亜樹 2011年6月20日20時21分から2016年4月18日21時52分まで ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]しおまち/亜樹[2011年6月20日20時21分]  空は悠然と広く高く  海は漠然と深く遠い  その狭間でその松の木はひどくひしゃげて小さく見えた  その松の小さな陰に、溶け込むように老人は腰をかけ  いつまでもいつまでも くるはずの無い何かを待っている ***    海というものは青くない、と余之介は思った。 少し前に向かい隣の勘太が自慢げにそんなことを言っていたが、どうやらデマだったらしい。空の色にも露草の色にも似つかない。かといって沼のように底の見えない濁りきった苔色ではなく、川のように澄み切った無色透明でもない。  ただひどく、深く重たい色だ。  余之介は勘太に、海なんぞ水溜りのでっかいのだろうと言ったことを少し後悔した。なるほど、例え村が二三沈むほど大きな水溜りができたとしても、これほどの重々しさは生まれまい。水溜りの水は所詮雨水だが、海の水はそうではない。あれは水ではない。水の振りをした、何か得体の知れない生き物だ。少なくとも、余之介にはそう思えた。  大きく息を吸い込むと、生臭い潮の香が鼻腔を塞ぐ。嗅ぎすぎると気分が悪くなるのはいつも嗅いでいる薬の臭いと同じだと、軽い近親感を覚える。  余之介は山中の生まれだ。生まれてこの方海など見たことが無い。  余之介の実家は村の庄屋だった。生村では米のほかに大黄や胡麻の栽培も盛んで、いつも収穫の時期になると、あのなんとも言い難い薬草の黄色い臭いが家に満ちていたように思う。  けれど余之介がその村に居たのは七つになるまでだった。  余之介には兄が一人、姉が二人、妹と弟が三人ばかりいた。十も年上の兄は余之介が家に居た時分から跡取りとして盛んに父の仕事を手伝っていたし、余之介自身も特にその家の跡を継ぎたいと思ったことは無い。そのため実家によく大黄の買い付けに来ていた薬師が、跡取りに養子が欲しいと余之介を指名してきたときも、大した抵抗も無かった。  それから十数年、余之介は養父に薬の調合や効果について学びながら、小間使いめいた仕事の手伝いをして暮らしている。数ヶ月前に養父の姪を嫁に貰い、名実ともに余之介は山奥の小さな薬屋の跡取り息子となった。  余之介の人生は、一生この薬香臭さを身に纏うことに決まったのだ。  背負った行李が肩に食い込む。この海辺の村は目的地までの通過点でしかなく、その上今まで歩いた道のりはその目的地までの距離の半分にも満たない。  額から垂れた汗がからからに乾いた地面へ落ちる。  わずかなそれは微かに土の色を変えた後、あっさりと蒸発した。    :::::  初夏の気配が色濃くなった先日、余之介は養父に呼ばれた。  養父は丸顔の好々爺で、白いものの交じり始めた頭を丸めるでなく、結うでなく、半端な長さのまま垂らしている。余之介はこの自分より頭一つ分背の小さいこの男が、声を荒げたり、他人の陰口を言ったりするところを一度も見たことが無い。度のきつい丸眼鏡の 奥の目はいつもにこにこと細められている、そんな男だ。 「実はね、余之介君にお願いがあるんだよ」 「お願い、ですか?」  養父は余之介が養子に来てからも、余之介が庄屋の息子であったときと同じように『君』をつけて余之介を呼ぶ。余之介の方は昔のように『薬のおじちゃん』と呼ぶわけにもいかぬから、『お義父さん』もしくは『柚太郎さん』と呼んでいる。 「いやね、僕ももう歳だから、いつ足腰が弱るかわからないだろう?」 「はあ」  余之介は生返事を返した。そんな日はまだ随分先のように思える。何しろこの目の前の小柄な自称年寄りは、今朝も早よから裏山の天辺まで山吹の葉を摘みに行って帰ってきたところなのだ。一度余之介もその場所を教えてもらいはしたが、とてもではないが昼までに行って戻れる道には思えない。穏やかでいかにも学者然とした物腰を裏切って、養父の足腰は限りなく強靭だ。 「だから今年からは遠方の仕入れ仕出しも余之介君に頼もうと思って」  いいかな、と養父は年齢に似合わず大層可愛らしく首を傾げた。  養父は薬師で薬屋だが、別に山奥に見せ棚を構えているわけではない。  作った薬を庄屋に売り、収入を得、薬の原料を買う。薬を売りに、もしくは薬草を仕入れに行くときにはついでに行商めいたこともしている。といっても越中富山の薬売りのように各家ごとに置き薬をしているわけではない。預けておいた薬から使った分だけの代金を後から徴収するそのやり方は、養父と自分だけでは到底手が回らない。同じ庄屋や仕入先に一年に一回必ず顔を出すのかといえばそうでもない。  だから他所が持っているような土産の浮世絵や紙風船なぞはついぞ持ち歩いたことはないし、薬の入った紙袋にしても薬の名と養父の名の判が押してあるだけのそっけないものだった。  それでも問屋に卸すよりも行商の方が羽振りがいい地域もあるらしいから、どちらが主なのか怪しいものだと余之介は思う。  余之介は今まで実家を含めた近場の仕入先にしか行ったことがなかったが、そのときにも一応行商の仕事はしている。そこそこ売れた。  けれどそれはあくまで近場で、遅くても半月で帰ってこれる距離であった。一方今まで養父が言っていた仕入れ先は、一度出かければ半年は戻れないような、余之介とっては異郷とさえ思える遠い村である。  断る理由が無いではなかった。なんといっても余之介は妻を娶ったばかりなのだ。 半ば養父の跡を継ぐための結婚であったとはいえ、養父の姪は頭の良い、控えめな、けして不美人といった顔つきではない女だ。余之介にこれといった不満は無い。むしろ彼女についてもっと知りたいという欲求さえある。  なにしろ現段階で余之介が自分の家内について知っていることと言えば、紗枝という名前と、少々出過ぎた前歯を気にして恥ずかしそうに口元を隠して笑う癖と、朝の味噌汁をちょうど良い塩梅に仕上げることのできる料理の腕前だけだ。  これで本当に夫婦と言えるのか、余之介には甚だ疑問である。  養父にこの旨を伝えれば、おそらく無理強いはしまい。何しろ養父は妻と仲がいい。元々が親類であるのだから当然だろうとは思うが、時々余之介は紗枝が自分の嫁に来たのか、養父の話し相手に来たのかわからなくなることもある。 ――紗枝に寂しい思いをさせたくない。  その一言でこの話が延期されることは、まず間違いなかった。養父の足腰は先も述べたようにあと十年は心配要らない。 けれど。 「わかりました、お義父さん」 余之介は断らなかった。  それはきっと、跡を継ぐという気負いからだろうと、余之介は思った。  胸の奥に燻るざわめきは、それに付属した不安であるように思った。  養父は酷く満足げに笑い、有難うと礼を述べた。それから一週間程地図を読んだり薬の用意をしたりの仕度をして、余之介は家を発った。  紗枝は黙って手を振っていた。   :::::  家を出てから一月ほど経っていた。背中の荷物は一つも減っていない。  今までに横切ったさほど裕福でない農村では、薬の需要はほとんど無かった。そんなものを買う金は小作料の支払いに消えてしまう。最近は日照りも台風も来てはいないから、多少はそれでもましな方だ。  ざくざくと踏み固められた小道を歩き、海がどんどん近づいてくる。そして不意に、余之介は海際の岸壁に、黒い影があるのに気がついた。進むにつれて輪郭がはっきりしてくる。  松だ。ごつごつとした岩肌にしがみつくように、松が一本生えていた。  その木はひどく低く、海に向かって手を伸ばすように枝を広げていた。どこか一人取り残された迷い子のような印象を受ける。  更に近づくと、その木の下に更に小さな影を見つけた。人がいる。それもどうやら老人のようだった。 「じいさん、釣れるか?」  釣りをしているのだろうと検討をつけた余之介はできるだけ大きな声で呼びかけた。今日はもうこのあたりで泊るつもりでいる。どこぞ宿場があるか訊かねばならない。