m.qyi 2010年5月5日16時48分から2012年6月24日18時56分まで ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]下駄ばきにミニシガー/m.qyi[2010年5月5日16時48分] 下駄ばきにミニシガー 二階屋で蝶を飼うよなおとこなり というのがあった。僕はこれがとても好きだった。たいへん呆けていて、悲しかった。馬鹿な青年の目に青空と流れて行く白い雲が見えるような気がしたから。僕の想像の中ではどう見ても悲しいお話の場面のワンショットだった。そしてこの人はもう死んでいたと、そういう話だった。想像の中の蝶々はどうやってもクローズアップされなかった、衾を取り払った吹き抜きの畳の広間の薄暗い中右から左へ瑠璃の菫がひらひら落ちるようにすっと横一文字に飛んでいる胡蝶だった。そこを着物姿の男がふらふらと鬼ごっこのように後を追い、蝶は欄干を抜け空の彼方にゆっくりと登って行きそれを男が涎を垂らしているかどうかは知らぬがぼうっと見送るというようなワンショットだった。 そのような解説は実はコジツケなのかもしれない。この句(べつに何とよんでもいいが、詩)を読んだときに思い浮かんだのは呆けた青年の目に浮かぶ空だった。そいつから演繹するとどうもこんな話になるらしいという虚事(そらごと)なんだろう。しかし、時間的には故事をつける方が矛盾する。過去に遡って行くから。どうしてだろう。 最初は、「二階屋で」という今ではあまり見られない(?かはどうかはしらない)建築様式がそんな雰囲気を醸しだしているんだろうと思った。そういうものが着流し姿などをイメージさせるのだろうと。ところが、 「二階屋で蝶を飼うよなおとこです」 というと全然ピンとこない。これはこれで面白いのだが、お話が全然違う。自転車でいい年越えた兄さん(サラリーマンでもいい)が帰ってきて、玄関をあがるとトントンと二階まで駆け上がり、息を切らしながら蝶の入った採収ボックスを眺めて、ほっと息をついてにこにこしている、そんな御話だ。映画で言えば、タイトル前の走り出しの一コマという感じがする。 自分で勝手にお話をつくって、それを眺めて、その感じがするというのは、想像のその中の想像の感じとくるわけだから僕は妙な人間だ。でも、そんな感じがする。 「二階屋で蝶を飼うよなおとこだった。」とすると語感としてはあまりよくないのだが、最初の想像に近い感じがでてくる(いつも感じですまないけれど)。その感じが正しいとすると(感じが正しいかどうかどうやったら判るんだろう?そもそもそんな感じが本当に在ったんだろうか?)、僕がこの詩が好きな感じがするという感じには、「二階屋」、「蝶」、「飼う」、「おとこ」なんてのは全て道具立てではあるが、役者(=詩のよさ)じゃない。「なり」一つがイメージの流れを決定していることになる。僕の感じでは、「です」の時は時間が始まって行くのに、「なり」の場合は、時間が過去から始まって来るというより、今の時間と隔たりがあるというより、断絶さえある。(と書いてみて、ああ、なるほど死んでしまったおとこなんだろうと気付いた。)ところが、この「なり」は過去じゃない。 こういう違和感が手伝って辞書を引くことになる。つらつら辞書をみるに僕の解釈では断定ではなく伝聞ということになる。 「二階屋で蝶を飼うよなおとこである/だったそうだ」 「そうだ」を「と言われている」というように置き換えられるなら複文構造になり話法になるから僕の知っている言語としては話はこじれる。古典日本語を僕は理解していないので識者の方に教えを請うしかない。ひとまずそう思っておこう。 ほう、「なり」にはこんな伝聞の意味もあるのだろうと驚いた。驚いたのは「なり」に驚いたんじゃない、「自分」にだ。 二階屋で蝶を飼うよなおとこなり 二階屋で蝶を飼うよなおとこです 二階屋で蝶を飼うよなおとこだった と三つ並べて、これがなんか違うと思う人があれば僕は割に普通だと思う。そうだとすると、このなんか違うなあという感じを僕は「なり」に持っていて、それは伝聞と説明される感じだということになる。うまく説明はできないけれど、かなり微妙な感じの違いが解って使える言葉の範疇に入る。僕はそういう言葉は現代語なんじゃないかと思う。