徐 悠史郎 2003年9月7日23時21分から2003年10月20日2時21分まで ---------------------------- [自由詩]境界蝕/徐 悠史郎[2003年9月7日23時21分] 私と声との隙間で咲くバラの思惟 半睡の岸辺で眼のように 眼……が 硝子空を夢みてうたい続ける 星と息の往還 ここから 土の裂け目が始まった 眼窩にまでさし延ばされた凪の水辺に 空の裏側に生えているポプラを真似た影のない 立ち並ぶ百三本の蒼黒い墓標 あかいもう一本のバラ 風は在らざる秋…西から吹き寄せ つ と在りはじめた私の茎めいた唇のすきまに 草土を戦かせながら這入り込む どこか で 硝子の割れる音。あかい 階調の切れ目・口から漏れ落ちる花びらの触を ひくひく 私の手のひらの肉はむさぼる ---------------------------- [自由詩]衝撃と恐怖/徐 悠史郎[2003年9月12日3時05分] 衝撃と恐怖 衝撃と恐怖、その名のもとに息、黒い閃光、白い闇が。立ち上がる……、……覚醒された声がひそかな肉上に影をつくり、その輪郭はやがて文字に変容する……そのとき風はあらぬかたを目指して零の地帯の上を吹きすぎた、友よ、尋ねることなく、その答をただ見詰めるだけの君の眼、風の中で塵さながらに舞っている君の答を見詰める君の眼は、世界と君との境い目で裏返しになっている。……口で……口で、追うのか、その湿った穴で。………、………だが乾いたその答はもう既に君の皮膚の裏で、言葉になって焼かれている……、……、……衝撃と恐怖、衝撃と恐怖……それはかつては夏のことば、……暑かった、盛夏の……まっさおに晴れ渡った空の一点に、アクリル硝子の瑕疵のように浮んだ記憶……、 ……衝撃と恐怖、今また私たち、……私たち、その名のもとに語られよ、口に白い闇をふくみ、眼に黒ずんだ光をともして。「私たち」よ、声よ……。届かない言葉を手にせよ……風はなにも知らない、千年樹もなにも見てはいない、ただ「私たち」が知り、「私たち」が見る……わたしたち、わたしたち……いつからわれら、二人となったのか……だがここにひとつの根が降りる、ここに樹のように降り立つ生と死は、わたしの重ねられた手のひらに息を留めている…… 土の裂け目。……、……、ゼロの 地帯。……疑いのない場所……そこから始める場所、否応なくそこで終わったという場所……ゼロの……地帯……うたがえ、ゼロのように、劫火のように……舌を舐める炎のように。……燃える喉でうたがえ……河原の小石が巨岩となり、その上にやがて苔が萌え育つまで……うたがえ、そうすれば終わる、終わる、……君よ、裏返しの君の眼は、空に振り子をゆめみる…… 夏。ふたつの都市。偶然といわなければならない…………あまりにも突然だったから…………衝撃と恐怖……黒い閃光、白い闇……そのとき流麗な爆煙が都市の上に立ち昇った。(記憶、しらない間に成長して人のかたちに夏から夏へ成長し雲よりもしろくかすれるきみの記憶は風になってどこかで……)零、とは、そこにあること、そこにあった阿鼻をいうのか。なにひとつなくなりはしなかった、かわりに新しいものが生まれた……家のかわりに瓦礫、草木のかわりに灰、人のかわりに炭、皮膚のかわりに糜爛、水のかわりに渇き、時間のかわりに闇、空のかわりに光、母のかわりに死、……、……衝撃と恐怖、白い闇、黒い光……しかしそれゆえ、子よ、あの日の爆煙は美しくなければならない。そのとき母は召されたのだから……衝撃と、恐怖……そのとき私たちの眼は世界の際で折り返し始めた、空と土は振り子の眩暈に沿って空転する…… わたしたち、わたしたち、……いつからわれら、二人となったのか。……ひとりは闇へ、ひとりは光へ……そしてまた入れかわるわれら……くらき淵より、その言葉を聞け、うたえ、そして輝く水の高みにて涙せよ                           ………………「主」よ 人になりかわり、自由と正義の名のもとに、その半旗を焼け、そのともしびを消せ、その闇を白くせよ、その光を黒くせよ、そのゼロを言葉たらしめよ……すべての剣は折るためにあり、すべての銃は棄てるためにあり、すべての憎悪はあなたのためにある。…………主よ、唯一にしていくつかの「主」よ、光と闇の名のもとに、そこにあるゼロの上に泥を盛れ、そして手ずからその泥で人をこねよ。そしていま一度そのものの身を焼け。 …………われら…………ふたり。それさえも試練の、真昼の酷暑。われら、われらであることに慟哭せよ、胸を蹂躙せよ、君が …… みずからを殺し尽くしたそのときそのままに。 …………家は誘導弾を狙って低空を飛ぶ…………ふたつのビルは旅客機めがけて突き刺さる…………ふたつの都市は二本の細長い爆煙を空に向けて垂らす…………わたしは死を捉える…………眼はわたしを追う、言葉が開き、口を語りはじめる、…………凱歌よ敗北せよ、勝者よ敗者に首を刎ねられよ、いま一度、焦土を爆撃せよ、真の敗北を岩のかけらから奪還せよ………… われら、衝撃と恐怖を息、絶やせ…… 衝撃と恐怖、その名のもとに生き、黒い閃光、白い闇が立ち上がる……、……覚醒された声がひそかな肉の上に影をつくり、その輪郭はやがて文字に変容する……そのとき声は君を目指して零の地帯の上を吹きすぎた、友よ。……尋ねることなく、その答をただ見詰めるだけの君の眼、君はどこにもいない。ただ風の中で塵さながらに舞っている君、……君の答を見詰める君の眼は、世界と君との境い目で裏返しになって君を見詰めている。……口で……口で、追うのか、その湿った穴で。………、………だが乾いたその答はもう既に君の皮膚の裏で、言葉になって焼かれているのだ……、……、……衝撃と恐怖、衝撃と恐怖……それはかつては君のためのことば、……暑かった、盛夏の……まっさおに晴れ渡った空の一点に、アクリル硝子の瑕疵のように浮んだ記憶……、 ……衝撃と恐怖、今また私たち、……私たち、その名のもとに語られるわたしたち……口に白い闇をふくみ、眼に黒ずんだ光をともして。「私たち」よ、声よ……。届かない言葉を手にせよ……そのときはじめて風は知り、千年樹はあまねく見届ける、ただ私たちはそれを知り、私たちはそれを見る……わたしたち、わたしたち……いつからかわれら、二人となって……だがひとつの根が語り始める、ここに人のように降り立つ生と死は、わたしたちの重ねられた手のひらにしるされるのだと。 もうこれ以上、栄えることなく。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]荒地にて/徐 悠史郎[2003年9月24日1時24分]  いま、北川透の『荒地論』を読んでいる。なにをいまさら荒地派などと。。。と思われる方も多いかもしれないが、WW?