佐々宝砂 2007年4月26日12時05分から2007年11月2日23時02分まで ---------------------------- [自由詩]地球の生活/佐々宝砂[2007年4月26日12時05分] 今さらながら驚いてしまうのだけど あなたはまだ生きているのだった 毎日とんでもない数の人が死んでゆくというのに あなたより年若いバカが自殺するというのに あなたが死んだという連絡はまだ入らない だからたぶんあなたは生きているだろう という希望なのか絶望なのか判別しがたい推測をもとに 私は今日も死人の声を聴いている エドガーはアル中だったので 死人の声が好きじゃなかったらしいが 私はあいにくと毎日素面で暮らしているのだ 酒抜きヤク抜きただし音楽だけは抜けなくて 死人の声がいつまでも響いている あと何億年だか経ったら 何十億年だったかもしれないけど まあ細かいことは言いっこなし ともかく何億年かあとに 太陽はぶくぶく膨れて地球を呑む 私はそのときまで喋り続ける予定 だから死人の声をお手本に練習中 なのだけど特に練習しなくても 私の声は日々死に続け あなたの声は私の海馬に死屍累々 それでも私たちはまだ生きていて おおなんという不思議 私たちはまだ生きていて おおなんという不可思議千万なこの生活 地球が太陽に呑まれたあとも 私たちの声は宇宙を旅するのだ ---------------------------- [自由詩]初夏の森には秋の風/佐々宝砂[2007年5月3日10時09分] 何も見えなくていいのだ 握りつぶしてきた虫の数を数えてみようったって できない 地球の反対側の生き死にだって見えやしない 私は限りあるイキモノであって 書物だのインターネットだのが親切にも教えてくれる 数々の雑多な情報を頼りに生きている 書物片手に森に行こう 町なんかどうでもいいのだ 町には人間と人間のつくったものしかありゃしない ただし何も持たず森に佇めば 自分が人間であることをときに忘れてしまうから 片手には愛する書物を なんでもいいけど 私の場合はラフカディオ・ハーンの『骨董』 キイチゴの茂みには いつだって蜘蛛の巣とナメクジ ぽつぽつと大きくなりはじめたシイタケの下には 必ずうごめいてる真っ黒なヤマビル 長靴と分厚い靴下で武装しても こいつは私を食物と見なしてくれる 食って食われて森は森である 人間がいたという確かな痕跡である切り株に坐り 薄暗い木陰でたどる『骨董』の正字旧かな 明治は遠くなりにけりだかどうだか知らないが 外つ国の人が描いた明治の女は 非人道的なほど端正でけなげで美しい いまどきあってはならないほど美しい 私は新緑に何ひとつ託そうと思わない とりわけモミの新緑なんかには託さない やつらは人間のことなんかかまっちゃいられないほど 長いときを生きる はたを通り過ぎてゆく虫のことなんか 単にうざったいだけだろう? 私もそうだがモミの木にとったってきっとそうなのだ 美しい明治の女はすでに亡いが ハーンが描いたのと同じ虫が 草雲雀という美しい名前の虫がじきに鳴き始めるだろう 森で 私の庭で 子孫を残すために切々と鳴き始めるだろう あいつらだってあいつらなりに忙しいので 私の思いなど託せはしない 初夏の森には秋の風 夢をなくしてしまおうとも 諦めることを学ぼうとも 何ひとつ見えないまま過ごそうとも また夏がくる 夏のはじめは どうしてこんなにも秋に似ているのか こんにちはとさようならを 同じ言葉であらわす言語みたいに 夏がやってくる ---------------------------- [自由詩]椎/佐々宝砂[2007年5月5日21時10分] まだぎらつきはしないけれど 充分に 強烈な熱を発散しはじめている 五月の太陽 日暮れがきて それはすこしだけかげりはじめて 万緑は 急速に輝きを失ってゆく 気温が下がる 夜の虫が肌にまつわる 蝙蝠が飛ぶ けれど椎の若葉だけは あかるく映える まだそこだけ昼のさなかであるように (未完詩集「百緑譜」より。「雑木山」改題) ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]ポイントは数字か?(親指1000字エッセイ)/佐々宝砂[2007年5月17日12時14分] 人は数字ではない。東大合格者も戦争や天災での死者もしばしば数字で表される。だが人は数字ではない。とカッコつけといていきなり卑近な話になるけど、ポイントも数字じゃない。無論数字で表されるし数字で表すしかない。でも人が数字ではないように数字ではない。 勘違いしてもらっちゃ困るので説明するが、ポイントが少なくても気にするな、という意味ではない。人がひとりひとり違うように、ポイントひとつひとつに異なる意味があるのだから、ポイントひとつひとつに一喜一憂しろと言いたいのだ。 この人からポイントもらうと嬉しいと思う人が、私には何人かいる。そのなかには入会退会を繰り返している人もいる。退会によって消えるポイントでもいいのだ。大事なのは「その人」に認めてもらったということだ。 逆にこいつからのポイントは要らんゴミだと思うこともある。吟醸度に少々関係するが比例はしない。単に私の好みの問題かもしれない。私の心が狭いだけかもしれない。だがとにかく要らないものは要らない。と思ってたそいつは、私が少々批判的なコメントを書いたら全くポイントを寄越さなくなった。すっきりした。私はしみじみ小さな人間だ。だが私は数字ではない。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]この際なんでも面白がれ!あるいはパレアナ症候群/佐々宝砂[2007年5月19日16時58分] 自己欺瞞でも嘘でもアホでもうんこでもいいのである。はっきりいや不幸のどんぞこでもいいのだ。なんでもけっこう。鬱病失業借金に加えて、特定疾患の難病に逮捕、なんでもきやがれ(って正直なところ私にはその全部が関係してきてるんですがねいま現在)。不幸自慢をするときりがないのでしない。まあ気が向いたらする。いまは気が向かない。鬱病の話だけちょっとする。私は元来かなり明るい性格である。かつては全然そう思ってなかったが、いまネットに向かっていろいろ読んでると実に「私ってなんて明るい性格なのかしら(にっこり)」と思うのだった。 元来明るい性格であるところの私が鬱病になりはじめたとき、自分でも明らかに異常を感じた。なにしろ泣けてきてしかたないのである。たいへん優しい夫にモノぶっつけて「なによあんたなんか私のこと全然わかってくれないくせに!」と叫び、あげくの果てに「助けてよう、死にたいよう」とさめざめと泣くのである。もう世の中の何もかもが怖くて悲しいのである。スーパーにゆくとレジ係に怒られそうで怖いのである(普通レジ係は客に向かって怒ったりしません、よっぽどのことがなければ)。道を歩いてて子どもに出くわすと石を投げられそうで恐ろしいのである(まあ、そういうことする子どもも中にはいるかもしれん)。近所の人が立ち話でもしてようものなら、ありゃ絶対私の悪口だと思えて、そそくさと逃げてしまうのである。 私は仕事に行けなくなって会社をクビになり、細々とライティングの仕事をしたがそれもITバブルがはじけて打ち切られ、貯金がなくなって自動車保険が払えなくなったので、車を手放した。