そんなのは分類上というよりも政治政策上の問題で興味がないが、もう日本に人生の半分以上もおらず、読み物といい、日本の古典などよりも外国語の方が多いだろうと思うこんな自分もこんな語感があるのかと驚いた。それで僕は下駄ばきにミニシガーなんぞ咥えてんだなと。 早速、孤蓬さんからコメントをいただいた。 >二階屋で蝶を飼うよなおとこなり >「なり」一つがイメージの流れを決定していることになる。 >つらつら辞書をみるに僕の解釈では断定ではなく伝聞ということになる。 残念ながら、文法上、この「なり」は伝聞ではなく断定です。 伝聞の「なり」は、活用語の終止形に接続し、それ以外の活用形や体言に接続することはありません。 一方、体言や活用語の連体形に接続するのは、断定の「なり」です。 この句の場合、「なり」は、「おとこ」という名詞、つまり体言に接続しているので、断定の「なり」ということになります。 伝聞「なり」と断定「なり」の用例としてよく引用されるのが、紀貫之の土左日記における次のフレーズ。 >をとこもすなる日記といふものをゝむなもしてみむとてするなり 冒頭の「をとこもすなる」の「なる」は伝聞「なり」の連体形、末尾の「するなり」の「なり」 は断定「なり」です。 「すなる」の「す」はサ変動詞「す」の【終止形】で「するという」という伝聞の意味、「するなり」の「する」は同じサ変動詞「す」の【連体形】で「するのです」という断定の意味です。 ご参考になれば幸いです。 失礼しました。 非常に参考になりました。どうもありがとうございます。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]方丈記/m.qyi[2010年5月5日16時49分] 方丈記 昨夜、方丈記というのを読み、なかなか感慨深いものがあった。僕は情緒的に奥の深いものが嫌いで、理知的なでっかいパイプオルガンみたいなものが好きなだけにこれは趣味ではないとう先入観があってなんとなくとっかかれなかった。 それからちょっと前に、折口が隠者は女房の代替えというような話を読み、なるほどなあと思ったけれども筆の運びとしては美しいとは思えなかった。これは僕の趣味が半分、無知が半分の無見識なので、ただ好きじゃなかったということだ。ただ、内容については頷かされて、兼好などはそんな感じがするなあと思う。ちんぴらを人の理想とする僕としては兼好はスマートな人で話も僕に言わせれば軽薄だ。これも、これは僕の悪趣味と無知が故のことだ。そんなちんぴらの僕だからとっかかれなかったということもある。 方丈記を実際に読んでみると筆の運びに力があり読まされてしまう。一気呵成にと神田(秀夫)の解説にあるが、もしそうだとすれば書く前の思念には強いものがある。構成としてはきちんとしている。戦争に触れないというところ、これは考慮に値する。書名からして住まいにこだわるところは上記の僕の先入観もあながち事実の一つの側面を見ていることになるかもしれない。大福光寺本という古本が長明直筆だろうと神田が言うが、考証する力を持たない僕が言うことは何もないが、その筆致を見るとなるほど唸らされるものがある。僕はそういう学者が持っている情熱というものが大好きである。理知的な構築も世紀の大発見も大切であろうけれど、音を鳴らす千本のパイプのオルガンのブーブーは神様だと思うのだ。そういう楽器を弾く人がいる。 さて、そういうちんぴらのぶった話は耳が腐るので、分相応に話せば、読んでいたとき、ある下りに思い当りがあった。その思い当りというのは、 鴨よ:芸はこれつたなけれども人のみみ転ばしめむや鴨の水掻き とかというのだ。転ぶというのがおもしろいなとは思ったけれど何てこたあねえだろう。石原大介という人だが、高卒か高校中退のお兄ちゃんだった。こういう不遜な言い方をする奴を世間は憎むだろう。僕は、別にそれでいい。このようにこの兄さんに不遜な態度の僕だが、じつは、このパクリ、パくった場所がいい。有名な書き出しでもなく、騒がしい天災でもなく、転調してぐっと情感が溢れてくる方丈の終わり、琵琶の秘曲、流泉が水の音に操られるという箇所で、おいおい、パンクがキミのなんのさって箇所だ。昨日の晩になって馬鹿にして読んだものに馬鹿にされて感動している僕の方がどれだけ何てこたあねえだろう。