嘉野千尋 2005年6月11日14時02分から2009年8月8日21時17分まで ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]言葉の距離/嘉野千尋[2005年6月11日14時02分]  誰かの記した言葉を読むとき、自分自身がそっとその言葉の傍らに寄り添っているような気がすることがあります。詩集に頬を寄せるわけではないけれど、言葉のひとつひとつに愛しささえ感じるような想いで、その言葉の並びを目で追っている瞬間というものが、確かにあって…。  けれどもときどき、距離を測り損ねて自分自身を傷つけているのではないかと思うこともあるのです。それは、足の小指を扉や机の角にひっかけて顔を顰めるようなことにも少し似ているのですけれど、測り損ねた距離に最後まで気付かないこともあるのだということに、今ではわたしも気付いてしまいました。(2005.1.9)          *      *      *  真っ白な紙の中央に、ほんの数行、メッセージを書いてみてください。小さな文字で、けれどはっきりと。大きすぎる余白の中で、書き付けは不安定に見えるでしょう。心もとない感じ、とでもいうのでしょうか…黄金率の話ではないのですけれど、綴られた文字とその余白との間に、もしも「ふさわしい関係(あるいは比率)」があるのだとすれば、例えばB5のノートの真ん中にたった数行記される言葉というのは、その文字と余白との関係から外れているのかもしれません。  そうして記された言葉のどれほどを、遠くから見る人は「読んで」いるのでしょうか。あるいは、遠くからその文字をなぞる人の目には、もはや文字はその形を失って、小さな点の並びとして映っているのかもしれません。ただ言葉の記された紙だけが、そこに何らかのメッセージが確かに存在することを伝えて…。(2005.3.10)         *       *      *  いつからか、気付けば自分の内側になんの違和も無く入り込んでいる言葉があって…。これは誰の言葉なのだろうかと、時に首を傾げてみたり。愛した詩人の、いいえ、あの人の……。それとも、わたしは以前から知っていたのかしら。  心に浮かぶ風景をなぞるいくつもの言葉があって……それはわたしの見た景色? それとも誰かの言葉を追体験したもの? ときどきそんなことも考えながら、気が付けば心のうちには、いつでも言葉が溢れていて。(2005.5.某日)         *       *       *  時間に追われる日々の中で、言葉はゆっくりと失われていくものなのでしょうか。今はとても静かで…、外では変らずに雨音が続いているけれど、カーテンの内側では物音もなく…。  口を閉ざして、沈黙を守ったあの頃。言葉が眠る夜にも、感情はざわめいていました。内側に留まる限りでは言葉はこんなにも自由なのに、なぜ苦しまなければならないのでしょう。  窓辺で死んでいったいくつもの言葉の行方を、わたしは今も知らないままでいる。(2005.6.11) ---------------------------- [自由詩]遠く響く朝/嘉野千尋[2005年6月18日16時27分]      君の歌が聴こえる朝には   泣きたくなってしまうんだ   少しだけ風の冷たい、   土曜日の始まり   齧りかけのトーストと   マーマレードのかすかな苦味   それから君がアルトで歌う、   耳に馴染んだ一曲   僕は頬杖をつきながら   少し離れたテノールで歌う   わざと歌詞を間違えて   君が笑うのを待ちながら        天気予報は朝から雨   それでも窓の外は   灰色の雲が流れていくだけ   目を閉じる一瞬に、   遠くで稲妻が優しくささやく   帰っておいでと   その向こうに探す、   君の声   部屋の片隅に   かすかにかすかに、   狂おしく   君の歌声は今も響いて   君の歌が聴こえる朝に   泣き出しそうな空を見る   耳元で繰り返された、   懐かしい一曲が遠ざかり   雨音が、   やがてここにも届くだろう   君の歌声の代わりに   やがて響き始める朝を届けて   少しだけ風の冷たい、   土曜日の始まり   君の歌声は、雨音の向こう ---------------------------- [自由詩]金柑蜜柑夏蜜柑/嘉野千尋[2005年6月22日21時47分]   