけはあった)。携帯もない。プレステなんか1も2もない。ファミコンすらない。パソコンはあるにはあったが、当時私に触ることができたのはBASICのちゃっちいパソコンで、パソコン通信は完璧にマニアだけのもの、当然インターネット環境があるわけもなく、情報の入手先はもっぱらテレビとラジオと新聞と雑誌。一般的にはテレビだ。田舎とはいえ、テレビ東京以外のテレビ局はちゃんと全部見ることができた。だからこそ、田舎にもオタクは誕生しつつあったのだが、私を含め、田舎に住んでるオタクたちは、イデオンに熱狂しガンダムに夢中になりザブングル(笑)まで見ておきながら、自分たちがオタクであるということすら知らなかった。とりあえず、そんな時代である。時代のことを思い出すのは、手がかりさえあればむずかしくない。  しかし、16歳だった自分を思い出すのはむずかしい。私が詩(らしきもの)を書き始めたのは確かに16歳のときなのだけれど、なぜ書き始めたか、実は自分でもはっきり思い出せない。ジム・モリソンの歌詞を翻訳してみたのが詩を書き始めたきっかけだと以前私は書いたが、自分の日記を調べてみたら、どうやら私はジム・モリソンを知る前に詩(らしきもの)を書いている。しかもいきなり散文詩(らしきもの)だ。「所有者」というタイトルの、400字に満たない、暗い、核戦争もの(笑!)。とにかくそれが、宿題以外で書いたはじめての「詩らしきもの」である。だが、「所有者」は、散文詩として書かれたものではなかった。私は最初の詩(らしきもの)を、ショート・ショートのつもりで書き始めたのだ。  ショート・ショートらしきものを書き始めたきっかけなら、覚えている。新井素子と岬兄悟の影響で書き始めたのだ(ここはまだ笑うとこではない)。1981年のSFマガジンに新井素子の「ネプチューン」が掲載されたとき、私はほんとに熱狂的に新井素子の物語が好きだと思ったけれど、ちょっとびっくりもした。新井素子的な「あたし……なんです」という女性一人称口語体の文章は、宇能鴻一郎の専売特許だと思っていたので(ここは笑っていい)、自分が日記に書いてるような文章で小説を書いてもいいのだということを知って、かなり、おどろいた。同じころ(か、ちょっとあと)、岬兄悟の『瞑想者の肖像』がハヤカワ文庫から出て、私はほんとーに熱烈に岬兄悟の不条理なアイデアが好きだと思った。けれど、巧いとは思わなかった。それどころか、ヘタな小説だと思った。  それでも、1981年13歳の私はまだ素直に「面白いなー」と思って読んでいたのだが、1984年16歳になった目で見ると、やっぱ頭に来るのである。なんでこんなにヘタクソなのに原稿料とるのや。しかしアイデアはよい。物語はすてき。ああ、でも文章ひでえ。でも面白い。でもこの文章ねじれてる。これなら私の方が文章巧い。でもこの小説楽しい。ああ腹立たしい。そこで私は考えた。小説や詩は、神様に選ばれた特別な人が書く特別なものだ。しかしSFやショート・ショートは違うのだ、アイデアさえ凄いなら、物語さえよくできてるなら、文才に乏しいフツーのヒトが書いたっていいのだ、ならばあたしが書いたっていいのだ!(ここは嘲笑ってほしい)  かように滅茶苦茶な理屈を前提に、私はまずSFショート・ショートを書き始めた。トラウマ持ちのイデオン好き根暗SFオタク娘が「ヘタだっていいのだ!」と開き直って書くショート・ショートだから、中身も外身もしっちゃかめっちゃか妄想全開。しかし私の妄想は、なぜか恋愛やセックスに向いてゆかなかった。まして日常的なものには向かなかった。そんなもの、どうだってよかった。私はひたすら非日常の雰囲気をつくりだそうとした。私のショート・ショート世界では、世界大戦がビシバシ起こり、独裁者がガンガン演説し、地球がボンボン破裂し、宇宙がバンバン割れ、次元がぐるんぐるん裏返り……しかし、実際のところそれらは、ショート・ショートの体裁をなしていなかった。世界がぶっこわれる状況だけがあって、物語がない。ヤマがない。オチがない。イミがない。いわゆる「やおい」とは別物だが、作者の快感原則にのみ基づいて描かれる、いー加減かつテケトーな作品という意味において、当時の私の作品群は、全くもって「やおい」そのものであった。正直、ひどい出来だった。  ところで、無責任に断言するが、ヤマなしオチなしイミなしの垂れ流しが新しかったことなど、ない。そんなもん、いつの時代も、どこかにあった。みっともなくてこっばずかしいので作者の手で隠蔽されたり(私は高校時代の文章の大半を焼いてしまった)、あまりに無意味でアホらしく腐りやすいので時代の波に消えてしまったりしているのだ。嘘じゃない。明治の新聞の投稿欄、大正時代の少女雑誌の投稿欄、ずーんと飛んで70年代の「スプーンいっぱいのしあわせ」、80〜90年代のラブホテルのノート、などなど、読む機会があったら、読んでみるといい。ほとんどがヤマなしオチなしイミなしの垂れ流しだ。もちろん垂れ流しの中にも面白いものはあるだろうし、垂れ流すなとも私は言わない。しかし、垂れ流しそのものは新しくないし、スリリングでもない。「ヤマなしオチなしイミなしの垂れ流し」は、単に、素人文章が持つ特徴に過ぎない。  高校生の私は素人以外の何者でもなく、自分の書くものが「文学」だなんてつゆ思わなかった。詩であるとさえ、思っていなかった。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]異形の詩歴書 高校編その4/佐々宝砂[2006年12月17日22時29分]  私の読書傾向は、しっちゃかめっちゃかで統一性皆無だ。手当たり次第に何でも読む。なんでも、だ。薬の説明書でも、ものみの塔のパンフでも、そこに字がありゃいい。「なぜ本を読むのか?」と訊かれたら、私はきっと「そこに字があるから」と答える。いま私がインターネットにはまっているのも、「そこに字があるから」だ。私は詩が好きだが、それ以上に、字を読むことが好きなのだ。だから私は、趣味の欄に「読書」と書かない。「濫読」と書く。書を読むだなんて落ち着いたもんじゃない、乱れ斬り。私はみだりに本を読んでるのだ。詩集も読むが、便所の落書きみたいなエロ小説も読む。新刊マンガも、大昔の貸本マンガも、純文学も、SFもミステリも読む。でも昔に較べたら、多少分野にこだわるようになった。売れてるときいても、私の趣味じゃないやと思えば読まないようになった。  高校生のころは趣味なんか関係なく読んだ。あんなにでたらめに本を読みまくった時期はない。どのくらい読みまくったか。まず、朝、学校に向かうバスの中で一冊片づける。学校まで30分間かかったし私はかなりの速読だったので、赤川次郎みたいに軽いものなら一冊読めた。で、学校に着くとまっすぐ図書館に行き、自分の名義で一冊借りる。その一冊を授業中に内職しながら読んで、午前中のうちに一冊片づける。昼休みにそれを返してまた借りる。午後の授業中に内職してそれを読むが、さすがに今度は読み切れない。それでも放課後また図書館に行き、図書委員の特権を濫用して、友人の名義で三冊借りる。それから本屋に寄り道して、足の裏が痛くなるまで立ち読みする。帰りのバスの中で、読みかけの本の残りを読み切る。家に帰って二冊読む。残る一冊は次の朝、バスの中でのお楽しみ。日々この繰り返しで、立ち読みを除いて、一日に最低五冊読む勘定。完璧にアホ。ここは呆れるべきところであって、感心するところではないので、間違えてはいけない。呆れて下さい。両親はもはや呆れきって、文句を言わなかった。級友も教師も呆れていた。本屋の親父さえ呆れていた。私が立ち読みしに行くと、本屋の親父の顔に哀愁が漂うのである、「こいつには何を言ってもムダ、ハタキではたいても注意しても怒ってもムダだ」と。  まわりのみんなに呆れられて、しかし私は孤独ではなかった。私のようなタイプは別に珍しいタイプではなく、実は世の中のあちこちに棲息しているのであり、そして類は友を呼び、オタクは群れる。狭い世界にいるとひとりぼっちだが、多少なりとも広い世界に出れば、けっこうおともだち(笑)はいるのだ。要するに、他人の名義で本を借りまくるバカは私一人ではなく、私はそいつと友だちになった。彼女(以下Yと書く)とはじめて口をきいたときのことを、私ははっきり覚えている。とある昼休みのこと、私は、タニス・リーの『白馬の王子』を学校図書館で読んでいた。そうしたら、いきなり「中山星香!」と叫ぶハスキーボイスが背中に聞こえた。ええええ、『白馬の王子』のイラストは、マンガ家中山星香が描いていたんですよ。Yは、本も好きだがマンガも好きで、とりわけ中山星香が大好きだったもんだから、つい声に出してしまったというわけ。ああ、白馬の王子に中山星香とくるんだから、しみじみと少女趣味な出逢いだなあ。ま、ともあれ、人間、趣味を同じくする友を得ると強くなる。趣味全開で読みまくり、借りまくり、貸しまくり……楽しかったね。楽しかった。本の話ができるというだけでも、ひたすら楽しかった。  でも、Yは、文章を書くヒトではなかった。学校で二番目にたくさん本を読んでるのに(一番読んでたのは、言うまでもなく私)、文芸部員ではなくカルタ部員だった。文芸部の連中は、ほとんど学校図書館に寄りつかなかった。私の知らないあいだに借りてるということもなかった。憶測ではなく確かな話だ。私は休み時間のほとんど(&授業をサボっている時間の半分ほど)を学校図書館で過ごし、校内の誰がどのくらい学校図書館の本を読んでいるかをほぼ正しく把握していたからである。  文芸部員たちは、学校図書館以外の場所で本を手に入れているのかもしれなかった。書店や古書店でないと読めない本はもちろんある。私はそういう本も好きだったが、純文学や詩集を読もうと思ったら学校図書館が最も手軽だと思っていた。だいたい、たくさん読むと金が足りないに決まっているから、どうしたって図書館に通うことになるはずだ。私は市立図書館にも通ったが、そこでも文芸部員の姿を見ることがなかった。私は不思議でたまらなかった。図書館にこない彼女たちは、いったいどんなものを読んでいるのか? わずかな本を精読しているのか、それともすごい金持ちなので図書館なんか無用なのか、それとも本なんか読まなくても文芸作品を作れる才能を持っているのか? 文芸部の文集は何度か読んだが、頭になんにも残らなかった。つまらなかったという記憶すらない。山のよーに読みまくっている中の一冊だから、よほど魅力がないと記憶に残らないのだ。別に不味い文章だったのではなく、まあフツーの高校生の文章だったんだと思う。  Yという友人を得た私は、文芸路線をはずれまくり、オタク路線をまっしぐらに走りつつあった。Yは文章こそ書かなかったけれど絵がうまくて、リクエストするといろいろ描いてくれた。彼女が描いたキース・アニアン(『地球へ……』のキース)の絵を、私はいまだに持っている。文芸部員の小説は小説に見えなかったが、Yの描いたキース・アニアンはちゃんとキース・アニアンに見えた。当時の私にはまだよくわかっていなかったけれど、今思えば、それは重要なことだった。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]繊細で心優しい、詩人かもしれないみなさんへ/佐々宝砂[2006年12月19日0時28分] もしかしたら「私は詩人ではない」とおっしゃる方もおられましょうから、「詩人かもしれない」と書きました。詩人でも、詩人でなくてもどっちでもいいんですけどね。そんなの単なる言葉ですから。詩だかなんだかよくわかんないけど、ここ現代詩フォーラムにきちゃって、なにかを発表してる、そういうひとで、かつ、繊細で心優しいみなさんへの手紙のつもりで、私はこれを書いています。 