佐々宝砂 2005年8月16日10時51分から2006年3月10日16時32分まで ---------------------------- [自由詩]幻想の王国 あるいは 詩権神授説/佐々宝砂[2005年8月16日10時51分] 1.白馬の王子(わたしの巻き毛のリケ) 颯爽と白馬に乗って駆けてくる 巻き毛の王子は ぶざまな小男でやぶにらみ しかし王子がパチン!と指を鳴らせば 王子の姿は誰よりうるわしく輝く 姫君は満面の笑みを浮かべて 美しい王子を出迎え 王子は美姫を得た幸福にとろけるだろう さて 王子を待ちながら姫君は杖をひとふり 姫君の青ざめたあばた面は たちまち傾城の美貌に早変わり さよう そこは幻想の王国 さりとてそこに愛がないわけではなく 白馬の王子はそれなりに立派な男なのである 2.詩は血で書くものじゃないけれど あたしは誰も殺したくない、自分のほかは。 あたしはナイフを投げあげる、 おちてきたナイフのやいばをつかめば、 したたる血、てのひらに鼓動、それから痛み。 あたしは痛みに酔う。 大地はあたしの血を飲んで酔う。 酔えるうちは酔うがいい、 貪欲な、痩せた赤土よ。 酔いに澱んだ目をみひらいて、 あなたはあたしの血を見ている。 ほしいの? ほしいのならあげる。 もちろん無料(ただ)で。 だって、常に酔っていなければならない、と あたしの愛する詩人が言ったわ。 3.私の青空 私の青空はどうやら特別製で やたらに重いのである それは昼も夜も容赦なく 私の頭にのしかかってくる 鎮痛剤は必需品だ 青空なんてばかでかいものを 頭に乗せているんだから 偏頭痛も当然なのだ だけど青空はやはり青空で 晴れやかで瑕一つなく澄んで そこには一羽の大鳥が飛んでいて でも私の青空はアホらしいほど重い たまには誰かに預けたいと思うのだが 今のところ誰もうんと言ってくれない 4.鳥の亡骸 鳥が歌をうたうとしたら それは 鳥の詩的な内圧が 鳥の皮膚を破ったから 鳥が飛んでゆくとしたら それは 鳥の詩的な重量に 大地が耐えかねたから 鳥が死んでしまうとしたら それは 鳥の詩的な毒素が 鳥自身をも蝕んだから 鳥の亡骸はごく軽い 大地はそれをとどめておけない 5.病める天空 空を飛んでいるあの怪物はフェニックス? 血みどろの男を咥えたハーピイ? それとも蝙蝠に変身した吸血鬼? いいえ、どれも違うわ。 病める天空に、 病院のシーツよりも白く清潔な翼広げて、 排泄物を垂れ流しながら飛んでいる、 あれは詩人よ、詩人なのよ。 あいつらは呪われてしかるべきよ、 病める天空の毒を集めて、 地上にまき散らすんだから。 ね、あいつらを駆逐したら、 血を流しながら手に手をとって、 病める天空を飛んでゆこうよ。 6.詩権神授説 洞窟に囚われ 綺羅を剥奪され お兄さまはもはや皇子を名乗りませぬ 片頬だけで微笑み わたくしにお訊ねになります 妹よ 父は炙られ脂をしたたらせている 母は切り裂かれ犬に食われている なのに おまえはまだ皇女を名乗るのか おまえはまだ王権神授説を信じているのか ええ お兄さま わたくしは確信しております 神は王に王冠をお授けになりました 王は裸で 王冠は茨でできてはいますが そして 黄ばんだ花嫁衣装を着て みにくく痩せて老いさらばえた わたくしは常に美貌の皇女です ---------------------------- [自由詩]The grasshoppers in the rain/佐々宝砂[2005年8月16日13時22分] ぼくの名前はシニ、 でも名前なんてそんなに重要なことじゃない。 その日は朝からひどい土砂降りで、 ときどき雷も鳴っていたから、 サニはとびっきり不機嫌だった。 こんな悪い日にはきっと、 金髪のミアは寝たきりで目を覚まさない。 それでもぼくたちは薬草を摘んで出かけた、 ノックすると粗末なドアが開いて、 赤毛のアミがいきなり「ありがとう」と言った。 いつものように薬草のお礼は果物。 今日は溶けそうにやわらかないちじく。 談笑するふたりを残してぼくはひとり抜け出す、 掴みとったいちじくの皮が破れてぼくの手を汚す、 アミ、このいちじくはあんまりかよわいよ、 あんまり甘すぎるよ、アミ、 あんな目でサニを見ないでほしい。 サニはサニでミアを見ている。 そしてミアの盲いた目は、 誰も見ない。 きっと。 それにしてもひどい雨だ。 どこに行くべきか思いつかないぼくは草原を走る、 ぼくはサニみたいにたくましくない、 アミみたいに背が高くない、 ミアみたいに未来を見られるわけでもない、 ぼくは、ぼくは、ぼくは、 空が光った。 視界が白熱した。 落雷という言葉を思いだしたのは、 目覚めてからだ、 ぼくはつめたい膝に頭を乗せていた、 ぼくはお礼も言わずに飛び起きた、 つめたい膝の持ち主は、 白い髪に赤い目、 ぐっしょり濡れた服から透ける胸は、 ぼくと同じようにたいらだった。 あいつの名前はカイ、 でも名前なんてそんなに重要なことじゃない。 初出 蘭の会2005.8月例詩集 「カイとわたしの物語」の前日譚連作「カイとぼくらの物語」より ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]昔の駄文「他者の発見」/佐々宝砂[2005年10月29日16時38分] 戦争の話をしたもんだから、私が16歳のとき書いた詩を思い出した。