灯兎 2005年10月8日12時30分から2010年7月7日4時29分まで ---------------------------- [自由詩]道化偲/灯兎[2005年10月8日12時30分] 朱と漆が混じる頃 名もない丘の墓地 今日も訪れる 独りのピエロ 鈴の音を連れて つぼみを灯した 小さな花 街の明かりに 泪を湛えて 見上げた夜に溺れそうで 雲間から染みだした光に 思いを浸して 嬌笑をこぼす 舞台では 彼を塗り潰す笑い声さえも 今は愛しい 垂れ込める雲と 細い雨に浮かぶ はりぼての石 祈りか慟哭か ささやきを漏らして ぼかした懺悔 崩れた化粧に 追憶は流れて 束の間の安息に浸かる もう一度だけ あなたの笑い者になれるなら ふやけた妄想と溶けていく 涸れ果てた思いにも  鈴の音によく似た 風の鳴く声を 乗せられはしないのだろう 夢が漆と融ける頃 かすみを抱いた墓地 街へと戻る 独りのピエロ  ひとしずくの泪を浮かべた 白い花が揺れている ---------------------------- [自由詩]打ち上げ花火/灯兎[2005年10月9日13時54分] 静寂を破る蝉時雨 湿った空気を揺らす陽炎 熔けた夢にも気付かない 傾いた陽が眩しくて ただ流される 行き着いた波止場 雨の匂いが垂れ込める 誰の視線も一点を捕らえる 重い空にも 人の手にも 縛られず 昇る煙 雨を弾いて花を咲かせた 爆音にも歓声にも耐え切れず 背を向けた 乾いた街 ゴミ捨て場 ただ懐古の吹き溜まりへ 飴色のビルが映した 花火の影 夏の終わりにささやく夜風 この街は 揺り籠には小さすぎる ---------------------------- [自由詩]チャチャチャ/灯兎[2005年10月9日13時54分] 花一片 星一粒 見つからない街 夢 永遠 人 時 悩 夢 かき混ぜてこぼした  薄明るい街  朝も夜も壊して組み上げた おもちゃの街 間接は錆びついて 脳は焦げついて 道を失くした太陽に 道標までも蒸発していく。 それでも人に憧れて 祈りを捧げ踊る人形 ---------------------------- [自由詩]潮騒の丘/灯兎[2007年9月9日2時39分] 窓を覗くはにかみ屋の風 夕涼みの教室で戯れる 置いてきぼりの陰法師 季節外れのうぐいすの声を聞きながら 紡いだ詩をただ砂場に埋めていく 鳴らない鐘に聞き惚れて 翼を運ぶことさえ止めてしまった 不妊症の海が鳴らす潮騒 閉じた眼に焼きついた 繋がれたままの白い舟 向こう岸の丘を見つめながら  いびつな砂を愛しげになぞっていく 自愛に絡む慈愛の糸に 織り交ぜるのは甘い蒼 上弦に傾く月が掘り出す 陰影の一歩手前 夜を焦がす虹に見守られて 淡い星が灯った 翼が奏でる唄に 打ち寄せる波に 重ねた足跡がさらわれる前に 世界一短い誓いを 石に刻み込もう ---------------------------- [自由詩]ぬるい祈り/灯兎[2007年9月10日4時09分] 悪魔さえも棄てた地を目指しては歩く 一つ目の兎 月の代わりに道化師の髑髏を抱え 赤茶けた朽木を踏みつける こうも詭弁に塗れた世界では 死に追いつかれないだけでも  目の奥が燃える サーカス場の道化師は 泣化粧を嬌声に溶かして 眠りに落ちていたのだろう  いや 死に追いつこうとしているのは自分ではないのか  こうも欺瞞に塗れた世界では 我を捨てないだけでも  耳が腐り落ちる 動物園のウサギ達は 今頃詭弁を欺瞞をついばんで 生きているのだろう いや より死に近づいているのは彼らではないのか 毒地に足を踏み入れる度に 夢のかけらをすすっては生き延びている 大きな声が降らせた毒の雨は 空を覆うはずの星さえも 黒く染めて この地に青白い光が注ぐことなど無いのだろうか では俺が目指すのは何だと言われるのか  それを唯一知っていたのは 霧に融けた砂時計だけ 月夜の薄墨に溶けだした毒を貪り歩く 赤目のオオカミ 楽器の代わりに片割れの死骸を抱え 黒ずんだ骨を舐め回す こうも装飾に塗れた世界では 目指すべき光など  とうに力尽きてしまっている 飼い慣らされた犬は 渇いた愛情を差し出されて 尻尾を振っているのだろう いや ずっと飢えているのは彼らではないのか こうも非情に塗れた世界では 口にできる物など  とうに廃棄済みになっている 喰い殺された友は 満たされた欲情を纏って 死ぬことができたのだろうか いや 永遠に近づいたのは彼ではないのか 毒地を過ぎ去る度に 知恵と貞淑を捨てては生き延びている 小さな囁きが刻んだメロディは 海に沈む貝にさえ 強く響いて この地に赤い光が届くことなどは無いのだろうな では俺が目指すのは何だと言われるのか それを唯一知っていたのは 高音塊の風だけ ならばせめて この行き詰った世界で祈りを捧げよう 誰のためでもなく 何のためでもなく 誰にも向けずに 赤と青の光でここが満ち溢れるように ああ それさえも許されないんだったか 神なら 昨日殺してきたから ---------------------------- [自由詩]鋭角な旅路の先端/灯兎[2007年9月24日5時20分] 