我が夫はたいへん優しいのだが、自分の車の保険くらい自分で払えというおひとである。まあね、中卒で働いて、アル中の父親の面倒を何十年とみてきたひとだからね。ある意味厳しい。それはそれで、いい。でも夫は私の異常に気づきながらも病院に行けとは言わなかった。その手の知識を持っていなかったからである。私は二十歳の頃に鬱というか摂食障害になって精神科に通院したことがある。あの頃みたいだな、明らかに私あたまおかしいよなあと思いはしたものの、病院には行かなかった。私は病院(と美容院)が大キライなのだ。ところがある日、とあるDIYショップでかなりはっきりしたパニックを起こした。店の真ん中で座り込んで涙ぽろぽろ流したまま動けなくなってしまったのである。異変に気づいた店員が近づいてきたら余計に悪化した。のんきな夫もこのありさまを見てさすがに「こりゃ病気だ」と感じたらしく、その日のうちにイエローページでその手の病院を探し当て、診察を予約してくれた。 で、それから何年経ったんだ、えーと、たぶん8年か7年だ。鬱になりはじめた頃に較べると、客観的にみてうちはかなりひどいありさまになっている、なんしろ掃除していない。ぐちゃぐちゃだ。取り込んだまま畳んでない洗濯物の上で猫が寝ているがそのまま放ってある。畳んでない新聞が散乱している。先月くらいに買った少年ジャンプがテーブルの下に転がっている。壁際には文庫本が山と積まれていまにも崩れそうで、しかもその上には埃がたまっている。以前の私なら、「もっときちんと掃除しなきゃ!」と焦りまくってパニックを起こしたであろう状況だ。しかし現在の私はパニックを起こさない。まーいいじゃんと座り込んで新茶なぞ飲んでいる(茶工場でバイトしているのでお茶だけは高級品が手に入る、とゆーかもらえる)。幸せか、と訊かれたら、うんけっこう幸せだよと答えると思う。 さてこれは鬱が治った状態なのか?と問われると、なんか違うよなと自分で思うのだった。ぐちゃぐちゃな自室だけは見て見ぬことにしているが、その他の不運不幸についてはかなり自覚的で、なんでわたしゃこんな状態に陥ったのだ、私自身にも悪い点はいっぱいあるがそれ以上に運が悪いのか、あるいは悪いものを選んでしまうのかなどと、多少は思い悩む。だがあくまでも「多少思い悩む」だけであって、そんなにものすごーい鬱にはならない。たぶん薬が効いてるせいだと思う。薬は万能ではないし副作用もきついが、自分に向いた薬が見つかればかなり効く。効きはするが、ある意味これは効き過ぎじゃなかろーか。ここまでゆくと、どんな状況下でも幸せを見つけてしまうという、話にきくパレアナ症候群状態ではなかろーか。 でもまあ、なにはともあれ摘みたてできたて新茶(高級やぶきた玉露)はうまいのだ。私のシャツの上にへーぜんと寝ている猫の寝姿はおかしくって笑えるのだ。来週はなんとかお金を工面して、私の非常に親しい知人(俗に愛人ともいう。ちなみに彼は治療法のない遺伝性の難病であと十年ほど経つと身体の自由がきかなくなる)が拘留されている留置所まで面会にゆくのだ。留置所で面会だぜっ。なかなかそんな機会ないだろう。この際なんでも面白がろうと思うのである。自己欺瞞でも嘘でもアホでもうんこでもいいのである。そして私はどうやら、もともとそんな性格なのである。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]おせっかいおばさん(親指1000字エッセイ)/佐々宝砂[2007年5月20日8時25分] 最近嵩麻呂さんの携帯写真+詩に「これはクローバーじゃなくてカタバミです」とコメントをつけた。四つ葉のクローバーが出てくる詩は悪くなかったと思うけど、写真に写ってるのは確かにカタバミだった。クローバーではなかった。こういうのを見つけると、ついついおせっかいしてしまうのである。 嵩麻呂さんがその詩をすみやかに削除したので、私は悪いことをしたかなあと反省しはじめた。ところがしばらくあと、嵩麻呂さんは「プランタにカタバミが」のタイトルで詩を書き直し、写真はそのままで再投稿した。私は正直、前の詩の方がよかったかもしれないと思った。だが、間違いを指摘されたとき間違いを認めて再投稿する姿勢はいいなと素直に思ったので、ポイントを入れた。 現時点、私は、明らかに短歌ではないものを短歌カテゴリに投稿している人に対して、コメントで注意している。だって間違いなくカテゴリ違いなんだもん。片野さんに言われて投稿規制を受けるよりは佐々宝砂に文句言われる方がマシだと思うんだが、どうなんだろ。どっちにしろ言われる方はいやかな。 要するに私はおせっかいおばさんなのであって、それ以上でもそれ以下でもない。鬱陶しいとは思うが、おせっかいおばさんは鬱陶しいものなのであり、自分でいうのもなんだが、おせっかいおばさんは多少は世間に役立つのである。 ---------------------------- [自由詩]クレープシュゼットの海/佐々宝砂[2007年5月20日9時36分] みかんの里に生まれ育ったくせに オレンジがうまく剥けない サツマ・オレンジならうまく剥けるけど サツマ・オレンジじゃクレープシュゼットに合わない バレンシア・オレンジ マンダリン・オレンジ ネーブル・オレンジ 今日はネーブル・オレンジの気分 ナイフできゅっと皮を剥く 絞り器でぎゅっと果汁を絞る バター、グラニュー糖 それからオレンジ果汁を鍋で煮立てて 焼いて畳んだクレープを並べて 細くスライスしたオレンジの皮をはらりと散らす オレンジの海 鍋のなかオレンジ色の海 でもね まだ足りないの これじゃクレープシュゼットにならないの ホワイトキュラソーがない オレンジキュラソーもない ブランデーも コアントローもない 温めたお酒に火を点けるための マッチがない だなんて嘆いてみるけど嘘 ほんとはコアントローがあるの あっためてライターで火を点ける いっそ静かな青い炎 燃えあがるクレープシュゼットの海 それでもまだ足りなくて 足りなくて 足りないのは ほんのすこし前まで 一緒にクレープシュゼットの炎を見つめてくれた 二つの瞳 ---------------------------- [自由詩]創書日和。風 【一目散】/佐々宝砂[2007年5月31日21時36分] 一道の暴風、屋を壊り、天井床畳をさへ吹上、 あるひは赤金もておほへる屋根などもまくり取離ちたり。               『閑田次筆』(伴蒿蹊) 一目散に過ぎてゆく風、風、 違う、過ぎてゆくのは風じゃなくて、 あれは、 一筋に過ぎてゆく、 脇目もふらずに、 吹き上げられる石ころ、バケツ、トタン屋根、 なんなんだよあれは! ダウンバースト? 竜巻? 乱気流? 違う、あれは、 一目散に過ぎてゆくあれは、 一つ目に一本足の、 鍛冶の神、 その末裔、 あいつの名は一目連。 鎌鼬とも違う。 あいつは人を切り裂かない。 ただ、すべてを吹き上げて、 ごちゃまぜにして、 めちゃくちゃにして、 一目散に過ぎ去ってゆく。 ---------------------------- [自由詩]音楽について/佐々宝砂[2007年6月8日3時09分] 夕暮れの音楽室で ピアノを弾いた 平穏で無難な和音 誰がつくりあげるとしても たとえばそれが夕暮れのサイレンだとしても F#はF#にかわりはなくて 壁からみおろしている楽聖だって 無難な和音を使わないわけにはいかなくて ディミニッシュ・コードばかりでは 世の中はうまくたちゆかなくて だから面倒だけどもういちど根気よくバイエルからおさらいしているの 単純で退屈なアルペジオが 私の指からこぼれて どこか遠い地下室の 貴方には聞こえない交響楽の 最後の余韻に合流する Pakiene名義の過去作 ---------------------------- [自由詩]奇跡について/佐々宝砂[2007年6月8日20時27分] さよならを言ういとまを あなたはくれないだろう 私の知らないうちに あなたはどこかに消えるだろう 夜空の星はいつまでもそこにあるわけではない 青空の太陽はいつまでも輝くわけではない 念のため言っておくが 雨が降るの雲が晴れるのという 大気圏内の話はしていない 夜が来るの朝が来るのという 地球規模の話もしていない この宇宙は常に夜であって ささやかな光が ところどころに細々とひかるだけなのだよ そんな場所で 私とあなたが出会ったのはおそらく奇跡だが 奇跡というものは 我々が考えるよりたやすく起きるものであって しかし奇跡はやはり奇跡であるからには 持続しない そう 私とあなたの出会いもおそらくは だから私はあなたと離れているあいだにも あなたと出会っているあいだにも 考え続けている さよならを言ういとまも 愛していると言ういとまも あなたは与えてくれないだろう それでいいのだと思いながら 空を見上げる さっきまで出ていた洪水警報は解除されて 雲間から月が見える 私は地球大気圏内のイキモノである あなたがそうであるように 私とあなたが 生殖可能な同種のイキモノであったこと それすら本当は 奇跡的なことであったのだから この宇宙の奇跡のひとつとして数え上げておこう ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]ハルジョオンとヒメジオン(親指1000字エッセイ)/佐々宝砂[2007年6月20日20時09分] ハルジョオンとヒメジオンは両方とも正しいとはされない呼び方だ。正しくは、ハルジオンとヒメジョオン。ヒメジョオンは、ちいさな女苑の意。女苑は中国産の野草。また、紫苑の一種姫紫苑(ヒメシオン)と区別するために姫女苑と言うらしい。ハルジオンは春紫苑と書いてそれでよしだ。春に咲く紫苑という素直な意味である。 ヒメジョオンは夏から秋に咲く。ハルジオンは春から夏に咲く。両方が一度に咲いている時期は真夏のいっときだけだ。私の庭にはハルジオンが咲く。ハルジオンは青ざめてうなだれて咲く。 私はハルジオンという呼び名に慣れない。どうしてもハルジョオンと言ってしまう。それはもしかしたら松任谷由実のせいかもしれないが、彼女のせいばかりでもない。私の母親は、春に咲くのがハルジョオン、秋に咲くのがヒメジョオン、と教えてくれた。 ハルジョオン、ヒメジョオン、 ハルジオン、ヒメジオン、 綺麗に脚韻を踏むと、どっちかが間違った呼び名ということになる。好きな呼び名を使えばいいんじゃないかな、正式名称ではない、ふたつの花を並び称して歌うための呼び名だということを知ったうえで。 ---------------------------- [自由詩]創書日和。窓 【青方偏移】/佐々宝砂[2007年6月27日11時10分] すべてが逆転するという学説もあったんだそうだ 時間さえ逆行するとも言われていた じゃあぼくたちの親が 冷凍棺桶から起きてきて またぼくたちを叱ったりするのかな そしてぼくたちはまた小さくなって オムツをつけて哺乳瓶のミルクを飲んで かあさんのあそこからおなかに戻るんだ でもそんなことなかったから 俺たちはここでこうして ちっぽけな窓を目視確認しているわけなんだよ こんなもんやる必要ないんだよ コンピュータの方がずーっと精度がいいからね でも人間には仕事が必要だという学説があってね そっちの学説は興味ないよ ねえまた赤方偏移の話をしてよ いやほんとの話 俺だってそのころ生まれてたわけじゃないんだ 親父にきかされただけだよ 親父だって親父の親父にきかされただけだ とにかく昔むかしの大昔 宇宙はどんどん広がっていた このちっこい窓から見える星は みんな揃って赤方偏移してた 赤方偏移っていうのはそんなに綺麗なもんじゃないらしい 赤色巨星あたりは可視光じゃなくなって 見えなくなっちまうらしい だけどあるとき突然 何の前触れもなく すべての星が青方偏移をはじめた そんな馬鹿なことはあり得ないってんで 首くくった科学者もいたそうだよ そもそもここはステーションであって 特に動力があるわけじゃないから 宇宙が膨張を続けているなら ここから観測できる光はみな遠ざかるはずで つまり赤方偏移以外ありえないはずなわけだ どうして青方偏移になったのかな どうして宇宙は縮まり始めたのかな それがわかりゃ俺はこんな仕事してねーよ 俺にわかるのはそろそろ晩飯だってことだ そう窓にへばりついてたって 星が赤方偏移をはじめることはないよ そんなことがあるのは そうだなざっと見積もって300億年以上あとだな 俺もおまえも死んだあとだよ 流れ星くらい見えないかなと思ってさ・・・ ぼく、流れ星みたいことないんだよ お話でしかきいたことない 残念だなあその窓からは見えないよ おまえ科学の成績悪かったってきいたけど ほんとだな 流れ星ってのはね 大気がないと見えないんだよ ごくごくまれには大気なしでも 燃え上がる変なやつがいるかもしれないが って、なんだ、あれは! 監視システムはどうだ 反応してるか してない、みたい 何が「みたい」だ バカたれ とりあえず上に連絡しろ なんで監視システムが反応しないんだ 人間の目にしか見えない? まさか 連絡しました ここだけじゃなくて ステーションのどこからでも見えるそうです ステーションじゅう大騒ぎだそうです ぼく、行ってきます おい、どこに行く気だよ! おーい 行っちまいやがった 仕方ねーなークソ 飯でも食うか あんたもしかしてあれか ミロクだかミスラだかなんだかか 気色わりーから笑うなよゴラ 言っとくけど 俺はね 小さな窓から見える星が好きなんだわ 赤方偏移だろうが青方偏移だろうが 俺は星が好きなんだよ このちっこい窓から見える星がな だからどきやがれ おまえのせいで星が見えねーよ 俺のことは救わなくてもいいからな ---------------------------- [自由詩]創書日和。星 【遙かなる光はすべて天の星】/佐々宝砂[2007年7月30日13時36分] 私は輪廻を信じないのだけれど ねえ、ジム、それともジムソン? へびつかい座ホットラインなら あたしは信じる だからある日きっと あなたからの連絡がくる、と あたしは信じる あなたが星からの帰還を果たすまで あたしには果てしない流れの果てまで時間があるので 軌道エレベータの使い方を学んでおくつもり たそがれの地球の砦に取り残され 地獄への扉が開くときも あたしの愛しい娘たちがさざめき歌う ねえ、ジム、それともジムソン? 遙かなる光をあなたは目指し あなたはあなたではない何かに いくたびも生まれ変わる でもそれは輪廻ではないの あなたは変貌し変質し書き換え描き換えられ あなたでありながらあなたではなくなり でもほんとうは あなたが遙かなる光なのです ねえ、ジム、それともジムソン? 