意識的に詩を書きはじめて2作目の詩である。  「所有者」 あたしはいつだってあたし自身のものだと彼女は思っていた。彼女の思想が通用せぬ時代があったことを学んではいたが、彼女は、それはあくまで彼女とは関係せぬ昔語りであると信じて疑わなかった。そして彼女は、閃光を浴び最期の瞬間を迎えたときでさえも、気付くことがなかった。彼女の生きる時代もまた、過ぎ去ったあの暗い時代と大差ないのだということを。 彼女の膨れ爛れた醜い肉体は、今や誰の所有物でもない。 これを書いた時、世界は冷戦まっただなかだった。1984年のことである。私は切実に核戦争がこわかった。世界は終末の一歩手前だと思っていた。私は死ぬ、みんな死ぬ、世界は終わる。切実にそう考えて、私はひとつの結論を得た。 「私は私のものではない」 私に思想らしきものが生まれたのはこのときである。この散文詩がいい散文詩だとは思わないけれど、この散文詩は私にとって大切なもの、迷ったとき立ち戻るひとつのポイントとなった。これが私の基本なのだ。私は私のものじゃない。私という人間は、私にとってさえも他者なのだ。当然のことながら、この結論に到る前に、私は「他者」というものを発見している。 いつからそうだったか思い出せないけれど、私にとって「他者」という概念は自明のものだった。私以外はみんな他者だ、そして「他者=私でないもの」があるからこそ、私は「私が私であること」を確認できる。そして私自身もまた、他者から見れば他者である。アッタリマエなんだけどねえ、こんなこと。 しかし、せばさんが言うには、これは普通そんなに自明のことではないらしい。普通のヒトは、恋愛を体験してはじめて「他者」を発見するらしい。そんなもんかと思って、ちょっとびっくりした。私にとっての「当たり前」が他者にとっての「当たり前」じゃないのは「当たり前」なのだが、忘れてた(笑)。自分だけを基準にモノを考えてはいけません、またも、自戒自戒なのだった(笑)。 私が他者を発見したのは、たぶん、私が周縁にいる人間だったからである。首都に住んでるわけでない。田舎に住んでるがその土地で生まれたわけではなく、なんとなく、除外されている。女である。子供である。地理的に周縁に住み、その周縁にある小さな共同体のさらに周縁に住み、男性中心の社会にとっては周縁にある女性の世界に住み、さらに周縁にあえて言えば下位に位置する子供の世界にいる。しかも私は趣味が風変わりだった。そして身体が弱かった。だから私はみんなと遊べなかった。子供の世界の中でもさらに周縁にいた。それが私だった。 子供という点を除けば今もそんなに変わりはない。むしろ、広い世界を知ってしまったので、周縁にいるという意識はさらに強くなっている。私は黄色人種(白人中心の視点からすれば周縁)で、日本人(西洋中心の世界からすれば周縁)で、クリスチャン(現在の日本人の多数が無宗教か自覚のない仏教徒であることを考えると周縁)だから。 周縁にいる私は「中心」を想像した。自分がそこに属しているとは思われない世界の「中心」を想像した。想像しないでも周縁で生きてゆくことはできる。狭い世界で自分の位置を確保していれば、そこが自分にとっての「中心」であって、自分以外の「中心」のことなど考えなくても生きてゆける。しかし私は狭い世界の中ですら、自分の位置を確保できなかった。心臓が悪くて外で遊べなかった私の世界は、子供の世界ではなく、本の、活字の、物語の世界にあった。そしてその世界の「中心」にあるものは私ではなかった。どう考えてもそうではなかった。だから私は、恋愛を体験する前に「他者」を発見せずにいられなかった。 子供のときの話なので、なかなか思い出せない。順序だって理路整然と考えたことでないとは思う。しかしとにかくこの「他者の発見」が、私という人間の、また私の詩作の土台になっていることは確かだ。最近になるまで忘れていたくらい下にある土台だ。私はそこに立ってものを言わねばならない。      * * * 恋愛についてちょっとだけ。恋愛以前に「他者」を発見していた私に恋愛がもたらしたものが何だったかって、それは、私を好きになる他者もいるとゆー驚愕である。それは今もなお驚きだ。あんまりビックリしちゃって泣きながら土下座したくなるほどだ(笑)。他者が私を排除するとは限らない。私を受けいれてくれる他者、私と似た他者、私に受け容れることのできる他者がいる。私はまだそのことに慣れていない。慣れた方がいいのかどうか、決めかねている。 私はときどき、頭が真っ白になるような歓喜とともに、私は孤独ではないのだと感じる。それは恋愛とは無関係なのだけれども、恋愛で「他者」を発見した人には「恋愛のようなものだ」と説明しておいた方がわかりよいだろうと感じる。 