敗戦直後の日本において<詩を書くということ>の意義を、それを単なる個人的な創作への欲求や衝迫の側面からでなく、個人を取り巻く社会、さらにはその社会を、他ならぬ詩作者としての<個人>――それはなにはともあれ個的な創作への欲求や衝迫に駆られている者である――を否応もなく取り巻くようにして現前せしめた近代日本史(⊇詩史)の円錐の頂点として<いま・ここ>というかたちで捉えながら論求してきた荒地派の行動を見ていくことは、<詩において反戦する>という問題領域の中で詩について考えていく際に、非常に有効な足がかりを「わたしたち」に与えてくれるように思われる。  『荒地論』は1980年にひょんなことから発生した北川氏と詩人会議との論争を契機にして書かれた。ひょんなことというのは、「現代詩手帖」80年4月号での鮎川信夫と北川氏との対談に対する詩人会議の面々からの抗議や非難のことで(これは詩人会議の人たちからすれば逆に「ひょんなことというのは詩手帖の鮎川・北川対談での黒田三郎に対する否定的な言及のこと」ということになるのだが)、その詳しい内容については私がここで散漫に書くよりも、各々の原典をあたってみるほうが間違いがない。ともかく言えることは、このとき詩人会議との論争の中で浮き彫りにされた、というよりもむしろ北川じしんが詩人会議の抗議や非難を論的に破砕するために積極的に展開・披瀝した自己の荒地派に対する詩史的な<捉え>の目線が、この『荒地論』の中では分りやすく示されているということである。  詩にとっての戦後の出発点をどう据えるのか?――こう問うたとき、同人誌「荒地」の面々には、「詩」というものが、いかにも頼りなげな、はかないものであるかのように感じられたのかもしれない。いっぽう詩は本来、頼りなげで、はかない、幽玄(ほのか)な出来事ではあるのだろう。詩のことばは廃墟に佇む亡霊のようにたち現れ、またむなしく消え去っていくものだという風に言う人もいる。その是非はともかく、だが荒地派の思考のアクセントは「詩」にあるのではなく、その詩というものを今まさに書こうとしている「われわれ」の方にあった。本来的な<詩>、なるものについて論ずることよりも、「われわれ」にとっての<詩>、それがどうあるべきか、<詩を書く>というときに請け負わなければならない(と義務形で考えられていた)近代史において、その円錐の頂点に立つために必要なパワーポイントとして、詩はどのようなものでなければならないかという風に、荒地派の思考の水脈は流れていた。    The sense of danger must not disappear :    The way is certainly both short and steep,    However grdual it looks from here ;    Look if you like, but you will have to leap.    危険の感覚は消え去ってはならない――    道はたしかに狭く そして険しい    しかしここからだとなだらかに見えるだけ。    ごらん それもいい、でも君は跳ぶんだ                   (W. H. オーデン「跳べ、見る前に」第一連)  WW?後のイギリスにおける無気力と、因襲に緩慢に束縛された閉塞の中でオーデンが試みた跳躍の困難さについては、ここで述べることを省こう。それは今の私の手におえないことでもあるし、ここでは荒地派が「戦後」のイメージを確立するために援用したオーデン・グループやT. S. エリオットの(詩の意味での)行動が、荒地派の活動(もちろん、詩の意味での)の中に響かせていたものについて、端的に指摘するだけでよいと思われる。「have to leap」、跳ばなきゃいけないための、その跳躍の基点たる踵が接するべき足場をどこに<求めるか>。。。その希求のアクションが荒地派の詩的活動のすべてであり、その結果、何が足場として<見出されたか>が、日本という所与の条件のもとで詩を書くというときに、つまり現代という円錐の頂点に立つという醒めた(冷めた?覚めた?)意識のもとで詩作するというときに、是非とも振り返っておきたい地点のひとつだと、私は指摘したい。  上に掲げたオーデンの作品の題名「Leap Before You Look」(跳べ、見る前に)自体、英国の諺「Look before you leap」(跳ぶ前に見よ)を転倒したもので、いかにもイギリスらしいこの諺をもじることで、因襲への批判、揶揄、破壊、再構築への志向といったものが現れていると思う。この諺の本義は辞書によると「実行の前にまず熟慮。転ばぬ先の杖」となっている。「杖を手にするより前に転べ」?諺の諭す内容は違うが「石橋を叩いて渡る」をオーデン式にもじったら、「その石橋、叩き壊して渡りましょう」ぐらいになるのか。それはもはや<橋を渡る>という安全な行為ではなく、それこそ「危険」な跳躍になる。  荒地派がどんな具合に跳躍したかは個々の作品が示している。跳ぶときの足場については多くの詩論や論考が築地した。そしてそのうえで想定された着地点はどこであったか。。。同人誌「荒地」は長く大きな影響を詩に関わる人たちに与えてきた。じっさい、作品もいい。そしてなによりも敗戦という状況を踏まえて日本で詩を書くということについて、深く格闘し、しかも政治的言動や党派的活動に(少なくとも「荒地」解体までは)流されなかった。だがもう<戦後>にカタを付けたいという内的・外的要請の中で、荒地派は歴史化され、名作のように戦後詩を読むということがなされている。それはそれとして一つの現象として見るべきだ。だが、荒地派の活動は本当に、いまのわたしたちにとって用済みのものなのだろうか?そこで掲げられた理念や詩への態度は、もう不必要なものなのだろうか?  荒地派の活動は、例えばウィトゲンシュタインの梯子のように、打ち棄てられるべきものではないのではないだろうか。それはまだ入用な梯子なのではないか、という気がしないでもない。    ‘Oh, keep the Dog far hence, that's friend to men,    ‘Or with his nails he'll dig it up again !    ‘You ! hypocrite lecteur !----mon semblable,----mon frere !’    もう犬を近づけないように、あれは人間の味方    でないとまた屍体を爪で掘り返すだろうからね!    きみ!偽善の読者!――わが同類、――わが兄弟!                 (T.S.エリオット「荒地」より)  つまり、作中「きみ!」と遠くから呼びかけられるわたしたちは、この大文字で記された「犬」と、いままたじゃれあっているのではないだろうか。  