佐々宝砂 2006年3月15日2時20分から2006年5月21日19時48分まで ---------------------------- [自由詩]さよなら/佐々宝砂[2006年3月15日2時20分] 何が残っていただろうかとポケットをひっくり返す というのは私の好きな詩人がすでにやったことの二番煎じなので これはまずいと思い 何が残っていただろうかと自分を裏返す 粘膜 血液 脳漿 内臓 裏返してみるとなかなかたくさんあるもんだが それが役立つかどうかはまったくわからない 私には確かに必要なもんだが 誰に受け止めてもらえるもんでもないだろう と思いながらさらに自分をひっくり返す できかけの尿 未消化の食い物 消化された代物 まあこれだけ腹をかっさばけば臭いよ 誰だって内臓裏返して中身ぶちまけたら臭いよ 人間だもん いや人間だからではないな イキモノだもん いやイキモノだからでもないな ゾウリムシ的イキモノはかなり清潔だもんな 私は哺乳類で 哺乳類の中身はたいていとてもキタナイのだ それはそれでいいとして っていうかそれは私のものなので 私にはどうしても否定できないが それはともかくいいとして 私にはもうこれしかないよ これしか残ってないよ それでもいいなんてひどいことは言わないでくれ 頼むから言わないでくれ お願いだから言わないでくれ ずるずる引きずる内臓とその中身の残滓 その程度ならくれてやるから お願いだから さよなら ---------------------------- [自由詩]流人/佐々宝砂[2006年3月15日2時39分] 地球上に私の居場所はない でも居場所くらい自分でつくれると思った でかい大陸は無理だったが ちいさな島をつくるのはそんなに難しくなかった 島をつくったとたん流人たちがやってきた できたての島は栄養不足だから みんなで排泄物をまく それはそれで臭いながらも栄養豊かなので すてきに作物が 米が麦がトウモロコシが稔る たまに私の腕から生えてきて稔ってしまったりもするが 食ってしまえばいいだけだから そう不快ではない だけど私の居場所はまたなくなる だってここはもう 私の土地ではなくてあのひとたちの それで私はまたでかける 私のなかにはもう排泄物すらないので (いやほんとはあるのだけどそれはもう私のものではないので) 材料乏しいまま海砂利こねて島をつくる するとまた流人たちがやってくる にこにこ笑いながら すこうし恥じらいながら あるいは泣きながら それからよくありがちなことには怒りながら 力いっぱい垂れ流す すると島は豊穣になり 豊かな作物を 米を麦をトウモロコシを稔らせ それで私はまたでかける またもしつこく島をつくる 殴っても蹴っても殺しても 流人たちは新たにやってきて かれらにすべてぶんどられて それでも支配してるのは私で ---------------------------- [自由詩]I gotta love you/佐々宝砂[2006年3月15日3時12分] 星砂は生物の死骸で きらきら光ったりはしない でも星砂はそれなりに夢の結晶 そういうものならあげられる ビオトープには囚われのメダカ アクアリウムには透明なナガスクジラ プラネタリウムのどこかにはきっと 本物の赤色巨星が鎖ざされていて でもそういうものはあげられない 今夜は満月だよ空を見よう 血迷うくらいに空を見よう 満月なんだから すこしくらいおかしくてもいいんだ 甘い蜜がほしいのだったらあげる ぬくもりがほしいのだったらあげる そういうものならたくさんあげられる きらきら光ったりしない私のかけら こんなものでいいならあげる 星砂みたいな 顕微鏡でみたら わりとグロテスクな でもそれはそれで夢の結晶の きらきらの月だって望遠鏡で見たら アバタだらけだし 食べられてたべられて目減りして 夜空を見上げればやっぱり満月で 満月で 満月なのに 狂わないのはどうしてなんだろうね ---------------------------- [自由詩]I'm here/佐々宝砂[2006年3月15日17時58分] 白いTシャツの下には ブラジャーしてない そんなもん一年くらいしてない めんどくさいから ってのが理由じゃないけど ほんとは I'm here I'm here これ昨日読んだ詩の蒸し返しの裏返し だよねとあかるく笑う断髪 と見えてるといいなあ というか透けてるでしょ と書くのはバカかなあ と 我在此郷 我在此郷 如何なる言の葉を用ふれば 君に伝はるものぞ 地は花の季節迎へんとし 桜の固き蕾日々に解れゆけど 我すでに稔りのとき過ぎて 等々 と書くと君は怒りませう 私どもに未だ時は在るのです 時は巡り巡り私どもは明滅し 今年も又このやうに春訪ひ 明日消えゆくとも 私は君に会ふでせう 私は此処にゐます 私は此処にゐます ---------------------------- [携帯写真+詩]明日には消える/佐々宝砂[2006年3月16日0時21分] 片足だけ靴履いて レプラコーンに会いに行こうよ どこにも続かない道を どこまでも行こうよ ---------------------------- [自由詩]安全剃刀/佐々宝砂[2006年3月28日0時45分] 寝ても覚めても と言ったら嘘になるので 覚めているときに話は限定されるが 覚めているときは いつも 同じことばかり考えている 眠る私はきわめて自由で 木製の魚にまたがって 月まで飛んでみたりもする 誰だかわからない人と手に手をとって うすむらさきの夜空を滑空したりもする そこにあのひとは出てこない 出てきたことはない 逢いたいひとは夢にすら出てこない 見たい風景は記憶のなかにすらない 大切なことは 大切なことだけは 話せない 甘すぎるカクテルはどうしても飲めない 鼻をつまんで喉に流し込んでも絶対逆流する だから 特別に苦いライム皮すりおろし入りジンライムちょうだい と 今度逢ったら言うことにきめて 私は夜のベッドで飛翔する ひとり 自由に あのひとを遠く地上に残して ---------------------------- [自由詩]さよならからはじまる/佐々宝砂[2006年3月28日1時06分] じきに三月尽であるからして 桜満開 梅は散った 夜のあいだ働いて 朝がきたら酒を飲む なまぬるい部屋で カーテンを閉ざして なにもかも逆さまで だってほら 無言に近い状態で酒飲み倒して けっこう私は酒つよいから そっちが先にわけわかんなくなって 私はわけわかんないふりして おたがいのこと知る前にやることやっちゃって そんなこんなで キスしたのが先々週で 音楽の趣味が一致してるとわかったのが先週で 名前教えてもらったのが昨日だ いまだに苗字も携帯も知らない そんなのありか あるわけなのです 当然です そういうわけなので 先にさよならを言っとく 三月尽はさよならの季節 さよならが多すぎるから ひとつくらい増えても害はないよ なにもかも逆さまなんだから いまに桜がつぼみになって 梅がつぼみになって それから氷がはって 冬がきて そんなこともあるかもしれない なにもかも逆さまなんだから さよならからはじめよう ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]いつもポケットに詩人/佐々宝砂[2006年3月31日20時31分] 私の仕事はガテン系なので、仕事中は、いわゆるカーゴパンツ、動きやすく、大きなポケットがいっぱいあるズボン、それも男物を穿いている。男物の服のポケットは、女物のそれに比べると段違いに大きく使いやすい。財布が入るのは当たり前で、手帳が入る、携帯が入る、軍手が入る、カッターナイフもガムテープも入る、なんて便利なんだろう、と思ってからかなり経ってふと気づいた。このサイズなら文庫本も入る。京極夏彦の本みたいにあまりにも厚いのは入らないが、普通の厚さなら入る。 そう気づいてからというもの、私のカーゴパンツのポケットには、いつも本が入っている。昨日はラフカディオ・ハーンの『骨董』を入れていた。今日はエドワード・リアの『ナンセンスの絵本』。長い小説だと短い休憩時間に読む気にならないから、短編集や詩集をポケットに入れる。それもはじめて読む本ではなく、何度か読んだ大好きな本を入れる。めちゃくちゃ疲れる仕事で本なんか読めないようなときもあるけど、それでも私は本を持ってる。 今日、こういう本って、私にとってお守りなんだな、と、ポケットにリアのナンセンスな本の重みを感じながら思った。そしてリルケの『マルテの手記』を思い出した。あれを読んだのはもうずいぶん前のことだから正確な引用はできないけれど、マルテがミルクホールだか図書館だかで「僕は一人の詩人を持っている」とかなんとか考えるシーンがある(曖昧ですまない)。 私は時に、広い倉庫や工場で何百人かと働く。その何百人かのうちで、ポケットにラフカディオ・ハーンやエドワード・リアを入れてるのは、きっと私一人だと思う。そんなこと、ほんとにたいしたことじゃない。特別っていうほどのことでもない。