2002. ---------------------------- [自由詩]願望充足1/佐々宝砂[2005年11月6日2時31分] 暗い部屋で、でなければ暗い森で そうでないなら 夜七時過ぎの町工場の隅の暗がりで (何がなんでも、あくまでも、暗くなくてはならない) かさり、と微かな音たてて動く物影は ホモ・サピエンスかもしれない (だった、かもしれない) 彼、なのか、彼女、なのか、問わない それ、であってもいいのだが、ともかくその物影は いくらかの知性を有しており いくらかの憂いを知っており 目の下にはくっきりと隈があるが その隈はホンモノではなく装飾でありメイクアップであり その指先からはたらたらと血が滴っているが その血液は、それ、のものではなく それ、の足元には かつてホモ・サピエンスであった肉塊が 引きちぎれ割れて砕けて裂けて散り 明日には腐りどろどろと溶解し果てるであろうその肉塊を それ、は 憂いではあれ悲しみでも絶望でもない感情で見つめ ほほえむ そのほほえみが わたしはほしい ---------------------------- [自由詩]願望充足2/佐々宝砂[2005年11月6日2時43分] しらじらと明るい午後二時の浜辺 空はうんざりするほど晴れ渡り こんちくしょー嘘だろと思うくらい雲ひとつなく 砂は一粒一粒がそれ自身の光を放ち そのくせどれもが真っ白で 海の彼方ににじむのは伊豆半島で (このあたり唐突にローカル) つまりここは東海の小島の磯の白波きらきら 蟹はいないようだが 潮だまりにはグロテスクな魚? 魚だろうか魚かな魚とは思えないような なんだかわからないがまあ 潮だまりにはなんやら得たいの知れないイキモノ 紫色の鱗に銀の鰓なめらかな尾はショッキングピンク 盲いているらしき目からはどすぐろい液体が流れ落ち 半ば開いた口からこぼれる茶色く汚れた牙と 知性の明らかな証拠であるコトバ そしてそのコトバはみずからの醜さを罵り罵り しかしその派手な尾が水を打てば 繊細な、繊細な、美しい、妙なるメロディが響きわたる そのメロディが わたしはほしい ---------------------------- [自由詩]快感原則/佐々宝砂[2005年11月6日21時21分]  それぞれを組むと九つの詩ができます 1.ところ  A.霧にけむるノスタルジイの森林  B.磁器の王国  C.ひとけのない商店街  D.海のうえを走り抜けるフリーウェイ  E.動物園  F.博物館  G.ギラギラした星のあふれる夜空  H.水晶製のアポロンのトルソーが林立する庭園  I.ココア色した図書館 2.とき  A.夏休みの初日、午前四時  B.そこに時はない  C.十月最後の日曜の早朝  D.五月はじめの土曜、午後一時  E.九月二十二日、午後三時  F.冬至、深夜(時刻は不明)  G.幼年時代の追憶の彼方のある夜、夜八時  H.人類が滅びてから二十万年後(時制が異なるため時刻は不明)  I.長すぎる秋の夜、午後十一時 3.天候  A.きつね雨、もしくはフッカケ  B.そこの天候は情緒によって左右される  C.晴、ただし鰯雲が見受けられる  D.晴、ただし綿雲が見受けられる  E.快晴、明るすぎる陽射しは陰気  F.曇天、建築物のうえに重く垂れる舌  G.もちろん雲ひとつあるわけがない  H.快晴なれどその天体の大気は呼吸に不適  I.台風、あるいは雷雨 4.登場人物  A.ざしきぼっこと豆腐小僧  B.象とスフィンクスと鳥と魚  C.五人の名前をあげてください、その四人目の人物  D.姉と弟、あるいは兄と妹  E.子供をひとり連れた若い夫婦  F.恋人たち  G.三人の少女(歳は下から十二、十三、十四)  H.人類ではない知性  I.ひとりきり、私だけ 5.サウンド  A.陰音階による女性三部合唱  B.ガラスが割れる音、その後の静寂  C.ドラゴン・クエストのテーマ  D.雑音の混じる五十年代のロック・ン・ロール  E.遠くから聞こえるオルゴール  F.ハイヒールが床を蹴る音  G.ビブラフォンが演奏するラベルのボレロ  H.水晶製の木の葉が歌う硬質なワルツ  I.窓を叩く風、雷、ならびにピアノ独奏の子守歌 (1997) ---------------------------- [自由詩]まだ言ってなかったかもしれないけど/佐々宝砂[2005年11月8日14時43分] まだ言ってなかったかもしれないけど きいてなかったんなら覚えておいてくれ 共感はいらない そんなもんいらねー 私の言葉なんか ぶっとばしてくれ ティッシュがわりに鼻かんでうっちゃってくれ 酔いどれのゲロと一緒にトイレに流しちゃってくれ 言葉の通じない奴と話したい つまりきみだ 言葉のわかる相手としか話をしないきみとだ きみは私の言葉をきかない 私はきみの言葉をきかない きみと私とは使う言語がちがう 住む世界がちがう 年齢がちがう 好きな歌がちがう だから共感なんて嘘はいらん 無駄は省こう ともかく私の知らないものをくれ 私にないものをくれ きみはそれを持ってる 私にそれをくれ 私はそれを ティッシュがわりに鼻かんでうっちゃる 酔いどれのゲロと一緒にトイレに流す 私にはそいつが必要だ 共感なんかいらねー まだ言ってなかったかもしれないけど きいてなかったんなら覚えておいてくれ 私はきみが好きだ (恋文スレより転載) ---------------------------- [自由詩]恋に似てるけどそうじゃないもの/佐々宝砂[2005年11月8日16時48分] ゴミ箱を探してみたけどなかった まあ当たり前なので気落ちしない 道ばたの石ころをひっくりかえしたけどなかった これも当たり前なので気にしない 実を言えば私は知ってる オズはあの空の彼方にあって ほんとうのナルニアもあっち側にあって 私の洋服ダンスはいつまでも単なる洋服ダンスで オズの魔法使いは単なるおっちゃんなのであり どこにも白い壁の緑のドアはない オズの魔法使い程度の魔法でよいなら 私もひとつふたつ使えるが そんなまやかしを使ってみても あっちにゆけないことは明白なのだ だけど今日は明るい秋晴れ ねえアスラン 私は何度も転ぶよ 私は何度も躓くよ あなたが見捨てないことを私は知ってる ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]ボレロに耐える−めざせ最強ミーハー/佐々宝砂[2005年11月10日18時08分] 世の中は変わってゆくけど、変わり方はおっそろしくのんびりしていて、どこがどう変わっていくのかよくわかんない。