前田ふむふむ 2009年1月28日22時47分から2017年7月10日21時23分まで ---------------------------- [自由詩]白いみずおと      /前田ふむふむ[2009年1月28日22時47分] シャボン玉のなかの、人気の無いシャッター通りを くぐりながら、眠れない半分の顔は暗闇の書架を見上げた。 玩具の戦争が終わったら、地平線のうしろに隠してある 重油の山を売り払って、腹が裂けるまで魚を食べよう。 竹槍は、その時まで発狂から古井戸を覗かないための、 みずで出来た点滴。とても奇抜に出来ている。 復員――忘れ去られようとしているものに鋏をいれる者たちよ。 君の右手についているものは、何だろう。 わたしの右手にも刺さっている。 賑やかに街中をいく女子中学生にも、 随分としゃれた注射針がついている。 入口が閉ざされて、悉く、窓が内側から封印された灯台が、 海鳴りを抱いて。海は動かない。かもめだけが新しい。 頚椎に真夏の花が咲き誇っている。 花のにおいを嗅ぐ度に眩暈をおこす。 マスクは外せない常備品になった。 着飾った人形だったかもしれない。 それは、バベルのような尖塔がもえていた――朽ちた喬木を抱えて、 右往左往した研学に酔った日がなつかしい。 遠い声にみちびかれて、松明が瞼のうしろにみえる。 廃屋になった神社に腰をおろして、 ざらついた木目に手を伸ばせば、父の呼吸する翅の音のために、 母と幾度となく祈った、わたしのつま先が微かにふれる。 あの季節は、一面、街のさくらが、咲き誇っていた。 生命保険の看板が崖のように聳える、 駅のホームのベンチに、いつものように腰をおろす。 口から湧きでる白い息に一日の出来事を仕舞いこむ。 出来事が、わずかに長いのか、はみだしている。 それが、わたしのはきだした胸を、いつまでも刺している。 白い息を数えながら、束ねていると、息の間から、 透明な列車が、ホームに滑り込んでくる。 ひかりとともに、溢れる乗客の雑踏に眼をやれば、だれもいない。 笑っているわたしが、ひかりのなかで、 ――ももの接木をしている手の跡が揺れて―― 二階の瞼をひらいて、いつものように、 十二段の階段を昇り、 窓辺に薄らぐ夕暮れの大人の肩を叩いてみると、 きみと見た青い波の音がきこえてくる。生きてやる。 灯台の窓から伸びる閃光が、雪のなかをゆく、 一羽の伝書鳩を照らしている。 ---------------------------- [自由詩]遠い夢?デッサン/前田ふむふむ[2009年7月8日13時11分]               居間のテーブルに、汗をおびた白い皮膜がひろがり、ひとり のピンクのビニール手袋は、両手で艶めかしい声をあげた。 一面、ピンとはった空気が、わたしの熱を帯びた息で震える と、眼をひからせた二匹の青い犬が、暗い踊り場から、わた しの耳のなかをかけていった。 わたしは、電灯のスィッチをあげて、左足の踵から階段を降 りた。足裏は、硬く、冷たい、(こんなにも、段差があった のか。)手すりをもつ手先が、ひとりでに震えた。 下は、暗く、真冬にマンホールを覗いている猫のように心細 い。冷たさの先は、空気を捲いていて、ゴーゴーと鳴り響い ている。心臓の温もりが、口から零れ出すと、眼のまえの青 い装飾ライトが、脈を打ちだし、少しずつ、あがっていく。 やがて、右足が慣れる頃、眩暈が全身をしばると、狭い、一 人しか通れない階段を、暗い大勢の影が、少しずつ、昇って いる。なぜか懐かしい顔ばかりだ。その最後に、灰色のスー ツの影が、わたしの横を、すれ違った。鋭い矢のようだが、 息が聞えなかった。あれは、父さんだろうか。 もう、どのくらい階段を降りたのだろう。 段々と、氷の冷たさが、全身を覆っていて、足は感触がなく なってくる。用心深く、足を、降ろしていくが、いつになっ ても降りつづけている。わたしは、いったい、どこに行きた いのだ。度々、何処かで見たことがある、祖父の葬儀のとき に、祖母が喪服につけた、生涯取らなかった嘔吐のシミ、妹 が、二十歳の夕暮れを、血で刻んだ透明な落書が、荒れた呼 吸に合わせて、これも、昇っていった。でも、一つだけ残る 父母が、いっしょに、暗闇で爪を割りながら削った傷のなか には、階段の途中にひろがる、居間があり、切れかけた蛍光 灯が、不規則に点灯している。 テーブルの篭には、産声をあげたばかりの一匹の青い子犬が、 壊れそうな声をあげている。 一回、まばたきをすると、わたしは、眼を覚まして、ひとり、 テーブルに座っていた。目の前には、安物の木皿のうえに首 を吊るした林檎が化石になって、積まれている。 階段の踊り場では、わたしの後姿を、少年のわたしが 見ている。 少年は、ひかりに満ちた階下に降りていった。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]人格的な、入道雲、青い空   mixi日記より/前田ふむふむ[2010年9月17日1時00分] 朝方にゆったりとした気分で、散歩をしていると、 ようやく眼を覚ましている住宅地、その街並みに、申し訳そうに咲いている草花、入道雲、青い空、次々と目にはいり、通り過ぎていく、その時、僕は、朝の空気のよさに、気持よく浸っている。そして、ある主観的な満足感をえている。よくある、当たり前のような出来事である。 しかし、その状況を考えると、僕は、単に自然を皮相的に認識して、それに対して讃美に近い気持になっているかもしれない。それは、自然を、一般的な感想に近い形で、あるいは、僕とは明らかに一定の距離を置いたものとして、一方的にみているといえるだろう。というのは、つまり、僕はある主観的な満足感を得てはいるが、住宅街であり、草花であり、入道雲であり、空であり、それら自然からは、それ以上の、あるいはそれ以下の返事を、僕は貰わないからであり、貰おうとしていないからである。 でも、僕のこの傍観的な態度(この言葉にも問題はあるかもしれないが)をあらためて、住宅街、草花、入道雲、空に、人格(あるいは、人格に近い思念のようなもの)を与えたらどうだろうか。 人格的な自然は、単なる物ではなくなってくる。 彼らは、雄弁に語りだすだろう。つまり、一般的な自然ではなく独自の個性をもった、唯一の住宅街、草花、入道雲、空に、なるのである。そうすると、雄弁な自然が、僕との距離を埋めて、僕を見ている存在として現れてくる。その時、自然と僕との対話がある。それは、自然に包括された僕として、僕の中で、僕にしか認識できない自然があり、常に自然は、僕の経験のあり方と、等しい個性として存在してくるのである。 自然との対話、僕という範疇において行われる、その行為に、僕は、自然に意味を見出し、自然を通して、僕自身に意味を見出すのである。 いわば、大袈裟に言えば、歴史的な存在としての自分をみつけるのである。 そこで、見出すものは、ときに、生身の苦悩である場合もあるだろう。 酒で祝う喜ばしいことであるかもしれない。 あるいは、痛みの伴わない、物語のようなものである場合もあるだろう。 ひとつの例をあげてみよう。 僕は、東京の下町にある駐車場にいる。 その駐車場は、僕だけの特別の場所である。 多くのひとは、狭い民家に囲まれた、わずか三十坪程度の、屋根を持たないところであり、 雑草が所々生えている冴えない駐車場とみるだろう。中にはその場所を通る人でも、 意識の中では消去されている場合もあるかもしれない。一面青い空なのに、そのことは脳裏に無く、晴れているということで、空という自然をみているようにである。 しかし、ここは、僕が生まれた所であり、三十年前まで、僕ら家族が住んでいた木造の家があった。幼稚園、小学校、中学校とこの家から通っていて、楽しかった幼少の頃を思い出す。 駐車場の東側は、母が台所で食事を作っていた所だ、西側に父の部屋があった。 当時、珍しかったテレビが僕の家にはあり、近所の幼い悪友数人といっしょに、ガヤガヤと騒ぎながら見たものである。とても懐かしい場所である。 確か十八年くらい前、この場所に来た時には、 まだ、木造の家が建っており、誰が住んでいるのか分らなかったが、家の中に灯りが燈っていた。その後、取り壊されたのだろう、いまはその痕跡は全く無く、 自家用車が3台、整列して停まっている。 僕にとって、この駐車場は、単なる狭い駐車場ではない、ここには、今も、僕の家があり、 僕の家族五人で住んでいるのである。やがて、僕が駐車場を見ているように、その家の建っている駐車場は、僕をみている。そして話しかけてくる、幼少の記憶が詰まっている僕の歴史を、話してくるのだ。 こうして さらに駐車場という場所は、僕にとって普遍的なものとなる。駐車場という存在全般が、僕の、幼少、家族、懐かしさとなって、 僕自身と結びついているのだ。 仮に、僕は、現在の自宅の近くの空き地に出来た駐車場をみているとしょう。 僕は、その駐車場によって、東京の僕の生まれた場所の駐車場を想起させることがある。 そうした場合、その駐車場という場所には、僕の木造の家が建っている。その家の建っている駐車場は、 僕をみている。そして話しかけてくる僕の歴史を、話してくるのだ。