やさしさの   形は何かと尋ねたら   君は丸だと答えたね   金柑蜜柑夏蜜柑   すこやかに香り     夕暮れの   色は何かと尋ねたら   君はまっすぐ指差して   金柑蜜柑夏蜜柑   たわわに実り   昨日見た   夢は何かと尋ねたら   君は目を閉じうっとりと   金柑蜜柑夏蜜柑   艶やかに光り   お土産は   何がいいのと尋ねたら   君はやっぱり迷ったね   金柑蜜柑夏蜜柑   好きなだけ   好きなだけ   ---------------------------- [自由詩]イーサ・ダラワの七月の浜辺/嘉野千尋[2005年6月27日10時30分]   イーサ・ダラワの七月の浜辺には   遠い国の浜辺から   いつのまにやら波が攫った   いくつもの言葉が流れ着く      嵐の後にそれを集めて歩くのが   灯台守のワロの仕事   ワロは今日もガラスの小壜を片手に   イーサ・ダラワの七月の浜辺を   てくてく てくてく     (流れ着いた言葉がどんな姿をしているかって?   それは秘密だとワロは答えるだろうけど   わたしはワロの小壜の中身を知ってる   そう、あれは…)   ワロは小壜の中に桜色の貝殻をひとつ   それから声を上げて泣き出した  「かなしい、かなしい」   ワロが抱くのは   誰にも届くことのなかった浜辺の言葉   あの夏の、あの午後に   麦藁帽子のあのひとが、愛しい人に贈った言葉   だけど誰にも届くことのなかった言葉   イーサ・ダラワの七月の浜辺で   ワロは流れ着いた言葉を集めて歩く   そして小壜はいっぱいになり   ワロは灯台守の仕事に戻る   日が沈み   灯台の灯がゆらゆら揺れる   窓辺に置かれたワロの小壜を   灯台の灯が今宵も美しく輝かせるので   揺れる光に導かれ   イーサ・ダラワの七月の浜辺には   愛しい言葉が流れ着く ---------------------------- [自由詩]八月の海鳴り/嘉野千尋[2005年7月2日19時37分] 八月の月で海鳴り それでも僕らは響く波音を知っていた   僕は今、紺碧の海(マーレ)を閉じ込めた窓辺から   君に宛ててこの手紙を書いている   地球(ホーム)ではちょうど西の海に日が沈んで   八月の夜が東の空から始まろうとしている   茜と、藍   遷り変わる季節の姿を見つめながら   天頂にさしかかる月の横顔を   宵の浜辺から観測するのが僕の仕事だ   月の浜辺で   僕らは遠い波音を聞いていたね   母星への憧れを胸に   歌うことのない海を   飽きることなくずっと眺めて   それでも僕らは響く波音を知っていた   君は今でもあの海の名前を覚えているだろうか   二十二の海と、一つの大洋   晴れの海から、静かの海へ   君に宛てた幾つもの手紙   嵐の大洋では、今夜も稲妻が輝いているだろう         何故だろう   地球の浜辺にいるのに波音が遠い   あれほど焦がれたこの星にいながら   僕はずっと月を見つめている   時おり、月の浜辺で君と聞いた波音が聞える   それは遠く近く、寄せては返す   あの八月の、月の歌声    ---------------------------- [自由詩]水彩の夏/嘉野千尋[2005年7月27日19時17分]   君のいた夏が終わる   故郷を知らないという君が   旅先で描きためた風景画、   古びたスケッチブック   迫る山並み   水田に映る空   夕暮れの稜線   風に揺れる風鈴   海を知らないと言った僕のために   君が使い切ってしまった青い絵の具   濃淡に揺れる波   遥かに望む半島の影   砂浜の向こうに、白い灯台      君の描いた、   わずかに滲むあの風景が   遠い地の思い出が   僕の憧れのすべてだった   僕は海を知らない   水彩画の中には君のいた夏      わずかに滲んで、君のいた夏が終わる    ---------------------------- [自由詩]十六夜/嘉野千尋[2005年8月3日21時21分]    暗闇の中に、    わたしはあなたの    横顔を探したい    満たされて静かに微笑む    十六番目の月のように    もういいのだと言った    あなたの横顔を、    忘れないように ---------------------------- [自由詩]君と九月と、あの空と/嘉野千尋[2005年8月5日20時27分]   夏の最後の日差しが眩しくて   何も言えずに目を閉じた   晴れた空に向かって   君は背伸びをして手を伸ばす   それでも僕は何も言えない   ひと夏が終わるたび   僕らは海辺の丘から   帰ることのない夏の日々を見送り   置き去りにされた濃い影が   焼けたアスファルトの上を   じりじりと進んでいく様子を見ていた   夏雲がやがて嵐を連れてくることを   水面がさざめいて静かに季節が移ろうことを   呼吸するように僕らは知っていた   あの夏、見上げた空はどこまでもただ青かった   君は空を睨んだまま   遠くへ、とひとことだけささやく   どこへとは訊けなかった   さよならの代わりに背を向けた   あの夏の終わりの、幼い恋      戻らない夏が重なって   いつか秋空に流れていくように   僕らの小さな願いも流れればいい      夕立が視界を一瞬灰色に染めて   夏の最後は金色に染まった   君を見送った夏の午後   あの空はまだ晴れていた ---------------------------- [自由詩]波になる/嘉野千尋[2005年8月10日21時21分]   あなたが海を歌うとき   わたしの瞳は波になる   愛していたと   告げる言葉が悲しくて   静かに揺れる波になる   あなたが空を歌うとき   わたしの胸は波になる   風に誘われ旅立った   遠い背中が愛しくて   激しく揺れる波になる   あなたが月を歌うとき   あなたが森を歌うとき   いつか、   いつか   あなたがわたしを歌うとき   愛していると、歌ってほしい      そしてわたしも空になり、   月になり、森になり、   あなたが愛した海となり   やがて静かに波になる   あなたがここへ帰る日に   わたしは静かに波になる   あなたを揺らす波になる ---------------------------- [自由詩]森の風景/嘉野千尋[2005年8月12日19時05分]      わたしの中に森が生まれたとき   その枝は音もなく広げられた   指先から胸へと続く水脈に   細く流れてゆく愛と   時おり流れを乱す悲しみ   わたしを立ち止まらせるものを、   そしてわたしを困惑させるものを   あなたは躊躇わずに愛と呼んだ   愛のために闘った日々があり   愛のために別れを告げた朝があった   そして握り締めた掌に残された、   わずかな、わずかな      わたしの中に森が生まれたとき   その果実は実るべくして実った   枝先に実ることだけを良しとし   何者にも奪うことを許さなかった      わたしは真夜中にそっとその実に歯を立てる   あなたは微笑みながら樹の下で   わたしが果実を投げ与える瞬間を待っている   あるいは偶然落としてしまうことを   そしてあなたは躊躇うことなく繰り返すだろう   それは愛なのだと、これは愛なのだと ---------------------------- [自由詩]帰路/嘉野千尋[2005年8月24日22時06分]   山並みを巡って   一本の道が続いていく   夕暮れ時に   耳元でふと寂しい曲が流れるものだから   あの道がどこへ続くのかを   未だに誰にも言えないでいる   「わたしは幸福だ    長く続いていく道の上で    あなたの言葉に今も出会うことができる    林近くの道標に    西陽は躊躇いもなく降り落ちて    あなたが残したささやきに陰影を与える       四季が去り    景色が目まぐるしく姿を変える傍らで    移ろい逝くものを残すために    無数の紙片はただ費やされた    わたしの言葉もあなたの言葉も    打ち捨てていくためのものではなかったのに」   去る人が多くを残すことはなかった   書きかけの詩をひとつ   密やかな約束のように窓辺に残し   今日来た道をまた引き返していく   これは帰るための道なのだと信じる彼らに   わたしは未だ何も言えない ---------------------------- [自由詩]十月の空を見なさい/嘉野千尋[2005年9月12日18時53分]      「本を読みなさい」       その人はそう言って    夕暮れて図書館が閉まるまで    