この気温で凍え死ぬことは無いだろうが、夜露は避けられない。できることならと床の上、そうでなくてもせめて屋根のあるところで眠りたかった。  海はもう目の前だ。その松との距離も目と鼻の先だ。そして、畑仕事で鍛えられた余之介の声は無駄にでかい。  聞こえないはずが無い。  案の定老人は緩慢な動作で振り返った。日焼けした肌が皺の深さを際立たせている。頭蓋の中に落ち込んだ目玉は小さくはあったが、確かに余之介の姿を捉えていた。  けれどそれだけで老人は何も言わなかった。  余之介は特に構わなかった。よくあるといえばよくあることである。余所者がいつでも歓迎されるはずも無い。ひょっとしたら老人は釣りなどせず、ただ海を見ていただけなのかも知れない。 「この辺に、宿場は、あるかい?」  耳が遠いのかもしれないと先程よりも大きな声で尋ねると、同じく老人は無言で道の向こうを指差した。  果たして老人が指差したのは、村の敷地内なのかそのまた先なのか、余之介は若干の不安を抱いたものの、他に仕様が無く歩き出した。  有難いことに数十歩も行かない内に二階建ての茶店を見つけ、余之介は安堵の息を吐いた。店番をしていた娘に尋ねると、思ったとおり二階は旅人専門の宿になっているらしい。  そのまま今夜泊りたい旨を伝え、ついでにすいた小腹を膨らまそうと品書きの端に書いてあった饂飩を頼む。外に置かれた長椅子に腰をかけ、汗を拭いた。足は疲れの峠を越えていて、もはや感覚も鈍っている。  程なく白い湯気を伴って、茶碗よりやや大きいくらいの丼がやってきた。竹を削っただけの粗末な箸と共に余之介はそれを受け取る。実家のものより多少出汁の色が薄い気がした。 「お客さん、どっから来たね?」  よっぽど暇なのか、それとも元来の話好きなのか、娘は茶店の中には戻らず勝手に余之介の隣に腰をかけた。近くで見ると、娘というほど若くは無い。せいぜい余之介より二三歳下という程度だろう。垢抜けているわけでもない、目鼻が目立つ顔のつくりのせいで多少幼く見える。  すすった麺は余之介が普段食べているものより幾分塩辛くはあったが、歩き通しで空になっていた胃を満足させるには十分だった。半ば飲み込むように咀嚼し口を開く。 「北井の方からだな」  実際はその更に奥だ。けれど女はまぁえらい遠いところからと目を丸めた。 「行商かね?」 「ああ、薬の。どうだい、一つ」  葛籠をぽんと叩くと、よしてくれよと女は笑った。 「そんなもん買う金があるんならもっと良いおべべを着てるさね。怪我したなら唾つけるし風邪引いたんなら大人しく寝る。それでどうしようもないなら諦めるだけさ」  医者と薬の世話になったのは子供産んだときだけだよと、胸を張って女は誇らしげに笑った。  そんな風に言い切られると余之介としては苦笑するしかない。江戸や堺まで行けば話しは変わるが、地方ではやはりまだまだ所詮薬は高級品、もっと言ってしまえば嗜好品という認識が強い。 ――有ればなんとなく安心だが無くても別に困らない。  その程度のものだ。別に余之介も本気で売りつけるつもりも無かった。  余之介が『客』として認識しているのは食うに困らない程度の小金持ちか、生きることに貪欲な大金持ちか、今まさに苦しんでいる病人だ。  言っても余之介の、というか養父の薬は小判一枚米なら一俵というような高級品ではけしてない。ピンきりではあるが、一番安い薬一回分ならその日の晩飯のおかずを一品減らせば裕に買える。効き目も概ね好評である。阿漕な商売をしているつもりもない。  女に買うかと問いかけたのは、余之介なりの会話に入る前挨拶のようなものだ。それで本当に売れることもあったし、売れないこともあった。女も商売柄そういった会話に慣れているらしく、さほど本気にしていない。ありふれた儀式の一つでしかないのだ。 「そういやぁ道脇の松の下に妙な爺さんがいたが、ありゃなんだい。俺は山育ちだからようはしらんが、ここいらじゃ爺婆は山じゃなくて海に棄てんのかい?」 「あら、いやだねぇお客さん。あんな道の側に棄てて何になるのさ。あんよがあるなら帰ってこれるさね。大体あんなとこで死なれたんじゃぁ見栄えが悪いったらありゃしない。客が来なきゃ話になんないんだよこっちはさぁ」 「海に落とせば良いじゃねぇか」 「で、死体食った魚釣って食うのかい?やだよあたしは。おとろしいたらありゃしない。・・・・・・ありゃあね、待ってんのさ」 「何を」 「さあ?」 「さあって、何だよ、気になるじゃねぇか」  拍子抜けさせられた余之介が軽く顔をしかめると女はおお怖いとおどけた。余之介の反応を楽しんでいる気がある。それが余計に余之介の癪に障った。それが顔に出ていたらしく女は更に楽しそうに笑う。悪趣味だ。 「やだね、お客さん。でかい図体して拗ねないでよ」 「拗ねてねぇよ。どうせあれだろ。呆けた頭で若い時の思い出に浸って、昔の女のひゅうどろでも待ってんだろ」  言ってからそれが随分しっくりくるように思った。あの時、余之介方を向いた目に感じた微かな違和感が払拭されるような気がする。あれは余之介に何かを期待していた目だ。何かに焦がれていた目だ。それがこの世のものでないのなら、なるほどこれほど相応しいものもあるまい。  余之介の言葉にそうだねぇと、女も控えめではあるが同意を示した。 「まあ、色々言う奴もいるがね。村の年寄りには鯨見張ってるって言う奴もいるし」 「くじら?」 「昔は捕れてたんだとこの浦でも。今は潮の流れが変わったかなんかでとんとご無沙汰でね。干上がる一方さ」  そんなものかと、余之介は思った。 同時に自分の浅はかさを知る。農村と漁村は違うのだ。  農村はまず天候と戦う。次に害虫、害獣に頭を悩まし、病の予防に躍起になる。  漁村であれば、何はさておき獲物がいなくては話にならぬ。どんなに気が利いた仕掛けも丈夫な網も、掛かる魚がいなければ無用の長物でしかない。日照りでなかろうが、大水が起きまいが、漁村の危機はいつでも簡単に訪れる。 共通するのは自分たちでは如何しようもないという、大昔から決まりきった人の無力さだけだ。 「あたしが二つになった年が鯨の採れた最後の年なんだと。年寄りどもは今でもよく言う よ。濱の祭には鯨がいるって。なんとなく覚えてるような気もするんだけどね。騒がしい あの太鼓の音や男衆の勇ましさをさ」  懐かしげな女の声に余之介もどうにかその様子を想像してみようと試みたが、如何せん無理な話だった。そもそも余之介は鯨漁のやり方を知らない。余之介の知っている鯨は味噌汁に入る塩漬けされた赤い肉塊か、時々実家で害虫除けに使っていた飴色の鯨油、昔義 父の薬棚に入っていた土色の血か灰褐色の骨など、既に加工されたものでしかない。山ほどに大きな魚だということは知ってはいたが、その全体像などは山育ちの余之介には考えの及ぶところではなかった。 「あの爺さんはそん時刃刺をやったんだと。そりゃあ勇ましくて、濱の娘の半分は爺さんに惚れたって」  余之介は刃刺と言うものが何なのか知らなかった。それを察したのか、女はああ、と笑って言った。 「まあ鯨漁の一番の花形だね。鯨目掛けて銛撃って、あのでっかい化け物染みた魚に手形包丁一丁で挑むんだ。そりゃあ、ただでさえ雄雄しい海男のますらをぶりも上がるってもんさ」  二つの時の記憶がしっかりと残っているわけでもあるまいに、女は懐かしそうに頬を染めた。  余之介は薄らと悟る。  きっと女の中では微かに残った自分の記憶と、後から周りの大人から言って聞かされた記憶が混合して、区別がつかなくなっているのだろう。それは必ずしも虚像ではない。その華やかさ、勇猛さは実際のものと同一ではなくても、女の中の鯨漁の情景はそれをおいて他にはないのだ。現と夢幻の入り混じったその情景は、この上もなく美しいに違いない。  それは余之介が大黄の匂いを嗅ぐたびに、黄色い空気に満ちた実家の土間を思い出すような、自分の中の原点の風景だ。  美しいその情景は、いつでも微かに胸を刺す痛みを伴っている。 