天の光はすべて星なのだから あたしは星に祈りを捧げ あなたへの告白に代えます ---------------------------- [自由詩]戦争よりセックス!/佐々宝砂[2007年8月2日23時09分] 阿久悠が死んだという話が その日の俺には一番の大事件だったのだが 彼女にはそうでもなかったらしく 朝のコーヒーはインスタントだった そういえば今日だけじゃなくて 毎日インスタントなのだがそれはさておき いや、さておくのはやめよう 俺もそろそろ認めた方がいい 朝の平和はかけ声では始まらない もちろん標語でも始まらない 朝の平和には夜の情熱が必要さ、と レット・バトラーの気分になってみようと試みるも 朝になってからではもう遅い 阿久悠が死んだそうだよ 小田実も死んだわ 彼女は正しく「おだまこと」と発音した そういえば以前にもこんなことがあった 俺は植木等が死んだ、と言い 彼女は青島幸男も死んだ、と言い すれ違いながら 俺たちはそれぞれに悲しんだのだ 昭和という括り方を彼女は好まない 俺はそのこだわりを理解できるが 同調しようとは思わない 阿久悠が死んだよと言って俺は悲しみ 彼女はそのこだわりを理解するが 同調する気はさらさらない 今日も朝のコーヒーはインスタントで それでもその黒っぽい液体には きちんと興奮剤が含まれている 朝になってからではもう遅いが 今日も夜がやってきて明日は朝が来る たまにはレット・バトラーの気分になってみよう 朝の平和には夜の情熱が必要さ、と ---------------------------- [自由詩]まっすぐ/佐々宝砂[2007年8月3日2時50分] ぼくはおおむね ぐるぐる車を回すネズミみたいに 生活しているが 好きでやってるわけじゃないんだ 言い訳しているんじゃない 言い訳じみてきこえるだろうけれど 昨日と違うことをやりたいんだ 昨日と違うことをやってのけたいんだ 昨日と違うことをやっちまって 後悔する羽目に陥るだろうってミエミエでもね そう きみの言うとおり 一人で帰る部屋は暗いよ 当たり前だ あかりを点けといたら電気代がもったいない 地球にも優しくない そう そう思ってぼくは 昨日の夜 あっためないでレトルトカレーを食ってみた 電子レンジのチン!はなしだ 電気代はタダだ 地球にも優しい シオラレオネの子どもの食事よりうまいと思うが 冷たいレトルトカレーと半端に温かいメシは ぼくの舌にまずかった それでもそのときぼくは一昨日と違うことをした それでひとまずぼくは満足したんだ で 今日 ぼくはまた昨日と違うことをしようって思い立った 実を言えば今日突然思い立ったわけじゃない ぼくは 待つのが嫌いだが 待たせるのも嫌いだ まっすぐに質問するから まっすぐに答えてくれ 今夜 ぼくと一緒に過ごしてくれるかい? ---------------------------- [自由詩]あいかた/佐々宝砂[2007年8月3日4時50分] ごく素直に言葉を吐こうと努めながら私は人形化してゆく 人形化してゆく身体はメタリックかつ非人間的 かというとそんなことはなく シリコーン樹脂製の肌は白く滑らかに人の肌よりも美しく私は自分の美しさに怯え溜息をつこうとするが 人形であるところの私は息も言葉も吐くことができない 暖かい息も冷たい息も そういえば私の肌は冷たい 今は夏だから私と添い寝するときっと快適だろうが 冬が来たらどうなのか あなたは私を暖めてくれるか たいていの場合女の肌は男の肌より冷たい 私の肌は女の肌よりも冷たい 私は人形なので目を見開いたまま唇は微妙に半開きのまま両足だけは大きく広げわずかに残された私の人間的な部分は賢明にいや懸命に考慮する どのようにすればあなたのファンタジーに同化するか 否 どのようにすればあなたのファンタジーをリアリスティックに再現できるか 熟慮すればするだけ私はあなたのファンタジーから遠ざかりごく素直に言葉を吐こうと努めながら私は私の人形化をあきらめる 人形化し損なった身体は汚れて動物的 かというとそんなことはなく 石鹸をシャワーで洗い落としたばかりの肌はアトピー性皮膚炎のせいでいささかざらついてはいるが比較的清潔 もちろん無菌ではないが細菌類は人間の身体を生かすためには絶対的に必要なものであり 私の大腸には大腸菌が棲み私の鼻腔にはブドウ球菌が棲み私の膣には乳酸菌が棲み だからこそ私は人間として生きるのであり と説明しようとする口腔内の連鎖球菌と説明を拒もうとする口腔内の連鎖球菌が混ぜ合わされ こうなったら意地でも人間であろうと努めながら私はあなたを人形化しようとする 人形化してゆく身体は意外なほど脆く私の下で砕け散り私は喪失したものの矮小さを今さらに慈しみ自らを砕こうとする もちろんいつものように失敗するだろう失敗するだろうと と 思いがけず私は砕け散りばらばらに砕けたあなたの上にばらばらと降り注ぐ 私たちは人形でも人間でもない断片となり破片となり各種桿菌類球菌類を棲まわせた肉片となりゆっくりと腐敗しながら朝を待つ ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]猫とたんぽぽ再び&感動に関するまとまらない考察/佐々宝砂[2007年8月7日17時54分] 先月私は「猫とたんぽぽ」と題した短い散文をここに投稿した。25ポイント入ったら消すとコメントに書いておいたところ25ポイントかっきり入ってしまったので削除した。私本人は、「猫とたんぽぽ」という私の散文を高く評価しない。書かれたことは事実ではあるが、私はウケをねらって書いたのだ。ウケをねらって書いたのだが、ウケるとなんだか気持ちが悪いのだ。削除された文書についてとやかく述べるのはよくないかもしれない。とりあえず全文を引用する。 「猫とたんぽぽ」 私はめったに泣かないのだけれど、うちのチビ猫が玄関先でたんぽぽと並んでいるのを見たとき、ただそれだけで泣いたことがある。わーんと泣くのではなくて、じわっと涙がでた。 そのころうちのチビ猫は、「うちの」チビ猫になりかけたばかりで、ほぼ野良猫だった。呼ぶとやってくるけれどかなり警戒していた(今は膝に乗るようになったし一緒に寝る)。たぶん春のことだったと思うけど、家の前の道路にチビ猫がいるのが見えたので、おいで、と言ったら、玄関先まできた。 立ち止まって、おすわりして、こっちを見上げる猫の隣にたんぽぽがあった。常日頃のチビ猫はあまりかわいげがないのだけれど、そうしてたんぽぽと並んでいるとかわいかった。こいつはたんぽぽが可愛いだなんて思わんだろーなと思った。そして自分が可愛いと思われてることも知らんだろーなと思った。そうしたら泣けてきた。なぜと問われてもわからない。 猫とたんぽぽが並んでいるとそのときのことを思い出す。うちの庭にはたんぽぽがたくさん生えている。チビ猫はうちの庭であそぶ。それを見ていても、あのときのようには泣けてこない。だからなんだと言われると困るのだけれど、なんだか書いておきたかったのだ。私のつまらない日常のなかで、ごくたまに私の心を動かしたことのひとつだから。 [作者コメント欄] CM制作者が煮詰まったとき出すのが「動物と子ども」だそうです。動物や子どもは感動を誘いやすいからです。