兎だった頃に住んでいた 詩の檻を残らず焼き尽くして 密度の無い灰と残響で鳴く骸を抱えて 地平を見据える 先にぼやけて見えるのは    何だっけか 名詞も忘れてしまったようだ カフェラテを飲みながら考えるのは この液体とよく似た自分のこと 自分が嫌いで 時々好きで それでも嫌いで 道を見返せない 明確に南北を指し示す磁針ほどには 自信を持てないから 死にたい死にたい死にたい 生きたい 朝目覚めたらひっそり消えたい そんな矛盾しない衝動を抱えて せめてきれいな装飾を繕おうとする 崩れた泪化粧に 愚かな追憶は流れて ぼやけた嬌笑を零す もっと上手いこと仮面を纏えたなら 世界を笑みを返してくれるだろうか そう願うほどには 子供じゃないつもりだったのだけれども 檻に飽き足らず 体毛と仮面を纏う自分が 結局は最低に幼かったんだ だから檻を燃やした 前に進むため 淡い光に包まれて死ぬために それがいつになるかは分らないけれど 少なくとも今はまだ 何処かでまた 包帯だらけの吟遊詩人に会うために 生きるのも悪くはない 片割れの死骸を舐め回しては 愛おしげに奏でるオオカミを見た 嗚呼 お前もこちら側のものなのだろうな 届かない言の葉を燃やす 昔 銀のライオンと聞いた 荒削りなリフレインに 衣装が震える 幾重にも交差する 鋼で出来た自愛の糸が 紡ぐのは 旅路での道連れであり 死への希望であり 愛への絶望であるのだろう ぼやけて見えていたものが 少しずつ輪郭線の軌跡を取り戻して 手持ちの懐中時計の天蓋に 彼にしか見えない鏡像を結んだ あれは 生まれたばかりの 小さな 月 ではないか 歪んで堕ちた月に 皮も肉も無いこの身で ささやかな謝辞を捧げよう ありがとう ありがとう これで暫くは死を繰り返すことも無い これでまた 愚衆の嘲笑に踊ることができるのだから ---------------------------- [短歌]焦がれる道化/灯兎[2007年10月21日21時19分] 最期の日 同じ場所にて 待ち合わせ 違っていたのは 二人の気持ち 離れ行く 幾つもの星 瞬いて 時の重みに 戯言が出る 重い月 離して遣れば 浮かび行く 見るには絶えず 言葉を飲み干す  捩じ込んだ 右腕弾けば 芳しく 悪夢さえ絶え 死せど眠れず 暗闇の 中で泣き尽く リョコウバト 痴れた言葉を 唄えば死が待つ 罪と罰 君が遺した 好き間さえ 埋めて晒して ただの空虚 吐き駄目で 死線の残骸 朽ち果てて 溶ける時計に 腐る右腕 死にたくて 殺さず生かさず 眠らせず 誓った其の身 焦げて落つまで ---------------------------- [自由詩]泣かない子供/灯兎[2008年2月11日18時33分] 今もまだ だめなんだ ただ会いたいって思ってしまうんだ ひとり呟いては 同じ迷路へと入って 同じように迷い込む 辿って行ったのは あなたの笑顔によく似た シロツメグサ 一人になったあの夜から 始まったこたえあわせ 手紙のすき間に浮かび上がる 薄紅と黄緑の音符 流れるメロディから 甘い絶望たちが降りてきた 形はないけれども 信じていかれるもの 信じていないけれども そこにあるもの どちらを大切にすればよかったのだろう いずれにせよ 何も変わらなかったのかもしれない でも うしろ向きに歩く道化を 誰が笑えるだろう うしろを向いて生きるという言葉は トートロジー 愛というのは きっと ただの一行詩にしかすぎない それは あなたの名前にも似ていて 好ましいと思う 赤墨だらけの 一行詩を 僕はとても素敵だと感じる そんなふうな感じ方を 僕に教えてくれた君は いまはもうすっかり すりきれてしまったけど それはそれで いっそう 愛しいかもしれない  僕が人を愛するやりかたというのは 実のところはとても素直で  「理屈のバリアをはずしてふと外側から眺めたら、わけもわからず一ぺんに  涙にくれてしまうみたいな場所」に 落ちていくことなのだと気がついた そんなふうだから とてもまっとうには生きていかれそうにない僕だけど 最後に 君には忘れてもらいたいことが あなたには伝えたいことがある  僕が君を子供みたいに愛したことを 忘れてほしい 僕があなたを愛していることを 覚えていてほしい そのかわりに僕は 愛することを覚えて 恋することを忘れる ---------------------------- [自由詩]内緒の御伽/灯兎[2008年2月19日16時15分] 誰も相手をしない 泣き喚いているだけの犬の問題 読み進められない 三行で終わる小説の問題 不眠と惰眠を繰り返す 精神病者の問題 頼むから静かにしろよ 過密化と重層化と洗練化を 一遍に成し遂げた社会で 誰がそんな下卑た問題を 喜んで抱えるだろう アトラスでさえ きっと地球を投げ出したくなる いつしか僕らは 内緒話中毒者になった アトラスの耳に入らないように 隣人を刺激しないように 殺されないように 生かさないように 殺さなくてもいいように 辿り着くのは 