mizu K 2008年2月29日1時22分から2015年5月30日1時34分まで ---------------------------- [自由詩]セスナ/mizu K[2008年2月29日1時22分] すな、空のように口ずさんで 空のむこうにセスナがみえた 夕くれなずむ砂浜の色が 遷移していくさまにみとれて セスナが制御を失っていくさまを 子どもと手をつないでみていた 神がくれにかくれる人はあんな風に空に 消えていくんだよ僕もいつかセスナに 乗ってみたいなあと子どもが言う 空のむこうにセスナがみえる 既に空の、空のむこう側に行ってしまって こちら側にはいない 風が吹いている 風が吹いているから砂浜の砂が さらさら飛んでいる さらさら飛んでいるのに 口の中はざらざらしてきた たぶん家に帰ったら耳のなかもざらざらだね そう、子どもが言う 砂が風紋をつけるさまを子どもと 手をつないでみていた みていた夕ぐれ みていた太陽の 落日のしかしまだ強さを十分に残した日ざし 太陽にかくれた セスナが黒い点になっている 光が強くて直視できない ほら、あんまり眺めると目がみえなくなるよ 昔そうやって目をつぶしたお坊さんがいてね そう子どもに言ってみる 目がみえない人って いつも暗やみがみえてるのかな 目がみえなくっても セスナは操縦できるのかな だってあのセスナは あんなに太陽の近くを飛んでるんだ きっと乗っているパイロットの人は 目がみえなくなっているよ 風が吹いている 風が吹いているから砂丘の砂が さらさら飛んでいる 風がつけていく風紋を 帰り道 子どもとみながら歩く 来るときとは模様が違う そう こうして旅人は砂漠でさまようのだ 二つ、三つと蜃気楼が浮かんで みしらぬ国の夢をみながら 旅人は死のねむりにつく 太陽にかくれて黒い点になっていたセスナが まだ遠くの海の上を飛んでいる あの操縦士は目がみえなくなったろうか それでもいつもの勘をたよりに 操縦桿を必死で握っているのだろうか セスナが徐々に制御を失っていく すな、空のように口ずさんで 空のむこうにセスナがみえた 夕くれなずむ砂浜の色が 遷移していくさまにみとれて セスナが制御を失っていくさまを 子どもと手をつないでみていた ---------------------------- [自由詩]マンタレイの夜/mizu K[2008年4月3日23時59分] 夜のしずかなさんごの いきをひそめる宵闇夜 青ぐろい街の空を マンタレイが滑空するころ 天体望遠鏡をのぞきこんでいた ちいさな天文学者は ベランダで眠りこけて あのちいさな星からの何万年も前のひかり いまはあの星は 存在しないかもしれないんだ ぼくのおもいがあの子にとどくころ もうぼくは 存在しないのかもしれないんだ しれないの しれないんだよ かなしいかい? そう マンタレイは ゆうゆうと空をすべりながら いう きみが死んでも 世界はあんまりかわらない すこし涙するひとがいるくらいで 世界は あんまりかわらないけど ちょっとずつかわっていくよ 鳥が空にずっと とどまれないのとおんなじように * そしてくらいワンルームにひとり ディスプレイが青い マンタレイをはなしたわたし マウスから手をはなし フローリングにねっころひろがり ひんやりの感触は マンタレイの背に 似ており 彼女のあたまをなでながら 彼女の体温がすこしずつ うばわれていくのを なんにもできないで 呆然としていた わたしはもう 彼女のあたまをなでることしか できない 花のような血だまりを正視 できない わたしの目はゆあらんゆあらんして 耳はぐあらんぐあらん 彼女はひとことだけ にゃあ といってもうなんにも いわない すこしずつひんやりしていく * 夜空をマンタレイが 滑空するさまをたまたま 見てしまったひとは さらわれるという というのはほんとかうそか わからないけど 彼女はつめたい土の下に しずかにねむる ちいさな天文学者は 何光年の過去と未来を のぞきみている わたしはディスプレイから 夜毎にマンタレイを はなつ 今日はだれも さらわれないことを すこしだけ祈りながら ---------------------------- [自由詩]北へ/mizu K[2008年6月12日4時17分] 北へ行く 体が/冬の凍てつきをやり過ごし 獰猛な春のうごめきに 耐えられるだけ 耐えられるだけの力を 回復したならば 北へ行く 氷を 待っているがいい そこで待っているがいい 口にふくんで あなたがもう死んでいても かすかな花を一輪 手折っていくから 待っているがいい、そこで 待っているがいい 北へ/北へ行く ---------------------------- [自由詩]aerial acrobatics 12/mizu K[2008年6月26日21時24分] *** ブラック・ジャックのエピソードに すきな人が帰宅するのをずっと後ろから見守ったり 雨降りにさりげなく傘を置いておいたりする場面があって それに気づいた想われ人さんは まあすてき、となって (当時はまだストーカーってことばはなくて) そしてそれはなんともすてきな恋の話と切ない結末 昼休みに図書室のストーブのそばで読んでいた私の 頬がほてっていたのは決して ストーブの熱のせいだけではなかったろう 外を見ればちらほらとまっ白な雪 それを遠いまなざしで眺めていた私のなかで はっと何かがひらめいた ですからどうかこのまま降ってくださいかみさまほとけさまゆきおんなさま と雪に願いを ホームルームの後いちばんに教室を飛び出してげた箱に直行 未来の妻の靴入れのところにさもさりげなさそうに 傘(ネーム入)をひっかけておいた これで、これに気づいた未来の妻は... ふっふっふっ と降りしきる雪のなか私は口もとが緩むのを押さえきれず ふっふっふっと帰宅の途につき その夜、高熱が出たのは 妄想しすぎてコーフンしすぎたからではなく 単に風邪だったのだと思いたい *** ぞうきんをしぼるバケツの水がやけに冷たいなーと思っていたら うわーっ、そと!そと! タマミミの声に窓を見ればあんららら けっこうな大雪になったかも あちゃー、傘忘れたー、とか 帰れるかしら、しんぱい、ぐす、とか ああ、イザベルよー、僕は君をー、永遠にー、ぎゅうぅ、とか いろいろな声がしている掃除時間 このくっそ寒いのにたぶん職員室はぬくぬくなんだろう 職権乱用だぜ、こんちくしょう、とひとりぷんぷんしつつ 廊下をだーっとぞうきんがけ、つめてー さて、降ってはいるが帰るとするか と準備していると ねーねー、かえろーってタマミミがやってきたので いいよーって一緒にげた箱まで 外、なんだか積もってるよ、これ うっそ!明日、休校にならないかなー ならないかなー なー なー(ハモる) ねー、こういうときにさ、傘なくてどうしようって感じで立っててさ 横からすすっと「よろしかったら」って すてきな方が現れたらどうする? んー、そうねえ、未来のダンナ様候補に入れるわね、それは でしょ、でしょ とか喋りつつ あれ?私の靴のところに傘かけてあるけどたぶん だれかの親がまちがってかけてったんだろうな、と思いつつ ふたりとも自分の折りたたみ傘をささっと取り出して ひゃー、さむっ、って言いあいながらさくさく歩いて 帰ったことがあったっけ あとから聞けば それは未来の夫の傘(ネーム入)で タグが傘のひだにかくれてしまってたらしい 見えるようにしときなさいよ、ばかっ ---------------------------- [自由詩]鯨が枯れる(reprise)/mizu K[2008年7月4日1時57分] 夜の水族館の部屋、真夜中になれば魚たちは いちど死に朝になればまた生まれるのだと信じていたころのこと 累々とおびただしく規則正しく折り重なる 自分らの死体を夜の部屋に想像し眠れぬ 死体の数を数えていた 潮が引いていきました 砂浜が徐々に太陽の光に乾いていく砂は徐々に 粘着力を失いさらさらと砂丘を流れる波 風紋をつけて空へ飛びたった砂粒のかけら ひとつ吸いこんで 鯨が枯れる 生捕りにした植物を夜の部屋に置く 植物は時間が経つに従ってその生気を失い また重なっていく夜の水族館の部屋 かたくなに信じていた真夜中の魚たちと違い 生捕りにした植物は朝の清々しい光のなかで しおれしなびたおれ折り重なっていく散らばっていく 床に乾いていく植物の足あと、てん、てん、てん 彼らの通った先には濡れた後ろ姿がありました 鯨が枯れる ある標本を収集し保存している博物館が 夜の砂時計の落ちるかすかなさらさらとした音に 時の堆積量に耐えきれず柱が 徐々に滑り出していく壁がやや一時間前と 位置がずれ 始めている時刻、夜の人々、多くの水族館の部屋 大展示室Aに飾られた鯨の標本が少しずつ崩れていく 夜のうちに少しずつ崩れ流れていった鯨の骨は 夜明け前にうずたかく堆積した山のよう 大展示室Aにはそのとき鯨の標本は存在しないただ ぽっかりと空いた空間を風たちが走っていく ものみなすべてを風化させる風 砂漠にぽつりと取り残された鯨は 海への帰り道がわからないままそこに横たわった もう刻々と変わる風紋の矢印を道標に する必要はないただそこに横たわればよい いずれ大きな風が鯨を海へと運んで くれるだろう 鯨が枯れる ---------------------------- [自由詩]雨だれ/mizu K[2008年7月7日22時12分] 1. カスタネット 紫陽花の花という花がてっぺんまで匂いたち、その色目も日に 日に濃くなっていく有様を窓から見ている。雨粒がはらはらと 落ちて窓ガラスにもかかる。風があるのだ。軒下の方で雨だれ がしているようで、もうずいぶんと前から、かち、かち、と音 が聞こえる。もうずいぶん、と思うのでおそらくもうずいぶん、 と雨も降り続いているのだろう。室内も雨にけぶってきた。う っすら靄がかかったようで本棚の背表紙が読み難い。ギターの 肩に水滴が落ちてくる。それはカスタネットの音に似て。机の 上の琺瑯の水さしには水滴がびっしりついていて、室内を球体 にしようと目論んでいるようだ。天井からぶらさがっている白 熱灯はすでに立ち消えてひとすじ煙っている。夕闇がひたひた とせまっている。 2. メトロノーム 水道の蛇口が弛んでるのだろう。BPMどれくらいとさらりと 口をついて出るわけではないが、おそらくそれよりは不正確で 安定なく、ゆらいでいるのであろう。ぽつ、ぽつ、どこかとぼ けた風情で流しの空洞がひびく。それはメトロノームの音に似 て。ごくごくこどものころ、流しの下の暗がりに何かいるよう に思え、それでもこわいもの見たさにみてみたかったことがあ る。非力な手には重い取っ手を。すこし黴のような匂いもする ようで、お酢の一升瓶の反対側の暗がりにつと手を。とたんに がっしとつかまれ引きずり込まれ、引きずられていって、暗が りに、目の前に闇、腕をつかむ暗い腕、くらいくらい、流しの 下へ、放り込まれて、流されていった、こどもたちがいるので すよとどこかに聞いた覚えがある。 3. 拍子木 雨が降ると音もやわらかくなるといいます。こもった感じとい う人もいます。やはり湿度がずいぶん関係しているのでしょう ね。そう言って、近年では冬場にしか出番のないそれをその人 は鳴らしてみせた。かつち、かつち、それでもその音は十分に 硬質なまま耳にあたり、この季節でこうなのだから冬になると さぞ、と言うと、はははと笑われた。かつち、かつち、そうで すね、冬にやると火花でも飛びそうになるときがあります。そ れはきれいでしょう。それで火をつけたこともありますよ。は あ、そうですか。所謂放火ってやつです。えー。冗談です。な んだ、期待して損した。火をつけるという行為は楽しいもので す。マッチしかり、ライターしかり、アルコールランプしかり、 ガスコンロしかり、石油ストーブしかり、着火マンってありま せんでしたか?いまなんという商品名になっていますか、花火 のときとか便利な。まだ小さい時分、火を使うとすこしだけお となになった気分がしたものです。そうですか、そうでしょう ね。そんなとりとめもない話をしてその人のところを辞した。 玄関先にアジサイが咲いていて、もうずいぶんと色づいている。 小雨の中、ぼうと眺めていたらどこからか、かつち、かつち、 と音がしている。それは先だっての拍子木の音に似ているよう だがすこし違う。方角もすこしずれたところから聞こえる。そ もそもその人は故なく鳴らすような無粋な人ではないし。