北川『荒地論』に次のような一節がある。    しかし、綱領や規約や<一般報告(運動方針)>などで保証された、一つの    政治的共同性が、 批評対象に対する共同の評価をつくり出すとき、そこに    いかに文学的粉飾がまとわれようとも、政治的権威や時代主義的な心情が    生み出されるのである。(思潮社版65頁)  このくだりは詩人会議との論争において、北川が相手方の「綱領や規約」から抽出されてくる膠着した主張の内実について批判を加えている部分である。ここでの北川の立場がかならずしも<政治から自由な>立場なのではなく、党派の約束事として一般化された「綱領や規約」なるものから自由な立場なのだという点はひとまず押さえておきたい。そしてまた、<いま、日本で詩を書くということ>という問題領域において、私が北川のこの指摘(呼び捨てにして申し訳ないが)からひとまず抽出しておきたい枠組みは、次のようなものだ。  たとえばここに今、ひとつの<反戦詩>がある。この<反>の力場を構築し、維持するために使用されるさまざまな詩の素材のもつ性格は何か。詩作者は<反>の立場を取るために、一旦は反対の対象である「戦」なるものを、どんな形であれ肯定的に扱う必要が生じる。それはどういうことか。    滅びの群れ、    しずかに流れる鼠のようなもの、    ショウウインドウにうつる冬の河。                    (北村太郎「センチメンタルジャアニイ」部分)    死の滴り、    この鳶色の都会の、    雨の中のねじれた腸の群れ、    黒い蝙蝠傘の、死滅した経験の流れ。                        (田村隆一「イメエジ」部分)  いま、どちらも北川『荒地論』の引用からのマゴ引きをした(38〜39頁)。原典では他に三好豊一郎と木原孝一の作品の一部が引用されている。北川の指摘は、荒地派の見ようとしたこのような「戦後」の眺めが、一様に「ヨーロッパの戦後(とくにWW?後のエリオットやオーデン・グループにおけるそれ=筆者補)という、擬似戦後意識のフィルターを通してしかあらわれようもない風景」なのだという点に集約される。だがそのあとすぐに、こうした「擬似戦後意識のフィルターを通して眺められた戦後」を描いてしまった荒地派の面々を、「しかし、この側面を表層を撫でるように否定的にのみ(上二文字に傍点=筆者注)みることはできないだろう。どの詩的時代においても、支配的な時代感情や、それに対応した修辞的な流行現象を随伴させないでいることはむずかしい」と、きちんとフォローもしている。この荒地派同人に大小の差はあれほぼ共通して現れた修辞的現象を、北川はかいつまんで「「荒地」特有の修辞的共同性」と呼んでいる。  もちろん私は、北川のいう「修辞的共同性」一般が、例えば詩人会議の論客たちが拘束されている「綱領や規約」と同じようなものだなどとは、口が裂けても言わない。荒地派がその成り立ちから不可避的に獲得してしまったあれら「修辞的共同性」と、なにか党派の<中央>あたりから回覧されてくるような性質の「運動方針」とでは、その出自は、全く、根本的に違うものである。見た目ちょっと似てるような感じはするだろうが、この区別については、いま、強調しておきたい。なによりも「荒地」同人たちは、<時代のなかで、自分の言葉で書くこと>のために、苦闘してきたのである。  ともあれ、私が上記引用の二片から言っておきたいことは、ここでは戦後風景はまったく否定的に、絶望的なもののように取り扱われてはいるが、しかし、詩としてはこの風景は非常に肯定的に(つまり、いってみれば効果的に)描かれているのだということだ。  荒地派は、大きなくくりでいえば「現代文明」への批判的関与を出発点としていると言って差し支えないだろう。    ところで、<荒地>の詩的共同性が現代文明を<破滅的要素>において、    <亡びの可能性>においてとらえるとき、そこに同時に、そのような文明に    対する反逆的意志が強調されるに至るのは、論理的必然というものである。                                    (北川『荒地論』43頁)  現代文明に対する「反逆的意志」がどのように現れたのかは、個々の作品内部において示されていた。それについては多くの論考がある。彼らが具体的な反戦行動(なんども言うが、詩の意味での)を取ったかどうか、実のところまだ調査不足でなんとも言えないが、ただ、『死の灰詩集』に対して鮎川信夫が(まさにみずからが拠って立つところの「荒地」という視点から)「ぜったいにアンガージュしない」という立場を貫き、また批判的に言及していったということからもうかがえるように、この「反逆的意志」という志向性は、(同人誌「荒地」が解体したあともなお)強固で、徹底したものであったということはできるだろう。  さて、なによりもまず<時代のなかで、自分の言葉で書くこと>。むろん反戦詩も、そのような絶対条件からまぬがれることはない。反戦という立派な社会的行動をしているからといって、多少弛んだ詩を書いてもいいということはないし、正義や愛(この「人間の味方」たち!)に胸いっぱいに駆られて、自分が思ってもいない、感じてもいないことを書き付け、書いたことをさらに捉え返して一層深く追求していくということもないままにそれを「作品だ」と称することも許されてはいないだろう。ちなみに、「思ってもいない、感じてもいないこと」を言語化することでも作品は成立する(と思う)。だから、そのような性質の詩を書いたからといって「思ってもいないことを書いてしまった。。。」と、悩んだり、罪の意識に囚われるようなことはしなくてもいいと思う。  詩作者が<反>の立場を取るというとき、それは必然的に反逆の対象と拮抗する態度を取るということであり、その反逆や対抗のステージを、少なくとも一度は承認し、その相手を認めなければならないということである。このとき反逆や対抗の原資になるものが、例えば荒地派についていえば<戦後>の先輩であったところのエリオットやオーデンたちであった。英国のいわゆる「引き裂かれた世代」の思想や詩的イメージを、戦後日本の詩風土に無媒介に移植してくるという行為については、事前の批判的検証の必要があるし、また現に荒地派内部においてもその作業は(彼らが手にした「空白」という詩的遺産からどのように詩を立ち上げていくのかという苦闘の中で)行なわれてもいる。  ではまた、例えば<いま>、日本において反戦といういわば“土俵”に上がり、詩を立ち上げていこうとする、というような場合、そこに用意される原資とは、どのようなものになるのだろう。たとえばここに今、ひとつの<反戦詩>がある。