結局こんな生き方つまらないってことなんだけど 語り合うことが単体では何の生産性も持たないってことなんだけど 内緒と騒音は紙一重の危うさを持つから楽しいんだ 昔は今に比べて生き易かった そんな話を聞いた 石を投げればそれがちゃんと相手に当たったんだって おかしいよね 今じゃ自分に当たるだけなのに 今は昔に比べて生き易い そんな話も聞いた 馬鹿でも平和に生きていけるからなんだって おかしいよね 緩慢な死に気付いてないだけなのに 社会なんて そんなに大層に考える対象じゃないと思う 輪廻転生も悪魔も神も天使も地獄も天国も 無いと思う 信じているのは自分の才能と勘だけ もう十分だと思う こんなこというのナルシストだと思われるかな 大丈夫 誰より自信が無いのも劣ってるのも 僕だって分ってる そんなことより ほら また内緒話が始まるから 行かなきゃ ロバの耳に届かない所で 頑張って生きなくちゃ ---------------------------- [自由詩]墓標に唄えば/灯兎[2008年4月7日4時03分] 星座が分からないくらいの 夜空を見上げ 唇にはさんだフィルタが熱をもちはじめるまで ぶらぶらと 墓の上を歩いている 葉桜の季節によせて 君を唄うということ  それだけで今の僕には 充分すぎるほどに だけど何か何か 何か違う 何か足りない 薄紅にまじるノイズが なんだか愛しくて そんなことは たいした問題じゃないけど そう思えるまでの時間は まるでえいえん とっくに花は終わっているのに また朝がどうしようもなくやってくる 夜風の涼しさを嫌っているみたいに あなたの優しさを避けたみたいに 桃を溶かしたジンを舐めては 花びらをすくいあげるみたいに ねえ どこに いるの 君はいま どこで だれと なにをしているんだろう 思うだけで ぼやくこともできず 開かない門とたたずむ 少しだけ寒いね カーディガンを羽織って 言った君を 引きとめることができなかった僕には しけた煙草が似合いだろう 君が見たがっていた花が いささか耽美にすぎるくらい 咲き誇っているというのに 僕はひとり 昔と変わらないままでいる  あたりまえにかわしたキスは きっと 君がくれた奇跡なんだろう クローズハーモニーの官能が 頭に響いて 甘美なのは何も絶望だけじゃない そう気づいた夜 ---------------------------- [自由詩]慟哭の雨/灯兎[2008年4月14日22時32分] 心の隙間に風が吹きこんで あなたをさらっていく そうして僕はまた 靴紐の結び目を固めて ドアを開けて 外に出て行くしかなくなった 重く気だるく降り注ぐ 慟哭の雨に 縫い付けられた 焼身自殺者の瞳のように 赤々と開かれた空 桜の葬式に参列しているみたいで 足取りが弾む 葬式と言えば 雪の葬式には出ていないのだけれど そもそも知らせすらなかったことを 思い出して また一つ 風が 僕の結び目を解いていく 僕の葬式は どんなふうになるんだろう 骨を埋める場所も スーツも 写真立ても ぜんぶ灰にしてくれたらいいのに 灰は風に乗って あなたのもとに届いて  泪と雨を やさしく 吸い取ってくれたらいい 季節ごとの葬式には あなたと煙草があってほしい 救済の無い祈りなんてものに 思いを乗せるほどには  愚かじゃないつもりだったけれども 絶望がカシスのように甘美で そううまくもいかない そういえば絶望って 絶えぬ望みって書くんだ 彼らが死に近づかないことを 絶えず望んでいるように 僕が生から遠ざかることを 絶えず望んでいるように 同じところを辿ってきた願いが えいえんに届けばいい 祈りを吸い取ったみたいに 雨は段々とその重さを増して 願いに染められたみたいに 空は段々とその赤みを増して こんな季節の終わりの遺影が あなたに届けばいい  ---------------------------- [自由詩]石畳の光/灯兎[2008年4月19日22時36分] 石畳に膝を折る ぼろ切れを纏った少女 肌は白く 心臓が透けてしまいそうなほどで 髪は黒く 何か重大な光を隠しているようで 瞳は大きく ステンドグラスを見ているようで 手足は細く 成熟した草花の香りが漂っていて 彼女は左右の指を絡めあって じっと何かを見つめていた それは 祈りを捧げる姿にも似ている 馬鹿げている 思うけれども 一度浮かんでしまったイメージを 振り払うことなどできやせずに  ショートピースに火をつけて 輪郭を焼いていく もし本当に 何かを祈っているのだとしたら そんなはずはないと分かってはいても 思い出の吹き溜まりに 触れられたような くすぐったい感覚は消えてくれない 指先が熱を持ち始めて もみ消した煙草 こんな瑣末なことも きっと彼女を苦しめるのだろう そう きっと 何もかもが 立ち上がった彼女は 小鳥みたいに両腕を広げた それは 聖者を張り付けた十字架にも似ている ああ もう 認めざるをえないんだ ずっと 彼女を求めていたんだって ずっと 彼女になりたかったんだって 言葉をうまく包みこめないでいるうちに 彼女はこちらに振り向いて