「鯨が来なくなってからは山見――鯨の見張り番だね、それも無くなって、村の漁師衆はちょいとはなれた漁場まで、二ヶ月ばかしかけて鯵やら烏賊やら釣りに行くようになって、活気ってもんがなくなってく一方だよ」  それでもお飯食えてるんだから好い方だけどねと、溜息混じりにそれでも女は笑う。砂の様な笑いだ。からからに乾いている。 「姐さん、旦那は?」 「三日前から海の上だね。今度帰んのはいつになるやら」  食い扶持が減って有り難いさと女は言った。余之介にはそれが本音か建前か余之介には判別がつかず、なんと言って良いものかもわからなかった。女はそんな余之介をまた笑う。 「お客さん、奥さんはいるのかい?」 「……ああ」 「ふぅん、美人かい?」  「さぁ?どうだろな」 「子供は?」 「……まだだよ」  そもそも余之介が紗枝を娶ったのはつい先月だ。いるはずが無い。もしかしたら帰った頃に紗枝の腹が膨らんでいる可能性も無いではなかったが、限りなく低いように思う。紗枝が自分の子供を産む、ということにどこか余之介は現実味を感じない。紗枝のせいではない。自分の子供という存在を想定するのが、まず余之介には困難なのだ。  子供が嫌いなわけではけしてないが、自分の子供となると話が違う。それは今まで余之介が出会ってきたどの子供とも違う。全くの未知数だ。鯨よりもタチが悪い。  そんな思考を走らせて顔を顰める余之介の様子をどう解釈したのか、女は一言早く帰っておやりよと言うと一旦茶店の中へと帰り、急須と湯飲みを持って戻ってきた。再び腰をかけると女は、あの爺さんはさぁと話題を元に戻した。 「まあ、お客さんがさっき言ったのが一番近いんだろうね、多分。あの爺さん美人の嫁さんと可愛い娘がいたらしいから」  饂飩の丼は疾うに空だった。女が白湯かお茶か判別つかむような液体を湯呑に注ぐ。一つを余之介に渡し、もう一つに女は躊躇なく口をつけた。もはや仕事をする気はないようだ。  ここしばらく物を喰うときの他口を開いていない余之介にとって、この良く笑う女との会話は特に苦痛ではなかった。黙って女に習い湯呑に口をつけると微かに塩の味がする。どうやら白湯らしい。 「私は見たこたぁないから、実際どうだったかは知らないけど、仲が好い夫婦だったんだと……爺さんが漁に出てる間は機織って、寂しいとも切ないとも言わない、出来た人だよねぇ、真似出来そうもないやね」  ぼんやりと女は海の方を見た。その目には海が映っている。余之介が見たそれと違い、ひどく澄んだ青色をしていた。釣られるように余之介も海を見たが、やはりそれは青とはいえぬ、形容しがたい重たい色でしかない。  女の見ている海が青いのだろうか。  それとも女の目に映った海が青く変わるのだろうか。 「姐さん、寂しいのかい」 「ああ、そうだねぇ」  胸に生まれた些細な疑問を振り払おうと、余之介が発した問いに女は微かに笑った。今までの大きく口を開けた、どこか乾いた笑いではなく。  ――まるで紗枝のような笑い方で。 「寂しいねぇ」  諦めともつかない声を伴って、細められる目を見ながら余之介は思った。  きっと紗枝の目に映る海も、青いに違いない。  余之介の案内された部屋は、まあ上等な部類に思えた。一番安い部屋でいいと余之介は言ったのだが、二部屋しかないらしく、もう一部屋は既に先客があるらしい。一応その先客に挨拶の一つでもしておこうかと思ったのだが、間の悪いことに留守のようだった。部屋の前でぼんやりと帰ってくるのを待つのも馬鹿らしいので早々と自分の部屋に引き上げ、かび臭い布団の上に横になった。破れた障子戸の隙間から海が見える。波の音までは流石に届いては来なかったが、潮の香りはするような気がした。幻想かもしれない。あの女の濱の祭りのように。自分にとっての大黄の臭いのように。  きっとあの老人とって、海とはそういう類のものだろうから。  美しい幻に抱かれて、余之介は目を瞑る。  泥のような眠気がいとも容易く余之介を飲み込んだ。 ************ ――ざぁ、ざあぁぁ。 ――ざ、ざざぁああぁああぁ。  鼓膜に、波の響きが映る。  美しくはない、厳しい音だ。  一波波が寄せる度、松のしがみつく岩壁が抉られるような気がした。  眼下に見える海は黒い。ただただ黒い。  昼間とは比較にならない気味悪さを伴って、ただ寄せて、ただ返す。  得体の知れない、大きな生き物。 ――ざぁ、ざざぁあぁ。  見上げると月が照らす微かな薄闇に、ひしゃげた松が濃く影を落としている。  どうして自分はこんなところにいるのだろう。手を見ると、深く皺が刻まれ、日に焼けて、まるで枯れ木のように細い。そのくせ爪は分厚く白濁色に濁って、歳を経た樹木の皮のようにかさついていた。 ――ああ、そうか。  自分はあの老人だ。あの松の下で、何かを待っている、あの老人だ。  ならば、と目を凝らして海を見る。  自分があの老人ならば、待たねばなるまい。鯨か、女か、それ以外の何かを。  それはきっと海から来る。あの、得体の知れない生き物が産み落とすのだ。   ――ざぁん、ざぁ、ぁぁ  程なくして暗い海の端にぼんやりの小山のような塊が蠢く。  なるほど、アレが鯨だろう。海と同じ色をして、そのくせ海に溶け切れず、さまよう大きな不純物。化け物のような魚。濱に祭をもたらす使者。  ゆっくりとゆっくりと其れは近づき、終いには自分のいる岸壁の真下にまでやってくる。  いつの間にか自分の手には刃物が握られていた。お世辞にも大きいとはいえない、けれどしっかりと手になじむ刃刺包丁。  考える間もなく、体が勝手に動く。 ――どさ。 ――ざく。ぶしゅ。がり。がりり。  崖の上から跳び降りて、その背中に包丁をつきたてる。鈍い音を立ててその皮膚が裂け、血が噴出す。それも構わず深く深く包丁を突き立てて、横に引く。時折骨に当り、硬質な、無機質な音がした。 ――ざく。ざく。ざ、く。  切り刻んでいるうちにその破片は海に解ける。海に、還る。このままでは自分は沈んでしまうのでないかと、ふと恐ろしくなって、その手を止めると、もう鯨は跡形もない。手に握った包丁すらない。あんなに飛び照った血すら海水に変わったものか。もはや鯨の証拠は何処にもない。  ぼんやりと自分は海に浮かんでいる。  けれど何の感慨もない。ならば鯨ではないのだ。自分が待っているものは。こんな、義務化した作業で消え去ってしまうような、そんな儚いものではないはずだ。  海から濱を見る。妙に明るい。そうか、祭りだ。自分が鯨をとったから、濱の祭が始まったのだ。その獲物はもう海へ帰ってしまったのに、そうとも知らず祝っている。 ――どぉん。  太鼓が鳴った。 ――どぉん。どどん。どん。  低い、そのくせよく響くその音は、濱を越え、自分を越え、海に遥かに飛んでゆく。 目を凝らすと、濱には女児がいる。太鼓の音にはしゃぎ、大人に混じって踊っている。  濱の人間は皆笑っている。皆幸福そうである。当たり前だ。祭なのだから。鯨が、取れたのだから。 ――どぉん。  けれど、どうしたことだろう。この太鼓の音は少しも自分に響かない。自分は、少しも、幸福では、ない。如何してだろう。皆は、あんなに楽しそうなのに。  鯨が獲れなかったと知っているからだろうか。  あんなに喜んでいる村衆に対し、罪悪感を抱いているのだろうか。逃がしたのは自分だ。あの鯨を、再び海の一部に戻したのは、紛れもなく自分だ。申し訳ないと、そう思っているのだろうか。  ――違う。  そんな、しみったれたものではない。  自分は知っているのだ。あの太鼓が。あの音が。濱が潤う祝いの音などではないことを。  アレは弔いの音だ。  鯨ではない。海の一部が又、欠けていった弔いの音だ。  そのことに思い当たるや否や、あの村衆が哀れでならないように思えた。  彼らもまた、幸福ではないのだ。  彼らは葬式の客だ。そのくせ場にそぐわない陽気さを振りまいている。ただ、哀れだ。滑稽だ。  切ないも虚しいも通り越し、なにやら馬鹿らしくなった。無理に大口を開け笑う。いっそ自分もあの鯨のように、海に解けてはしまえまいかと、目を瞑ってみた。  ――どぉん。 ――ざ、ざざん。  波の音と太鼓の音が自分の鼓膜を交互に叩く。  溶けてはくれぬ体は波に叩かれ、曖昧に凡庸に、ただ浮かんでいる。  沈みもしない。  流されもしない。  何処へもいけない。  ――どぉん。  不意に波でない何かが頬に触れた。  微かに温もりに惹かれるように目を開く。  目の前には妻がいた。  皸の出来た荒れた手で、自分の頬を撫でている。   彼女の手はこんなに荒れていただろうか。  思い出そうとしたが、同時にそんな昔のことは当てになるまいとも思う。  妻の隣には女児がいる。  自分にも妻にも養父にも似ているようで、似ていないようでもある、そんな女児が、妻の着物の裾を握り、睨むように此方を見ていた。  妻は青い海を映した目で、自分を見ている。  妻の目の中で、年老いた自分は青い海に浮かんでいる。    ――ざ、ん。 「――」  自分は妻の名を呼んだ。その声は波に浚われたが、妻には届いたようだ。  妻は笑った。恥ずかしそうに、寂しそうに切なそうに、口元を隠して笑った。  そんなことせずとも良いと、常々自分は思っていた。  前歯が出ていようと、口が人と比べて少しばかり大きかろうと、自分の妻を美しいと自分は思っていた。  大口を開け、屈託なく笑う様が見てみたいと、そう思っていた。  口に出して云った事は、無い。  云えばよかったのかも知れない。  云えばよかったのだ。   ――どぉ、ん。  今でも遅くは無いのだろうか。  ふとそんな思いがよぎる。  自分はもうひどく年老い、涸れ果て、目すらも霞む。けれども目の前の妻は、手には皸をこさえ、微かに御髪も乱れてはいたが、まだ十分に美しい。別れたときと同じように。 「――」  もう一度名を呼んだ。頬に触れるその手を取ろうとして、漸く気づく。  ――ざん。   鯨ではなかった。  祭ではなかった。  自分が待っていたものは。  この、頬を撫ぜる、皸で荒れた、細やかな手。  脇から自分を睨むように見つめる幼児。  いや、あれは、泣きたいのをこらえているのだ。  ほら、あんなに大きく目を見開いて、潤ませて。  ――ざ。ざざ、ざ。ざざん。  ああ、わたしが待って、いたものは。  目を覚ましてみれば、もう疾うに日は暮れていた。どれほどまどろんでいたのか検討もつかなかった。ただ確かなのは、夜中だということだけだ。今日は月さえ出ていない。厚い雲に覆われ、微かな影を漏らしていた。  ぼんやりと余之介は己の手を見る。  次第に暗闇になれた目は、徐々にその輪郭、刻まれた皺を知覚する。  起き上がって外を見る。  海は見えない。  波音も聞こえない。  ただ、暗い。  山の夜とも違う。闇だ。海から来る何かしらが、空気にまで混じったような――。  そこまで考えて余之介は首を振った。まだ少し寝ぼけているらしい。  もう一度横になろうとも思ったが、一旦高ぶった神経はなかなか収まってはくれなかった。仕方なしに水の一杯でも呑もうかと、階下へ下る。茶店の女はまだ起きているらしい。店の奥で微かな物音がした。一瞬、女に水の場所を聞こうと思ったが、旦那の留守に女の寝床に上がりこむのが気に引け、直力音を立てぬように外へと向かった。  慣れぬ間取りに数回つまずきはしたものの、何とか野外へと出、殆ど勘に頼って井戸なり川なりを探す。  けれど、余之介が思い浮かべたような水場は、ついぞ見当たらなかった。  ぐるりと茶店の回りを回ろうとしたところで、いっそ潔く女に聞きに行くかと踵を返す。  物音を頼りに一階の奥を覗けば、不意に声が聞こえた。  足を止めて耳をそばだてる。  障子一枚を隔てた先から、その声はした。――女の声だ。その合間に、男の声も聞こえる。  そして、其れはどちらも――ひどくなめかしい艶を帯びていた。  かすかに頬に朱が差すのを余之介は感じた。この奥で何が行われているかは、明確であった。 ――旦那が戻ってきたのか。  余之介は部屋を降りてすぐに女の元に向かわなかった自分が、ひどく聡明な男のように思えた。  同時に、なにやら安心したような、落ち着いたような心持になる。  水の在り処はようとして知れなかったが、邪魔するのも気が引けた。出歯亀の趣味もない。もとよりどうしようもなく喉が渇いていたわけでもなかった。  いっそ、すがすがしい思いさえ抱きながら寝床に戻ろうとした余之介の足が、不意に益体もない懸念に纏わりつかれた。  余之介自身、馬鹿なことだと思いつつも、一度生まれてしまった疑心暗鬼は消えてはくれない。 ――女の旦那は、いつ帰るかも知れないのではなかったのないか。 ――結局顔も見てはいないが、もう一人の客がいたのではないか。 ――あれは、あすこにいるのは。 ――女と抱き合っているのは。  込上げてくる吐き気を無理矢理押さえ込み、余之介は暗い夜道を駆け出した。  けれども、懸念は振りほどけない。 ――本当に女の旦那なのだろうか。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]さくらぞめ/亜樹[2011年6月20日20時31分]  しばしば自分の読む小説中に現れる、出所の知れない引用文。  物騒で物々しい、どこか哀しいその言い回しが僕は少し好きだった。  言い出したのは、誰だろう。 ***   「きっと、お馬鹿さんね」 「沙名ちゃん、あんね」 「だって、そうじゃない。この町だけで、どれだけ桜の木があると思うの?その一本一本の根元に死体が埋まってなんていて御覧なさいよ。大量殺人もいいところだわ」  『猟奇』もつくわね、と可笑しそうに彼女は笑った。幼馴染の沙名は殆ど生まれたときから一緒にいるような仲ではあったけれど、彼女は自分と違って本を読むことを好まない。彼女にとって花は実際に見て愛で、心慰めるものなのであって、お話の中に出てくる作り物の情景には、どうやったってなりえないのだ。 「わかんないじゃないか、そんなの。ひょっとしたら、どこか遠い国に、墓標の代わりに桜の木を埋める様な国があるのかも知れない」  彼女があんまり可笑しそうに笑うものだから、僕は咄嗟にそんな思いもしていなかった出任せを口にした。それは全くの出任せでは有ったけど、言ってからそう悪くない案のように思えて、ちらりと彼女の方を伺う。目が合うと彼女もそう思ったらしく、くすりと笑った。 「素敵ね。それは素敵だわ。私、常々嫌だったのよ。自分が死んだ後、あんな冷たい石で重石をされるなんて。ねぇ琥太、そんな国本当にあるの?何処かしら。南の方?一年中暖かい処なら、きっとずっと桜が咲いているのでしょう?」 「うん。うん……そうだね。本で読んだけれど、向こうは海が碧いそうだよ。桜の薄紅色が映えて、さぞかし綺麗だろうね」  随分久方ぶりに沙名が嬉しそうな顔をしていたから、僕も釣られる様に楽しくなった。碧い海に桜の花が舞う情景を想像する。其れはこの上も無く美しく、儚い夢幻の風景だ。 平均気温が高い南国では桜は咲かないと、僕は知っているのだけれど。  沙名はそんなことを気にはしない。彼女はただ、真摯に碧い海の、美しい桜を思っている。  そんな沙名が僕は好きだった。本当に本当に好きだった。  けれど其れは『アイ』と呼ばれるような、確かな感情に変わることは無い。  確かな感情に変わるには、あまりに時間が足りない。  僕は十四で。  沙名も十四で。  けれど僕は来月戦場へ行き。  彼女は明後日お嫁に行く。  遠い遠い南の国へ。  遠い遠い隣の町へ。  寒々しい青い空に不似合いな灰色の戦闘機が大きな音を立てながら飛んでいた。  木枯らしと言うには緩く風が吹いている。  師走も間近だというのに、今年は少しも寒くならない。  世界が壊れているのだと、父さんは言った。  僕らの世界は戦争をしている。  もうずっと長いこと。  けれど御国は其れを認めようとはしない。  『戦争をしているのは、とてもとても遠い国で、私たちには何の関係も無いのです』  テレビも新聞も学校の先生も政治家も、皆同じことを言う。  