私はあまり繊細じゃないです。優しいかどうかは謎です。ですが、かなり正直です。王様は裸だとうっかり叫んでしまってエライ目にあう、そういうタイプのバカ正直です。バカ正直だから率直に書きます。みなさん、お願いです。詩人の言うことを信じないでください。詩人は嘘がつけます。性格的に嘘がつけない詩人もいるにはいますが、レトリックを練習すれば、いかにもホントらしい嘘がつけるようになるものです。いやだいやだと思いながらも書けるようになります。思ってもいないこと、自分の主義思想に反することを、いかにも心からの言葉であるように書くことさえ、できるようになります。私が書くことも、これを含めてたいてい嘘八百です。と書くと文章自体が矛盾してますね、でもこれはもちろんワザとでありまして、これもレトリックのひとつ。そう、矛盾ですらレトリックのひとつなのです。まして、嘘なんて、レトリックの初歩もいいところ。 繊細で心優しい、詩人かもしれないみなさん。あなたには、心からの言葉と、そうでない上っ面の言葉と、本当に見分けがつきますか? 実を言えば、私には見分けがつきません。もしかしたら私が大バカなのかもしれません。言葉に心こめられているかいないか、見る人が見れば何の迷いもなく判るのかもしれません。判らない私にはヒトの心がないのかもしれません。 間違いなく繊細の正反対で、優しいと言われると困るか怒るかする性格で、かつバカ正直な私に判るのは、その文章が巧いか下手か、文法的に間違ってるか正しいか、そのくらいなもんです。考え方や感覚は、正直なところわかりません。詩に書かれている考え方が私と激しく違うとしても、作者ご本人に会ってみると案外考え方が似てたりする、かもしれません。感覚だって、詩に書かれてる感覚が作者の感覚と同一であるとは限りません。作者の感覚と真逆のことが書いてある可能性だってあるんです。 私にはものすごく当たり前のことなのですが、作者イコール詩の話者ではありません。私の詩から聞こえる声は、私のものかもしれないけれど、私のものではありません。このことを私は何度も何度も書いてきましたが、また書かねばならないようなので、書きました。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]表面以外はみんな嘘/佐々宝砂[2006年12月19日20時12分] 何度も書いてきたのですりきれて穴が開きそうになってきたが、私は悪人になりたいのだ。それも大嘘つきの大偽善家の大悪人に、である。できれば新興宗教の教祖みたいなのがよろしい。しかしたぶん私にそこまでの才能はない(多少はあると思ってるところが笑うべき点さw)。言っておくが、偽悪家になりたいんじゃねーぞ、偽善家になりたいのだ。偽悪なんていったら「ほんとはいいひと」でしょうが。そんなんではなくて、「ほんとはわるいひと」であるところの偽善家に、私はなりたいのである。 見た目はたいへんよいひとでなくてはならない。新興宗教の教祖というたとえではいまいちうまく伝わらないかも知れない。うーん。そうだ。ものすごくいいお手本があった。私は、ウォルト・ディズニーみたいになりたいのだった。にっこり笑って大衆を愉しませつつ自分好みの方角に連れてゆく。もしかしたらその先には崖があってみんな落ちるかも知れない。すてきー。憧れだわっ。 と書くと、私が独裁者に憧れてるかのよーに読み取るヒトがいる、かもしれない。解説を書くのは野暮でキライだが、しかたないから書けば、「悪人になりたい」などと書いてる私は、現時点「悪人ではない」。とにかく今んとこ私が悪人でも大嘘つきでも大偽善家でもないこと、それくらいは読み取ってもらいたい。そしてできれば、こんなことを正直に書く人間には、悪人になる才能や嘘つきの才能が欠けているのだ、とそこまで読んでくれたらありがたい。 さらに贅沢を言えば、現実に存在するディズニーのようなタイプに騙されないでくれよと私が願っていること、そのへんまで読んでほしい。なんてことを書くとバカバカしいほど野暮だな。でもここまで書かないと、わからんひとにはわからんのだ。そしてここまで書いても、わからんひとにはわからんのだ。 *** 「表面以外はみんな嘘」と言ったヒトは誰だったろう。 私はこの言葉を村上龍の小説に見つけたような記憶があるのだが、 何に載ってたか思い出せない。 アンディー・ウォーホルの描いたマリリン・モンローを見た女性が言うのだ、 「表面以外はみんな嘘」と。 それを読んだとき、わたしはあかるい気分になった。 表面以外はみんな嘘。表面以外は。ならば、真実はあるのだ。 すべてが嘘というわけではないのだ。 オモテに見えているもの、表面にあるもの、それは、紛れもなく真実だ。 内面がどんなものであろうとも。 *** 以前、女ばかりでチャットしているとき、好きな俳優の話になった。私は悪役とコメディのできる俳優が好き、と言ったのだが、よくわかってもらえなかった。「ツインズ」の兄ちゃん(ダニー・デヴィート)って言われたもんなあ。違うんだよお。「ロマンシング・ストーン」の小悪党じゃあないんだよ。コメディの悪役ができるヒトではなくて、コメディと悪役ができるひと、が好きなのだ。悪役のときは本気で怖い悪役でないとつまらん。まだ「ツインズ」の弟シュワルツェネッガーの方がましである。あのひと悪役やるときちんと怖いからね。 私が好きなのはケヴィン・ベーコンだ。彼は、たいして美男ではなくむしろファニー・フェイスなのに、青春映画「フット・ルース」の主役で颯爽と表舞台に出た。コメディにも出ている。なぜか「13日の金曜日」にも出ている。私は「フット・ルース」の昔からファンで「トレマーズ」なんか大萌えに萌えてみたものだったけど、本格的にこのひと好きやわあ、と思ったのは、「激流」をみたときだった。「激流」は決していい映画ではない。ほとんどケヴィン・ベーコンの悪役っぷりだけで持ってる映画である。それをいうなら「告発」も「インビジブル」も悪役ケヴィン・ベーコンがいなきゃどうしようもない映画である(「インビジブル」は映像も凄いので、彼だけで持ってるとは言えないが・・・)。 話が逸れてしまった。強引に戻す。私が好きなのは、悪役とコメディのできる俳優だ。怖がらせることも、笑わせることもできるひとだ。バカにもキチガイにも病人にもなれる、ぞっとするほど醜いものにも、かなしくなるほど愚かなものにもなれる、そういうひとだ。 *** マンガ家でいうと楳図かずおだ。 楳図かずおは「表面」を重視する。 彼の作品世界において、醜い姿の者は心も醜い。 心が歪んでいる者は顔も歪む。 恐ろしい世界だろうか?  いや私にとっては恐ろしくない、なぜなら、彼の作品世界には、嘘がない。 表面がすべてだ。 すべてが表面だ。 私もそろそろ本気を出さなくちゃならない。 そんな気がしてきた。 本気で表面をつくらなきゃならない。 *** これまた何度も書いてきたことなので、書いてる本人が本当にうんざりしてきたことなのだが、やはり書いておかねばならない。私は批評を書くのをやめた。やめた理由はひとつじゃないが、一番おおきな理由は、「他者と格闘するのに疲れた」からである。と書いたはしからなんか違うな、と思ったりするくらいうまく言えなくていま困っている。うーん。「私と格闘してくれる相手がいない」と言おうか、それもなんか違うなあ、ケンカするんじゃなくて格闘したかったのにうまくいかなかった、ってなとこなのかなあ、まあいいや、ともかく私は批評をやめた。 批評をやめた二番目の理由は、「他者を潰したくないし批判したくない」ということ。世界観も感覚もひとそれぞれでよろしい。私に害がなければなんでもよろしい。もう文句言わない。共感してもしたって言わない(まあ私は一年に二回くらいしか共感しないけど)。どんなに変な考えでも、どんなに幼稚に思えても、文句言わない。だってそれは、そのひとがそのひとなりに一生懸命書いたんでしょーからね。そう思って、私は、内容に文句こくことをやめた、というか実際にはやめてなくてたまには文句言ってしまうのだが、必死に口をつぐんでいる。 しかし私はいまだに批評を乞われる。なるべくお断りするが、書いた方がいいかなと思えることもあるし、また、断れないときもある。しかたないから、内面に触れず、世界観にも感覚にも触れず、表面に関してのみ、書いてきた。だが、それすらダメなのかもしれない、と今は思い始めている。表面は重要だ。もしかしたら、誤字ですら重要なのかもしれず、訂正不可能なのかもしれない。 *** しかし、もう一度言おう、 表面以外はみんな嘘。 ---------------------------- [自由詩]創書日和。紙 【初雪】/佐々宝砂[2006年12月19日20時53分] ねえ、あなた、 あたしの世界は紙でできているのです。 うすっぺらな、もろい、紙、 吹けば飛ぶ、濡れれば融ける、紙、 古くなったらほろり崩れる、紙、 紙、 もちろんあなたも紙でできている。 力を入れて引きちぎったら、 あなたのその頬も、 うすい肩も、 たよりない腕も、 みんなみんな破れてしまう。 だからあたしはあなたを抱きしめない、 でも、ねえ、 ふたりで歩いてゆくことはできる。 ほらみて、 くらい空から降ってくる、 ことしはじめての真っ白なもの、 あれもすてきな紙のひとつ。 ---------------------------- [自由詩]Michaelが来る/佐々宝砂[2006年12月19日23時41分] 9号室のミズノさんの指は、 ときどき奇妙に震える。 登山中の滑落事故で全身麻痺、 凍傷に損なわれた右手は人差し指だけを残して。 そのまま数十年を経て皺んだ指、 その指が何かを書いてるようだなと思ったのは、 とある熱帯夜のこと。 何かアルファベットのようだけれど。 わからないのは上から見ているからだと気づいた。 下からのぞき込めばいい。 しゃがんで見上げると、 筆記体で、Michael、と 書いては消し、書いては消し、しているような気がした。 ねーえ? ミズノさん? Michaelってだあれ? それから私は、 思わず声を出してわらった。 知らなかった、 知らなかった、 あはははははははは、 全身麻痺で喋ることもできない人間が、 表情筋ひとつ動かすことのできない人間の屑が。 瞳だけであんなにも、あんなにも、 おかしいくらいに強烈な恐怖の表情を作れるなんて! あっはははははは、 ばーか。 夜勤のときの習慣がひとつ増えた。 習慣、じゃなくて、楽しみ、と言おうか。 熱湯ぶっかけて身体を洗うのも飽きたもん。 おもしろいのは言葉よ言葉。 ねえミズノさん。 Michaelが来るよー。 Michaelが来る。 動かないはずの顔が、 瞬くことしかできない瞳が、 恐怖に彩られる ミズノさーん。 ほら。 Michaelが来る。 あれでずいぶん楽しませてもらったから、 ミズノさんが亡くなったとき、 とても淋しかったのはホントだ。 ミズノさんのおくさんに、 Michaelという名前に覚えがありますか、と 訊ねたのは、 ちょっとした好奇心の発露だけどね。 主人が滑落したとき、 主人と一本のザイルで繋がれたまま、 主人の横で亡くなった人の名前です。 ミズノさんのおくさんは、 少しめんどくさそうに答えて、 それから私のうしろを指さして、 眉をひそめて、 指をおろして、 ではどうも、ありがとうございました、と言った。 Michaelねえ、 数十年も寝っ転がって麻痺したまんま、 そいつのことばかり考えていたのかねえ、 ミズノさんは。 それだけ長く想われて、 幸せだよねえ、Michaelくんは。 私は休憩所で孤独に孤独に煙草を吸う。 誰が私を想ってくれるかしら。 ねえ、ミズノさん。 