ちょっとずつ変わりながら繰り返し繰り返し続いてゆくボレロのよう。詩もそう、音楽もそう、物語も、映画も。すべてがボレロ。私は、ボレロに耐えなきゃならない。どこかで見たような議論。どこかで読んだような、自分自身も書いたことのあるような、それどころか閑吟集にすらありそうな、単純な恋唄。盛り上がるかに見せて終わりもせずまた下降し延々と続くこのボレロに、あなたは耐えなくてもいい。ボレロに耐えるのは、ボレロに耐えることによって旋律のわずかな変化を見つけて狂喜するのは、単なる私の個人的な趣味だから。 自分で消化できていないので、きっと私の言うことには矛盾がある。自信持って言っちゃうけど、私は正しくない(笑)。理論武装もしませんよ。わざとやらんのです。私はミーハー読者で、だけどミーハーこそは最強なのだ。理解しなくてもいい、間違ってもいい、バカでもいい、善悪の悪の側でも善の側でもどーでもえーわい、好きなものは好きなのだ、私は何かも好きで何もかもを面白がるつもりなのだ文句あるか、と思ってるんだから、ミーハーを非難することは不可能である。批評分析することは可能ですけどね。ええ。でもその際には、わたくし、批評分析をも面白がる予定です。 ふつーのミーハーは何かを好きになればそれで済む。でも、何もかも面白がるつもりの最強ミーハーになるためには、それなりの修練や学習が必要だ。最強ミーハーは、小学一年の生活科の教科書を読んでも喜ばなきゃいけない。インターネット上のポエムを読んでも喜ばねばならんし、映画「北京原人」を観ても喜ばねばあかん(ま、ネットの詩はいくらなんでも「北京原人」ほどにはひどくないので同列にするのはあまりに失礼なんだけど許して)。私は大バカに耐える鈍感さと、キッチュなものを見つけて大喜びする無責任な鋭敏さを養わなきゃならない。むろんバカなものだけを相手にして喜ぶのではただのアホだから、きちんとした教養も身につけなきゃいけない。古事記を読んでも喜ばなきゃならない。現代詩手帖を読んでも喜ばなきゃいけない。古典や優れているとされる芸術の中にバカを発見し、流れゆくネットの使い捨て文章のうちに宝石を発見する、それが理想だ。あなたがそうする必要はない(やってもいいけどね)。私が喜ばねばならんのである。なんのために? さあ。私がそうしたいから。大喜びでのたうちまわりたいから。何もかもを好きでいたいから。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]昔の駄文「詩の人称について」/佐々宝砂[2005年11月12日16時53分]  私はもともとマンガが書きたかったヒトなんだけれど、絵がぜんぜん描けないのでやめてしまった。しかたないので小説を書こうとしたけどうまく行かない。どうしてうまく行かないかとゆーと、10枚くらい書いたところで息切れがしてくるからである。しかしそれでも小説をうまく書けるようになりたかったので、中島梓(笑)の『小説道場』なんぞを愛読していた。いまを去ること十数年以上も前のことである。その『小説道場』で、私は生まれてはじめて、小説の視点という問題、小説の視点は通常固定されているものだということを知ったのであった。  一方、当時の私は倉橋由美子に耽溺していた。崇拝していたと言ってもよろし。それだもので、『小説道場』で続けられていた小説の視点と人称の話に倉橋由美子の名前が出てきたときは、かなり驚いたし嬉しかった。いまはもう『小説道場』が手元にないので正確な文章を引けないのだけれど、中島梓は確かこんなことを書いていた(かなりうろ覚えである)。 「人称には一人称と三人称がある。二人称もあるにはあるが、それを使って成功した例は倉橋由美子くらいしか知らない。」  10枚で息切れするくせに己の文才を疑わない小生意気な高校生であった私が、これを読んで「それじゃ二人称で書いたれ」と思わなかったはずがない。しかし、それまで通常の小説は視点が固定されてるということすら知らなかった私である。うまく書けるはずがなかった。なぜうまく書けなかったか? それは、二人称で書かれた文章の視点がいったいどこにあるのか、当時の私がまるで理解していなかったからである(今だってそんなに深く理解してるわけじゃないけどよ)。  ちょっと考えてほしいのだけれども、日本語で「あなたは悲しい」という文章は成立するだろうか? 少なくとも「彼は悲しい」という言い方は成立しない、あるいは日本語らしくない、と金田一春彦は述べている(『日本語』下巻、岩波新書)。語り手である「私」は「彼」の内面を本当に理解することはできないから、こういう場合には「彼は悲しそうだ」とか「彼は悲しいらしい」とか言っておいた方が日本語らしい表現なのだと言う。