いとう 2007年1月6日16時41分から2011年3月14日1時41分まで ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]■批評祭参加作品■ 批評についてつれづれに思ったこと。(おまけ付き)/いとう[2007年1月6日16時41分] 批評とは何かを考えるときに、 料理をどのように評するかを考えると、 なんとなくわかりやすくなるのかもしれない。 美味しい、不味い。これも批評だ。感想かもしれんが。 広義において批評にしておく。 「まったりとした食感をこのさわやかなオレンジソースが〜」 なんてのも批評だ。テレビでよく見かけるよね。 これは印象批評に近いのかな。 他にもあるだろう。 「あ、この味は故郷で食べたあの!(その後号泣)」 とか、 「あそこのペペロンチーノに比べるとこの店のはちょっと…」 とか。 これらも批評でいいじゃんって思うことがよくある。 よく、 「作者が詩だと思ったらそれは詩なのだ」という定義付けがなされることがあるのだけれど、 だったら、 「作者が批評だと思ったらそれは批評なのだ」 という定義付けはなされないのだろうか? 構造としては同じなのだけど? どうすか?>そのへん 批評の仕方はもっとある。 「このスパイスが少し足りないような」 「ここでこの隠し味を入れるともっと美味しくなるよね」 とか、これは、 料理の得意な人が言いそうな批評。 もっと別に、 「蛋白質●%に対しては、グルタミン酸を●●グラム投入したほうが…」 こういうのもアリだろう。科学的アプローチだ。 調理方法からのアプローチもある。 「この食材の火の通し方が…」とか、 なんかもっと、いろいろありそうだ。 料理について述べるのに、思いついただけでも、こんだけのアプローチがある。 ということは、だ。 これ全部、詩の批評でも通用すると思うのだけれど? どうでしょう? なんかそんなこと考えてると、何でもいいような気もしてくるのね(笑)。 大雑把過ぎるかな? でも、それでいいとも、思う。 自分が批評するときに、 なるべくしないでおこうと思うことがある。 「なるべく」とあるのは、 気づいたらやっちゃってることが多いからだ。申し訳ない(笑)。 で、それは、 肉屋で魚を売っていないと騒ぐこと。 肉屋なんだから、魚がないのはあたりまえだけれど、 魚が欲しいからと言って肉屋で騒ぐ必要はないよな、と。 「カレーにこのスパイスが入ってない」とか、そういうのはOKだと思う。 それと似てるんだけど、ちょっと違う。 その違いは、じつは言ってるほうも言われたほうも、 わかってないことが多々ある。 そういうのも含めて、 自分はまだまだだなぁと思うことが、よくある。反省。 <おまけ> 水在らあらあさんの「あるところに」。 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=97831 これ、最後の連、 あるところに男と女がいて であって 好きあって 子供ができて 家庭を持った 世界は美しくて 輝きに満ちて この部分、夏野雨さんは、  最終連、その波の崩れゆくさまをそれでも美しいという。「ここ」に立つ自分の、強いまなざし。涙と恐れもつそれこそが、世界を愛するまなざしではないだろうか。 と評したのだけれど、 (http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=99933) 俺はまったく正反対の読み方をしました。 「美しく輝きに満ちた世界」が、 “やってくる”のが、怖いのだと。 「あるところ」とは、「美しく輝きに満ちた世界」だ、と。 それを怖れる話者の破綻性。 世界を“恐怖する”まなざし。 あるいは、 「美しく輝きに満ちた世界」という表現に、 逆説的意味を持ち込んだ、 作者の技術の高さ。 そういった目線で読みました。 言葉を言葉通りに受け取ってはいけないことは往々にしてあると思う。 特に詩においては。本当に、特に。本当に。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]■批評祭参加作品■ 誰も知らない/いとう[2007年1月7日10時26分] http://www.kore-eda.com/daremoshiranai/ 重くて痛い。 安寧があるとすれば、ここに肉体的暴力がないことだ。 どうしても自分と重ねてしまう。 俺はこの歳になるまで生き抜いてきた、と。 それは同時に、 この歳になるまで生きてしまっていると同義だが。 たぶん死ぬまで、 “助けて”とつぶやき続けるのだろう。 誰にも助けられないことを知りつつ。 それは、わかる。 以下批評。努めて客観的に。 焦点が作品内の流れで変わっている。 前半は、愛について。 中盤は、社会について。 そして後半は、責任について。 君が感じたその重荷は、母親が感じていたものと同義だ。 逃げたとすれば、母親と同じ罪を、君は背負っている。 そして、監督としては提起も含めての作品なのだろう。 それは成功している。 当事者自身は(比較対象を持たないので)客観性を持ち得ないが、 その客観性を作品からは受け取れる。 逆に言えば、その客観性を持つことができるのは、 知らないのか、 知っていてなお、正視できるのか。 どちらか。 しかし、知り合った女子高校生(?)が援助交際で得た金を受け取らなかったシーンに、 「あ、知らないのだな」と、感じる。あの状況で、そんな余裕はない。 あるいは、そんな善悪の判断を持てるほどの社会性を、 当事者が持てるわけがない。 やはり「知らない」のだ。誰も知らない。 知っている者にとっては、 傷口をえぐられるだけの作品だ。 監督自身に傷があるのかどうかは、 作品を通しては伝わらない。 たぶんないのだろう。Fuck! 生きることに余裕があるから、 この作品は作られたのだ。 そして余裕のある人間が、巷には溢れている。 批評祭への作品参加は たぶんこれで打ち止め ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]■批評祭参加作品■ 金(キム)は好きなんだけど、/いとう[2007年1月8日14時26分] 川島なそさんの「馬野幹 『金(キム)』を読む」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=100170 えー、金(キム)のくだりはとても好きなのですが、 最後のほうの文章、なんだかとても気にかかって、 ちょっと書くことにしました。 普段ならまぁ気になってもスルーすることが多いのですが、 せっかくのお祭りだし(笑)。ということで。 とりあえず長いけど引用します。  私は、「詩と“私”は別物」であるとか、「詩は作者自身の思想とは一致しない」という考え方が嫌いであるというか馬鹿馬鹿しいと思っている。さんざん自分の脳内や内面からなけなしの想像力を搾り出して書いておきながら、いざ作品になった暁には、「それは私ではない」と言いたがる、ずいぶん都合の良い話もあったものだ。しかし、多くの人がそういうことを言いたがるという事実にはやはり理由がある。「私」から切り離した詩を書きたいが、書けないからである。詩の中に自分の刻印を認めるのが恐ろしいのである。そこで、私たちは「イメージ」という便利な言葉を発明し、誰のものでもないが何かを感受させてくれるものを作り出そうと必死になる。しかし結局、イメージとは、「世界」と「私」が関係を取り結ぶ手段でしかないのだから、「私」の指紋がつくのは当たり前だし、逆に言えば、そうした私的なイメージでなければ、別の場所で同じように「世界」と「私」の関係を結ぼうとしている読者に、共有されることはない。だから、私たちは徹底的に「私」にこだわって詩を書いていかなければならない。「詩」が恥ずかしいほど「私」に似てしまうことを、引き受けていかなければならない。そして「批評」もまた同じである。 んで、俺的にはツッコミどころ満載なのだが、どうなんしょ?(笑) 以下ツッコミ部分挙げていきます。 <ツッコミ1> 詩を書いている最中における「詩」と「私(作者)」の関係性と、 作品を発表した後における「詩」と「作者(私)」の関係性を、 思いっきり混同している。 <ツッコミ2> 「私」から切り離した詩を書きたいが、書けないからである。詩の中に自分の刻印を認めるのが恐ろしいのである。 「書きたいと」か、「恐ろしい」とか、 他人の詩作姿勢を勝手に想像して規定してもらっても困る。 <ツッコミ3> 詩を書く場合において、 (と書いておかないと混同されている部分を切り離せないので) “詩から私を切り離す”なんてことが不可能なのはあたりまえであって、 その不可能性からできる限り離れるために、 「詩から私を切り離す行為」ではなく、 「詩から私を切り離そうとする姿勢」が求められているわけであって、 そのあたりまえの部分を前提として、 私たちは徹底的に「私」にこだわって詩を書いていかなければならない。 と言うのは、かなり本末転倒だと思われる。 以上、3点。 なんだか批判になっちゃってますが、 まー、たまにはそういうのも。 で、くどいようですが、金(キム)のくだりはとても好きです。 てな感じで、このツッコミは、川島なそさんの批評文全体に関するものではないし、 批評文の趣意からは外れたところでの、ちょっとした引っ掛かりみたいなものです。 ---------------------------- [未詩・独白]景子/いとう[2007年1月24日22時01分] 終電終わってんのにこれから行けるわけないでしょ 酒もかなり入ってるから車も出せません ぢゃあそういうことでバイバイ って電話を切った10秒後には 予想どおりブルブルしてるバイブ機能 ハイハイわかりました どうせまた嫌なことあったんでしょ 「一緒に飲んでよ」って笑いながら寂しんぼモード突入してるし あんたね、 「寂しい」って感情は他人に解消してもらうためにあるんじゃないんだよ ドラマじゃないんだからそんくらいで人を呼び出すなっちゅーの 「だって」なんて甘えてもしりません どうせまた正体なくすまで飲んで暴れるんでしょ この前行った店俺もう行けなくなっちゃたよ 謝ってもダメ。 