佐々宝砂 2005年5月15日4時45分から2005年6月29日0時37分まで ---------------------------- [携帯写真+詩]花の名は知らない/佐々宝砂[2005年5月15日4時45分] 地味な葉は ちょっと夾竹桃に似て 五月がくると 白い五弁花の中央 蕊のねもと 鮮やかな紅にいろづく 花の名は知らない ---------------------------- [携帯写真+詩]あうんのうんのつぶやき/佐々宝砂[2005年5月15日13時06分] 我輩は狛犬である。 うん。 口元はきりりと締まっているのである。 うん。 だらしなく口あけた相棒とは違うのである。 うん。 だが百年に一度くらい口あけて吠えたいのである。 うん。 今度誰もいない夜にこっそり吠えよう。 相棒に口止めしとかにゃならん。 うん。 ---------------------------- [自由詩]地球はもうはぜてしまった/佐々宝砂[2005年5月16日2時52分] 地球はもうはぜてしまったくす玉だ。色褪せたリボン。散らばってしまった紙吹雪。蔦はどこから生えていいかわからなくなって、橋桁から橋桁にかけて危なっかしく川を渡ってゆく、川の向こうには一本のけやきがあり坂道がある。どんどんくだってゆくと鬱蒼と茂る小さな森があって、そのなかに一軒のあずまや、あずまやには一本のカラカサが立てかけられている。雨が降り出す、だれもいないはずのあずまやに、ひそひそと小さな声がお喋りするのが聞こえる。 ---------------------------- [自由詩]走ってゆくことが虫の特権ならば/佐々宝砂[2005年5月16日2時54分] 走ってゆくことが虫の特権ならば、書き進めてゆくことは蛇の特権だ。蛇は夕暮れであろうが朝であろうがそんなことおかまいなしで、部屋をどんどんよこぎってゆき、得体のしれないアルファベットを綴ってゆく。街に繰り出したらもっとおおごとだ。道路に書かれた白い文字群は、誰に命令されたわけでもないのに道路から次々に剥がれて、全く無目的に裏返り跳ねとびひるがえって、交通を疎外している。なんて陽気なアルファベットだ。どうして巫女はいないのか。 ---------------------------- [自由詩]定家葛/佐々宝砂[2005年5月16日2時55分] 春先に剪定したあと ほったらかして積んであった槙の枝に 定家葛がまとわりついて 白い花を咲かせている もう死んでいるのよその枝は もう緑を吹くことはないのよその芽は この鮮やかに青い季節が訪れるたび わたしは思い返す わたしが差し出した一枚の紙を それを読みもせずに破り捨てたひとの手を 初夏の晴れやかな一日は暮れかけ 地虫は崩れかけた去年の蜂の巣に這いこみ むくどりは誘いあわせて薮のねぐらに帰りゆき わたしはわたしで帰るほかない家に帰って そろそろ夕飯を作らなきゃと考えながら 定家葛を見つめている 死してなお墓にまつわる執着を ひとはうとましく思うだろうか 定家葛はいっしんに咲いている 死んだ枝にはがねの意志でしがみつき 香りもない無愛想な花を咲かせている ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]昔の駄文「嫌いなもの」/佐々宝砂[2005年5月16日16時58分] 以下は、2001/02/04(日) 00:40:56にメモライズという日記サイトに投稿したものの再録です。何年か前からこーゆーこと考えてたんだよという話です。 *** 「嫌いな物」 ? うーん。あんまり考えたことないなあ。何が嫌いなのかと言われてもすぐには出てこない。昔はヘンなものが好きで当たり前のものが嫌いだったけれども、最近は当たり前もいいもんだと思うようになった(我ながら大人になったぜ)。 とりあえず具体的に考えてみよう。まずは食べ物。私は好き嫌いがなくて、多少嫌いだとしてもニコニコしながらそれを食べることができるようなタチなので、母親さえ私の嫌いな食べ物を知らん。実は自分でもよくわからん。これじゃお話にならんな。でもって次、ファッション。服装なんてどーでもいいと思ってるから、あまり気にしたことない。昔はぴらぴらしたピンクハウス系の服が大嫌いだったが、今はどうでもいい。ヒトが着るぶんにはああいうのかわいくてよいよ。観賞用には悪くない。んなわけで、ファッションに関しては、嫌いなものなど全くないと言っていい。次、学校の教科。体育が苦手だったが、「苦手」と「嫌い」はちがう。動くのは嫌いじゃなかった。サッカーなんてヘタくそだけど好きだった。他の教科にしても、私はお利口な良い子ちゃんだったから、みんなそつなくこなしまして、特に何が不得手ということもなかった。しかし、手をあげるたび先生に誉められるのに、それでも大嫌いな教科がひとつだけあった。 思い出しました。私が嫌いなもの、それはまず、学校の教科「道徳」として、私に意識された。 しかし、私はアンチモラルのヒトじゃない。私はけっこうモラリスティックな人間である。禁煙のとこじゃ煙草は吸わないし、電車の中では携帯電話を使わないし、人前で化粧もしないし(そもそも化粧って冠婚葬祭のときしかしないけど)、行列には割り込まないし、選挙がありゃマジメに投票に行く。ネットの掲示板に誹謗中傷を書き込んだりしないし、メモライズのテーマ日記ガイド・ラインは生真面目に守っている(つもり)。人を殺したり盗んだり悲しませたり怒らせたりは論外だ。やっちゃいけないことはやらない(ときたま交通違反をするときがあるけど、それがいいことだと思ってしているわけじゃなくて、やっちまったよごめんなさいという感じで反省しているので許してよう)。基本的にルールは守る。人生というゲームにはルールがあった方がうまくゆくし、面白いからな。 私が嫌いなものは、モラルでも、ルールでもない。それじゃいったい、私が嫌いなものって、本当はなんなのか。 それは、「これである」とひとことで言い切ることができるものではない。しかしそれは、ただひとつの根を持っている。私が嫌いなもので人為的なものは、みんなその根から生まれてくる。その根は、自分と自分が属する小世界を愛し守ろうとする/その裏返しとして自分以外の存在を排除しようとする/心だ。一般的に愛は他者を排除する。好きな人とは二人っきりになりたい、のである。そういう心理は、もちろん私にもある。「愛」そのものを否定してしまうつもりはない。私が嫌いなのは「排他」の方だ。私はなるべく「排他」を避けてはいるけれど、ついついやっちまうことがある。そのたび反省する。しかしそれでも個人的な範囲内にとどまっているなら、害が少ないからまだいい。私が死ぬほど嫌いなのは、特に、「排他」が社会的な大きさに広げられた場合のことなのだ。 具体的に、それはどんな現象を引き起こすか。その根からいちばん最初に生まれるのは、差別といじめだ。差別やいじめに正統な理由はない。障害者差別も女性差別も黒人差別も、自分と違うもの理解できないものを排除しようとする気持ちから生まれる。しかし、あからさまな差別やいじめは簡単に承認されるものではない。そこで差別は地下水脈にもぐり道徳を偽装する。