たぶ ん、似たような何か、雨だれかなにかが打ちつけているのだろ う。その音に送られて帰途についた。 ---------------------------- [自由詩]aerial acrobatics 13/mizu K[2008年7月24日2時03分] *** ベッドの下の人たちを看取る *** 自動二輪の音がきこえるしんしんと 暗闇にほの白くうかぶアークは かわらずまわっているのか 確実の東に、あがりに、たたずむ人 *** その日はけっこうどしゃ降りで 昼なのにもう夕がたみたいに暗かった でも園児にはそんなのあんまり関係ない いつものように園長センセ(鬼ババ)の足もとに バナナの皮を置いたりいつものように それでツノが生えた園長センセにおにばばはそとーって 各自持参の豆を投げつけたりいつものように 火を吐き出した園長センセとわいわい鬼ごっこ しばらくしてそれにも飽きて退屈したので うすぐらい階段の踊り場で 髪をぐああぁーってぐしゃぐしゃにして うらめしやーってやってたら たまたま通りかかった未来の夫がこてんと失神した *** 錆びた自転車を放り投げる人 *** MoMAのスカイアンブレラを買った 買ったはいいが使うに使えなくてやっぱり 晴れの日を待ちこがれる人 *** その日はすんごいどしゃ降りで 床も廊下もじめじめしてるのに 園長センセ(鬼ババ)はめらめらしていた 2階の遊戯室からうめ組に降りる階段は 晴れた日でもなんだかうすぐらくていやなのに なんだかいつにも増してくらい だれかといっしょにくればよかったと思っているとふと なんだか踊り場のすみっこに なんだかくらい影のようなものがあるけど なんだかこわいのでなるべく見ないようにして 早歩きで内側の手すりにそって曲がろうと したんだかどうだったか 突然その影のようなのがこっちにすすすすっと寄ってきて うらめしや〜って 気がついたら未来の妻がどうしたの?って きょとんとした顔でのぞきこんでいた *** 大聖堂の鐘つき男はもう何年も 土と石畳を踏んだことがない 打ち鳴らされた鐘から舞う 風に乗って流れる流れる 流れ行きて/北方へ *** あをの、高度を 俯瞰する 北に/立つ人のことを ---------------------------- [自由詩]緩慢する海の響鏡にして/mizu K[2008年10月31日23時42分] 発泡した軽石は海にぷかぷかと浮かぶので さしずめそれは人の身体 海は空の鏡と言い得て妙 波長が合えば共鳴してくれるか 海風を真向かいにバグパイプを 水平線まで届けと 音が満ちる そこまで聞こえているか レジカウンターが自動化されて そこだけ潮が引き あるべきところに人の不在そのことが こんなにも不安にさせるものかは けれども緩やかに慣れてしまうだろうて 人と対峙するときの少しだけの覚悟も もはや 遠吠えることだ 狂う波しぶきに負けぬほど 聞いたものみな布団を頭からかぶり がたがた震えてかちかち止まらず 涙にじますほどに 遠吠えることだ 耳ふさぐものをつき抜けるほど 外海のように荒れ狂うことだ 夢とおもうたことが、あったので それはやはり 夢であろうか、からくれないに 夢であれかし 水平線がうたう 今日も血が流れたよと うたう、うたう 知的障碍者に爆弾をもたせて 遠隔で起爆したって ナイフ片手に歩行者天国を 走り抜けたって 水平線がうたう その一帯は無数の軽石漂う海、です それから 今日も レジカウンターは無人です レジカウンターは無人です レジカウンターは無人です その響きだけが こだましている ---------------------------- [自由詩]生乾き/mizu K[2009年1月25日4時49分] 私の祖父はうまく焼けなかったので 2度焼かれるというレアな体験をして ウェルダンされた 生乾く人 小林宏史という写真家の本に『死と葬』というものがあ る。インド、カルカッタ。寺院の前で女が花を持ち踊っ ている。女が行き着いた先は青空が見える火葬場で、そ こには親族の遺体がある。やがてそれは荼毘に付された。 その火葬場で灰になったものはいくつかまとめられ人夫 たちによって河に流される。焼け跡にのこった骨や遺物 はカラスや野犬たちの腹に収まる。 私たちは常に生乾いている 水がなければ干涸びてしまう 水が満ちればくさってしまう 私たちは死者が焼ける光景を見る機会はほんとんどない においをかぐこともない 爆ぜる音を聞くこともない 煙に舌をぴりぴりさせることもない 皮膚は閉じてしまって息ぐるしい 生乾き 今日は湿潤すぎる ---------------------------- [自由詩]aerial acrobatics 14/mizu K[2009年2月18日0時44分] *** フライパンの穴をのぞくと スピノザが机にかじりついているのがむこうに見えた 時間を超越する望遠鏡というものがあるのならば それは存外、身近なところに転がっているのかもしれない これまでにガスコンロの前に呆然と立ちつくすこと 数限りなく そのころはいつも不眠症のカラスの声が すこしだけ遠くのほうの空でうつろにひびいていたように思う 今年もアイリスがかすかに咲いている 窓辺から差す夕日はものみなすべてを琥珀に染めあげて これなら茶葉もいらぬと笑い声が いつか響いていたのをかすかに覚えている もう多くのことをわすれてしまった ときどき気が向いたら穴のあいたフライパンをのぞく あくびをするスピノザの姿が見えた *** 時計と擬態する 夜明けだ/外は すばらしく澄みきっている 打てば/永久に波紋が 拡散していくだろう物事には おそろしいほど大きいときと かなしいほどに小さいときが ある その間をえんえんと行き来する 振り子のある/ からっぽのうつろ *** 窓がふるえていた、おそらく 斜陽がするどく傾きすぎたのだ 窓のふるえは室内に波及してもろもろを 美しく造形しなおす ひかるものをよりひからせ やさしいものをよりやさしく きれるものをよりきれるように ただし 床に落下して響いた それはフォークだったのだが ふるえで修正されることなく室内を むしばみ *** 洗濯機の前でぼんやりしていたのはいつからだったか覚 えていなくて、いつのまにか脱水は終わっていて、ふと 気づけばあたりはおそろしいほどにしん、としていて鳥 の声も人の声も風の音も葉擦れの音も聞こえないのに、 冷蔵庫のかすかなぶん…という音とも振動ともつかない うなりのようなものがその場を静かにみたしていた 洗濯槽というのはいつも黒々としてぽっかりと口を開け ているようで、ひょいと何かを放り入れたら、すうと消 えていってしまうような気がする、きっと私はぼんやり した風であったのだろう、ふいに肩口をたたかれてびっ くりして振り向いてみれば頬にぐさりと指がつきささっ て、やーい、という声が遠くのほうで聞こえた、そばに は、誰もいなかった ダイロンカラーの16番がどういう色かわすれた ふたを開けてみれば底の方にぐるぐるによれたTシャツ があって、ふいにまた誰かのまなざしに射すくめられる 感覚が通りすぎて、通りすぎていって、過ぎ去って、た だゆっくりと取りあげてぱんっ、と広げてみる いくらか色に濃淡がある、かすれたようになっていると ころもある、タグだけが染まるのを拒否してましろかっ た、いろいろなところに食塩が結晶している、それをひ とつひとつ拾いあげてすかしてみる、おどろくほどきれ いだった *** 自画像の稜線の先は 水晶であったのであろう 巨大なクレバスをひそませた もの言わず 今日も素描されていく 稜線を越えていくものたちは ---------------------------- [自由詩]波紋のように広がってゆく/mizu K[2009年6月5日20時02分] 婚姻するハツカネズミの 店先の行列を にこにことながめている クリーニング屋のむすめが やわらかく透過する 窓辺の 病院の待合室で おんなのこが アン・ドゥ・トロワ、アン・ドゥ・トロワ くるくる踊る姿と まわるたびに軌跡する スカートの円弧が ゆるやかに ひろがり ひそひそとした かすかなささやき声と (肺に蓮が クロエ、クロエ 僕はただ いたんだ花を届けることしか できなかった ---------------------------- [自由詩]タッピング・ラップトップ・ブラトップ/mizu K[2009年7月3日20時10分] 雨にぬれたのがよいとかいうので 幼生のわたしは こころみにしずしずしとしと歩いてみます あ、あの日 膝の上がかっかして 上気したほおが 染め抜いたゆうぐれの タップダンスの足が こんがらがって 水がしたたるのは 髪の先とかがよいのでしょうが よだれかけをしているので 色気もかけらもない おじぞうさまと ふたりして雨やどりしながら おじぞうさま、むかしはあなたも女の子だったんだよねーとか そんな会話をしながら いつか あのおねえさんみたいなのを着るんだと 扁平なこころにきめて ---------------------------- [自由詩]吐雪/mizu K[2010年1月22日0時45分] でもそれは、 あ、という言葉ともつぶやきとも知れない といきするしろいすいじょうきの 連結に わたしは路上をしゅぽしゅぽと 滑走する 屋根つもる 雪たちに挨拶する 敬礼をびしっとかえす結晶たちに これはこれはと 恐縮する どうもどうもと 腰引けるやいなや わたしに続いてきた足あとが てんでに歩きだして わたしの歩いてきたあとには なにもない、なにもない ぞっとするほど遠くまで それはそれは ほそくてほそくてたよりない あやうい道がのびていて 空にはぽんぽんと小さな雲が あれはわたしがはきだしたいき、だろうか 遠くからうなりをあげて たちあがる音に なんだろうと怯えていると 避雷針は持ってきたか、と 耳もとがささやいて きえた ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】となりに、近くにいる人は簡単には理解しえない。 佐藤泰志『海炭市叙景』のこと/mizu K[2011年3月6日19時41分]  ここでとりあげる佐藤泰志(さとうやすし)・著『海炭市叙景(かいたんし じょけい)』は長らく絶版であったが、2010年の秋に文庫化が実現している。ほぼ同時期に映画化もされており、内容に言及する前に、まずこれらの経緯をたどってみよう。文庫本所収の福間健二(ふくまけんじ)、川本三郎(かわもとさぶろう)の解説およびウェブサイトの情報よりごく簡単にまとめてみる。(敬称略・以下同)  佐藤泰志(1949 - 1990.10)の経歴は略。章立ておよび各エピソードのタイトルは以下の通り。((注:小学館文庫の目次より引用)) 第1章 物語のはじまった崖 1 まだ若い廃墟 2 青い空の下の海 3 この海岸に 4 裂けた爪 5 一滴のあこがれ 6 夜の中の夜 7 週末 8 裸足 9 ここにある半島 第2章 物語は何も語らず 1 まっとうな男 2 大事なこと 3 ネコを抱いた婆さん 4 夢みる力 5 昂った夜 6 黒い森 7 衛生的生活 8 この日曜日 9 しずかな若者  所収の一連の作品のうち、加藤健次・編集の詩誌『防虫ダンス』に冒頭の「1-1 まだ若い廃墟」と「1-2 青い空の下の海」が1988年1月に発表され、ついで5月に「1-8 裸足」が掲載。のちに修正されたものが雑誌『すばる』の1988年11月号から90年4月号にかけて発表されている。その折りにはまだ、それぞれ18の物語には、上記のタイトルはついておらず、下のように3篇ごとにまとめられているようだ。((注:*1に同じ)) 「海炭市叙景」(第1章1・2・3)1988.11月号 「闇と渇き」(同4・5・6)1989. 3月号 「新しい試練」(同7・8・9)1989. 6月号 「春」(第2章1・2・3)1989. 9月号 「青い田舎」(同4・5・6)1990. 1月号 「楽園」(同7・8・9)1990. 4月号  その後、単行本化に際し、詩人・福間健二の詩よるタイトルを採用。  単行本は1991年に集英社から出ていたものの品切れのため長らく絶版状態であったが、2007年に文弘樹(ぶんひろき)が主催するクレイン(東京・武蔵野市)より『佐藤泰志作品集』が出版。  これが作者の故郷である函館市で話題になり、市の映画館シネマアイリスの菅原和博(すがわらかずひろ)支配人らが2008年に作品集所収の「海炭市叙景」の映画化を、映画監督・熊切和嘉(くまきりかずよし)に依頼。