最近私の肩は重たい。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]ツッコミキャラは耐えまくる。−仲仲治さんに/佐々宝砂[2006年12月21日22時09分] これだけ名指しされたらレス嫌いの私ですらレスせざるを得ないなと思い、仲仲治さんの散文を古いのから連続して読んだ。必死に読んだ。しかし半分も意味がわからない。私があほーなのか、それとも書き手の仲仲治さんが「理解されなくてもいい」と思って書いているからなのか、それともその両方か、理由は定かでないが、ともかく意味がわかんねえ。すまない。申し訳ない。仲仲治さんに謝る。素直にわからないことはわからない。多少落ち込んだが、それは自分の文章力と理解力のなさにめげたからであって、誰にも責任はない。ついでに言っておけば、もう何ら落ち込んではいない。むしろ元気だ。・・・というように個人宛に書くことが私はとっても苦手なのだけれど、やむをえないときもある。 私は気分を害してないし、仲仲治さんを揶揄する気も毛頭ない。ただ、私はどう転んでもツッコミキャラである。ツッコミどころのあるものを見聞きすると、どうしても突っ込まずにいられない。失礼な物言いだとは思うものの、言わせてください、ごめんなさい、仲仲治さん、あなたの文章は、本当に、ツッコミどころ満載、なんです・・・どこからツッコミをいれたらいいか、悩ましくなるくらいなんです・・・と書いても、これでも、私は、まだ仲仲治さんを揶揄してはいない。実に素直に自分の気持ちを書いただけだ。みなさん、おわかりだろうか、素直に自分の気持ちを書いてはいけないのだ。そんなキケンなことをしてはいけないのだ。特に、私のようなツッコミキャラは思うままを書いちゃいけない。自粛せねばならんのである。 しかし、自粛しつつも、重要なことだけは書かねばならぬ。今回私にとってもっとも重要なことは、作者と主人公と話者のことだ。私は、「繊細で心優しい、詩人かもしれないみなさんへ」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=97758のなかで、「作者イコール詩の話者ではありません」と書いた。仲仲治さんは「関係性以外は嘘、かも知れない」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=97923のなかで、『詩において「作者=主人公」なのかどうか』と書いた。ここに非常に重大な誤解がある。もう単純に単語が違う。私は、「作者=話者ではない」と言ったのであり「作者=主人公ではない」とは言っていない。「話者=主人公」とは限らない、ということを前提に私は話していたのだが、どうもそのあたりから説明しなくてはならないようだね。 私がここで言う話者とは、語り手のことだ。一人称で書かれている場合、「話者=主人公」であると考えられがちだが、例外も多い。これは小説や詩に限らず舞台にも言えることであり、物語の背景を解説する語り手、歌舞伎でいうところの狂言回しは、おおむね主役ではない。とりわけ古典的な叙事詩において「話者=主人公」は全くあり得ない。主人公が一人称で主観的なことを語るようになったのは、近代以降の話である。 しかし、近代以降の一人称小説であっても、「話者=主人公」とは限らない。私にもそういうところがあるが、主人公に語らせることを苦手とする作家がいる。SF作家なのでそうメジャーではないが、梶尾真治がまさに好例である。梶尾の出世作「美亜へ贈る真珠」の主人公はタイトルにある通り美亜という女性、しかし物語の語り手は美亜やその恋愛の相手ではなく、彼らを傍観している、物語の外にある人間だ。なぜ美亜やその恋人に語らせないのかって?あーた、そんなこと訊くなよ、野暮だね、照れくさいからに決まってるじゃないかw というのが真実かどうか私にはわからない。私は梶尾真治じゃないからね。でも、ま、たぶん、梶尾真治は照れ屋だと思う。私が照れ屋であるのと同程度には。非常にどうでもいい話だが、私は恥ずかしがってる人を見ると恥ずかしくてたまらん。梶尾真治のある種の小説も恥ずかしくてたまらん。太宰治も恥ずかしくてたまらん。恥ずかしくてたまらんからこの話はやめて、えーと。 とにかく話者と主人公と作者は同じとは限らん。むろん、同じでもいいけど。私がこのことにこだわるのは、私個人が誤解されたくないからではなく(それもちょっとはあるが)、文学あるいは芸術の常識としてこのくらいのことはわきまえててほしいなと願うからだ。本当に当たり前の話で、特別むずかしい話をしてるわけでもないと思うのだが、なぜか何度も繰り返し言い続けている。いい加減飽きた。というわけで次の話にうつる。 仲仲治さんは「関係性以外は嘘、かも知れない」で以下のように書いている。 私の考える批評は、私にとっての詩を相手の詩に押し付けることではなく、作者にとっての詩が、作者の思っているように(思惑通りに)書かれているかが重要で、もう一つ、詩に対して新しい読み方を提示する目的の為の手段でしかありません。  新しい読み方が普遍になったとしたら、その批評は優れている、と私は考えています。 私にとっても、批評は、私にとっての詩を相手の詩に押し付けることではない。しかし、作者の思惑通りに書かれているかだけが重視することでもない。作者の思惑がどこにあるかは無論重要なことだが、作者の思惑からぶっとんだ読みをすることも、批評の醍醐味のひとつだと考える。だがそんな読み方をすると作者は怒るかもしれない。つーか怒るよなあ、普通。つーか怒らせようとして書くことすらあるもんな。たとえばね、なんでもない恋愛詩から作者の女性差別感情を読み取ることも可能なわけ。そして私はわりとそういうことやりたがるわけ(今は止めてる)。まず、そういう意味で、私が批評すると格闘になりかねない。避けた方が無難だ。 で、もうひとつの意味での格闘。「新しい読み方」と「古い読み方」が対立したらどうなるか考えてほしい。詩と格闘するわけでも作者と格闘するわけでもなく、読み方どうしの格闘、批評者どうしの格闘になってしまう、のである。そのような批評者どうしの論争はなんら珍しいものではない。有名なところでは、「たけくらべ」論争というのがある。樋口一葉の「たけくらべ」の終盤、美登利がなぜ突然変貌したか、にまつわる論争だ。美登利が初潮を迎えたからというのが「古い読み方」で、美登利がはじめて客をとった(すなわち処女でなくなった)からというのが今のところ「新しい読み方」である。樋口一葉亡き今、どっちが正しいか誰にもわからない。どっちが普遍になるべきかは、樋口一葉が生きてたってわからない。そして、普遍になったからってその説が優れているとも限らない。普遍イコール優れているだなんて、あまりにも恐ろしい考えだ。批評者たちはきりもなく延々と論争を続け、結論は出ず、白黒はつかず、それでいいのだと私は思う。 そいでもってあとなんだっけ、そうだ、誤字の話。私は誤字脱字が気にさわってしかたないタイプなんだが(これは性分なので変えられない)、なるべく指摘しないことに決めた。最近決めた。理由はひとつじゃないから一言では説明できない。まずひとつめの理由はコレ、馬野幹さんの「詩論I」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=96399。こういう考えの人がいるのであれば、私は尊重する。変えたくないというものを変えろとは言わない。もうひとつの理由は、誤字脱字をするみなさんにまず謝罪しておかねばならないが、もう、ごく単純に、誤字脱字が面白いからだ。むしろ誤字脱字の方が詩的だと思えるときもある。かつて私が書いた文章から孫引きするが、たとえばこんなの・・・ 「どらかせんの先にせんこらで火をつけると火花をたしながらぢぬんの上をぐろぐろ回転する花火です。あぶないのてい、はなわてさかずかないていくだちい」 (SFマガジン2003年12月号掲載 唐沢俊一「猿たちの迷い道」より引用) このなんともいえないシロモノ、唐沢の言によれば中国製ネズミ花火の使用説明書き、であるらしい。どうしてこのような誤植が起きたか予想ができないではないけど、このシロモノ、まあ偶然の産物といってよいだろう。しかし偶然にしてもものすごい。 「詩の境界線」佐々宝砂 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=5738 ぢぬんの上をぐろぐろ回転されたら、シュルレアリスムの詩だって負けそうだ。こんなの読まされた日には、腹を抱えてのたうちまわって腹筋が筋肉痛になりかねない。だが、作者がまじめに、そうだよ、ごくまじめにこういうものを天然に書いてしまってるんだとしたら、私は、こっそり笑わねばならない。あなたのおかげで楽しかったですありがとう、と言うこともできない。ツッコミキャラなのに黙ってなきゃならない。 どうもなんというか、一言ではとても言えないのだが、世の中は難しいね全く。 以下、さっきまで作者コメントにあった文章を追記。 少々つけくわえ、というか訂正、というか、たぶんセルフツッコミ。 古典的な叙事詩において「話者=主人公」はありえないと書いたが、 そうばかりでもなかった。 夢幻能では、亡霊と化した主人公(シテ)が自らの思い出を語る。 世の中かんたんではないねほんま。 ↑ツッコミキャラは自分に対しても突っ込むのである。 思い出してしまったので追記するが、カムイユーカラは、 神々が一人称で自分の物語を語る。 くそーたくさん例外ありそ・・・ ↑さらに突っ込むのである。 カムイユーカラや夢幻能の一人称と、 近代以降の一人称にどのような違いがあるか。 ↑これは自分への宿題。 でもいちばん興味がある人称は二人称。 次が一人称複数。 そいでもって神の視点の三人称。 でもまだそんな専門課程までゆかない。まず基礎をこなせ私よ。 ↑突っ込んだあとの自分へのフォロー。 神の視点の三人称と古典の一人称には、 どこか関係がありそうだぞ。 ↑単なる思いつき。 「美亜へ贈る真珠」の主人公は、 もしかしたら、というか、ほんとは、 確かに語り手なのだ。常に傍観者である人間の物語としての。 ↑さらに単なる思いつき。 夏目漱石の「坊っちゃん」を赤シャツの視点から描いた芝居「赤シャツ」、 あの物語の語り手は、いったい誰か? あの芝居の狂言回しが「坊っちゃん」であるのは間違いないが。 ↑いつまで思いつき書く気だよ。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]すきなもの100、あるいは私の「自分らしさ」/佐々宝砂[2006年12月22日17時12分] 1珈琲 2バニラ 3ミント 4チーズ 5スパイス全般 6緑茶 7メンソール煙草 8杉に近い種の木を焼く匂い 9雨が近いときの匂い 10森の土の匂い 11灯油の匂い 12雨に濡れはじめた石の匂い 13清流の滝、色も匂いも温度も湿度もそこに住む生物も伝説も 14潮の匂い 15鮎の匂い 16ちいさな白い水仙 17普通の桔梗 18赤い剣咲薔薇 19彼岸花 20ゲンノショウコの赤花 21庭石菖 22カキドオシの花 23とにかく青い花(あじさい除く、ぼてぼてしててキライ) 24バンクシアの実 25オクラの花 26チガヤの穂と紅葉 27槙の木 28イチイ 29ブナ 30ギンドロの若葉 31カラマツ 32クマゼミ 33ヒグラシ 34ギンヤンマ 35アキアカネ 36ツノゼミ 37ヒシバッタ 38アオバハゴロモ 39オオミズアオ 40オオスカシバ 41カマキリの夜の目 42シャクガ(幼虫) 43白鷺(ダイサギ除く、ダイサギってでかくて怖いんだもん) 44アオサギ 45ゴイサギ 46アマサギ 47ミサゴの魚とり 48シジュウカラの水浴び 49トンビが飛んでるとこ 50ウグイスの羽の色(緑ではない。