さらりと笑った ---------------------------- [自由詩]夕日坂/灯兎[2008年4月29日5時18分] 白んだ月が ビルの谷間へふわりと浮いていて 空と一緒に白んだのだろうかと 埒も無い空想を浮かべて  一度も君を抱きしめられなかった 思い出を 缶コーヒーで追悼する 夕日を好もしいと思う ほこりをたっぷりと孕んだ赤みと 昼と夜の熱が入り混じった温もりが 映し出す 長い影 その優しさは とても分かりやすい 帰り道に 住宅街の真ん中を突っ切る坂を 上る その先にはY字路があって いつもそこで 君の手を離してしまったことを 今更になって 悔やむ 後ろで 影が ひっそりと揺らいだ 一人で上って来たはずの坂なのに 幼き日の君が 誰かを探しているような姿を 見つけたような気がして 立ち止まって 夕日を見る ありふれてる幸せに恋した そんな日々 今はもう 戻れなくて 今も残るのは 優しさの余熱だけ 時の中で逸れたのは 君か僕か 今は ひとつ足りない影と ひとつ分の余熱 それしかないけれど 振り返れば いつでも君の手を掴めると まだ思っていたい ---------------------------- [自由詩]断罪の祭壇/灯兎[2008年5月11日19時27分] 残像を組み立てていました それは最果ても永遠も知らぬ 孤独な作業でした 自分の醜悪さと隅っこに残った光 それだけが材料だったのです それで あなたを 作れると 思っていました 思い出の中のあなたは とても綺麗で 僕などにその造形の細やかな要素をくみ取ることなど とてもできませんでした 出来たのは 歪な 奇形といってもいい 怪物 エゴとイデアと 小指の爪ほどのエロス あったのはそれだけで  あなたには その鏡像 いや虚像ほどにも似ていませんでした 何が足りなかったのでしょうね 思い返してみても 僕には何も思いつけません それは多分 僕の欠落とあなたの要素が  絶望的と言っていいくらいに 合致しているからなのでしょう 仕方のないことだと思っています でもね たまに思うんです こんな世界なんて終わればいいって 悪魔的な地獄よりももっと地獄的な地獄が 僕たちの目の前にはあるのですから そこでは音楽も救済の意味なんて持たなくて 望んでいない不幸まで 背負わされ 望んでいない幸福の尻拭いまで しなければならないのです もし永遠があるなら それはきっと 極刑に相応しいものだから こんな怪物を作り上げた僕にこそ  こうやってぼやいている内に また月が昇ってきました ---------------------------- [自由詩]えいえんとしてのラリー/灯兎[2008年10月2日18時50分] 海辺のテニスコートまで歩いていくと 忘れられた言葉たちが孤独なラリーをしていて ボールを打つたびに会話をしていた 僕たちは細かく絶望的に分たれた世界の層の間にいるんだ ここでは漂着する場所さえ選び取ることができないんだね そうだよ。だから僕らはここで結晶化を待っている たまに忘れそうになるよ あゞごらん 何だい? 白磁体の雪片がセンターラインに落ちていく 嗚呼とても悲しいね 何処にも行きつかないけれど 何処かからは発車してしまった 時刻表に載らない貨物列車のような会話 黄緑のボールが弾むたびに 彼らの濁点と句読点もひらひら揺れている 夕焼けが彼らのシルエットを映しだすと 堆積した時間が 少しずつ結晶化しているのが見えて それを教えてやるべきか迷ったけれど 止めて はっか煙草に火をつけた この灰のように 結晶化した時間はすぐに零れおちるものだから きっと彼らは汗まみれの接続詞が結晶化するまで ラリーを続けることになるだろう それでいいと 今は思う ---------------------------- [自由詩]桜の季節/灯兎[2009年4月14日4時26分] 冬の残り香に酔いが回ってくると 忘れ雪にも花びらにも見えない 白い何かが降り積もってきて そこら中を 冬とも春ともわからない 明るい何時かに染めていった それはきっと 葬儀のつもりなのだろう 移ろう街に染まれない僕への  彼女なりの弔い せめて 君だけは春の色に染まってくれないだろうか 何かを忘れることができなくて 立ちつくす僕に 優しいフリだっていいから これだって嘘なんだよ そう言ってくれないだろうか 君の白い指先が 僕の赤い頬に触れて あの時は 生きているように思えた けっきょくは ただ君だけを見ていなかったのに 風に吹かれて花びらが高くのぼるように 海に流されて流木が漂白されるように せめて 君だけは 春色に染まってくれないだろうか さくら さくら ロンドのように さくら さくら 巡り忘れた僕のふるさとを さくら さくら 咲かせておくれ ---------------------------- [自由詩]春のおわりに/灯兎[2009年5月12日2時13分] 苔むした停車場に蝶がそっと下りてきて 星のあいだからこぼれた風に揺れました 右肩はあいかわらずからっぽだけれど 線路の向こうにはあなたがいるのだから 