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]死について   mixi日記より/前田ふむふむ[2010年9月17日1時02分] 数年前のことであるが、東京・新宿の某所で 在る人道主義を標榜する学者の講演があり、僕は、たまたま聴く機会があった。 そこで講演者は、「人間はうまれる時は、一人ではないのである、少なくても、 母親に抱かれて生まれてくる。だから死ぬ時も、決して一人であってはならない。 必ず誰かに看取られながら死の旅路に付かせるべきである。そして、そうすることが、逝くべき人間の尊厳を尊ぶことである。だから、私もそのように心がけてきた。」という話をした。 そのときは、とても感銘を受けて、その話を、一編の詩にした事があった。 僕が年を取って、そろそろ、死というものが、ある程度現実的なものになってきている、だから、そういう心境も理解できるようになってきて、感傷的な思いに浸っていたのかもしれない。 また、父の死を看取り、母が高齢になった現在において、人としては、やはり、そのようにあることが、当然であろう、と自らの確認作業として、そして、自らのこれから将来あるだろうことの善人としての正当性を獲得することができるという満足感で、感銘を受けたのかもしれない。 しかし、今思えば、死とは、そのように簡単に考えてよいのだろうか。 そういう疑問が湧いてくるのだ。 古来より、死はなぜ、いつも特別に厳粛であったのだろうか。時に恩讐をこえて 追悼された死も多くある。人々をして、どうして敬虔な気持にさせられるのだろうか。 それは生(世の中)からの完全の隔絶がなされるからだと思う。 つまり、人間は、死ぬ時はたった一人で、この世の中から別れるからだ。 どんな状況にあったとしても一人なのだ。だれも付いてきてはくれない。 また、多くの人に看取られようと、たった一人で死のうが、孤独の旅に出なければならない。だれも助けてくれないし、誰も助けられない、 人間が必ず通らなければならない宿命なのである。 僕たちが死に際にどんなに温かい情を表したとしても、生(世の中)にいる者の自己満足に過ぎないと思う。とくに、前述の講演の話は、生(世の中)にいる者の傲慢な偽善といってもよいかもしれない。なぜなら、あえて、わざわざ言葉にして言うべきものではないと思うからだ。 死を看取ることを、まるで受け売りにしている講演者に、死に逝く人の気持が、本当に分るのかと、あえて問いたいのだ。死に逝くことは、絶対に、死に逝く者にしか分らないのだと思う。 確かに、死にゆく者に、情を表すことで、他者からみて、僕たちは人間として、人道的な行いをすることが出来るかもしれない。 すなわち、死に逝くものに最大の愛情と敬意を払っていると、自らに言い聞かせることで、 生(世の中)で生きてゆく自らを、道徳的な正当性を持たせることができるだろう。 また善意な行為は、自分が良い事をしたという心の透き間を埋めて、 充実した満足感を得られるだろう。 しかし、死に逝くものにとっては、恐怖と孤独とかなしみ以外何があるだろう、 それを、埋めることなど誰もしてくれない。 では、死に逝くものを看取ることは、意味の無いことなのだろうか。 僕は、そこで立ち止まってしまう。 でも、やはり、僕は、死に逝くものを看取るだろう。 ただ、死に逝くものに、何もする事が出来ない無力な人間として、何もしてあげることの 出来ない人間として看取るだろう。 別離という、どうする事も出来ない現実に直視しながら、 そこでは、ただ沈黙だけしか出来ない僕は、やはり死に逝くものの生きてきた人生に 敬礼を捧げるだろう。 そうすることだけが、死に逝く者に対する、僕たちのあり方だろうと思う。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]歴史的自己  死者を介して    mixi日記より/前田ふむふむ[2010年9月27日22時38分] 歴史的な存在としての人間(僕が考えている場合では、この定義は正確であるかは疑問であるけれど、ごく一般的には、)は、親から子へ、年長者より若者へと、常に変質しつつも代々へと継承されていくものであると考えられる。 だから、本来的に人間のあり方が歴史であるとはいえるが、つまり、歴史的であるからこそ、人間としての存在意義があるとも、ある意味言えなくもない。 それは、時とともに、あるいは、死を介在して、生々しさを失くした、風化したものに変貌していく場合もあれば、逆に、わずかなことが、輝かしく新たな社会や生活に強い影響を与える場合もあるといえるだろう。即ち、いずれにしても過去から現在へ、現在から未来へと影響を与えるからである。 しかし、多くは仔細な活き活きとした部分は、削り取られていき、 嘗ては、はっきりと、リアルに現れていたものが、茫としたものに、変わっていくといえるのではないだろうか。 例えば、僕という自分自身も、原因として、また結果として、ひとつの歴史であるといえるが、そういう僕からの眼線で見れば、最も身近にいる両親は、遺伝的歴史として、主観的にではあるが、生々しく、僕の前に息づいている。しかし、祖父母のことになると、どうだろか。遥かな思い出としてあるが、遠い記憶として、段々と薄れていくといえるだろう。この横軸を、他人同士、即ち社会性のある人間一般として考えたらどうだろう。これが他人となった場合の歴史的現実では、更に深刻になることだろう。 だから、本来、歴史的な横軸、即ち、主観的にも、客観的にも、横軸の個人(または集団)と個人(または集団)の隔たりは、大変、大きいといえるだろうか。 少し、抽象的に話になってしまったので、具体的な例で、問題を絞って話してみようと思う。ここで、 死者を介した、ひとつの例でいってみよう、 一人の個人を、その歴史性の中で見てみると、例えば人間Aが死(物質的死)んだとしよう。そのことによって、人間Bに、何らかの形で、その経験が、受け継がれたとしよう、人間Bに伝達されたものは、歴史の主観的・客観的事実、つまり、ある伝承された、記述された事実が、継承されるだろう。しかし、人間Aの死(精神的な死)によって、人間Aが、戦争などで、受けた、傷のような過去をあるいは憎悪や苦悩を伴った内面の深刻さは,人間Bには、受け継がれることは絶対にないのであるといえるだろう。もはや、その時、人間Bには、人間Aが受けた、あるいは経験した、生々しい傷の現場(個人の内的真実)を経験することはないからである。 (勿論、その現場などを見学する事は出きるであろうが、) 僕は、これを、次代のものが受け継ぐ歴史、即ち物語(のようなもの)といっても良いと思う。 自ら体験をしないもの、 私たちが、受け継ぐ歴史とは、そのような伝承や、書架に置かれたものでしかないといえるのではないだろうか。 たとえ、広島原爆記念館や千鳥が淵の戦没者慰霊碑で、個人の内面に深刻に刻まれることや、感じたことがあっても、 実際、体験した人の比較ではないだろう。もし、分るといったのならば、それは、僕の傲慢の他はないだろうと思う。僕の見ているものは、あくまで物語(のようなもの)なのである。 詩を読むときにおいても、考えなくてはならないだろうと思う。 石原吉郎の詩の世界や鮎川信夫の詩の世界を、物語(のようなもの)として、読むことはできるが、石原吉郎や鮎川信夫が直面した世界を、決して解ることは出来ないと考えているからだ。(勿論、そう考えていない人も当然いるであろうと、考えているけれども。) だから、方法論としては、詩を読むことにもいえるだろうけれど、 僕たちに出来ることは、 歴史の中にいる僕、横軸の中に存在する僕を自覚しながら、 歴史というもの、即ち過去をそのまま安易に受け取ることではなく、疑りながら(勿論、歴史を読んだり、学ぼうとする僕自身を疑りながらであるが)、傷のない、痛みの伴わない、死者の体験をする事だろうと考える。 そして、その体験を、僕自身が、即ち、今、生きている時代がもつ、傷や痛みや喜びといったものを経験する生々しい僕(この僕がする経験は過去の者たちが経験し得なかったものである場合もとても多くあると思う)が、この僕が、 自らの受肉にしてゆくこと(同時に、そうする事しか出来ない僕の限界が在ると自覚し認識する必要があると思うのである、)が、 即ち、そういう諸々を、受け継ぐことが、僕の新たなる歴史であると考えている。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]新しさと、詩と  mixi日記より/前田ふむふむ[2010年9月28日0時59分] 新しい芸術とは、本来、違和感が伴うものだ、なぜなら、私たちが、見慣れている既成のものから、逸脱している部分が作品上、多分に見られるからだ。それを言葉にすれば、欠損および不足、過剰、単調、複雑、奇妙な美しさ、汚さ、などが、ある一定の器から零れて、はみ出している状態である。時として、その芸術を鑑賞する者が、ここの部分はこうしたほうが良いと、自らの既成の価値観で変更や、添削をしてしまうこともある、しかし、その部分こそが、作者自らが最も表現したかったところであったりする事がある。