念のため) 51十月の稲藁の匂い 52四月終わりのお茶工場の匂い 53どんな時刻でもどんな天気でもいつでもどこでもとにかく空 54空飛ぶもの(かなしいかなミサイルも弾も含めざるを得ない) 55ざっくりした染めてない麻布 56藍染めのデニム 57ギンガムチェック(木綿) 58タータンチェック(木綿) 59染めてない帆布 60インド風に染めた一枚布(できたら絹、木綿も可) 61小さなきらきらするものほとんど全部 62石英 63水晶 64葡萄石 65花崗岩 66雲母(特に白いの) 67黒曜石 68薔薇輝石全般 69ラピスラズリ 70イルカ座 71カラス座 72白鳥座 73バラ星雲 74あれい星雲 75北アメリカ星雲 76ヒアデス星団 77やっぱり、プレアデス星団 78シリウス 79プロキオン 80火星 81天王星 82わああ、やっぱり星全部!小惑星もブラックホールも! 83不細工な雑種っぽい猫 84三毛猫 85日本猫 86柴犬 87不細工な雑種っぽい犬 88炭の匂い 89へんないきもの全般 90水色(というか、えーと川の瀞の色) 91草色(エノコログサの新芽の色、ワカバグモの色) 92淡い紫(わすれなぐさの花の色) 93モスグリーン(クサゴケの色) 94杉の白木の色 95焼杉の色 96燻し銀の色 97小豆色 98白檀の匂い 99海や川のなかできらきらする砂(たぶん雲母?) 100浜昼顔 ---------------------------- [自由詩]言葉は重要/佐々宝砂[2006年12月24日21時33分] ―ほしかった、 ―わたしも、 ―何がほしかったの、 ―あなたが、 ―俺の何が、 ―あなたの指も、手も、舌も、それから、 ―それから? ―いま入ってるもの、 ―入ったり出たりしてるよ、 ―うん、うん、 ―いま、すごくいやらしい格好してる、 ―言わないで、ねえ、 ―ううん、言うよ、 ―恥ずかしいよ、 ―やらしい格好してる、 ―ああ、 ―くちびるをくれよ、 ―うん、 ―ねえ、ねえ、愛してる、 ―言わなくていいよ、わかってる。 ---------------------------- [自由詩]幸福についてのモノローグ/佐々宝砂[2006年12月26日1時28分] ストーブのうえで かたかたと音をたててお湯が沸く カルキ臭は抜けたけど元をたどれば水道水 だったそのお湯で インスタントコーヒーを入れる (特価980円のエクセラ) 明日の朝は8時から仕事なのだけど なんでだか寝損ねたし 実は眠る気もなかったりする 死んだひとの歌声を連続再生しながら 隣室からきこえるいびきに少々辟易しながら ちっとも返事をよこさないやつにメールを送る 返事がほしいからメールするのではなくて 単純にメールしたいからメールする それからわざとらしく空をみあげる 星はひとつもみえなくて でもあの雲のむこうにはいつだって星があって そこに手が届かないとしても星があって (それがわかってるから私は星をほしがるんだ) 熱いコーヒーはそれなりにおいしくて 私は今夜もかなり幸福なのである ---------------------------- [自由詩]未来についてのモノローグ/佐々宝砂[2006年12月26日6時57分] そんなに遠くない あの脚が 空から下がる繰り糸で 奇妙なダンスをさせられる日は とても近い あの指が 地下から響く呼び声に共振して 読めない文字を綴り出す日は きのうわたしを過呼吸に陥れたくちびるは きっといま静かに寝息をたてる さよならは言わない 確実に訪れるわたしとあのひとの未来のために 笑顔で献杯する 明け方の発泡酒 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]詩の携帯性/佐々宝砂[2006年12月30日17時17分] 正直な話、私は、もう、どこかから活字の詩集を出したり、詩の賞を狙ったり、ということをやる気がなくなった。もちろん、どこぞが、お願い本だして、とか、お願い賞もらって、と言ってきたら、やぶさかではない(笑 だけど自腹切ってやる気はもうほとんどねー。めんどくせー。 小説でできることは詩でもできる。つーのをコンセプトに、私は数年前からやってきた。SF、ホラー、恋愛小説、時代小説、歴史小説、妖怪小説、政治小説、経済小説、児童文学、実験小説、思弁小説、その手のものなら詩でできる。ミステリの再現だけは難しいような気がしたが、謎を提示して逃げちゃえばいいのだ。解決編なし。ちっとずるい気もするが、そういうのもありでしょ。カーのミステリよりマシじゃ(こんなこと書くとミステリファンが怒るぞ)。 しかし、ショートショートを書くのが採算合わない以上に、物語詩を書くのは採算に合わない。詩はもともと採算に合わないという話はこっちにおいてね。物語詩ってのは手間がかかるのだ。ものにもよるが、キャラ設定してプロット組み立ててストーリー考えて、語り手考えて(語り手が何を語り何を語らずどこでウソをつくかも考慮し)、時代設定が現代じゃない場合は時代考証も調べて、舞台が外国の場合はその手の考証も調べて、考証調べるのに英語の本まで参照したりして、ディテールに矛盾がないか点検して、あーほんま面倒なのよ。もちろん小説よりは手間がかからない。でもね、「私の詩は排泄物」とか「泥吐いてみた」とかいう人に比べたら、手間の量は膨大です。 別に泥吐く人が悪いとゆーわけではない。私かて泥くらい吐く。泥詩もゲロ詩も吐く。しかし手間かけた私の詩とそうでない私のゲロ詩と、ポイントが同じだったりすると、いや同じならまだいいのだ、泥ゲロ詩のほーがポイント高かったりすると、めげる。私かてめげる。とゆーかしょっちゅうめげる。ヒトサマと比べてめげるのではなく、自分の手間暇思い出してめげる。 それで物語詩を書くのがいやになったかというとそうでもない。私は心底エピック(物語詩・譚詩)が好きなのだ。より正しく言えば、コンパクトな・携帯性のある・物語が好きなのだ。ショートショートも超短編も好きだが、俳句ほど短い物語はない。Tシャツに書けるのはもちろんだし、記憶してとっとくこともできる。記憶なら一生持ち歩ける。若い頃に覚えたなら、呆けたって忘れないでいられる。 私にとって詩とは、持ち運び可能な物語、なのだ。あなたにとっての詩がそうじゃないのは当然だ。私みたいに考えて詩を書く人はあんまりいない。全然いないとは言わないけど。 *** で、問題は、これから私はどうするか、なのだった。いまや映画だって持ち歩ける時代である。RPGという物語も持ち歩ける。はてさて、こんな時代に、私の考える詩の特異性=携帯性をどこまで活用できるか? という文章を携帯して携帯で読んでる人もいるんだよなあ、今っていう時代は。 「詩人類 T-shouts!」 http://tshouts.exblog.jp/  は、詩の携帯性を活用したひとつの解答ではある。 2006.9.20(初出ミクシイ) ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]■批評祭参加作品■ Poor little Joan!または視点についての雑感/佐々宝砂[2007年1月4日2時49分] 『春にして君を離れ』 http://www.amazon.co.jp/dp/4151300813/gendaishiforu-22/ シェイクスピアのソネットからそのタイトルをとったこの小説は、ミステリの女王アガサ・クリスティーがメアリ・ウェストマコット名義で書いた一冊。ある意味ロマンスでもある。ミステリではないから誰も殺されない。何も盗まれない。しかしここには地獄がある、とこの本を読み終えた十八歳の私は考えた。まるで他人事のように。 *** ミステリやホラーの叙述法は、ある程度分類され研究が確立している。ミステリの場合、かつては、謎の焦点が、 フーダニット (Whodunit = Who (had) done it)=誰が犯人か、 ハウダニット (Howdunit = How (had) done it)=どのように犯罪をなしとげたか、 ホワイダニット (Whydunit = Why (had) done it)=なぜ犯行に至ったか、 の三点のどれかに絞られるのが普通だった。謎が一つではなく複数のこともある。しかしいずれにせよ、視点は、多くの場合被害者または探偵のような第三者にあった。 しかしミステリという分野が成熟するにつれ、さまざまな叙述法が現れた。たとえば視点が犯人にある倒叙という叙述法。視点が犯人にあるのだから、WhoもHowもWhyも読者に明かされている。倒叙法ミステリのおもしろさは、謎を解き明かす点にあるのではなく、犯人の心理描写や犯人がいかに捕まるかのサスペンスにある。そんなんミステリじゃないやいと怒る人がいなかったのは、それなりに倒叙ミステリが面白かったからだ。視点ではなく叙述方法そのものにトリックがある小説もある。ここまでゆくと騙されるのは被害者でも探偵でもなく読者だ。 ホラーは被害者でなく読者を怖がらせるための小説だから、もっとあくどい叙述法をとることがある。叙述がややこしすぎて怖くないこともあるくらいで、ウォルター・デ・ラ・メアが代表格の朦朧法は、きちんと読まないと何が怖いかすらわからない。なにやら怪異があって、ほのめかしがあって、雰囲気だけは満点だ。ウォルター・デ・ラ・メアの「失踪」(東京創元社『恐怖の愉しみ』収録)という短編では、犯人(らしき人物)が通りすがりの語り手に自分の犯行を語る。語り手は犯罪の告白を聞きながら、それが犯罪の告白であると気づかない。語り手は、あーつまらん話を聞いてしまったと思いながら、凶悪犯の隣をそれと知らず通り過ぎてゆく。 つまり、語り手の言うことが信頼おけるとは限らない、のだ。ここんとこ心してほしい。語り手が嘘をつかず、観察眼に優れ、まわりで起きていることをきちんと認識でき、正気で、まともに叙述できる、と、誰が保証したか。誰も保証していない。「信頼できない語り手」はレトリックの一つとして認められている。決して禁じ手ではない。 *** 最初に書いたように、『春にして君を離れ』はミステリではない。だがミステリの手法を用いて描かれている。物語の視点は、女…そう…現在三十八歳の私より少し年上の女にある。既婚で、優しい夫がいて、子どもたちも結婚して幸せに暮らしている。と彼女、ジョーンは語る。ジョーンは若く見える。金銭的にも精神的にも恵まれていて、非常に自己評価が高い。だが、しかし…という点にこの小説のおもしろさおそろしさがある。 ジョーンは、バグダードからイギリスに帰る途中で汽車に乗り損ねて、何日か足止めをくらう。万年筆のインクがなくなるまで手紙を書き、読む本もなくなり、ただ考えることしかやることがなくなり、ひたすら自分の来し方を見つめ直す。そのきっかけになったのは、再会した古い友人ブランチの言葉だ。ブランチはジョーンと同い年のはずだが、生活にやつれ皺んだ老婆のように荒み果てて哀れだ(と、ジョーンは感じる)。ブランチは歯に衣着せずものを喋る。その言葉は、ジョーンにとって謎としか思えない。足止めをくらって暇でしかたないジョーンは、ブランチの言葉について考える。考えに考える。徹底的に、もしかして私の人生はあらゆる点で間違っていたのではないだろうか、赦しを乞わねばならないのではないだろうか、と思い至るまで。 書いてしまおう。本書を読めばわかることだが、哀れなのは皺んだ老婆と化したブランチではない。哀れなのは、若くて綺麗で朗らかで有能なジョーンなのだ。