でも、ポケットの中の詩人は、単調な流れ作業のなかにいても、重い荷物を運ぶ肉体労働のさなかにも、私を私でいさせてくれる。現場においては一個の歯車に過ぎない私を、人間的な私、私らしい私でいさせてくれる。 いつもポケットにいてくれる詩人たちに、私はお礼を言わねばならないようである。 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日本に生まれた私はケルト文化好きで、子どものときから「なんだか好きだな」と思うものがたいていケルトに属してた。その逆がきっとあるとおもう。私がヨーロッパのどこかに生まれ育ったとしたら、きっとものすんごい日本びいきだったとおもう。すごくすなおに日本大好きって言えたんじゃないかとおもう。でもその場合、私はいまみたいにすなおにケルト文化大好きなんてことは言えなかったんじゃないかな。その土地に生まれ育てばこそ、その土地の持つ確執を知ってる。アイルランドとイギリス、ウェールズのきしみを知ってる(知らないとしたらアホだろ)。自分の住む土地についての感情は複雑で、とてもひとことでは言えない。でも暮らしたことのない土地、半端な知識しか持たない土地についてなら、人は簡単に好きだの嫌いだの判断を下せる。 と、ここまで書いてきてふと思ったが、愛国心を法律で規定ってのは、めんどくさくないね。むしろその逆だね。愛する対象を法律で決めてもらうのだから、なんも考えなくてすむじゃん。国を愛しなさいそれが当然だといわれて、そうだよね、それが日本人として当たり前の義務というもんよね、と思って愛することができるのだとしたら。 でもなでもなあ、一個人を愛したり憎んだりする自分の心だってままならないってのに、nationを愛する心が自由になるかってのだ。他の人はどうか知らんが、私の心は実に不自由なので、自分が何を愛するか自分では決められん。もちろん法律でも決められん。つーか誰にも決められん。こんなとこでカミサマだの運命だのは出しませんよ。ブラウン運動で花粉が動くみたいに私は動く。自分の意志でなく運命でなくただそうなっちゃうのでそうなる。 てなわけで結論も出さずだらしなく私はおでかけするのです。好きなものは好きよ。好きなひとは好きよ。私は戦争よりセックスがしたい、自分の意志でなく運命でなく、ただ私はそういうたぐいの人間だから。 bye! ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]異形の詩歴書 〜10歳/佐々宝砂[2006年4月14日2時00分]  まず、母について語らねばならない。  私の母は、かなりとんでもないヒトである。イナカ住まいの高卒のキャディーだというのに、創刊号からSFマガジンを購読し、本棚には中国文学と江戸文学とハヤカワポケミスと創元ロマン全集を取りそろえ、山頭火と杜甫をこよなく愛し……そんな調子で今もますます健在だ(最近じゃ松本亀次郎の研究をやってるらしい、よく知らないが)。しかもこのひと無敵のミーハーだ。ハワードのコナンの話なぞしようものなら、涎を流さんばかりの顔になる。  このとんでもない母は、小学校に入りたての私に、いきなり百人一首と俳句と漢詩を教えようとした(しかもその俳句ときたら最初っから自由律の種田山頭火なのだぜ、かーちゃんのばかやろー)。幼稚園のころは放任でヒラガナひとつも教えようとしなかったから、私は、歴史的仮名遣いと新仮名遣いをほぼ同時に覚えたことになる。  母の教育は英才教育ではなかったし、スパルタでもなかった。母は、単に、自分の好きなことについて語り合う相手がほしかったのだと思う。それで小学生に向かって杜甫……ああおかあさま、あれはいくらなんでもムリでございました。漢字がわけわからなかったので、私は漢詩がすきにならなかった。でも文語体と歴史的仮名遣いはアタマに充分浸透した。  とはいえ、やはり小学生は小学生なのだ。8歳の私は、百人一首の恋のうたを暗唱しながら、その意味なんてまるでわかっちゃいなかった。ただ暗唱してるだけなのだから、オウムみたいなものである。最初に覚えた短歌は「古の奈良の都の八重桜……」だ。この続きはご存じのように「けふここのへににほひぬるかな」なんだが、これを歴史的仮名遣いではなく新仮名遣いで読むのが、小学校低学年の私にはおもしろく思われた。つまり、音がおもしろかったのだ。  それを見てやはり年相応のものを与えようと思ったのかどうか知らないが、そのころだ、母が私に谷川俊太郎の『ことばあそびうた』を買ってくれたのは。私は、その本が、ものすごく、好きになった。コトバには意味がつきまとう、詩は絶対に意味から逃れることはできない、だとしても、ひとはコトバで遊ぶことができる……そんな複雑なことは考えもしなかった。私は単純にコトバをおもしろがった。私が大好きだったのは「だって」だった。「ぶったって/けったって/いててのてっていったって」……どうやらこのころから私は根くらい性分であるらしい。  同じころ、母は『マザー・グースのうた』を買ってくれた。とてもおもしろかった。でもおもしろいだけではなくて、どこか怖くて、だから好きだと思った。私は『マザー・グースのうた』を貪るように読んだ。ひねくれ小路のひねくれ男や、何にもしないばあさんや、弱っちい仕立屋さんや、ほかの鳥のたまごを吸っていい声で歌おうとするかっこう鳥なんかが好きだった。私はその続きが翻訳されるたびに母にねだって買ってもらった。マザー・グースはご存じのようにイギリスの童謡だけれども、私が最初に読んだものは谷川俊太郎の翻訳である(いまは新潮文庫からでてるが、うちにあるのは草思社からでていたハードカバー版)。それで、マザー・グースというと、どうしても谷川のコトバで、堀内誠一のイラストつきで浮かんでくる。ちいさいころにしみとおった記憶は、いつまでも抜けそうにない。  『マザー・グースのうた』と『ことばあそびうた』は、今読んでもやっぱりおもしろい。私はそれらの詩編からさまざまなことを学んだ。どんなに小さな子供に向けた詩だとしても、詩人は語彙を制限する必要はない。むずかしいコトバを、子供は単純におもしろがるからだ。それはさりげなく、意味もなく使われてよい。たとえば、『ことばあそびうた』にでてくる「むいみなそねみ」というコトバを年少の私は理解しなかった 、でも、その音の連なりを面白いと思ったのだし、だからこそ私はそれを今でも覚えているのである。  耳に快いコトバで綴られた詩であれば、子供は容易に難しい言葉を覚える。でもいくら韻を踏んでいるとしても、ガチガチと硬い漢字ばかりで書かれた漢詩は、子供の耳に馴染まない。それはあまりにもつまらないものだと思われ、私はどんどん漢詩が大嫌いになっていた。私が陶淵明によって漢詩と出会い直すのは、ずっとあとになってからのことだ。  しかし百人一首は大好きだった。百人一首はゲームにもなるからだ。私の得意札は「花の色は移りにけりな徒にわがみ世にふるながめせしまに」で、これを弟にとられると躍起になって怒った。カルタというのは、やってみればそれなりに面白いゲームなのである。私たちはいろはカルタでも遊んだ。また、母は俳句カルタなるものも買ってきた。俳句を覚えさせようと画策したのかそれとも単に自分で遊びたかったのか、おそらく後者だと思うが、これは、芭蕉やら蕪村やらの俳句をカルタにしたてて、いろはカルタ式に遊ぶカルタである。俳句カルタは百人一首に較べると面白くない。でも、それなりに、俳句の言葉は私にしみこんだ。俳句カルタでの私の得意札は「春の海ひねもすのたりのたりかな」だった。 だが、私は俳句が好きではなかった。のちに萩原朔太郎経由で蕪村を読み直すまで、私は母を介してしか俳句を知らずに過ごした。  幼い私の脳裏には、まず、そのように、百人一首と俳句と谷川俊太郎とマザー・グースが刻まれた。 2001.3.27.(初出 Poenique/シナプス) ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]異形の詩歴書 〜12歳/佐々宝砂[2006年4月14日2時02分]  11歳の年に、私の人生は暗転した。何がどう問題だったのか、私は詳しく書きたくない。私はそのできごとについて様々なかたちで詩にしている。勝手に想像だか妄想だかをふくらませてもらって、かまわない。ともあれ私はどうしようもなく人生に絶望し、学校にゆくのをやめ、ひとりで山をあるいた。ホラー『あんただけ死なない』のあとがきにある森奈津子の山での体験は、そのころの私の体験そのままであって、全くひとごとではない。  絶望しながらも、私は本を読むことをやめなかった。私が学校に行こうとしないうえあまりにも本を読みすぎるので、両親は心配して私を児童神経科に通院させ、本を読むことを禁じた。しかし、もう読書をやめるのは無理だった。私は小学生のうちに稲垣足穂を読んだし、馬琴も西鶴も読んだ。宮澤賢治も柳田国男もおなじころ読んだ。足穂の『一千一秒物語』と賢治の『銀河鉄道の夜』と柳田の『遠野物語』が大好きで、私はそれらを繰り返し繰り返し読んだ。  