猫でひとつ投稿してしまうとは私も煮詰まったのでしょうが、この投稿の要は「それが平凡な風景である」ということに尽きます。 ただいまの第一の疑問は「なぜこの手の話は受けるのか」ということです。また、もし感動が訓練ならば、なぜ同じたぐいの話に食傷するという現象があるのか。日常のなんでもない風景に対する感動と、おおげさでダイナミックな映画なんかに対する感動と、何がどう違うのか。 あるいはものすごく小さなイキモノ(田んぼの水に住む顕微鏡サイズのエビとか)が、生きて動いてものを食って生殖しているという単純にして複雑な科学的事実に、ふと感動する、この感動とあの感動とその感動は、いったい何が違うのか。 とにかくなんか違うとは思うのですが、うまく言えません。まだ考えがまとまっていないのだろうと思います。 *** そもそも感動ってなんやねんと辞書を引く(これもある意味安易だが、何かについてとことん考えるための初動)。 かん‐どう【感動】 [名]スル ある物事に深い感銘を受けて強く心を動かされること。「深い―を覚える」「名曲に―する」 (大辞泉) (名) スル 美しいものやすばらしいことに接して強い印象を受け、心を奪われること。 ・ 深い―を覚える ・ 名画に―する ・ ―的な場面 (大辞林) とこのふたつの定義からして解釈がすでに違っている。大辞泉の方が正しいよーな気がする。感動を誘うものは、必ずしも美しかったりすばらしかったりするとは限らないからだ。人は場合によっちゃウンコにすら感動するはずだ。そんなことないって? いや、ありうる。たとえば生まれつき肛門閉鎖の赤ちゃんがいたとしましょーね。当然手術せにゃなりません。そいで、手術の傷が癒えて、はじめてウンコが出て、そりゃ感動でしょ? より精密に言うと、ウンコ自体に感動するのではなくて、「ウンコが出る」という事実に感動するわけなのだけど、ウンコの実物をさておいて冷静に科学的に考えてみると、「ウンコが出る」というのは、すばらしいか美しいかわかんないけど「人間が生きる上で絶対に必要なこと」ではある。その絶対に必要な「ウンコが出る」ことを人は日頃深く考えなかったり忌避したりしている。で、ウンコが出ない肛門閉鎖の赤ちゃんという存在に触れて、改めて、ウンコが出るということのすごさや必要性を知る。 つーことでこれは仮に出しておく答なのだけれど、感動というのは、「普段は考えていないことを深く考えてみることの快楽」ではないかいな、と思うのでした。あーまだ書いてなかったけど、感動は快楽です。ここんとこは絶対認めてください。 *** あースポーツに感動するとか、絶景に感動するとかゆーのもあったなあ。あれは「深く考える快楽」ではない。ではあの感動をどう説明したらいいのか。 感動するほどのスポーツとゆーのは、たいてい一種の奇跡のようなものなので、その瞬間に巡り会うとそのことだけでもほんとはすごい。でも実際にスポーツ見て感動するとき、そんなことまでは考えない。目の前で起きている奇跡にびっくり感動するだけである。しかし、スポーツによりわき上がる感動つーものは、いくらかの知識を必要とする。球技のたぐいならルールを知っていなければならない。ルールがわからなければ、あるいは、たとえばホームランを打つことの困難を知らなければ、感動はできない。単純に思える高飛びや100m走だって、「人はふつうそんなに高く飛べない」「人は普通そんなに速く走れない」ということを知らなきゃ感動できない。あー。でも、もしかしたら、そんなこと知らないでも感動するかもなあ、全盛時代のブブカの棒高跳びやカール・ルイスの三段跳びは芸術だったもんなあ、あれは美しい。なんで美しいと思うんだろう。 もちろん、スポーツに適当な物語をつけてさらに感動を誘いやすくすることが可能だ。選手の親や親友が死んだとか。結婚して子どもが生まれたばかりだとか。選手自身が病気やケガから復帰して初の一勝、だとか。でもその手の感動話をよーく考えてみると、スポーツの感動に味付けをしているに過ぎないと気づくはずだ。 味付けを除外して考えてもスポーツは感動を呼ぶ。なぜか。すごいから。奇跡だから。美しいから。じゃあさあ、すごいとか美しいとか奇跡とかってなによ?(絶景に感動するのはなぜか考察してる間もなく次の疑問が・・・) *** このまま続けると話が明後日の方向に行きかねないので、ちょっと戻して猫の話。 Youtubeの猫動画というものは猫好きにはほとんど生活破壊兵器であって、見始めると止まらない。最近いちばん好きなのは「眠くて仕方ない仔猫」http://www.youtube.com/watch?v=iO-12GXgeS0なのだが、これは単に笑えるから好きなのであって感動はしてない。私以外の人も別に感動はしてないっぽい。 しかるに「*deformed kitten 保護した奇形の子猫 The kitten which I protected.」http://www.youtube.com/watch?v=wI8btrvu1kQになると中には感動してる人がいるよーだ。だけど、どうも安直な気がする、とゆーのは、感想の中に「かわいそう.....」つーのがあったからだ。この猫、奇形だとしても保護されて飼われてるんだからぜんぜん可哀相じゃないでしょーにw 可哀相な猫つーのは、虐待されてる猫や、雨の日にひもじくて死にそうになってる野良猫や、車に轢かれて死にかけたり死んだりしてる猫のことをゆーのだ。この猫は幸せなのだ。 と思ってダンナにもこの動画を見せてみた。私と同じ感想であった。この猫は全然可哀相ではない、幸せだ、と言った。Shonkoクンは奇形ではあるが、たぶんかなり猫生を楽しめる。愛されてうまいもん食ってぬくぬく寝てころころ遊べる。安易に連想することは避けたいが、人間だって、奇形であるというそのこと自体は可哀相なことではないだろう。人間は猫じゃないので「愛されてうまいもん食ってぬくぬく寝てころころ遊ぶ」だけでは足りないけれども。 一見すると可哀相な気がするものに触れると、人によっちゃ感動するらしい。私はその手のものに感動しないのでよくわからない。 *** 話が明後日どころか再来月の方向に行ったような気がするぞ。 *** もし、明日が来ないとしたら。 いや私はそんなことあり得ないと思ってる。私が死んでも、この世はとりあえず存続して、きちんと明日がくるはずだ。などと書いているのはたったいまルナスケープで「最後だとわかっていたなら」という詩の本の広告が配信されたからである。「最後だとわかっていたなら」の原文と訳文はhttp://www.futaba.ne.jp/〜a-sagawa/hug/words_if.htmlで読めるので本など買わなくてよろしい。 もし最後だとわかっていたら、私は「最後」が来ないように努力するだろう。相手が延命治療を望まないとしたら、相手の生きた証をなんとか残そうとするだろう、ビデオなんかではなく、私というフィルタを通した情報として残そうとするだろう。もちろん虚しい努力だが、こういう虚しい努力こそが人間の人間たる所以だと私は思う、キスや優しい言葉に人間の人間たる所以があるとは私にはどうしても思われない。 うちのおばあちゃん猫が明日死ぬとしたら話は別だ。このおばあちゃん猫はあくまでも動物であり、あくまでもペットだ。私が私の感情を制御する手助けとするために、あるいは私のエゴを満足させるために飼っている。