いとう 2005年7月11日0時22分から2005年12月24日11時24分まで ---------------------------- [未詩・独白]詩とは、/いとう[2005年7月11日0時22分] 自分がさらけ出されるものであって、 自分をさらけ出すものではない。 ---------------------------- [未詩・独白]天敵のいない八月/いとう[2005年7月20日0時20分] 上手く眠れないままの空が白み始める。轟音 で走り去る獣たちもわずかで、その咆哮にも ためらいが見える。廃墟の影に潜む小人たち は闇が消えていくに連れ恐る恐る顔を覗かせ 覗いた顔を逆に覗かれて恐れられる、ことを 知らずに小人たちは恐れる。 空気は湿っているが澱んではいない。空は低 く、雲の影が獣たちを覆い尽くす。多くの獣 たちはやり過ごす術を知っているが、影の重 みに耐えられないものもいて、死骸がそここ こに漂っている。小人たちが時折それを廃墟 に運んでいく。 生きるのに懸命なものはとても静かだ。小人 を捕らえて食むと磨り潰される気配がするが、 小人は鳴かない。静かな、天敵のいない八月。 獣たちの空は曇っている。声を発するのは、 生き残ったものたちだけだ。 手を伸ばすと雲に届く。雲の中で泳ぐ稚魚の 感触とは異なるものがいる。おそらくは鱗だ と思われるその鋭利な感触で指を切る。血を 求めて、稚魚たちが群れる。意味もなくそれ を握り潰すと、臭いにつられて稚魚たちがさ らに群れる。 山並みの遠くに似たような姿がある。瞳はそ の姿を映し出すが、瞳の奥には何もない。そ の矮小な球体のレンズは見たものを反射する のみで、何もない。 映った姿は、おまえだ。 そしてそれは、おまえだけのものだ。 瞳は鳴かない。鳴くことはない。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]空を飛ぶために捨てなければならないもの/いとう[2005年7月27日0時18分] 益野大成さん「飛ぶ」に寄せて http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=42285 空を飛ぶ夢を見たことがあると思う。 「飛ぶ」という身体感覚を感じることの不思議さ。 そう。不思議なことなのだそれは。 けれども私たちはそれを知っているのだ。 まず、 片仮名の不思議な語感が浮遊感を与えてくれる。 ぜひ音読してみて欲しい。 風との対話を楽しむことができる。 この片仮名によって、読者も飛ぶことができる。 そしてもちろん、 この作品は浮遊感のみに焦点を当てて満足すべきものではない。 「飛行者」は、何故飛んでいるのか。 そこに「詩」がある。 飛ぶという身体感覚を得るために排除すべきものは、 皮肉なことに、身体そのものだったりする。 人は飛べない。身体を持つ限り、飛ぶことができない。 それは夢なのだ。夢の中だけで飛べるのだ。 「この飛行者には」から始まる連では、 作品の構成として様々な変化が起きている。 表記のうえでは片仮名が消え、 人称が一人称から三人称へ変わる。 そして、これらの変化は 「飛行者」の失ったものの記述という、内容の変化に内包される。 この飛行者は、飛ぶために多くのものを捨てた。あるいは捨てざるを得なかった。 そして捨てたからこそ、飛んでいるのだ。 飛行者には何もない。自分自身の身体もない。 文字どおり、「僕の亡き」その身体は、 「石」のように哀しく、 遥か下方の「地上」に「ちいさな地蔵と影」となって表れている。 自身を示す物が捨てさられ、他者との関係も消え、宿命すらもなく、 そらをとぶ、ゆめだけがのこり、そして、ゆく(逝く)のだ。 ---------------------------- [未詩・独白]エントロピーの黄昏/いとう[2005年8月3日8時52分] 体温と体温が混じりあい 肌と肌の境界を失うように わたしとあなたも、また いつしか混じりあうのだろうか それとも、また いつまでも失い続けるのだろうか 熱的終焉の果て 触れあうことに気づけないのなら そこには、もう わたしたちを知るものはいない よすがなく雪崩れこむ あなたのその膨大な熱量は わたしに受け取られ続けるだけで 何も語ってはいない 消失する落差 名のない世界 それすらもない 終わりすらない あやまちもない ---------------------------- [未詩・独白]愛ではない(未完の)/いとう[2005年8月7日2時08分] たとえば地震が起きたときに 真っ先に 何かを考える前に 眠っているあなたに 身を挺して覆い被さるように それを何と呼べばいいのですか 恋人よ 恋人たちよ 言葉にされたものは貧弱だ それを愛と呼んではいけない 愛ではない 愛などない 愛と呼ばれた瞬間 それは愛になってしまう ---------------------------- [未詩・独白]夢見る継続/いとう[2005年8月24日18時30分] いつものように顔を洗って 出直してこいよなんて言われなくても そんなことくらいわからないわけないんだよ わかっててやってるんだから 君に会えなくなっても 君の夢くらい見たっていいじゃないか どうせ眠れないままかそれとも 夢も見ないほど深く 叩き落とされるだけなんだから ちょうど今彼女が目を覚まして お買い物しようなんて言ってる 何も知らないくせに 全部お見通しだったりするんだよ これから2人でスーパーへ行って キャベツと玉子 それとオリーブオイルも買うよ 夜は一緒にスパゲティを茹でて 一緒にいただきますを言うんだ 眠い目をこすりながら 今日も眠れなかったなんてナイショのままで (君にもナイショなんだけどさ) 当然泣いたりなんかしないで ツマンナイって駄々をこねる彼女に 笑いながらキスをして そうやってごまかされながら 全部お見通しの彼女と一緒に 君のことを考えたりするんだ 全部お見通しの彼女に怒られながら お酒を飲んだりするんだ ---------------------------- [未詩・独白]傘と白い手/いとう[2005年8月31日0時15分] 長雨の続く夕刻の水溜まりに影が映ることは ない。泥水のように濁るわけでもなく、清水 のように色も無くすべてを透過するわけでも なく、それは雨水と呼ばれるものと酷似して いる。事実、それは雨水と呼ばれても遜色が ないのかもしれないし、誰もがそれを雨水と 呼ぶのだろう。 雨は遥かな高みから傘に激突してくるが、そ の軽さゆえに重力の力を借りても傘を突き破 ることはない。ただ、音だけを残して雨は傘 に敗れ去っていく。雨の望むと望まざるにか かわらずそれは決定づけられていて、運命と 呼んでもさしつかえないものだけが残る。 いくつかの水溜まりのひとつには必ず、細く 白い手が無数に伸びている。アルビノのミミ ズのようなその白い手は何か、目の代わりの ような器官を使って周囲を感知しているらし く、通り過ぎる人々の膝をめがけて突進を繰 り返す。その試みのほとんどは失敗に終わる が、時折、遠ざかっていく人の速度に合わせ てするすると伸びていく手も見える。 雨は水溜まりを浸食していく。雨水は雨水と 呼ばれるものと出会い、同化し、水溜まりは 他のいくつかの水溜まりとつながり、境界と 境界はその意味を放棄する。白い手の群れは 密集できる場所を失い拡散していく。飽和こ そが存在価値であるかのように、その群れは 失われる。 傘はない。 群れのための傘は、どこにもない。 存在しない。 ---------------------------- [未詩・独白]魂のたそがれ/いとう[2005年9月28日0時28分] 触れ合うためにあるものを 手、と呼ぶのなら 私はいらない 私には ない たそがれは穏やかに その時を待つ 眠れない暗闇と静寂は 心を熟すのではなく 怯えさせるのでもなく ただ過ぎ去り 埃が知らないうちに 肌に吸い込まれ 私のものとなる 満月はいつしか細くなるが それは欠けるのではなく 闇に満たされるのだ たそがれは それを知っている たそがれは それを知っているので 私の 手を剥ぎ取る たおやかに しめやかに 目を伏せながら そしてそれは 儀式ですらなく ただ 日常と呼ばれる ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]指標を越えて/いとう[2005年9月28日0時38分] uminekoさん 「sky」に寄せて。 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=48600 読者の心を揺り動かすだけなら、 技巧はいらない(もしくは技巧さえあればいい)。 あるいは、詩でなくてもいい。 さらに言えば、ポエジーすら必要ない。 この作品は言うまでもなく完成度としては低い場所にある。 商業詩誌の投稿欄に応募したなら、 確実に落とされるだろう。そういう作品だ。 たぶん自分が選者でも落とす(笑)。 けれども、それでも、これは秀逸な詩だと思っている。 詩の指標など、いくつあってもかまわないと思う。 完成度のみを求める必要もない。 ひとつの指標のみでその作品の良し悪しが決められるべくもなく、 ただ、その指標から見た場合、そぐわないというだけだ。 と同時に、 いくつもの指標があることに作者が甘えていると、 作品は死ぬ。死んでいく。腐っていく。 そういうことだと思う。 「詩とは何か」という命題に対する答えは、 自分自身が築くものであり、同時に、 自分自身が否定し続けなければならないと思っている。 個々人に基準があり、それは尊重されるべきで、 同時に、個々人はその自分の思う基準に甘えていてはいけない。 そういうものだと思う。 そして、蛇足として言うなら、 「それぞれに基準があること=何でもあり」ではないのだ。 何も考えずにそれを結びつける行為は、短絡的と言わざるを得ない。 「sky」。 Sep.11に衝撃を受け作品を残した詩人を何人も知っている。 自分もその一人だし、モチーフとした作品も書いたが、 否定的な見方をすれば、 残念ながらその多くは「テロの詩」の範疇に留まっている。 その悲惨さ、それを産んだ傲慢、戦争への恐怖、嫌悪、それを越えるための希望。などなど。 語弊を恐れずに言えば、反戦詩、平和のための詩など、誰にでも書ける。 表面さえなぞればそれで済むからだ。 真の反戦とは日々を美しく生きることだと誰かが言ったが、 美しく生きるには相応の覚悟が必要であり、 それに類するものが、「sky」には描かれている。と思う。――「テロの詩」を越えて。 あの出来事に、もしくはあの映像に、 実際に自分自身とどこまで接点を持つことができるか。 (あの出来事の)何が、(自分の中の)何とつながって、それをどう表すのか。 そこがちきんと見つめられている作品は、指標を越える。 そういう作品を、見落としてはいけないと思っている。 指標は大切だが、固執すると見失うものがある。 見失ってはいけないものを見失うことは、悲劇につながる。 あの日以後の、この世界のように。 ---------------------------- [未詩・独白]ひそやかにミッフィー/いとう[2005年9月29日16時58分] ミッフィーはイラストのウサギです ミッフィーはウサギで野ウサギではありません ミッフィーはイラストの野ウサギでなくイラストのウサギです ミッフィーのイラストは野ウサギでなくウサギでイラストです ミッフィーのウサギはイラストでイラストの野ウサギではありません ミッフィーのウサギはウサギでなくイラストで野ウサギではありません ミッフィーのウサギはイラストでウサギでなくイラストの野ウサギではありませんがイラストです ミッフィーは野ウサギのイラストでなくウサギのイラストです ミッフィーの野ウサギはウサギでイラストではありません ミッフィーの野ウサギはイラストでなくウサギでイラストではありません ミッフィーの野ウサギはイラストでなくミッフィーでもありません ミッフィーは野ウサギでなく野ウサギのイラストは跳ねません ミッフィーは野ウサギでなく野ウサギは跳ねますがイラストは跳ねません ミッフィーは野ウサギでなくイラストで跳ねませんしイラストは野生でなく跳ねません ミッフィーはイラストで跳ねませんが野ウサギは跳ねて野生です ミッフィーはイラストで跳ねませんが野ウサギは跳ねてイラストではありません ミッフィーのイラストは跳ねませんが野ウサギはイラストでなく野生で跳ねます ミッフィーのイラストは跳ねませんが野ウサギは野生でイラストは跳ねません ミッフィーのイラストは跳ねませんが野ウサギはミッフィーでなく野生で跳ねます ミッフィーはウサギで野ウサギでなくイラストは跳ねませんが野ウサギは跳ねます ミッフィーはウサギでイラストは跳ねませんが野ウサギはミッフィーでなく跳ねます ミッフィーはウサギでイラストは跳ねませんし野ウサギは野生で跳ねますが野ウサギのイラストは跳ねません ミッフィーは野生でなく野ウサギのイラストは野生でなく跳ねません ミッフィーは野生でなくイラストは跳ねませんが野ウサギは野生でイラストでなく跳ねます ミッフィーの野生はイラストでなく野生ですが跳ねません ミッフィーの野生は野ウサギでなく野ウサギの野生は跳ねません ミッフィーの野生は野ウサギでなく野ウサギは野生で跳ねますが野生は跳ねません ミッフィーの野生は野ウサギでなくイラストでなく跳ねませんし食われません ミッフィーはイラストで食われませんが野ウサギは野生で食われます ミッフィーはイラストで食われませんし野ウサギの野生も食われません ミッフィーはイラストで野生でなく食われませんが野ウサギは食われて野生は食われません ミッフィーのイラストは食われませんが野ウサギは食われてイラストも食われません ミッフィーはウサギでイラストで野生ではありませんが野ウサギは食われて野生は食われません ミッフィーはウサギでイラストは食われませんし野ウサギの野生もイラストでなく食われません ミッフィーはウサギでイラストは食われませんが野ウサギはイラストでなく食われます ミッフィーはウサギで野生のイラストでなくイラストは跳ねませんが野ウサギは食われます ミッフィーはウサギで野ウサギの野生は食われませんが野ウサギは跳ねて食われます ミッフィーはウサギで野生でなく食われませんが野ウサギは野生で跳ねて食われます ミッフィーはウサギのイラストで食われませんが野生でなく野ウサギは野生で跳ねて食われます ミッフィーは野生でなく跳ねませんし食われませんが野ウサギは野生で跳ねて食われます ミッフィーは野生でなく食われませんがイラストで野ウサギは野生で跳ねて食われます ミッフィーは野生のイラストでなく食われませんが野ウサギは野生で跳ねて食われます ミッフィーの野生はイラストでなく食われませんが野ウサギは野生で跳ねて食われます ミッフィーも野生もイラストも跳ねませんし食われませんが野ウサギは野生で食われます ミッフィーも野生もイラストも食われませんが野ウサギは野生で食われて死にます ミッフィーも野生もイラストも死にませんが野ウサギは野生で食われてひそやかに死にます ミッフィーも野生もイラストも跳ねませんが野ウサギは食われてひそやかに死んで跳ねません ミッフィーは野生でなく跳ねませんが野ウサギは食われてひそやかに死んで跳ねません ミッフィーはイラストで死にませんが野ウサギは食われてひそやかに死んで跳ねません ミッフィーは跳ねませんが野ウサギは食われてひそやかに死んで跳ねません 食われてひそやかに死んで跳ねません ひそやかに死んで跳ねません ひそやかに ひそやかに死にます ミッフィーではありません ひそやかに ひそやかです ---------------------------- [未詩・独白]しあわせ/いとう[2005年10月7日1時43分] いつのまにか