許しにいきましょう うそつきでやさしかった 桜木のしたのあなたに もう一度くちづけをしたら 僕はきっとあなたを許します あなたの作りあげた世界に 今も生きている僕には くちづけをしてくれるものなどないと そう思っていたけれど ふっと右肩にとまった蝶にくちづけをしたら むこうも喜んでくれたようです なにもできない どこにもいけない だれにもなれない なにかをもてない そう思っていた僕だけれど こんなたおやかな痛みを唇に感じるなら また僕はあなたを愛せるでしょう こんな何もない世界ではなく ---------------------------- [自由詩]一人部屋/灯兎[2009年6月8日1時37分] 君が指先に残した温度が 痛みのない傷となって つま先までかけ巡るあいだに 僕はカップにへばりついたコーヒーの粉みたいな 君の思いを辿る夢を見た 逢いたいと呟いたところで 有限の時間の中に少し居座っただけの僕は 春が夏に部屋を明け渡すのと同じ軽やかさで 君の記憶から消えているのだろう そうであってほしいと そうあるべきなのだと 思う距離を 憧憬師のステップで歩いていた そういうものが全部合わさって 生きることの重さをなしているのならば それほど悪いものではないのかもしれない 通りをひとつ隔てた公園の 滑り台に座って ふたつ並んだ月をながめていた君が その重さに足を取られて 頭から落ちていくのを 止められずに 僕はただ泣いていたのだけれど 広いベッドの隅まで朝は明けなくて 孤独の痛みを知ってしまって 数えきれない罪を数えるという罰を受けたのは 確かにまだ髪の短かった僕だから 償いは永遠と分かたれるのでしょうか ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]指輪/灯兎[2009年8月21日0時33分]    冬の香りが酔ってしまいそうなくらいに残っているこの校舎は、老犬みたいにうずくまって、生徒の熱気とのギャップに戸惑っているようにも見える。所々にようやく茶色い元の色が見えてきていて、白い毛みたいに雪が残っている。こうして見てみると、雪というのは不思議なものだ。実際的な存在というほどにも確からしくないし、概念的な存在というにはいささか確からし過ぎる。そんな半端さが、彼らをいたたまれなくさせ、春が来る前にすっかりいなくなってしまうのだろうか。まるで僕みたいだ、なんて自嘲めいた呟きを漏らすと、後ろから彼女が声をかけてきた。  「こんな日に何をぶつぶつ言ってるの?辛気臭いなあ」  「卒業式だからって喧しい俺も見たくないだろうに」  そう言うと彼女は朗らかに笑んで、頷いた。一年の時に委員会の活動で同じ班に回されてから、ずっと一緒に活動をしてきた仲だ。同期が次々に辞めていく中で、彼女の笑顔に救われていたこともあったな、とぼんやり思う。  「それで話って?何かあるみたいなことを前に言っていたけれど」  「ううん、大したことじゃないの。でも、人前では話したくないから、会室に行かない?」  僕は東京の大学に進学する予定だし、彼女は地元の国立大に進学することになっている。こんな風に僕らがさんざん活動した部屋で話せるのも最後だろうと思って、着いていくことにした。  会室は僕みたいな生徒の溜まり場にならないように、活動時期以外はストーブも電気も点かない。だから今日は外とほとんど変わらない寒さで、窓には雪がステンドグラスみたいに張り付いていた。  「あのね、あたしにはずっと好きな人がいたの。遅いけど、これが初恋になるのかな」  切りだした彼女に、驚いた。もちろん内容もそうだけれど、瞳の強さがそうさせたのだと思う。暖かくなったり冷たくなったり、温度の変化と共に大きさを変えて、けれどその強さは失わない瞳。こんな表情を見るのは、これが初めてだ。  「こんなにちっぽけなあたしだけど、その人のことを精一杯愛したんだ。結局は何もできなかったけれど、それでもあたしなりにずっと彼のことを思ってた。」  「辛い、恋だったんだろうね」  「ううん、そんなことはちっとも無かったの。あたしが愛した分だけ、それよりもたくさんの、大切な気持ちをもらえたようなな気がしてるから」  そのとき僕は、尾を引いていく飛行機雲を見ていた。この灰色の空で、そこだけは白くて、何か大切なものの通り道に見えた。   「あたし、あなたのことが好きだよ。知ってた?」  まったく予感していなかったと言えば嘘になる。けれど、信じたくなかった。  「ちゃんと言えなかったこと、すごく後悔してたんだよ。知ってた?」  それは僕のどうしようもなさが生んだ、罪なんだ。  「誰にも渡したくないって、今でも思ってる。知ってた?」  だからそんな風に泣きそうな眼をしないでくれ。  「じゃ、さよなら。もう逢えないけど。……これは知ってたでしょ?」  それは恋じゃないんだ。だから、だから、最後にせめてもの償いをしよう。    「ありがとう。それに僕も君のことは好きだよ。もしその形が違うだけなら、そのでこぼこを重ねて一つにすればいい。それが恋だ。