偽装を見破るのは困難だ。それはたいてい、「よいこと」を奨励するというかたちをとるからだ。たとえばジェンダーの問題に話を限定するなら、「男らしい男」や「女らしい女」をほめたたえることによって、暗に「女らしくない女」や同性愛者や性同一性障害者を排除する。しかし「男らしい男」にとってみれば、ほめたたえてもらえるのだからこれほど気分のよいことはない。それは彼を安心させるゆりかごとなり、彼にやる気を起こさせ、生きる意欲を与える。そこで彼は「男らしい男を是とする」道徳をおしすすめる。それは容易に伝染し、発展し、類似の道徳を生み、さらに思想や主義や宗教へと進化する。こうなると、もう偽装なのかそうでないのか誰にもわからない。その思想なり宗教なりに一生を捧げる人も出てくるし、大学でそれを研究する人も出てくる。組織化をすすめて学校や病院を作ったり、ボランティアを推進したりもする。もとが何だったとしてもこうなりゃ立派なもんだ。場合によっては、なけなしのお金を寄付してあげようという気にもなる。 思想や主義や宗教。それ自体は悪いものじゃない。私だっていろいろ思想を持っている。主義も宗教も持っている。でもこれを読んでるアナタがジャイナ教徒だとしても、問題はない。紫姑神でもケツァルコアトルでも何でも自由に信じてください。いろんな人がいて、いろんな考えがあるのがよろし。みんなが同じじゃつまらんし、だいいち気色悪い。しかし、そうは思わないひとたちがいる。みんなが同じでないと気が済まないひとたちがいる。それゆえ、思想・主義・宗教の違いが争いのもとになる。要するに、自分とちがう考え理解できない思想を排除しようとして、争いを起こすのだ。差別やいじめと同じ構造である。これこそが、社会的な大きさに広げられた「排他」の最たるものだ。個人のいじめと違ってスケールが大きいから、害も大きくなる。しかも、思想や主義や宗教といった錦の御旗を背負ってるから、もうやる気満々悲壮感たっぷり、思いこみが強ければ死ぬことだって怖くない。むしろ快感。かくして、心をひとつに一丸となって喜び勇んで突入する、戦争、内乱、混乱、報復、あげくの果ては動物以下の暴力拷問強姦略奪ジェノサイド! この話、例をあげていちいち説明してるとえらく長くなる。かといって、「愛」と「排他」のアムヴィバレンツとひとことで言っちまったら、絶対に誤解される。話を急ぎすぎているから、これだけ説明してもわかりにくかったかもしれない。しかし、私を知るひとにはわかるだろう、これは、私の最大のテーマなのだ。もっとも、私はそれを直接に詩にはしない。詩という芸術と、私の思想とを、どこかで切り離しておきたいからだ。「自分と自分が属する小世界」を大切にする思想に対して、ふらふら揺らぎ続ける分裂解体した曖昧なキメラとしての「私」を主張してゆきたいからだ。しかし、私はどこまでいつまでそれを続けていられるだろうか。私は言うほどに自信満々なわけではない。私はよく落ちこむ。ときには何かに頼りたくなる。疲れて、くらりと倒れそうになる。しかし私は自分で立っていなくてはならない。私が倒れこんでゆくさきは、私が死ぬほど嫌いな、自分の子供「だけ」をあたたかくやさしく抱いて癒やそうとする腕の中なのだ。それは私のうしろに優しく待ちかまえている。いつもいつも。どんなときも。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]昔の駄文「私の信条」/佐々宝砂[2005年5月16日17時10分] 私の信条、というのは実はおそろしく単純で、ひとことで言える。 「他者を尊重する」 これだけである。だから他者の詩も尊重するし、他者の信条や宗教や思想も尊重する。意見が対立するときは議論するし、つまらん詩に対してはつまらんと言うけれども、他者の存在そのものをおびやかすことだけは絶対にしたくない。この信条の他に、特に議論する際になるべく守ろうと思っている原則がいくつかあって、それは、 「事実に即して具体的にものを言う」 「何かを絶対視しない」 「よく知らないで何かをじっぱひとからげにしない」 なのである。これらの信条だの原則だののいくつかは、「他者の発見」に由来するものだ。以前チャットでやませばさんが、恋愛は他者を発見させるものだから恋愛詩には意味があるんだとゆーよーなことを言ってて、それは私には目からウロコだった。他人が存在してるということ、自分以外はみーんな他人であるということは、私にとってはホントに自明の理だったのだけど、どうもそうばかりではないらしい。 自分に似ているヒトというのは存在する。自分と似たような考えを持っているヒトというのも存在する。そしてひとりじゃ淋しい。だからこそヒトは群れ集うのだけれど、その集団に属するものすべてが均一な人格を持つわけではない。愛し合う家族とてみな性格が違うのがアタリマエ、なのである。だから、母の考えが私と違っても私は怒らない。怒らないできちんと話し合うべきだと思う。母は他者だから。また、ムスリム(イスラム教徒)の誰かがテロを実行したからとて、私はムスリムのすべてを非難したりはしない。ムスリムすべてが均一にテロを支持しているわけではないから。 とにかくまわりはみな他者で、みな自分とは違う。だから自分の恋人のことを考えるにしても、想像力をうんっと働かせなくてはならない。「あのヒトいま何をしてるのカナ」なんて空想するのとは違うよ。私が言うのは、空想ではなくて、想像だ。他者の内面という実際にはわかりもしないことを推測するのだ。たとえば「こう言ったらあのひとはなんて答えるだろう」と推理するのだ。そしてその推理をより完全なものにするために、その恋人のことを知ろうとする。手がかりがなければ、推理は難しいからである。手をつくしても推理推測想像が外れることはままあるが、想像もしないで「あのひとはわかってくれる♪」と思いこんでるよりはマシ。基本的にそういう思いこみヤローはもてないが(笑)。 ビンラディンもまた他者である。私たちが彼の内面を推理するに足る充分な情報を持てないので、恋人よりもわけがわからんだけである。イスラム原理主義もそうだ。日本人はたいていイスラム原理主義のことをよく知らない。テレビやネットで偏ったわずかな知識を得ているに過ぎない。だからわけがわからない。わからないから怖がる。わからないからひとくくりにして否定する。 しかし、程度の差はあれ、わからないのは恋人だって同じである。誰の内面だって、ほんとうはわかりゃーしないのだ。テレパスじゃないんだからさ。わかんないからって他人を怖がってたら埒があかん。怖がっていると知識が集まらないので、余計に怖くなる(そうなんだよ、それが極端にひどくなるとわしみたいに離人症になるので気をつけよう……ま、理論と実践に乖離があるのは仕方ないコトなので、ここんとこは責めないでね、お願いね)。この悪循環を断ち切るためにともかくできるだけ他者に関する知識を集めなくてはならない。 必要なだけの知識が集まらないとしても、想像力を働かすとものごとが裏表両面から見えてくる。たとえば、自分から見たら恋人は他者だ。しかし同時に、恋人から見たら自分は他者なのである。