市民から1200万円の寄付金も得て、2009年に映画制作実行委員会が設立。  その途上で映画スタッフのひとりがTwitter上で「映画化されるので原作の文庫があれば(大意)」との書き込みを書評家の豊?由美(とよざきゆみ)がリツイート、それが小学館の編集者・村井康司(むらいこうじ)に話がまわり、佐藤泰志、制作実行委のメンバー、村井康司らがおなじ中学出身という偶然も重なって運命をズッキュン感じた、かどうかはともかく、2010年10月に小学館文庫より無事出版のはこびとなった。このあたりの話はとても興味深い。  11月からの映画の公開と前後して静かにひろまり、著者の没後20年を経て着実に版を重ねている、といったところである。  この文章の記述時点で私(mizu K)は映画「海炭市叙景」を視聴していないので、これから書く内容は文庫本のそれに即する(原作と映画とでは若干内容が異なるようです)。 *  この『海炭市叙景』という作品の特徴は、読んだ人だれもをしあわせな気分で満たし、すごく前向きな気持ちを喚起させ、落ち込んでいたりするならば勇気をもらえ、可憐な主人公たちがいとおしくて彼らの恋人への愛が本当に切なくてせつなくて、もうページをめくるたびに涙が止まらなくなってページがぐしょぐしょになり、今後10年出ないであろう傑作!であり、元俳優で超売れっ子某ベストセラー作家も大絶賛!の、全く従来の小説の概念を打ち砕く斬新かつ鮮烈な文体!で、作者の作家生命をかけて全身全霊すべてをこめた渾身のスペクタクル超大作!で、超話題作につき書店の在庫はどこも底をつき増刷がまったく追いついていない状態が数ヶ月も!!  というのはまったくありえず、すべて嘘である。  読み出したらハラハラドキドキ!最後のページまでノンストップ!することもなく、自分探しの旅先での運命的な出会いと別れがあるわけでもなく、余命1ヶ月の恋人も花嫁も出てこない。P社から出たある作品のように、40代女性のあるいは「ベストセラーばかりを追う人々」には全く受容されそうにもない((注:asahi.com KAGEROU読者は40代女性? 取り次ぎ大手調査 http://book.asahi.com/news/TKY201012290161.html))。あまりの疾走感あふれる文体にページをめくるのが、もどかしくもならない。むしろゆっくりじっくり読み進めたい文章。  ただ、抑制の効いた、しずかな小説である。  冷静な文体ではあるが、冷酷ではない文章。登場人物によりそうでもなく突きはなすでもなく、絶妙の立ち位置から作者は物語を紡いでいる、という印象をもった。  作品の時代背景は1980年代後半の日本、ということでいいだろう。ちょうどバブル経済の絶頂期、あるいは作品の着想と構想期間に鑑みれば、それにいたる過渡期あたり、ともとらえられる。いずれにせよ経済はこれからも右肩上がりで成長を続け、わたしたちの生活はこれまでよりもっとよくなるという期待感に満ち、とくに大都市圏での、経済成長を十分に享受し得た人々の娯楽やライフスタイルなどがマスメディアを通じて流行を起こし、それが地方へと波及するという現象も起きていたと思う。  この時期はだれもが、あるいは多少無理してでも、消費活動を盛んにし、畢竟金づかいが荒かった場合も多かっただろうが、この『海炭市叙景』ではそのような行動や言動をとる人物は、皆無ではないにしても、非常にまれである。作品成立の経緯を知らずとも、冒頭の地形・情景描写で容易に予想がつくが、函館市がモデルとなっている「海炭市」は、おそろしく疲弊した典型的な一地方都市として存在し、そこで生活する人々もバブルの恩恵をまったく受けていない。描かれる大半が、いわゆる社会的底辺層の人々である。  そして時代的には、現在より20年前の話であるのに、たしかにいくつかの時代を象徴する舞台装置が出てはくるものの、現代の話として読み変えても驚くほど違和感は感じられなかった。いや、その後の90年代においてさえも一億総中流意識という「幻想」の名残にそれが依然としてカモフラージュされていたためか、あるいはそれからの新自由主義の展開、端的にいえば「いたみをともなう」一連の熱狂のあとに、社会の表面に、確実に、視認可能な形でようやく具体的に表出してきた「格差」というものを、このときすでに作者は、この海炭市という地方都市を例として提示し顕在化させている。  NHKが発端となった「無縁社会」あるいは朝日新聞社がいうところの「孤族」を予測したかのような、いや、当時その語はなくとも、雇用や教育、医療・福祉や、娯楽においてさえも見放された位置にいる人々は実際に存在していたのだし、社会的に徹底的に孤立した層はむかしも今も、増減しながら確実に存在している。そして現在のほうがむしろ注目されていると感じられる。その意味でこの小説は「あたらしい」と言えるだろう。  ある挿話での3歳の娘を連れて海炭市に越してきた夫婦。引っ越し先で近所の地元の人と顔を合わせたならば、すこしはなにか会話が生まれそうなものであるが、不審の目で見られるだけで、そのようなことは起こらない。ただ黙って、配送が遅れている荷物のことを気にしながら寒風の中立ちつくす。あまりの寒さに一杯引っかけるために飲み屋に入ってようやく挨拶程度の会話が成立する。  夫婦であっても、恋人同士であっても、どこか感情を押しかくす必要があり、思惑があり、フラストレーションを内包している場合もある。しかしそれは、どこにもぶつけることができず、だれかと共有したり愚痴をいいあうこともせず、会話にも齟齬がうまれるから、どこか諦念で打ち消そうとするか、または自身の内面に澱のように沈んでいく。  そしてもっとも近くにいる人は、その、近くにいるがゆえにその感情や意識を伝達することが逆説的にできない、できづらい、あるいはそのためにすぐとなりにいる近しい人を理解することの、思いやることの困難さを感じ、結果としておこる葛藤や衝突。だが、よく考えてみれば、わたしたちは多かれ少なかれそういうものを抱えて生きてるよね、ということも、この作品を読んでいるうちにあらためて気づかされるのである。 *  別の話(すこしエピソードの核心部分に言及、つまりネタバレします)。  さきに、「ベストセラーを追う人々」についてすこし、揶揄しつつ、言及したが、この作品でいえば「2-7 衛生的生活」においておもに中心的に語られる人物がそれにあたる。広告に踊らされ、大衆迎合的な嗜好をもち、もちろんベストセラー小説を定期的に購入し、当時のトレンディ・ドラマよろしくそれを週末の夜に読むことを楽しみとする。それが「教養」につながると信じている。典型的な公務員であり、豪奢ではないが生活もじゅうぶん安定していて不自由なく、自分は「文化」というもののよき理解者である、という「思いこみ」。これだけでもこの人物を滑稽に、嘲笑的に描くことが容易であることは想像に難くない。しかし作者はそうは描かない。話の中心人物であるがゆえに読者はある程度の多少はあってもこの人物に感情移入するし、比較的好意的な視点から読み進めることになるのだが、実際、文章のニュアンスに彼をあざ笑う傾向は認められない。作中の彼は、「文化」というものに対する認識をどこかで履き違え、あまりに表層的な「モノ」だけを見てしまうという、ありがちな傾向にあるのであるが、それを否定するのではなく、それはそういうものとして、そのままその人物を描いている。現実に会えば、(個人的には)結構いやなタイプの人物であると私は思うのだが、すくなくとも周囲に同僚のいる職場の席で洗面所にも行かず大口を開けて歯の治療のための薬を脱脂綿につけてピンセットで慎重に丁寧に塗るような人はずいぶんとにがてなのだけれども、そのようなネガティブな感情を読みながら起こさせない、文章の、よさがある。  そして、このまま「衛生的」生活の一幕が語られて終わるかと思いきや、終盤のあざやかな視点の変換によって、それまでつむがれてきた話に別の光をあてる。これは「まっとうな男」でも現出する手法であるが、秀逸なカメラワークによって180度視点を転換されたようなこころよいめまいにも似た感覚を起こさせるこの手腕はとてもいい。 *  また別の話。  もともとこの作品はさらに2章、もうあと18の物語の追加をもって1年をゆっくりとへめぐるように構想されていたが、それは佐藤の自死によって永久に断絶した。  第1章においては冒頭の兄妹のエピソードが別のところでニュースとなったり、引っ越しの手続きで電話をかけることが、他の挿話にもつながるなど、それぞれの物語が独立しつつ、しかし細いながらも一定のつながりを、かろうじて保っている。が、第2章になると、それも消失し、各個の物語がひとつひとつ孤立してしまっているような印象をうける。それが作者の明確な意図であったかどうかは今となっては定かではないし、逆にそれぞれで独立して完結しているために完成度が高い、ととる見方も成立するだろう。  だが私には、作者はこの2章で完結、とはいえないまでも、これである程度の区切りがついたと認識していたのではないかと思えてならない。  その根拠は第2章の9話、つまり最後の18番目の物語である「2-9 しずかな若者」のあまりの他の話との相違である。ここに登場する青年は、大学の夏期休暇を海炭市で過ごすために「首都」から「赤のシビック」を運転して、売りには出しているものの今夏までは問題なく使用できる「別荘」に滞在する。朝食はシリアルやフルーツ、チーズにフランスパン、コーヒー、調理道具はステンレスの包丁(鋼ではない)、パヴェーゼを読み、あっさり寝てくれる女の子が近所の別の別荘におり、ジム・ジャームッシュの映画を見に行くのを楽しみにし、私は寡聞にして知らなかったが、オスカー・ディナードというジャズピアニストのレコードをかけてくれるジャズ喫茶に入り浸る、とこれでもかとばかりの記号の奔流、つまりあきらかに都会なれして比較的富裕層に属している、そんな青年である。  そして文体は相対的にとてもかるい。今までの重苦しさをこれからの夏の光が明るくしてくれるとまではいわないが、長い冬、おそい春に下を向いていた人々がゆっくりと顔を上げようとする、そのかすかな期待、しずかな待望が象徴的にそこにこめられているように思う。その萌芽は「1-5 一滴のあこがれ」でも中学生の少年の2次性徴にからめて記述してあるが、ここまで明確に表現されてはいなかったし、このような帰結をみせる話はまれであった。  そしてこの文体の解放感、あるいは脱力感といってもいいが、これがどうしても、長い物語を経てきたあとの、いわゆる「エピローグ」の雰囲気を漂わせているような、もうここで書き終えた、という印象をもたせる。  もちろんこれは私の個人的な感覚であるし、これを読んでみた人には全く違う印象をもつ人もいるかもしれない。  しかしさらに新しい領域に跳躍して書きすすめられるにせよ、ここで断筆されるにせよ、ここまでの18の物語で一定の決着をみていたのではないだろうか。それが作者の死去の原因との関連を精査する力は私にはないのだけれど。 ■参考文献・資料((注:urlの有効は投稿時においてのみ確認。