人間生まれたからには100円ライタ―のおあ兄ちゃんでありたいと思う。 昨晩読書中ふと思い出したこの人はもう逝ってしまった。 一人だけ切符の買えぬアホがいてカスタネットで病にロック 何てこたあねえけれど、これを見たときにはずいぶん泣いた。別に先立たれたれたからというわけじゃない。このくだらない文言には今でも泣ける。僕をスズメと同じにしてくれるな。会ったこともない。100円ライタ―がきらりと光る。 ---------------------------- [俳句]ライフル/m.qyi[2010年5月29日10時17分] どれみふぁそら撃つ猟師かな 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---------------------------- [俳句]窓辺より/m.qyi[2011年9月21日21時43分] あおいコーヒーミルが回す秋 ---------------------------- [俳句]テラスから/m.qyi[2011年9月23日8時06分] Dans des lumiéres de l'ancien Bordeaux tout le monde marche comme la mort. ボルドーの光は古く死が歩く ---------------------------- [俳句]地中海/m.qyi[2011年10月1日10時30分] 割れるほど冷たい色の地中海 M?diterran?e : sous le ciel degag? il gr?le sur la mer bleue ---------------------------- [俳句]気球/m.qyi[2011年10月1日10時46分] 気球:話は飛んで空には気球 ---------------------------- [自由詩]パウルス・ポッター/m.qyi[2011年11月4日16時59分] パウルス・ポッター 四百年の向こうから牛がしばらく自分を見つめていた 牧草が広がり、緑色から水色に薄い空気が融けていく低い彼方の地平線に建物の塔が棘のように刺さっている 遠く平地から此処まで、そんなに静かに見つめられても私も困る。 私も見つめているのだから。 あちらには牛、こちらには私が在るが間の距離が外に在るので牛も私もない。 牛も私も区別なく在るその牛に距離なく見つめられ 私の姿があなたの瞳の輝きに大きく映っている。青い光といっしょに。 あなたは私の瞳には入りきれない大きな牛だ。瞳に写った木陰から鳥の囀りが聞こえる。 その場所からこの場所まで一続きにつながっている。 あなたが牛であるように私は滑り台のように長い舞台の俳優として立っている。舞台は、変えられないがあなたの処まで行けば牧草であり、あなたは振り向きもせず草を食むがその先は教会の塔が見える町の先の地平線だ。それは私事とは言えない。  私のことであるというのなら、あなたの、少なくともあなたの時代のことでもあるだろう。   あなたは、それに対して何をしたのか?何もしなかった!(失敬、正直に仕えただけだった。若死にだった。)    だから、それは私の私事とは言えないと言うのだ。 ここで私は舞台に立っている。台詞は、変えられない。が、それだけの事でもある。少しの差もなくそれがそれだけであることでも。仮に、台詞を書けるとして、何を書くのだろう。書かないこともできるのか。無益な詮索だ。太陽の軌道は意志に関係が無く引かれている。私がつかめない「私」が創り出したと言うのに。 あなたが草を食むように創られたように、私は例え創られていなかったにせよ台詞を吐くようにここに置かれた。 私の意志とは言いがたく、勝手に、ここに置かれた。 何度も考え込んだことなのだが、あなたは、牛ではないのじゃないのか。 神の使いということはあるかもしれないが、しかし、あなたはよもや神でもないだろう。 あなたは、謂わばミノタウロス、人であろう。そして、わたしも。語れば、いつも半分だけ在る。 だから、私たちはそのように在る。そして、それが私たち二人に見える神の影だ。だから、あなたはそんな風に寸分違わず牛だ。但し、寸分違わずあなたである私は草は食わない。 