けれど当時の私が何よりも好きだったのは、アストリッド・リンドグレーンというスウェーデンの作家が書いた児童文学である。私は、アメリカに憧れを抱くまえに、スウェーデンという国に憧れをおぼえた。北国の厳しい気候と、野営の焚き火と、「あってはならない戦い」と革命と竜と蛇と妖精とみずみずしい春と……そして「どこにもない国」。11歳にして人生に絶望してしまった人間が、そんなものにあこがれてしまうのは、ある意味で当然のことではないか。  お情けで小学校を卒業した私は中学に入った。学校に行ったり行かなかったりのんべんだらりの日々が続いていたけれど、それでも小学校のころよりは学校に行くようになったので、読書禁止令は解かれた。禁止されても禁止されても本を読みまくっていたから、禁止令が解かれたと言ってもたいした意味はなかったが、再び本を買ってもらえるようになったことが嬉しかった。  中学一年生の冬、私は、メアリ・ド・モーガンという童話作家の『風の妖精たち』を買ってもらった。いわゆるフェアリー・テールの系譜に連なる童話だが、童話のくせに情動が烈しい。しかも文章と挿し絵がどこか艶である。私は、その挿し絵が19世紀末のラファエル前派に属する画家の手になることを解説で知った。それをきっかけに、私の興味は19世紀末のヨーロッパの芸術へとうつりはじめる。私は中学校の図書室でボードレールとリルケを借りた。特にボードレールの「異人」が好きだった。私は新潮文庫の『ボードレール詩集』と『リルケ詩集』を買った(それが生まれてはじめて自分で買った詩集だ)。  しかしなお、私は母の支配下にいた。私が『マルテの手記』を借りてきて読んでいると、母は、「おまえもそんなもの読む年になったんだねえ」と言い、『怪奇小説傑作集』を読んでいると、「ああ、それが面白かったのなら、ラヴクラフトも読むといいよ」などと言った。全くおそるべき母なのである。怪奇と幻想とSFと江戸と中国と俳句の世界にいる限り、私は母を越えられそうになかった。しかし、母は、ボードレールをまるで知らなかった。私は母の束縛を逃れ、少しずつではあったが、自分好みのものを見出しつつあった。 2001.3.27.(初出 Poenique/シナプス) ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]異形の詩歴書 13歳/佐々宝砂[2006年4月14日21時03分]  13歳の私は、キャプテン・フューチャーと火星シリーズと栗本薫の小説を愛した。それらの本はすべて母が母自身のために買ったものだった。母が買ってくる本はだいたいが私の趣味にあっていたし、面白くもあったので、私はあえて母に反抗しようとは思わなかった。母は、私が自分で買う本を検閲したりはしなかった。私自身も、母の期待に応えるかのように、マンガではなく純文学とSFばかりを買ってきた。たとえば、13歳の私は『白鯨』と『エスパイ』とツルゲーネフの小説とドリトル先生のシリーズを自分で買ってきて読んでいる。このころすでに、幅広く分野を問わずかつ偏った、現在の私とさほど変わらぬ読書傾向ができあがっていた。そして私の小遣いの8割は書物に変じていた。  さて、そんなある日のこと、担任の教師が、中学生向きに編集された本の注文書をクラスのみなに配った。あまり面白そうな本はなかったし、買わねばならないというのでもなかった。買いたければ買え、という程度のものに過ぎなかった。しかし学校経由で買う本だから、間違いなく親が金を出してくれる。こんな絶好のチャンスを逃すものかと私は考え、思い悩んだ揚げ句、『現代日本詩集』という本を選んで注文した。すると、担任教師が、「こんな変なものを本当に注文してよいのか」と私に問うた。私はそれを聞いてひどく頭にきた。詩が読みたいから詩の本を注文するのだ、文句あるか。  それまで私は、特別に詩というものを意識しなかった。しかしこのとき、突然のように、詩に対する愛着が意識された。私は詩が好きなのだ。それは母から与えられたものではなくて、学校で教わったものでもなくて、私が自分で見つけた、私のための文学なのだ。私はそう信じた。本当のことを言うならば、私は結局母の呪縛を完全には逃れ得なかったし、かなりたくさんの詩を学校で教わった。問題の『現代日本詩集』だって、とどのつまりは学校経由で買ったものだ。しかし、私はこのとき、確かにそれを自分で見つけたと信じた。そのように信じたかったのだと思う。  ようやく手に入れた『現代日本詩集』というその本は、当時の水準から見ても、けしてよい本ではなかった。そこには佐藤春夫のヒノマル万歳の詩が載っていたし、「螢の光」の4番などというやたらに愛国的なものも載っていた。今から20年前の話だけれども、いくら何でもその内容はとてつもなく古かった。だいたい中学生のための現代詩集、と銘打っておきながら、そこに収録された詩は全然現代のものではなく、いくつかはこむずかしい文語体の詩だった。私は文語を読むのに不自由がなかったが、普通の中学生は文語にはめげるのではないか、よくわからないが。全く、どうしてこんな詩集が黙認されていたのか、今考えると不思議である。きっと、中学生のための詩集、などというものは、誰にとってもどうでもよかったのだろう。  しかし、私には、どうでもよくはなかった。なにしろ、「詩は私のための文学なのだ!」と決めた直後である。私はその『現代日本詩集』をそれこそ舐めるように読んだ。今もこの本は私の手元にあるが、うかつに開くとぽろぽろとページがこぼれ落ちる。これほどひどい状態になるまで読みこんだ詩の本は、後にも先にもこれしかない。  私がこの本ではじめて出逢った詩人はたくさんいる。八木重吉、三好達治、吉田一穂、野口米次郎、大手拓次、金子光晴、森鴎外、室生犀星、高見順、神保光太郎、蔵原伸二郎、草野心平、安西冬衛、北原白秋、堀口大学(中原中也と高村光太郎と萩原朔太郎の名が抜けていることにお気づきだろうか。私はこの『現代日本詩集』以前に彼等の詩と出逢っている。教科書に載ってたからね)……しかし、それら私の気に入った詩人の詩集のうち、学校にあったものは八木重吉と北原白秋と三好達治のものだけだった。だから私は、この出会いをこれ以上のかたちに発展させることができなかった。私はそれが今も悔しい。できるものなら、当時の私に、草野心平の「宇宙天」を、大手拓次の「藍色の蟇」を読ませてやりたいと思うのだ。  しかし、とりあえず、13歳の私は、『現代日本詩集』を消化しなくてはならなかった。それはうすっぺらな本だったくせに、たくさんの詩を載せていた。その中でも、私は、野口米次郎の「船頭」という詩がどうしようもなく好きだった。それから蔵原伸二郎の「断片」、大手拓次の「青狐」、草野心平の「青イ花」と「秋の夜の会話」、北原白秋の「時は逝く」、八木重吉の「素朴な琴」、安西冬衛のあまりにも有名な「春」、室生犀星の「寂しき春」、中勘助の「われら千鳥にてあらまし」、吉田一穂の「少年」、壺井繁治の「朝の歌」、神保光太郎の「鳥」……  私は自分で詩を書こうとは思わなかった。この聖者の群に自分が加われるはずなどないと思った。私はノートに聖者たちの言葉を書き写し、簡単な感想を書き添えた。それで私には満足だった。 2001.3.27.(初出 Poenique/シナプス) ---------------------------- [自由詩]震顫/佐々宝砂[2006年4月15日0時46分] 明るい朝の日差しのなかで。 痙攣する手が手渡そうとする綿毛のたんぽぽ。 飛び立ってゆく綿毛、綿毛、 白いこどもたち。 白いのは綿毛ではなく世界ではなく私の視界でありより正しく言うならば私の視界が白いのではなく私の視床下部が過熱しているため他の脳機能が一時的に麻痺していてだから視界が真っ白になっているのだとその時点で認識できるはずもなくただひたすらに白く。 最初に気づいたのは手の振戦で動いてるときは何ともなかったのが静かに抱き合っていると両手が小刻みに震え特に左側が震えてなに震えてんのと訊いたら俺は昔からよく震えるんだチワワみたいで可愛いだろと言うのでううん可愛くない怖いよと言いながら顔を見つめるといやに無表情でそういえばこのひとはいつも無表情なのだ本人に言わせると無表情じゃなくてクールなんだそうだけどそれって言い訳じゃないかなと思うのは無表情を専門用語で言えば仮面様顔貌または全身の状態で言うなら無動ないし寡動それはあの病気の症状の一つだと私が気づいてしまったからででもそれをあのひとには言えずあのひとはまた平然と酒を呑み頭痛がすると言っては鎮痛剤を服みこれを服むと震えが収まると言ってはトレドミンを服みそのあいだまるでものを食べないから怖くてみていられないけど目を離すのも怖いから結局みている背中が前に傾いでふらついてさすがに心配になってどうしたのと訊ねると目の前がちかちかして白いと答える口調がいささかグロッキーで起立性低血圧という単語が頭に浮かびそういえばそういえばこのひとの言葉には抑揚が少ないこのひとの姿勢はいつも前に傾いているそういえばそういえばとつぶやく私の脳裏でピースが嵌まりはじめて私は彼の眉間を一度だけ軽く叩くというのも何度も叩いてみる勇気が私にないからで眉間を何度か叩くと通常はそのうちまばたきせずにいられるようになるが何度叩いても毎回まばたきしてしまう反射異常がマイヤーソン徴候マイヤーソン徴候マイヤーソン徴候いまは忘れていようと思っても私にはきれいな夢さえ見られずひとつやねのしたにすめなくてもふゆのさくらと新川和江が書いたように夢みたくても私に思い浮かべることのできる夢はいちばんきれいな場合で痙攣する手が握る綿毛のたんぽぽで。 