相手に「私」のことはわからないのだ。相手が「私」にとって脅威であるのと同様に、相手にとって「私」は脅威なのだ。だから私は他者を尊重するべきだと思う。尊重しあえないとしたら、ロクな未来はない。 こういうとこに何かを書くとき、どんな人がここを読んでいるか、ほんとうは、わからない。ムスリムも読んでいるかもしれない。そうでないという保証はどこにもない。他者である読者を、私は傷つけたくない。なおかつ私は反論に対する用意もしておかねばならない。また、他者が相手なのだから、明快にわかりやすく書かねばならないと思うし、くどくもなる。 いろいろ考えすぎて疲れるのである。 2001.9.19日に書いたもの ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]私が子どもを殺さない理由/佐々宝砂[2005年5月17日3時35分] また少女監禁事件があった。と書いてるあいだにまたあるかもしれない。というよりも、今この瞬間、誰かしら監禁または軟禁状態に置かれ虐待されて辛い目にあってると考えるのが冷静な見方だろう。報道されることだけが事件だ、と考えるほど私は幼稚じゃない。あれはきっと氷山の一角なのだ。 虐待されてる人間は気の毒だ。悲惨だ。なんとかして救われないだろうか、と考えるのは、一応人間として当然である。私とて、まずはそう思う。交番に駆け込んだ少女の「怖い」という叫び声、教会にふらふらと入っていった少女の疲れた様子、想像するとなんといったらいいかわからないくらい悲しい。まずは、そう感じる。いくら私だって、まずはそう感じるのだ、ということを強調しておきたい。普通の人は、少女たちの姿を想像して悲しんだあと、犯人に怒りを感じるだろう。私も怒りを感じる。だが怒りの内容が、一般人と私とじゃやや違うのだ。 幾度か書いてきたことだが、私はどっぷりホラーファンだ。血みどろどーろどろ内臓ぐーちゃぐちゃ排泄物げーろげろをこよなく愛している。古いとこだと月岡芳年の残酷絵(血の手形がべたべたついてるやつとか、銃口がこっち向いてるやつとか、ああ好きよ好きよ)、わりと新しいとこだとマンガ家の丸尾末広とか伊藤潤二とか、あと小説だとやっぱ友成純一を超えるヒトなかなかないのよね、『凌辱の魔界』サイコーよぉ、だなんていちいちあげてくとキリがないのでこの辺にして、とにかく私はそーゆーものが好きなのである。好きとゆーか必要なんである。ないと生きてゆけないんである。ホラーのない世の中になんて、生きていたくないんである。私にとって、ホラーはそのくらい大事なもんなのだ。 宮崎勤の幼女殺害事件の折、私は、テレビというテレビからホラー映画が一斉に消え失せ、マンガというマンガから残酷描写がみるみる減ってゆくのを目撃した。私の愛する、ホラーという小さな一ジャンルはこれでオシマイになってしまうのではないかしら、と危惧したほどだった。ありがたいことにホラーはオシマイにならなかったが、少なくともスプラッタ映画の興隆は完璧に終わった。当時すでにスプラッタのブームは終わりつつあったが、宮崎勤のせいで、完全に首を絞められて終わった。私はとても悲しかった。宮崎勤バカヤローこんちくしょークソッタレと心の中で何度も叫んだ。でも、宮崎勤を憎みきれない自分を自覚しないわけにはいかなかった。私のぐちゃぐちゃな私室は彼の部屋とあまりかわりがなかったし、私の本棚はほぼ八割SFとホラーが占めていた。数多くはなかったが、手持ちのビデオは全部スプラッタだった。エロ本もあった。アニメグッズも多少はあった。壁にはアニメのポスターが貼ってあった。つまり私は間違いなくオタクで、ヒトサマに後ろ指さされてもしかたない趣味の持ち主だったのだ。 でも、でも、私は宮崎勤じゃない。小林薫じゃない。絶対に、ちがう。私はあんな犯罪を犯したりしない。子どもを監禁しない。殺さない。誓う。誠心誠意、心の底から、誓う。感情的な理由ではなく、利他的な理由でもなく、非常に利己的な理由で、私は犯罪を犯さない。犯したくない。もし私が性犯罪や監禁罪を犯したら、いま以上に「表現の自由を制限しよう」という動きが強まるだろう。私はとてもホラーを大事に思う。しかし、ホラーには、ヒトサマに好まれない面がたくさんある。不快な表現、残虐表現がついてまわる。表現の自由が制限されるとたいへんこまる。制限される表現は、まず性描写と残酷描写だと予想されるからだ。私が表現の自由を叫ぶのは、表現者としての倫理感覚からではない。もうごく単純に、自分が生き延びるために必要な栄養をなくさないための必死の叫びと言っていい。制限されたくないから、私は犯罪を犯さない。ある程度は、自分の表現を自粛さえする。 私が犯罪者になったら、マスコミは言うだろう、「今度は静岡で、容疑者はなんと女性です。容疑者の部屋からは大量のSFとホラーが発見されました。また容疑者はインターネットのサイトで詩や批評を書いており、詩人を自称しています」・・・私一人の犯罪のせいで、SFとホラーだけではなく、このサイト現代詩フォーラムだって規制されちゃうかもしれないのだ。一時的な大騒ぎで有名になるかもしれないけど、そんなふうにここが有名になっても嬉しかないでしょ? 表現の自由には責任が伴う。しかし今の時代、表現の享受の自由にも責任が伴うのだ、と私はニュースを見ながら思う。残虐表現、幼女虐待イラスト、監禁ゲーム、そういったものが提供する快楽を享受している人間は、普通人よりいっそう自分の行動に注意を払わねばならない。パソコンに溜め込まれた画像が、ゲームが、本棚にずらっと並べた黒い背表紙が、犯罪の動機になった、と考えられてもしかたないからだ(関係ないけど、どうしてホラー本はたいてい黒い背表紙なんだろね)。 私は自分の好きな表現を守るために考える。こうなったらああなるな、といろいろ予測する。宮崎だの小林だのなんだのは、そういう予測をしなかった大馬鹿野郎だ。アホンダラのボケナスの脳味噌ゼロのスカポンタンの大マヌケだ。やつらがアホなことするから、自由が制限されそうになるのだ。目の前の自分の快楽しか考えない、ヒトの迷惑顧みない、バカタレども。許せない。頭にくる。本当に殴りつけにいきたい。 だが、そんなことすると犯罪になるので、私はやらない。かわりにこんなものを書き、なけなしの金をユニセフに寄付し、アフリカで暮らす自分のフォスター・チャイルドに可愛いハロー・キティー筆記用具を送付するのであった、いや、自分の善行は隠しておくに限るけどね、今回は書きたくなったのさ、恥ずかしいからあとでこの部分削除するかもなのだ(笑)。 ---------------------------- [自由詩]私のための祈り/佐々宝砂[2005年5月17日3時55分] これは私のための祈りであって、あなたのためのものではない。 山を歩く。桐の花がそろそろ終わりで、空色だった花は汚れた茶色に変わっている。そのかわり茨が満開だ。真っ白な花は鮮やかな美しさを持たないが、つよい芳香をあたりにまき散らす。芳香に誘われて虫がやってくる。花虻、蝿、ジガバチ、ガガンボ、けして愛らしいとは言えない虫たち。その虫を食べようとして、カナヘビが地べたに待ちかまえている。 