わたしの隣で静かに本を読んでいた    映画を観なさい    音楽を聴きなさい    困り顔のわたしをそっと見守り   「音楽は好き」    そう答えると    その人は少し笑って   「そうか」    とだけ言った         三年経って町を出た    もう戻ることはないだろうと想いながら    それでも十年経ってまたあの人のいた町に戻って来た      木漏れ日を追うようにして通り抜けた並木道の    その先に続く図書館も今では移転され    敷地跡にはわたしの知らない公園ができている    喫茶店のあった小さな映画館も今はない    わたしの知る景色が消え    わたしの知らない建物が増えた    あの人の面影を探しながら    薄暮の町をゆっくり歩く    街灯の下で独り     迷子になってしまったような心地がして    どうしようもなくあの人を想った    本を読みなさい    映画を観なさい    音楽を聴きなさい    楽しみなさい    君の時間を    そしていつかまた君が独りになって    もしも私を思い出したなら    時には立ち止まって空を見なさい    君の目を奪う    十月のこの夕暮れ        立ち止まって    さぁ ---------------------------- [自由詩]花の名に (RT会議室より)/嘉野千尋[2005年10月6日17時53分]   季節はすっかり秋めいて   あちらこちらに金木犀の香りが広がっています   けれどもわたくし、   銀木犀に、未だ出会ったことがございません   銀木犀、銀木犀   あなたはどこで咲いていますか?    金木犀の香りにまぎれてひっそりと?   あなたが探しているのは金木犀ですか、   それとも銀木犀ですか?   いいえ、私の探しているのは、鉄木犀です   正直な娘よ、これをあげましょう、   木星です(ちょっと巨大だけど…)   星の形をした小さな花たち   そのひとつひとつが木星ですか?   はい、木星です   ところどころにイオやガニメデたちもまじっております   あなたは宵と明け方にしか逢えぬ金星ですか?   それともいつも見てくれている月ですか?   いいえ、わたしは、宇宙(コスモス)です   あなたは小さな宇宙ですか   それとも大きな宇宙ですか?   いいえ、わたしは一輪の花   そしてわたしの中に太陽があり、月がある   花の一片(ひとひら)、その上に   秋の夜空は広がって   漂う香りのその先に   求める答えがあるでしょう      花の名に、星の面影   あなたはどこで、咲いていますか?    ※ こちらは十月五日深夜のRT会議室Aのログに加筆修正したもので、   第ニ連、四連はクリさんが書かれています。   追記http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=51659もどうぞ。 ---------------------------- [自由詩]十一月のオリオン/嘉野千尋[2005年10月22日20時02分]        冬の空に    オリオンが南中する頃    ベテルギウスは涙を零して    名前が呼ばれるのを待っている    冬の空の、暗い、    まるで何も存在しないかのように見える    闇を    あなたは指差したまま    星の話をわたしに教えてくれる    アルデバラン、カペラ、リゲル    それからシリウス    一つずつ    星の名前を並べながら        あなたの眼差しは    少し曇った天窓の向こうへ    わたしはそっと    あなたの横顔を見つめ続けた    一緒になって    冬の夜は寒いね、と    微笑みながら    何もなかったわけじゃない    わたしたちの間にも    まるで夜空の、    星のない闇のような一瞬があって    その向こうに小さく光るものに気付かずに    涙を流した日があった    あなたの指先は    星と星の間を少し彷徨ってから    最後にわたしの頬にふれる    冷たい、と言うと    あなたは微笑みながらまた    星の名を繰り返した ---------------------------- [短歌]千夜一夜に星の話を(こっそり短歌祭)/嘉野千尋[2005年11月11日17時18分]   ガリレオよ、宇宙をソラと呼ぶ人の名前を君は覚えているか    天地の神話が始まるまではあなたもわたしも素粒子だった     くるくると回る土星の輪っかから天体オペラが流れてきます    夜空にはいつもいつでも君がいてロケットでしか会いに行けない    リモコンで冬の夜空を夏にするそしたら君に会えただろうか        星空が酒瓶の中で眠ってるもったいなくて今夜も飲めない    銀河だって渦巻きながらときどき螺旋でスプリングしてるんだ    流れ星、この椅子からじゃ見えないね。