佐々宝砂 2004年7月27日14時04分から2004年8月10日2時14分まで ---------------------------- [自由詩]夏のナイフ/佐々宝砂[2004年7月27日14時04分] エアコンのない、 中途半端に古い家にいるものだから、 ほんとに蒸し暑くってかなわない。 料理なんかする気力ないし、 食欲ないし、 おまけに、 部屋のなかがへんになまぐさい。 生ゴミが腐ってるせいかと思って掃除したけど、 それでも妙になまぐさい。 部屋の隅っこで死んだまま、 誰もその存在に気づかないでいる、 乾涸らびかけたネズミみたいな臭いがする。 どうにも気持悪いんだけど、 食べなきゃ夏バテしちゃうから、 冷や奴とキュウリもみでも食べようとしたら、 菜切り包丁がない。 ステンレスの穴あき包丁もない。 柳刃も出刃包丁もない。 チーズ切りナイフすらない。 もしかしたら泥棒? と思ったけど、 考えてみたら、 ずーっと家にいたのに泥棒が入るわけがない。 しかたないから豆腐は丸ごとそのまま出して、 キュウリはぼきぼき折ってキムチの素をかけた。 我ながら安直な夕飯だなあと思う。 ダンナもそう思ってるらしい。 すこし不機嫌そうなのでそれとわかる。  これじゃない。  こんなンじゃない。  こんなにしかくくない。  こんなにあななんかあいてない。  こんなにほそながくない。  こんなにおもくない。  こんなにへんなかっこじゃない。  こんなンじゃない!  これじゃない! どこかで子どもの泣く声がした。 赤ん坊の泣き声じゃなくて、 小さな子どもの声だ。 ダンナはさらに不機嫌そうで、 私との間に新聞の壁をつくって、 テレビさえ見ようとしない。 イヤな雰囲気漂う家の中で、 ゴト、バタ、と、 家鳴りがした。  これじゃないンだ。  あれがほしいンだ。  ずっとほしかったンだ。  でもかってもらえなかった。  あれはもうすこしおおきくなってからだって。 また子どもの泣く声がした。 今度はさっきよりはっきりと聞こえた。 ダンナが新聞の壁を突然に崩した。 うるせーなーと不機嫌に言うかと思ったら、 違うみたい。 おまえ、あいつだろう、 マァちゃんだろう。 あれだな。あれがほしいんだな。 ほしがってたもんな。 はっきり言やいいのに、バカだな。 台所に向かってそう言うと、 立ち上がって、 納戸の戸棚をごそごそやりはじめてる。 何がなんだかわからない。 今度は私がイライラしてきた。 ダンナは小さなナイフを握りしめて、 居間に戻ってきて、 イライラしてる私を無視して、 ほら、やるよ。 ナイフを投げた。 すい、とナイフが消えた。 粉砂糖が水に溶けるみたいに。 すっかり消えてしまったと思ったら、 バラバラバラと私の包丁が落ちてきた。 よりによって、みんながみんな私の膝に。 ちょっと流血の惨事。 私はプリプリしながら傷に消毒薬を塗る。 それはまあいい。 たいしたことなかったからいい。 それよりアタマにくるのは、 あれってなんだったの?と ダンナに訊いても、 ありゃひごのかみさ、 というだけで、 ちっとも説明してくれないことだ。 そのくせダンナはブツブツとひとりごと、 ずっとほしかったって? あいつ、三年しかこの世にいなかったじゃないか。 そういや四十五回忌か。 四十八年もほしがってたのか。 ひごのかみって、カミサマ?と訊いたら、 ダンナはゲラゲラ笑って、 それからいやにしんみりと、 手酌で焼酎を飲みだした。 家鳴りは鎮まり、 なまぐさいのもいつのまにか収まって、 網戸から涼しい風が吹いてきた。 