例えば、音楽においては、嘗て、ベルリオーズが「幻想交響曲」を初演したとき、ドイツ古典派の高度に精密な伝統音楽になれている聴衆にとって、その甘い感傷的なメロディと、それを支えるリズム、ハーモニーの単調さから、素人のように稚拙な音楽と揶揄されたが、そのシンプルさこそが、ベルリオーズが、もっとも表現したかったところなのだ。アメリカの名指揮者である、レナード・バースタィンは、作曲者の指定した音符を、わざと汚い音色を交響楽団の演奏者に要求した、それに対して少なからず批判があったが、もし、違和感を伴う、その突起する音色がなければ、あの壮大な演奏はありえなかっただろう。 絵画の世界で見てみよう、ピカソの「ゲルニカ」を始めとする小作品に至るまで、欠損および不足、過剰、単調、複雑、奇妙な美しさ、汚さ、などが、一通りそろっているのである、壮大な違和感のなかにある美が、より事象の本質へと深化しているといってよいだろう、 音楽、美術に近い、詩にとって新しさとは何であろうか、やはり、違和感であるといってよいだろう、但し、その違和感は、たびたび心地良いものである。それは、抵抗感があるものの、即ちノイズの伴った、何か違った世界を覗いてしまったような、視てはならないものをみたようなものであろうか ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]働かざる者食うべからず mixi日記より/前田ふむふむ[2011年7月21日22時28分] 「働かざる者食うべからず」という言葉がある。レーニンが、キリスト教の伝道者パウロの言葉を引用して、述べた言葉であるのは、有名ですが、 キリスト教に詳しくない僕は、レーニン主義にも詳しくない僕は、 勝手に解釈してしまいますが、 「働こうという意志の無いものは、(即ち、怠け者の心を正さなければ、)  社会の一員として、食べる権利はないのです。」というように読んでは良いと思うのですが。 道徳的な観点からも、何かもっとものように思えます。 誠実に一生懸命働いて、やっと、食にありつけるような人がいる一方で、 働かないでぶらぶらして、あるいは非行に走るような人が、蓄えがあるために、何もせず、怠惰な生活をして、たらふく食べているようであれば、 とても、不条理であり、とても、許されるべきではないように思うからです。 そして、 正直に働いたもの、こそが、食を与えられるべきである。という考えに 行き着くのであると考えられます。 キリスト教も、レーニン主義も、何とか主義というのは、大方、イデオロギーであると思うのですが、 僕は、なにかの折に、イデオロギーの恐ろしさを、どこかで、書いたことがありますが、イデオロギーとは、とても美しい衣装を着ていると思います。だから、 とても魅力的に見えるのです。そこには、正しいものと、正しくないものの 二元論が常にあり、つまり道徳的な世界観が常にあり、その正しいもの側にいると、社会での使命感のようなものも、十分に果たしている錯覚に陥り、そのイデオロギーに忠実な、僕のいる位置、僕の行為、僕の考えは、常に正しいというかんがえになり、そうでない考えは、すべて悪という ことになり、それを排除する事が、即ち、社会正義であり、最も、正しい人間として生きることであるという結論に行き着くのです。 勿論、それらはイデオロギーでも、確かに半分くらいは、あるいはもっと多い場合もあるでしょうか、健全で正しい考え方もあるでしょう。でなければ、人は、思想的にも、親近感をもって寄り付きません。しかし、表向きのそれらの美徳は、大方、為政者や、そのイデオロギー団体の勢力拡大の、道具として巧妙に使われてきたのであると思うのです。 「働かざる者食うべからず」も、イデオロギーの言葉であると思います。 これを述べたパウロ、レーニンの二人は、大きな例外を認めていないと思います。 だから、働く人=食べる人、働かない人=食べてはならない人、 という風な公式になります。 よく考えれば、わかりますが、これを原理として、そのまま、まかり通ったら、世の中が滅茶苦茶になると思います。 生まれつき障害があり、働くことを断念した人は、どうなるのでしょうか。 精神的な障害(精神病)のある人は、どうなるのでしょうか。 もはや、働くことが出来る年齢を過ぎた高齢者は、どうなるのでしょうか。 資産があり、とくに働きたくなくても生活ができて、自分の趣味で豊かな人生を歩みたいという人は、どうなるのでしょうか。 働かずに、学問がしたいという人は、どうなるのでしょうか。 遊ぶことこそ、人生の醍醐味であるという考えの人は、どうなるのでしょうか。 働くことより、詩を愛する詩人は、どうなるのでしょうか。 僕らには、働く自由もあれば、働かない自由もあり、遊ぶ自由もあれば、 遊ばない自由もあると思うのです。 もっといえば、食べる自由もあれば、食べない自由もあると思います。 (この場合、食べないと死んでしまう場合もあり、問題かもしれませんが、 この場合いわゆる、働かない時に食べて、働いた時に食べない自由も含まれると思います。 僕は、物事を見る場合、二元論で考えるもの、解決しようとするもの、 は、疑って掛かります。大いに悪意のイデオロギーが隠れているからです。しかし、多元論至上主義という二元論もあるので注意を要しますが。 でも、物事を多様に、考える思考原理には、 なるべく信用して接することにしています。 その思考の中から、僕が選べる自由があるからです。 ---------------------------- [自由詩]朝?デッサン     /前田ふむふむ[2012年11月20日20時46分]                 ふかくふかく沈んでいく ひかりが ひとつひとつみえなくなり 一番遠くのほうで白い水仙がゆれている たびたび あわがすこしずつのぼっていくと 呼吸していることがわかる 鐘のおとがきこえる まるで葬祭のように 悲しい高さで 眼の中にしみてくる 焼けるような赤い空が 野一面をおおっていて たぶん こころのやさしい人が 世界を手放したのだろう おびただしいあわがみえなくなると 透けるような肌の少女が ラセン階段を昇っている そして降りている 流れるみずを境にして 脂ぎった手で窓をあけると 言葉の破片が流れていく それは、やがて雪のように 誰も知らないところで 積もっていくのだろう 数世代前の 胸に真っ赤な花を咲かせた先達は 他者の声をきいたというが わたしにはきこえない 青白い指先にあたたかな 質量がともる この心地よい場所は 陽光の冷たさをすこしずつ なじませていくのだろう ふかくふかく沈んでいく そのなかを ひばりが旋回している ---------------------------- [自由詩]家族写真?デッサン    /前田ふむふむ[2012年11月20日21時53分] あなたは何において父の後継者なのか という問いに わたしは おそらく負債において といったときの 背を伸ばした麦の穂は 熱帯のようなひかりの拒否に 砕けかれていく      いまは   飛ぶという行為には段差が大きすぎる   冒険主義には世間はつめたいから   わたしは寒冷前線をさけて  流される 「ぶしょうだから」 ビニールハウスの いちごのぬくもりのように  バラエティー番組の映像のように わたしのまわりにふりつもる 「いつするの」 「うん・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・・・・・・そのうちに」 ぶしょうは性癖である 整理整頓がこえをあげる 「もうそれいらないんじゃないの」 「なんかに ひつようになるから・・・・・・  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・この隅に おいとくよ」 かさねられた恣意の山なみ センチメンタルな「この隅に」は 忘れられていく ときは空白を広げて 雪のように沈殿していく わたしのなかで 家族写真のアルバムのような 厚さをはかりながら 沈殿は 沈殿を忘れる あしたのなかへ 負債をもたない わたしは欠けている かたむいた身体を 安定したおもさをつかむために 空腹のサルのように あるときは 名刺の肩書であり りんごの皮くらいの賞賛であり それが父の死であり その肉体の灰のなかから 所属にかぎりなく接近して いくつもの稜線を流れながら わたしは なお 白い乳房に欲動するのは 欠けているからではない 欠けているものが なんであるか 分からないから わたしの思考は 足元から透けていく 新しいパソコンが届く 取扱説明書をよみながら わたしは ぶきようであるとおもう この手のさきまで  この指のさきまで わたしのあらゆる力学が 蛍光灯のしたで 虫のように這っている 新品の書棚は 高々とそびえていて 渇望の果てにみえる 朝が遠い場所にたっていた 「あれが クニミ峠だね」 「うん 遠いね        すこし休んでからいこうよ」 ひつじ雲が ゆっくりと流れている ありきたりなことばが 降りつもる場所が 寝返りをうつ 整理オンチ 整頓オンチ 捨てられない「この隅に」の あたたかみのなかで 静かに眠っていて わたしはもう 未知の数式の空を 流れている ---------------------------- [自由詩]新生 デッサン/前田ふむふむ[2012年11月23日23時52分]              わずかにからだがゆれている 冷気さえ眠る夜に 自分がふれた蛍光灯のスイッチの紐が ゆれているのを見て からだがむしょうにふるえてくる ずいぶんと経たが もうなおらない気がする 蜃気楼のように 痩せた牛が足を引きずりながら 道路を横切っている 廃屋の庭にはセイタカアワダチソウが 群生している うまれたばかりの空 それは きっと これから名づけられるのだろう みずのにおいを消し去った なにもない瓦礫の野で ひとりの男がなにかを探している その寂しいすがたに わたしは 明治四十三年 若かった民俗学者が 少年のような眼で さがし紡いだ 若い女の幽霊に栞をはさんだ 曲がった家族アルバム 透明なランドセル 逆立ちしているモネの偽絵画 卓上時計のなかに咲いたみずの花 そして みんなで大きな柵をつくり みんなの動けなくなった人をならべた 身体をおおう純白の布の いさぎよい色は きっと このときのためにあるのだろう おぼえている 昔 父の葬儀のとき 抱えた白い骨壺はとても冷たかった あの純白は これから歩いていくものだけが もてるのだ アオサギが啼き わたしの足が西にかたむくころ 低い稜線が すこしずつ  海に没している ---------------------------- [自由詩]透明な統計表?