死なれたら悲しいが、無理矢理に生存を存続させるのも気の毒だから延命治療はしない。このばあちゃん猫は子どもを生まなかった。生きた証を残させなかった(個体としてのおばあちゃん猫を生き延びさせるために去勢した)のは、私のエゴの結果である。人のエゴに振り回されるおばあちゃん猫は、特に悲しみもせずのほほんと窓辺に寝ている。こいつは動物なのでそれでよい。こいつが明日死ぬとわかっていたら、写真とビデオをいっぱい撮って、大好物のサバを食いたいだけ食わせて、牛乳も飲みたいだけ飲ませよう。それでOKだと思う。もともと奇形の野良猫であるところのおばあちゃん猫のDNAはユニークだが大きな価値を持たない。この猫に私が価値を見出すのは、私がこの猫に感情移入することを、自分の感情を整理するための有効な手段としているからである。私はこの猫だけに私の感情の整理を負わせてはならない。それは私個人にとってリスクが大きい。ペットはたいてい人間より早く死ぬ。 だが私のまわりの人間の誰かが死ぬとしたら、死ぬとわかっていたら、私は、どうすべきかほとんどわからない。とりあえずさっき書いたように、私は死を避けるように努力するだろう。相手の生きた証をとっておこうと努力するだろう、だが相手は猫じゃない。人間だ。ビデオに撮って優しく微笑んでキスしてOKかというと絶対そんなことはないと思うのだ。とある一個の人間が生きた証とはいったいなんなのか、何をさすのか、あなたにわかるか? DNAだけではない。むろんビデオだけでは人間の生きた証にならない。 私はいま考えている。いま現在「考える」内容は私をわずかだが変化させるだろう。そんな予感というか快感がある。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]「ラブアンドピース」に対する異議申し立て/佐々宝砂[2007年8月8日5時38分] 「ラブアンドピース」緑川ぴの http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=128847 アオザイの揺らめきはあのときのままではない。アオザイは民族衣装なので流行などないように思えるかもしれないがそんなことはない。和服にも流行があることを思い出してほしい。アオザイという民族衣装は和服以上に変化を続けている。そもそも現在のアオザイは、ベトナムがフランス領であったころにデザインの完成を見た比較的新しい民族衣装である。また、アオザイはかつて青い布で作るものだったが、現在のアオザイにはさまざまな色がある。 などという話、おそらく確かな事実ではある。しかし、非常にどうでもいい事実だ。アオザイの揺らめきがどうこうという話は、リアルにもリアリティにもあまり関わりがない。日本人の大半は、アオザイに流行があるということに関心を持たない。アオザイのデザイン確立にフランスが関わったということも知らない。だとしたら、アオザイと日本人の関わりをリアリスティックに描くために必要な言葉は、「アオザイの揺らめきはあのときのまま」という、事実とは異なる言葉になるのだ。小田実を「おだみのる」と読むという話にも「アオザイの揺らめきはあのときのまま」と似たようなリアリティがある。私も高校生のときは小田実を「おだみのる」と読んでいた。私もアホな女の一人だということを、認めたくはないが、認めておこう。 私は「ラブアンドピース」というスローガンより「戦争よりセックスを!」というスローガンの方が好きだ。ラブアンドピースの権化みたいに思われているジョン・レノンは、オノ・ヨーコとのベッドインで「戦争よりセックスを!」と主張した。しかし「戦争よりセックスを!」というスローガンはいささか過激であって、耳障りがよくない。ラブアンドピースというスローガンの持つ落ち着いた甘さがない。だから今では「戦争よりセックスを!」というスローガンは流行らない。もしかしたらそんなものがあったことさえ忘れられている。ラブアンドピースの甘さは日本人の甘さにちょうどいい。カタカナで書かれてまるで一つの単語のように溶け合ったラブアンドピースの前にあって、あくまでもカギカッコをつけないと収まりの悪い「戦争よりセックスを!」は完敗だ。それは認めよう。 ヴァンヘイレンとベ平連のお笑いも認めよう。なかなか洒落ている。このまぬけっぷりにはほとんどリアリティがない。いっくらアホな女でもヴァンヘイレンとベ平連を間違うことはあるまい。ヴァンヘイレンを知ってる程度の知能があれば、ベ平連を知っているだろう。というか、この詩の話者は「ベトナムに平和を!」の時代を知っているわけで、だとしたらなおのことヴァンヘイレンとベ平連を間違うことはないと思われる。他の部分ではかなりリアリティを見せつける作者が、この連においてはずいぶんと不用意にバカバカしい光景を描いている。あんまり女をバカにしないでほしい。とはいえ面白いのは確かだから、まあ、百歩譲って認めよう。ヴァンヘイレンとベ平連をひっかけるとは、私にはとても思いつけないような高度な地口だ。 私は認めよう。「片思いの彼女に宛てたラブレター」も「めっきりと薄くなった髪の毛」も「あの頃のギター」も認めよう。小田実という希有な人物の死を詩に利用したことも認めよう。私にはひどくバカげたプロトタイプに思われる詩の話者のキャラクターも認めよう。彼女はおそらく現実には存在しないのだが、現実の女以上のリアリティを持つ。リアルではないからこそリアリティを持つ。男性に生まれながら女性として生きようとする人物が、しばしば本物の女性よりも女性らしさを発揮するように、非現実の人物に過ぎない彼女は、本物の女性よりも本物らしく見える幻の女性として読者の前に立ち現れる。このような人物を造形し表現することは、それがいかに典型であったとしても、いや、あるいはそれが典型であるがゆえに、なかなか困難なことだ。だから、私は、この詩が不出来な詩ではない事を認めよう。いやもっときちんと認めよう、この詩はなかなか出来がいい。うまくつくられている。 私は認めよう。 だが。 >ラブアンドピース >愛と平和 > >ひとびとがそれらを望み続けるのは >永遠に手に入らぬものだと認めたくないから これは、もっともらしく耳に響くが、嘘だ。愛と平和は刹那であれば人の手に入る。もちろん愛と平和は永遠には続かない。しかし永遠に続くものなどあるのか。有限な生命しか持たぬ人間が、永遠などという言葉をこのような場面でさらりと使ってしまっていいのか。さらに言おう。有限な生命しか持たぬわれわれは、有限な愛と平和で満足すべきではないのか。人は誰しも、ごく小さな、時間的にも空間的にも限られた世界でなら、愛と平和を手に入れることができる。どんなつまらない人間も愛するものをひとつくらいは持っている。愛の対象は人でなくともよい。昔の写真、拾ったビー玉、飼猫、四角く切り取られた青い空。ささやかな世界で人は一瞬の平和を持つことができる。われわれのささやかな努力は、その有限な愛と平和をほんのわずか広げる。ほんのわずかだが、それは時間と空間に対する小さな小さな勝利であり、私はその勝利を認めたい。 だから私は、「ラブアンドピース」という詩を認めない。 ---------------------------- [短歌]彫り上げろ!