初出 蘭の会2003年8月月例詩集 ---------------------------- [自由詩]ハナムグリ(百蟲譜25)/佐々宝砂[2004年7月30日1時03分] 花壇のマリーゴールドは みごとにおひさまの色 おひさまを いっぱいに吸いこんで ハナムグリのベッドは おひさま色の花粉 ハナムグリのごちそうは おひさま色の花粉 夜なんか知らない 冬なんか知らない いまは夏で いまのところはまだ夏で おひさまがいっぱい (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]わたしのからだは……/佐々宝砂[2004年7月30日1時06分] わたしのからだは 出来損ないのモンタージュで つぎはぎのでたらめの パッチワークのモザイクで ちゃんと機能しないもんだから 子宮にできるはずの内膜が 肺にできちゃったりして 月経の時期がくると吐血する 受胎するためにつくられた 受胎するはずのない この吐血の血液に ホムンクルスの小さな死体ひとつ 涙こらえてティッシュにくるんで ゴミ箱に埋葬する ---------------------------- [自由詩]考える以上に萌え萌え。/佐々宝砂[2004年8月1日3時16分] 騒ぎ立てる目覚まし時計を手探りでなだめた。 カーテンを開けようとしたが開かない。 しょうがないから灯りをつけた。 俺の部屋はジャングルと化していた。 実をつけたヘクソカズラがカーテン全体を覆い、 カーペットには白いキノコがにょきにょき生え、 箪笥の抽出を食い破ってイタドリが顔を出し、 オーディオやパソコンは葛に縛められ、 太陽光も届きゃしないのに、 なんでこいつらこんなにはびこる? ニュースを見ようと俺はリモコンに手を伸ばした、 するとその手をおまえがつかんだ、 いや、頼むからしばしおあずけにさせてくれ、 こんな状況で萌えるおまえが理解できん。 (未完連作ソネット「破滅の13の情景」より) ---------------------------- [自由詩]スランプの天使/佐々宝砂[2004年8月1日3時30分] 1. もうどうしよーもなくスランプなのよッ。 ああどうしたらいーのかしら、夜までにひとつ 歌つくんなくちゃ怒られちゃう。 あたしこれでもけっこう買われてんのよう、 まあうちんとこの姫は歌ヘタだからね、 あたしがいなきゃあんなにモテるわけないんだけどさッ。 でもスランプなのよね、困ったなあ、なに書こう……  恋しきは灯火消えて残り香の…… ああこんなんじゃだめよッ、つまんないのにしかなんないわ。 困ったなあ、困ったなあ、なんとかでっちあげなくちゃ。 2. バレンタインの詩もつくったし。母の日用の詩もつくったし。 父の日のやつもなんとかこなした。 で、次はなんだって? ガイ・フォークス用の詩だって? おい、僕はこれまで15年もこの仕事やってるけど、 ガイ・フォークスに詩入りのグリーティング・カードなんて、 まるできいたことないよ、そんなことやるのははじめてだ。  恋しいのは灯りを消した部屋にただようきみの香水…… いやこんなの、全然ガイ・フォークスじゃないぞ。 何を書いてるんだ僕は。困ったな。でも仕事はこなさなくては…… 3. A子先生はよくあんなに増産するわよね、すごいよね、 なんて感心してる場合じゃないでしょう。 〆切はとーっくに過ぎてるんですよ、先生。 もうなんでもいいですからさささっと描いちゃって下さいよ。 いつもみたいのでいいですよ、いつものイラストポエム、 それなりに好評なんですから。ほらたとえば、  灯りを消した部室 せいたかのっぽのあのひとの汗のにおい…… とかなんとか、そんなんでいいじゃないですか。 そんなの書いてそこに野球部の部室かなんか描いて下さいよう。 4. スランプなんですよ、もう千年も前からそうなんです。 いっつも同じよーな台詞しか出てこないんです。 困りました。どうしましょう、ミューズさま。 5. 困ったって言われてもねえ…… おまえは創作の天使といってもスランプの天使だからねえ。 まあ安心しておいでよ。 いつも同じ台詞でいいのだよ、 それがスランプの天使のお得意のわざなのだからね。 