デッサン/前田ふむふむ[2012年11月25日10時27分] 東日本大震災・死者・行方不明者数             二〇十二年三月十日  死者 15854名  宮城県 9512名 岩手県 4671名 福島県 1605名  茨城県   24名 千葉県   20名 東京都    7名  栃木県    4名 神奈川県   4名 青森県    3名  山形県    2名 群馬県    1名 北海道    1名 行方不明者 3155名 われわれは この数字を知ることはできない むろん 死者にふれることもできない さらにいえば  死者の名前を呼ぶこともできないのだ 世界がどんよりとした空をはぎとり 彼らの出自を たんねんに訪ねると 彼らは すこしずつ色合いを際立たせるが そうすることによって その数字は、ますます かたく甲羅のなかにかくれるだろう そして 記憶が老いて 地平線の底に沈むまで 限りなく きみの視線の高さで 血のように われわれをみている   ---------------------------- [自由詩]一月の空?デッサン /前田ふむふむ[2012年11月26日17時49分]       水路沿いにある病院を 服薬をもらって出た 六番目だった 先生は機械のように診察した わたしは それにふさわしく 死人のように応えた 道路では  駅からくる通行人がまぶしくて つい下を向いてしまう 気にすることはない この頭痛があるときは 死んでいるのだから たぶん見えていないだろう いつもの 小さなガード下をくぐった 時間通りの快速電車が 奇声をあげて過ぎていった 鋭い金属音に 子供が泣きだしている わたしは振り向かなかった なぜか 急がなければならないとおもえた すこし歩幅をひろげて ほそい路地をぬけると 鼓動が激しくなった 苦しくて呼吸を整えようと 冷たい顔で 上を見上げると どこまでも広がる 混ざらない一月の空 その一面晴れわたる青を 無限にひろがる青をみていると 不意に嘔吐した あたたかい吐瀉物は 指先をぬけて みずたまりに落ちた 追記あるいは本題        ぼくは 洋服ダンスにはいっている 何も見えなくなっているが ささやく声が聞えた気がする なつかしい声なので おもわず父さん(カアサン)といってみた ぼくのとなりが わずかに空間ができていて おだやかなぬくもりを感じながら 毎夜すごした 洋服ダンスは狭かったが ひとりで過ごすには十分な広がりであった ときおり ひかりが戸の透き間からさしてくる そのひかりが とても羨ましくて 外の物音がなくなるころを見はからい ひかりのほうに訪ねて行ったりしたが いつもその場所には 古い半袖のワイシャツが 掛かっている そして 簡単に解ける計算式が書いてあった ぼくがふくみ笑いをすると 古い半袖のワイシャツは 不満そうに燃えだして カッターで手首を切った 朝が噴きだしてきて 新しい計算式を空に書いた 一月の空に     気がつくと 子供がわたしの横に座っている 二人で計算式を眺めてみた やがて子供は悲しそうにして この部屋は暗いね といって少し怯えている だから 優しく子供を抱いて 寝かしつけた 子供の心臓の鼓動が わたしの心臓と共鳴している もう 数えられないくらい長い間 やわらかい脈を聞きながらわたしは子供と溶け合っていった 子供の透き間は いつしか 冷たい壁になった 戸の透き間から きらきらとするひかりがはいってくる 楽しそうな笑い声 静寂 また笑い声 テレビで ニュースのアナウンサーが 言っている 「報道 洋服ダンスの生活について」と そういえば わたしはまだ ここから出たことがないのだ 柱時計が午前三時を打っている めずらしく頭痛はない 強い衝動がわきあがり ふるえる手が「生まれて始めてなんだ 戸を開けるのは」 雨が降っている 計算式はどうなったのだろう わたしは 忘れていた計算式が心配になりひかりの方向にむかった 二月の空に ---------------------------- [自由詩]声 ?デッサン/前田ふむふむ[2012年11月28日11時11分]                  眼の中の 草を刈る人たち そのふむ土に 灰はあるのか 黒く固まる もうひとつの眼 形状に 手をくわえれば 風 内部へと 身体を沈めていく 痛くはないのか 苦しくはないのか 鉄格子 素描された結界として 暗闇のすきまを 埋めている その手 その耳 ためらわず 弓のように ことばを打て むく鳥 石のような意識 くちは空白をただよう 小舟でたわむれたのは いつだったか 真昼の数字が 屈折するなかで 街に 空色の沈黙を たてかける 葬られるものの 外部を なお外部を ---------------------------- [自由詩]葬送- デッサン/前田ふむふむ[2012年11月30日0時03分]         うしろからきこえる声 噛み切れば 冷たい雪を ひとつひとつ積むだろう 棺の かわいた脈動 その影を 一本の湿地の思想に 束ねている あなたの まぶしい眼光 砂のように 西方から流れる 腕で包み 足で踏み固める かたむく姿勢 すべて粒子が 塗された 透明な芽を 傷跡は むきだしの履歴 あかるい闇のなか 放物線の考古学を はりだす 遠い ひとりが 充足した否に横たわる 心臓が高鳴り のぼりつめる底辺 引き潮の花を与えよう 饒舌な しずかさは その輪郭を みずのような太陽の 帆先へ 紡がれた空 紡がれた土 紡がれた草 その草の名前を その草の出自を  輝かせながら ---------------------------- [自由詩]蒼い思考 デッサン/前田ふむふむ[2012年12月1日0時04分]                              ものを捨てる なにかを捨てることに ときにためらい うしろめたさを 感じながら 一方では恣意的な解釈を 遠いツンドラの泥土のしたに かくして  わたしのカラになった咽頭のおくを充たした そうすることで わたしは出自にたちかえった その紙のような意識は いまおもえば  朝の一滴には ほど遠く  わたしは灰色の空を 限りなく低く翳していた 沈んでいく 冬の街灯のひかり ライトの下 くすんだ羽毛ふとんに覆われた 少女のような女が ビルの脇で横たわっていた 透けるほど白い頬 凍るかぜがふとんを叩いた 女は冷たい息を弱く吐いて うすく開いた眼は 遠く来歴をみているようだった 路上で寝る 女を見るのは はじめてだった 未知の感覚を 母に話したら 不幸を呼びこむから やめなさいと諭された 拒否した母の声から 少女のような女が流れている 柔らかな乳液のように 雨が降ってきた 冬空がざわついている こんなとき わたしの安閑を 破って それはやってくる わたしはいつから薄光に揺れる塔を 意識しはじめたのだろうか 場所は全くわからないのだ それは存在として 高くいつまでもあった あの塔について考えることが  わたしの命題として いつも手の汗のなかに 狭い眼窩のなかに あって その感触を忘れないことが わたしの役割でもあるようだった その塔のうえには  無謬性のひかりの場所があって 一本のハクモクレンが 咲いているのだ わたしは夢中になって そのことを父に話したが 父は黙って壁のように立っていた 父は家族が買いそろえた 白い羽毛ふとんのなかで 夏を待たずに死んだ 大きなあじさいの絵がかかった部屋には 羽毛ふとんがない以外に 何も変わっていない たびたび その部屋にある 漆塗りの仏壇に線香をあげると 父がすぐうしろに座っている感覚が からだ一面にひろがり ほそい芯で灯っている胸に 父の視線が突き刺さってくる 夕暮れのような視線 心拍が激しく血液を流れて わたしのからだは 殻におおわれた 雨はやんだらしい あれから梅雨のまんなかで 泣くのをやめたのだ 夜は静かになり 新しい羽毛ふとんをしいている 鈴を鳴らすと 眼の前の