在り続けるかは知らぬが、あなたがそこに休んだそのずっと以前から、少なくとも今まではそうだったのである。 だから、解り合えるのだ。これが、保証書なのだ。 だからあなたは草を食み、わたしは台詞を話す。 さて、あなたはそのように高貴な魂を宿しているように、どうやら私にも些細な魂が宿り、 あなたは、そのように描かれた。 だから、私はこのように話したいと思うのだ:  同じ草であるように、同じ台詞を、あなたが牛として食むように、話すにしても、  あなたが、あのようにでもこのようにでもなく、つまり、そのように、ありのままに、嘘なく、虚飾なく、正確に描かれたように  同じように、誠実に、台詞を吐きたい。全く同じ台詞を、しかし、愚直に。  白状すれば、それ以外の動き方を知らない。 在る事から逃げているとは私には思えない。あなたを見ている、そして、あなたに見られている私は忘却に浸ってなどいない。だから、私は台詞は変えずにあなたとこのように話すのである。台詞はどうもそのように書かれるもののようなのだ。書かれる一行が一字消える毎に話す一字が一行に書かれて物になるのだ。あなたが牛から絵になったように。私は絵の具の膠にも劣る物になっていくものだ。流れの中で意志ある物と意志失う物として見詰め合っている物。克服などいらない。できない。 ---------------------------- [自由詩]ぺトルウス・パウルス・ルーベンス/m.qyi[2011年11月13日22時54分] ぺトルウス・パウルス・ルーベンス あなたは偉大な企業家で 美食家で信心篤く 明晰な頭脳の持ち主で そして美しい奥さんと、可愛い子供がいた そんなことはどうでもいいんです。 色彩と動きと線のシンフォニーをかき鳴らした 光と闇のドラマを大画面に映写した 世界中に名を馳せた そんなことはどうでもいいんです。 あなたが自分の手で描いた 手のひらほどのあの空の 遠くの風車小屋のはるか向こうに沈んでゆく 赤い夕日の ほんのかすかに見える 葦の水辺の 爪の先ほどの小さな切り株に 休ませてはいただけないだろうか ほんの少しの時間でいい あそこへ 腰をかけてはいけないだろうか そして、 夕日が沈む そのほんの短かな時間だけ 静かに 一人泣かせてはもらえないだろうか。 ---------------------------- [自由詩]カール・スピッツベルグ/m.qyi[2011年11月16日22時51分] カール・スピッツベルグ あの風景をいろいろなところで見た。ふと、見ればいつも、同じだから。 しばらく行けば、大きな崖の上にでる... 暗い時も、明るい時もあるけれど、底無しの深淵のときも、遥かな緑の田園のうねりであるときも、オレンジの夕日に爛れたかなたであるときもあるけれど、眼下は見渡す限りの空間なのだ。 そして、いつも静かな空なんだ。 そして、いつも昔の空なんだ。 すぐ目の前を大きな帆船が一艘、ゆっくり通り過ぎていく。巨大なマストの白い帆が重たい風をはらんで。はためく、何百もの白い補助帆。手が届きそうだよ。 過ぎ去れば、いつも静かな空なんだ。 そして、いつも昔の空なんだ。 ぼくが、まだ生きていたあの時代の―。 ---------------------------- [自由詩]ソーニャ・テエルク・ドウルネイ/m.qyi[2011年11月23日20時16分] ソーニャ・テエルク・ドウルネイ あなたは回りますね 色とりどりに 撥ねますよね 色それぞれに 心のテクネー おもちゃの科学 空間を飛んで 失われた時を求めて ステップを踏まずに 広がり だから満ちて 縮んで結んで開いて反射して 今どちらにいらっしゃいますか? 乱反射して 通り過ぎる車のミラーに お元気でいらっしゃいますか? あそこの交差点の赤いランプの中? 悩み続けたすえのすえ 角の取れた光を頂戴いたしましたこと やっとしつこい額縁男と別れました折 自由に光る一つの喜びとして ハンドバックのデザインの 無理想として または、不可構成の屈折として 一言、発色申したく、 ご挨拶申し上げます。 ---------------------------- [自由詩]ジュリオ・ゴンザレス/m.qyi[2011年11月25日20時30分] ジュリオ・ゴンザレス 金槌と鑢と金床のある 小さなアトリエで エプロンを着け 殴りつけ 削って 溶接する ジリジリ、ぴかぴかとちょっと不気味な仕事場で トンテンカン、トンテンカン とても楽しい音がする 空間と動きの音 トコテンカン、トコテンカン 愛の音、憎しみの音、不安の音 溶加剤にでも誤って潜り込んだものか ジリジリ、ぴかぴかとちょっと不気味な仕事場で コチコチに固まった 心も無い鉄片たちが 流れるように髪を梳く 誇り高く馬に跨り進む 鉄の娘が軽やかに踊る ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]生/m.qyi[2011年12月2日15時08分] 生  「どれもすべてたったひとつの生」というhorouさんの散文を読んだ。この人の書き方は、散文と詩の差が非常に少ないように僕には感じられる。その意味では僕は詩として読ませて頂いたと言ってもいいかもしれない。その(横書きで言うのも何だが)くだりに、「生命の尊さを本気で語るなら、無為に死んで見せるのが一番だ、そう思う。街路に散乱した投身自殺死体がそこに立ち止まるものに思わせるもののことを考えて みればいい。そこには最も自覚的な生というやつがあるだろう。長く息を吐いてみる。身体の中が空になるくらい、執拗に、長く。そうすると、ほんの一瞬だけ 生身の肉体は死体の気分になる。デス。」とあった。  言葉の端端からその手の言葉が出てい来るのでその手の話だということは僕にも分かる。「人間らしさというプログラムに踊らされる機械になどなりたくはない。」人間と言うのは、椅子なんかとは違うんだなんてお話を僕も聞いたことがある。こんな倫理的なお話をするhorouさんが「倫理や常識、理性や道義だけでは測りきれないものが人間の本質さ。」なんて言って、面白い。ここでいう理性というのは、ロマン派のとは違う、経世で謂う所の利益計算が出来る合理的なロールプレヤー、俗に言う消費者、コンビニに通う僕らの事なんだろう。コンビニなんてこのお話にぴったりの言葉だ。  僕はこんな話を昔は毛嫌いした方だった。こんな話し様は人間を一つの言葉でくくってしまい、悟ってしまうから。所謂る、クールなニヒリストで、半ズボン穿いた僕には似合わない。悟ってしまうというのは、実は、「愛がない」人でなしだと僕は思ったんだと思う。  この逆に「倫理や常識、理性や道義」と言われたものはhorouさんの言葉よりもう少し違った性質を持っている(ご当人も知った上で使っていらっしゃるのかもしれないが)。生成しないでもないが、ちょっと保存が利く面があり、大きく言えば社会・文化のことだ。例えば、言葉もその内に入る。実は「愛」なんていうのも多分に文化的なものだ。愛の本質は一人でないことだから。1+1=2+αというのが愛の計算方法で、子供が生まれるとか生産性が上がるとか言うこともできるが、経世で謂う所の利益計算が出来る合理的なロールプレヤーで「測りきれないもの」がαで、実は「測りきれないもの=人間の本質さが倫理や常識、理性や道義なのさ。」というのも兄弟仁義、ラブ・ストーリーだ。でも、それがヤクザ映画であり、不倫であり、平和を求める戦争であったりするのが世の常だから、こんなことをのうのうと言うのは偽善者に違いなく、悪い奴が多い。でも、「愛」というものがニヒリストの側よりもパシィフィストの側により近くある、ニヒリストの側にあるように誤解している人がいると僕は思うのである。しかし、僕はその「愛」を飲み込めるほど、心が強くはない。僕がしたいのはちょこっと旦那さんに黙って奥さんとエッチしたいなあ、洗濯物干すお手伝いしたいなあってくらい、ささやかな、まろやかな、らぶだ。そして、旦那にピストルで撃たれて死にたい。  そんなどっちつかずの僕だったけれど、ちょっとニヒリストっぽくなってきた節がある。 「死、と再生。懐かしいフレーズだ。どちらかが良くてどちらかが悪いとか、対極にあるものだとか、寝惚けたことを行ってられる歳じゃないさ、」とhorouさんがいうが、僕は、全然成長しないガキでも、寿命はある。それと共に、僕の持てる愛、僕のできることには限りがある。それにしても、このαがどんどん小さくなる傾向を今の社会は持っている。この傾向の所在こそを考えなくてはならないというのは正論だが、正直に言って、僕のようなション便垂れには耐えられない。