君の隣に行ってもいいかな    黒猫が星に向かって手を伸ばす手ではなくって前脚だったね   星の名を並べて語る物語 千夜一夜を君に捧げて    こっそりと短歌祭参加です ---------------------------- [自由詩]十二月に降る雪のように/嘉野千尋[2005年12月10日18時20分]    甘くない珈琲を    手の中で    大事そうにしていた    猫舌だと言って    大事そうにずっと    両手の中で    十二月に降る雪のように    まだ小さな結晶のまま    わたしたち    あの時たしかに    寄り添っていたけれど    互いに背を預けながら    他の誰かを恋しく想ってた         抱きしめるときは    いつも背中からだったから    あなたがあの時    微笑んでいたのかどうかさえ知らない    駅のホームで    立ち尽くしたままのあなたの背中が    一人泣いているみたいで    だから抱きしめずにはいられなかったのだと    そう思っていたのに    十二月の空の下で    閉じた手の中の    大切なものに    見えないのに    どこかで気付き始めてる    わたしもあなたも    音もなく降り始めた雪のように    やっと     ---------------------------- [自由詩]ジーナの一月/嘉野千尋[2006年1月5日18時01分]   真夜中に、   嵐の音が怖くて目を閉じたジーナ   だけど嵐の音じゃなかったみたい   目を閉じている間に、   季節が変わってしまって   途方に暮れてる小さなジーナ   ふれる前に、雪は溶けてしまったから   冬のことは何も知らないジーナ   本を開いて、一瞬の旅に出たけれど   風がページをめくっていくから、ジーナ   まだ微笑んだまま   ジーナ、毛糸の手袋をしたまま   公園に忘れ物をしたまま   忘れられた約束を、   それでも大切だと言うジーナ   お揃いの手袋だったから   雪だるまに話しかけて   ずっと座り込んでる一月のジーナ   ジーナ、ジーナ   楽しいことが大好きな   だけど悲しい時でも笑ってしまう   ジーナ、僕の小さなジーナ   もう君は泣いてもいいんだ、ジーナ ---------------------------- [自由詩]手紙/嘉野千尋[2006年2月6日19時00分]   昔、あなたに宛てて書いた手紙   あなたが受け取らなかったので   まだ手元に残っている   手渡そうとすると   あなたは決まって困った顔をしたから   わたしは何故なのだろうと   いつも不思議に思っていた   ある朝、目覚めると   唐突に愛に気付く   愛されていることに、   そしてより深く愛していることに気付く   そんな一瞬が訪れるまで、   言葉にしてはいけないのだと   あなたは予言者のように囁いた   恋をして、   胸の中に生まれる言葉を   愛しているというその一言で   終わらせてはいけないよ   子どもの無邪気さと   冷めない熱で、想いを綴った   あの日々のように   ほんの少しの愚かさが   今でもあなたの愛を欲しがっている ---------------------------- [自由詩]そのときあなたは夕暮れの街/嘉野千尋[2006年5月4日19時00分]   黄昏が近づいて   風向きがふっとかわるとき   隣り合って座るわたしたちの間には   暖かな風のように沈黙が訪れる   丘から見下ろす街並みは   最後の夕日に照らされて   あなたの横顔と同じ色に光り   過ぎた日々を、わたしに思い出させる         あのひとの傍にいるとき   わたしはいつも苦しかった   沈黙という、あのひとのリズムに   合わせられないわたしがいて   その苦しさに耐えられずに   