この<反>の力場を構築し、維持するために使用されるさまざまな詩の素材のもつ性格は何か、という問いが、まさに反戦しようとするそのとき、突如横合いから起こってくる。この問いなくして、反戦詩は具体性を持ち得ないだろうし、ただ単に思ったことや感じたことが深められ、作品に再構成されていくということは起こりえない。  もしこの問い、いくども繰り返されなければならないこの問いを欠くとき、反戦の原資として用意されるものは、(国権の発動たる国際紛争に巻き込まれていないという意味では)平和このうえない日本の、そこらへんに散らばっている緩慢な自由、虚飾をまとった正義、被抑圧者を顧みたがらない平等、相互不信を拭う気を持ちあわせていない愛、「反戦じゃなくて脱・戦争だ!」というあまりパッとしない思いつき(可能性は感じるが)、そういったものの寄せ集めになるだろう。こうしたものが、なんの疑いも問いもなく、無媒介に詩の中に嵌入されていくだろう。  自由や平和を喜ばない人はいない。そして誰もが愛を欲し、平等であることを求め、自己の行ないの正しからんことを願う。だがそこに問うことや捉え返すということがなければ、それは、はっきり言おう、そこに何の疑いもさしはさまないという点において、どこかの、なにか党派の執行部が回覧してきたお仕着せの綱領や規約、窮屈な運動方針といったものと、さほど変わりはなくなってしまうだろう。このような場で製作される反戦詩に生彩がなく、現実感がなかなか伴わず、どうかすると教科書のような平和や正義に流れていってしまう傾向があるのは、むしろ当然のことだ。  いくども問い、疑うということ。疑うというのは、もちろん邪推ということではなく、いま目の前に広がっている常識や定着した観念を、もういちど真剣に、真摯に、強烈に見直し、捉えなおすということだ。また、既得権益や役得に伴う利権を温存したまま行なわれる「抜本的な改革」などというものでもない。だからそれは時と場合によっては体制転覆(この不穏な言い方がまずいのなら体制の「更新」、大規模リニュ、ぐらいに言っておいてもいいが。。。)をも視野にいれる営みともなろう。かつて、この危険な問いを封じ込めるために「グラウンド・ゼロ」が措定され、それはほぼ政策的に承認されている。ここでわたしたちがするべきことは米国政府を非難することではない。消防士と肩を組むジョージ・W・ブッシュJrさん(57)を非難したところで、湾岸戦争で油まみれになった水鳥を憐れむぐらいのことにしかならない。この場合わたしたちは、すべての問いと疑いを封印し、そのなかでなお問いを解き放とうとする自由な精神を白眼視し、疎外しようとするファシズムを、批判するべきである。  そしてまた、荒地派も戦中から戦後にかけて発生したひとつのグループ(ただし、後進に大きな影響を与えた)に過ぎない。そこで現れた数々の主張もまた、問いの対象であり、現在という円錐の頂点から、いや逆に現在を円錐の頂点と意識するには、それもどんな円錐にするかという問いの水脈を含みながら、批判的に、飽きることなく幾度も捉え返す必要があると思う。なぜなら荒地派の経験の中には政治的暴圧体制への非妥協的な姿勢の固持や、『辻詩集』参加者が戦後になってどんな納得のいく申し開きもなく『死の灰詩集』に関わるといったような欺瞞への拒否の精神があるのであり、これに類似した状況が今後も二度と起こらないとは限らないからである。  これは周辺状況への問いということにとどまらない。むしろ状況において振舞う自己自身への、なによりもまずなされるべき問いでもあろう。そしてまた、このエセーへも加えられるべき。。。  北川透『荒地論』を、私はまだ読み始めたばかり。引用や言及が本の最初の方に限られているのはそのためだ。もののついでにこの本の最初の一行を引いておこう。    なんとも息苦しい、いやな気分だ。  その後に入沢康夫と谷川俊太郎との対談が引き合いに出され、北川の次のようなぼやきが入る。    わたしのいやな気分というのも、この入沢の感想と重なる。ただ、彼の言う    《「ちょっとやさしくて」「ちょっと悲しくて」「ちょっとはみ出して」、結局うんと    保守的で、本当にはみだした者には惨酷》な時代がきているというのは、別    に詩の世界に限らない。《目の敵》にされているのは、ものを根本から考えて    いこうとする態度であり、既成の規範の拘束力を断ち切って、自由な発想や    思考をしようとする態度についてでもある。  これは今からおよそ20年ほど昔に書かれた文章だが、その頃の北川氏(あんまり呼び捨てにすると悪いような気がして)の心境や雰囲気のようなものが、なんとなく伝わってくるような感じがした。  「本当にはみだした者には惨酷」だった1980年から23年を経ていまは、どんな感じを北川氏や入沢氏は持っているのだろう、などと思ったりもする。  『荒地論』を読み進む過程で、私の考えもまた、どんどん枝が伸びますように。それから他のいろんな本についても。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]荒地にて1.5/徐 悠史郎[2003年10月4日16時39分] 1.5 「掛け値なし」だかどうか分らないが、私の荒地のイメージをいえば、それは色のない世界で、そして是非とも生命的なものの残骸がそこに現れていなければならないというものだ。<まったくなんにもない>というのでは、かまやつひろしの唄(ギャートルズのエンディング曲)にイメージが近付いていく危険があり、荒地としてはお奨めできない。 最初は「火星かな。。。」とも思った。ヴァイキングやマース・サーベイヤーが電送してきた例の赤茶けた地面。それは地面であって、大地というには少し無理のある<そこ>だった。だが火星表面の、限定しておくべきだが探査機が着地した地点における、あの赤茶けた色彩に、私は地球的な意味での可能性や躍動感のようなものをどうしても感じてしまう。ヴァイキングの電送写真を新聞の一面で見たときの第一感は「あ、やっぱり」であった。まったく、殆ど想像どおりの火星表面が、そこにうつし出されていた。(中程度の宇宙少年であった当時の)私は、もうすでに火星には地球の目線が到達しているかのような感じを抱いてしまった。 私の望みは金星、そして木星の衛星であるガニメデ、カリスト、イオ、エウロパ、または土星のそれであるタイタン、海王星のトリトンといったところに移ってしまった。 そこに私がなにを見たいのかというと、地球の意味での生命と比較すれば、おそらくいびつなのに違いないそれら衛星の固有の生命現象に内包されていると期待される、地球的生命論理を批判しうる太陽系の斜視的な角度なのである。 (ここである種のトランス的な宇宙、または太陽系の倫理を超えた宇宙倫理にまでイメージを拡大することは避けたい。