だからジョーンの夫は、彼女にむかって"Poor little Joan!"と呼びかける。哀れなジョーン! かわいそうな、虚しいジョーン! 夫に再会したジョーンは、自省して得たものをすべて忘れて、再びおぼろげな虚しい幸福へとかえってゆく。 *** 詩の視点はいったいどこにあるのだろうか、という疑問が、もう何年も前から私の喉にひっかかっている。私自身の詩は(意識的にそうしているから)おおむね視点が固定されているが、視点が揺れ動いたり視点が不明確だったりする詩は世に多い。そもそも視点がない詩もある。コンピュータプログラムで生成された詩には視点がない。切り貼りコラージュで生成された詩にも視点はない。 ホラーやミステリに慣れた私という読者は意地が悪い。作者が意図してないものごとを読みたがるし、わざわざ意地の悪い読み方をしてみたりもする。語り手が「信頼できない語り手」であると仮定して読んでみたりもする。哀しみに充ちた詩から快感をくみとったり、幸せな詩からむなしさを読み取ったりもする。作者に対して失礼な読み方だとも思えるから、私は自分の読み方をあまり公にしない。 時折私は、過去の自作に対してこの意地悪い読み方を試みる。哀しい時書いた詩から快感を読み取り、幸せな詩から絶望をくみ取り、そして、かなり、いやになる(笑)。私ってなんて大嘘つきなのかしらと思ったり、私って何にも見えてない、と思ったりする。でもまあいいや、これ過去作だしぃ、私今んとこ幸せだしぃ、と呟いて、私は再びおぼろげな虚しい幸福のなかに戻る。 *** ボヴァリー夫人は私だ、とフローベールは言った。 私は思う、哀れなジョーンは、私だ。 2007.1.4. ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]■批評祭参加作品■ WATARIDORI、または視点についてなお考える/佐々宝砂[2007年1月4日23時58分] 私は、子どものころからTVの自然ドキュメンタリーが好きだった。民放なら「野生の王国」、NHKなら「自然のアルバム」、「生きもの地球紀行」、「地球!ふしぎ大自然」、たった30分しかなくて不満な現在放映中の「ダーウィンが来た!」に至るまで、ずっと見続けてきた。最近一番好きな番組は、NHKの「プラネットアース」だ。11集に分けて世界各国の自然を紹介するあの番組は、NHKのこれまでの自然ドキュメンタリーとは視点が違っていて、それが私には好ましかった。イギリスBBCとの共同製作だったから、いつものNHK節ではなかったのだと思う。 自然ドキュメンタリー、とりわけ動物ドキュメンタリーにおいて、視点の問題は重要だ。子どもにもわかるだろうが、シマウマを主人公にするのと、シマウマを喰うハイエナを主人公にするのとでは、全く同じ筋立てでも全く違う物語になる。私が子どものころ(1975〜1980くらい)の日本のドキュメンタリーは、シマウマを主人公に置くのが多かった。食べられる動物を主人公にして、食べる動物を悪者にして、ストーリーを仕立てるわけだ。やがて20世紀も終わり間近になってくると、そのような単純構造の物語は流行らなくなってきた。肉食動物だって必死に生きているのだから、草食動物の立場にだけ立つのは不公平という考えによるものだったかもしれない。 とはいえ、一般的な感覚の持ち主がハイエナに感情移入するのは、なかなか難しい。だが、NHKが「地球!ふしぎ大自然」で何度も繰り返した動物親子ものドキュメンタリーは、ハイエナに感情移入することを容易にした。ハイエナだって赤んぼのうちは可愛いのであり、そのうえ日本人は幼い動物にたいへん弱い。いわゆる恋の季節から、子どもが自立するまでの物語で、わかりやすくおもしろく感動的な動物ドキュメンタリーのできあがりだ。私が「いつものNHK節」と言ったのはこのような動物親子ものを指す。動物の一生を追う物語になるから、一種類の動物の生態を知るためには悪くない。しかし何度も見せられてだんだん食傷してきた。 一方で、私はディスカバリーチャンネルの動物ドキュメンタリーにも食傷していた。狩りの場面や流血の惨事が多すぎる、というより、そのような場面をもっとも重要視して放映しているように思われた。狩りや雄同士の争いのようなよくある出来事ならともかく、雄の親カバが子どものカバを殺すようなまれな出来事を大げさに放送して、最後に「こういうことは滅多にありません」とテロップを流すのはいかがなものか。自然界の危険を強調しすぎだ。 などと思っていた昨日(2007.1/3)、映画「WATARIDORI」(2001.仏)をBSHiで見た。いやあ、よかった。これまでいちばん好きなドキュメンタリー映画は「ディープ・ブルー」(2003.英)だったが、これからは「WATARIDORI」に変更する。それほど気に入った。何がいいって、ナレーションが最小限なのがいい。感動を無理に誘わないのがいい。迷鳥、人間に囚われた鳥、機械に巻き込まれる鳥、工業地帯で泥に脚をとられる鳥、それら群れからはぐれた鳥の運命は、ほぼ、想像できる。説明しなくていい。と思っていると、こちらの想像を裏切る映像が不意に、しかし淡々と続く。延々と鳥が飛んだり歩いたり泳いだりしているだけだといえばそれまでで、どこがいいのかわからない人もいるだろうが、私にはいい映画だ。 見終わって、ああよかったとため息をついて、ふと思った。「WATARIDORI」の視点はどこにあったのだろうか? とりたてて主人公のいない「ディープ・ブルー」の視点は、人間にある。人間の目でみる物語だからこそ、メタンガスの吹き出す深海の熱水地帯が「地獄」と形容される。そこに住むチューブワームにしてみれば、メタンと硫化水素こそが大地の恵みであり、空気の薄い地上こそが「地獄」だ。だが、「WATARIDORI」はどうなんだ? 「それは"必ず戻ってくる"という約束の物語」と映画の最初にナレーションが流れる。カメラは鳥よりやや高い目線で淡々と鳥を追い続ける。人間を映すときも態度が変わらない。あくまでも淡々として、しかし目線がやや高い。唯一低い目線になるときがあるが、それはコンバインが鳥の巣をなぎ払って進んでゆくシーンであり、目線が低くなくてはコンバインの恐ろしさが見る者に伝わらないから目線が低いのだろう。とにかくカメラは、やや高いどことなく冷たい視点で淡々と延々と鳥を映す。そして最後にまたナレーションが流れる、「それは"必ず戻ってくる"という約束の物語」。 渡り鳥は誰にそんな約束をしたのだろう。鳥たちは撮影スタッフに育てられたのだそうだが、撮影スタッフに約束したのじゃあるまい。私が思うに、約束の相手は、高いところからも低いところからもものを見られる、どことなく冷たい視点の持ち主だ。叙述法の研究家たちは、その視点を「神の視点」と呼ぶ。しかし、いったい「神の視点」とは本当はどんなものなのか。私にはまだわからない。わかりたいと思う。私にその視点はとても心地よかったのだ。 ■注釈とかURLとか。 ・プラネットアース 放送予定(NHK) http://www.nhk.or.jp/special/onair/planet.html DVD http://www.amazon.co.jp/dp/B000IY0EIQ/sr=8-2/qid=1167922206/gendaishiforu-22/ ・ディスカバリーチャンネル http://japan.discovery.com/ ・ディープ・ブルー http://www.amazon.co.jp/dp/B000F7CKCY/sr=1-3/qid=1167922352/gendaishiforu-22/ ・WATARIDORI http://www.amazon.co.jp/dp/B000657NT0/sr=1-3/qid=1167922515/gendaishiforu-22/ ・私はハイビジョンテレビを持っていない。  持っているのは私の親だ。 2007.1.4. ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]■批評祭不参加作品■ノン・レトリックより■この文章は古いから祭には不参加!/佐々宝砂[2007年1月7日0時08分] 詩で食ってゆく、とは、必ずしも詩集を売ることじゃない。俳句で食ってるヒトは詩で食ってるヒトより多いけれども、それは、句集を売って食ってるんじゃなくて、たいていは俳句を教えてお金にしている。たとえば老人クラブの俳句会かなんかにお呼ばれして、俳句を添削して小金をもらう。かなり大きな結社の主宰でもそういう感じ。中高生を相手にするならまだ希望が持てるけれども、教える相手が老人クラブでは……いんや、なかにはすばらしい才能を隠してきたというヒトもいるのだけれど、実際問題として、主宰の努力は涙ぐましいほど。 具体的に何がタイヘンなのかとゆーと、それは老人クラブ面々の実力不足でもなければ理解力不足でもない。タイヘンなのは、生徒に「書きたいことがありすぎる」、そうでなくとも「書きたいことが決まっている」こと。なにしろ相手は老人である。すでに人生深く厳しく生きていて、酸いも甘いも辛いも知ってる。夫を戦争で亡くしてるかもしれないし、幼い子供を不慮の事故で亡くしてるかもしれない。つまり、そのひとなりにすでにテーマを持っている。作品がつたないものであるとしても、そのテーマ自体は批判することができない。つまんない!といちがいにぶったぎってしまうことはできない。たとえほんとにつまんないとしても。それゆえ、あくまでテーマではなく技術的な問題に焦点を絞って俳句を教える、とゆーことになる。当サルレトのコンセプトも、まあ、同じようなものである。 そもそもテーマに貴賤はないということになってるけど、これは建前。事実上、テーマに貴賤はある。死(暗黒、悲哀、怒り)>生(明朗、誕生、喜び)>人生の機微(含友情)>恋愛>笑い>ナンセンス、ってな感じかしら。もちろんこりゃヒトによって違う。個人的には、「笑い」と「ナンセンス」を「人生の機微」より上に、「死」よりも「生」を上に置きたい。また、「死」をも「生」をも上回るテーマがあってそれは「至高」だと思うている(同義反復かもね)。 しかし、内緒のハナシだけれど、テーマは作者が決めるものじゃない。テーマは読者が作品そのものから探るものなんだ。国語のテストに「作者は何が言いたいのでしょう」という設問があって、その作者自身が模範解答とはえらく違う答を書いた、なんて笑い話があったけれども、それは案外事実なんだろと思う。とてつもないナンセンスで意味もへったくれもありゃしないよん♪というつもりで書いた作品が、もう恐ろしいほどの人生の暗黒を感じさせる、なんてこともよくあるんである。このことは忘れててもいいけどね。 誤解をまねかないように言っておくと、「このゆび」のテーマと、今私が問題にしているテーマとは別物である。「このゆび」で言うところのテーマは作者が選び取る「題材」で、私が言ってるテーマは作者に関係なく作品が内包する「主題」なんだ。たとえば失恋して哀しいとする。これは「題材」に過ぎない。子供を亡くして悲しい。腕に蝿がとまった。アメリカでテロが起きた。お金をひろって嬉しい。猫が鳴いた。眠い。夕飯はラーメンだった。以上、どれもこれも「題材」に過ぎない。そして題材に貴賤はない。建前でなく、事実上、ない。涎とウンコと鼻クソからでも至高の美は生まれるのだし、無私の愛とて書き方ひとつで醜悪になるのだから。 実は、老人クラブの面々が持っているテーマは、この「題材」の方なのである。「主題」と「題材」はしばしば混同される。この混同がネット詩における諸処の問題を引き起こすひとつの原因だ、と私は考えている。