僕が生まれた所では、これを文化伝統真心で覆ってしまう嫌いがあるので僕にはそれも息苦しい。  僕の住んでるところには一応子供は一人しか生まれない。つまり、年寄りが多いわけだろう。ところが団地の母親や阿姨(子守の叔母さん)さんたちを見ると見かけない顔を毎週見かける。もうそろそろだなっていう、セレブの奥様もいっらしゃる。ということは、団地の中にはその数以上のものがいる訳だろう。ここではそれらはどう処理されるのだろう。とてもキカイ(機械)だ。  そして、僕の生まれた国でも、事情は同じだ。所謂るブンカ(分化と書くのかしら)的なだけで。戦争でぶち殺されるなら、お話の種にもなるし、親族縁者周りの他人でさえも何かは思うだろう。石ころが落ちているとは思わない。 ところが、そこでは、白いシーツの上で俺まだ生きてるよなって思っている。  物が死ねないのは言うまでもない。つまり、「無為に死んで見せれば死体の気分が分かる」と言われる社会だ。その社会批判はよくある。  実は先日も「自分が死んだのも知らずに、40キロの速度で走る車で自分の死体を通り過ぎていく幽霊」の話を読んだ。構成のよく出来た話だった。しかし、僕が何よりも面白かったのは幽霊よりも「40キロの速度で走る車」の方だ。いかにもサスペンションの効いて乗り心地の良い高級車で、不思議な感じはするが、全然恐くないと感じている自分の方がお化けなのだ。  こんな御託はもう言い尽くされている。しかし、それを自分の言葉で一人抗って語ろうとするhorouさんの散文はしばらく心の内から消えなかった。 ---------------------------- [自由詩]ジョン・アントワン・ヴァトオウ/m.qyi[2011年12月4日16時21分] ジョン・アントワン・ヴァトオウ きみはいにしえの友人だ でもどっかにいっちゃった てきとうに、 喜びと 恋しさと ちょっぴり、苦しみをふりまいて みんなが、嫉妬したんだよ きみがいたときは なのに、きみはおかまいなしだったよね 幸せの小箱を開き その中から、悲しみだけをとりだして、 目の前に、ぽいと捨て カラカラと小箱を鳴らして そしてどっかに笑っていっちゃったんだ 幸せもって 金粉ばかりをふりまいて きみはどっかに消えちゃった ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]七味/m.qyi[2011年12月14日23時32分]  「七味唐辛子を壜に冬日和」という俳句読んだ。俳句のようなものは短いし、 俳画というものもあるから、看たというのがいいかもしれないが。林ノ下豆腐店という人の書いたもので、妙に作品と名前が適っている。どうしてだかわからないが。  子供の時、よく豆腐を買いに行った。その家の娘が同級生だった。そして その娘の頬っぺたがとても赤かったのを今思い出した。ああいう赤はリンゴの赤色に似ている。  七味唐辛子は、唐辛子を主原料とし、七種類の香辛料を混ぜて作られることからその名があるそうだ。唐辛子を含めて8種類なのだろうか、それとも全部で7種類なのだろうかなどと思った。一味というのもあるから、こちらは、まさか2種類ではないだろう。すると、七味も7種類なのだろうとくだらない事を考える。  今日は晴れていたが、日がさっと暮れた。冬の日はナイフを切るようにさっと日が翳る。あっという間に。もう、真っ暗だ。窓からは、点々と灯る高層アパートの灯りが見える。日がな窓辺に座っているのはそれなりの訳があるのかどうかは知らないのだが、つまりは、逃避をしている。僕はそんなにも臆病で無力だ。人生は恐い、鬼ばかり。百鬼が右往左往。ああ、恐い恐い恐いと日がな日向の窓辺で呆けていた。そんなことができるのも、お日様があったからだ。  やはり、お日様はありがたい。僕の住むこの場所は凍るように寒いのだ。そして、もうこの時間、そのお日様がいないのだ。  唐辛子というと、いわゆるchiliでペッパーかどうかは知らないが随分と細長く、真っ赤だ。でも粉にするとこれがソフトなオレンジで、ホットな感じでさらさらだ。そこにサンショのフレーバーが薄緑とくると優しい感じもする。肉料理などをしていて、暫く手で触れ続けているとちょっとぽかぽかするし、目でも擦れば悲鳴が出るのだ。