あんとき自分が何したかまだ思い出してないの? 女の子が暴れていいのは 生理が始まったときと 生理が止まったときと 生理が干上がったときだけ ってこれは違うか 俺も酔っ払ってんな とにかく今日は朝までTVゲームするから 俺は忙しいの もう切っちゃうね ぢゃあねバイバイ って切ると普通の奴はもうかけてこないけど 彼女の真髄はこれから始まる ハイハイわかってます もしもしあのさ しつこい女は嫌われるよ 他の奴に頼んでください 友達いないとかあなたといたいとか そんな嘘は間に合ってるから 俺んちに来るのもなしね 相変わらず無意識で男騙してタチ悪いよ 俺も酔っ払ってんだから そんなことばっかりやってるとまた食っちゃうよ いいの? なになに? 「据膳そろえて待ってまーす」って はぁ。 こいつこんなにバカだったっけ? 昔はともかく 今はあんた食ったって何のメリットもないんだから 俺は好きな奴としか寝ないことにしてるの 「だったらいいじゃない」って そりゃ嫌いじゃない 嫌いになって別れたわけじゃない っていうかまだ好きなんだけど お互いに 慰みで寝るほど落ちぶれちゃいない とりあえず 今日はお家に帰っておやすみなさい まだ寂しかったら話し相手になってあげるから って人が下手に出ればつけあがりやがって 「じゃあ適当に相手見つけて寝るからいいもん」 あんた俺に喧嘩売ってるでしょ 売られた喧嘩は買わねば なんて笑っちゃったら思うツボ 「私○○にいるから待ってるね」って おいそこは池袋だろ ここからは高速乗らな ガチャン。 人に甘えるのもいいかげんにしろよ とか言いながらタクシーつかまえて まだまだ修業が足りんとか また行ける店がなくなるとか 今度電話来たら電源切ってやるとか あれこれ考えながら でも口元が緩む高速の上 別れてもいいように使われている 午前2時 ---------------------------- [未詩・独白]景子(おしとやかバージョン)/いとう[2007年1月24日22時02分] ちぃーす 今日はどこからかけてんの? 家? めずらしいねぇこんな早い時間に 俺は外で遊んでるよ 場所? ナイショ。 教えたらあんた来るでしょ うっ スルドイねぇ そうそうあんたも知ってる場所だよ ついでに言うとまだあんたが暴れてない場所ね あっそうって、今日はおしとやかですな いつもみたいに笑いながらブーたれないね いつもそうだったらまた誰か拾ってくれるかもね は? 拾ってくれそうな人がいるって? そいつは良かった 奇特な人に乾杯! 頑張って猫かぶってなさいね 暴れないようにね ……… 悪かったよ言い過ぎたよ 別に喧嘩売ってるつもりじゃないから だからそんなに怒んないで 俺が「お幸せにね」なんて言うわけないでしょ 知ってるくせに 俺たち何年連れ添ってたの? ハイハイそこで正確に答えないように クイズじゃないんだから 今日はひとり? だったら飲みに来る? いいよ さっき怒らしちゃったし 今日はおしとやかみたいだし えーとね場所は○○ そうそう、そこそこ。 1時間くらいで来れるでしょ じゃあ、え? 何? さっきのは嘘だって? 知ってるよそんなこと 何年連れ添ってたと思ってるの? だからクイズじゃないんだってば 正確に答えないで恥ずかしいから そんな奴いたら俺んとこかけてこないでしょ 相変わらず人試すのが癖になってるね そんなことばっかりしてたらまた痛い目見るよ ってとりあえず忠告ね もう俺で懲りてるでしょ じゃあ切るね うん? うん。 わかってるよ謝らなくていいよ 急いでね 待ってるからね じゃあね あっそうそう 最後に言い忘れてた 「お誕生日おめでとう」 じゃあ待ってるね バイバイ。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]ポイントポイントうっせぇなぁ。/いとう[2007年5月17日9時56分] だいたいポイントもらうために詩を投稿するってのがまず本末転倒だし、 ましてやポイントのために詩を書くなんて言ったら それこそ何考えてるのか全然わからん。 つかさぁ、こんな小さな限定された場所でのポイントに一喜一憂するってのがもう、 「私は見識の狭い人間です」って白状してるようなもんじゃんか。 恥かしくないんだろうか? 俺は恥かしい。 個人的な話をさせてもらえば、 俺はここのポイントなんてどうでもいい。ここで宣言しておく。 (ただしエリオットのポイントは除く。エリオットではポイント欲しい) この場所でのポイントをまったく信用してないし、 むしろここで大量にポイントが入るような詩なんか書きたくないと思っている。 間違ってもトップ10なんか入りたくない。 ポイントなんて結果の一つにしか過ぎないし、 そんなの気にするヒマがあるなら、自分の詩作能力の向上に心血を注ぐ。 片野さんが「POETRY SNS」って名付けちゃったのは、 じつは痛烈な皮肉なんじゃないかと、勝手に思ってたりもする。 詩のサイトじゃなくて、仲良しこよしサイトになっちゃったのねって。 なんつーか、もっと志を高く持とうぜ。 もうアーカイブでいいじゃん。作品のアーカイブ。作品倉庫。 ポイント制度なしで現代詩フォーラムみたいに作品をweb上にみんなが保存できる場所、 誰か作ってくんねーかなぁ。そろそろアンチテーゼが出てきてもいい頃なんじゃないの? つか、どっかにありそうだな。そんな場所。誰か知らない? ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]かやのなか/いとう[2007年6月1日10時02分] 自分の趣味で申し訳ないのだけれど、女性の書く詩が好きだ。 女性詩、あるいは女性性を持った詩、とも呼ばれるそれらは、 目に見えているのに決して触れられないもののような気がする。 贖罪 赤色の電球が落下して 横たえた体の真上で破裂する 透き通って赤いガラスの破片が ゆっくりと飛散し 白い二の腕の内側や 粧(めか)した鼻のてっぺんや 潤んだ眼球に降り注いで わたしはやっと 優しく微笑むことが出来る それはいかがわしいホテルの 照明のようであったし とても安っぽい 痛みであったし 現代詩フォーラムで名前を見つけたかやさんは、 その中でも、ひっそりと書いているほう。 http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=2045 ひっそりと佇む人は好きだ。 自分自身をみつめながら、でも、それを客観視する視線を感じる。 事象の襞をめくり、その匂いを嗅ぎ分ける視線だ。 浴室 肌をすべる泡が灰色に変わりはじめ 見下げて 乳房から続く白い曲線や つま先の綺麗な花色に 絶望する 口紅を塗らないのは ちいさな爪を伸ばさないのは この隙間を みつけてほしいんだと 奥歯を噛んでけして言わず 汚いものはぞっとする速さで そととなかとを侵す その色はにびいろ こめかみに手を当てて 黙祷するように独りごつ おかあさん 愛のない乱暴さで 扱われたこどもが頬を濡らし ごめんなさいと謝り続ける のに 追いうちをかけるのは 鏡にうつる大人の顔 違和感はにびいろを生み 覆われて 栗色の髪も巻かれた睫毛も 現在さえ消え失せる 幼いこどものわたし わたしのこどもは震えて 羊水のぬくもりを求めている かみ殺した叫びに 浴槽の湯はほんの少し波立ってから 諦めたように 静かになるのだ かやさんの視線の多くは内向きで、 小さな「私」について描かれることがある。 「私」であることがたいへんなこの時代に、 その不安定な「私」を見つめることで保とうとする姿勢は、 詩作においてある意味、基本中の基本であり、 その不安定さが露見することは、正しい、と思っている。 そこには嘘や誤魔化しがないからだ。 (嘘を含んだ詩や自分に酔った詩が、巷には溢れている) 自分の嘘を見抜く強さを、かやさんは持っている。 だから、かやさんの詩は、美しい。 とても美しいと思う。 詩人たちへ もう読みたくはないのだ わたしは明るい光のもやもやと たゆたうなかに身を落とした ここでは視界も聴覚も澱んで 生温くて居心地がいい蜜液のような 見詰め過ぎたのだよ秒針の動く早さとたどり着く先と 針と針の間を裂き開いてしまえば 残酷な黒い時が溢れ出すとも知らず 罰を受けたのだよ二度とその指で 太陽を掴もうとするなとイカロスのように もう聞きたくはないのだ 詠うな絶望にひとすじの炎を揺らめかせた瞳で 惑するな病んだ詩人よ 健全すぎる精神に逃れたわたしを ああ鋭く笑った美しい病魔が 指先をするりと汚していった ---------------------------- [未詩・独白]DIVA/いとう[2007年8月25日2時05分] 地下鉄に乗ると歌姫が現れて 美しく死になさいと耳元で囁く 死ぬことに 美しさも何もない 私は死にたいのであって 美しくありたいわけではない DIVA 螺旋の先はいつも尖っている ささくれた傷跡だけが疼きを残して その痛みでしか 生きていることを感じられない 瘡蓋を剥ぐことだけを得意として 生者はいつも 私の中で死んでいる むしろ私こそ 死んでいるのだろう 私は死にたいのであって 美しくありたいわけではない DIVA 死者にとって 美とは何ですか 迫害と排除がいつもつきまとう 死者にとって美しさとは 苦しみと同義ではないのですか 地下鉄はいつも 美しく人々を運ぶ 歌姫は先頭車両をはみ出て 轢かれて破片となる DIVA 歌声もともに破片となって 知らぬ間に消えていくのに それなのにDIVA 車両が駅に到着し 美しく人々が動き出す DIVA 歌声は届かない その美しさゆえに その苦しみゆえに かすかな祈りのように 消えていくだけなのに ---------------------------- [未詩・独白]美しかった国/いとう[2007年9月15日9時27分] ラブ&ピースという呪いが生まれたのは それからしばらくしてのこと 僕たち、と言ってさしつかえないのなら 僕たちは やはり 気づいていなかったのだろう それが呪いであることに ではなく 世界に 呪いというものがあることに 僕たちは旅と呼ばれるもので 人生を堪能していた 果てはないと思ったし 実際に果てはなかった 湾曲する世界の中に 果てなど存在しない その歪みの中で生きている限り 世界と闇は 構造がとてもよく似ていて たとえば そこに含まれる限りそれを認知できない 僕たちのすべてはいつも 成分としてそこにあり 分かたれてようやく その事実を知る 僕たちが世界であり闇であることは 僕たちが別れを告げられたときに初めてわかるのだ それを責めてはならない 石に躓くように 現象としてそれはそこに在るのだから 冷えたビールももうすぐなくなる すべては過去に起こった出来事 これから起こることさえ すべて予見され 当てはめられ 名付けられている 呪いを解く方法はひとつ 別の呪いにかかることだ そのために僕たちは 何かを失っていくのだ 少しずつ あるいは ひとつずつ せめぎ合うように 砕かれながら ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]詩という“表現”を選んだあなたへ/いとう[2008年3月17日20時51分] タイトルに「あなた」なんて使って気恥ずかしいのですが、 なんかそういう気分なので(笑)。 さて。 蘭の会(http://www.orchidclub.net/)の「ふみばこ」というコーナーに 谷川俊太郎さんからのお手紙があります。 (http://otegami.orchidclub.net/?eid=82949) 俺はこの文章、大好きなんですよね。 特に、「詩は不実な恋人である」というくだり。 長年付き合ってきた身としては、思い当たることがごろごろあります。 深く知れば知るほどイヤになるんだけど、でも離れられない(笑)。 詩を書き始めるきっかけは、おそらくみんな似ていると思っています。 自分の気持ちを吐き出したりコントロールするために。 「私がここにいる」ことを、誰かに知らせたいために。 詩とのお付き合いは、まず、そこから始まるのでしょう。 けれどもそこは、詩の入り口ではありません。これは断言します。 詩はそこで待ってくれているのではありません。 入沢康夫という、戦後詩に大きな影響を与えた詩人がいるのですが、 彼の有名な言葉に「詩は表現ではない」というのがあります。 実はこの言葉、概念としてはとても難しく一朝一夕に理解できるものではないのですが、 それでも、「表現とは何だろう」「表現するということにどのような意味があるのだろう」 そんなふうにぼんやりと考えていると、この言葉のしっぽくらいは掴めたりします。 詩という不実な恋人が、少しだけ振り向いてくれるような気がします。 「何のために詩を書くのか」を、いつも自問自答してください。 答えはなんだっていいです。そしてその答えを疑ってください。 自問自答することと、その答えを疑うこと、この2つが大切です。 この2つの先に不実な恋人が待っています。詩の入り口はそこにあります。 そして詩は、自分自身をアピールする人にではなく、 詩のことを考えてくれる人に振り向きます。 さらに、どんなに長い付き合いでも、入り口を忘れたとたんに、離れていっちゃいます。 詩という不実な恋人と付き合うには、 詩を書き続けようとする意志よりもむしろ、 日々の生活の中で、自分の吐息ではなく詩の吐息を感じ続けること、 そのことが、大切なような気がします。 「詩は表現ではない」という言葉も、 この不実な恋人との付き合い方を示したものだと、 勝手に思ってたりします。 忙しくて詩がなかなか書けない人もいると思います。 でも、本当はそんなこと関係ないんですよね。 書けなくたって、感じることはできる。 むしろ書くことよりも感じることのほうが大切。 詩の入り口はどこにでもあります。 どこでも詩の入り口になり、 そしてその入り口はあなたにとって唯一のものです。 詩を恋人として選んだのなら、まず、 この不実な恋人の待つ入り口を見つけましょう。 そして、入ったとたんにわかる、詩の領域の広さと深さに驚きましょう。 この恋人の不実さを痛感するのは、その後です(笑)。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]現代詩は難しい?/いとう[2008年9月16日13時15分] という問いには自分なりに一つの結論を持っている。 「現代詩は難しい?」 と聞かれたら、いつもこう答えるようにしている。 「難しいものもあるよ」と。 以前こんなことを書いた。 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=11908 要は、「言葉」という道具の使い方が、 詩を書く場合と日常とでは違うという話だ。 そしてそれは“違う”だけであって、 実は、そこに難易は関係していない。 わかりやすい言葉で書かれた“現代詩”はいくらでもある。 そしてそれらは、きちんと“現代詩”として認められている。 (もちろん「わかりやすい」と「ありきたり」は別の概念だ) 現代詩の間口は、たぶん、思っている以上に広いよ。うん。 んー。概念で説明していってもピンと来ないと思うので、 著作権無視で(笑)いくつか紹介していこうと思う。 ちょっと古いのもあるけど。 まず、以前この場所で紹介したのを3つ。リンクで。 石垣りんさん「シジミ」 ま、有名なやつ。 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=33980 吉野弘さん「祝婚歌」 この人も有名。 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=66336 小山正孝さん「雪つぶて」 この人はちょっと古いかも。でも戦後に書かれた詩です。 小山正孝さんは、 1991年に現代詩文庫から詩撰集が刊行されて、 2000年に丸山薫賞を受賞しています。 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=41496 新しい人だと、たとえば杉本真維子さん。 この人は現代詩手帖賞受賞者で、 また、「袖口の動物」という詩集がH氏賞を受賞しています。 ここでは処女詩集「点火期」の中から、「あな」という詩を。 昔、岡田有希子というアイドルが飛び降り自殺したのですが、 それを題材にしています。 あな 四谷三丁目、サンミュージックビルの前を友達と通った。 ねえここでしょ? そうここここ。 ここで自殺したんだよね。 そうここで自殺したんだよ。 たしか頭はこの辺りで、足はこっち向きだったよね。 うん、あの週刊誌で見たよ。 こんな感じ、だったよね。 そう…いやでもちょっと違う、腕はたしか上げてたって。 え、じゃあこう? あ、ちょっと待って、 こうだ、で、顔はこうやって右を下にしてたんだよ。 わたしは、黒いマジックを取り出してそのまわりを囲んだ。 できた? できたよ。 そうだよね、ここだよね、ここでこんなふうに死んでたんだよね。 友達は返事をしなかった。 そしてそのまま、二度と起き上がらなかった。 次は同じH氏賞つながりで、 山本純子さんの「あまのがわ」という詩集から「牧場にて」という詩を。 牧場にて たんぽぽと はこべと なずなを花束にして やぎに贈ろうとしたら やぎったら うれしがって ずんずん近づき なんどもわたしの足を踏んづけた 雲をながめて野原を歩き 小川ではだしになろうとしたら 革ぐつのそこにもここにも やぎの足あと 春の花束は なんてすてき とハートの形の足あとが そこにもここにもつけてあった 次。北川浩二さん。 詩学新人で、ミッドナイトプレスから「涙」という詩集を出してます。 その中から「願い」を。 願い だれもがほんとうは願っている 心に 小さな灯りがともったり そばにいて くれるだけでよかったり ほんとうは願っている これ以上何も言わなくてもよくなって 涙が浮かんだり 自分の一番いい所が 素直に出せたりすること ほんとうは 生きることがよかったり 何か 思ってくれていたりすること そして だれもが ほんとうはもう願わなくともすむようにと またちょっと有名どころに戻って、工藤直子さん。 「日本のライト・ヴァース」という編詩集(アンソロジーって言うのか?)から、 「ライオン」という詩を。短いです。 ライオン 雲を見ながらライオンが 女房にいった そろそろ めしにしようか ライオンと女房は 連れだってでかけ しみじみと縞馬を喰べた あとなぁ、いや、まだいっぱい紹介したいのあるんだけど、 残念ながら手元に詩集がありません(泣)。 んー、平田俊子さんの初期の作品群とか、 今はもう詩を書いてないけど、 榊原淳子さんって人の詩も紹介したいし、 高見順賞を受賞した田口犬男さんの「モー将軍」という詩集も なかなかいいです。 機会があったら、ぜひ。 というわけで、何の話だったっけ?(笑) えーと、そう。 「現代詩は難しい」と言う人がときどきいますが、 俺はやっぱり、「難しい詩だけじゃない」と、 声を大にして言いたいです。 実際、ここで紹介した作品は全部、 「現代詩」という括りで扱われています。 読んでみてどうですか? 「現代詩」という概念が、ちょっと変わってきませんか? もしちょっと変わってくれたら、紹介した甲斐があるというものです。 ま、そんなところで。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]何を書くか。どう書くか。そしてその先で、何を書くか。/いとう[2008年9月29日23時30分] 他人のことは知らない。 自分自身について。 今は41歳だ。もうすぐ42歳になる。 