2001.06.11 ---------------------------- [自由詩]往復書簡/佐々宝砂[2004年8月1日3時33分] 僕は十二番目の牢舎にゐる 僕は二零三と呼ばれる 僕は自分の名前を忘れつつある 僕は粗悪な食事に馴れつつある 君の庭の卯の花は 今頃はもう満開だらうか 此処にゐると季節が判らない 時代さへも判らなくなるやうだ 独房の窓は時折呻きながら点滅し 君からの手紙を表示する それがこの生活の唯一の救ひだ ********* おい、頭は大丈夫か? なんでまた旧かななんだよ それから言っとくけど 俺んちには卯の花なんてない 粗悪な食事ってのは 出来合いの弁当かなんかだろ コンビニに行くほかは 出歩きもしないんだろう パソコンにかじりついてないで 一度くらい俺んちに遊びに来いよ 全くお前は莫迦だなあ ---------------------------- [自由詩]オニヤンマ(百蟲譜26)/佐々宝砂[2004年8月3日3時30分] 蜜柑色した西空を探るように 行ったりきたりするのは 連れ添いを求めているから。 でなければ飢えているから。 しかしその飛翔の優雅なこと! ヘリコプターのホバリングも グライダーの滑空も 比較にならない。 人間がつくったものは どうしてあんなにも みじめったらしいのか。 空の虎たるオニヤンマは 王者の風格で飛ぶ。 貪婪に。しかし悠々と。 (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]ギンヤンマ(百蟲譜27)/佐々宝砂[2004年8月3日3時31分] トンボならギンヤンマ ぎらぎら青光りする腰 淡い緑の腹に飴色の尾 それからあのぐりぐり動く目玉 生まれ変わるならギンヤンマ 青々と輝く水田のうえ セロハンの羽音響かせて 軽やかに飛んでみたい 少年の網に囚われて 朝の虫籠のなか 硬直するとしても 生まれ変わるならギンヤンマ 真夏の太陽に照らされて ひととき飛んでみたい (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]ハグロトンボ(百蟲譜28)/佐々宝砂[2004年8月3日3時32分] 真夏の渓谷の薄暗い木陰で 川音を聞きながら ひっそり息をしていた ひとりといっぴき 濡れた岩のうえ つんとまっすぐに伸びた胴 行儀よく揃えて閉じた翅 その黒曜石の輝き 日の当たる深い淵で 友人たちは遊んでいた 行かなくてはならなかった 黒曜石は驚いて飛び去った 私はそうっと立ち上がったのに ほんとにそうっと立ち上がったのに (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]アブラゼミ(百蟲譜29)/佐々宝砂[2004年8月4日3時33分] そのひとが来ないことは わかっていたけれど 約束からもう一年過ぎてることも わかっていたけれど 盛大なアブラゼミの合唱の下 私は待っていた 夕暮れがきても まだ蝉は鳴きやまず 私は待っていた アブラゼミの雌のように 押し黙って 雄のなきさけぶ声を 無視するでなく応えるでなく 聴きながら (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]ミンミンゼミ(百蟲譜30)/佐々宝砂[2004年8月4日3時34分] 早稲田にも 青山にもなれなかった 予備校の街で 私はその年の夏を過ごした。 現役生のフリしたまま 講義を受けて 教室を出ると ミンミンゼミの大合唱。 ミンミンゼミは ミンミンと鳴くから ミンミンゼミだ。 しかしその年の夏 私は何者でもなかった。 鳴き声さえも持っていなかった。 (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]ツクツクホウシ(百蟲譜31)/佐々宝砂[2004年8月4日3時35分] 夏休みの宿題は終わったのと かあさんは訊ねる 私はもう学校卒業したんだよと 何度説明しても かあさんは言う おまえはやく宿題をやんなさい ツクツクホウシが鳴く前に とっとと宿題を終わらせなさい ぼけてはいても 娘の出来の悪さと 季節の移ろいは感じるらしい 出来の悪い娘は 今年もまた宿題を提出できず 今年もまたツクツクホウシが鳴く (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]夏の朝、午前5時半、/佐々宝砂[2004年8月4日5時33分] いつもあのひとのことを考えているわけではないから たまには大目に見てやってほしい 外は爽やかに水色の夏の朝 汗で酸っぱいTシャツを脱ぎ捨てて窓辺に立っても 田舎の農道に車一台通るでもなく ただクマゼミがシャンシャンと鳴くばかりで 焦燥感をどこにぶつけたらいいのか見当もつかないけど だからといって私は死んだりしないのである ため息つきつつ虫さされに塗る抗ヒスタミンクリームに R−メントールがほんのひとたらしも含まれていないこと 友だちから来たメールに返事しなくちゃしなくちゃと思ってて でも優しい言葉はかけられないから必死にジョークを考えていること 近所の野良猫のふくれた腹が最近とつぜんひっこんで 昨夜あたりから痩せた仔猫がうちの玄関付近を徘徊していること などなど どうでもいいことが妙に気になってたまらず でもそんなこと気に掛けてもしかたないと知ってはいて そんなとき南から便りが来るとおしまいで ということはないや 私はまだ終わりゃしませんて 今日は精神科受診の日です 薬も飲まずよく眠れるようになりました 眠りすぎるくらいです よくぼうっとしています 食欲はふつうです でも断食すると気分がいいので たくさんは食べません 肩凝りなので運動を心がけています ヨガをよくやります 結跏趺坐して背筋を伸ばすと気持ちいいです 私はたぶんかなり健康です 歯が悪いのだけ問題だと思います でも 健康すぎるとどうも恥ずかしい気がするから 眠れない食欲がない性欲がないと 医者には言っておくつもりで あのひとがいなくても生きてゆけるていどに私は強いけれど あのひとのことを考えずにいられるほど強くはない とはいっても いつもあのひとのことを考えているわけではないから たまには大目に見てやってほしい ---------------------------- [自由詩]夏の深夜、午前2時、/佐々宝砂[2004年8月5日3時51分] この時刻にこれほど眠いの 悪くない話だと思うよ さっきメラトニンたくさんナイトミルクnemuを飲んだから それで眠いのかもしれないけど 睡眠薬は飲んでない 飲んでないんだ 肩凝りがずいぶんひどくて腕まで痺れて その原因が15年も前の追突事故らしいってんで 今日は精神科と整形外科をハシゴして 整形外科のほうで首吊ってきた あ 念のためいっとくけど首の牽引をしただけだからね まさかつまんない誤解はしないと思うけどさ 体重はがた落ちしてて実は生理も止まったっぽいけど それはまあ単なる夏ばてだから 食欲の秋がきたらきっと太るよ うん 太る もうすこーし太りたいなあ 健康になりたいなあ ふつうになりたいなあ っていうか私ふつうだよなあ 常識人だよなあ わけのわかんない予言夢なんかみたくないし しばらく詩なんか書きたくないし 戦争だのテロだののニュースもいまは見たくない 8月に入ったから 庭ではコオロギが鳴き始めているよ 蛙も鳴いてる 週末になったら 隣の田んぼはもう稲刈りをやるらしい ほーら季節はちゃんと動いているよ いくら異常気象でもさ そんなわけでそろそろ眠るけど まだ言ってなかったね あなたに頼るのは そろそろやめるよ ---------------------------- [自由詩]カブトムシ (百蟲譜32)/佐々宝砂[2004年8月5日3時56分] つまんない虫だよ。 臭いし。 強いったって スズメバチには負けるし。 天然のやつは栄養不足で ツノが貧弱だし。 羽根の艶なら カナブンのほうがいかしてるし。 でも幼虫のときは最高だ。 あの白くむっちりした肌。 透けて見える糞泥。 昆虫の美の極北。 あの美しさがわからないって? 可哀相なヒトだねきみは。 (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]カナブン(百蟲譜33)/佐々宝砂[2004年8月5日3時58分] ぶちあたる。 とにかくぶちあたる。 光ってはいるけれど 安っぽい弾丸。 蛍光灯の傘にぶつかる。 窓にぶつかる。 壁にぶつかる。 いちいち音を立てる。 緑金色の背中は あれでなかなか 綺麗なんだけどねえ。 実害は何もないんだが うるさいから追い出す。 私は静かに詩を書きたい。 (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]ニイニイゼミ (百蟲譜34)/佐々宝砂[2004年8月5日4時14分] 玄関脇の柿の木の下 アブラゼミの抜け殻はきれいに光る クマゼミの抜け殻もてかてか ヒグラシの抜け殻ときたら繊細な芸術品 なのにニイニイゼミは ニイニイゼミの抜け殻だけは 胞衣(えな)をかぶって生まれた赤んぼみたいに 生まれた根の国を忘れたくないみたいに 乾いた泥にまみれて 泥臭いままで それでも ニイニイゼミは殻を脱いだよ 懐かしの泥だからって いつまでもかぶっちゃいられない (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]ハマダラカ(百蟲譜35)/佐々宝砂[2004年8月6日3時59分] こいつの針は いかにも太すぎる。 刺したらバレバレだってのに 気づかれてないと思ってる。 すでにかなり痒いのだけど 私は片手にキンカン持って 知らないふりしてあげてみる。 腹の赤味がゆっくりと色濃くなる。 私の血ではちきれそうになって たぶん生まれてはじめて 味わっているであろう満腹感。 それから私は 満ち足りた虫を叩きつぶす。 嫉妬にかられて。 (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]アカイエカ(百蟲譜36)/佐々宝砂[2004年8月6日4時01分] すい とやってきて 吸い と刺す すい と逃げる 吸い とまた刺す 吸ってるのがわかりにくいんで 腹が立つ 痒くなったときにはどこにもいないんで 腹が立つ いまどき 日本脳炎なんざ媒介してはいないと 思うけど 次の機会にゃわかりやすく刺してくれ そのときはこっちからも刺してやる 絶対とどめを刺してやる (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]ヤブカ(百蟲譜37)/佐々宝砂[2004年8月6日4時15分] 十八歳のころから ひそかに考えてることがある 考えるだけで実行には移してないが 裏山の防空壕跡に入るたび思い出す そこにはそれはそれはすごいヤブカの大群がいて それからちょっとしたコウモリのコロニーがあって 私はヤブカのごちそうになり ヤブカはコウモリのごちそうになり なんでも中国には コウモリの糞を集めて洗って 蚊の目玉だけ取り出して食うという そういうごちそうがあるそうなんだが 食物連鎖逆転の勇気を 私はいまだ持てないでいる (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]トリプトファンレス・トリプル/佐々宝砂[2004年8月6日5時42分] ここに俺がいると思うか思うなら挙手せよ インターネット上に俺がいると思うか思うなら挙手せよ あるいは印刷された紙に印字された文字に 夕方の台所に夜明けのシャワー室に ビールが臭う真昼間のネットカフェに 世間から隔絶した本とビデオでごちゃまぜの八畳間に 俺がいると思うかこの俺がいると思うか思うなら忘れろ 言うまでもないが俺はそこにいない ぎらりと朝日射し一般的に言えば爽やかな一日の始まり 俺は多層化してゆく俺をどうにかひとつにまとめあげ 唐突に一人称が「俺」のままだったことに気付き あわてて「私」に変えようとするができない そんな朝もたまにはあるのでとにかく 夢と現実区別がつかない寝ぼけた顔を洗って髪を結い 