ロウソクが揺れている そうだ、 なぜ飛んでいるのか わからなかったが あの塔を飛ぶの鳥の群れを もうずいぶんとみていない 毎日 飛んでいた空が  燃えている ロウソクが  やがて消えると あたりは暗くなり わたしは 座ったまま 白い羽毛ふとんに包まれて  眠っていった 背中のほうから 湿った呻き声が聞こえた ベンチで まどろんでいたわたしは 寒さですくんだ手を口にほおばった 街灯のあかりが ゆらゆらと眼のなか一面に泳いでくる ビル風がうずを巻いてくる 禁煙 と書かれた看板が 無機的に貼られた公園で たむろしている浮浪者たちが 猛禽類のように動いている 女が子を産んだらしい 透けるほど白い 少女のような女がタオルを添えて 赤子を抱えている 柔らかいいのちが 夜の冷気にひたり ふるえている なぜだろう 赤子の泣き声が聞えない 耳のなかで砂あらしが吹いている ひとりの浮浪者が壊れかけた電話ボックスで 懇願をしている 他の浮浪者たちは奇声をあげてわめいている ぐったりと 地面に横たわりはじめた少女 湿った太股が あかりに浮かんでいる 傍らに 脈打つやわらかい磁器 野生の猛禽類が見守っている 公園に横づける 無音の救急車 わたしはベンチから立ち 公園の門をくぐった 煌々と昼の顔をしたビルの電灯が いっせいに消えた わたしは大通りにでて コートの襟を立てた ひとは歩いていなかった 塔のようなビルが断崖のように並んでいる でも あのむこうに いく必要はないのだ それだけは わかるようになった いつからか そう思うようになった 少女のような女と赤子が吸う おなじ空気がとけて わたしのからだを流れている 耳のおくで ひとつ水滴が落ちた わたしは寝返りをうった  きっと白い羽毛ふとんのなかで ---------------------------- [自由詩]冬のおわりに デッサン/前田ふむふむ[2012年12月2日9時34分]            喪服を着た父が 部屋の隅にいる 悲しいほど  とても暗い場所に かなり寝たので 夢だったのか ひどく汗ばんでいる 耳をふとんにあてると 父が階段を上ってくる気配がした 胸が 訳もなく とても痛い  でも ドアは 開くはずがない  父は もう二十年前に死んだのだ あたまを動かしたら ズキンと痛んだ 下着を替えて 冷却シートを貼りかえり すこし落ちつく 枕元にある体温計を わきの下にあてる 熱は 朝より 下がっていた 母の明るい声がする おもては 雪が降っているらしい 階下の居間では 慌ただしく 何かが落ちて割れた 一週間前に買った 高価だった カットグラスではないかと とても気になる 寝返りをすると 三日前から腕がひどく痛い 庭にある 権威的に覆い茂っていた樹木を剪定した 虎刈りのように すっきりとしたツバキやサツキは 親しみぶかいものに変わった 窓辺には 球根をカップにいれて 育てているが いっこうに芽が出ない わたしといっしょで いつもなにかを待っている気がする 上を見ると 学生の時に読んだ本が 書棚で整列して じっと 見ている 冷たい空気は 草のにおいがした 一面 青い空のなかの芝のうえで  文学書を読む 少女が 病棟に帰る  さみしい笑い顔が  少しずつ草むらに隠れていく 草むらは いつの間にか 暗くなり 見えなくなる 寒さが 布団の隙間からはいってくるので 身体を丸めて眠った 眼を覚ましたら 雨が降っている ---------------------------- [自由詩]追悼のうた?デッサン/前田ふむふむ[2012年12月3日11時07分]            ことばのない土を ことばのない空を 断崖が しずかに線を引く その聳え立つもの 佇むわたしの踝は   夕凪を握りしめている その夏の 無効をうきあげる 屈折を ひかりの遍歴を 灰色の意識でみたす     対話を きみたちの もう見えない眼は 言葉の屍を 洪水のように流して そうして  あらわした柵を 限りなき内部へ    沈めようとして 答えよう 杭をうたれた雨を 掬って  底辺に 暗くおびを敷き 否定された内部を 高く 敬意をこめて さらに高く きみたちの 旗として掲げよう ---------------------------- [自由詩]神話?デッサン/前田ふむふむ[2012年12月6日6時26分]         前田ふむふむ 鳥が飛んでいる ひとつの銃弾から ひとが生まれる 羽が砕かれ 動かない鳥のなかから 声が生まれる 声は 夜の輝きである ひとりが声をあげれば 陰鬱な 暗闇を わけもなく 立ち入らねばならない となりに自分の幻影を 引き連れて 糸杉の並木をいくども 疲れ果てるまで 歩かねばならない 傷口をひらいた自由 のような 奔放なものたちと 無為の会話を かさねなければならない その苦痛を 削ぎおとして 永遠のなかで いずれ記憶されずに 痩せほそるもの そして 回転するメリーゴーランドのように とどまらないものに ふたたび きみは声をあげるだろう その曲折        銃口は  しずかな佇まいで 分厚い名声を携えて  夜の木漏れ日のなかに 鳥は化石のように 低空を いつまでも旋回している そして 生まれたものは お互い しがみつき合っていて いつまでも 死ぬことはない ---------------------------- [自由詩]怒鳴る男 寓話的?詩の試みデッサン/前田ふむふむ[2012年12月9日1時29分]                   ひどい罵声が飛んでくる いきなり物が飛んでくる わたしも避けながら 投げかえそうとする むこうでは 言葉が渦を巻いていて 次の言葉が 今にも襲い掛かろうとしている よく見ると 無精ひげを生やした 青白い顔の男が 喚いているではないか わたしは余りにうるさいので その男にたいして 反撃して 怒鳴りつけた すると 歪んだ醜い顔は さらに顔を歪めて 怒鳴っている 涙をいっぱい溜めて そんなに悲しいのか そんなに辛いのか 理由は この世の中が 忘れ去った男の 最も愛する人が死んだのだ 鏡に映っているわたしの姿は 惨めで 悲しかった     ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]詩の試みー知りすぎている貧しさの中で mixi日記より 2010.12.9/前田ふむふむ[2014年7月9日10時27分] 北川透がいっている、詩的レトリックの本質は違反である それを引用的に言えば 僕は、現代詩の本質は、日常的な言葉への違反であると思っています。 (そうではないと思っている方も多くいると思いますが) その違反の、現代詩の重要な構成要素となるのがメタファーであると思います。 ここでは、違反ということで書いていきます。 違反行為を行う場所から話しますが、現代詩が提示される、つまり社会です。 社会がそういう違反を成り立たせる土壌があれば、あればあるほど、現代詩は、多くの舞台が用意されていると思います。例えば、戦前の軍国主義の時代、戦後の荒廃とした時代、冷戦でイデオロギーが二分化された時代、そこには、毅然とした一義的で規範的な社会があり、現代詩は、いくらでも違反する言葉を使うことができたからです。 例えば、戦後の荒廃した時代に、暗い内向的な詩を書けば、それだけで、その時代を反映している比喩として見られて、その違反は、新鮮に読み手に伝わり、いくらでも詩人は、詩を書くことができたのです。 でも、冷戦が終結して、世界は陰鬱な恐怖から解放されて自由を得ましたが、現代詩は、世界から違反するものを見つけることが困難になっていったのではないでしょうか。 あらたに、もたらされた一義的な世界観は、世界のアメリカ化というグローバリズムでした。それは、膨大な情報、豊富で圧倒的な量の言葉をふくんで押し寄せたと思います。 それが、一面いかがわしいと知りつつも、膨大で多様な言葉に圧倒されているというのが 現実でしょうか。 言語が、言葉が、あふれている世界、僕たちは、その情報で、瞬時のうちに物事を 知りうることができるのです。そして、その多くの情報から、物事の良し悪し、また 別の考え方を、縦横無尽に手にすることができるのです。 なんと、便利な世の中なのでしょうか。 その中から、良心(語弊がある言葉ですが、大体、今の世の中、この当たり前の美しい言葉が陳腐です)に則って、多様性を獲得できる時代になったのだと思います。 でも、皮肉なことに、その豊富さと多様性は、あらゆる媒体を通して、相互に打ち消しあい、抽象的な意味を与えて、言葉を無力化して、言葉を相対化する方向にむかっているといえると思います。 だから、僕が「この薔薇は堅い」といっても、そんなものは、瞬時のうちに 色あせて、べつの角度からみれば嘘っぽいものになってしまうのです。 つまり、新しい言葉が、違反しても、膨大な情報社会は、自らの持つ価値の否定性で飲み込んでしまって、その情報社会がもつその情報自体も、別の情報に価値で否定されてしまう、混沌とした多様性の中にあり、安定性を求める社会が、急速な速さで、これは大衆的な一義性といっても良いかもしれませんが、逆に、多くの言葉を相対化してしまうということです。 