けれど、僕と君の感情は種類が違うんだ。  だから、君の気持ちには応えられない。」  「最後まで、あなたらしいんだね」  そう言った彼女はもう泣いていて、けれど最後の時を繋ぎとめようと、笑んでさえいた。  「本当にありがとう。君なら、きっとこれから先にいい恋ができる。  だから、前に進んでほしい。そんな君が好きだったんだ」  いつからか覚えた作り笑いで、そんな言葉を紡ぐ。こんな僕だからこそ彼女は惹かれ たんだろうなと、薄ら寒く思う。  「うん、こっちこそありがとう。最後に言えて、嬉しかったよ。じゃ、さよなら」    そう言って、雪のように消えていった彼女に、憐みと懺悔を一さじずつ混ぜて、呟く。  「最後まで、ありがとう」 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]桜吹雪/灯兎[2009年9月15日23時15分] 出会ったときの貴女の笑顔は、白く透き通って、僕の硬い指先が触れたら、壊れてしまいそうでした。空からは粉雪が落ちてきていて、君に似合いだと思ったのを覚えています。 「ねえ、私が壊れても、愛してくれる?」   そう言った貴女の輪郭は、雪よりもなお概念的で、僕を戸惑わせました。  「壊れても、愛しているよ。」  そんな貴女を、少しでも不安にさせてはいけないと、精一杯の装飾を浮かべて、このシンプルな言葉をかけていました。これが間違っていたとは、今でも思いません。もし間違っていたとするならば、そもそもの出会いからして、間違いと矛盾に塗れていたのでしょう。  春がゆるゆると過ぎて、桜が散る頃に、僕と貴女は公園に行きました。桜は僕の一番好きな花で、だから貴女が  「風花みたいだね」  と言った時に、まるで自分の全てを理解されたかのような、唐突な衝撃に見舞われたのです。  ――ああ、これが終わりの近い恋でなかったならば――  そう思ってしまった僕を、自分が誰よりも卑しいと思ってしまいました。それはまるで自らが断頭台に処した死刑囚に最期の言葉を聞いてやるような残酷さを伴った想いでしたから、あいかわらず僕は何一つ変わっていないし、何一つ理解されてなんかいなかったんだと、諦めに似た感情が湧いたのです。  それでも、僕はここに記しましょう。 貴女と過ごした夏の日も、貴女と歩いていた秋の日も、貴女を抱きしめていた冬の日も、 全てが僕の宝物だったのです。半分しか影を持たずに、生きながら死んでいるような、演劇の中に突然と迷い込んでしまった観客のような、そんな生き方しかできなかった僕の最後を彩るには、いささか綺麗に過ぎるものです。いま、貴女がこの手紙を読むとき、薄紅の花は散っているでしょう。そして、僕もその場所にはもう居ないのでしょう。けれど、どうか泣かないでください。二人の馴れ初めは終わりの始まりでしかなかったのだと、どちらも分かっていたはずでしょう。あの日に、貴女と出会えた奇跡が、今も胸に吹雪いて、やがて落ちていきます。その寂寥は僕が持っていきます。全てを薄紅に染めていく、桜の花びらほどには、甘やかな想いを届けることはできませんが、最後にもう一度だけ、心からの懺悔と後悔、そして感謝を込めてこの言葉で筆を置きます。  ――貴女を愛しています―― ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]夕日坂/灯兎[2009年9月17日7時16分] 白んだ月が、ビルの谷間にぼんやりと浮かんでいて、僕の想いも白けてしまったなと行くあてのない感慨を持て余してしまう。一度も君を抱きしめられなかった思い出を、缶コーヒーとセブンスターで追悼して、また歩き出す。この時間帯の、私は人様のことなんて知りませんよ、という風に澄ましている空も好きだけれど、やはり僕は夕日を好もしいと思う。ほこりをたっぷり孕んでなお輝く赤みと、昼の慌ただしさと夜の静けさの熱量が等分で入り混じった温もりが映し出す影。その優しさは、弾力を失った僕の心にもわかりやすい。 学校からの帰り道で、住宅街の真ん中を突っ切る坂を下っていた。あのときも夕日を背にしていて、背の低い君に合わせて小さくした歩幅が、二人の影をゆっくりと揺らしていた。その坂を下りきったところには、Y字路があって、いつもそこで君の手を離してしまったことを、いまさらのように悔やむ。 物語の中でありふれている幸せに恋をしていたんだろうと、やっと思える。あの頃の思い出が今でも優しくて、その柔らかさに、今でも君の手がそばにあるような気がしてしまう。あのY字路みたいな別れを、あれからの僕は何度経験してきたのだろう。迷って、うろたえて、決意して、そのときなりの最善を尽くしてきたつもりだけれど、今の僕には何も残ってやしない。つまり僕は曲がり角の度に、道を忘れないように、いつでも戻れるようにと、自分の中の何かをそこに結び付けてきてしまったのだろう。その中にはもう二度と手に入らないものや決して失ってはいけないものがあって、そのことを考えると僕は影が半分に引き裂かれたような気持ちになる。 