一定期間経過後、失効の可能性もあり)) ・佐藤泰志『海炭市叙景』小学館文庫 2010, 第5刷 ・映画「海炭市叙景」公式サイト http://www.kaitanshi.com/ ・asahi.com 佐藤泰志の遺作『海炭市叙景』文庫化 http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY201010280271.html ・asahi.com 函館を舞台に手作りの情味 熊切和嘉監督「海炭市叙景」 http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY201012100415.html ・asahi.com 海炭市叙景 [著]佐藤泰志 http://book.asahi.com/bestseller/TKY201101190209.html ・asahi.com 注目集める「ひとり出版社」 埋もれた「名著」復活に一役 http://book.asahi.com/clip/TKY201102260159.html ・YOMIURI ONLINE 『海炭市叙景』 佐藤泰志著 http://www.yomiuri.co.jp/book/column/pocket/20101013-OYT8T00392.htm ・YOMIURI ONLINE 「海炭市叙景」の熊切和嘉監督 http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/cinema/cnews/20101203-OYT8T00622.htm ・毎日jp ブックウオッチング:本をつくる 函館コネクション http://mainichi.jp/enta/book/bookwatching/archive/news/2011/02/20110202ddm015070120000c.html   ---------------------------- [自由詩]白色バーニング/mizu K[2011年4月28日21時36分] うたがきこえる 絶唱というほどのしずけさで 明け方の信号機の明滅をみて ふいに口をついた うろおろのむしと そのとき手にしていたものの かわらない白さが 指に食い込んで ただ塩基とつぶやいて ウロボロスかと そう明け方に尋ねて キッチンの ブロッケン現象に嗚咽した 函館には降りたことがない 配列が間違いをひきおこした ある戦慄が波紋のように広がって 椋鳥の羽にふれない袖が なのにその湿度がわかる ふしぎなほどに 蝶の葬儀を見送って 白色にぬられた霊柩列車が 今日はストライキだからと 途方に暮れていて わたしたちは抗議する 明け方があんなにひそやかであったのにと 絶叫のようにしずかに 爆発的にしずかに 抗議する よりいのちの短いものを 指でなぞり たどたどしい挽歌で 燠をふところに カラスの行列のように ただただ練り歩く ---------------------------- [自由詩]赤鼠、白狐 ver. 2/mizu K[2011年4月30日2時45分] あまつぶ音のぽつぽつと頬にあたってくだけ流れるので、となりの人はそれを涙だと勘違いしてたいそう驚いている、驟雨がいっときたたきつけて去っていくと、雲の端は信じられないほどに光にあふれている、わたしたちの真下は依然として、くらい、くらい、だがまたきたよ、またあいつだ、そういわれて見上げると、どしゃぶりがまたくる、音もなく、粒音が耳のうしろからうなじをすっとなぜて背中のすきまに入りこんでなぞりまた腰をすうとさらっていったような感覚、かんかく、かんかくだけがして背筋はおろか心臓も胃も腸壁もあごのつけねもぞくぞくとする、みぞおちを圧して花火が打ち上がる、音もなく その日は数年にいちどの大祭であった、参道はおろか出店までも圧されて、崩れ、わたしととなりの人の足がなんどか入れかわってしまって、もとにつけもどすのに相当難儀するほどの人の出で、空白がないので、いきもくるしい、樹齢数百年の古木がひきずり倒されている、木が倒されるとそこに、ぽっかりと穴ができる、そこから上空の湿気がじゅわっと降りてくる、それを浴びて、人々はすくすくと成長する、だがわれわれはもうすでに極相にたっしているのだ自重せよ、自重せよ、なくばわれわれは亡ぶ、ほろぶ、転がるように、ほろぶ、そういう題のビラをまいている男がいる、男は懸命に声をからしビラを人々の鼻先につきだすが人々は雨の心配ばかりしててんでにあらぬ曇天をながめててんでに千鳥に歩いて人を押す、ビラ男は押されて橋の欄干から手だけひらひら見えていたがやがて消えて、その後の行方はようとしてしれない、そっちのほうじゃないよ、あぶないよ、わたしはとなりの人の手をにぎり、はなさない決心をしていたのだが、いつのまにかはぐれ、まったく知らない人と手をつないでいた、苦笑してあいまいにあやまろうとするが、知らない人は面をかぶっているので表情は判然としない、面の瞳孔にすいこまれる、奥のおくの方まですいこまれる、すいこまれた暗いくらい先から、ほ、と発火、花火が上がる、音もなく、人がいっぱい、もうすぐその橋は落ちてしまうから、だれかの警告も届かない、人がおちる、ひとがおちる、君がおとすのだ、これから、これから君が、だからあぶないよと先に声をかける、となりの人はもういない 川原で火をつけて川に投げ込んだ、それは、あ、なんどもなんども投げ込んでなんどもなんども投げ込んで、投げ込んで、投げ込んでもさっぱり燃えずにぐじぐじいってじゅうと消尽してしかたがないから、ま、油をどくどくそそいだ、照らされてぬらりとして、川とまじわりもせで、なめるように、なめとるように、なめつくすように、浸食していく、それがわたしにはなんだかこころよい、そそいでる最中であるから暗い目をして川面を見つめていた、川面はぬれていた、ふしぎとぬれてひかっていた、あの水草のかげに何かなにかがひかっている、そのようなこころもちがしてよくみようとして体をのりだすその機をねらわれた、ねらわれた、見事にねらわれた、頭を殴られて気を失った、つ、失って気がついた、気がして目をひらいているはずだが油が膜をはったのか見えない、みえない、はっきりとみえない、視界の外からなにかがのぼる、しゅるしゅる、しゅるしゅると、水蛇のようだ、溶けていくようだ、花火がうちあがる、見上げた夜の、花浴びして、とりどりに花弁をしぼったように、したたる、した、した、落下していくぬれた火花の、くくる、くるくる、くくる、くるくる、橋の欄干からも無数に伸ばされた手、ただ手、白い手が、無数にひらひらとのぞいた手のひらから、花が放たれる、くくる、くるくる、くくるく、意図して打ち損ねられた火花がくるりと顔色を変えてにたりと笑いながら、下へ下へ、川原へ降りそそぐ、倒れてるわたしにも降りそそぐ、ぶ、あつい、あついと、めだまにはなにみみにしたに、ちりちりと降りそそぐ、焼ける目のまま動けないのならば仕方がないと、わたしの影絵たちが踊る、ふたたび降る、ふたたびあまつぶ、あ、あつい、あついと顔の見えない影がひらひらと踊る、滑稽に踊る、軽薄に踊る、それを見る人は、天上の欄干だ、雲上の気分だろう、橋のひとたちは見事にうち興じている、見ろ、だれかがねずみだ、だれかが、ねずみだ、だれか、知らないだれかが、ま、ねずみだ、あのかわいそうな人に火花を投げつけているのはだれだ、隣をみる、隣のうでをつかむ、だれかにつかまれる、だれかに睨まれる、だがわたしでない、わたしではない、わたしでもない、わたしではないのだろう、君だ、それは君だ、まぎれもなく、おまえだ、わたしたちは見ている、舌をなめずりながら、よだれを垂らし、濡れてる、やつの頭は、つ、血みどろ赤ぐろい見ひらいた眼球にむけて、火花をすいこむ暗いめだまにむけて、花をいっしんに、浴びぬれているおまえは、ねずみと呼ぶ、呼ぶ、ぶ、にぴったりだと、祭りだからと、みたびあまつぶの騒ぎのさなか、狐の面がゆらゆらと、おぼつかぬ足もとで、火をゆらし、橋のふくらみ、真ん中を、木立を、無数の白い枝々を、白い足でぬっていっても気づくひとはいない また村のはずれで白狐が出て、ひ、辻斬った、縁切りのまじないもきかなんだ、縁取りされた顔の、びゃっこ、走りとんだしぶき、ひ、菱形の、口角のあぶく、夜に、きつね、ぼぅとうかんだ、ほの白いのは、ひ、悲鳴とともにきこえるのは、火だ、あぶらだ、塗りこめられた、あぶらだ、それは呼ぶ、それは呼ぶ、それはそれは、ひ、火だ、おそろしい、おそろしい あまつぶを、あと、待つ、舞台のはしを、埋没したおぼつかない足もと、欄干がかしいでかたむいて、橋桁がほろほろ、ほろほろほろほろ崩れていく、みんな打ち上がる花火を見上げている、みんなかるく口を開けて笑っている、傾きながら、ざわざわとさざなみが起こるように人々は笑う、きれいだね、ああ、きれいだね、とてもきれいだね、ああ、とてもきれいだ、とてもとてもきれいだね、ああ、そうだ、とてもとても、きれい、だ、すばらしくきれいだ、ああ、ああ、ああ、ああ、それから、あー、あのねずみまだいるよ、あいつはきたないね、ああ、そうだ、あいつはきたないね、ああ、きたないきたない、とてもきたないね、ああ、とてもとてもきたない、とてつもなくきたない、あいつはここにいなければいいのにね、あんなひとにはなってはいけませんよ、かわいそうにな、血だらけで、ああ、かわいそうだ、とてもとてもかわいそうだ、さっきまであんなにたのしそうにたのしそうに、な、ねずみ花火に踊っていたのに、な、ぴくりとも動かない、あはは、ああ、そうだ、あれはねずみだから、ははは、彼らの笑っている理由を、わたしは知らない、し、ひとびとの傾斜する笑顔はどれもうつくしい はたしてこの雨は、はしはしと耳するこの雨は、天蓋のむかう空に手向けて、ひかれるように降り上っているのか、はしはしと感情もなく落ちて、顔をたたいているのか判然とせず、不明瞭なかたちに口を、ほ、と開けてほうけてしまった、その混濁して川原に倒れたすがた、極彩色の夜空とにじんでいくその花の輪、かすかに動く血ぬけてかじかむ左手をかざしていたらば、すうと何かがよこぎり、ふたたび視界がかげり、声はぼやけて遠くへ去り、ああ、死ぬのか、と思ったが、先の、ただ大勢のひとびとが、声もなく、音もなく、叫びもなく、悲鳴もなく、崩落もなく、瓦解もなく、橋からはらはらと転げ落ちて、とめどもなく、とめどもなく、とどまりもなく、ただ星のように降ってくるのであった ---------------------------- [自由詩]かんらん石/mizu K[2011年4月30日2時46分] 星をみようかと夜半そとにつっかけて出てみれば 降りそそいでいたのであった 降るような、とはよくいうが実際 音をたててばらばらと降るのがこんぺいとうのようだと 妙に冷静に思いながら 足もとにころがったそれをひょいと拾って隣の人は わたしが止めるまもなく ぽいと口に入れてがりがりやっている おいしいの、と聞けば よくわからないの、と答えた しかし今日はなにかの流星群の日だったかと思いめぐらすが そんな記憶もなくニュースにもなく犬も吠えていない 車のボンネットとか農家のビニールハウスとか大丈夫なのかな と、星空をみるにはいささか野暮なことを ぼけっと考えながらみあげていると ふいに目がくらんで、ひかりがはじけて、いっしゅん 目に星がつきささったのだ と思ったが、いっしゅん の後には何事もなかったかのように景色はもどり 隣の人はあいかわらず これちょっとあまいかもー、とがりがりやっている あの、さっきさ、と話しかけたら あれ?とのぞきこまれた 目が燃えてるよ オリーブみたいだね、すごいね、きれいだね と笑う隣の人のくちもとがふるふるとうるんでいるのは 星をなめたからかと そのときは妙に冷静だったと思いたいが 実は内心どぎまぎしていたのをここに白状するが むかし星をのんだかじやの話があったけどさ きみは星のひとみのおうじさまになるのかもね と隣の人はいう ついでにわたしのおうじさまになっちゃってよ とつけくわえるので我がむすめよ これがたぶん逆プロポーズだったんだろう ---------------------------- [自由詩]エニー・エンター・キー/mizu K[2011年5月5日3時00分] エニー・エンター・キー ver. 1 ヤン(yan)とレトネ(retne)の、鍵(key)にまつわる話 ヤンが朝起きると虫になっていなかった のでごく普通の朝であった レトネはまだとなりですうすう寝ている ヤンはベッドからごそごそ降りるのに 床をかるく足先でだいじょうぶか確認する この部屋はときどき伸び縮みする 床も数十センチ乱高下していることもあり ヤンは何回かベッドから転げ落ちたことがある あの階段を一歩踏みはずしたときに似た感覚は 何度経験しても口からなにか飛び出そうで まあボリス・ヴィアンの小説ぽくておもしろいんじゃないのー そう言ってレトネは笑うが そのときヤンは釈然としない顔をしていたのだろう ハツカネズミも飼おうよとレトネは提案したが ネズミのまえに繁殖中のあのGをな、と却下された 無精して足先で床を確認していると こつ、と何かかたいものが触れた 足指にうにょ、とはさむと つめたい 顔の高さまで屈伸よろしく持ち上げてみると それは 知らない鍵だった なんの鍵だ? だれの鍵だ? なんとなくレトネの顔をみる 彼女はまだすうすう寝ている とりあずそれはテーブルに置きヤンは浴室へ向かう ヤンの歯みがきは起きてすぐ レトネは朝食のあと 洗面台を交互に使えるのはいいよね と住みはじめのころふたりで話したことがある でもふたり一緒にならんでシャカシャカするのもいいかもね とごちそうさまな会話をしたこともある 戻ってくるとレトネも寝ぼけておへゃのょーと言うので おはよーとかえす 彼女が寝起きでぐだぐだなうちにコーヒーと朝食の準備 それからいただきます さっきテーブルに置いていた鍵はなくなっていた 食後レトネが目をつけたりまつげをつけたりして化けている間 ヤンはなんとなくギターをぽろぽろ弾いている ボリス・ヴィアンも吹いていたある曲の旋律に てきとうな和音をつけてみたりする そういえばこの曲の元のキーはなんだったっけ それから あー、さっきさ、なにかの鍵を… と声をかけるが んー?