あなたがいなくなることが いつのまにか 怖くなっていて それは 幾日もの あなたと私の 笑顔の証 とても不思議なことに 朝はいつも訪れる 目が覚めると 朝はベッドの中にまで入り込んでいて それは私の隣りの 柔らかな寝息と いつも結びついている ---------------------------- [未詩・独白]異葬/いとう[2005年10月26日0時27分] 遺さずに 消えるものはない 指先で 痕をなぞると 血の滲む感触 知っている 拒んでいる 肌の震えは 接する場所を 浮き彫りにして 揺れる 境界 けれども 破れることなく 混じることなく 棘、と呼ばれる 強靭な その ことなり を ほうむる あとの さきの ひびの きえる これ 以上は 失った 言葉を拾おう 知っている あれは 私の涙だ ---------------------------- [未詩・独白]バレンタイン/いとう[2005年10月27日0時50分] あかいぬにあかちょこれいと くろいぬにくろちょこれいと あさぎりの かげにかくれて おどるいぬたち しろいぬにしろちょこれいと あおいぬにあおちょこれいと かおのただれた おじいさん ねっころがって おきあがらない ちゃいぬにちゃいろちょこれいと みどりいぬにみどりちょこれいと ---------------------------- [未詩・独白]僕たちはいつも独りで/いとう[2005年11月9日18時10分] 死ぬときはひとりでいたい 本当にひとりで 見守るものもなく 見捨てるものもなく 星が 星の瞬きが 気づかれないうちに黒く 黒く輝くように かなしいとか なみだとか そんなものはいらない そんなものはない まして 持っていけるものなど どこにあると言うのか 星が 星ではなく君が 君の 輝きが黒く 黒く染まるなら 手を繋いだりしない 顔を拭いたりもしない 僕たちは独りだったねと どこかでつぶやいているよ 僕たちは独りだったねと 風が 風が夜空を さらっていくまで ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]詩と大脳生理学。その1/いとう[2005年11月11日19時23分] 大脳生理学と大きく出たけど、実際のところ俺も脳のしくみについてそんなに詳しいこと は知らない。一般常識程度。というわけで一般常識程度の大脳生理学の知識によって詩に どこまでアプローチできるかいろいろ考えながら書いてみよっと。ということで、詳しい 人は頼むからつっこまないでくれ(笑)。 ずっと昔に雑誌で読んだ海外の論文の翻訳の中で、人間の意思決定には必ず感情がつきま とうという話があって、これは感情的な判断だけでなく、理性的な、たとえば数式を解く 時などにもつきまとうという話らしい。俺のおバカな頭で思うに、これは記憶の話と関係 してるのね。人間が物事を記憶する場合、大雑把に言って3種類の段階があります。超( スーパー)ショートタームメモリー、ショートタームメモリー、ロングタームメモリーの 3つ。めんどくさいのでそれぞれSSTM、STM、LTMとします。 ま、知ってる人は知ってるので知らない人向けに説明すると、SSTMは数秒で忘れちゃう 記憶。たとえば口頭で電話番号を聞いてそこに電話しました。で、電話が終わったあと、 その電話番号覚えてる? 俺は覚えてない(笑)。そういうのがSSTM。STMはもうちょっ と長い。数日くらいで忘れる記憶。1週間前に何食ったかなんて、普通は覚えてない。 そういう記憶。LTMはずっと脳の中に蓄えられる記憶。子供の頃のこととか、初めてのえ っちの記憶とか(笑)。 で、基本的に記憶化の過程には、脳の中の海馬(かいば)という部位が働いてんのね。ま ずそこで情報がチェックされて、残しておくべきと判断されたもの、あるいは強烈な印象 を伴ったものがLTMとなる。LTMがどのように蓄えられているのかは諸説あってまだはっき りとわかってないそうです。ちなみに強烈な記憶というのは楽しい記憶ばかりじゃない。 トラウマとかPTSDとか、そういうのもある。だけど脳というのは面白いもので、そういう 記憶を無理矢理LTM化するのと同時に、その記憶を隠したり捻じ曲げたりするのね。そう やって緩和してる。 記憶の話ばかりしてもしょうがないな(笑)。んで、海馬の近くに、あー、なんて言った か忘れたけど、原始的な好悪の感情を司る部位があって、知覚されたものはすべてそこを 通るのね。その部位を通ると同時に海馬でそれが記憶されて、判別される。逆にLTMとし て記憶される時に、その部位での好悪の感情も併せて記憶されるらしい(このへんは諸説 あり)。ちなみにこの好悪の感情の形成にはニューロンやシナプスがおおいに関係してい て、ぶっちゃけた話、好き回路をたくさん通ると好きになるという極めて単純なカラクリ。 月に1回デートするよりも、毎日メール交換してる方が恋人になる確率は高いのだよ(爆)。 さてさて。ここでようやく詩の話。原始的好悪の判断と詩を書くという行為について。論 として2つに分けます。まず、詩を書くという行為そのものに関する好悪。そして、書く 内容、主題に対する無意識的好悪。この2つ。 まず最初。極端に簡単に言えば、「あなたは何故詩を書くのですか?」という質問ですこ れは。詩を書く書かないの分水嶺がどこにあるのかを生理学的に捉えた場合、絶対にこの 部位が関係していると考えてる。俺はね、詩なんか書かないで生きていられた方が絶対に 楽だと思ってるのね。だけど詩を「書いてしまう」のは、詩を書く人それぞれの無意識に、 そういった原始的好悪の判断があるからなんだと思う。書かないのは、あるいは読まない のは、何らかの原因でマイナスへ傾いているのか、まだその部位を伝ってニューロンが形 成されるまでに至っていないのかのどちらか。 で、詩を広く読まれるものにしたいと思う立場から考えた場合、じつはここに重要な要素 が隠されているのね。この好悪の判断は基本的に外部刺激によって形成されるので、詩に 対するプラスの感情を継続的に発信することができれば、それはそのままそういった道へ つながります。で、余談だけど、「プラスの感情の継続的な発信」をどのように行うかは、 じつはマーケティングの手法に頼るところが大きいとも思っています。 次。内容と主題について。これは「あなたは詩において何をどのように表現したいのです か?」という質問。主題とするものがこの部位と関連してるというのはまぁ、ちょっと考 えればわかるのだけれど、そういう単純な話がしたいわけじゃないです。それを前提とし たうえで「何をどのように表現すべきか」という問題についてです。観察力と表現力の話。 作者が主題とするものは、内部からの想起にしろ外部からの刺激にしろ、必ずその部位を 通過します。そこで問題になるのは、通過した場合の好悪の判断が、深い部分では千差万 別のものだということなのね。ニューロンやシナプスの状態が同じであるわけがないから。 ちなみにここでの好悪の判断というのは、理性的な判断ではなく、あくまでその部位にお ける原始的な判断という意味合いです。間違えないでね。んで、その千差万別を無視して 書いちゃうと、これは結局のところ自己満足につながるのね。あくまで無意識レベルでの 話なんだけれど。でも、その無意識は詩作において、少なくとも俺自身は無視できないで す。で、無視しないという無意識的行為は、観察力と表現力につながっていきます。んー、 わかりにくいかなぁ。説明がなんか下手だなぁ…。 んと、千差万別であるということは、詩の内容や表現手法において正しいものが存在しな いという話につながると同時に、千差万別であることにのっとった手法も存在できるとい う話につながります。すなわち、読者の原始的好悪の判断にまで無意識レベルにおいて思 考が及ぶと、その詩は素晴らしいものになるのではないのかなと。