いつの間にか、君だけを見ていたつもりだったのに、結局は君だけを見ていなかったのかもしれない。でなければ、こんなふうに空っぽになってまで、君のことを想い続けたりはしないだろう。君の話すことや君の描くもの、指先に伝わる君の鼓動さえも、僕には愛しくて、その重さと大きさが怖くて、明日のことまでも見失ってしまっていたんだ。そんなありふれた、くだらない日々にさえ、僕はもう戻れなくて、今も残るのは優しさの余熱だけなんだ。 一人で歩いてきたはずの道なのに、誰かが誰かを探しているような気がして、立ち止まって、月を見上げる。今の僕のそばにあるのは、ひとつ足りない影とひとつ分の余熱だけだというのに、振り返ればまだいつでも君の手を掴めるんだと思っていたい。 ---------------------------- [自由詩]声を聞かせて/灯兎[2009年12月7日23時40分] 声が聞こえる 遠くに引いていった海のほうから 名前を忘れた街の小路を抜けて 僕に届いている声がある 僕の夢を ささやかな願いで紡いでくれた彼女の 最後の言葉を 声が濁ったものへと変えていく そこに残った糸の一筋でも 拾えればいいのだけれど 絡まってしまったそれは 僕の指ではもう辿れない 声はだんだんと小さくなって 名前を失った人の頭上を飛び越えて 樹海の深くへと沈んで行く それは去り際に 頬を染めたようにも見えた あの声は 僕をどうしたかったのだろう 憎んでいるならば 僕の言葉を奪えばいい 好いているならば 僕の思い出を消せばいい それでも声は 思い出と言葉を ひとつずつ残していった 嘘と穏やかな笑顔 隣り合わせに埋められたそれは やがて寄り添い 大きくなって彼女になった 彼女が今も隣にいれば 僕は夢を諦めていたのだろう けれど あの声が届いたから 僕は夢を追いかけることができるのだろう 声の去っていったほうに そっと夢の欠片を投げ込んだ その欠片が落ちる音は 今も聞こえない ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]薄く、淡く、確かに。/灯兎[2010年4月23日0時34分]  「ねえ、嘘をつくってどういう心境なのかしら」 その問いは真夜中の公園にとてもふさわしいものであるように響いた。それはここが春の盛りをすぎて眠りこんでいるような公園だからでもあり、僕と彼女のあいだにある距離が難しいものになってきているからでもある。  「君は嘘をついたことがないの?そのときの心境と同じようなものだと思うけれど」  「そんなのあるにきまってるじゃない。けれど、私は一度ついた嘘は死ぬまで抱え込んでいくつもりなの。あるいは本当にどうでもいい、こどもの悪戯みたいな嘘ね。」  「つまり君は世の中にあふれている嘘の多くが、いったいどんな心境から生まれたものか理解できないということなのかな」  彼女は花弁をひとつ拾い上げて、それをてのひらで弄んでから、頷いた。  自慢ではないけれど、僕は嘘つきだ。僕の嘘には彼女があげたような嘘ももちろんあるし、誰かとの関係を致命的に損なってしまうような嘘もある。それでも僕は嘘をつき続けてきた。きっとそうする以外にうまく他人との距離を測れなかったのだと思う。だから僕がそんなことを聞かれるのは、しごくまっとうなことであるようだ。  「そうだね……たぶん誰かや何かを守りたいって思ったときの嘘が多いんだと思う。そこにはもちろん自分や見栄も含まれるから、僕らはそれを慎重に扱う必要がある」  こんな言葉が今更になって意味をなしてくれるとも思わない。でも僕にはそうするほかにないのだ。  「そんな嘘っていうのは、多くの場合において臆病な心から生まれるんじゃないだろうか。嘘で守るものを傷つけたくないわけだから。それは優しいとも言えるし、見方によっては傲慢であるのかもしれない。けれど、どこかに後ろめたさは残ると思うよ」  「後ろめたさっていうのは、つまり自責による免罪符みたいなものかしら」  「そうであるとも言える。僕らは許し、許されて初めて生きていけるんだしね」 これも、嘘だ。少なくとも僕は彼女に対して、許してほしいなどと思ってはいない。 むしろもっと苛烈に責めてほしいと、彼女の気が済むまで怒ってほしいと思っている。な にもそれは僕の被虐性からくるものではなくて、彼女にはそうすることが必要だと思うからだ。桜が一度散るから、生命力をたたえた葉をつけて、また次の年に咲けるように、彼女はいったん自分の花を落とす必要がある。それは場合によってとても美しく見えるかもしれないが、少し眼を凝らせばそれが彼女の内面を腐らせていることは明らかだからだ。地面に落ちた花弁に目をやると、踏みつけられたことで、ところどころが変色しているのが見える。彼女を覆い守る外面も、こんな風に黒ずんでしまうのかと思うと惜しい気もするけれど、そこに僕の感情が入る余地などないのだろう。  「つまりは人は何かが傷つくことを恐れて嘘をつくのね。私に言わせればそんなのは自分勝手でしかないわ。どうしてその傷を分けあおうとしないの」  「僕らのほとんどはそこまで強くないんだ。みんな強いふりをしているだけさ。