とレトネにはよく聞こえていない それで間をはずしてしまう 部屋にはギターの音と 窓ごしに朝のかすかな喧噪 ベランダをハツカネズミと猫が通りすぎる 準備終わってふたりして外出 がちゃん、とドアを開けると ひゅう、と風が入る 今日もまだまだ寒いねー そう言ってレトネはコートに手をつっこんでいる ええと、鍵、かぎ とぶつぶつしながらヤンがポケットを探っていると レトネはコートのポケットからさっきヤンが見つけた鍵を さっさと取りだし じゃっきん、と差し入れ がっちゃんこ、と鍵を閉めた ドアにはきちんと鍵がかかっていた エニー・エンター・キー ver. 2 ある日エニエンが親戚のおじさんの手伝いで 壁のタイル貼りの仕事をしていると そまつな服を着たおじいさんが通りかかった いい天気さな、とおじいさんが背中ごし言うので そうさな、とエニエンはそっちを見ずにこたえた なにをやっているかね、とおじいさんが聞くので 見りゃわかるだろう、とエニエンはそっけなくこたえた が、その実ふたりはけっこう仲がよかったので 会話も普段からぶっきらぼうだった エニエンの仕事は順調に進み ひとくぎりついたところで少し休憩をとる タイルのじゅんじゅんと整列した壁を満足げに眺めていると となりでおじいさんもうれしそうに眺めている これは、あれだな、そうさな、とおじいさんがつぶやくので なんだ、とエニエンがたずねると これは、鍵盤だ、とおじいさんはいう キーボードとはなにさ、くえるのかい?とエニエンが問うと こういうことさ、とおじいさんは木炭を拾ってきて タイルのひとつひとつに奇妙な配列で文字をつらねる Q、W、E、R、T、Y… ク…、クウェルティ?エニエンが苦労して読み 食える、の名詞形か?と思っていると すきな文字を押せ、とおじいさんが言う なんだよ、それ、とエニエンはかえすが すきな文字を、押せ、とおじいさんはくりかえす じゃあ、 エニエンはとりあえず左端のQのタイルを押してみた するとQと書かれたタイルが がっこん、と音をたてて スイッチのように 落ちくぼみ それから それから それから、Qにまつわる話がここにはじまる * エニエンの多岐にわたる物語のプロローグ、おわり ---------------------------- [自由詩]春の数え方/mizu K[2011年5月5日3時02分] わたしは森の中にいるようだ ときには幹の表皮をかけあがり ときには維管束の中をかけめぐり ときには分解者として仕事をこなし ときには苔の羽毛に正体をなくし ときには朝露のひとたまになって しずかに消える だがいつしかわたしはまた森の中にいることに気づく 腐葉土をしっとりと踏んで立っている わたしが誰であるのかよく知らない もう、しばらく森の外に出たことがない 足もとを見る 文字のかけらが散乱している 胞子を飛ばして見る間に消えていくものがいる まだあたらしい葉、ふるい葉、ほそい枝、ふとい枝 それらが幾重にも繊細に組み上げられて階層を形づくり その奇跡的に支持されたてっぺんに わたしは立っている それから わたしは歩く その細密に構築された細工ものをかさこそと 少しずつ崩しながら かすかな足あとをつけていく 森の外へ向かって やがて おなかをすかせたおおかみが あなたのあしあと かぞえています ひい、ふう、みい、よ、おいしそう ぬきあし、さしあし、もうすぐ、がぶりん おなか、ぺこぺこ、よだれが、じゅるーり そんな歌をうたいながら 風下から おなかをすかせたおおかみが あなたのあしあと かぞえています あなたのせなかのすぐうしろ 気をつけて 気をつけて そんなそよ風の警告を 聞きながら わたしは歩く 風のことばが正しければ、よし ただの気まぐれでも、よし 彼らのことばはいつもどこか不確かで 彼女らのことばはいつもちょっといいかげんで それらは長くかたちを維持できないで かけらが散らばる 森の地面にばらばら散らばる 木もれ日に差されてきらきらひかる それもいずれは分解されて土に織り込まれていく 意味をうしなって誤読をさそう ためにだれかをまどわす文字のかけら 森のしかけたささやかな罠 季節は春だ だれかが噴くように生まれ だれかははじけるように死ぬ すぐ背後には獰猛な夏が 気配をうかがっているから ---------------------------- [自由詩]aerial acrobatics 15/mizu K[2011年9月4日3時45分] *** ムラサキツバメに失踪する その前夜にふきあれた豪雨のことを ながく思いわずらっている きしり、と 窓はひらいた ひと知れず みるまに カーテンはあおられて 奥の壁ががたがたふるえた かすかに耳もとにきこえた いつかのコントラルトが 近づいては遠ざかった *** あの日は渡りの日とかさなって そぞろで業務 車をとばして急いだが おそく 飛び去った彼らの 航跡のなごりがうっすらと確認できただけで その空には うすく ただただ、むらさきいろの群れが 彼らの行く先をなぞっていた 舟の遠景 たかく 雲はしる 連なる むらさき 茫然と眺める だけの 背後には 轍がえんえんと跡にある だけで *** タバコを吸ってもよろしいですか そう尋ねられたので ダメです とこたえたら そのタバコは女の人をくわえかけていたのだが ぽろりと落っことし それは困りましたねと困った顔をして いやあ困りましたねと あまりに困り果てて いやはや困りましたねと ほとほと困り果てて あたまから紫煙をくゆらせている *** 鏡のむこうの布団の上で 死んでいる男 夜明けに蝶のとどく 男のなかばひらいた口から ゆらゆら、ゆらゆら のぼる 紫色したものと たわむれる 日の出後 からまったまま 鏡のむこうの窓の外 *** レインブーツを履かなくなってどれくらいになるだろう そう思いながら バス停に立っているひとがいる 傘をさして 雨もりのする バス停で そのひとのために バスは走る 待っているひとのために ワイパーがはじく 雨つぶはわらう 窓は開けはなたれて 車内はうるおう つり革からしたたる ムラサキツバメは夢見がちに浮かぶ 押しボタンがにじんでいる あかく、あかく つぎ、とまります 待っている ひとがいるから とまります そのひとにあいたくて いそぎます ひとにこがれて せくのです もうすぐ もうすぐです でも ひとは待たずに 行ってしまった 行ってしまった 去ってしまった バス停には 誰もいない 誰も、いない ---------------------------- [短歌]短歌八首 夢路より/mizu K[2012年11月25日2時47分] 冬枯れ落ち葉をしゃくしゃくと踏み公園路 かきごおりに舌を染め ふりかえ見れば緑の木入道雲はまぼろし 前むけばはだか木 もいちどと見かえればいつもの散策路 おどる枯れ葉のしきたえの 家路が鳴るから、かーえろ 新世界の標準時ぬばたまの夢 夢路より冬の「玄鳥ふたつ屋梁にゐて」赤いのど、赤いのど 北のひまわり畑から帰り来よ「星の光仰げや」しろたえの 雪が降ったと子等が笑いあの人が逝ったと親等が嘆き また 朝がやってき昼がすぎ釣瓶と陽がおち帷がおりて夢をみて ---------------------------- [自由詩]フェルミのみた泡は/mizu K[2013年4月8日21時18分] しゃぼん玉をつくる作法をだれもが 忘れてしまった時代 みずうみにうかぶ 背泳者と油分の分離されない光景が幾日もつづいていて 土手から飽きもせず眺めている人に 私は丁寧に包装した小石を投擲しつづける あの黒点のカラスになりたいと いっしんに息を吐きつづける 肺をうらがえすほどに みずうみの 背泳者の吐く息からぽくぽくと立ちのぼっているのは 水蒸気のはずだがどうみても それは泡だ 冬空に フェルミが浮かんでいる ぽっかりと ぽっ、かりと 宵をふところにまるめてつれて いくつもいくつも浮遊している まるで幽霊みたいだね そうリードを持った子どもが笑って指さす からっぽを指さす うつろな瞳がそれでも夕映えに 数日前のある紙面の写真とうりふたつのフェルミが 泡を梱包することの困難さについて なにも語らない 忘れさられて 忘れたまま誰もがフィルムを それから レンズが向けられるたびに パトローネはすこしずつ 内の空間をひろげて 背泳者のいたあたりの残照と ぽく、と吐かれた息のかたち 波紋のなぞるあたりが 測光され 警告は無視され シャッターの音が 響く フェルミは私の手のひらの罅われたレンズのなかで夢をみている ヤマネのようにまるまって まるで死んでるみたいだね あはは リードを放擲してしまった子どもが笑う 私はたずねる しゃぼん玉の梱包方法を知っているかと そう私はたずねる 子どもはこたえる あの空の向こうのフェルミまでは飛ばせるさ 私の手のひらのフェルミは霧散してしまっていた 雪がふってきた はらはらと 雲もないのに はらはらと 太陽風にさらされたカラスの羽にも いつしかうっすらと リードにはなにも繋留されていない 子どもはもうこたえない カラスはなにも語らない 背泳者は泡を生産しない ヤマネは眠らない フェルミは夢をみない ---------------------------- [自由詩]午前二時に牛歩/mizu K[2013年5月17日1時23分] 町境のしじまの軒先で 酒盛りをやっているというので おともなく どんなもんじゃといってみると みな斬られて死んでいた 付近の田んぼから蛙の声がする ひとばんじゅう ただししじまになるときは 蛇と地鳴りが地を這うときだけ 空が満天ならアメンボも飛んでいる 数ヶ月前に落雷したところは 昨日の雷雨でもやっぱり そのあたりをうろうろしていた きくところによると 雷の通り道というものがあるらしい 夜の道路をひきずり歩くのは牛の亡霊 あなたはカーテンのすきまからのぞいてはならない ポストに投げ入れられるのは手首 午前三時につづけて、にど 午前四時半にことんと、いちど ---------------------------- [自由詩] 「事件とウイスキー」/mizu K[2013年10月20日2時04分] あの日遮られない渡り鳥たちの羽ばたきが折からの強い季節風によって大きくねじ曲げられていく風景を窓辺から眺めていた 手もとの机の上には整えて並べられた琥珀のかけらたちと剥落した魔法瓶にさした花々 ひびわれたグラスからはウイスキーがどくどくと染み出しているのだがその勢いがまったく衰えない 窓の外を灰色の人々がゆらゆらと歩く 季節の大風が吹いてそこかしこにかろうじて残っていたやわらかいものを根こそぎ切り裂いていく うなるような声を上げて家屋をゆらせば それを追いかけるようにしてざりざりと雹が地面を突き刺す カラスは鋭く鳴いて塀の向こうへ飛び去った ある日北端の蒸留所のある風景で そのまた先の岬の突端でバグパイプを吹いている人がいたがちょっと目をそらしたあいだに消えていた ひとりは海に落ちたと言い ひとりは空をのぼって雲に消えたこの目で見たと言い ひとりは地面に沈んだ楽器だけが残っているだろうと言い わたしは永久機関になってしまったウイスキーグラスのことを考えていて 床に流れ落ちた琥珀色の液体は椅子の下を通り、机の脚をまわってドアへむかい、すきまから廊下に出ると気づかれずに窓から外へ、庭を横切り、石垣の継ぎ目から通りへ出、建物の脇から階段を上り、停車した車の列をすりぬけ、わき道へそれ、C. カーソンの石畳、また小さな路地、踏み固められた小道をたどり、しばらくすすんで、ある家の方へ、ガルシアの方へ またある日ひとり窓辺に腰掛けて手もとの琥珀を転がしながら眺めていた空の向こう、雲の流れる風景から なにかが垂直に落下し続けるのだがその勢いがまったく衰えない それは放りなげられた小石かもしれないし力つきた渡り鳥かもしれないし将来灰色の羽のはえる少女なのかもしれないしここから見えるのは「イカロスの墜落のある風景」の風景なのかもしれない 森の中にある発電所の屋根に穴があいたと人づてに聞いたのはしばらくしてからだった だれかにとっては人生を左右する事件だったのだろう だが別のだれかにとってはささいな出来事になるのだろう 魔法瓶にさした花々はとっくにしおれていた ---------------------------- [自由詩] 3度目の付添いだが今回はスキーとは関係無かった。