逆に言えば、世の中で 素晴らしい詩と言われているものにはそういった要素が含まれているのではないかと考え てるのね。 もちろんそれが読者に媚を売ってるわけじゃないのは賢明な皆様にはおわかりでしょう。 さらに、「のっとった手法」が「共通認識」に依存しているわけではないことも経験的に おわかりでしょう。「共通認識」に依存する手法は(狭義における)詩ではなくてどちら かと言えば(いわゆる)ポエムの手法に近いのかもしれない。(もちろん別にポエムを貶 しているわけではなく) で、そのような要素がどこに表出するかといえば、それはもう、主題の掘り下げと手法に 他ならないんだよね。俺は批評とかで、特に構成や手法といった技術的部分について言及 することが多いけれど、そしてその点について時々誤解されるのだけれど、それは別に 「詩は技術によって“構築できる”」と考えているわけじゃないのね。そんな小手先で魂 の発露に迫れるわけがない。そうじゃなくて、魂の発露といったものを「(理想としての) 完成された詩」により近い形で形成しようと考える場合に、技術が、そして技術を理解し て把握するということが、とても重要なものだと考えているわけです。この次の「その2」 で書くんだけれど、詩は右脳だけで書けるものではないし、左脳だけで作れるものでもな いということです。 とまぁ、次への前フリも出てきたのでこのへんでおしまい。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]詩と大脳生理学。その2/いとう[2005年11月11日19時23分] はるか昔、世間は男脳・女脳という話で盛り上がってたみたいです。簡単に言っちゃえば、 男脳は左脳右脳(特に左脳)がそれぞれに特化した脳、女脳は左脳右脳の橋渡しとなる脳 梁(のうりょう)が発達している脳らしい。ちなみに言語中枢について、男性が基本的に 左脳に集中しているのに対して、女性は左右に分布しているという測定結果もあるそうで す。まぁ男脳・女脳という表現、そしてそれらが形成されていった経緯に対する推論など は、多くのジェンダー、フェミニストの方々に思いっきり攻撃されているし、俺自身もそ のへんに関して詳しいことは知らないのでここでは割愛。というか、そんなことが書きた いから書いてるわけじゃない。 本題の前に。 その昔、金魚を使ってとても興味深い実験を行った学者がいました。金魚の脳梁をですね、 まず、ぶった切るんですよ。そうすると左脳右脳間の情報伝達がまったく行われなくなり ます。んで周知のとおり、左脳は空間や図形を把握する機能があって、右脳は色彩関係を 把握する機能があるんですが、ここで、左脳右脳それぞれに学習させるわけです。左脳に は、丸い輪と四角い輪を2つ並べて、丸をくぐるとエサ、四角は電気ショックという学習。 右脳には、赤い輪でエサ、青い輪で電気。これをそれぞれ片目で見させて(視神経は右目 左目それぞれの神経が左脳右脳に分かれてます)学習させた後、両目のままで、丸くて青 い輪、四角くて赤い輪を見せるわけですね。要は左脳右脳のどちらに純粋な優位性がある のかを確認する実験だったのですが、これ、どうなったと思います? 金魚。動かなくなっちゃいました(爆)。 ぶっちゃけた話、気が狂っちゃったんですね。その金魚。 コンピュータで言えば永久ルーチンに入っちゃった感じ。堂々巡りでフリーズしちゃう。 本題に入る前にもう一つ。さっき言語中枢と大雑把に言っちゃったけど、じつは言語中枢 というのはその機能において大きく2種類に分かれています。簡単に言えば、「認識」と 「構築」。林檎を見て「林檎」という言葉を思い出す、すなわち「林檎」という言葉を介 して林檎を「林檎」であると認識する機能と、逆に、「林檎」という言葉から果物の林檎 をイメージする、つまり「林檎」という言葉を媒体に林檎のイメージを構築する機能。こ の2種類。あー、じつは詳しくいうと、これらは必ずしも言語中枢だけによるものではな いです。もっと複雑。 重要なのは、この2種類の機能がそれぞれ脳の中の別の部位で行われていることなんだよ な。余談だけど、それらの機能が損なわれると、それぞれ失語症、失認症という症状が起 こります。ん、逆かもしれない。ま、いいか。 ようやく本題。詩を作るときに脳がどのように働くのか。脳梁と言語中枢から詩にとって どんな要素が導き出されるのか。そのへんについて述べていきたいなと。 で、ここで論を2つに分けます。“詩を書く”場合と、“詩を読ませる”場合。これ、一 見同じようなんだけど、じつは全然違います。同じ詩を作者の立場で見るか、読者の立場 で見るか。詩を「作る」場合、この2つの立場からの検討が重要であるというのが俺の持 論の一つだったりする。 詩を書く場合。これはですね、イメージの言語化が重要なわけです。言葉を使ってどれだ けのものが表現できるのか。そこにかかっている。まぁ、イメージの重要性というのは俺 が詩を書く場合のみに当てはまるかもしれない。他の人がどうやって詩を書くのがよくわ かんないので、違うって人は、俺の個人的認識として読んでくださいませ。 イメージの構築にはもちろん右脳が作用します。この段階で言語化は行われない。言語中 枢は基本的に左脳ですから。ここで下手に言語化しながら考えちゃうと左脳で考えた詩に になってしまう。時々俺は「概念的」という言葉を使うけど、そういった詩になってしま う。イメージの構築時に左脳は必要ないです。というかジャマ。イメージが言葉で制限さ れてしまう。俺の場合この段階でのイメージは色に近いのね。色といっても確立された色 のイメージではなく(イメージに色の名前を与えちゃうと、そこで言語中枢が働くので)、 色の一歩手前といった感じ。ここはまぁ、アタリマエだけど言葉では上手く説明できない (笑)。俺はここの段階でけっこうウダウダやります。言葉にする前の段階でイメージを 煮詰めてしまう。 というわけでその後、構築されたイメージが脳梁を通るわけです。言語中枢が働くのはも うちょっと先。というかほぼ同時進行になるけど。ま、脳梁を通るということは、右脳と 左脳の連携、すなわち脳梁のパイプの太さや性質が詩の良し悪しに絡んでる。構築された イメージをどれだけ忠実に、リアルに言語中枢へ持っていくか。まずそこが大切。 で、伝達して初めて言語中枢が働きます。ここで働くのは基本的に「認識」の機能。文字 どおりイメージを言語として認識し、表現する作業です。でですね、俺が勝手にに思って るんだけど、まずここでね、(狭義における)詩と(いわゆる)ポエムのアプローチ方法 が違うんじゃないかなと。言語化するための方法論がここで異なってると思う。大雑把に 言うと、詩においては特化あるいは具象化が行われ、ポエムにおいては一般化あるいは抽 象化が行われる。「何を書くのか」ではなく「どう書くのか」において、詩とポエムの分 別がなされているのかもしれないです。んで、この言語化の過程において個々のスタンス やスタイルが確立されてます。たぶん(笑)。そして蛇足で言っておくと、ここでは別に 詩とポエムどちらが上、なんて話は全然してないからね。誤解のないように。 あとねぇ、ここで脳梁を通じてのフィードバックも起こります。言語化されつつあるイメ ージが、その言語そのもののイメージによって変形していく。これは前述したイメージの 制限ではなくて、んー、イメージの補強、あるいは補正かなぁ。そんなのが起きる。これ も詩の深みや厚みを出すために必要不可欠な過程だと思ってます。 次。詩を読ませる場合。これは簡単に言えば、読者がその詩をどのように読むのかを考え る作業です。というわけでここでは必然的に「構築」の機能が用いられる。 読者はね、あたりまえなんだけれど、言語から詩の世界を構築するわけですよ。「詩を書 く」場合とは逆の過程を経ます。