/佐々宝砂[2007年8月12日22時34分] 書くことがないと書くなよ書き方がわからんのだと認めなさいよ 手癖足癖なくて七癖悪い癖癖毛と巻毛は違うよキミィ 掘り下げる気なんかないね彫り上げるつもりはあるよゲージュツ家だもん 語るなかれ!ただひたすらに彫り上げろ!ただ仰向いて歌い上げろ! わたくしに裏も表もないのです裏を読むのは読者だけです ふくらみを重みを嫌悪するわたし軽く浅く薄く舞い上がれさあ 風景よ風よ私を彫刻せよ読者よ君よ私を刻めよ 何を書いてもかまわないどのように書いても無駄ね流れてゆくよ ---------------------------- [短歌]迎え火送り火/佐々宝砂[2007年8月12日22時55分] 怪談をひとつも話すことなくて盆を迎える死者はいづこに 迎え火も送り火もなき軒先にちいさくあかく煙草の明かり 花火消えて火薬の匂ひ漂へるここは戦場明日は戦場 左手をなくさなかった砲兵が放たなかった銀の弾丸 銀輪のかがやく昨日過ぎゆきて赤くさびたる銀輪沈む 怪談は胸に秘め置き面白き話のみして送り火を焚く ---------------------------- [自由詩]こいうた/佐々宝砂[2007年8月25日1時54分] なるようになるさと笑うあなたの ぶよぶよと肥大した自我が ゆっくりとわたしの肝臓を潰しにかかる あなたの肺は紙でできているから 煙草を吸って黒くなったら交換すればいい でもわたしの肝臓は わたしはまだ知らないけどあなたは知ってる わたしには肝臓なんか要らないってことを わたしの身体のすべては空虚で わたしはその空虚に巣くうひとつの意味だってことを あなたは知らずにみえて知っていて だからあなたは ぶよぶよと肥大したその自我で わたしの肝臓を潰しにかかる *** わたしにくれ 殺戮を 消去を 削除を 死を 今日のわたしのなかに残る 昨日のわたしを抹殺してくれ あなたを求めているのは昨日のわたし わたしを苦しめているのは昨日のわたし だから昨日のわたしを抹殺してくれ そうしたら今日のわたしは一人で立って 一人で去ってゆく 昨日のわたしと今日のわたしは 冷めたコーヒーとアイスコーヒーよりも ずっと大きく隔たっていて だのに同じひとつの袋に入っている *** 必要なんだとわかっているけれど 手に入らないものは入らない 黄砂で汚れた黒いコルベット フィルター近くまで吸ったシガレット あなたはわたしのものにならない いっときあなたを手に入れることはできる それはわかってる あなたはわたしを手に入れたがってる それもわかってる だからだけどだから わたしはあなたのものにならない 苦し紛れのジョーク ぬるくなったコーク 愛するだけならかんたんなこと 優しくするのもかんたんなこと 泣いたり甘えたりするのはもっともっとかんたんなこと だけどだからだけど 必要なものはいつだって手に入らない 聞き飽きた20年前のロック しょぼくれたあなたのコック わたしはきわめて意地悪だから さよならを爪先で蹴飛ばして立ち上がる *** ひとつの星が わたしの膝に落ちるときのために (そのときはまだ来ないけれど) 庭の薔薇を育てておこう 白い薔薇を あっさりと白い 一重の野薔薇を ひとすじの風が わたしの頬をかすめるときのために (そのときはまだ来ないけれど) 窓を開けておこう 夜空はぼんやりと花曇り 花なら桜とひとはいうけれど はらり ひそり 一重の薔薇は静かにちる しりとりの詩スレより ---------------------------- [自由詩]Kick-off/佐々宝砂[2007年9月2日5時37分] 鏡像のフィールドに投げ込まれるボールは 一つではないマルチボール形式だからボールボーイたちに 厳しく言っておかねばならない明日から ブラジルへの旅がはじまるのだから船便に 預けたまま忘れた荷物をすべてボールボーイたちに 返却してもらおう可愛いボールボーイたちは いつだって記憶力に欠けているし注意力も あまりないらしいでも 夜があけるとき呼び出さなくちゃならないのは 監督でも選手でも審判でもサポーターでもないボールボーイたち さあ試合がはじまるもしかしたら再開するのかも どっちかしれないがそんなことはどっちでもいい さあフィールドにボールを投げ込めたくさんの 愛以外のなんやかやをこめて投げ込め今すぐに ブラジルに向けて船が出発するのだから 監督でも選手でも審判でもサポーターでもないボールボーイたち キックオフに必要なのは君たち ---------------------------- [自由詩]おおきな手と長い腕/佐々宝砂[2007年9月2日5時45分] 彼は待っている、 おおきな手と長い腕をひろげて、 彼は待っている。 彼はひとつの特権を持っている、 おおきな手と長い腕をひろげて、 彼は特権を行使する。 しかしその特権をどんなに行使しても、 悲しむべき事態を防げないことはあるのだ。 彼はときに抗議したくなる、 不甲斐ないディフェンス陣に、 文句のひとつも言いたくなる、 それでも彼は、 再びおおきな手と長い腕をひろげる、 抗議のためにではなく、 攻撃のためにではなく、 ボールの行方を絶えずうかがいながら、 守るべき聖地にすっくと立つ。 (過去作、2002年のオリバー・カーンに捧ぐ) ---------------------------- [自由詩]Arisaema serratum/佐々宝砂[2007年9月4日3時01分] 美しい毒の娘は嘆息する。 夢想のうちに語られた毒の娘は、 夢想なのであるから、 ありえぬほどに美しい。 毒の娘が生まれ育った園も美しい、 毒の花園に咲き誇る、 白い鈴を垂らすPieris japonica, Convallaria majalis, 華やかな黄色はCytisus scoparius, 白にピンクに咲き揃うNerium indicum, 毒の天使のトランペットはDatura metel, そしてすばらしい赤紫のDigitalis purpurea, けれど毒の娘がとりわけ愛するのは、 ごくごく地味な花だ。 その茎は蛇の鱗に似たまだらの紋様、 その葉は濃緑、 毒々しい黒紫の縦縞の花は、 鎌首をもたげる蛇のかたちに開いて、 その地獄に虫が堕ちるのを待っている、 おのれの栄養にするためにではなく、 ただおのれの受粉のために、 この花は虫を殺す、 そして毒の娘はこの花を愛して口づけする、 Arisaema serratum と呼ばれるこの花に。 毒の娘は再び嘆息する、 この世にもあの世にも毒など存在しないのだと、 ただ物質が存在するだけなのだと、 それら物質が、 人間にさまざまな作用をもたらすだけなのだと、 毒の娘は知っている、 夢想のうちに語られた毒の娘は知っている、 毒の娘である自分は、 本当のところ、 毒の娘ではない、 娘ですらない、 子をなすことはもちろん、 恋しい人に口づけすることもかなわず、 存在することすらなく、 毒の娘は嘆息する。 存在すらしない、 夢想のうちに語られた毒の娘は、 おのれが生まれ育ったと語られる毒の花園で、 子をなすために虫を殺すArisaema serratum に口づけて、 静かに消えてひととき休む、 またどこかの孤独な男が、 毒の花園に住まう毒の娘を夢想するそのときまで。 ---------------------------- [自由詩]創書日和。