13歳の頃から詩を書いている。 途中、8年くらいのブランクがある。 21から28歳くらいまで。 単純計算で、21年、詩を書き続けている。 まずは書きたいことを書く時期があった。 書きたいことを書きたいように書く時期だ。 書ければ満足する。そういう時期。 難しいことはわからなかった。 難しい詩は読めなかった。 まだ、詩を芸術として認識していなかった。 10代の前半の頃だ。 高校生の頃に現代詩に出会った。 1980年代。「女性詩」という言葉が流行っていたように思う。 でもまだなんだかよくわからなかった。難しかった。 わからなかったけれど、 「すごい」と思える詩や詩人にいくつか出会った。 出会っただけで、それを血肉にする経験はまだなかった。 技術は書きながら覚えた。 そして、技術の必要性を認識したのはさらにその後だ。 ブランクの後の話。 必要性を認識した途端に、 自分の詩の技術不足に気づいた。 「どう書くか」の時代だ。 書きたいものを書いて満足する時代は終わっていた。 技術について試行錯誤することは実は、 「どう書くか」を上達させる本道ではない。 それは結局「作品」をおざなりにしていることと同義であって、 結果として、技術向上が“手段”であることを忘れてしまっていることになる。 「どう書くか」を主眼に置いてしまうと、先が見えないし、先がない。 それを踏まえて、 「技術は経験に裏打ちされる」という言葉を、 (才を持つ者のことは知らないが) 我々凡人が詩と付き合っていくのなら、 自分の片隅に置いておくべきだと思っている。 そのように年月をかけて、 自分のスタイルを見つけ、それに固執せず、 壊しながら様々な手法を身につけていくしかないと思っている。 その時に糧となるのは、なったのは、やはり歴史だ。 趣味で詩を書いている人はともかく、 “詩人”と名乗りたいのであれば、 日本の詩の歴史、その全像だけでなく、 個々の時代の個々の詩人のスタイル、手法、 それは知っておくべきだと考えるし、 知っておこうとする努力はすべきだと、思っている。 要は、 いつの時代にどんな詩人がどんなスタイルでどんな詩を書いていたのか。 それを知る努力をしようとしない人間は、 詩人と名乗るのはおこがましいのではないか、と。 もちろん、これは、詩人であることに限らず、 個々のジャンルの中で、 芸術に関わるすべての人たち、 あるいは、すべての職業、業界に対して、言えることだろう。 簡単に言えば、たとえば自動車産業に勤める人間が、 自動車の歴史、変遷を知らないで、 仕事ができるのか? 金がもらえるのか? 評価されるのか? それと同義だ。 そこを考えない人間は、そこで止まる。 止まらざるを得ない。成長できない。 さて。 そうやってある程度の技術を身につけた。 稚拙はともかく、いろいろなスタイルで詩を書けるし書いてきたし、 お望みなら、同じテーマで違うスタイルの詩を書くこともできる。 けれどそこで行き詰まるのだ。 「では俺は何を書きたいのか?」と。 いや。この問いはもっと深淵だ。言い換えよう。 「何を書けば、それが芸術としての深さを持てるのか?」 その世界では、自分の人生、あるいは自分自身と向き合うことになる。 「自分とは何か」 それを問い続けなければ作品が書けない。 語弊があるが、浅はかな人間には浅はかな詩しか書けないのだ。 そしてとても怖いことに、その浅はかさに自分自身が気づかないのだ。 だから今の自分にとって、詩を書くという作業は、 自分自身の浅はかさを知っていく作業に他ならない。 そしてそれは、 どれだけ多くの嘘を抱えて、 自分は存在しているのか、ということを、 確認していく作業に近い、のかもしれない。 今はそうやって、詩を書いている。 ---------------------------- [自由詩]Davidが我々を叩き落とす/いとう[2008年12月15日14時49分] 呪い というものについて考えている 地球が回って 日が照って 草花が生い茂って 我々は そう そのように生きていて そのこと自体が 呪いであって。 祝福 と呼ばれるものはすべて呪いだ 我々は呪われて生きているのではなく 生きていること自体が呪いなのだ ある朝Davidが満面の笑みを浮かべてやってきて ねぇ、君。 いや、君たち。 君たちはdyubidyubaで tyunyutyunyuだから だからmenyuaotrusal。 mantios;fsnのために mfnienjslしたほうが良いと思わない? そう言ってDavidは 我々を叩き落とす 暗い穴の中にではなく むしろ陽光の眩しさに目が眩むような そんな 我々の姿がはっきりと見える場所へ はっきりと照らし出される場所へ はっきりと照らし出されて見えてしまう場所へ いやむしろ今、 我々は暗い穴の中に潜んでいるのだろう Davidだけがそれを知っているのだ 我々は追い立てられるように Davidに叩き落とされ そこで我々を知り その後 どうなるかはわからない 我々がどうなるかを我々は知らない けれどDavidだけがそれを知っていて 満面の笑みを浮かべるのだろう 陽光の眩しさのように ではなく 慈雨の冷たさのように ではなく そしてもちろん 呪いでもなく 我々の知らない 何かのように ---------------------------- [自由詩]Davidは我々を理解できない/いとう[2009年1月6日14時06分] 薄暗い街灯を避けるように Davidが 深夜の公園で立っている ように見える 満面の笑みを浮かべて いや 満面の笑みを浮かべている ように見えて  Davidは  自分が何であるかを知っていて  いつどこで何をすべきかを知っていて  それらを知らないことを理解できなくて  それらを知らない我々を理解できない  Davidにとってそれは  生きていないことと同義で  Davidにとって我々は  生きていないに等しい Davidの形が揺らぎ始めて やがて小さな肉虫の集まりのように蠢き始めて 少しずつ 崩れていく  ねぇ君。  いや、君たち。  君たちは自分が何であるかもわからず  いつどこで何をすべきかもわからず  怯えていることにも気づかず  生きていないことにも気づかず  そのように廃墟を構築して  暗がりに潜んで  それを  呪いと言うのだよ  君たちは呪われている  君たちは明らかに呪われている  呪われていることにも気づかずに Davidはやがてその原形をすべて崩し 腐敗してボタボタととろけ落ちるように 少しずつ 落下していく Davidのすべてが落下した瞬間 また別の 離れた場所に現れて 満面の笑みを浮かべている ように見えて 立っているように 見える 薄暗い街灯を避けるように ---------------------------- [自由詩]Davidへの伝言/いとう[2009年2月9日14時56分] 私たちはいつも ささやかなものを守ろうとして消えていく それが私たちであって それ以外の私たちはいない 私たちは確かに 生きていないまま生きなければならなくて そして躓いたまま死んでゆくのだけれど その呪いを受けたままでしか生きられないのが 確かに私たちなのだ David. 私たちは受け入れるしか術がない それは運命と呼ばれるものではなく もしかしたら呪いでもないのかもしれない 私たち全員が呪われているので 誰も呪われていることに気づかないどころか 呪いというものがあることさえ知らないのだから だからDavid. 受け入れることで消滅する何かがある 受け入れることで名付けられなくなる何かがあり Davidあなたですら 私たちがあなたを受け入れた途端に David あなたも消えてなくなる 確かにそれは 受け入れることしかできない結果に過ぎないし 私たちにはそれ以外何もできないのだけれど もう一度聞いて欲しい。 私たちはいつも ささやかなものを守ろうとして消えていく それが私たちであって それ以外の私たちはいない ささやかなものが何かは関係ない 守れるかどうかも関係ない 守ろうとする意思と 消えていく覚悟と それだけが私たちに残るものなのだから 私たちの廃墟はいつも 眩しさと暗闇の境界を作り出し その曖昧な空間を 私たちは慈しむ 影絵のようなシルエットはいらない くっきりとした境は 必要ない 私たちは暗い穴の中に潜んで 曖昧なまま すべてを受け入れようとする David. 私たちにはそれしか術がないのだから 私たちにはそれしかできないのだから ---------------------------- [自由詩]波紋のように広がっていく/いとう[2009年5月16日13時12分] 汗ばむほどの陽光の 照り返しに遮られて わたしはまた 前が見えない 夜のうちに拾った 指たちをつなげても それは手にならないのだ 誰かの声の届く範囲に いるはずなのだが それなのにいつも 何も聴こえない ような気がして 前ではなく 上を見上げると 空には鳥たちもいない 目をつむり その場に佇むと ようやく誰かの声が聞こえる ような気がするが それは錯覚で やはり何も聴こえない ような気もして 思わず目を開け 見渡すと 誰もが目をつむり その場に佇んでいて そのさらに遠くでは 誰かが 空を見上げようとしている ---------------------------- [自由詩]月明かりの僕たちに/いとう[2009年12月16日3時23分] 僕たちが狩りをするのは 生き残るためだったはず いつのまに 狩りをするために 生きていることになったのだろう などと僕たちが 思うはずもない 僕たちは今まさに 狩りをしているのだから 夜の月明かりに群れるものたちを 僕たちは息を潜めて待つことなく むしろ僕たちが月明かりとなって 誘き寄せ、食む ことなくいつしか 息をすることを忘れたように それが呼吸だと気づかないうちに 僕たちは満たされているのだ 何を狩ったのかも 思い出せないで 空腹すら 思い出の向こうへ 僕たちの中には いくつかの悲劇と苦難があったはずだ それを忘れたとしても それは血肉となって巡っている としても その記憶が閉ざされた夜明けには 僕たちはまた 失ったことを忘れている としても 生きている、そのことを、 忘れていないのはもはや 何かの呪いのだろう それは僕たちが忘れてしまった 僕たちが狩ったものの、祈り、が、 僕たちにとっての呪いであることを 忘れてしまっている僕たちへの 警鐘であることすら 僕たちはすでに 僕たちの内部に取り込めていない のではなく 取り込んでいることを忘れていることそのものが 呪いであることに気づかないことこそが すでに新たな呪いなのだ  喪失とは  失うことではなく  忘れていることに  気づかないこと 閉ざされた夜明けに 月明かりは意味をなくし 僕たちこそが忘れられる 失われた僕たちはそこに在って 影を残すが その影こそが 僕たちの証で もちろんそれは すべての祈りに 忘れられている 影を祈るものは どこにもいない 祈ったことこそが 忘れられるのだから ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】停滞が継続していくこと。