ということはすなわち、書く場合とは異なった言語中枢 の機能が用いられるわけです。ここがポイント。使われる機能が違うので、書く立場と読 む立場で詩の受け取り方が異なってくるのは、これはもう当然のなりゆきです。詩が作者 と読者をつなぐイメージの変換装置になってるとも言える。そこがわかってないと、読者 が読んでわけわかんない詩が生まれちゃいます。 ということで、詩に対する受け取り方には作者と読者の間で必ず「ズレ」が生じるわけで す。このズレを修正するにはどうするか、すなわち、作者のものとしての詩に読者の印象 を近づけるにはどうすればいいのかを考えると、やはり、作者自身が、作者のものとして の詩を作者からいったん引き剥がして、読者の立場でその詩をチェックする必要があるわ けです。ぶっちゃけた話、推敲です(笑)。うん。推敲は大切だと思うよ。俺は。 で、無闇に推敲してもしょうがないよってのは、ここまで読んでくれてればわかると思う。 要はね、作者の立場でどれだけ推敲しても、それはあまり意味がないんじゃないのかなと。 自分がその詩に何を込めたのかをきちんと理解してもらうためには、やっぱり読者への歩 み寄りが必要なんだよね。もちろん「歩み寄り」ってのは「媚」や「妥協」とは違うから ね。逆に、作者の立場だけで考えて「読者がわかんなくてもいいや」って思っちゃうこと の方が「妥協」なんじゃないの? あと、「だったらもっと普遍的なものを書けばいいじゃ ん」という方向性に進むと、ポエム化の道を辿るのかもしれない。ポエムを毛嫌いする人 は、おそらくそういう観点でポエムに「媚」みたいなものを嗅ぎつけているのかもしれな い。実際に媚びているかどうかは別として。 んでまぁ、ここまで書いたところで、「んじゃどうすれば自分の詩を読者の立場で読むこ とができるの?」という声が聞こえてきそうなのですが、これはもう、鍛錬です。鍛錬し かない。俺自身は、書き終わった時点でいったんその詩を放棄して忘れた頃に読み返しま す。まっさらな状態で読めるから。そうやって読むとかなり違和感のあるところがいっぱ い出てくる。内容面でも、構成やリズムにおいても。で、それを修正していくわけです。 あとね、他の人の詩を読んでください(笑)。それはもう、いっぱい読めば読むほどいい。 で、その場合、今度は逆に読者の立場でのみ読むんじゃなくて、作者の立場ででも読んで みる。作者がどういうイメージを言葉に託したのか。言語中枢における「認識」の機能が どのように働いてこれらの言葉が生まれたのか。そうすると「ズレ」の正体、あるいは 「ズレ」の構造が見えてくるんですよね。そして、そういう能力が身に付けば、これまで 難しいと思ってた部類の詩も読めるようになってます。自分の中での詩の世界が広がりま す。まぁ、そういう鍛錬はやっぱり、言語化するという作業が非常に重要で有効なのね。 つまりね、感想や批評を実際に書いてみる。そゆことです。他の人の詩に感想書いてると 自分の詩も上手くなります。これは経験から保証する。絶対です。 ---------------------------- [未詩・独白]優しい機械/いとう[2005年11月13日23時34分] 知っているのですか あなたと わたしが 手を合わせる その意味を つなぐ、と つながれる、の 隔たりをあなたは まるで何も 知らないかのように この寂しさを 知ってください あなたの 空いた片手が どこにあるのか わたしは知らない その優しさは 機械のように 約束されていて ---------------------------- [未詩・独白]墜落/いとう[2005年11月16日0時09分] 信じるものは 必ず裏切る その 摂理を許しながら 壊れたものは 壊れたまま流される 暗闇が 暗闇のまま発光するように 欠けたものは その空虚を慈しむ 欠落は甘い それを知るものなら なおさら甘い 発熱する朝に 鳥が墜ちて 甘い屍を貪る 魂は死んだ 魂はすでに壊れて 流された痕跡が 生きている ---------------------------- [未詩・独白]おっぱい/いとう[2005年11月19日0時21分] おっぱいの先の 乳首は不思議だ 「乳首を見くびって」というフレーズを 産んだ男はスケベだ いや、すべての男が おっぱいばんざい! ふくらみを持つ 女は不思議だ ふくらみの先の 乳首はもっと不思議だ 底知れぬ不安を抱えて おっぱいは在る と 男たちは考える 考えるだけで あとは 触ることに全力を傾ける 男たちは ---------------------------- [未詩・独白]二人きりの夜におまえだけが光っている/いとう[2005年11月22日23時25分] 女に刺されて死にたい 刺した女を愛したい 俺はおまえのものだと 女の耳に囁きたい 刺されながら女に詫びたい すまなかったと 抱きしめたい 体温の凍てつくまで 女の肌に触れていたい 俺を殺すのは罪ではない おまえは赦されている だから存分に殺せ 女よ 刺せ 刺してくれ おまえの中で死なせてくれ 女に刺されて死にたい 女に刺されて死にたい 女に刺されて死にたい 女よ おまえは赦されている おまえだけが光っている ---------------------------- [未詩・独白]そして君たちはろうりん/いとう[2005年11月28日18時53分] 見慣れない肌の子供が立っていて おまえは苦しんで死ぬと囁くものだから そんなもの 首を絞めたっていいじゃないか 結局のところ 君たちは知らないんだ 君たちは知らずに転げる 転げている、ろうりんぐろうりん 転げている 君たちは生きている 口を開くと汚物が溢れる そんな生き物がいて 閉ざすともっと溢れることを知らない ろうりん、ぐろう、あっぷ、 成長の端々で口の無い生き物が罪を産む ひそやかに溶ける雪に付けた足跡のように それは固有名詞になりきれないでいる ろうりん、ぐろう、だうん、 うつむくな けれどもうつむくな それは君たちの知らない呪いになる 君たちは知らない 君たちは汚物ではない 君たちは囁かれない 君たちは苦しまない 君たちは首を絞めない 君たちは決して死なない ろうりんぐろうりん、 うつむくな 君たちは生きている 君たちは苦しんで死なない だからうつむくなろうりん ---------------------------- [未詩・独白]希望/いとう[2005年12月7日0時19分] 少しだけ 夢見るように 呼吸してみる 赦されているかどうか 確かめるために わたしたちはすべて 結ばれていない それはわかっている 結ばれることはない それも わかっている 肺の痛みを知るのは わたしだけでいい この星は 優しさに 満ち過ぎている 誰も知らない 夢などない 知らなくていい ---------------------------- [自由詩]わたしの終わりのわたしの/いとう[2005年12月14日23時32分] それでも朝は来るので わたしはまた生まれてしまう 約束されていないことなので 途方に暮れている わたしは手を持たないので 仕方なく 眺めている ふりをしてみる 鳥の不思議な動きを少し まねてみたりする 小さな声が ときおり通り過ぎる けれども掴めないので それはないに等しい 空を見上げると いつも曇っていて 声は すり抜けながら どこか見えない場所へ 消えていくようだ 夕暮れが近づくと 硬質な空気が流れ込んでくる わたしは少し警戒するが すぐに気づいてしまう 約束されていない その 意味のないことに うつむいて 目を閉じると 途方に暮れながら 夜がやってくる 生きているよと 口ずさんでみるが 呪いしか 生まれない それもまた 意味のないこと 泣こうと思うが 泣き方を知らない 夜なので もう誰もいない ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]Hello----,Hello----. 