けれど皆知っていた。  確かに戦争をしているのはとてもとても遠い国で、僕らの御国は一つの爆撃だって受けてやしない。  其の代わり、少しずつ人が減ってゆく。  資源も技能もない僕等の御国は、代わりに人を差し出して、何か得体の知れないものに必死になってしがみついている。  都から遠いところから、順々に男の人はいなくなる。女の人は其処で待つか、都の方へ行く。子供は其れについていく。  先日とうとう隣の町から男の人はいなくなって、随分多くの転校生が僕等の学校にもやってきた。だから、次はこの町の番だ。  馬鹿らしいと思う。とても。  だからと言って、微温湯のように訪れる破滅をどうにかできるような力も意思も、僕にはないのだ。 「……この国では、していないのかしら?」 「何を?」 「『桜の墓標』よ。若しかしたら私たちが知らないだけかも知れないわ。だって私たちの御国は、隠したり、秘密にしたりが大好きなんですもの」  口元にひとさし指を当てて小さな声で沙名が言う。不遜なことを、と思いはしたが否定は出来ない。先日も教科書が変わった。新しい教科書の口絵の世界地図では、また一つ国が減っていた。理由は教えて貰えていない。 「ううん、御国でやって無くたって、琥太が知っていたのだもの。他の人が知ってたって可笑しかないわ。本当にやった人だっているかも知れない」 「そうかもね」  僕は『知って』などいない。単なる空想だ。けれども彼女の中ではもうそれは現実の出来事として認定されてしまっているらしい。 「そうよ、ねぇ琥太。……確かめてみない?」 「……何を」 「決まってるじゃない」  小さな声で、けれどはっきりと彼女は言った。 「本当に『桜の木の下には死体が埋まっている』かどうか、よ」  ざ、ざ、ざ。  ざざ、ざ、ざ。  かつ、かつ。  ざ、ざ、ざ。  薄暗い闇の中、スコップが土を引っかく音が響く。  暖冬が功を奏して、昼間に比べ遥かに低い夜の気温でも土は凍ってはいなかった。それでも長い年月何百人もの人間に踏み固められた神社の境内の土は、酷く固い。鉄で出来たスコップに手が痺れる程の力を混めて、やっと数センチ突き刺さる。 「灯り、必要なかったね」 「懐炉は欲しかったな。寒いよやっぱり」  大きく丸い満月が薄明るく辺りを照らしてはいたが、昼間と違い其の光に温もりは無い。  底冷えのする、青白い光だ。  薄い暗闇の中で、僕と沙名の影が細く、濃く伸びていた。  この神社の桜の木はこの町で一番大きな桜の木だ。何処の桜の下を掘るか相談したときに砂名は真っ先に此処を挙げた。僕も少しも異論が無かった。  僕の家からも沙名の家からも近いこの場所は昔から恰好の遊び場で、夜中に忍んでくることも、少しばかし慣れていた。 「琥太、変わろうか?上着貸したげるよ?」 「駄目だよ。そんないい服、汚したら父さんに怒られちゃう」 「いいのよ。だって私のだもの」 「……之村さんのだろう?」 「だから、私のなのよ。あの人のものは全部私のものなんですもの」  ぱさり、と音がして視界が暗くなる。自分の頭に沙名の羽織っていたジャケットが被さっていた。赤い、花の刺繍の施されたジャケットはその暖かさと半比例するように軽い。 服のことは良くわからなかったが、高価な物であることは間違いなさそうだ。 「可愛いでしょう?」 「……そうだね」  沙名も家から持ってきた木製のスコップを手に取り、僕の掘った穴の脇にしゃがんだ。  木製のスコップで、僕よりずっと握力のない沙名は、僕の解した土を引っかくように掘り出す。  女物の沙名のジャケットは僕には少し小さい。昔は確か沙名の方が大きかったはずなのに、いつの間にか彼女の頭は僕よりも下になった。  沙名が嫁に行く家は金持ちだ。結婚前から何かと沙名に贈り物が届く。このジャケットもその一つであることは間違いなかった。  沙名の結婚する相手の名前は『之村さん』と云う。下の名前は知らない。歳がいくつだとか、どんな性格なのかとか何も知らない。  ただ酷くお金持ちだということだけ知っている。  一度沙名にも聞いてみたが、やはり彼女もそれだけしか知らなかった。  『之村さん』は宗教家で、恵まれない子供に施しをするのが好きらしく、彼の家にはもう何十人も『お嫁さん』がいるらしい。  もちろん僕等の御国は一夫一妻制だから、正式な『お嫁さん』はもちろん一人きりなのだろうけれど、男の人が極端に少なくなった今ではさほど珍しいことでもなかった。  沙名の御家は沙名がいなくなる代わりに、わずかばかりのお米がもらえる。沙名の家は子供が多いから、小母さんは酷く喜んでいた。  餓えるほど貧しいわけでもないが、何があるかわからないから。蓄えはあったほうがずっといい。  其れは僕のうちでも云える事だ。  足の弱い僕の父さんは仕事へ行けない。戦争なんてもっての他だ。  父さんの父さんが残した蓄えを少しずつ食い潰しながら僕等は生きている。  父さんのささやかな内職は、父さん自身の食費は稼げても、育ち盛りな僕の分には足りようもない。  僕が戦争に行けば、御国から保証金も出るし少なくとも食い扶持が減る。父さんはずっとずっと楽になる。 父さんの世話はもう隣の小母さんに頼んできた。昔から何かと僕たち父子を気遣っていてくれた小母さんは、少し寂しそうな顔をして、それでも承知してくれた。  「帰ってくるんだよ」と、それだけ云って。  僕は頷いた。  できようもないと、わかっていたけれど、それでもちゃんと頷いた。  ざ、ざ、ざ。  ざく。  ざく。  ざく。  ……ざく。         かたん。 「何にも、ないね」 「うん」  何刻かたって、疲れたらしい沙名はスコップをおいて今まで自分が掘っていた穴の脇に腰掛ける。悴んだ手が土に汚れ、細かく震えていた。 「痛い?」 「平気よ。琥太こそ休んだら?」 「ん〜……もう少し、掘ってみるよ」  沙名は止めない。  ふうん、とだけ云って、じっと見ていた。  僕はまだ穴を掘る。  ざ、ざ、ざ。  ざざ。  『死体が埋まってる』なんて馬鹿のこと、本当に信じてるわけではなかった。  其れはきっと沙名も一緒だ。  ただ、少し。  この生ぬるい現実を、いくらか冷ます『真実』が手の届く処に欲しかった。  それだけなのに。  いつの間にか、随分僕は意地になって、ただひたすら掘っていた。  沙名はただ見てる。  一言だって、「もうよそう」とは言わない。  沙名がそういえば止めるつもりで、僕はただただ掘っていた。  いつの間にか、穴は、本当に酷く深い。  深く、暗い。  まるで本当の墓穴だ。  けれど此処に死体はいない。  掘っても掘っても、出てくるのは、仄かに苔臭い、湿った黒い土ばかりで。  僕は一体、何を埋めるつもりで、この穴を掘っているのだろうか。 「琥太」  沙名が僕を呼ぶ。  短い、けして大きくは無いその呼びかけは、いとも容易く僕の耳に届く。 「……何?」 「……降りて、いい?」 「いいよ」  僕は手を伸ばす。沙名に向かって。沙名はその手を取って、ゆっくりと足元を気にしながら穴の中へと入った。  沙名は笑う。当たり前のように。  だから僕も笑う。当たり前のように。 「何にも、埋まってないね」 「うん」 「琥太、馬鹿みたいだよ。何にも無いのにこんなに掘って」 「僕が馬鹿なら沙名も馬鹿さ。ぼんやり其れを見ていたのだから」 「あら、厭だ。私はちゃんと目的があって、琥太が掘っているのを見てたのよ?」 「目的?」 「そう。」  沙名はポケットかた青いビー玉を取り出して、僕に見せ付けると其れをそっと穴の底に置いた。 「琥太がね、一生懸命、穴掘ってるの見てた。吐いてる息が、白いのを見てた。」 「沙名」 「桜の下に、何にも埋まってないのがわかったから、代わりに、これ、埋めてしまおう。私の大切な、大切な、何かと一緒に、埋めてしまおう。ねえ、琥太。これは、之村さんの家には、持っていけないもの」 「・・・・・・そうだね」  沙名の目は、少し潤んでいた。寒いせいだと思った。