私はたぶん、なにもかもが好きなのだ。それは確かなことだ。私は桐の花も茨も虻もカナヘビも好きだ。その群に、私はあなたを含めよう、あなたの悪意と、あなたの悲しみと、あなたの小さな自我を。 川岸を歩く。真っ黒になったカラスノエンドウのさや。種をはじき飛ばしてすっかりカラになったアブラナ。せわしなく水面をつつくカワウ。珍しく亀が集団で岸にいる、なんだろうと思ってそばに寄ると、そこには鯉の死骸があった。そういえばこの亀は肉食なのだと私は思い出す。 私は私を愛せるだろうか、私はこの群に交じれるのだろうか、実はそれがいちばん困難なことだという気がする。 しかしとにもかくにも私はすべてが好きだ、そのように決めたのだから。土手沿いに捨てられた不法廃棄物の山がくすぶっている、その悪臭さえ、私は愛すると決めたのだから。 さよならを言う権利さえ、私にはないのだ。 ---------------------------- [自由詩]雑な草/佐々宝砂[2005年5月17日21時29分] 雑草という草はないのだが 雑草と呼ばれているので 雑草なのである 雑な草なのである 腰をかがめて日なが一日 その雑な草を抜く はこべたんぽぽすべりひゆ のぎくになずなほとけのざ それら雑な草を笊にとり 科学者のごとく 綿密に分類し 大きな鍋にお湯を沸かして みんな茹でてしまう 雑な草は春の味がするのである ---------------------------- [自由詩]ばいちゃん/佐々宝砂[2005年5月17日21時30分] その子にはちゃんとした名前があるのですが いつも汚い服を着ているしそばによるとなんだかくさいので 先生のほかは名前を呼んでくれません。 いじわるな子は「ばいきん」と呼びます。 わりとやさしい子は「ばいちゃん」と呼びます。 (私も「ばいちゃん」と呼ぶことにします) 「ばいきん」と呼ばれても「ばいちゃん」と呼ばれても ばいちゃんは学校が好きです。 今日は遠足なので、うれしいなと思っています。 でも、ばいちゃんはお弁当もお菓子も水筒も持っていません。 しかたないなあという顔をして、 先生が自分のお金でコンビニのお弁当を買ってくれました。 ばいちゃんはうれしくてたまりませんでした。 先生はまだ知りませんが、 ばいちゃんの腕には小さなやけどのあとがいくつもあります。 先生はまだ知りませんが、 ばいちゃんの家にはうんこを髪にこびりつかせた弟がいます。 先生はまだ知りませんが、 今夜先生がばいちゃんの家に電話するのをきっかけに、 ばいちゃんはもう二度とたてない身体になってしまうのです。 ---------------------------- [自由詩]アキヨシメクラチビゴミムシ(百蟲譜47)/佐々宝砂[2005年5月19日1時20分] 急な坂を登ると博物館があった。 湿っぽい薄暗い埃っぽい、 いかにも淋しいガラスケースの中、 脱脂綿の上にひっそりとその虫はいた。 大きな虫眼鏡で拡大して、 ようやく何やらイキモノに見える、 その虫の名は アキヨシメクラチビゴミムシ。 絶滅しそうだというその虫が あっさりと絶滅したところで、 誰一人困りはしないはずなのに、 私はなぜだか困ってしまった。 平日の秋吉台は閑散としていたから バスがくるまで涙は拭かなかった。 (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]ハエトリグモ(百蟲譜48)/佐々宝砂[2005年5月19日1時23分] がらがらと開ける 明け方の雨戸に ひょいと跳んできたら ちょっとだけにらめっこ あしどりかるく 自分のおまんまを きちんと自分で稼ぎ出す この勤勉な同居人は 何を食べたかもぐもぐして ちっとも落ち着きがなく すぐどこかに行ってしまう そんなだから そのつぶらな眼のあいらしさを 知るひとがすくないんだよ (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]ミニヨンならざる者の歌/佐々宝砂[2005年5月21日1時47分] ええ レモンの花は咲きません ええ こがねの柑子も実りはしないのです くらい森に目立つのは 変にほうけたタケニグサ それからキノコ ススキの穂 でもあのはるかかなた森の奥 湖があるのです 深い藍色の水に さまざまな生き物を住まわせた 冷たくて重い湖が ええ 誰もあなたをなぐさめません ええ 誰もあなたに微笑みかけはしないのです 夜が更けてゆきあなたは孤独に 頼りなく電柱に寄りかかります そこからこの森まで わずかに半歩 その半歩をあなたは踏み出しません でも聞こえるでしょうその道のかなたから 鳥のはばたきが木々のざわめきが ひくく遠吠えするあれは犬なのか狼なのか それとももしかしたら猿かもしれません あなたのようにおどけた表情の あなたに見せたいのは けれど生き物たちではありません その道のかなた静寂ならざる森の はるか奥にある清澄ならざる湖に 遠い星の影がうつるのです だからといって かの星影を知るやかなたへ君と共にゆかまし と ミニヨンならざる者が歌ったら あなたは顔をしかめるでしょうか 「ミニヨンの歌」(ゲーテ作 新声社訳)に寄せて ---------------------------- [自由詩]おまん瞑目(おまんとくれは、その壱)/佐々宝砂[2005年5月29日16時26分] 信濃路にその名も高き戸隠の、 白峰(しらね)の雪は幾重に積り、 今はいづこに紅葉やある。  夜はよい、昼よりよい、とおまんは思ふ。  からかひ囃す子らがゐない。  後ろ指指す大人もゐない。  頭丸めたおまんのそそ毛、  千本繋げば都に届く、  頭丸めてそそ毛は剃らぬ、  おまんのそそ毛は金色(こんじき)五色(ごしき)。  おまんは草庵にひとり、瞑目する。  吹雪はやんで月夜になつたらしい。  火燭も炭も焚かぬ草庵の、  破(や)れ毀(こぼ)ちた板壁よりほんのりと雪灯りして。  思へばかのひとに出逢ひ初(そ)めたは、  このやうに雪灯りする夜であつた。   おまんは月夜の雪道を駈けてゐた。   修験(しゅげん)の筋に生を受ければこそ、   雪の冷たさも山の闇も苦ではなかつた。   おまん駈ければ一夜に五十里と唄はれた、   その素晴らしく逞しい脚でおまんは駈けた。   しかしおまんは口惜(くや)し涙に泣いてゐた。   泣きながら駈けてゐた。   神のましますお山に入つてはならぬと、   禁じられたのが口惜しかつたのだ。   神の声を聴くのは女ではなかつたか。   神の姿を見るのは女ではなかつたか。   木の皮剥ぎ取る鹿(しし)よ退(の)け、   木の根掘り出す猪(しし)よ退(の)け、   そそのけ、そそのけ、   おまんが通る。   泣きながら駈けるおまんの眼に、   山も谷も飛ぶやうに過ぎてゆく。   そんなおまんを呼び止めるものがあつたのだ。   おまんの早足をものともせず、   かのひとは泣き叫ぶおまんに声を掛けたのだ。   神の声を聴くのは女。   神の姿を見るのは女。   おまんよ。   荒倉の山に来い。   荒倉の山に来い。   おまんは脚を止めた。   脚を止めてそのひとをみた。   