私たちは、つながっていますか?/いとう[2005年12月19日10時46分] 初出: ウエノポエトリカンジャム3 公式パンフレット「Iu(イウ)」(2005年夏) (http://www.upj.jp/) 「詩なんかよく知らない人にネットの詩について伝えるメッセージ」で依頼を受ける。 「ポエムなんて。。。」と思っている人たちはいっぱいいる。世間でポエムと言えば、相田みつをだったり、どこかの自傷少女がノートやネットの片隅に書く暗い暗い文章だったり、夢見がちなキモイ人たちが書く愛だの恋だの人生だのといった自己陶酔文章だったり。そりゃー、もちろん、そんなの誰が見ても引きます。敢えて言い切ってしまうなら、ポエムを書いている人間でも、そういうのは、引く。それだけがポエムではない。それを知っている人は少ない。そして、知らない人が「ポエムなんて。。。」と思っている。  SMAPの稲垣吾郎がポエトリー・リーディングに興味を持っていたりする。佐野元春はずっと昔に朗読CDを出している。THE BOOMの宮沢和史は歌詞集を、小説家の江國香織も詩集を出し、小泉今日子が帯で紹介文を書いている詩集だってある。国民的詩人、谷川俊太郎の詩はCMで流れ、本人の文章だってCMに提供される。それと同時に、ポエムは世間で物笑いの種として扱われ、漫画やドラマやテレビのニュースなどでキワモノ扱いされるシーンもときどき見かける。  かつてフィギュアは、オタクだけのものだった。「フィギュア集めてる」ってだけで後ろ指さされていた。けれども今は、コンビニで普通に手に入る。コレクションのためにお茶やジュースを買い込んだ人も多いはず。この変化は、何? いつの間に何が変わったのだろうか。  インターネットにもポエムは溢れている。とてもじゃないけど全部見て回れないくらい。そしてその中ではやはり「ポエムなんて。。。」というタイプが多いことを否定はしない。と同時に、様々な無理解を覆す力を持つ作品や作者が埋まっていることも否定しない。ほんの、ちょっとしたきっかけで、状況がガラリと変わることを私たちは知っている。いろいろな場所でそれを体験している。だからこそポエムにもそれが起こる可能性を多くの詩人たちが模索している。このイベントだってそのひとつだし、同様に、ネットに溢れているポエムだってそのきっかけになる可能性は十分にある。と思っている。 Hello----,Hello----. けれど詩人たちはそれを押し付けたりしない。押し売りは誰だって迷惑だ。ただ、良い物だけが残っていく。残されていく。はずだ。それだけだ。 Hello----,Hello----. 詩人たちは様々な場所で声をあげている。つぶやいている。それは決して「見て!」という声ではない。そうではなく、「私たちはつながりますか? つながっていますか?」と、つぶやいているのだ。 Hello----,Hello----. 私たちは今、つながっていますか? ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]1.詩の商品力/いとう[2005年12月19日13時56分]  詩について個人的に考えていることを話していくので、時々独断と偏見に満ちたものになるかもしれませんが、そこはそれ、テキトーによろしくということで。というわけでまず、詩の「商品力」について。  「商品力」と書くと、これまた誤解している人が多いんですが、「商品力」=「質の良さ」ではないんですね。詩の商品力を高める=良い詩を書く“だけ”ではないんです。もちろんそれも大事なんだけれど、良い詩を書いていれば自然と売れる=商品力が高まるわけでもなく、逆に、見当外れの市場にいくら投入&訴求しても売れるわけがない。ま、自明の理です(笑)。  「商品力」の向上には、3つのポイントが存在します。 1.質を向上させる 2.特性を理解して訴求する 3.付加価値を付ける 1.質を向上させる  これはもちろん、良い詩を書いていくことですね(笑)。これはもう、ひたすら自分が「良い」と思う詩を書いていくしかないんじゃないでしょうか。何が「良い詩」なのかはもう、人それぞれだと思うので、そのへんは各自におまかせ。つーか、書くのめんどくさい(笑)。何が売れるかわかんないし(笑)。なんつーか、梨や林檎にいろんな種類があるようなもんです。どれが「良い梨」なのか。そんなもん人それぞれ。  ただ、詩の「傾向」と「稚拙」を混同しないようにしたいものです。詩の「傾向」においてその作品の質はどうなのか。それを見る目を養っておかないと、果物屋で肉を探したり、腐った梨を平気で売ったりしちゃうので。ま、そういうのは客であろうと店員であろうと淘汰あるいは洗練されていくけどね。市場原理の基本として。 2.特性を理解して訴求する  これはですね、「誰にとって」良い詩なのか、それを把握すべきということです。商品の特性を理解して、それに見合った市場に訴求してく。相田みつをや銀色夏生が成功しているのは、このポイントにおいて商品力を向上させているからに他なりません。自分の作品にはどういう特性があって、どこにどのように訴求すればいいのか。商品特性も知らずにやみくもに売っても誰も買いませんってば。  ちなみに、2において1の質はまったく無関係です。ここで関係するポイントは、詩そのもの「質」ではなく、固有の「特性」が市場の需要とどれだけマッチするか、マッチさせるかにあります。「質」以外の特性が市場のアンテナに引っ掛かるわけです。  たとえばウーロン茶が市場に定着したのは、「味」を訴求したからではありません。マーケティングにおいてウーロン茶が訴求したのは「無カロリー」という特性です。この特性をダイエッター層に訴求することによって、ウーロン茶は市民権を得ました。「味」による商品の差別化が行われ始めたのは定着後です。市場がまず詩に求めるのものは、はたして「質」なのか。まずそこから考えていく必要があります。 3.付加価値を付ける  これは、んー、対象が広すぎて上手く説明できないんだけど、要は、詩を読む、書くことに、それ以外の価値を持たせるということです。これはもう、付加価値を付けていない商品なんてまず存在していません。  イチローがマリナーズに移籍してから、途端に大リーグの人気が上がりました。これは、大リーグに「イチロー」という付加価値が付いたからなんですね。で、さらに、大リーグ観戦ツアーが山ほど組まれました。これは、アメリカ旅行に「イチローという付加価値の付いた大リーグ」という付加価値を付けてるんですね。ツアー参加者としてはイチローが見たいだけなんですが、旅行業者から見れば、明らかにそれは旅行チケットの付加価値でしかありません。  もっと単純な例だと、クーポン券や「●●が当たる!」や「ボスジャン」や「チョコエッグのフィギュア」だって、これらはすべて付加価値です。また、小さな例だと、CMに人気タレントを起用するのも付加価値の一部です。マック(関西ではマクド)の平日半額セールだって、あれも「半額」という付加価値が付いてるという捉え方もできます。休日倍額というマイナス付加価値も付いてるみたいですが(笑)。326なんか、詩にユニーク(←面白いという意味ではなく)なイラストという付加価値を付けて売れました(付いてる付加価値はそれだけじゃないけれど)。  ま、というわけで、詩(poetry)にどんな付加価値が付くのか、あるいは自分の作品(poem)にどんな付加価値を付けられるのか、逆に、詩を何の付加価値にするのか、そのへんを考えていくのも、詩の商品力向上に役立ちます。  以上、つらつらと書きました。次回からはこれら3つのポイントについて、個別に詳細を述べていく予定です。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]2.詩の商品特性/いとう[2005年12月19日14時03分] 続き。