言葉を探しては、俯いて  「風が変わったね」   あなたが独り言のように言うので   わたしもただ黙ってあなたの傍にいた   頷く代わりに、少しあなたの方へ肩を寄せて   言葉を失ったわたしたちが寄り添うとき   あなたはまるで夕暮れの街のよう   わたしのすべての、懐かしい心   遠い日の、憧れに似た   夕暮れの街 ---------------------------- [自由詩]明星/嘉野千尋[2006年5月7日0時32分]   朝焼けがまだ   始まらないので   本当は昨日   あなたに届くはずだった   手紙のことを思った   夜明け色の   手紙を贈って欲しい   君と一緒に   指差して、星を探した   あの日の朝の   空のような   思い出にするものだけを選んで   別れの朝に抱きしめる   剛い心でいようと   願ったはずなのに   ただ頑なでいただけなのか   ぽきりと折れた、わたしの心   夜明けの空に   まだそっと   残されたままの星を   希望のように信じていたあの頃   あなたの眼差しを追うたびに   いつも遠くを見つめては   不安になってあなたを振り返っていた   光に満たされ   やがて、姿を消す   幾つもの星を   忘れることなく覚えている   その眼差しで   朝と夜とを繰り返す    あなたに見えていた日々は   特別美しかったのか   あなたも昔   あの白い星たちのことを   希望のように、思っていた?   今日はきっと雨   夜明けの星は見えないまま ---------------------------- [自由詩]わたしは時々/嘉野千尋[2006年6月6日0時05分]   わたしは時々、石になりたい   そして夜の一番暗いところで   じっと丸くなり   わたしの冷え冷えとする体に   とても美しい夢を備え   いつかわたしを拾い上げる者に向かって   美しい物語を語ってやりたい   わたしは時々、砂になりたい   そして海のとても深いところで   旅を終え   石であったわたしの   砕けた四肢の   その一つ一つに宿っていた   夢のすべてを忘れてしまいたい ---------------------------- [自由詩]月面観測/嘉野千尋[2006年8月13日19時50分]    月ではまだ    冬の初めで季節が    止まっているようだった    浅い眠りの合間に    この頃よく、夢を見る    凍えたままの月面で    あなたをこの腕で抱きしめる    そんな、夢を    望遠鏡を覗いては    昇りきる前の月を探した    傷ついたままの姿を見ていたら    あなたを想わずにはいられなかった    磁気嵐の夜に    瞳を閉じて耳を澄ましている    ふと途絶える衛星からの電波    流星が夜空を裂いていく音    あなたの呼ぶ声    幻の    望遠鏡を覗くその一瞬に、いつも思う    あなたを愛するこの心が    どうかわたしから    あなたを奪っていきますように    月ではまだ冬の初めで    季節が止まっているようだった ---------------------------- [自由詩]夕暮れ組曲/嘉野千尋[2006年12月19日16時44分]   やさしさと、               いつも呼んでいた   傷つきやすいその心を   やさしさだと、   呼んでいたあなたの   傷つきやすい心   秋の終わりの   夕暮れが   あまりにも   美しかったので   すべてを忘れたふりをした   わたしたち   君はやさし過ぎるから、と   そう言ったあなたの   臆病なやさしさに、似て   涙の色をしていた、   あの薄藍の空   あなたの微笑が   いつもさびしそうに見えるから   だからあなたを   愛したわけではないのだと   あなたにいつか   ささやいてあげたかった   あなたの呼ぶ声が   いつもどこか震えていたから   だからあなたを   愛したわけではないのだと   そう   暮れていく空に向かって   手を伸ばし合ったわたしたち   差し出されなかったものを   受け取ろうとして   あなたもわたしも   身を乗り出していた   両手の先にまだ   夕日の名残が   置き忘れられたように   温かく残されていたので   季節が巡っていくことに   