雪白の上に広がるは、   目を奪ふばかりあでやかな緋(ひ)毛氈(もうせん)、   緋毛氈の上に広がるは、   目を奪ふばかり丈なす黒髪、   黒髪の上に輝くは、   雪より白い柔肌に目を奪ふばかりたをやかな、   天女と見紛ふ姿であつた。   おまんよ。   儂(わし)はおまへが欲しい。   そのときおまんは思つたのだ。   このひとについてゆかう、と。   このひとが鬼であらうと蛇であらうと、   このひとの手となり脚とならう、と。  おまんは草庵に瞑目してゐる。  瞑目しても経は読まぬ。  頭は丸めたがおまんは尼ではない。  見せしめに剃髪された頭には、  今もなほ傷が残る。  尼ではないおまんの胸に去来するのは、  昨日もけふも、  たつた一つの呪ひである。  鬼となれ、我があるぢよ。  鬼となりて戻れ。  しんしんと冷える信濃の夜、  おまんは何時までも呟き続けてゐる。 信濃路にその名も高き戸隠の、 白峰の雪は幾重に積り、 今はいづこに紅葉やある。 初出 蘭の会月例詩集2003・2月 全4作予定 その壱「おまん瞑目」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=39002 その弐「春紅葉」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=39020 その参「おまん瞠目」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=39022 参考文献:鬼無里村史・戸隠伝説他 この連作を書くにあたって「鬼無里村史」の写しを提供して下さった渦巻二三五さんに感謝します。 ---------------------------- [自由詩]春紅葉(おまんとくれは、その弐)/佐々宝砂[2005年5月29日21時57分] 乱れた裾をからげて、 少女は細い山道を下る。 淡く青い春の匂いが満ちている。 その春の匂いに、 突然あまく重苦しい香が入りまじり、  こむすめ。  こっちに来い。 声の主はと探せば、 白面に唇をどぎつく赤く塗った、 都風の女である。 その隣に恐ろしく大きな女がいる。 少女の父親より一尺は上背がある。 噂に聞く鬼だ、と思った。 少女もその名は知っている。 鬼のくれは。 鬼のおまん。 気弱なたちではなかったが、 少女の身体はもう動かなかった。 頭の芯がくらりと酔った。  こむすめ。  こっちに来いと言うのだ。 都風の女は大女に顎で合図した。 大女は軽く頷き、 左腕だけで軽々と少女を抱き上げると、 ひょいと左の肩に乗せ、 ついで右腕だけで都風の女を抱き上げて、 ひょいと右の肩に乗せた。  駆けますぞ。 大女が右肩の女に言うが早いか、 びゅい、 と景色がうしろに飛ぶ。 風圧が少女の唇を歪める。 少女の身体はやはり動かなかったが、 恐ろしいとは思えない。 心の芯まで痺れている。 風がやんだ、と思ったら、 飛びすぎていた景色も流れやみ、 大女は少女たちを下に降ろした。 荒れた土しか知らぬ少女の足が、 柔らかな緋毛氈を踏んで驚愕した。 見ればあたりは満開の桜林、 緋毛氈の上には女ばかりが集い、 華やかな宴の席である。 しかし宴の中央にあるものは、 桜ではなかった。 楓の古木であった。 楓の若葉は赤く萌えていた。  春の紅葉もよいものよ。 笑いながら指差す楓の根元に、 胸を朱に染めた男の屍。 少女はその男を知っていた。 知っていて、嬉しく思った。 少女の裾の血は乾き始めていたが、 少女の心はまだ血を流していた。 あたしも鬼だと少女は思った。 初出 雑誌「詩学」2003・4月 全4作予定 その壱「おまん瞑目」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=39002 その弐「春紅葉」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=39020 その参「おまん瞠目」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=39022 参考文献:鬼無里村史・戸隠伝説他 この連作を書くにあたって「鬼無里村史」の写しを提供して下さった渦巻二三五さんに感謝します。 ---------------------------- [自由詩]おまん瞠目(おまんとくれは、その参)/佐々宝砂[2005年5月29日22時16分] おまんが目覚めたのは桜咲き誇る春であつた。 おまんの目に呉葉(くれは)の顔が映つたときは、 こゝがあの世と云ふものであらうかと思つた。 さうではない、こゝはこの世だと気づいてなほ、 おまんの春は夢のやうに過ぎ去つた。 盗みを生業(なりわい)とし、 男どもを従へ、 火の雨を降らした日々さへも、 この暮らしに較ぶれば、 よほど現(うつゝ)らしく思はれた。 今は夏である。 山中の渓谷であるから夏とて涼しい。 さうでなくとも、呉葉の顔は涼やかである。 呉葉は官女の扮装(なり)をして、 あでやかに笑つてゐる。 しかし、この美しいひとが 確かに呉葉であると証せるひとは この世に一人も居らぬ。 呉葉のひとりご経若丸も亡くなつた。 呉葉の母者も亡くなつた。 おまんと同じく呉葉の手足であつた、 鬼武も、熊武も、鷲王も、伊賀瀬も、 もはやこの世には居らぬ。 そして呉葉も。 呉葉を討ち取つた維茂も。 この世には居らぬ筈なのである。 実を云へば、 おまんもこの世にゐる筈でなかつたのだ。 おまんは自らの喉笛を懐剣で突いたのであつたから。 呉葉は今こゝに微笑んでゐる。 死んだ筈の呉葉を死んだ筈のおまんが見てゐる。 呉葉の笑みは恐ろしいやうな微笑みである。 鬼と云ふに相応しい微笑みである。 呉葉を主君と仰ぎながらも、 おまんでさへもさう思ふ。 呉葉はときをり里に下る。 今も盗みをする。男を殺す。女を拐かす。 それでも鬼に横道はないのぢやと呉葉は云ふ。 おまんにはその道理がわからぬ。 わからぬが盗む。殺す。拐かす。 里にはおまんが怖がるやうなものはない。 鬼に怖いものがあらうか。 呉葉一党が討ち取られた秋、 おまんが唇噛みしめて剃髪の辱めを受けた冬、 あのときまでは、 呉葉もおまんも確かに人であつた。 肉を切れば血が流れた。 口惜(くちお)しければ涙も流れた。 しかし今は。 刀を受けてもおまんは血さへ流さぬのだ。  おまんよ。何を思ふてゐる。  わしは鬼であらうかと。  鬼よ。鬼であらうよ。それで何の不都合があらうかの。  わかりませぬ。  鬼となりて戻れと念じたのはおまへぢやらうに。  さやうでござります。 呉葉とおまんが暮らす荒倉の山には、 女たちの姿が今日も踊る。 拐かされた女たちである。 拐かされて何故か幸せさうな女たちである。 呉葉は汗ひとつかゝぬ涼やかな顔をして、 山中の渓谷に髪洗ふ女たちを見つめ微笑んでいる。 恐ろしいが穏やかな微笑みである。 かつてはこのやうな笑みを見なんだ、と おまんは思ふ。  鬼と呼ばれたからこそ、鬼になつたのぢやらうて。 呉葉がぽつりと呟く。 ついで、今度はりんと通る声を張り上げ、  みな。夕立がくるぞ。