寒いせいにして、沙名が貸してくれていた上着を返し、ぎゅうと其の手を握った。  ああ、やっぱりだ。こんなに、こんなに凍えて、震えている。  僕は自分が来ていた上着の釦をちぎった。赤銅色をした、少し、重たい其の釦を、沙名のビー玉の横に置く。  沙名が笑ったのが、気配でわかった。  「琥太。琥太はね、南の国に行くのね。琥太は優しいもの。きっと誰も殺さないし、きっと誰にも殺されない。南の国で、桜と碧い海を見て、きっと、このビー玉のような、きれいな青い目をした女の子を好きになるわ。琥太を嫌いになる子なんていない。きっと、琥太は、南の国で、とてもとても、幸せになるのだわ」  夢みるように、沙名は言った。僕もそれを真似た。けれど、どんなに頑張ったって、その夢の中で、青い目をした女の子は、沙名の顔をしていた。 「沙名。沙名はね、きっと、之村さんのことを、とてもとても好きになれるよ。之村さんは、きっと、とてもいい人で……僕よりずっと優しいよ。沙名になんだって買ってくれる。この釦に画かれてる貴婦人に負けないような、美しい女性に、沙名はなるんだね。餓えることも、虐げられることもなく、幸せに、とてもとても、幸せになるんだね」  沙名は笑った。肩を震わせ、泣きながら笑った。僕も其れを真似る。  抉った穴に、二人で土を被せた。  暗く、硬く、もう誰も掘り返さないように。  僕等は墓穴を掘った。  桜は墓標だ。  葬られた僕等の思いの亡骸が、此の桜を染めればよいと僕は思った。  赤く、赤く。  そうすれば、誰かは知るだろう。  此の痛み。  此の悲しみ。  此の愛おしさ。  いつか。  いつか。 春の来る前に、沙名はお嫁に行った。 桜の咲く前に、僕は鉄の船に乗った。 あの桜が咲いたかどうかすら、僕は知らない。  ---------------------------- [自由詩]貴方はそうやって嗤いますけれど/亜樹[2011年7月25日21時19分] 白いスカートにコーヒーのシミをつけて 笑う少女の無邪気さを 貴方はそうやって嗤いますけれど 残念ですね 口の端にケチャップがついてますよ。 文学少年気取りの 私たちのエスプリなんて 所詮そんなもので。 花を見たら 綺麗だなでいいじゃないですか。 雨が降ったら うっとおしいなでいいじゃないですか。 腹が立ったら 怒ればよろしいじゃないですか。 そんなに辛いのなら 泣いてしまえばいいものを。 おもちゃの剣を振りかざして 透明な悪者を退治する少年のいじらしさを 貴方はそうやって嗤いますけれど 残念ですね そんな少年 私の目には見えないのです。 ---------------------------- [自由詩]「僕等は何処に行くのでせうね」/亜樹[2011年7月25日22時05分] 「僕等は何処に行くのでせうね」  始発のホームで誰かがそう呟く。  電車の行き先は決まっている。  けれども誰かがそう呟く。 「僕等は何処にいくのでせうね」  病院の屋上で誰かがそう呟く。  黄色い雨が降る。  白いシーツが揺れる。 「僕等は何処に行くのでせうね」  アパートのベランダで誰かがそう呟く。  家庭菜園のトマトがぼとりと落ちる。  皮はまだ青く、固かった。  けれども彼は行かなければならなかったのか。 何処か 何処か 何処か 誰も彼も 何処かへ  始発のホームで  病院の屋上で  アパートのベランダで  誰かが呟く。 「君は何処に行くのせうね」  そうして私は飛び降りる。  此処ではない  何処かに向かって。 ---------------------------- [自由詩]エンドレス・サマー/亜樹[2011年8月8日22時09分] 道の脇に花火の燃え殻が落ちていて ああ、そういえば昨日はお祭りだったな、と思いだす。 夏の歩みが あんまり一歩一歩ゆっくりなので なんだかもう、 ずぅっと夏の、 ままな気がしてた。 ジィジィ煩いの蝉の間で ひぐらしが間抜けなヴィブラート。 気がついたときにはもう君は 随分先まで 行ってしまった。 エンドレス・サマー 今年も誰かのiPodの中で そんな文句が キラキラと流れる。 エンドレス・サマー そんなものが あった気がしてた あの日の僕と あの日の君と エンドレス・サマー ひぐらしの間抜けなヴィブラート キラキラしてたのは 僕等の汗だったのか 僕等の夢だったのか エンドレス・サマー そんなものが あった気がしてた あの日の僕が あんなに遠い ---------------------------- [自由詩]かくれんぼ/亜樹[2012年7月17日23時45分] 首を吊るには低すぎる木の下で 少女は一人 空を睨んでいた。 役場から聞こえるサイレンが 夕焼け色ににじんで消える頃 やかましかったセミももういない。 ――もういいかい アジサイの上 小さな雨蛙が 夕立を呼んでいる ――もういいよ 昼間のうちに刈られた草が 陽光にあぶられて もうすでに発酵した 鼻につく、その匂い 首を吊るには低すぎる木の下で 膝小僧に擦り傷をこさえて 少女は睨んでいる 明日がやってくるほうを ---------------------------- [自由詩]12色のくれよん/亜樹[2012年7月21日0時14分] トマトみたいなランプが光り 道脇にヒマワリが咲いている その葉のうえではカマキリが カマを振り上げ威嚇している 山はもう嫌味なくらいしげみ おばあちゃんの睡蓮鉢のなか 澄んだ水は空の色を映し出す もう既にこの町は夏の盛りで お隣の女子高生は淡い色した スカートをひるがえしたまま 遊びに出かけて帰ってこない あれから一度も帰ってこない 辺り一面蝉の声に埋め尽され ジリジリ焦げていく黒い太陽 車行交う横断歩道の向かい側 ダラダラと汗をたらしながら この長い夏の間 一言のうめきも 漏らさず彼らは アナタを待っている。 ワタシを待っている。 ダレカを待っている。 ---------------------------- [自由詩]オセロ/亜樹[2012年9月23日21時42分] 「あの子が嫌い」 と 彼女が一言そういえば パタパタパタパタ 音を立て 私のオセロは翻る。 黒なら白に 白なら黒に。 「あの子が嫌い」 と 彼女が一言そう言うたびに。 ---------------------------- [俳句]秋は色づく/亜樹[2012年9月27日17時43分] コスモスできらいすきすきだいきらい 赤とんぼフレフレ赤勝て白が勝て 今秋も流行りは赤だと鷹の爪 本年の出来はどうだと柿に聞き もう少し渋いようだと鵯が鳴く 火恋し抱えて帰る彼岸花 ---------------------------- [短歌]Chocolate/亜樹[2012年9月27日17時53分] ひとかけのチョコレートさえあったなら生きていけると彼女は言った。 ひとときの夢は勝手に溶けました。            「甘かったから?」                  (苦かったから)              ---------------------------- [自由詩]私が私であることを/亜樹[2013年3月4日20時38分]  凛と張った送電線が朝の冷気に共鳴し  スクランブル交差点の信号が一斉に赤になる頃  私は私が私であったことを証明できる  数少ない証言者である。  温んだ泥からガマガエルが顔をだし  蛹の中から瑠璃色の揚羽が羽化する頃  私は私が私であったことを偽る  唯一の虚言者である。 ---------------------------- [自由詩]彼は宗教上の理由で○×できない。/亜樹[2013年6月9日13時36分] 『彼は宗教上の理由で○×できない。』 という例文は 非常に素敵なものである。 神の威を借ることで 彼らはたやすく自らの主張を貫ける。 リピートアフタミー 『彼は宗教上の理由で豚肉を食べることができない。』 リピートアフタミー 『彼は宗教上の理由で屋根の赤い家に住むことができない。』 リピートアフタミー 『彼は宗教上の理由で同性愛者を許容することができない。』 