詩の「商品力」向上のポイントとして、 1.質を向上させる 2.特性を理解して訴求する 3.付加価値を付ける この3つを挙げました。で、今回は1の質の向上について書こうと思ってたんだけど、やっぱ書けません(笑)。じつは詩とCMの相似点について書くつもりでした。が、どこまで考えても個人的見解で終わってしまう。一般性・普遍性を持ち得ないので自分の中で却下と相成りました。つーかまぁ、このマーケティング論自体個人的見解に過ぎないのですが。というわけでいきなり2から。詩とCMについては、勝手にテキトーに考えていただければ(笑)。  さて。現代詩手帖2001年12月号の対談の中で、「詩のレベル・ダウン」という言葉が出てました。別の人がこれを「シフト・ダウン」と言い換えてた。俺はこの言葉が登場する経緯を知らないのでまるっきり勘違いしてるかもしれないけど、たぶん、俺の言葉に翻訳すれば、「商品特性訴求ポイント転換のための質の変化」になるのかなと。こっちのほうが難しい表現だ(苦笑)。つーか、「レベル・ダウン」なんて、なんて高慢な言葉なんだろう。面白いねぇ(ニヤリ)。  ま、いいや。んで、商品特性ってのは何なんでしょう? すべてのものには、さまざまな特性がありますよね。たとえば俺にだっていろんな特性がある。詩人(詩を書く)という特性もあれば、サイト運営者、仕事の面では編集者、マーケッター、あるいはリサーチャーなんて特性もある。ナンパ野郎、あるいはセクハラオヤジという特性もあったり(笑)、他にもアルコール依存症だとか別嬪さんの妻がいるとかいろいろ。もっと大まかに、男性というのだって特性のひとつ。  じゃぁ、「いとう」という商品を売り出すにあたってどの特性をどんなふうにどのくらいの割合、どういうタイミングで訴求していけばいいのか、市場が「いとう」に求めるものは何なのか、その場合の市場とはどのようなものなのか。  たとえばインターネットという市場ではどれを重点的に訴求すればいいのか、リーディングにおいてはどうなのか、詩誌の人たちと会話するときには、あるいは友人と遊ぶとき、仕事をするとき、何が求められているのか、そしてどの特性を提示したいのか、そのあたりの兼ね合い、あるいはバランスが重要になってくる。つまり、それぞれの「市場」で「いとうの商品力を高める」ってのは、「いとう」の特性を磨くことだけじゃなく、「いとう」の何をどう見せるのかってことも大切なわけです。「特性を理解して訴求する」ってのは、そういうことです。  で、商品特性の訴求方法として、大きく2つに分類することができます。主体重視か客体重視か。主体重視ってのは、訴求したい特性に目を向けさせる方法。客体重視ってのは、目を向けてもらうために特性を選んで提示する方法。ちなみに後者は「媚を売る」とかってのとは別次元の話ね。  詩の市場を盛り上げる、つまり、詩(poetry)に目を向けてもらうためにどうすればいいのか。個々の詩の質を高める以外に、詩の商品力を上げるのにはどうすればいいのか。そういったことを考える場合、主体重視によるアプローチってのは、現在、明らかに失敗していると思う。「質」が大切なあまり、「質」を訴求することのみに傾倒して、あるいは質を求めるあまり訴求することすらないがしろになって、その結果、世界(と言うのは大袈裟だけど)と分離してしまった感が強いです。あー、もちろん、それを良しとする人もいますが、良し悪しとは関係なく、現象として起きているのは確か。んで、失敗はしてるけど、間違ってはいないと思うんですよね。質の訴求ってのは不可欠だし、それがなければそれこそ、詩なんてただの心情吐露大会になっちゃうから。質のみを訴求することと、質の訴求を認めないことは、結局、同じ場所でものを喋っているに過ぎないんだと俺自身は思っています。で、んと、ある種の層に対する訴求方法として、主体重視によるアプローチは効果的なんだと思います。使い方を間違えなければ。  次。詩の商品特性を客観重視で訴求する場合、まず、詩に何が求められているのかを考え直す必要が出てきます。あるいは、詩のどんな特性を訴求すれば、詩に対する偏見、無知、視野狭窄を払拭できるのか。詩の質自体は、本当に求められているんだろうか? 前回も少し書いたけど、市場がまず詩に求めるのものは、はたして「質」なのかどうか、みつをや326を見るまでもなく、疑問に感じています。  俺としてはやはり、コミュニケーション特性は無視できないと思っている。詩の入口として訴求するには効果的な特性だと考えてる。ただもちろん、これを全面的に押し出せばワヤクチャになるのは当然なので、コミュニケーション特性の訴求のみでは何がしかの問題点を抱えることになるのも確かです。で、その問題点を解決する手段として、そこから次のポイントへ移行するシステム、詩の他の特性に目を向けてもらう(向けさせるではなく)方法論を構築する必要があるんだと思う。やり方は人それぞれでしょう。作品として提示する人もいれば、サイトとして、あるいはワークショップ等で場を提供する人もいるだろうし、また、それらのインフラを整備することで間接的に寄与する人も必要だろうし。  あとはまぁ、もちろん、コミュニケーション特性以外の訴求ポイントもいっぱいあるんじゃないかなと。その点に関しては、ちと思考が飛ぶけど、(詩の)流通経路の多様化にかかってると考えてます。何故多様化が関係してくるのかは、勝手に考えてくれ(笑)。俺自身は、現在の詩の流通経路を細かく分類すると6種類あると思ってるけど、まだまだ足りないんじゃないかなと。  ん。そんなところか。上手くまとめられなかったような気もしますが、ま、このへんで。次回は付加価値について。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]3.詩の付加価値/いとう[2005年12月19日14時07分]  付加価値。  経済学においては「商品の生産・流通の各段階において新しく生み出される価値」となるようです。この付加価値という概念はじつはとても広義で、一概にこういうものだとは言えません。グリコのおまけはお菓子の付加価値です。応募券を集めて賞品もらうってのも、商品の付加価値です。で、このくらいのはわかりやすいのね。けど、もっと抽象的な付加価値もあって、たとえば、日本人にとってイチローはメジャーリーグの付加価値です。逆に、メジャーリーグでプレイしていることはイチローにとって付加価値となります。  少し話を変えましょう。  「付加価値」という言葉は、かなり誤解されやすい言葉です。  「マーケティング」という言葉と同じくらい誤解されやすい。  以前どこかで書いた記憶があるのだけれど、「売れない商品をマーケティングでちょちょいと誤魔化して売りつける」なんてことは、不可能です。できません。というか、そんなことすれば商品寿命を縮めてしまいます。客はそれほど馬鹿じゃない。その商品の特性を見抜き、どういった層をターゲットとしてどのようにそれを提示すれば、その商品を最大限に訴求できるのか。そこにマーケティングの本質があります。  付加価値も原則としては同じ。ただし、ある種の付加価値が付けば商品の質に関係なく売れます(笑)。客が商品ではなく付加価値を買うようになるから。商品と付加価値の商品力が逆転するから。  遊戯王カードが大流行していた頃、ゲームボーイで遊戯王のゲームが発売されたんだけど、このゲーム、バカ売れしました。230万本くらい売れました。ちなみに他のビッグタイトルの平均は、ドラクエが400万本、ポケモンが300万本、ファイナルファンタジーが280万本くらい。んと、メーカーはこのゲームに、カードという付加価値を付けたんですね。ソフト1本につき遊戯王カードが1枚在中。しかも、バージョンが3種類。その結果何が起こったか。  まず、1人でソフトを3本買う子供が多数出現。さらには、カードだけ入手して、買ったその場ですぐにソフトを中古として売る、なんて子供も多数出現。