昨夜から作っておいた煮えすぎの味噌汁を食い 買ったときには白かったシャツを着て仕事に出かけ などという日常を書いていいのだろうかと 平凡な問いが大脳皮質表面をりらりらまわるそれが今で でもあのとき 時がのんべんだらりと続いたあのとき 夕方だか夜明けだかわからなかったあのとき ゼリーのカップで生ぬるいチューハイを飲みながら裸で 触ると崩れる危なっかしい本の山のあいまで 俺が一人ではなく二人でもなくでも俺たちだったとき 俺は確かにあのときあそこにいたけれど 白紙の上に俺がいると思うか思うなら立ち去ってくれ キリンのあごひげに俺がいると思うか思うならお願いだ消えてくれ あざとく吠える隣の犬の舌細胞の星状体に 漂白しても落ちない茶渋の裏に 昨年街頭で配られたのをもらってきて それきり忘れたままの使い捨てカイロの灰の内奥に 洗う気もなくしてしまった通勤快足靴下に 俺はいる いるけれどほっといてくれあるいはどうか 立ち去ってくれそして俺のことを考えるな俺は 傍観する傍観する傍観する あなたがたはただ行動せよ ---------------------------- [自由詩]スクリプターレス・スクウェア/佐々宝砂[2004年8月7日3時54分] しんきらと冷えた冬空からこそ出発する はずだった 真冬ならばきっと 乾燥した肌は粉を吹いて水を求めただろう 夜空の河の湿度はきわめて低い のどが乾いたなら お姉さんにあげるはずの牛乳を飲み干してしまえばいい 窓を開け放っておけばじきに海が侵入してくる 干上がった海 ディラックの海よりわずか豊かなだけの その海にぎらぎらと銀に輝く門が浮かぶあそこから きみの旅が始まるのだと古文書は記し しんきらと冷えた夜空からこそ出発する はずだった 神保町のみわ書房で懐かしい本を買っておこう 夕暮れの乾物屋で鰺の干物を買っておこう 水筒も忘れないように でも水筒は空にしておくこと 家族には内緒にしておくこと こっそりと出かけること 友だちには連絡しておくこと ただしひとりにだけ さよならは言わないでおくこと さよならだとしても 冷たい海に浮かぶラッコの毛皮なんてほしがらないこと 準備が整ったら測量を開始しよう ほらずんと響く低いモスグリーンの声がきみを導き しんきらと冷えた夜空からこそ出発する はずだった 今は夏だ どうしたわけか夏だ たらたらたらとだらしない言葉のような汗がおちる あのこはカンパネルラ並の莫迦で あのひとはジョバンニ並の莫迦で そして私はそれに輪をかけた大莫迦で いや 私は極端な大莫迦になろうとしてなれない普通人で だのにイカロス莫迦を追いかけているらしくて そのせいだとは言わないけれど 私の指は 今夜も湿っぽく粘ついている ---------------------------- [自由詩]ヒグラシ(百蟲譜38)/佐々宝砂[2004年8月7日4時06分] 夏盛りの真昼の山奥で 輪唱するのをよく聴いた 山奥で暮らしたことのないあのひとに そう言っても信じてもらえないかもしれないけど 夕暮れどきに街中で鳴く ヒグラシはあまりにものがなしいけど たいてい輪唱してはいないから 一匹だけなんだなと思うと余計にものがなしいけど ひらめく木漏れ日の下で あかるく調和するヒグラシの輪唱を あのひとに聴かせたい かなかなの「かな」は かなしいの「かな」じゃないんだって あのひとが思ってくれるかわからないけど (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]ユウレイグモ(百蟲譜39)/佐々宝砂[2004年8月7日4時07分] ふあんふあん。ふあん。 重力よりも 風力を強く感じていそうな。 ふあん。ふあんふあん。 糸みたいに細い八本の脚は 這っているのか飛んでいるのか。 脚のまんなか吊り下げた胴は 浮いているのか飛んでいるのか。 いつでも所在なげにみえる。 神社の苔のうえでも。 庭木の陰でも。 だけどそれがきみなんだよね。 その揺れはきみなりの威嚇なんだよね。 ふあん。