/いとう[2010年1月13日0時51分] さて。 40歳になったら隠居すると前から言っていて、 そのとおりに隠居しながらもう三年くらい経った。 なんだかネット上で詩を書き始めてから 十数年も経ってしまったこんなロートルがしゃしゃり出ても 百害あって一理なしなのだろう。 老害とはよく言ったものだ。 で。 ネット上の詩を見始めた頃と、今と、 状況は実は、なんの変化もない。 同じ話題や同じ議論が、 数年ごとに場所を変えて浮かんでは、 同じように収束していく。 個人的には「ネット詩」なんて言葉は そろそろ無くなってもいい頃だと思っているのだけれど、 そんな気配すら起こらない。 実際のところ、そんな状況に「飽きた」というのも、 隠居理由のひとつだったりする。 インターネットは蓄積が困難な媒体であるという思いが強く、 たとえばこの批評祭だって、 たった十数年のスパンで見ても、 「なんだか昔どっかで同じようなことやってたよなぁ」 という思いに駆られてしまう。そんなものだったりする。 何度もリセットされる仮想現実を延々眺めているような気分だ。 (もちろんそれがこの祭の批判につながることはない。  行動するものだけがいつも結果を得るのだ) よくよく考えれば、 インターネットの発展というのは、 それは記録の蓄積からではなく、 システムの新築からしか生まれていない。 初めはホームページというシステムだった。 それがブログになり、SNSになり、 最近はTwitterとかなんとか、 新しいシステムが生まれ、それが時流になり、 なんだか発展している(ように見える)、けど、 実際のところ、参加者が行っていることは、 ほとんど変わっていない。 結局“停滞”というのは媒体特性によるものであって、 詩の状況とかそんなもんは、実はまったく関係ないのだろう。 裏を返せば、「ネット詩」なんて呼ばれるもの“だけ”を見続けても、 「詩」については何もわからないままなのだ。 (悪い意味ではなく)「ネット詩」なんてそんなものだと思う。 ただ、そこにあるパワーは、大切にしたい。 そういう状況を見て、「停滞している」「何も始まっていない」 などと述べるのは、なんだかそれこそ、 停滞の渦の中にいるんじゃないかな、と、最近思うようになった。 なんだろね、嘆息ではなく感嘆しながら、 「よくこんだけのリセットが繰り返されるよな。」とか、 「よくこんだけ同じような議論がいつも起こるよな」とか、 なんか、そんな、停滞し続けるパワーみたいなものを感じるのだ。 継続にはエネルギーが必要で、 上昇しない螺旋階段のような場所で、それでも同じ場所を回り続ける、 そんな継続が未だに続いている、 なんだかそれって、 じつは凄いことなんじゃないの?って。 「どこにあっても詩は詩でしかない」というのが持論のひとつで、 それは結局「どこにあるか」で判断されるべきものではないということで、 「ネット詩」なんて言葉が生まれたのは、 「どこにあるか」で判断されてきた経緯の結果であって、逆に、 「ネット詩」なんて言葉が残っているのは、 それが続いているのか、あるいは、 (ネットで詩を書いている人ではなく)ネット上の詩を気にしている人が、 それがもう終わっていることに気づいていないのか、 あるいはもっと別の、何か別の要因なのか、 なんだかそれはわからない。 さっき書いたように個人的には「ネット詩」なんて言葉は そろそろ無くなってもいい頃だと思っているのだけれど、 そんな気配すら起こらなくて、 でもなんか「ネット詩」と叫び続ける人、叫び始める人は、たくさん生まれて、 それを批判する人もいつも同じように生まれて、 それこそそれは「インターネットだから」と言ってしまってもいいんじゃないかと思う。 「インターネットだからこそ」と、言い換えてみようか。 まー結局、実際のところ、 そんなパワーを持ち続ける年齢じゃなくなったというのも、 隠居理由のひとつだったりする。 同じ場所をぐるぐる回れるエネルギーなんて、 ロートルは持ち合わせていないのだ。 老人は、縁側で茶を啜ってればいいのだ。 なんだか毎日ぐるぐる昇ってくる太陽の パワー溢れる陽光に浸りながら。 ---------------------------- [自由詩]かわいいもほどほどに。/いとう[2010年2月12日0時58分] 今日は神楽坂に行きます ひかり、はベイビーです 休みを取っておそらく何年ぶりの人や まだ見たことのない人や 知らない人と セックスは月に1回 できればいいんじゃないかな ひかり、ひかってますかベイビー 酒を飲んで煙草を吸って詩でも書ければ それでOKなのに OKじゃないことが山ほどあるのは そういう仕組みになっているから やみが、ひかってますアンサー やー、と唄えば やー、と返そう ひかり 神楽坂はもうすぐ雪です 関東全域で雪が降る予定の夜に 休みを取って なんだかわかんないけど そんな仕組みです やー、やー。 ベイビー。かわい過ぎると それはもう たいへんなことになるんだからね きれい過ぎて気が狂ってしまった人を 僕は一人知っているよ だから後は 自分で考えなさい そしてひかってますか ひかり。やー、やー。 ---------------------------- [自由詩]許せない春/いとう[2010年3月25日15時23分] サイトーさんの常備薬のひとつに釣り針があって 咳の止まらない日にはそれを喉に引っ掛けてミチさんを釣り上げる ミチさんは体長数ミリの小人で だいたい寝ている間に鼻から入ってくる ミチさんが何故そんな暗くて狭くてぬめった場所を好むのか その生態はまだ解明されていないが 咳が出るくらいで特に危害はない 釣り上げられたミチさんは特に悪びれることもなく めんどくさそうにカタカタとどこかに消えていく サイトーさんはいつもそれを目で追うが どこに行ったのかいつもわからない ふと目を離した隙にいつも どこかに消えてしまっている その日のサイトーさんはあまり機嫌が良くなく ミチさんを釣り上げると ふと、気が向いて 釣り上がったミチさんをティッシュで包み その場で潰してしまった 黄色い液が多少出て 少し臭ったが 手を洗ってそれで終わり のはずだったが 次の日、起きると大量の、 (以下想像どおりなので略) 春、と言ってもまだ薄ら寒い日 私は瓶に閉じ込めたたくさんのミチさんの中から一人 ピンセットで取り出して 窓を開け 解き放つ ミチさんは風に乗って空を漂い そのままどこかに消えていく その他の 閉じ込められたままのたくさんのミチさんは それを見届けるといっせいに 私を見つめて何か言いたそうな顔をするが そのうち諦めて もぞもぞと動き始める 閉じ込められた 瓶の中で 少しやるせない様子で ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]詩歴について。/いとう[2010年4月20日3時04分] 初出:2000年「詩人専用シナプス」  ヒマな時によく、詩のサイト巡りをする。ちょっと前まではwebringの営業のために、投稿コーナーのあるサイトを見て回ってた。Googleという検索サイトで、「詩の投稿」で検索をかけると約4万のサイトが引っ掛かるんだけど、1000程度まで見て回っていい加減飽きてやめた。  「ネットにはくだんない詩が溢れている」という話をよく聞くけど、俺もそれは否定しない。それこそ何十万もの詩のサイトがあるなか、なんでこんなにレベルが低いんだと思うこともよくある。ときどき悲しくなる。ま、だからこそ、砂漠に埋まったコンタクトレンズを探すような作業の果てにたまに出会う素晴らしい才能に、とても感動を覚えるのだけれど。  なんでこういう話から始めたのかというと、もちろんそういったネットの現状を嘆くためではないです。んと、そういった現状やくだんない詩を書く人を、非難・批判する人がいることを、個人的に憂いているからだったりする。俺自身詩を書き始めた頃に、それはもう、「ポエム」にもなってないようなものを作ってた思い出があるので、なんかね、非難する気になれないのよ(笑)。今につながっている昔の自分を否定しているようで。  思うのだけれど、くだんない詩が溢れてるのはネットだけじゃないんだよな。詩誌などのネット以外の場所ではそれが見えてこないだけなんだよ。ネットだからこそそういったレベルの低い詩が表に出てるだけであって、別にネットだからくだんない詩がいっぱいあるわけじゃないんだよな。  さて。なんか昔にどこかで書いた記憶もあるけど、ま、自分の詩歴などを。  自分で詩を書き始めたのはもう20年も前、中学生の頃でした。ローカルのラジオで、送られてきた詩をアナウンサーが朗読する番組があって、そこにせっせと投稿してた。詩ときちんと向き合い始めたのは、ご他聞に漏れず谷川俊太郎さんの影響。