リピートアフタミー 『彼は宗教上の理由でアブノーマルなSEXはできない。』 リピートアフタミー 『彼は宗教上の理由で愛をささやくことができない。』 リピートアフタミー 『彼らは宗教上の理由で隣人を愛すことができない。』 リピートアフタミー 『愛すことはできない。』 リピートアフタミー ---------------------------- [自由詩]風車が鴎を殺す丘の上で/亜樹[2013年7月30日0時09分] 風車が鴎を殺す丘の上で 貴方は海月が可哀そうだと泣きました。 オリーブ色の海の上で ヨットはぷかぷか浮いています。 風車が鴎を殺す丘の上で 今年も百日紅が咲きました。 延々続く赤色が 季節の変わりゆくさまを ただただじっと見つめている。 左手をご覧ください。 日の沈む海の赤さを。 右手をご覧ください。 水平線は弧を描いて。 丘の上では今日もまた 風車が鴎を殺しています。 ---------------------------- [俳句]梅の花/亜樹[2014年2月11日21時50分] 梅の花 川に零れて 道標 小春日に 墨の一滴 鶫の尾 約束は 雪解け水と 沢に消え ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]祖母の瞳は日に日に還る/亜樹[2014年2月11日22時16分]  あら、また来たの、と祖母は言う。  ああまた来たよと私は答える。そうは言うものの、彼女が孫である私のことなどこれっぽっちも覚えてやしないので、私はまたいつものように自己紹介をした。  それがいつから始まったのかははっきりしない。思えばそれは叔母が意気揚々と祖母に食器洗濯機を買い与えた頃からではなかったのか。けれどもそれを言えば叔母が気を悪くするだろうから、私はずっと口をつぐんでいる。  食器位自分で洗えるわ、と祖母は確か憤っていたはずだ。思えば彼女はいつも怒っていた。子供心に「凛とした」とは祖母のことを指すのだと私は知っていた。  けれども今、彼女はいつもだらしなく笑っている。あなたのこと知っているのだけれど、ちゃんと覚えているのだけれど、どうしても名前が思い出せないの、のポーズであることを私は正しく知っていたので、きちんといつも自己紹介をする。  数年前、隣の空き地にマンションが建ち、この古い家は前にもましてぐっと日当たりが悪くなった。日照権を争った裁判は早々に負け、祖父はその日のうちに庭にあった大きなざくろの木を切り倒してしまった。  けれどもその祖父ももういない。外の寒さなどかけらも知らない暖かな部屋の中で、私は口をつぐんで祖母の瞳をじっと見つめる。左目は私が生まれて間もないころに白内障にかかり、もうまったく見えていない。その青白い濁った色が、私の知る祖母の色だった。  いつも何かに憤っていた、その目が今はひどくあどけない。  私が年を取ったのを同じように、彼女はゆっくり子供に戻る。   --きょうだい、なかようせなあかんよ  彼女の頭が今よりずっとはっきりしていたころ、彼女は繰り返しそういった。それからしばらくして、彼女の口から出るのは恨みつらみの積もった、ほの暗く重たい呟きだけだった。  それはたとえば戦争で皆死んだ兄弟のことだったり。  御嬢さん育ちで何もしない母親のことだったり。  そんな田舎には帰りたくないと、結局疎開先から一度も帰ってこなかった末の弟のことだったりした。  彼女の具合はいよいよ悪い。とうとう娘のこともわからなくなったと叔母が嘆いていた。  けれどもそれがそんなに悪いことばかりでもないような気がする。あの頃来る返し繰り返しつぶやいていた怨嗟もみんな、彼女は忘れてしまったのだろうから。  他人の私は口を利かない。青灰色の瞳を見ながら、あどけない幸せな思い出が彼女の口からこぼれ出る日を、今か今かと待っている。 ---------------------------- [俳句]祖父の庭/亜樹[2014年4月2日22時11分] 鵯も食わぬ石榴の祖父の庭 霞む空姿の見えぬ鳥の声 サクラモモウメにレンギョウ山の雲 背比べ白い椿に見下ろされ 一歩進みそれから動けず振り返れば春 ---------------------------- [自由詩]カンパネッラ/亜樹[2015年4月26日20時58分]  カンパネッラ、君は今頃、  あの青白く光る星の裏側を、  旅している頃でしょうか    そこから見ればこの星で、  炭酸ガスの割合や、窒素や燐の配合や  地割れや雪崩や日照りに寒さ、おおよそ自分の身に余る  その他、諸々な事象や現象に  頭を悩ます私などは  さぞかし小さく  見えるで  しょう  ブラウン管の向こうに見えた、  画質の悪い現実は  今となっては可愛いもので、  量販店にずらりと並ぶ  薄っぺらな液晶の、  その向こう  現実よりもなお明るい、  色、いろ、イロ。 (六等星はもう僕らを見捨てました)  カンパネッラ、  君はまだ、そこにいますか?   そこにいて、くれていますか?  今はもう光だけを残す、  オリオン、  ベテルギウス、    僕の、友達。   ---------------------------- [自由詩]guruguru/亜樹[2015年4月27日19時48分]  日本語は罵倒語の少ない言語、だというが  今も私の内をぐるぐると  巡り巡って血肉となった  汚い、汚い、言葉の数を  数えてみたならそんなこと  きっと言えぬに違いない。  生まれついての不器量に  せめて優しい人間に  なりたいと思ってつぐんだ言葉が  今となっては私の手。  カタカタと音を立てたたくキーボードの  よどみない旋律が  爪の先まで満ちた悪意を  手渡す相手を探しています。  自らを『レイチョウルイ』だなんて  大層な名前を付けた、その理由を  探し出すことがこんなに難しい。  それならいっそなんにもかもを投げ出して  ケダモノのように唸ってみたい。  けれどもあまりに短い爪、  貧弱な牙  ぐるぐるがるぐる  なりそこないの咆哮   ---------------------------- [俳句]誰もみな/亜樹[2015年4月29日22時23分] 誰もみな忘れた杉よ藤の花 紅の花弁を滲ます皐月雨 稲苗の月になりけり祖母の爪 花もない山も追い越し泳ぐ鯉 石垣の闇から延びる赤い薔薇 色水を吸って枯れゆく母の花 ---------------------------- [短歌]GWの始まりに/亜樹[2015年4月29日22時41分] キャスターが告げるGWの始まりに壁の暦がもてあます明日 人様の都合を聞かぬこの星を苛めるために振りかざす鍬 白米に気色の悪い虫が湧く結局おんなじように生きてる 要するに食物連鎖のくくりから弾かれちゃったビー玉が[ワタシ] 細胞の一つ一つが叫んでくダイイングメッセージ忘れたい昨日 ---------------------------- [短歌]藤の花に/亜樹[2015年5月8日21時15分] 藤の花に締め上げられてる杉の木が声も立てずに朽ちてゆく初夏 通学路の木の葉の影を覚えてるもう二度と通わない道 肌の色が日に日に焼けてく子供らが通りてく百日紅の下 「まあだだよ」探す気のない鬼を呼ぶ茂みが揺れる「もういいよ」 あの雨が私の知らない真夜中に私の牡丹を盗んで行った 朴の花に見下されるわたしとあなた似た者同士よ並んで歩こ ---------------------------- [自由詩]足の小指/亜樹[2015年5月8日21時27分] 足の小指が嫌いなのだ  気付いた時には、箪笥の角にぶつかっていたりする 足の小指が嫌いなのだ  爪がひしゃげて白くにごり何よりひどくみっともない 足の小指が嫌いなのだ  スマートとはいえずどんくさく、それでも歩くわたしの一部 ---------------------------- [自由詩]3度目の/亜樹[2015年5月29日23時43分]  ジョージ、君がいなくなって、今年でもう三度目の夏が訪れようとしています。  