当然のこととして、あまりにもあり過ぎるのです、あり過ぎるものの中から、 言葉は、次から次へと処理されて、振るいにかけられて、平面的になり、表面の肌触りが外見的に似てきていて、 差異は困難になり、 違反は限りなく少なくなり、いったい何を違反するのか、 違反という言葉すらも、相対化されて、いかがわしく説得力のない言葉に見えてしまいます。 現代詩は、どこに居場所を求めればよいのでしょうか、 瀬尾育生が、21世紀の若い詩人を定義して、「いかに差異化するかということに敏感であるところが共通である、としかいえないような同一性」といっているのです。この非情とも思える言葉には、若い詩人の苦労がわかるような気がします。 僕は、よく書きますが、萩原朔太郎の詩が好きです。朔太郎が口語詩を書いたとき、 メタファーの持ち駒は、ほとんど何もなかったと言われています。 仕方なく、音楽に、つまり音韻にその方法論を求めていましたが、 しかし、朔太郎は、当時の一義的な閉ざされた社会の、広大な肉体を持っていたと思うのです、 だから、いくらでも違反する場所はあり、いくらでも違反することができた、と言えると思います。 現在の、 僕たちは、無垢な肉体など、どこにもないと思っても良いと言えるでしょう。 僕たちは、多分初めて、人類が経験したことのない肉体を持ったのだと思います。 ここでは肉体とは、社会のことであり、詩人、例えば、僕との関係性のなかでの社会です。 でも、こうも考えられるのではないだろうか。 次から次へとあふれる言語と、その相対化を繰り返す社会。 だから、こういう時代だから、反復し続ける「存在」としての言葉を見つけることが、 いかに困難だからこそ、逆に、 社会における詩人の役割がなお一層、重要であるということではないでしょうか。 (演説みたいになってしまった) なお、 「この薔薇は堅い」は、思いつきで書いたのですが、一見いいように思えたが、 なんかの広告かなんかのフレーズに使われたら、死んだ言葉です。 でも、死体にもなれない、 死体は、その存在から、詩的言語を持っているからです。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]零戦の思想 mixi日記より 2008年7月/前田ふむふむ[2014年10月4日18時04分] コストを如何に抑えて、良いものをつくる、その成果が商品として、私たちの前に並べられます。その商品としての特質として、人命尊重は、何番目なのでしょうか。それというのは、私たちは、人命尊重第一主義の社会には、生きていないのではないかという疑念がよぎります。そのために、昔の古い戦闘機の話をしたいと思います。 零式戦闘機(通称、零戦)といえば、かって太平洋戦争の開戦当初、飛行距離の長さ、スピードにおいて、世界一であった、優れた戦闘機であったということは、有名ですが、 そして、当時の日本海軍の優れた搭乗パイロットによって、将に、天下無敵の強さを誇っていましたが、その零戦は、飛行距離の長さ、スピードを、他国の戦闘機より、圧倒的に大きくリードさせる為に、大変な犠牲を払っていたのです。それは、機体を軽くするということでした。つまり、パイロットを守るための設備を、すべて削ぎ落とすことだったのです。 必然的に防備の面では、まったく無策といって良い状態になったのです。 丁度、ガソリンをたっぷり積んだ、ブリキの飛行機のように、軽くて弱い機体、攻めるには強いが、守りには、極端に弱い。そこにあるのは、搭乗パイロットに対する、人命軽視の思想です。 大戦当初、無敵でありましたが、アメリカ軍により、その零戦の墜落機が回収されて、その正体、いわゆる、優れた面と、弱点が分ったのです。アメリカ軍部は、その優れた面に魅力を感じましたが、パイロットの人命を尊重すると言う観点から、それを採用しませんでした。逆に、スピード等を犠牲にしても、防備の面を更に強化していったのです。 結果、アメリカの戦闘機は、3−4発、玉が当たっても、かすり傷程度でしたが、零戦は、 一発の玉で、紙のように燃えていったのです。そして、アメリカはあっという間に、制空権を獲得して、日本の敗北を早めたのです。 この零戦を代表とする、すべての人命軽視の軍事技術は、戦後、生き残った技術者によって、民間産業、特に、鉄道や自動車産業などの主要な産業に、受け継がれることになりました。 ついこの間、記憶も新しい、JR西日本の尼崎駅付近のマンションに突っ込んで、多くの 死傷者をだした脱線事故がありますが、それには、運転手の精神状態や無謀な運転がクローズアップされていました。車体は大きく破損して、とくに2号車は、ペチャンコの板ぺラのように、なって、ほとんど原型を留めていません。悲惨な状態です。 これは、電車を造る時、車両の軽量化、軽量化による大幅なコストダウン、見た目の外装美に重点をおいた結果ではないでしょうか。もし、人命尊重を第一義に掲げていたのならば、不測の事故にも対応する、軽量なものではなく、頑丈な壊れにくい重量感のある電車が出来ていたでしょう。もし、そのような電車なら、あのような悲惨な破壊はおこらず、 死傷者の数も、もっと劇的に少なかったのではないでしょうか。 次に、自動車のことですが、日本では、軽量化や外装美が、どんどんエスカレートして、 車体自体は、実にキャシャになってきています。私は、以前載っていた車は、バックして、 電信柱にバンパーを軽く触る程度にぶつけたのですが、電信柱はなんともなくて、車は、 恐ろしく簡単に凹んでしまって、高価な修理費を出したことを覚えています。 それに引き換え、アメリカのリンカーンに代表されるアメ車は、恐ろしく、ガソリンを食いますが、骨格豊かで、頑丈に出来ていて、少しくらいではビクともしません。 つまり,事故に強いのです。その頑強さが、搭乗者を守ってくれるのです。 多分、アメリカ軍が持っていた、あの人命尊重という精神と、同じような精神が、そこには、かなり流れているのではないでしょうか。 あらゆる商品には、軽量化、小型化に代表される動きは、とても、合理的な新しいものなのですが、(パソコンや携帯電話が良い例)、勿論、それは、良いことなのですが、その商品をつくる動機、過程で、人命尊重ということを、軽視し、あるいは無視してなされるとき、あの、零戦の人命軽視の精神になってしまう恐れがあることを、私たちは、注意深く見ていく必要があるでしょう。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]主体と他者  mixi日記より 2010年12月/前田ふむふむ[2014年10月4日18時13分] 僕において、「主体」「他者」とはなんだろうと考えることがある 他者を成り立たせているものの前提には主体があり、他者により到来するもの としての主体がある でも、この主体は何によって獲得したものであるのだろうか それは、西洋において、神という自然から、切り離すことにより、 対立の構図のうちに、獲得してきたものである だから、神を意識し、生活の基底に、その存在があり、 そこから、自己を客観的に認識するうちに、 あらゆる学が、人文科学、社会科学、自然科学が成立したのであり、 近代国家も成立したのである すなわち、近代的主体をなりたたせるのは、絶対普遍的な規範がなければならなかった。 絶対者として批判あるいは反省するものがなければ、新しいものは、そもそも成り立たない。 何にもなければ、批判と反省があり得ないからである だから、明治の敏感な為政者は気づいたのである。日本には、それがなかったことを、 日本にも近代国家としてありうべき、規範となる基底を必要としたのだ。 そして、そこに、神聖にして犯すべからざる天皇を据えたのだ。 しかし、その超越者は、親子の関係性で、すなわち親の分身としての子の関係で、 成り立たせており、二元論的な対立の他者としては置かれず、批判の対象としてはなりえないものとして考えられた。 だから、当時からの知識人は、近代的知性として、主体を獲得するため、 モダニストは、主体の外部として、西洋の最新の翻訳文化イデオロギーをおいて飾ったのであり、マルクス主義者は、主体の外部に、プロレタリアート独裁の形而上学を据えたのである 彼らは、普遍的なるものと対立せず、そもそも、その対立するものが存在しなかったから、 彼らは、その西洋の翻訳的外部に、身をゆだねていればよかったのである。 だから、大政翼賛会の大号令のもと、大した傷を負うことなく、むしろ積極的に、 身をゆだねたのである。すなわち、もともと、その主体は、何かと対立のうちに獲得したものでなかったから、着ている衣装を変えただけであるから、 主体の外部は、どうにでもできたのである。詩人も全く同じである。 自由主義者(社会主義者)→軍国主義者→平和主義者 日本人の主体と他者の概念は、こうして作られたといってよいだろう。 僕たちは、よく「人はみんな同じだから」といって仲間意識を持って解決する、 でも、もし同じだったら、他者は見えてこない、そこにはあるイデオロギーに身を横たえている欺瞞があるのである。本来なら、「人は全員違う」と考えなければ、他者は、 決して現れない。 僕らは、戦争と敗戦で、ある自由を与えられた しかし、それは、他者から獲得したものではなかったから、僕らは、他者がくれた外部に身を横たえれば、それでよかったのである。 