涙ボロボロ。  こんな悲鳴とは全く関係がないが、チリというのは、何かあんまり頑張らないお日様のようなオレンジのホットな砂だ。  何度も言うが、そのお日様が翳ってしまった。  その、ソフトな赤が小さなガラス瓶にあって日が当たっているというのは、恐さも忘れられる。もう、外は、真っ暗だ。鬼ばかり。  ガラス、は、例えば、手作りガラスは、意外に表面は所謂イーブンじゃないもので、つるつるのようでぐにゃりとしており、中には泡などもあり、お日様が休憩などしているところだが、その中に赤い砂丘があり、さらさらなのだ。  そんな風に眺めていたのだが...ところが土とあるから、おやっと、イメージが反転して、備前か唐津かなんかなのだ。そんなもんじゃないかもしれないが、おちょぼ口のひょうたんの有田なのだ。それほど上物じゃないにしろ、ちょっと、振ってみる。妙なもんで、蕎麦といえば山葵だが、これがちょっと、糸車の模様など入っていたりする鍋島とくれば、% ---------------------------- [自由詩]三原色のバランス アレクサンダー・カルダー 視点1/m.qyi[2011年12月15日21時43分] いいお天気の春 耳の中には明るい青空しか聞こえない 天使たちが散歩している こんな日は ルーブルへ行きたい レンブランドと決闘しなきゃ そう思いながら、ぼくはコンクリートの天井にかかっている 20世紀のスローモーションを眺めている レッド │ ──│─ イエロー ブルー │ ---------------------------- [俳句]ナイルも知らずに/m.qyi[2012年6月1日13時32分] 楊芽吹き夕日の果ての梨樹園 文字もなくベランダに茂るパピルス ---------------------------- [俳句]スイミング・プール 2/m.qyi[2012年6月7日9時58分] 夏のプール青い寒天切る名手 ---------------------------- [自由詩]ワインとビール/m.qyi[2012年6月9日20時07分] ワインとビール こんなところにまでやって来て 一体お前は毎日何やってるんだと言う あれもこれもしなけりゃならない あそこもそこもここも行かなきゃならないのにと言う そんなこと分かっているけどうっかり忘れていたと言う だから、なんでそういう大切な事を忘れて、くだらないレストランに入って ワインを空けて それも へらへら笑って何を考えているんだと怒鳴る 何も考えていないわと答える お前は少し頭のネジが抜けているんじゃないかと言う 私はそんなにアタマがよくないと言う 何でそんなことが解かるんだ、それほどお前は頭がいいのか 馬鹿野郎となんくせつける だから そんなことも分からないからアタマが悪いんだし 私は フランス人と言ってもフランス人じゃないんだしと言う お前は本当に“ガイキチ”だね 今の話とフランス人とどんな関係があるんだよと蔑む 関係はないけど関係があると言う お前の話は意味が解からない お前には“言葉がないよ”と言う だから 親だってフランス語なんて話せなかったんだし 話せないんだから私が代りにもらいに行かなきゃならなくて 生活が大変で 国語の作文の綴りが間違いだらけで 市役所にお金を貰いにいくためのフランス人だったんだから 高卒がやっとだと思ったと言う 俺が話しているのは、そんな国籍の話をしているんじゃない、だいたい、子供の時と今は全く違うだろう お前は何を話しているんだと言う だから 私は何を話しているのか自分ではよく分からないっていう話しをしていると言う だから お前は馬鹿だね そもそも全部お前の稼いだ金なんだぞと馬鹿にする だいたい あの担当の態度は何だ シビルサービスだろう お前は腹が立たないのかと言う。だから そんなふうに見られて私はバカなんだし 私にはそんなことはどうでもいいし それより私はあなたと楽しく一緒に過ごしたかっただけなのに どうしてそれが悪いことで どうしてそんなに怒るのか 私は全然分からない ご免なさいと言う 全然解からないと言っておきながら 何が “ご免なさい”だ 人を馬鹿にするのもいいかげんにしろとよと 自分で自分の頭を殴る すると泣く この野郎と殴る すると、泣いてご免なさいと言う この野郎 “ふざけるな“と ぼこぼこ頭をぶんなぐる。