しかし、それはあくまで日本語らしさという観点から見た場合のことであって、日本語で「彼は悲しい」式の表現が全く許されないということではない。小説では許される表現だと思うし、実際、翻訳調の小説の中ではよく見られる。  しかし、一人称小説の中で「彼は悲しい」を使うことはできない。一人称小説の場合、視点は必ず「私」にあるからだ。「彼」の内面を知り得ない「私」は、「彼は悲しい」と断言できないのである。また、三人称の小説であっても、視点がある一人の登場人物に固定されている場合、その登場人物以外には「彼は悲しい」が使えない。それではいったいどのような場合に「彼は悲しい」が許されるのだろうか? それは、小説の視点が「彼」の内面も「私」の内面も知っている視点、すなわち「神の視点」である場合だ。そして、二人称の視点も、おそらくはこの「神の視点」なのである。  と、ここらへんまでは高校生の私もうすうすは考えたのだが、それ以上進めなかった。私は、書き手であるこの私、この私こそが神であると考えてしまったのだ。これはたぶん神林長平のせいである。神林長平の「言葉使い師」という小説、これは二人称で書かれているのだけれど、「君はマリオネット。私があやつる。」という文章で終わっている。だが、「作中の私」イコール「作者である神林長平」と考えた私は、やはりドアホである。二人称小説というものは、そんな単純な図式で理解できるものではなかったのだ。  「作中の視点」イコール「作者の視点」という意識のもとに書かれた二人称小説は、一人称を省いて書かれた一人称小説に過ぎない。本当のところ、「神の視点」と「作者の視点」は別なものなのだ。二人称で書かれた創作の場合に限らず、「神の視点」を用いて創作するとき、作者の視線は作中の「神の視点」をも上回る大きな視野を持っていなくてはならない。しかし、よく考えてみれば、これは人称がなんであろうとも変わらずに言えることなのだった。一人称で書かれている場合すら「作中の私」イコール「現実の私」ではあり得ず、書き手としての私は「作中の私」を観察し理解し描写しなくてはならない、つまり、作者である私の視野は「作中の私」の視野を上回る大きなものでなくてはならない。  しかし。しかし、である。それは、果たして小説以外の創作にも当てはまることなんだろうか。マンガの場合には当てはまる。映画にも当てはまる。しかし、詩は? (2001.9.28.若干訂正) 蛇足。 二人称で書いてみたつもりの詩の例 「女王の片恋に関する11のソネット」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=3684 「女王は生き血の風呂から手を伸ばし」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=24392 うーむ私は女王サマを使わんと二人称で書けないのだろーか。 今度はがんばって他の題材で書いてみよう・・・ ---------------------------- [自由詩]ゴン太くんとふたあり/佐々宝砂[2005年12月13日23時40分] plain damageをなんて訳そうかと思い悩みながら師走の 群衆のなか歩いていた とおもっていたとき からっかぜが吹きすぎたプルトニウムのからっかぜが あそこから60キロ半径にあるすべてを清浄化した もうおわりだね おめでとう ほほえんで ゴン太くんの茶色い頭に抱きつくと 古びた合成皮革のにおいがした 内実についての問いは私にもゴン太くんにも禁忌だから わたしとゴン太くんは 袋折の困難さについて語り合った 災害と福音は同義なので 天を仰ぎ感謝の祈りを捧げた わたしとゴン太くんとふたありだけ ふたりだけの世界で ---------------------------- [自由詩]蒼白の天使/佐々宝砂[2005年12月28日20時50分] 彼等は天使なのだから自由に降りてくる ひとは誰も彼等の姿を見ることができない 彼等に思想はない 彼等は天使であり善でも悪でもない 天使は通り過ぎる ありとあらゆるものを刺し貫き ドアも壁も彼等の前では意味をなさない 天使が通り過ぎるとひとは沈黙する 灼熱する寡黙の底 沸騰する静寂の内部 天使の世界は清浄であり数式のように美しい 天使が触れるとひとは羞恥のあまりに息をとめる 天使を名づけても手なづけたことにはならない ひとが彼等を何と呼ぼうとも天使は ただまっすぐに貴方の身体を貫いてゆくのだ ---------------------------- [自由詩]白梅/佐々宝砂[2006年1月10日4時07分] 白百合の季節ではないから 梅の枝を切ってきた 山の梅だから きっと白い花が咲くだろう ほんとのことをいえば 白い花はあんまり好きじゃない 私が好きな花は深紅の彼岸花で それも墓地やなんかにわんさと生えて ゴギブリ並の生命力を見せつけるようなやつなのだ なのにいつも白い花を活けるのは あのバカたれへの嫌味で あのバカたれが気付いてるかどうか知らんが そもそもあのバカたれはもう私を見てないんだし 私の自己満足でかまわねーのだ 玄関先に活けた梅の枝は オアシスという名の地獄にいましめられ それでも少しずつ蕾をふくらませるだろう 蕾はやがてほころび白い花びらをこぼすだろう 私はあのときと少しもかわりがないのだと そんなバカげた嘘を言うつもりはない 私は梅の枝よりはるかに流動的なので 五分前の感情を表現することすらできない でも日々新たに そのことに気付くと 我ながら心からうんざりするけれど 日々新たに 私は自分の感情を再構築しているらしいのだ 白い花びらは茶色にくすんでゆき 黄色い花芯は稔りを知らぬまま落ちてゆき かたく閉じた冬芽は 訪れなかった未来を抱きしめて朽ちてゆき この世にさよならを言えないで ---------------------------- [自由詩]量子と猫と鬼子母神/佐々宝砂[2006年1月13日19時06分] シュレーディンガーの仔猫たちは 母を捜して彷徨っていた、 小雪ふる池のほとり、 量子の石榴をもとめる彼女は、 仔猫たちをみつけるたび貪った、 死ね、 さもなくば生きろ。 ---------------------------- [自由詩]海に出るつもりじゃなかった/佐々宝砂[2006年1月13日23時43分] 呑んだくれた父が 血まみれになって帰宅したことがある 前歯が三本折れていて 目の周りは真っ黒だった 何がおきたか怖くて聞けなかったが 父は喧嘩をするような人間ではなかった 呑んだくれた父は 便所に落っこちたことがある 田舎のウジ虫だらけの汲み取り便所だ 深夜に便所でうめき声が聞こえたから 見に行ったら キンカクシが半分とっぱずれた酷い状態の便所から 父の上半身が突き出ていた クソまみれのその身体を洗ったのは私だ 朝起きたら 教科書が父のゲロでどろどろだったことがある 風呂に入ろうとしたら 父が溺れかけていたことがある タクシー代よこせという父に なけなしの小遣いを全部とられたことがある 道端の溝にはまっている父を見たことがある あまりべろべろに酔っているから 頭にきてキャットフードを父に食わせたことがある それどころじゃない 呑んだくれた父は 家蜘蛛を生きたまま食ったことがある さすがに酔っていても蜘蛛はまずかったそうだが まあそんなわけでさ 酒呑みなんて大嫌いだ 酒呑みなんてのはみんな大馬鹿だ 酒呑みにだけはなるもんか 本当に真剣にそう思っていたんだよ だけど 好奇心から乗り込んだ船の 綱がはずれて海に漂っていった 古い物語があったね あの物語みたいに 私は 出るつもりじゃなかった海を漂っている やがて私を溺死させるかもしれない グラスのなかの琥珀の海 2003.10.15 ---------------------------- [自由詩]蓋天宣夜/佐々宝砂[2006年1月15日1時56分] 最初に巨大なテーブルが在つた。 テーブルこそは原初の者である。 テーブルの一辺は三千阿僧祇(あそうぎ)四千阿僧祇(あそうぎ)であつて、 其の対角線は五千阿僧祇(あそうぎ)、 テーブルの央心には直径二百八恒河沙(こうがしゃ)の翡翠の玉(ぎょく)が鎮座する。 翡翠の表面には選ばれた物らが住まふ。 テーブル上部百八不可思議の高さに蓋天があり、 其処には全ての活力の源泉である太陽が輝く。 テーブル上部に住む物は其の光輝を受けて生きるが、 常時光輝を受ける事耐え難き物どもの住まひは、 テーブルの端や横に浮遊して光輝を避ける。 ほほう。 御前達人間どもの地球は其の浮遊体であると思つたか。 地球が宇宙の中心であると考へた昔人より幾らか謙虚であらうが、 否。否否否。違ふ。笑止。 テーブルの下部、其処は永遠の夜であるが、 わづかに光る蛍のやうなものが無数に飛ぶ。 あの蛍のやうなものの一つを、 御前達は太陽と呼んでをる。 御前達の地球は蛍のまはりに舞ふ塵よ。 闇の中ふはりふはりと舞ふ塵よ。 初出 蘭の会2006年1月月例詩集「テーブル」 ---------------------------- [自由詩]鍋が煮え立つまでの即興/佐々宝砂[2006年1月25日17時44分] 夕暮れの空にはむくどりが群れて 毎日あんなことしてて むくどりは飽きないのだろうかと思う私も 飽きもせず夕飯をつくる いや飽きてるんだけど 夕飯に飽きても 生きてるのに飽きても 生きてなきゃならないらしいので 夕飯をつくる 夕飯を食う 生きることにする むくどりは面倒なこと考えずに 面倒なことしてるな 先頭のやつが気分次第で向きをかえると 群はいっせいに向きをかえる 一羽だけ群から妙に離れたやつがいて そんなやつに親近感を覚えてみたりするけど 私は知ってる あいつだって ちゃんとねぐらに帰って眠るんだ 竹籔に寒風を避けて 群のみんなでおしくらまんじゅうして なんも考えちゃいない それでも生きなきゃならないことだけは知ってる きっと私以上によく知ってる 私はむくどりじゃなくて なにもかもに飽き飽きして 見上げても うつむいても 酸っぱいものがこみあげる ---------------------------- [自由詩]青猫の意見/佐々宝砂[2006年1月27日1時46分] 夜ふと目をさましたら 胸におおきな風穴があいていました 最近苦しい恋をした覚えはないので これは病気に違いないとおもったのです 翌朝ユリノキ通りの魔女の家にゆきました ヤブって評判だけどご近所だから 受付の青猫に病状を訴えますと よくある症状だと青猫は笑いましたが 魔女は笑いませんでした  こりゃスランプだね  もともと誰にでもあるものなんだよこの穴はね  気づかなけりゃなんでもないんだが  気づいてしまうと苦しいんだよ苦しかろう  どうしたらいいんですか  まあ基本的には恋穴の治し方とおなじだが  