/mizu K[2013年12月17日20時27分] 1度目 剃髪する、というので付添うよと しんみり待ち合わせ場所に行く やっほー、とすでにつるつるの頭で現れやがり腹がよじれる じゃあスキー行こうよ、とそのまま強引に長距離バスへ押し込まれる 隣の人は案の定風邪をひいた 2度目 彼と別れる、というので へーと適当に相づちを打っていたら 1対1じゃアレだから付添って、といわれ椅子から滑り落ちる 待ち合わせのスキー場で対面するとすぐに隣の人は コレあたらしいカレシ、といって私の腕をとるので そのあといろいろ修羅場となる ゲレンデが溶けるほどのはやさで滑り逃げる 広瀬香美がぐるぐると脳内再生される 3度目 話題になってる銀座のイタリアンに行く、はずだったが 指がひん曲がった、という沈痛な連絡を受けたいそう慌てる 医者に行く、というので付添いのため待ち合わせ場所に行く やっほー、と満面の笑みとぐわしのポーズで現れやがり みごとにかつがれたと気づく たぶん2階くらいまでかつがれた気分だ 隣の人はうれしそうに笑っている 3度目の付添いだが今回はスキーとは関係無かった ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【レビュー】雲雀料理11号の感想 1/4/mizu K[2014年1月28日21時11分] 『雲雀料理11号』 http://hibariryouri.web.fc2.com/#11 の感想をすきかって書いてみました。 web媒体でも読めますが、紙だとイメージがまたがらりと変わるので冊子購入もおすすめデス。 ■ 凡例:作中からの引用はおおよそ〈〉で表記。「」も結果的に引用になってるところもあります。そこは文脈で(なんじゃそりゃ)。〈〉だらけで煩雑になりそうな部分は適宜省略。 ■ 軽谷佑子さん『夢をみなくとも』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/karuya.htm 1連目。その最終行にこの詩で一箇所だけ読点がうたれている。「わからない。」でも「わからない!」でもなく、〈わからない、〉と、句点や感嘆符でなく読点によって断定することを回避しているのだが、これはどういうことなのだろうと思ったが、私も「わからない」ので先を読み進めることにする。 秋に紅葉した葉は、はらはらと散って地面に落ちる。人や車やけものに踏みしだかれて〈こなごなに〉なるわけだが、ここでの〈祖母〉の〈床に足のつかない〉という表現からは、どこか枝に宙ぶらりんのまま紅葉し、赤茶けて、色あせていった1枚の葉をおもわせる。あるいは、病、秋の葉という共通点から、オー・ヘンリーの『最後の一葉』をなんとなく連想した。 人は死ぬ。それは遠くの知らないだれかであっても、とても近しい人にであっても、やがて死は平等に訪れる。だが、生きている者は生きなければならない。生き続けなければならない。息をすること、体を動かすこと、ものを食べること、眠ること。あるいは、天体の運行、月の満ち欠け、気象の変化。だがそういった内在的、外在的なもろもろのことについて、私たちはほとんどそれらを、「それ」と意識せずとも、―なんとなく―日々の生活をおくり、その結果生き続けている。それははたしてよいことなのだろうか、わるいことなのだろうか。それは「わからない」。だがそこで「わからない。」と句点で断定し固着した結論を導くのではなく、〈わからない、〉と読点によって考えを持続させること、「考え続けること」が重要なのだろう。 日常の生活におわれ、そのなかで人が忘れたふりをしている様々なものごと。それらについて気づかせるのは、夜の闇と静寂だ。それは残酷なほどに突きつけてくる。おまえは生きている、おまえは息をしている、だがおまえの息はいつか止まる、いつか止まっている、そしていつか死んでいるのだ。 それでも私たちの外側にある天体の運行はとどこおりなく行われ、月は満ちては欠けてを繰り返し、天気はいつもどおり西から変わっていき、季節はめぐる。その繰り返される時間の堆積、それが井戸の底へ落葉のように降りつもってくるような場所から遠い遠い上空の丸い空を眺めるように、私たちは死におびえながらも、〈わからない、〉という読点による思考の継続によって踏みとどまり、窓辺から〈月の出を待〉ち、それからその窓辺を(離れ〉、カーテンを引き、明日のための準備をし、羽毛につつまれ、ねむりに落ちる。 ■ 原口昇平さん『(詩句の終わりにようやく)』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/haraguchi1.htm 詩の「タイトル」というものは、読者にとって、読もうとする作品を知るためのもっとも重要な手がかりのひとつになるだろう。ところが、作品によっては詩の1行目がそのままタイトルになることがままある。あるいは無題。それには、たとえば書き手が、詩全体の印象を大きく特徴づけるタイトルの提示を回避することによって、読み手になるべく先入観をあたえないように企図する場合が、ときとしてあるように思う。この詩においては、私たちはタイトル(の箇所にあるべき1行)と、それに連なる1行目を、「詩句の終わりにようやく/詩句の終わりにようやく」と詩の語り手のつぶやきを2度聞くことになり、その反復される詩行のリズムにみちびかれて、作品のなかに分け入っていく。括弧でくくられているがゆえにそのつぶやきはさらにか細い。そのような詩の語りは、気をぬけば聞き落とすほどのかすかな声でなされるのだろう。ゆえに読み手は聞きもらすまいと注意深くその声に、耳をすます。 〈きみ〉は沈黙し、〈おはやし〉の音は聞こえない。だが耳もとを通りすぎていくのは認められる。ものおと、ざわめき、さんざめき、足音、笛の音、太鼓の音、ひとびとの声。まるで音を消したディスプレイごしに流れる映像を眺めているようだ。もしくは手持ちのビデオカメラで撮られた、ゆらゆらとおぼつかなく映しだされる風景を想像してもいいかもしれない。そこにいる人々は実在しないようで、幽霊のようで、次作の『(ランナー あるいは破裂する風船)』に登場する透明人間のようでもある。だがそこに映っている人々は、血の通った人間であり、まぎれもなく存在している。あるいは存在していた。 仮定の話をしてみよう。もしも私がある物事をすすめるにあたって、それに懸命に取り組んでいるとする。けれども、自分がその渦中にいると、あまりにもまわりがみえず、その案件がほとんど終わりをみせるときになってようやく、はた、と気づいて、ああ、あのときああすればよかった、こうすればよかったと後悔して、ぶつぶつと煮えきらない思いをいだくことがある。それを現代社会に置換してみると……、というのはあまりにもありきたりな方法かもしれないが。しかし、〈ずっとそばにいたことに気づいた〉のは、〈詩句の終わりにようやく〉至ってからであった。私たちはまだとりかえしがつくのだろうか。 というのは、私はこの作品にすこし政治的な含みを感じたからで、しかし、おそらくこの詩が書かれた当時と現在とでは、あれこれと状況がまた大きく変化している。もし今現在においてならば、語り手のつぶやきはどのように変化しているだろうか。今が戦後か戦時か平時かあるいはすでに戦前であるのではないかという議論は以前からあるのだろうけれど、いまだきちんと清算できていない―と私は思っているが―あの先の戦争について目を閉じ、耳をふさぐのならば、私たちのこれから、にやってくる〈夕闇〉の世界には、おびただしい数の蟬の抜け殻が転がっている風景が広がっているだけだ。だがそれを予期しおののきながらも、あらがい、逡巡し、迷いながら目の前のことがらを見きわめ、選択し、一歩一歩をすすんでいくしかない。 ■ 原口昇平さん『(ランナー あるいは破裂する風船)』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/haraguchi2.htm 手と目、いわゆる触覚と視覚、特にこのふたつのモチーフを起点として、ある種の幻視を展開する(と読んだんだけど、盛大に誤読しているかもしれません……)。 手に関すること。〈影をつか〉むのは手であるし、〈パントマイムする手のひら〉、〈両手を縛られた巨人〉も手に着目している。 それから目。〈夢見る少年〉の〈まぶた〉、〈一度も見たことのない壁の向こう〉、〈両眼を隠された恋人〉、〈不可視の帝国〉、これらは見ることに関すること。 ランナーに対する私のイメージは、まあ文字通り走る人であるのだけれど、入念に準備をしたマラソンランナーが道の先へ、奥へ向かって走り去っていくそれがある。ランナーは遠くへ、遠くへ、さらに遠くへ。その「遠さ」をもとに考えてみると、作中のランナー、鳥、少年、蜃気楼、明日、壁の向こう、不可視の帝国、これらはすべて遠いところにあるもの、あるいは遠いところにむかうもの、つかめないもの、たどりつけないところにあるもののいずれかを表象している。〈砂に濡れた馬賊たち〉もユーラシア大陸の東の果ての島国に住んでいる私にとっては遠い存在。そして、〈透明人間〉は、私たちのすぐそばにいながら―現に今この瞬間にも私たちのすぐ背後に立って一緒にディスプレイをのぞきこんでいる可能性もありながら―、その知覚できないという点において、私たちともっとも遠いところにいる。それから見方をかえれば、それら並列されたイメージのタペストリとでもいえばいいだろうか、この作品では並べられたものものの「遠さ」というものが意識されて織りあげられ、形づくられているように思う。全体としてはひとつの作品であるけれども、その縦糸と横糸は限りなく遠い。そうなると最終行の〈きみ〉ですら、遠い。 ところで冒頭にもある風船が破裂するのはなにゆえだろう。仮にそれを透明人間の仕業だとすると、その行動は、誰にも認識されずにさまよう透明人間の、自身の存在を主張するような、ある種の叫びなのかもしれない。 ■ 細川航さん『無言歌 v 』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/wataru1.htm 先の原口さんの作品にはかすかながらも声があった。けれども声のない無言になった歌には、耳を圧するほどの静けさと、こちらがふるえるほどの峻厳さが内包されている。ときには歌い手を引き裂くほどに。 ここでは色に注目してみたのだけれど、〈花畑〉の色とりどりの色彩にあふれたイメージからから、〈火〉、〈赤い糸〉と単色の「赤」に限定されていき、おそらく切った指から流れる血は赤黒く、〈ピアノ〉が想起させる(グランドピアノの)「黒」に、最後は収束する。現在進行形ですすむ〈すべての終わり〉と〈そのあと〉。つまり〈すべての終わり〉以後の終末的イメージも、私の場合、かぎりなく黒に近い色を想像する。 そこで奏でられる音楽。音楽というか、音である必要もないのかもしれないが、すべてが終わったあとの、誰もいないところで、ほとんど弾き手を想定していない音楽とは、いったいどういうものなのだろうか。「終わり」という点で連想するならば、オリヴィエ・メシアンの『世の終わりのための四重奏曲』なのだが、かの曲には明確に音があり、演奏される。演奏する、人がいる。 作中の〈欠けたアルペジオ〉は音の欠落しているアルペジオととったが―もっと別の含意があるのかもしれないけれど―、それはどのように響くのだろうか。それにのって声のない旋律はどのように歌われるのだろうか。どこまで届くのだろうか。どこまでも黒い世界で。もしその音楽に色をつけるのならば、アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』の登場人物「アルティメットまどか」のテーマカラーのような色がいいなあ、と思います(悶)。 ■ 細川航さん『無言歌 vi 』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/wataru2.htm こちらでも色を追っていくと、緑、氷の透明もしくは白、土の茶色、骨と毛には白が見える。『無言歌 v 』の「赤と黒」から、『vi 』では「緑と白」と、色相的にも補色というか、対峙するものを用いて真逆の色のつかいかたを見せている。