いま私を抱いている震える手の持ち主にそれを伝える意志を私は持ち得ず私の視界は再びみたび白くなりはじめ私どうせ不妊症なんだからおねがいできないんだからおねがい全部ちょうだい私の中におねがいと私は自分が何を言っているのか判断できない状態で絶叫する。 白いこどもたち。 飛び立ってゆく綿毛、綿毛、 痙攣する手が手渡そうとする綿毛のたんぽぽ。 明るい朝の日差しのなかで。 蘭の会4月月例詩集「たんぽぽ」 http://www.os.rim.or.jp/〜orchid/ ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]異形の詩歴書 14歳春/佐々宝砂[2006年4月16日0時56分]  当時私が住んでいた町には、本も売ってる店が2軒あった。言っておくが書店ではない。「本も売ってる」店である。どちらの店に行くにも、自転車できっちり20分かかった。ひとつは、スーパーに隣接した、雑誌と文庫本とマンガだけを売っているコーナーだったが、ここはあまり好きでなかった。しかし、私はその店で山田風太郎や遠藤周作や佐藤愛子や萩尾望都なんかを買った。もうひとつは、バスの待合室の向かいにある雑貨屋で、チョコレートやホッカイロや煙草と並んで、どうしたわけかハードカバーの児童書まで売っていた。私はこの店が割と好きだった。意外なものに出会えたからだ。私はその雑貨屋で鈴木いづみの『女と女の世の中』を買い、ジュリー・アンドリュースの『偉大なワンドゥードル最後のいっぴき』を買った。  その町には、図書館がなかった。ちなみに、今もない(注:これを書いた時点ではなかったのだが、2006年現在は市町村合併そのほかの理由によりその町にも図書館がある)。数年前まで無医村に指定されていて、自治医大卒の医師が派遣されてきていたという土地である。そんな、図書館も書店もない町で、欲しい本を注文するという知恵も持たず、母の支配下で偏った知識と読書の習慣とを身につけて、私は相変わらず貪欲に本を読み続けていた。今思えば、私が田舎に育ったことは僥倖だったのかもしれない。私は、「活字に飢える」という状態を切実な経験として知っている。私は本を選ぶことができなかった。好きな分野の本だけを読む、という贅沢ができなかった。飢えていたから、手当たりしだいに何でも読んだ。はらぺこあおむしみたいに学校図書室の本を端から片づけてゆき、それだけじゃ足りずに特殊学級の学級文庫まで読んだ(そこにしか置いてない本、というのがあったからだ)。  国語の教科書と便覧は、そんな私にとってひとつの指標になった。このころ私は、国語便覧で若山牧水と与謝野晶子を知る。百人一首しか知らなかった私に、近代短歌はおそろしく熱いもの、火傷しそうな熱情と血潮にあふれたものだと感じられた。私は牧水と晶子の短歌を十あまりノートに書き写した。そのほとんどを、私は今もそらんじている。もう口に出すのも気恥ずかしいそれらの歌を、14歳の私は熱烈に好きだと思った。本当にそう思った。  同級生たちは、たのきんがどうとかこうとか言っていたけれど、そんなもの、私にはどうでもよかった。私にとって大切なのは、本と、音楽と、わずかな友人だけだった。私はブラスバンドに入っていて、音楽聴くならクラシックさ、好きなのはドボルザークとシベリウス、などとほざく可愛いげのない生徒だった(こんなガキはぶちのめしておいた方がいい)。ことさらにいじめられはしなかったが、先生からも生徒からも嫌われていたのではないかと思う。  新川和江の詩にはじめて出逢ったのは、そんな14歳の春だった。詳しいことは忘れたけど、国語の授業でなんか詩をやったとき、先生が「春の詩をさがしてこい」と言った。それで私は学校の図書室に行って、角川書店から出てた白い表紙の四角い詩の全集(カラー版世界の詩集というのと日本の詩集というのがあった)をぱらぱら見て、丸山薫と新川和江の詩集を借りた。宿題として選んだ春の詩は丸山薫のだったと思うのだけど、丸山薫の詩は、あんまり私のアタマに響かなかった。私のアタマにずどーんと響いたのは新川和江の詩で、それは、今もずどーんどーんと私のアタマのなかで響き続けている。  大好きだったのは、「ミンダの店」だ。「片身をそがれた魚のように/はんしん骨をさらした姿勢で」なんだかわからない足りない何かを探しているミンダの姿は、そのまま、当時の私の姿だったから。それからもうひとつ好きだったのは、「記事にならない事件」だった。私は、そこに登場する、いっぽんの木に変身する少女や、上着を脱ぎ捨てて鳩になる青年でありたいと願った。「記事にならない事件」や「ミンダの店」の言葉は、男っぽいコトバで武装し、そのくせひどく臆病で、女の子同士でしか話ができないしょーもない中学生だった私のなかに、すんなりとはいってきた。「チェス」の中で語られる死についての言葉も、私の青い脳髄にやんわりと確実に侵入した。  けれど、「ふゆのさくら」はわからなかった。ひらがなだけで書かれたその詩には、「しゅろう」と「ついく」の他に難しい言葉などない。あかるくくれなずんだ風景の中にさくらがちりかかる、それはやさしいわかりやすい情景だったはずなのに、当時の私には、その詩が何を伝えたいのか、どうしても、わからなかった。でも、今ならわかる。結婚したからわかるのではない。年をとったからわかるのでもない。ある程度年を重ねなければわからぬ詩ではあるけれど、それだけではないと思う。私はごく最近、唐突に、この詩がわかるとおもった。その理由は、自分でもまだよくわからない。ゆっくりと考えてゆきたい。  新川和江の詩は、おそらく、私が老人になっても、私が14歳だったときと同じように、あるいはそれ以上に、私を惹きつけるだろうと思う。私は人生の節目節目に新川和江の詩を読むだろう。そのような詩人に出会えた幸運に、私は感謝する。 2001.3.27.(初出 Poenique/シナプス) ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]異形の詩歴書 14歳夏/佐々宝砂[2006年4月16日0時58分]  「SFの黄金時代は12歳だ」という言葉がある。つまり、SFが最も面白かった時代は20年代でも60年代でもなくて、読者本人が12歳だったころ、とゆーことなのである。そんなものだろうな、と私は思う。しかし私にとってのSF黄金時代は14歳だった。その夏、私は押入の奥にSFマガジンのバックナンバーの山を発見し、夏休み中かけてそれを読んだ。古いSFマガジンは、少数者のひがみ根性と選民意識がまるだしで、けれど奇妙に熱くて、すでにマイノリティーとしての自覚を持っていた私をひきつけた。  古い古いSFマガジンの中にも、詩はひっそりと眠っていた。たぶん、1960年代はじめのSFマガジンに掲載されていたものだと思うのだが、記憶は不確かだ。もう作者の名も忘れてしまった。それは恒星について書かれた詩だった。赤く燃える老いた恒星と、青く燃える若い恒星と、黄色く燃える平凡な恒星太陽に対して呼びかける、そんな詩だった。恒星たちは「お前は何をしているのか」という凡庸な問いかけに、「私ハ燃エテイル。」と凡庸に答える。それだけの詩に過ぎなかった。なぜそんな詩が記憶に長くとどまっているのか、私には説明することができない。SFだったからではないと思う。あの詩がSFであったとは、今の私には、どうしても考えられないのである。  そのころ買った講談社のSFアンソロジーには、間違いなくSF詩と呼べる詩が載っていた。それはリメリックという五行の定型詩で、原語だとがちがちに韻を踏んでいるらしかった。日本でいうと川柳にあたるような、ユーモアを主題にしたものが多い詩形だという。エドワード・リアの書いたリメリックが有名だが、どれも死にそうなほどくだらなくてナンセンス。まあ、世の中にはこういう詩もある。SF界にはけっこうリメリック愛好者が多かったらしい。かのアイザック・アシモフもリメリックを書いていたそうな。SFリメリックは、お笑いとしてはやや弱い。SFとしてはバカバカしい。詩としては貧弱だ。だが、ともあれ、それはSFで、しかも詩だったので、私の記憶にとどまったのである。それは確かなことだ。  とはいえ私は、古いSFとへんてこなSFリメリックばかりを読んでいたわけではない。当時最新だったSFにも目を通していた。それは楽しみというより義務、やらねばならぬことのようにすら思われた。