淡 【てのひら】/佐々宝砂[2007年9月28日4時58分] 彼には両脚がないのだけれど 戦場に行ったからではない 戦場に行ったジョニーの内面 彼とは違うジョニーの内面に わたしとて 全く興味がない というわけではないが そういうゲージツ的かつシャカイ的なことは わりとどうでもよかったりするのだ わたしの淡い絶望は わたしの両脚が揃っていること わたしの淡い悲しみは わたしの欠損が目に見えないこと わたしの淡い希望は わたしのすべてがいずれ喪われるであろうこと わたしの淡いあこがれは 両のてのひらを地面に下ろして 見せ物小屋のどまんなか 華やかにライトを浴びて 賑やかに喝采を浴びて 一本の脚もないくせに ひょこひょこと歩いてゆく 歩くための道具であり 描くための道具であり 手品を披露するための道具であり もちろん握手するための道具である あのてのひらに頬を寄せたいと思うのは わたしの 淡い あくまでも淡い夢想である (For Johnny Eck) ---------------------------- [自由詩]Sweet Genes/佐々宝砂[2007年9月28日5時23分] 世界中の誰も知らない理由で あなたの小脳は壊れてゆくらしい あなたの父親がそうだった あなたの子どももそうなんだろう 昨日わたしは清涼飲料水の検品をして 二万本に一本の割合で出るという 比較的珍しい不良品を発見した 十万人に数人だという あなたの病の発病率と同じ割合だ まあ そんなこと 比較したってしょうがない話 世の中にはわからないままのことが多すぎて 知られていないままのことが多すぎて 本来は透明であるはずの清涼飲料水が 二万本に一本だけ白濁する その比較的まれな不良品の味もわたしは知らないけれど 知っていることもある あなたのは甘いのだ とてつもなく ---------------------------- [自由詩]信仰告白/佐々宝砂[2007年10月6日22時50分] 与り知らぬ夢とやらについては唄うまい また妄りに愛についても語るまい 汚穢のゆきつくところは清浄な海であり 死の向こうにはただ清々しい虚無がある だから私は信じないし だから私は信じる 天にいます我等が父よ 御名はどこかで崇められる 御国はどこかで栄える 日々の糧は今日も与えられ 私は許し許される しかし天にいます我等が父よ 私に試練を与え給え 試練を望むこと それだけが私の罪  *** とりあえず退屈なのよね 誰か驚かしてくれない ありきたりな快楽はつまんないし (快楽って言葉自体凡庸だな) 出たとことひっこんだとこの話もたくさん 飽きちゃった ねえ あたしは飛びたいのさ 酩酊も陶酔もあたしを飛ばせないから あたしはちょいと神様にお願いしてみたのさ ほらほらほら 淫猥なマリアさまが アンの豊かな膝のうえで 放埒な息子を胸に抱いてる でもとりあえず退屈なのよね 新しいことを言ってちょうだい 誰もしたことないことしてちょうだい 交わりなんて所詮は機械運動じゃないの 一度じゃ足りない 二度じゃたくさん ああああ なんて退屈!  *** うーむ、結局あのひとに頼るほかないのだな、 してみると私が書き散らしたこの断片は何なのだ、 何の役にも立たないアホな切れっぱしか? だが私は凡庸を怖れる。神よりも悪魔よりも。    闇を知るためには光を見なくてはならぬ。    どちらを好きかということはさておいて。 ところがあのひとは光の側にいるのだ、地獄堕ちの癖に。 しこうして私の目は光に向かざるを得ないんだが、 眩しくてかなわんのだ、サングラスが必要だ。 後光はもののかたちを歪める。私は歪みを愛する。    悦楽の園には新鮮な露滴る苺が実る、    どっこい私は苺アレルギーだ。 うーむ、やはりあのひとがいないことにはどうにもならん。 誰か扉を開けようって気概のあるやつはいねえのか、 泥まみれの顔を上げて私は吠える、破れた服を脱ぎ去って。 単純な歓びは単純なひとびとに残しておく。    さらば。 2001.04.24 ---------------------------- [短歌]4×5 短歌篇/佐々宝砂[2007年10月18日22時03分] 1) そのあとは 熱きシャワーを顔に受く 髪にまつはる潮の匂ひよ  (折角の日曜を磯釣で潰すなんてあのバカ男!許さない!) 2) いざゆけよ バージェス頁岩(けつがん)動物群 濁れる海をかき乱せ今  (所詮化石よねえ、何がいまどきアヴァンギャルドよ?) 3) 廃工場有毒廃液廃棄物 地下に潜める種子 みな病めり  (そーよそーよ詩人なんてみな病人よ。廃液飲んで生きているのよ♪) 4) かのひとのことのはを抱き 曇天の港を往けば サイレンの音  (「ことのは」って、あんた、単なるEメールじゃないさ) 5) 韜晦(とうかい)の 小島の磯のパロディスト 呵々(か か )と笑ひて歌とたはむる  (私は東海の人、もしかしたら韜晦の人?) 2003.12.28の旧作/定型短歌におまけがついてますが、それも合わせて作品とみて下さいませ。なお類似品に「4×5 俳句篇」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=10808があります。 ---------------------------- [自由詩]創書日和。酒 【ねえマスター?】/佐々宝砂[2007年10月26日6時48分] ボトル開けてください マスターは無口で気楽 狭い店内は薄暗く 窓の外にだけ鮮やかな色彩 まだ呑めるまだ夜は浅い 高い酒を黙って呑む愉楽 突き出しの菜はほどほどに辛く 心の中でだけ送る喝采 控えめにジャズがながれる 少しだけ気になる時計の針 夜は必ず明けてしまうから ねえマスター今夜一緒にいてくれる? 誘いかけたいのだけどやはり 黙ったままグラスはから ---------------------------- [自由詩]片々しいやつ/佐々宝砂[2007年11月2日23時02分] おれ、カサかぶってんの嫌いなんだな。 馬鹿に見えるからな。 どーせ馬鹿だけどな。 ほんでもここで休むときはカサを外すよ。 外すとイッポンダタラと見分けがつかん、って? ああ、おれの方が馬鹿だから見分けがつくら。 一つ目の一つ足ってのは同じだけん。 キュクロプスのやつはさあ、 ホメロスにさんざっぱらないことないこと書かれたけん、 あんでも神様だし、 天目一箇神サンときたらよお、 いまだにお伊勢サンの別宮で祀られてる神様じゃん。 それにくらべたらおれってなんだら。 付喪神だらって? うんそういうセンセーもいるよ。 イッポンダタラの親類だの、 天目一箇神サンが落ちぶれた姿だの、 男根だの、 蛇神だの、 龍神だの、 いろんなセンセーがたがいろいろ言ってくれてら。 ふんでもおれにはわかりゃせん。 おれは馬鹿だって話だ。 カサとっぱらうと、 ふんとにイッポンダタラと変わりゃーしん。 ま、カサかぶっても、カサとっぱらっても、 馬鹿な頭は治りゃしんわ。 おれの言うこんが変だって? おりゃどーせカラカサ小僧さ。 おれの言うこんなんか出鱈目さ。 カサかぶっても、カサとっぱらっても、 おつむの足りないカラッカサさ。 ---------------------------- (ファイルの終わり)