普通、大ヒットしたゲームの中古買取価格はかなり高額に設定されるんですが、このゲームは逆でした。買取価格がどんどん低くなる。中古として売らせないために。店が余剰在庫を持たないために。  付加価値が持つこのような要素がデフォルメされて、誤解されていくんだろうと思ってます。  詩に限った話ではなく、物を売りたいだけなら強力な付加価値を付けるのが手っ取り早いです。さっきのゲームみたいに、売りたいものが本来有している商品力と、付加価値が持つ商品力を逆転させてあげればいい。ただしその場合、商品寿命が短くなります。それだけでは商品そのものがいつか消滅してしまう。けれど、「だからそれはマズイやり方だ」と結論づけるのは短絡的なのね。方法論として問題があるのならこれほどまでに世の中に蔓延していません。この方法論の長所は、いっせいに多くの人の注目を集めることができることにあります。そのように商品を立ち上げることができる。そして、そういう動きを世の中では「ブーム」と言います。  ブーム発生論というものがあるのかどうか知らないけれど、発生手法のひとつとして強力な付加価値を付属させるのは有効だと思ってる。問題はブームの後にあるのであって、ブームそのものに問題はない。ブームを通じて商品のどの側面をどのターゲットにどのように訴求していくのか、そのビジョンを持たずにブームが起きることが問題を発生させると思ってる。  付加価値とは文字どおり「付け加える」ものであり、「製品の本質における商品力」ではなく、「製品の商品としての商品力」を向上させるものです。付加価値からのキックバックをどの程度得ようとするのか、そこを理解せずに付加価値だけで売ってしまうと、後々取り返しのつかないことになる可能性がある。一時期消費されてそれでおしまいというわけにはいきません。詩は。俺はそんなのイヤだ。  リーディングシーンにおいて、リーディングがもっと発展するためにスターが欲しいという声をときどき聞きますが、これは、リーディングという商品に対してスターという付加価値が欲しいと言っているのと同義です。スターが生まれてもそれが一過性であるならばスターという付加価値は無駄になってしまう。スターの後のビジョンなしでは、短歌における俵万智、F1におけるセナをみるまでもなく、その市場は停滞してしまいます。  俺自身は詩(poetry)の本質的商品力に疑問を持っていません。個々の詩作品(poem)の商品力については疑問を抱くものは多々ありますが。  ある意味、詩(poem)が詩(poetry)の付加価値になり得ていないのかもしれない。詩(poem)のターゲットが詩(poetry)のターゲットとズレているのかもしれない。詩を流通させようとするのなら、何が何に対しての付加価値となっているのか、そして何を訴求したいのかを見極め、それを踏まえて、付加価値に何をさせるかを考える必要があります。  みつをなり326なり夏生なり魚武なり、あるいはリーディングなりネット上の詩の文化なり、逆に、文芸としての詩なり現代詩なり、「そんなのは詩ではない」「あんなところには何もない」「つまらない受けない求められていない」と切って捨てるのは誰にだってできる。言うだけでいいんだから。そしてその気持ちも理解できる。それらはすべて「詩が好き」という感情から発せられているはずだから。でも、それぞれがそれぞれに対してどんな付加価値となっているのか、それらを通じて何を訴求できるのかを考えていくと、詩(poetry)全体にとって、とても幸福な方向が生まれてくると思っているのは俺だけなんだろうか。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]何をリハビリするのだろう。/いとう[2005年12月21日1時00分] chori。「リハビリ」に寄せて。 (未詩・独白に投稿されたものですが、本人の了解を得ています) http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=58666 choriとは彼が高校生だった頃のからの知り合いで、 いろんな話もしたし、 お互い馬鹿もやってるし、 金も貸したり、返されたり、何度か家に泊めたり、 まー、そういう仲なのだけれど、 じつは彼の詩はあんまり評価していない。 なんというか、器用すぎるのだ。 あ、こいつ、わかってて書いてるな、ってのが、ミエミエなのだ。 どこかで他者を意識してしまうのは、 おそらく彼の習性で、そしてそれは、じつは、彼の苦悩なのだろう。 と、思っている。似たようなことを彼自身にも告げたことが何度かある。 (覚えているかどうかは知らないけれど) リハビリ。リハビリテーション。 珍しく、本当に珍しく、彼の作品について言及したいと思う。 というのは、珍しく、途中まで彼の詩を読み進めてしまったからだ。 彼本来の持つつぶやきが本来のつぶやきの形として顕れていて、 「作られた」感覚が中和、あるいは緩和されているのだ。 詩とは本来、こういう場所から生まれ、形作られるものなのだろう。そういう感覚。 けれどその感覚は、途中で途切れてしまう。 > けれど あなたたちのぬくもりが > そうさせてくれない ここだ。 ここで感じる違和感をどう説明すればいいのだろう? たとえば、 孵化した海亀が海へ向かう途中、ふと、カメラ目線をお茶の間に捧げるような、 そういう感覚と酷似している。 文章の表面だけを見れば、幼い人間にありがちな、単なる責任逃避や自己陶酔にも見える。が、 その奥には、 この一節を発表してしまうこと自体に、 彼自身の検閲の中で取りこぼした何かが表出してしまっているようにも感じられ、 それこそが違和感の正体としてわだかまりを生んでいる。 この違和感はなんだろう?  肌感覚としか言いようがなく、上手く言語化できないのが残念なのだけれど、 前述の彼の習性、あるいは苦悩がここに見え隠れするのだ。 そしてそれを推し進めて考えれば、 「リハビリ」というタイトルの内面に、隠された意味として、 (そして本人も気づかないうちに) 彼自身の、無意識があるようにも、思えるのだ。 それはおそらくは、穿ちすぎなのかもしれないけれど、 記すことで、何かが生まれるような気もして。 ---------------------------- [未詩・独白]よーし、パパBは出遅れちゃったぞー/いとう[2005年12月22日0時39分] パパ と呼ばれる片仮名の 透き、とおされた、Aの、欠片の 代名詞とは 呼ばないでください ゆめゆめ 呼ばないでください Aは意思を持ってパパとしてあります それはパパです パパはAです パパ と呼ばれるAの 欠片の わたし、の、 それは変換された関係です メイドではありません (パパメイドあるいはメイドパパ) 暗闇の中で煙草を吸う姿を写す鏡 ママはいません Aはいます Aはいつでもいます B(以下略) メイド(以下B) おかえりなさい ではありません ---------------------------- [未詩・独白]ミラクル/いとう[2005年12月24日11時24分] 顔をしかめて歩いている君の笑顔が見たい それはたぶん いや、きっと 誰もが幸せになれるものだから すべての女の子は 幸せになるために生まれてくる だからすべての女の子が 涙を知っている すべての夜は 朝とつながって 一人で立っていることを知る そして 独りではないことを知る ミラクル こんな冬枯れた肌寒い けれどとても澄んだ空気の中で 僕と君が 手をつないでいる 手をつなげるほど 近くにいる 君の涙はとても暖かい 君の笑顔はもっと暖かい 僕と君はこの手で いろいろな場所を触れあって 僕はそれを知る 君もそれを知る 触れあって 笑顔が生まれて そして誰もが 幸せになる ミラクル 君の笑顔で ---------------------------- (ファイルの終わり)