当時のSFマガジンの最新号には、栗本薫の『レダ』が連載されていた。私は『レダ』を『魔の山』と同傾向の小説であると感じた。私は自分が『レダ』の主人公である少年イブと同じ人間だと思い、あるいは自分が副主人公のレダの分身であると思い、つまるところ『レダ』は他ならぬ私自身のことを書いた小説であると思い、『レダ』こそは私にとって世の中でいちばん大事な小説であると思った。それで私は、夜がくると『レダ』が連載されたSFマガジンを抱いて寝た。  SFがあんなに面白く感じられたことはない。いや、正確に言うならば、面白いものはみなSFだと思った。SFというジャンルが私の中で巨大化していた。それはすべてを取りこもうとしていた。SFこそは世界最高の文学ジャンルだと思った。私は『銀河鉄道の夜』と『遠野物語』と『椿説弓張月』をSFとして再読した。『黒死館殺人事件』も『家畜人ヤプー』も、SFと同じ文脈で消化した。『家畜人ヤプー』は「読んではいけない」と禁止された唯一の本だったが、こんな面白そうなものを活字に飢える14歳が放っておくはずがない。母の本棚は、面白そうな悪書の宝庫だった。そこには宇能鴻一郎も老舎も赤川次郎もニーチェも三島由紀夫も大藪春彦も混然と並んでいた。しかし、『家畜人ヤプー』は私にたいした影響を及ぼさなかった。面白いしヘンな本だしこれを読むのはどうやらイケナイことらしい、とは思ったけれど、それが私にとって必要な本であるとは思えなかった。それは一風変わった夾雑物に過ぎなかった。  私に必要なものとは、いったいなんだったのだろう。私のもとには、でたらめな順序で書物と言葉が訪れた。私は拒まなかった。強烈すぎる書物、血と暴虐の書物、性的な書物、そういったものにどんなに蹂躙されても。  このでたらめな悪い夏の一日、私は倉橋由美子の『スミヤキストQの冒険』を読んだ。正直なところ、よくわからない本だと思った。この本が何を揶揄しようとしているのか、当時の私には全くわからぬ埒外のことだったからだ。SFの文脈で読むことも難しいと思われた。しかし、そこにはなんだか私の好きな味があった。鈴木いづみに繋がるような、ごくごくかすかな少女趣味と、透徹した認識と、あかるい絶望と。そこには、血と暴虐とセックスよりはるかに危険な何かが潜んでいた。  二学期に入って、私はその「危険な何か」を持つ詩人に出逢うことになる。 2001.3.27.(初出 Poenique/シナプス) ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]異形の詩歴書 14歳秋/佐々宝砂[2006年4月16日0時59分]  夏が終わって、私はまた学校に行ったり行かなかったりの日々を過ごした。学校に行けばまあ成績は中の上、ほとんど図書室で本を借りるためだけに学校に通っている生徒だった。その当時、私には目も合わせないくらいお互いに嫌いあってた同級生というのがおりまして(実はこいつこそが私のファースト・キスを奪ったバカヤローである。しかもそれは幸福な体験じゃなかった)、で、そいつがあるとき、教室のうしろの黒板に突然こんなことを書いたので私はびっくりした。 「人間は血のつまったただの袋である」  そいつとは実に喋りたくなかったんだが、その文章がどこから出てきたのか知りたかったので(そいつが自分で考えたとゆー可能性は無視した)、放課後の教室で私はそのひどく気にかかる文章の出典を聞き出した。『寺山修司詩集』である、とそいつは答えた。これから何度も言及することになるであろう角川書店のカラー版日本の詩集(この全集が私にとって詩の原体験なのでしゃあないの)、その19巻に収録された『寺山修司詩集』……私は手続きもしないでその本を持ち帰った。  「田園に死す」はかなり好きになった。それから「チェホフ祭」も。私はその一部をノートに書き写した。一方、「李庚順」は私に何の影響も及ぼさなかった。それは決してつまらない叙事詩ではないけど、「李庚順」より山田風太郎の「蝋人」の方が私は好きだった。「地獄変」もなんとも思わなかった。「地獄変」よりも夢野久作の「戦場」の方が恐ろしかった。「十五歳の詩集」は読み飛ばした(悪くない、いい感じだと思いはした。私は以後何度かこの「十五歳の詩集」を読み直すことになる)。14歳の私をぶっとばしたのは、「マダム・ラボの数奇な履歴書」と「なぜ東京都の電話帳はロートレアモンの詩よりも詩なのか」と「人力飛行機のための演説草案」と「事物のフォークロア」と「消されたものが存在する」だった。それらを読んだとき、私は、『家畜人ヤプー』よりも恐るべきものを読んでしまった、と感じたのだった。  いま「マダム・ラボの数奇な履歴書」を読み返すと、私は苦笑せざるを得ない。佐々宝砂というこのハンドルネームを「マダム・ラボ」というのに変えてみるのも楽しいかもしれぬ、などと思ったりする。14歳当時はけっこうショックだった「人形を生む」というシチュエイションも、今となってはええ感じやのお美味やのお、と思うだけである(ううむ、今の私はナニモノかしら)。  「人間は血のつまったただの袋である」という一節は「なぜ東京都の電話帳はロートレアモンの詩よりも詩なのか」の最後の一行だが、この言葉も、今の私にはすでに力を持たない。読者による並べ替え自由の詩、綴じられない詩集のための目次、といったやや実験的なその体裁は、モノカキとしての私を未だに刺激するものではあるけれど、中身は、もうどっちでもいい。この詩がなくても、私は立派に生きてゆける。  見せかけの強烈さと内容の烈しさは、比例しない。電波系のコトバは、ときどき私にとってひどく退屈だ。本当に過激で危険なものは、狂気じゃない。血飛沫じゃない。セックスじゃない。アブノーマル・セックスじゃない。SMでもなければ、人肉嗜食でもない。そのたぐいのものなど、私はすでに読み厭きた。しかし、見せかけの強烈さをそれほど持たない「人力飛行機のための演説草案」と「事物のフォークロア」と「消されたものが存在する」の3つの詩は、私に今なお強い引力を発揮する。はじめて出逢った14歳のときよりも、もしかしたら、もっともっと強い引力で。  もしもこの世に「人力飛行機のための演説草案」がなかったとしたら、私は生きてゆけないかも知れぬ。あるいは、その最後の4行で人力飛行機が飛翔しなかったとしたら、私は詩を書くなどというヤクザなことはせずに、平凡なイナカ者として暮らして平穏に天寿をまっとうしたかも知れぬ。しかし、私は「人力飛行機のための演説草案」を読んでしまい、その最後の4行で人力飛行機が飛び立ってゆくのを目撃した。ある種の詩は、ひとを飛翔させる。確かに飛翔させる。それだけが詩の目的ではないにしろ、私が最も愛するたぐいの詩は、そのような詩なのだと思う。それから「事物のフォークロア」。私はあまりにもあまりにもこの詩を愛しているので、この詩について何を書くとしても、それは下手な恋文にしかならない。「事物のフォークロア」の最後に出てくる「たとえ/約束の場所で会うための最後の橋が焼け落ちたとしても」というフレーズは、死ぬまで私の中で響き続けるだろう。  私は、寺山修司のコトバに従って、「消されたものが存在する」で並べられた素っ気ない50音から自分の名を消した。だから私は約束の場所で寺山修司に出逢うのだ。いつかきっと。「消されたものが存在する」のコトバに影響されたひとはすべて、イデオロギーだの趣味だの嗜好だのを越えて、同じ場所で出逢うのだと私は信じている。そうだよ、たとえ、最後の橋が焼け落ちたとしても。いつかきっと。 2001.3.27.(初出 Poenique/シナプス) ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]異形の詩歴書 14歳冬/佐々宝砂[2006年4月18日8時17分]  お年玉の全額を本に変えるのが習慣だった。地元ではまともな本が買えないから、母の実家がある街で買った。母の実家は一応県庁所在地にあって、その周辺にはそれなりに書店や古書店があったのだ。一年に一度か二度しかそういうところに行かない私にとって、書物にあふれた店は魔法の扉に満ちた目がくらむような世界と思われた。買いたい本がありすぎて、もうどうしたらいいのかわからない。  特に古書店は、不思議がいっぱいの魔法のお店だった。BOOK OFFのような小綺麗な古書店がある時代ではない。あまり整頓されていない店だと、アダルトな本も童話もごちゃごちゃに積まれていて、そこには一種異様ないかがわしい雰囲気さえ漂っていた。母が後ろで目を光らせていたからいかがわしい本を買うことはできなかったけれど、私はそこでひとつの宝を見つけたのだ。  それは、ボールペンで汚したようなあとがたくさんあるどことなく薄汚れた表紙の雑誌だった。「現代詩手帖」1978年5月号、特集がファンタジーと書いてあって、メアリ・ド・モーガンの童話が載っているらしかった。すでに書いたように、私はモーガンの童話が大好きだった。私は詩が読みたかったからではなく、モーガンの童話を読みたいばっかりにその雑誌を買ったのである。  