ピンタゾウザメがいなくなったことで起きる弊害は今のところ  私の生活に訪れてはいません    アインシュタインや夏目漱石のように  百年生きた君の体は、  丁寧に丁寧に腑分けされ  いつかの懐かしい理科室の匂い  いかにも薬品らしい液体に中に沈められ  長く長く保存され  それは人々の暮らしに役立つと言いますが、  多分私の生活に  その恩恵が訪れることはないでしょう。  ジョージ、君は、その人生のほとんどを見世物として過ごしました。  餓えることなく、生命の危機を感じることなく、60年の年月を過ごした君よ。  貴方は多分、私のように、不安で寝れぬ夜を過ごしたことはないでしょう。  痛いほどに鼓動が早まり、大勢の他人の前で、滝のような汗を流したことも。  狩られ、殺され、美味しく美味しく食べられた、ドードー、リョコウバト、ステラーカイジュウ。  その狩人たちがもろ手を挙げて叫ぶ動物愛護と自然保護。  自らの後ろめたさに背を向けて、違う誰かをことさらに糾弾するあの団体が  私は嫌いでなりません。  ジョージ、君がいなくなって、三度目の夏です。  何をどう喚いても、ちょうどよく傾いたまま、大地は止まらず回っています。  どれだけ時間が過ぎ去っても、もう二度と君には会えない。  ガラパコス諸島に憧れることは、もうないでしょう  ああ、ジョージ。ピンタゾウガメとガラパコスゾウガメの違いなんて、きっと君は知らなかった。  卵が一つも孵らなくても、孤独と、無縁だった、あなた。  一人ぼっちなのはいつだって、ゲージの外に、いる私。      ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]「アベ政治を許さない」ってそもそも日本語がおかしい/亜樹[2015年7月19日10時58分]  「アベ政治を許さない」ってそもそも日本語がおかしい、と思う。  アベ政治ってなんなのだ。安倍首相個人のことなのか。政策のことなのか。自民党全体のことのなのか。それとも今回の強行採決を指すのか。  そもそもなんで「アベ」なのか。漢字で書けばいいじゃないか、とか。どうでもいいことをつらつらと考えてしまう、日曜の朝である。  そんな時思い出すのは、昨年亡くなった、神風特攻志願兵だった祖父のことである。  満州に産まれ、日本軍の戦闘機が敵機を殲滅する様子に感銘を受けた祖父は、16の時に特攻隊に志願したという。けれども戦闘機に乗り込む前に終戦を迎え、祖父は靖国に祀られることなく、卒寿を迎え、ガンで死んだ。  いつだったか、北朝鮮のニュースを一緒に観たとき、祖父はぽつりと「日本はこんなんじゃなかったなぁ」と言った。  祖父は自分の意思で特攻に志願したし、今でも何か起これば国のために死にたい、ということをもごもごと話した。  テレビのコメンテーターは「戦時中の日本もこんな風だったってうちの祖父が言っていました」といい、そうして別のニュースへと移って行った。  過度な賛美をする気はないし、戦争がしたいとも思っていないけれど、現代の感覚で戦時中の全てをまとめて美しく悲惨な悲劇だったと報道してほしくないし、それを反戦や政治批判の材料にしてほしくはない、とも思う。  そんな日曜の朝である。 ---------------------------- [自由詩]リコリス/亜樹[2015年10月14日21時55分] レントゲンに映らない黒い綿埃が私の肺にたまる頃、 今年もあの赤い花が寂しい寂しい休耕田の、 それでも草だけは刈った畦を彩り、 そうして見る間に色あせていく。 息を吸う。 吐く。 吐息に混ざる白い色。 静かに立ち上る煙は、 物言わぬ夏の名残を焼いている。 もう何も動かなくなる季節に、 もてあました黒。 夏の影。 間違えようのない悪意。 凝り固まった飴は、 やっぱり今日もまずかった。 ---------------------------- [自由詩]嘲ける人/亜樹[2015年12月25日16時21分] 飲み込んだチョコレートが 胃の中でどろりと溶ける 何の役にも立たない甘さ 何の役にも立たない苦さ 悪い夢を見た朝に 汚してしまった下着の色 一日中ついて回る後味の悪さ 標的もいないまま 構えたまんまの機関銃 少しずつ腐っていく、歪み。 化粧台の三面鏡が 自分のためだけに紅を引く女を あざ笑っている ---------------------------- [自由詩]泣けよ、サファイア/亜樹[2016年3月30日19時42分]  泣けよ、サファイア、二番星。  煌々と、夜が凍っている間。  か細い音が、反射する。  それが誰にも、届かなくても。  泣けよ、サファイア、二番星。  鳥の声が、切り開く夜明け。  直に水もゆるみます。  濁った色彩に、覆われるその日まで。  泣けよ、叫べよ、二番星。  美しいだけが、その価値なら。  泣けよ、サファイア、二番星。  遠い過去から、届く光よ。 ---------------------------- [自由詩]深海魚の気持ち/亜樹[2016年4月2日3時22分]  遮光カーテンは閉めきったまま  四角い箱の中  スマートフォンの青白い灯りを頼りに  じっと目を凝らす夜。    ここいらはもう海の底でした。  重たくて、暗くて、冷たくて、塩っ辛くて。  生臭い体液の匂いが生でした。  その底に沈む、醜い魚。  ぐねぐねした肌。  濁った目。  鋭い歯は何の力もなく、  自身の舌を、  痛めつけ、  そうして吐き出す、あぶくが一つ。  また一つ。    心臓だけがうるさく叫び、目は冴え、その癖頭はかすみ。  自分からは動かないくせに、誰かが見つけてくれるのを待っている、  さもしい魚のそのおぞましさ!  特別な才能なんかを、持っているわけでなく、  誰かにとっての、必要にもなれず、  舌の根は乾き、もつれ、  呼吸ですら満足にできず、  そのくせ浅ましくも報われる日を待っている、  深海魚の吐く、そのあぶくが一つ。  また一つ。 はじけてしずむ ---------------------------- [自由詩]人に好かれる努力をしなよ/亜樹[2016年4月2日6時59分]  人に好かれる努力をしなよ、と  先生だったか、  友達だったか、  社会人だとかに言われたので、  一晩眠らず、  考えてみたのだけれど。  人に好かれる努力とは、  例えば髪を整えて、  しっかりきっちり化粧をし、  TPOをわきまえて、  にっこり笑って天気のはなし。  ほんの少しも興味のない、  会ったことのない他人のはなし。  ごますりよいしょにワッハッハ。  それからそれからそれからなあに?  人に好かれる努力とは、  素直な心で微笑んで、  明るく元気に過ごせばいいと  普通の人は言うけれど、  それで好かれた試はないし。 (ありのままの自分、なんてものに価値があると、自惚れてるわけではないけれど)    人に好かれる努力をしなよ、と  言われたので。  言われてしまった、ので。    私は困っている。  困っている。     ---------------------------- [自由詩]あなたの知らないところで/亜樹[2016年4月18日21時52分]  藤の花が咲いています  あなたの知らないところで  藤の花が咲いています  あなたの見えないところで  今はもう打ち捨てられた山林の  雑木林が煙る春  柔らかな新芽の真新しい色  ほんの少しの隙間から  山吹が必死に手を伸ばす  そのほんのとなりがわ  雨が降ったら濡れるしかない  風が吹いたら折れるほかない  規則正しく並んだ杉が  間引かれないまま順番に  絞殺される春の終わりに  藤の花が咲いています  あなたの知らないところで  そうやって少しずつ  わたしたちに見えないところで。 ---------------------------- (ファイルの終わり)