ふさいでもふさいでも切りがないからね  ほんとうは穴に慣れるのがいちばんよいのだよ  ところで見たところおまえさん昔の恋穴に  とんでもないものを詰めてるね  それがスランプの原因だね間違いない  まずそのとんでもないものをずりだして  うわわわ やめてくださいよう  見ないで見ないで  それだけは出さないでおねがいですよう  しかしこうしないと治らないからねえ  いやなんだねこりゃ詩じゃないか  こんなものを恋穴に詰めてはいけないよ  なかで腐っちまうからね  ほじくり出して廃棄処分にしないと  ああおねがい  そんなもの見せないでおねがい  やめておねがいやめてえっ  ひええええええええっ 詩をひきずりだしてしまったので スランプは治りました でも苦しい恋が再発したので 結局入院することになりました 恋の方がスランプよりずっとまし というのが青猫の意見ですが 恋の渦中にいると とてもうなずける意見じゃありません ユリノキ通りの魔女はヤブって評判 私もちょっとそうおもいます 「ユリノキ通りの魔女の家」より  2001/06/16 ---------------------------- [自由詩]青い切符/佐々宝砂[2006年1月27日1時54分] 青い壁は膨らみ私は身動きがとれない 東側の大きな窓は下向きになる 広場に立ち並び仰ぐひとびと ぎーよんぎよんと振り子のように 揺れている世界 上下に左右に動きたわんでゆく風景 危うい綱はきしんでいるのか それを知るすべはない どうしてこんなことになったのか 私には知るすべがない 見知った、そうだよく知っている街を 私は走っていた ショウウインドウに飾られた服 つまらないけど人を魅せる雑貨 雑踏とおしゃべりと営業スマイル 見慣れた角を曲がると 見知らぬ駅があった 新聞紙を着た駅員が微笑みながら 私に青い切符を手渡す モノと書かれたその切符には 行き先表示もナンバリングも日付もない 藁屑を頭に被った駅員が 改札を通れとうながす 自動改札に切符をさしいれると 青い切符はもう切符ではなかった 昇降機は下降を続ける 私は地上にいたはずなのに どうしてさらに落ちてゆくの? 世界はどうしてこんなに揺れるの? みんなはどうして見上げているの? ポジティヴ過ぎる歌声で 綱が歌っていたりして 青い壁はなおも私を圧迫する しかし私は事態を楽しみつつある 思い出してごらん 駅員は微笑んでいたのだよ 狂気の藁が 私の足首からツと顔を出す なんとさわやかに 2001/07/26 ---------------------------- [自由詩]いろくづのなみだ/佐々宝砂[2006年1月27日2時13分] ぎちぎぎりちぎちちり 湖水が夜半に凍ってゆくよりもゆっくりと 圧縮する 大木を一冊の辞書にする工場よりも残酷に 圧縮する ちぎちちりぎちぎぎり なんとなまっちろい頸 この白いものはもうすぐ白くなくなるのさ なまぬるい赤に汚れて 決して鮮やかではない 温血動物の腐りかけた赤に汚れて 鰐は哀れな獲物を食いながら 空涙を流すという 泣いたほうがお好みなら おやすいご用さ 滝みたいにサービスしてやるよ ---------------------------- [自由詩]それでも私は元気だよ/佐々宝砂[2006年2月16日18時02分] あてどない という言葉と 鍵 という言葉 ばかり頭に浮かんで 要するにわけがわかんない 風を名づける人たちに 風の色を訊ねてみた だあれも知らなかった なまぬるいきさらぎの曇天 今日はうまくメーキャップができないので どこにも出かけられない でもうまくメーキャップができたとして どこに出かけたらいいのか知らない あざやかなさつきの青天 そんなものを仰いだ日もあったね そんな気もするね でも今日はなまぬるいきさらぎの曇天 どこに出かけなくてもいいから 手を洗ってこよう ---------------------------- [自由詩]バスタブの肺魚/佐々宝砂[2006年2月16日18時08分] バスタブいっぱい満たされたお湯に ここちよくぬくもって からだをのばして ねむってもいいんだ 鮮烈さがほしいなら シャワーを浴びたらいい 冷たい水が ゆるんだ頬をきっとひきしめる 誰かがさっきからそう繰り返し 繰り返し囁くのだが 湿っぽいバス・ルームで 乾いた鱗を光らせる私は 疑り深い肺魚である 世の流れが変わっても肺魚なのである 川底の泥はいつも ぎょっとするほどに冷たいのだ シャワーなんかが鮮烈なもんかい そういいながら私は とりあえずお湯に浸かっている ぬるいので身体が腐りそうだ しかし私はたとえ腐っても肺魚なのである ---------------------------- [自由詩]ものや思うと問わば問え/佐々宝砂[2006年2月16日18時12分] あかねさす紫野ゆき標野ゆき そんな旅を胸に描いた妾(わたし)は 愚かだったのでございましょうか 野守などはおりませんでしたのに せめて手をお振りになってくださったら それだけでも嬉しうございましたのに あなたは黙ってお発ちになったのでした 濡れにぞ濡れじ色は変わらぬこの世界 妾なぞにいったい何ができましょう あしびきの山鳥の尾の長きに巻かれ つまらぬ歌を口ずさむのみでございます 妾はひとりで旅に出るといたします 焼くや藻塩の煙を目あてに 海まで歩いてゆきましたら ひっそりと焚き火をいたしましょう ご心配なく 身を焦がしたりはいたしませんとも ものや思うと問わば問え 行方も知らぬ詩歌の道に 親切めかした舵は禁物でございます ---------------------------- [自由詩]冬のカナリア/佐々宝砂[2006年2月17日22時18分] 水時計は五色、 薄紅、薄青、亜麻色、鈍色、萌黄、 途方もなく贅沢な時計、 薄紅ならば奥方さま、 薄青ならば二の奥さま、 亜麻色ならば三の奥さま、 鈍色ならばあたし、 萌黄ならばあなた。 