帰らう。 帰らう。 呉葉の声がおまんの耳に強く響いた。 瞠目する思ひであつた。 帰らう。さうぢや。 荒倉の山はわしらが宿ぢや。 呉葉が鬼であらうとも。 わしが鬼であらうとも。 女たちは、 鬼であらうとなからうと、 女たちのただひとつの宿りに帰るために、 急ぎ身仕舞をした。 空の片隅に、 むくむくと入道雲が育つてゐた。 初出 詩人ギルド「この指とまれ」2003・8月 全4作予定 その壱「おまん瞑目」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=39002 その弐「春紅葉」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=39020 その参「おまん瞠目」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=39022 参考文献:鬼無里村史・戸隠伝説他 この連作を書くにあたって「鬼無里村史」の写しを提供して下さった渦巻二三五さんに感謝します。 ---------------------------- [自由詩]夜の散歩/佐々宝砂[2005年6月5日0時00分] 東の空はうすあかい あちらには街があって駅があって こんな夜更けにも 時折は貨物列車や寝台列車が通り過ぎ その音がここまで響いてくるのは 雨が近いからだろう ぼんやりした常夜灯の光の下 とつとつと 草の名前をとなえてみる かやつりぐさ かたばみ すぎな よめな いまわたしの足の下にあるのは しろつめくさ その白い花が あまり清らかでもなく 首を伸ばしている 草ぐさはすでに露を含み サンダル履きの爪先は 濡れてしまった 肌寒いので自分で肩を抱く 道に沿う三日月沼のどこかから 「お」に濁点をつけたような声がする 牛蛙だろう あれはあれで恋を語っているのだと わたしはすこしおかしくなり 牛蛙の恋に ひそかなエールを送る 見上げれば 鈍色の雲のあいだから きっぱりした宇宙の漆黒が わずかにのぞいて  ああ かんむり座だ   たしかに かんむり座だ    ぼう と たよりなげな あの ちいさな弧にならぶ うつくしい星の冠を いま見上げているのは わたしだけではないと わたしは信じてもいいだろうか ---------------------------- [おすすめリンク]左川ちかアーカイブス/佐々宝砂[2005年6月6日5時02分] 左川ちか作品のアーカイブです! 全詩集が手に入らなくて泣いてた人は、読みに行きましょう。 そうでなくても行きましょう。 http://soredemo.org/archives_sagawa1.html  左川ちか。佐川ちかと表記されることもある。私には、特別な詩人。  このひと、たぶんあまり知名度が高くない。北海道で生まれたこの女流詩人は、昭和十一年に二十五歳という若さで亡くなった。本名を川崎愛子という。実兄である川崎昇の方が、詩人としてまた歌人として有名だ。川崎昇の人となりは、伊藤整の『若い詩人の肖像』に詳しい記載がある。その本には左川ちかもちょっとだけ登場する。  左川ちかのことを知ったのは、私が二十歳くらいのときだ。当時私はマヤコフスキーに熱狂していた。それで、金もないのに西武美術館でやっていたロシア・アヴァンギャルド展を観るために上京した。そのとき、神田の本屋に立ち寄って、「幻想文学」という雑誌を見つけて買った(余談だが、私はこれ以後ずーっとこの雑誌を愛読していた。しかし残念ながら休刊してしまった)。雑誌の特集は「夢みる二十年代」・・・そのなかに、尾崎翠や野溝七生子の名と並んで、ほんの少しだけ左川ちかの紹介があった。モノクロの肖像写真と、詩が2編と、評論、あわせてわずかに3ページ。  しかし、何かを好きになるのに、たくさんの情報はいらない。詩がいくらか、さらに肖像写真もあるとなりゃ、私は簡単に恋に落ちる(笑)。  ヘンな話だけれど、最初に私の眼をひいたのは、左川ちかの写真だった。それはいかにも野暮ったかった。しかも全然美人でなかった。一重まぶたの細い眼、ぼてぼてした唇、黒縁のメガネ、素っ気なく短い髪、ベレー帽、自分で縫ったんじゃないかと思われる色気も何もないブラウス。意志がつよそうで理知的な雰囲気を持つ尾崎翠と、女王然として優雅な野溝七生子の間にあったから、それで余計に野暮ったく見えたのかもしれない。しかし、今思えば、野暮ったいからこそ気になったのだ。私自身も、野暮ったくて、メガネをかけていて、口紅を塗るとぼてぼてする唇を持っていて、色気も何もない格好をしていて、言うなれば「イナカの女子高の図書委員」みたいだったから。  私はどうしても左川ちかの詩を読まねばならんと思い、近隣の図書館を漁ってまわった。アンソロジーや評論集に掲載された左川ちかの詩を、花を集めるようにひとつふたつと集めてノートに書き写した。そのノートは、大切なものとしてまだ私の手元にある。左川ちかの詩集はとうとう手に入れられなかった。どこかにあるのかも知れないが、まだ見つけていない(という状態であったのが、ネットで読めるのだから、非常に嬉しいのだ、わかってほしい、私はほんとうに嬉しい)。  私が左川ちかの詩に惹かれたのは、そこに強烈な「喪失」を読みとったからだとおもう。たとえば、下に引用する詩を読んでほしい。 「花咲ける大空に」 それはすべて人の眼である。 白くひびく言葉ではないか。 私は帽子をぬいでそれ等をいれよう。 空と海が無数の花弁(はなびら)をかくしてゐるやうに。 やがていつの日か青い魚やばら色の小鳥が私の顔をつき破る。 失つたものは再びかへつてこないだらう。  青い魚もばら色の小鳥も顔をつき破るだけで、なくしたもののかわりにはならないのだ。無数の花弁のようにコトバを集めても、大切な何かは返ってこないのだ。左川ちかが何をなくしたのか、私は知らない。それは伊藤整への恋心だという説があるけれど、そう考えることはすこし単純な気がする。ここにあるのはもっと強烈な「喪失」であるような気がする。失恋したとか、故郷をなくしたとか、そんなレベルの「喪失」ではない、もっと根本的な、まるで世界を失ってしまったかのような、そんな「喪失」。  抜き差しならない感じがする。切実な感じがする。しかし湿ってはいない。詩の世界は清潔で、かわいている。何かが終わってしまったので、それで清潔なのかもしれない。その、終わってしまったところから、詩ははじまるのかもしれない。私は左川ちかの詩を読むたびにそうおもう。そして、私もやはり何かを永遠に失ってしまった人間なのだと、自嘲的でなく、考える。 「緑」 朝のバルカンから 波のやうにおしよせ そこらぢゆうあふれてしまふ 私は山のみちで溺れさうになり 息がつまつていく度もまへのめりになるのを支える 視力のなかの街は夢がまはるやうに開いたり閉ぢたりする それらをめぐつて彼らはおそろしい勢で崩れかかる 私は人に捨てられた  彼女が書きたかったことは「失つたものは再びかへつてこないだらう」と「私は人に捨てられた」ということだけだったのかもしれない。けれどたぶん、そう書くだけでは足りなかったのだ。