そのような視座を詩に持ち込むことは、痛ましい同語反復をしか生まないであろう。) タコ型宇宙人。。。ウェルズによって想像された火星の住人のイメージは、実は地球を批判しうる太陽系の視点ではなく、飽くまで地球の論理によって仮構された、地球型生命体であった。彼の想像力は、地球の重力圏を脱しきれなかったのである。11Gオーバーの推進力を可能的に孕む想像力が、荒地をイメージする際にはひとつの鍵となろう。詩人は地球にいてはならない。何年か前のアコムのコマーシャルの彼らのように、<ちょっといま地球に来てる>状態でなければならない。 こうしたかたちでの地球人感覚を日本語によく定着しえているもののひとつに、谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』の冒頭に掲げられている数行がある。引用しちゃう。 そして私はいつか どこかから来て 不意にこの芝生の上に立っていた なすべきことはすべて 私の細胞が記憶していた だから私は人間の形をし 幸せについて語りさえしたのだ 私は個人的には、この詩集『夜中に……』とピーナツの翻訳以外は谷川氏のワークスは基本的に嫌いで、彼の詩の大概は偽善の産物と思っているが、私が谷川の仕事に偽善を感じる理由の根が、この数行に端的に現れている。ここには生活者の浅薄な疎外感ではなく、かろうじて地球と社会契約を結ばない限り生存すらおぼつかない<……人>の悲哀が現れている。おそらく彼の命の重みは、他の人が地球一個分なのに対して、二個分だろう。そしてそのような二個分の独我は彼が詩に踏み込むことによって<地球>と<反地球>に対象化され、結果、彼の命の重みはアインシュタイン理論(古いが)によって一条の光芒となり、重量としてはゼロを刻むことになる。 「私」がふいに出現したときのこの「芝生」を、荒地と言ってもいい。 <一匹狼>あるいは<無頼>、あるいは<二丁拳銃>的なガンマンの<荒野>は、アウトサイダーでありながら銃弾の供給や馬の飼い葉を<町>に頼らざるを得ない、皮相的な、いわば<未開に向けて開けた引きこもり>を演出するための舞台装置でしかない。私たち観衆はむしろ、荒野の中に彼の孤独を見ているのではなく、彼の肉体の内部に荒地を見出している筈だ。それが外形的な西部の荒野の表象に溶けて行ってしまい、そのまま取り戻せないとなると、悲しい。そうであってはならない。 いいかえれば、彼ガンマンは<町>の視座からすれば単なる<アウトロー>だが、彼じしん、つまり私たち観衆の感情の移入先の肉体から発する声にしてみれば、それはとんでもない言い掛かりで、ローはローで守ってくれればいい、だがオレはほんとうはそんなものと関わりがないんだ、という意識が、詩人のかすかな絶望と一致するのだ。こうして酒場で飲み干すショットが喩えようもなく喉を癒し、荒地に一瞬の芽生えを生じさせる。そしてガンマンはこの芽生えが芽生えの瞬間と同時に消滅していく様子を、快感として胃の底に感じるのである。 町と町を結ぶ<道>やそれを取り巻く<森>、西部においてそれは<荒野>であった。この秩序と混沌、法と無法、地球と非‐地球の比較検討は、荒地のイメージ確立のための(他愛のない)一助となるかもしれない。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]荒地にて2/徐 悠史郎[2003年10月4日23時39分] 2  さて、真摯に強烈に問い続けるという姿勢を堅持するというのなら、前回私自身が書いた次のような部分は、それこそ捉え返されなければならないだろう。    もちろん私は、北川のいう「修辞的共同性」一般が、例えば詩人会議の論客たちが    拘束されている「綱領や規約」と同じようなものだなどとは、口が裂けても言わない。    荒地派がその成り立ちから不可避的に獲得してしまったあれら「修辞的共同性」と、    なにか党派の<中央>あたりから回覧されてくるような性質の「運動方針」とでは、    その出自は、全く、根本的に違うものである。見た目ちょっと似てるような感じはする    だろうが、この区別については、いま、強調しておきたい。なによりも「荒地」同人た    ちは、<時代のなかで、自分の言葉で書くこと>のために、苦闘してきたのである。  実際に私というひとりの人間が一個の作品に接するときに感受することができるのは、そこに現れている一個の作品がもたらすもの以上にはなく、そこに現れているものがすべてである。荒地派の詩人たちが状況の中でどれほど苦しもうと、悩もうと、喪おうと、それは一個の作品に接している私には全く関係がない。一個の作品に向き合う、そのフェイスオフの瞬間において、その作品の「出自」を問うなどということほど無粋な読み方もないだろう。実際問題、そのような読み方は非常に難しい(というよりもやったことがないのだから難しいともカンタンとも言い切れないのだが)、高度な感取力を必要とするのではないか。ひとつの作品を巡ってあれやこれやと考えていたとしても、「じゃ、もう一度読み返してみよう」と思って作品に接し直すとき、あたう限りまっさらな心的状況で作品を読み返そうとする。(…注1)  この限りにおいては、例えば私がそのように<まっさら>に荒地派の作品に接しようとする場合、その作品の作者である「荒地」同人の「苦闘」や「深い格闘」などといったものは捨象されていて、視野に入ってこないのだということができる。そしてこの位相において詩を読み取ろうとする限り、荒地派の諸作品に見られた修辞上の共通性は、ときに党の「綱領」や「運動方針」と同じような断面を作品の中に曝すのだということを、見逃さない方がいい。いや、この位相においては、つまりほんとうに私が詩に接しているときには、その断面すら意識されない。詩というのは、それは人間がこさえたものには違いないのに、その中で当の人間がなにがしかの<判断>をするということができない。既に私は「荒地」に<派>という接尾辞を付けてさんざん書いているが、本来ひとりひとりが毎日をなまなましく生きている中での詩の営みの集合である「荒地」に対して、なんらかの白黒の判断を下し、<派>というくくりをすること自体がおかしい。ほんとうに詩に接し、そしてなんとか無事にその中をくぐり抜けおおせた後にかろうじて白黒言いうるとすれば、それはその詩が<好き>か<嫌い>かということぐらいのものだろう。「荒地派」とある種の<政治的党派>とが「同じようなものだなどとは、口が裂けても言わない」どころか、そんなことは初めから言いようがないのである。  唐突だが笠井嗣夫を引こう。    詩にたいする私の態度は、たったひとつしかない。すなわち、愛することと、生きること。                  (『現代詩手帖』2003年5月号「共犯幻想あるいは逆さの鱗」より)  この態度の取り方は、上に書いた「ほんとうに詩に接し」ている状態と一致するものだ。ここで言われている「愛」の性質(同時に私が言っている「ほんとう」の性質)は、このエセーの題名の中の語彙「共犯」が示唆するとおり、略奪性のそれであり、非ルネッサンス的でありまた、ボードレール的な悪を双子の弟に持つような性質の愛である。この笠井氏のエセーは堅実な文体でかつ面白く、分り易いので、ここでいう「愛」の詳細は原典を読むことをお奨めする。だがここにもう少し引用しておこう、    詩を書いている自分への愛だけでなく、自身をこえた存在としての詩そのものへの    愛がもっとほしい。他の詩人たちの作品をまず過剰に消尽し、惑溺し、詩を生きて    ほしい。ということで、愛と生なのである。ナイーブすぎると笑われても仕方がないの    だが、結局のところ、詩を愛し詩を生きること以外になすべきことはない。(同)  このエセーが掲載された『詩手帖』のこの号は「読者」がテーマなのだが、ここでの笠井氏は、言ってみれば、“読者と言うより前にまず自分自身が詩を読む者となり、詩を味わい尽くせ”という風に、作品の送達先である<あなた>よりも前に、読者としての自分自身を徹底させる方が先決だと述べている。つまり、「読者」とは徹頭徹尾<私>以外にありえないということである。これはもちろん、詩なんか書かずに読むほうに専念しろ、と言っているわけではなく、作品の受け渡しという相互的な関係形成の過程で生起してくる“詩”という事態においては、授・受それぞれの主体はそれぞれが独我としての<私>という性格でしか現れ得ないということを言っている。「愛と生」、つまり、詩とはお互いが分り合ったり分かち合ったりする場所ではない。お互いが犯し、越境し、破綻し、再生し、変容し合うための、動的な状況である。  ともあれ、かかる状況下、言い換えれば「愛」または「ほんとう」の位相において、「しかしこのとき、読者は批評家とイコールでありうるか」という捉え返しが笠井氏によってなされる。    だがそれとは別の問題がひとつある。愛しつつ、共犯しつつ、犯し合うのが作品と    読者との望ましい関係であるとして、しかしこのとき、読者は批評家とイコールであ    りうるか。愛と共犯のみでは批評は成立しないのではないか。批評のことばとして    表出される場合、いかに熱っぽい愛を動機としていようと、批評は作品に対して、    それぞれに真摯ではある詩人のモチーフをあっさりと裏切る読みを提示することに    より、侵犯や抑圧をもたらさずにはいられない。侵犯や抑圧がまったくなければ、    批評とは名ばかりで、たんなる称賛や鑑賞にすぎないものになってしまうからだ。(同)  「たんなる称賛や鑑賞にすぎないもの」と遠まわしに言われているのは、私の読解に間違いがなければ、「詩人がほとんどの批評家を兼ねる」日本現代詩における批評の一般的状況――あまり好ましくない――を指している。自分もまた詩を書くということから来る手加減の入った手ぬるい鑑賞や称賛などは、詩という愛の蠢きにとっては毒にも薬にもならないし、逆に「それは愛のない、きわめて無機的な論理の展開か、さもなくば見かけだけ批評を装った芸談にすぎないだろう」。(…注2)  「みずからは詩を書かない批評家たち」の「冷徹な手により袋が外部から切り裂かれる」ことがない限り、詩はその作者どうしが形成する小さなコミュニティ内部でのやり取りに終始奉仕することになり、今以上の広がりを持つことが困難になる。こうして<現代詩>における「自立した批評家」の不在が嘆かれるのだが、このように見ると、笠井氏が訴えようとしている愛としての詩の関わりの世界は、非常にタイトで、禁欲的でさえあるということが見えて来る。  (ここで笠井氏が言及している諸問題は飽くまで<現代詩>の読者、より狭く言えばそれは『詩手帖』購買層を念頭において書かれているということについては留意しておかねばならない。詩にまつわるものに関係する一種の<マーケット>は多様だが、そのひとつとしてインターネットが挙げられる。そこにはまったく周知のように、従来とは多少異なった属性をもつ大めの<数>の人が、<私>が書いた詩の<読者>となる可能性予備軍としてやや厚めの層を形成している。ただ、事情が変わらないのは、詩が単純に<目を通される>ということとそれが<共犯的に愛し/愛される>関係を獲得するということとの間にある厖大な距離の存在だろう。いささか批評的に述べれば、笠井氏の「愛」や私の「ほんとう」の文脈において、(語られることなく)示されている詩の姿は、本来的には層としての読者獲得戦略、つまり<マーケティング>の対象としては相容れないものなのではないか。ただし、本来そうでなくとも実際上はそうなってなんら不都合がないというところが、詩の融通のきく点だ。そしてこの融通性は両刃だろう)  「〜である」あるいは「〜とは何か」。すなわち「〜を〜たらしめている当のものは何か」といったソクラテス的な知の方法の誘惑から逃れることは難しい。だがそれは哲学の方法なのであって批評の方法ではない。まして、詩が普遍などと、いったいどんな関わりがあるというのだろうか。もしあるというのなら、徹底して主情的な立場に立つことは不可能だ、そこにはどうしても客観が入ると私は言いたい。  私はここで、批評とはどうあるべきかについて、つまりその意義について積極的に述べる積りはない。批評など、読んで面白ければそれでいいと思っている。批評が冷徹な眼で詩を見据え、作品の「愛」に頓着せずにそれを解体することで新しい視野を開いたとしても、その開示された視野がつまらなければ、私にしてみればそれはよくない文章ということになる。また、詩の愛にまみれた賞賛めいた文章についても同様だ。「これいいよ、読んでごらん」で済むところを、なにもいちいち「私はこの部分で感動しました」あるいは「この行に触れたとき私はこんなことを思い浮かべました」といったような報告をされてしまうと、逆に興ざめしてしまうことのほうが多い。感想であれ称賛であれ鑑賞であれ、よい文章は作品と執筆者とのバランスの取り方がうまい。作品の中身についてはあまり触れずに示唆するにとどめ、むしろ詩人とその詩の成り立ちや背景などをコンパクトに伝え、あとは相手にまかせる。これ以上踏み込むと擬似的批評の領域に入り、お互いがなにかすっきりしない中途半端な結果を招く可能性が高くなる。もちろんこういった中途半端な領域をうまく切り盛りしながら面白い文章を書くということも可能ではあるだろう。雑誌社の出版物などで、その本を買わせるように仕向けるタイプの<評>などは、そういった方法や文体を意図的に択んでいると思われる。