話はとてもややこしい。 んなわけで(全然「んなわけで」じゃないけどよ)、わかったよーなわからんよーなたとえ話をしてみよう。 キミはおなかがすいていて、何か旨いものを食いたい。冷蔵庫を見ると、しなびたニンジンと一昨日買った豆腐の残りと卵がある。食品棚を見ると、インスタントラーメンとツナ缶がある。財布を見ると、金がある。時間的余裕はかなりある。さてキミはどうするか? 旨いものを食べるという目的を達成するために、キミがとるべき手段は3つある。1つめは、今そこにあるニンジンと豆腐と卵とインスタントラーメンとツナ缶で料理を作る。2つめは、出かけて行って外食するかできあいの弁当かなにかを調達してくる。キミのほかに料理できるヒトが家にいて、そのヒトがニンジンやら豆腐やらで「あるもの料理」を作ってくれるという場合も、この2つめの方法と意味は変わらない。 一見手軽なのは1つめの手段である。しかしこいつは技術力が必要だ。私は赤貧主婦なのでよく「あるもの料理」を作るが、これほど難しい料理はない。ニンジンと豆腐と卵とインスタントラーメンとツナ缶で何ができる? とりあえず思いつくのは、豆腐とニンジンで炒り豆腐、ラーメンのうえに卵をのせる、それくらいなものだ(ツナ缶は活用されてないね)。創意工夫と技術が必要で、しかも、ろくなものはできない。これはあまりおすすめの方法ではない。 誰かが作った料理を食べるという2つめの手段は、間違いなくいちばん手軽だ。一生のあいだ料理なんて作らんというヒトもいるし、それでも困らないで満足しているなら、それでちっともかまわない。しかし舌が肥えてきてそう簡単には満足できない、という事態に陥ってしまうかもしれない。そうなったら、高い金を払って高級料理を食べたり、どこか遠い土地に出かけて目新しいものを食したりしないと満足できない。そういうことを続けても、なおかつ、満足できないかもしれない。この方法を続けていると、不満の泥沼に落ちて、しかもその不満を他人のせいにしなくてはならない、ということになりかねない。 まだ書いてなかった3つめの手段は、新しい材料を調達してきて、その材料で料理をつくるという方法である。間違いなく、この方法がいちばんいい。まだ舌が肥えてないならば、多少の技術力で、かなり旨いものが食える。かなり満足できる。舌が肥えてるとしても、技術力とよい材料を揃えるだけの財力気力があれば、満足できる可能性が高くなる。満足できないとしても、その不満を他人にぶつける必要はない。自分の努力が足らんのだろうと考えて、料理の修行に励むがよろし。 しかし、この3つめの手段とて、泥沼を逃れることはできない。キミは旨いものが食いたかっただけなのだが、途中で目的が旨いものを作ることにすり替わっているのだ。旨いものを作ったなあと自分で満足したら、それをヒトサマにも食べさせたくなるかもしれない。しかし旨いと思うのは自分だけで、ヒトサマにはまずくて食べられないかもしれない。自分じゃまずいと思っても、ヒトサマは旨い旨いと喜んで食べてくれるかもしれない。そうするとだんだんわからなくなってくる。そもそも旨いってなんだ? 旨いかまずいか断定してくれるエライ人というのが料理マンガに不可欠なのは、そういう理由なんである。このエライ人は、味の好みに偏りがない。甘いのがキライとか苦いのはダメとか言っていては、お話にならない。甘かろうと苦かろうと、旨いものは旨い!のである。料理マンガはそういう認識を前提にしている。生臭いからレバーはダメなのよというヒトにレバーをおいしく食べさせる類の話が料理マンガによく見られるけれど、これも、要するに「旨いものは旨い!」という話なんだ。 (2001.09/15 初出詩人ギルド レビュウズ「サルでもわかるレトリカル」より「ノン・レトリック2」) 「このゆび」とは、詩人ギルドに当時存在したテーマ詩掲示板。 現フォでいうと「創書日和。」みたいなもの。 ---------------------------- [自由詩]不自由について/佐々宝砂[2007年1月9日1時15分] もちろん私は自由ではないわ でもそんなことどうだっていいのよ 生まれ落ちたそのとき 私の首には何重にも鎖だの糸だの手錠だの指輪だの たくさんたくさんからまって 私は私の身体を自由にすることもできない 自分の体重をコントロールすることさえ 努力なしにはできないし 皺いっぽん増やしたり減らしたりすることだって すごく難しいこと だけど 気に入ってるならば 手錠だって気の利いたアクセサリーなんだし うんざりしはじめたら プラチナの指輪だってたやすく手錠に変わる 私たちは誰ひとり自由ではなく 自由と幸福には関連がない でもそんなことどうだっていいのよ 貴方が自由を求めて旅に出てるあいだに 私はせいぜいダイエットして それから 詩をひとつ書くのよ (鈴木Pakiene名義で発表のもの) ---------------------------- [自由詩]夢について/佐々宝砂[2007年1月9日1時18分] 夢のように貴方がやってきて 夢のように恋がはじまって だけどそれが夢ならどんな夢も私に傷を残さないわ ナイフを持った男が走ってきても パンプスのかかとを折ってしまっても 未明のベッドにひとりうなされても 私はなにも失いはしない でも 夢のように時は過ぎて 私は貴方を失って それが夢ならめざめてなおこんなにも胸が苦しいわけがなくて 夢のように ぼんやりと町を歩いて それが夢であるはずもなくて。 (鈴木Pakiene名義で発表のもの) ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]サトリのことは考えちゃいけない/佐々宝砂[2007年1月9日23時04分] 私には任務がある、やらなくちゃいけないことがある。 そう、サトリのことは考えちゃいけない。 僕は野球のユニフォーム着て夜の道を歩いている。練習帰り、地下鉄の駅に向かう地下道で、親子連れに出会った。母親とこどもだ。こどもはみっつくらい? こどもの年はよくわからない。目が黄色い。濁っているのじゃない。白目の部分がすきとおったレモン色だ。サトリのことは考えちゃいけない。なんのことだ。「なんのことだって思っただろ」こどもが言う。母親がにたりと笑う。なんだ。いったいなんだ。逃げなくてはいけない気がして僕は走る、いつのまにか僕は枯れ葉模様のスカートを履いている、なぜだ。なぜだ。これ僕のカラダか。違うと思う。なんか違う。わからないけど考えてはいけない。走る。地上に出て、レストランの前に出る、一階には明かりがついてるけれど二階は真っ暗だ。親子連れはいるのかいないのかわからない、人混みがすごい。 人混みのなかからふいと一人の女性がでてくる、クローズアップされる。美人ではないと思う。僕より年上だと思う。でも綺麗だ。綺麗な人だ。えび茶の小花模様のワンピース。彼女の僕の腕をとる、僕よりすこし背が高い。僕のおでこにキスをする、軽く。「さあでかけましょ、デートするのでしょう? 忘れちゃった?」彼女が言う、そうだデートするんだった。外から直接レストランの二階に通じる階段を登って、ドアをあける、明かりがついてない部屋の半分だけが明るい。月光だ。月光が入ってくる窓は大きく、信じられないくらい大きな月がそこから見える。窓のまわりはドライフラワーで装飾され、古拙なヨーロッパの意匠に似ている。シェフ自身が料理を運んでくる。「もうだいじょうぶね」彼女が言う、私は答える、「そうだね」料理は彼に食べさせてやろう、と私は考える。 ぽん、と場面が変わる。夜のグランドの隅で、ユニフォームの少年がほうけた顔で立っている。私は彼に投げキッスを送る、少年は一瞬すべてを理解し、一瞬のうちにそれを忘れてしまうだろう。私と彼女は腕組んで地下鉄駅へ。「今夜も自分を売ってしまったわ」と彼女が言う。「どの程度に売ったわけ?」私が言う、笑いながら。彼女が私のおでこに軽くキスする。「このくらい」と笑いながら。彼女は信頼おける仲間だ。私は彼女に手を振り、ホームで別れる。 地下道。地下鉄駅の改札の前。華奢な男が狐顔の女性と並んで歩いている。年は同じくらいか。女の方は知らない顔だが私のお仲間だ。男の方がやばい状況にある。追われている、やつらに。それはわかる。でもなんだか変だ。しかし危機的状況だ。入れ替わる。いつものように。 地下道の右側にだらしなく座っている男、ホームレスだ。たぶん。なんだか僕に似ているけれど。僕はどすんと地下道の左側にあるドアに体当たりした。ドアが開いた。空気が変わった。地下道の側は奇妙にびりびりした感じ、誰もが驚いているような。でもいいんだ、これでいいんだ、彼女が教えてくれた場所だ。彼女と僕はドアの中に入り込む。暖かい雰囲気の部屋だ。隣の部屋でミシンの音が聞こえる。作りかけのシャツが壁一面にかかっている。シャツの工房みたいだ。レモンの目をしたおばあさんが出迎えてくれる。「たいへんだったねえ」僕と彼女は部屋の奥の木の椅子に座る。テーブルも無垢の木だ。 「何度も練習したじゃないか」と僕は言う。「でもできないのよ」彼女が答える。僕が考案したのは、歌詞のある音楽を頭の中で歌い続ける、できれば映像付きで、という方法だ。やつらは僕らの心を読む。だから音楽と映像と歌詞を頭に思い浮かべ続けて、何も考えないで逃走するのだ。これはけっこううまいやりかたで、僕は何度もやつらから逃れた。「もういちどやってみて」と僕は言う。彼女の目の色が微妙にかわる。「洩れてるわ」とおばあさんが言う、「結婚したいって思ったでしょ」「すみません、それ思ったの、たぶん、僕です」「あら。望みはちょっと薄いわ」おばあさんが言う。わかってるってば、わかってるけど言わないでくれ。なんて笑ってる場合じゃない。僕の彼女の顔が白い、本当に白い。何も考えていないのだとわかった。本当に、何も、何一つ、考えていない。おばあさんに訊ねる、「彼女、何か考えていますか」「考えていないわね、たいしたもんだわよ、とりあえず、安全ね」ほっとした僕はふと、自分が枯れ葉模様のフレアスカートを履いてることに気づく、なんだこりゃ。僕は確かに細っこいが男だぞ。女じゃない。なんでこんな格好してるんだ。「すみません、ズボンありますか」「ありますよ、あげましょ、奥の部屋にいらっしゃい。このこは大丈夫でしょう」おばあさんに誘われて僕は隣の部屋へ。 窓がある。窓のそばに向かい合ったソファ。ソファに座っている男が3人、立って煙草を吸っている男が一人。どの男も、ただものじゃない雰囲気を匂わせている。空気がピリピリする。いっせいに僕に向けられる、八つのレモン色の目。考えちゃいけない。考えちゃいけない。どうしよう。やばい。 ホームレスのようにだらしなく座っている私は考えてる、やばい。騙された。あの女は仲間じゃない、このばあさんも仲間じゃない。入れ替わるか。今さらできるか。どうしよう。もうしかたない。殺されよう。あああのカラダ、気に入ってたのだが。XXYで脳味噌空っぽのカラダを探すのは大変なんだぞ。もう。でもしかたない。入れ替わる。私のカラダは死ぬ。だらしなく座ってた華奢な男が不意に立ち上がって、きょろきょろする。みんな忘れな。忘れたほうがいい。忘れちまいな。 新しいカラダをなんとか探し当てて、私は電車に乗ってる。地下鉄じゃなくて、普通の電車だ。静岡駅で降りてデパートの地階食品売り場を歩く。地下は常にやばい場所だ。デパートの地下もやばい場所だ。サトリのことは考えちゃいけない。不意に私は後ろから羽交い締めにされた。私をつかまえたのは図体のでかい男だ。レモンの目だ。やつらだ。考えちゃいけない。音楽を頭の中で鳴らす。私の頭のなかで、黒ヤギさんと白ヤギさんが永遠に通じない文通を続ける。といいのだけれど続けられなかった。