だからいろんなモノ、たとえば「ばら色の鳥」や「青い魚」を出してきて、何かを象徴せずにはいられなかった。山のみちで溺れそうになるどこか不思議で切ない状況を書かずにいられなかった。私にはそんな気がするのである。 ---------------------------- [自由詩]三分間逆転自動記述/佐々宝砂[2005年6月11日9時36分] みどりにくもる朝の窓辺 (2005/06/11 09:31) あざけるような混声合唱、そして (2005/06/11 09:31) 井戸を覗けば満天の星 (2005/06/11 09:31) ではなくて蛇行する鮮やかな虹 (2005/06/11 09:30) くるくる錐もみするあれは (2005/06/11 09:30) タナトス色の水がダムにあふれ (2005/06/11 09:29) だなとだなとたなと (2005/06/11 09:29) だれもいない妙だなと (2005/06/11 09:29) 涙壺のような太陽が雲をかき乱す (2005/06/11 09:29) 蜥蜴たちは笑いながら蜂を追いかける (2005/06/11 09:29) そして雨に溶ける卵の殻 (2005/06/11 09:28) ---------------------------- [自由詩]Shaman's Lullaby/佐々宝砂[2005年6月13日1時53分] 夜風に杉の葉が揺れる 誰かの約束が ほろり 足先に落ちてころがる さあ 準備はOK? わたし 夜露でつめたいブルーシートに さかなたちの影が泳ぎくる さらりひらり木の葉よりかるく あれは 夜の川のさかなたち さあ 目を閉じて わたし みかんの白い花が まぶたのうえに舞い落ちる あぶくたつ白い波が 轟音とともに耳になだれこむ さあ 今度こそ ほんとうに 行ってきます わたしが属する世界に わたしは戦わねばならない あなたと ではなくて あなたのいない あそこで さあ おやすみなさい わたし ---------------------------- [自由詩]Shaman's Temptation/佐々宝砂[2005年6月13日2時26分] 手を伸ばせば届くところにいる わたしのかげ ううん 見えるところを探しても だめ 窓のそとの闇に いくら目をこらしていても むり ひとりで銀河に立って ひとりで爆発して わたし すこしからだが冷えてきた おねがい すこしだけこっちにきて すこしだけわたしと飛んで わたしのかげと すこしのあいだだけ あなたひとりでは見えない世界を 見せるから きっと 溌剌と熱いのがわかる あなたにわからなくても わたしにはわかる ぴんと張ったばねのように 緊張した筋肉が 夜の弦をかきならす まだ音楽になってるとは言えないけれど わるくない いまはそれ以上ほめてやらない わるくはないけど わるくはないだけ わたしは傲慢で高慢ちきだから みとめない わたしはたったひとつの意味で嫉妬深いから ゆるさない 飛んでいいのはわたしだけ だからわたしはあなたを突き落とす あとすこししたら ---------------------------- [自由詩]去りにし日々、今ひとたびの幻/佐々宝砂[2005年6月13日5時47分] シェルターの中は安全なのよ と おかあさんはいう 外に出たらみんな死んでしまうんだ と おとうさんはいう てんじょうによじのぼって あけちゃいけない外も見えないまどに そっとほおをあてて 耳をすませば やさしい声が歌う なんだかなつかしい声が歌う その歌の調子だけは はっきりとおぼえているのだけれど 歌詞はどうしてもおぼえていられなくて それがかなしくてたまらなくて わたしはいくども耳をすます おかあさんが死んで おとうさんはへんになった まいにち奥のガラスに顔をくっつけて まぼろしを見ている おかあさんが見えるときもあるし おかあさんじゃない女のひとが見えてるときもある だれも見えないときもある それでもおとうさんはいっしょうけんめい見ている なんでもいいんじゃないかと思う わたしは最近はまいにち シェルターの外にでる だあれもいなくて てかてかひかる黒いガラスが あたりにたくさん散らばって すごくほこりっぽい ときたま風のなかに声がきこえる 歌う声がきこえる あの声をきくとわたしは泣きたくなる からだの奥がどおんと痛くなる わたしよりすこし低いあの歌声は 近ごろはもうおだやかでなく ヒステリックにさけんでいるのだ 父さんは返事もしてくれなくなった 毎日ただ奥のガラスを見ている 人類がまだたくさんいたころの ピッグ・ボムが地表を焼くまえの 去りにし日々の 今ひとたびの幻を 私は父さんを捨てようと思う 持てるだけの食料をリュックに詰め込み 着られるだけの服を着込んで ちょっとだけノスタルジックな気分になって ふりかえる でも父さんはこっちを見ない 父さんは当分のあいだ死なないだろう 私の不在にも気づかないだろう シェルターから這い上がる 歌がきこえる 今日は切なく静かにきこえてくる 歌詞はわからない でも意味はわかる 今は私にもわかる あの切実な欲望の意味が だから私は出かけるのだ 逢ったことのない 見たことのない あなた あなたが 去りにし日々の今ひとたびの幻 ではないと 信じていいですか 逢ったことのない 見たことのない あなた 愛しいあなた タイトルを昔のSFから借用しています。 『去りにし日々、今ひとたびの幻』 ボブ・ショウの古いSF長編。 サンリオSF文庫刊、絶版。 ---------------------------- [自由詩]PRESS ENTER■/佐々宝砂[2005年6月13日22時35分] 一日に一回 空は夕焼けに染まる。 晴れていたなら、だけど。もちろん。 夕暮れてゆく世界は私の手の中にあって 私は一杯のコーヒーを飲み干すみたいに 簡単に それを飲み干す。 でも確かな違和が天啓として 空に描かれてゆく、 飛行機雲が描くその文字は、 今のところノンときっぱり。 あれはあなたからの伝言。 なんと高度に象徴的な。 私は電車に乗る、 電車は見知らぬ郊外を走ってゆく。 いいえ、見知らぬ、というのは嘘。 私の記憶に入力されていた風景には違いない。 斜めにさす日ざしが にっこりほほえむトマト顔の看板を照らしている。 茶畑だらけの山並みが流れて 海のほかにはなんにもない風景に変化してゆく。 東に向かっているのかしら。 ううん。 西も東もない。 私は外部をめざしてぐるぐるとまわっている。 一日に一回 空は必ず夕焼けに染まる。 空はいつも晴れている。 世界は私の手の中にあり 私は一杯のコーヒーを飲み干すみたいに 簡単に それを飲み干し、 でもあなたは外部にいる。 だから、どうか、 PRESS ENTER■ なんでもいい、 あなたのことばがほしい、 あなたのデータがほしい、 入れてほしい、 どうか、どうか、 PRESS ENTER■ あなたがコンピューターの夢であろうとなかろうと、 いいえ、私にもわかってる、 知らないわけじゃない。 私がコンピューターの夢。 タイトルを昔のSFから借用しています。 