(オンライン環境で取り交わされる<レス>については、ここでは言及を省く。)  話が少し流れたが、言いたいのは、一篇の詩に「愛」的に、「ほんとう」に関わったときの純粋な感動や感慨を、あらためて別の文字にうつしかえて見せるという行為には、ある種下品な衝動が絡んでいるように思えてならないということだ。このお品のない衝動がそれでもなお断ち切り難いとき、それを放出するために、おそらく文芸人士は<批評>という方法を発明したのだろう。それは感動を押さえるがゆえに冷徹にならざるを得ず、しかも一旦そのやり方で始めてしまった以上後戻りもできず、その無感動路線を突っ走るほかなくなった、非情の文芸であろう。しかしながらこのように作品に正対する立場に立つことによってのみ明らかになるものが確かにあるということは、批評にとっての名誉だ。(…注3)  そうして書かれた批評からは、作品単体から感取できるものとは別種の感興があり、それが読者にとっての批評の第一の価値ということになっている。そしてそれが個人的な価値にとどまらずに、一定の社会的融通性と一般性をも帯びるという所に、批評の意義というものが認められる。批評的観点からは作品対読者という単一の(そうはいいながらそれは時としてゆらぎを伴う)コンテクストから“詩”を一度引き剥がし、そこに別種の、複数の視点の照射を試みることによって、作品の新しい価値をそこに見出すということがある。そのうえで再び読者に戻された作品において、読む者はまた違うゆたかさを孕んだ共犯関係を築くこともできる。  例えば北川透『荒地論』が示し得た戦後(詩)の<劇>は、戦中において政治的抑圧を受けたモダニズムの「全面的崩壊」と敗戦後のその厚顔無恥な蘇生という風景の中での「荒地」同人たちの苦闘の物語であったと読み取ることができる。観念へ昇華していきつつもなお身体に傷痕を残す語彙を駆使し、同人において最も「荒地」的であったと称される田村隆一と、戦前〜戦中にかけてのさまざまな思索を経て「荒地」に到達し、荒地派の観念的な戦後意識の領野から「素手」で戦後という<生活>の現実への回帰を企図した黒田三郎の二者を荒地派の詩表現の両端と捉え、さらに戦後の絶望感からの救済に宗教的浄化のイメージを重ねた三好豊一郎、<死>と<やさしきもの>との狭間に詩の声を聴く北村太郎、そして戦時中、政策的プロパガンダに関与しながらも「荒地」に自らの表現の場を見出した木原孝一や中桐雅夫らの詩的営為が、そこに詩という表現の形を取って現れた。そしてそれらの多彩さを包括し、統括する役回りを担いきったのが鮎川信夫であった。荒地派のマニフェストとして読まれている『Xへの献辞』は無署名だが、おそらく鮎川の手になるものであろうと北川氏は推察している。  いっぽう、荒地派のイデオローグとしての彼ではなく、一個人としての鮎川の詩のなかに、北川氏は「自己放棄が自己救済でもある回路を断ち切っている」という異常な、「独特」な形での「放棄の構造」を見出している。  自己放棄が自己救済に繋がらない――これはどういうことだろうか。鮎川信夫に関してはまた稿をあらためて書いてみたいという思いもあるが、ここで北川氏の論考を参考にして、少し私なりに書いておきたい。まだなんとも言えないが、このテーゼには重要な問題が含まれているように感じられる。  戦中の詩<精神>の全面的崩壊をまのあたりにした結果生まれた「荒地派のラジカルな否定力」(=北川)は、必ずしも詩そのものの新しい生きた領野を切り開かなかっただろう。それは例えば田村隆一の繰り出した錐揉みのような観念的語法によっても、黒田三郎が試みた「民衆」また「俗な市民」的な生活感覚への接近によってもなしえず、その後の日本社会の経済復興やそれに伴う日常生活の相対的安定(だが、誰の?)とパラレルな関係を持つかのように現れた「感受性の王国」(大岡信)といったような、言語のリアリティを社会的コンテクストにおいてではなく個人の身体感覚に求める動きになしくずし的に取って代わられたからかもしれない。あるいはそれは仮構された「擬似戦後意識」を活動の始発点に据えた荒地派そのものが当初から内包していた限界であったかもしれない。どちらにしても私には、ヴァーチャルな戦後を全身で生き抜き、それをある意味では最も人間的に体現しようとした鮎川信夫の中に、なぜだか、疲れ切った現在という<日本>を見るような気がするのである。  鮎川氏が浦安のディズニーランドを手放しで賞賛したということ、また彼が死んだのがスーパーマリオの裏技をやっている真っ最中だったという事実は、私には象徴的に感じられる。ぜんたい、鮎川信夫は作品のなかで何か目新しい発見をひけらかすというような印象があまりない。思想をそこで述べるという感じもあまりなく、思考の断面をさらすという感じもない。むしろそういった思想や思考をし終えた人間からする、人間を冷ややかに見据え切ってしまった目線の呈示以外に、なにもないのではないかという感じがある。  さきほど鮎川信夫について、「荒地派のイデオローグとしての彼ではなく、一個人としての鮎川」という表現を用いた。荒地派にはこのように、<派>としての理論と個人との乖離があり、またそれは詩という独特の土壌のもとで恐らく彼らの内部で奨励されていたのではないか。どんなに縛ろうとも縛れないものが人間の中にある。いっぽうでどんなにもがいても逃れ得ない社会の中に人間がある。この与えられた条件の中でなによりも“詩”を生存の価値とするとき、荒地派の<解体>という事件はむしろ、荒地派そのものの存在証明であったろう。解体することによってしか、彼らは荒地を手にすることができなかったということもできるのだ。  どんなに縛っても縛りきれない人間の本質とはなにか。詩によって手繰り寄せられたその“本質”なるもの、そのあらゆる望みがもはや過去としてしか捉えられないという状況を呈している鮎川信夫の詩の中にこそ、私は荒地を見る思いがする。もはや明日を見据えてしまった、灰燼のなかの「泥の眼」を。。。 (注1)あたう限りまっさら。。。ほんらいの、完全な「まっさら」という状態で詩を読むということは不可能だろう。はんらいの意味でのまっさらな状態の中では、詩自体が成立しない。 (注2)こうした見解に関連するものとして、柏木麻里「書法論―文字列・画面・重力について」(『別冊GANYMEDE』「詩と詩論」収録 2002年8月 )がある。この論考は柏木氏のウェブサイト「薄明の果実」でも読むことができる。 http://homepage2.nifty.com/dawnfruit/shohoron.html (注3)これは強調するが作品単体が読み手に与えるものとは別種のなにものかである。しかしながら個々の作品には、それを書き残した(、まさに書き残した)詩人たちの生きた痕が刻印されている。