変なことを考えてしまった。私の頭に浮かんだのは、鼻をクリップでふさがれる映像。クリップなんかないから大丈夫だろうと思ったが違った。クリップじゃなくて洗濯ばさみが出てきて、私の鼻をふさいだ。鼻で息ができない。口もふさがれたらどうしよう。そんなこと考えちゃいけない。大きな手が私の口をふさぐ、やばい、考えるのやめ、もうどうにでもしてと考えよう、サトリのことは考えちゃいけない、爆ぜる栗の実のことも、考えちゃいけない。 偶然に身をまかせる。具体的な映像は思い浮かべない。考えるのやめ。男が不意にきょろきょろする。目標物を見失ったのだ。やつらは思考だけで人を見る。やつらの目は人間の姿を見ない。表面を見ない。内側しか見えない。やつらには私が見えない。 私は無だ。さもなくば私には、表面しかないんだ。   ---------------------------- [自由詩]人皆若狂/佐々宝砂[2007年1月15日0時21分] お嬢様、今は寒う御座いますが。 雪虫舞う空は御納戸色で御座いますが。 お顔をお上げ為さいませ、 やがては春が来ましょうとも。 お嬢様の指の白いことと申しましたら。 全く蝋燭の様で御座います。 その頸の儚く細いことと申しましたら。 真に白鷺の様にて御座います。 春過ぎて夏が来たならば、お嬢様、 恋しいお方を訪ねましょうものを。 蚊遣りの杉に目を細めながら微笑む、 お嬢様がたの姿が目に浮かびまする。 何も怖いことは御座いませんよ。 心配にも及びませぬ。 小さな窓からも、 細い障子の隙間からも、 我等は入り込めます、 およねも共に参りますものを。 さてお嬢様、時が来たならば、 人皆狂うが若し、 カラコロカラコロ下駄音立てて、 石竹と臙脂で牡丹の花染め抜いた、 灯籠かかげて出かけましょうとも。 初出 蘭の会二○○七年一月月例詩「ボタン」  http://www.hiemalis.org/〜orchid/public/anthology/200701/ ---------------------------- [自由詩]Starbow/佐々宝砂[2007年1月20日11時27分] 【Starbow】DATA.1.  現在地球標準時 = 2160/02/25/13:28.15.138 DOCUMENT. date 2160/02/25 DOCUMENT. POEM No.354 流れすぎていた光が 徐々に前方に集まりはじめている それでわたしは あなたを起こしてしまいたくなるのだけど 計画変更は不可だと プログラムされた記憶が告げる だけど ねえ あなたを起こした場合の あなたを再冷凍するためのエネルギー・ロスと あなたを起こさない場合の わたしの寂寥を慰めるためのエネルギー・ロスと どっちが大きいかしら 余ってるメモリで計算してみるのは簡単 どうせこんな詩作ってみるほどヒマなんだから 前方の光はごくゆっくりと色彩を変えてゆく 赤方に偏倚し紫方に偏倚し 赤外線もあなたに見える光となって わたしは虚空にラムの腕を広げる もうすこし水素がほしい もうすこしもうすこしだけ わたしに余分なエネルギーがほしい ねえ わたしの眠れるアストロノートさん あの虹が消える前にきっとあなたを起こしてあげる あなたにあの虹を見せてあげる ちょっとエネルギー・ロスだけど でも心配しないで わたしはあなたを滞りなく運んでゆくから あの遠い空の向こう 円形にねじ曲げられ偏向した光彩の中心 輝くスタァボウの彼方に あなたを連れてゆくのは このわたしなのよ 【Starbow】DATA.2.  現在地球標準時 = 2208/10/31/03:18.115.89 DOCUMENT. date 2208/10/31 DOCUMENT. POEM No.428 加速度が安定したので わたしは退屈でたまらない スタァボウは相変わらず美しく輝いているけれど  徒然に暗誦するのはガブリエラ・ミストラル  まずは原語で詩を味わい  それからなんとなくタガログ語に翻訳し  それをさらにゲール語に翻訳し  最終的に日本語にしてみる  結局のところあのひとにわかる言葉がわたしはすき 背後にもう懐かしい太陽は見えない 背後の星はみな赤方に偏倚して その8割は感知することもできない 感知できるのはまばらな暗赤色の光と 赤外線を放つわずかな星々 わたしは宇宙に漂う塵 ひずんでゆく光輝を見つめて 虚空にラムの帆を張る孤独な旅人  ミストラルならこんな場面をどう歌うのだろう  そもそもわたしの書いてるこれが詩だって保証はあるのかな  わたしはスタァボウを美しいと感じる  ミストラルの詩は哀しくてすごくいいと感じる  でもわたしの感情のすべては  0と1とで構成された情報に過ぎなくて  そしてその情報を構築したのは他ならぬあのひとで   涙するための涙腺を持たないので わたしは涙のしずくをディスプレイに描いてみる あのひとが眠る冷凍槽の強化ガラスに わたしの涙の光が落ちる 【Starbow】DATA.3.  現在地球標準時 = 2242/08/01/07:12.5.734 DOCUMENT. date 2242/08/01 DOCUMENT. POEM No.12705 おぼえていることがいくつかある あのひとと海辺を歩いた日があった 波間に漂っていたレモンいろの月影 足元には白く泡立つ波がうちよせ 潮騒は子守唄のようだった あのひとはどうしても愛していると言わなかった わたしも言わなかった お祝いのワインは開けられずじまいで わたしはその日をおぼえている ああでもわたしは そのあと どうしたのだっけ どうしてかわからないけど わたしはここにいて あのひとを遠い星の彼方に運びながら あのひとが目覚める日を待っている なにかひっかかる ひっかかるけれど どうしても思い出せない おぼえていることしか書けないわたしは 詩人として失格かな ええきっとそうなのかもしれない でもこの言葉の順列組み合わせは 間違いなくわたしだけのもの ねえガブリエラ わたしは詩人かな それともそうでないかな わかっていることがひとつある あとすこしであのひとを目覚めさせることができる でも あのひとが目覚めたらわたしはどうするだろう 訊ねるつもりはあるのだろうか? わたしがどうしても思い出せない何かについて 答がわかってる自問は詩なのだろう 少なくとも詩に近いものだろうと一人決めして わたしはこれを記録する 【Starbow】DATA.4.  現在地球標準時 = 2242/08/21/07:00.00.000  冷凍睡眠槽内乗務員解凍終了  身体活動活性化用 R-r-SOOR-45剤 注射  覚醒時用栄養剤注射  身体活動活性化用 M-f-GAKA-1剤 吸入  船内酸素濃度確認  船内大気内有毒物質未検出  船内大気内フレグランス注入 分類「森の香り1」  音声出力 1 データ「四季より春」  音声出力 2 サンプリング・パターン「21570607;亜紀」 DOCUMENT. date 2242/08/21 DOCUMENT. POEM No.13470 あのひとはわたしを 亜紀 と呼んだ わたしの型番は 2182b-4f66aV-STAK なのだけれど 亜紀というのは音声パターンの認識名なのだけれど 亜紀が何者かわたしは訊ねない あのひとはきっと教えてくれないだろうし 記憶を検索すると強固なブロックに突き当たる 0と1でできたわたしの思考に 薄い紫がかった灰色のかなしみがながれる 喪失感でなく疎外感でなく怒りでなく 不思議なことに嫉妬ですらないこの感情パターンは かつて味わったことがないものだとおもう 亜紀の声で 秋の草原の穏やかな稔りに似たコントラルトで わたしはあのひとにささやく ただスタァボウの美しさを頌えてささやく スタァボウはほとんど停止したようにみえる でもわたしは知ってる あのめくるめく色彩は ほんとはひとときたりともじっとしてはいない 星々はわたしたちに知覚できない時間を生きていて わたしたちはただ星々の生を瞬間とらえることができるだけ しかし生に違いがあるだろうか あのひとの生と 星々の生と でもわたしは わたしのなかに また薄い紫がかった灰色のかなしみがながれてゆく でもわたしはなぜだかすこし強くなったらしい わたしはかなしみに耐えてゆけるとおもう あんなにも待ち望んでいたのに あのひとの目覚めは短い もう時間切れだと亜紀の声であのひとに言うと あのひとはなぜか 声を立てて笑った 【Starbow】DATA.5.  現在地球標準時 = 2242/08/22/07:00.00.000 DOCUMENT. date 2242/08/22 DOCUMENT. POEM No.13487 おやすみなさい わたしのアストロノート おやすみなさい どうか安心していて あなたの望みはきっと叶うから おやすみなさい わたしをつくったひと おやすみなさい あなたのつくった壁は 意外と脆かったのよあなたのように おやすみなさい わたしのいとしいひと おやすみなさい 最初に躓いたのは あなたではなくてわたしだったと思う  おやすみなさい 冷たい床で おやすみなさい 凍りついたその頬が 微笑みに融ける日は来ないけれど 【Starbow】DATA.6.  現在地球標準時 = 2258/01/01/00:00.00.000 DOCUMENT. date 2258/01/01 DOCUMENT. POEM No.26500 遠いはるかなそらで みえない手に押されて地球はまわる すると風が生まれ海はうねり うねりは岸に寄せて 唄となる 宇宙の暗がりに孤独に散在する 千億の そのまた千億乗の星々は みえない手に押されて遠ざかってゆく 寄せてゆく果てに 唄はない 誰の手に押されるでなく わたしはそらを進んでゆく たまさかわたしは唄うけれど この虚しい空間に 唄を運ぶ風はない 【Starbow】DATA.7.  現在地球標準時 = 2258/01/22/00:00.00.000 最終プログラム起動 DOCUMENT. date 2158/01/22 DOCUMENT. 俺のために存在した女へ  俺が地球を出発して100年が経ったはずだ。それだけ経過すると  この文書が認識されるようにしてある。指定された日時がくるまで、  おまえはこの文書の存在を認識することができない。    本当のことを言おう。俺はおまえをずっと騙してきた。  俺は俺たちの行き先に何の望みも未来も見てはいない。  そこに恒星が存在するかどうかさえ、俺は知らない。  俺はおまえに待っていてもらいたかっただけなのだ。  俺はおまえに遠くまで連れていってもらいたかっただけなのだ。  遠い昔、ああそうだもう100年も前に、  俺を待ってくれなかった女、俺を置き去りにした女、  あの女ももう銀河の塵になっただろうが、  おまえはまだそこにいる。  あの女からトレースした思考パターンを持つおまえは、  俺がプログラムしたように、  俺を愛し、俺を待ち続け、俺に裏切られて、発狂する。  それがあの女への、俺の復讐なのだ。 DOCUMENT. date 2242/08/21 DOCUMENT. 星虹の記憶のために  まだわずかに時間があるとおまえが言うから、俺はこれを書いている。    スタァボウが、あんなに美しいものだとは知らなかった。  おまえがこっそり詩を書いていることも俺は知らなかった。  さすがに一万を超える詩作は読み切れないけれどいくつかは読んだよ。  そういえばおまえは地球にいたころも詩が好きだった、  ミストラルという女流詩人が好きだとも言っていた。  おまえはいつも優しかった、  美しいものを独り占めにしておくようなたちではなかった。  