『PRESS ENTER■』 ジョン・ヴァーリィの古いSF短編のタイトル。 ---------------------------- [自由詩]畑の匂い/佐々宝砂[2005年6月17日1時57分] 赤らんでゆくトマト、 緑に染まってゆくピーマン。 畑のトマトはトマトくさい、 畑のピーマンはピーマンくさい。 八百屋で買ったピーマンを台所で切る、 ピーマンの匂いがしない。 当たり前かもしれないし、 当たり前ではないかもしれない。 わたしは畑に生ゴミを撒く、 それから生ゴミの上に灰を撒く。 そうすると生ゴミが匂わないと教えてくれたのは、 死んだおじいさんだ。 おじいさんは煙草とお茶の匂いをさせていた。 生ゴミと灰と、 ピーマンとトマトと、 雑草と、 いろいろ混じって、 畑は畑の匂い。 わたしはわたしの匂いがするかしら。 嗅いでみる。 くんくん。 わからない。 わたしは畑で採れたのかしら、 それとも? ---------------------------- [自由詩]オオミズアオ(百蟲譜49)/佐々宝砂[2005年6月17日2時15分] 誘蛾灯の下でバサバサ 大きな腹を揺すぶって 分厚い羽をバサバサ まるでモスラみたいにバサバサ 記憶のなかのオオミズアオは そんなふうにとっても大きかったのに こうして見ると 意外に小さいんだね 夜光塗料塗ったみたいな 水の色した綺麗な羽も 思っていたより薄っぺらだね 再会できて嬉しいけどさよならしよう 部屋の明かりは消すつもりだけど 蚊取り線香は消したくないんだよ 未完詩集「百蟲譜」より ---------------------------- [自由詩]目覚めよと呼ぶ声の聞こえ/佐々宝砂[2005年6月23日13時22分] かあさんは裏庭にチガヤを植えなかった。 壁を緑に塗らなかった。 とうさんは健康的に山を登り、 かあさんは家で本を読み、 かあさんはおもての庭に紫陽花を植え、 家の壁は地味な灰色に塗られた。 ながされてきたのよ。 おおきな波。 しろくあわだつ波、 チガヤの穂のような、 しろくなめらかなこまかい泡の波、 秋には赤く染まる波。 帰りたい、帰りたい、 でも、おまえがいるから帰らない。 風に耳を澄ませなさい。 おまえには聞こえるはず。 わたしにはもう聞こえないけれど、 おまえにはまだ聞こえるはず。 覚えておきなさい、 七回目の大波がきたときに、 乗り遅れたら、 もうおしまい。 わたしの裏庭にはチガヤがない。 わたしの壁は緑ではない。 わたしの夫は健康的に釣に出かけ、 わたしは家で本を読み、 わたしはおもての庭に忍冬を植え、 家の壁は薄いベージュに塗られている。 夜半に目覚めるたび、 視界いちめんに黄色と黒の市松模様、 アール・デコ調のそれが、 かあさんの言った波とは思えない。 思えないけど、 もしかしたらそうかもしれない。 風に耳を澄ませば、 かすかに海鳴り、 あれは、 あれはほんとうにそうなのかもしれない、 でも何度目かわからない。 目覚めよと呼ぶ声の聞こえるはずもなく、 わたしはここにない目を閉じる。 キャロル・エムシュウィラーへのオマージュ ---------------------------- [自由詩]赤い魚の話/佐々宝砂[2005年6月24日8時31分] ここで赤い魚の話をしてはいけません 最初の貼り紙は公民館のドアに貼られた 誰が貼ったのか 誰も知らなかった 次の貼り紙はあちこちのスーパーで見られた 誰が貼ったのか 店員も店長も知らなかったが 貼り紙はどうしても剥がれなかった やがて赤い魚の秘密がささやかれはじめ 貼り紙はほんの少し訂正されて 役場の壁に貼られ 真面目そうな公務員が 私が貼りましたと言った 常識でしょうが大事なことですから やがて赤い魚が生活を侵食しはじめ 貼り紙はかなり訂正されて 法律として定められた それでも ひとは ごくたまに 恋人や連れ合いとふたりきりでいるときなどに 何かわからないものに怯えながら 赤い魚の話をする ---------------------------- [自由詩]扉をあければ/佐々宝砂[2005年6月29日0時33分] センパイ綺麗ですよねなんで結婚しないんですか などとほざく後輩の頭をこつんとこづき それじゃ明日ねとあっさり告げて 農協の裏手の墓地を抜け コンクリ舗装のきつい坂を登り 唐突にある扉をあければ いつもの店 今さら話し相手にもならないマスターに ウォッカライムを一杯つくってもらう ところでこの店のマスターは ものすごく顔色が悪くて 犬歯が異様に尖っていて 唇だけ紅くて 酒は呑むけど何も食べない もちろんそうなんだろうと思っているけど 鏡だの十字架だの突きつけるつもりはない そんなことしたら失礼でしょ 隣の席では カマキリの顔をした男がキィキィ泣いている 明日には文字通り食われる予定らしい それでもいいじゃないのあんた幸せだよと 下半身蛇の女がなだめている 愛されて死ぬんだからいいじゃない 気持ちよく食われてやりなよ 連中には連中なりの苦労があるらしい 無論わたしにもわたしなりの苦労ってやつが あったりするわけだけどさ 今はとにかくウォッカがうまい わたしは女だけど黙って酒を呑みたい 酒呑んで人生の不満ぶちまけるのはかっこわるい マスターが古ぼけたレコードをかける 魔性の不満ぶちまけてたカマキリ男が 蛇女と踊りはじめる 東欧風の旋律に戦慄をのせて そろそろ人間の時間は終わりだよと マスターが言うので お愛想済ませて 店を出る いまだ土葬の風習が残る 山あいの村の 人間はおろか魔物一匹通らない さみしい道を 民家どころか街灯ひとつない 林道を とぼとぼ歩いて たどりついて 扉をあければ わたしの現実 まだらにぼけた父と 預金の降ろし方さえ知らない母と 十年というもの部屋に籠もったままの弟と それでもわたしは扉をあける 父でもない母でもない弟でもない 魔物ですらないものにとらわれ命じられて わたしは扉をあける ---------------------------- [自由詩]虫への恋文/佐々宝砂[2005年6月29日0時37分] 壊れかけたラジオが なぜだか中国語の放送だけを受信する 意味はまるでわからないが 聞き覚えのある声だ 演説口調に冒されて 空間は異次元的に歪んでゆき 西壁はすっかり半透明の灰色の寒天になり 監禁されていた虫が這い出してくる この虫は馴染みだが 擬人化された存在ではない 毛むくじゃらの脚は六本あり うち前肢二本は鋏のかたちをしている 尾には尖った毒針のようなものがあるが これは擬態に過ぎず実際には無毒だ 虫はしゃりしゃりと前髪を食う 舌がちらちらと目の前をよぎる すばらしく赤い舌だ 本当の君はきっと 魔法をかけられた吟遊詩人かもしれないと 一瞬夢想してはみるが 虫はあくまで虫らしく虫にしか見えず ごく短い役立たない羽根をぎちぎち鳴らす ラジオの演説が不意に終わる 女性アナウンサーが やわらかな口調で喋りだす 空間は数学的に正常化し 西壁には当たり前の白い壁紙が戻り 虫はまたいましめられ ラジオが音楽を流しはじめる 少年少女合唱団の むやみに爽やかな歌声だ ---------------------------- (ファイルの終わり)