『荒地論』はその刻印に光を照射し、それをあらためて浮かび上がらせたに過ぎない。そしてそれこそがこの書物の名誉なのだと言うべきだ。 ---------------------------- [自由詩]うねび/くちかげ/徐 悠史郎[2003年10月13日3時01分] うねび/くちかげ うねび くちかげにささやぐ め(う)み の 床下に落ちた砂浜、 まうむ、あうむ、みむ、 扉で裏側の思惟が 深くふかくきしっている 傾いた百合…… うつわに水は ときを湛えてふるえ まうむ あうむ みみ そば寄せて葉脈の したしいささやきを 受けとめる ( ぼくの   (ほ の            /              )渇いた(ほし 硝子境界…… で…… 受けとめる 手で隠された手 、、目の かなたの いまきみは・うねび・砂・おとし たそがれどキにとびたつ おん もムへと(まうム、あうム、ふかく、 オん、よる、み…め…… (ゆうぐ…… ---------------------------- [自由詩]Opus i <ffffff>/徐 悠史郎[2003年10月20日2時21分] それでも闇は………………浦にたたずむ           …………しろがね/くろがね                       (犬の…………     みる    、 ……………………、 と、………………、…………、                    最後の一羽をのぞいて) 鳥はやがて すべて自らの羽ばたきの裏に向けて渡っていく 広大な冬ののち いま一度かれら あいまみえるとき それらのくちばしの鋭度は もう落日の方向を夢にみている 眼(敷かれた石の)     子午線で(燃えた)         停止した(泥)             眼球(だから影はそのものに重なり                 みえなくなる  さざめく 霧、マジェスティク          13(使徒 桐 あめ、    、つ、 あめちぎる(音     い  ぬ (ついばむ) 樹 マジェスティク/樹。像が途絶えて・丘へとのびる 北壁、咄嗟の 泡。 肌から夜へエコーする音は 鳥たちに啄ばまれ              ている …… )                     (それでも闇は           …………しロがね/くロがね…………             (浦、のくち           語りべの 手のひらに刻まれた          文字………………                   ………………レ(その音は 語りはじめる)  ………………この私のつとめ、        すでに不幸であること        朝が終りを告げ        在るという闇に光はたちかえる        さざめく霧        背後に切り開かれた入口        光芒……あなた以前にあったもの        それは既に葬られた        土に土のようにして盛られた        ありとある私の        あなたの腐臭(いき………………           あ、 なた  の 鳥、……………………           受精、……………………                      、……雨。              視界の頂きに群れる鳥たちが その様子を注視している やがて囁き声で一羽が祈りを唱え それを合図に鳥たちは一斉に浦をめざして飛び立つ ただ一羽 最後の 盲いたものを残して。  声           「ただひとつの    (そのものは            音を求めよ     (となえる            風         (ひらいた目の口で            創られたもの    (なにも指し示さずに            そのうちに……………鳥はなにものも目指して                  はばたき 飛び去る              恵みの前・後の土のうえに          かすかな爪痕をのこして          それは文字となる 文字…… …爪… と ……)(痕                  、犬) とおくで (床)ゆか いっぱいの 眼 虫たちの いっせいのまばたき・みひらき(それでも闇は 俯瞰する午後 きみの背中に 影を象ろうと ……………………子          ……………………虚                    、く(血)…………。        蝶が名をかえて胸の中を透いていくとき、かしいだ音の                         疎外(口、ち)、                雨は、13…月の沼に立ち尽くしていた                         ひ、つき(いる/                    まな、つき(い/              くぐ、みつき(さむ/        え はむつき(さ/ かや、ほんとうの ことをいおう おウォる 街は人たちの肉でいっぱい ぴの雨でいっぱい あなたの遅れた悲鳴でいっぱい なび、せ なび  (みどりの豆の 花にとまるな)街かげにひっそり立ち尽くした はぬるは ……せ せ なびや……はなばなと 夢をくぐるようにして 無心に越境する っこっ、こっ(と)こえの しろかった花の分泌/まっすぐな髪の 分かれ目、草原と空の わかれめへと 空白の大地を塗りこめる(それでも 闇は浦にたたずみ …… )それでも闇は 浦にたたずみ いまいちど枯れた樹木に芽ぶきを接木しようと…… 遠吠えする犬と霧。高層建築の 萌えた大脳、ひり 文字は岩礁に刻まれている そこからは見えない…… 呼び止められた四足の獣は 「何」に似ることなく 私のように ぜろ、 萌えきった芽に啄ばまれていく……     (だから言語野いっぱいに  脳 とおく・はざま     ページと砂の合い間で すべての片翼の鳥は(いま)        一本の線になった          咽喉の奥に突き出た              ペニンシュラ、視界の                  横に 灰色の 塩でできたトルソと     並列に。(上空で鳥たち        (の在りし日の嘴が       (世界線を俯角に越えて      (壁 咄嗟のめまい、死火山 ……………………、 と、………………、)                    闇から 膜へ うら、に敷き詰められた眼球の高い稜線を かすれた手がくぐり抜けていく きみの肉字体/半島 地に堕ちた芽吹き 「生まれたときに挿された」 を硬く 手に。 ---------------------------- (ファイルの終わり)