それから図書館の詩集を読み漁るようになって、詩集漬けの毎日だった。中学生の頃に有名な近代詩のほとんどは読んだと思う。詩史もそのころに独学で勉強した。明治初期の浪漫派から始まり象徴派を経て、白樺派や戦後派などが台頭していく流れと、それぞれのポイントとなった詩や詩人などの歴史。あと「MY詩集」というポエム系の雑誌を購読してて、そこに載ってる自費出版詩集の広告から、気になったやつを買ってたりしてた。詩の書き方教室みたいな本も読んだ。凝り性なんだろうな(爆)。  で、書いてる詩自体はもう、箸にも棒にも引っ掛からないようなやつ(笑)。最初の1年くらいはもうダメダメだったなぁ。ま、2年も書き続けてるとそこそこのが書けるようになってきて、前述のラジオ番組内でも、ポツポツと読まれるようになりました。思えばあの番組が俺の教室だったかもしれない。投稿して読んでもらえるというモチベーションがあったからこそ、詩作を続けることができたのかも。  高校では文芸部の部長やってた(爆)。で、高校に入って現代詩と出会いました。伊藤比呂美とかそのへん。「現代詩はわけわからん」と思いながら「現代詩手帖」や「ユリイカ」なんかを読み漁ってた。はっきり言って今でも現代詩はよくわからん(笑)。でも、よくわかんないなかでも好みに合った詩人さんなんかもいて、そういう人を見つけるのが楽しみでした。現在敬愛している詩人さんの中に井坂洋子という人がいるのですが、この人もその頃に見つけた詩人さん。なんか女性の詩人の方が俺の性に合ってた。男性の詩人はあまり記憶にない(笑)。まぁ、中学高校時代に自分が読んだり買ったりした本の半分以上は詩集だったと思う。  詩作ももちろん、現代詩の影響をかなり受けました。でもなぁ、あの頃はまだ、独り善がりなものばかり書いてたような気がする。ちょっとした題材を見つけてそれなりに雰囲気が出るように工夫して一丁上がりって感じ。それで満足してた。形は整ってるしそれなりの中身も主題もあるけど、でもそれだけの詩。あと、わざと難解な言葉を使ってみたり、意味もなくビジュアル的な詩や実験的な詩を書いて、現代詩っぽいよなぁとか(爆)。この頃はまだ、「読者の側に立って書く」なんてこと思いもつかなかったです。  大学入って2年くらいまではそんな感じでした。そのうち小説の方が面白くなってきて現代の小説をきちんと読むようになり、また、芝居をやり始めてそっちの方に熱中したせいか、詩を書かなくなりました。29歳くらいまで。なので8〜9年ほど詩作にブランクがある。それまでに書き溜めた詩は160編ほどになるけど、それはもう全部捨ててしまった。詩集や詩誌も読まなくなった。今ホームページにアップしてる詩はすべて、詩作再開後の作品と、当時書いたのを思い出したやつを再構築したものになってる。  このブランクはなんだったんだろう。今でもよくわかんないです。でもこのブランクは俺の詩作の糧になってると感じる。どこがどういうふうにと言われると説明できないけど、感じるのは確か。「人生経験」というやつかもしれない。  詩作を再開したのはパソコンを入手してから。1年くらいは、3ヵ月に1作くらいのペース。そのうちニフティの詩のフォーラムに入って、それからまた精力的に書き出して、今に至る(笑)。  じつはね、再開後はほとんど詩集や詩誌を読んでないんですよ。なんか読む気になれない。批判するわけじゃないけど、詩誌なんかをパラパラめくって読んでも、俺が高校の頃に読んでた内容とそんなに変わらないじゃないかと思って。面白いんだけどね(笑)。そしてたぶん、いろいろ変わってはいるんだろうけどね。今の俺と合わないんだろう。そのうちまた読みふけるようになるかもしれない。今はネット上で詩を読んでる方が楽しい。  話を戻そう。最初の話。  ネットには確かにくだんない詩やポエムが溢れてます。でもね、それを嘆いてるだけじゃしょうがないと思うのよ。中学や高校の頃の俺が「つまんない詩ばかり書いて」とかそんなふうに言われたら、もう手も足も出ないもん(笑)。ヘソ曲げちゃうよね(笑)。んー、嘆くヒマがあったら、そういう詩や書き手を非難するヒマがあったら、これはこれで不遜な発言なんだけど、彼らをきちんとさらに上の高みへ引き上げられるようなものを作っていくべきじゃないのかなと。俺らがその節々で影響を受けた詩や詩人と同様に。  たとえば「POEM CLUB」なんかよく引き合いに出されるけど、じゃあ「POEM CLUB」に投稿される作品群をバカにしてる人たちが、あそこで“ポエム”をせっせと投稿してる人たちを感動させられる“詩”を書けるのかどうか。あそこに投稿して喝采のレスをもらえるようなものを作ってるのかどうか。俺も含めて自問自答すべきだと思うのね。自分たちが感銘を受けた詩や詩人のように、少なくとも詩にはこういった他の世界、他の次元があると、きちんと提示できるものを作るべきだと個人的には思ってる。そういう次元へ引き込めるだけの力を持った作品を書いていく必要があるんじゃないの? で、提示して理解されないのは、それは読み手の責任じゃなく書き手の責任だよ。「なんでこの詩の良さがわかんないの?」なんて言っててもしょうがないよ(笑)。  でさ、そういうことをやっていかないと、結局閉じちゃうのね。ネット上での詩の世界が閉じちゃう。ま、ムリヤリ提示する必要もないし、現状で満足してるその気のない人は放っておけばいいんだけど、くだんないからって批判して排除してるだけじゃそこで終わっちゃうよ。マジで。みんなそういう出会いを繰り返して、影響を受けて上達していったんじゃないの? 少なくとも批判や非難を受けて上手くなった覚えは俺にはないよ。  最後に。  えー、「POEM CLUB」を引き合いに出しましたが、まったく他意はないです。「POEM CLUB」で素晴らしい詩を書いてる人たちもたくさん知ってます。知らないって人は、今度きちんと、あそこの作品群を読んでみるといい。詩のサイト巡りをするよりは遥かに高い確率で、素晴らしい才能と出会えます。 ---------------------------- [自由詩]被害妄想のサ●エさん。/いとう[2010年6月10日2時42分] 別に履くのを忘れたわけじゃないのよだってそうでしょ靴なんか履いてたら逃げられちゃうじゃないのそうでしょみんなそうするでしょ履いてるヒマないわよね敢えて履いてないのよ履き忘れたわけじゃないのよなのになんで笑うのなんでみんな笑ってるのおかしいのそんなにわたしがおかしいわけ靴を履いてたら逃げられると思って裸足で追いかけたわたしがおかしいのおかしくないわよだっておかしくないでしょ理性的な判断じゃないのみんなだってそうするでしょドラ猫にお魚獲られちゃうのよあなただってそうするでしょもし自分が同じ立場だったらって考えてごらんなさいよ絶対に裸足で駆けてくんだからなのになんでそんなに笑うの笑ってるの履き忘れたわけじゃないのにわたしそんなに笑われることしてないのに靴を履いてたら間に合わないと思ってそのまま追いかけることのどこがおかしいのなんでみんなわたしを見て笑ってるのわたしはおかしくないわよどこもおかしくないわよなのにみんなで寄ってたかってわたしを笑い者にするわけみんな馬鹿にしてるんでしょみんなでわたしのこと馬鹿にしてるんだわそうに違いないわそうやってみんな陰口をたたくのよたたいてるのよ私の陰口をたたいてるに決まってるんだわマスオさんの耳にも入るに違いないわ三河屋さんも陰でコソコソ笑うのよそしてみんなに言いふらすのよ御用聞きしてる家すべてに言いふらすんだわあの人はおかしいって言いふらすのよそしてマスオさんはおかしな女の養子婿になった馬鹿な男だって職場で笑われてるんだわだってみんな笑ってるんだものみんなわたしを見て笑ってるんだものお日様も笑ってるわお日様もわたしのこと馬鹿にしておかしいと思ってるに決まってる〜るるるっる〜。今日もいい天気。 ---------------------------- [自由詩]ファンダメンタリスト/いとう[2010年6月10日2時47分] オーストラリア産のウルトラマンは座禅を組んで瞑想で変身大気汚染のため地球上には3分しかいられないシュワシュワ虚弱体質とも言うシュワシュワアダムを見習えアダムは地球上に600年も住んでいたが大気汚染が続いて子供たちはみんな若死していく400歳300歳200歳今は100歳で長寿のアダムの子供たち善悪知るの木の実を食べたアダムの子供たちなんとかシウム光線を出せないアダムの子供たちだからウルトラマンは罪で穢れているのだ3分の寿命罪だらけシュワシュワ聖書にウルトラマンについて書かれていないのでウルトラマンは存在しないのだ666があれば認めてやってもいいが悪としてシュワシュワ認めてやってもいいが悪なら怪獣は神の遣いだ天使だあれは神がお試しになっているのだ我々をお試しに我々の罪を清算するために遣わされたのだから崇めよ献祭せよ悪は神の名を騙って現れる騙されるな怪獣は聖書に記述されている黙示録を読め旧約も読め初めに言葉があるので日曜は休め休まないと罰せられるぞ怪獣に襲われるぞ怪獣に献祭せよアブラハムを見習え年老いて一人息子を神に献じようとしたアブラハムを見習えその父に従い喜んで殺されようとしたイサクを見習えヨブも見習え神の試しによってすべてを失いながら信仰を貫いたアダムの子供たち襲われたらすべてを奉げろ神の国はそこにあるシュワシュワ騙されるな宇宙はすべて我々のものだ何故なら聖書にそう書いてある右の頬を打たれたら次は左の頬だ罪を清算しろ善悪知るの木の実を食べたアダムの子供たち善悪は神の名の元にある聖書の名の元にある神の論理を知れシュワシュワなんとかシウム光線を出せないアダムの子供たちよシュワシュワ ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]商業詩誌の潰し方/いとう[2010年7月17日22時16分] 初出:詩と思想2010年5月号 「ネット詩の可能性」というテーマで依頼を受ける  私自身の話から始めて恐縮だが、以前声高に叫んでい た「ネット詩」という言葉を、何年か前から意識的に使 わないようにしている。