白い色にはたとえば、空漠のイメージ、静寂のイメージがあるが、「静寂」という語は非常に安定的な印象がありながら、たとえば上下左右がすべてまっ白でなにもない空間にぽつんと放り出された場合、気圧された感覚や、つよい不安感をいだくこともあるかもしれない。 ところで、〈氷の上で暮ら〉すことになるのは、別に人でなくてホッキョクグマであってもいいのかもしれない。もうこの歌をうたっているのは人でなくてもいい。喉のつづくかぎり音のない絶唱はつづいていく。絶え間のない静寂、冷厳な静寂、動くものをいっさいゆるさない静けさ。それと同時に耳に鳴り響く騒乱、狂乱、喧噪、騒擾、トーン・クラスタ。 音楽について語るとき、まず、音楽が成立するためには「静寂」を必要とする、という話は定番である。芥川也寸志によれば、それは「かすかな音響が存在する音空間」(*1)での静寂、という但し書きがつき、適度な音の響きがその場になければ音楽が音楽たりえないことへの言及がある。周辺環境が極度の静寂下にありかつ反響が極小である場合、音が発生するための大前提としての「ひびき」が失われるために、それは音楽として成り立ちえない。 あるいは逆に絶え間ない炸裂音ないしは爆音下での音楽はどうだろうか。そもそもその音楽自体がかきけされて私たちの耳に届かないがゆえに、これも音楽として成立しえない(ノイズ・ミュージックはたぶん別として)。くわえて、「……程度を越えた静けさ――真の静寂は、連続性の轟音を聞くのに似て、人間にとっては異常な精神的苦痛をともなう」(*2)ことに鑑みれば、静寂と轟音は相反するようでいて、コインの裏表のように背中あわせのとても近しい関係と認められるだろう。 静寂と轟音を内包するこの詩が喚起させるいくつかのイメージ。どこまでもつづく氷床と地平線、白色度の高いくもり空、そこにぽつんとたたずむ白いホッキョクグマが見えてこないだろうか。時が過ぎればそこには白い骨と白い毛。さらに時が過ぎれば春のぬくみにふわふわとただよっていく(かもしれない)綿毛。そこにこめられたかすかな願望。〈きみのために〉、静寂と轟音を並列に存在させ、通常なら成立しないはずのところのぎりぎりにおいて形づくられている歌。 そしてやっぱりこの作品には、ラヴソング的な響きがするように感じられるように思う。〈きみ〉が特定の誰かをさすとは限らないし、一般的な「ラヴソング」というのとは、またちょっとちがう気がするのだけれど。 *1, *2:芥川也寸志『音楽の基礎』岩波新書 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【レビュー】雲雀料理11号の感想 2/4/mizu K[2014年1月30日21時15分] ■ 田代深子さん『後日譚』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/tashiro.htm からくさ模様のように蔓が〈伸び〉、いろいろなものが〈伸び〉て、〈延び〉て、〈のば〉されている。任意のあるものがのびるためには、時間、を必要とするのだが、それはつまるところ、人がのびているのを認識することが、その人の時間が経過していることと同義だからともいえる。作中の時間の流れは、回想的な過去から現在、および現在進行形の語り手の体験の逐次的描写によってすすむ。作品タイトルの『後日譚』から想起させられる、本編終了後のエピローグ的な、「何かが終わった感」もしくはある出来事や気分を締めくくろうとする気配は多少はあれど、それがすべてではないように私には感じられた。 辞書を引けば「譚」の文字には、はなし、ものがたり、かたる、はなす、という意味のほかに、「のびる」という意味もあるようだ。じつは「後日譚」とは、「後日のびる」で、それが変じて、「後日へのばす」ことではないかと思ったりする。この詩では、後日譚(エピローグ)をやや意識させる話しぶりと、今現在よりももっとあと、未来のこと(後日)へ向けられた意識、それらが作中で曖昧に混交して、作品の意図を明確につかもうとする読者の手をするりとすりぬける。 どこか淡々とした一定的な日常描写で、その生活を送っている詩の語り手の回想が「伸び縮み」して、やや厭世観をかもしながら、あっちふらふらこっちふらふらしつつも、それは空間的、時間的、生物的その他もろもろの境界を飛びこえてどこか超越的になりながらも、その後語り手のもとへまたすとん、と着地してくる。そのたしかさ。不安定ななかの安定感。どこか迷いながらもそれにのみ込まれず、どこか一歩はなれている視線の柔軟な印象。将棋でいうなら「5二玉型中原囲い」(わかりにくいたとえだ……)。 そして詩の語り手の視点の立脚点がどこにあるかというと、私たちの日常ってなんて輝いてるんだろーウフフフフ的なものではなくて、もうすこし本質的な部分というか深層において、生命の生き死にの沼のなかに沈んで、くらいなあ、なにも見えない聞こえないなあ、太陽も月も星も何回まわったかなあ、息もできなくて苦しいなあ、でもまあいいか、と思いながらなんとか生きていく、とりあえず食っていかなきゃならん、ということであったりすると思う。 日々の生活の中では当然激怒することもあり、悲嘆に暮れることもあり、絶望にうちひしがれることもある。だが外を歩いているとき、人々はあまりそういう感情を表に出さない。たとえば、いま電車の向かいの席に座っている人が、もしかしたら借金抱えて首がまわらず今日中に死ぬ覚悟を決めているかもしれないなんて、こちらは知るよしもない。たとえそれを知ったとしても、そこで心みだれることがあるかもしれないけれど、自分には自分の人生があると覚悟を決めている。その出来事は世の中にある無数の〈どうともならぬもの〉のほんのひとつだから。それを冷酷だ、と思う人もいるかもしれない。だが世界中のすべての人々、すべての物事、すべての事象とひとしく深く関わることなど到底不可能であり、ならば自身でできることを、我が身のキャパシティをこえない範囲で、ひとつひとつ行う。矩を踰えず。〈そういうもの〉とは、そういうものだ。 ■ 落合白文さん『マクドナルド』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/ochiai1.htm 印象にのこるいくつかのシーンが、映像的な余韻をのこす。そのままショートフィルムにでもできそうな作品と感じた。すこしだけ想像してみよう。冒頭1連目を独白する男性の声。2連目の少年が水たまりに手をつっこんで拾い上げるシーンから、遠くに投げる動作、空まで届くほど高く放り投げられて。暗転して、地下鉄のゴトゴトいう音と規則的な間隔で後方に流れる電灯、窓にうつる横顔。ビルの谷間に浮かぶ太陽の赤さと、アップに映された充血した目との交互のカット等々。 さて、作中の鍵になる言葉はなにかと考えてみると、私は「感情」と「微笑」ということになるのではないかと思った。微笑について形容する語にはどんなものがあるだろうかといくつか挙げてみる。やさしげな微笑、やすらかな微笑、おだやかな微笑、はにかんだ微笑、天使の微笑み。あるいは困ったような微笑、愛想のよい微笑。ほかにはさげすんだ微笑、苦り切った微笑、うわべだけの微笑み、もあるかもしれない。マクドナルドなら0円でスマイル。 ここで1連目の〈ある感情について多くの言語表現があるとするならば、/その感情は文字で表現するのは不可能だと。〉の部分に着目してみる。ここの〈感情〉を〈微笑〉に置き換えてみるとどうだろう。「ある微笑(という行動)について多くの言語表現があるとするならば、/その微笑は文字で表現するのは不可能だと。」こういうことになる。 微笑については上にあげた例のほかに無数の形容表現があるだろうし、幾多の「微笑」の種類がある。「微笑む」という、ある種独特で曖昧な感情を表現するこの行動をそれぞれ正確に意味づけし文字化していくことは、はたして可能だろうか。たとえば、作中Mの字を書く〈そいつ〉の「微笑」は、0円スマイルとの明確な区別をつけることはできるだろうか。もしかするとマクドナルドでのスマイルは〈案山子のような心〉でなされるときもあり、見事に仮面の微笑を見せられる場面もあるかもしれない。「クソムシが」とか思ってる店員さんもいたりして。露骨にひきつってたら、無理してるなーと容易に推し量れるけれども。彼の「微笑」の意味もそのときの感情も、そういうわけで、ようとしてうかがいしれない。 ■ 落合白文さん『星座』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/ochiai2.htm 冒頭、それ(星座をさすと思われるが)を描く道具として、まっさきに鉛筆が否定されている。それならば、と詩の語り手から示される代替品が、〈骨〉であった。幼年のプラトンが地面にむかって一心不乱に描いている光景。石畳にうかびあがる神話の神々は、洞窟の奥に浮かびあがるイデアの幻影のように、〈バスルーム〉に立ちのぼる湯気のように、ゆらゆらとして、どこかはかなげでこころもとない。明日には、そこらを歩く人々の足にかきけされるかもしれない運命。 あるいは〈啓蒙主義の心理学者〉およびその「指」について考えてみる。おそらく細く繊細で神経質で筋張っている指、と私は勝手に想像してしまうのだが、ここでの学者の指は、どうにも「骨」を意識させるように感じる。指、つまるところの骨と会話する〈啓蒙主義の心理学者〉。もし学者が骨と会話するのならば、将来の大哲学者プラトンは、その指に持つ骨でもって同様に「会話」できただろうか。 〈作品〉を描く途中のプラトンは、〈作品を完成させるまで誰とも口をきかなかった〉。なるほど、たしかに彼は誰とも会話をしなかった。だが、それは「周囲の人々」と、「音声」でもって会話をしなかったのであって、すぐさま彼が会話という行為をしなかったことを明らかにするものではないと思う。では誰と会話していたか。 結局プラトンは、路上において(この「路上」も哲学的な意味合いを有しているのかもしれない)、自分の描くものと交感によって会話していたのだろう。彼に描かれる星座の人々、動物たち、竪琴、神々と。その指でもって。骨でもって。 その「会話」のなかにいるのが〈わたしたち〉である。〈会話の中に、/登場〉する〈わたしたち〉とは誰なのか。それは、たとえば学者の思索のなかで火花のように発露する叡智そのものであり、路上に描かれ翌日には消えているであろうものに宿っているものである。そして昼には消え夜には出現するあの夜空の星星のどこかにも「わたしたち」は存在するのだろう。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【レビュー】雲雀料理11号の感想 3/4/mizu K[2014年2月3日0時09分] ■ 市村マサミさん『ゲロリスト』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/ichimura1.htm 吐瀉物が色とりどりでたいへんサイケデリックな光景である。 私たちにできることはひたすら吐くという行為だけ。そうやって〈街をカラフルに汚〉すことが〈歓迎のパーティ〉になる。ひどいにおいのパーティにお見えになるのは〈お偉いさん〉で、〈お偉いさん〉は当然お金を持っている。それからカネを持った人々が〈異臭がするところに〉やってくるのである。そこには〈ハエ〉がいるから。〈ハエ〉はカネをもたらす。カネをもっている人々はもっとカネが欲しい。誰よりもたくさん欲しい。あればあるだけ欲しい。全部欲しい。そうした人たちがお金を持ってくると、その場所ではカネがまわるようになる。金銭が動く。すると経済が動く。結果として私たちに仕事がくる。ああ、これで食える。食いっぱぐれずにすむ。ありがたや。 そこでさっきの〈お偉いさん〉がやってきて、どうだ、仕事がなくて、カネがなくて、今日明日に食べるものも事欠いている君たちに救いの手をさしのべに来てやったぞ、感謝したまえ、ぬかずきたまえ、はっはっは、と笑う。そういう〈お偉いさん〉の言動が、ちくしょう俺たちの吐いたものにつられてやってきやがったくせに、と気に入らないのだけれど、無下に反発することもできない。くやしいがカネは欲しい。欲しいのだ。喉から手が出るほどに。 そういうジレンマを、〈それも僕らの悲しい性だ〉と言う。言ってしまう。言いたくもないが言わざるをえない。気にくわない〈お偉いさん〉を、蛾を誘う電灯のように魅きこんでいるのは、くりかえすが、私たちの吐き出すものなのだ。