だから傷だけじゃなくて、色んなものを分け与えるのを怖がってしまう」  そうだ。僕もそんな人間のひとりだ。思い出を分かち合うことができなくて、守るふりをして奪うことしかできない。そんなくだらない人間のひとりだ。けれど、根元に死体が埋まっているから咲ける桜のように、僕も心の深くに思い出を眠らせて、ようやく生きることができているんだろう。  「ふうん。そういうのって、わからないな」  「君にはわからなくていい種類のことなんだ」  こうも夜が鎮まると、桜の呼吸さえ聞こえてきそうな気分になる。ひとつ息をつくたびに花弁をひとつ散らせ、ひとつ息を吸うたびによそから色を奪ってきてしまうのだ。そうでもなければ、あれほど綺麗に咲き誇ることなんてできやしない。  「ねえ、別れてくれない?」  その問いが発せられるのが、充分に予見できたことだった。だから自分が少なからず衝撃を受けているのが意外だった。でも、僕に残された道は多くない。  「最後にそう決めた理由だけを教えてくれないかな」  「あなたは優しすぎるの。私がわがままを言っても、ひどい言葉をかけても、いっつも笑ってるんだもの。そういうのって、とても疲れるの。ああ、自分はこの人の感情を揺らすことだってできないんだって」  「僕だって君に感情を揺さぶられることはあったよ。ただ君が見ていなかっただけさ」  「それだけじゃないの。あなたいると自分がだめになっていくように思える。いつまでも満開の桜の下には、どんな鳥も寄りつかないわ」  その比喩の指すところと、彼女の真意を図ろうとしたが、僕にはできなかった。どうしてかはわからないけれど、そんなことに意味なんてないと思ったからかもしれない。いずれにせよ、僕らはもう終わりだ。  「僕にも異存はない。いいだろう。僕らは別れるべきところまで来た。ただ二つだけお願いがある。これでもう何の関わりもない他人どうしだ。明日からは話すことも会うこともない。それが一つ目。そして先に帰ってくれないか。これが二つ目。」  「いいわよ。でも勘違いしないでね。私はあなたのことを嫌いになったわけじゃないの。ただ互いにとって良い選択肢を取ろうとしただけよ」  「僕だってそうだ。だからそのことについては心配しないで」  彼女はまるでもうすぐ咲くのを知っているかのように桜を見上げ、視線を落としてから立ちあがった。珍しく綺麗に伸びた背筋が、もう振り返ることはないのだと言っている。  「ありがとう。さよなら」  僕がそこに付け加えるなら、「ごめん」だ。彼女が去って行った公園は、本当に静かで、このままここにいたら僕まで桜の一部になってしまうんじゃないかという気さえする。それもいいのかもしれない。誰もが僕のことを覚えていなくても、この桜のことを覚えている人はいるだろう。嘘みたいな優しさで、あるいは優しい嘘で、自分と彼女のあいだの溝を埋めていた不器用な僕には、そんな最期だって似合いだと思う。そんな僕の姿は、桜に似ていたかもしれない。そう思うのは僕のわがままで、けれど誰に認められなくても、僕が認めてやる必要があるんだと感じた。こう桜だって、覚えている人がひとりもいなくなってしまえば、きっと寂しいだろう。やっと腰をあげた僕の右肩に花弁がひとつ落ちて、やわらかい風の音が聞こえた。 ---------------------------- [自由詩]雨の唄を聴け/灯兎[2010年7月7日4時29分] 見なれたいつもの道に 雨が降る 隣にいたはずの女の子は 排水溝へ流れていったようで 僕は一人で傘をさかさに持って 歩いている 溜まっていく水と すり減っていく僕と すくい上げることのできない女の子 泣くことも笑うことも 別れを言うことさえもできずに 過去に向かっていった女の子に 僕は何ができただろうか 伝えたい言葉はたくさんあっても そこにひとつの思いも乗せられずに ただ立ち尽くした僕を あの子は責めるだろうか 傘が重くなってきて だるくなった右腕をさげると 足元に雨が集まってしまった 何かを映そうとしているそれは 黒く鈍く光るのがやっとで アスファルトを恨んでいるようだった いよいよ強くなり始めた雨に いまさら叫びたくなった 今なら聞こえないと 今なら届かないと そう分かっているからこそ 今しかないと思う けれど 言葉は舌に乗るまえに溶けて 酸味を残していく 空は変わらず黒くて 僕を押し込めようとしている それでもいい どうせ何も残ってやしないし 何をできるわけでもない 思うけれど 傘を手放すことはできない 靴だって まだ新品みたいだし  こうして歩き続ける僕は やっぱり滑稽なんだろうか ずっと抱え込んだ言葉が重くて 足が鈍りそうになる 誰にも与えられず 誰にも持っていかれず 大事にしてきたそれは 熟すときを忘れた果物みたいで 僕の中でいやな匂いを出している いっそ叫んでしまえばよかったのだろう たとえその言葉が 何を乗せていなくても 何を映していなくても たった一言 君のことを 殺してしまいたかったのだと  ---------------------------- (ファイルの終わり)