そんなことしたら、頭がぶよぶよになって死んじゃうわと ハンカチに口をあてて泣き叫ぶ 俺の頭がどうなろうと なんでお前に関係あるんだ 第一レストランでふざけたボーイの態度とか 第二に吐き気がする下品なワインとか 第三に書類の件も あれも これも だいたい もう日がないじゃないかと あれも これも大切なのに いったいどうするんだと 一つ一つ数え上げながら力を込めて殴る あれもこれもやるのは大切だけれども あれもこれも あれやこれやの理由があって あっちやこっちに行っても ああのこうの言うから 私はそう思ったけど行ってみるとこうでああで”ぴーぴーぴー“と言う だから、一体つまりどうするんだと言うと だから 分からないと言う でも ”大丈夫“だからと言う 何が”大丈夫“だ だから 観光客相手の軽薄な店で酒なんか飲んでる暇があったら考えろと言っているんだと言う だから 考えてもバカだから分からないから 私はあなたと楽しく一緒に過ごしたかったと言う バカなビュロクラシ−とバカなオフィサーのために そんな時間も無くなってしまうじゃないのと言う 俺は お前といっしょに過ごしたくなんかはない 楽しくない 全くないと言う 見て分からないのかと殴る でも 私は楽しいと言う 大切なのは今で それが一番大切で 死んでしまったらほんとうに何もないのだという あとには”なにも“”なにも“ない 私はわかっている だからそれだけでいいという それだけでいいから、もう止めてと言う 何にも解っちゃいない 俺はお前じゃないと言う 全然違うと言う 俺は俺なんか全然大切じゃないし もっと大切なものがあると言って殴ろうとする もう止めてと泣いて 私はそれでもそれが一番大切なんだと言う あんなレストランのどこが大切なものか こういうことをいい加減にしたら 困るのは誰だ 明日は朝一番にオフィスへ行け なんであんな”反吐“が出るような酒を俺に飲ませるんだ どこまで馬鹿にすれば気が済むんだ 俺は”お前を殺したいよ“と言う でも あれとこれをしたから”だいたい“平気なはずだと言う あんなまずいワインで平気なはずがあるかと言う ちゃんと説明しなくて悪かったと言う 説明するかしないかが問題なんじゃない 明日オフィスへ行くか行かないかが問題なんだと言う チェックは入れておくべきだと言う 例え一つでも一秒でも一寸でもやるのが当然だろうと言う でも もう時間がなくなってしたいことは何にもしなかったからと言う あんなまずいワインより痛いほうがよっぽどましだと言う でも とても痛かったでしょうと言う 死ぬほどまずかったから痛くなんかない そんなことどうでもいいから 住所を調べておけと言う もう調べてあると言う 俺はお前なんかと酒は飲みたくないからねと言う 分かったと言う 痛かったかと聞く うるさいと言う お前みたいな奴は勝手にやっていればいいと言う じゃあ ホテルの前のバーでビールを飲んでもいいのときく そういう話じゃないが まずいワインじゃないなら飲んでもいいさと言う ほんとうにおいしくないワインだったから と言う ふざけた店しかなくて ふざけた担当者で気の毒だったね ひどい奴らだったね かわいそうだったねと言う あなたのせいじゃないわと言う 私はあなたと楽しく一緒に過ごしたかっただけだと手を握る それとこれとはまったく別だ もっと大切なものがあるだろうと怒るから そんなものないとは言えずにバーに入る。 ---------------------------- [俳句]東西南北/m.qyi[2012年6月24日18時40分] 一人来て百人去った視界かな。 ---------------------------- [自由詩]三原色のバランス アレクサンダー・カルダー 視点2/m.qyi[2012年6月24日18時56分] いいお天気の春 耳の中には明るい青空 黄色い天使たちが散歩している こんな日はルーブルへ行って レンブランドと決闘しなきゃ ここは、シカゴ コンクリートの天井に浮いた スローモーションを掴む レッド │ ──│─ イエロー ブルー │ ぼくは赤ちゃん。 ---------------------------- (ファイルの終わり)