平和・自由主義、あるいは反米的マルクス主義、あるいは伝統的なナショナリズム など、みな身を横たえているのである。別の言葉でいえば所属していると いえるものである。 そういう外部として、それは同時に内部でもあるような他者を抱えている主体は、自らが自律的ではないために、 自らの主体に反省がないのである。 一種の普遍的なるものを仮託しているから 他の考えを批判し、否定するが、自らがもつ外部としての所属が、抱える諸矛盾を正確に客観的に分析が困難であるし、この主体の内部でもありかつ外部でもあるような他者のうちには、そういう修辞はもたないからでもある。 であるから そのような自己批判的な判断は、自らの所属の他者への違反であり、この奇怪な日本的「外部」の放棄であり、自らの存在場所を失うのである。 こういう命題に対して、どのような批判が可能だろうか。 「僕は、世界平和を希求するし、平和主義者の日本国民として、武力によって 他国に迷惑をかけることには断固反対する」 僕らは、平和主義という他者に寄り添っているから、これを批判する修辞を持たないのである。 そういう生理のうちにある僕らが、 突然、国家危急な出来事が現れて、自らの存在の危機に直面すると、 戦前と同じように、他者の所属を変えて、一億交戦主義者に変貌することは、十分に可能なのである。 なぜなら、客観的な存在として、平和という他者に携わっていないからである。 もし、携わっているなら、平和主義者として、この平和主義をいつでも批判できる場所を常に確保していなければならないはずだからである。 僕らは、現実には持っていない。ひとつ例をあげよう。 「憲法改正の国民投票には反対である。」という標語は、平和主義の修辞のなかにはある。 しかし、逆に「現・平和憲法を国民投票で、米国に与えられたものではなく、自国民のものとして、まったく改正せずに、自律的に獲得しよう」という発想の場所を用意していない。 僕は、仮説として、このような、内部であると同時に外部であるような「主体」、「他者」 を考えてみましたが、未成熟の「主体」と言っているのではありません。 これは、日本の独自のたどらざるを得なかったものだと思います。 日本にも、普遍的な存在規範は、古来なかったのだろうかと考えてみた。 あるとしたら、それは、あらゆるものを包括して、無(あるいは有)にしてしまう 八百万の思想だろう。それは、西洋に「主体」「他者」の思考とは、真逆なものである。 条件さえ整えば、その何でも許す認める思考を考えれば、 きわめて寛容なものであるが この考えで 多くの文化人が、大政翼賛会に迎合したのは、日本人の規範に忠実であったと 言えなくもない。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]1989年のこと  mixi日記より 2010年11月/前田ふむふむ[2014年10月4日18時27分] 9・11について 僕は、前にも書いたけれど、9.11は、「A」と比べたら僕にとってそんなに深刻なものではない、といったことがある。新しい何者かが起こりつつあるかも知れないと思ったけれど、世の中はいつまでも不景気で、相も変わらず、世界はアメリカ中心に動いていて、 僕は、淡々と生きていけたように思う。 確かに9.11は大変な出来事だけれど、僕らは精神的にどれだけの影響を受けたのだろうか。確かに受けたが、もはや、ペンを持つことが可能かどうかまで、追い詰められて、いわゆる、自分の確固たる立ち位置が、砂のように崩れるかもしれない深刻さや恐怖にも似た不安は、受けなかったのではないだろうか。逆に、これを契機にして、劇的に全くの新たなる創作の広大な地平が広がったと考える人も、本当はいないのではないだろうか。高名な学者吉本隆明に「無」といわれても、広大な歴史を背負っているその先達に、あがらう確固たるもの(それを超えるもの)を提示できないのだから(できているかも知れないが、僕はそれを読んでいない)、それは、9.11以後において、本質的には、なにも変わっていないという証明にもなるだろうか。 失われた20年 「バブル以後の失われた20年」とよく言われている。 「バブルの時ってそんなに良かったの」と、社会人になったばかりの甥っ子に言われたことがある。その時代以前、 確かに、たくさんの恩恵に浴したことは確かである。だが、多くの歪もあったことも確かである。まるでマス・メディアでは、お題目のように、バブル以前が、最良の価値基準のように言われているが、それは、誤りだろう。 この「バブル以後の失われた20年ー25年」というこの言葉であるが、 本当に、若い人に、このことがわかるのだろうか。なぜなら、彼らは、物ごころついた時から、すでに、不景気な時代に生きていて、それが普通のことであり、バブル以前の好景気を知らないからである。だから、いわば、彼らは、何も失っていないのである。 ただ、「バブル以後の失われた20年」という、失った年寄りの大人がもつ郷愁にも似た価値基準を、若者は、机の上で情報として、(失っていないのに)身体的に相続するのである。 近代と現代 近代と現代を線で引きなさい。という問題がでたら、すぐ、適切に答えられる人が どれくらいいるだろうか。1945年と答えるだろうか。 日本の歴史の教科書では、それが正解かもしれません。 でも、もう一本、線を引けるように思われます。 それが、1989年のベルリンの壁崩壊と冷戦の終結でしょうか。 現在、ヨーロッパでは、現代史の元年を1989年にしています。 だから、それ以前は、近代ということになるのでしょうか。 1989年 前に書いた「A」のことを書こうと思う。 この年は、劇的であったと思う。とくに、ものを書く仕事の人間にとっては、まるで天地がひっくり返ったような壮絶な出来事があったからだ。(僕は当時、ものは書いていなかったが)東西冷戦の終結。社会主義イデオロギーの決定的な敗北。 僕は、今でもはっきりと脳裏に刻まれている光景がある。 弁舌の通った、べ平連の英雄で、社会主義的な平和主義者の小田実が、その衝撃でなのだろうか、あるテレビの討論会で、まるで怯えた子羊のように、なにも自分の意見が言えず、周りの論者に相槌を打つのが精いっぱいで、挙動不審に陥っていたことがあった。 のちにKGBの問題が明るみになる以前のことである。 また当時、一時的にせよ、多くの社会主義的な論陣を張っていた多くの文化人が、一斉にマスメディアから、いなくなったのである。社会主義が完膚なきまでに否定された瞬間だ。 そういう僕は、冷戦の時代に、どちらかというと、かなり保守的思想の環境にどっぷりとつかっていたが、それでも、当時の日本社会に充満していた、資本主義の諸矛盾に、大きな不満を持っていて、当時のソ連や中国に、ある種の幻想ではあるのだろうが、理想郷のようなものを求めていたことは、確かである。夜になると、よく短波放送で、日本向けの中国の国営放送を聞いて、ワクワクしたこともあったし、時として、社会主義的な本も好んで読んだ。 そんな僕ですら、メディアなどで、1985年ころから、東側の様子が少しおかしいということは、わかっていたが、まさかソ連が崩壊し、冷戦が終わるとは、まったく思ってもいなかったのである。 保守的論陣を張っていた文化人には、まさに天佑のようであっただろう。 その逆に、社会主義的論陣を張っていた文化人、あるいは社会主義的なものに、ある種の共感をもっていた文化人は、言葉を失ったのではないだろうか。 なぜなら、自分の今立っている立ち位置を、自分の意に反して、急激な時代の変化に即応して、再確認して、あるいは、修正をしなければ、先に進むことが出来ないからである。 多くの精神的な静かなる転向が行われていったと僕は、思う。 いろいろと、ここまで書いてきたが、たぶんそんなことはないという人もいるでしょうが、 全く、的が外れているとは、言えないと僕は思う。 最後に、 そこで、大きく話が変わるけれど、僕は、最近、詩の概説書や詩史の本を、読みかえしているのですが、とても、読んでいると勉強になり、知らないことが多いということは、 発見もおおいのだから、とても、心地よい気持ちに浸っているのです。 しかし、そこで、どうしてもわからないことがあるのです。 多くの本には、ある共通の決まりのように、80年代までのことは、詳しく書かかれているのですが、それ以降のことは、(90年以降のことは)、混在していてはっきりと分類できないといことになるらしいのです。 (そうでない本があったら、僕に教えてください。ぜひ、読みたいと思います。) それでなくても、もやもやしているのに、 現在の詩の先頭に立っているような詩人野村喜和夫の本「現代詩作マニュアル」があるが、戦後の総括という意味であるのだろうが、 「まえがき」があり、読んでいて嫌な気持ちになってきた。 まず、21世紀の気分は、9.11以降改まったとある、グローバリゼーションと反グローバリゼーションの構図が鮮明になったとある。(その通りであると納得する) そして、バブル崩壊以来の経済低迷から、今までにない時代の閉塞感があらわれていると、 (本当だろうか?今までにない閉塞感などは、いつの時代でもあるのであり、なにと比べているのだろうか。