気付かないふりをして   今年の秋は、   もう終わってしまったかい   そう訊ねるあなたの声が聴こえる   冬の風の吹く頃に、   枯葉の匂いがすると   わたしはあなたを想わずにはいられない   やさしさと、               いつも呼んでいた   傷つきやすいその心を   やさしさだと、呼んでいた   わたしたちの   傷つきやすい心を   夕日が染めていた   あの秋の終わりの夕暮れに   あなたの心は留まったまま   季節を忘れて   もう ---------------------------- [自由詩]恋人よ/嘉野千尋[2007年2月23日2時24分]   君を愛する   と告げるとき   その言葉にわずかに   哀願の響きが混じった   それを嫌ってか   いつからかその言葉を   告げなくなった恋人に   それでも愛していると告げれば   その言葉に悲しみが混じる   つないだ手の、   埋められぬわずかな隙間に   心をさまよわせて    別れの朝に、   抱きしめあうふたりがいる   わたしたちは   同じように愛し合ったはずなのに   わたしの愛は足りなかったのか   恋人よ    ---------------------------- [自由詩]プラネタリウム・アワー/嘉野千尋[2007年5月21日18時05分]    黒縁の眼鏡をかけた教授の講義が一段落すると    スクリーン上に映し出されたままの    夏の星座がゆっくりと回転し始める    古びた校舎の窓側を覆う暗幕は    その歳月にふさわしく    至る所に虫食いの穴が散っていて    その小さな穴を通して    七月の日差しが細く差し込んでいる    その様子がまるで    スクリーンに映された夜空の続きみたいだと    薄闇の中で微笑みながら君は言っていた    ――あれは北の空      南へ向かって飛んでいく白鳥には      デネブとアルビレオ      夏の夜空よ      隣に見えるのがペガサス    講義は退屈だった    眠たげな教授の、眠気を誘う声    僕はこんなにたくさんの星を知らない    星が降るような夜空を、見たことがない    暗闇に響く学生たちのざわめき    その中で少しかすれた君の声だけを    僕はずっと追いかけた    いつだったか    南半球の夜空を映したスクリーンに    君が向けていた憧れの眼差し    南十字星をいつか観に行くのだと    そう言っていた君    君は最後まで気付かなかった    あの夜空を見つめていた君と    同じ眼差しで君を見ていた僕のことを        ――あそこで光っているのがリゲル      オリオン座だよ      わかる?      その向こうがベテルギウスで     ほんの少しだけ星座に詳しくなって    君の知らない誰かに星の話をする僕を見たら    君は笑うだろうか    星空よりも眩しい夜景    ビルに切り取られた四角い夜空を見上げて    見えるはずのない星を探している僕を見たら    君は今でも、笑ってくれるのだろうか ---------------------------- [自由詩]幻視顕微鏡/嘉野千尋[2007年5月27日19時01分]   夕暮れ色の飛行船、   たくさん空に浮かんでいたけれど   空と一緒の色だったので   誰にも気付かれないままでした。   *   毎朝、起きたらすぐに顔を洗います。   今朝は両手に掬った水道水が   ライト・グリーンの南の海になっていて   綺麗な魚が泳いでいたので   顔が洗えませんでした。   *   流星群の来た夜に、   天文部の仲間たちが網を持って   学校の屋上で振り回していました。   次の日、Sさんから   金平糖のお裾分けがありました。   *   使い終わった香水の壜を、   机の上に飾ったままにしていたら   いつのまにか硝子壜の中に   青い薔薇が咲いていました。     *   好きですと言うたびに   だんだん透明になっていく人に   もう好きですと言いませんと言ったら   すっかり透明になってしまいました。   *   音楽室のピアノの、壊れたままの鍵盤、   恋をしている誰かが弾くときにだけ   綺麗な音で響いては、   音符をパラパラと降らせていました。   *   雨が止んでも傘を差していた人の   青空色の傘の上にはずっと   小さな二重の虹がかかっていたけれど、   傘の持ち主だけが気付いていないようでした。   *   春の終わり、   野バラの咲く季節にだけ届く手紙を、   水色の夜空に透かしてみると   さようなら、また来年   とだけ書いてありました。   *   月が三つ並んで出ていた晩に、   あれが本物、と言って   右端の月を指差したら、   左端の月は太陽になって、   慌てて西の方へ落ちていきました。   真ん中の月はそれ以来行方不明です。   *   理科準備室の棚の奥、   秘密の扉の向こうにしまって   Y先生がこっそり大切にしている   顕微鏡を覗きに行ったはずのK君は   何を視たのか決して教えてくれませんでした。 ---------------------------- [自由詩]五月考/嘉野千尋[2007年5月28日19時15分]   両手に抱えられるだけ   かなしみを抱えて   捨てに行く   穴を掘って   花壇の真ん中辺りに   ここなら寂しくないでしょうと   ささやきかけて   そうしたら   捨てられるかなしみが   もういいよ、と   答えたので   ごめんね、と返して   土をかけた      次の日にはもう   綿毛になっていたかなしみが   風に吹かれて飛んで行った   飛んで行くかなしみが、   ごめんね、   と言うので   わたしも、   もういいの、とだけ   答えた   蒲公英の花が一輪だけ、   日向で風に揺れていた ---------------------------- [自由詩]金木犀/嘉野千尋[2007年9月24日23時12分]   やさしいのか   やさしくないのか   雨の日のあなた   約束の時間に   遅れたわたしに   何も言わないので   カフェオレを頼んだきり   わたしも黙って俯いている   雨音と、紅茶の香り   あなたはいつものように   グレーのストライプのシャツで   銀色の細いフレーム越しに   黙って本を読んでいる   あなたと初めて映画を観た帰りに   寄り道をしたカフェ   あの時と同じように   季節はもう秋で   カラン、と音を立てて   誰かが扉を開けた拍子に   金木犀がふっと香る   思わず目を閉じる一瞬に   あなたが一言  「金木犀」   なんて言うから   視線を追って   窓の外を眺めてしまう   やさしいのか   やさしくないのか   雨の日のあなた    こんなにも苦しく、   秋が香っている ---------------------------- [自由詩]海辺の詩集/嘉野千尋[2008年7月13日19時15分]  *灯台    かすかにまだ    光っている    間違えたままの、    やさしい思い出    わたしの幸福な思い違いを    あなたは    そのままにしてしまったから    残酷なやさしさに生かされている    本当はもう、    さよならをしたかった心  *梔子    初夏    木漏れ日に目を細め    恋しいひとが    こちらにむかって    やさしい腕を差し伸べたきり    神話の中のダフネのように    物言わぬ樹になっているので    わたしも何も言わず    差し伸べられた枝先に    白い花をつけていく    これは君の指、君の髪、君の頬  *地球照    あなたを映そうとして    欠けていくしかなかった    わたしの心が    いつか金色の糸となり    消えようとする一瞬に    欠けていった    その傍らで    照り返しのように    あなたを映して輝いたこと  *潮騒    今日、君に    さよならをいう    心のどこか    遠い海に明け渡した場所で    君の刻んでいた鼓動が    さよならをいう ---------------------------- [自由詩]山の向う/嘉野千尋[2009年8月8日21時17分]   昨日   滅びていく愛が   冬の名残の夕日のように   山脈を焦がした   山の向こう   いつか   わたしもあなたも   あの夕日を追って   そこへ行くのかしら   約束の地を目指す    巡礼者の顔で   あるいは   荒々しい侵略者の足取りで   山を登って ---------------------------- (ファイルの終わり)