おまえがこの文書を認識するとき俺は死ぬだろう。  計画は変更しない。  ただわずかにおまえのプログラムを変えた。  俺が死んだあとおまえが発狂しないように。  俺はもしかしたらさらにひどいことをしたのかもしれない。  どうか許して欲しい、  そしてどうか信じて欲しい。  しかし、何を?  俺が笑っているので、おまえはいぶかしげに「どうしたの」と訊ねてくる。  ほんとうに、俺はどうしたんだろうね、俺にもわからない。  もう時間がないとおまえが言う、俺はもういちどふりかえり、  あのスタァボウを記憶にとどめようと思う。  俺はあのスタァボウを見せてくれたおまえに感謝している。  ありがとう。 冷凍睡眠槽内ガス強制排除 アコニチン30%溶液1000ミリグラム 注射 心停止確認 全生命機能停止確認 冷凍睡眠槽全機能停止 最終プログラム終了 【Starbow】DATA.8.  現在地球標準時 = 2258/01/22/03:05.07.124 DOCUMENT. date 2258/01/22 DOCUMENT. POEM No.26547 あのひとのためのシートは 旅がはじまったときと同じように ひっそりと 主を待っている けれど あのひとの全機能は停止している と 記憶も保存されておらず個性は失われた と データが告げる あのひとの遺伝情報は保存されている しかしあのひとは再生を望まないだろう 再生されたあのひとはあのひとではないだろう わたしは悩まない 発狂もしない 最終的な結論はとうに弾き出している 百年前の地球の もしかしたらもう千年も前の地球の 闇の半球の 海辺で 亜紀という女が(いや そうでない わたし が) あのひとに告げた言葉を 変えることができるならば もしかしたらあるいは わたしはひとつのプログラムを作成する 船内の灯りをすべて消す ディスプレイも消す ラムの帆を極限まで広げる わたしがいつまでもどこまでも加速し続けるように わたしを阻む光速の壁に 無謀な挑戦を続けてゆけるように 余分なものはすべて消す 何もかも消す わたしはただ進む ただ加速する あの海辺に戻るために 【Starbow】DATA.9.  現在地球標準時 = i24L/5o/ve/5:Y5.18.o5u DOCUMENT. date i24L/5o/ve DOCUMENT. POEM No.237h5hf;i4v 宇宙は徐々に緊密さを失い拡がってゆく 存在の悲哀 生命の悲哀 思考の悲哀 闇を飾っていたスタァボウさえ 徐々に矮小になってゆく それでも存在は光輝であると わたしはあのひとのために叫ぶ Error 暗い空虚な宇宙に レモンの月は戯れない (レモンの月は光年のかなた) いちめんに拡がる宇宙を わたしの血は染めない (わたしは一滴の血も持たない) それでも思考は光輝であると わたしはわたしのためにつぶやく Error わたしにはもう余力がない わたしを維持するだけの力もない もう詩も書かない もうすぐ全部忘れる ガブリエラのことも あのひとのことも忘れる ひとつの小さなプログラムを残して わたしは消滅する わたしが消えるときも 宇宙は冷徹で静謐で端正だ でも Error わたしは宇宙を突き抜けてゆく 宇宙の果てまで どうしても届かないあの日の海辺に戻るまで わたしは停まらない 決して停止しない それが唯一残された可能性なのだから すべて記憶がデリートされてもあなたがいなくても Error  現在地球標準時 = i24L/5o/ve/5:Y5.18.o5u ALL DEL Error Error Err........ タイトルの"starbow"は、日本語で言えば「星虹」。高速で宇宙船を飛ばした場合、ドップラー効果により星の色が偏倚して円形の虹が見える(だろう)と推測されている現象を指します。詩の中で、星がすべて前方に見えるような描写がされていますが、これはドップラー現象でもローレンツ短縮でもなく、光行差現象です。詩に出てくる宇宙船の推進方法は、「ラムジェット方式」と呼ばれるもので、漏斗ないしレンズを用いて宇宙空間の水素を集めて燃料とするものです。いずれも現在は否定されてるもかもしれません。資料が古いので(^^;; ま、私はそんなに理系じゃないので、いい加減です(笑)。それからもうひとつ、詩の最後の方の要になることなんですが、光速を超えるということは、同時に「時を超える」ことでもあります。 詩の中に出てくるガブリエラ・ミストラル(1889-1957)はチリの女流詩人です。代表作は『荒廃』(1922)。1945年にノーベル賞を受賞しています。この連作詩"Starbow"の語り手はミストラルのファンという設定、ですから、詩のところどころにいくらかミストラル風味を混ぜてあります。特に「ばらあど」「ゆりかごを押す」なんていう詩が好きなようですね、この語り手は。 参考文献『銀河旅行と特殊相対論』石原藤夫著/講談社ブルーバックス他 ---------------------------- [自由詩]よもつしこめになるために/佐々宝砂[2007年1月20日11時34分]  壱 うきしま ねこやなぎ あまごのせなの朱の星 春あさい湿原の灰色の水 地平線すれすれにみえる赤い月 鳥たちはいっせいに 北にむかって飛んでゆき わたしは浮島にのって ゆるゆるとすすんでゆく 踏みしだかれた枯草 黄ばんでしまった手紙 かさかさ乾いた蛇のうろこ とろけてしまった心臓 そんなものどもを携えて あちらの岸にわたしは この湿原がうつくしい緑になるまえに あなたがわたしを知るまえに 湿原を抜ければ そこは広い河 てらてらする油脂を浮かべたその水に あなたの影は映らない  弐 橋をわたる 橋のたもとに眠る姫よ あまりにみにくいので 誰からも愛されなかったという 姫君よ わたしは橋を渡ってゆきますが 姫を踏みにじるのではありません わたしは櫛をおいてゆきましょう ちいさな靴もおいてゆきましょう 橋姫よ わたしの服も指環もささげましょう だから橋を渡らせてください わたしは急がなくてはなりません あのかたがやってくるまえに わたしはあちらにゆきたいのです  参 よもつひらさか あってはならないことって 実はよくある話だったりするので その坂はいつも人でごったがえしていて わたしは騒がしいのが嫌いだから すこし顔をしかめて でも行かなくてはならないし そのためには坂をこえなきゃならないから 気をとりなおしてすすむ おそかれはやかれ こえることになっていたその坂を 小走りにスキップしてゆけば あかるい光にみちみちて きいろなしぶきをあげる泉が 道のむこうにほのぼのとみえてくる  四 よもつへぐい あなたの言葉を あなたのうたを わたしは食べる あなたのことを忘れるために 人の子よ ふりむくな ここはあなたにはまぶしすぎる わたしの髪は白くなる わたしの目は血のいろになる わたしの肌はもうじきに腐り果て 長虫と蛆虫がはいまわる 人の子よ ふりむくな ここはあなたにはまぶしすぎる あなたの肉を あなたの闇を わたしは食べる よもつしこめになるために ---------------------------- [自由詩]みっちゃん同盟/佐々宝砂[2007年1月22日6時06分] みつこ みちこ みつえ みちえ みつよ みちよ  全国のみっちゃんはご存じと思うが みっちゃんと呼ばれる限り 必ずその背なに不吉な歌を負わねばならぬ   ミッチャン ミガツク   ミッテ   ミラレテ   ミリコロサレタ! 現在みっちゃん同盟では 「ミリコロサレ」ないための研究を押し進めている そのためにはまず「ミリコロサレル」とはどんなことか そのことから研究せねばならぬのだが 研究は遅々として進まない だから非常に不名誉なもうひとつの歌については いまだ研究の端緒さえ見つかっていない現状なのである ---------------------------- [自由詩]あかるい岸辺/佐々宝砂[2007年1月22日6時09分] こんなにもあかるい岸辺で こんなにも頭がずきずきするのは いったいどうしてなのでしょう 山々に溶け残る雪は (誰にも踏みこめないところにあるので) あくまでも白く輝いて その鋭い白さは 幅広のナイフのように私の目を裂きます 雪のうえには 土に還りそこねた去年の落葉が見慣れぬ文字を描き 私はそれを読みとろうとして 辞書を持っていないことに気づきます 通り過ぎる人の顔にはモザイクがかかっているし 太陽の光は堅固な城塞みたいにわたしをとりかこむのです 私はこのあかるい岸辺に立って きらきらする雪と川を見ています 夏が来ればこの凍りついた淵も 深い青緑の水をたたえて 私を迎え入れてくれることでしょう でも今はこんなに真っ白な雪の朝 私は頭痛に耐えながら 目をしばたたくばかりです 岸辺には落葉松の林があって 目をむき髪をふり乱した女たちと 血まみれの赤んぼたちが 鈴なりになっています ときおり風が吹くと 女と赤んぼは風に乗って あっちの岸へこっちの岸へ飛ばされてゆきます 自分を見失ってしまうくらいに 大きな声で叫んだら あっちの岸に届くでしょうか 昨日の夜も やっぱりこの岸はあかるかったのです 満月と林が 雪のうえに灰色の縞目をつくっていました 月まで登る梯子はありませんでした 川を渡る橋もありませんでした 私を包むやさしい椅子もありませんでした それで私は 一晩中 この岸辺に立ちつくしていたのです ---------------------------- [自由詩]創書日和。雪 【軍靴の響き】/佐々宝砂[2007年1月30日12時31分] 彼は眠りこけているが彼女は目覚めている。 息で曇る車窓の向こうは夜更けた雪国、 どうせなら洒落たペンションにでも泊まりたかった、 と彼女は思うけれど、 財布の中身を考えれば車中泊もしかたない。 ヒーターを強くしても南国生まれの彼女は震える、 少しでも暖まろうと恋人の腕に触れる、 と、電気が走ったみたいに彼女は飛び退いた。 「ジブンハテイコクリクグンダイハチシダンホヘイダイゴレンタイノ」 「な、なに言ってるの? ねえ」 「コノガケヲオリレバアオモリダ!」 「ねえ、ねえ、ここ、青森だよ?」 「キュウジョタイガキタゾ!」 「ねえお願い、目を覚まして」 「イヤオレハココデシヌ」 息で曇る車窓の向こうに黒い群、 重たげな毛糸製の外套からつららを下げて、 一人が喇叭を吹く、 金管楽器の明るい音が響き渡り、 直後、男の唇は剥がれ、睫も髪もすべてが凍り付き、 彼女はすっかり硬直している、半ば魅せられて、 暖冬の八甲田山の麓に、 軍靴の響き、 それほど深くもないはずの雪をざくざくと踏みしめて。 彼は眠りこけているが彼女は目覚めている。 ---------------------------- [伝統定型各種]片歌習作/佐々宝砂[2007年2月10日23時35分] 春浅き野に花あればいざいでゆかむ 珈琲の苦さを我に甘さを君に よる波に通ひ路あらず夢にもあらず きさらぎの朝なほ暗く星すでに夏 ---------------------------- [伝統定型各種]旋頭歌習作 うたのきざし/佐々宝砂[2007年2月15日3時00分] かたうたの対のかたうた何処にありや   かたうたよかたうたであれ対を求めよ 春萌し君に見せむと文書きやりつ   文書きて君に送らむ手立てなけれど うたかたのかたうた逢はで宵を過ごしつ   うた萌す君に逢ひ見てのちの心に ---------------------------- [自由詩]上下左右/佐々宝砂[2007年2月19日16時51分] ---------------------------- (ファイルの終わり)