この言葉がまだ残っていること 自体、ネット上の詩の活動がまだ何も成し得ておらず、 かつ、他の媒体がネットという「ツール」に向けて、何 らアクションを起こせていないことの証左だと考えるか らだ。「ネット詩の可能性」というテーマで原稿を受け たが、実際、語るないよう場おそらく本誌二〇〇三年八 〜十二月号のインターネット時評の中で私自身が述べた ものとあまり変わらないものとなる可能性がある(バッ クナンバーを持たず参照できない方のためにネット上で の同原稿掲載URLを載せておく http://poenique.jp/jisakusi/ronkou/jihyou.htm)。 そして二〇〇三年から焼く7年経った今でさえ、変わら ない内容を書かざるを得ないということそのものが、前 述の状況を示しているに他ならないだろう。 ●「ネット詩」の現状〜投稿サイトの功罪〜  ネット上の詩は投稿サイトの存在によって拡大してい った経緯を持つ。その時期その時期によって中心となる 投稿サイトがあり、そこに人が集まり交流が生まれてい るのは確かであり、実際、投稿サイトがポータルとなっ て「ネット詩」と呼ばれるものの傾向が他の媒体に向け て可視化されているように見受けられる。他の媒体から 寄せられる(的外れな)批判は特に、その傾向そのもの を「ネット詩」であると錯覚、誤解、あるいは規定して、 他の媒体の特性を、ネットという媒体特性を無視した形 で押し付けて展開しているものがほとんどだ。そこには 何重もの無理解が錯綜しており、批判と言うのもおこが ましいものまで存在している。  確かに、批判対象とされる「ネット詩」の傾向、ある いは「空気」とも呼べる雰囲気自体が、ネット上に存在 することは否めない。(しかしそれが、「ネット詩」で はないと断言しておこう)。何故ならポータルとして機 能する投稿サイトに集う人々は、極端に言えば、詩が読 みたいためではなく、自分の詩を読んでもらいたいため に集っているからだ。そこでは詩作品がコミュニケーシ ョンツールとして機能してしまい、作品にとって必要不 可欠な批評性が埋没してしまう。「ネット詩のカラオケ ボックス化」という批判はまさにこの点を示しているの だろう(ただし私自身は詩のコミュニケーションツール としての間口の広さを否定はしない。それは詩にとって のアドバンテージであると考えている)。そのような場 がどれだけ数多く存在し、どれだけ数多くの人が集まろ うと、そこからは確実に何も生まれない。ネット所で投 稿サイトだけがポータルとして機能している限り、その 状況はまったく変わらないだろう。しかしもちろん、批 評性の獲得を目指して努力している投稿サイトもあれば、 投稿サイトの中で批評性を保持しようと奮闘している人 もいるし、投稿サイトという「機能」からの脱却を図ろ うとしている場すらネット上には存在している。投稿サ イトは単なる機能であり、それが現在ポータルな場とし て可視化されているからといって、投稿サイトの詩およ びその場の空気=ネット詩と規定してしまうのはあまり に乱暴過ぎる。何より批判者はその空気のみを対象に批 判しているのであって、個々のサイトの独自の傾向まで 言及したものはまったく存在しておらず、ネット上の詩 群を実際に読んでいるのか疑わしいものさえある。そし てそのような批判が何年も前から形すら変えずに延々と 詩誌で繰り返される状況は、見ているこちらが辛くなる と言わざるを得ない。 ●インターネットの媒体特性  投稿サイトの詩およびその場の空気=ネット詩と規定 してしまうことの危険性については、批判に対してだけ ではなく、「可能性」を考える場合にも、危惧しなけれ ばないだろう。批判にしろ可能性にしろ、それらについ て考えるならば、まず、ネットという媒体の特性を把握 する必要がある。そこにはもちろん他の媒体と異なった 特性があり、それを踏まえなければこの媒体の長所も短 所もわからず、何ら解決の糸口に結びつかない。とりあ えず簡潔に二点ほど、現在、自身が考えている特性を挙 げておきたい。  特性のまず一点は、すべての作品の顕在化だ。紙媒体 では、紙媒体の特性である編集機能が働くため、読むに 耐えない作品は表出できない。しかしネットには(基本 的に)編集機能が存在しないため、そのような作品も並 列で表出される。時々、「ネット詩はつまらない作品だ らけだ」という言説をみかけるが、それはネット上だか らではなく、ネット上でそれらの作品が表出しているか らだと断言しておく。たとえば書いた本人、あるいはそ の友人といった極めて少数の目にしか触れないノートの 隅にでも書かれていたような詩が、ネットの出現によっ て多数の目に触れ得る形で提示されているに過ぎない。 紙媒体で内在化しているものも含めれば、質の高低にお ける媒体間格差は存在しない。  さらに言及するならば、ネットにおける「創作と発表 のタイムラグのなさ」もその顕在化に拍車をかけている のは事実だ。安易な発表を促すシステムは、確かに他の 媒体特性から見れば危険極まりない。しかしだからこそ ネット上で真摯に詩作を続ける人たちは、編集機能を自 身に内在化させる必要性が他の媒体よりも高いと言える。 その意味において、ネット上での詩作の方が、他の媒体 での創作活動よりも、孤立性が高い。あるいはだからこ そ、紙媒体に流れていく。実際何年も前から、詩誌の投 稿欄で見かける名前の半数程度は、ネット上で見知った 名前であったりする。媒体間の越境を見据えた場合、こ の流れはとても良い傾向だと思う。すでにそのような良 質な場が他の媒体にあるのだ。ネットという媒体自身が わざわざそれを肩代わりしたり再構築する必要は(今の 時点では)まったくない。  もう一つの特性は、あらゆるシステム(機能)が創造 できる点だ。じつはこの特性は前述したネットの特性に おける短所を凌駕する可能性を秘めている。たとえば前 述の「創作と発表のタイムラグのなさ」も、タイムラグ を保障するシステムをネット上で作ればよいだけだ。そ れが可能なのがネットであるし、逆に一篇の詩を数ヵ月 かけて複数人で批評することもできる。詩誌と同じシス テムをネット上で作り上げることさえ、やろうと思えば できる。批評しえの欠如が媒体特性に由来すると仮定す るならば、また別の特性によってそれを打ち消すことが できるのもネットなのだ。  もちろんそのシステムに人が集まるかどうかはまた別 の問題である。ネットの発展は記録の蓄積からではなく、 コミュニケーションシステムのアレンジからしか生まれ ていない。初めはホームページだった。それがブログに なり、SNSになり、最近はTwitterのような新しいシス テムが生まれ、それが時流になり、発展している(よう に見える)けれども、実際のところ、参加者が行ってい ることはほとんど変わっておらず、どのようにコミュニ ケートするか、その一点のみが変化しているに過ぎない。 その中で、媒体特性を打ち消すシステムを構築したとし ても、その運営維持に疑問が残るのは確かだ。そしてそ れは、「ネット詩」だからではなく、ネットだからこそ、 あるいは「人間」の性質と大きく関っていると考えられる。 ●媒体の壁がなくなっていく中で  携帯端末の進化により今後十年程度のスパンで、ネッ トと他の媒体間の壁はどんどん薄くなっていく。これは 確実な社会の時流であって、その中で、詩という今や瀕 死の文化がどのように生き残っていくかを模索していか なければならない時期にさしかかっている(私見では手 遅れと思っているくらいだ)。ネットと紙を分離して考 える発想自体がすでに時代遅れであって、その点、ニッ チな分野こそネットとの親和性が高いにもかかわらず、 詩の出版社は何もアクションを起こしてこなかったと言 わざるを得ない。だからこそ投稿サイトという機能がネ ット上で主流になっているとも言えるし、現状で仮に、 詩誌と同等のシステムがネットで構築された場合、ブラ ンド力の行使において、ネット上での展開を無視してき た商業詩誌は明らかに不利益を被ると確信している。大 手詩誌の読者数と、ネット上で大きな影響力を持つポー タルサイトのユニークユーザー数と、今やどちらが多い のかは自明だ。ましてや詩集どころか詩誌を手に入れる ことさえ困難な時代において、ネット環境さえあればど こでも閲覧可能な存在が出現すれば、現状でさえいつ潰 れてもおかしくない運営状況の中、ネット運営と比べて 莫大なコストがかかる商業詩誌がどこまで持ち堪えられ るか、疑問を提示せざるを得ない。  今後ますます媒体の垣根がなくなり大手サイトや出版 社がフラットに並び、これらコンテンツホルダーがホル ダーとしてではなくコンテンツそのものとして「読者」 に提示されてしまう状況が確実にやってくる。そのとき、 それまでに商業詩誌が何もしてこなかったとすれば、た だでさえコミュニケーション機能としての側面が強いネ ットという媒体の台頭の中、その圧倒的なブランド力と 歴史と先行者利益が灰燼に帰してしまう可能性すらある。 それこそ文化の崩壊、暗黒時代の到来だ。そうならない ために何をすべきか、それが今緊急に語られるべきこと であり、「ネット詩の可能性」などは、その後ゆっくり と談笑すればよいのだ。ネットと紙が対立するなどとい う幻想が取り払われた後、両媒体が文化の担い手として 手をつないでいる状況の中で。 ---------------------------- [自由詩]夜明けのように/いとう[2010年12月26日2時01分] 生きていると 死ぬことを忘れてしまう 私たちは 生きているのではなく 死に向かっているのだ 夜明けのように 死は訪れる 目を覚まさないうちに 私たちは死んで 約束されたように 起き上がり 眩い陽光を浴びながら 生きていると 錯覚している ---------------------------- [自由詩]六本木のお友達/いとう[2011年3月2日1時50分] サミーとやすこさんはクラブやってて仲良し そこで木曜に回してるDJの妹は新聞社でバイト 名刺もらったけどどっかにいってしまった 名前も忘れた 「NIGHT AVENUE」でフライヤーやってるラリィもいつも笑顔 みんなそれにだまされるので ガールフレンドがいつも5人以上 「今度女のコ紹介するよ」とか言うけど おさがりはノーサンキュ 交差点で夜店やってるエイタンはノリがメチャクチャ 客寄せと称して 大声でヘンな歌を歌ってる 最近ダイエットしてて指輪がブカブカになるので ここでサイズを調整してもらう ユウスケはまだ21歳でバリバリのヤンキー しばらく来ないときはたいてい 警察のお世話になってる 職と女と車を めまぐるしく替えていて 去年貸した1万円はまだ返ってこない けいこさんは神出鬼没 いろんな店で バッタリ会ってそのたびに 「仕事何してんの?」と聞いても 「何やってるんだろう」と笑って 絶対に答えてくれない 明子ちゃんは先月 ニューヨークに行ってそれっきり あとは 名前も知らない けれど会うと挨拶を交わす奴等が うじゃうじゃ みんなに ケータイやメールの番号をたれ流すけど 誰からもかかってこない ヒマなときはいつも 待ってるんだけどね ---------------------------- [自由詩]Crusader's loneliness/いとう[2011年3月2日23時56分] 「俺の前世は十字軍戦士だったんだよ」 ろれつの回らないボビーはアスファルトに倒れ込むが その目は始発に向かう群れをまだ狙っている “Are you OK,Bobby?” “Don't say Bobby,but Bob.” 「俺はもうボビーなんて言われる子供じゃねぇよ」と この夜何度も交わされたジョークに 童顔で色白のボビーはムキになって応える 今日のナンパが不発に終わってかなりご機嫌斜めらしい 電話番号聞けたからいいじゃないかとなだめても それじゃダメなんだと駄々をこねるボビーは あの頃は死ぬほど女抱いてたんだと 思い出話を唐突に始めた 「なんで十字軍が女抱くんだよ。それにあんたはアメリカ人だろ」 「アメリカ人は関係ない。俺にはわかるんだ」 “JustIknow.I'd been a Crusader.” 遠征の初めはみんな燃えてたよ でも俺たちは田舎者の集まりだったから 聖地がどこにあるかなんて誰も知らない 神様が導いてくれると信じてたんだ 行く先々で歓迎を受けてた頃は良かったんだけど そのうち相手にしてくれなくなって 食い物も底を尽いて 結局田舎者は無法者になっちまって 行く先々で村を襲ってたんだよ 始発も過ぎてついでにカラスも消えて空はもう明るい 「飲み直そう」 「基地に帰らなきゃ」 「もう?」 「Yes.もう襲う村もなくなったから」 そして 「知ってるだろ。俺は十字軍戦士だったんだ」と彼は さよならも言わずに1人地下鉄に向かう “Just you know.I'd been a Crusader.” 彼は海軍のサブマリナーで 来週にはインド洋へ行く予定だ 帰ってくる頃には 電話番号の女なんか忘れている ---------------------------- [自由詩]Psychedelic Innocent/いとう[2011年3月4日1時19分] エックスって言っても今出回ってるニセモノじゃないのよ まだ最初の頃の1錠数千円のヤツよ 知ってる? オリジナルのエックスはベトナムで使われた自白剤なのよ アレを他のとちょっと混ぜてアッチの効果を強くしたのよ 今流行ってんのは合法化するために 成分がずいぶん変わっちゃって 全然効きやしない 1箱数千円なんてバッカみたい あんなので遊んでるジャップなんかバッカみたい ねぇ コレ 試してみる? ポールダンサーのジェニファーは南部訛りがかなりきつくて 白人なのだけれど ニューヨークあたりでずいぶん馬鹿にされて こんなところまで流れてきたのは 自白剤を使わなくてもよくわかる 使わないの? すっごいキクのに フフフ。 私は使うね 備え付けの冷蔵庫の どうしようもなく高いウィスキーで乾杯しながら 30分も経つと 「今かなりキテるわ」 なんて聞かなくても 潤んだ目を見ればすぐにわかって ねぇ、そろそろ しようよ しないの? してよ しなさいよ 長身で細身のジェニファーの 腐ってもダンサーの ふらつき加減もステップを踏んでいるようで ベッドへ連れて行くのはそれほど 難しいことではないけれど ねぇ、ジェニファー。 What? ジョン・デンバーって知ってる? Of course. 「カントリーロード」ね 大声で でもきれいな声で歌い出すジェニファーの クスリが効いているのか 彼女の自嘲気味な笑いを感じ取ってしまい やるせなく 質問してしまう 「お父さんとお母さんは元気?」 ママは元気よ。ウェストバージニアにいるの(笑) パパは知らない。あんな奴知らない。 オリジナルエックスはその務めを真面目に果たしていて 聞かれもしないのに 聞きたくもなかったのに ジェニファーは昔話を紡ぎ始めて 彼女はおそらく あと数分で泣き出すのだろう あのね あいつはね… 私はまだ15だったのよ ママがいない夜に… だから私は… 訛りとクスリと涙で半分以上聞き取れなくなった彼女の言葉は それでも あるいはそれだからこそ 伝えるべきことを正確に伝えてきて 彼女の体と魂は 故郷に戻れずに こんなホテルの一室でさまよっている 帰りたいのよ でも どこに帰ればいいの? ジェニファー。 僕がしてあげられるのは 君の涙を拭いて 体を重ねることぐらい 優しい言葉を耳元で紡ぎながら しがみつく君の爪の長さを 背中の痛みで受け取りながら せめてクスリの効いているあいだだけでも この部屋が君のHOMEになってくれればと ---------------------------- [自由詩]CLUB「PEACE」/いとう[2011年3月5日9時08分] 六本木芋洗坂にあるCLUB「PEACE」のサミーは 今年で33歳。もちろん黒人でカウンターで酒を作ってる 日常会話は平気だけど難しい日本語はわからない フリをしていて 温厚でいつも笑いながら Are you fine? を英語訛りの日本語で喋る 「ゲンキ?」 受付にいる「やすこさん」はかなりの美人で気さくでいつも笑顔で 「わたしもう27だよ」と笑いながら話すその笑顔は27歳なのに 安達祐美に似てたりする 最近髪を切ったがサミーの奥さんであるのは変わりない PM7:00に仲良く出勤 いつも笑顔 月曜はお休み 30人も入ればいっぱいの小さな箱で ブラックライトだらけで黒い服を着てると かなりホコリが目立ってはずかしい 外人と日本人は半分半分で 安室のバックダンサーも来てて ダンサー系の奴が多いけど ナンパもOKだったり 入り口には写真がいっぱいで 北野たけしの生写真もあって かなりミーハーな感じ クラブなのにカードが使えるのも かなりヘンな感じ 「レッドアイ」を頼むといつも残ったビールをサービスしてくれるサミー 「しばらく来れない」ともらすと「さみしいな」と言ってくれるやすこさん 店の中でナンパすると2人ともちょっと嫌な顔をする この前日本人のガキがやすこさんにちょっかいかけて サミーが切れて 右フックと左ローキックのコンビネーション いい切れ味 そう言えば店のテレビではよく マイクタイソンのビデオが流れてる 後でサミーに聞いたら「ボクシング好き」と答えてくれた 人を殴った手で酒を作りながら やっぱりいつもの笑顔で 風の噂では 店が売りに出てるらしいけど全然買い手がつかないらしい 「らしい」だらけの噂がいっぱいで サミーもやすこさんもそんなことは喋らないし俺も聞かない 聞けるわけない 店はそこにあるのだ 「いつ来てもそこにある」 それだけの理由で安心している それがちょっと不安になって そしていい歳こいてしょっちゅう足を運んで それでも と言うよりそれはあたりまえなのだけれど 2人ともちゃんと待っててくれる ちゃんとそこにいてくれる いつもの笑顔で 同じ場所で そして当然 月曜日以外に ---------------------------- [自由詩]しなやかに朝を迎えたい/いとう[2011年3月14日1時41分] 魚たちは 丘に打ち上げられ 濁った空気を吸っている けものも けだものも 身を潜めて眠っている 鳥たちはどこか遠く 姿を見せない 夜 灯りのない街を 明るい部屋で夢想する シャワーを浴びて コンロの上の鍋が 暖まるのを待ちながら たいへんなことが起こったときに たいへんなことになったと騒ぐのは遅い それはすでに たいへんなことになっているのだから 当日の夜でも営業する居酒屋 翌日にはそこで宴会があり 輸送機関も回復 二日目の夜の井の頭線 人の津波も元通り 押し詰められて駅を降りると 裏道のラブホテルにカップルが入り 家に帰れば郵便受けに 大量のダイレクトメールが入っている 生きているとは こういうことだ 「電気を大切にね ビリビリ!」と とあるアニメキャラが笑顔で語り 「ヤシマ作戦」がツイッターを駆け巡る 花粉に咽びながら そんなことも言えない状況 各所のブログは失言で炎上 被災地でもないのに ではなく 被災地でないから 生きていることを確認するのに これだけの死体だけでなく あとどれだけの 馬鹿騒ぎが必要なのだろう 復元する力こそが 生きる力なのに 生きているものが それを否定する 魚たちはもうすぐ死に絶える けものも けだものも 朝を迎え目を覚ます 鳥たちは羽を休めに家へ帰り どんな場所にも 朝日がやってくる 死んだものはやがて腐るだろう 生きているものに刻印を残して そして生きているものは いや、生きているものだけが 馬鹿騒ぎをする権利を持つ 刻印を胸に いつか自分たちが打ち上げられる その朝まで ---------------------------- (ファイルの終わり)