戦争中の閉塞感か、戦後の閉塞感か、冷戦時代の重苦しい閉塞感か。 僕は、それら以上と断言はできないと思うのだけれど) そして、戦後詩的なものは、遅くても80年代には、役割を終えているとある。(それでは、それに代わるものは、いつから始まったのか、あるいは、いつから始まるのか、著者にも混沌として、わからないらしい。) そして、とても、奇怪で不可思議な文に出会うのである。 「戦後詩的な闘争の詩学の呪縛から解放されたベテラン詩人から、その闘争の詩学を知らない若手詩人まで」 (変な言葉だ、ベテラン詩人は、いつ呪縛から解放されたのか、そろって皆さんが解放されたなら、その転機となる出来事があったのではないだろうか。 何もなくて、時代を下ったら、丁度、仕事をやり尽くして、解放されたのだろうか。?まるで隠居したようで、まあ、失礼な言葉だし、第一、言葉の呪縛から無縁になったら、そもそも、詩人ではないではないか。) もっと、不思議なことは、 戦後を俯瞰的に総括する文なのに、1989年の冷戦終結のことは、まったく書かれていないのである。 戦後で最も衝撃的だった出来事が書かれていない。著者はなるべく、触れないようにしているからなのだろうか。不思議だ。 ---------------------------- [自由詩]雨/前田ふむふむ[2017年5月27日20時05分] 雨が降っている 間断なく なぜ 雨を物悲しく感じるのだろう たとえば 勢い良く降る驟雨は 元気で精悍ささえ感じる まっすぐで 常に潔い でも 夜になり 家のなかで ひとりでいるとき 雨は 無機質で 均等な間隔をおき 弱く屋根を打つ わたしの心臓の音だ ---------------------------- [自由詩]距離/前田ふむふむ[2017年6月7日22時38分]         凍るような闇に おおわれている もう先が見えなくなっている わたしは手さぐりで 広い歩道にでるが そこには夜はない 誰もいない路上 灰色の靴音を ききながら歩くと その乾いた響きのなかに はじめて 夜が生まれる 街路灯が わたしを照らして 影をつくっている その蹲るようなわたしに しずかさはない わたしが影のなかに 街路灯のひかりを見つけたとき その距離の間に やがて しずかさは生まれる 木々にとまる鳥が 眠りにつき 霧でかすみをふかめている わたしは湿った呼気で 手をあたためる そして 寒さに耐えるために 強く 公園のブランコにゆれるとき わたしは ただひとり孤独を 帯びるだけだ わたしの背に 聳えている街は 脈を打ちながら いつまでも高々として わたしを威圧して 夜をつくり そして しずかである ---------------------------- [自由詩]かなしみ/前田ふむふむ[2017年6月12日7時06分]                  夕日が地平に没しても なお 街々の西の空が かすかに明るみをおびている 足を止めて やや赤みがかった 仄白いものを 見ていると 無性に泣きたくなってくる そのかなしみは わたしの影だ        あの明るさのむこうでは 花も木も風も 声をあげることはない 生きた足跡を 否定されて 泥のように 沈んだものたちが ふりかえっている そして 冬のイチョウのように ざわめきもせず なんの弁明もなく 清々しいほどに 立っている そのまなざしは わたしの影だ わたしが 傷口を嫌い 捨ててきたしがらみ 無為に 置き忘れてきた ふるさとの声 手にすることが できなかったものにたいする 後悔と羨望 それぞれの来歴が なつかしそうに 手を振っている その姿は いつまでも わたしを引きずっている たぶん 父も母も わたしもあそこにいるのだろう そして家族と親しく 夕餉を囲んでいるのだろう 直視するには 神々しいものを 見送るような 測れない大きさになって しかも穏やかだ わたしは 夜の先端で 影になっている 戯れる 海の波が引くように その 心地よさを 受け入れて わたしという途方もない ものから 逃れるために わたしは 仄白い空を見て 涙ぐむのだ     ---------------------------- [自由詩]誕生    3.11に寄せて    /前田ふむふむ[2017年6月19日12時01分] 離別すること それははじまりである 丸い空が しわがれ声をあげて 許しを乞う そのとなりで 友はしずかに そして 激しく雨になる 空がにわかに なまりを たくわえてくれば きみの来歴は 砕かれた壁の 内部に 雨とともに 刻まれるだろう 朝焼けのとき こわれた水面を きみを 称える いくえの書物が埋めている その紙のうえを 船が出港する 広がる波跡に ひとはあつまり ひとは散り やがて すこしずつ 足の先から 道ができ 新しい顔をもった きみは生まれるだろう ---------------------------- [自由詩]駅    /前田ふむふむ[2017年6月21日12時14分]                マダ ツカナイノカ ネー かぼそい声の 母は 床ずれをした背中を 不自由によこにする 白いベッドのシーツから 石鹸のにおいがする アア エキニ ツイタ ヨ 母はうすく眼をあけている うん 降りよう か また いっしょに あした氷川様に いこう  ソウダ ネー 子供のように  皺くちゃに唇をむすんだ 母は 眼を瞑り 寝ているようにみえる 知らないうちに雨が止んでいた 窓から見る空に めずらしく  いくつもの星が見える うえのほうで大きく ひかり そのとなりで小さく ひかる 脈打つ体温のように あれが ガスや岩でできているというのは みんな作り話だ もうすぐ 母は星になるのだ ※氷川様 大宮氷川神社のこと ---------------------------- [自由詩]透明な統計表/前田ふむふむ[2017年7月6日15時30分]        1 東日本大震災・死者・行方不明者数             二〇十二年三月十日(石巻日々新聞)  死者 15854名  宮城県 9512名 岩手県 4671名 福島県 1605名  茨城県   24名 千葉県   20名 東京都    7名  栃木県    4名 神奈川県   4名 青森県    3名  山形県    2名 群馬県    1名 北海道    1名 行方不明者 3155名 掲示板の貼り出されている記事は 剥がれかかっている そして空だけが なぜこんなに青いのだろう       2 わたしは この数字を知ることはできない むろん 死者にふれることもできない さらにいえば  死者の名前を呼ぶこともできないのだ 世界が虚空をはぎとり 彼らの出自を たんねんに訪ねると 彼らは すこしずつ色合いを際立たせるが そうすることによって 彼らは ますます かたく甲羅のなかに隠れるだろう そして 記憶が老いて 地平線の底に沈むまで 限りなく 彼らの視線の高さで 一度も避けることなく 血のように わたしをみているのだ     3      そこにいる 眠れる数字を アサガオと言おう もし それがアサガオでなければ きみは誰だ でも アサガオにしては 蔓がない 葉もない だから それを なんと名づけるのか アサガオだ アサガオをアサガオと言おう ほら みずみずしく 赤い花を咲かせている その花の名を   4 これは数ではない いかにも数を装っているが 実は肉体だ そしていまも呼吸している 生きている肉体だ その豊かな来歴は 真夏の森のようだ かりに それを数と捉えるならば 永遠に  肉体をもつ 自分に会うことはできない    5 わたしの眼のなかで 輝いている 一組の家族である 稲を刈る人たち そのふむ土に 青く塗された 草は セイヨウタンポポ 一面 夕日にむかって 繁茂している         耳の中で沸騰している 熱気をあげて 海の 魚を待つ人たち その市場を 通った 冷たい風が だれもいない街の 剥がれかけた バス停の時刻表を ゆらしている  木棺のなかの きみたちは いつも 熱狂的だった あたたかい血は 雨に すこしずつ 冷やされて 小学校の 体育館で 片づけそこなった 椅子が 山積みにして 置いてある    6 錐のような声 それは切望だっただろうか かつて 希望と安住の地であった   川面に 身体を休めている 傷ついた水鳥の群れ やがて 空に一羽ずつ 飛散する 皮膚を斬るような 声をあげて 世界の冬に 翼を むけている いくべき場所には 数字を ひとつひとつ 背負っていくだろう 記憶しよう 枯れきった 空と海と大地と その間にある 昼と夜のひかりと影を ---------------------------- [自由詩]月/前田ふむふむ[2017年7月10日21時23分] 欠けている月をみると こころが穏やかになる 足りないということは いのちがあるという証拠だ ときどき 完璧な満月が 空に 貼りついている あれをみると シネ といわれているみたいだ あの完成さは わたしの何を許しているのか 雲たちよ 空を覆い 雨を降らしてくれ はやく いのちのないものを隠せ ---------------------------- (ファイルの終わり)