だが、14歳の私に「現代詩手帖」は難解に過ぎた。モーガン、立原えりか、天沢退二郎の童話は理解できたし、谷川俊太郎の「いろは練習」も理解できた。だが他の文章は、何がなんだかさっぱりわからない。ランボオ、誰それ? ピンチョン、なんだそりゃ? カンジンスキーってなによそれスキーの一種?  現在の私が現在の「現代詩手帖」を開いても、同じことである。正直なところ、何が書いてあるのかさっぱりわからない。しかし、わからないことと楽しめないことは同義語ではないのだ。  私はその「現代詩手帖」で入沢康夫の詩を知った。『「牛の首のある八つの情景」のための八つの下図』と題された、一種の習作のような詩である。そこに描かれた「牛の首」というオブジェは、小松左京の傑作怪談「くだんのはは」や「牛の首」を思い出させた。隣家が酪農を営んでいたので、私は見ようと思えばいつでも牛を見られる状況にあり、牛は恐怖の対象でもなんでもない親しい存在だったはずなのに、入沢康夫の「牛の首」は小松左京の怪談以上に私を戦慄させた。それは現実の牛の首とは関係のない、幻想世界の牛の首だった。だから、墨壺の中で燐光を放っていた。何を書いてあるか全く理解できず、なぜ怖いのかまるで推理できず、しかし私はその詩が忘れられなかった。そのような詩もあるのだということを、私ははじめて知った。  私はこの雑誌で、もうひとり忘れられない存在に出逢った。柳瀬尚紀である。ホルヘ・ルイス・ボルヘスが著した『幻獣辞典』のパロディとして書かれた柳瀬のその文章は、14歳の私にとって、まことにわけのわからぬものだった。ボルヘスの原典を知った今とて、わけがわかるとは言い難い。しかし、そもそもがナンセンスを目的とした文章なのだから、一見どんなに衒学的でも、ナンセンスを楽しむことができればそれでいいのだ、と現在の私は考えている。だが当時の私の考えは逆だった。何だかわからないがおもしろい。おもしろいのにわからない。わからないから癪にさわった。  ボルヘスを読まなくちゃ、と私は思った。『山海経』も、チャタレイ夫人も、フローベールも。あれも、これも、ああ、なんとたくさんの書物! 私は、おそろしくたくさんの書物を読まねばならぬことに気づいた。私はノートの表紙にでっかく読書予定表と書いて、読まねばならぬ本のリストをつくった。それは300冊近くあった。何のためのリストだったかって? 私の内奥には、すでにきっぱりとした目的があった。しかし私はそれを表だって明かさなかった。  自分でも、その目的が何であるか、気づいていなかった。 2001.3.27.(初出 Poenique/シナプス) ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]異形の詩歴書 高校編その1/佐々宝砂[2006年4月18日8時19分]  本ばかり読んでいて勉強というものをまるでしなかったので、学校の成績は芳しくなかった。テストの成績は悪くなく、進学校にも行けないことはない、と言われたのだけれど、いかにせん、遅刻と欠席の回数が多すぎ、内申書の点数が悪すぎた。そこで私はワンランク下の女子高を受験することに決め、勉強は投げた。本当に何もやらなかった。しかし運がよかったのか、それともその女子高がたいした高校ではなかったせいか、私はなんとか高校にもぐりこむことができた。  私は学校に何の期待もしていなかった。教師という人種が好きになれた試しはなかったし、学校行事も施設も楽しめたことはなかった。友人も遊び友だちに過ぎなかった。しかも女の子と遊ぶくらいつまらないことはないと思っていたので、女子高を受験することが決まった時点でひどく投げやりな気分になっていた。どうしてこんなとこに入ることになったのか、ああつまらないつまらない、何もしたくない、もう死んでもいい、だけど死ぬのもめんどくさい。そんなことばかり考えていた入学式の当日、私の機嫌は突然よくなった。  図書館があったのだ。田舎の高校としては非常に充実した、柔らかい本も硬い本も取り揃えた広い図書館が! 入学式が終わったあと、私はクラスメートの顔も名前も確認せず教室を飛び出て図書館に行った。見たこともない本がたくさんあった。名前しか知らなかった本もあった。うつくしい本も恐ろしい本もあった。私は驚喜して本を借りようとした。……しかし借りられなかった。新入生のカードはまだ作成されていなかったし、図書館には誰もいなかったからである。下校をうながすチャイムの音が聞こえてくるまで、私はぽつねんと図書館のカウンターに向かって座っていた。  いま私は、あの学校図書館よりもたくさん本のある図書館を知っている。そんな小綺麗な図書館の小綺麗なカウンターに数冊の本を置いてお願いしますと司書に言うたびに私は、高校図書館の小汚いカウンターを思い出し、私が16歳だったこともあったのだと考える。もう、あのとき感じたようなおののきを感じることはできないのだと考える。  部活動が強制加入だったから、どこのクラブに入るか決めなくてはならなかった。中学生のときブラスバンドでホルンとトロンボーンを吹いていた私には、〆切ぎりぎりの5月になっても管弦楽部から勧誘がきた。女子高なので金管楽器経験者が少なくて、私は「貴重な人材」だったのだ。しかし私は、ちょっと運動会系的なところのあるブラスバンドがキライになっていて、高校に入ってまで続ける気はなかった。そうでなくとも私には、ここに詳細は書かないけれども、音楽に対する自信を失わせた疾患があった。  音楽がダメだとしたら、何がいいだろう? 文芸部という選択肢がちらと頭をよぎった。しかし私は、日記以外にまとまった文章を書いたことがなかったし、自信もなかった。私に小説や詩が書けるはずがない。かたくなにそう信じて、疑わなかった。実際、書こうとしたことさえなかった。私には書けない。私にはできない。小説も詩も、選ばれた特別な人だけが書く特別なもので、私はそれを享受するだけなのだと信じていた。だから私は文芸部をあきらめた。  私は結局、天文観察を主な活動としている「物象部」という部活に入った。この部活には部室がなかった。人気もなかった。しかし、ばかでかい傘を広げて投影するちゃちなプラネタリウムと、口径30センチの反射望遠鏡を備えた小さな天文台を持っていた。  当時の私が書物以上に愛を捧げていたもの、それは「天体」だった。空にあるものはみんないい、と稲垣足穂が書いた、その言葉をそのまま飲みこんで、私は毎日毎日飽きもせず夜空を見、星空に関する本を読んだ。日本の星の古名についての第一人者野尻抱影が書いた本も愛読した。ギリシャ神話はもちろん基礎文献、それだけじゃ足りなくてアラビアの伝説から中国の伝説、太平洋のちっちゃな島の伝説までチェックした。  私がいちばん愛した星座の本は草下英明の『星座手帖』である。この本は、星座紹介の前にいちいち小説や詩からの引用文が載っている。私はこの本ではじめてマラルメに出逢った。それは「秋の嘆き」の最初の一文だった。ラフォルグを知ったのもこの本だったと思う。稲垣足穂の文章もこの本に引用されていた。今もうこの本が手元にないので定かでないけれど、カラス座の項目に引用されていたはずだ。  私は星座の中でカラス座がいちばん好きだった。地味なカラス座、バカバカしくも情けない伝説を持つカラス座、「まあ可哀相」と稲垣足穂の文章に書かれるカラス座、暗い星ばかりで、しかしこぢんまりとまとまって妙に印象に残るカラス座……なまぬるい春の夜空に、カラス座はヨットのような姿を輝かせて浮かんでいた。どこかに進んでゆくかのようだったけれど、次の日も、そのまた次の日も、同じ空に浮かんでいるのだった。 2002.7.(初出 Poenique/シナプス) ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]異形の詩歴書 高校編その2/佐々宝砂[2006年4月18日8時20分]  私が通った田舎の女子高は、昔はそれなりに名門の高等女学校だったらしい。しかし私が通ったころは、もうそんな過去の栄光など地に墜ちていた。そのころはまだ援助交際という言葉がなかったけれど、そんなことしてる同窓生も少なくはなく、新聞種になったヤツすらいた。学校のレベルがたいそう低いというわけではなかったものの、高校に入ったとたん安心して勉強するのをやめちゃってお洒落に専念するような女の子が多い学校だった。そんな中で私は、驚いたことに「優等生」として扱われるようになっていた。もっともそれは、自分の成績よりランクの低い高校に入ったので当たり前、要するに牛後でなく鶏口になっただけのことだ。  「優等生」になったものの、私は勉強なんかしなかった。もっとも、お洒落に専念もしなかった。口紅一本買う金があったら文庫本を買う。化粧品なんかもったいなくって買えるか。というのは表向きな話で、化粧をしなかったのは単にめんどくさかったからである。しかしそのわりには、セーラー服の上着の裾を自分でちくちく縫って丈を短くし、黒いプリーツスカートはずるずると長くした。私はタバコを覚えて、隠れて吸うようになっていた。