それを使ってつくられた〈いろとりどりのカナッペ〉は、毒々しいほど鮮やかで、どうしようもなく嫌悪を催させ、それでもありえないほど魅惑的に、それが口の中に放りこまれるのを今か今かと待っている。それが釘や金属片を仕込んだ爆弾だとしても、カネに捕われたものにとって、やはりその誘因力はあらがいがたい。 ■ 市村マサミさん『地下鉄の粘菌』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/ichimura2.htm 地下鉄のトンネルは生きている。 というと何のことかといぶかしがられるかもしれないのだけれど、地下鉄の、あの長く昏くつづく細長いチューブを生物の内臓に喩えたのはたしか日野啓三だったと記憶している。新陳代謝をくりかえすようにいつもどこかが工事中。地下鉄が通過すると壁といわず、線路といわず、トンネル全体がふるえているのは蠕動運動する腸のようだ。地下水の滲出による湿潤もぬめぬめとした生物の体内を思わせる。うろうろするネズミや屋外にいる家庭内害虫Gは、さしずめ腸内の微生物といったところか。その微生物のなかに「粘菌」が含まれていてもおかしくはない。体内に入った食物は、当然分解され、吸収されなければならない。そうすると作中の「粘菌」は、分解者としての役割をになっていると考えてもいいだろう。 地下鉄を日常的に利用する詩の語り手は、単純に地下鉄を移動の手段として利用している。地下への階段を降り、改札をぬけてホームに立ち、やってきた列車に乗り込み、がたごとという振動と悲鳴のような風切り音を聞いて、数駅を過ごして、目的のホームで降車し、歩き、改札をぬけて階段をのぼり、出口から地上の喧噪のなかに戻る。晴れていれば陽射しが肌をさす。そしてそこから目的の場所へ歩く。靴底をすりへらして。 翻って「粘菌」にとっては、地下鉄内が生活圏であり、トンネル内を自由自在に行き来している。その役割は、侵入してきた「食物」の分解である。侵入者を待ち受ける「粘菌」と、侵入する詩の語り手とは、捕食者/被捕食者の関係になり、そこに会話が成立する余地はない。食うか食われるかである。 黄色い粘菌は、詩の語り手の背広にぺたりとくっつく。彼がはじめはとまどい、それから嫌悪をもよおしはじめたころ、粘菌は彼の背広を溶かしはじめる。酵素を分泌して分解を開始する、ともとれる。粘菌の出した〈黄色いの〉はとれない。〈カビみたいなにおい〉がただよう。彼は鏡をみる場所にいる。洗面台のあるところ。水道の蛇口からぽたぽたとたれるしずくが排水口にすいこまれている場面を私は想像する。 彼の遭遇した「粘菌」とはなんだったのか。すごくありがちな解釈かもしれないけれど、それは、解離した自己、ということになるのだろう。毎日毎日、同じ地下鉄を利用することに倦みはじめていたころのこと。粘菌をはじめ遠目に見る。彼は問いかける。〈あんなふうにしていて粘菌なんてやつは/幸せなんだろうか〉。それはそのまま「こんなふうにしていて俺なんてやつは幸せなんだろうか」と自問していることになる。それから徐々に粘菌が彼を浸食しはじめる。粘菌は彼を食ってしまうだろうか。彼は食われるのだろうか。自分自身に。そのあやうい均衡の中途で、この詩は結ばれている。 ■ 市村マサミさん『繕い』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/ichimura3.htm 「食う」と「吐く」、あるいは「はねる」と「拭く」、ほかには「繰る」と「返す」、「爆ぜる」と「掃く」。反復される対照的なことばの流れが、糸の動きを連想させる。なにかを「繕って」いる。どこかが破れ、裂け、ほころび、傷口をみせているのだろう。どこかに不具合が起こっており、そこを修復する必要がある。バグを取りのぞいて修正されなければならない。「繕」われなければならない。しかしながらその「繕い」の行動にはリスクがともなう。行動の結果、〈墓石 見えて〉、つまりは死にかけることもある。そうであるならば、それは詩の語り手にとって命がけの行動なのだろう。 「繕う」ためには糸がなければならない。私は最終連に出てくるいくつかの色を、縫うための糸と考えてみたのだけれど、そうすると次のような読みもできるのかもしれない(まったくの見当違いかもしれないけれど)。 この反復される繰り返しを「日々の営み」とすると、その日常生活、労働において生じる、はじめは小さな矛盾、違和、背反、バグ、だが放っておくとすこしずつ増大していって、やがてにっちもさっちもいかなくなる、そういうものがある。気がつけばじわじわと真綿のように自分の首を締めてきて、ああ、なんだか苦しいな、目の前がくらいな、どうしたのかな、かすんだ靄の先に墓石が見えるよ、なにか書いてあるな、名前だな、ああなんだ、自分の名前じゃないか。合掌。 そうなる前に、その真綿からでもいい、糸を紡いで、そのほころびや裂傷を縫い、繕っていく。だがそれは永遠に終わらない。生きているかぎり続いていく、その延々と繰り返しをもとめられる作業に、詩の語り手はややうんざりしているようにみえる。どうしてこうなった、と困惑する気配も感じられる。だがどこかでこれらを一笑に付すようなしたたかさもあるようだ。 最終連の糸、それによって繕われたものは、糸が通る以前のそれに比べると、いくぶん不格好であるかもしれない。すこし捩れているかもしれない。すこし波打っているかもしれない。けれどもそれぞれの色に彩られていて、以前よりもすこしだけ、強靱になっているはずだ。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【レビュー】雲雀料理11号の感想 4/4/mizu K[2014年2月7日22時47分] ■ 清野雅巳さん『それが男や』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/kiyono.htm 『雲雀料理11号』の幕引き。料理に満足したあとの熱いお茶のような一品。 週末の中華料理店でクダを巻かれる詩の語り手。どこか堀江敏幸あたりの小説の1場面に出てきそうだなあ、と思ったりした。そういえば、エビフライやエビ天のしっぽというのは、皿に残す人と、そのままバリバリ食べてしまう人とにわかれるように思う。魚の骨とかもそうだけど、こういう小道具というか皿に残っているものは、飲みの席などでは所在なさを紛らわすのにちょうどよかったりする。行儀は悪いけれども。 飲みやなどでぐうぜん隣りあったときにからんでくる〈オジさん〉というのは、どうしてもひとりでぺらぺら喋る傾向があるような気がする。たぶん〈オジさん〉自身が、ペラペラ喋りやすい相手を無意識に選んでいるのだろう。その喋りの半分はたしかに相手に語りかけているけれど、もう半分はひとりごとのようになって、酒がすすむと目がとろんとしてきて、だんだんろれつがまわらなくなり、話に繰り返しが多くなって、うんそうだ、うんそうだ、とひとり相づちを打ちだし、だんだん頭がこっくりこっくりしていって、しまいにはつっぷして寝てしまうこともある。 詩の語り手と、この〈オジさん〉はこのあとどうしたんだろうか。ひたすら飲み続けたか、まさか意気投合して話に花が咲いたか、尻すぼみになってなんとなくお開きになったか。それとも〈オジさん〉をつぶしてお代ももたせてバックレたか。すこし気になる(かもしれない)。 ■ 縫ミチヨさん:冊子表紙絵 絵の前に立ち絵を見るとき人は絵の前にいる、ということはおそらくすべての人に共通していることなのだが(もしかするといないかもしれない。または絵の中にいるのかもしれない。それはさておき)、その鑑賞時におけるひとりひとりの視点はそれぞれ千差万別に異なっている。ある人は歴史的な視点からその絵の成立に思いをはせ、ある人は技法的な部分に着目する。またある人は絵のなかに描かれている細部を詳細に鑑賞し記憶に留めようとする。モチーフから意味を読みとろうとする人。絵よりも隣の恋人のことが気になって気になってしょうがない人。またある人は絵の具の匂いをかいだり。人によっては、たとえば美術館等の建物の空間そのものを楽しんでいる人もいるだろう。私の場合、美術的知識も審美眼もさっぱりなので、もっぱら絵の雰囲気や気配といったものをそれとなく感じてわかったふりをするくらいが精いっぱいなのだけれど。 雲雀料理11号の表紙をパッと見た印象は、なんだかよくわからないなあ、というものだった。絵は荒々しく昏く、明確には描かれていないので一瞬そこに何があるのかわからず、ややとまどう。版画だろうか?それから手がかりはないだろうかと、夕ぐれどきに光をうしなった藪のむこうの暗がりに目をこらすときのように、おそるおそる絵の中へわけいっていくことになる。 はじめ、画面中央やや左上に白い人物がいることをみとめた。像かもしれないが便宜上人物としよう。その人物は翼をもっているようにも見える。向きあうようにして人物の左側に黒い犬と思われる動物。右側にも見落としそうになったが、灰白の犬がいる(犬とは限らないけれど、とがった耳、ぱっちりと開かれた目、黒い鼻。四つ足であることは確かなようだ)。絵にはざわざわとした気配が満ちていて、風が強く、一定の方向ではなくかなりみだれて吹いている。 絵の上方にやや傾いで大きな建物のシルエットが浮かんでいる。尖塔らしき影。イスラムのモスクかビザンティン様式のドームに似たもの。それが全体的に傾いている。それは今日明日中にバッタリと倒れそうに傾斜しているのではなく、なにか海原で大きな波に揺られて傾いている巨大な船のようにも見える。あるいは見ている私が海におぼれかけていて、うねる波にもまれながら水面からようやく遠くの陸地に垣間見た、ある宮殿のシルエットのようにも想像できるのだ(残照を背景にして。あるいはその宮殿の物見に人影を認めることはできるだろうか?)。 それから絵の右側にある大きな針葉樹に目がいく。そこでもざわざわと風が吹き荒れ、木の頂きから半円を描くように絵の動きがある。木の右下の葉先、地面近く、いちばん下の枝の先のあたりに小さな人物あるいはぬいぐるみか人形のようなものがあるが、これは見まちがいかもしれない。 今度は左側に視線を転じてみよう。絵の左側の大半を占める部分には大きな風の流れがあり、それが冒頭の人物あるいは犬たちにむかって吹いており、それが私たちの視線を人物たちに自然と集中させる効果をあげている。もうすこし念入りに見ていくと、つぶつぶとしたものが無数に見てとれ、どうやら植物のようだ。稲または麦、あるいはそれに類する人の腰くらいまで高さのある植物が、ざざあぁっと風になびいている。宵闇に草木の湿った匂いが鼻にとどく。そして絵の右下から左上にむかって対角線上に横切る、未舗装の道、あるいは人の足で踏みかためられた道、あるいは雑草の生い茂る荒れた広場。そこを白い人物と黒い犬と灰白の犬はどうやら奥に向かって行く途中であるようだ。道の奥。絵の奥。そこには何があるのだろうか。シルエットが高く空に浮かんでいるあの大きな建物まで道はつながっているのだろうか。荒々しい不穏な風景のなかを彼らは行く。 けれども、彼らのおぼろげにうかがえる雰囲気や表情といったものからは、絵全体にただようような切迫した様子は伝わってこず、むしろどこか安楽としている印象をうけるのである。あるいはこの絵の場面は、道の奥、絵の向こうへ去りつつある彼らがふとふりかえって、それを見ている私たちにむかって、軽く別れの挨拶をしている。でも「また、ひょっこり帰ってきます」と言っている。そういう風にも見えるのだ。 ---------------------------- [自由詩]波打際の人魚のために/mizu K[2015年5月30日1時34分] トンネルぬけて山をぬけたら うみがみえるよ くずれかけた駅舎と 目を焼く砂浜 すぐ背後にせまるあおぐろい山々 線路に分かたれた 境界線のむこう ぎょっとするといいよ コントラストがはげしいよ 波がざっぱーん、ざっぱーんって 当たって砕けて壊している ボートの破片がぷかぷかぷか 波打際には人魚がいるよ 鳥にくわれた人魚がいるよ 人魚にバケツをかぶせられてしずめられて あやうく死にそうになった人が そのへんで青ざめて がたがたがたがたふるえているよ つりざおは飛んでいったよ おかしな擬音をくっつけて飛んでいったよ ちかくの岩礁には 二日酔いの人魚がたおれていて とおくの水平線までえんえんと うみの線路がつづいていたよ ---------------------------- (ファイルの終わり)