ふあんふあんふあん。 (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]アメンボ(百蟲譜40)/佐々宝砂[2004年8月7日4時18分] どうせなら 綺麗な水に浮かべばいいのに ほんのすこし先に 飲めそうな水流れる小川があるのに にごった水たまりにいる 無数のアメンボ。 そのものすごい密度といったら 日本の人口密度もかなわないくらい。 その脚がつくりだす波紋も お互いに干渉しあって わけがわからないんじゃないか。 そう思いながら水面をちょんとつついた。 やめとけばよかった。 アメンボってやつは人の血も吸うのだ。 (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]イトトンボ(百蟲譜41)/佐々宝砂[2004年8月8日23時11分] やがて埋め立てられる小さな沼のうえ、 イトトンボが飛んでいる。 二匹繋がって。 澱んだ水面をいくども叩きながら。 沼からちょぼちょぼと流れ出すどぶ。 そのそばにある休耕田。 その脇を流れてゆく、 渇水して50センチほどの幅しかない川。 イトトンボに選択肢はない。 この小さな沼ほど産卵に適した場所は この町にない。 だからイトトンボは卵を産む、 やがて埋め立てられる沼の、 まだイキモノに満ちた水のなかに。 (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]タガメ (百蟲譜42)/佐々宝砂[2004年8月8日23時12分] 水埃にすっかり覆われて ほんのすこしも 動きそうになかった 実際さわっても動かなかった 二本の前肢は がっちりとハヤをつかまえていたが そのハヤさえも 半ば腐っているように見えて この川ももう半ば腐っていて その半ば腐った川にタガメがいるなんて 信じられないというより辛くて タガメよもうがんばるなと呟く しかしタガメは死ぬまで生きるのだろう 生き腐れても (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]ワカバグモ (百蟲譜43)/佐々宝砂[2004年8月8日23時14分] 自然の草の色に似ている。 たとえるなら稲科植物の たとえばエノコログサの 淡くやさしい新芽の色。 人工的な色にも似ている。 たとえば小さなころ大切にしてた プラスチックビーズのネックレスの 安っぽい半透明の緑。 指先に乗せると 八本の脚を丸めて ちいちゃくなる。 そのままピアスにしちゃいたい。 ワカバグモのピアス。 どこにも売ってそうにない。 (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]ブドウムシ(百蟲譜44)/佐々宝砂[2004年8月10日2時13分] 山ブドウのつたに 寄生しているから ブドウムシと呼ぶ。 冴えないちっぽけな芋虫。 それがどんな成虫になるか 私は知らない。 たぶん冴えないちっぽけな蛾か蜂に なるんだろうと思う。 だがこの冴えないちっぽけな虫は びっくりするほど高値で売られる。 渓流魚がこの虫を好むからだ。 釣り道具屋の冷蔵庫のなか ブドウムシはひっそりとねむる。 蛾にも蜂にもならないままで。 (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- [自由詩]ヒトリガ(百蟲譜45)/佐々宝砂[2004年8月10日2時14分] 青白い殺虫灯に まっさきに誘われて バチバチと音を立てて まっさきに死ぬ。 燃え上がる火を見つけると 後先知らず飛び込んで 一瞬火の粉を吹き上げて あっというまに死ぬ。 光に惹かれる。 そのようにできている。 明るい日の下に生きる 真昼のイキモノには判らない。 光を見出し光に灼かれるのは 闇を知るイキモノなのだ。 (未完詩集『百蟲譜』より) ---------------------------- (ファイルの終わり)