これで髪を伸ばして金髪にして化粧を濃くしたら、郷土博物館に保存しておきたいくらいの古典的ヤンキーである(笑)。しかし私はレディースに入る気はなかったし、高校デビューする気もなく、化粧気はないわ髪はあくまでショートカットだわで、ヤンキーには見えなかった(と思う)。単に上着は短くスカートは長くしておきたかっただけなんである。長いスカートは不便で、自転車に乗るとバサバサ風にはためいてうっとうしかった。よく裾を踏んづけてコケた。バスの自動ドアにスカートをはさんで破ったこともあった。なのになぜスカートを長くしたかと訊かれても困るが、まあ要するにそんなものが流行っている時代だったのだ。  今思えば、高校入学当初の私にはロールモデルがなかったと思う。ああなりたいという憧れの対象がなかった。なりたいものがなかった。美人を見てもああ綺麗と思うだけだったし、カワイイ子を見てもああカワイイでおしまい。有名人を見ても特に何も感想はなし。好きな男がいりゃあそれでもその男の好みに合わせようとしたかもしれないが、そんな相手もいなかった。意外に思われるかもしれないが、私は、本の中に自分の憧れを見つけることもできなかった。こんな恋がしたいと思わせてくれる本もどこにもなかった。そもそも恋なんてめんどくさい気がして、したくなかった。ところがどっこい、高一の春、私にも一応のロールモデルがあらわれたのである。  それはなんと高校の国語教師だった。この学校嫌いの、教師嫌いの私が、教師に憧れる? なんてこったと当時でさえ思った(今もそう思う)。彼女はお世辞にも美人ではなく、優しくもなく、つんけんとした30代の独身女性で、生徒から怖れられている厳しい冷徹な人だった。全体的に造作の小さな小作りな顔に、ちんまりした鼻とどこか柴犬に似た目があった。彼女はまた、お洒落でもなかった。素っ気ないショートヘアで、飾り気のないシンプルな服を着ていた。彼女には大人の女らしい色香もなかった。凹凸の少ないやや中性的なスタイルをしていた。けれど立ち居振る舞いがとても美しかった。……いや、美しかったと書くのは間違っているかもしれない。私の記憶は美化されすぎているだろう。でも彼女は、いつ見ても背筋をしゃんと伸ばしていた。それだけは確かだった。私はその背筋に憧れたのかもしれなかった。  一部の生徒は、この女教師をとことん嫌った。卒業してから聞いた話だけれど、この教師の授業は、高校にしては難しすぎ特殊すぎるということで、一部教師からも顰蹙を買っていたらしい。しかし、私にはとてつもなく面白い授業だった。国語の授業で全く知らないことを知ったり、考えもしなかったような思考法に気づかされたりするなんて、そんなことがあるとは思いもよらなかった。それまでの私にとって、国語の授業は、バカバカしさの極みみたいなもんだった。国語のテストも、漢字テストと小論文以外は無意味だと感じていた。だけど、教授方法によっては、高校の国語の授業だって存分にエキサイティングになるのだと、私は彼女の授業ではじめて知った。  私は、彼女の授業に示唆されて、少しずつ少しずつ、評論のマネゴトを日記帳に書くようになっていった。教科書に載らない文学を、教科書にある方法で読み解く。教科書にある文学を、教科書にない方法で(悪意たっぷりに)読み解く。慣れてくればそれはものすごく面白いお遊びで、私は、どこに発表するあてもない文章を夢中になって書いて徹夜した。しかし私の知識は相変わらず偏っていて、小林秀雄のコの字も知らなかったし、知っていても自分に関係あるなんて思わなかっただろう。  そのころの私は、自分の書いているものがなんなのか知らなかった。 2002.12 .(初出 Poenique/シナプス) ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]男のいる職場/佐々宝砂[2006年4月19日8時55分] 女子高でてから十ン年間、ずーっと女の花園みたいなところで働いてきた。だから女ばかりの現場には慣れている。女特有の(と思われている)陰口いじめ噂話嫉妬、家庭や生理を理由にした甘えだらしなさ腕力不足そのほかもろもろの女性的マイナス面、そんなもん慣れりゃ別にどーってことねーぜーと思ってきた。 しかしなあ。男のいる職場で働いてみると思う。男もだらしないじゃん。男の中にも噂話好きの陰口好きっていっぱいいるじゃん。体力なくてだらだらーなやつもいるじゃんかー。とはいえ、まあ、そんなもんなのだろう。男だっていろんなやつがいる。すぐ隣で腕力不足身長不足ゆえ難渋してるのに、ちっとも手伝ってくれないやつもいる。気がきかないだけなのかもしれんが、なんてやつなんだろーと思ってちっと驚いた。私はまだまだ男性というものに幻想を抱いていたらしい。 それでもなかにはいい男もいて(容貌がよいわけではない)、でかい荷物を持て余してるのをみると積極的に手伝ってくれたりする。そーゆーのは女ばかりの現場ではまずありえない。いや、正しくいえばあるんだけど、女ばかりの現場で「その荷物重いだろ、持ってやるよ」と言うのは他ならぬ私自身なのであった。女性十人いたら、私はたいてい一番か二番に力持ちで、私が持て余してる荷物を一人で持てるよーな女性はめったにいない。よって、私にも持てない荷物は、女性だけの現場では、何人かの共同作業で持つしかないのである。 女だけの現場で、私は甘えることができない。特に甘えたいと思ったこともない。自分の方が力があるなあと思うから荷物を持つ。できることはやる。できないならできないなりになんとかする。当たり前の話だ。 だがその私なりの「当たり前」が、男のいる職場では崩れる。自分の手に負えないほどの仕事じゃないのに、やってくれる男がいるのでやらせてしまう。そして私の仕事は楽な仕事ばかりになってしまう。それが不満というわけじゃない。もっと仕事をさせろというわけでもない。ただ、こんなに男に甘えてばかりいると身体が鈍るなあと思う。男が多い現場仕事はあまりにもらくちんだ。なまぬるーくらくちんだ。でもそれでよいのかしら。よいのかしら。 私は、有袋類のフクロオオカミみたいな存在なんだと思う。有袋類の中では強い。でも本物のオオカミより弱い。本物のオオカミがきたらフクロオオカミはあっさり負ける。さらに困ったことには、現実の男とゆーものはオオカミより優しいので、重い荷物を持ってくれちゃったりなんかするのだ。コアラのよーに可愛さをふりまくタイプでないフクロオオカミ佐々宝砂は、「有袋類の中では強い」という自分の個性を失い、らくちんなぬるま湯のなかで軟弱化する。 とゆーわけで世の男どもよ、私に優しくしないように。私はフクロオオカミみたいに絶滅したくはない。 ---------------------------- [自由詩]幸福論/佐々宝砂[2006年5月5日17時33分] あなたは幸福ですか? あたしは幸福です あたしはいれたての珈琲の香りを楽しんでいます ずっと昔に録音されたうつくしい音を楽しんでいます 江戸時代に記録されたルポルタージュを楽しんでいます あたしはもうすぐ失業します 今年の年収は百万円を切るでしょう 今日は上司と衝突して半日ほど誰とも口を利きませんでした 人生をともに歩くときめたひとの隣にねむって あたしはかつての恋人を夢にみました 目醒めてからそのひとがもう亡いことを思い出しました 凍てつく空に風花が舞っています あたしは寒いな冷たいなと思い 同時になんと風花はうつくしいのだろうと思います あたしは幸福です あなたは幸福ですか? 2000.2.11.深夜即興オン書き ---------------------------- [自由詩]詩論以前/佐々宝砂[2006年5月5日17時38分] 歌舞伎役者は 立っているだけで美しい その凛とした立ち姿は 長い鍛錬の賜物だ 私の言葉よ おまえは立っているか? インターネットの言葉の荒野で おまえは立っているか? ナイフを研ぐように言葉を研ぎ 弓をギリギリと絞り 狙い澄まして解き放つ 私の言葉よ 鍛えられた歌舞伎役者のようにすらりと立て 寄りかかることなく 2000.2.11.深夜即興オン書き タイトルのみ2006.5.5. ---------------------------- [自由詩]もっとも速くあれ/佐々宝砂[2006年5月7日9時40分] ヴィレブロルト・スネルは己の運命も未来も悟りはしなかった。 しかし光は己の運命を知っていた。 もっとも速くあれ それが光の命題であり運命であり 屈折しても反射しても散乱しても構わなかったが もっとも速くなかったものは 干渉によってかき消されることになっていた。 もっとも速くないものは もはや光ではないからである。 光は人間よりも不自由だったので 遮断物を避けることができず 吸収されたりどこかに飛ばされたり曲げられたりしたが 命題を忘れることはなかった。 いかなる場所においても 光は光である。 もっとも速く。 もっとも速いものこそが光であり そうでないものは光でなくなるのだ。   ---------------------------- [自由詩]姿見のうしろの物語/佐々宝砂[2006年5月13日4時59分] 1. 手紙は書きかけのままテーブルの上で黴びてゆく。 青黴、赤黴、黴の色ってそんなに単純だったかしら。 ふくりと黴が起きあがる、 まき散らされる胞子は常に薄い紫で、 私の部屋はすっかり煙ってしまっている。 太陽がおちてきたときもこんなだった。 あのとき私は二階の子ども部屋にいて、 階段には薄明るい月光が落ちていた。 窓の桟がつくる影が、ひらひら踊っていた。 黴のにおいが漂ってきて、 どこかで誰かがアルバムをめくっている気配がした。 古ぼけた写真の中でピースサインをしているのは、 たぶん私の弟で。 テーブルの下でがさごそ音がする。 サソリがいきりたって尻尾をあげている。 泥沼から這い上がってきた生き物は いつもなまめかしい艶を見せつけるけれど、 このサソリはどこからどこまで乾いている。 きっと砂漠からきたのだ。 黴のにおいがする、薄むらさきの砂漠から。 私たちの、故郷から。 2. まぶたの上に白服のこびとがふたりいて、 小さな槍で私の目をつついている。 勤勉に、でも自分のしてることの意味なんか ちっとも知らないままに。 やーい、と私はこびとに声をかける。 いくつもの時計が空からふってきて、 人っ子一人いない駅前広場の 明るいアスファルトの上に砕けてゆく。 無人のタクシーが一台やってきて、 すうっと私の目の前に停まる。 乗り込むときっと病院に行くんだ。 病院は不潔で、 黄ばんだカーテンがひとつひとつの病床をくぎっている。 大戦後のある一日、 傷病者はみな死んでしまって、 私だけが取り残されて、駅前広場で、 タクシーに乗り込もうとしている。 タクシーに乗り込めば死ねるだろう。 死ねば、湿った優しい赤土が、 私のうえにおちてくるだろう。 赤土はたくさんの生き物を住まわせている。 ふたりのこびとも、 赤土の中では大人しくなるに違いない、 そうだ、あいつらはただ、 私を眠らせたいだけなんだから。 ただ、そうしたいだけなんだから。 こびとは白い服を風になびかせて、 なおも私のまぶたをつついている。 3. 補陀落が来たのよとおかあさんは言ったが、 少女はどうしても信じられなかった。 補陀落の噂はこんな田舎町までも届いていたが、 詳しいことはインターネットにもテレビにも 報じられてはいなかったのだ。 噂によれば、補陀落について語りうるほどのひとは、 すでにみな補陀落に溶けてしまって、 報道機関にはボウフラのようなカスだけが残っているという。 補陀落を見たひとはみな、 それが青い海に似ていると言った。 ここ200年ばかり、 海は茶色い汚泥となり果て、 青い海を見たことのあるひとなどひとりもなかったのに。 少女は、母親に黙って家を出た。 補陀落があちこちにのぞいていた。 ひとびとは、安らかな表情で、 その青い底なしの水にとびこんでいった。 振り向くと、少女の家も、はや、 補陀落のなかに溶け込もうとしていた。 少女の母はもうとっくに補陀落に身を投げたのだろう。 少女は家に帰りたいとは思わなかった。 遠くかすむ地平線に、かすかに、 赤くうごめく線が見えた。 あれがあたしの補陀落だ。 ううん、補陀落でない。 あれはあたしのあのひとだ。 少女は、歩くことしかできなかった。 食べ物も水ももう必要でないとわかっていた。 あちこちに浮かぶ補陀落を避けて歩くことは難しかったが、 どうしてもそうしなくてはならなかった。 補陀落はやさしい潮の香りを漂わせて少女を誘った。 少女は鼻を押さえ目を見開いて、 地平線のかなたににじむ赤い線を凝視した。 4. 窓辺に置かれた金魚の鉢は、 梅雨時のしめった空気のせいで 表面にいくつもの冷たい水滴をつけて曇っていた。 私はうとうとと眠ってしまい、 夢のなかでは金魚は 赤いながぐつに赤い傘の幼い男の子に変わっていて、 窓の向こうはどう見ても海のようだった。 目覚めると、 窓のそとではなお雨が降り続いていた。 静かな雨のなかに私は身体を乗り出した。 身体の安定を失って、 ふいっと落ちた。 おちた身体は湿った風にのって、 薄い紙っぺらのように上昇した。 あたりはもう梅雨時の日本ではなかった。 ツンドラ気候の大地に、 黒々と針葉樹林が広がっている。 この針葉樹林の中にも魚はいるのだ。 私は魚を探さなくてはならない。 どんな魚か思いだせなかった。 なつかしい友である金魚ではない、 夜の魚でも笑わない魚でもない、私の魚だ。 ばちんと裂ける音がした。 木のうろのなかで鼠がはぜたのだ。 でも私が探してるのは鼠じゃない。 私は暗い森のなかに踏み込む。 どこかでまたばちんと裂ける音がする。 さっきとやや音が違う。 裂ける魚が私の視界をさえぎる。 巨大なこの魚は、やや猫鮫に似ている。 ざらざらした鮫肌が、 背中の方から大仰な音を立てて裂けてゆき、 やがて腹も頭もすべてばらばらの肉塊になってしまう。 私のその肉塊の中から黄色い歯列を拾い上げる。 これをあのひとにあげなければ。 あのひとはここから遠いところにいる。 ツンドラの空から飛び立って、 また梅雨時の日本にまで戻らなければならない。 しかしどうやれば私は飛べたろう? ここには高い窓はなかった。 上昇気流もなかった。 あるのはただ高いつっけんどんな木々ばかりだった。 私は木々に拒まれ、 もしかしたらあのひとにも拒まれたまま、 針葉樹林のただなかで 鮫の歯を握って立っていた。 自動筆記による。2002.9.01. ---------------------------- [自由詩]さみだれ/佐々宝砂[2006年5月15日2時52分] 五月半ばの空は晴れ渡り 真っ暗な空に星と太陽が並んで光る という風景を見るためには 大気をすべて消去する必要があるけど そこまで無理することないわ 面倒だから五月闇で充分 まだらに曇る空から降り注ぐのは あなたにも今は見えるでしょうほら 地面をじっとりと粘つかせる 木の枝からどろどろと滴り落ちる わたしの髪はもうすっかり褐色なのだけど これはいったん洗い流して さみだれに乱れ染めにし我ならなくに ううんあなたのせいにしないから大丈夫 わたし理路整然とわたしの責任で狂うの その痩せた両手も両足も 切り落としてあげる あなたをわたしの特別にしてあげる ねえなんて鮮やかな血の雨 なんてさわやかなさみだれ 蘭の会http://www.os.rim.or.jp/〜orchid/  2005.5月月例詩集 ---------------------------- [自由詩]シケモク/佐々宝砂[2006年5月20日2時57分] まだ宵のうちの喫茶店に 吸殻と空のコーヒーカップと 素っ気ない挨拶を残して去る そのひとを見送ったあとで 私は煙草に火を点ける 何気ない仕種に見えるよう すこしだけ気を使って (そんな必要ないのだけど) こんなたぐいのことをするのは もう二十年ぶりだとおもう なんてばかばかしいのだろう 結局のところ 誰の吸いさしだって シケモクは不味いに決まっている ---------------------------- [自由詩]ウォッカ/佐々宝砂[2006年5月20日2時58分] 夜の底で とうめいな液体を グラスに注ぐと 風景がゆがみはじめる どこにもない空間の だれのものでもない腕に すがろうとしている 私の指先に 流れるはずのない涙と あるはずのない血潮が たらりしたたり 私は死なずに酔っている 酔っているのはもちろん ウォッカのせいである ---------------------------- [自由詩]殺してください/佐々宝砂[2006年5月20日3時01分] 私の部屋には通り者が出ます。 半透明の身体に半透明の武具をつけて ゆらりゆらりと私の部屋を横切ってゆきます。 私はかれを放っておきます。 かれの半透明の武具が鈍くひかるとしても。 そして私はいまひとりです。 六月の半端な肌寒さがじんわりと沁みます。 さっき飲んだばかりのあたためた牛乳が 胃の中で自己主張します。 窓をあけてみます。 風のない夜ですが晴れています。 星はいつものように空にあって私は少し安心します。 満天の星空に通り者がゆきすぎます。 今を逃すともう機会がないような気がします。 私を殺してください。 あなたが好きです。 ---------------------------- [自由詩]あからさまに言うなら/佐々宝砂[2006年5月21日19時48分] 手に吐きダコができてるじゃない 吐いてばかりいると歯がボロボロになるよ 下剤を使った方がまだマシだけど 吐かなければならないのなら吐くしかない 気が滅入ったら口紅を変えるといい 雨に濡れたら濡れたままで歩くといい 夏がきたら溶けてしまってかまわないし 夜がきたら胎児のなりして眠ればいい 女である必要なんかないの 男のふりする必要もないの それでも顔をあげて愛を歌っていいの やわらかくて弾力のあるパン種に ナイフと針が仕込んであっても わたしは驚いたりしないから ---------------------------- (ファイルの終わり)