あなたの肌はあたしと同じに暗い色だから、 鮮やかな萌黄が本当に似合うわ。 ほら髪もきちんと結っておきなさい、 あなたはとっても可愛いんだから。 あなたのふるさとは暖かな国、 あたしと同じ遠い国、 煮えたぎる緑の、 派手やかな生き物たちの、 遠い楽園。 この国は砂ばかり。 冬の夜は長くて暗い。 それでも風紋は美しいわ。 あなたにはまだ珍しいかしら、 それとももう見慣れたかしら。 ねえ、泣くのはおよしなさい、 あたしたちは泣くために生まれたのではないわ、 あたしたちは唄うために、 さえずるために、 愛されるために、 生まれたの、 ほらこの鳥と同じだわ、 美しく派手やかに装い、 美しく唄い、 ただ愛されるためだけに、 そうよ、 あなたも知ってるのでしょう? あたしたちは人間ではないの、 カナリアなの。 ---------------------------- [自由詩]俺の恋人/佐々宝砂[2006年2月17日22時20分] 俺の恋人は 俺を置いて行っちまった どこに行ったかはわかっているけど 追いかけてゆくのは大変だ 道はわかりやすい 迷うほどの道はありゃしない あいつが行くのは いつも決まって同じところだ 森を抜けて早瀬を渡る 岩山の表面に開いている不自然な扉 その扉を開けると いつもの洞窟だ 洞窟の奥の暗闇に 俺の恋人が待っている 闇の滝に濡れて 俺は洞窟を経巡る 気がつけば 俺には脚がない 手がない 指がない 俺は蛇のように泳ぎながら 洞窟のどんづまりを目指している ---------------------------- [自由詩]夜のメッセージ/佐々宝砂[2006年2月17日22時21分] 俺はこの島にあって 風のまにまに漂う 俺の声を聞いたら おまえはもう自由ではない そこにはない雨のしずくが おまえの頬を洗う 足が重いと感じたら そこに俺がいるのだ 手が動かないと思ったら 俺がおまえをとらえた徴だ 夜の雨がおまえの肌を刺したら おまえはもう見失っているはずだ ・・・おまえ自身を おまえはなぜ硬直しているのか おまえは俺にくちづけた 夏の雨に打たれ廃屋の壁に背をもたれて 会いたいと祈ったのはおまえ自身だ そちらの世界に固執する愚かな兎よ ・・・顔をあげて こちらの世界においで ---------------------------- [自由詩]冷蔵庫の扉に貼ってあったメモ/佐々宝砂[2006年3月6日15時07分] 切り刻め 春を 芽吹きを 生え初めたばかりのあわい下草を 切り裂け よく研いだ鉈で 大地を 老いぼれた大樹を 枯れながらまだ生にしがみつく老骨を 一刀両断されたきみの住まいに 石英の霰ふる日まで きみは 切り続けなきゃならない きみは最後のヒトなのだから 最後まで暴虐を尽くせ ---------------------------- [自由詩]ようこそ 新米くん/佐々宝砂[2006年3月10日15時57分] いつだって空は俺の庭だったよ 無法なソ連の女パイロットが飛び交うときも 嫌味な米軍野郎が進んでくるときも 空はきっと俺たちに逃げ場を提供してくれた あるとき攻撃をすりぬけて雲の上に出て 俺は奇妙な飛行機をみた 紙と木でつくったような複葉機だった それは冗談みたいにのどかに浮かんでいた 音さえ立てないその複葉機の機体には ひとつの虫の死骸もついていなかった 操縦士は 俺に やあ と挨拶した そうさ 俺がさっき君に挨拶したみたいにね そうさ ようこそ 新米くん ここは飛行機乗りの墓場なのさ 未完詩集「百鬼拾遺」より ---------------------------- [自由詩]蝋梅/佐々宝砂[2006年3月10日16時00分] 浴衣を着たこどもなのでした まだ菜種梅雨も過ぎぬというのに 二本の鉛筆のように突き出た裸足は 春泥にまみれているのでした これあげる こどもはあかるい声で言いました 小さな手に握られていたのは ほかほかと湯気をあげる餅でした ありがとう と 私は答えたのでしょうか その餅を私は確かに食べたのですが 顔をあげると蝋梅が咲いておりました こどもはもう どこにもおりませんでした ---------------------------- [自由詩]臍/佐々宝砂[2006年3月10日16時32分] どうも私にはあるべきものがないらしい、と 気づいたのは昨夜、 生まれてはじめて銭湯に入ったときであった。 客の一部はタオルで下を隠していたが、 そこにあるものはあってしかるべきものであって、 特に恥ずかしがる理由は見当たらなかった。 しかし私はどうすればよかったか。 私にはあるべきものがないのであった。 私はタオルで前を隠したまま湯船に入ろうとしたが、 客の一人に怒られてしまった。 ---------------------------- (ファイルの終わり)